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2007年5月16日 (水)

石川淳 作品

 わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでゐたのだが、いざとなると老女の姿が前面に浮んで来る代りに、わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口ででもあるかのやうにわたしといふ溜り水が際限もなくあふれ出さうな気がするのは一応わたしが自分のことではちきれさうになつてゐるからだと思はれもするけれど、じつは第一行から意志の押しがきかないほどおよそ意志などのない混乱におちいつてゐる証拠かも知れないし、あるひは単に事物を正確にあらはさうとする努力をよくしえないほど懶惰なのだといふことかも知れない。まつたくそのとき坂の上に立つたわたしといふものは、いかにも頼みがひのなささうなでくのぼうの恰好で、ふらふらと風に吹き飛ばされながら斜面をずり落ちて行つた。まばらな雑木林が初秋の日ざしをさへぎつてゐるこの径(こみち)は、坂とはいひながら附近のすべての坂とおなじくただ緩やかな傾斜をなしてゐるだけのもので、頃合な散歩道になつてゐた。もつとも土地のひとびとは耕作や銭勘定に圧倒されてゐて宛もなくうろつくひまなどありはしないのだが、わたしはそこの閑寂につけこみをりをり坂のあたりにさまよひ出て句でもひねるよりほかに手がなかつた。しかしこの日わたしはある興奮――それの愚かしさを諸君はやがて知るであらうが――にいつぱいになつて、気もそぞろに足を浮かせ、あたかも籠に盛り上げた林檎をこぼすまいとして駆け出す子供のやうに感動をぢつと抱きしめてかへりをいそいだ。     (佳人) 

 盤上に散った水滴が変り玉のようにきらきらするのを手に取り上げて見ればつい消えうせてしまうごとく、かりに物語にでも書くとして垂井茂市を見直す段になるとこれはもう異様の人物にあらず、どうしてこんなものにこころ惹かれたのかとだまされたような気がするのは、元来物語の世界の風は娑婆の風とはまた格別なもので、地を払って七天の高きに舞い上るいきおいに紛紛たる浮世の塵人情の滓など吹き落されてしまうためであろうか、それにしてもこれはちょっと鼻をつまめばすぐ息がとまるであろうほどたわいのなさすぎる男なのだ。しかしそんな取柄のない男のどこがおもしろいかといえばじつにその取柄のなさ加減で、これほどつまらぬところばかりで出来上っている人間もないものだと、こう捏ねかえしはじめてはきりのないはなしであるが、それはなにも宿酔のわたしの頭が混沌としているせいばかりではなく、午前十時のベッドの中でもじもじしている所在なさの妄想であろう。そもそもこのベッドというのが垂井茂市のベッドであってみれば、やはり念頭にちらつくのは……ええ、もう垂井茂市なんか鬼に食われろと、わたしはぱっと跳ねおき、アパートの重宝は室内に備えてある水道の栓をひねってじゃぶじゃぶと顔を洗いかけたとたん、外から扉をこつこつ、「垂井さん、垂井さん。」黙っていると、鍵のかかっていない扉を向うから押して鼻づらを突き出されたのではよんどころなく、「なんだ。」「日の出新聞ですが……」

ここでわたしの舌がまだうごいているついでにずばりといってしまえば、じつはわたしはときどき深夜の寝床を蹴って立ち上り、突然「死のう」とさけぶことがあり、それを聞きつけた文蔵に「まだ死なないのか。」とひやかされる始末であるが、わたしがまだ死なないでいる秘密はおそらくこのさけびに潜んでいるらしく、「死のう」ということばの活力が一刹那にわたしの息を吹きかえさせるのであろうか、げんにわたしが黙黙と死について考えているあいだは眼前の闇は暗澹として涯なく、「死のう」とさけんだとたん、たちまち天に花ふり地に薫立ち、白象の背ゆたかにゆらぎ出ずる衆彩荘厳の菩薩のかんばせ……このとき、普賢とはわたしにとってことばである。 (普賢)

 歌が聞えて来ると……だが、この感情をどうあらわしたらばよいのか。今、黄昏の室内でひとり椅子にかけているわたしの耳もとに、狂躁の巷から窓硝子を打って殺到して来る流行歌『マルス』のことをいっているのだ。

  神ねむりたる天が下
  智慧ことごとく黙したり
  いざ起て、マルス、勇ましく
  ……………………………………

 いぶり臭いその歌声の嵐はまっくろな煤となって家家の隅にまで吹きつけ、町中の樹木を涸らし、鶏犬をも窒息させ、時代の傷口がそこにぱっくり割れはじけていた……しかし、いったいこんなふうの文句をどれほど書きつづけて行ったならば、わたしは小説がはじまるところまで到達することができるのか。実際、わたしはこの数日小説を書こうと努めつつ、破れ椅子の上でひそかにのたうちまわりながら、しかもペンが記しえたかぎりのものはこんなふうの、ああ、無慙にもおさない詠歎の出殻に過ぎぬ拙劣な文句のかずかずでしかなかった。『マルス』の怒号によって掏りかえられた欝陶しい季節の中では、こんなあわれな芸当しかわたしにはできないというのか。嘲笑する窓外の歌声にかっとなって、わたしはいらだつ指先で書くそばから一枚一枚びりびりと紙を裂き、それを宙に投げつけ、床に散った紙屑の中に依然として整理されないままのわが感情を踏みにじった。  (マルスの歌)

