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2008年2月23日 (土)

アトランティス (Atlantis) とは

古代ギリシアの哲学者プラトン (紀元前427頃–347頃) が著作『ティマイオス』 (Timaios) 及び『クリティアス』 ( Kritias)) の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことであり、強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。

本来古代ギリシア語の『アトランティス』という単語は、ギリシア神話のティタン族の神であるアトラス (’Ατλας, Atlas) の女性形であり、『アトラスの娘』、『アトラスの海』、『アトラスの島』 (古代ギリシア語の『海』 (タラッサ, θάλασσα) や『島』 (ネーソス, νη̃σος) は女性名詞) などを意味する。

アトラス神
アトラスは (1) 『支える』を意味する印欧祖語のdher-2 (英語のholdに相当)に由来する (2) ベルベル諸語の単語が元で、ベルベル人のアトラス山脈への信仰に由来するなど、その語源には諸説ある。アトラス神への言及はホメロス (紀元前9–8世紀頃に活躍)の『オデュッセイア』が初出で、「大地と天空を引き離す高い柱を保つ」と謳われている。(Hom.Od.i.52) 一方、ヘシオドス (紀元前700頃に活躍) の『神統記』以降は、ティタノマキアにおいてティタン族側に加担した罪で、地の果てで蒼穹を肩に背負う姿として叙述されるようになり、フルリ人やヒッタイト人の神話に登場するウベルリの影響を受けたものと考えられている。また、アトラスが立つ地の果ての向こうの大洋には島があり、ニュクス (夜) とエレボス (曙) の娘達とされるヘスペリデスが、ゴルゴン族の傍らで黄金の林檎を守っているとされ、(Hes.Theog.213–216,275–280,517–521) 後にアトラスの娘達として知られるプレイアデスやアトランティデスなどと同一視されるようになる。(Diod.iv.27.2; Paus.v.17.2,vi.19.8)

Atranths

大西洋、アトラス山脈とアトラスの名前を冠する諸民族
プラトンの対話集に先立ち『アトランティス』は大西洋を意味する地名として使われている。ヘロドトス (紀元前484頃–420頃)は『歴史』の中で大西洋を「アトランティスと呼ばれる柱の外の海」と記述した。(Herod.i.203.1) 以降大西洋は今日に至るまで「アトラスの」海、大洋 (ラテン語: Atlanticum Mare; 英語: the Atlantic Ocean) と呼ばれるようになる。

またヘロドトスはアトラス山脈について始めて言及しているが、山脈としてではなく単独の雪山としてリビア内陸のフェザン地方にそびえているものとして記述し、その山麓の砂漠に暮らす、日中の太陽を呪い、名前を持たないアタランテス人 (’Ατάραντες, Atarantes) と、肉食をしないために夢を見ないアトランテス人 (’Άτλαντες , Atlantes) に触れている。(Herod.iv.184–185)

シケリアのディオドロス (紀元前1世紀に活躍) は『歴史叢書』の中で、アフリカの大西洋岸 (モロッコ西岸) に聳えるアトラス山と、その麓でギリシア人並の文明生活を送っているアトランティオイ人 (’Ατλάντιοι, Atlantioi) について記載している。アトランティオイ人の神話によると、ウラノスがアトランティオイ人に都市文明をもたらし、その後ティタン達が世界を分割統治した際にアトラスが大西洋岸の支配圏を得たが、アトラスはアトラス山の上で天体観測を行い、地球が球体であることを人々に伝えたという。また、アトラス王は弟ヘスペロスの娘ヘスペリティスと結婚して7人の美しい娘達 (ヘスペリデス、アトランティデス) の父となり、エジプトのブシリス王の依頼を受けた海賊に誘拐されてしまった娘達をヘラクレスが救った際に、その礼としてヘラクレスの最後の功業を手伝ったのみならず、天文の知識を教えたが、これがギリシア世界でアトラスの蒼穹を担ぐアトラス伝説へと変化してしまったという。(iii.56–57,iii.60–61,iv.27)

ストラボン (紀元前64頃–紀元23頃) の『地誌』においては、アトラスはマウレタニアの山脈として認識されるようになり、ベルベル人はデュリス山脈 (Dyris) と呼ぶと紹介している。また、ストラボンは、ジブラルタル海峡以西のアフリカ沿岸世界については、古来より嘘にまみれた様々な創作のせいで、真実の報告を見分けるのは難しいとも述べている。(Strabo.xvii.3.2(p.825–826))

ガイウス・プリニウス・セクンドゥス (大プリニウス, 23–79) の『博物誌』は、歴史家ポリュビオス (紀元前200頃–118頃) や クラウディウス帝時代のローマの遠征軍がマウレタニアで得た知識を元に、現地の言葉でディリス山脈 (Diris) とも呼ばれるアトラス山脈の地理を詳しく記述しており、古典時代のギリシア人の北西アフリカにおける不正確な地理的知識は、当時この地を支配していたカルタゴ人のハンノ(Hanno, 紀元前5世紀頃) 以来、さまざまな空想の混じった伝聞が流布してしまったことによるものと指摘している。(Plin.Nat.v.2–5(s1)) アトランテス人に関してはヘロドトスのアタランテス人の特徴と混ぜて引用し、リビアの砂漠の奥に住むと記述している。(Plin.Nat.v.14(s4)) また、ポリュビオスの報告として、アフリカのアトラス山脈の大西洋側の末端の山の沖合いに、ケルネ島とアトランティス島があると記述している。(Plin.Nat.vi.60(s36))

ポンポニウス・メラ (Pomponius Mela, 1世紀に活躍) は『世界地理』の中で大西洋岸に面したアトラス山を紹介し、(Mela.iii.101(s4)) また、リビアの内陸に住むアトランテス人についても、ほぼ大プリニウスと同様の内容を記述している。(Mela.i.23(s1),i.43(s2))

