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2007年7月31日 (火)

もしもし

Giraud7

あのねー、アンタでか過ぎかもよーー

2007年7月30日 (月)

日本は駄目にした人は誰か、この中にいるいる

  歴代の内閣総理大臣   

伊藤博文 | 黑田清隆 | 山縣有朋 | 松方正義 | 大隈重信 | 桂太郎 | 西園寺公望 | 山本權兵衞 | 寺内正毅 | 原敬 | 高橋是清 | 加藤友三郎 | 清浦奎吾 | 加藤高明 | 若槻禮次郎 | 田中義一 | 濱口雄幸 | 犬養毅 | 齋藤實 | 岡田啓介 | 廣田弘毅 | 林銑十郎 | 近衞文麿 | 平沼騏一郎 | 阿部信行 | 米内光政 | 東條英機 | 小磯國昭 | 鈴木貫太郎 | 東久邇宮稔彦王 | 幣原喜重郎 | 吉田茂 | 片山哲 | 芦田均 | 鳩山一郎 | 石橋湛山 | 岸信介 | 池田勇人 | 佐藤榮作 | 田中角榮 | 三木武夫 | 福田赳夫 | 大平正芳 | 鈴木善幸 | 中曾根康弘 | 竹下登 | 宇野宗佑 | 海部俊樹 | 宮澤喜一 | 細川護熙 | 羽田孜 | 村山富市 | 橋本龍太郎 | 小渕恵三 | 森喜朗 | 小泉純一郎 | 安倍晋三

内閣書記官長

田中光顕 - 小牧昌業 - 周布公平 - 平山成信 - 伊東巳代治 - 高橋健三 - 平山成信 - 鮫島武之助 - 武富時敏 - 安廣伴一郎 - 鮫島武之助 - 柴田家門 - 石渡敏一 - 南弘 - 柴田家門 - 南弘 - 江木翼 - 山之内一 - 江木翼 - 兒玉秀雄 - 高橋光威 - 三土忠造 - 宮田光雄 - 樺山資英 - 小橋一太 - 江木翼 - 塚本清治 - 鳩山一郎 - 鈴木富士彌 - 川崎卓吉 - 森恪 - 柴田善三郎 - 堀切善次郎 - 河田烈 - 吉田茂 - 白根竹介 - 藤沼庄平 - 大橋八郎 - 風見章 - 田邊治通 - 太田耕造 - 遠藤柳作 - 石渡荘太郎 - 富田健治 - 星野直樹 - 三浦一雄 - 田中武雄 - 廣瀬忠久 - 石渡荘太郎 - 迫水久常 - 緒方竹虎 - 次田大三郎 - 楢橋渡 - 林譲治

内閣官房長官
林譲治 - 西尾末広 - 苫米地義三 - 佐藤栄作 - 増田甲子七 - 岡崎勝男 - 保利茂 - 緒方竹虎 - 福永健司 - 根本龍太郎 - 石田博英 - 愛知揆一 - 赤城宗徳 - 椎名悦三郎 - 大平正芳 - 黒金泰美 - 鈴木善幸 - 橋本登美三郎 - 愛知揆一 - 福永健司 - 木村俊夫 - 保利茂 - 竹下登 - 井出一太郎 - 二階堂進 - 園田直 - 安倍晋太郎 - 伊東正義 - 宮澤喜一 - 後藤田正晴 - 藤波孝生 - 後藤田正晴 - 小渕恵三 - 塩川正十郎 - 山下徳夫 - 森山眞弓 - 坂本三十次 - 加藤紘一 - 河野洋平 - 武村正義 - 熊谷弘 - 五十嵐広三 - 野坂浩賢 - 梶山静六 - 村岡兼造 - 野中広務 - 青木幹雄 - 中川秀直 - 福田康夫 - 細田博之 - 安倍晋三 - 塩崎恭久

歴自由民主党幹事長
岸信介 - 三木武夫 - 川島正次郎 - 福田赳夫 - 川島正次郎 - 益谷秀次 - 前尾繁三郎 - 三木武夫 - 田中角栄 - 福田赳夫 - 田中角栄 - 保利茂 - 橋本登美三郎 - 二階堂進 - 中曽根康弘 - 内田常雄 - 大平正芳 - 斎藤邦吉 - 桜内義雄 - 二階堂進 - 田中六助 - 金丸信 - 竹下登 - 安倍晋太郎 - 橋本龍太郎 - 小沢一郎 - 小渕恵三 - 綿貫民輔 - 梶山静六 - 森喜朗 - 三塚博 - 加藤紘一 - 森喜朗 - 野中広務 - 古賀誠 - 山崎拓 - 安倍晋三 - 武部勤 - 中川秀直

駄目にした妖怪の正体はここ↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%8B%E4%B8%89

The Seven Seals

物質には、分子・原子・素粒子・クオークといった段階があるように、クオークの延長線上にあると考えられている目には見えないエネルギーにも、同様の次元・構造があることが推定される。さらに、原子や素粒子が常に振動していること、光が粒子性と波動性を持つことから、エネルギーの代表的な性質の一つとして周波数性を持つことが挙げられる。Hidden_treasure

天上界と地上世界とは別々に存在しているのではなく、非常に深い関係にあり、地上世界はあたかも演劇場の舞台のようなものである。シナリオライター、演出家、照明係、様々な裏方、そして観客の見守る中で演劇が進行していく。もちろん劇場のオーナーもいることになる。この舞台が「水晶に似たガラスの海」のようなものであり、ある時は現実の地上世界を映し出し、ある時はフィルムやテープを巻き上げたり巻き戻したりするごとく、過去も未来も映し出すことができるのであろう。

2007年7月26日 (木)

Maximum Firepower 

Dt4800x600

この歌は靴磨き少年と借金している農民に捧ぐ
一本一本の弦が有刺鉄線だ ひとつひとつのコードが脅威だ
俺が出会ったこのブルースマンは、一曲もヒットがなかったけどこう言った
なぁ坊や、メチャクチャにヘビーにやるためにはデカイ音なんか鳴らす必要なんかないぜ
そうだよ俺は殺し屋だ、ベイビー今夜それを証明してやる
ここにあるマシーンはファシストだっても殺しちまうんだ
次回はここにある小さい喫茶店で教えてやるんから驚くなよ
だってここにいる連中が奴等に教えてやらなきゃならないんだ
まさか俺じやないと思うけれど、やる気はあるぜ
俺がボタンを押すとテープは転わり始めた
その歌は情熱にあふれているけど、それは魂がないのさ
夜警たちは与えて奪っていく
この次の歌詞についてはじっくり考えた
そいつは真実だとかなり確信している
もし君が自由に向かって一歩踏み出せば
そいつは君に向かって二歩踏み出してくる

・THE NIGHTWATCHMAN オフィシャルサイト http://www.nightwatchmanmusic.com/

2007年7月25日 (水)

