« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007年4月18日 (水)

「ありがとうございます」の言葉

「ありがとう」は、「ありがたい」という形容詞の連用形の音便形。
「ございます」は「(状態や動作の継続が)ある」の尊敬語で、「ありがたいことが有ります」の意。「存じます」は「思う・考える」の謙譲語で、「ありがたいことと思っております」の意。


「ありがとうございます」の言葉
神・仏という言い方をしなくても、一般世界でも同じことが言えます。社会的に受け入れられている人、多くの人を友人にしている人、事業的に多くの人に喜ばれている人は皆、謙虚である。あまり人間関係も友人関係も展開していかない人は、往々にして傲慢であるということが言えます。
 ただ、この場合に言っている謙虚と傲慢というのは、一般社会で言われている意味とはどうも違うようです。
 ここで言う謙虚さとは、今自分が置かれている状況や獲得したものというのは自分の力によるものではなく、多くの友人や知人、目に見えない存在である神・仏・守護霊・精霊などのお陰であると思っているということです。

 逆に、自分の力や才能・努カによって、ありとあらゆるものが獲得できたのだと思っている人のことを、傲慢と呼びます。
 一般的にえらそうな態度をしているとか、控えめな態度をしているとか、そういう表に出てくる態度の問題ではなく、基本的に自分の業績なり生き方をどのように自分自身で考えているかが、謙虚さと傲慢さとの分かれ目になります。
 謙虚さとは、三つの面で表現できるようです。
 一つ目は「思い」。心の部分です。
その思いの部分で「い・ど・お」--威張らないこと、怒鳴らないこと、怒らないこと。そして、二つ目の分野として言葉のところで、常に「ありがとう」を言い続けること。そして、三つ目の分野で行為。この分野では、常にトイレ掃除をし続けること。
 この、心の部分における「い・ど・お」と、言葉における「ありがとう」、行為における「トイレ掃除」の三つがすべて成り立ったときに、大変謙虚な人と言うことができそうです。
 謙虚であること=実践すること。そしてまた、謙虚であること=感謝をし続けること。ありとあらゆるものに感謝をするということにほかなりません。謙虚さ=感謝=実践なのです。その実践的な生き方をしている人は、神・仏・守護霊・精霊の方々から大変好まれ、たくさんの支援を受けることができるような気がします。
 謙虚さの実践の場として、二つ目に言葉「ありがとう」を言えばよい、ということを挙げました。この「ありがとう」という言葉には、大変なカが込められているようなのです。
不思議なことに、心を込めない「ありがとう」でよいから2万5千回ほど言うと、涙が出てきます。
「ありがとう」と(心を込めず、ただ口先だけでよいのですが)呪文のように言っていくと、その累計回数が2万5千回を超えたあたりで、突然涙がどっとあふれてくるということが、多くの人にあるようです。その涙というのは、短い人で1時間、長い人で3時間、平均的には2時間ほどで、とにかく止まらないのです。こんなに自分の体から涙が出てくるものかと思うほど、激しくずっと流れ続けます。多くの人の場合、バスタオルを持って来て、それを2度絞り、3回目に涙を吸い取ってやっとちょうど良かったと聞きますから、相当な涙の量のような気がします。
 そして、この涙が出終わって、ほとんど涙が枯れたような状態で、そこからまた続けて「ありがとう」を言おうとすると、今度は本当に心の底から感謝の念が湧いてきて、体中が温かい思いに満たされて、本当に有り難くて「ありがとう」という言葉が出てくるようです。
 さらに、その心を込めた「ありがとう」が湧いたところから、2万5千回ほど心を込めて「ありがとう」を言い続けると、なぜか突然に「私」にとって奇蹟と思えることが次から次へと起こるようになります。
 この話をあちこちでしていたところ、何人かの人から同じような質問を受けました。
「2万5千回ほど数えて言っていたのだけれども、2万5千回に到達しても全然涙が出てこない」というものでした。
 私はその方たちに同じ質問をしました。
「2万5千回に到達する前に、不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言わなかったですか」と。
 その人たちの答えはすべて同じでした。
「不平、不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言っていました」
 私はこう言いました。
「多分、その不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言った瞬間に、チ~ンという音がして、『ありがとう』の回数がゼロになったのだと思いますよ」と。
「ありがとう」は心を込めなくてもよいのですが、その「ありがとう」は2万5千回に到達するまでは、どうも不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言わない方がよいようなのです。不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言った瞬間に、今まで積み重ねてきた1万8千か1万9千か、あるいは2万回という「ありがとう」は、チ~ンという音を立てて、宇宙の彼方に消えてしまうようです。

 私は基本的に唯物論ですが、30年間、宇宙現象や超常現象、いろいろな出来事を見つめてきて、神・仏・守護霊・精霊というものは存在するという結論になりました。さらに、私たちは自分の人生を自分のシナリオで書いて組み立てている、というのも結論の一つです。 自分の死を予言する、あるいは予見する人がいる。あるいは、他人の死を予言し予見する人がいる。そういう事実を見てきました。
 そして、結論として得られたものは、その予言・予見が当たるということは、未来が確定的に存在するということです。未来が確定的に存在するということは、もうシナリオができている、ということにほかなりません。
 そのシナリオを書いたのは誰かという問題ですが、答えは「私」。シナリオを書いたのは「私」です。生まれるところから死ぬところまで、すべて「私」がシナリオを書き、「私」がそのとおりに主演をしている、ということが私の中で理解できました。
 その「私」のシナリオどおりに舞台装置を設定し、美術監督・舞台監督としてその状況をつくってくださるのが、守護霊という方です、守護霊はただひたすら「私」の書いたシナリオどおりに舞台設定・状況設定・環境設定をしてくださるわけです。
 その一生懸命大汗をかいてやってくださる方に対して、「私」自身がシナリオを書いたにもかかわらず、不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を空に向かって言い放ったとき、「私」のために一生懸命やってくれていた守護霊は、とてもつらく悲しい思いをするらしい、そして、いきなり私たちのところから離れてしまい、壁に向かってひざを抱えてしょんぼりしている、という姿を教えてくれた人がいました。
 自分の書いたシナリオを自分の口で論評し、評価し、しかもそれを否定的に論評・評価した瞬間に、私たちに付いて一生懸命やってくださっていた守護霊は、いきなり離れて、しょんぼりしてしまう、ということです。
 守護霊が離れてしまったあとの「私」というのは、結局は自分の力だけですべてのことをこなさなければなりません。問題や障害・障壁・トラブルをすべて自分で解決しなくてはならないのです。人間のカは1ですが、霊体としての(肉体を持っていないエネルギーとしての塊の)守護霊や精霊の力は、何人とか、何億人とか、何兆人というレベルではありません。
 人間が考えられる限りの数の、最高の単位を「無量大数」といいます。「億」の次は「兆」、その次は「京(ケイ)」。さらに、垓(がい)、梯(し)、穣(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい)、載(たい)、極(ごく)、恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議、無量大数で、無量大数は10の68乗になります。
 一つの精霊は、1無量大数人分くらいの人間としての力量を持っているのではないかと思います。そして、無量大数というのは10の68乗ですが、それ以上の単位になったときには、もう神の領域に入って、とても数えられないということで、人間の数えられる最高の乗数が10の68乗(無量大数)なのではないでしょうか。
 精霊の中で、最も「私」を好きだという霊が守護霊として付いてくださっているわけですが、その方の力は1無量大数人分くらいあるということが言えます。ですから、その方の支援がなくなったときには、私たちは「私」の力で人生と対峙(たいじ)するしかないのです。これは大変なことで、もともと人間のカは大したものではありませんから、そのカで生きていくということは大変な苦労です。
 ですから、守護霊には常に味方に付いてもらっていた方がいい。そのためには、不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言わないこと。とても簡単なことですが、あるいは簡単なことに思えるから、逆に簡単に言ってしまうのかもしれません。しかし、宇宙構造からすると、この、簡単に何気なく言ってしまう不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句が、非常に大きな重たいものを持っているようです。この五戒によって、「私」の最大の味方である守護霊に味方をしてもらえなくなり、その支援を頂けなくなる、という点で、大変大きな影響・結果をもたらします。
 この不平不満・愚痴.・泣き言・悪口・文句を言った結果「私」の頭を離れて壁の前でしょんぼりしている守護霊に対し、こちらに戻ってもらう「瞬間の呪文」があります。それは「ありがとう」という言葉です。
「ありがとう」の一言で、しょんぼりして向こうに行ってしまっていた守護霊は、すぐに「私」の頭の上に戻ってきます。そして、今までのことを恨んだり、とやかく言ったりせずに、再び「私」のために一生懸命支援をしてくれ始めます。
 守護霊が支援をしてくださらなくなったこと、あるいはまた戻って支援をしてくださるようになったこと自体も、私のシナリオに入っています。そして,不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言ってしまったことも、実は「私」自身が書いたシナリオの中に入っています。
 ですから、五戒を言ってしまったことで、自分の力ですべてやらなくてはいけなくなったことが分かったその結果として、もうなるべく言わないようにしようと思うことも、「私」にとっての重要なシナリオです。プログラムなのです。
 ですから、言ってしまったことを後悔するよりも、もう二度と言わないことにしよう、と決意することのほうが、建設的であり前向きと言えます。