クラウディオス・プトレマイオス (90頃–168頃) は『地理学』の中で、アトラス山脈の大西洋側の末端に相当する岬の山として、大アトラス山 (経度8°北緯26°30′[1]) と小アトラス山 (経度6°北緯33°10′) について座標を与えている。(Ptol.Geo.iv.1.2)

パウサニアス (Pausanias, 2世紀に活躍) の『ギリシア案内記』はリビアの砂漠の中に住む民族としてヘロドトスのアトランテス人を引用し、この民族は大地の広さを知っており、リクシタイ人 (Λίξιται, Lixitai) とも呼ばれることを記している。また、砂漠の中のアトラス山からは3つの川が流れ出るが、全て海へ流れ込む前に蒸発してしまうという。(Paus.i.33.5–i.33.6(s.5))

[プラトンのアトランティス伝説]

作品構想と背景
『ティマイオス』と『クリティアス』は、プラトンがシュラクサイの僭主ディオニュシオス2世 (Dionysios, 紀元前390頃–330頃) の下で理想国家建設に失敗した後、晩年にアテナイで執筆した作品と考えられている。両作品はプラトンの師匠である哲学者ソクラテス (紀元前470頃–399)、プラトンの数学の教師とも伝えられているロクリスの政治家・哲学者ティマイオス (紀元前5世紀後半)、プラトンの曾祖父であるクリティアス (紀元前500頃–420頃)[2]、そして、シュラクサイの政治家・軍人ヘルモクラテス (紀元前450頃–408/407) の4名の対談の形式で執筆されている。『ティマイオス』では主にティマイオスが宇宙論について語り、『クリティアス』では主にクリティアスが実家に伝わっているアトランティス伝説について語っている。ヘルモクラテスは一連の作品群で語りの役割を果たしていないが、作品中ソクラテスによって第三の語り手と紹介されていることから、(Pl.Criti.108a) アトランティスとアテナイの間の戦争に関して軍人ヘルモクラテスに分析させた、『ヘルモクラテス』という作品が構想されていたという説が、プラトンの対話集の英訳で知られる英国の古典学者ベンジャミン・ジャウエット (Benjamin Jowett, 1817-1893)などにより提唱されている。

クリティアスの家で行われたとされるこの対談が現実のものであったとするのなら、ニキアスの和約が成立した紀元前421年8月頃のパンアテナイア祭りの最中で、(Pl.Criti.21a) クリティアスの孫のプラトンはまだ6歳の少年としてこの話を横で聞いたということになる。また、対談には病気で欠席した人間がいることになっている。[3](Pl.Criti.17a)

核となる伝説は、アテナイの政治家ソロン (紀元前638頃–559頃) がエジプトのサイス (Sais) の神官から伝え聞いた話を親族にして友人のドロピデス(Dropides, 紀元前6世紀前半頃) に伝え、更にその息子のクリティアス (紀元前580頃–490頃) が引き継ぎ、更に同名の孫のクリティアスが10歳の頃に90歳となった祖父のクリティアスからアパトゥリア祭 (Apaturia) の時に聞かされた事として、対話集の中で披露されている(ソロンとクリティアス、プラトンの血縁関係はクリティアス (プラトンの曾祖父)参照)。(Pl.Tim.20d–21e) 作中の神官によると、伝説の詳細は手に取ることのできる文書に文字で書かれていることになっている。(Pl.Tim.24a) ソロンはこの物語を詩作に利用しようと思って固有名詞を調べたところ、これらの単語は一度エジプトの言葉に翻訳されていることに気付いた。そこでソロンはエジプトで聞いた伝説に登場する固有名詞を全てギリシア語風に再翻訳して文書に書き残し、その文書がクリティアスの実家に伝わったという。(Pl.Criti.112e–113b)

『ティマイオス』
『ティマイオス』の冒頭でソクラテスが前日にソクラテスの家で開催した饗宴で語ったという 理想国家論が要約されるが、その内容はプラトンの国家とほぼ対応している。そして、そのような理想国家がかつてアテナイに存在し、その敵対国家としてアトランティスの伝説が語られる。
アマシス2世 (Amasis; アアフメス2世, 紀元前600頃–526年)が即位した後の紀元前570–560年頃、ソロンは賢者としてエジプトのサイスの神殿に招かれた。そこでソロンは、デウカリオンの洪水伝説で始まる人類の歴史の知識を披露する。

「すると神官たちの中より非常に年老いた者が言われた「おおソロンよ、ソロン。ヘレネス (ギリシア人) は常に子供だ。ヘレン (ギリシア) には老人 (賢者) がいない。」」(Pl.Tim.22b)

神官は、ギリシアでは度重なる災害によってせっかくある程度発達した文明が何度も消滅し、歴史の記録が何度も失われてしまったが、ナイル河によって守られているエジプトではそれよりも古い記録が完全に残っており、デウカリオン以前にも大洪水が何度も起こったことを指摘する。また、女神アテナと同一視される女神ネイト (Neith)が神官達の国家体制を建設してまだ8,000年しか時間が経っていないが、[4] アテナイの町はそれよりさらに1,000年古い9,000年前 (即ち紀元前9,560年頃) に成立しており、女神アテナのもたらした法の下で複数の階層社会を形成し、支配層に優れた戦士階級が形成されていたことを告げる。

その頃ヘラクレスの柱 (ジブラルタル海峡) の入り口の手前の外洋であるアトラスの海 (’Ατλαντικός πελαγος, 大西洋)にリビアとアジアを合わせたよりも広い、アトランティスという1個の巨大な島が存在し、大洋を取り巻く彼方の大陸との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。アトランティス島に成立した恐るべき国家は、ヘラクレスの境界内 (地中海世界) を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニアに至るまでのヨーロッパを支配した。その中でギリシア人の諸都市国家はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。

「しかしやがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、あなた方 (=アテナイ勢) の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまった。それ故その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている。」(Pl.Tim.25c–d)

ここでクリティアスは太古のアテナイとアトランティスの物語の簡単な紹介を終え、以降ティマイオスによる宇宙論へ対談の話題が移る。

『クリティアス』
作品の冒頭の記述から、この作品は先の『ティマイオス』の対談と同じ日に行われた続編にあたる対談であることが示唆されている。ティマイオスにおける宇宙論に引き続き、今度はクリティアスがアテナイとアトランティスの物語を披露する。
アトランティスと戦った時代のアテナイ
9,000年以上前、ヘラクレスの柱の彼方に住む人々とこちらに住む人々の間で戦争が行われた時、それぞれアテナイとアトランティスが軍勢を指揮した。当時のアテナイ市民は私有財産を持たず、多くの階層に分かれてそれぞれの本分を果たしていた。また、当時のアテナイは現在よりも肥沃であり、約2万人の壮年男女からなる強大な軍勢を養うことが出来たし、アテナイのアクロポリスも遥かに広い台地であったが、デウカリオンの災害から逆算して三つ目に当たる彼の大洪水により多くの森が失われ、泉が枯れ、今日のような荒涼とした姿になってしまった。エジプトの神官は当時のアテナイの王の名前として、ケクロプス (Κέκρωψ, Kekrops)、エレクテウス (’Ερεχθεύς, Erechtheus)、エリクトニオス (’Εριχθόνιος, Erichthonios)、エリュシクトン (’Eρυσίχθων, Erysichthon)などを挙げたとソロンは証言している。

アトランティスの建国神話
アトランティス島の南の海岸線から50 スタディオン (約 9.25 km)の位置に小高い山があり、そこで大地から生まれた原住民エウエノル (Ε’υήνωρ, Euenor) が妻レウキッペ (Λευκίππη, Leukippe)の間にクレイト (Κλειτώ, Kleito) という娘を生んだ。アトランティスの支配権を得た海神ポセイドンはクレイトと結ばれ、5組の双子の合計10人の子供が生まれた。即ち『アトラスの海』 (大西洋) の語源となった初代のアトランティス王 アトラス、スペインのガデイラに面する地域の支配権を与えられたエウメロス (Ε’ύμηλος, Eumelos) ことガデイロス (Γάδειρος, Gadeiros)、アンペレス (’Αμφήρης, Ampheres)、エウアイモン (Ε’υαίμον, Euaimon)、ムネセウス (Μνησεύς, Mneseus)、アウトクトン (Α’υτόχθον, Autochthon)、エラシッポス (’Ελάσιππος, Elasippos)、メストル (Μήστωρ, Mestor)、アザエス (’Αξάης, Azaes)、ディアプレペス (Διαπρεπής, Diaprepes) で、ポセイドンによって分割された島の10の地域を支配する10の王家の先祖となり、何代にも渡り長子相続により王権が維持された。ポセイドンは人間から隔離するために、クレイトの住む小高い山を取り囲む三重の堀を造ったが、やがてこの地をアクロポリスとするアトランティスの都、メトロポリス (μητρόπολις, metropolis)が人間の手で形作られていった。

アトランティスの都
アクロポリスのあった中央の島は直径5 スタディオン (約925 m)で、その外側を幅1 スタディオン (約185 m)の環状海水路が取り囲み、その外側をそれぞれ幅2 スタディオン (約 370 m) の内側の環状島と第2の環状海水路、それぞれ幅3 スタディオン (約555 m)の外側の環状島と第3の環状海水路が取り囲んでいた。一番外側の海水路と外海は、幅3 プレトロン (約92.5 m)、深さ100 プース (約30.8 m)、長さ50 スタディオン (約 9.25 km)[5]の運河で結ばれており、どんな大きさの船も泊まれる3つの港が外側の環状海水路に面した外側の陸地に設けられた。3つの環状水路には幅1 プレトロン (約30.8 m) の橋が架けられ、それぞれの橋の下を出入り口とする、三段櫂船が一艘航行できるほどのトンネル状の水路によって互いに連結していた。環状水路や運河はすべて石塀で取り囲まれ、各連絡橋の両側、即ちトンネル状の水路の出入り口には櫓と門が建てられた。これらの石の塀は様々な石材で飾られ、中央の島、内側の環状島、外側の環状島の石塀は、それぞれオレイカルコス(オリハルコン)、錫、銅の板で飾られた。内外の環状水路には石を切り出した跡の岩石を天井とする二つのドックが作られ、三段櫂の軍船が満ちていた。

中央島のアクロポリスには王宮が置かれていた。王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされる、クレイトとポセイドン両神を祀る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。これとは別に縦1 スタディオン (約185 m)、横3 プレトロン (約92.5 m) の大きさの異国風の神殿があり、ポセイドンに捧げられていた。ポセイドンの神殿は金、銀、オレイカルコス、象牙で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬に引かせた戦車にまたがったポセイドンの黄金神像が安置され、その周りにはイルカに跨った100体のネレイデス像や、奉納された神像が配置されていた。更に10の王家の歴代の王と王妃の黄金像、海外諸国などから奉納された巨大な神像が神殿の外側を囲んでいた。神殿の横には10人の王の相互関係を定めたポセイドンの戒律を刻んだオレイカルコスの柱が安置され、牡牛が放牧されていた。5年または6年毎に10人の王はポセイドンの神殿に集まって会合を開き、オレイカルコスの柱の前で祭事を執り行った。即ち10人の王達の手によって捕えられた生贄の牡牛の血で柱の文字を染め、生贄を火に投じ、クラテル (葡萄酒を薄めるための甕) に満たした血の混じった酒を黄金の盃を用いて火に注ぎながら誓願を行ったのち、血酒を飲み、盃をポセイドンに献じ、その後礼服に着替えて生贄の灰の横で夜を過ごしながら裁きを行い、翌朝判決事項を黄金の板に記し、礼服を奉納するというものである。

