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2008年2月29日 (金)

古事記物語 鈴木三重吉

■■■目次■■■

■女神(めがみ)の死(し)
■天(あめ)の岩屋(いわや)
■八俣(やまた)の大蛇(おろち)
■むかでの室(むろ)、へびの室(むろ)
■きじのお使(つか)い
■笠沙(かささ)のお宮
■満潮(みちしお)の玉、干潮(ひしお)の玉
■八咫烏(やたがらす)
■赤い盾(たて)、黒い盾(たて)
■おしの皇子(おうじ)
■白い鳥
■朝鮮征伐(ちょうせんせいばつ)
■赤い玉
■宇治(うじ)の渡(わた)し
■難波(なにわ)のお宮
■大鈴(おおすず)小鈴(こすず)
■しかの群(むれ)、ししの群(むれ)
■とんぼのお歌
■うし飼(かい)、うま飼(かい)

女神(めがみ)の死(し)

       一

 世界ができたそもそものはじめ。まず天と地とができあがりますと、それといっしょにわれわれ日本人のいちばんご先祖の、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とおっしゃる神さまが、天の上の高天原(たかまのはら)というところへお生まれになりました。そのつぎには高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ)のお二方(ふたかた)がお生まれになりました。
 そのときには、天も地もまだしっかり固(かた)まりきらないで、両方とも、ただ油を浮(う)かしたように、とろとろになって、くらげのように、ふわりふわりと浮かんでおりました。その中へ、ちょうどあしの芽(め)がはえ出るように、二人の神さまがお生まれになりました。
 それからまたお二人、そのつぎには男神(おがみ)女神(めがみ)とお二人ずつ、八人の神さまが、つぎつぎにお生まれになった後に、伊弉諾神(いざなぎのかみ)と伊弉冉神(いざなみのかみ)とおっしゃる男神女神がお生まれになりました。
 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)はこのお二方の神さまをお召(め)しになって、
「あの、ふわふわしている地を固めて、日本の国を作りあげよ」
 とおっしゃって、りっぱな矛(ほこ)を一ふりお授(さず)けになりました。
 それでお二人は、さっそく、天(あめ)の浮橋(うきはし)という、雲の中に浮かんでいる橋の上へお出ましになって、いただいた矛(ほこ)でもって、下のとろとろしているところをかきまわして、さっとお引きあげになりますと、その矛の刃先(はさき)についた潮水(しおみず)が、ぽたぽたと下へおちて、それが固(かた)まって一つの小さな島になりました。
 お二人はその島へおりていらしって、そこへ御殿(ごてん)をたててお住まいになりました。そして、まずいちばんさきに淡路島(あわじしま)をおこしらえになり、それから伊予(いよ)、讃岐(さぬき)、阿波(あわ)、土佐(とさ)とつづいた四国の島と、そのつぎには隠岐(おき)の島、それから、そのじぶん筑紫(つくし)といった今の九州と、壱岐(いき)、対島(つしま)、佐渡(さど)の三つの島をお作りになりました。そして、いちばんしまいに、とかげの形をした、いちばん大きな本州をおこしらえになって、それに大日本豊秋津島(おおやまととよあきつしま)というお名まえをおつけになりました。
 これで、淡路の島からかぞえて、すっかりで八つの島ができました。ですからいちばんはじめには、日本のことを、大八島国(おおやしまぐに)と呼(よ)び、またの名を豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)とも称(とな)えていました。
 こうして、いよいよ国ができあがったので、お二人は、こんどはおおぜいの神さまをお生みになりました。それといっしょに、風の神や、海の神や、山の神や、野の神、川の神、火の神をもお生みになりました。ところがおいたわしいことには、伊弉冉神(いざなみのかみ)は、そのおしまいの火の神をお生みになるときに、おからだにおやけどをなすって、そのためにとうとうおかくれになりました。
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)は、
「ああ、わが妻の神よ、あの一人の子ゆえに、大事なおまえをなくするとは」とおっしゃって、それはそれはたいそうお嘆(なげ)きになりました。そして、お涙(なみだ)のうちに、やっと、女神のおなきがらを、出雲(いずも)の国と伯耆(ほうき)の国とのさかいにある比婆(ひば)の山にお葬(ほうむ)りになりました。
 女神は、そこから、黄泉(よみ)の国という、死んだ人の行くまっくらな国へたっておしまいになりました。 
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)は、そのあとで、さっそく十拳(とつか)の剣(つるぎ)という長い剣を引きぬいて、女神の災(わざわい)のもとになった火の神を、一うちに斬(き)り殺してしまいになりました。
 しかし、神のおくやしみは、そんなことではお癒(い)えになるはずもありませんでした。神は、どうかしてもう一度、女神に会いたくおぼしめして、とうとうそのあとを追って、まっくらな黄泉(よみ)の国までお出かけになりました。

       二

 女神(めがみ)はむろん、もうとっくに、黄泉(よみ)の神の御殿(ごてん)に着いていらっしゃいました。
 すると、そこへ、夫の神が、はるばるたずねておいでになったので、女神は急いで戸口へお出迎えになりました。
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)は、まっくらな中から、女神をお呼(よ)びかけになって、
「いとしきわが妻の女神よ。おまえといっしょに作る国が、まだできあがらないでいる。どうぞもう一度帰ってくれ」とおっしゃいました。すると女神は、残念そうに、
「それならば、もっと早く迎えにいらしってくださいませばよいものを。私はもはや、この国のけがれた火で炊(た)いたものを食べましたから、もう二度とあちらへ帰ることはできますまい。しかし、せっかくおいでくださいましたのですから、ともかくいちおう黄泉(よみ)の神たちに相談をしてみましょう。どうぞその間は、どんなことがありましても、けっして私の姿(すがた)をご覧(らん)にならないでくださいましな。後生(ごしょう)でございますから」と、女神はかたくそう申しあげておいて、御殿(ごてん)の奥(おく)へおはいりになりました。
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)は永(なが)い間戸口にじっと待っていらっしゃいました。しかし、女神は、それなり、いつまでたっても出ていらっしゃいません。伊弉諾神(いざなぎのかみ)はしまいには、もう待ちどおしくてたまらなくなって、とうとう、左のびんのくしをおぬきになり、その片(かた)はしの、大歯(おおは)を一本欠(か)き取って、それへ火をともして、わずかにやみの中をてらしながら、足さぐりに、御殿の中深くはいっておいでになりました。
 そうすると、御殿のいちばん奥に、女神は寝ていらっしゃいました。そのお姿をあかりでご覧になりますと、おからだじゅうは、もうすっかりべとべとに腐(くさ)りくずれていて、臭(くさ)い臭いいやなにおいが、ぷんぷん鼻へきました。そして、そのべとべとに腐ったからだじゅうには、うじがうようよとたかっておりました。それから、頭と、胸と、お腹(なか)と、両ももと、両手両足のところには、そのけがれから生まれた雷神(らいじん)が一人ずつ、すべてで八人で、怖(おそ)ろしい顔をしてうずくまっておりました。
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)は、そのありさまをご覧になると、びっくりなすって、怖ろしさのあまりに、急いで遁(に)げ出しておしまいになりました。
 女神はむっくりと起きあがって、
「おや、あれほどお止め申しておいたのに、とうとう私のこの姿(すがた)をご覧になりましたね。まあ、なんという憎(にく)いお方(かた)でしょう。人にひどい恥(はじ)をおかかせになった。ああ、くやしい」と、それはそれはひどくお怒りになって、さっそく女の悪鬼(わるおに)たちを呼(よ)んで、
「さあ、早く、あの神をつかまえておいで」と歯がみをしながらお言いつけになりました。
 女の悪鬼たちは、
「おのれ、待て」と言いながら、どんどん追っかけて行きました。
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)は、その鬼どもにつかまってはたいへんだとおぼしめして、走りながら髪(かみ)の飾(かざ)りにさしてある黒いかつらの葉を抜(ぬ)き取っては、どんどんうしろへお投げつけになりました。
 そうすると、見る見るうちに、そのかつらの葉の落ちたところへ、ぶどうの実がふさふさとなりました。女鬼どもは、いきなりそのぶどうを取って食べはじめました。
 神はその間に、いっしょうけんめいにかけだして、やっと少しばかり遁(に)げのびたとお思いになりますと、女鬼どもは、まもなく、またじきうしろまで追いつめて来ました。
 神は、
「おや、これはいけない」とお思いになって、こんどは、右のびんのくしをぬいて、その歯をひっ欠いては投げつけ、ひっ欠いては投げつけなさいました。そうすると、そのくしの歯が片(かた)はしからたけのこになってゆきました。
 女鬼(おんなおに)たちは、そのたけのこを見ると、またさっそく引き抜いて、もぐもぐ食べだしました。
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)は、そのすきをねらって、こんどこそは、だいぶ向こうまでお遁(に)げになりました。そしてもうこれならだいじょうぶだろうとおぼしめして、ひょいとうしろをふりむいてご覧になりますと、意外にも、こんどはさっきの女神のまわりにいた八人の雷人(らいじん)どもが、千五百人の鬼の軍勢をひきつれて、死にものぐるいでおっかけて来るではありませんか。
 神はそれをご覧になると、あわてて十拳(とつか)の剣(つるぎ)を抜きはなして、それでもってうしろをぐんぐん切りまわしながら、それこそいっしょうけんめいにお遁げになりました。そして、ようよう、この世界と黄泉(よみ)の国との境(さかい)になっている、黄泉比良坂(よもつひらざか)という坂の下まで遁げのびていらっしゃいました。

       三

 すると、その坂の下には、ももの木が一本ありました。
 神はそのももの実を三つ取って、鬼どもが近づいて来るのを待ち受けていらしって、その三つのももを力いっぱいお投げつけになりました。そうすると、雷神たちはびっくりして、みんなちりぢりばらばらに遁(に)げてしまいました。
 神はそのももに向かって、
「おまえは、これから先も、日本じゅうの者がだれでも苦しい目に会っているときには、今わしを助けてくれたとおりに、みんな助けてやってくれ」とおっしゃって、わざわざ大神実命(おおかんつみのみこと)というお名まえをおやりになりました。
 そこへ、女神は、とうとうじれったくおぼしめして、こんどはご自分で追っかけていらっしゃいました。神はそれをご覧になると、急いでそこにあった大きな大岩をひっかかえていらしって、それを押(お)しつけて、坂の口をふさいでおしまいになりました。
 女神は、その岩にさえぎられて、それより先へは一足も踏(ふ)み出すことができないものですから、恨(うら)めしそうに岩をにらみつけながら、
「わが夫の神よ、それではこのしかえしに、日本じゅうの人を一日に千人ずつ絞(し)め殺してゆきますから、そう思っていらっしゃいまし」とおっしゃいました。神は、
「わが妻の神よ、おまえがそんなひどいことをするなら、わしは日本じゅうに一日に千五百人の子供を生ませるから、いっこうかまわない」とおっしゃって、そのまま、どんどんこちらへお帰りになりました。
 神は、
「ああ、きたないところへ行った。急いでからだを洗ってけがれを払(はら)おう」とおっしゃって、日向(ひゅうが)の国の阿波岐原(あわきはら)というところへお出かけになりました。
 そこにはきれいな川が流れていました。
 神はその川の岸へつえをお投げすてになり、それからお帯やお下ばかまや、お上衣(うわぎ)や、お冠(かんむり)や、右左のお腕(うで)にはまった腕輪(うでわ)などを、すっかりお取りはずしになりました。そうすると、それだけの物を一つ一つお取りになるたんびに、ひょいひょいと一人ずつ、すべてで十二人の神さまがお生まれになりました。
 神は、川の流れをご覧になりながら、

  上(かみ)の瀬(せ)は瀬が早い、
  下(しも)の瀬は瀬が弱い。

とおっしゃって、ちょうどいいころあいの、中ほどの瀬におおりになり、水をかぶって、おからだじゅうをお洗いになりました。すると、おからだについたけがれのために、二人の禍(わざわい)の神が生まれました。それで伊弉諾神(いざなぎのかみ)は、その神がつくりだす禍をおとりになるために、こんどは三人のよい神さまをお生みになりました。
 それから水の底へもぐって、おからだをお清めになるときに、また二人の神さまがお生まれになり、そのつぎに、水の中にこごんでお洗いになるときにもお二人、それから水の上へ出ておすすぎになるときにもお二人の神さまがお生まれになりました。そしてしまいに、左の目をお洗いになると、それといっしょに、それはそれは美しい、貴(とうと)い女神(めがみ)がお生まれになりました。
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)は、この女神さまに天照大神(あまてらすおおかみ)というお名前をおつけになりました。そのつぎに右のお目をお洗いになりますと、月読命(つきよみのみこと)という神さまがお生まれになり、いちばんしまいにお鼻をお洗いになるときに、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)という神さまがお生まれになりました。
 伊弉諾神(いざなぎのかみ)はこのお三方(さんかた)をご覧になって、
「わしもこれまでいくたりも子供を生んだが、とうとうしまいに、一等よい子供を生んだ」と、それはそれは大喜びををなさいまして、さっそく玉の首飾(くびかざ)りをおはずしになって、それをさらさらとゆり鳴らしながら、天照大神(あまてらすおおかみ)におあげになりました。そして、
「おまえは天へのぼって高天原(たかまのはら)を治めよ」とおっしゃいました。それから月読命(つきよみのみこと)には、
「おまえは夜の国を治めよ」とお言いつけになり、三ばんめの須佐之男命(すさのおのみこと)には、
「おまえは大海(おおうみ)の上を治めよ」とお言いわたしになりました。

天(あめ)の岩屋(いわや)

       一

 天照大神(あまてらすおおかみ)と、二番目の弟さまの月読命(つきよみのみこと)とは、おとうさまのご命令に従って、それぞれ大空と夜の国とをお治めになりました。
 ところが末のお子さまの須佐之男命(すさのおのみこと)だけは、おとうさまのお言いつけをお聞きにならないで、いつまでたっても大海(おおうみ)を治めようとなさらないばかりか、りっぱな長いおひげが胸(むね)の上までたれさがるほどの、大きなおとなにおなりになっても、やっぱり、赤んぼうのように、絶えまもなくわんわんわんわんお泣(な)き狂いになって、どうにもこうにも手のつけようがありませんでした。そのひどいお泣き方といったら、それこそ、青い山々の草木も、やかましい泣き声で泣き枯(か)らされてしまい、川や海の水も、その火のつくような泣き声のために、すっかり干(ひ)あがったほどでした。
 すると、いろんな悪い神々たちが、そのさわぎにつけこんで、わいわいとうるさくさわぎまわりました。そのおかげで、地の上にはありとあらゆる災(わざわい)が一どきに起こってきました。
 伊弉諾命(いざなぎのみこと)は、それをご覧(らん)になると、びっくりなすって、さっそく須佐之男命(すさのおのみこと)をお呼(よ)びになって、
「いったい、おまえは、わしの言うことも聞かないで、何をそんなに泣き狂ってばかりいるのか」ときびしくおとがめになりました。
 すると須佐之男命(すさのおのみこと)はむきになって、
「私(わたし)はおかあさまのおそばへ行きたいから泣(な)くのです」とおっしゃいました。
 伊弉諾命(いざなぎのみこと)はそれをお聞きになると、たいそうお腹立(はらだ)ちになって、
「そんなかってな子は、この国へおくわけにゆかない。どこへなりと出て行け」とおっしゃいました。
 命(みこと)は平気で、
「それでは、お姉上さまにおいとま乞(ご)いをしてこよう」とおっしゃりながら、そのまま大空の上の、高天原(たかまのはら)をめざして、どんどんのぼっていらっしゃいました。
 すると、力の強い、大男の命(みこと)ですから、力いっぱいずしんずしんと乱暴(らんぼう)にお歩きになると、山も川もめりめりとゆるぎだし、世界じゅうがみしみしと震(ふる)い動きました。
 天照大神(あまてらすおおかみ)は、その響(ひび)きにびっくりなすって、
「弟があんな勢いでのぼって来るのは、必ずただごとではない。きっと私(わたし)の国を奪(うば)い取ろうと思って出て来たに相違(そうい)ない」
 こうおっしゃって、さっそく、お身じたくをなさいました。女神はまず急いで髪(かみ)をといて、男まげにおゆいになり、両方のびんと両方の腕(うで)とに、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)というりっぱな玉の飾(かざ)りをおつけになりました。そして、お背中には、五百本、千本というたいそうな矢をお負(お)いになり、右手に弓を取ってお突きたてになりながら、勢いこんで足を踏(ふ)みならして待ちかまえていらっしゃいました。そのきついお力ぶみで、お庭の堅(かた)い土が、まるで粉雪(こなゆき)のようにもうもうと飛びちりました。

       二

 まもなく須佐之男命(すさのおのみこと)は大空へお着きになりました。
 女神はそのお姿(すがた)をご覧(らん)になると、声を張りあげて、
「命(みこと)、そちは何をしに来た」と、いきなりおしかりつけになりました。すると命は、
「いえ、私はけっして悪いことをしにまいったのではございません。おとうさまが、私の泣いているのをご覧(らん)になって、なぜ泣くかとおとがめになったので、お母上のいらっしゃるところへ行きたいからですと申しあげると、たいそうお怒(おこ)りになって、いきなり、出て行ってしまえとおっしゃるので、あなたにお別れをしにまいったのです」とお言いわけをなさいました。
 でも女神はすぐにはご信用にならないで、
「それではおまえに悪い心のない証拠(しょうこ)を見せよ」とおっしゃいました。命(みこと)は、
「ではお互(たが)いに子を生んであかしを立てましょう。生まれた子によって、二人の心のよしあしがわかります」とおっしゃいました。
 そこでごきょうだいは、天安河(あめのやすのかわ)という河(かわ)の両方の岸に分かれてお立ちになりました。そしてまず女神(めがみ)が、いちばん先に、命(みこと)の十拳(とつか)の剣(つるぎ)をお取りになって、それを三つに折って、天真名井(あめのまない)という井戸で洗って、がりがりとおかみになり、ふっと霧(きり)をお吹きになりますと、そのお息の中から、三人の女神がお生まれになりました。
 そのつぎには命(みこと)が、女神の左のびんにおかけになっている、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)の飾(かざ)りをいただいて、玉の音をからからいわせながら、天真名井(あめのまない)という井戸で洗いすすいで、それをがりがりかんで霧をお吹き出しになりますと、それといっしょに一人の男の神さまがお生まれになりました。その神さまが、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)です。
 それからつぎには、女神の右のびんの玉飾(たまかざ)りをお取りになって、先(せん)と同じようにして息をお吹きになりますと、その中からまた男の神が一人お生まれになりました。
 つづいてこんどは、おかずらの玉飾りを受け取って、やはり真名井(まない)で洗って、がりがりかんで息をお吹きになりますと、その中から、また男の神が一人お生まれになり、いちばんしまいに、女神の右と左のお腕(うで)の玉飾りをかんで、息をお吹きになりますと、そのたんびに、同じ男神が一人ずつ――これですべてで五人の男神がお生まれになりました。
 天照大神(あまてらすおおかみ)は、
「はじめに生まれた三人の女神は、おまえの剣(つるぎ)からできたのだから、おまえの子だ。あとの五人の男神は私(わたし)の玉飾りからできたのだから、私の子だ」とおっしゃいました。
 命は、
「そうら、私が勝った。私になんの悪心(あくしん)もない印(しるし)には、私の子は、みんなおとなしい女神ではありませんか。どうです、それでも私は悪人ですか」と、それはそれは大いばりにおいばりになりました。そして、その勢いに乗ってお暴(あば)れだしになって、女神がお作らせになっている田の畔(あぜ)をこわしたり、みぞを埋(う)めたり、しまいには女神がお初穂(はつほ)を召(め)しあがる御殿(ごてん)へ、うんこをひりちらすというような、ひどい乱暴(らんぼう)をなさいました。
 ほかの神々は、それを見てあきれてしまって、女神に言いつけにまいりました。
 しかし女神はちっともお怒(おこ)りにならないで、
「何、ほっておけ。けっして悪い気でするのではない。きたないものは、酔(よ)ったまぎれに吐(は)いたのであろう。畔(あぜ)やみぞをこわしたのは、せっかくの地面を、そんなみぞなぞにしておくのが惜(お)しいからであろう」
 こうおっしゃって、かえって命(みこと)をかばっておあげになりました。
 すると命は、ますます図(ず)に乗って、しまいには、女たちが女神のお召物(めしもの)を織っている、機織場(はたおりば)の屋根を破って、その穴(あな)から、ぶちのうまの皮をはいで、血まぶれにしたのを、どしんと投げこんだりなさいました。機織女(はたおりおんな)は、びっくりして遁(に)げ惑(まど)うはずみに、梭(ひ)で下腹(したはら)を突(つ)いて死んでしまいました。
 女神は、命のあまりの乱暴さにとうとういたたまれなくおなりになって、天(あめ)の岩屋(いわや)という石室(いしむろ)の中へお隠(かく)れになりました。そして入口の岩の戸をぴっしりとおしめになったきり、そのままひきこもっていらっしゃいました。
 すると女神は日の神さまでいらっしゃるので、そのお方がお姿(すがた)をお隠(かく)しになるといっしょに、高天原(たかまのはら)も下界の地の上も、一度にみんなまっ暗(くら)がりになって、それこそ、昼と夜との区別もない、長い長いやみの世界になってしまいました。
 そうすると、いろいろの悪い神たちが、その暗がりにつけこんで、わいわいとさわぎだしました。そのために、世界じゅうにはありとあらゆる禍(わざわい)が、一度にわきあがって来ました。
 そんなわけで、大空の神々たちは、たいそうお困(こま)りになりまして、みんなで安河原(やすのかわら)という、空の上の河原(かわら)に集まって、どうかして、天照大神に岩屋からお出ましになっていただく方法はあるまいかといっしょうけんめいに、相談をなさいました。
 そうすると、思金神(おもいかねのかみ)という、いちばんかしこい神さまが、いいことをお考えつきになりました。
 みんなはその神のさしずで、さっそく、にわとりをどっさり集めて来て、岩屋の前で、ひっきりなしに鳴かせました。
 それから一方では、安河(やすのかわ)の河上から固(かた)い岩をはこんで来て、それを鉄床(かなどこ)にして、八咫(やた)の鏡(かがみ)というりっぱな鏡を作らせ、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)というりっぱな玉で胸飾(むなかざ)りを作らせました。そして、天香具山(あめのかぐやま)という山からさかきを根抜(ぬ)きにして来て、その上の方の枝(えだ)へ、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)をつけ、中ほどの枝へ八咫(やた)の鏡(かがみ)をかけ、下の枝へは、白や青のきれをつりさげました。そしてある一人の神さまが、そのさかきを持って天の岩屋に立ち、ほかの一人の神さまが、そのそばでのりとをあげました。
 それからやはり岩屋の前へ、あきだるを伏(ふ)せて、天宇受女命(あめのうずめのみこと)という女神に、天香具山(あめのかぐやま)のかつらのつるをたすきにかけさせ、かつらの葉を髪飾(かみかざ)りにさせて、そのおけの上へあがって踊りを踊らせました。
 宇受女命(うずめのみこと)は、お乳(ちち)もお腹(なか)も、もももまるだしにして、足をとんとん踏(ふ)みならしながら、まるでつきものでもしたように、くるくるくるくると踊(おど)り狂(くる)いました。
 するとそのようすがいかにもおかしいので、何千人という神たちが、一度にどっとふきだして、みんなでころがりまわって笑いました。そこへにわとりは声をそろえて、コッケコー、コッケコーと鳴きたてるので、そのさわぎといったら、まったく耳もつぶれるほどでした。
 天照大神は、そのたいそうなさわぎの声をお聞きになると、何ごとが起こったのかとおぼしめして、岩屋の戸を細めにあけて、そっとのぞいてご覧(らん)になりました。そして宇受女命(うずめのみこと)に向かって、
「これこれ私(わたし)がここに、隠れていれば、空の上もまっくらなはずだのに、おまえはなにをおもしろがって踊っているのか。ほかの神々たちも、なんであんなに笑いくずれているのか」とおたずねになりました。
 すると宇受女命は、
「それは、あなたよりも、もっと貴(とうと)い神さまが出ていらっしゃいましたので、みんなが喜んでさわいでおりますのでございます」と申しあげました。
 それと同時に一人の神さまは、例の、八咫(やた)の鏡(かがみ)をつけたさかきを、ふいに大神の前へ突き出しました。鏡には、さっと、大神のお顔がうつりました。大神はそのうつった顔をご覧になると、
「おや、これはだれであろう」とおっしゃりながら、もっとよく見ようとおぼしめして、少しばかり戸の外へお出ましになりました。
 すると、さっきから、岩屋のそばに隠(かく)れて待ちかまえていた、手力男命(たぢからおのみこと)という大力の神さまが、いきなり、女神のお手を取って、すっかり外へお引き出し申しました。それといっしょに、一人の神さまは、女神のおうしろへまわって、
「どうぞ、もうこれからうちへはおはいりくださいませんように」と申しあげて、そこへしめなわを張りわたしてしまいました。
 それで世界じゅうは、やっと長い夜があけて、再び明るい昼が来ました。
 神々たちは、それでようやく安心なさいました。そこでさっそく、みんなで相談して、須佐之男命(すさのおのみこと)には、あんなひどい乱暴(らんぼう)をなすった罰(ばつ)として、ご身代をすっかりさし出させ、そのうえに、りっぱなおひげも切りとり、手足の爪(つめ)まではぎとって、下界へ追いくだしてしまいました。
 そのとき須佐之男命(すさのおのみこと)は、大気都比売命(おおけつひめのみこと)という女神に、何か物を食べさせよとおおせになりました。大気都比売命(おおけつひめのみこと)は、おことばに従って、さっそく、鼻の穴(あな)や口の中からいろいろの食べものを出して、それをいろいろにお料理してさしあげました。
 すると須佐之男命(すさのおのみこと)は大気都比売命(おおけつひめのみこと)のすることを見ていらしって、
「こら、そんな、お前の口や鼻から出したものがおれに食えるか。無礼なやつだ」と、たいそうお腹立(はらだ)ちになって、いきなり剣を抜(ぬ)いて、大気都比売命(おおけつひめのみこと)を一うちに切り殺しておしまいになりました。
 そうすると、その死がいの頭から、かいこが生まれ、両方の目にいねがなり、二つの耳にあわがなりました。それから鼻にはあずきがなり、おなかに、むぎとだいずがなりました。
 それを神産霊神(かみむすびのかみ)がお取り集めになって、日本じゅうの穀物(こくもつ)の種になさいました。
 須佐之男命(すさのおのみこと)は、そのまま下界へおりておいでになりました。