ありがとうの語源

日本語の語源辞典というものがあリます。何種類かあるのですが、たまたま紹介された語源辞典が大変面白かったので、私はそれを入手しました。そして、調べた最初の言葉が「ありがとう」でした。
「ありがとう」の語源は「有り難し」から来ています。
「有り難し」というのは、存在しにくいこと、という意味で「滅多にないこと」と私は思っていたのですが真実は「有り難し」というのは「あり得ないこと」「存在し得ないこと」をそう呼んだのだそうです。「あり得ないこと」「存在し得ないこと」が起きたときに「有り難し」と使ったというのです。つまり、それは「あり得ないこと」を神・仏が起こしてくれた場合に使った言葉でした。
 神.仏を褒めたたえ、賞賛する言葉として、「ありがとう」「有り難し」「有り難い」という言葉が存在したのだそうです。そして、それは室町時代以前は人に対して使われることはなかった。人に対して使われるようになったのは、室町時代以降のことだそうです。
「有り難い」「ありがとう」という言葉は、実は神を賞賛し、褒めたたえる言葉だったというのは、私にとって大きな衝撃でした。
「水からの伝言」という写真集が出て、あちこちでかなり評判になり話題にもなったのですが、「ありがとう」という日本語で声をかけた水と、「Thank you(サンキュー)」と声をかけた水とでは、結晶の形が違います。私の印象で言うと、「ありがとう」の方がきれいで、透明感のある結晶になっているように思いました。周りの人に聞いたところ、多くの人が「ありがとう」の方がよりきれいに感じる、ということでした。
 写真を見たときに「Thank you」の方により美しさや透明感を感じる人もいるかもしれませんが、少なくとも私や周りの人たちは、「ありがとう」の方に、より美しさや透明感を感じたのです。
 なぜ、日本語の「ありがとう」の方が少し違う形になり、しかもそちらの方により美しさを感じるのか。その疑問に対して、この語源辞典は答えをくれたように思いました。
「ありがとう」「有り難し」とは、神を賞賛し、褒めたたえる言葉だった。一方、「Thank you」というのは「I thank you」で、つまり「私はあなたに感謝する」という言葉なのです。人に対して感謝をしている言葉が「Thank you」です。

 例えば、誰かが梨をむいてくれたこと、柿をむいてくれたこと、おいしいコーヒーを入れてくれたこと、肩をもんでくれたこと、そういうことに対して「あなたに対して私は感謝をする」という、目の前の人や、「私」に対して何かをやってくれた人に対する感謝の言葉が「Thank you」でレた。
「ありがとう」という日本の言葉は、人に対して使われたものではなく、本来は神・仏が、あり得ないことを起こしてくれた、やってくれた場合に使われた言葉です。
 この話をある人にしたときに、その人が古典劇を見たことがあると言いました。その古典劇ではお婆さんが出てきて、空に向かって「有り難い」「有り難い」、「有り難い」「有り難い」と言って回るというものなのですが、そのときに、舞台上にお婆さんしかいなくて、ほかに人がいなかったと言うのです。つまり、登場人物は一人だけでした。そのお婆さんは人に対して「ありがとう」と言ったのではなく、空に向かって「有り難い」「有り難い」と言い続けていたわけです。その日本の古典劇の中でも、「ありがとう」「有り難い」という言葉は、ずっとと神や仏に対しての賞賛の言葉として使われていたことが分かりました。
「ありがとう」という言葉は、神や仏を賞賛する言葉であった、ということになれば、私たち日本人が日本語として使っている「ありがとう」は、勘違いして人間に対して使っているわけですが、私たちが勘違いをしていようがしていまいが、神さまにはどうも関係がないらしい。
 神さまは「ありがとう」という言葉が下界から聞こえてきたら、ガバと跳ね起きて、その人の「ありがとう」の回数をカチカチカチと、カウントするようです。
「ありがとう」を使った相手が人間であろうと動物であろうと、犬や猫であろうと、神さまには関係がなく、ただ、「ありがとう」という言葉が地上から聞こえてきたら、自分に対して向けられた言葉だという認識をするようになっているようです。
 そして、それが先ほど述べた5万回とか10万回、50万回、100万回、1000万回、そして1億回というレベルを超えたときに、神はその人にとって嬉しく、楽しく、幸せな現象を起こすようになっているように思えました。