ミロク神話

神話
1.太初
 太初においては、陰陽もなく、天地もなく、日月もなく、上下も東西南北もなく、春夏秋冬もなく、寒暑もなく、男女もなく、すべてが天真一つであった。円明覚の海が清澄になり、清濁が分かれたとき、天真から金色の光が現れた。金色の光は、一つのかたちをなし、さまざまな気を集めて、皇極天真弥勒古仏となった。
2.天地創造
 古仏弥勒は、宇宙を創造し、五行、すなわち、金、木、水、火、土をつくりだした。古仏弥勒は、その内に、八卦をつくって、九星宮を定め、天を開き、地を閉じた。古仏弥勒は、道*、すなわち、造化の力によって、陰陽を生み出し、万物を生み出した。古仏弥勒は、《聖玄中*》の内に三つの劫*をつくりだした後、三面一仏となって、各面を各劫の中に降ろして、宗教を監督した。九名の大師が、各仏のもとに下った。古仏弥勒は、時間を三つに分けて、過去、現在、未来の三際とした。この三つの時は、それぞれ三面一仏の各面に監督されている。
*道 〔中〕タオDao。造化の力、つまり、天地創造の作用のこと。ミトラ教では、聖なる言葉(聖七文字)で象徴する。*聖玄中 玄は中国語で神秘の意。《聖玄中》は、聖なる神秘の中の意。*劫(時) ごう。〔梵〕Kalpa。非常に長い期間(周期)をさす。ダフル(アイオーン)のこと。
3.古仏弥勒は太皇宮で教えを説く
 古仏弥勒の教えを聞くために、天上で大人数の集会が催されることになり、大勢の仏、祖師、三教の始祖、阿羅漢、菩薩、仙人が集まった。全員がかぐわしい香り、天上の音楽、降り注ぐ花の美しさにうっとりとしたとき、そこに古仏弥勒が現れた。全員が弥勒古仏に正しい儀式に則ってあいさつをすますと、古仏弥勒は教えを説きはじめた。 「始め、宇宙は空っぽで、人家の煙どころか、いかなる生き物もいなかった。そこで、わたし古仏弥勒は九億六千万の明性と、仏、祖師、菩薩たちをこの世に降ろし、そこに住まわせた。造化の力で陰陽を現し、それで男女を分け、ペアをつくらせ、結婚させた。しかし、彼らの欲は深まり、世俗に執着するようになってしまった。彼らは、真の故郷*に還ろうとは考えなくなり、紅塵*のなかに沈みこみ、意識がもうろうとして霧がかかったように混濁してしまった。青陽においては無極集会が、赤陽においては太極集会が催され、四万三千以上もの者が集まった。これらの集会において彼らの明性は目覚め、天上の碧玉都(西天浄土)に還り、教えを広める仕事についた。しかし、この世には、まだ九億二千万もの明性と、無数の仏、祖師、菩薩たちが残っていて、五濁の世に沈みこんで、真の故郷を忘れている」
 このとき、無極聖母(無生老母)がいった、「古仏弥勒よ、下界に下って、真の故郷を失っている明性たちを救い出し、ここに連れ帰りなさい。さもないと、世の終わりが来て、彼らは三災五厄*にまきこまれて消滅してしまいます。」
 古仏弥勒は答えていった。「紅塵にまみれた下界は重く沈み、苦海は荒れて波がさかまいています。無数の教えが無秩序に広まっているため、すっかり混乱しています。衆生の明性は、すっかり硬くこわばり、正しい道にひきもどすのは、容易なことではありません。彼らは、ごみのようなくだらぬ教えと真の教えを区別することすらできないでしょう。このように無知と暗愚に陥っている者たちを救うには、奇蹟のような道が必要です。わが母、無極聖母さま、わたしは行きたくありません。それは、あまりにも孤独で厳しい使命です。これまでになく危険で苦しい仕事です。わたしは、この碧玉都を離れたくありません。誰か別の者を東土に遣わしてください。」
 しかし、無極聖母は応じず、古仏弥勒に下界に下り、秘密のうちに教えを広め、善男善女を集め、ここ西天浄土に連れ帰るように命じた。それから、無極聖母は、仏と菩薩たちに命じて、すぐに霊山から法船をだして、弥勒を助けて、この大いなる道を広めるように命じた。そして、無極聖母は彼女の宮殿(紫陽宮)の宝物庫に収めてあった封印、護符、呪文、占術などをもって行くようにいった。
*真の故郷 中国語では《真家郷》。西天浄土のこと。西天浄土には、エメラルドの都や無影山がある。エメラルドの都にある《九つの門がある太古の白雲城》(第八章)に古仏弥勒が住み、無影山にある紫陽宮に無極聖母が住んでいる。九門白雲城のことを、『太乙金華宗旨』では、乾宮(紫微宮)と呼んでいる。*紅塵 こうじん。人間の動物魂(アストラル体)を濁らせる三欲(色欲、物欲、名誉欲)のこと。*三災五厄 さんさいごやく。周期の終わりに起こるとされる宇宙的な災害のこと。五厄は、五濁(ごじょく)のこと。五濁は、劫濁(時代の汚れ)、見濁(思想上の誤り)、煩悩濁(貪瞋癡〔とんじんち〕などの煩悩による汚れ)、衆生濁(心身が弱り苦しみが多くなること)、寿命濁(寿命が短くなり十歳に満たなくなること)の五つをさす。
4.無極聖母の大悲
 無極聖母は、古仏弥勒に、なぜ自分がこのように固い決意を抱いているのかを語って聞かせた。
 「わたしは、三宗五派の仙人、仏、祖師、菩薩たちを下界に送りこんで、新しい土地を開墾し、種をまきました。彼らは、衆生を救う活動に着手したけれど、混乱も生じました。そこで、一万一千の聖者と仙人(真人)を送りこみ、誤りを修正させ、いくつかの正しい道に収束させました。しかし、彼らは、まだ、それぞれ独自の教典を使っており、分断されています。彼らは、あなたが中土に現れ、これらを最終的に統合してくれるのを待ち望んでいるのです。彼らは中土に来て、あなたに会うことで、自分たちの教えを《根元の智慧》に結びつけるでしょう。そのとき、彼らのこれまでの活動がすべて実をむすび、すべての衆生が救われるのです。」
5.古仏弥勒は法をたずさえて下界に下る
 無極聖母は、古仏弥勒にいった。「あなたに渾沌の時から生まれた教典をあげましょう。この教典には、白蓮の教えが記してあります。ここ、真の故郷に還るための正しいお題目、瞑想法と秘儀、九蓮図、香のたき方、祈願の仕方、友を見分けるための秘密の合図などが記してあります。
 東土*についたなら、教典の聖なる言葉を注意深く守り、金丹の秘儀*を秘密裏に伝えていきなさい。 それから、守護神(七大天使)たちを与えましょう。彼らは、あなたの手足となってはたらき、いつでも、どこでも、あなたを守ります。」
 無極聖母が合図をすると、七名の守護神(大天使)が現れ、弥勒仏のまえにひざまずいた。
*東土 とうど。中国語。東の地の意。通常は中国をさす。*金丹の秘儀 きんたんのひぎ。金丹術と呼ばれる瞑想法のこと。正典『太乙金華宗旨』を参照のこと。
6.古仏弥勒は下界に降りて教えを説く
 古仏弥勒は、定天仏からは福音を、碧帝からは勅許状を、無極聖母からは金丹術を、不死の仙人からは聖なる宝を授かって、下界に降りた。古仏弥勒は、まず、無影山のまえの地、すなわち、九つの地からなる漢土(中国)に降りた。古仏弥勒は、何度も転生しながら、密かに善男善女を集めていった。そして、明性を何度も西天浄土におくりとどけた。古仏弥勒は、法界を行き来したが、さまざまなすがたに変身していたので、誰も気づかなかった。古仏弥勒は、霊と生気を集中して、老子のすがたに変身した。そして、無影の地にある町に入っていき、そこの三心講堂で教えを説いた。
 この後、古仏弥勒は、バベルの地に転生し、大摩尼と称して、教えを説いた。バベルの地に教えが根付いたのを確認すると、ふたたび漢土に転生し、今度は、無為祖師と称した。無為祖師は、弥勒教を創始し、老大仙に命じて、この教えにふさわしい善男善女を密かに集めた。弥勒童神は、ほほえんで老大仙にお礼を述べると、参列した善男善女に向かって、こう語った。

 「釈迦仏が紅陽会を催している間に、釈迦仏となんらかの縁があって救われるべき者は、みな救われ、西天浄土に還っていった。紅陽会は、りっぱにその使命を果たしたのだ。しかし、紅陽会はもう終わってしまったので、衆生との縁起が切れている。そのため、紅陽会の教えは、もはや残された人々を西天浄土に導く力を失っている。 そこで、新しい縁起を育て、残された人々を救うために、わたし弥勒が白陽会を開いているのだ。ところが、この世には、まだ紅陽会のなごり香が満ちていて、人々はまだ新しい白陽会の教えを受け入れる準備ができていない。そのようなときに、わたしが白蓮の教えをいきなり公言すると、どうなるであろうか? 人々は混乱し、反発するであろう。 そこで、わたしは、まず、名前をかくして、秘密裏に伝教し、白陽会(皇極秘密集会)の準備をすることにした。そのために、わたしとともに、守護神(七大天使)、仏、菩薩、仙人たちもこの世に下った。彼らは素性をかくして、秘密裏に伝教を進め、無数の秘密教団・秘密結社を組織して、弥勒教団創設の準備を進めている。善男善女がたくさん集まって、皇極秘密集会の力が充分に強くなったとき、いっせいに正体を現し、白陽の時代を宣言するのだ。 善男善女よ、今、わたしは、あなたがたに、最大の秘密を開示した。あなたがたは、この不思議な縁によって、わたしの友となっった。友たちよ、白陽の時代をもたらすために、ここにおられる老大仙をはじめ大師たちとともに立ち上がり、白陽の教えを広めてくれるだろうか?」 弥勒童神が、このように問い掛けると、一同は声をそろえて、弥勒童神とともに闘うことを誓った。すると、奇蹟が起こり、一同は、明性を顕わし、太陽天使になった。最初に教えを聞いて悟った者たちは、すぐに明性を目覚めさせ、三災五厄からのがれた。彼らの明性は、《玄爐》、すなわち、秘儀の門をとおって、天に還った。そして、清らかで涼しい霊山にいき、無極聖母に会って、本来の身体を復活させた。もはや永劫に、彼らが輪廻転生することはない。彼らの名前は、八宝の無限光のなかに掲げられている。天上で完成した者たちは、はかりしれない喜びに満たされている。
7.現在
 劫が去って、新たな劫が来たが、人々の多くはいまだ、紅塵にそまって酩酊している。それゆえ、無数の仏、菩薩、大師たちが今も活動を続けている。一つの灯火からもう一つの灯火に火がともり、法の火が受け継がれていき、今日に至っている。十方の聖者たちよ、この儀式の場に現れたまえ。
十方の如来たちに帰依たてまつる。
止めることなく法輪を回して、衆生を救いたまえ。
最高の教えに到達する者は、ごくわずかしかいない。
悟りを得た祖師と大師たちは、階段を降りて雲の上から地上に降りてきた。なぜなら、彼らだけがこの偉大な秘密教義を授けることができ、『九蓮宝巻』を授けることができるからだ。『九蓮宝巻』には、もっとも深遠で神秘的な教えが説かれている。この経典のなかには、万法とその根元が説かれている。この経典は、他のあらゆる経典の精髄であり、もっとも完成された経典であり、解脱のためのもっとも深甚で神秘的な入り口である*。この経典は、三千六百の傍門と、七二の顕教の精髄である。この教典は傷ついた魂をその本性へとたちかえらせ、《赴業了》、つまり、それぞれのカルマにしたがって、それぞれの魂のふさわしい場所へ還らせる。これにより、数億万の衆生が西天浄土に還る。どの一文も、聖者たちの内的な力とむすびついており、どの句も過去と現在をつらぬいており、どの章句も大いなる道を示し、真理を明かしている。この教典は《無縁之人》、つまり、縁がない者を救うことはできない。宿命的な因縁*がない者、不信心な者、教えに逆らう者は救わない。仏たち、菩薩たち、大師たちにしたがう善男善女だけを救う。
*この経典は、……入り口である。 弥勒仏の教えは、過去のすべての教えの集大成であるということを述べている。これはミトラ教の終始一貫した主張である。*宿命的な因縁 過去生におけるつながり、出会い、あるいは、過去生において行なったことが原因となって、今生でこの教えに出会えるということ。
8.来世
 白蓮の教えを奉じる友たちの見果てぬ夢・思い・願いが西天浄土に届くたびに、古仏弥勒は、その夢・思い・願いを九枚の花弁をもつ白蓮華の花に変えて、咲かせる。生前に修行を積んで悟りを得た友は、死後、白蓮華の根に助けられて、輪廻転生の輪から逃れ出て、西天浄土に転生し、自らの夢・思い・願いが咲かせた白蓮華の上に座って、安らぎに満ちた幸福な暮らしをする。 西天浄土には、数え切れぬほどたくさんの白蓮華の花が咲いて、見渡すかぎり、どこまでも広がっている。