また、アクロポリスにはポセイドンが涌かせた冷泉と温泉があり、その泉から出た水をもとに『ポセイドンの果樹園』とよばれる庭園、屋外プールや屋内浴場が作られたほか、橋沿いに設けられた水道を通して内側と外側の環状島へ水が供給され、これらの内外の環状島にも神殿、庭園や運動場が作られた。さらに外側の環状島には島をぐるりと一回りする幅1スタディオン (約185 m) の戦車競技場が設けられ、その両側に護衛兵の住居が建てられた。より身分の高い護衛兵の居住は内側の環状島におかれ、王の親衛隊は中央島の王宮周辺に住むことを許された。 内側の3つの島々に王族や神官、軍人などが暮らしていたのに対し、港が設けられた外側の陸地には一般市民の暮らす住宅地が密集していた。更にこれらの市街地の外側を半径50 スタディオン (約9.25 km) の環状城壁が取り囲み、島の海岸線と内接円をなしていた。港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢れ、昼夜を問わず賑わっていた。

島の大平原と軍制
アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物資源、象などの野生動物や家畜、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。

島の南側の中央には一辺が3,000 スタディオン (約555 km)、中央において海側からの幅が2,000 スタディオン (約370 km) の広大な長方形の大平原が広がり、その外側を海面から聳える高い山々が取り囲んでいた。山地には原住民の村が沢山あり、樹木や放牧に適した草原が豊かにあった。この広大な平原と周辺の山地を支配したのはアトラス王の血統の王国で、平原を土木工事により長方形に整形した。平原は深さ1 プレトロン (約31 m)、幅1 スタディオン (約185 m) の総長10,000 スタディオン (約1,850 km) の大運河に取り囲まれ、山地から流れる谷川がこの大運河に流れ込むが、この水は東西からポリスに集まり、そこから海へ注いだ。[6] 大運河の中の平原は100 スタディオン (約18.5 km) の間隔で南北に100 プース (約31 m) の幅の運河が引かれていたが、更に碁盤目状に横断水路も掘られていた。運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使った。

平原は10 スタディオン平方 (約3.42 km2)を単位とする6万の地区に分割され、平原全体で1万台の戦車と戦車用の馬12万頭と騎手12万人、戦車の無い馬12万頭とそれに騎乗する兵士6万人と御者6万人、重装歩兵12万人、弓兵12万人、投石兵12万人、軽装歩兵18万人、投槍兵18万人、1,200艘の軍船のための24万人の水夫が招集できるように定められた。山岳部もまたそれぞれの地区に分割され、軍役を負った。他の9つの王国ではこれとは異なる軍備体制が敷かれた。

アトランティスの堕落
アトランティスの支配者達は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり、堕落してしまった。それを目にしたゼウスは天罰を下そうと考えた。

「 (ゼウスは) 総ての神々を、自分達が最も尊敬する住まい、即ち全宇宙の中心に位置し、生成に関わる総てのものを見下ろす所 (= オリュンポス山) に召集し、集まるとこう仰った。」(Pl.Criti.121c)

ここで『クリティアス』の文章は途切れる。

Atlantisthum

他作品における言及
プラトンのアトランティス伝説は他の作品で引用されており、特にプルタルコス、アイリアノス、プロクロスは、プラトンの原文に載っていない情報を提供している。
ストラボン『地誌』
ストラボンは『地誌』の中で、ポセイドニオス (紀元前135頃–51) の著作である『大洋(オケアノス)について』 (オリジナルのテキストは現存せず) の内容批判を行っているが、ストラボンの引用により、ポセイドニオスのアトランティス伝説に対する見解が残っている。ポセイドニオスは<例えばキンブリア人とその仲間の民族が移動を行ったのは、元々住んでいた土地が突然海に浸食されたことによるものと推測されるように>、プラトンのアトランティス伝説について、<「詩人 (= ホメロス) がアカイア勢の防壁について行ったのと同様に、創作者 (= ソロン または プラトン) が消し去った」などという意見があるが、プラトンが言うように真実を含んでいるとみなすべきである>と考えていたという。ストラボンはポセイドニオスの考えについては批判的だが、地殻変動に関してはポセイドニオスと同じ考えを持っており、プラトンのアトランティス伝説に関しては特に否定も肯定もしていない。(Strabo.ii.3.6(p.102))

なお、「詩人が創作し、破壊した」というのは、<トロイア戦争におけるイリオン湾のアカイア勢の防壁はホメロスの創作で、辻褄合わせのためにトロイア戦争終了後に防壁もろとも洪水で破壊されたことにした>という意味であり、ストラボンによると、プラトンの弟子であるアリストテレス (紀元前384–322) の見解とされている。(Strabo.xiii.1.36(p.598)) アリストテレスがプラトンを批判した文章が様々残っていることから、これらの文を組み合わせ、既にプラトンの生きていた時代からアリストテレスは、アトランティス伝説についてもトロイア戦争の防壁と同じようにプラトンの創作物とみなしたと解釈する人もいる。

キケロ『ティマエウス』、『最高善と最大悪について』、『国家』
マルクス・トゥッリウス・キケロ (紀元前106–43)はプラトンの『ティマイオス』をラテン語へ翻訳したが、現在残っている断片は宇宙論に関する部位のみであり、(Pl.Tim.27d–37e, 38c–43b, 46b–47b) アトランティス伝説に関する部位の翻訳は残っていない。(Cic.Tim.) またキケロの『最高善と最大悪について』と『国家』によると、ロクリスのティマイオスはプラトンの数学の師匠であったという。(Cic.de Fin.v.29; de Re Publ.i.10)