祈りと願い

 日本語の語源辞典で「ありがとう」を引いたあとに「祈り」という言葉を引き、その次に「願い」という言葉を引きました。その結果、やはり衝撃的なことが分かりました。
 「祈り」とは「意に乗る」(神の意に乗る)こと、つまり神の意に添うことで、そういうことを神の意のままにやっていけばよいというのが「祈り」ではないか、と自分なりに解釈していたのですが、実は「祈り」とは、「意(神の意)+宣(宣言(のりごと)の宣(のり)」で、神の意を寿(ことほ)ぐこと、賞賛すること、褒めたたえることだ、ということが分かりました。
「祈り」とは、神の考えていること、為せることについて賞賛すること、褒めたたえることだったのです。
 一方、「願い」という言葉を引いたときに、この語源が「ねぎらい」から来ていることを知りました。「願い」とは「ねぎらい」だったのです。
「ねぎらい」とは、誰に対するご苦労様の言葉かというと、神・仏・天上界の方々に対するものです。「ねぎらい」とは「ご苦労様でした。ありがとうございます」という意味で、本来は上の立場から下の立場の人にかける言葉ですが、私たちが神・仏に対してかける言葉 というのは、下から上にであって、上から下へという方向ではありません。ですから、「ねぎらいの言葉=ご苦労様でした」というのは、当然、感謝の意を込めて「ありがとうございます」ということになるのではないでしょうか。
 つまり、「祈り」も「願い」も、神の為せる業に対して褒めたたえ、賞賛し、感謝をすることであった、ということが分かりました。
 私たちは子供のころから、神社仏閣に行って「お祈りをしなさい」「お願いをしなさい」というふうに言われてきました。「お祈り」や「お願い」は、かなえてもらうべき自分の希望や望みのことであったのですが、実は、語源からすると「祈り」も「願い」も、すべて神・仏・天上界に対するお礼の言葉・感謝の言葉・賞賛の言葉であった、ということが分かったのです。
 神・仏に対するお礼の言葉・感謝の言葉・賞賛の言葉というのは何かというと、これは「ありがとう」にほかなりません。私たちは、神・仏に対する言葉として「ありがとう」という素晴らしい文字を頂いたわけですが、この言葉を神社・仏閣に行ってただひたすら言い続けることが「祈り」であり「願い」だったのです。
「あれをしてください」「これをしてください」「これをかなえてください」と言うのではなく、ただひたすら「ありがとうございます」と言うことで、もうすべてが OK ということになります。
 そして、その声を聞いたときに、神は誰が言っているのかをきちんと認識し、その人の「ありがとう」の回数をカチカチカチと上空で数えているようです。その結果、5万回とか、10万回、50万回、100万回を超えた時点で、新しい奇跡が起きるようになっている。最近、宇宙のしくみがそうなっているように思えるようになりました。

自分の人生を、生まれるときから死ぬときまで、すべて事細かにシナリオに書いて来たらしいのです。どういう親を選び、どういう氏の家に生まれ、自分がどういう名前を付けられ、何年何月に生まれ(それも男に生まれるか女に生まれるか)、兄弟の構成はどういうものであるのか、あるいは親戚がどういう人で、隣のおじさん・おばさんがどういう人であるか、ということさえも、全部含めて自分で選び、シナリオを書いて生まれてきたらしいのです。
 未来が確定的に存在しているということは、今その人がどのような意志を持って生きているかということとは関係なく、必ずその出来事が起き、その事件が起きるのだ、ということが信じられるようになりました。
 すべては自分の書いたシナリオである。ですから、私たちは自分の人生について何も考えずに生きていってよい、ということになります。
「何も考えずに生きていってよいのですか。どうしても何かを考えなくては生きていけないのです」と言う人も世の中にはいます。ですから、何か考えたい人に対しては、私もたった一つ考えていることがあるので、それをお教えしましょう。
 それは、「念を入れて生きる」ということです。「念」という文字を分解すると、「今」の「心」と書いてあります。「今」の「心」とは、今、目の前にいる人を大事にし、今、目の前のことを大事にすること。
「念ずる」という意味には、念ずれば未来が呼び寄せられるとか、念ずれば自分のイメージどおりに未来をつくることができるとか、そういう意味は入っていません。念ずるとは、ただひたすら今を大事にする心であり、今、目の前の人を大事にし、今、目の前のことを大事にするということに尽きるのです。
「念ずる」ということ、今を大事にするということ、それが、私が今考えながら生きている唯一のことです。ですから、自分のシナリオどおりに人生が存在していることが分かってしまえば、過去どのような選択をし、どのような判断をしたかについても、何一つ悔やむ意味はありません。悔やむ必要はないのです。すべての選択、すべての判断が正しかった。
 同時に、未来、これから、どういう状況になろうが、そこでどちらを選ぼうが、右を選んだら幸せになるか、左を選んだら幸せになるかというふうに考える必要はないのです。選びたい方のどちらを選んでもよい。選んだものが必ずや自分のシナリオである。未来は必ず自分が書いたシナリオどおりに進んでいくのですから、未来について心配する必要はありません。
 今をひたすら生きること、今、目の前にいる人を一生懸命に大事にすること、それ以外に人生はないのです。今日寝て起きたら、明日ではないのです。今日寝て起きたら、起きたときは今日です。今日寝て起きたら、起きたときは今日。
 明日という日は永久に来ません。常に、今日、今、目の前に存在している人をひたすら大事にし、やるべきことをびたすら大事にやっていく。
 人生はただそれだけのようです。--小林正観の本より抜粋--
未来の智恵」シリーズ7幸せの宇宙構造─すべての人が幸せになる方法─ http://tekipaki.jp/~gon/park/seikan1.htm

「ありがとうございました」と過去形にするのは縁切り型で良くない「ありがとうございます」が正しいそうです。
明るい言葉、優しい言葉、思いやりのある言葉は、人を楽しませ、元気な気持ち
にさせ、勇気づけます。
反対に、暗い言葉、嫌味な言葉、きつい言葉は、人を落ち込ませ、悲しませ、傷つけます。

常に「ありがとうございます」とつぶやくことで、こころにもからだにも良い影響を
与えます。人によっては気持ちが明るくなる人もいるでしょう。

いつでも、どんなときでも、何があっても、「ツイてる」「これでいい」
イヤなことがあったとき、「でも大丈夫」。
失敗したときも「大丈夫なんとかなる」常に「大丈夫」を使う。
腹が立っても、体調を悪くしても、どんなときでもそうすると気持ちが楽になります。
心にも体にも良い影響を 与えます。言葉は言われた人だけではなく、言う人にも影響を与えます。

風や星や木々の緑がより美しく思えて感動が深まります。必要な人や素敵な人と、どんどん出会えるようにもなるでしょう。幸運に恵まれ、やりたいことがとんとん拍子に進んだりするのです。そして結局は、自分自身の究極の目標である天命に生きることになります。

2007年4月15日 (日)

笑いの威力

「笑う門には福来る」
と言われるように、怒っているより笑っているほうがいいことがありそうだ。
心や体になにか問題を抱えている時には、心の底からなかなか笑えないことが多い。

さて「笑う」という行為にはどんな効果があるのだろうか。
健康な人でも毎日、体内でがん細胞やピロリ菌が発生している。
また体の中の異物・敵対物質(細菌やウィルス)などを殺す抗体する力もある。
がん細胞を撃退する白血球の一種である、NK(ナチュラルキラー)細胞は、 それまでの免疫的な記憶がなくてもある種の腫瘍細胞(がん細胞など)を破壊することができ、腫瘍が発生するのを防御するはたらきがある。