 古仏弥勒は、救済活動が終わったとき、白蓮華の花の上に座っている友たちの見果てぬ夢・思い・願いのすべてを受け取って、自分の思いと一つにし、そのエネルギーで新しい光の時代、すなわち白陽の時代を開く。白蓮華の上で、この時を待っていた友たちは、喚起の声を上げながら、いっせいに新たな世の中に転生していく。友たちは、待ちに待った白陽の時代が始まったとき、その中に転生し、見果てぬ夢を実現させる。

2007年7月22日 (日)

天竺の草にふれると

「触」とは文字通り内界と外界の触れ合いであり「身」に関係があります。身や生活を自覚せず体裁ばかり立派な教えにのめり込むと人生絶望する結果となり、「道」を誤ってしまいます。身に添わぬ道は結局は身につかない道なのでせう。
ある国では金や玉を重んずるけれども、それを衣服にすることはできない。奇麗な鏡を珍しくもて遊んでも、それは敷具にあてがうことはできない。これらの物は目に見ていいけれども、身にふれるのに便利ではない。そうすると、身にふれるのと目に見るとの二つの心持が矛盾するではないか。  
天竺の草の迦栴隣陀にふれると執着の楽を生ずるが、浄土の柔らかな宝に触れると法を喜ぶ楽しみをおこさせる。二つの物の相が非常に違っている。 人間として生きる甲斐は快楽を得ることにあります。快楽の無い人生は虚しく、苦痛ばかりの人生では生まれてきたことさえ恨みに思ってしまいます。 しかし、蜜を塗った刀をなめれば舌を切るように、「楽」と思って近づくとかえって「苦」を受けることもあります。真実の快楽はどこにあるのでしょう。

楽に三つの種類がある。
一つには五識によっておこる楽しみ、二つには意識でおこす楽しみ、 三つには智慧によって生ずる楽しみである。

具体的には五官を楽しませ、贅沢をし異性と交わり名誉や権力を得て、楽と苦が表裏一体になっているから本当の快楽とは言えません。得ることが適わなければ苦を生じ、得れば得たでまた苦を生じます。例えば、贅沢はしたくても出来ない場合があり、もし贅沢できても他人からは嫉妬され、対立を呼び、没落の懸念も消えません。まして来るべき死という壁に直面すれば贅沢は意味を失います。

内面世界や精神世界における意識の楽しみは芸術活動によるものです。これは色界の天人の楽しみで、欲界の楽しみに比べるといくらか清らかですし、世間を知るためには一度は通るべき道でしょう。ただし、内楽は重要な快楽であると言えますが、まだ不純で副作用も残っていますので本当の快楽とは言えません。この境涯は流転の可能性が高く、天人から堕ちる時の苦しみは地獄の苦しみより激しいのです。

出遭う人たち見聞きするもの、降りかかってくる災難さえ、あらゆる物事が自分の人生成就のため宝である。宝が尊いと同時に宝を見つける心の眼を開く。こうした「打出の小槌」を得た境地は流転することがありません。また副作用もありませんので、楽は苦を含まない丸ごとの快楽なのです。心の眼を開いた世の楽しみは、己の智慧花を咲かす楽しみにあり、またこれに勝る楽しみははない。

2007年7月18日 (水)

神の草とのツキアイ方

アサ・麻、アサ科アサ属、学名Cannabis sativa、英名Hemp/Marihuana、成分テトラヒドロカンナビノール(THC)、雌雄異株。
アサの葉及び花冠に含まれるテトラヒドロカンナビノール(Tetrahydrocannabinol; THC, Δ9-THC) や他の物質は陶酔作用を引き起こす。カンナビノイドの一種。 麻の成分は品種によって大きく異なり、THC以外に含まれる成分のバランスによって効果に違いが生じる。
THCは、脂肪組織に吸収され、体のいろいろな臓器に蓄えられます。大麻を使用すると独特の心地良さやリラックス感もあり特定のイメージに取り付かれたりする。聴覚、嗅覚、味覚、視覚、体性感覚が拡大される。大麻の幻覚影響は含んでいる THC の量や性質、使う場面、気分や体調によって変わる。印度麻 (C.indica Lam) は2000年以上前から中央アジアで品種改良され、一般的な大麻より多くの陶酔成分を含むので一般に嗜好品としての大麻と言えばこのインド麻を指す。また、インドやジャマイカなどではガンジャ(ヒンディー語で“神の草”)と称される。

Cannabis_1887大麻でハイになると*体は軽くなり、音楽には色が付き、脳内に色彩のシャワーを浴びている快感。*人によっては気分が悪くなる(バッド・トリップ)場合がある。*外を歩くと体が前方に45度傾いている感じだ。*意識がフィルムのコマ落としのようにキレギレになる。*食べ物が美味しく、唾液が止まらない。*朝起きて一服吸うと、朝の光りは宝石箱を覆したように輝いた。*いろいろなドラッグを経験したが大麻が一番。*大麻は吸う度に、どんどん新しい効き方をした。200本目くらいまで、新鮮な発見があった。*大麻の煙りは煙草よりも白くて濃い。火の先がポロッと落ちるので立てて持つ。*吸っている時は、他人に寛大になり、性格が良くなりニコニコしている。*酒癖の悪い奴はいるが、大麻癖の悪い奴はいない。*恍惚感がいい。*笑いがこみあげてくる。*生きていることが、限りなくいとおしくて涙が出てしまいそうだ。*ひとりでやるマリファナもいいが、何人かでやるマリファナはもっといい。*味覚がとても鋭敏になる。*聴覚、視覚、味覚のみならず、触覚も鋭敏となって、セックスが楽しい。*想像力が活発になり、他者を理解できる。*鬱病など吹っ飛んでしまう。*マリファナハイは二時間から四時間で切れ、その後は眠くなる。きもちのいい眠さだ。*マリファナの種類により、その効果の現れ方に違いがある。*酒は時間の経過が速く感じられるが、マリファナは時間がゆっくりと経過する。*マリフアナと入浴の組み合わせも最高の快感だ。*幸福感に体の芯まで浸る感じだ。*マリファナで気の力が強まり、透視、予見の能力が生まれた(大麻吸引者の言葉) 以上



 大麻は、繊維を麻布に、幹のオガラは燃料に、麻の実は食料や油などに、花穂は神の神事のための意識変革に使われて来た。麻にはカラムシや亜麻など、トリップするもとであるアルカロイドを含まないものもあり、それらも繊維を取るために使われているが、各地の縄文遺跡から出土される麻の痕跡は大麻のもの。多摩の「摩」は「麻」の事で大麻が多く生えていた場所という意味。
大麻の吸引や栽培などが禁止や制限をされたのは戦後のことで、マッカーサー率いる米軍GHQによるものであった。それまで麻は、五穀八穀の中にも数えられる食料であり、重要な農作物だった。アメリカは「麻薬の脅威」を武器として第三世界に内政干渉、軍事侵略、経済制裁、植民地支配、等々を行なうために、表では麻薬撲滅、裏では麻薬の蔓延を謀ることで世論を操作していた。黄金の三角地帯でも裏と表を使い分ける戦略を取っている。その犠牲となっているのが、アフリカ諸国、アジアではミャンマー、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、その他諸国であり、南米ではコロンビア、ペルー、ホリビアなどの諸国。欧米先進国は、麻薬の拡大と撲滅を同時進行させて、他国の支配と自国の経済活性化を計った。
現在のヨーロッパやカナダでは、大麻に含まれるアルカロイドに、鬱病や鎮痛作用や免疫力を上げる力があるとして、医療大麻の使用が認められている。健康食品としても、注目されている。ドイツを中心として建材や自動車部品の素材として使われたり、バイオマスエネルギーとしても使用され始めている。そして、吸引することについても、個人使用のためであれば所持が認められている。
麻にはそれだけの利用方法がある。衣服をつくり、道具や燃料をつくり、神との交信のための媒介にもなる。縄文の人々にとって、大麻はまさに神の草だったといえる。人類の歴史と麻との関わりは深く、人の暮らしや心に有意義であるだけではなく、環境保全にも有効だと欧州やカナダを中心に、その関わり方を根本的に見直されている。
<a href="http://zerogahou.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/cannabis_.jpg"><img alt="Cannabis_" title="Cannabis_" src="http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/images/cannabis_.jpg" width="225" height="236" border="0"  /></a>

2007年7月16日 (月)

天竺の伽羅が500人の商人達と漂着した島

羅刹国(らせつこく)は、近世以前の日本人が南方(もしくは東方)に存在する信じていた架空の土地(島)の名称である。東女国(とうじょこく)とも書かれ、後には女護ヶ島伝説とも結びついて、女人島(にょにんじま)などとも呼称された。羅刹は全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる。男と女があり、男を羅刹娑・羅刹婆(ラクシャーサ、ラークシャサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)・と呼ばれる(十羅刹女)。羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされる。

『今昔物語』によれば、天竺の僧侶・伽羅が500人の商人達とともに東女国島に漂着したが、この島の住民は全て鬼の姿をした女性であった。500人の商人達は全員女鬼によって殺されたが、伽羅だけは仏の加護によって島を脱出したとされている。

Japng1

中世の行基式日本図において、日本の東方あるいは南方海上に記されており、人が足を踏み入れば、決して帰ってこれない土地であると信じられるようになった。この知識が中国にも伝わり、日本を描いた地図には「東女国」の名で雁道と並んで描かれているものがある。1585年のフィレンツェで製作された地図にも日本の南方に羅刹国らしき島が描かれている。かし、大航海時代以後には正確な地理知識の普及もあって羅刹国の記述のない 地図も出現するようになり、遅くても江戸時代中期には地図から姿を消すことになった。

2007年7月14日 (土)

筋肉モリモリ牛

002

BUILT REPORT - Schwarzenegger Cows Photo Gallery
http://www.builtreport.com/bovine.html