 夕方の六時近く、まだ剛情に照りつける真夏の日の下に、屋根も塀も植込もぎらぎらと黄ろく溶ろけて見える家家の門口をのぞいては、略描の地図と引きくらべながら、一人の少年が淀橋柏木の裏道を歩いてゐた。襟の開いたシャツに、古い、だぶだぶの、しかし品(しな)のよささうなホームスパンの背広を着こんで、角の擦りはげた赤革の鞄をさげ、肩をゆり上げて歩いて行くところはおとなびた風態であつたが、そのおとなの型にいそいで釣合はうとあせつてゐる肉体の脂の中には未熟な果実のにほひが残り、骨格の定まらぬ手足のひよろ長さ、蒼みがかつた皮膚の艶、柔軟な呼吸の調子が十九歳を計算してゐた。道の両側の家並はみな百坪どまりの中流住宅で、和洋とりどりながら無趣味の点ではいづれもおなじ扁平な表がまへをさらし、遠くからは見分のつかぬけしきの中に、やや小さい一軒、煤けた板塀に黒木の門のゆがんだのが、門柱に横文字の名刺を二枚貼りつけ、横文字のそばにをかしな字体のペン字で「アルダノフ」「リイピナ」と書き入れてある、その家の前まで来たとき、少年は名札を見据ゑて、急に立ちどまり、鞄を地べたに置き、半麻の帽子を取つて額に流れる汗を拭きながら、ほつと息をついた。   (白描) 
 

 まづきはめて平凡な二三の注意からはじめる。
 われわれは日常、それについて考へてみると否とにかかはらず、ことばといふものを口に出してしやべつてゐる。そして、ひとりごとの場合でさへ当人がそれを聴かねばならぬくらゐなのだから、しやべることばにはつねに一人または数人の聴手が付物で、相互の間に思念感情の伝達がおこなはれることは今さらいふまでもない。すでに、しやべられたことばは若干の当事者の間におこつた事件だとすると、そこに参加したことばどうしの間には、すぐ反撥しあふにもしろ、やがて親和するにもしろ、ともかく衝突、摩擦、抵抗が見られるはずである。もつとも日日の定まつた挨拶、通り一遍の式辞のたぐひ、もしくは取りとめない茶話のごときにあつては、ことばはほとんど無意味に暗誦されるか、はじめから狎れあふために振り撒かれるかして、右の抵抗の度合ははなはだよわく、ひとはべらべらと無価値の品物を投げるやうにしやべつてしまふ。しかしなにかの要件に関する相談、責任ある陳述、談判、説伏、討論の場合など、受け応への弛みなさ、表現の正確が要求されるにしたがつて、抵抗の度合がつよくなり、ことばの意味は明瞭にみがかれて出る。身にしみる愛のことばもしばしば烈しい抵抗をへた後に発せられる。      (書かれたことばのはたらき)

   佐久間の下女は箔付のちぢれ髪   裏に来てきけばをとつひ象に乗り

 お竹大日如来のことは民俗学のはうではどうあつかふのか知らない。某寺の聖のはなしとか流しもとの飯粒を大切にするはなしとかがこれに関係づけられてゐるやうである。しかし、この風変りな如来縁起が市民生活の歴史の中でいかなる関係物によつて支へられてゐるにしろ、前もつて能の江口といふものがあたへられてゐなかつたとすれば、すなはち江口に於て作品化された通俗西行噺が先行してゐなかつたとすれば、江戸の佐久間某の下女が大日如来に化けるといふ趣向は発明されなかつたらう。江口の君が白象に乗つて普賢菩薩と現じたといふ伝承は前代から見のこされて来た夢のやうなものだが、江戸人はその夢を解いて、生活上の現実をもつてこれに対応させつつ、そこにまたあらたなる夢を見直すことを知つてゐた。そして、かういふ操作がきはめてすらすらとおこなはれてしまふので、それがかれらの生得の智慧のはたらきであること、同時に生活の秘術であることを、江戸人みづから知らなかつた。後世が作為の跡しか受け取らなかつたとすれば、当の江戸人はそのとほり駄洒落さと答へてけろりとしてゐるであらうが、じつは後世がむざむざとかれらの智慧にだまされてゐるやうなものである。             (江戸人の発想法について) 

  にひたやま ねにはつかなな わによそり はしなるこらし あやにかなしも 万葉集上野国歌
 崇神天皇の御宇、つとに四道将軍発向の事あり、東山西海あまねく王化に浴するの盛時にあたつて、主上御子のおん夢を相させたまひ、豊城命をして東園を治めしめたまふた。これ上毛野君下毛野君の始祖である。爾来坂東の鎮めは両野州の地に礎を深くしてゐる。豊城命より後、二代八綱田は、垂仁天皇の御字勅を奉じて乱賊を平らげ、三代彦狭島王は景行天皇の御宇東山道十五国の都督に拝せられ、その中道にて薨ずるや、四代御諸別王はおなじく詔を承け任を継いで蝦夷のさやぐものを討ち、五代荒田別、鹿我別は神功皇后摂政のおんとき命に依つて軍に将として遠く新羅を伐つた。後の新田足利の呼称はあるひはこの両公の名に由来するか。およそ代代の諸公の征旗をすすめるところ、つねに従つて死を争つたものは両野州の逞兵である。この地、王事につとめ義戦にならふこと、これを上古よりする。
 近衛天皇の久安六年、源義家の第三子義国といふもの、京にあつて事にふれ縉紳家とあらそひ、ために勅勘を蒙り、退いて下野足利の別業にこもつた。足利式部大夫と号するものこれである。すでに足利の別業といひ、また苗字の地に足利をいふ。その当地に荘園を有することの旧きにあるべきかをおもはせる。      (新田武臣伝 序説)