八俣(やまた)の大蛇(おろち)

       一

 須佐之男命(すさのおのみこと)は、大空から追いおろされて、出雲(いずも)の国の、肥(ひ)の河(かわ)の河上(かわかみ)の、鳥髪(とりかみ)というところへおくだりになりました。
 すると、その河(かわ)の中にはしが流れて来ました。命(みこと)は、それをご覧(らん)になって、
「では、この河の上の方には人が住んでいるな」とお察しになり、さっそくそちらの方へ向かって探(さが)し探しおいでになりました。そうすると、あるおじいさんとおばあさんとが、まん中に一人の娘(むすめ)をすわらせて三人でおんおん泣(な)いておりました。
 命は、おまえたちは何者かとおたずねになりました。
 おじいさんは、
「私は、この国の大山津見(おおやまつみ)と申します神の子で、足名椎(あしなずち)と申します者でございます。妻の名は手名椎(てなずち)、この娘の名は櫛名田媛(くしなだひめ)と申します」とお答えいたしました。
 命は、
「それで三人ともどうして泣いているのか」と、かさねてお聞きになりました。
 おじいさんは涙をふいて、
「私たち二人には、もとは八人の娘(むすめ)がおりましたのでございますが、その娘たちを、八俣(やまた)の大蛇(おろち)と申します怖(おそ)ろしい大じゃが、毎年出てきて、一人ずつ食べて行ってしまいまして、とうとうこの子一人だけになりました。そういうこの子も、今にその大じゃが食べにまいりますのでございます」
 こう言って、みんなが泣いているわけをお話しいたしました。
「いったいその大じゃはどんな形をしている」と、命(みこと)はお聞きになりました。
「その大じゃと申しますのは、からだは一つでございますが、頭と尾(お)は八つにわかれておりまして、その八つの頭には、赤ほおずきのようなまっかな目が、燃えるように光っております。それからからだじゅうには、こけや、ひのきやすぎの木などがはえ茂(しげ)っております。そのからだのすっかりの長さが、八つの谷と八つの山のすそをとりまくほどの、大きな大きな大じゃでございます。その腹(はら)はいつも血にただれてまっかになっております」と怖ろしそうにお話しいたしました。命は、
「ふん、よしよし」とおうなずきになりました。そして改めておじいさんに向かって、
「その娘はおまえの子ならば、わしのお嫁(よめ)にくれないか」とおっしゃいました。
「おことばではございますが、あなたさまはどこのどなただか存じませんので」とおじいさんは危(あや)ぶんで怖る怖るこう申しました。命は、
「じつはおれは天照大神(あまてらすおおかみ)の同じ腹(はら)の弟で、たった今、大空からおりて来たばかりだ」と、うちあけてお名まえをおっしゃいました。すると、足名椎(あしなずち)も手名椎(てなずち)も、
「さようでございますか。これはこれはおそれおおい。それでは、おおせのままさしあげますでございます」と、両手をついて申しあげました。
 命は、櫛名田媛(くしなだひめ)をおもらいになると、たちまち媛をくしに化けさせておしまいになりました。そして、そのくしをすぐにご自分のびんの巻髪(まきがみ)におさしになって、足名椎(あしなずち)と手名椎(てなずち)に向かっておっしゃいました。
「おまえたちは、これからこめをかんで、よい酒をどっさり作れ。それから、ここへぐるりとかきをこしらえて、そのかきへ、八(や)ところに門をあけよ。そしてその門のうちへ、一つずつさじきをこしらえて、そのさじきの上に、大おけを一つずつおいて、その中へ、二人でこしらえたよい酒を一ぱい入れて待っておれ」とお言いつけになりました。
 二人は、おおせのとおりに、すっかり準備をととのえて、待っておりました。そのうちに、そろそろ大じゃの出て来る時間が近づいて来ました。
 命は、それを聞いて、じっと待ちかまえていらっしゃいますと、まもなく、二人が言ったように、大きな大きな八俣(やまた)の大蛇(おろち)が、大きなまっかな目をぎらぎら光らして、のそのそと出て来ました。
 大じゃは、目の前に八つの酒(さか)おけが並(なら)んでいるのを見ると、いきなり八つの頭を一つずつその中へつっこんで、そのたいそうなお酒を、がぶがぶがぶがぶとまたたくまに飲み干(ほ)してしまいました。そうするとまもなくからだじゅうによいがまわって、その場へ倒れたなり、ぐうぐう寝(ね)いってしまいました。
 須佐之男命(すさのおのみこと)は、そっとその寝息(ねいき)をうかがっていらっしゃいましたが、やがて、さあ今だとお思いになって、十拳(とつか)の剣(つるぎ)を引き抜(ぬ)くが早いか、おのれ、おのれと、つづけさまにお切りつけになりました。そのうちに八つの尾(お)の中の、中ほどの尾をお切りつけになりますと、その尾の中に何か固(かた)い物があって、剣の刃先(はさき)が、少しばかりほろりと欠けました。
 命(みこと)は、
「おや、変だな」とおぼしめして、そのところを切り裂(さ)いてご覧になりますと、中から、それはそれは刃の鋭い、りっぱな剣が出て来ました。命は、これはふしぎなものが手にはいったとお思いになりました。その剣はのちに天照大神(あまてらすおおかみ)へご献上(けんじょう)になりました。
 命はとうとう、大きな大きな大じゃの胴体をずたずたに切り刻(きざ)んでおしまいになりました。そして、
「足名椎(あしなずち)、手名椎(てなずち)、来て見よ。このとおりだ」とお呼(よ)びになりました。
 二人はがたがたふるえながら出て来ますと、そこいら一面は、きれぎれになった大じゃの胴体から吹き出る血でいっぱいになっておりました。その血がどんどん肥(ひ)の河(かわ)へ流れこんで、河の水もまっかになって落ちて行きました。
 命はそれから、櫛名田媛(くしなだひめ)とお二人で、そのまま出雲(いずも)の国にお住まいになるおつもりで、御殿(ごてん)をおたてになるところを、そちこちと、探(さが)してお歩きになりました。そして、しまいに、須加(すが)というところまでおいでになると、
「ああ、ここへ来たら、心持がせいせいしてきた。これはよいところだ」とおっしゃって、そこへ御殿をおたてになりました。そして、足名椎神(あしなずちのかみ)をそのお宮の役人の頭(かしら)になさいました。
 命にはつぎつぎにお子さまお孫さまがどんどんおできになりました。その八代目のお孫さまのお子さまに、大国主神(おおくにぬしのかみ)、またの名を大穴牟遅神(おおなむちのかみ)とおっしゃるりっぱな神さまがお生まれになりました。

むかでの室(むろ)、へびの室(むろ)

       一

 この大国主神(おおくにぬしのかみ)には、八十神(やそがみ)といって、何十人というほどの、おおぜいのごきょうだいがおありになりました。
 その八十神(やそがみ)たちは、因幡(いなば)の国に、八上媛(やがみひめ)という美しい女の人がいると聞き、みんなてんでんに、自分のお嫁(よめ)にもらおうと思って、一同でつれだって、はるばる因幡へ出かけて行きました。
 みんなは、大国主神が、おとなしいかたなのをよいことにして、このかたをお供(とも)の代わりに使って、袋(ふくろ)を背おわせてついて来させました。そして、因幡の気多(けた)という海岸まで来ますと、そこに毛のないあか裸(はだか)のうさぎが、地べたにころがって、苦しそうにからだじゅうで息をしておりました。
 八十神(やそがみ)たちはそれを見ると、
「おいうさぎよ。おまえからだに毛がはやしたければ、この海の潮(しお)につかって、高い山の上で風に吹かれて寝(ね)ておれ。そうすれば、すぐに毛がいっぱいはえるよ」とからかいました。うさぎはそれをほんとうにして、さっそく海につかって、ずぶぬれになって、よちよちと山へのぼって、そのまま寝ころんでおりました。
 するとその潮水(しおみず)がかわくにつれて、からだじゅうの皮がひきつれて、びりびり裂(さ)け破れました。うさぎはそのひりひりする、ひどい痛(いた)みにたまりかねて、おんおん泣き伏(ふ)しておりました。そうすると、いちばんあとからお通りかかりになった、お供の大国主神がそれをご覧(らん)になって、
「おいおいうさぎさん、どうしてそんなに泣いているの」とやさしく聞いてくださいました。
 うさぎは泣き泣き、
「私は、もと隠岐(おき)の島におりましたうさぎでございますが、この本土へ渡(わた)ろうと思いましても、渡るてだてがございませんものですから、海の中のわにをだまして、いったい、おまえとわしとどっちがみうちが多いだろう、ひとつくらべてみようじゃないか、おまえはいるだけのけん族をすっかりつれて来て、ここから、あの向こうのはての、気多(けた)のみさきまでずっと並(なら)んでみよ、そうすればおれがその背(せ)中の上をつたわって、かぞえてやろうと申しました。
 すると、わにはすっかりだまされまして、出てまいりますもまいりますも、それはそれは、うようよと、まっくろに集まってまいりました。そして、私の申しましたとおりに、この海ばたまでずらりと一列に並びました。
 私は五十八十と数をよみながら、その背なかの上をどんどん渡って、もう一足でこの海ばたへ上がろうといたしますときに、やあいまぬけのわにめ、うまくおれにだまされたァいとはやしたてますと、いちばんしまいにおりましたわにが、むっと怒(おこ)って、いきなり私をつかまえまして、このとおりにすっかりきものをひっぺがしてしまいました。
 そこであすこのところへ伏(ふ)しころんで泣(な)いておりましたら、さきほどここをお通りになりました八十神(やそがみ)たちが、いいことを教えてやろう、これこれこうしてみろとおっしゃいましたので、そのとおりに潮水(しおみず)を浴びて風に吹かれておりますと、からだじゅうの皮がこわばって、こんなにびりびり裂(さ)けてしまいました」
 こう言って、うさぎはまたおんおん泣きだしました。
 大国主神(おおくにぬしのかみ)は、話を聞いてかわいそうだとおぼしめして、
「それでは早くあすこの川口へ行って、ま水でからだじゅうをよく洗って、そこいらにあるかばの花をむしって、それを下に敷いて寝(ね)ころんでいてごらん。そうすれば、ちゃんともとのとおりになおるから」
 こう言って、教えておやりになりました。うさぎはそれを聞くとたいそう喜んでお礼を申しました。そしてそのあとで言いました。
「あんなお人の悪い八十神(やそがみ)たちは、けっして八上媛(やがみひめ)をご自分のものになさることはできません。あなたは袋(ふくろ)などをおしょいになって、お供(とも)についていらっしゃいますけれど、八上媛はきっと、あなたのお嫁(よめ)さまになると申します。みていてごらんなさいまし」と申しました。
 まもなく、八十神たちは八上媛のところへ着きました。そして、代わる代わる、自分のお嫁になれなれと言いましたが、媛(ひめ)はそれをいちいちはねつけて、
「いえいえ、いくらお言いになりましても、あなたがたのご自由にはなりません。私は、あそこにいらっしゃる大国主神のお嫁にしていただくのです」と申しました。
 八十神たちはそれを聞くとたいそう怒(おこ)って、みんなで大国主神を殺してしまおうという相談をきめました。
 みんなは、大国主神を、伯耆(ほうき)の国の手間(てま)の山という山の下へつれて行って、
「この山には赤いいのししがいる。これからわしたちが山の上からそのいのししを追いおろすから、おまえは下にいてつかまえろ。へたをして遁(に)がしたらおまえを殺してしまうぞ」と、言いわたしました。そして急いで、山の上へかけあがって、さかんにたき火をこしらえて、その火の中で、いのししのようなかっこうをしている大きな石をまっかに焼いて、
「そうら、つかまえろ」と言いながら、どしんと、転(ころ)がし落としました。
 ふもとで待ち受けていらしった大国主神は、それをご覧になるなり、大急ぎでかけ寄って、力まかせにお組みつきになったと思いますと、からだはたちまちそのあか焼けの石の膚(はだ)にこびりついて、
「あッ」とお言いになったきり、そのままただれ死にに死んでおしまいになりました。

       二

 大国主神の生みのおかあさまは、それをお聞きになると、たいそうお嘆(なげ)きになって、泣(な)き泣き大空へかけのぼって、高天原(たかまのはら)においでになる、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)にお助けをお願いになりました。
 すると、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は、蚶貝媛(きさがいひめ)、蛤貝媛(うむがいひめ)と名のついた、あかがいとはまぐりの二人の貝を、すぐに下界へおくだしになりました。
 二人は大急ぎでおりて見ますと、大国主神(おおくにぬしのかみ)はまっくろこげになって、山のすそに倒(たお)れていらっしゃいました。あかがいはさっそく自分のからを削(けず)って、それを焼いて黒い粉をこしらえました。はまぐりは急いで水を出して、その黒い粉をこねて、おちちのようにどろどろにして、二人で大国主神のからだじゅうへ塗(ぬ)りつけました。
 そうすると大国主神は、それほどの大やけどもたちまちなおって、もとのとおりの、きれいな若い神になってお起きあがりになりました。そしてどんどん歩いてお家(うち)へ帰っていらっしゃいました。
 八十神(やそがみ)たちは、それを見ると、びっくりして、もう一度みんなでひそひそ相談をはじめました。そしてまたじょうずに大国主神をだまして、こんどは別の山の中へつれこみました。そしてみんなで寄ってたかって、ある大きなたち木を根もとから切りまげて、その切れ目へくさびをうちこんで、その間へ大国主神をはいらせました。そうしておいて、ふいにポンとくさびを打ちはなして、はさみ殺しに殺してしまいました。
 大国主神のおかあさまは、若い子の神がまたいなくなったので、おどろいて方々さがしておまわりになりました。そして、しまいにまた殺されていらっしゃるところをおみつけになると、大急ぎで木の幹を切り開いて、子の神のお死がいをお引き出しになりました。そしていっしょうけんめいに介抱(かいほう)して、ようようのことで再びお生きかえらせになりました。おかあさまは、
「もうおまえはうかうかこの土地においてはおかれない。どうぞこれからすぐに、須佐之男命(すさのおのみこと)のおいでになる、根堅国(ねのかたすくに)へ遁(に)げておくれ、そうすれば命(みこと)が必ずいいようにはからってくださるから」
 こう言って、若(わか)い子の神を、そのままそちらへ立ってお行かせになりました。
 大国主神は、言われたとおりに、命のおいでになるところへお着きになりました。すると、命のお娘(むすめ)ごの須勢理媛(すぜりひめ)がお取次をなすって、
「お父上さま、きれいな神がいらっしゃいました」とお言いになりました。
 お父上の大神(おおかみ)は、それをお聞きになると、急いでご自分で出てご覧になって、
「ああ、あれは、大国主という神だ」とおっしゃいました。そして、さっそくお呼(よ)びいれになりました。
 媛(ひめ)は大国主神のことをほんとに美しいよい方だとすぐに大すきにお思いになりました。大神には、第一それがお気にめしませんでした。それで、ひとつこの若い神を困(こま)らせてやろうとお思いになって、その晩、大国主神を、へびの室(むろ)といって、大へび小へびがいっぱいたかっているきみの悪いおへやへお寝(ね)かせになりました。
 そうすると、やさしい須勢理媛(すぜりひめ)は、たいそう気の毒にお思いになりました。それでご自分の、比礼(ひれ)といって、肩(かた)かけのように使うきれを、そっと大国主神におわたしになって、
「もしへびがくいつきにまいりましたら、このきれを三度振(ふ)って追いのけておしまいなさい」とおっしゃいました。
 まもなく、へびはみんなでかま首を立ててぞろぞろとむかって来ました。大国主神(おおくにぬしのかみ)はさっそく言われたとおりに、飾(かざ)りのきれを三度お振(ふ)りになりました。するとふしぎにも、へびはひとりでにひきかえして、そのままじっとかたまったなり、一晩じゅう、なんにも害をしませんでした。若(わか)い神はおかげで、気らくにぐっすりおよって、朝になると、あたりまえの顔をして、大神(おおかみ)の前に出ていらっしゃいました。
 すると大神は、その晩はむかでとはちのいっぱいはいっているおへやへお寝(ね)かせになりました。しかし媛(ひめ)が、またこっそりと、ほかの首飾りのきれをわたしてくだすったので、大国主神は、その晩もそれでむかでやはちを追いはらって、また一晩じゅうらくらくとおやすみになりました。
 大神は、大国主神がふた晩とも、平気で切りぬけてきたので、よし、それではこんどこそは見ておれと、心の中でおっしゃりながら、かぶら矢(や)と言って、矢じりに穴(あな)があいていて、射(い)るとびゅんびゅんと鳴る、こわい大きな矢を、草のぼうぼうとはえのびた、広い野原のまん中にお射こみになりました。そして、大国主神に向かって、
「さあ、今飛んだ矢を拾って来い」とおおせつけになりました。
 若い神は、正直(しょうじき)にご命令を聞いて、すぐに草をかき分けてどんどんはいっておいでになりました。大神はそれを見すまして、ふいに、その野のまわりへぐるりと火をつけて、どんどんお焼きたてになりました。大国主神は、おやと思うまに、たちまち四方から火の手におかこまれになって、すっかり遁げ場を失っておしまいになりました。それで、どうしたらいいかとびっくりして、とまどいをしていらっしゃいますと、そこへ一ぴきのねずみが出て来まして、
「うちはほらほら、そとはすぶすぶ」と言いました。それは、中は、がらんどうで、外はすぼまっている、という意味でした。
 若い神は、すぐそのわけをおさとりになって、足の下を、とんときつく踏(ふ)んでごらんになりますと、そこは、ちゃんと下が大きな穴になっていたので、からだごとすっぽりとその中へ落ちこみました。それで、じっとそのままこごまって隠れていらっしゃいますと、やがてま近まで燃えて来た火の手は、その穴の上を走って、向こうへ遠のいてしまいました。
 そのうちに、さっきのねずみが大神のお射になったかぶら矢をちゃんとさがし出して、口にくわえて持って来てくれました。見るとその矢の羽根のところは、いつのまにかねずみの子供たちがかじってすっかり食べてしまっておりました。

       三

 須勢理媛(すぜりひめ)は、そんなことはちっともご存じないものですから、美しい若い神は、きっと焼け死んだものとお思いになって、ひとりで嘆(なげ)き悲しんでいらっしゃいました。そして火が消えるとすぐに、急いでお弔(とむら)いの道具を持って、泣(な)き泣(な)きさがしにいらっしゃいました。
 お父上の大神も、こんどこそはだいじょうぶ死んだろうとお思いになって、媛のあとからいらしってごらんになりました。
 すると大国主神(おおくにぬしのかみ)は、もとのお姿(すがた)のままで、焼けあとのなかから出ていらっしゃいました。そしてさっきのかぶら矢をちゃんとお手におわたしになりました。
 大神(おおかみ)もこれには内々(ないない)びっくりしておしまいになりまして、しかたなくいっしょに御殿(ごてん)へおかえりになりました。そして大きな広間へつれておはいりになって、そこへごろりと横におなりになったと思うと、
「おい、おれの頭のしらみを取れ」と、いきなりおっしゃいました。
 大国主神はかしこまって、その長い長いお髪(ぐし)の毛をかき分けてご覧になりますと、その中には、しらみでなくて、たくさんなむかでが、うようよたかっておりました。
 すると、須勢理媛(すぜりひめ)がそばへ来て、こっそりとむくの実と赤土とをわたしてお行きになりました。
 大国主神は、そのむくの実を一粒(ひとつぶ)ずつかみくだき、赤土を少しずつかみとかしては、いっしょにぷいぷいお吐(は)き出しになりました。大神はそれをご覧になると、
「ほほう、むかでをいちいちかみつぶしているな。これは感心なやつだ」とお思いになりながら、安心して、すやすやと寝いっておしまいになりました。
 大国主神は、この上ここにぐずぐずしていると、まだまだどんなめに会うかわからないとお思いになって、命(みこと)がちょうどぐうぐうおやすみになっているのをさいわいに、その長いお髪(ぐし)をいく束(たば)にも分けて、それを四方のたる木というたる木へ一束ずつ縛(しば)りつけておいたうえ、五百人もかからねば動かせないような、大きな大きな大岩を、そっと戸口に立てかけて、中から出られないようにしておいて、大神(おおかみ)の太刀(たち)と弓矢(ゆみや)と、玉の飾りのついた貴(とうと)い琴(こと)とをひっ抱(かか)えるなり、急いで須勢理媛(すぜりひめ)を背なかにおぶって、そっと御殿をお逃(に)げ出しになりました。
 するとまの悪いことに、抱えていらっしゃる琴が、樹(き)の幹にぶつかって、じゃらじゃらじゃらんとたいそうなひびきを立てて鳴りました。
 大神はその音におどろいて、むっくりとお立ちあがりになりました。すると、おぐしがたる木じゅうへ縛りつけてあったのですから、大力(おおぢから)のある大神がふいにお立ちになるといっしょに、そのおへやはいきなりめりめりと倒(たお)れつぶれてしまいました。
 大神は、
「おのれ、あの小僧(こぞう)ッ神め」と、それはそれはお怒(いか)りになって、髪(かみ)の毛をひと束ずつ、もどかしく解きはなしていらっしゃるまに、こちらの大国主神はいっしょうけんめいにかけつづけて、すばやく遠くまで逃げのびていらっしゃいました。
 すると大神は、まもなくそのあとを追っかけて、とうとう黄泉比良坂(よもつひらざか)という坂の上までかけつけていらっしゃいました。そしてそこから、はるかに大国主神を呼びかけて、大声をしぼってこうおっしゃいました。
「おおいおおい、小僧ッ神。その太刀と弓矢をもって、そちのきょうだいの八十神(やそがみ)どもを、山の下、川の中と、逃げるところへ追いつめ切り払(はら)い、そちが国の神の頭(かしら)になって、宇迦(うか)の山のふもとに御殿を立てて住め。わしのその娘(むすめ)はおまえのお嫁(よめ)にくれてやる。わかったか」とおどなりになりました。
 大国主神(おおくにぬしのかみ)はおおせのとおりに、改めていただいた、大神(おおかみ)の太刀(たち)と弓矢(ゆみや)を持って、八十神(やそがみ)たちを討(う)ちにいらっしゃいました。そして、みんながちりぢりに逃(に)げまわるのを追っかけて、そこいらじゅうの坂の下や川の中へ、切り倒(たお)し突(つ)き落として、とうとう一人ももらさず亡(ほろ)ぼしておしまいになりました。そして、国の神の頭(かしら)になって、宇迦(うか)の山の下に御殿(ごてん)をおたてになり、須勢理媛(すぜりひめ)と二人で楽しくおくらしになりました。

       四

 そのうちに例の八上媛(やがみひめ)は、大国主神をしたって、はるばるたずねて来ましたが、その大国主神には、もう須勢理媛(すぜりひめ)というりっぱなお嫁(よめ)さまができていたので、しおしおと、またおうちへ帰って行きました。
 大国主神はそれからなお順々に四方を平らげて、だんだんと国を広げておゆきになりました。そうしているうちに、ある日、出雲(いずも)の国の御大(みお)の崎(さき)という海ばたにいっていらっしゃいますと、はるか向こうの海の上から、一人の小さな小さな神が、お供の者たちといっしょに、どんどんこちらへ向かって船をこぎよせて来ました。その乗っている船は、ががいもという、小さな草の実で、着ている着物は、ひとりむしの皮を丸はぎにしたものでした。
 大国主神は、その神に向かって、
「あなたはどなたですか」とおたずねになりました。しかし、その神は口を閉(と)じたまま名まえをあかしてくれませんでした。大国主神はご自分のお供の神たちに聞いてご覧になりましたが、みんなその神がだれだかけんとうがつきませんでした。
 するとそこへひきがえるがのこのこ出て来まして、
「あの神のことは久延彦(くえびこ)ならきっと存じておりますでしょう」と言いました。久延彦というのは山の田に立っているかかしでした。久延彦(くえびこ)は足がきかないので、ひと足も歩くことはできませんでしたけれど、それでいて、この下界のことはなんでもすっかり知っておりました。
 それで大国主神は急いでその久延彦(くえびこ)にお聞きになりますと、
「ああ、あの神は大空においでになる神産霊神(かみむすびのかみ)のお子さまで、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)とおっしゃる方でございます」と答えました。大国主神はそれでさっそく、神産霊神(かみむすびのかみ)にお伺(うかが)いになりますと、神も、
「あれはたしかにわしの子だ」とおっしゃいました。そして改めて少名毘古那神に向かって、
「おまえは大国主神ときょうだいになって二人で国々を開き固(かた)めて行け」とおおせつけになりました。
 大国主神は、そのお言葉に従って、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)とお二人で、だんだんに国を作り開いておゆきになりました。ところが、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は、あとになると、急に常世国(とこよのくに)という、海の向こうの遠い国へ行っておしまいになりました。
 大国主神(おおくにぬしのかみ)はがっかりなすって、私(わたし)一人では、とても思いどおりに国を開いてゆくことはできない、だれか力を添(そ)えてくれる神はいないものかと言って、たいそうしおれていらっしゃいました。
 するとちょうどそのとき、一人の神さまが、海の上一面にきらきらと光を放(はな)ちながら、こちらへ向かって近づいていらっしゃいました。それは須佐之男命(すさのおのみこと)のお子の大年神(おおとしのかみ)というお方でした。その神が、大国主神に向かって、
「私をよく大事にまつっておくれなら、いっしょになって国を作りかためてあげよう。おまえさん一人ではとてもできはしない」と、こう言ってくださいました。
「それではどんなふうにおまつり申せばいいのでございますか」とお聞きになりますと、
「大和(やまと)の御諸(みもろ)の山の上にまつってくれればよい」とおっしゃいました。
 大国主神はお言葉(ことば)のとおりに、そこへおまつりして、その神さまと二人でまただんだんに国を広げておゆきになりました。

