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2007年2月27日 (火)

零は限りなく霊に

スカスカだとその現実怒るのは簡単すぎる。

だからといって現実を何故ゆえにして自分がそういうふうに、カラッポーな想いに浸るかということには賛同はできない。

零は限りなく霊に等しいことなのでした。

2007年2月23日 (金)

スカという地名

飛鳥とナスカどこか似ている.
飛鳥には酒船石や太古の巨石奇石が残っている。
ナスカには有名な地上絵があり、ナスカの近くにはカワチという古代の遺跡もある。飛ぶ鳥と書く飛鳥から近くにも河内があるし、 環太平洋にはアスカからキスカ、アラスカを始めナスカまで数多くの「スカ」という地名が残っているようだ。 横須賀等の「すか」の意味は海や川などの水が運んで作られた砂浜の事らしい。 各地のスカの場所も総て川辺か海のそばに存在するのだろうか。 チリでも数多く縄文土器が見つかっている。
nazbard.jpgnazmonky.jpgnasuka.jpg
ナスカ(N'aska)は非アスカ(No Aska) の意で「都」に適さない荒地を示すとされた。
大昔に人類がアジアより日本列島、アラスカ経由 インド東方にあったアスカ帝孫が天災地変で消滅して、その子孫達が世界 あちこちに散ってその地は「シベリアスカ」「カムチアスカ」「アラスカ」「 ナスカ」などの名前で今も呼ばれている。 スペインのバスク地方、イスラエルのアゼカ、フランスのラスコーもその系列となる。
古代インドを統一したマウリア朝のアショカ族の「Asaak」は幸福や属という意味を持って「アスカ」の'音と深い関係がある。全世界にAska (アスカ)から派生した土地の名は「楽園」も意味する。
ところでアショカー族ときわめてよく似た政治を行った、聖徳太子も飛鳥地方に住んでいた。偶然ではなく繋がっているようである。
アショカー王と聖徳太子
http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/kame6.htm

Asaakの音韻要素をもつ日本の古い地名には「浅香/朝香/朝霞/安積(asaka)」がある。「浅草(asakusa)」「朝倉(asakura)」「足助(asuke)」「大坂、逢坂、忍(osaka)」「朝来(asago)」「愛宕(atago)」「春日(kasuga)」「八坂、弥栄(yasaka)」「安来(yasugi)」「臼杵(usuki )」など地名の起源へ深い洞察をしてみるのもドラマチックである。誰もが七割以上の縁のある地名であろうと思われる。



参考≪あすか≫
http://www.jttk.zaq.ne.jp/takasho/abc-043-asuka.html
「聖徳太子の予言」
http://hello.ap.teacup.com/koinu/77.html

2007年2月18日 (日)

数字の意味

数字が時には文字的に、時には象徴的に使われています。その意味を調べてみると、どのような意味が含まれているのか。

「1」と言う数字は絶大数字です。

これは唯一の真を示す数字です。唯一神と言う表現はただ一人の救い主であり、創造主であるという意味です。

「2」と言う数字は証人の数字です。

黙示録11:3節には二人の証人が登場します。この「二人」とは単に数字の2をさしているだけではありません。これは終わりの時、主の福音を証する多くの聖徒たちをも意味します。それは、二人の証人が殺され、さらされた死体を見る時にはギリシャ語の「プトマ」という言葉を使っています。「プトマ」は単数を表しているのに対し、二人の証人に使われている言葉は複数を表す語句が用いられています。つまり「二人の...」という単語が一人または二人を指すのではなく、一つの集団を指していることを推測することができます。

「どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。」-申命記19:15- 

「3」と言う数字は三位一体の数字、天の数字です。

「父なる神、御子なる神、聖霊なる神」の三位一体のご性質が現わさているのを知る事ができます。この三位同位格である神様のご性質を表す数字である3が天を示す数字であるといえます。

「4」と言う数字は地の数字です。

地は東西南北、四方によって成り立っています。黙示録4:6節に「四つの生物」が登場します。黙示録7:1節には、「地の四すみ」、「地の四方の風」が出てきます。

「5」と言う数字は苦難を表す数字です。

蝗には「五か月のあいだ人間をそこなう力がある。」と言われています。五体五感五対。「ベテスダ」と言う池にも五つのそこには五つの 廊があったと言われています。そこにはこの世で多くの苦しみを受けて、病にかかった多くの患者たちがいると言われています。

「6」と言う数字は獣の数字、肉の数字、悪魔の数字を意味します。

「ここに、知惠が必要である。思慮のある者は、獣の數字を解くがよい。その數字とは、人間をさすものである。そして、その數字は六百六十六である。」と言われています。ここで666は獣の数字です。神様は創世記1章で、六日目に人を創造されました。しかし六日目に創造された人間が堕落して獣のようになりました。したがって「6」とは堕落の数字、悪魔の数字であるといわれる。

7」と言う数字は完全を意味します。

黙示録2:1~3節を見ると神様が六日間、天と地と万物を創造され七日には休まれました。神様は終わりの時に聖霊の完全な御わざを起こします。これを黙示録では「七つの霊」という表現をしています(黙示録1:4、黙4:5、黙示録5:6)

「8」と言う数字は新しい命の数字、新しい創造の数字です.

「8」と言う数字は新しい命の数字です。旧約時代には子供が生まれた後、八日目に割礼を行いました。新しい被造物に創りかえられることを意味します。ですから「8」と言う数字は新しい創造の数字であると言えます。八方位。

「9」と言う数字は聖霊の実の数字、賜物の数字です。

ガラテヤ5:22~23節には聖霊の実が記されています。その聖霊の実は九つです。また、第一コリント12:4~11節にも、聖霊の賜物について記され、その賜物は九つです。

「10」と言う数字は地の充満を意味する数字です。

黙示録12:3節を見ると大きな赤い龍が記されてあります。しかし、その赤い龍の頭が七つであって、角は十あります。ここで「10」と言う数字はこの地で満たされることを意味します。

「12」と言う数字は教会組織の数字です。

黙示録には12と言う数字をよく見つけることができます。黙示録12:1節には太陽を着た女が12の星の付いた冠をかぶっています。黙示録21:12節には、新しいエルサレムに12の門があり、12の天使があり、12部族の名前が書かれています。

黙示録21:21節には12の門は12の真珠であり、黙示録の22:2節には、新しいエルサレムは川の両川に命の木があって12種の実を結ばせてあると記されてある。

「12」の数字は天の数字(聖父、聖なる御子、聖霊)と地の数字(東西南北)をかけると12の数字になります。ですから12と言う数字は天と地が合わさった完全な教会組織の数字であると考えられます。

1.その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。

2. すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。

3.その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、綠玉のように見えるにじが現れていた。

4.また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。

5.御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、發していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。          黙示録4:1~5

2007年2月13日 (火)