 どこに行ってもお米がないというときに、ごはんのものを、よしんばできたにしましても、気がとがめてさし上げられないじゃございませんか。そりや向う側のお店はシナさんですから平気なんでしょう。どんぶりでもなんでも白いごはんが出るようですが、てまえどもの店でできますものはまあこんなものでと、そういって出してくれるまっしろなパンにしろ、砂糖ミルク入りのコーヒーにしろ、ハム入りのかすてらにしろ、たしかにたまごがはいっているドーナッツにしろ、やはり米のめし同様今日どこに行ってもざらにあるような品物ではない。初穂を神に供え来たったところの日本の米は神がかりがたたき出されたあとでもなお陰然として生活心理上の禁忌なのか、米でさえなければなにをあつかっても品物のよいのが大いばりだという女商人の良心の論理にちがいない。この横浜の一ところ、年のくれに迫って、焼跡に建てた小さいバラック店の中では、どの客もみな洞窟の壁にうつる影法師のようにふらふらとはいって来て、平べったくかたまりながら、顔かたちも見分けられず、音も立てず、めいめい手を口をうごかしている。わたしもまたその影法師のひとつで、たばこに火をつけながら片隅のあやしげな腰掛けの上に休んだ。   (黄金伝説) 

 月の無い夜道の、星は出てゐてもたよりにならず、片側は小さい牧場、片側は田圃、もとより当節は街灯の設備などあるはずもないくらやみの中を、ついさつき夕方までふつてゐた雨のあとで、あちこち道のくぼみにできた水たまりに、ともすればぼちやんと足をさらはれながら、それでもふだん通りつけてゐるだけの心あたりで、靴のさきで探るやうにして、しぜんうつむきがちの姿勢であるいて行くうちに、いきなりうしろからぱつと光がさした。それが懐中電燈の光だとはすぐ知れたが、あからさまに照らし出されたこちらの姿とは逆に、先方は闇にかくれてなにものとも判らず、ただ「ごめんなさい。」と女の声で、ふたりと見えたのが、かすかに脂粉のにほひをのこして、さきに通り越しながら、もう二三間むかうを照らしてゐる電燈の光の中に、わかわかしい、はしやいだ調子で、
「あ、そこ水がたまつてるわよ。染香さん。」
「わかつてるわよ。」
「あら、せつかくをしへてやるのに。」
「よしてよ、押さないでよ。」
 チチチチチと、田圃の中で、虫の音がしきりであつた。          (かよひ小町) 

 炎天の下、むせかえる土ほこりの中に、雑草のはびこるように一かたまり、葭簀がこいをひしとならべた店の、地べたになにやら雑貨をあきなうのもあり、衣料などひろげたのもあるが、おおむね食いものを売る屋台店で、これも主食をおおっぴらにもち出して、売手は照りつける日ざしで顔をまっかに、あぶら汗をたぎらせながら、「さあ、きょうっきりだよ。きょう一日だよ。あしたからはだめだよ。」と、おんなの金切声もまじって、やけにわめきたてているのは、殺気立つほどすさまじいけしきであった。きょう昭和二十一年七月の晦日、つい明くる八月一日からは市場閉鎖という官のふれが出ている瀬戸ぎわで、そうでなくとも鼻息の荒い上野のガード下、さきごろも捕吏を相手に血まぶれさわぎがあったという土地柄だけに、ここの焼跡からしぜんに湧いて出たような執念の生きものの、みなはだか同然のうすいシャツ一枚、刺青の透いているのが男、胸のところのふくらんでいるのが女と、わずかに見わけのつく風態なのが、葭簀のかげに毒気をふくんで、往来の有象無象に噛みつく姿勢で、がちゃんと皿の音をさせると、それが店のまえに立ったやつのすきっ腹の底にひびいて、とたんにくたびれたポケットからやすっぽい札が飛び出すという仕掛けだが、買手のほうもいずれ似たもの、血まなこでかけこむよりもはやく、わっと食らいつく不潔な皿の上で一口に勝負のきまるケダモノ取引、ただしいくら食っても食わせても、双方がもうこれでいいと、背をのばして空を見上げるまでに、涼しい風はどこからも吹いて来そうにもなかった。   (焼跡のイエス) 

 草むらに蛇の走るやうに、横からつと伸びた女の手の、堅ぶとりにみづみづしいのが、いきなり男の胸もとにすべり入つたとひとしく、開襟シャツのはだかつた素肌の胸に肩からななめに掛かつてゐるほそい絹の紐が、しなやかな指さきにからまれて、ぐいと引き出された。
「なにをする、ちどり。」
「見せてよ。」
 掛守か財布か、おさへるひまもなく飛び出たその紐のさきに、きらりと光つて、あ、十字架、銀の小さい十字架が宙にをどつたと見るまに、どこをどうひねつたのか、それはもう紐からはなれて、女のてのひらの中に吸ひこまれてゐた。
「おい、仲間のふところをねらつてどうするんだ。」
「泥棒に十字架は似合はないよ。」
「大きな声を……」
「いいぢやないか。ここには、あんたと次郎さんとあたししかゐないんだからね。自分が泥棒だってえことを、自分に遠慮してみせるにもおよばないよ。」          (最後の晩餐) 