2007年7月13日 (金)

小野小町の詠う詞

花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに  小野小町
(花の色も私の美しさももはや色あせてしまった、私が物思いにふけり外を眺めていたうちに、花が春の長雨にうたれて散るように)

Mli

 色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける  小野小町
(色は見えないけれども色あせるものは、やがて散ってゆくのは他ならぬ人の心の花だった)

Sumire 小野小町(おののこまち809年頃- 901年?) 
平安前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の1人。出羽郡司小野良真(小野篁の息子)の娘といわれる。仁明天皇の更衣だったらしい。また文徳天皇の頃も仕えていたらしい。「町」の字は後宮に仕えた女性に用いられる。また彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、能や浄瑠璃などの題材としても使われる。小野小町に材をとる作品を総称して「小町物」という。
歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉、柔軟艶麗である。「古今和歌集」序文において紀貫之は彼女の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。文屋康秀・僧正遍昭との贈答歌もある。

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき

能の「小町物」には「草紙洗小町」「通小町」「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒都婆小町」などがある。これらは和歌の名手として小野小町を讃えるもの、深草少将の百夜通いをモチーフにするもの、年老いて乞食となった小野小町に題材をとるものに大別される。後者は能作者らによって徐々に形作られていった「衰老落魄説話」として中世社会に幅広く流布した。

2007年7月12日 (木)

小町算(こまちざん)

1□2□3□4□5□6□7□8□9 = 100

この数式の□の中に、
+,-,×,÷,空白 のいずれかを一つづつ入れて正しい数式を完成させるというものである。

また、以下のように規則を変えて出題されることもある。
×,÷ の使用を禁止する。
括弧、冪乗、平方根の使用を許可する。
右辺を 100 だけでなくいろいろな値に変える。
左辺を逆順にする。(9□8□7□6□5□4□3□2□1 = 100)

小町の名称は小野小町に由来するが、その由来としては、小野小町のように美しい数式という意味 。
小野小町の下に九十九夜通いつづけた深草少将を偲んで などの説がある。

[解答例]
正順
1+2+3-4+5+6+78+9=100
123-45-67+89=100
1×2×3×4+5+6+7×8+9=100
1+2+3+4+5+6+7+8×9=100
1×2×3-4×5+6×7+8×9=100
逆順
98-76+54+3+21=100
98+7-6+5-4+3-2-1=100
98+7-6×5+4×3×2+1=100

2007年7月11日 (水)

初心を忘るべからず

世阿弥曰く「初心を忘るべからず」とは、「衣を刀で断ち切るように」絶えず新たな自分を創造、進出、出来るよう精進せよという教えの一言。

「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。
是非とも初心忘るべからず(是非によらず、修行を始めたころの初心の芸を忘るべからず )
時々の初心忘るべからず (修行の各段階ごとに、各々の時期の初心の芸を忘るべからず ) 
老後の初心忘るべからず (老後に及んだ後も、老境に入った時の初心の芸を忘るべからず )
この三、よくよく口伝すべし。」

Yana1

 初心とは「段階ごとに経験する芸の未熟さ」のことである。初心を忘れたら初心に戻る。
未熟な時代の経験、失敗やその時の屈辱感を忘れないように、常に自らを戒めれば、上達しようとする姿を保ち続けることができると説いている。修行を始めて数年時は、何をしても「花がある」といわれる。しかしこれは「真の花」ではなく若さが醸し出す美しさが、欠点を見えなくしている「時分の花」に過ぎない。「真の花」となるには、「初心」を忘れてはならない。人間には失敗する権利があるし反省することも自在である。「秘すれば花」・・・ともいわれた花の意味は奥深い。 「秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」

Yana2 Yana3
世阿弥ほど「観客」を意識した芸術家はいない。世阿弥はすべてにわたって、『関係的』であった。他人の目で自分を見ること「離見の見」広く大衆に愛されること「衆人愛敬」など、世阿弥が残した数々の名言には、観客の目を忘れるなというメッセージが通底している。他人の中に自分を映し出して実践していたのである。

Yana4

時の流れというのも、十分に警戒する必要がある。非常に短い時間の間にも、男時(おどき)・女時(めどき)といって、運の向いた時と、運の向いてない時があるであろう。どんな演じ方をしても能のできがよい時もあれば、悪い出来の時も必ずあるのだ。これは、なんとしてもしかたのない因果の理法なのである。
こうしたことを心得た上で、あまり大事でないときの演能に際しては、他座の役者と競演して優劣のはっきり決められる場合でも、それほど勝負に対して強い執着心を持つべきではない。また無理に力を尽くすことは避けて、勝負に負けてもこだわらず、控えめに演戯をするべきだ。

努力すれば報われるという因果とは別に、人の力よりも大きな時のめぐり合わせがある。前に悪かったという原因が下敷きとなって、次には良い結果を生む。女時のときも、やがてくる男時のための研鑚のときである―。舞台には“勝負神”がいて、他の猿楽座や田楽座などの役者との競演が長引くと、“男時”は双方を行ったり来たりするから、「男時が自分のほうに来たぞ!と感じたら、ここぞとばかり得意の芸を出せば、勝つ」。 チャンスをつかむ「時節感当」、ツキの流れを読む「男時・女時」、妥協を許さない世阿弥の教えに、「想定外」はない。芸と勝負の天才は天才が唱える運の要因がある。

Yana5 Yana7

世阿弥曰く,運が悪くなる要因
人をうらむ事,うらやむ事,ぐちを言う事,人のせいにする事,人の不幸をよろこぶ事,人の幸福をねたむ事,半自然的な行為をする事,暗示をもとめる事,悲しみや苦痛をふりまく事,無責任である事,無視する事

世阿弥曰く,運を呼び込む要因
人の長所を見る事,人の幸せを慶ぶ事,自然と共生する事,積極的な心を持つ事,良心に従う事,常に自分に対して変化を求める事,苦しみを表に出さない事,挨拶をする事,そして約束を守る事,こうすれば運はついてくる。

Yana8

「世阿弥のいう「間」のあらわしかた」
http://hello.ap.teacup.com/applet/koinu/20070711/archive

2007年7月 9日 (月)

秘密曼荼羅十住心論 弘法大師 著

「十住心論」は、空海の代表的著述のひとつで、正確には『秘密曼陀羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』という。 
淳和天皇(じゅんなてんのう)の天長年間(824~834)、法相(ほっそう)・三論・華厳(けごん)・律・天台・真言の6宗に、各宗派の教義をしるして提出せよという勅命がくだった。真言宗では、空海みずからが『秘密曼荼羅十住心論』(十住心論)をあらわし、830年に提出したが、これは引用も多く、10巻にのぼる大部のものとなった。そこで空海は、『十住心論』の内容を抄出した『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』3巻を執筆。緻密な文体で、教義の趣旨を簡潔にあらわした。

人間の心を十段階に分け 全10巻でその境地体系を述べている。
第1段階:異生羝羊心(いしょうていようしん)
 …教乗起因・動物的意識(迷妾の段階・倫理以前の無明、煩悩にまみれた心)
第2段階:愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
 …人乗、儒教的道徳(他者への倫理発生・人間と国家を知る)
第3段階:嬰童無畏心(ようどうむいしん)
 …天乗、道教、インド哲学(宗教的自覚の発生、天上界と絶対性を知る)
第4段階:唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
 …声聞乗(固体の実在を否定してやっと無我を知る)
第5段階:拔業大乗心(ばつごうだいじょうしん)
 …縁覚乗(根源的無知からただ一人だけで開放される)
第6段階:他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
 …法相宗、インド唯識派(他者の救済を知る大悲の自覚、菩薩道の発生)
第7段階:覚心不生心(かくしんふしょうしん)
 …三輪宗・インド中観派(全現象の実在を否定して一切皆空を知る)
第8段階:一道無為心(いちどうむいしん)
 …天台宗(全現象が区別なく清浄であることを知る)
第9段階:極無自性心(ごくむじしょうしん)
 …華厳宗(あらゆる対立を越えて無尽円融の世界を知る)
第10段階:秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)
 …真言宗(無限の展開に向けてマンダラの秘密を知る)

人間の心が浅薄な状態からしだいに高まり、密教の究極の智恵に達するまでを段階的にしめしたものだが、それは同時に、当時の社会思想や先行宗派に深浅の段階をつける試みでもあった。すなわち1~3は外道(1=欲望人、2=儒教、3=道教)、4~5は小乗(4=声聞、5=縁覚)、6~7は権大乗(6=法相、7=三論)、8~9は実大乗(8=天台、9=華厳)をあらわして、インドのマントラ、中国の文字、日本のコトダマ観が一体となった言語思想が示されている。
「秘密曼荼羅十住心論」と、その縮約版である「秘蔵宝鑰(ほうやく)」は、共に空海の主著であり、生涯における教学の総決算であると考えられている。

第一住心
無知なものは迷って、自分の迷いを悟っていない。雄羊ように、ただ性と食を思い続けるだけ。

禽獣の如き心の段階をいい、欲望のあることを知って、その欲望の意味も調整する方法も知らない。
人間以前、倫理道徳以前の状態。性交(愛欲)、衣食住のことしか頭に無く、何も考えず本能のままに生きている、つまり無明の闇が最も深い常態。動物のように、欲望のままに生きる心。 善・悪を弁えることのできない迷いの心。
自我に囚われ、自己所有への執着を常に胸中に懐いている状態。

「喩えば獣が陽炎を追って水をもとめ、
蛾が華やかな火に飛びこんで身を焼くようなものである。
さながら雄羊が水草や婬欲のみを思っているのと同じであり、
さてまた無知な子供が水に映った月を欲しているようなものである。」