プルタルコス『対比列伝』、『イシスとオシリスについて』
プルタルコス (46頃–119以降) の『対比列伝』の『ソロン伝』によると、ソロンはアテナイで改革を行った後 (紀元前594年)、海外を10年間旅し (紀元前593–584)、その最初にエジプトを訪れ、[7] その際ソロンはヘリオポリスではプセノピス (Ψένωφις, Psenophis)、サイスではソンキス (Σω̃γχις, Sonchis) という博識な神官と親交を深め、特にサイスの神官から失われたアトランティスの物語を聞いたという。(Plut.Sol.26.1) このアトランティスの伝説、とりわけアテナイ人の関わる神話 (ロゴス (論理、λόγος) とミュートス (寓話、μυ̃θος)) についてソロンは執筆を始めたが結局中止してしまった。(Plut.Sol.31.3)

ソロンの血縁者であったプラトンは、アトランティスの物語を書き上げようとしたが、結局作品を書き終える前に亡くなり、今日アテナイのオリュンピエイオンの神殿に収められているプラトンの全作品の内、アトランティスの物語 (= 『クリティアス』) だけが未完に終わってしまい、本当に残念なことだとプルタルコスは感想を述べている。(Plut.Sol.32.2) このことから少なくともプルタルコスの時代には、すでに『クリティアス』は未完の作品として伝わっていたことが判る。

なおプルタルコスの別の作品『イシスとオシリスについて』の中でも、ギリシア人の賢者とエジプトの神官との交友の一例として、ソロンとサイスのソンキスの親交が挙げられている。(Plut.de Is. et Osir.10)

アイリアノス『動物の特性について』
アイリアノス (本名クラウディウス・アエリアヌス (Claudius Aelianus), 175頃–235頃) は『動物の特性について』の中で、サルデーニャやコルシカ沖で冬場を過ごし、しばしば波打ち際で人すら襲うというタラッティオス・クリオス (θαλάττιος κρ`ιός, 『海の羊』) と呼ばれる海獣 (シャチと解釈されることが多いが、イッカク説もある) について語っているが、大洋近くに住む住民に伝わる寓話として、ポセイドンの子孫であるアトランティスの王達は王の権威の象徴であるクリオスの雄の皮で作られた帯を頭に巻き、王妃達はクリオスの雌の巻き毛を身に着けていたという話を紹介している。(Ael.NA.ix.49,xv.2)

ピロン『世界の堕落について』、大プリニウス『博物誌』、アテナイオス『食卓の賢人たち』、テルトゥリアヌス『外套について』、ポルピュリオス『プロティノス伝』、大アルノビウス『異邦人に対して』、アンミアヌス・マルケリヌス『歴史』
ユダヤ人の哲学者 アレクサンドリアのピロン (紀元前20頃–紀元50頃) は『世界の堕落について』 (但し贋作と考えられている) の中で、プラトンのティマイオスからの引用として、リビアとアジアを合わせたよりも広かったアタランテスの島が異常な地震により一昼夜で消滅したことに言及している。(Philo.Incor.xxvi)

大プリニウスは『博物誌』において、「プラトンの言うことを信じるのなら、大西洋 (atlanticum mare)に広大な土地があったが」という前置きとともに、海に大地が削り取られた例として言及している。(Plin.Nat.ii.90(s92)) これとは別に、アトランティスという名前の島がアトラス山脈の沖合いに現存していることを示唆している。(Plin.Nat.vi.60(s36))

ナンクラティスのアテナイオス (紀元200頃に活躍)は『食卓の賢人たち』の中で、食後のデザートに関する薀蓄としてプラトンのアトランティス伝説に登場する作物 (Pl.Criti.115a–b) を引用している。(Athen.Deipn.xiv.640d–e)

クイントゥス・セピティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌス (155頃–220頃) は『外套について』の中で、大地の姿形が変化した一例として、大西洋にあったというリビアやアジアと同じ大きさの島が消えた事を挙げている。(Tertul.De Pallio.i.2.21)

ポルピュリオス (Porphyrios, 234頃–305頃)の『プロティノス伝』によると、ネオプラトニスムの創始者といわれるプロティノス (205頃–270)の弟子ゾティコス (Zotikos, 265頃死去)は、コロポンのアンティマコス (Antimachos, 紀元前400頃に活躍)の詩を校正し、『アトランティコン』 (’Ατλαντικόν , Atlantikon, アトランティスの物語)という詩の完成度を高めたという。(Porph. Vit. Plot.7.12–16)詩の内容は現存しない。

大アルノビウス (Arnobius Afer, 紀元3世紀末–330頃) は『異邦人に対して』の中で、1万年前にネプトゥヌスのアトランティカ (Atlantica Neptuni) と呼ばれた島が沈み、多くの人々が消滅したというプラトンの言葉を信用していいのかどうかを自問している。(Arnob.Adv.Gent.i.5.1)

アンミアヌス・マルケリヌス (330頃–395)は『歴史』の中で、地震で誘発される現象を隆起 (brasmatiae)、断層 (climatiae)、沈下 (chasmatiae)、轟音 (mycematiae)の4種類に分類しており、地盤沈下の一例として、ヨーロッパよりも広い島が大西洋に沈んだことを挙げている。(Ammian.Marcell.xvii.7.13–14)

ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』
ディオゲネス・ラエルティオス (3世紀頃に活躍) の『哲学者列伝』の『プラトン伝』によると、アレクサンドリアの図書館の館長であったビュザンティオンのアリストパネス (Aristophanes, 紀元前264頃–180) がプラトンの作品を纏めた際、トリロギア (三部作集)の第1編に『ティマイオス』と『クリティアス』を収録した。(Diog.Laert.iii.61–62(s.37))