 
 ここに切りひらかれたゆたかな水のながれは、これは運河と呼ぶべきだろう。きたない小家のたてこんだ市街のほうから来て、鉄橋をわたると、たちまちひろびろとコンクリートの道が伸びて、両側にはまったく人家らしいものは見えず、ほとんど無限に灰色の倉庫がつづいている。その倉庫のどれかの角をまがって行くと……さあ、みな一様に灰色の壁をつらねているので、どこの角かということは、勘でまがるよりほかない。すると、運河のほうもまたそこにまがって来ていて、水ぎわに迫った空地に、ぽつんと一軒その家が立っていた。遠くから見ると、それは枯れた灌木のようであった。ただその枝にあたる部分に、たしかに新聞紙にちがいないものがちらちらしているので、いくらか人間に縁のあるところと知れた。近づくと、それは木造平屋建ての、ともかく人間の住む家のようであり、新聞紙はその窓に貼られたもので、そうでない窓は板が打ちつけてあるか、あるいは単に風が吹き抜けていた。つまり、硝子という材料は全然使っていない建築であった。さらに近づくと、それはどうやら平屋ではなくて二階建てのようであったが、建物のどこにも入口というものは見つからなかった。かりに運河に面したほうを表側とすれば、その裏側のほうの角に、わずかに受附のような小窓、いや、むしろ四角の穴がくり抜いてあって、そこに取りつけた台の上に大きいハトロンの紙袋が二つ置いてあった。   (鷹)

 厚い樫の大扉の、鉄の鋲をうつたくわんぬきがしなふまでに、外側から押す力と、内側で支へる力とがそこに烈しくせめぎあつた。ぶつかつて来る力を邪慳に刎ねかへす扉の音に、殺気がこもつた。
「あけろ、あけろ。」
 外のさけびは次第につよく大きく迫つた。ここにいかめしく閉ざした門の、この扉のまへに、ぞくぞくと打ち寄せて来るひとびとのむれは波に似た。いや、怒濤であつた。老いたるも若きも女こどももまじつて、渦巻くむれのうしろから、黒けむりが追つて来た。けむりの中に炎の舌が光つた。かなたに、夜天にあかあかと家を巷を焼きはらふ火が燃えあがつてゐた。
「入れるな。悪党どもをひとりも門内に入れるな。」
 門内には、その場を守る一隊が備へてゐた。兵士ともつかず邏卒ともつかぬ風体のものどもが羽虫のやうに扉にたかつた。号令をかけてゐるのは隊長なのだらう。「悪党ども」とはたれのことか。さうわめいた当人、どうやら絵にかいた小悪党の片割とも見えるつらがまへであつた。
「あけろ。ぶちこはせ。」
 かたくなに屈しない扉も今はやうやく押されぎみとなつた。  (珊瑚) 

 みがきのかかつた大きい窓硝子の内側に、うすいカーテンの合せ目がひらいた瞬間から、そいつのすがたが見えた。そこにはすでに灯がともつて、着かざつた男女の客のあたまかずを照らし出した。そいつはひとり窓ぎはのテイブルについてゐた。白服のボーイがちらちらして、そいつのところに皿をはこんだり、酒をついだりしてゐる。このレストランはただちに街路に面してゐて、ひややかに透きとほつた硝子の板が内と外とに気象を仕切つた。内は星月夜に似たけしきと見えたが、外はまだ正午すぎたばかりといふのに、小雨のはらつく空くらく、風さへさそつて、並木の葉の三つ五つ、目だたぬほどに散つた。その並木のかげにとめた車の、運転台に、柿夫はそいつの出て来るまでしばらく待つてゐなくてはならなかつた。といふのは、そいつを乗せてはしる役目の運転手はすなはち自分であつたからである。ただし、車は柿夫の所属するギャレーヂのものであつて、そいつのものではない。そいつは毎日のやうにギャレーヂに電話をかけて来て車をまはしてよこせといふ。そして、その車の番にあたるのは、どういふわけか、いつも運命的に柿夫であつた。そいつはときには半日ときには一日ぢゆう乗りまはして、勘定はきちんとはらひ、チップもけちけちしない。わるくない客のはずではあつたが、しかし柿夫はそいつが気に入らなかつた。電話がかかつて来ると、いや、かかつて来さうな予感がしただけでも、胸がむかついた。おめえの専属ぢやねえんだぞ。    (鳴神) 