広瀬正 作品リスト

『マイナス・ゼロ』
 昭和38年。浜田俊夫は18年前、空襲の最中に行方不明になった隣家の「先生」の娘・啓子に出会う。啓子は行方不明の時の年齢、その時の姿のままだった。「先生」がタイムマシンを使って啓子を現在に送り込んだことを知った俊夫は、自らタイムマシンに乗り込み、昭和9年の東京へ向かう。が、着いたそこはなぜか昭和7年。しかもタイムマシンはそのまま昭和38年に戻ってしまう。取り残された俊夫は余儀なくそこでの生活をすることになる……。
昭和初年の東京の日常生活が綿密に再現され、ペダントリィとユーモアたっぷりに語られていて、なにげない楽しさ、優しさをかもし出している。タイムマシンものにつきもののタイム・パラドクスを使ったどんでん返しもしっかり盛り込まれていて、効果的な味を出している。
『ツィス』
 二点嬰ハ音(ツィス)が聞こえる。いつ、どこでも聞こえる。神奈川県C市の一人の女性の訴えから始まった奇妙な公害事件。この正体不明のツィス音は、マスコミの報道とともに急ピッチでその音量と聞こえる範囲を拡大してゆく。やがて、首都圏一帯の人々は常時ツィス音にさらされるようになり、大パニックに陥る……。
『エロス──もう一つの過去』 
 37年前(昭和8年)、ふとしたきっかけがもとで、歌手としてのデビューを果たした大女流歌手・橘百合子。だが、もしそのきっかけがなかったとすると? もし、あのとき、別のことをしていたら……。「過去」とは全く違う展開の、ありえたはずの「もう一つの過去」の姿が浮かび上がる。彼女のなにげない選択は、思いのほか大きな影響を及ぼして……。
 一種のパラレルワールドSF、あるいは改変歴史SF。作品の主眼は『マイナス・ゼロ』同様、昭和初年の東京を緻密に描くとともに「少年時代の自分」に献辞が捧げられている。
『鏡の国のアリス』
 銭湯の男湯につかっていたはずなのに、気がついたらそこは女湯になっていた!? かくて青年・木崎浩一が迷い込んだのは、何もかもが左右逆さになった、まさに“鏡の中の世界”。いったいなぜ、こんなことに?
星雲賞受賞作。ユーモラスな設定で、鏡像世界を巧みに描いた、比較的短いながらも楽しい作品。
 他に「フォボスとデイモス」「遊覧バスは何を見た」「おねえさんはあそこに」を収録。
『T型フォード殺人事件』
 隠居した元社長・泉の豪邸に七人の男女が集まる。そこで公開されたのは、1924年製T型フォード。来客の一人、疋田医師の家に保存されていた車だ。46年前(昭和2年)にこの車内で謎の密室殺人事件が起こり、それ以来この車は使われずに保存されていたのだ。この殺人事件の謎を解こうという趣向のゲームが始まるが……。
 遺作であり、唯一のミステリ長編。トリックはこれというほどのものではないが、某有名古典作品を下敷きにしたような叙述トリックの意外性が目を引く。
 他に「殺そうとした」と「立体交差」を収録。「殺そうとした」は作者のデビュー作であるサスペンス短編。遺作のひとつ「立体交差」はタイムマシンものだが、未来の歴史を積極的に変えていこうとする、他の広瀬作品には見られない視点が目を引く。
『タイムマシンのつくり方』
 短編とショートショートの集大成。短編11とショートショート13、付録として評論1を収録。
 未来の学者たちが揃えて首をひねる、不思議な形の「もの」とは何か? ショートショート「もの」は広瀬正のSF界デビュー作。星新一に激賞された。
 付録として収録された「『時の門』を開く」は、広瀬正唯一の評論。話が無茶苦茶にこんがらがったタイム・パラドクスものの極北的存在、ロバート・A・ハインラインの「時の門」(ハヤカワ文庫SFの同題の短編集に収録)を徹底的に分析し、ごくわずかな矛盾点を拾い出した、作者のタイムマシンにかける執念が伝わってくるような作品。

広瀬正・略年譜

1924(大正13) 0歳
 東京の京橋に生まれる。本名・広瀬祥吉。
1942(昭和17) 18歳
 兵役を逃れるため、徴兵猶予のある日本大学工学部建築科に入学。吹奏楽部でテナーサックスを吹く。

ジャズレコードを聴いたり、楽器を吹いたりとして戦中をすごした。それが役立ったのか終戦とともにバンドマン生活に入り、テナーサックス奏者としてならした。〔『マイナス・ゼロ』著者紹介〕

1952(昭和27) 28歳
 《広瀬正とスカイトーンズ》を結成。この頃より趣味としてクラシック・カーの手作り模型の製作を始める。

このバンド〔《広瀬正とスカイトーンズ》〕は、〔昭和〕三十年ごろには、あるジャズ雑誌のファン投票で“日本一”に選ばれたこともあるという。当時、ジャズ評論家・いソノてルヲ氏は〈彼がブローしているときは、ジャングルをさまようキングコングのうめき声さ感じる〉と絶賛した。〔『週刊朝日』1971年6月25日号、石川喬司より重引〕

1960(昭和35) 36歳
 《広瀬正とスカイトーンズ》、借金のため解散。
1961(昭和36) 37歳
 2月、デビュー作「殺そうとした」が『宝石』臨時増刊号・新人25人集に掲載される。

 処女作を発表した年の春から夏にかけて、彼は長篇ミステリーに取組んだが決定稿に至らず(この作品は『ヒット・エンド・ラン』『アール・ストレート・フラッシュ』『木の葉の子守唄〔ララバイ・オブ・リーブス〕』とその後十年間にわたって改題を重ねながらついに陽の目を見なかった)、……以降、『T型フォード殺人事件』に手を染めるまで彼はほとんどSF一本で通すことになる。〔石川喬司〕

 7月、SF同人誌『宇宙塵』に参加。「もの」(『宇宙塵』48号(1961/7))でSF界デビュー。星新一に激賞され(「文章、詩の作り方、ユーモアのただよっている点、それに題材が日本的であり好ましい」)、『ヒッチコック・マガジン』1962年1月号に転載。以降約5年間、『宇宙塵』を中心に執筆活動を続ける。
1962(昭和37) 38歳
 『S-Fマガジン』主催の第2回日本SFコンテストに応募するも落選(作品名不詳)。この時の入選作品は小松左京『お茶漬の味』と半村良『収穫』。11月、『宇宙塵』のパロディ『宇宙鹿』3号(1・2号は無い)を刊行。
1963(昭和38) 39歳
 『宇宙塵』同人有志による自主映画「Once Upon A Time Machine」製作。

 そのうち、SF仲間で、八ミリの映画をつくることにした。第一回の原作に、広瀬さんの「Once Upon A Time Machine」を選んで、平井和正主演、広瀬正、柴野拓美、佐治弓子、加納一朗、そしてぼく〔豊田有恒〕というキャストを決めた。
 広瀬さんの役は、「大先祖の用心棒で、砲術の名手」という、原作にないキャストである。ぼくが、田舎の兄にたのんで、ようやく借りだした家宝の種子島をもって、広瀬さんは好演した。〔豊田有恒〕

