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2008年1月31日 (木)

パウル・クレー(Paul Klee, 1879年12月18日 - 1940年6月29日)

ドイツでワシリー・カンディンスキーらの青騎士のグループに参加し、バウハウスで教鞭をとったこともある。その作品は表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特の世界を形づくった20世紀の画家、美術理論家。


パウル・クレー・センター (ベルン)1879年、スイスの首都ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれた。父は音楽教師、母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家であった。クレー自身もプロ級のバイオリン奏者であり、1906年に結婚した妻もピアニストであった。彼は音楽ではなく絵の道を選び、1900年、ミュンヘンの美術学校で象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックの指導を受ける。なお、シュトゥックはカンディンスキーの恩師でもあった。

クレーは初期には風刺的な銅版画やガラス絵などを試み、また、アカデミックな手法の油絵を残している。1906年以降、ミュンヘン分離派展に銅版画を出品。1910年にはベルン等で個展を開く。カンディンスキー、マルクらの「青騎士」展には第2回展から参加している。クレーの画業において転機となったのは1914年春から夏にかけてのチュニジア(北アフリカ)旅行であった。この旅行に感銘を受けたクレーは鮮やかな色彩に目覚め、作風は一変する。クレーの画集等で紹介されている色彩豊かな作品は、ほとんどがこの旅行以後のものである。

クレーは1916年から1918年まで第一次世界大戦に従軍。1921年から1931年までバウハウスで教鞭をとった。彼は芸術理論にも通じ、多くの理論的著作を残している。 1931年から1933年までデュッセルドルフの美術学校の教授をした後、晩年の数年間は故郷ベルンで過ごしている。最晩年は手がうまく動かない難病にかかるが、背もたれのある椅子に座り、白い画用紙に黒い線を引くことにより天使などの形を描いては床に画用紙を落とす事を繰り返したという。 その天使の絵に心を打たれた詩人谷川俊太郎は「クレーの天使」という詩集を出している。

St_beatenberg Forgetful_angel

「芸術は見えないものを見えるようにする」と主張していたクレーの作品は、通常のキャンヴァスに油彩で描いたものはむしろ少なく、新聞紙、厚紙、布、ガーゼなどさまざまな支持体に、油彩、水彩、テンペラ、糊絵具などさまざまな画材を用いて描いている。サイズの小さい作品が多いことも特色で、タテ・ヨコともに1メートルを超える「パルナッソス山」のような作品は例外的である。

ヴァルター・ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』で語られる高名な「歴史の天使」論は、クレーの『新しい天使』に触発されたものである。ベンヤミンは、ドイツからの亡命途中ピレネー山中で自殺するまで、この絵を携行した。
(Wikipedia.より)
Kleeyellowbirds Kleek 

[Paul Klee 主な作品]
パルナッソス山(1932年)R荘(1919年)死と炎(1940年)
忘れっぽい天使(1939年) プルンのモザイク(1931年)故郷 

ツェントルム・パウル・クレー(ドイツ語、英語、フランス語)
http://www.paulkleezentrum.ch/ww/de/pub/web_root.cfm

http://www2.plala.or.jp/Donna/klee.htm
http://www.paul-klee-japan.com/

パウル・クレー 人間としてそして芸術家として
http://www.swissinfo.ch/jpn/swissinfo.html?siteSect=2550

この世では私は理解されない。
いまだ生をうけてないものや、死者のもとに私がいるからだ。創造の魂に普通よりも近付いているからだ。
だが、それほど近付いたわけでもあるまい。
Paul Klee(1879-1940)

 Kleep  Paulklee     
ロラン・バルトは「芸術作品は歴史がみずからの満たすべき時間をすごしている様式である」と言った。ウンベルト・エーコは「芸術作品は歴史と心理が異なる情報を受信した者が描いたテクストである」と『記号論』に書いた。
この二つの定義にともに適う作品を描き、かつそのことを自身で言葉によって論証し、さらにそのことを後世の青年青女たちに「方法」として送信したアーティストはというと、パウル・クレーがその稀な一人だったと思っている。それなのに、ラディカルな瞠目すべき方法の提示が受けとめられていない。
 
パリに移ったコルビュジエがアメデオ・オザンファンの「ピュリスム」(純粋主義)に共鳴したように、クレーもまたパリに入ってすぐにロベール・ドローネを訪れて「オルフィスム」に共感した。オルフィスムはアポリネールがオルフェウスに因んで名付けた感覚的な表現動向のことだが、いわば「絵画的テクストは歌えるものだ」ということを告げていた。クレーとともに、レジェ、ピカビア、デュシャンがこの歌を奏でた。