きじのお使(つか)い

       一

 そのうちに大空の天照大神(あまてらすおおかみ)は、お子さまの天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に向かって、
「下界に見える、あの豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)は、おまえが治めるべき国である」とおっしゃって、すぐにくだって行くように、お言いつけになりました。命(みこと)はかしこまっておりていらっしゃいました。しかし天(あめ)の浮橋(うきはし)の上までおいでになって、そこからお見おろしになりますと、下では勢いの強い神たちが、てんでんに暴(あば)れまわって、大さわぎをしているのが見えました。命は急いでひきかえしていらしって、そのことを大神にお話しになりました。
 それで大神と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とは、さっそく天安河(あめのやすのかわ)の河原に、おおぜいの神々をすっかりお召(め)し集めになって、
「あの水穂国(みずほのくに)は、私たちの子孫(しそん)が治めるはずの国であるのに、今あすこには、悪強い神たちが勢い鋭く荒れまわっている。あの神たちを、おとなしくこちらの言うとおりにさせるには、いったいだれを使いにやったものであろう」とこうおっしゃって、みんなにご相談をなさいました。
 すると例のいちばん考え深い思金神(おもいかねのかみ)が、みんなと会議をして、
「それには天菩比神(あめのほひのかみ)をおつかわしになりますがよろしゅうございましょう」と申しあげました。そこで大神は、さっそくその菩比神(ほひのかみ)をおくだしになりました。
 ところが菩比神(ほひのかみ)は、下界へつくと、それなり大国主神(おおくにぬしのかみ)の手下になってしまって、三年たっても、大空へはなんのご返事もいたしませんでした。
 それで大神と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とは、またおおぜいの神々をお召(め)しになって、
「菩比神(ほひのかみ)がまだ帰ってこないが、こんどはだれをやったらよいであろう」と、おたずねになりました。
 思金神(おもいかねのかみ)は、
「それでは、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の子の、天若日子(あめのわかひこ)がよろしゅうございましょう」と、お答え申しました。
 大神はその言葉(ことば)に従って、天若日子(あめのわかひこ)にりっぱな弓(ゆみ)と矢(や)をお授けになって、それを持たせて下界へおくだしになりました。
 するとその若日子は大空にちゃんとほんとうのお嫁(よめ)があるのに、下へおり着くといっしょに、大国主神(おおくにぬしのかみ)の娘(むすめ)の下照比売(したてるひめ)をまたお嫁にもらったばかりか、ゆくゆくは水穂国(みずほのくに)を自分が取ってしまおうという腹(はら)で、とうとう八年たっても大神の方へはてんでご返事にも帰りませんでした。
 大神と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とは、また神々をお集めになって、
「二度めにつかわした天若日子もまたとうとう帰ってこない。いったいどうしてこんなにいつまでも下界にいるのか、それを責(せ)めただしてこさせたいと思うが、だれをやったものであろう」とお聞きになりました。
 思金神(おもいかねのかみ)は、
「それでは名鳴女(ななきめ)というきじがよろしゅうございましょう」と申しあげました。大神たちお二人はそのきじをお召(め)しになって、
「おまえはこれから行って天若日子(あめのわかひこ)を責めてこい。そちを水穂国(みずほのくに)へおくりだしになったのは、この国の神どもを説き伏せるためではないか、それだのに、なぜ八年たってもご返事をしないのか、と言って、そのわけを聞きただしてこい」とお言いつけになりました。
 名鳴女は、はるばると大空からおりて、天若日子のうちの門のそばの、かえでの木の上にとまって、大神からおおせつかったとおりをすっかり言いました。
 すると若日子のところに使われている、天佐具売(あめのさくめ)という女が、その言葉を聞いて、
「あすこに、いやな鳴き声を出す鳥がおります。早く射(い)ておしまいなさいまし」と若日子にすすめました。
 若日子は、
「ようし」と言いながら、かねて大神からいただいて来た弓(ゆみ)と矢(や)を取り出して、いきなりそのきじを射殺してしまいました。すると、その当たった矢が名鳴女の胸(むね)を突(つ)き通して、さかさまに大空の上まではねあがって、天安河(あめのやすのかわ)の河原(かわら)においでになる、天照大神(あまてらすおおかみ)と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とのおそばへ落ちました。
 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)はその矢を手に取ってご覧(らん)になりますと、矢の羽根に血がついておりました。
 高皇産霊神は、
「この矢は天若日子(あめのわかひこ)につかわした矢だが」とおっしゃって、みんなの神々にお見せになった後、
「もしこの矢が、若日子が悪い神たちを射たのが飛んで来たのならば、若日子にはあたるな。もし若日子が悪い心をいだいているなら、かれを射殺せよ」とおっしゃりながら、さきほどの矢が通って来た空の穴(あな)から、力いっぱいにお突きおろしになりました。
 そうするとその矢は、若日子がちょうど下界であおむきに寝(ね)ていた胸のまん中を、ぷすりと突き刺(さ)して一ぺんで殺してしまいました。
 若日子のお嫁(よめ)の下照比売(したてるひめ)は、びっくりして、大声をあげて泣(な)きさわぎました。
 その泣く声が風にはこばれて、大空まで聞こえて来ますと、若日子の父の天津国玉神(あまつくにたまのかみ)と、若日子のほんとうのお嫁と子供たちがそれを聞きつけて、びっくりして、下界へおりて来ました。そして泣き泣きそこへ喪屋(もや)といって、死人を寝かせておく小屋をこしらえて、がんを供物(くもつ)をささげる役に、さぎをほうき持ちに、かわせみをお供(そな)えの魚(さかな)取りにやとい、すずめをお供えのこめつきに呼(よ)び、きじを泣き役につれて来て、八日(ようか)八晩(よばん)の間、若日子の死がいのそばで楽器をならして、死んだ魂(たましい)を慰(なぐさ)めておりました。
 そうしているところへ、大国主神(おおくにぬしのかみ)の子で、下照比売(したてるひめ)のおあにいさまの高日子根神(たかひこねのかみ)がお悔(くや)みに来ました。そうすると若日子(わかひこ)の父と妻子(つまこ)たちは、
「おや」とびっくりして、その神の手足にとりすがりながら、
「まあまあおまえは生きていたのか」
「まあ、あなたは死なないでいてくださいましたか」と言って、みんなでおんおんと嬉(うれ)し泣(な)きに泣きだしました。それは高日子根神(たかひこねのかみ)の顔や姿(すがた)が天若日子(あめのわかひこ)にそっくりだったので、みんなは一も二もなく若日子だとばかり思ってしまったのでした。
 すると高日子根神は、
「何をふざけるのだ」とまっかになって怒(おこ)りだして、
「人がわざわざ悔(くや)みに来たのに、それをきたない死人などといっしょにするやつがどこにある」とどなりつけながら、長い剣(つるぎ)を抜(ぬ)きはなすといっしょに、その喪屋(もや)をめちゃめちゃに切り倒し、足でぽんぽんけりちらかして、ぷんぷん怒って行ってしまいました。
 そのとき妹の下照比売(したてるひめ)は、あの美しい若い神は私のおあにいさまの、これこれこういう方だということを、歌に歌って、誇(ほこ)りがおに若日子の父や妻子に知らせました。

       二

 天照大神(あまてらすおおかみ)は、そんなわけで、また神々に向かって、こんどというこんどはだれを遣(つか)わしたらよいかとご相談をなさいました。
 思金神(おもいかねのかみ)とすべての神々は、
「それではいよいよ、天安河(あめのやすのかわ)の河上(かわかみ)の、天(あめ)の岩屋(いわや)におります尾羽張神(おはばりのかみ)か、それでなければ、その神の子の建御雷神(たけみかずちのかみ)か、二人のうちどちらかをお遣(つかわ)しになるほかはございません。しかし尾羽張神は、天安河の水をせきあげて、道を通れないようにしておりますから、めったな神では、ちょっと呼(よ)びにもまいれません。これはひとつ天迦久神(あめのかくのかみ)をおさしむけになりまして、尾羽張神がなんと申しますか聞かせてご覧になるがようございましょう」と申しあげました。
 大神はそれをお聞きになると、急いで天迦久神(あめのかくのかみ)をおやりになってお聞かせになりました。
 そうすると尾羽張神(おはばりのかみ)は、
「これは、わざわざもったいない。その使いには私でもすぐにまいりますが、それよりも、こんなことにかけましては、私の子の建御雷神(たけみかずちのかみ)がいっとうお役に立ちますかと存じます」
 こう言って、さっそくその神を大神のご前(ぜん)へうかがわせました。
 大神はその建御雷神に、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)という神をつけておくだしになりました。
 二人の神はまもなく出雲国(いずものくに)の伊那佐(いなさ)という浜にくだりつきました。そしてお互(たが)いに長い剣(つるぎ)をずらりと抜(ぬ)き放(はな)して、それを海の上にあおむけに突(つ)き立てて、そのきっさきの上にあぐらをかきながら、大国主神(おおくにぬしのかみ)に談判をしました。
「わしたちは天照大神(あまてらすおおかみ)と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とのご命令で、わざわざお使いにまいったのである。大神はおまえが治めているこの葦原(あしはら)の中(なか)つ国(くに)は、大神のお子さまのお治めになる国だとおっしゃっている。そのおおせに従って大神のお子さまにこの国をすっかりお譲(ゆず)りなさるか。それともいやだとお言いか」と聞きますと、大国主神(おおくにぬしのかみ)は、
「これは私からはなんともお答え申しかねます。私よりも、むすこの八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)が、とかくのご返事を申しあげますでございましょうが、あいにくただいま御大(みお)の崎(さき)へりょうにまいっておりますので」とおっしゃいました。
 建御雷神(たけみかずちのかみ)はそれを聞くと、すぐに天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を御大(みお)の崎(さき)へやって、事代主神(ことしろぬしのかみ)を呼(よ)んで来させました。そして大国主神に言ったとおりのことを話しました。
 すると事代主神は、父の神に向かって、
「まことにもったいないおおせです。お言葉(ことば)のとおり、この国は大空の神さまのお子さまにおあげなさいまし」と言いながら、自分の乗って帰った船を踏(ふ)み傾(かたむ)けて、おまじないの手打ちをしますと、その船はたちまち、青いいけがきに変わってしまいました。事代主神はそのいけがきの中へ急いでからだをかくしてしまいました。
 建御雷神(たけみかずちのかみ)は大国主神に向かって、
「ただ今事代主神はあのとおりに申したが、このほかには、もうちがった意見を持っている子はいないか」とたずねました。
 大国主神は、
「私の子は事代主神のほかに、もう一人、建御名方神(たけみなかたのかみ)というものがおります。もうそれきりでございます」とお答えになりました。
 そうしているところへ、ちょうどこの建御名方神(たけみなかたのかみ)が、千人もかからねば動かせないような大きな大きな大岩を両手でさしあげて出て来まして、
「やい、おれの国へ来て、そんなひそひそ話をしているのはだれだ。さあ来い、力くらべをしよう。まずおれがおまえの手をつかんでみよう」と言いながら、大岩を投げだしてそばへ来て、いきなり建御雷神(たけみかずちのかみ)の手をひっつかみますと、御雷神(みかずちのかみ)の手は、たちまち氷の柱になってしまいました。御名方神(みなかたのかみ)がおやとおどろいているまに、その手はまたひょいと剣(つるぎ)の刃(は)になってしまいました。
 御名方神はすっかりこわくなっておずおずとしりごみをしかけますと、御雷神(みかずちのかみ)は、
「さあ、こんどはおれの番だ」と言いながら、御名方神の手くびをぐいとひっつかむが早いか、まるではえたてのあしをでも扱うように、たちまち一握(にぎ)りに握りつぶして、ちぎれ取れた手先を、ぽうんと向こうへ投げつけました。
 御名方神は、まっさおになって、いっしょうけんめいに逃(に)げだしました。御雷神(みかずちのかみ)は、
「こら待て」と言いながら、どこまでもどんどんどんどん追っかけて行きました。そしてとうとう信濃(しなの)の諏訪湖(すわこ)のそばで追いつめて、いきなり、一ひねりにひねり殺そうとしますと、建御名方神(たけみなかたのかみ)はぶるぶるふるえながら、
「もういよいよおそれいりました。どうぞ命ばかりはお助けくださいまし。私はこれなりこの信濃(しなの)より外へはひと足も踏(ふ)み出しはいたしません。また、父や兄の申しあげましたとおりに、この葦原(あしはら)の中つ国は、大空の神のお子さまにさしあげますでございます」と、平たくなっておわびしました。
 そこで建御雷神(たけみかずちのかみ)はまた出雲(いずも)へ帰って来て、大国主神(おおくにぬしのかみ)に問いつめました。
「おまえの子は二人とも、大神のおおせにはそむかないと申したが、おまえもこれでいよいよ言うことはあるまいな、どうだ」と言いますと、大国主神は、
「私にはもう何も異存はございません。この中つ国はおおせのとおり、すっかり、大神のお子さまにさしあげます。その上でただ一つのおねがいは、どうぞ私の社(やしろ)として、大空の神の御殿(ごてん)のような、りっぱな、しっかりした御殿をたてていただきとうございます。そうしてくださいませば私は遠い世界から、いつまでも大神のご子孫にお仕え申します。じつは私の子は、ほかに、まだまだいくたりもありますが、しかし、事代主神(ことしろぬしのかみ)さえ神妙にご奉公いたします上は、あとの子たちは一人も不平を申しはいたしません」
 こう言って、いさぎよくその場で死んでおしまいになりました。
 それで建御雷神(たけみかずちのかみ)は、さっそく、出雲国(いずものくに)の多芸志(たぎし)という浜にりっぱな大きなお社(やしろ)をたてて、ちゃんと望みのとおりにまつりました。そして櫛八玉神(くしやたまのかみ)という神を、お供(そな)えものを料理する料理人にしてつけ添(そ)えました。
 すると八玉神(やたまのかみ)は、う[#「う」に傍点]になって、海の底(そこ)の土をくわえて来て、それで、いろんなお供えものをあげるかわらけをこしらえました。
 それからある海草の茎(くき)で火切臼(ひきりうす)と火切杵(ひきりぎね)という物をこしらえて、それをすり合わせて火を切り出して、建御雷神(たけみかずちのかみ)に向かってこう言いました。
「私が切ったこの火で、そこいらが、大空の神の御殿のお料理場のように、すすでいっぱいになるまで欠かさず火をたき、かまどの下が地の底の岩のように固(かた)くなるまで絶えず火をもやして、りょうしたちの取って来る大すずきをたくさんに料理して、大空の神の召しあがるようなりっぱなごちそうを、いつもいつもお供えいたします」と言いました。
 建御雷神(たけみかずちのかみ)はそれでひとまず安心して、大空へ帰りのぼりました。そして天照大神(あまてらすおおかみ)と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)に、すっかりこのことを、くわしく奏上(そうじょう)いたしました。

笠沙(かささ)のお宮

       一

 天照大神(あまてらすおおかみ)と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とは、あれほど乱(みだ)れさわいでいた下界を、建御雷神(たけみかずちのかみ)たちが、ちゃんとこちらのものにして帰りましたので、さっそく天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)をお召(め)しになって、
「葦原(あしはら)の中つ国はもはやすっかり平(たい)らいだ。おまえはこれからすぐにくだって、さいしょ申しつけたように、あの国を治めてゆけ」とおっしゃいました。
 命(みこと)はおおせに従って、すぐに出発の用意におとりかかりになりました。するとちょうどそのときに、お妃(きさき)の秋津師毘売命(あきつしひめのみこと)が男のお子さまをお生みになりました。
 忍穂耳命(おしほみみのみこと)は大神のご前(ぜん)へおいでになって、
「私たち二人に、世嗣(よつぎ)の子供が生まれました。名前は日子番能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)とつけました。中つ国へくだしますには、この子がいちばんよいかと存じます」とおっしゃいました。
 それで大神は、そのお孫さまの命(みこと)が大きくおなりになりますと、改めておそばへ召して、
「下界に見えるあの中つ国は、おまえの治める国であるぞ」とおっしゃいました。命は、かしこまって、
「それでは、これからすぐにくだってまいります」とおっしゃって、急いでそのお手はずをなさいました。そしてまもなく、いよいよお立ちになろうとなさいますと、ちょうど、大空のお通り道のある四つじに、だれだか一人の神が立ちはだかって、まぶしい光をきらきらと放ちながら、上は高天原(たかまのはら)までもあかあかと照らし、下は中つ国までいちめんに照り輝(かがや)かせておりました。
 天照大神(あまてらすおおかみ)と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とはそれをご覧になりますと、急いで天宇受女命(あめのうずめのみこと)をお呼びになって、
「そちは女でこそあれ、どんな荒(あら)くれた神に向かいあっても、びくともしない神だから、だれをもおいておまえを遣(つかわ)すのである。あの、道をふさいでいる神のところへ行ってそう言って来い。大空の神のお子がおくだりになろうとするのに、そのお通り道を妨(さまた)げているおまえは何者かと、しっかり責(せ)めただして来い」とお言いつけになりました。
 宇受女命(うずめのみこと)はさっそくかけつけて、きびしくとがめたてました。すると、その神は言葉(ことば)をひくくして、
「私は下界の神で名は猿田彦神(さるたひこのかみ)と申します者でございます。ただいまここまで出てまいりましたのは、大空の神のお子さまがまもなくおくだりになると承りましたので、及(およ)ばずながら私がお道筋(すじ)をご案内申しあげたいと存じまして、お迎えにまいりましたのでございます」とお答え申しました。
 大神はそれをお聞きになりましてご安心なさいました。そして天児屋根命(あめのこやねのみこと)、太玉命(ふとだまのみこと)、天宇受女命(あめのうずめのみこと)、石許理度売命(いしこりどめのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)の五人を、お孫さまの命(みこと)のお供の頭(かしら)としておつけ添(そ)えになりました。そしておしまいにお別れになるときに、八尺(やさか)の曲玉(まがたま)という、それはそれはごりっぱなお首飾(くびかざ)りの玉と、八咫(やた)の鏡(かがみ)という神々(こうごう)しいお鏡と、かねて須佐之男命(すさのおのみこと)が大じゃの尾の中からお拾いになった、鋭い御剣(みつるぎ)と、この三つの貴(とうと)いご自分のお持物を、お手ずから命(みこと)にお授けになって、
「この鏡は私の魂(たましい)だと思って、これまで私に仕えてきたとおりに、たいせつに崇(あが)め祀(まつ)るがよい」とおっしゃいました。それから大空の神々の中でいちばんちえの深い思金神(おもいかねのかみ)と、いちばんすぐれて力の強い手力男神(たぢからおのかみ)とをさらにおつけ添(そ)えになったうえ、
「思金神(おもいかねのかみ)よ、そちはあの鏡の祀(まつ)りをひき受けて、よくとり行なえよ」とおおせつけになりました。
 邇邇芸命(ににぎのみこと)はそれらの神々をはじめ、おおぜいのお供の神をひきつれて、いよいよ大空のお住まいをおたちになり、いく重(え)ともなくはるばるとわき重なっている、深い雲の峰(みね)をどんどんおし分けて、ご威光(いこう)りりしくお進みになり、やがて天浮橋(あめのうきはし)をもおし渡(わた)って、どうどうと下界に向かってくだっておいでになりました。そのまっさきには、天忍日命(あめのおしひのみこと)と、天津久米命(あまつくめのみこと)という、よりすぐった二人の強い神さまが、大きな剣(つるぎ)をつるし、大きな弓と強い矢とを負(お)い抱(かか)えて、勇ましくお先払いをして行きました。
 命たちはしまいに、日向(ひゅうが)の国の高千穂(たかちほ)の山の、串触嶽(くしふるだけ)という険(けわ)しい峰の上にお着きになりました。そしてさらに韓国嶽(からくにだけ)という峰へおわたりになり、そこからだんだんと、ひら地へおくだりになって、お住まいをお定めになる場所を探し探し、海の方へ向かって出ておいでになりました。
 そのうちに同じ日向(ひゅうが)の笠沙(かささ)の岬(みさき)へお着きになりました。
 邇邇芸命(ににぎのみこと)は、
「ここは朝日もま向きに射(さ)し、夕日もよく照って、じつにすがすがしいよいところだ」とおっしゃって、すっかりお気にめしました。それでとうとう最後にそこへお住まいになることにおきめになりました。そしてさっそく、地面のしっかりしたところへ、大きな広い御殿(ごてん)をおたてになりました。
 命(みこと)は、それから例の宇受女命(うずめのみこと)をお召(め)しになって、
「そちは、われわれの道案内をしてくれた、あの猿田彦神(さるたひこのかみ)とは、さいしょからの知り合いである。それでそちがつき添って、あの神が帰るところまで送って行っておくれ。それから、あの神のてがらを記念してやる印に、猿田彦(さるたひこ)という名まえをおまえが継(つ)いで、あの神と二人のつもりで私(わたし)に仕えよ」とおっしゃいました。宇受女命(うずめのみこと)はかしこまって、猿田彦神を送ってまいりました。
 猿田彦神は、その後、伊勢(いせ)の阿坂(あざか)というところに住んでいましたが、あるときりょうに出て、ひらふがいという大きな貝に手をはさまれ、とうとうそれなり海の中へ引き入れられて、おぼれ死にに死んでしまいました。
 宇受女命(うずめのみこと)はその神を送り届(とど)けて帰って来ますと、笠沙(かささ)の海ばたへ、大小さまざまの魚(さかな)をすっかり追い集めて、
「おまえたちは大空の神のお子さまにお仕え申すか」と聞きました。そうすると、どの魚も一ぴき残らず、
「はいはい、ちゃんとご奉公申しあげます」とご返事をしましたが、中でなまこがたった一人、お答えをしないで黙(だま)っておりました。
 すると宇受女命(うずめのみこと)は怒って、
「こゥれ、返事をしない口はその口か」と言いざま、手早く懐剣(かいけん)を抜(ぬ)きはなって、そのなまこの口をぐいとひとえぐり切り裂(さ)きました。ですからなまこの口はいまだに裂けております。

       二

 そのうちに邇邇芸命(ににぎのみこと)は、ある日、同じみさきできれいな若い女の人にお出会いになりました。
「おまえはだれの娘(むすめ)か」とおたずねになりますと、その女の人は、
「私は大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘の木色咲耶媛(このはなさくやひめ)と申す者でございます」とお答え申しました。
「そちにはきょうだいがあるか」とかさねてお聞きになりますと、
「私には石長媛(いわながひめ)と申します一人の姉がございます」と申しました。命(みこと)は、
「わたしはおまえをお嫁(よめ)にもらいたいと思うが、来るか」とお聞きになりました。すると咲耶媛(さくやひめ)は、
「それは私からはなんとも申しあげかねます。どうぞ父の大山津見神(おおやまつみのかみ)におたずねくださいまし」と申しあげました。
 命(みこと)はさっそくお使いをお出しになって、大山津見神(おおやまつみのかみ)に咲耶媛(さくやひめ)をお嫁にもらいたいとお申しこみになりました。
 大山津見神(おおやまつみのかみ)はたいそう喜んで、すぐにその咲耶媛(さくやひめ)に、姉の石長媛(いわながひめ)をつき添(そ)いにつけて、いろいろのお祝いの品をどっさり持たせてさしあげました。
 命(みこと)は非常にお喜びになって、すぐ咲耶媛とご婚礼をなさいました。しかし姉の石長媛は、それはそれはひどい顔をした、みにくい女でしたので、同じ御殿(ごてん)でいっしょにおくらしになるのがおいやだものですから、そのまますぐに、父の神の方へお送りかえしになりました。
 大山津見(おおやまつみ)は恥(は)じ入って、使いをもってこう申しあげました。
「私が木色咲耶媛(このはなさくやひめ)に、わざわざ石長媛(いわながひめ)をつき添いにつけましたわけは、あなたが咲耶媛(さくやひめ)をお嫁になすって、その名のとおり、花が咲(さ)き誇(ほこ)るように、いつまでもお栄えになりますばかりでなく、石長媛(いわながひめ)を同じ御殿にお使いになりませば、あの子の名まえについておりますとおり、岩が雨に打たれ風にさらされても、ちっとも変わらずにがっしりしているのと同じように、あなたのおからだもいつまでもお変わりなくいらっしゃいますようにと、それをお祈り申してつけ添えたのでございます。それだのに、咲耶媛(さくやひめ)だけをおとめになって、石長媛(いわながひめ)をおかえしになったうえは、あなたも、あなたのご子孫のつぎつぎのご寿命(じゅみょう)も、ちょうど咲いた花がいくほどもなく散りはてるのと同じで、けっして永(なが)くは続きませんよ」と、こんなことを申し送りました。
 そのうちに咲耶媛(さくやひめ)は、まもなくお子さまが生まれそうになりました。
 それで命にそのことをお話しになりますと、命はあんまり早く生まれるので変だとおぼしめして、
「それはわしたち二人の子であろうか」とお聞きになりました。咲耶媛(さくやひめ)は、そうおっしゃられて、
「どうしてこれが二人よりほかの者の子でございましょう。もし私たち二人の子でございませんでしたら、けっして無事にお産はできますまい。ほんとうに二人の子である印(しるし)には、どんなことをして生みましても、必ず無事に生まれるに相違ございません」
 こう言ってわざと出入口のないお家をこしらえて、その中におはいりになり、すきまというすきまをぴっしり土で塗(ぬ)りつぶしておしまいになりました。そしていざお産をなさるというときに、そのお家へ火をつけてお燃(も)やしになりました。
 しかしそんな乱暴(らんぼう)な生み方をなすっても、お子さまは、ちゃんとご無事に三人もお生まれになりました。媛(ひめ)は、はじめ、うちじゅうに火が燃え広がって、どんどん炎(ほのお)をあげているときにお生まれになった方を火照命(ほてりのみこと)というお名まえになさいました。それから、つぎつぎに、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)というお二方(ふたかた)がお生まれになりました。火遠理命(ほおりのみこと)はまたの名を日子穂穂出見命(ひこほほでみのみこと)ともお呼(よ)び申しました。