1964(昭和39) 40歳
 『宇宙塵』同人有志による自主映画「怪獣カメラ」製作。

 広瀬さんは、第二作を考えた。これは、オリジナルで、「大怪獣カメラ」(大映のガメラより早い)になった。主役のイシガメが、よく動いてくれないので、編集には気をつかった。プラモデルの戦車を、踏み潰してくれないことには、絵にならないからである。〔豊田有恒〕

六二~四年における『宇宙塵』の黄金時代は、広瀬さんの存在をぬきにしては考えられない。〔柴野拓美〕

 この頃、今日泊亜蘭『光の塔』や眉村卓『燃える傾斜』を出版した東都書房に、『マイナス・ゼロ』の原稿を持ち込むが没になる。

 〔東都書房の編集者に〕没を言い渡されたその場で、ぼく〔筒井康隆〕は広瀬正の長篇のことを訊ねた。やはり採用しなかった、とのことであった。担当者のことばによれば「宇宙塵」編集長の柴野拓美が、だいぶ側面から口ぞえしたとのことであった。「これは実は、たいへんいいものなのです」と、柴野氏は言ったらしい。
「いいものです、と言われたってねえ」そう言って担当者は、やや軽蔑気味の苦笑を漏らした。〔筒井康隆「解説」『広瀬正・小説全集6』〕

1965(昭和40) 41歳
 『宇宙塵』90-99号に処女長編『マイナス・ゼロ』を連載。SFファンには高く評価されたが、出版各社からは反響無し。以降、失意のためか、5年間にわたり作家活動を停止。クラシック・カーのモデル製作や、テレビの番組構成や週刊誌のカラーセクションなどを生業とする。

 クラシック・カーのモデル製作は、やがて彼の生活を支える商売になる。実物の十二分の一のモデルだが、ネジに至るまで手製だから一台つくるのに半年はかかり、国産乗用車なみの値段がつく。それをスイス系商社の技術顧問の肩書をもつ彼は、ヨーロッパに輸出していたのである。「広瀬正はこの世界では世界的な作家なのである。彼がもっとも成功したのは、ジャズでも小説でもなく、この世界でである、と客観的にそういえる」と生前の広瀬の単行本のすべてを手がけた編集者の龍円正憲は書いている(『噂』47年〔1972〕6月号)。〔石川喬司〕

1970(昭和45) 46歳
 9月、『マイナス・ゼロ』(河出書房新社)刊、作家活動に復帰。下半期(第64回)の直木賞候補に推されたが落選。なお、この時の受賞作は豊田穣『長良川』。

 一読者として一番面白かったのは、『マイナス・ゼロ』であった。SFには読み方が要る。頭から空想譚に騙される姿勢で読まねばならないが、それにしてもこの人の空想能力と空想構築の堅牢さにはおどろいた。小説という通念が、なお地上の人生とか地理的リアリティにこだわりがある以上(あって当然だが)とても受賞は無理だろうと思いつつ、七分目がた、これを推した。〔司馬遼太郎〕

1971(昭和46) 47歳
 4月、『ツィス』(河出書房新社)刊。11月、『エロス』(河出書房新社)刊。『ツィス』は上半期(第65回)、『エロス』は下半期(第66回)の直木賞にそれぞれ推されたが、ともに落選。なお、この年は直木賞受賞者なし。

 私は広瀬正氏の『エロス』を推した。深読みかもしれないが、愛というこの人間現象に奇怪な襲撃力をもつ力を、作者は化学的物質としてそれを抽出し、合成し、それをこの小説に登場する数人の人間の過去に対し、実験的に添加した場合、「過去」がどのように化学変化をおこすかということをSF風に考えてみた文学であるように思える。この小説の設定につかわれた人間も空間も時間も、フラスコや試験管といったふうの実験器具として組みあわされ、作者自身は白い実験衣を着た進行係にすぎず、実験の進められようが非現実的であっても、遊戯としてわりきってしまえばじつにおもしろい。この作品は『マイナス・ゼロ』『ツィス』につづいて三度目の候補作である。このあまりにも現実離れした遊びの世界は二作ともおおかたの共感を得ず、こんどもそうであった。『エロス』は前二作にくらべてやや広瀬的世界の濃度が薄いのが物足りなかったが、しかし才能(広瀬氏のは従来の文学的才能ではなさそうである)という点では、私は三作とも頭がさがった。〔司馬遼太郎〕

 このころの自分を、広瀬正は自作のなかで以下のように描いている。

「広瀬正?」
 と浩一は聞き返した。
「読んだことあるかい? 万年直木賞候補作家の、ほら」
「いいえ」浩一はあたりを見回してから小声で、「ぼくのいたキャバレーのバンドマスターが同じ名前なんです。でも、よくある名前だから……その小説家の人は左ききですか」
「もちろん、うちの会員だからね」
「バンマスの広瀬さんもギッチョなんです。それで、ぼくと話が合って」
「どんな人だい?」
「四十いくつで、ちょっとふとっていて、メガネかけて、鼻が短くて、目がつり上がっていて……」
「ぴったりだ。これは、きっと同じ人だよ」
〔『鏡の国のアリス』第四章第二節〕

1972(昭和47)
 3月9日、文藝春秋へ赴く途中、心臓発作により急逝。47歳。

 故人はさらに十篇を越す長篇の構想をあたためていたらしい。そのひとつ日本最初のジャズミュージシャン紙恭輔を扱った評伝小説『テイクワン』は八百枚まで書き上がっていたし、日本最初の通弁であった先祖を主人公にした『しゃれこうべ商人』の執筆にもとりかかっていた。運命の心臓発作に襲われた三月九日は、正午に文藝春秋へ『しゃれこうべ商人』の資料をとりに行き、二時に紙恭輔を取材、六時に河出書房新社を訪れることになっていた。〔石川喬司〕

 同時刻、赤坂の路上にいたある人は、自分の前をいそぎ足に歩いていく肥り気味の中年男性が、突然、崩れるように歩道の上にのめりこんでいくのを目撃した。死は、心臓発作による苦痛の少ない死は、まさに瞬間だった。さほどの速筆でもない彼が、いかに自分のからだを酷使していたか、それがどんな障害を生んでいたか、彼も、彼の家族も、医者も、誰も知らなかったのである。〔筒井康隆『'72日本SFベスト集成』解説〕

 ――茅ヶ崎の遺宅で行われた通夜の晩、個人の棺には、《タイムマシン搭乗者 広瀬正》という紙が貼られていた。〔石川喬司〕

 『宇宙塵』163号(1972. 4)「広瀬正追悼号」。6月、『鏡の国のアリス』(河出書房新社)・『T型フォード殺人事件』(講談社)刊。
1973(昭和48)
 3月、『タイムマシンのつくり方』(河出書房新社)刊。第12回日本SF大会(EZOCON)で、遺作『鏡の国のアリス』に第4回星雲賞(長編部門)が贈られる。
1977(昭和52)
 2-9月、『広瀬正・小説全集』(全6巻、河出書房新社)刊行。
1982(昭和57)
 2-6月、『広瀬正・小説全集』、集英社文庫に収録。

 この他に、日本推理作家協会会員であったこと、水野良太郎、片岡義男、伊藤典夫、豊田有恒、小鷹信光、しとう・きねおらと「パロディ・ギャング」を結成したことなどが資料に見える。