クレーには「スペーシャル・オーガニズム」があったのである。
空間的有機体への確信だ。それとともに、クレーは、「インディビデュアル」ということを突きとめていた。インディビュアリティ(individuality)といえば、誰もがみんな「個性」をさしているような気になっているようだが、"individual"とは、もともとは"vidual"(分割できるもの)に対する「非分割的なもの」を意味している。すなわち「分割できない有機性」がインディビデュアリティなのである。
「無理にでも分割しようとすると、その引き離された部分は死滅してしまうのだ。分割できなくて融合していることが、本来のインディビデュアリティなのだ」

 クレーは分割できるものと分割できないものの、その両方をバウハウスの授業で「構成」および「動向」の分節思考法として提供したのである。スペーシャル・オーガニズムとはそのことだ。そのスペーシャル・オーガニズムの方法についての講義ノートとなったのが『造形思考』である。
 方法の核はただひとつ、分節とは何か――。

その現代デザイン史上の僥倖をいくら強調しても、強調しきれない。クレーはもともと「形態の学校」を熱く想像していたのだった!
クレーがそのバウハウスで方法の魂を傾けたこととは、造形(フォルム)にとって最も重要なこととは、「分節」ということなのである。アーティキュレーションだ。アーティキュレーションとはバロック期までの声楽および器楽のための音楽用語でもある。むろん言語学用語でもあって、かつて言葉と音楽が蜜月的照応関係をもっていたころ、アーティキュレーションはすべての表現の鍵を担っていた。クレーはそれを持ち出した。
クレーは「色の画家」であって、生涯を通しての「音の画家」でもあった。音楽と言語にも関心を寄せながら「分節」を凝視するのだが、それを造形思考に持ちこむにあたっては、実に多くの例示と闘った。例示というのは、人類が積み重ねてきたあらゆる「線」を片っ端からトレースしてみるということだ。
「芸術とは目に見えるものを再現することではない」
「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである」

 バウハウスの初日の授業のとき、クレーは何も言わずに木炭を手にすると、画架にかけた油紙に全神経をこめた2本の線をゆっくり引いたという。電気のようだったという記録がのこっている。
 そして、これを学生に画用紙に描かせ、おもむろにその木炭の持ち方、姿勢、つづいて一人一人の線の描き方に注文をつけていった。それからしばらくしてある線をスライドで見せ、さらにこれをスケッチさせてから、その線が含まれるマチスの絵のスライドを見せた。よくよくマチスの絵を見せておいて、そこでクレーはカーテンを引き、電気を消したのだ。そのうえであらためて、マチスを描かせたのだ。学生たちは愕然とした。
 これが、「見えるもの」と「見えるようにすること」のあいだにある出来事なのである。この見えたマチスと、暗闇になったあとのアタマの中のマチスとのあいだに、クレーの分節論がすべて凝結していたのである。

 分節はデッサンやデザインなら、鉛筆をとったのちの、まず紙の上に始まっていく。そうだとすれば、イメージはなんらかの造形思考を開始することによってしか取り出せないということなのだ。それが音であるのなら、ピアノに向かうか、ハミングするか、あるいは楽譜に落とすかとしないかぎりは取り出せない。
 いま、諸君が目の前の何かを見ているときも、以上のことと同じことがおこっているはずである。アタマの中から何かを別のメディアに取り出さないかぎり、その目の前の見ていることは、何も進まない。見ているだけでは、何もおこらない。それを見えるようにするにはイメージそのものを分節していかなければならない。

Nake

 クレーが人類の原始時代からの線描に関心をもったのはそこからである。エジプトに旅行をしてプリミティブな線描画に出会い、衝撃をうけたのは、この「イメージに内在する分節性」に直面したからだ。クレーは驚くほど多くの歴史上の線描に注目し、これをひとつずつスケッチし、さらに自分の内面(アタマの中)に入れては、しばらくしてこれを取り出していった。その作業に集中した。
 こんなエクササイズを繰り返した画家が、かつていたのだろうか。それはアンリ・ミショーがメスカリンを飲んで衝動をもってドローイングした線ではなかったのである。ウィリアム・ブレイクが霊感から導き出した線でもなかった。ハンス・ベルメールが少女の体に見出した線でもない。クレーの線は、人類の原型的な分節思考がとどめた記憶を引きずり出したのである。

もし諸君のアタマの中でデザインや編集が進まないというのなら、一度、パウル・クレーに立ち戻ってみるとよい。目からウロコがはがれ、脳のスダレがあがるだろう。それがどうしても面倒だというなら、パソコンを切り、部屋の電気を消して、アタマの中に30分前に浮かんだことをトレースしてみることである。
『造形思考』Paul Klee : Das Bildneische Denken 1956
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1035.html

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