満潮(みちしお)の玉、干潮(ひしお)の玉

       一

 三人のごきょうだいは、まもなく大きな若(わか)い人におなりになりました。その中でおあにいさまの火照命(ほてりのみこと)は、海でりょうをなさるのがたいへんおじょうずで、いつもいろんな大きな魚(さかな)や小さな魚をたくさんつってお帰りになりました。末の弟さまの火遠理命(ほおりのみこと)は、これはまた、山でりょうをなさるのがそれはそれはお得意で、しじゅういろんな鳥や獣をどっさりとってお帰りになりました。
 あるとき弟の命(みこと)は、おあにいさまに向かって、
「ひとつためしに二人で道具を取りかえて、互(たが)いに持ち場をかえて、りょうをしてみようではありませんか」とおっしゃいました。
 おあにいさまは、弟さまがそう言って三度もお頼(たの)みになっても、そのたんびにいやだと言ってお聞き入れになりませんでした。しかし弟さまが、あんまりうるさくおっしゃるものですから、とうとうしまいに、いやいやながらお取りかえになりました。
 弟さまは、さっそくつり道具を持って海ばたへお出かけになりました。しかし、つりのほうはまるでおかってがちがうので、いくらおあせりになっても一ぴきもおつれになれないばかりか、しまいにはつり針(ばり)を海の中へなくしておしまいになりました。
 おあにいさまの命(みこと)も、山のりょうにはおなれにならないものですから、いっこうに獲物(えもの)がないので、がっかりなすって、弟さまに向かって、
「わしのつり道具を返してくれ、海のりょうも山のりょうも、お互(たが)いになれたものでなくてはだめだ。さあこの弓矢を返そう」とおっしゃいました。
 弟さまは、
「私はとんだことをいたしました。とうとう魚を一ぴきもつらないうちに、針を海へ落としてしまいました」とおっしゃいました。するとおあにいさまはたいへんにお怒(おこ)りになって、無理にもその針をさがして来いとおっしゃいました。弟さまはしかたなしに、身につるしておいでになる長い剣(つるぎ)を打ちこわして、それでつり針を五百本こしらえて、それを代わりにおさしあげになりました。
 しかし、おあにいさまは、もとの針でなければいやだとおっしゃって、どうしてもお聞きいれになりませんでした。それで弟さまはまた千本の針をこしらえて、どうぞこれでかんべんしてくださいましと、お頼みになりましたが、おあにいさまは、どこまでも、もとの針でなければいやだとお言いはりになりました。
 ですから弟さまは、困(こま)っておしまいになりまして、ひとりで海ばたに立って、おいおい泣(な)いておいでになりました。そうすると、そこへ塩椎神(しおつちのかみ)という神が出てまいりまして、
「もしもし、あなたはどうしてそんなに泣いておいでになるのでございます」と聞いてくれました。弟さまは、
「私(わたし)はおあにいさまのつり針を借りてりょうをして、その針を海の中へなくしてしまったのです。だから代わりの針をたくさんこしらえて、それをお返しすると、おあにいさまは、どうしてももとの針を返せとおっしゃってお聞きにならないのです」
 こう言って、わけをお話しになりました。
 塩椎神(しおつちのかみ)はそれを聞くと、たいそうお気の毒に思いまして、
「それでは私がちゃんとよくしてさしあげましょう」と言いながら、大急ぎで、水あかが少しもはいらないように、かたく編んだ、かごの小船(こぶね)をこしらえて、その中へ火遠理命(ほおりのみこと)をお乗せ申しました。
「それでは私が押(お)し出しておあげ申しますから、そのままどんどん海のまんなかへ出ていらっしゃいまし。そしてしばらくお行きになりますと、向こうの波の間によい道がついておりますから、それについてどこもでも流れておいでになると、しまいにたくさんのむねが魚のうろこのように立ち並(なら)んだ、大きな大きなお宮へお着きになります。それは綿津見(わたつみ)の神という海の神の御殿(ごてん)でございます。そのお宮の門のわきに井戸(いど)があります。井戸の上にかつらの木がおいかぶさっておりますから、その木の上にのぼって待っていらっしゃいまし。そうすると海の神の娘(むすめ)が見つけて、ちゃんといいようにとりはからってくれますから」と言って、力いっぱいその船を押し出してくれました。

       二

 命(みこと)はそのままずんずん流れてお行きになりました。そうするとまったく塩椎神(しおつちのかみ)が言ったように、しばらくして大きな大きなお宮へお着きになりました。
 命はさっそくその門のそばのかつらの木にのぼって待っておいでになりました。そうすると、まもなく、綿津見神(わたつみのかみ)の娘(むすめ)の豊玉媛(とよたまひめ)のおつきの女が、玉の器(うつわ)を持って、かつらの木の下の井戸(いど)へ水をくみに来ました。
 女は井戸の中を見ますと、人の姿(すがた)がうつっているので、ふしぎに思って上を向いて見ますと、かつらの木にきれいな男の方がいらっしゃいました。
 命は、その女に水をくれとお言いになりました。女は急いで玉の器にくみ入れてさしあげました。
 しかし命はその水をお飲みにならないで、首にかけておいでになる飾(かざ)りの玉をおほどきになって、それを口にふくんで、その玉の器の中へ吐(は)き入れて、女にお渡しになりました。女は器を受け取って、その玉をとり出そうとしますと、玉は器の底に固(かた)くくっついてしまって、どんなにしても離(はな)れませんでした。それで、そのままうちの中へ持ってはいって、豊玉媛にその器ごとさし出しました。
 豊玉媛(とよたまひめ)は、その玉を見て、
「門口(かどぐち)にだれかおいでになっているのか」と聞きました。
 女は、
「井戸のそばのかつらの木の上にきれいな男の方がおいでになっています。それこそは、こちらの王さまにもまさって、それはそれはけだかい貴(とうと)い方でございます。その方が水をくれとおっしゃいましたから、すぐに、この器へくんでさしあげますと、水はおあがりにならないで、お首飾りの玉を中へお吐き入れになりました。そういたしますと、その玉が、ご覧(らん)のように、どうしても底から離れないのでございます」と言いました。
 媛(ひめ)は命(みこと)のお姿を見ますと、すぐにおとうさまの海の神のところへ行って、
「門口にきれいな方がいらしっています」と言いました。
 海の神は、わざわざ自分で出て見て、
「おや、あのお方は、大空からおくだりになった、貴い神さまのお子さまだ」と言いながら、急いでお宮へお通し申しました。そしてあしかの毛皮を八枚(まい)重(かさ)ねて敷(し)き、その上へまた絹の畳(たたみ)を八枚重ねて、それへすわっていただいて、いろいろごちそうをどっさり並(なら)べて、それはそれはていねいにおもてなしをしました。そして豊玉媛をお嫁(よめ)にさしあげました。
 それで命(みこと)はそのまま媛(ひめ)といっしょにそこにお住まいになりました。そのうちに、いつのまにか三年という月日がたちました。
 すると命はある晩、ふと例の針(はり)のことをお思い出しになって、深いため息をなさいました。
 豊玉媛(とよたまひめ)はあくる朝、そっと父の神のそばへ行って、
「おとうさま、命(みこと)はこのお宮に三年もお住まいになっていても、これまでただの一度もめいったお顔をなさったことがないのに、ゆうべにかぎって深いため息をなさいました。なにか急にご心配なことがおできになったのでしょうか」と言いました。
 海の神はそれを聞くと、あとで命に向かって、
「さきほど娘(むすめ)が申しますには、あなたは三年の間こんなところにおいでになりましても、ふだんはただの一度も、ものをお嘆(なげ)きになったことがないのに、ゆうべはじめてため息をなさいましたと申します。何かわけがおありになるのでございますか。いったいいちばんはじめ、どうしてこの海の中なぞへおいでになったのでございます」こう言っておたずね申しました。
 命はこれこれこういうわけで、つり針(ばり)をさがしに来たのですとおっしゃいました。
 海の神はそれを聞くと、すぐに海じゅうの大きな魚(さかな)や小さな魚を一ぴき残さず呼(よ)び集めて、
「この中にだれか命の針をお取り申した者はいないか」と聞きました。すると魚たちは、
「こないだから雌(め)だいがのどにとげを立てて物が食べられないで困(こま)っておりますが、ではきっとお話のつり針をのんでいるに相違ございません」と言いました。
 海の神はさっそくそのたいを呼んで、のどの中をさぐって見ますと、なるほど、大きなつり針を一本のんでおりました。
 海の神はそれを取り出して、きれいに洗って命にさしあげました。すると、それがまさしく命のおなくしになったあの針でした。海の神は、
「それではお帰りになって、おあにいさまにお返しになりますときには、

  いやなつり針、
  わるいつり針、
  ばかなつり針。

とおっしゃりながら、必ずうしろ向きになってお渡しなさいまし。それから、こんどからはおあにいさまが高いところへ田をお作りになりましたら、あなたは低いところへお作りなさいまし。そのあべこべに、おあにいさまが低いところへお作りになりましたら、あなたは高いところへお作りになることです。すべて世の中の水という水は私が自由に出し入れするのでございます。おあにいさまは針のことでずいぶんあなたをおいじめになりましたから、これからはおあにいさまの田へはちっとも水をあげないで、あなたの田にばかりどっさり入れておあげ申します。ですから、おあにいさまは三年のうちに必ず貧乏(びんぼう)になっておしまいになります。そうすると、きっとあなたをねたんで殺しにおいでになるに相違ございません。そのときには、この満潮(みちしお)の玉を取り出して、おぼらしておあげなさい。この中から水がいくらでもわいて出ます。しかし、おあにいさまが助けてくれとおっしゃられておわびをなさるなら、こちらのこの干潮(ひしお)の玉を出して、水をひかせておあげなさいまし。ともかく、そうして少しこらしめておあげになるがようございます」
 こう言って、そのたいせつな二つの玉を命(みこと)にさしあげました。それからけらいのわにをすっかり呼(よ)び集めて、
「これから大空の神のお子さまが陸の世界へお帰りになるのだが、おまえたちはいく日あったら命をお送りして帰ってくるか」と聞きました。
 わにたちは、お互いにからだの大きさにつれてそれぞれかんじょうして、めいめいにお返事をしました。その中で六尺(しゃく)ばかりある大わには、
「私は一日あれば行ってまいります」と言いました。海の神は、
「それではおまえお送り申してくれ。しかし海を渡るときに、けっしてこわい思いをおさせ申してはならないぞ」とよく言い聞かせた上、その首のところへ命をお乗せ申して、はるばるとお送り申して行かせました。すると、わにはうけあったとおりに、一日のうちに命をもとの浜までおつれ申しました。
 命はご自分のつるしておいでになる小さな刀をおほどきになって、それをごほうびにわにの首へくくりつけておかえしになりました。
 命はそれからすぐに、おあにいさまのところへいらしって、海の神が教えてくれたとおりに、

  いやなつり針(ばり)、
  悪いつり針、
  ばかなつり針。

と言い言い、例のつり針を、うしろ向きになってお返しになりました。それから田を作るにも海の神が言ったとおりになさいました。
 そうすると、命の田からは、毎年どんどんおこめが取れるのに、おあにいさまの田には、水がちっとも来ないものですから、おあにいさまは、三年の間にすっかり貧乏(びんぼう)になっておしまいになりました。
 するとおあにいさまは、あんのじょう、命のことをねたんで、いくどとなく殺しにおいでになりました。命はそのときにはさっそく満潮(みちしお)の玉を出して、大水をわかせてお防ぎになりました。おあにいさまは、たんびにおぼれそうになって、助けてくれ、助けてくれ、とおっしゃいました。命はそのときには干潮(ひしお)の玉を出してたちまち水をおひかせになりました。そんなわけで、おあにいさまも、しまいには弟さまの命にはとてもかなわないとお思いになり、とうとう頭をさげて、
「どうかこれまでのことは許しておくれ。私はこれからしょうがい、夜昼おまえのうちの番をして、おまえに奉公するから」と、かたくお誓(ちか)いになりました。
 ですから、このおあにいさまの命のご子孫は、後の代(よ)まで、命が水におぼれかけてお苦しみになったときの身振(みぶ)りをまねた、さまざまなおかしな踊(おど)りを踊るのが、代々きまりになっておりました。

       三

 そのうちに、火遠理命(ほおりのみこと)が海のお宮へ残しておかえりになった、お嫁(よめ)さまの豊玉媛(とよたまひめ)が、ある日ふいに海の中から出ていらしって、
「私はかねて身重(みおも)になっておりましたが、もうお産をいたしますときがまいりました。しかし大空の神さまのお子さまを海の中へお生み申してはおそれ多いと存じまして、はるばるこちらまで出てまいりました」とおっしゃいました。
 それで命(みこと)は急いで、うぶやという、お産をするおうちを、海ばたへおたてになりました。その屋根はかやの代わりに、うの羽根を集めておふかせになりました。
 するとその屋根がまだできあがらないうちに、豊玉媛は、もう産けがおつきになって、急いでそのうちへおはいりになりました。
 そのとき媛(ひめ)は命に向かって、
「すべての人がお産をいたしますには、みんな自分の国のならわしがありまして、それぞれへんなかっこうをして生みますものでございます。それですから、どうぞ私がお産をいたしますところも、けっしてご覧(らん)にならないでくださいましな」と、かたくお願いしておきました。命は媛(ひめ)がわざわざそんなことをおっしゃるので、かえって変だとおぼしめして、あとでそっと行ってのぞいてご覧になりました。
 そうすると、たった今まで美しい女であった豊玉媛が、いつのまにか八ひろもあるような恐ろしい大わにになって、うんうんうなりながらはいまわっていました。命はびっくりして、どんどん逃(に)げ出しておしまいになりました。
 豊玉媛はそれを感づいて、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらないものですから、お子さまをお生み申すと、命に向かって、
「私はこれから、しじゅう海を往来して、お目にかかりにまいりますつもりでおりましたが、あんな、私の姿をご覧になりましたので、ほんとうにお恥ずかしくて、もうこれきりおうかがいもできません」こう言って、そのお子さまをあとにお残し申したまま、海の中の通り道をすっかりふさいでしまって、どんどん海の底へ帰っておしまいになりました。そしてそれなりとうとう一生、二度と出ていらっしゃいませんでした。
 お二人の中のお子さまは、うの羽根の屋根がふきおえないうちにお生まれになったので、それから取って、鵜茅草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)とお呼(よ)びになりました。
 媛(ひめ)は海のお宮にいらしっても、このお子さまのことが心配でならないものですから、お妹さまの玉依媛(たまよりひめ)をこちらへよこして、その方の手で育てておもらいになりました。媛は夫の命が自分のひどい姿をおのぞきになったことは、いつまでたっても恨(うら)めしくてたまりませんでしたけれど、それでも命のことはやっぱり恋しくおしたわしくて、かたときもお忘(わす)れになることができませんでした。それで玉依媛にことづけて、

  赤玉は、
  緒(お)さえ光れど、
  白玉(しらたま)の、
  君が装(よそお)し、
  貴(とうと)くありけり。

という歌をお送りになりました。これは、
「赤い玉はたいへんにりっぱなもので、それをひもに通して飾(かざ)りにすると、そのひもまで光って見えるくらいですが、その赤玉にもまさった、白玉のようにうるわしいあなたの貴いお姿(すがた)を、私はしじゅうお慕(した)わしく思っております」という意味でした。
 命(みこと)はたいそうあわれにおぼしめして、私もおまえのことはけっして忘(わす)れはしないという意味の、お情けのこもったお歌をお返しになりました。
 命は高千穂(たかちほ)の宮というお宮に、とうとう五百八十のお年までお住まいになりました。

八咫烏(やたがらす)

       一

 鵜茅草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)は、ご成人の後、玉依媛(たまよりひめ)を改めてお妃(きさき)にお立てになって、四人の男のお子をおもうけになりました。
 この四人のごきょうだいのうち、二番めの稲氷命(いなひのみこと)は、海をこえてはるばると、常世国(とこよのくに)という遠い国へお渡りになりました。ついで三番めの若御毛沼命(わかみけぬのみこと)も、お母上のお国の、海の国へ行っておしまいになり、いちばん末の弟さまの神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのみこと)が、高千穂(たかちほ)の宮にいらしって、天下をお治めになりました。しかし、日向(ひゅうが)はたいへんにへんぴで、政(まつりごと)をお聞きめすのにひどくご不便でしたので、命(みこと)はいちばん上のおあにいさまの五瀬命(いつせのみこと)とお二人でご相談のうえ、
「これは、もっと東の方へ移ったほうがよいであろう」とおっしゃって、軍勢を残らずめしつれて、まず筑前国(ちくぜんのくに)に向かっておたちになりました。その途中、豊前(ぶぜん)の宇佐(うさ)にお着きになりますと、その土地の宇佐都比古(うさつひこ)、宇佐都比売(うさつひめ)という二人の者が、御殿(ごてん)をつくってお迎え申し、てあつくおもてなしをしました。
 命はそこから筑前(ちくぜん)へおはいりになりました。そして岡田宮(おかだのみや)というお宮に一年の間ご滞在になった後、さらに安芸(あき)の国へおのぼりになって、多家理宮(たけりのみや)に七年間おとどまりになり、ついで備前(びぜん)へお進みになって、八年の間高島宮(たかしまのみや)にお住まいになりました。そしてそこからお船をつらねて、波の上を東に向かっておのぼりになりました。
 そのうちに速吸門(はやすいのと)というところまでおいでになりますと、向こうから一人の者が、かめの背なかに乗って、魚(さかな)をつりながら出て来まして、命(みこと)のお船を見るなり、両手をあげてしきりに手招(てまね)きをいたしました。命はその者を呼(よ)びよせて、
「おまえは何者か」とお聞きになりますと、
「私はこの地方の神で宇豆彦(うずひこ)と申します」とお答えいたしました。
「そちはこのへんの海路を存じているか」とおたずねになりますと、
「よく存じております」と申しました。
「それではおれのお供につくか」とおっしゃいますと、
「かしこまりました。ご奉公申しあげます」とお答え申しましたので、命はすぐにおそばの者に命じて、さおをさし出させてお船へ引きあげておやりになりました。
 みんなは、そこから、なお東へ東へとかじを取って、やがて摂津(せっつ)の浪速(なみはや)の海を乗り切って、河内国(かわちのくに)の、青雲(あをぐも)の白肩津(しらかたのつ)という浜へ着きました。
 するとそこには、大和(やまと)の鳥見(とみ)というところの長髄彦(ながすねひこ)という者が、兵をひきつれて待ちかまえておりました。命は、いざ船からおおりになろうとしますと、かれらが急にどっと矢を射(い)向けて来ましたので、お船の中から盾(たて)を取り出して、ひゅうひゅう飛んで来る矢の中をくぐりながらご上陸なさいました。そしてすぐにどんどん戦(いくさ)をなさいました。
 そのうちに五瀬命(いつせのみこと)が、長髄彦(ながすねひこ)の鋭い矢のために大きずをお受けになりました。命(みこと)はその傷をおおさえになりながら、
「おれたちは日の神の子孫でありながら、お日さまの方に向かって攻めかかったのがまちがいである。だからかれらの矢にあたったのだ。これから東の方へ遠まわりをして、お日さまを背なかに受けて戦おう」とおっしゃって、みんなをめし集めて、弟さまの命といっしょにもう一度お船におめしになり、大急ぎで海のまん中へお出ましになりました。
 その途中で、命はお手についた傷の血をお洗いになりました。
 しかしそこから南の方へまわって、紀伊国(きいのくに)の男(お)の水門(みなと)までおいでになりますと、お傷の痛(いた)みがいよいよ激しくなりました。命は、
「ああ、くやしい。かれらから負わされた手傷で死ぬるのか」と残念そうなお声でお叫びになりながら、とうとうそれなりおかくれになりました。

       二

 神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのみこと)は、そこからぐるりとおまわりになり、同じ紀伊(きい)の熊野(くまの)という村にお着きになりました。するとふいに大きな大ぐまが現われて、あっというまにまたすぐ消えさってしまいました。ところが、命(みこと)もお供の軍勢もこの大ぐまの毒気にあたって、たちまちぐらぐらと目がくらみ、一人のこらず、その場に気絶してしまいました。
 そうすると、そこへ熊野(くまの)の高倉下(たかくらじ)という者が、一ふりの太刀(たち)を持って出て来まして、伏(ふ)し倒(たお)れておいでになる伊波礼毘古命(いわれひこのみこと)に、その太刀をさしだしました。命はそれといっしょに、ふと正気(しょうき)におかえりになって、
「おや、おれはずいぶん長寝(ながね)をしたね」とおっしゃりながら、高倉下(たかくらじ)がささげた太刀(たち)をお受けとりになりますと、その太刀に備わっている威光でもって、さっきのくまをさし向けた熊野の山の荒くれた悪神(わるがみ)どもは、ひとりでにばたばたと倒(たお)れて死にました。それといっしょに命の軍勢は、まわった毒から一度にさめて、むくむくと元気よく起きあがりました。
 命はふしぎにおぼしめして、高倉下(たかくらじ)に向かって、この貴(とうと)い剣(つるぎ)のいわれをおたずねになりました。
 高倉下(たかくらじ)は、うやうやしく、
「実はゆうべふと夢を見ましたのでございます。その夢の中で、天照大神(あまてらすおおかみ)と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)のお二方(ふたかた)が、建御雷神(たけみかずちのかみ)をおめしになりまして、葦原中国(あしはらのなかつくに)は、今しきりに乱(みだ)れ騒(さわ)いでいる。われわれの子孫たちはそれを平らげようとして、悪神(わるがみ)どもから苦しめられている。あの国は、いちばんはじめそちが従えて来た国だから、おまえもう一度くだって平らげてまいれとおっしゃいますと、建御雷神(たけみかずちのかみ)は、それならば、私がまいりませんでも、ここにこの前あすこを平らげてまいりましたときの太刀(たち)がございますから、この太刀をくだしましょう。それには、高倉下(たかくらじ)の倉(くら)のむねを突きやぶって落としましょうと、こうお答えになりました。
 それからその建御雷神(たけみかずちのかみ)は、私に向かって、おまえの倉(くら)のむねを突きとおしてこの刀を落とすから、あすの朝すぐに、大空の神のご子孫にさしあげよとお教えくださいました。目がさめまして、倉へまいって見ますと、おおせのとおりに、ちゃんとただいまのその太刀(たち)がございましたので、急いでさしあげにまいりましたのでございます」
 こう言って、わけをお話し申しました。
 そのうちに、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は、雲の上から伊波礼毘古命(いわれひこのみこと)に向かって、
「大空の神のお子よ、ここから奥(おく)へはけっしてはいってはいけませんよ。この向こうには荒(あ)らくれた神たちがどっさりいます。今これから私が八咫烏(やたがらす)をさしくだすから、そのからすの飛んで行く方へついておいでなさい」とおさとしになりました。
 まもなくおおせのとおり、そのからすがおりて来ました。命(みこと)はそのからすがつれて行くとおりに、あとについてお進みになりますと、やがて大和(やまと)の吉野河(よしのがわ)の河口(かわぐち)へお着きになりました。そうするとそこにやなをかけて魚(さかな)をとっているものがおりました。
「おまえはだれだ」とおたずねになりますと、
「私はこの国の神で、名は贄持(にえもち)の子と申します」とお答え申しました。
 それから、なお進んでおいでになりますと、今度はおしりにしっぽのついている人間が、井戸(いど)の中から出て来ました。そしてその井戸がぴかぴか光りました。
「おまえは何者か」とおたずねになりますと、
「私はこの国の神で井冰鹿(いひか)と申すものでございます」とお答えいたしました。
 命(みこと)はそれらの者を、いちいちお供(とも)におつれになって、そこから山の中を分けていらっしゃいますと、またしっぽのある人にお会いになりました。この者は岩をおし分けて出て来たのでした。
「おまえはだれか」とお聞きになりますと、
「わたしはこの国の神で、名は石押分(いわおしわけ)の子と申します。ただいま、大空の神のご子孫がおいでになると承りまして、お供に加えていただきにあがりましたのでございます」と申しあげました。命は、そこから、いよいよ険(けわ)しい深い山を踏(ふ)み分けて、大和(やまと)の宇陀(うだ)というところへおでましになりました。
 この宇陀には、兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)というきょうだいの荒(あら)くれ者がおりました。命はその二人のところへ八咫烏(やたがらす)を使いにお出しになって、
「今、大空の神のご子孫がおこしになった。おまえたちはご奉公申しあげるか」とお聞かせになりました。
 すると、兄の兄宇迦斯(えうかし)はいきなりかぶら矢を射(い)かけて、お使いのからすを追いかえしてしまいました。兄宇迦斯(えうかし)は命がおいでになるのを待ち受けて討(う)ってかかろうと思いまして、急いで兵たいを集めにかかりましたが、とうとう人数(にんずう)がそろわなかったものですから、いっそのこと、命をだまし討ちにしようと思いまして、うわべではご奉公申しあげますと言いこしらえて、命をお迎え申すために、大きな御殿(ごてん)をたてました。そして、その中に、つり天じょうをしかけて、待ち受けておりました。
 すると弟の弟宇迦斯(おとうかし)が、こっそりと命(みこと)のところへ出て来まして、命を伏(ふ)し拝みながら、
「私の兄の兄宇迦斯(えうかし)は、あなたさまを攻(せ)め亡(ほろ)ぼそうとたくらみまして、兵を集めにかかりましたが、思うように集まらないものですから、とうとう御殿の中につり天じょうをこしらえて待ち受けております。それで急いでおしらせ申しにあがりました」と申しました。そこで道臣命(みちおみのみこと)と大久米命(おおくめのみこと)の二人の大将が、兄宇迦斯(えうかし)を呼(よ)びよせて、
「こりゃ兄宇迦斯(えうかし)、おのれの作った御殿にはおのれがまずはいって、こちらの命(みこと)をおもてなしする、そのもてなしのしかたを見せろ」とどなりつけながら、太刀(たち)のえをつかみ、矢をつがえて、無理やりにその御殿の中へ追いこみました。兄宇迦斯(えうかし)は追いまくられて逃げこむはずみに、自分のしかけたつり天じょうがどしんと落ちて、たちまち押(お)し殺されてしまいました。
 二人の大将は、その死がいを引き出して、ずたずたに切り刻(きざ)んで投げ捨(す)てました。
 命は弟宇迦斯(おとうかし)が献上(けんじょう)したごちそうを、けらい一同におくだしになって、お祝いの大宴会(えんかい)をお開きになりました。命はそのとき、
「宇陀(うだ)の城(しろ)にしぎなわをかけて待っていたら、しぎはかからないで大くじらがかかり、わなはめちゃめちゃにこわれた。ははは、おかしや」という意味を、歌にお歌いになって、兄宇迦斯(えうかし)のはかりごとの破れたことを、喜びお笑(わら)いになりました。
 それからまたその宇陀(うだ)をおたちになって、忍坂(おさか)というところにお着きになりますと、そこには八十建(やそたける)といって、穴(あな)の中に住んでいる、しっぽのはえた、おおぜいの荒(あら)くれた悪者どもが、命(みこと)の軍勢を討(う)ち破ろうとして、大きな岩屋の中に待ち受けておりました。
 命はごちそうをして、その悪者たちをお呼びになりました。そして前もって、相手の一人に一人ずつ、お給仕につくものをきめておき、その一人一人に太刀(たち)を隠(かく)しもたせて、合い図の歌を聞いたら一度に切ってかかれと言い含(ふく)めておおきになりました。
 みんなは、命が、
「さあ、今だ、うて」とお歌いになると、たちまち一度に太刀を抜(ぬ)き放って、建(たける)どもをひとり残さず切り殺してしまいました。
 しかし命は、それらの賊たちよりも、もっともっとにくいのはおあにいさまの命(みこと)のお命を奪(うば)った、あの鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)でした。命はかれらに対しては、ちょうどしょうがを食べたあと、口がひりひりするように、いつまでも恨(うら)みをお忘(わす)れになることができませんでした。命は、畑のにらを、根も芽(め)もいっしょに引き抜くように、かれらを根こそぎに討ち亡ぼしてしまいたい、海の中の大きな石に、きしゃごがまっくろに取りついているように、かれらをひしひしと取りまいて、一人残さず討ち取らなければおかないという意味を、勇ましい歌にしてお歌いになりました。そして、とうとうかれらを攻め亡ぼしておしまいになりました。
 そのとき、長髄彦(ながすねひこ)の方に、やはり大空の神のお血すじの、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)という神がいました。
 その神が命(みこと)のほうへまいって、
「私は大空の神の御子がおいでになったと承りまして、ご奉公に出ましてございます」と申しあげました。そして大空の神の血筋(ちすじ)だという印(しるし)の宝物を、命に献上(けんじょう)しました。
 命はそれから兄師木(えしき)、弟師木(おとしき)というきょうだいのものをご征伐になりました。その戦(いくさ)で、命の軍勢は伊那佐(いなさ)という山の林の中に盾(たて)を並(なら)べて戦っているうちに、中途でひょうろうがなくなって、少し弱りかけて来ました。命はそのとき、
「おお、私(わし)も飢(う)え疲(つか)れた。このあたりのうを使う者たちよ。早くたべ物を持って助けに来い」という意味のお歌をお歌いになりました。
 命(みこと)はなおひきつづいて、そのほかさまざまの荒(あら)びる神どもをなつけて従わせ、刃(は)向かうものをどんどん攻(せ)め亡(ほろ)ぼして、とうとう天下をお平らげになりました。それでいよいよ大和(やまと)の橿原宮(かしはらのみや)で、われわれの一番最初の天皇のお位におつきになりました。神武天皇(じんむてんのう)とはすなわち、この貴(とうと)い伊波礼毘古命(いわれひこのみこと)のことを申しあげるのです。