2007年2月12日 (月)

気がある 気がいい 気がかり 気がする 気がつく 気が引ける 気が遠くなる 気が緩ん 気が気でない 気が強い気が狂う 気が向かない 気が向く 気が荒い 気が合う 気が差す 気が済む 気が散る 気が若い 気が弱い 気が重い 気が勝つ 気が小さい気が進まない 気が早い 気が多い 気が大きい 気が短い 気が置けない 気が張る 気が長い 気が転倒する 気が抜ける 気が付く 気が紛れる気が変 気が変わる 気が利く 気が立つ 気さく 気だて 気っ風 気づかう 気づく 気どり 気どる 気にかかる 気にかける 気にする 気にするな気になる 気に掛かる 気に掛ける 気に召す 気に障る 気に食わない 気に入り 気に入る 気に留める 気のせい 気のない 気の詰まる気の向く侭に 気の毒 気の利いた 気はくがない 気は確かだ 気まぐれ 気まぐれで 気まずい 気まま 気も狂わんばかり 気をつかう 気をつけて気をつける 気を悪くする 気を引く 気を休め 気を許す 気を遣う 気を散らす 気を使う 気を失う 気を取られる 気を取り直す 気を静める気を入れる 気を配る 気を付け 気を付けて 気を付ける 気を腐らす 気を揉む 気圧 気圧計 気圧配置 気安い 気位 気慰み 気移り 気違い気違いじみる 気違いに刃物 気違い沙汰 気違い染みている 気違い染みる 気韻 気韻生動 気宇 気宇広大 気宇壮大 気欝 気欝症 気運 気鋭気炎 気炎を上げる 気炎万丈 気焔万丈 気温 気化 気化器 気化熱 気概 気学 気楽 気楽にいこうぜ 気楽に行こうぜ 気掛かり 気掛り 気管 気管支 気管支炎 気管支肺炎 気管支喘息 気管切開 気管内チューブ 気詰まり 気詰り 気休め 気休めに 気休めを言う 気球 気強い 気狂い気狂いじみる 気狂いに刃物 気狂い沙汰 気狂い染みている 気狂い染みる 気胸 気苦労 気軽 気軽い 気兼ね 気圏 気懸かり 気遣い 気遣う気遣わしい 気後れ 気候 気候学 気候帯 気候風土 気功 気孔 気構え 気合 気合い 気合いをかける 気合いを掛ける 気合い負け 気合を入れる気骨 気骨稜々 気骨稜稜 気根 気散じ 気持 気持ち 気持ちいい 気持ちよい 気持ち悪い 気室 気弱 気取り 気取り屋 気取る 気受け 気重気象 気象衛星 気象学 気象観測 気象観測船 気象情報 気象台 気象庁 気象通報 気障 気丈 気丈夫 気乗り 気乗りしない 気乗り薄 気色気心 気随 気随気儘 気勢 気勢を削ぐ 気勢を殺ぐ 気性 気晴し 気晴らし 気絶 気前 気前のよい 気組み 気早 気相 気送管 気息 気息奄々気息奄奄 気体 気短 気団 気恥しい 気恥ずかしい 気張る 気長 気転 気筒 気働き 気動車 気道 気難しい 気任せ 気嚢 気配 気配り 気迫気迫がない 気抜け 気疲れ 気品 気不味い 気付 気付き 気付く 気付け 気付け薬 気負い 気負い立つ 気負う 気風 気分 気分が弾む 気分が良い 気分一新 気分屋 気分高揚 気分次第 気分爽快 気分転換 気紛れ 気変り 気変わり 気保養 気泡 気胞 気忙しい 気侭 気味 気密気密室 気脈 気無精 気迷い 気落ち 気立 気立て 気流 気力 気力旺盛 気力横溢 気儘 気儘勝手 気儘放題 気鬱 気鬱症 気魄 気魄がない

2007年2月10日 (土)

『マイナス・ゼロ』 のSF作家・広瀬正

   1972年3月9日、広瀬正は赤坂の路上で倒れてそのまま帰らぬ人となった。死因は心臓発作。長編デビュー作『マイナス・ゼロ』が刊行されてから、わずか1年半後のことだった。天才SF作家・広瀬正は文字通り彗星のように現れ、消えていった。

 広瀬正は1924年、東京京橋に生まれ、東京空襲までそこで過した。音楽や自動車に興味を持っていたが、徴兵猶予のある工科に進学し日大建築学部卒業の年に敗戦を迎えた。その後米軍キャンプのバンドを渡り歩き、やがてフルバンド「広瀬正とスカイトーンズ」を結成、1960年まで続く。そのかたわらクラシック・カーのモデル製作に着手し世界的に稀有なプロ作家となる。また1961年より活字の世界に転身、あり得ない世界の物語りを、独特の空理とイマジネーションで描き始めた。長編第一作『マイナス・ゼロ』は発表とともに一躍評判になり、『ツィス』『エロス』と三期連続直木賞候補にあげられた。タイムマシンをつかった過去の改変が文学的パトスの中心を占め、タイムマシンの製作も真剣に考えていたが、『タイムマシンのつくり方』という短編集を残しただけで、1972年3月9日死去。広瀬正をおさめた棺には「TIME MACHINE」と印された。

 
「私は広瀬正氏の『エロス』を推した。(中略)この作品は『マイナス・ゼロ』『ツィス』につづいて三度目の候補作である。このあまりにも現実離れした遊びの世界は二作ともおおかたの共感を得ず、こんどもそうであった。

この文章につけ加えるべき言葉はない。もしあるとすれば、広瀬正という天才以外にはたれも構築しようのない独自の小説世界に対し、何度も叩頭したいというだけである。広瀬氏の作品は、物理学的な、あるいは化学的な、さらには社会心理学的な無数の材料でもって、構築されているように見えながら、一種ふしぎな悲しみがただよっているのはどういうことなのであろう。この悲しみは、少年が夕空を見て不意に襲われる底(てい)のきわめて純度の高い感情といっていいが、(中略)その後、ほどなく広瀬氏の急死を知ったとき、私が感じたあの奇妙な感動が、脳裏にひろがって、やりきれぬほどの悲しみに襲われた。氏にはついにこの世で会うことがなかった。それだけに、私の悲しみの感情も、氏の作品の透明感と似て、余分な景色というものは帯びてない」直木賞選考委員の司馬遼太郎

 「かなり前に広瀬さんと旅館にこもって、脚本にして、印刷したものを彼に届けようとした朝、彼が倒れちゃったんですよ。お通夜から葬式までずっといてね、彼の棺の中に、そう、タイムマシンと書かれた棺の中に、その台本を入れたんですよ。あれをやるには、昭和11年の銀座のセットを作るだけで5千万円かかるということもあって、実現できなかったんですけどね。いや、まだ、あきらめちゃいませんよ。SFはやりたいですね。人間が裏側にベッタリついてるSFをね」 藤田敏八監督