大阪の吉本興業の「グランド花月」で、笑いと健康について行われた実験によると、漫才、落語、新喜劇を見た直後、血液検査を行った結果、18人中14人が、NK細胞の活性値が上昇したそうだ。
よく笑う人ほどNK細胞が増えて健康になるということになる。

交感神経と副交感神経のバランスが崩れてしまうと、自律神経失調症などの不安定な状態になってしまうのだが、笑っている時には、これらの神経がバランスよくはたらいているという。

●大笑いすれば腹筋や横隔膜が鍛えられる。すると、排便がラクになる
●楽しいことがあって笑えば、ストレス解消になり、その結果便秘や胃腸の痛みなどが、改善される
●「笑い」がリウマチなどの病気の回復にも貢献しているよう
●仕事がはかどる。笑いは人間関係を潤滑にし、イライラしているときよりも仕事の能率をアップさせる

笑うことで頬の筋肉が働き動くことにより、ストレスを解消し、また鎮痛作用たんぱくの分泌を促進させ、ストレスが下がることにより血圧を下げ、心臓を活性化させ運動した状態と似た症状を及ぼし、血液中の酸素を増し、さらに心臓によい影響を与えることから、循環器疾患の治療に用いられることもある。
よく笑うことで体の筋肉を使い、心地よい疲れによってよく眠れるようになる。

含み笑い 薄ら笑い せせら笑い 作り笑い
苦笑い 思い出し笑い 独り笑い 高笑い
馬鹿笑い 追従笑い 貰い笑い 誘い笑い

笑いを定義するのは案外難しい。
ごく一般的には陽性の感情に伴って表情が特有の緊張をすること(笑顔)、同時に特有の発声(笑い声)を伴うこと、ぐらいであろう。普通は何か自分以外の対象があって、それから受ける印象に基づいて、それが好意的であれば表情に笑いがでることがあり、特に刺激的な場合には発声が伴う。さらに程度がひどくなると全身に引きつけるような動作が伴い、涙なども出る。

笑顔 爆笑、大爆笑 苦笑 失笑 照れ笑い 微笑 愛想笑い
しかし、人間はこのような表現をかなり意図的に使い分けることができ、微細な感情を表現するので、なかなかややこしい。たとえば表情を変えずに笑い声だけをあげた場合、冷やかしや威嚇などの表現となり得る。

破顔一笑
呵々大笑
抱腹絶倒
一笑に付す
一笑を買う
笑壺に入る

笑いによって自律神経の頻繁な切り替えが起こる。
自律神経の頻繁な切り替えによる脳への刺激により、神経ペプチド(免疫機能活性化ホルモン)が全身に分泌される。NK細胞には神経ペプチドの受容体があり、NK細胞は活性化される。

笑みの中の刀
笑中に刀あり
笑いを噛み殺す
笑い三年泣き三月
痘痕も靨(笑窪)
目屎鼻屎を笑う
樽抜き渋柿を笑う
怒れる拳笑面に当たらず
来年のことを言うと鬼が笑う

浮世草紙によると「 憎まれ子世にはばかるほどの富になるとはいへど、笑う門には福来るこそめでたけれ 」とあり、金が溜まるだけが幸福ではないという。笑うと呼吸器や腹筋が刺激されて、体調を整え爽快になり、笑顔の人の周りには人が集まり、おのずから幸福が訪れるという意味。 
「 笑いは人の薬 」 「 笑って損した者はなし 」 「 和気 財を生ず 」 
 「 ほほえむ人に孤独な人はいない 」美輪 明宏
アメリカにも、類義のことわざがある。
「 笑いは最良の薬 」(和訳) 「 笑いは良い血を作る 」(和訳) 
商売に例えると、うまくいっている店はほほえみ上手で、従業員もとても感じがいいから、人が人を呼んで繁盛する。
古代ギリシアのプラトンには笑いについての考察がある。
アリストテレスは『詩学』の中で喜劇も考察対象にすると書いたが、これは実現しなかったと見られている。 古代ギリシャでは悲劇と喜劇が一作づつ上演されるのが常であった。
日本の文献で最も古い笑いの記録は岩戸隠れに於いてアメノウズメノミコトが神懸かったり踊っているのを見た神々が笑ったというくだりであろう。

怒りや恐怖することは、獣もする負の感情であり、鬼畜を増殖格好の餌になる。
笑いは楽しかったり、嬉しかったりなどを表現する、人間特有の行動の一つであることは確かだ。

2007年4月 8日 (日)

「日本一の無責任男」ドンガラガッタ ドンとドン

植木 等(うえき ひとし、1926年12月25日 - 2007年3月27日)

日本の高度経済成長時代のコメディアン 「日本一の無責任男」として1960年代に一世を風靡して、数々のヒットギャグ、ヒット曲を放った。
ハナ肇とクレージーキャッツの主要メンバーのひとり。俳優、コメディアン、歌手、ギタリストとして活躍。  映画やヒット曲から「無責任男」のイメージが強いが、実際の植木等は真面目な性格で、中尾ミエをして「毎日同じおかずでも不満を言わないくらい」と言わしめた。
「スーダラ節」の楽譜を渡された時、植木は「この曲を歌うと自分の人生が変わってしまうのでは」と悩んだ。父親に相談すると「“わかっちゃいるけどやめられない”は、親鸞聖人の生き様に通ずる」と諭され、彼は歌うことを決意した。名前は社会運動家の顔も持っていた父が「平等」にちなんで名づけた。等の父親である徹誠(てつじょう)は、かつて徹之助と名乗っており、若い頃はキリスト教徒であった。後に浄土真宗大谷派常念寺の住職となる。被差別部落出身ではないが「自分は部落民ではないと思う事が、すでに相手を差別していることだ」と述べて、水平運動に参加した。治安維持法違反の罪にとわれて投獄をされても積極的に反差別と反戦を貫いて運動をした。少年時代の等は、投獄された父に代わって僧衣を纏い檀家を回るという生活を送っている。その経験もあってか、1993年にハナ肇が亡くなった時、その葬儀において自ら読経した。

正式に声楽のレッスンを受けて、ジャチント・シェルシとのコラボレーションで知られる平山美智子のレッスンで発声を学んだ。よく通る声と個性的な声色はここから来ている。色悪とも評される鼻筋の通った容姿と、卓越した運動神経・リズム感覚に加えて、歌唱力が彼の大きな武器であった。
植木等の代表的なギャグである「お呼びでない」が生まれるきっかけを作ったのは小松政夫である。
植木等の付き人時代、植木が出演していた生放送の『シャボン玉ホリデー』でのショートコントの最中、勘違いして出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまい、植木がつい舞台に出てしまった。当然周囲は植木の登場に唖然としたが、その瞬間に植木は機転を利かせて「お呼びでない・・・こりゃまた失礼致しました」とアドリブを放った。
傍で見ていたプロデューサーは大爆笑し、以後は毎回のように使われるようになった。
国民的スターとして人気を集めた1960年代、その中心は「シャボン玉ホリデー」をはじめとするテレビバラエティと、「無責任シリーズ」「日本一シリーズ」などの一連の東宝映画であった。特に初期の二部作ともいうべき「ニッポン無責任男」「ニッポン無責任野郎」はその破天荒さで今なお評価の高い異色喜劇である。