       三

 天皇は、はじめ日向(ひゅうが)においでになりますときに、阿比良媛(あひらひめ)という方をお妃(きさき)に召(め)して、多芸志耳命(たぎしみみのみこと)と、もう一方(ひとかた)男のお子をおもうけになっていましたが、お位におつきになってから、改めて、皇后としてお立てになる、美しい方をおもとめになりました。
 すると大久米命(おおくめのみこと)が、
「それには、やはり、大空の神のお血をお分けになった、伊須気依媛(いすけよりひめ)と申す美しい方がおいでになります。これは三輪(みわ)の社(やしろ)の大物主神(おおものぬしのかみ)が、勢夜陀多良媛(せやだたらひめ)という女の方のおそばへ、朱塗(しゅぬ)りの矢に化けておいでになり、媛(ひめ)がその矢を持っておへやにおはいりになりますと、矢はたちまちもとのりっぱな男の神さまになって、媛のお婿(むこ)さまにおなりになりました。伊須気依媛(いすけよりひめ)はそのお二人の中にお生まれになったお媛さまでございます」と申しあげました。
 そこで天皇は、大久米命をおつれになって、その伊須気依媛(いすけよりひめ)を見においでになりました。すると同じ大和(やまと)の、高佐士野(たかさじの)という野で、七人の若い女の人が野遊びをしているのにお出会いになりました。するとちょうど伊須気依媛(いすけよりひめ)がその七人の中にいらっしゃいました。
 大久米命はそれを見つけて、天皇に、このなかのどの方をおもらいになりますかということを、歌に歌ってお聞き申しますと、天皇はいちばん前にいる方を伊須気依媛(いすけよりひめ)だとすぐにおさとりになりまして、
「あのいちばん前にいる人をもらおう」と、やはり歌でお答えになりました。大久米命は、その方のおそばへ行って、天皇のおおせをお伝えしようとしますと、媛は、大久米命が大きな目をぎろぎろさせながら来たので、変だとおぼしめして、

  あめ、つつ、
  ちどり、ましとと、
  など裂(さ)ける利目(とめ)。

とお歌いになりました。それは、
「あめ[#「あめ」に傍点]という鳥、つつ[#「つつに傍点」]という鳥、ましとと[#「ましとと」に傍点]という鳥やちどりの目のように、どうしてあんな大きな、鋭い目を光らせているのであろう」という意味でした。
 大久米命は、すぐに、
「それはあなたを見つけ出そうとして、さがしていた目でございます」と歌いました。
 媛(ひめ)のおうちは、狹井川(さいがわ)という川のそばにありました。そこの川原(かわら)には、やまゆりがどっさり咲いていました。天皇は、媛のおうちへいらしって、ひと晩とまってお帰りになりました。媛はまもなく宮中におあがりになって、貴(とうと)い皇后におなりになりました。お二人の中には、日子八井命(ひこやいのみこと)、神八井耳命(かんやいみみのみこと)、神沼河耳命(かんぬかわみみのみこと)と申す三人の男のお子がお生まれになりました。
 天皇は、後におん年百三十七でおかくれになりました。おなきがらは畝火山(うねびやま)にお葬(ほうむ)り申しあげました。
 するとまもなく、さきに日向(ひゅうが)でお生まれになった多芸志耳命(たぎしみみのみこと)が、お腹(はら)ちがいの弟さまの日子八井命(ひこやいのみこと)たち三人をお殺し申して、自分ひとりがかってなことをしようとお企(くわだ)てになりました。
 お母上の皇后はそのはかりごとをお見ぬきになって、
「畝火山(うねびやま)に昼はただの雲らしく、静かに雲がかかっているけれど、夕方になれば荒(あ)れが来て、ひどい風が吹き出すらしい。木の葉がそのさきぶれのように、ざわざわさわいでいる」という意味の歌をお歌いになり、多芸志耳命(たぎしみみのみこと)が、いまに、おまえたちを殺しにかかるぞということを、それとなくおさとしになりました。
 三人のお子たちは、それを聞いてびっくりなさいまして、それでは、こっちから先に命(みこと)を殺してしまおうとご相談なさいました。
 そのときいちばん下の神沼河耳命(かんぬかわみみのみこと)は、中のおあにいさまの神八井耳命(かんやいみみのみこと)に向かって、
「では、あなた、命(みこと)のところへ押(お)しいって、お殺しなさい」とおっしゃいました。
 それで神八井耳命(かんやいみみのみこと)は刀(かたな)を持ってお出かけになりましたが、いざとなるとぶるぶるふるえ出して、どうしても手出しをなさることができませんでした。そこで弟さまの神沼河耳命(かんぬかわみみのみこと)がその刀をとってお進みになり、ひといきに命を殺しておしまいになりました。
 神八井耳命(かんやいみみのみこと)はあとで弟さまに向かって、
「私はあのかたきを殺せなかったけれど、そなたはみごとに殺してしまった。だから、私は兄だけれど、人のかみに立つことはできない。どうぞそなたが天皇の位について天下を治めてくれ、私は神々をまつる役目をひき受けて、そなたに奉公をしよう」とおっしゃいました。それで、弟の命はお二人のおあにいさまをおいてお位におつきになり、大和(やまと)の葛城宮(かつらぎのみや)にお移りになって、天下をお治めになりました。すなわち第二代、綏靖天皇(すいぜいてんのう)さまでいらっしゃいます。
 天皇はご短命で、おん年四十五でお隠(かく)れになりました。

赤い盾(たて)、黒い盾(たて)

       一

 綏靖天皇(すいぜいてんのう)から御(おん)七代をへだてて、第十代目に崇神天皇(すじんてんのう)がお位におつきになりました。
 天皇にはお子さまが十二人おありになりました。その中で皇女、豊※入媛(とよすきいりひめ)が、はじめて伊勢(いせ)の天照大神(あまてらすおおかみ)のお社(やしろ)に仕えて、そのお祭りをお司(つかさど)りになりました。また、皇子(おうじ)倭日子命(やまとひこのみこと)がおなくなりになったときに、人がきといって、お墓のまわりへ人を生きながら埋(う)めてお供(とも)をさせるならわしがはじまりました。
 この天皇の御代(みよ)には、はやり病(やまい)がひどくはびこって、人民という人民はほとんど死に絶えそうになりました。
 天皇は非常にお嘆(なげ)きになって、どうしたらよいか、神のお告げをいただこうとおぼしめして、御身(おんみ)を潔(きよ)めて、慎(つつし)んでお寝床(ねどこ)の上にすわっておいでになりました。そうするとその夜のお夢に、三輪(みわ)の社(やしろ)の大物主神(おおものぬしのかみ)が現われていらしって、
「こんどのやく病はこのわしがはやらせたのである。これをすっかり亡(ほろ)ぼしたいと思うならば、大多根子(おおたねこ)というものにわしの社(やしろ)を祀(まつ)らせよ」とお告げになりました。天皇はすぐに四方へはやうまのお使いをお出しになって、そういう名まえの人をおさがしになりますと、一人の使いが、河内(かわち)の美努村(みぬむら)というところでその人を見つけてつれてまいりました。
 天皇はさっそくご前にお召(め)しになって、
「そちはだれの子か」とおたずねになりました。
 すると大多根子(おおたねこ)は、
「私は大物主神(おおものぬしのかみ)のお血筋(ちすじ)をひいた、建甕槌命(たけみかづちのみこと)と申します者の子でございます」とお答えいたしました。
 それというわけは、大多根子(おおたねこ)から五代(だい)もまえの世に、陶都耳命(すえつみみのみこと)という人の娘(むすめ)で活玉依媛(いくたまよりひめ)というたいそう美しい人がおりました。
 この依媛(よりひめ)があるとき、一人の若い人をお婿(むこ)さまにしました。その人は、顔かたちから、いずまいの美しいけだかいことといったら、世の中にくらべるものもないくらい、りっぱな、りりしい人でした。
 媛(ひめ)はまもなく子供が生まれそうになりました。しかしそのお婿さんは、はじめから、ただ夜だけ媛のそばにいるきりで、あけがたになると、いつのまにかどこかへ行ってしまって、けっしてだれにも顔を見せませんし、お嫁さんの媛にさえ、どこのだれかということすらも、うちあけませんでした。
 媛のおとうさまとおかあさまとは、どうかして、そのお婿さんを、どこの何びとか突きとめたいと思いまして、ある日、媛(ひめ)に向かって、
「今夜は、おへやへ赤土をまいておおき、それからあさ糸のまりを針(はり)にとおして用意しておいて、お婿(むこ)さんが出て来たら、そっと着物のすそにその針をさしておおき」と言いました。
 媛はその晩、言われたとおりに、お婿さんの着物のすそへあさ糸をつけた針をつきさしておきました。
 あくる朝になって見ますと、針についているあさ糸は、戸のかぎ穴(あな)から外へ伝わっていました。そして糸のたまは、すっかり繰りほどけて、おへやの中には、わずか三まわり輪(わ)に巻けた長さしか残っておりませんでした。
 それで、ともかくお婿さんは、戸のかぎ穴から出はいりしていたことがわかりました。媛はその糸の伝わっている方へずんずん行って見ますと、糸はしまいに、三輪山(みわやま)のお社(やしろ)にはいって止まっていました。それで、はじめて、お婿さんは大物主神(おおものぬしのかみ)でいらしったことがわかりました。
 大多根子(おおたねこ)はこのお二人の間に生まれた子の四代目の孫でした。
 天皇は、さっそくこの大多根子を三輪の社の神主(かんぬし)にして、大物主神のお祭りをおさせになりました。それといっしょに、お供えものを入れるかわらけをどっさり作らせて、大空の神々や下界の多くの神々をおまつりになりました。その中のある神さまには、とくに赤色の盾(たて)や黒塗(くろぬり)の盾をおあげになりました。
 そのほか、山の神さまや川の瀬(せ)の神さまにいたるまで、いちいちもれなくお供えものをおあげになって、ていちょうにお祭りをなさいました。そのために、やく病はやがてすっかりとまって、天下はやっと安らかになりました。

       二

 天皇はついで大毘古命(おおひこのみこと)を北陸道(ほくろくどう)へ、その子の建沼河別命(たけぬかわわけのみこと)を東山道(とうさんどう)へ、そのほか強い人を方々へお遣(つかわ)しになって、ご命令に従わない、多くの悪者どもをご征伐になりました。
 大毘古命(おおひこのみこと)はおおせをかしこまって出て行きましたが、途中で、山城(やましろ)の幣羅坂(へらざか)というところへさしかかりますと、その坂の上に腰(こし)ぬのばかりを身につけた小娘(こむすめ)が立っていて、

  これこれ申し天子さま、
  あなたをお殺し申そうと、
  前の戸に、
  裏(うら)の戸に、
  行ったり来たり、
  すきを狙(ねら)っている者が、
  そこにいるとも知らないで、
  これこれ申し天子さま。

  と、こんなことを歌いました。
 大毘古命(おおひこのみこと)は変だと思いまして、わざわざうまをひきかえして、
「今言ったのはなんのことだ」とたずねました。
 すると小娘(こむすめ)は、
「私はなんにも言いはいたしません。ただ歌を歌っただけでございます」と答えるなり、もうどこへ行ったのか、ふいに姿(すがた)が見えなくなってしまいました。
 大毘古命(おおひこのみこと)は、その歌の言葉(ことば)がしきりに気になってならないものですから、とうとうそこからひきかえしてきて、天皇にそのことを申しあげました。すると天皇は、
「それは、きっと、山城(やましろ)にいる、私(わし)の腹(はら)ちがいの兄、建波邇安王(たけはにやすのみこ)が、悪だくみをしている知らせに相違あるまい。そなたはこれから軍勢をひきつれて、すぐに討(う)ちとりに行ってくれ」とおっしゃって、彦国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)という方を添(そ)えて、いっしょにお遣(つかわ)しになりました。
 二人は、神々のお祭りをして、勝利を祈って出かけました。そして、山城(やましろ)の木津川(きつがわ)まで行きますと、建波邇安王(たけはにやすのみこ)は案のじょう、天皇におそむき申して、兵を集めて待ち受けていらっしゃいました。両方の軍勢は川を挟(はさ)んで向かい合いに陣取(じんど)りました。彦国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)は、敵に向かって、
「おおい、そちらのやつ、まずかわきりに一矢(や)射(い)てみよ」とどなりました。敵の大将の建波邇安王(たけはにやすのみこ)は、すぐにそれに応じて、大きな矢をひゅうッと射放しましたが、その矢はだれにもあたらないで、わきへそれてしまいました。それでこんどはこちらから国夫玖命(くにぶくのみこと)が射かけますと、その矢はねらいたがわず建波邇安王(たけはにやすのみこ)を刺(さ)し殺してしまいました。
 敵の軍勢は、王(みこ)が倒れておしまいになると、たちまち総くずれになって、どんどん逃(に)げだしてしまいました。国夫玖命(くにぶくのみこと)の兵はどんどんそれを追っかけて、河内(かわち)の国のある川の渡しのところまで追いつめて行きました。
 すると賊兵のあるものは、苦しまぎれにうんこが出て下ばかまを汚(よご)しました。
 こちらの軍勢はそいつらの逃げ道をくいとめて、かたっぱしからどんどん切り殺してしまいました。そのたいそうな死がいが川に浮かんで、ちょうど、うのように流れくだって行きました。
 大毘古命(おおひこのみこと)は天皇にそのしだいをすっかり申しあげて、改めて北陸道(ほくろくどう)へ出発しました。
 そのうちに大毘古命(おおひこのみこと)の親子をはじめ、そのほか方々へお遣(つかわ)しになった人々が、みんなおおせつかった地方を平らげて帰りました。そんなわけで、もういよいよどこにも天皇におさからいする者がなくなって、天下は平らかに治まり、人民もどんどん裕福(ゆうふく)になりました。それで天皇ははじめて人民たちから、男から弓端(ゆはず)の調(みつぎ)といって、弓矢でとった獲物(えもの)の中のいくぶんを、女からは手末(たなすえ)の調(みつぎ)といって、紡(つむ)いだり、織ったりして得たもののいくぶんを、それぞれ貢物(みつぎもの)としておめしになりました。
 天皇はまた、人民のために方々へ耕作用の池をお作りになりました。天皇の高いお徳は、後の代(よ)からも、いついつまでも永(なが)くおほめ申しあげました。

おしの皇子(おうじ)

       一

 崇神天皇(すじんてんのう)のおあとには、お子さまの垂仁天皇(すいにんてんのう)がお位をお継(つ)ぎになりました。天皇は、沙本毘古王(さほひこのみこ)という方のお妹さまで沙本媛(さほひめ)とおっしゃる方を皇后にお召(め)しになって、大和(やまと)の玉垣(たまがき)の宮にお移りになりました。
 その沙本毘古王(さほひこのみこ)が、あるとき皇后に向かって、
「あなたは夫と兄とはどちらがかわいいか」と聞きました。皇后は、
「それはおあにいさまのほうがかわゆうございます」とお答えになりました。すると王(みこ)は、用意していた鋭い短刀をそっと皇后にわたして、
「もしおまえが、ほんとうに私(わし)をかわいいと思うなら、どうぞこの刀で、天皇がおよっていらっしゃるところを刺(さ)し殺しておくれ。そして二人でいつまでも天下を治めようではないか」と言って、無理やりに皇后を説き伏(ふ)せてしまいました。
 天皇は二人がそんな怖(おそ)ろしいたくらみをしているとはご存じないものですから、ある晩、なんのお気もなく、皇后のおひざをまくらにしてお眠(ねむ)りになりました。
 皇后はこのときだとお思いになって、いきなり短刀を抜(ぬ)き放して、天皇のお首をま下にねらって、三度までお振(ふ)りかざしになりましたが、いよいよとなると、さすがにおいたわしくて、どうしてもお手をおくだしになることができませんでした。そしてとうとう悲しさに堪(た)えきれないで、おんおんお泣(な)きだしになりました。
 その涙(なみだ)が天皇のお顔にかかって流れ落ちました。天皇はそれといっしょに、ひょいとお目ざめになって、
「おれは今きたいな夢を見た。沙本(さほ)の村の方からにわかに大雨が降って来て、おれの顔にぬれかかった。それから、にしき色の小さなへびがおれの首へ巻きついた。いったいこんな夢はなんの兆(しるし)であろう」と、皇后に向かっておたずねになりました。皇后はそうおっしゃられると、ぎくりとなすって、これはとても隠(かく)しきれないとお思いになったので、おあにいさまとお二人のおそれ多いたくらみをすっかり白状しておしまいになりました。
 天皇はそれをお聞きになると、びっくりなすって、
「いやそれは危くばかな目を見るところであった」とおっしゃりながら、すぐに軍勢をお集めになって、沙本毘古(さほひこ)を討(う)ちとりにおつかわしになりました。
 すると沙本毘古(さほひこ)のほうでは、いねたばをぐるりと積みあげて、それでとりでをこしらえて、ちゃんと待ち受けておりました。天皇の軍勢はそれをめがけて撃ってかかりました。
 皇后はそうなると、こんどはまたおあにいさまのことがおいたわしくおなりになって、じっとしておいでになることができなくなりました。それで、とうとうこっそり裏口(うらぐち)のご門から抜(ぬ)け出して、沙本毘古(さほひこ)のとりでの中へかけつけておしまいになりました。
 皇后はそのときちょうど、お腹(なか)にお子さまをお持ちになっていらっしゃいました。
 天皇は、もはや三年もごちょう愛になっていた皇后でおありになるうえに、たまたまお身持ちでいらっしゃるものですから、いっそうおかわいそうにおぼしめして、どうか皇后のお身におけががないようにと、それからは、とりでもただ遠まきにして、むやみに攻め落とさないように、とくにご命令をおくだしになりました。

       二

 そんなことで、かれこれ戦(いくさ)も長びくうちに、皇后はおあにいさまのとりでの中で皇子をお生みおとしになりました。
 皇后はそのお子さまをとりでのそとへ出させて、天皇の軍勢の者にお見せになり、
「この御子(みこ)をあなたのお子さまとおぼしめしてくださるならば、どうぞひきとってご養育なすってくださいまし」と、天皇にお伝えさせになりました。
 天皇はそのことをお聞きになりますと、ついでにどうかして皇后をもいっしょに取りかえしたいとお思いになりました。それは、兄の沙本毘古(さほひこ)に対しては、刻(きざ)み殺してもたりないくらい、お憤(いきどお)りになっておりますが、皇后のことだけは、どこまでもおいたわしくおぼしめしていらっしゃるからでした。
 それで味方の兵士の中で、いちばん力の強い、そしていちばんすばしっこい者をいく人かお選びになって、
「そちたちはあの皇子を受け取るときに、必ず母の后(きさき)をもひきさらってかえれ。髪でも手でも、つかまりしだいに取りつかまえて、無理にもつれ出して来い」とお言いつけになりました。
 しかし皇后のほうでも、天皇がきっとそんなお企(くわだて)をなさるに違いないと、ちゃんとお感づきになっていましたので、そのときの用意に、前もってお髪(ぐし)をすっかりおそり落としになって、そのお毛をそのままそっとお被(かぶ)りになり、それからお腕先(うでさき)のお玉飾(たまかざ)りも、わざと、つなぎの緒(ひも)を腐(くさ)らして、お腕へ三重(みえ)にお巻きつけになり、お召物(めしもの)もわざわざ酒で腐らしたのをおめしになって、それともなげに皇子を抱(かか)えて、とりでの外へお出ましになりました。
 待ちかまえていた勇士たちは、そのお子さまをお受け取り申すといっしょに、皇后をも奪い取ろうとして、すばやく飛びかかってお髪(ぐし)をひっつかみますと、髪はたちまちすらりとぬげ落ちてしまいました。
「おや、しまった」と、こんどはお手をつかみますと、そのお手の玉飾りの緒(ひも)もぷつりと切れたので、難(なん)なくお手をすり抜(ぬ)いてお逃(に)げになりました。こちらはまたあわてて追いすがりながら、ぐいとお召物をつかまえました。すると、それもたちまちぼろりとちぎれてしまいました。その間に皇后は、さっと中へ逃げこんでおしまいになりました。
 勇士どもはしかたなしに、皇子一人をお抱(かか)え申して、しおしおと帰ってまいりました。
 天皇はそれらの者たちから、
「お髪(ぐし)をつかめばお髪がはなれ、玉の緒(ひも)もお召物(めしもの)も、みんなぷすぷす切れて、とうとうおとりにがし申しました」とお聞きになりますと、それはそれはたいそうお悔(くや)みになりました。
 天皇はそのために、宮中の玉飾りの細工人(さいくにん)たちまでお憎(にく)みになって、それらの人々が知行(ちぎょう)にいただいていた土地を、いきなり残らず取りあげておしまいになりました。
 それから改めて皇后の方へお使いをお出しになって、
「すべて子供の名は母がつけるものときまっているが、あの皇子は、なんという名前にしようか」とお聞きかせになりました。
 皇后はそれに答えて、
「あの御子(みこ)は、ちょうどとりでが火をかけられて焼けるさいちゅうに、その火の中でお生まれになったのでございますから、本牟智別王(ほむちわけのみこ)とお呼び申したらよろしゅうございましょう」とおっしゃいました。そのほむちというのは火のことでした。
 天皇はそのつぎには、
「あの子には母がないが、これからどうして育てたらいいか」とおたずねになりますと、
「ではうばをお召(め)し抱(かか)えになり、お湯をおつかわせ申す女たちをもおおきになって、それらの者にお任(まか)せになればよろしゅうございます」とお答えになりました。
 天皇は最後に、
「そちがいなくなっては、おれの世話はだれがするのだ」とお聞きになりました。すると皇后は、
「それには、丹波(たんば)の道能宇斯王(みちのうしのみこ)の子に、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)というきょうだいの娘(むすめ)がございます。これならば家柄(いえがら)も正しい女たちでございますから、どうかその二人をお召(め)しなさいまし」とおっしゃいました。
 天皇はもういよいよしかたなしに、一気にとりでを攻め落として、沙本毘古(さほひこ)を殺させておしまいになりました。
 皇后も、それといっしょに、えんえんと燃えあがる火の中に飛びこんでおしまいになりました。