昭和48年8月4日に放送されたラジオドラマ。広瀬正 原作 「マイナスゼロ」を再放送か、青春アドベンチャー版での製作、放送を期待してます。

広瀬 正(ひろせ ただし、本名広瀬 祥吉(ひろせ しょうきち)、1924年9月30日 - 1972年3月9日)は、日本の小説家、SF作家、推理作家、ジャズ奏者。時間をテーマにしたSF作品を多く残し、「時に憑かれた作家」とも呼ばれる。

1961年 - デビュー作『殺そうとした』が『宝石』臨時増刊号に掲載される。また同年、同人誌『宇宙塵』に参加
1965年 -『宇宙塵』に処女長編『マイナス・ゼロ』を連載
1970年 -『マイナス・ゼロ』刊行、作家活動に復帰。第64回直木賞候補に推されたが落選
1971年 -『ツィス』、『エロス』刊行。『ツィス』は第65回、『エロス』は第66回の直木賞にそれぞれ推されたが、ともに落選
1972年 - 3月9日心臓発作により急逝。享年47。
その棺には友人たちの手によって「タイムマシン搭乗者 広瀬正」の紙が貼られたという。

[ 作品リスト]
マイナス・ゼロ
ツィス
エロス──もう一つの過去
鏡の国のアリス
T型フォード殺人事件
タイムマシンのつくり方(短編集)

2007年2月 7日 (水)

美学校 概要暦年

[美學校]基本構想
裾野に至って現代における美意識(倫理)への介入という想定に立ちつつ 現在の美学校を全構想かつ最高形態の追求として位置づける ・・・教えをうけることをみずからの意志として捉えて欲するものを得ることはありえても 教えることをみずから意図し果たしうることはないのであって 教える意志は生徒の脳皮質をかすめて消えるのである 総じて耳目を通しすなわち空間を媒介として達して頭脳に至るコースに於いてそうなので 脳皮質を駁撃して残るのは極めて生理的な衝撃感ということだけであったり ・・・あるいは金蒔絵に使う筆は舟ねずみの毛で作らねばいけないといったことだけで終わるのである そこで教えられる機関は考えるとしても教える機関は考える訳にはいかぬ 最高の教育とは教える意志をもたぬものから必要なものを盗ませるということになろうか
 

1969年 出版社現代思潮社により創立 中村宏油彩画/中西夏之素描/講義講師今泉省彦/図案木村恒久/木刻面打小畠廣志/博物 細密画立石鐵臣/模写藤田吉香/透視画矢島秀俊/ペン画山川惣治

1970年 千代田区神田神保町に教場を移転 加納光於銅版画/岡部徳三シルクスクリーン/木村恒久図案/小畠廣志木刻面打、木彫刻/立石鐵臣細密画/中村宏絵画/藤田吉香模写/赤瀬川原平、菊畑茂久馬、松沢宥美術演習
1971年 岡部徳三シルクスクリーン/木村恒久図工/木彫刻小畠廣志/立石鐵臣細密画/中村宏絵画/松沢宥最終美術思考/菊畑茂久馬描写研究室

1972年 赤瀬川原平絵・文字/岡部徳三シルクスクリーン/木村恒久図工/小畠廣志木彫刻/立石鐵臣細密画/中村宏絵画/松沢宥最終美術思考/笠井叡舞踏/中西夏之素描
1973年 諏訪分校を開設・現代美術資料センター 木村恒久図工/小畠廣志木彫刻/立石鐵臣細密画/中村宏絵画/松沢宥最終美術思考+ニル研究室/赤瀬川原平絵・文字/笠井叡舞踏/菊畑茂久馬描写
1974年 木村恒久図工/小畠廣志木彫刻/立石鐵臣細密画/中村宏油彩画/赤瀬川原平絵・文字/岡部徳三シルクスクリーン/松沢宥最終美術思考/左右木愛弼石拓

1975年 現代思潮社から独立─入間分校を開設 木村恒久図工/小畠廣志木彫刻/立石鐵臣細密画/中村宏油彩画/赤瀬川原平絵・文字/岡部徳三シルクスクリーン/加納光於銅版画/鈴木清順・鈴木岬一・岡本愛彦・木村威夫映画技作/松沢宥最終美術思考/菊畑茂久馬描写研究室/小杉武久音楽
1976年 木村恒久図工/小畠廣志木彫刻/立石鐵臣細密画/中村宏油彩画/赤瀬川原平絵・文字/岡部徳三シルクスクリーン/鈴木清順・筧正典・木村威夫・大和屋竺・鈴木岬一映画技作/成田秀彦写真/松沢宥最終美術思考/菊畑茂久馬描写/小杉武久音楽
1977年 木村恒久図工/小畠廣志彫刻/立石鐵臣細密画/中村宏油彩画/赤瀬川原平絵・文字/岡部徳三シルクスクリーン/鈴木清順・筧正典・木村威夫・大和屋竺・鈴木岬一映画技作/成田秀彦写真/松沢宥最終美術思考/菊畑茂久馬描写
1978年 細密画立石鐵臣/彫刻小畠廣志・手塚登久夫・水島通雄/デザイン図工木村恒久/油彩画中村宏/映画技作鈴木清順・筧正典・木村威夫・大和屋竺・鈴木岬一/絵・文字赤瀬川原平/最終美術思考松沢宥/写真成田秀彦/シルクスクリーン岡部徳三/描写研究室菊畑茂久馬/石版画阿部浩

1979年 今年度から夜間の教程を10 月から6 ヶ月間で開催した。 細密画立石鐵臣/彫刻小畠廣志・水島通雄/デザイン図工木村恒久/油彩画中村宏/映画技作鈴木清順・木村威夫・筧正典・大和屋竺・鈴木岬一/写真成田秀彦/石版画阿部浩/絵・文字赤瀬川原平/描写研究室菊畑茂久馬/最終美術思考松沢宥
10月期─映画美術木村威夫/細密画立石鐵臣/シルクスクリーン岡部徳三/写真成田秀彦/石版画阿部浩

1980年 描写研究室をのぞきすべての教程を夜間の開講とした。 シルクスクリーン岡部徳三/写真成田秀彦/石版画阿部浩/銅版画吉田克朗/描写研究室菊畑茂久馬/ニル研究室最終美術思考
10月期─考現学赤瀬川原平を開講。
1981年 現代思潮社から、独立以来5年間代表責任者であった田中力が辞任し、今泉省彦を代表として新発足し、昼間・夜間教程を併設することとした。 シルクスクリーン岡部徳三/写真成田秀彦/石版画阿部浩/銅版画吉田克朗/考現学赤瀬川原平/絵画塾菊畑茂久馬
1982年 シルクスクリーン岡部徳三/写真成田秀彦/石版画阿部浩/銅版画吉田克朗/考現学赤瀬川原平/絵画塾菊畑茂久馬/細密画加藤啓
1983年 六本木アクシスギャラリーに於いて美学校在校生によってアートランス・ギグメンタ83 とする展覧会を開催する。 シルクスクリーン岡部徳三/石版画阿部浩/銅版画吉田克朗/写真成田秀彦/絵画菊畑茂久馬/細密画渡辺逸郎/考現学赤瀬川原平
1988年 創立20周年を迎える。 シルクスクリーン岡部徳三/石版画阿部浩/銅版画吉田克朗/写真成田秀彦/絵画菊畑茂久馬/細密画渡辺逸郎/木版画山本進/芸術科学実験工房吉本直貴、由木礼、藤本佳志、小竹信節、ティム・マクミラン、岩井俊雄、I K I F