[経歴]
愛知県名古屋市にて生まれる。
3歳の頃、父親が浄土真宗大谷派常念寺の住職となり移住。移住先は、母親であるいさほ(旧姓:小幡)の実家、浄土真宗大谷派西光寺がある三重県度会郡小俣町(現在の伊勢市小俣町)の近く。なお、公式ホームページでは出身地を三重県としている。
1939年 僧侶の修行をするべく、東京へ行く。
1944年 東洋大学予科に入学。
1947年 東洋大学予科卒業後、東洋大学文学部入学。
1950年 東洋大学文学部国漢科卒業。在学中に東洋大学は新制大学へ移行しているが植木自身は旧制大学のカリキュラムで卒業している。ジャズに傾倒してギタリストを志す。「萩原哲晶とデューク・オクテット」にギタリストとして加入。
1952年 自身のバンド「植木等とニュー・サウンズ」結成。
植木のバンドが演奏していると、進駐軍として日本に滞在していたハンプトン・ホースがピアニストとして飛び入りで演奏に参加してきたという逸話が残っている。
1954年 オペラ歌手の平山美智子からクラシックの発声レッスンを受けているときにフランキー堺に誘われ、シティ・スリッカーズに参加。
1957年3月1日 シティ・スリッカーズから谷啓らのいるクレージーキャッツに参加。「お呼びでない?」など歴史に残るギャグで爆発的な人気を得る。「無責任男」をキャッチフレーズに数多くの映画に出演。『スーダラ節』、『ドント節』をはじめ数々のコミックソングをヒットさせた。
1986年 『新・喜びも悲しみも幾歳月』で、キネマ旬報助演男優賞、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、毎日コンクール助演男優賞を受賞。
1986年 主演ドラマ『名古屋嫁入り物語』放送。1998年まで計10作作られる人気シリーズに。
1990年 自身の企画でヒット曲をメドレーにして歌った「スーダラ伝説」を発売。話題を呼び、この年の紅白歌合戦に1967年以来の出場を果たし、歌手別最高視聴率56.6%を叩きだした。さらにオリコントップ10入りも果たすという前代未聞の大記録を打ちたてた。その余波で高額納税者番付・芸能人部門でもトップ10入りを果たし、さらに記録を作った。不動産売却以外で、還暦を過ぎてのランクインは他に例が無い。

1993年 紫綬褒章を受章。
1999年4月29日 勲四等旭日小綬章受章。
1997年 連続テレビ小説『甘辛しゃん』に出演中の頃から肺気腫を患う。2003年頃から容態は悪化し出し、体力低下のため舞台公演が出来なくなる。
2006年12月21日 朋友である青島幸男の通夜に参列。これが公の場に出た最後となる。
2007年3月27日死去。享年80。
□[主な出演映画] □
東宝クレージー映画(1962年-1972年/全30作)
喜劇泥棒大家族天下を取る(1972年)
喜劇ここからはじまる物語(1972年)
本日ただいま誕生(1978年)
水戸黄門(1978年)
すっかり・・・その気で!(1981年)
逆噴射家族(1984年、石井聰亙監督)
乱(1985年、黒澤明監督) - アカデミー賞衣裳デザイン賞(ワダ・エミ)受賞作品。
刑事物語・くろしおの詩(1985年、渡辺祐介監督)
新・喜びも悲しみも幾歳月(1986年、木下恵介監督)
トットチャンネル(1987年)
塀の中の懲りない面々(1987年)
精霊のささやき(1987年)
遥かなる甲子園(1990年)
あした(1995年)
舞妓Haaaan!!!(2007年公開予定)

○ テレビドラマ ○
 二人の事件簿(1975年、朝日放送) - 早川警部 役
水戸黄門 第7部(1976年、TBS・C.A.L.) 第25話「母恋し、父(ちゃん)悲し・高田」- 上州無宿の竹五郎 役
横溝正史シリーズII 不死蝶(1978年、毎日放送)
ザ・ハングマン(燃える事件簿)(1980年、朝日放送) - パン:辻雄太郎 役
ザ・ハングマンII(1982年、朝日放送) - オショウ:辻雄太郎 役
ザ・ハングマン4(1984年、朝日放送) - オショウ:辻雄太郎 役
火曜サスペンス劇場(日本テレビ系)
深く埋めて(1987年10月、PDS)
火刑都市(1989年4月)
親子ゲーム(TBS)
時間ですよふたたび(TBS・KANOX)-畠中徳助の幽霊
オヨビでない奴!(TBS)
とんぼ(TBS)
大空港'92(テレビ朝日)
新空港物語(テレビ朝日)
名古屋嫁入り物語(東海テレビ)
直木賞作家サスペンス 後追い心中・桜の涙(1990年3月、関西テレビ・東映) - 主演
NHK朝の連続テレビ小説 甘辛しゃん(1997年 - 1998年、NHK)
ビッグマネー!~浮世の沙汰は株しだい~(2002年、フジテレビ)
新しい風(2004年、TBS)
向田邦子新春ドラマスペシャル 冬の運動会(2005年、日本テレビ)
南町奉行捕物帖 怒れ!求馬(TBS)
南町奉行捕物帖 怒れ!求馬II(TBS)
大江戸を駈ける!(TBS)
教習所物語(TBS)
僕が僕であるために(1997年1月3日、フジテレビ)

★ バラエティ ★
植木等デラックス(MBS制作、TBSテレビ系全国ネット、JT提供)
植木等ショー(TBS)
歌う夢のデイト
スターにまかせろ(TBS)
ハイやりました(NET)
俺の番だ(TBS)
それいけどんどん(NET)

ё CM ё
アイデアル傘(1963年 - 1965年)
大塚食品「ボンカレー」(1969年)
小林製薬「タフデント」(1999年 - 2002年)
日本盛(1993年)

■ アルバム ■
ハイ、およびです(1966年)
女の世界(1971年)
スーダラ伝説(1990年)
スーダラ外伝(1992年)
植木等的音楽(1995年)

▲ シングル ▲
針切じいさんのロケン・ロール(シェブ・ウーリーの『ロックを踊る宇宙人』のカバー)

▽ 演じた俳優 ▽
田口トモロヲ - 『シャボン玉が消えた日』(日本テレビ)
陣内孝則 - 『ザ・ヒットパレード~芸能界を変えた男・渡辺晋物語』(2006年5月、フジテレビ系)