 
 小助がはじめて久太を見たとき、その場所にはコスモスがいちめんに茂つて、うすい花が海の泡のやうにふはふはと夕日に浮いてゐた。そこは久太の父の家の庭であつた。当時まだ生きてゐた久太の父、すなはち小助にとつては弓の師匠にあたるその老人が、庭さきに十七歳の弟子をむかへて、茂みのかなたを指さしながら、「あれがわが家の混世魔王だよ。」老人はそのしぐさをもつて晩年にまうけた初の幼児を紹介した。矢をあつかふに慣れた指が愛情にふるへた。そこに、茂みの中に、五歳ぐらゐの男の子が這ふやうな姿勢で、背を丸くして、おもちやのシャベルで土を掘つてゐた。まつしろなシャツを着たその小さい背に、コスモスの茎が青い縞を染めつけた。混世魔王とは単にやんちや坊主といふほどの意とはきこえたが、その魔王といふことばは奇妙につよく小助の耳にしみた。このいたいけな幼児が何の魔なのか。こどもは一心不乱に土を掘りつづけて、コスモスの根元の一ところにいつか穴がゑぐられた。穴は狭く、しかしかなり深く、やがては地の底にかよふ管のやうであつた。その口にのぞきこんだ幼児のからだはしなやかに穴の中に吸ひこまれて行きさうでもあり、また穴から地の底のいぶきを吸ひあげてゐるといふ気味でもあつた。花がゆれて、ばさりと茎がたふれた。「久太。」老人の呼ぶ声に、こどもは顔をあげてふりむいた。まともに日ざしをあびて、泥まみれの額に、むつくりとがつて、大きいコブが光つた。   (虹)

 鳥は池のおもに浮きながら、水に散るさくらの花びらをねらつて、くちばしで突いてゐた。くちばしはあかく大きく、花びらはうすく小さい。これを食つてみても、何のたしにもなるまい。鳥は退屈まぎれにいたづらをしてゐるやうであつた。しかし、のみこんだ花びらを吐き出さうとはしない。鳥は全身まつくろな羽根にゆたかにつつまれてゐたが、あたかも黒のスカートの裾からちらりとスリップのはしをのぞかせたといふふうに、ただ風切羽がわづかに白い。ブラック・スワンであつた。黒いスワン。あはれな、そして笑止な名である。スワンといへば白いものときまつてゐるやうだから、もともと白いやつにはとくにホワイトと符牒をつけるにもおよばないのだらう。さういつても、白いやつのはうをホワイト・スワン、黒いやつのはうを単にスワンと呼んでもよささうなものであつた。なぜスワンは白いやつが誇らしげにひとりじめにして、黒いやつは露骨にブラックと名儀上のケジメをくはされなくてはならなかつたのか。黒白いづれがスワンの正系を名のつて出てもかまはぬはずではないか。いや、やつぱりいけない。これはどうも黒いやつのはうに分が無いらしい。白いやつの羽根は完全に白く、一点の黒もとどめてゐないのに、黒いやつはむざんにも風切羽だけを染めのこして、そこに一つまみの白い尻尾を出してゐる。それは致命的な手ぬかりと見えた。   (落花) 

 国の守は狩を好んだ。小鷹狩、大鷹狩、鹿狩、猪狩、日の吉凶をえらばず、ひたすら鳥けものの影に憑かれて、あまねく山野を駆けめぐり、生きものと見ればこれをあさりつくしたが、しかし小鳩にも小兎にも、この守の手づからはなつた矢さきにかかるやうな獲物はついぞ一度も無かつた。さういつても、弓は衆にすぐれてつよきをひき、つねの的ならば百発あやまたず真中を射ぬく。しかるに、これが狩場となると、その百中の矢はどうしたことか、まさに獲物を射とほしたと見えながら、いつもいたづらに空を切つた。ただ不思議なことに、あやふく矢をまぬがれたはずの鳥けものは、とたんにふつとかたちを消して、どこに翔りどこに走つたか、たれの目にもとまらない。いや、その矢までがどこの谷の底、どこの野のはてに落ちたのやら、かつて見つけ出されたためしは無い。ひとびとの耳にしるくのこるのは、はげしい矢音だけであつた。
「あつぱれの弓勢かな。」
「われらの矢はときにまぐれて鳥けものにあたるだけだが、守の矢は一うちで生きもののたましひをつらぬくと見えた。」
「かたちあるものをあとにのこさないのは、神箭といはうか。」    (紫苑物語) 

 河原にはまだらに雪が消えのこって、水のながれは目に痛いほどひややかに冴えかえった。夕ぐれの空からもれる薄日のかげに、雪は剛情に硬く張りつめて、冬と春との堺目にまだ溶けようとしない氷のくさびせしっかり打ちこんでいた。そのまだらな雪にまぶされ凍てついて、地に散らばっている物があった。泥と黒血とにこわばった死骸いくつか。そういっても、それはすでに人間と縁の切れた異様な物でしかなかった。ただ、その風態つらつきを見るに、これらの物がついさきごろまで人間の世の中にあったときいかなる身分に割りつけられていたか一目で知れた。足軽どもであった。ときあたかも、足軽というかすみがちの身分が手ごたえ荒い正体をむき出して来て、どこのたれと名も顔も判らぬまっくろな渦を巻いて、世の中の仕掛けの底から力押しにのしあがりかけた時節のはじめにあたっていた。おのれの血、他人の血、そこに必至にながさなくてはならぬ仕儀となって、ない袖を振ったもとではいのち一つ、すすんでもしりぞいても、生きるところは修羅場ときまれば、こいつらの百箇千箇、日ごとにくたばったにもせよ、それがなにか。すでに土を染めた血の色にそそのかされて、土の下から湧き出る虫のように、なおさらぞくぞく、頼みは数の、わっと駆けつづくひとだねの尽きる日あろうとも見えなかった。   (修羅) 