第二住心
他の縁によって、すぐさま控えようとおもう。他の者に与える心が芽生えるのは、穀物が発芽するのと同じ。

愚かな少年の心も導くものあれば、自らを慎み他に施す心が起きる。
倫理に目覚めた段階の心の状態。ある程度人生経験などを積み、世界を学習する段階。
道徳の教えにより人間としてやや善なる心が兆しはじめる心。徳の高い人を見て敬い、供養する。あやまちを知れば必ず改め、賢人を見てはそれと等しいものになろうと思い、初めて因果の道理を信じ、だんだんと善い行いと悪い行いの報いの結果をうなずく。両親に孝行をして村や町に忠義をつくす心の状態。

「例えば、節食してそれを他の人びとに与えることを喜び、
親しき者・疎き者のわけへだてなく施しをする。
足るを知る心が次第におこる。」

第三住心
天上の世界に生まれ、しばらく復活できる。まるで幼児や子牛が母に従うように一時の安らぎにすぎない。

この世の限界を知るとき、それを超えて死後の安楽を願うものである。
丁度幼児が母の懐にいる間は世間の苦しみを知らず安らかな状態。
世界の理不尽さ、無常さを実感し始め、自己との対峙、葛藤が始まる段階。
戒めを守ることによって、現世において、もろもろのすぐれた恩恵を得、大いなる名声と利得によって
身心が安楽になる。ますます賢い善き心を増し広げて、死後には天界に生まれることができる。

第四住心
ただ物のみが実在することを知って、個体存在の実在を否定する。教えを聞いて悟る者の説はみんなこのようなものだ。

存在や現象は五つの要素の集まりにすぎないという「無我」説の段階(声聞)。
事物の本質は存在せず、人も万物も仮の存在を保つという宗教的認識の第一段階の心。
無明の闇の中を彷徨っている最中、思わぬ縁によって仏教に出くわし、仏教を学び始める段階。
いわゆる禅に云う十牛図の「尋牛(じんぎゅう)」の始まり。
ここで自分が今まで無明であったことに気が付き、法門が開きだす。
声聞(仏様とくにお釈迦様の言葉を聞いて悟る者)の境地。
自我には、実体がないことを知る。自分の感じ知ることは五つの存在要素(五蘊)がかりに和合した
ものにすぎないと知る。自我を幻化・陽炎の例にたとえて明らかにする。

第五住心
一切が因縁からなっていることを体得して、無知のもとをとりのぞく。迷いの世界を除きただひとりで、さとりの世界を得る。

「苦」の原因である「無明」の種を除く段階(縁覚)。
業因の種を抜く住心という意味で、よく事物の生起、関連の法則を知り、迷いの元、業の原因、種子を抜く境地。
事物の生起、縁起の法則を知り、迷い、業の種子を抜きはじめる段階。
全てのことが因縁よりなると悟り、無明を取り除く心。お釈迦様のように、独りで、修行してさとる縁覚の体得する心。
縁覚は智慧が深い方であり、「生けるものの心に煩悩が生じ起こるのは、邪まな思惟(不正思惟)を主な原因(因)
にして生じ、無明 (無知のこと) を間接的な条件(縁)によって生ず。」と悟られている。
そして「一切の苦の原因は煩悩・妄執である。」と観られている。
因縁によって生じ、滅するありさまを十二に整理して観察し、四つの粗大な元素、人間を構成する五つの要素(色・受・想・行・識)の生滅の真理を知り、生死を厭わしく思う。縁覚(辟支仏)は、因果の関係とはなれた真実の世界に悠々と住している。

第六住心
すべての衆生に愛の心を起こすことによって、大いなる慈悲がはじめて生ずる。すべてのものを幻影と観じて、ただこころの働きだけが実在であるとする。

他者を救済するために慈悲の行いを実践する段階。
他人の悟り(利益)にも重点を置きだす。この境地にある人を菩薩(ぼさつ)と呼ぶ。他縁とは、縁に囚われず、慈悲の心を全ての人に起こし、他者の救済のためにはたらく心。すべての人たちをみな同じく救済しようという大きな誓いをおこして、生きとし生けるもののために菩薩の道を実践し、不信心の者や声聞・縁覚のうちまだ安らぎの位にはいらない者をも、心服させて大乗の教えに入らしめる。
菩薩は幻や陽炎のように、あるように見えて実際には存在しない心のありかたの観察にひたすら意をそそぐ。菩薩は心のみが真実であると悟る。心に映ったさまざまな映像は虚妄であると悟る。「唯識」と言う見方をされる。この世にはただ認識をすることのできる主体だけが存在するという考え方。そしてことばも文字も離れた境地に、平穏無事の風をあおぐ。唯一真実の台に両手を組んで敬礼し、真理の世界に安らぐ菩薩の心の状態。ただ、その修行には無限に長い時間が費やされる。

第七住心
あらゆる現象の実在を否定することで、実在からの迷妄を断ち切り、ひたすら空を観じればなんらの相(すがた)なく安楽である。

心は何ものによっても生じたのではない。すべての相対的判断を否定し、心の原点に立ち返って空寂の自由の境地
〔中道〕に入ることを目指す。心の本性は生じることもなければ、滅びもしないと悟り、また森羅万象は全て縁によって起こる、即ち空(くう)と観て中道(ちゅうどう)を歩みだす段階。物質に実体性がない(無我)だけではなく、自分の心に起こることも、実体がなく、本来不生であると悟る。
「心に映るものは本来生じたり滅したりせず、心は本来静かに澄みわたっている。」
この時、心主(心の主体)は自由自在になり、物の有る無しに迷うこともなく、自利・利他の行為を心のままに成すことができる。この絶対の自由の状態を心王という。
本来生起しないとは、「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来」の八つの不の意味である。
寂滅平等の真実の智恵に住して失うことがない。

第八住心
現象はすべて清浄であって、認識としての主観も客観もともに合一している。

万物は真実そのものであり、本来清浄なものである。
この境地に入るとき、従来の教えは一道に帰するはずである。凡ての人に仏性、悟りの可能性を観ることが出来る境地。
「白蓮花のような『法華経』の教えによる精神統一」という瞑想にはいって、人びとが本来もっている徳性は汚れに染まらないと観想し、全ての人の心が清浄であることを知る。澄みきった水そのものと事物を映し出す働きとのようなもので静かであってよく照らし、照らしていて常に静かである。
この時、心の認識する対象(境)は、悟り(心)であり、悟りの智恵が認識の対象であることを知る。
「自分の心は清らかであり、心は外にもなく、内にもなく、その中間にもない。心は欲の世界のものでもなく物の世界のものでもなく精神世界のものでもない。」ことがわかる。
「心は眼・耳・鼻・身・意の世界にもなく、見るものでもなく、顕現するものでもない。 
心は虚空と同じであり思慮や思慮のないことを離れたものである。
自分の心そのままが、真実世界の心と同じである。それは、そのまま悟りと同じ。
心と虚空と菩提とは一つのものである。慈悲を根本として、他の者を救う手段(方便)を満足する。
菩提とは、「ありのままにみずからの心を知ることであると悟る。」

第九住心
水はそれ自体定まった性はない。風にあたって波が立つだけ。悟りの世界は、この段階が究極ではないという戒めによって、さらに進むものである。

世界には一つとして固定的本性はなく、すべてがそのまま真実そのものであるとみる境地。
宇宙のなかの全ては互いに交じり合いながら流動していることを悟る境地。
仏は空の悟り(無為)がまだ究極ではないことをさとす。華厳経には、海印という精神統一に入り、法の性質が互いに溶け合っていることを悟る。
「一と多が互いに融合している。」一人一人の心が、仏と何も変わらず、同一のものであると悟る。一つ一つの心が互いに溶け合っている。初めて悟りを求める心を起こした瞬間に悟りの世界にはいる華厳三昧の世界である。しかし、この三昧はまだ完全な悟りではなく、一切如来より「鼻先に月輪を想い、月輪の中にオン字の観を成さずして成仏を得ることはない。」と知らしめられる。

 

第十住心
秘密は倉の扉を開く。そこで倉の中の宝は、たちまちに現れて、あらゆる価値が実現されるのである。

ここに至って万物は真実のあらわれとして、大きな歓びをもって万人の知、情、意に受けとめられる。
言葉、文字を超えた秘密の世界を説く世界。
「全ての人は、貪り、瞋り、痴さを離れ、月輪の観想をすることにより本来の心の姿を見ることができる。
それは清らかで、満月のように虚空に普くして隔てがない。」
修業者の心と、仏、そして生きとし生ける者一つ一つの心が互いに溶け合っている様子を悟る。三密の合一によって、仏の不思議な力を感じそして、この世界にはいることができる。心が量り知れないことを知り、身体も無量であり、知も無量である。生きとし生けるものも(衆生も)無量であり、虚空も量り知れない。無量の心識、無量の身を会得する、ここに秘密荘厳心がある。
一つの平等の身より普く一切の威儀を現ずる。この威儀は秘密の印でないものはない。一平等の語より普く一切の音声を表わす。しかし、この大日如来の三昧地の法を未潅頂の者に説いてはならない。たとえ、同じ行をしているものにも、容易く説いてはならないと、戒められている。

http://www.kannon-in.or.jp/ 観音院 参考

2007年7月 8日 (日)

Led Zeppelin

Led Zeppelin

Tracks:
1. Good Times, Bad Times
2. Babe, I'm Gonna Leave You Now
3. You Shook Me
4. Dazed and Confused
5. Your Time Is Gonna Come
6. Black Mountain Side
7. Communication Breakdown
8. I Can't Quit You, Baby
9. How Many More Times

Release date: January 12. 1969
Record company: Atlantic Recording Company
Producer: Jimmy Page

ファーストアルバムには彼等の音楽要素が凝縮されている。ブリテッシュハード、アシッドフォーク、エレクトリックブルースなど多様な音楽性を取込みながら、一度聞いたら忘れられない強烈な確信的エネルギーを放っている。
まだハードロックという言葉もない時代に忽然と表れた存在感がビンビンと鳴り響く音には、戦慄と心の奥深くある危険な快感を背筋が震えるほどに覚えた。まるで未確認の飛行物体をみつめていたら、自分自身が他の者へ乗り移っていたという感覚を体験させられた。
メンバー4人の演奏はやりたい放題に思いっきり起爆しつづけて、ジャケットそのものを連想させる。アルバム全体の演出はペイジによって見事にコントロールされている。