一方ティベリオス・クラウディオス・トラシュルス (Tiberios Claudios Thrasyllos, 紀元前1世紀–紀元36頃) はプラトンの作品を研究して年代順に9編のテトラロギア (四部作集) に纏め、その第8編に『ティマイオス』と『クリティアス』を収めたが、それぞれに『自然について』 (περ`ι φύσεως )、『アトランティコス』 (’Ατλαντικός , Atlantikos, アトランティスの物語) という副題をつけたという。(Diog.Laert.iii.56–60(s.35))

カルキディウス『ティマエウス注解』
バチカン図書館所蔵 カルキディウス著『ティマエウス注解』『ティマイオス』は400年頃にカルキディウス (4世紀–5世紀)によって再びラテン語に翻訳された。キケロのラテン語訳とは異なり、アトランティス伝説の 部位を含む大部分のテキスト(Pl.Tim.17a–53c)が現存する。(Calcidius,In Tim.5–68)カルキディウスのラテン語訳は12世紀以降欧州で読まれるようになったが、特に『ティマイオス』に登場する宇宙論については詳しい解説を残しており、ヨーロッパ中世の宇宙論の基礎の一つとなった。但しカルキディウスはアトランティス伝説の部分に関しては翻訳をしただけで、解説は残していない。

プロクロス『ティマイオス注解』
ネオプラトニスムの哲学者として知られるリュキアのプロクロス・ディアドコス (Proklos Diadochos, 410頃–475) は、プラトンの『ティマイオス』に関する注釈『ティマイオス注解』を残しており、ネオプラトニスムに立脚したプラトンの作品の解釈が示されている。

当時すでに多くの人たちは、プラトンの記述が寓話であると考えており、アパメイアのヌメニオス (Numenios, 2世紀後半に活躍)、アメリオス (Amelios, 3世紀後半に活躍)、オリゲネス (Origenes, 3世紀後半に活躍)、ディオニュシオス・カッシオス・ロンギノス (Dionysios Cassios Longinos, 3世紀後半に活躍)、ポルピュリオス、カルキスのイアンブリコス (Iamblichos, 250頃–330頃)、シュリアノス (Syrianos, 5世紀前半に活躍) などの解釈が紹介されている。(Procl.Comm.Tim.24b–25e)
ソロイのクラントル (Krantor, 紀元前4世紀後半に活躍) は、プラトンの弟子であるカルケドンのクセノクラテス (紀元前396頃–314) の弟子で、始めてプラトンの書物に注釈をつけたとされる。現在では失われてしまったクラントルの古註によると、クラントルはアトランティスの伝説は総て真実だと主張しており、生前のプラトンは、アトランティスの物語を嘲笑する者に対しては、エジプト人にアテナイとアトランティスの歴史を尋ねろと反論したとのことである。また、クラントルは証拠として、この伝説が神殿の柱に今なお刻まれていると神官たちが主張していることを挙げている。(Procl.Comm.Tim.24a–b)
プロクロスが参考にしたあるエジプトの史書によると、ソロンはサイスの町ではパテネイト (Πατενεΐτ, Pateneit)、ヘリオポリスではオクラピ (’Οχλα̃πι, Ochlapi)、セベンニュトスではエテモン (’Εθήμων, Ethemon) という神官から知識を得たとされており、プルタルコスが記した神官の名前 (サイスのソンキス、ヘリオポリスのプセノピス) と異なる。(Procl.Comm.Tim.31d)
歴史家マルケッルス (Markellos, Marcellus, 紀元前1世紀頃に活躍) の『エティオピア誌』(現存せず) によると、大西洋の沖合いにはペルセポネに捧げられた7つの島と、更に外側のプルトンとポセイドンとアンモン (アメン) に捧げられた3つの島があり、ポセイドンに捧げられた島は2番目に大きく、1,000スタディオン (約185 km) の大きさがあるという。かつては大西洋全域を支配したという広大なアトランティス島の住民の末裔がこの島に住んでおり、アトランティスの文化を継承していると記述している。(Procl.Comm.Tim.54f–55a)
コスマス『キリスト教地誌』
アレクサンドロスのコスマス・インディコプレウステス (6世紀中頃に活躍) は『キリスト教地誌』の中で、大地を取り囲む大洋の外を天空を支える大地が取り囲んでいるという地勢観を正統化するために、『ティマイオス』の記述を引用している。プラトンやアリストテレスに褒め称えられ、プロクロスによって注釈をなされているティマイオスによると、ガデイラの西の大洋にあったアトランティス島は10の王国からなり、10世代の間栄えたが、アテナイとの戦争の後に神罰として沈められたとあり、これはまさに天地創造から10世代後に起こったノアの大洪水そのものであり、おそらくティマイオスは、カルデア人から世界最初の歴史家であるモーセの書を知り、大洋の彼方からやって来た10人の王、海の下に消えたアトランティス島、住民を動員した軍隊によるヨーロッパとアジアを征服などといった話を総て創作して付け加えたのだという。(Cosmas Indi.Topog.Christ.xii.376–377,381) また、ソロモン (Solomon) と言う名のエジプト人がプラトンに向かって「ヘレネス (ギリシア人) は常に子供であり、誰も老人 (賢者) にならず、またいにしえからの教えも全くない」などと言ったのは、他国のことを知らないギリシア人が自分たちこそが文字や法律を発明したなどと思い上がっているからであり、リュクルゴスやソロンなどといった輩よりも、モーセの方が偉大な立法者であると主張している。(Cosmas Indi.Topog.Christ.xii.379–380)

コスマスはこのように『ティマイオス』に書かれている内容を色々混同して紹介していることから、コスマス本人はプラトンの原文を読んだことが無く、伝聞で内容を知ったと思われる。この時代よりプラトンを含む古代ギリシアの思想は反キリスト的とみなされ、アトランティス伝説も12世紀中頃のホノリウスの著作までしばし忘れ去られる。