 蕗といふも草の名、茗荷といふも草の名、富貴自在徳ありて、冥加あらせたまへや。
 琴曲組歌の中でも、初組越天楽(ゑてんらく)と呼ばれて、そのはじめに歌ひ出されるこの一ふしは、古雅もつとも掬すべきものとして、つとに世に知れてゐる。これは筑紫筝の歌ださうである。筝の曲はほろびても、歌のことばは今に……しかし、それがわづかに文字にとどめられたといふだけでは、今に残つたことになるかどうか。うたへばこそ歌ではないか。すでにして、これは聴くにたよりなき歌の文句である。ところで、この消えうせたも同然の歌の文句を、歌舞音曲とは何のゆかりもなささうな僻地の一老女の口から、わたしはかつて偶然のをりに聞かされたことがあつた。
 先年、わたしは無用の旧事をたづねるために豊後国高田におもむいたとき、そこからほど遠くないところに藤原の榧のほとけだちありと聞いて、事のついでに、すなはちその地をおとづれた。富貴寺と真木大堂とである。まづ富貴寺に至る道は、たしか北の方三里であつたか、道幅ひろからず、案内のひとといつしょにジープに乗つてここを行くに、たちまち町筋をはなれて、水のほとりを過ぎ、山の上を……いや、上は越えない。峠の下にトンネルがうがたれてゐて、そのトンネルをくぐり抜けたところで、ジープがしばらくとまつた。(越天楽) 

とき 慾せられた時代 おそらく今日
ところ あなたがそこに招待されるであらうところ

人物
 渡太平 元村一郎 佐原五助 元村2  佐原2  
 梶原梶太郎 梶原梶子 井戸勘蔵
 支配人 ボーイ 老人 少女A 少女B 歌ふ女
 
○人物はみな日本人のつもりだが、作者の好みはこれに日本のキモノをきせることをよろこばない。ただし、キモノがよく似合ふ女優さんはこのかぎりにあらず。
○台本は「間」について指定してゐない。「間」は演出の仕方に応じておのづからきまるだらう。
〇装置は小道具をもふくめてなるべく簡単にして、見物の想像力にかくあるべきヒントをあたへるだけでよい。たとへば、ト書にソファとしてあつても、それはソファのすべての様式から自由である。

波の音がする。日没。うすあかりにけしきは茫としてゐるが、海岸にちがひない。次第に暗くなるにつれて、波の音は大きくぶきみにきこえる。突然人間の笑ふ声がひびく。ただし、波の泡にまぎれるやうなうつろの声。つづいてまた一つ、他の笑ひ声がおこる。漠然たる笑。そこに灯がつく。
灯のついたところはバーである。バーにつながつて上手にロビイが見えるので、このところは海にのぞんだホテルの部分と知れる。ロビイにはひとがちらほらしてもよし、たれもゐなくてもよし、ただ雰囲気に於てそれはバーから分離されている。季節は冬のはじめ。すなはち、海岸がもつともさびれて、ホテルがもつともひまな時期である。
バーには客が三人。渡太平は下手のスタンドにとまつてゐる。三十歳ぐらゐに見えるが、じつはもつと若い。無意識のうちに年よりもふけて見せようとするけはひがある。元村一郎と佐原五助とは小さいテイブルにかけてゐる。ともに渡よりはいくらか年上。しかし、まだ四十には近づいてゐない。これらの人物がなにものであるかはおひおひ判るだらう。    (おまへの敵はおまへだ) 

 佐太がうまれたときはすなはち殺されたときであつた。そして、これに非情の手を下したものは父親であつた。ただし、このおやぢ、もともと気のちいさいやつで、コロシなんぞといふすさまじい気合はみぢんも見られず、またそれがとくに人情に反する行為のやうにおもふわけもなかつた。山国の村は風あらく、家の中は吹きさらし同然、さうでなくても、やぶれ畳の上に余計なガキがすでに五箇もころがつてゐるところに、また一箇ふえたとすれば、いや、どこの家でも毎年一箇はふえることになつてゐたものとすれば、風俗はどういふことになるか。おやぢは村のしきたり、すなはちおひとよしの秩序にしたがつて、畳からはみだした六番目の余計者を、裏の畑の林檎の木の下に、穴を掘つてうづめることにした。人間の子といつても、肉は畑の泥そつくり、一にぎりのふにやふにやしたやつに、イモの子ほどの生命力があるかどうか。ときに、林檎の実は大きくあかあかと照つて、決してこの土地にはとまつたことのない汽車が遠くにがーつとはしり過ぎて、村は晴天であつた。
 しかるに、その夜、裏の畑の闇にあたつて、嬰児のはげしく泣く声が夜どほしやまなかつた。おやぢは自分のいびきの音の中に割りこんで来るその泣声をかすかに聞いて、いくぶんは耳ざはりにおもつたが、なに、ぐつすり眠つた。あくる朝、畑に出たとき、それでも念のために、おやぢは林檎の木の下を掘りかへしてみょうといふまちがつた料簡を起した。   (荒魂) 