Led Zeppelin II

Tracks:
1. Whole Lotta Love
2. What Is And What Should Never Be
3. The Lemon Song
4. Thank You
5. Heartbreaker
6. Living Loving Maid
7. Ramble On
8. Moby Dick
9. Bring It On Home

Release date:22 October.1969
Record company: Atlantic Recording Company
Producer: Jimmy Page

ROCKの歴史を変革する勢いのある驚異的なアルバムが同じ年に発表された。
ファーストアルバムに残留していたブルース色はなりをひそめて、ライブ演奏してきたハードでクールな世界を結実させている。舞台と客席から体現されたエッセンスが、覚めやらぬ熱気のなかで収録されて感動を呼ぶ。公演先のホテルの廊下で録音されたり、ライブ会場の傍にあるスタジオでも 一発取りに等しい音源にも関わらず、統一されたアルバムの流れには今までに無いほどのヘビーな音色なのに爽快さすらある。
作品全体が休み無くある客席とのセッションの合間に、作曲も演奏もアレンジも出来てしまう奇跡には驚くしかありえなかった。

次なるサードアルバムは実にゆったりとした時間の中で制作されて、アメリカンブルースよりも自らのルーツであるケルト・フォークロアへ立ち向った思索がなされた興味深い作品となった。

Led Zeppelin IV

1. Black Dog (4:55)
2. Rock and Roll (3:40)
3. The Battle of Evermore (5:38)
4. Stairway to Heaven (7:55)
5. Misty Mountain Hop (4:39)
6. Four Sticks (4:49)
7. Going to California (3:36)
8. When the Levee Breaks (7:08)

Release date - 8 November, 1971
Recorded at Headley Green, Hampshire, Island Studios, London, Sunset Sound, Los Angeles
Produced by Jimmy Page
Executive Producer Peter Grant
Sandy Denny sings a duet with Robert Plant on The Battle of Evermore.

アルバムジャケットにはバンドの名前もタイトルも一切記されてはいない。よほど作品に対する自信があったのだろう、コンサートでメンバー4人の楽器に描かれる、4つのシンボルがあるのみ。ジャケットを開くと、歌詞が意味ありげに掲載されている。

『天国への階段』(Stairway to Heaven)

光るものはすべて黄金だと信じている女がいる
彼女は天国への階段を買おうとしている
彼女は知っている たとえ店が皆閉まっていてもあそこに行けば
一言かければ お目当てのものが手に入ることを
おお 彼女は天国へ行く階段を買う
壁に掲示がある 「よく確かめなくちゃいけないわ」

時に言葉には裏に隠された意味があるものだから
小川の脇の1本の木にさえずる鳥が1羽いる
(原文では二つの解釈に読取れる暗喩がある)
時に私たちの考えることすべてが疑わしいこともある
どうしたことか どうしたこと
私の魂は抜け出たがって声をあげる
どしたことか どうしたことなのだろう
こんな囁きがする もしあの曲を吹くように頼めば
笛吹きは私たちが道筋を立てて考えるように仕向けてくれる
そして長く立ちんぼうしていた者たちに新しい朝が明ける
そして森に笑い声が木霊する

もし君の家の生垣がガサガサ音がしても驚いてはいけない
それは五月祭の女王を迎えるための春の大掃除なのだから
そう、君が行く道は二つあるけど結局
今君がいる道を変える時はまだあるということ
どうしたことだろう
ぶんぶん耳鳴りがしている とてもしつこく思うだろう 
もし笛吹きがいっしょに来ないかと誘っている声だとわからなければ
ねえ君、風が吹くのは聞こえないかい? わからなかった?
君の階段はさらさら吹く風に乗っかって横たわっていることが
(instrumental break)
道をくねくね進むにつれて
私たちの影は魂より高くなる
ほら向こうにみんなが知っている女が歩いている
彼女は白い光を輝かせ教えたくしょうがないのだ
どうやってすべてのものが黄金になるのかを

もしよく耳を澄ませば 最後にはあの調べが聞こえるだろう
皆がひとつになり ひとつが皆になり
岩になるときに 転がりはしない岩になるときに
そして彼女は天国への階段を買う

Houses of the Holy - 聖なる館

TRACK LIST

01.The Song Remains The Same
02.The Rain Song
03.Over The Hills And Far Away
04.The Crunge
05.Dancing Days
06.D'yer Mak'er
07.No Quarter
08.The Ocean

Released: March 28, 1973
Produced by Jimmy Page
Recorded in 1972: Stargroves, Headley Grange, Island Studios

後期のツェッペリンの音楽的な指南が示される重要なアルバムである。
前作の成功によりライブ活動が最も盛況となり、これらの曲は演奏されるごとにプログレッシブな展開までしていった。The Rain SongやNo Quarterなどはジョンポール・ジョーンズのミキシング、アレンジャーとしての才能がいかされた佳作。

Physical.G - フィジカルグラフティー

Produced by Jimmy Page

disk1
1.カスタード・パイ(4:13)
2.流浪の民.(5:37)
3.死にかけて. (11:05)
4.聖なる館. (4:02)
5.トランプルド・アンダー・フット.(5:35)
6.カシミール. (8:28)

disk2
1.イン・ザ・ライト.(8:46)
2.ブロン・イ・アー. (2:06)
3.ダウン・バイ・ザ・シーサイド.(5:14)
4.テン・イヤーズ・ゴーン. (6:31)
5.夜間飛行. (3:36)
6.ワントン・ソング. (4:07)
7.ブギー・ウィズ・ステュー. (3:52)
8.黒い田舎の女. (4:24)
9.シック・アゲイン. (4:43)

自らのスワンレーベルを設立しての第一弾は、初二枚組の大作となった。いままでアルバムに入り難かった、民族楽やルーツミュージックや実験的な珠玉曲たちを、のびのびと収められている奥行のある作品。ロック喫茶で大音量で聞いていたので、邦題で曲名を記憶するようになった。

Presence - プレゼンス

Tracks:
1. Achilles Last Stand / 2. For Your Life/ 3. Royal Orleans / 4. Nobodys Fault But Mine / 5. Candy Store Rock / 6. Hots On For Nowhere / 7. Tea For One
(Swan Song 1976)

前々作「Houses of the Holy」のLPジャケットにもなったプラントの愛息ふたりを交通事故で亡くして、我身も半身不随のままボーカルもレコーディングされた。不幸の極限から化学反応を引き起したかのように、確信に満ちたブリテッシュハード進化させるPresenceに漲った奇跡的なアルバムとなった。
ヒップノシスによるアートワークも作品の方向性を実に良く表現されている。CDでは分かりにくいけれど、LPの内袋のもPresencを形象するオブジェがドラマのスチェーションとして存在観を見事に具象化されている。

In Throught The Out Door - - Led Zeppelin

In Throught The Out Door

Tracks:
1. In The Evening
2. South Bound Saurez
3. Fool In The Rain
4. Hot Dog
5. Carouselambra
6. All My Love
7. I'm Gonna Crawl
Swan Song 1979

パンクロックが台頭して、徹底的にプログレや大掛かりな産業としてのROCKが否定された頃に発表された、最も生彩のないゼップ作品かも知れない。
しかし、しみじみと聞ける数少ないアルパムでもあった。

Coda - - Led Zeppelin

Tracks:
1.We're Gonna Groove
2.Poor Tom
3.I Can't Quit You Baby
4.Walter's Walk
5.Ozone Baby
6.Darlene
7.Bonzo's Montreaux
8.Wearing And Tearing

ドラマーのジョン・ボーナムが急死したことで、1980年12月にツェッペリンは12年の歴史に幕を閉じた。2年後に発表された全曲クオリティが高い未発表曲集。ジミー・ページが69~78年の録音から選曲ミックスしている。2ndアルバムのセッションで録られたカヴァーや、1stアルバム収録曲のリハーサル・テイクや、ジャズの要素もある後期の多彩な楽曲も統一された構成がなされている。。ボンゾ追悼アルバムとしても一体感が味わえる、高いポテンシャルを明確に示す『最終楽章』。
Swan Song 1982 ( 69-76 )

2007年7月 7日 (土)

浜津守 プロフィール

現代思潮社主宰『美学校』赤瀬川原平・絵文字工房及び木村恒久・図工工房卒業
在校中に現代思潮社と青林堂『ガロ』編集部の臨時社員をする
TV放送局美術センター勤務を経て、東映動画、サンライズ、東京ムービーなどの外注アニメーターとなる。

浜津 守 プロフィール

*'78年、「機動戦士ガンダム」初代TVシリーズの動画チエック、放送中に大ヒットとなり、映画「機動戦士ガンダム」三部作で原画スタッフとなる。続く富野喜幸監督作品「イデオン」のTVシリーズ及び映画のメインスタッフとして参加
'82年、松竹映画「クラッシャー・ジョウ」設定制作、色彩設定、助監督を担当 *'83年、「巨神コーグ」演出・絵コンテ*'85年、徳間書店・丸紅・博報堂が協賛したヒロイックファンタジー作品、東宝映画「アリオン」で演出担当

'87年、上條淳士原作(少年サンデー連載)「Toーy」をインディーズを含め当時rock'n Roll音楽シーンを初めて映像化、よりアグレッシブに音楽アニメーションした、初監督作品。(sony VTR)
*'88年、テレビ朝日放送「鎧伝サムライトルパー」演出・絵コンテ・監督 アニメグランプリ・読者賞受賞日本アニメ大賞・アトム賞受賞

*'91年、田中芳樹原作:角川映画「アルスラーン戦記」監督・絵コンテ・原画・動画・仕上げ・演出 文化庁日本のメディア芸術100選  http://plaza.bunka.go.jp/hundred/list_anime.html
    