       三

 お母上のない本牟智別王(ほむちわけのみこ)は、それでもおしあわせに、ずんずんじょうぶにご成長になりました。
 天皇はこの皇子のために、わざわざ尾張(おわり)の相津(あいず)というところにある、二またになった大きなすぎの木をお切らせになって、それをそのままくって二またの丸木船(まるきぶね)をお作らせになりました。そして、はるばると大和(やまと)まで運ばせて、市師(いちし)の池という池にお浮(う)かべになり、その中へごいっしょにお乗りになって、皇子をお遊ばせになりました。
 しかしこの皇子は、後にすっかりご成人(せいじん)になって、長いお下ひげがお胸先(むねさき)にたれかかるほどにおなりになっても、お口がちっともおきけになりませんでした。
 ところがあるとき、こうの鳥が、空を鳴いて飛んで行くのをご覧(らん)になって、お生まれになってからはじめて、
「あわわ、あわわ」とおおせになりました。
 天皇は、さっそく、山辺大鷹(やまべのおおたか)という者に、
「あの鳥をとって来てみよ」とおいいつけになりました。
 大鷹(おおたか)はかしこまって、その鳥のあとをどこまでも追っかけて、紀伊国(きいのくに)、播磨国(はりまのくに)へとくだって行き、そこから因幡(いなば)、丹波(たんば)、但馬(たじま)をかけまわった後、こんどは東の方へまわって、近江(おうみ)から美濃(みの)、尾張(おわり)をかけぬけて信濃(しなの)にはいり、とうとう越後(えちご)のあたりまでつけて行きました。そして、やっとのことで和那美(わなみ)という港でわな網(あみ)を張って、ようやく、そのこうの鳥をつかまえました。そして大急ぎで都(みやこ)へ帰って、天皇におさし出し申しました。
 天皇は、その鳥を皇子にお見せになったら、おものがおっしゃれるようにおなりになりはしないかとおぼしめして、わざわざとりにおつかわしになったのでした。しかし皇子は、やはりそのまま一言(ひとこと)もおものをおっしゃいませんでした。
 天皇はそのために、いつもどんなにお心をおいためになっていたかしれませんでした。
 そのうちに、ある晩、ふと夢の中で、
「私(わし)のお社(やしろ)を天皇のお宮のとおりにりっぱに作り直して下さるなら王(みこ)は必ず口がきけるようにおなりになる」と、こういうお告げをお聞きになりました。
 天皇は、どの神さまのお告げであろうかと急いで占(うらな)いの役人に言いつけて占わせてごらんになりますと、それは出雲(いずも)の大神(おおかみ)のお告げで、皇子はその神のおたたりでおしにお生まれになったのだとわかりました。
 それで天皇は、すぐに皇子を出雲へおまいりにお出しになることになさいました。
 それにはだれをつけてやったらよかろうと、また占わせてごらんになりますと、曙立王(けたつのみこ)という方が占いにおあたりになりました。
 天皇は、その曙立王(けたつのみこ)にお言いつけになって、なお念のために、うかがいのお祈りを立てさせてごらんになりました。
 王(みこ)はおおせによって、さぎの巣(す)の池のそばへ行って、
「あの夢のお告げのとおり、出雲の大神を拝(おが)んでおしるしがあるならば、その証拠(しょうこ)にこの池のさぎどもを死なせて見せてくださるように」とお祈りをしますと、そのまわりの木の上にとまっていた池じゅうのさぎが、いっせいにぱたぱたと池に落ちて死んでしまいました。そこでこんどは祈りを返して、
「あのさぎがことごとく生きかえりますように」と言いますと、いったん死んだそれらのさぎが、またたちまちもとのとおりに生きかえりました。そのつぎには古樫(ふるがし)の岡(おか)という岡の上に茂(しげ)っている、葉の大きなかしの木も、曙立王(けたつのみこ)の祈りによって、同じように枯(か)れたりまた生きかえったりしました。
 そんなわけで、お夢のこともまったく出雲の大神(おおかみ)のお告げだということがいよいよたしかになりました。
 天皇はすぐに曙立王(けたつのみこ)と兎上王(うがみのみこ)との二人を本牟智別王(ほむちわけのみこ)につけて、出雲へおつかわしになりました。
 そのご出立(しゅったつ)のときにも、どちらの道を選べばよいかとお占(うらな)わせになりました。すると、奈良街道(ならかいどう)からでは、途中でいざりやめくらに会うし、大阪口(おおさかぐち)から行っても、やはりめくらやいざりに会うので、どちらとも旅立ちには不吉(ふきつ)である、脇道(わきみち)の紀井街道(きいかいどう)をとおって行けば、必ずさい先(さき)がよいと、こう占いに出ました。一同はそのとおりにして立っておいでになりました。
 天皇は皇子のお名前を永(なが)く後の世までお伝えになるために、その途中のいたるところに、本牟智部(ほむちべ)という部族をおこしらえさせになりました。
 皇子は、いよいよ出雲にお着きになって、大神(おおかみ)のお社(やしろ)におまいりになりました。
 そしてまた都(みやこ)へお帰りになろうとなさいますと、その出雲の国をおあずかりしている、国造(くにのみやつこ)という、いちばん上の役人が、肥(ひ)の河(かわ)の中へ仮(かり)のお宮をつくり、それへ、細木(ほそき)を編(あ)んだ橋を渡して、その宮で、皇子を、ごちそうしておもてなし申しあげました。
 そのとき川下の方には、皇子のお目を慰(なぐさ)めるために、青葉で、作りものの山がこしらえてありました。
 皇子はそれをご覧(らん)になって、
「あの川下に、山のように見えている青葉は、あれはほんとうの山ではないだろう。神主(かんぬし)たちが大国主神(おおくにぬしのかみ)のお祭りをする場所ででもあるのか」と突然こうお聞きになりました。
 お供の曙立王(けたつのみこ)や兎上王(うがみのみこ)たちは、皇子がふいにおものをおっしゃれるようになったので、びっくりして喜んで、すぐに早うまのお使いを立てて、そのことを天皇にお知らせ申しました。
 皇子はそれからほかのお宮へお移りになって、肥長媛(ひながひめ)という人をお妃(きさき)におもらいになりました。
 ところがあとでご覧(らん)になりますと、それはへびが女になって出て来たのだとわかりました。皇子はびっくりなすって、みんなとごいっしょに船に乗ってお逃(に)げになりました。
 するとへびの媛(ひめ)は、皇子のおあとを慕(した)って、急いで別の船をしたてて、海の上をきらきらと照らしながら、どんどん追っかけて来ました。皇子はいよいよ気味(きみ)が悪くおなりになって、あわてて船をひきあげさせて、それをひっぱらせて山の間をお越(こ)えになり、またその船をおろして海をお渡(わた)りになったりなすって、やっと無事に都(みやこ)へ逃げておかえりになりました。
 曙立王(けたつのみこ)は天皇におめみえをして、
「おおせのとおりに大神をお拝(おが)みになりますと、まもなく、急にお口がおきけになるようになりましたので、一同でお供をして帰ってまいりました」と申しあげました。
 天皇は、それはそれは言うに言われないほどお喜びになりました。そしてすぐに兎上王(うがみのみこ)をまた再(ふたた)び出雲(いずも)へおくだしになって、大神のお社(やしろ)をりっぱにご造営(ぞうえい)になりました。

       四

 天皇はそれですっかりご安心になったので、こんどはご不自由がちな、おそばのご用をおいいつけになるために、かねて皇后がおっしゃってお置きになったように、丹波(たんば)から兄媛(えひめ)たちのきょうだい四人をおめしよせになりました。
 しかし下の二人はたいそうみにくい子でしたので、天皇は兄媛(えひめ)とそのつぎの弟媛(おとひめ)とだけをお抱(かか)えになって、あとの二人はそのまま家へかえしておしまいになりました。
 すると、いちばん下の円野媛(まどのひめ)は、四人がいっしょにおめしに会って伺(うかが)いながら、二人だけは顔が汚(きた)ないためにご奉公ができないでかえされたと言えば、近所の村々への聞こえも恥ずかしく、とても生きてはいられないと言って、途中の山城(やましろ)の乙訓(おとくに)というところまでかえりますと、あわれにも、そこの深いふちに身を投げて死んでしまいました。
 それから天皇はある年、多遅摩毛理(たじまもり)という者に、常世国(とこよのくに)へ行って、香(かおり)の高いたちばなの実(み)を取って来いとおおせつけになりました。
 多遅摩毛理(たじまもり)はかしこまって、長い年月(としつき)の間いっしょうけんめいに苦心して、はてしもない大海(おおうみ)の向こうの、遠い遠いその国へやっとたどり着きました。そしておおせのたちばなの実の、枝葉(えだは)のままついたのを八つ、実ばかりのを八つもぎ取って、また長い間かかって、ようよう都へ帰って来ました。しかし天皇はその前に、もうとっくにおかくれになっていました。
 多遅摩毛理(たじまもり)はそのことを承ると、それはそれはがっかりして、葉つきの実を四つと、葉のないのを四つとを、天皇のおそばにお仕え申していた兄媛(えひめ)にさしあげたうえ、あとの四つずつを天皇のお墓にお供え申しました。そして泣(な)き泣き大声を張りあげて、
「ご覧(らん)くださいまし。このとおりおおせの実を取ってまいりました。どうぞご覧くださいまし」とそのたちばなを両手にさしあげて、繰(く)りかえし繰りかえし、いつまでもそのお墓の前で叫び続けて、とうとうそれなり叫び死にに死んでしまいました。

白い鳥

       一

 第十二代景行天皇(けいこうてんのう)は、お身の丈(たけ)が一丈(じょう)二寸(すん)、おひざから下が四尺(しゃく)一寸もおありになるほどの、偉大なお体格でいらっしゃいました。それからお子さまも、すべてで八十人もお生まれになりました。
 天皇はその中で、後におあとをお継(つ)ぎになった若帯日子命(わかたらしひこのみこと)と、小碓命(おうすのみこと)とおっしゃる皇子(おうじ)と、ほかにもう一方(ひとかた)とだけをおそばにお止めになり、あとの七十七人の方々(かたがた)をことごとく、地方地方の国造(くにのみやつこ)、別(わけ)、稲置(いなぎ)、県主(あがたぬし)という、それぞれの役におつけになりました。
 あるとき天皇は、美濃(みの)の、神大根王(かんおおねのみこ)という方の娘(むすめ)で、兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)という姉妹(きょうだい)が、二人ともたいそうきりょうがよい子だという評判をお聞きになって、それをじっさいにお確(たし)かめになったうえ、さっそく御殿(ごてん)にお召使(めしつか)いになるおつもりで、皇子の大碓命(おおうすのみこと)にお言いつけになって、二人を召(め)しのぼせにお遣(つか)わしになりました。
 すると、大碓命(おおうすのみこと)は、その二人の者をご自分のお召使いに取っておしまいになり、別に二人の姉妹(きょうだい)の女を探(さが)し出して、それを兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)だといつわって、天皇にお目通りをおさせになりました。
 天皇はそれがほかの女であるということを、ちゃんとお見抜きになりました。しかしうわべでは、あくまでだまされていらっしゃるようにお見せかけになって、二人をそのまま御殿(ごてん)にお置きになりました。その代わりお手近(てぢか)のご用は、わざとほかの者にお言いつけになって、それとなく二人をおこらしめになりました。
 大碓命(おおうすのみこと)はそんな悪いことをなすってからは、天皇の御前(ごぜん)へお出ましになるのをうしろぐらくおぼしめして、さっぱりお顔をお見せになりませんでした。
 天皇はある日、弟さまの皇子(おうじ)の小碓命(おうすのみこと)に向かって、
「そちが兄は、どういうわけで、このせつ朝夕の食事のときにも出て来ないのであろう。おまえ行って、よく申し聞かせよ」とおっしゃいました。
 しかし、それから五日もたっても、大碓命(おおうすのみこと)は、やっぱりそのままお顔出しをなさらないものですから、天皇は小碓命(おうすのみこと)を召(め)して、
「兄はどうして、いつまでも食事(しょくじ)に出て来ないのか。おまえはまだ言わないのではないか」とお聞きになりました。
「いいえ、申し聞かせました」と命(みこと)はお答えになりました。
「では、どういうふうに話したのか」
「ただ朝早く、おあにいさまがかわやにはいりますところを待ち受けて、つかみくじき、手足をむしりとって、死体をこもにくるんでうッちゃりました」と、命(みこと)はまるでむぞうさにこう言って、すましていらっしゃいました。
 天皇はそれ以来、小碓命(おうすのみこと)のきつい荒(あら)いご気性(きしょう)を怖(おそ)ろしくおぼしめして、どうかしてそれとなく命をおそばから遠ざけようとお考えになりました。それでまもなく命を召(め)して、
「実は西の方に熊襲建(くまそたける)という者のきょうだいがいる。二人とも私の命令に従わない無礼なやつである。そちはこれから行って、かれらを打ちとってまいれ」とおおせになりました。それで命は、急いで伊勢(いせ)におくだりになって、大神宮(だいじんぐう)にお仕えになっている、おんおば上の倭媛(やまとひめ)にお別れをなさいました。
 するとおば上からは、ご料(りょう)のお上着(うわぎ)と、おはかま着(ぎ)と、懐剣(かいけん)とを、お別れのお印(しるし)におくだしになりました。
 命はそれからすぐに、今の日向(ひゅうが)、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)の地方へ向かっておくだりになりました。そのとき命は、まだお髪(ぐし)をお額(ひたい)にお結(ゆ)いになっている、ただほんの一少年でいらっしゃいました。

       二

 命は、その土地にお着きになり、熊襲建(くまそたける)のうちへ近づいて、ようすをおうかがいになりますと、建(たける)らは、うちのまわりへ軍勢をぐるりと三重(じゅう)に立て囲(かこ)わせて、その中に住まっておりました。そして、たまたまちょうどその家ができあがったばかりで、近々にそのお祝いの宴会(えんかい)をするというので、大さわぎでしたくをしているところでした。
 命(みこと)はそのあたりをぶらぶら歩きまわって、その宴会(えんかい)の日が来るのを待ちかまえていらっしゃいました。そして、いよいよその日になりますと、今までお結(ゆ)いになっていたお髪(ぐし)を、少女のようにすきさげになさり、おんおば上からおさずかりになったご衣裳(いしょう)を召(め)して、すっかり小女(こおんな)の姿(すがた)におなりになりました。そして、ほかの女たちの中にまじって、建(たける)どもの宴会(えんかい)のへやへはいっておいでになりました。
 すると熊襲建(くまそたける)きょうだいは、命をほんとうの女だとばかり思いこんでしまいまして、その姿のきれいなのがたいそう気にいったので、とくに自分たち二人の間にすわらせて、大喜びで飲みさわぎました。
 命は、みんながすっかり興(きょう)に入ったころを見はからって、そっと懐(ふところ)から剣(つるぎ)をお取り出しになったと思いますと、いきなり片手で兄の建(たける)のえり首をつかんで、胸(むね)のところをひと突(つ)きに突き通しておしまいになりました。
 弟の建(たける)はそれを見ると、あわててへやの外へ逃げ出そうとしました。
 命(みこと)は、それをもすかさず、階段(かいだん)の下に追いつめて、手早く背中(せなか)をひっつかみ、ずぶりとおしりをお突き刺(さ)しになりました。
 建(たける)はそれなりじたばたしようともしないで、
「どうぞその刀をしばらく動かさないでくださいまし。一言(ひとこと)申しあげたいことがございます」と、言いました。それで命(みこと)は刀をお刺(さ)しになったなり、しばらく押(お)し伏(ふ)せたままにしていらっしゃいますと、建(たける)は、
「いったいあなたはどなたでございます」と聞きました。
「おれは、大和(やまと)の日代(ひしろ)の宮(みや)に天下(てんか)を治めておいでになる、大帯日子天皇(おおたらしひこてんのう)の皇子(おうじ)、名は倭童男王(やまとおぐなのみこ)という者だ。なんじら二人とも天皇のおおせに従わず、無礼なふるまいばかりしているので、勅命(ちょくめい)によって、ちゅう伐(ばつ)にまいったのだ」と、命(みこと)はおおしくお名乗りになりました。
 建(たける)はそれを聞いて、
「なるほど、そういうお方に相違ございますまい。この西の国じゅうには、私ども二人より強い者は一人もおりません。それにひきかえ大和(やまと)には、われわれにもまして、すばらしいお方がいられたものだ。おそれながら私がお名まえをさしあげます。これからあなたのお名まえは倭建命(やまとたけるのみこと)とお呼(よ)び申したい」と言いました。
 命は建(たける)がそう言いおわるといっしょに、その荒(あら)くれ者を、まるで熟(じゅく)したまくわうりを切るように、ずぶずぶと切り屠(ほふ)っておしまいになりました。
 それ以来、だれもかれも命のご武勇をおほめ申して、お名まえを倭建命(やまとたけるのみこと)と申しあげるようになりました。
 命は、それから大和(やまと)へおひきかえしになる途中で、いろんな山の神や川の神や、穴戸(あなど)の神と称(とな)えて、方々の険阻(けんそ)なところにたてこもっている悪神(わるがみ)どもを、片(かた)はしからお従えになった後、出雲(いずも)の国へおまわりになって、そのあたりで幅(はば)をきかせている、出雲建(いずもたける)という悪者をお退治(たいじ)になりました。
 命(みこと)はまずその建(たける)の家へたずねておいでになって、その悪者とごこうさいをお結びになりました。そして、そのあとで、こっそりといちいという木を刀のようにお削(けず)りになり、それをりっぱな太刀(たち)のように飾(かざ)りをつけておつるしになって、建(たける)をさそい出して、二人で肥(ひ)の河(かわ)の水を浴びにいらっしゃいました。そして、いいかげんなころを見はからって、ご自分の方が先におあがりになり、ごじょうだんのように建(たける)の太刀をお身におつけになりながら、
「どうだ、二人でこの刀のとりかえっこをしようか」とおっしゃいました。建(たける)はあとからのそのそあがって来て、
「よろしい取りかえよう」と言いながら、うまくだまされて命のにせの刀をつるしました。命は、
「さあ、ひとつ二人で試合をしよう」とお言いになりました。そして二人とも刀を抜(ぬ)き放すだんになりますと、建(たける)のはにせの刀ですから、いくら力を入れても抜けようはずがありません。命は建(たける)がそれでまごまごしているうちに、すばやくほんものの刀を引き抜いて、たちまちその悪者を切り殺しておしまいになりました。そして、そのあとで、建(たける)が抜けない刀を抜こうとして、まごまごとあわてたおかしさを、歌につくってお笑(わら)いになりました。

       三

 命(みこと)はこんなにして、お道筋(みちすじ)の賊(ぞく)どもをすっかり平(たい)らげて、大和(やまと)へおかえりになり、天皇にすべてをご奏上(そうじょう)なさいました。
 すると天皇は、またすぐにひき続いて、命に、東の方の十二か国の悪い神々や、おおせに従わない悪者どもを説(と)き従えてまいれとおおせになって、ひいらぎの矛(ほこ)をお授(さず)けになり、御※友耳建日子(みすきともみみたけひこ)という者をおつけ添(そ)えになりました。
 命はお言いつけを奉じて、またすぐにおでかけになりました。そして途中で伊勢(いせ)のお宮におまいりになって、おんおば上の倭媛(やまとひめ)に再度(さいど)のお別れをなさいました。そのとき命はおんおば上に向かっておっしゃいました。
「天皇は私を早くなくならせようとでもおぼしめすのでしょう。でも、こないだまで西の方の賊を討(う)ちにまいっておりまして、やっと、たった今かえったと思いますと、またすぐに、こんどは東の方の悪者どもを討ちとりにお出しになるのはどういうわけでございましょう。それもほとんど軍勢(ぐんぜい)というほどのものもくださらないのです。こんなことからおして考えてみますと、どうしても私を早く死なせようというお心持としか思われません」命はこうおっしゃって涙(なみだ)ながらにお立ちになろうとしました。
 おんおば上は、命のそのお恨(うら)みをおやさしくおなだめになったうえ、もと神代(かみよ)のときに、須佐之男命(すさのおのみこと)が大(だい)じゃの尾の中からお拾いになった、あの貴(とうと)いお宝物(たからもの)の御剣(みつるぎ)と、ほかに袋(ふくろ)を一つお授けになり、まん一、急なことが起こったら、この袋(ふくろ)の口をお解(と)きなさい、とおおせになりました。
 命はそれから尾張(おわり)へおはいりになって、そこの国造(くにのみやつこ)の娘(むすめ)の美夜受媛(みやずひめ)のおうちにおとまりになりました。そして、かえりにはまた必(かなら)ず立ち寄(よ)るからとお言いのこしになって、さらに東の国へお進みになり、山や川に住んでいる、荒(あら)くれ神や、そのほか天皇にお仕えしない悪者どもをいちいちお説(と)き従えになりました。そしてまもなく相模(さがみ)の国へお着きになりました。
 するとそこの国造(くにのみやつこ)が、命をお殺し申そうとたくらんで、
「あすこの野中に大きな沼(ぬま)がございます。その沼の中に住んでおります神が、まことに乱暴(らんぼう)なやつで、みんな困(こま)っております」と、おだまし申しました。
 命はそれをまにお受けになって、その野原の中へはいっておいでになりますと、国造(くにのみやつこ)は、ふいにその野へ火をつけて、どんどん四方から焼きたてました。
 命ははじめて、あいつにだまされたかとお気づきになりました。その間(ま)にも火はどんどんま近に迫(せま)って来て、お身が危(あやう)くなりました。
 命はおんおば上のおおせを思い出して、急いで、例の袋のひもをといてご覧(らん)になりますと、中には火打(ひうち)がはいっておりました。
 命はそれで、急いでお宝物(たからもの)の御剣(みつるぎ)を抜(ぬ)いて、あたりの草をどんどんおなぎ払いになり、今の火打(ひうち)でもって、その草へ向かい火をつけて、あべこべに向こうへ向かってお焼きたてになりました。命はそれでようやく、その野原からのがれ出ていらっしゃいました。そしていきなり、その悪い国造(くにのみやつこ)と、手下(てした)の者どもを、ことごとく切り殺して、火をつけて焼いておしまいになりました。
 それ以来そのところを焼津(やいず)と呼びました。それから、命(みこと)が草をお切りはらいになった御剣(みつるぎ)を草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)と申しあげるようになりました。
 命はその相模(さがみ)の半島(はんとう)をおたちになって、お船で上総(かずさ)へ向かってお渡(わた)りになろうとしました。すると途中で、そこの海の神がふいに大波(おおなみ)を巻(ま)きあげて、海一面を大荒(おおあ)れに荒れさせました。命の船はたちまちくるくるまわり流されて、それこそ進むこともひきかえすこともできなくなってしまいました。
 そのとき命がおつれになっていたお召使(めしつかい)の弟橘媛(おとたちばなひめ)は、
「これはきっと海の神のたたりに相違ございません。私があなたのお身代わりになりまして、海の神をなだめましょう。あなたはどうぞ天皇のお言いつけをおしとげくださいまして、めでたくあちらへおかえりくださいまし」と言いながら、すげの畳(たたみ)を八枚(まい)、皮畳(かわだたみ)を六枚に、絹畳(きぬだたみ)を八枚重(かさ)ねて、波の上に投げおろさせるやいなや、身をひるがえして、その上へ飛びおりました。
 大波(おおなみ)は見るまに、たちまち媛(ひめ)を巻(ま)きこんでしまいました。するとそれといっしょに、今まで荒れ狂っていた海が、ふいにぱったりと静まって、急に穏(おだや)かななぎになってきました。
 命はそのおかげでようやく船を進めて、上総(かずさ)の岸へ無事にお着きになることができました。
 それから七日目に、橘媛(たちばなひめ)のくしがこちらの浜へうちあげられました。命はそのくしを拾わせて、あわれな媛(ひめ)のためにお墓をお作らせになりました。
 橘媛(たちばなひめ)が生前に歌った歌に、

  さねさし、
  さがむの小野(おの)に、
  もゆる火の、
  火中(ほなか)に立ちて、
  問いしきみはも。

 これは、相模(さがみ)の野原で火攻めにお会いになったときに、その燃える火の中にお立ちになっていた、あの危急なときにも、命(みこと)は私のことをご心配くだすって、いろいろに慰(なぐさ)め問うてくだすった、ほんとに、お情け深い方よと、そのもったいないお心持を忘(わす)れない印(しるし)に歌ったのでした。
 命はそこから、なおどんどんお進みになって、いたるところで手におえない悪者どもをご平定(へいてい)になり、山や川の荒(あら)くれ神をもお従えになりました。
 それでいよいよ、再(ふたた)び大和(やまと)へおかえりになることになりました。
 そのお途中で、足柄山(あしがらやま)の坂の下で、お食事をなすっておいでになりますと、その坂の神が、白いしかに姿をかえて現われて、命を見つめてつっ立っておりました。
 命(みこと)は、それをご覧(らん)になると、お食べ残しのにらの切(きれ)はしをお取りになって、そのしかをめがけてお投げつけになりました。すると、それがちょうど目にあたって、しかはばたりと倒(たお)れてしまいました。
 命はそれから坂の頂上へおあがりになり、そこから東の海をおながめになって、あの哀(あわ)れな橘媛(たちばなひめ)のことを、つくづくとお思いかえしになりながら、
「あずまはや」(ああ、わが女よ)とお嘆(なげ)きになりました。それ以来そのあたりの国々をあずま[#「あずま」に傍点]と呼(よ)ぶようになりました。

       四

 命は、そこから甲斐(かい)の国へお越(こ)えになりました。そして酒折宮(さかおりのみや)という御殿(ごてん)におとまりになったときに、

  にいばり、つくばを過ぎて、
  いく夜(よ)か寝(ね)つる。

とお歌いになりますと、あかりのたき火についていた一人の老人が、すぐにそのおあとを受けて、

  かかなべて、
  夜(よ)には九夜(ここのよ)、
  日には十日(とおか)を。

と歌いました。それは、
「蝦夷(えびす)どもをたいらげながら、常陸(ひたち)の新治(にいばり)や筑波(つくば)を通りすぎて、ここまで来るのに、いく夜寝たであろう」とおっしゃるのに対して、
「かぞえて見ますと、九夜(ここのよ)寝て十日目(とおかめ)を迎えましたのでございます」という意味でした。
 命はその答えの歌をおほめになって、そのごほうびに、老人を東国造(あずまのくにのみやつこ)という役におつけになりました。
 それから信濃(しなの)へおはいりになり、そこの国境(くにざかい)の地の神を討(う)ち従えて、ひとまずもとの尾張(おわり)までお帰りになりました。
 命はお行きがけにお約束をなすったとおり、美夜受媛(みやずひめ)のおうちへおとまりになりました。そして草薙(くさなぎ)の宝剣(ほうけん)を媛(ひめ)におあずけになって近江(おうみ)の伊吹山(いぶきやま)の、山の神を征伐(せいばつ)においでになりました。
 命はこの山の神ぐらいは、す手でも殺すとおっしゃって、どんどんのぼっておいでになりました。すると途中で、うしほどもあるような、大きな白いいのししが現われました。命は、
「このいのししに化(ば)けて出たのは、まさか山の神ではあるまい。神の召使(めしつかい)の者であろう。こんなやつは今殺さなくとも、かえりにしとめてやればたくさんである」とおいばりになって、そのままのぼっておいでになりました。
 そうすると、ふいに大きなひょうがどッと降りだしました。命(みこと)はそのひょうにお襲(おそ)われになるといっしょに、ふらふらとお目まいがして、ちょうどものにお酔(よ)いになったように、お気分が遠くおなりになりました。
 それというのは、さきほどの白いいのししは、山の神の召使ではなくて、山の神自身が化けて出たのでした。それを命があんなにけいべつして広言(こうげん)をお吐(は)きになったので、山の神はひどく怒(おこ)って、たちまち毒気(どくき)を含(ふく)んだひょうを降らして、命をおいじめ申したのでした。
 命は、ほとんどとほうにくれておしまいになりましたが、ともかく、ようやくのことで山をおくだりになって、玉倉部(たまくらべ)というところにわき出ている清水(しみず)のそばでご休息をなさいました。そして、そのときはじめて、いくらかご気分がたしかにおなりになりました。しかし命はとうとうその毒気のために、すっかりおからだをこわしておしまいになりました。
 やがて、そこをお立ちになって、美濃(みの)の当芸野(たぎの)という野中までおいでになりますと、
「ああ、おれは、いつもは空でも飛んで行けそうに思っていたのに、今はもう歩くこともできなくなった。足はちょうど船のかじのように曲がってしまった」とおっしゃって、お嘆(なげ)きになりました。そしてそのまままた少しお歩きになりましたが、まもなくひどく疲(つか)れておしまいになったので、とうとうつえにすがって一足(ひとあし)一足(ひとあし)お進みになりました。
 そんなにして、やっと伊勢(いせ)の尾津(おつ)の崎(さき)という海ばたの、一本まつのところまでおかえりになりますと、この前お行きがけのときに、そのまつの下でお食事をお取りになって、つい置(お)き忘(わす)れていらしった太刀(たち)が、そのままなくならないで、ちゃんと残っておりました。
 命(みこと)は、
「おお一つまつよ、よくわしのこの太刀(たち)の番をしていてくれた。おまえが人間であったら、ほうびに太刀をさげてやり、着物を着せてやるのだけれど」と、こういう意味の歌を歌ってお喜びになりました。それからなおお歩きになって、ある村までいらっしゃいました。
 命は、そのとき、
「わしの足はこんなに三重(みえ)に曲がってしまった。どうもひどく疲(つか)れて歩けない」とおっしゃいました。しかしそれでも無理にお歩きになって、能褒野(のぼの)という野へお着きになりました。
 命は、その野の中でつくづくと、おうちのことをお思いになり、