1990年 シルクスクリーン岡部徳三/石版画阿部浩/銅版画吉田克朗/木版画山本進/写真成田秀彦/絵画菊畑茂久馬/細密画渡辺逸郎/芸術科学実験工房斎藤典子、高野昌昭、藤本佳志、森章吾、由木礼、吉本直貴、郷津晴彦、石黒敦彦/造形基礎I鍋田庸男
997年 シルクスクリーン松村宏、岡部徳三/石版画阿部浩/銅版画清野耕一、吉田克朗/木版画山本進/写真(光現画)成田秀彦/細密画渡辺逸郎/絵画菊畑茂久馬/造形基礎I鍋田庸男/版画演習石丸澄子、尾形祐子、岡本紀世子、山本英夫
1998年 創立30 周年を迎える。 シルクスクリーン松村宏/石版画阿部浩/銅版画清野耕一/木版画山本進/写真(光現画)成田秀彦/細密画渡辺逸郎/絵画菊畑茂久馬/造形基礎I鍋田庸男/版画演習石丸澄子、尾形祐子、岡本紀世子、山本英夫
1999年 シルクスクリーン松村宏/石版画阿部浩/銅版画清野耕一/木版画山本進/写真(光現画)成田秀彦/絵画菊畑茂久馬/造形基礎I鍋田庸男

2000年 代表者今泉省彦の辞任にともない、代表責任者を藤川公三として新たに出発する。造形基礎I鍋田庸男/トンチキアートクラス小沢剛/絵画表現研究室内海信彦/絵画演習今泉省彦/マンガ的視聴覚室久住昌之/アートプロジェクト演習山野真悟/シルクスクリーン松村宏/銅版画清野耕一/木版画山本進/絵画の座菊畑茂久馬
2001年 造形基礎I鍋田庸男/絵画表現研究室内海信彦/バラバラアートクラス会田誠/細密画田嶋徹/絵画の教室今泉省彦/クスミの視聴覚室久住昌之/シルクスクリーン松村宏/銅版画清野耕一/木版画山本進/絵画の座菊畑茂久馬
2002年 造形基礎I鍋田庸男/バラバラアートクラス会田誠/ゴージャラスの「肉体塾」ゴージャラス(宇治野宗輝、松蔭浩之)/メディアアート大榎淳、津田佳紀/絵画表現研究室内海信彦/絵画の教室今泉省彦/細密画教場田嶋徹/マンガ的視聴覚室久住昌之/アートプロジェクト山野真悟/写真工房西村陽一郎/シルクスクリーン松村宏/銅版画清野耕一、上田のり子/木版画山本進/石版画佐々木良枝、増山吉明
2003年 造形基礎I鍋田庸男/バラバラアートクラス会田誠/ニューポストモダン肉体塾ゴージャラス/絵画表現研究室内海信彦/マンガ的視聴覚室久住昌之/アートプロジェクト山野真悟/細密画田嶋徹/写真工房西村陽一郎/絵画の教室今泉省彦/シルクスクリーン松村宏/銅版画上田のり子/石版画佐々木良枝、増山吉明/木版画山本進
2004年 造形基礎I鍋田庸男/バラバラアートクラス会田誠/「肉体塾」松蔭浩之のアートランゲージ&宇治野宗輝のDEATH 工作美術教室ゴージャラス/絵画表現研究室内海信彦/マンガ的視聴覚室久住昌之/アートプロジェクトラボ山野真悟/細密画田嶋徹/写真工房西村陽一郎/絵画の教室今泉省彦/シルクスクリーン松村宏/銅版画+版表現実験工房清野耕一/リトグラフ佐々木良枝、増山吉明/木版画山本進/サウンド視覚表現クラス伊東篤宏/建築スクール今村創平
2005年 造形基礎I鍋田庸男/「肉体塾」松蔭浩之のアートランゲージ&宇治野宗輝のDEATH 工作美術教室ゴージャラス/サウンド/視覚表現クラス伊東篤宏/絵画表現研究室内海信彦/マンガ視聴覚室久住昌之/アートプロジェクトラボ山野真悟/細密画田嶋徹/写真工房西村陽一郎/絵画の教室今泉省彦/シルクスクリーン松村宏/銅版画+版表現実験工房清野耕一/銅版画A上原修一/リトグラフ佐々木良枝、増山吉明/ヨレヨレアートコース会田誠、有馬純寿、大岩オスカール幸男、小沢剛、土佐正道、パルコキノシタ、松蔭浩之/生涯ドローイングセミナーO JUN /空間表現実践教場藤浩志、KOSUGE1-16
2006年 造形基礎I鍋田庸男/肉体塾宇治野宗輝、松蔭浩之/空間表現実践教場「コフジビル18」藤浩志、土谷享(KOSUGE1-16)/サウンド視覚表現クラス伊藤篤宏、クドウヒロミ/生涯ドローイングセミナーO JUN /ヨレヨレアートコース会田誠、有馬純寿、大岩オスカール幸男、小沢剛、土佐正道、パルコキノシタ、松蔭浩之/ビジュアルコミニュケーションラボ斉藤美奈子/GLOB WORK(世界幻燈蓄音製造)あがた森魚/マンガ視聴覚室久住昌之/絵画表現研究室内海信彦/絵画の教室今泉省彦/細密画教場田嶋徹/写真工房西村陽一郎/シルクスクリーン工房松村宏/リトグラフ(石版画)工房佐々木良枝、増山吉明/銅版画A 工房上原修一/銅版画B +版表現実験工房清野耕一/アートプロジェクトラボ山野真悟、伊藤憲夫、大田秀則、小倉正史、小山登美夫、加藤種男、熊倉純子、木方幹人、原万希子、宮本初音、森司
2006年4月に「美学校ギグメンタ2006」を開催。
舞踏・ダンス・サウンド・音楽・ポエトリーリーデイング・パフォーマンス・対談・講演会等さまざまなジャンルのアートを、出演メンバーが100名を超えるイベント。