ホノリウス『世界の模写』
オータンのホノリウス (Honorius Augustodunensis, 1080頃–1156頃)は『世界の模写』の中で、プラトンの名前を引用し、アフリカとヨーロッパを合わせたよりも広い巨大な島が、惨劇により凍った海 (Concretum Mare) の下に沈んだことを述べている。(Honorius Aug.Imago Mundi i.35) ホノリウスはカルキディウスのラテン語訳でアトランティス伝説を知ったと思われる。

『世界の模写』はラテン語から様々な口語体に訳されており、例えばウィリアム・キャクストン (William Caxton, 1420頃–1492) は1489年に 『The Mirrour of the World』という題名で英語訳を出版している。

ギリシア・ローマ時代の文献
覇権国家の崩壊伝説をモチーフとした類似の物語は、他の文献にも登場する。
ディオドロス『歴史叢書』
シケリアのディオドロスの『歴史叢書』は、同時代のハリカルナッソスのディオニュシオス (Dionysios, 紀元前1世紀に活躍)の著作 (該当する作品は現存せず) にまとめられたリビアの諸民族に関する内容を参考にしながら、アフリカのに暮らす女人族である アマゾネス人 (’Αμαζόνες , Amazones) の歴史を記している。

トロイア戦争などで黒海沿岸に住むアマゾネスが有名だが、これとは別にアフリカに住んでいたアマゾネスがおり、こちらの方が歴史が古い。アトラス山の近くのアフリカの大西洋側にトリトン川 (Тρίτων, Triton) の水が流れ込むトリトニスの湿地帯 (Тριτωνίς, Tritonis) があり、巨大なヘスペラ島 (’Εσπέρα) があった。島は様々の農産物と畜産物に恵まれ、また、火山があり、ルビー、紅玉髄、エメラルドなどの鉱物を産した。この島に暮らす諸民族の一つであったアマゾネスは女性上位社会で、男性が家事・子育てをし、女性が政治と兵役を担った。女性は戦闘で乳が邪魔にならないように嬰児のうちに右側の乳房 (μαστός ) を焼いており、そのためにアマゾネス (乳無し) と呼ばれた。アマゾネスはエチオピア系のイクテュイパゴイ人が暮らす神聖なメネ(Μήνη, Mene) の町を除き全島を掌握し、続いて湖周辺の諸民族を征圧した。そして、トリトニス島に突き出た半島に、アマゾネスの都ケロネソス (Χερρόνησος , Cherronesos, ギリシア語で『半島』) を建設した。
ミュリナ (Μύρινα, Myrina) がアマゾネスの女王になると、歩兵3万人、騎兵3,000頭からなる軍勢を組織し、まず近隣のアトランティオイ人 (上述) の町ケルネ (Κέρνη, Kerne) を破壊し、住民を虐殺した。これを恐れた他の町のアトランティオイ人は降伏し、アマゾネスの支配下に入った。アトランティオイ人は別の女人族であるゴルゴネス人の制圧を女王ミュリナに依頼したが、ゴルゴネス人の地の制圧には失敗した。当時エジプトの王はイシスの子のホロスであったが、ミュリナはエジプト王ホロスと同盟を結び、アラビア人の暮らすシリア、トロス山脈、カイコス川までの大プリュギア地方を戦争により制圧し、キリキア人を支配下においた。また、レスボス島には自分の姉妹の名前に由来する町ミュティレネ (Μυτιλήνη, Mytilene)を建設したほか、配下の腹心の女将にちなんだキュメ (Κύμη, Kyme)、ピタナ (Πιτάνα, Pitana)、プリエネ (Πριήνη, Priene) などの殖民市をイオニア海側に建設した。女王ミュリナが難破した際に立ち寄った島には、『聖なる島』サモトラケ (Σαμοθράκη, Samothrake) と名付けた。やがて女王ミュリナは、トラキアの亡命中の王モプソス (Μόψος, Mopsos) とスキタイの亡命中の王シピュロス (Σίπυλος, Sipylos) の連合軍との戦いに敗れて死に、大多数が戦死したアマゾネス軍はアフリカの地に退却した。その後ペルセウスとその曾孫のヘラクレスにより、それぞれ女人族のゴルゴネス人、アマゾネス人は滅びてしまい、その記念にヘラクレスは柱を立てた。その後トリトニス湖の大西洋に近い側が地震により裂け、湖は消失してしまった。(Diod.iii.52–55,Diod.iii.74)
アイリアノス『多彩な物語』
アイリアノスは、『多彩な物語』の中で、キオスのテオポンポス (Theopompos, 紀元前380頃–4世紀末) の史書 (該当作品は今日残っていない) に載っていた物語を掲載しているが、もしかしたらテオポンポスの創作かもしれないと断りを入れている。

プリュギアの王ミダスがセイレノスと親交を結んだ時、次のような物語がセイレノスの口より紡がれた。<我々の世界を取り巻く彼方の大陸には、我々の世界とは違う生物や文明が存在するが、そこにはマキモス (Μάχιμος, Machimos, 『好戦』) とエウセベス (Ε’υσεβη̃ς, Eusebes, 『敬虔』) という対照的な二つの都市国家が存在する。金銀が豊富なマキモスは戦争に明け暮れて多くの部族を支配し、2千万人を下らぬ人口を有していたが、その多くは戦場で石や木製の棍棒で寿命を終えた。ある時マキモスは我々の世界を征服しようと1千万人の軍隊を連れてオケアノスを渡り、ヒュペルボレオイ (‘Υπερβορέοι, Hyperboreoi, 『極北の人々』) の地を訪れたが、その清貧な生活ぶりに落胆して、軍隊を連れ帰ってしまった。また、彼方の大陸のメロペス人 (Мέροπές, Meropes) が住む領域に、アノストス (’Άνοστος, Anostos, 戻れぬ地) という場所があり、そこの水を飲むと死んでしまう。> (Ael.V.H.iii.18)
なお、ストラボンは『地誌』の中で、ホメロスの創作を詮無い事と弁護し、歴史家たちの同じような無知を告発する文脈として「テオポンポスが伝えたメロピス地方 (Мεροπίς, Meropis)」に言及している。テオポンポスの史書が実在したことを示すとともに、ストラボン本人はテオポンポスが書き記した一連の大陸の物語を真実とは見なさなかったことを示唆する。 (Strabo.vii.3.6(p.299))