  あの青山(あおやま)にとりかこまれた、
  美しい大和(やまと)が恋しい。
  しかし、ああ私(わたし)は、
  その恋しい土地へも、
  帰りつくことはできない。
  命(いのち)あるものは、
  これからがいせんして、
  あの平群(へぐり)の山の、
  くまがしの葉を、
  髪(かみ)に飾(かざ)って祝い楽しめよ。

という意味をお歌いになり、

  はしけやし、
  わぎへの方(かた)よ、
  雲いたち来(く)も。
   (おおなつかしや、
    わが家(や)のある、
    はるかな大和(やまと)の方から、
    雲が出て来るよ。)

と、お歌いになりました。
 そして、それといっしょにご病勢(びょうせい)もどっとご危篤(きとく)になってきました。
 命(みこと)は、ついに、

  おとめの、
  床(とこ)のべに、
  わがおきし、
  剣(つるき)の太刀(たち)。
  その太刀はや。

と、あの美夜受媛(みやずひめ)のおうちにおいていらしった宝剣(ほうけん)も、とうとう再(ふたた)び手にとることもできないかとお歌いになり、そのお歌の終わるのとともに、この世をお去りになりました。
 早うまのお使いは、このことを天皇に申しあげにかけつけました。
 大和(やまと)からは、命のお妃(きさき)やお子さまたちが、びっくりしてくだっておいでになりました。そして、命のご陵(りょう)をお作りになって、そのぐるりの田の中に伏(ふ)しまろんで、おんおんおんおんと泣いていらっしゃいました。
 するとおなくなりになった命は、大きな白い鳥になって、お墓の中からお出ましになり、空へ高くかけのぼって、浜辺(はまべ)の方へ向かって飛んでおいでになりました。
 お妃(きさき)やお子さまたちは、それをご覧(らん)になると、すぐに泣き泣きそのあとを追いしたって、ささの切り株(かぶ)にお足を傷つけて血だらけにおなりになっても、痛(いた)さを忘(わす)れて、いっしょうけんめいにかけておいでになりました。
 そしてしまいには、海の中にまではいって、ざぶざぶと追っかけていらっしゃいました。
 白い鳥はその人々をあとにおいて、海の中のいそからいそにと伝わって飛んで行きました。
 お妃(きさき)は潮(しお)の中を歩きなやみながら、おんおんお泣きになりました。
 その鳥は、とうとう伊勢(いせ)から河内(かわち)の志紀(しき)というところへ来てとまりました。それで、そこへお墓を作って、いったんそこへお鎮(しず)め申しましたが、しかし鳥は、あとにまた飛び出して、どんどん空をかけて、どこへともなく逃(に)げ去ってしまいました。

       五

 命(みこと)には、お子さまが男のお子ばかり六人おいでになりました。その中の、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)とおっしゃる方は、後にお祖父上(そふうえ)の天皇のおつぎの成務天皇(せいむてんのう)のおあとをお継(つ)ぎになりました。すなわち仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)でいらっしゃいます。
 命が諸方を征伐(せいばつ)しておまわりになる間は、七拳脛(ななつかはぎ)という者が、いつもご料理番としてお供について行きました。
 御父上(おんちちうえ)の景行天皇(けいこうてんのう)は、おん年百三十七でおかくれになりました。

朝鮮征伐(ちょうせんせいばつ)

       一

 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、ある年、ご自身で熊襲(くまそ)をお征伐(せいばつ)におくだりになり、筑前(ちくぜん)の香椎(かしい)の宮というお宮におとどまりになっていらっしゃいました。
 そのとき天皇は、ある夜、戦(いくさ)のお手だてについて、神さまのお告げをいただこうとおぼしめして、大臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)をお祭場(まつりば)へお坐(すわ)らせになり、御自分はお琴(こと)をおひきになりながら、お二人でお祈(いの)りをなさいました。そうすると、どなたか一人の神さまが、皇后の息長帯媛(おきながたらしひめ)のおからだにお乗りうつりになり、皇后のお口をお借りになって、
「これから西の方にあるひとつの国がある、そこには金銀をはじめ、目もまぶしいばかりの、さまざまの珍(めずら)しい宝(たから)がどっさりある。つまらぬ熊襲(くまそ)の土地よりも、まずその国をあなたのものにしてあげよう」とおっしゃいました。
「しかし、高いところへ登って西の方を見ましても、そちらの方はどこまでも大海(おおうみ)ばかりで、国などはちっとも見えないではありませんか」と、天皇はお答えになりました。そしてお心のうちでは、
「これはほんとうの神さまではあるまい。きっといつわりを言う神が乗りうつったにちがいない」とおぼしめして、それなりお琴(こと)をおしのけて、だまっておすわりになっていました。
 すると神さまはたいそうお怒(いか)りになって、
「そんな、わしの言葉(ことば)をうたぐったりするものには、この国も任(まか)せてはおかれない。あなたはもう、さっさと死んでおしまいなさるがよい」と、おおせになりました。
 宿禰(すくね)はその言葉を聞くと、びっくりして、
「これはたいへんでございます。陛下よ、どうぞもっとお琴をおひきあそばしませ」と、あわててご注意申しあげました。
 天皇は仕方なしに、しぶしぶお琴をおひき寄せになって、しばらくの間、申しわけばかりにぽつぽつひいておいでになりましたが、そのうちにまもなく、ふッつりとお琴の音(ね)がとだえてしまいました。
 宿禰(すくね)はへんだと思って、灯(ひ)をさし上げて見ますと、天皇はもはやいつのまにかお息が絶えて、その場にお倒(たお)れになっていらっしゃいました。
 皇后も宿禰(すくね)も、神さまのお罰(ばつ)に驚(おどろ)き怖(おそ)れて、急いでそのお空骸(なきがら)を仮のお宮へお移し申しました。そしてまず第一番に、神さまのお怒りをおなだめ申すために、そのあたりの国じゅうで生きた獣(けもの)の皮を剥(は)いだり、獣を逆(さか)はぎにしたものをはじめとして、田の畔(くろ)をこわしたもの、溝(みぞ)をうめたもの、汚(きた)ないものをひりちらしたもの、そのほか言うも穢(けが)らわしいような、さまざまの汚ない罪を犯したものたちをいちいちさがし出させて、御幣(ごへい)をとって、はらい清めて、国じゅうのけがれをすっかりなくしておしまいになりました。そして、宿禰(すくね)が再(ふたた)びお祭場に坐(すわ)って、改めて神さまのお告げをお祈り申しました。
 すると神さまからは、この前おっしゃった西の国のことについて、同じようなおおせがありました。
「それからこの日本の国は、今、皇后のお腹(なか)にいらっしゃるお子がお治めになるべきものだ」とおっしゃいました。
 皇后は、そのときちょうどお身重(みおも)でいらっしゃいました。宿禰(すくね)はそのおおせを聞いて、
「では、恐(おそ)れながら、今、皇后のお腹においでになりますお子さまは、男のお子さまと女のお子さまと、どちらでいらっしゃりましょう」とうかがいますと、
「お子はご男子(なんし)である」とお告げになりました。
 宿禰(すくね)はなお、すべてのことをうかがっておこうと思いまして、
「まことにおそれいりますが、かようにいちいちお告げを下さいますあなたさまは、どなたさまでいらっしゃいますか。どうぞお名まえをおあかしくださいまし」と申しあげました。神さまは、やはり皇后のお口を通して、
「これはすべて天照大神(あまてらすおおかみ)のおぼしめしである。また、底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、上筒男命(うわつつおのみこと)の三人の神も、いっしょに申し下(くだ)しているのだ」と、そこではじめてお名まえをお告げになりました。
 神さまはなお改めて、
「もしそなたたちが、ほんとうにあの西の国を得ようと思うならば、まず大空の神々、地上の神々、また、山の神、海と河(かわ)との神々にことごとくお供えを奉(たてまつ)り、それから私たち三人の神の御魂(みたま)を船のうえに祀(まつ)ったうえ、まき[#「まき」に傍点]の灰(はい)を瓠(ひさご)に入れ、また箸(はし)と盆(ぼん)とをたくさんこしらえてそれらのものを、みんな海の上に散らし浮かべて、その中を渡(わた)って行くがよい」とおっしゃって、くわしく征伐(せいばつ)の手順(てじゅん)をおしえてくださいました。
 それで、皇后はすぐ軍勢をお集めになり、神々のお言葉(ことば)のとおりに、すべてご用意をお整(ととの)えになって、仰山(ぎょうさん)なお船をめしつらねて、勇ましく大海のまん中へお乗り出でになりました.
 そうすると海じゅうの、あらゆる大小の魚が、のこらず駈(か)けよって来て、すっかりのお船をみんなで背中(せなか)にお担(かつ)ぎ申しあげて、わッしょいわッしょいと、威勢(いせい)よく押(お)しはこんで行きました。そこへ、ちょうどつごうよく、追い手の風がどんどん吹き募(つの)って来ました。ですから、それだけのお船がみんな、かけ飛ぶように走って行きました。
 そのうちに、そのたいそうな大船に押しまくられた大浪(おおなみ)が、しまいには大きな、すさまじい大海嘯(おおつなみ)となって、これから皇后がご征伐になろうとする、今の朝鮮(ちょうせん)の一部分の新羅(しらぎ)の国へ、ふいにどどんと打(う)ち上げました。そして、あっという間(ま)に、国じゅうを半分までも巻(ま)き込(こ)んでしまいました。
 皇后の軍勢は、その大海嘯と入れちがいに、息もつかせずうわあッと攻(せ)めこみました。すると新羅(しらぎ)の王はすっかり怖(おそ)れちぢこまって、すぐに降参(こうさん)してしまいました。
 国王は、
「私どもはこれからいついつまでも、天皇のおおせのままに、おうま飼(かい)の下郎(げろう)となりまして、いっしょうけんめいにご奉公申しあげます。そして毎年(まいとし)船をどっさり仕立てまして、その船底(ふなぞこ)の乾(かわ)くときもなく、棹(さお)や櫂(かい)の乾くまもなもないほどおうかがわせ申しまして、絶えず貢物(みつぎもの)を奉(たてまつ)り天地が亡(ほろ)びますまで無窮(むきゅう)にお仕え申しあげます」と、平蜘蛛(ひらぐも)のようになっておちかいをいたしました。
 それで皇后はさっそくお聞き届(とど)けになりまして、新羅(しらぎ)の王をおうま飼(かい)ということにおきめになり、その隣(となり)の百済(くだら)をもご領地(りょうち)にお定めになりました。そしてそのお印(しるし)に、お杖(つえ)を、新羅(しらぎ)の王宮(おうきゅう)の門のところに突(つ)き刺(さ)してお置(お)きになりました。
 それから最後に、お社(やしろ)をお作りになって、今度のご征伐(せいばつ)についていちいちお指図(さしず)をしてくださった、底筒男命(そこつつおのみこと)以下三人の神さまを、この国の氏神(うじがみ)さまにお祀(まつ)りになった後、ご威風(いふう)堂々と新羅(しらぎ)をおひき上げになりました。

       二

 おん母上の皇后はその前に、まだご征伐のお途中でお腹(なか)のお子さまがお生まれになろうとしました。それで、どうぞ今しばらくの間はご出産にならないようにとお祈りになって、そのお呪(まじな)いに、お下着のお腰(こし)のところへ石ころをおつるしになり、それでもって当分お腹をしずめておおきになりました。
 するとお子さまは、ちゃんと筑紫(つくし)へお凱旋(がいせん)になってからご無事にお生まれになりました。それはかねて神さまのお告げのとおりりっぱな男のお子さまでいらっしゃいました。この小さな天皇には、ご誕生(たんじょう)のときに、ちょうど、鞆(とも)といって弓(ゆみ)を射(い)るときに左の臂(ひじ)につける革具(かわぐ)のとおりの形をしたお盛肉(もりにく)が、お腕(うで)に盛りあがっておりました。皇后はこれをお名まえにお取りになって、大鞆命(おおとものみこと)とお名づけになりました。すなわち後にお呼(よ)び申す応神天皇(おうじんてんのう)さまです。その鞆(とも)のお肉のことをうけたまわったものたちは、天皇がお母上のお腹(なか)のうちから、すでに天下をお治めになっていたということは、これでもわかると言って、みんな畏(おそ)れ入りました。
 また、皇后はご出征のまえに、肥前(ひぜん)の玉島(たましま)というところにおいでになって、そこの川のほとりでお食事をなさったことがありました。
 それがちょうど四月で、あゆが取れるころでした。皇后はためしにその川中の石の上にお下りになって、お下袴(したばかま)の糸をぬいて釣糸(つりいと)になされ、お食事のおあとのご飯(はん)粒(つぶ)を餌(えさ)にして、ただでも決して釣(つ)ることができないあゆをちゃんとおつり上げになりました。
 ですからこの地方では、その後いつも四月のはじめになりますと、女たちがみんな下袴(したばかま)の糸をぬいて、飯粒(めしつぶ)を餌にしてあゆを釣り、ながく皇后のお徳をかたりつたえる印(しるし)にしておりました。

       三

 おん母上の皇后は、ついで熊襲(くまそ)をも難なくご平定になって、いよいよ大和(やまと)におかえりになることになりました。
 しかし、大和には、香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)とおっしゃる、お二人のお腹(はら)ちがいの皇子などがおいでになるので、うっかりしていると、天皇がお小さいのにつけ入ってどんな悪い事をお企(たくら)みになるかわからないとお気づかいになりました。
 それで皇后は、ちゃんとお策略(さくりゃく)をお立てになって、喪船(もふね)を一そうお仕立てになり、お小さな天皇をその中へお乗せになりました。
 そして天皇はもはやとくにお亡(な)くなりになったとお言いふらしになり、そのお空骸(なきがら)を奉じておかえりになるていにして、筑紫(つくし)をお立ちになりました。
 こちらは香坂(かごさか)、忍熊(おしくま)の二皇子は、それをお聞きになりますと、案のとおり、ご自分たちがあとを取ろうとおかかりになりました。それでまず第一番に皇后の軍勢を待ちうけて討(う)ち亡(ほろ)ぼそうとおぼしめして、にわかに兵を集めて、摂津(せっつ)の斗賀野(とがの)というところまでご進軍になりました。
 皇子たちは、その野原でためしに猟(りょう)をして、その獲物(えもの)によって、さいさきを占(うらな)ってみようとなさいました。
 香坂皇子(かごさかのおうじ)は、くぬぎの木に上って、その猟の有様(ありさま)を見ていらっしゃいました。すると、ふいにそこへ、手傷(てきず)を負(お)った大きないのししがあらわれて、そのくぬぎの木の根もとをどんどん掘(ほ)りにかかりました。そしてまもなくすとんと掘り倒(たお)したと思いますと、いきなり香坂皇子(かごさかのおうじ)に飛びかかって、がつがつ皇子を食べてしまいました。
 しかし、弟さまの忍熊皇子(おしくまのおうじ)は、そんな悪い前兆(ぜんちょう)にもとんじゃくなしに、そのまま軍勢をおひきつれになり、海ばたまで押しかけて、待ちかまえていらっしゃいました。
 そのうちに、皇后がたのお船が見えて来ました。忍熊王(おしくまのみこ)は、その中の喪船(もふね)には、兵たいたちが乗っていないはずなので、まずまっ先にその船を目がけてお討(う)ちかからせになりました。
 ところがその船の中には、前もってちゃんとよりすぐりの兵が忍(しの)ばせてありました。その兵士たちは船がつくなり、ふいに、うわッと飛び下りて、たちまち、はげしい戦(いくさ)をはじめました。
 そのとき忍熊王(おしくまのみこ)の軍勢(ぐんぜい)には、伊佐比宿禰(いさひのすくね)というものが総大将(そうたいしょう)になっていました。それに対して皇后方からは建振熊命(たけふるくまのみこと)という強い人が将軍となって攻(せ)めかけました。
 建振熊命(たけふるくまのみこと)は見る見るうちに宿禰(すくね)の軍勢を負かし崩(くず)して、ぐんぐんと、どこまでも追っかけて行きました。すると敵は山城(やましろ)でふみ止(とど)まって、頑固(がんこ)に防(ふせ)ぎ戦(いくさ)をしだしました。
 建振熊命(たけふるくまのみこと)は、何をと言いながら、死にもの狂(ぐる)いで攻めかけ攻めかけしました。しかし、どんなにあせっても敵はそれなりひと足も退(ひ)こうとはしませんでした。
 建振熊命(たけふるくまのみこと)は、しまいには、これでは果(は)てしがないと思い直して、急に味方の兵をひきまとめるといっしょに、向こうの軍勢に向かって、
「実は皇后が急におなくなりになったので、われわれはもう戦(いくさ)をする気はない」と申し入れながら、その目の前で全軍(ぜんぐん)の兵士(へいし)たちに弓(ゆみ)の弦(つる)をことごとく断(た)ち切(き)らせて、さもほんとうのように、伊佐比宿禰(いさひのすくね)に降参(こうさん)をしました。
 すると伊佐比宿禰(いさひのすくね)はそれですっかり気をゆるして、自分のほうもひとまずみんなに弓の弦(つる)をはずさせ、いっさいの戦(いくさ)道具をも片(かた)づけさせてしまいました。
 建振熊命(たけふるくまのみこと)はそれを見すまして、
「それッ」と合い図をしますと、部下の兵たちは、髪(かみ)の中に隠(かく)していた、かけがえの弦を取り出して瞬(またた)くまに弓を張って、
「うわッ」と、哄(とき)を上げて攻めかかりました。
 敵はまんまと不意を討(う)たれて、総くずれになってにげ出しました。建振熊命(たけふるくまのみこと)は勝に乗じてどんどんと追いまくって行きました。
 すると敵勢(てきぜい)は近江(おうみ)の逢坂(おうさか)というところまでにげのびて、そこでいったん踏(ふ)み止(とど)まって戦いましたが、また攻めくずされて、ちりぢりににげて行きました。
 建振熊命(たけふるくまのみこと)は、とうとうそれを同じ近江(おうみ)の篠波(ささなみ)というところで追いつめて、敵の兵たいという兵たいを一人ものこさず斬(き)り殺してしまいました。
 そのとき忍熊王(おしくまのみこ)と伊佐比宿禰(いさひのすくね)とは、危(あやう)く船に飛び乗って、湖水の中へにげ出しました。
 しかしぐずぐずしていると今につかまってしまうのが目に見えていましたので、皇子(おうじ)は宿禰(すくね)に向かって、

  さあ、おまえ、
  振熊(ふるくま)に殺されるよりも、
  鳰鳥(かいつぶり)のように、
  この湖水にもぐってしまおうよ。

とお歌いになり、二人でざんぶと飛び込(こ)んで、それなり溺(おぼ)れ死にに死んでおしまいになりました。

       四

 皇后はそれでいよいよめでたく大和(やまと)へおかえりになりました。
 しかし武内宿禰(たけのうちのすくね)だけは、お小さな天皇をおつれ申して、穢(けが)れ払(はら)いの禊(みそぎ)ということをしに、近江(おうみ)や若狹(わかさ)をまわって、越前(えちぜん)の鹿角(つぬが)というところに仮のお宮を作り、しばらくの間そこに滞在(たいざい)しておりました。
 するとその土地に祀(まつ)られておいでになる伊奢沙和気大神(いささわけのおおかみ)という神さまが、あるばん宿禰(すくね)の夢に現われていらしって、
「わしの名を、お小さい天皇のお名と取りかえてくれぬか」とおっしゃいました。
 宿禰(すくね)は、
「それはもったいないおおせでございます。どうもありがとう存じます」とお答え申しました。大神(おおかみ)は、「それでは、明日(あす)お供をして海ばたへ来るがよい。名を取りかえてくださったお礼を上げようから」とおっしゃいました。
 それであくる朝早く、天皇をおつれ申して海岸へ出て見ますと、みんな鼻の先に傷(きず)をうけた、それはそれはたいそうな海豚(いるか)が、浜じゅうへいっぱいうち上げられておりました。
 宿禰(すくね)はさっそくお社(やしろ)へお使いをたてて、
「食べ料のお魚(さかな)をどっさりありがとう存じます」とお礼を申しあげました。
 天皇はそれから大和(やまと)へおかえりになりました。
 お待ち受けになっていたお母上の皇后は、それはそれは大喜びをなすって、さっそくご用意のお酒を出させて、お祝いのおさかもりをなさいました。
 皇后は、

  このお酒は、私(わたし)がかもした酒ではない。
  薬の神の少名彦名神(すくなひこなのかみ)があなたのご運をお祝いして、
  喜びさわいでつくってくだされたお酒だから、
  のこさず、すっかりめし上がってください。
  さあさあどうぞ。

という意味をお歌いになりました。
 宿禰(すくね)は天皇に代わって、

  このお酒をつくった人は、
  鼓(つづみ)を臼(うす)の上に立てて、
  歌いながら、舞(ま)いながら、
  喜び喜びつくったせいでございますか、
  それはそれはたいそうよいお酒で、
  いただきますとひとりでに歌いたく、
  舞いたくなってまいります。
  ああ楽しや。

とお答えの歌を歌いながら、ともどもお喜び申しました。
 後の世の人は、この母上の皇后の、いろんな雄々(おお)しい大きなお手柄(てがら)をおほめ申しあげて、お名まえを特に神功皇后(じんぐうこうごう)とおよび申しております。

赤い玉

       一

 神功皇后(じんぐうこうごう)のお母方(ははかた)のご先祖については、こういうお話が伝わっています。
 それは、この時分からも、もっともっと昔(むかし)、新羅(しらぎ)の国の阿具沼(あぐぬま)という沼(ぬま)のほとりで、ある日一人の女が昼寝(ひるね)をしておりました。すると、ふしぎなことには、日の光がにじのようになって、さっと、その女のお腹(なか)へ射(さ)しました。
 それをちょうど通りかかった一人の農夫が見て、へんなこともあるものだと思いながら、それからは、いつもその女のそぶりに目をつけていますと、女はまもなくお腹が大きくなって、一つの赤い玉を生み落としました。農夫はその玉を女からもらって、物につつんで、いつも腰(こし)につけていました。
 この農夫は谷間(たにま)に田を作っておりました。ある日農夫は、その田で働いている人たちのたべ物を、うしに負わせて運んで行きますと、その谷間で、天日矛(あめのひほこ)という、この国の王子に出会いました。
 王子は農夫がへんなところへうしを引いて行くのを見て、
「これこれ、そちはどうしてそのうしへたべ物などを乗せてこんなところへはいって来たのだ。きっと人に隠(かく)れてそのうしも殺して食おうというのであろう」と言いながら、いきなり農夫をつかまえてろうやへつれて行こうとしました。農夫は、
「いえいえ私はけっしてこのうしを殺そうなどとするのではございません。ただこうして百姓(ひゃくしょう)たちのたべ物を運んでまいりますだけでございます」と、ほんとうのままを話しました。それでも王子は、
「いやいや、うそだ」と言って、なかなかゆるしてくれないので、農夫は腰(こし)につけている例の赤い玉を出して、それを王子にあげて、やっとのことで放してもらいました。
 王子はその玉をおうちへ持って帰って、床(とこ)の間に置いておきました。すると赤い玉が、ふいに一人の美しい娘になりました。王子はその娘を自分のお嫁(よめ)にもらいました。
 そのお嫁は、いつもいろいろの珍(めずら)しいお料理をこしらえて、王子に食べさせていましたが、王子はだんだんにわがままを出して、しまいにはお嫁をひどくののしりとばすようになりました。
 するとお嫁のほうではとうとうたまりかねて、
「私(わたし)はもうこれぎり親たちの国へ帰ってしまいます。もともと私は、あなたのような方のお嫁になってばかにされるような女ではありません」と言いながら、そのうちを抜(ぬ)け出して、小船に乗って、はるばると摂津(せっつ)の難波(なにわ)の津(つ)まで逃げて来ました。この女の人は後に阿加流媛(あかるひめ)という神さまとしてその土地にまつられました。
 王子の天日矛(あめのひほこ)は、そのお嫁のあとを追っかけて、とうとう難波(なにわ)の海まで出て来ましたが、そこの海の神がさえぎって、どうしても入れてくれないものですから、しかたなしにひきかえして、但馬(たじま)の方へまわって、そこへ上陸しました。そして、しばらくそこに暮らしているうちに、後にはとうとうその土地の人をお嫁にもらって、そのままそこへいつくことにしました。
 この天日矛(あめのひほこ)の七代目の孫にあたる高額媛(たかぬひめ)という人がお生み申したのが、すなわち神功皇后(じんぐうこうごう)のお母上でいらっしゃいました。例の垂仁天皇(すいにんてんのう)のお言いつけによって、常世国(とこよのくに)へたちばなの実を取りに行ったあの多遅摩毛理(たじまもり)は、日矛(ひほこ)の五代目の孫の一人でした。
 日矛(ひほこ)はこちらへ渡(わた)って来るときに、りっぱな玉や鏡なぞの宝物(ほうもつ)を八品(やしな)持って来ました。その宝物は、伊豆志(いずし)の大神(おおかみ)という名まえの神さまにしてまつられることになりました。