講義講師
秋山清 粟津則雄 安藤次男 池田龍雄 厳谷國士 内村剛介 大久保そりや 織田達朗 片岡啓治 桂川寛 唐十郎 澁澤龍彦 渋谷陽一 清水多吉 白井健三郎 裾分一弘 津田真一 出口裕弘 刀根康尚 白南準 埴谷雄高 浜田泰三 土方巽 松山俊太郎 真鍋俊照 毛利ユリ 森秀人 森本和夫 東谷隆司 荒井良二 有馬純寿 安斉肇 飯村昭彦 井口真悟 池田龍雄 石川賢二 泉晴紀 磯崎道佳 伊丹裕 上田恭子 牛島均 榎本譲 太田孝幸 小田マサノリ 大谷みえ 大友良英 加籐啓 加籐好弘 笠原美智子 金沢毅 神谷幸江 唐沢なおき 唐沢俊一 川仁俊恵 川俣正 北川フラム 久住卓也 工藤キキ 駒形克哉 斎藤美奈子 さすがわ・ささめ しりあがり寿 鷲見和紀郎 鷹見明彦 竹下都 立川志の輔 田辺茂範 田中偉一郎 喰始 千葉茂夫 槌橋雅博 瞳条美穂 土佐正道 とり・みき 中ザワヒデキ 長田謙一 中村啓治 中村哲也 南條史生 西本剛巳 根本敬 長谷川祐子 八谷和彦 原万希子 パルコ木下 平石博一 藤井慎太郎 藤岡美和子 古川美佳 古川タク 星野勝成 堀渕伸治 マサ・ホシノ・ハル 松井茂 巻上公一 ますだいっこう 丸山芳子 松原正洲 みうらじゅん 三澤憲司 三田村光土里 南伸坊 宮川敬一 室野井洋子 向井千恵 村上大樹 本秀康 山田純夫 山口晃 山村仁志 ロジャー・マクドナルド 渡辺和博 EY∃ Y?K?O大谷能生 岡部あゆみ 恩田晃 加藤好弘 工藤キキ 田中偉一郎 中原昌也 デハラユキノリ畠中実 八谷和彦 堀渕伸治 南椌椌 山辺圭一 山本精一 ASA-CHANG O JUN 佐々木敦 灰野敬二 山口小夜子 大竹伸朗 黒パイプスターダスト 田中功起 岸野雄一 木方幹人 天野太郎 芹沢高志 長谷川仁美 宮嶋葉一 毛利嘉孝 燿樹孝鷺鶯

[美學校]神保町にあるアートの学校で年齢/学歴/経験を問わず入学することができる。 学校経営の存続の難儀な問題をかかえておられる母校である。

[美学校事務局]http://www.bigakko.jp/

2007年2月 6日 (火)

八百長のシステム化

八百長は、明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が勝っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫のご機嫌をとっていた。

その後、周囲のことことが知れわたり、真剣に争っているように見せながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ばれるようになった。

隠語
大相撲では「注射」(真剣勝負は「がちんこ」)、格闘技では「マーマレード」(真剣勝負は「セメント」)とも言う。

対戦者の一方のみ敗退行為を行う場合は「片八百長」と呼ばれることがある。

1963年9月場所千秋楽:柏戸剛-大鵬幸喜
4場所連続休場中だった横綱・柏戸が勝って全勝優勝を決めたが、場所後当時人気作家だった石原慎太郎がスポーツ紙上の手記でこの一番を八百長として糾弾。日本相撲協会の告訴にまで発展したがのちに和解。
1972年3月場所12日目:前の山太郎-琴櫻傑將
同年1月場所を休場した大関・前の山は、角番の3月場所も苦戦、11日目を終わって5勝6敗だった。大関同士の琴桜との対戦で前の山が勝ったが、監察委員会より無気力相撲ではないかとの注意を受け、前の山は翌日から休場、大関から陥落した。
1995年11月場所千秋楽優勝決定戦:若乃花勝-貴乃花光司
史上初の兄弟力士での優勝決定戦になったが、前場所まで4連覇中だった横綱・貴乃花が四つに組んだ後これといった攻めもなく下手ひねりに敗れる。八百長とは言わないまでも、やはり勝負に徹しきれない心理もあったのではないか、という見方は当時から強かったが、貴乃花が引退後にこれをふりかえって「やりにくかった」と発言、八百長を認めたとの誤解を招いて再び問題化した。
2000年1月21日、日本外国特派員協会での講演:板井圭介
元小結・板井圭介が現役時代の八百長を認め、八百長にかかわった横綱・曙太郎以下20名の力士の実名を公表した。協会は板井に謝罪を求める書面を送付したが、最終的に「板井発言に信憑性はなく、八百長は存在しない。しかし板井氏を告訴もしない。」という形でこの問題を決着させた。

大相撲における八百長行為の歴史は深く、神事や占いとしての相撲では、「独り相撲」(力士は一人で土俵に立ち神と取り組む仕草をする。神の機嫌を取るため、わざと転がって負ける)や、凶作不漁の見込まれる土地の力士に勝ちを譲ることも普通に行われていた。江戸時代の木戸銭を取っての興行でも、力士の多くが大名のお抱えだったせいもあり、力士当人や主君の面子を傷つけないための星の譲り合いや、四つに組み合って動かず引き分けたり、物言いの末の預りの裁定なども多かった。

観客としては、大名の意地の張り合いによる八百長相撲には腹に据えかねていたが、落語の「谷風の人情相撲」など、美談としての片八百長、いわゆる「人情相撲」には寛容だった様だ。

これらが罪悪視されるようになるのは、明治に入って近代スポーツの精神が輸入されてからのことになる。昭和以降でも、玉錦が八百長を断った話が逆に美談になったり、「あれは八百長だった」とカミングアウトする力士もあるなど、その根は深い。

大相撲の八百長疑惑では、1980年から週刊ポストが元十両・四季の花範雄の八百長告発手記を初めて公開し、その後も元力士や元角界関係者による告発シリーズを約20年にわたり掲載した。中でも1996年に部屋持ち親方としては初めて11代大鳴戸(元関脇・高鐵山孝之進)の菅孝之進と元大鳴戸部屋後援会副会長の橋本成一郎が行った14回にわたる告発手記は、八百長問題・年寄株問題・暴力団との関わり・角界の乱れた女性関係などを〈暴露〉し、大きなインパクトを与えた。

この時は、協会が告訴する事態にまで発展した。それを纏めた11代大鳴戸親方の著作として、『八百長―相撲協会一刀両断』(1996年、ラインブックス)が出版された。しかし、この著書の発売直前に、告発者の菅孝之進と橋本成一郎が「同日・同時刻・同じ病院・同じ病気」で急死した。事件性も疑われたが、結局は病死ということで処理された。いまでも謎の残る「怪死」だと告発者を支持する側は主張している。

その4年後の2000年、11代大鳴戸親方の弟子だった板井圭介(元小結・板井圭介)が外国人記者クラブで、大相撲の八百長問題を語った。それまでも、週刊ポストで元力士らの証言は繰り返されていたが、元三役力士からの証言はこの時が初でしかも記者会見で当時の現役力士の実名を挙げての暴露だったこともあり、角界だけではなく世間一般にも大きな衝撃を与えた。その後板井は、『中盆―私が見続けた国技・大相撲の“深奥”』(2000年、小学館)を出版した。ここでは、中盆(板井の主張する角界隠語で、八百長を取り仕切る仲介・工作人の意)として君臨した板井の証言が著されている。菅孝之進の告発本との共通点も多く見られ、角界の八百長問題を語った著書としては信頼性の高い著書であると考えるものもいる。