*'92年、東宝映画「夜をぶっとばせ」(かわぐちかいじ原作「愛物語」より)監督・脚本・絵コンテ・演出/音楽 ローリング・ストーンズ
*'95年、少年ジャンプ連載「Bastard!!(虚ろなる神々の器)」PlayStation、アニメーションパート監督と絵コンテを担当

*'96年、TV「それゆけアンパンマン」などの絵コンテ
*'98年、白泉社 月刊「LaLa」連載「火宵の月~秋狂言~」監督・絵コンテ・演出・実写映像・作画
*,2001年 「キョロちゃん」などの絵コンテ
*2002年、東京ムービー「ルパン三世」DVD「生きていた魔術師」企画・監督・絵コンテ・作画 
      東京国際アニメフェア2003~東京アニメアワード~オリジナルビデオ部門優秀作品賞    http://www.taf.metro.tokyo.jp/TAF2004/2003/j/compe/jyushou_list.html

*2005-2006年、東京ムービーTV[ガラスの仮面」監督・絵コンテ・演出   
*2005-2007年、NHK教育TV「おでんくん」絵コンテ・ニセおでん話数など担当
 
http://hello.ap.teacup.com/koinu/460.html より抜粋

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演劇やコンサートの美術スタッフとして働いた時期には、役者としてもフィルムへ参加もしていた。主にTBSドラマや鈴木清順の映画美術スタッフへ関わりが深い。

本人がさまざまなメディアで語るのは「美術がキャンバスの中だけへ走るのは、四角の画布にとどまるだけだ。それがつまらなく感じないか、よく感じるだけのことの違いに過ぎないこと」という。

2007年7月 6日 (金)

祓いの歌

駈け漏て 居附の  (カケモリテ イツキノ)
瀬降に 瀬降て   (セブリニ セブリテ)
海魚捕て 生活きす (ウナトリテ イノチキス)

2007年7月 5日 (木)

般若波羅蜜多心經

◇◇◇般若心経のプロット◇◇◇
会場―「霊鷲山(りょうじゅせん)」山頂。
舞台監督―瞑想中の釈尊。
聴衆―釈尊の説法を瞑想しながら待つ聴衆(修行者・信者)。
主役―観自在菩薩(大乗)、釈尊に代る説法者。
脇役―舎利弗(小乗)、聴衆を代表する聞き手。

■物語―
ある修行を完成した観自在菩薩に、舎利弗が説法を要請。
観自在が「諸法皆空」を説く。
そのヴィジョンこそ「般若波羅密多」、「一切の苦」をよく取り除くもの。
そのヴィジョンに達する修行は、「掲諦 掲諦~」の真言を何度でも誦える修行。
「掲諦 掲諦~」の真言を「般若波羅密多心」という。

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■台本―仏説摩訶「般若波羅蜜多心經」

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
受想行識亦復如是
舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄
不増不減 是故空中無色
無受想行識 無眼耳鼻舌身意
無色聲香味觸法
無限界 乃至無意識界
無無明 亦無無明盡
乃至無老死 亦無老死盡
無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩タ
依般若波羅蜜多故
心無ケイ礙 無ケイ礙故
無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃 三世諸佛
依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知若波羅蜜多
是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 真實不虚
故説若波羅蜜多咒 即説咒日
掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝
菩提僧莎訶
般若心経

Om Homage to the Perfection of Wisdom the Lovely, the Holy !
Avalokita, the Holy Lord and Bodhisattva, was moving in the deep course of the Wisdom which has gone beyond.
He looked down from on high, He beheld but five heaps, and He saw that in their own-being they were empty.
Here, O Sariputra, form is emptiness and the very emptiness is form ; emptiness does not differ from form, form does not differ from emptiness, whatever is emptiness, that is form, the same is true of feelings, perceptions, impulses, and consciousness.
Here, O Sariputra, all dharmas are marked with emptiness ; they are not produced or stopped, not defiled or immaculate, not deficient or complete. Therefore, O Sariputra, in emptiness there is no form nor feeling, nor perception, nor impulse, nor consciousness ; No eye, ear, nose, tongue, body, mind ; No forms, sounds, smells, tastes, touchables or objects of mind ; No sight-organ element, and so forth, until we come to : No mind-consciousness element ; There is no ignorance, no extinction of ignorance, and so forth, until we come to : There is no decay and death, no extinction of decay and death. There is no suffering, no origination, no stopping, no path.
There is no cognition, no attainment and no non-attainment.
Therefore, O Sariputra, it is because of his non-attainmentness that a Bodhisattva, through having relied on the Perfection of Wisdom, dwells without thought-coverings. In the absence of thought-coverings he has not been made to tremble,
he has overcome what can upset, and in the end he attains to Nirvana.
All those who appear as Buddhas in the three periods of time fully awake to the utmost, right and perfect Enlightenment because they have relied on the Perfection of Wisdom.
Therefore one should know the prajnaparamita as the great spell, the spell of great knowledge, the utmost spell, the unequalled spell, allayer of all suffering, in truth -- for what could go wrong ? By the prajnaparamita has this spell been delivered. It runs like this : gate gate paragate parasamgate bodhi svaha. ( Gone, gone, gone beyond, gone altogether beyond, O what an awakening, all-hail ! -- )

This completes the Heart of perfect Wisdom.

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■解題― 一切を知る者に礼してたてまつる
悟りへの修行を深く行うとき 体を構成している五つの要素は皆空であることをしっかりと見定め、一切の苦や厄を解決させた

全ての物事の決まりは、絵空事である
生ぜず滅びず 浄も不浄もなく 増加も減少も無い  
これゆえ空の中にも 実態も無く 感じるも思うも行うも知るもない

視覚も、聴覚も、臭覚も、味覚も、触覚も、心もない
視覚の対象も、聴覚の対象も、臭覚の対象も、味覚の対象も、触覚の対象も、心の対象もない。視覚の領域から心の領域までことごとくない
五感もなければ 五感の感受もない 見える世界もなければ 意識ある世界もない 無明も無ければ 又無明が尽きることも無い

迷いもなく、迷いがなくなることもない
老いも死もなく、また、老いと死がなくなることもない
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない
知ることもなく、得るところもない
根源的な叡智に到達する者は心を覆うものがすべてない
心を覆うものがないから、恐れがなく、正しくものを見ることのできない迷いから遠く離れる
過去・現在・未来の目覚めた人々は根源的な叡智に到達することによって、このうえもない正しく平等な目覚めを得る
大いなる心のビジョン大いなる悟りのビジョン、無上のビジョン、無比のビジョンが拓かれる
全ての苦しみを除き偽りがないから、根源的な叡智に到達することが説かれた
 
「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶」
これで根源的な叡智「般若」に到達することの真髄を終わる

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参考:中村 元・紀野一義訳注「般若心経・金剛般若経」(岩波文庫)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
般若波羅蜜多経は、釈迦滅後5世紀程後に興った大乗仏教の基礎的教義が書かれている、長短様々な般若教典を集大成したもので、通称大般若経と呼ばれ、600巻余の膨大な経典として現在に残る。 般若経典は西暦150年頃に現在の形の原形が成立し、サンスクリット文字にて文書化され、以後長短様々な般若経典へと発展していった。 西暦630年頃、三蔵法師玄奘がインド等へ16年の旅の末、それらの般若経典群を中国へ持ち帰り、更に玄奘自ら翻訳の指揮を取って4年の歳月を掛けて漢訳し、西暦663年『大般若波羅蜜多経』が完成した。 この漢訳が広く日本にも伝えられ、現在国内の各寺院に保存される大般若経となる。 この『大般若波羅蜜多経』のサンスクリット本は発見されておらず、さらに『仁王般若波羅蜜経』偽経説などもあるため、翻訳時に玄奘自身或いはその周辺者による研究・加筆・集大成が行われた可能性もある。 なお一般に、この膨大な教典を300余文字に要約したものが有名な般若心経(はんにゃしんぎょう)であるとされているが、大般若波羅蜜多経には般若心経そのものは含まれておらず、成立も般若心経の方が先とされている。
この日本の伝統には、様々な場処から辿りついた哲学がある。 それらを凡庸にみせている、寝惚けた頭を一度叩き割ることは必要だろう。
勿論のこと「宗教」など他力放願にする色眼鏡など付けないで、自分の責任において向き合わない限り、凡庸な黴臭い表相しか見出すことはできないだろう。

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一切の存在はただ自己の阿頼耶識より作り出された仮のもので、識のほかには事物的存在はないという。
「目の前にあるコップの水も、そう見つめる眼識があるから存在すると知覚される」
「しかし人の識が幻想させている、共同で実態のないものを想念しているにすぎない」

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識という八つの識が生み出す夢幻の世界。
自己と自己を取り巻く自然界との全存在は自己の根底の心である阿頼耶識が知らしめた変現したものである。
映画マトリックスの発想はこの哲学をヒントにして、娯楽のフィールドへ展開させたものである。

識とは心である。
心が集起綵画し主となす根本によるから、経に唯心という。
  
「唯識」といって、唯八識のみであるというのは、一切の存在現象がこの八識を離れないということである。
八識のほかに存在がないということではない。
おおよそ分別して五法としている。
(1)心、(2)心所、(3)色、(4)不相応、(5)無為である。
この前の四つを「事」として、最後を「理」として、五法事理という。

心…識の自相
心所…識の相応法
色…心と心所の所変
不相応…心と心所と色の分位の差別
無為…前四法の実性
「唯」の語は遍計所執性を遮遣して、「識」の語は依他起性、円成実性の二性をとる、と説く。併せて三性という。

「我、十方唯識を諦観するをもって、識心円明なり。
円成実に入りて、依他起および遍計執を遠離して、無生忍を得る。
これ第一と為す。」(弥勒菩薩)

「唯心」の語は因果に通じるが、「唯識」と称するときには、ただ因位にある。
「唯」とは簡別の意味で、識以外に法がないことを簡別して「唯」という。
「識」とは了別の意味である。
能変(第八識) 二能変(第七識) 三能変(前五識)
全存在を心のなかに還元し、その全存在のあり方を、遍計所執性(分別された非存在)と依他起性(因と縁という他なるものに依って生起した仮の存在)と円成実性(完成された真に存在するもの)の3種類に分類される。
ただ意識する心のみがあり、外界には事物的存在はの実体は何処にもない。