ドント節 / 五万節(オリジナルヴァージョンは歌詞の一部が問題視され発売禁止になった。その直後に3番と6番の歌詞が変えられて発売。1995年にオリジナルヴァージョンもCD化され発売された)
大瀧詠一責任編集『クレージキャッツスーパーデラックス』(東芝EMI、CD、2000)では、クレージーのドーナツ盤レコードの復元がされている。『無責任一代男』『どうしてこんなにもてるんだろう』『ホンダラ行進曲』『シビレ節』(放送禁止箇所の歌詞のある「シビレ節」も加工されて一部が削除されているのでそこだけ「カラオケ」できる)『ハイそれまでョ』『こりゃシャクだった』『これが男の生きる道』『ゴマスリ行進曲』『だまって俺について来い』『遺憾に存じます』『五万節』『ドント節』『スーダラ節』『実年行進曲』などオリジナルヴァージョンの気迫が堪能できる。

「ドント節 」-ハナ肇とクレイジーキャッツ
【作詞】青島幸男、【作曲】萩原哲晶(1962年1月20日)
♪サラリーマンは 気楽な稼業と きたもんだ
二日酔いでも 寝ぼけていても タイムレコーダー ガチャンと押せば
どうにか格好が つくものさ チョッコラ チョイと パアにはなりゃしねェ アッソレ
ドンと行こうぜ ドンとね ア ドンガラガッタ ドンとドンと 行きましょう
サラリーマンは気楽な稼業と きたもんだ
酒を呑んでも デイトをしても 三度に一度は おやじのツケさ
遠慮するなよ グッとあけろ ツケのきく店 また探そ アッソレ
ドンと行こうぜ ドンとね ア ドンガラガッタ ドンとドンと 行きましょう
サラリーマンは 気楽な稼業と きたもんだ
社長や部長にゃ なれそうもねえが 停年なんてのァ 未だ先のこと
競輪競馬に パチンコ マージャン 負けりゃやけ酒 又借金 アッソレ
ドンと行こうぜ ドンとね ア ドンガラガッタ ドンとドンと 行きましょう♪

サザンオールスターズの桑田佳祐は『シャボン玉ホリデー』に強く影響を受け、「自分の憧れは植木等です。」とデビュー当時から公言している。ミュージックステーションの番組のコーナーにおいて、"失恋・・・悲しみにくれる時"にジャストフィットする曲として、桑田は「スーダラ節」を選んだ。自身のラジオ番組では「ドント節」などを弾き語りしたこともある。そのカセット音源がYouTubeで聴ける。
YouTube -桑田佳祐 弾き語り生歌 ハナ肇とクレージーキャッツ - ドント節
http://www.youtube.com/watch?v=vmoSxTjmNro

2007年4月 7日 (土)

年金受給が零になる恐れあり

社会保険庁は3日、公的年金を個人ごとに一元管理するための「基礎年金番号」が付与されていない加入記録が、厚生・国民年金で約5000万件(昨年6月時点)に上るとの調査結果を明らかにした。

転職などで異なる年金に加入した人は、基礎年金番号が未付与のままだと加入記録が統合されず、年金受給額が減る恐れもあり、年金記録の管理の在り方に改めて批判が集まりそうだ。

 この調査結果は、同日開かれた社保庁改革に関する厚生労働省の有識者会議に提示された。 

[時事通信社] 04月03日

金が買えないこと、大量のドルを抱えていることで日銀は、米国債を買わなければならない状況に追い込まれたわけである。もちろん、米国は米国債を日本に買わせるために、日本の金保有を禁じたのである。 政府日銀が米国債を買う原資は日本国民の税金である。銀行、生保が買う原資は日本国民の預貯金や生保に払った金である。皆さんが、米国債を買ったつもりはないと言っても間接的に買っていたのだ。そして、その損失は日銀や民間金融機関の不良債権として日々増殖しているのである。そしてその損失の穴埋めは結局、増税という形で我々が払うことになるのだ。日本国民の大多数はアメリカに上納金を支払うことを了解した覚えなどないのにである。本来ならアメリカ政府の借金なのだから、アメリカ国内で賄うべきものなのに、その3分の1を日本一国に肩代わりさせているというのである。3分の1は1兆8770億ドル。そうち政府日銀の保有分1兆1990億ドルを引いた残りの6780億ドルを、日本の銀行、生命保険会社、企業及び投資家が保有していると思われる。

「国の財政が破綻寸前であるというのなら、何故今まで長期の米国債を買い続けてきたのか、又これからも買い続ける必要があるのか」

連邦準備制度が崩壊されると
これらの企業と取引している日本の銀行・生保・証券会社への影響は深刻となる
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%82%BF%E4%BA%8B%E4%BB%B6&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%A5%EF%A5%F3%A5%BF%BB%F6%B7%EF&fr=top_v2&tid=top_v2&ei=euc-jp&search.x=1&x=27&y=11

2007年4月 5日 (木)