[科学的研究]
1939年 - ギリシアの考古学者マリナトスが、クレタ島の北岸に位置するアムニソスにある宮殿を調査。宮殿の崩壊が津波によるものであることを発見。同時に火山灰が厚く堆積していることも確認した。
1956年 - アテネ大学の地震学者ガラノプロスがサントリーニ島を調査。炭素14法で、島の噴火が紀元前1400年ごろであることが分かった。
1967年 - マリナトスがサントリーニ島の南端に位置するアクロテリで火山灰の中から宮殿を発見。クレタ島とサントリーニ島が、あわせてミノア王国であったとするフレスコ画を発見。

[エジプト文明との関係の指摘]
『エメラルド・タブレット』は「エジプトのギザの大ピラミッドの中から発見されたとの伝説をもつが、これには歴史的に伝承されたものと近年モーリス・ドリールにより発見された「世界最古の書籍」である原本と称するものがあり、その原本には、その著者はアトランティスの祭司王トートであり、タブレットIの文頭にて『われアトランティス人トートは、諸神秘の精通者、諸記録の管理者、力ある王、正魔術師にして世々代々生き続ける者なるが…』と書かれているといわれている。

また、グラハム・ハンコックの『神々の指紋』によれば、原本にはギザのピラミッドはトートが造ったとも記載されていることからエジプト文明の源流がアトランティスにあることも推測ができるとしている。

ただし原本のエメラルド・タブレットは、原史料の公開もなく他に写本もないことから学者からはその正確性を疑問視されている。

[脚注]
^ プトレマイオスが『地理学』を記述するに当たり基準として設定した本初子午線は、当時西の果てと考えられていたカナリア諸島であり、グリニッジ子午線より西へ約20°ずれている。グリニッジ基準の東経とプトレマイオス記載の経度では、実際は地中海世界内で約30°ほどずれている。
^ このクリティアスは、アテナイの三十人僭主として独裁政治を行った、プラトンの母親の従兄のクリティアス (紀元前460頃–403) であるとする説もある。詳しくはクリティアス (プラトンの曾祖父)参照。
^ 病欠した人物はプラトンだとする説もあるが、当時のプラトンはまだ子供である。もっとも敵国の有力者同士がこのような対談をするはずがなく、あくまでもプラトンの創作の架空対談であり、病欠した人物というのは対談に真実味を出すためのプラトンの文学的テクニックであるとする解釈も一般的である。
^ この部分は、(1) エジプトが建国されてから8,000年、(2) ネイトを保護神とするサイスの町が建設されてから8,000年、(3) サイス王朝が建国されてから8,000年、の三通りの解釈がされて来ており、特にアトランティス伝説としては「アトランティスはエジプトの歴史よりも古い」という(1)の解釈が広まっているが、文中では神官がアテナイと「我々の」都市の制度の比較をし、サイスとアテナイを建設したとされるアテナの偉業を讃え、(Pl.Tim.24a–24d) エジプトが有史来正確に歴史を伝えていることを強調していることから、(Pl.Tim.21b–22b) (2)の解釈が一番妥当である。
^ 運河の長さが50 スタディオンだとすると、海岸から中央のアクロポリスまでの距離は50 + 3 + 3 + 2 + 2 + 1 + 5/2 = 63.5 スタディオンということになり、海岸からアクロポリスまでの距離 (50 スタディオン)、(Pl.Criti.112c) 町を取り囲む城壁の半径 (50 スタディオン) (Pl.Criti.117e) などの記述と矛盾する。
^ これらの記述から大平原は東西3,000スタティオン、南北2,000スタディオンの長方形で、アトランティスの都はこの長方形の大平原の南端に位置し、海岸線との間に挟まれていたことになる。大運河の水がアトランティスの都の海水路に注いでいるのなら、都の一番外側の海水路の北側と大運河を結ぶ水路が存在しているはずであるが、都を迂回する形の河が流れていたことも考えられる。なお、2,000スタディオンの幅を「平原の」中央から海までの距離と解釈し、歪な四角形(例えば東西の辺が3,000と4,000スタディオン、南北の辺が1,000と2,000 スタディオン)を描く考えもあるが、徴兵制度の項目で説明で説明される平原の面積 (600 万平方スタディオン) と合致しない。(Pl.Criri.119a)
^ 紀元前593年頃にソロンがエジプトを旅したとなると、アマシス王の時代 (紀元前570–526) とするプラトンの文章と矛盾する。 (Pl.Tim.21e)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』Atlantis

Perseus Digital Library(プラトンの作品を始めとするギリシア・ローマの古典が原文で読める。)http://www.perseus.tufts.edu/

Atlantis(スペイン語/英語) http://atlantis.sitio.net/

アトランティス大陸 (超常現象の謎解き) http://www.gmter.com/

Gmter http://www.gmter.com/

エメラルド・タブレット http://www2.tokai.or.jp/shaga/atorantis/sub10.htm#11bu/

これだけ知識の記載があること自体が驚きなのだが、誰が何のために「嘘か真か」としていることに掘り下げてみると、現代にもあてはまるパターンがみえてくる。

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