 まづ水。その性のよしあしはてきめんに仕事にひびく。江戸府内のことにして、谷中三崎か浅草堀田原あたりの水ならば京の水にもめつたにおとらない。この浅草堀田原といふところは蔵前八幡の裏手にあたつて、北よりに馬場、南よりに御蔵小揚組屋敷を控へた一筋道、道のほとりに町家があり、中に一軒、しもたやのやうに見える椅子の戸ぐちに木彫の面を掲げたのが目じるしになつた。面はどんぐりまなこの、鷲鼻たかく、あごを四角に張つて、髪の毛の渦を巻いたのはどうやら南蛮くさいつらがまへとおもはれたが、ひとは外道の面と呼んだ。ここが東井源左の住居でもあり仕事場でもある。なに、号なんぞはいはなくても、ただ更源で通る。仕事はすなはち更紗をゑがくことであつた。
 更紗をゑがくにはとくに師伝の拠るべきものがなく、めいめいの工夫に俟つところが多い。意匠はこころまかせである。さういつても、技の精妙に至らうとすれば、金巾下地の仕様からはじめて、真の生渋の取り方、藍蝋、雌黄、生臙脂の解き方、草色、茶色、紺、紫の使ひ方、絵具留の仕方、仕上の洗ひ方、黒地のあつかひ、白の染抜、吹絵、金更紗、銀更紗と、おのづから法がさだまつて、帥は古きにあり、これを破らうとしても規矩は越えがたい。         (至福千年) 

 夜ふけの町角にひとの影がもつれた。商売はこれからといふシナ料理屋の窓に燈の色がながれて、そこだけうすあかるい道ばたに、巡査がふたり、それをとりかこんで、女まじりに七人ほどの若いやつらが立つてゐた。年ごろはみなはたちまへか、しまりのない服装も似たり寄つたり、なんとか族と呼ばれるものが深夜から明方までさわぐといふ評判の土地がらである。こいつらはなにかつまらぬことで説教をくつてゐるらしい。さういつても、殺気だつたけはひはなく、あらそふ声もきこえない。職権のおせつかいと無言の反抗とがただすれちがつたやうであつた。事ありげに見えたが、事はなにもおこらずに、やがて若いやつらはしぼんだ風船のやうにどこかに消えてゆき、巡査はそばにとめてあつたパトカーにもどつて、その車がはしり去つたあとはしばらくひつそりした。
 すると、そこにネオンの看板をかけたシナ料理屋から、ひよつくり出て来たふたりづれの男の、これも成年すれすれと見える学生らしいのが、うすいセーターを肩に、シャツの色しろじろと、姿勢のくづれてゐないところはいましがた消えて行つた一むれの同類のやうでもなく、足はやく町角をまがつて、暗い横道のはうにすべりこんだ。
 さきに立つてゆくのに、「おい、オギ、もうぢきか。」           (天馬賦) 

 なんといふ木か、途方もなく大きい木が一本、もろに横だふしに、地ひびき打つて……その木はだいぶまへから日でりにも風雨にもそこに野ざらしになつてゐるやうだから、たつたいま落ちかかつたわけではないが、それでもくろぐろとした幹はうなりを発するまでにすさまじく、あふむけにのけぞつて、大枝も小枝もなく、葉の一つすらなく、手足をぶつたぎられた巨人の胴体が泥まみれに、ほとんど血まみれに、投げ出されたといふけはひであつた。胴体のなかばは腐蝕した物質の中にうづもれてゐる。根はまだ残つてゐるのか、すでに伐りとられたのか、かくれてゐて見えない。といふのは、ここは平地ではないからである。下からは見あげるほど、いちめんにがらくたの堆積。紙屑、野菜屑、あきびん、あきかん、つぶれたダンボール、さびついた自転車、ぶつこはれの冷蔵庫、ぽんこつのカー、狐の死骸、犬の死骸、もしかすると行きだふれの人間の死骸まで下積になつてゐても不思議でなく、その他ごたごた、やけにぶちまけたのが高く盛りあがつて、それは廃品の山であつた。そのでこぼこの山なみの、うつちやつておけば、ぷつぷつ煙を吐き、やがて火も吹き出しさうなてつぺんに、ずつしりわだかまつた大木のすがたは、おのづとにらみがきいて、この山の主といふいきほひの、殺されてもくたばらぬ貫禄に見えた。     (狂風記) 

 あるきながら枇杷を一つ食つて吐き出すと、たねは道の泥の中に消えた。雨あがりの道にところどころぬかるみがある。東吉はゴム靴をはいた小さい足でそこをぴちやぴちや踏みわたつた。また枇杷を食ふ。またたねを吐く。たねは三つ四つ五つと地にふつ飛んで、つよい日光の下に、見るそばから芽が出て、花が咲き、実がなつて、たちまち果樹園がひらけたやうであつた。くだもの屋の店で買つて来た枇杷は紙袋の底にまだすこし残つてゐる。こどもはひとりで機嫌がよかつた。さう。東吉はこれを五歳のときとおぼえてゐる。道は崖の上にながながとつづく。途中に、おひ茂つた雑草にかくれて、崖をおりるほそい道がついてゐて、おりたところに家があつた。家には祖母しかゐない。入口から声をかけても返事がなかつた。つい奥にはひつてゆくと、仏壇のある部屋に、祖母は……天井からつるした紐に祖母はぶらさがつてゐた。こどもごころにも異常なことと知れた。東吉はわけのわからぬさけびをあげて、祖母の垂れた足に抱きついた。それは紐を引つぱつたことにひとしかつた。あとはごたごた入りみだれておぼえがない。こどもはこどもなりに逆上してゐた。ただならぬけはひに、垣根ごしの隣家のひとが駆けつけてくれた。やがて、いくたりもあつまつて来て、こどもはとりこみの外側に置かれた。すでに、祖母は畳の上に寝かされた。息は絶えてゐた。     (天門開闔 能為雌乎   老子第十章)