【著作権法】

1.著作物
思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。
2.著作者
著作物を創作する者をいう。
3.実演
著作物を、演劇的に演じ、舞い、演奏し、歌い、口演し、朗詠し、又はその他の方法により演ずること(これらに類する行為で、著作物を演じないが芸能的な性質を有するものを含む。)をいう。
4.実演家
俳優、舞踊家、演奏家、歌手その他実演を行なう者及び実演を指揮し、又は演出する者をいう。
5.レコード
蓄音機用音盤、録音テープその他の物に音を固定したもの(音をもつぱら映像とともに再生することを目的とするものを除く。)をいう。
6.レコード製作者
レコードに固定されている音を最初に固定した者をいう。
7.商業用レコード
市販の目的をもつて製作されるレコードの複製物をいう。
7の2.公衆送信
公衆によつて直接受信されることを目的として無線通信又は有線電気通信の送信(有線電気通信設備で、その一の部分の設置の場所が他の部分の設置の場所と同一の構内(その構内が2以上の者の占有に属している場合には、同一の者の占有に属する区域内)にあるものによる送信(プログラムの著作物の送信を除く。)を除く。)を行うことをいう。
8.放送
公衆送信のうち、公衆によつて同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行う無線通信の送信をいう。
9.放送事業者
放送を業として行なう者をいう。
9の2.有線放送
公衆送信のうち、公衆によつで同一の内容の送信が同時に受信されることを目的として行う有線電気通信の送信をいう。
9の3.有線放送事業者
有線放送を業として行う者をいう。
9の4.自動公衆送信
公衆送信のうち、公衆からの求めに応じ自動的に行うもの(放送又は有線放送に該当するものを除く。)をいう。
9の5.送信可能化
次のいずれかに掲げる行為により自動公衆送信し得るようにすることをいう。
イ 公衆の用に供されている電気通信回線に接続している自動公衆送信装置(公衆の用に供する電気通信回線に接続することにより、その記録媒体のうち自動公衆送信の用に供する部分(以下この号において「公衆送信用記録媒体」という。)に記録され、又は当該装置に入力される情報を自動公衆送信する機能を有する装置をいう。以下同じ。)の公衆送信用記録媒体に情報を記録し、情報が記録された記録媒体を当該自動公衆送信装置の公衆送信用記録媒体として加え、若しくは情報が記録された記録媒体を当該自動公衆送信装置の公衆送信用記録媒体に変換し、又は当該自動公衆送信装置に情報を入力すること。
ロ その公衆送信用記録媒体に情報が記録され、又は当該自動公衆送信装置に情報が入力されている自動公衆送信装置について、公衆の用に供されている電気通信回線への接続(配線、自動公衆送信装置の始動、送受信用プログラムの起動その他の一連の行為により行われる場合には、当該一連の行為のうち最後のものをいう。)を行うこと。
10.映画製作者
映画の著作物の製作に発意と責任を有する者をいう。
10の2.プログラム
電子計算機を機能させて一の結果を得ることができるようにこれに対する指令を組み合わせたものとして表現したものをいう。
10の3.データベース
論文、数値、図形その他の情報の集合物であつて、それらの情報を電子計算機を用いて検索することができるように体系的に構成したものをいう。
11.二次的著作物
著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物をいう。
12.共同著作物
2人以上の者が共同して創作した著作物であつて、その各人の寄与を分離して個別的に利用することができないものをいう。
13.録音
音を物に同定し、又はその固定物を増製することをいう。
14.録画
影像を連続して物に固定し、又はその固定物を増製することをいう。
15.複製
印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製することをいい、次に掲げるものについては、それぞれ次に掲げる行為を含むものとする。
イ 脚本その他これに類する演劇用の著作物 当該著作物の上演、放送又は有線放送を録音し、又は録画すること。
ロ 建築の著作物 建築に関する図面に従つて建築物を完成すること。
16.上演
演奏(歌唱を含む。以下同じ。)以外の方法により著作物を演ずることをいう。
17.上映
著作物(公衆送信されるものを除く。)を映写幕その他の物に映写することをいい、これに伴つて映画の著作物において固定されている音を再生することを含むものとする。
18.口述
朗読その他の方法により著作物を口頭で伝達すること(実演に該当するものを除く。)をいう。
19.頒布
有償であるか又は無償であるかを問わず、複製物を公衆に譲渡し、又は貸与することをいい、映画の著作物又は映画の著作物において複製されている著作物にあつては、これらの著作物を公衆に提示することを目的として当該映画の著作物の複製物を譲渡し、又は貸与することを含むものとする。
20.技術的保護手段
電子的方法、磁気的方法その他の人の知覚によつて認識することができない方法(次号において「電磁的方法」という。)により、第17条第1項に規定する著作者人格権若しくは著作権又は第89条第1項に規定する実演家人格権若しくは同条第6項に規定する著作隣接権(以下この号において「著作権等」という。)を侵害する行為の防止又は抑止(著作権等を侵害する行為の結果に著しい障害を生じさせることによる当該行為の抑止をいう。第30条第1項第2号において同じ。)をする手段(著作権等を有する者の意思に基づくことなく用いられているものを除く。)であつて、著作物、実演、レコード、放送又は有線放送(次号において「著作物等」という。)の利用(著作者又は実演家の同意を得ないで行つたとしたならば著作者人格権又は実演家人格権の侵害となるべき行為を含む。)に際しこれに用いられる機器が特定の反応をする信号を著作物、実演、レコード又は放送若しくは有線放送に係る音若しくは影像とともに記録媒体に記録し、又は送信する方式によるものをいう。
21.権利管理情報
第17条第1項に規定する著作者人格権若しくは著作権又は第89条第1項から第4項までの権利(以下この号において「著作権等」という。)に関する情報であつて、イからハまでのいずれかに該当するもののうち、電磁的方法により著作物、実演、レコード又は放送若しくは有線放送に係る音若しくは影像とともに記録媒体に記録され、又は送信されるもの(著作物等の利用状況の把握、著作物等の利用の許諾に係る事務処理その他の著作権等の管理(電子計算機によるものに限る。)に用いられていないものを除く。)をいう。
イ 著作物等、著作権等を有する者その他政令で定める事項を特定する情報
ロ 著作物等の利用を許諾する場合の利用方法及び条件に関する情報
ハ 他の情報と照合することによりイ又はロに掲げる事項を特定することができることとなる情報
22.国内
この法律の施行地をいう。
23.国外 この法律の施行地外の地域をいう。

 著作物(著作物の例示)第10条 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。
1.小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物
2.音楽の著作物
3.舞踊又は無言劇の著作物
4.絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物
5.建築の著作物
6.地図又は学術的な性質を有する図面、図表、模型その他の図形の著作物
7.映画の著作物
8.写真の著作物
9.プログラムの著作物2 事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第1号に掲げる著作物に該当しない。3 第1項第9号に掲げる著作物に対するこの法律による保護は、その著作物を作成するために用いるプログラム言語、規約及び解法に及ばない。この場合において、これらの用語の意義は、次の各号に定めるところによる。
1.プログラム言語 プログラムを表現する手段としての文字その他の記号及びその体系をいう。
2.規約 特定のプログラムにおける前号のプログラム言語の用法についての特別の約束をいう。
3.解法 プログラムにおける電子計算機に対する指令の組合せの方法をいう。(二次的著作物)第11条 二次的著作物に対するこの法律による保護は、その原著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない。

(編集著作物)
第12条 編集物(データベースに該当するものを除く。以下同じ。)でその素材の選択又は配列によつて創作性を有するものは、著作物として保護する。2 前項の規定は、同項の編集物の部分を構成する著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない。(データベースの著作物)第12条の2 データベースでその情報の選択又は体系的な構成によつて創作性を有するものは、著作物として保護する。2 前項の規定は、同項のデータベースの部分を構成する著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない。
(権利の目的とならない著作物)
第13条 次の各号のいずれかに該当する著作物は、この章の規定による権利の目的となることができない。
1.憲法その他の法令
2.国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人(独立行政法人通則法(平成11年法律第103号)第2条第1項に規定する独立行政法人をいう。以下同じ。)又は地方独立行政法人(地方独立行政法人法(平成15年法律第118号)第2条第1項に規定する地方独立行政法人をいう。以下同じ。)が発する告示、訓令、通達その他これらに類するもの
3.裁判所の判決、決定、命令及び審判並びに行政庁の裁決及び決定で裁判に準ずる手続により行われるもの
4.前2号に掲げるものの翻訳物及び編集物で、国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が作成するもの《改正》平11法220
《改正》平15法119最初・第2章第2節 著作者(著作者の推定)第14条 著作物の原作品に、又は著作物の公衆への提供若しくは提示の際に、その氏名若しくは名称(以下「実名」という。)又はその雅号、筆名、略称その他実名に代えて用いられるもの(以下「変名」という。)として周知のものが著作者名として通常の方法により表示されている者は、その著作物の著作者と推定する。(職務上作成する著作物の著作者)
第15条 法人その他使用者(以下この条において「法人等」という。)の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成する著作物(プログラムの著作物を除く。)で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。2 法人等の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成するプログラムの著作物の著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。
(映画の著作物の著作者)
第16条 映画の著作物の著作者は、その映画の著作物において翻案され、又は複製された小説、脚本、音楽その他の著作物の著作者を除き、制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者とする。ただし、前条の規定の適用がある場合は、この限りでない。
第54条 映画の著作物の著作権は、その著作物の公表後70年(その著作物がその創作後70年以内に公表されなかつたときは、その創作後70年)を経過するまでの間、存続する。《改正》平15法0852 映画の著作物の著作権がその存続期間の満了により消滅したときは、当該映画の著作物の利用に関するその原著作物の著作権は、当該映画の著作物の著作権とともに消滅したものとする。3 前2条の規定は、映画の著作物の著作権については、適用しない。 

