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2007年6月14日 (木)

『物質的恍惚』 ル・クレジオ、豊崎光一訳 (新潮社1971)

精神の崇高な表現の数々、主導的と称される概念や観念の数々、そんなものより千倍も重要な理解や表現があるのだ。例えば人という種族が始まって以来、十万年間に為したことだ。彼の精神を一体に保っている理由の数々、本質的で深く、腺の分泌物にも似ているに違いない。
われわれの危うさは抽象的なものだ。だがわれわれの台座ときたら、なんと見事な巌(いわお)だろう!
われわれの精神のはじめての身震いのうちにはなんという不透明な厚み、なんという力強さ、なんという秩序があることか、そこでは思考はいまだ器官に混じり合っている。なるで遠くから読みとられることになるしるし、手で触られるしるしのように。

◆分かちがたく結ばれた二羽の鳥が、同じ木に住まっている。一羽は甘い木の実を食べ、もう一羽は友を眺めつつ食べようとしない。
だが、この世界は過去のものではない。この現実は、ぼくが生まれていなかったとき通用していた現実なのだ。この沈黙は遠いものではない。この空虚は無縁のものではない。ぼくがそこでは不可能だった大地は、なおも続いている。それこそは、ぼくが手で触れているものであり、そして突如としてゼロから現出したこの物質(マチエール)はぼくの躰とぼくの精神とを形作っている材質(マチエール)なのだ。
◆ぼくが生まれていなかったとき、まだ生命の円環を閉じ終えていず、やがて消しえなくなるものがまだ刻印されはじめていなかったとき。存在するいかなるもにも属していなかったとき、孕まれてさえいず、考えうるものでもなかったとき。過去のものでもなく、現在のものでもなく、とりわけ未来のものではなかったとき。ぼくが存在することができなかったとき。眼にもとまらぬ細部、種子の中に混じり合った種子、ほんの些細なことで道から逸らされてしまうに足りる単なる可能性だったとき。ぼくか、それとも他者たち。男か、女か、それとも馬、それとも樅の木、それとも金色の葡萄状球菌。ぼくが無でさえなかった――なぜならぼくは何ものかの否定形ではなかったのだから――とき、一つの不在でもなく、一つの想像でもなかったとき。
◆ゆっくりと、伸び伸びと、力強く、無縁の生命はその凸部を膨らませて、空間を満たしていた。まるで烈火の先端で燃える焔のように、だがそれはけっして同じ焔であることがなく、在るべき所のものは即座に、かつ完全無欠に在るのだった。存在の数々は生まれ、そして消えていった。絶えず分割され、空虚を満たし、時を満たし、味わい、そして味わわれていた。何百万もの眼、何百万もの口、何百万もの神経、触覚、大顎、触手、偽足、眉毛、吸盤、触知管が世界中にひらかれて、物質の甘美な発散物の入ってくるにまかせていた。いたるところにあるのはただ、戦慄、波動、振動の数々だけ。だかそれでも、ぼくにとっては、それは沈黙であり、不動であり、夜だった。麻酔だった。なぜならぼくの真実が住まっていたのは、このはかない伝達の中にではなかったからだ。この光の中、この夜の中にではなく、生命に向かって顕現されていた何ものでもなかったからだ、他者たちの生命は、ぼくの生命と同様、瞬間の数々に過ぎなかった。世界をそれに返す力のない、束の間の瞬間の数々に過ぎなかった。世界はその手前にあり、包みこむもの、現実のものだし、些細なものにあたって溶け去るとらえがたい堅固さ、感覚することの不可能な、愛したり理解することの不可能な物質、充溢した永い物質であって、その正当性は外的なものではなく、内的なものでもなくて、それ自身なのだった。
◆外側にある世界、覆すことはけっしてできまい世界、まるで巨大な縁日さながらに。夜、コンクリートでできた宮殿の穹隆の下で、ネオンの冷たい光りの数々は独立しているひらいいた口が隠れている土地の一片一片から混沌としたわめき声が立ち昇ってきて、反響し合い、また撥ねかえり、また干渉しあう。・・・もうすでに、観客でいることはできなくなっている。この黒さの中、この白さの中、すべてが混じり合い、すべてが滑り込み、すべてが交叉するそこでは、もはや選択し区別することはできない。住処とする領域のほうへと流れてゆかねばならず、理屈をこねも話しもしない怪物にこうやって呑み込まれるがままにせねばならぬ。自分の皮膚、魂、国語を棄て、そしてまだ生まれていない者にふたたびならねばならぬ。
◆この呪いには打ち勝ちえない。それは生命よりも強いのだ。生きた細片の一つ一つの裏側には、じつに広大な砂漠と放棄とがあって、それらを忘れ去ることは不可能である。それはまるで夢の思い出のようなのだが、それを生み出した夜は終わってはいない。
◆ぼくが死んでしまうとき、知り合いだったあれら物体はぼくを憎むのをやめろだろう。命の火がぼくのうちで消えてしまうとき、与えられていたあの統一をぼくがついに四散させてしまうとき、渦動の中心はぼくとは別のものとなり、世界はみずからの存在の還るだう。・・・・もはや何ものも残らないことだろう。ぼくがあっただろうところのものの彼方に運ぶような傷跡一つ、思い出一つ残りはしないだろう。
そして・・・いつの日か(その日は必ず来るのだが)世界からは人間の姿が見えなくなるだろう。人間の文明や征服の数々は人間と共に滅びてしまっているだろう。人間の信仰、疑惑、発明などの数々は消え失せていて、もはや人間のものは何一つ残っていまい。他のたくさんの事物が生まれ、そして死んでゆくだろう。他の生命形体の数々が姿を現わし、他の考えの数々が流通することだろう。 そして、そのあと無定形の存在の共同体のうちにふたたび統合されてゆくのだ。それでも世界はつねに存在するだろう。それでもつねに何ものかがあることだろう。およそ考えうるかぎり遠い時間と空間との奥にも、なおも物質、消えることのない全的物質の現存があるだろう。

ル・クレジオ初期作品の研究ページ
http://koinu2005.seesaa.net/archives/200508.html

JMG.Le Clezio フランスのサイト
http://www.multi.fi/~fredw/

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