これは西洋思想でいう唯心論ではない。 なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在(空)であり、究極的にはその存在性も否定されるからである。
「識もまた空であり、一切が空である」

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種子(しゅうじ) 一切有漏無漏の現行法を生じる種子。
五根(ごこん) 眼耳鼻舌身意の五根。
器界(きかい) 山川草木飲食器具などの一切衆生の依報。

阿頼耶識は、常にこの三種を所縁の境とする。
心に積集、集起の二つの義があって、阿頼耶識は諸法の種子を集め、諸法を生起するする。
「種々の法によって、種子を薫習し、積集する所なるが故に。 
梵で質多という。これ心と名づくなり。
即ち積集の義はこれ心の義。集起の義はこれ心の義なり。
能集してもって多くの種子生ずる故に。この識を説いてもって心と為す。」 

唯識説の説く八識のうち第七識であり、第八識を所依として、第八識の見分を所縁として生じる識である。末那識(まなしき、(skt.) manas) を「意」と訳す。
「意」は思量の意味であり、この識は常に第八識の見分を縁じて、我である、法である、と思量するから末那と言われる。
我法二執の根本である。
思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。
この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる。
第六識も「意識」というので、その違いは、意識は意によって生じる識であるから意識という。
パソコンの中には感覚器官を刺激して、「恒審思量」を積み重ねて執着し続けるプログラムだらけといっていい。

2007年7月 3日 (火)

「無心のまえぶれ」(Auguries of Innocence) ウィリアム・ブレイク

 一粒の砂に世界を見、一輪の花に天国を見る。
 きみのたなごころに無限を、 そしてひとときのうちに永劫をとらえる。

 龍に捕らえられた赤い胸毛の駒鳥は、 天国中を憤らせる。

 鳩舎に家鳩と野鳩をびっしり詰め込めば、 地獄は隅々まで身震いする。
 主人の家の門で飢えている犬は、 国家の滅亡を預言する。

 路上で虐使される馬は、 償いの人の血を神に呼び求める。
 狩り立てられる兎の一声一声が、 人の脳髄から一本ずつ筋を引きちぎる。

 雲雀が翼に傷を受けると、 天使ははたと歌を止める。
 羽根をもがれた無惨な闘鶏の姿は、 昇る朝日をぞっとさせる。

 狼や獅子が吼える毎に、 人の魂が一つ地獄から浮かび上がる。

 あちらこちらに彷徨く野鹿のおかげで、 人の魂は苦労から救われる。
 虐使される仔羊は争乱の元になっても、 なお肉屋のナイフを許す。

 夕暮れ迫る頃に飛びはためく蝙蝠は、 信じようとせぬ者の脳髄からでてきたもの。
 夜をおとのう梟は、 不信者の怖れを物語る。

 小さな鷦鷯を傷つける者は、 決して人から愛されることなし。
 牡牛を激怒に導いた者は、 決して女人から愛されることなし。

 蝿を殺す悪童は、 きっと蜘蛛の憎しみを受ける。
 黄金虫の心を苛む者は、 無明の長夜に迷い込む。

 葉の上の青虫の姿は、 きみの母の悲しみを再びきみに告げる。
 蛾を殺すな蝶も殺すな、 最後の審判が近づいているから。

 馬を調教して戦に赴かせる者は、 決して天国の門をくぐることなし。
 乞食の犬と寡婦の猫、 それを飼い養うならきみは肥える。

 盛んに夏の歌を唄うぶよは、 そしりの舌から毒を取り込む。
 蛇やいもりの毒は、 羨望の足の汗にほかならない。

 蜜蜂のもつ毒は、 芸術家の妬みにほかならない。

 王侯の美服と乞食の襤褸は、 けちの財嚢に生えた毒茸にほかならない。
 悪心から語られた真であっても、 きみの作り出せる凡ての嘘を打ち負かす。

 そうなってゆく そのままでよいのだ。
 人は喜び悲しむために造られたのだ。
 この理を我ら正しく知れば、 我らはこの世を安らかに過ごす。

 喜びと悲しみは見事に織り合わされ、 聖なる魂の衣となる。

 一つ一つの嘆きと悩みの下を、 絹の二子糸のように喜びが走る。

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 赤ん坊はおくるみ以上の存在である(人の住むどこの国でも、道具は作られるが手は生まれつき)。
 これはどんな百姓でもよく知っている。
 一々の目の涙一粒一粒が、 そのまま永遠界で赤ん坊の一人となる。

 これを輝かしい女性が捉え、 赤ん坊自身の喜びへと返す。
 泣き声、吼え声、唸り声、わめき声、 全てこれらは天国の岸打つ波。

 苔の下で泣き叫ぶ赤ん坊は、 死の国へ行って仇を討つ。
 空にはためく乞食の襤褸は、 もろもろの天をぼろぼろに引き裂く。

 剣と銃で武装した軍人は、 真夏の太陽をよぼよぼにする。
 貧乏人のびた銭一枚は、 アフリカの岸が産出する黄金の全てよりも値打ちもの。

 労働者の手からもぎ取った小銭一枚が、 けちの所有地を売り買いすることになる。
 またもし天上からの加護があれば、 けちの輩から全部を売り買いする。

 幼子の信仰を嘲り笑う者は、 老いぼれて死ぬとき我が身が嘲られる。
 子どもに疑うことを教え込む者は、 腐る墓から決して出ることなし。

 幼子の信仰を敬う者は、 地獄にも死にもよく勝つ。
 子どの玩具と老人の理屈は、 春と秋に実る果物。

 狡賢く構えこんで尋問する者には、 正しい答え方がてんで分からぬ。
 疑いの言葉に答える者は、 知識の光を忽ち吹き消す。

 今までに知られた最も強い毒は、 カエサルの月桂樹から出ている。
 何が人類を醜くすると言っても、 鎧の鉄の締め金には及ぶものなし。

 黄金と宝石が鋤を飾るとき、 羨望は平和な芸術に頭を下げる。
 謎か、または蟋蟀の鳴き声ぐらいが、 疑いには丁度似合いの答え。

 蟻の一インチ、鷲の一マイルを 笑う哲学者がびっこを曳いている。
 目に見えるものを物差しにして疑う者は、 どう工夫しても決して信仰の境地には入れぬ。

 太陽や月が万が一疑うとしたら、 この二つは忽ち消えて無くなろう。
 怒りを外へ出すのは時に身の薬。
 しかし怒りを内に蓄えるのは何の役にも立たぬ。

 娼婦や博打打ちが、国家から免許されるようでは、 その国民の前途は知れている。
 街から街へ客を呼んで歩くあの娼婦の叫びは、 老いたイギリスの経帷子を織る。

 博打に勝った者の叫き、負けた者の呪いが、
 死んだイギリスの棺桶を前にして躍る。

 夜ごと、朝ごと、 惨めに生まれるものあり。
 夜ごと、朝ごと、 心地よい喜びへと生まれるものあり。

 心地よい喜びへと生まれるものあり。
 無明の長夜へと生まれるものあり。

 我々が嘘を真とと信ずるようになるのは、 目を通してものを見抜かないとき。
 その目は一夜で滅ぶべく一夜で生まれた、 魂が光の輝きの中に眠っているときに。

 神は姿を現す、神は光である、 夜に住むあの哀れな魂の持ち主には。
 しかし神ははっきりと人間の形を示す、 真昼の領分に住む人たちには。

■ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757年11月28日 - 1827年8月12日)は、イギリスの画家、詩人、銅版画職人。
「幻視者 (Visionary)」の異名を持ち、唯理神ユリゼン (Urizen) やロス (Los) などの登場人物たちが現れる「預言書」と呼ばれる作品群において独自の象徴的神話体系を構築する。初期においては、神秘思想家スウェーデンボルグの影響もみられた。詩の中では詩集『無垢と経験のうた (The Songs of Innocence and of Experience)』に収められた「虎よ!虎よ!(Tyger Tyger)」で始まる「虎 (The Tyger) 」がよく知られている。晩年にはダンテに傾倒、イタリア語を習い、病床で約100枚にのぼる『神曲』の挿画(未完成)を水彩で描いた。

混線トピックス

Cood1 Cood2

どこまでーも、行こう♪ たとえ路がー狭くともーーどこまでーも、行こう♪

Cood3 Cood4 Cood5

2007年7月 2日 (月)

デペイズマンの水

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「目に見える世界はそれ自体が、“神秘”を呼び起こす詩的言語を形成するのに十分に豊かであるから、諸々の事物を描くにはもはやそれらの外観上の細部にしかこだわらない」 「しかし、詩人たちは言葉を用いるわけですし、言葉は、不可視のもの、目に見えないものに属していると言えます。ところが、私は画家ですから、事物の外観、事物が語ることしか示すことはできないのです。でも、それらの明白な事物は、神秘なしに存在することはできません。私にとっては、リアリズムも問題なのです。現実が、私には最も重要なものと思われるからです。現実性、現実というものがです。しかし、現実は、直接に我々を取り巻いている日常のわかりやすいものとは違います。現実自体は、人がそれを感じ取るある瞬間にしか存在しないのではないでしょうか。そして、こうした現実を、私は自分の絵によって呼び起こそうとしたのです」 (マックス=ポル・フーシェによるマグリットとの対話、ORTF、1967年6月5日)

2007年7月 1日 (日)

偶然の磁場に運ばれ漂流することがないようにする

Quatuor Mondo1

 

「イメージはイメージでしかなく、象徴ではないし、技法とは型にはまったものである。絵画の神秘というものは存在せず、現実の神秘が存在するのであり、それを出来る限り正確に表すことが問題なのである」

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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22カードの意味

  • _0 愚者
    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

オンライン状態

ペンギンタロットの原画

  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。