板井と菅の主張
この師弟の主張は、おおむね次のようなものである。

『大相撲の八百長は完全にシステム化されており、大きく分けて星の「買取」と「貸し借り」の2つに分けられる。買取は主に常に好成績を求められる横綱・大関などが地位を守る為に使用する。貸し借りは三役以下の平幕力士同士が勝ち越すためや、十両に落ちないようにするための手段として使用する方法である。横綱・大関の買取は70万~100万円くらいが通常の相場であり、貸し借りは先に対戦相手に頼むほうが40万円を支払うということになっている。横綱大関同士などの優勝が懸かった一番や、大関、横綱昇進の懸かった取組みなどでは相場はもっと上がり、200万~300万にもなることもあるという。あと、部屋の親方が所属力士のために八百長工作に動く場合もある。八百長の代金の清算は場所後の巡業などで付け人が関取の意をうけて行うのが通例。

力士はおおよそ、八百長力士(注射力士ともいう)と非八百長力士(ガチンコ力士ともいう)に判別される。大相撲の八百長は、実力に裏付けされていなければ、この八百長力士のグループには組み入れてもらえず、やはり真剣勝負(ガチンコ)で勝つ力が無ければ地位は保つことはできないとされている。横綱・大関にしても、「この横綱・大関とガチンコで勝負しても勝てない。だったら星を売ってカネにしたほうがいい」と思わせる実力が無ければ地位は保てないとされている。関脇までは、ガチンコ力士でも、やはり横綱・大関に上がると地位に見合った成績を上げなければいけないプレッシャーからか、八百長に手を染めてしまう力士もいる。大相撲では、どんな強い力士でも取りこぼしといものが存在し、とくに負ける事がニュースになってしまう横綱・大関はより確実に勝利を重ねるために八百長で白星を保障しておくという意味合いが強く、横綱・千代の富士などはその典型だったと言われている。そうすることによって強い横綱に取りこぼしが無くなりより一層確実に好成績をあげれると言うわけである。平幕力士の場合は横綱・大関陣との対戦が多い、上位(三役~前頭5枚目)で星を売ったり、貸したりして番付が下がった翌場所に平幕下位(6枚目以下)で貸している星を返してもらい勝ち越して幕内力士としての地位を保つをいう手段が多くみられた。ただし、これもガチンコでしっかり何番か勝てる力がなければ勝ち越すことはできない。ガチンコで何番か勝つ実力が無ければ、例え八百長をしていても勝ち越すことはできず地位を下げていく事になってしまう。

ただし、最近の角界は15年~20年前の千代の富士全盛時代ほど八百長の横行は減ったと言われている。それには生涯ガチンコを貫いて22回の優勝を果たした横綱・貴乃花(現貴乃花親方)の影響が大きいと言われている。最近、兄弟の確執問題で話題になった平成7年九州場所千秋楽の優勝決定戦、若乃花-貴乃花戦が八百長だったのかという議論は八百長ではなく、貴乃花親方が「やりにくかった」と回顧しているように「無気力相撲」の類に当るだろう。あの一番においてはあまりにも貴乃花のほうに「やりにくさ」「力が入っていない」というのがミエミエであり、八百長相撲の取組みというものは、一般のファンなどの素人にはわかりにくいようにする為に「熱戦」に見せかけるものであるために、ああいった一番は八百長とは言わないのである。無気力相撲と八百長相撲は意味合いが全く異なり、ガチンコ力士であっても自らの調子が悪かったり、相手に対して手心があったり、様々な状況からやりにくさがあれば無気力相撲になることもありえる。八百長相撲というのは金銭のやり取りから、あらかじめ予定調和された一番のことを意味する。こうした角界の八百長のシステム化は昭和30年代の初めから行われ始め、40年代に確立した』

日本相撲協会は週刊ポストが国民栄誉賞まで受賞している横綱・千代の富士らなどの実名をあげての告発が20年に渡ったにも関わらず、告訴は1度しかしておらず、それも元大鳴戸親方の手記の一部分を告訴するという特殊な方法でしか告訴していない(後に不起訴)。また板井の記者会見や手記に関しても何ら法的手段に訴えておらず、そこをとらえて〈角界に八百長が存在している〉ということは事実だと考える者もいる。

ただし好角家の中には、相撲は本来、五穀豊穣を願う儀式が起源になっており、歌舞伎や能楽と同じように伝統芸能でもあり、他のプロスポーツなどとは違ったものである故、八百長は角界の必要悪でもあるという意見もある。

2007年2月 4日 (日)

ロイ・ハーパー来日公演

2007/2/5 19:00 Antiknock - with Matt Churchill TOKYO

2007/2/6 19:00  Area - with Matt Churchill TOKYO

「LED ZEPPELINⅢ」には「ハッツ・オフ・トゥ・ロイ・ハーパー~ロイ・ハーパーに捧ぐ」という曲が収録されていて、ロバート・プラントはケルト人の神秘性をもつ歌詞に傾倒して、「天国への階段」にもロイ・ハーパーへの影響がみられる。
「TO BE A ROCK AND NOT ROLL」
「確固たる存在となり、決して流されることがない」

古代の廃墟に沿って やせほそった影がまわる
私たちがかつて愛し合った 時間の流れを集めて
沈みゆく太陽の覆いを縁どり 
そして私たちを別の時代へと 連れ出しひとつにする
手に手をとって 私たちはここに立つ
約束の地を勝ち取るために
あなたは驚いて 私に伝えようとしている
私のために 新しい宗教を見つけたと
そして私に忠告するだろう
神はこの一人しかいないのだと
でもそれはいつもの変わらぬ岩を入れた
新しい投石器にすぎない       

Roy Harper – 「The same old rock」12分にも及ぶ曲が聴ける↓
http://www.myspace.com/harperroy
Roy Harper was an eccentric English folk-rocker, a self-titled "sophisticated beggar" in the tradition of Hyde Park.
2007/2/5 19:00 Antiknock - with Matt Churchill TOKYO

2007/2/6 19:00  Area - with Matt Churchill TOKYO

「LED ZEPPELINⅢ」には「ハッツ・オフ・トゥ・ロイ・ハーパー~ロイ・ハーパーに捧ぐ」という曲が収録されていて、ロバート・プラントはケルト人の神秘性をもつ歌詞に傾倒して、「天国への階段」にもロイ・ハーパーへの影響がみられる。
「TO BE A ROCK AND NOT ROLL」
「確固たる存在となり、決して流されることがない」

古代の廃墟に沿って やせほそった影がまわる
私たちがかつて愛し合った 時間の流れを集めて
沈みゆく太陽の覆いを縁どり 
そして私たちを別の時代へと 連れ出しひとつにする
手に手をとって 私たちはここに立つ
約束の地を勝ち取るために
あなたは驚いて 私に伝えようとしている
私のために 新しい宗教を見つけたと
そして私に忠告するだろう
神はこの一人しかいないのだと
でもそれはいつもの変わらぬ岩を入れた
新しい投石器にすぎない       

Roy Harper – 「The same old rock」12分にも及ぶ曲が聴ける↓
http://www.myspace.com/harperroy
Roy Harper was an eccentric English folk-rocker, a self-titled "sophisticated beggar" in the tradition of Hyde Park.

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
フォト

22カードの意味

  • _0 愚者
    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

オンライン状態

ペンギンタロットの原画

  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。