 漢の張良は晩年つとめて仙人になる工夫をしてゐる。史記留侯世家に「留侯(張良)性多病。すなはち道引して穀を食はず。門を杜ぢて出でざること歳余。」とある。また「留侯すなはち称して曰く。『家世々韓に相たり。韓の滅ぶに及び、万金の資を愛まず、韓のために讎を彊秦に報いんとし、天下振動せり。今三寸の舌を以て帝者の師となり、万戸に封ぜられ、列侯に位す。これ布衣の極、良に於て足れり。願はくは人間(じんかん)の事を棄て、赤松子に従ひて游ばんと欲するのみ』と。すなはち穀を辟け、道引して身を軽くすることを学ぶ。」と見える。
 赤松子はいにしへの仙人の名。辟穀とは穀物を避けて食はないことをいふ。さて道引とはなにか。
 荘子刻意篇につぎの条がある。「吹句呼吸。吐故納新。熊経鳥申。寿をなすのみ。これ道引の土、形を養ふの人、彰祖寿考の者の好むところなり。」
 呼吸をととのへ、古い息を吐き、あたらしい息を入れ、熊のごとくに立ち、鳥のごとくに頸を伸ばす。これが道引の術である。神仙をこころざすものがこの術をおこなへば不老長生をうる。彭祖は長寿をもつてきこえた仙人である。仙人になるためにはかならずしも山中にかくれなくてもよい。         (続夷斎風雅   神仙)

 小包がとどいた。差出人はどこのたれと記してない。消印をしらべたが、うすれてゐて、はつきりしない。しかし、宛名はまちがひなく当方である。その筆蹟には見おぼえがない。包は片手に乗るほど軽い。なんだらう。小次郎は不審におもひながらともかく封を切つた。ほそ長い木の箱が出た。ふたを取ると、箱の中に草が敷いてあつて、そこにまつしろな蛇のぬけがらが一つ、生きもののやうにうづくまつてゐた。ほかになにもない。これはいったいなんのまじなひか。いたづらにしても腑に落ちない。こちらの住所と名まへを知つてゐるのだから、先方ではさだめてなにかコンタンがあるのだらうが、その見当がつけかねる。それがなにもののしわざであらうと、手がかり、こころあたりもないのに、首をひねつて考へるだけむだである。謎は謎のままにして、小次郎はこのあやしい到来物を一まづ棚の上に置いた。
 ときに、むかしの歴史の本に呉の刺客のはなしが出てゐた。呉王の宴席に、酒たけなはのころ、刺客は大きい焼魚の皿をささげて、王の面前にすすむ。魚の腹を裂くと、匕首があらはれる。刺客はその匕首を取つて王を刺す。今、小包は羊羹か佃煮かと見せかけて、なかみは蛇のぬけがらとは、匕首を仕込んだやうであつた。見えない黒い手がうごく。さういつても、呉王でもない身がねらはれるわけがない。もしや、知らないうちに、他人のうらみを買ふやうな筋でもあるのだらうか。     (蛇の歌) 

☆☆☆ 石川淳 作品 ☆☆☆

佳人(作品)昭和10・5
普賢(作品)昭和11・6~9
マルスの歌(文学界)昭和13・1
白描(長篇文庫)昭和14・3~9
「森鴎外」昭和16・11
「文学大概」昭和17・8
江戸人の発想法について(思想)昭和18・3
「義貞記」昭和19・2
黄金伝説(中央公論)昭和21・3
焼跡のイエス(新潮)昭和21・10
かよひ小町(中央公論)昭和22・1
処女懐胎(人間)昭和22・9~12
最後の晩餐(文芸春秋)昭和23・9
夷斎筆談(新潮)昭和25・10~26・6
夷斎俚言(文学界)昭和26・4~27・8
ニヒルと政治(文学界)昭和27・7
夷斎清言(文学界)昭和27・9~28・2

鷹(群像)昭和28・3
珊瑚(群像)昭和28・11
鳴神(新潮)昭和29・3
虹(文学界)昭和29・5~12
落花(新潮)昭和30・9
紫苑物語(中央公論)昭和31・7
白頭吟(中央公論)昭和32・4~10
修羅(中央公論)昭和33・7
越天楽(小説中央公論)昭和36・4
おまへの敵はおまへだ(群像)昭和36・9
荒魂(新潮)昭和38・1~39・5

至福千年(世界)昭和40・1~41・10
一目見て憎め(中央公論)昭和42・4
天馬賦(海)昭和44・7~9

狂風記(すばる)昭和46・2~55・4
北京独吟(世界)昭和50・6~8
対談 江戸と西洋(石川淳、中村真一郎・海)昭和51・1
六道遊行(すばる)昭和56・6~57・12
天門(すばる)昭和59・1~60・10
続夷斎風雅(新潮)昭和61・1~12
蛇の歌(すばる)昭和62・1~63・3
http://uraaozora.jpn.org/sakuin^a.html#ishikawajyun

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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22カードの意味

  • _0 愚者
    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

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ペンギンタロットの原画

  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。