2007年4月 2日 (月)

SF映画の構想素案

個人は他の動物的個体とは異なって類に属すだけでなく、類を意識しつつその代表としてふるまうからである。それは自然的なものではなく、社会的、文化的なものともみなされている。
類としての人間の生命類としての人間が倫理的にあらためて問われる背景には人間の生命、誕生以前の前人格の生命の道徳的地位の問題がある。人間の生命は生命は根本的にヒト種という自然的類に所属する。ヒト生命の発生過程に対する人為的介入はヒト生命の類的過程に対する介入であって、たんに個々の生命体やその関係者にとっての個別的なことがらではない。

人間の遺伝子の組替えのさいにヒト種と他の動物の種の混合が生じる可能性がある。他の動物種の遺伝子が人間に組み入れ、これがさらに子孫に遺伝することになれば、雑種が生まれる。このばあいは、類としてのアイデンティティーが損なわれないかどうかが問題となる。単に生物学的次元にとどまらず、われわれ全体の社会的、文化的生活の基盤の自己了解にかかわる。

映画『スターウォーズ3~ジェダイの復讐』では、闇の皇帝が主人公ルーク・スカイウォーカーを苦しめ、憎悪を駆り立てようと謀る。闇や悪を憎めば憎むほど、人はかえって闇の領域に近づくことになる。ルークは「許し」を持って、闇の力にうち勝つのである。
「僕は戦わない」と。闇は認めた瞬間から大きくなる。いつも自己主張したがるのが闇の特徴である。

人や場所に闇を感じても「そこに闇はない! 光が足りないだけだ」と思うとすべて消えてしまう。闇が一番嫌いなものと恐れるのは「無私」の心と「無償の愛」という。自ら行った存在を否定されて自己主張したがるのも消されてしまうからであった。

この地球にいま生きている人たちは、それぞれに特別な使命をもって生まれてきたことを知ってほしい。その使命を忘れて自分を無力な存在だと錯覚してしまっている人たちは、不安になると自分を導いてくれる存在を求めたがる。自分の行動や疑問を断定的に指示し、解決してくれる人に依存してしまう。その人の助言が時には、あなたを楽にしてくれるだろう。
しかし人に依存し続けると、自分のレーゾンデートル(存在意義)の喪失と使命の放棄につながる。すべては、あなたという「自分」への自己過小評価のせいである。
自らの中にマスターを持っている。人間は皆、内側に高い意識を持っている。それは常に自らを高い次元の波動帯に高めようとする。「愛」の本当の意味を学ばせ、魂が進化する方向に人を望んで導く。

「それぞれの人格における人類性の尊厳」という表現をカントは基本とした。
人間性の尊厳をそれ自体で論じているのではなく、人間性を人格に内在する本質とみなし、その尊厳を人格との関係で論じている。個人は「類的存在Gattungswesen」であることを想起したい。

2007年4月 1日 (日)

東証4月1日は取引を全面停止する措置

エイプリールフールの影響が株式市場にまでおよんだ。東京証券取引所(東証)は、エイプリールフールによる市場の混乱を懸念。売買システム保護の観点から、4月1日の株式の取引を全面停止する。 これを受け、国内の各証券取引所はもとより、ニューヨークやロンドンなど、世界中の証券取引所も同様の措置をとる模様だ。 4月1日は、エイプリールフールであり、各報道機関がこぞって“ネタ”記事を放出する。しかし、昨今は巧妙な記事が多いうえに、blogとSNSの普及により口コミによる広がりは計り知れない。また、「Gmail」をはじめとしてエイプリールフールをねらい、にわかに信じ難いサービスや商品を発表する企業があるなど、最近では混乱の度を増している。 そのため東証は、エイプリールフールネタに惑わされた投資家が、株をパニック的に売買しその結果、市場が混乱するおそれがあると判断。

エイプリールフールの起源

●ノアの方舟から、陸地を探すために鳩を飛ばした。けれど、見つけることができずに舞い戻ってきた。
あてにならないこと、が転じて大ウソOKの日になった。
●ローマ時代の4月1日、道化師が主人の椅子に座り、主人が奴隷に仕えるという無礼講があったそうで、道化師=foolからエイプリルフールと呼ばれる。
●中世にオール・フールズ・デイ(万愚節)というお祭りがあった。11月1日の「万聖節」(諸聖人の祝日All saints'Day)に対しての称で、キリストがユダヤ人に愚弄(ぐろう)されたことを忘れないために設けた日とも、またキリストの命日ともいわれる。それは逆さまの祭りで、名誉ある椅子には高貴な主人やご婦人ではなく、道化師が座り、給仕たちはいろいろなことを逆さまにする。
一番どうでもよいようなテーブルから真っ先に給仕して、主賓席を最後にまわしたり、人々はページの右側から書きはじめ、左へむかって書き進めていったりする。
万愚節は浮かれ騒いでいる人々に、規則というものは時として面倒なものではあるが、さりとて、無秩序は破壊的であることを思い起こさせてくれるという意味を持っている。
●西洋で春分から新年が始まっていたころ、新年の祭りの最後の日である4月1日に贈り物をしあう習わしがあったが、1564年にフランスのシャルル9世が新暦を採用し、1月1日が新年になった。
旧習を懐かしむ者たちが、4月になると多量に捕獲されて食用に供されてしまうサバを馬鹿な魚としてそれになぞらえ、ポアソン・ダブリルPoisson d'avril(「4月の魚」の意)とよんで、4月1日にふざけて新年の祝いを催し、でたらめな贈り物をしたことからはじまる。
●インドでは仏教徒が、春分から7日間、説法を聴聞したり坐禅《ざぜん》を行ったりして悟りの修行をする。その期間が過ぎるとまた迷いの世界に戻ってしまうので、この日を「揶揄(やゆ)節」とよび、からかいの行事をしたことが西洋に伝わったという。
●春分の日(3月21日)から始まって3月末に終わる、悟りの修行をしても、すぐに迷いが起こることから、4月1日を「揶揄説(やゆせつ)」として呼んだ。
●中国では「衆愚節」あるいは「万愚節」といい、それが江戸時代に日本に伝わって、当時は「不義理の日」とよばれた。エープリル・フールという言葉は大正時代に伝えられ、ユーモアのある軽いウソで人を担いで楽しむ習慣として広まった。

エイプリル・フール(4/1)に馬鹿なことができる勇気あるウェブサイトが集まり発足
「日本インターネット エイプリル・フール協会(Japan Internet April Fool Association, JIAFA)」http://www.aprilfool.jp/

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2018年4月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
フォト

22カードの意味

  • _0 愚者
    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

オンライン状態

ペンギンタロットの原画

  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。