       二

 この宝物をまつった神さまに、伊豆志乙女(いずしおとめ)という女神(めがみ)が生まれました。この女神を、いろんな神々たちがお嫁にもらおうとなさいましたが、女神はいやがって、だれのところへも行こうとはしませんでした。
 その神たちの中に、秋山の下冰男(したびおとこ)という神がいました。その神が弟の春山(はるやま)の霞男(かすみおとこ)という神に向かって、
「私(わたし)はあの女神をお嫁にしようと思っても、どうしても来てくれない。どうだ、おまえならもらってみせるか」と聞きました。
「私(わたし)ならわけなくもらって来ます」と弟の神は言いました。
「ふふん、きっとか。よし、それではおまえがりっぱにあの女神(めがみ)をもらって見せたら、そのお祝いに、わしの着物をやろう。それからわしの身の丈(たけ)ほどの大がめに酒を盛(も)って、海山の珍(めずら)しいごちそうをそろえて呼(よ)んでやろう、しかし、もしもらいそこねたら、あんな広言(こうげん)を吐(は)いた罰(ばつ)に、今わしがしてやろうと言ったとおりをわしにしてくれるか」と言いました。
 弟の神は、おお、よろしい、それではかけをしようと誓(ちか)いました。そして、おうちへ帰って、そのことをおかあさまにお話しますと、おかあさまの女神は、一晩(ひとばん)のうちに、ふじのつるで、着物からはかまから、くつからくつ下まで織ったり、こしらえたりした上に、やはり同じふじのつるで弓(ゆみ)をこしらえてくれました。
 弟の神はその着物やくつをすっかり身につけて、その弓矢(ゆみや)を持って、例の女神のおうちへ出かけて行きました。すると、たちまち、その着物やくつや弓矢にまで、残らず、一度にぱっとふじの花が咲(さ)きそろいました。
 弟の神はその弓矢を便所のところへかけておきますと、女神はそれを見つけて、ふしぎに思いながら取りはずして持って行きました。弟の神は、すかさず、そのあとについて女神のへやにはいって、どうぞ私(わたし)のお嫁になってくださいと言いました。そして、とうとうその女神をもらってしまいました。
 二人の間には一人子供までできました。
 弟の神は、それで兄の神に向かって、
「私(わたし)はあのとおり、ちゃんと女神(めがみ)をもらいました。だから約束のとおり、あなたの着物をください。それからごちそうもどっさりしてください」と言いました。すると兄の神は、弟の神のことをたいそうねたんで、てんで着物もやらないし、ごちそうもしませんでした。
 弟の神は、そのことを母上の女神に言いつけました。すると女神は、兄の神を呼(よ)んで、
「おまえはなぜそんなに人をだますのです。この世の中に住んでいる間は、すべてりっぱな神々のなさるとおりをしなければいけません。おまえのように、いやしい人間のまねをする者はそのままにしてはおかれない」と、ひどく怒(おこ)りつけました。それから、そこいらの川の中の島にはえているたけを伐(き)って来て、それで目の荒(あら)いあらかごを作り、その中へ、川の石に塩をふりかけて、それをたけの葉につつんだのを入れて、
「この兄の神のようなうそつきは、このたけの葉がしおれるようにしおれてしまえ。この塩がひるようにひからびてしまえ。そして、この石が沈(しず)むように沈み倒(たお)れてしまえ」とのろって、そのかごをかまどの上に置かせました。
 すると兄の神は、そのたたりで、まる八年の間、ひからびしおれ、病(や)みつかれて、それはそれは苦しい目を見ました。それでとうとう弱り果(は)てて泣(な)く泣く母上の女神におわびをしました。
 女神はそのときやっとのろいをといてやりました。そのおかげで兄の神は、またもとのとおりのじょうぶなからだにかえりました。

宇治(うじ)の渡(わた)し

       一

 お小さな応仁天皇(おうじんてんのう)も、そのうちにすっかりご成人になって、大和(やまと)の明(あきら)の宮で、ご自身に政(まつりごと)をお聞きになりました。
 あるとき、天皇は近江(おうみ)へご巡幸(じゅんこう)になりました。そのお途中で、山城(やましろ)の宇治野(うじの)にお立ちになって、葛野(かづの)の方をご覧(らん)になりますと、そちらには家々も多く見え、よい土地もどっさりあるのがお目にとまりました。
 天皇はそのながめを歌にお歌いになりながら、まもなく木幡(こばた)というところまでおいでになりますと、その村のお道筋で、それはそれは美しい一人の少女にお出会いになりました。
 天皇は、
「そちはだれの娘(むすめ)か」とおたずねになりました。
「私は比布礼能意富美(ひふれのおおみ)と申します者の子で、宮主矢河枝媛(みやぬしやかわえひめ)と申します者でございます」と、その娘はお答え申しました。
 すると、天皇は
「ではあす帰りにそちのうちへ行くぞ」とおっしゃいました。
 媛(ひめ)はおうちへ帰って、すべてのことをくわしくおとうさまに話しました。
 おとうさまの意富美(おおみ)は、
「それではそのお方は天子さまだ。これはこれはもったいない。そちも十分気をつけて失礼のないようによくおもてなし申しあげよ」と言いきかせました。そしてさっそくうちじゅうを、すみずみまですっかり飾(かざ)りつけて、ちゃんとお待ち申しておりました。
 天皇はおおせのとおり、あくる日お立ちよりになりました。意富美(おおみ)らは怖(おそ)れかしこみながら、ごちそうを運んでおもてなしをしました。
 天皇は矢河枝媛(やかわえひめ)が奉(たてまつ)るさかずきをお取りになって、

  この料理のかには、
  越前(えちぜん)敦賀(つるが)のかにが、
  横ざまにはって、
  近江(おうみ)を越(こ)えて来たものか。
  わしもその近江(おうみ)から来て、
  木幡(こばた)の村でおまえに会った。
  おまえの後姿(うしろすがた)は、
  盾(たて)のようにすらりとしている。
  おまえのきれいな歯並(はなみ)は、
  しいの実(み)のように白く光っている。
  顔には九邇坂(わにざか)の土を、
  そこの土は、
  上土(うわつち)は赤く、
  底土(そこつち)は赤黒いけれど、
  中土(なかつち)の、
  ちょうど色のよいのを
  眉墨(まゆずみ)にして、
  色濃(こ)く眉(まゆ)をかいている。
  おまえはほんとうにきれいな子だ。

とこういう意味のお歌を歌っておほめになりました。
 天皇は、この美しい矢河枝媛(やかわえひめ)を、後にお妃(きさき)にお召(め)しになりました。このお妃から、宇治若郎子(うじのわかいらつこ)とおっしゃる皇子がお生まれになりました。
 天皇には、すべてで、皇子が十一人、皇女が十五人おありになりました。
 その中で、天皇は、矢河枝媛(やかわえひめ)のお生み申した若郎子皇子(わかいらつこおうじ)を、いちばんかわいくおぼしめしていらっしゃいました。
 あるとき天皇は、その若郎子皇子(わかいらつこおうじ)とはそれぞれお腹(はら)ちがいのお兄上でいらっしゃる大山守命(おおやまもりのみこと)と大雀命(おおささぎのみこと)のお二人をお召(め)しになって、
「おまえたちは、子供は兄と弟とどちらがかわいいものと思うか」とお聞きになりました。
 大山守命(おおやまもりのみこと)は、
「それはだれでも兄のほうをかわいくおもいます」と、ぞうさもなくお答えになりました。
 しかしお年下の大雀命(おおささぎのみこと)は、お父上がこんなお問いをおかけになるのは、わたしたち二人をおいて、弟の若郎子(わかいらつこ)にお位をお譲(ゆず)りになりたいというおぼしめしに相違(そうい)ないと、ちゃんと、天皇のお心持をおさとりになりました。それでそのおぼしめしに添(そ)うように、
「私は弟のほうがかわいいだろうと思います。兄のほうは、もはや成人しておりますので、何の心配もございませんが、弟となりますと、まだ子供でございますから、かわいそうでございます」とお答えになりました。
 天皇は、
「それは雀(ささぎ)の言うとおりである。わしもそう思っている」とおおせになり、なお改めて、
「ではこれから、そちら二人と若郎子(わかいらつこ)と三人のうち、大山守(おおやまもり)は海と山とのことを司(つかさど)れ、雀(ささぎ)はわしを助けて、そのほかのすべての政(まつりごと)をとり行なえよ。それから若郎子(わかいらつこ)には、後にわしのあとを継(つ)いで天皇の位につかせることにしよう」と、こうおっしゃって、ちゃんと、お三人のお役わりをお定めになりました。
 大山守命(おおやまもりのみこと)は、後に、このお言いつけにおそむきになって、若郎子皇子(わかいらつこおうじ)を殺そうとさえなさいましたが、ひとり大雀命(おおささぎのみこと)だけは、しまいまで天皇のご命令のとおりにおつくしになりました。

       二

 天皇は日向(ひゅうが)の諸県君(もろあがたぎみ)という者の子に、髪長媛(かみながひめ)という、たいそうきりょうのよい娘(むすめ)があるとお聞きになりまして、それを御殿(ごてん)へお召(め)し使いになるつもりで、はるばるとお召しのぼせになりました。
 皇子(おうじ)の大雀命(おおささぎのみこと)は、その髪長媛(かみながひめ)が船で難波(なにわ)の津(つ)へ着いたところをご覧(らん)になり、その美しいのに感心しておしまいになりました。それで武内宿禰(たけのうちのすくね)に向かって、
「こんど日向(ひゅうが)からお召しよせになったあの髪長媛(かみながひめ)を、お父上にお願いして、私(わたし)のお嫁(よめ)にもらってくれないか」とお頼(たの)みになりました。
 宿禰(すくね)はかしこまって、すぐにそのことを天皇に申しあげました。
 すると天皇は、まもなくお酒盛(さかもり)のお席へ大雀命(おおささぎのみこと)をお召しになりました。そして、美しい髪長媛(かみながひめ)にお酒をつぐかしわの葉をお持たせになって、そのまま命(みこと)におくだしになりました。
 天皇はそれといっしょに、

  わしが、子どもたちをつれて、
  のびるをつみに通り通りする、
  あの道ばたのたちばなの木は、
  上の枝々(えだえだ)は鳥に荒(あら)され、
  下の枝々は人にむしられて、
  中の枝にばかり花がさいている。
  そのひそかな花の中に、
  小さくかくれている実のような、
  しとやかなこの乙女(おとめ)なら、
  ちょうどおまえに似(に)あっている。
  さあつれて行け。

という意味をお歌に歌ってお祝いになりました。
 皇子(おうじ)はとうから評判にも聞いていた、このきれいな人を、天皇のお許しでお妃(きさき)におもらいになったお嬉(うれ)しさを、同じく歌にお歌いになって、大喜びで御前(ごぜん)をおさがりになりました。

       三

 この天皇の御代(みよ)には、新羅(しらぎ)の国の人がどっさり渡(わた)って来ました。武内宿禰(たけのうちのすくね)はその人々を使って、方々に田へ水を取る池などを掘(ほ)りました。
 それから百済(くだら)の国の王からは、おうま一頭(とう)、めうま一頭に阿知吉師(あちきし)という者をつけて献上(けんじょう)し、また刀や大きな鏡なぞをも献(けん)じました。
 天皇は百済(くだら)の王に向かって、おまえのところに賢(かしこ)い人があるならばよこすようにとおおせになりました。王はそれでさっそく和邇吉師(わにきし)という学者をよこしてまいりました。
 そのとき和邇(わに)は、十巻(かん)の論語(ろんご)という本と、千字文(せんじもん)という一巻の本とを持って来て献上しました。また、いろいろの職工や、かじ屋の卓素(たくそ)という者や、機織(はたおり)の西素(さいそ)という者や、そのほか、酒を造ることのじょうずな仁番(にほ)という者もいっしょに渡って来ました。
 天皇はその仁番(にほ)、またの名、須須許理(すずこり)のこしらえたお酒をめしあがりました。そして、
「ああ酔(よ)った、須須許理(すずこり)がかもした酒に心持よく酔った。おもしろく酔った」
という意味の歌をお歌いになりながら、お宮の外へおでましになって、河内(かわち)の方へ行く道のまん中にあった大きな石を、おつえをあげてお打ちになりますと、その石がびっくりして飛びのきました。

       四

 天皇(てんのう)は後にとうとうおん年百三十でおかくれになりました。
 それで大雀命(おおささぎのみこと)は、かねておおせつかっていらっしゃるとおり、若郎子(わかいらつこ)をお位におつけしようとなさいました。
 ところがお兄上の大山守命(おおやまもりのみこと)は、天皇のおおせ残しにそむいて、若郎子(わかいらつこ)を殺して自分で天下を取ろうとおかかりになり、ひそかに兵をお集めになりだしました。
 大雀命(おおささぎのみこと)は、そのことを早くもお聞きつけになったので、すぐに使いを出して、若郎子(わかいらつこ)にお知らせになりました。
 若郎子(わかいらつこ)はそれを聞くとびっくりなすって、大急ぎでいろいろの手はずをなさいました。
 皇子(おうじ)はまず第一に、宇治川(うじがわ)のほとりへ、こっそりと兵をしのばせておおきになりました。それから、宇治(うじ)の山の上に絹の幕を張り、とばりを立てまわして、一人のご家来(けらい)を、りっぱな皇子のようにしたてて、その姿(すがた)が山の下からよく見えるように、とばりの一方をあけて、その中のいすにかけさせておおきになりました。そして、そこへいろいろの家来たちを、うやうやしく出たりはいったりおさせになりました。
 ですから、遠くから見ると、だれの目にも、そこには若郎子(わかいらつこ)ご自身がお出むきになっているように見えました。
 皇子はそれといっしょに、大山守命(おおやまもりのみこと)が下の川をおわたりになるときに、うまくお乗せするように、船をわざとたった一そうおそなえつけになり、その船の中のすのこには、さなかずらというつる草をついてべとべとの汁(しる)にしたものをいちめんに塗りつけて、人が足を踏(ふ)みこむとたちまち滑(すべ)りころぶようなしかけをさせてお置きになりました。
 そしてご自分自身は、粗末(そまつ)なぬのの着物をめし、いやしい船頭のようにじょうずにお姿(すがた)をお変えになって、かじを握(にぎ)って、その船の中に待ち受けておいでになりました。
 すると大山守命(おおやまもりのみこと)は、おひきつれになった兵士を、こっそりそこいらへ隠(かく)れさせておおきになり、ご自分は、よろいの上へ、さりげなく、ただのお召物(めしもの)をめして、お一人で川の岸へ出ておいでになりました。
 するとそちらの山の上にりっぱな絹のとばりなどが張りつらねてあるのがすぐにお目にとまりました。
 命(みこと)はそのとばりの中にいかめしくいすにかけている人を、若郎子(わかいらつこ)だと思いこんでおしまいになりました。それでさっそくその船にお乗りになって、向こうへおわたりになりかけました。
 命は船頭に向かって、
「おい、あすこの山に大きなておいじしがいるという話だが、ひとつそのししをとりたいものだね。どうだ、おまえとってくれぬか」とお言いになりました。
 船頭の皇子は、
「いえ、それはとてもだめでございます」とお答えになりました。
「なぜだめだ」
「あのししは、これまでいろんな人がとろうとしましたが、どうしてもとれません。ですから、いくらあなたが欲(ほ)しいとおぼしめしても、とてもだめでございます」
 こうお答えになるうちに、船はもはやちょうど川のまん中あたりへ来ました。すると皇子(おうじ)はいきなり、そこでどしんと船を傾(かたむ)けて、命(みこと)をざんぶと川の中へ落としこんでおしまいになりました。
 命はまもなく水の上へ浮き出て、顔だけ出して流され流されなさりながら、

  ああわしは押(お)し流される。
  だれかすばやく船を出して、
  助けに来てくれよ。

という意味をお歌いになりました。
 するとそれといっしょに、さきに若郎子(わかいらつこ)が隠(かく)しておおきになった兵士たちが、わあッと一度に、そちこちからかけだして来て、命を岸へ取りつかせないように、みんなで矢(や)をつがえ構(かま)えて、追い流し追い流ししました。
 ですから命はどうすることもおできにならないで、そのまま訶和羅前(かわらのさき)というところまで流れていらしって、とうとうそこでおぼれ死にに死んでおしまいになりました。
 若郎子(わかいらつこ)の兵士たちは、ぶくぶくと沈(しず)んだ命(みこと)のお死がいを、かぎで探(さぐ)りあててひきあげました。
 若郎子(わかいらつこ)はそれをご覧になりながら、
「わしは伏(ふ)せ勢(ぜい)の兵たちに、もう矢を射(い)放(はな)させようか、もう射殺させようかと、いくども思い思いしたけれど、一つにはお父上のことを思いかえし、つぎには妹たちのことを思い出して、同じお一人のお父上の子、同じあの妹たちの兄でありながら、それをむざむざ殺すのはいたわしいので、とうとう矢一本射放すこともできないでしまった」
という意味をお歌いになり、そのまま大和(やまと)へおひきあげになりました。
 そしてお兄上のお死がいを奈良(なら)の山にお葬(ほうむ)りになりました。

       五

 大雀命(おおささぎのみこと)は、それでいよいよお父上のおおせのとおりに、若郎子皇子(わかいらつこおうじ)にお位におつきになることをおすすめになりました。
 しかし皇子は、お父上のおあとはおあにいさまがお継(つ)ぎになるのがほんとうです。おあにいさまをさしおいてお位にのぼるなぞということは、私にはとてもできません。どうぞお許しくださいとおっしゃって、どこまでもお兄上の命(みこと)のお顔をお立てになろうとなさいました。
 しかし命は命で、いかなることがあっても、お父上のお言いつけにそむくことはできないとお言いとおしになり、長い間お二人でお互(たが)いに譲(ゆず)り合っていらっしゃいました。
 そのときある海人(あま)が、天皇へ献上(けんじょう)する物を持ってのぼって来ました。
 その海人が、大雀命(おおささぎのみこと)のところへ伺(うかが)いますと、命(みこと)は、それは若郎子皇子(わかいらつこおうじ)に奉(たてまつ)れ、あの方が天皇でいらっしゃるとおっしゃって、お受けつけになりませんし、それではと言って皇子の方へうかがえば、それはお兄上の方へ献(けん)ぜよとおおせになりました。
 海人(あま)はあっちへ行ったり、こっちへ来たり、それが二度や三度ではなかったので、とうとう行ったり来たりにくたびれて、しまいにはおんおん泣(な)きだしてしまいました。そのために、「海人ではないが、自分のものをもてあまして泣く」ということわざさえできました。
 お二人はそれほどまでになすって、ごめいめいにお義理をつくしていらっしゃいましたが、そのうちに、若郎子皇子(わかいらつこおうじ)がふいにお若死(わかじ)にをなすったので、大雀命(おおささぎのみこと)もやむをえず、ついにお位におつきになりました。後の代から仁徳天皇(にんとくてんのう)とお呼(よ)び申すのがすなわちこの天皇でいらっしゃいます。

難波(なにわ)のお宮

       一

 仁徳天皇(にんとくてんのう)はお位におのぼりになりますと、難波(なにわ)の高津(たかつ)の宮(みや)を皇居にお定めになり、葛城(かつらぎ)の曽都彦(そつひこ)という人の娘(むすめ)の岩野媛(いわのひめ)という方を改めて皇后にお立てになりました。
 天皇がまだ皇子(おうじ)大雀命(おおささぎのみこと)でいらっしゃるとき、ある年摂津(せっつ)の日女島(ひめじま)という島へおいでになって、そこでお酒盛(さかもり)をなすったことがありました。すると、たまたまその島にがんが卵(たまご)をうんでおりました。皇子は、日本でがんが卵をうんだということは、これまで一度もお聞きになったことがないものですから、たいそうふしぎにおぼしめして、あとで武内宿禰(たけのうちのすくね)を召(め)して、
「そちは世の中にまれな長命の人であるが、いったい日本でがんが卵をうんだという話を聞いたことがあるか」とこういう意味を歌に歌っておたずねになりました。
 宿禰(すくね)は、
「なるほど、それはごもっとものおたずねでございます。私もこれほど長生きをいたしておりますが、今日まで、かつてそういうためしを聞きましたことがございません」と、同じように歌に歌って、こうお答え申しあげた後、おそばにあったお琴(こと)をお借り申して、
「これはきっと、あなたさまがついに天下をお治めになるというめでたい先ぶれに相違(そうい)ございません」と、こういう意味の歌をお琴(こと)をひいて歌いました。皇子(おうじ)はそのとおり、十五人もいらしったごきょうだいの中から、しまいにお父上の天皇のおあとをお継(つ)ぎになりました。
 ご即位(そくい)になった後、天皇は、あるとき、高い山におのぼりになって四方の村々をお見しらべになりました。そしてうちしおれておおせになりました。
「見わたすところ、どの村々もただひっそりして、家々からちっとも煙があがっていない。これではいたるところ、人民たちが炊(た)いて食べる物がないほど貧窮(ひんきゅう)しているらしい。どうかこれから三年の間は、しもじもから、いっさい租税(そぜい)をとるな。またすべての働きに使うのを許してやれ」とおおせになりました。
 それでそのまる三年の間というものは、宮中(きゅうちゅう)へはどこからも何一つお納物(おさめもの)をしないので、天皇もそれはそれはひどいご不自由をなさいました。たとえばお宮が破れこわれても、お手もとにはそれをおつくろいになるご費用もおありになりませんでした。しかし天皇はそれでも寸分(すんぶん)もおいといにならないで、雨がひどく降るたんびには、おへやの中へおけをひき入れて、ざあざあと漏(も)り入る雨(あま)もれをお受けになり、ご自分自身はしずくのおちないところをお見つけになって、御座所(ござしょ)を移し移ししておしのぎになりました。
 それから三年の後に、再び山にのぼってご覧(らん)になりますと、こんどはせんとはすっかりうって変わって、お目の及(およ)ぶ限(かぎ)り、どの村々にも煙がいっぱい、勢いよく立ちのぼっておりました。天皇はそれをご覧になって、みなの者も、もうすっかりゆたかになったとおっしゃって、ようやくご安心なさいました。そして、そこではじめて租税(そぜい)や夫役(ぶやく)をおおせつけになりました。
 すると人民は、もう十分にたくわえもできていましたので、お納物(おさめもの)をするにも、使い働きにあがるのにも、それこそ楽々とご用を承(うけたまわ)ることができました。
 天皇はしもじもに対して、これほどまでに思いやりの深い方でいらっしゃいました。ですから後の代(よ)からも永(なが)くお慕(した)い申しあげてそのご一代(いちだい)を聖帝(せいてい)の御代(みよ)とお呼(よ)び申しております。

       二

 この天皇の皇后でいらしった岩野媛(いわのひめ)は、それはそれは、たいへんにごしっとのはげしいお方で、ちょっとのことにも、じきに足ずりをして、火がついたようにお騒ぎたてになりました。それですから、宮中(きゅうちゅう)に召(め)し使われている婦人たちは、天皇のおへやなぞへは、うっかりはいることもできませんでした。
 あるとき天皇はそのころ吉備(きび)といっていた、今の備前(びぜん)、備中(びっちゅう)地方(ちほう)の、黒崎(くろさき)というところに、海部直(あまのあたえ)という者の子で、黒媛(くろひめ)というたいそうきりょうのよい娘(むすめ)がいるとお聞きになり、すぐに召(め)しのぼせて宮中でお召し使いになりました。
 ところが皇后がことごとにつけて、あまりにねたみおいじめになるものですから、黒媛(くろひめ)はたまりかねてとうとうお宮を逃(に)げ出しておうちへ帰ってしまいました。
 そのとき天皇は、高殿(たかどの)にお上りになって、その黒媛(くろひめ)の乗っている船が難波(なにわ)の港を出て行くのをご覧(らん)になりながら、

  かわいそうに、あそこに黒媛(くろひめ)がかえって行く。
  あの沖(おき)に、たくさんの小船(こぶね)にまじって、あの女の船が出て行くよ。

とこういう意味のお歌をお歌いになりました。
 すると皇后は、そのことをお聞きになって、ひどく怒(おこ)っておしまいになり、すぐに人をやって、黒媛(くろひめ)をむりやりに船からひきおろさせて、はるかな吉備(きび)の国まで、わざと歩いておかえしになりました。
 天皇はその後も、黒媛(くろひめ)のことをしじゅうあわれに思い思いお暮らしになっていました。そんなわけで、天皇はついにある日、淡路島(あわじしま)を見に行くとおっしゃって皇后のお手前をおつくろいになり、いったんその島へいらしったうえ、そこから、黒媛(くろひめ)をたずねて、こっそり吉備(きび)まで、おくだりになりました。
 黒媛(くろひめ)は天皇を山方(やまかた)というところへおつれ申しました。そして、召(め)し上がり物にあつものをこしらえてさしあげようと思いまして、あおなをつみに出ました。すると天皇もいっしょに出てご覧になり、たいそうお興(きょう)深くおぼしめして、そのお心持をお歌にお歌いになりました。
 天皇がいよいよお立ちになるときには、黒媛(くろひめ)もお別れの歌を歌いました。媛(ひめ)は天皇がわざわざそんなになすって、隠(かく)れ隠れてまでおたずねくだすったもったいなさを、一生お忘(わす)れ申すことができませんでした。

       三

 皇后はその後、ある宴会(えんかい)をおもよおしになるについて、そのお酒をおつぎになる御綱柏(みつながしわ)というかしわの葉をとりに、わざわざ紀伊国(きいのくに)までお出かけになったことがありました。
 そのおるすの間、天皇のおそばには八田若郎女(やたのわかいらつめ)という女官(じょかん)がお仕え申しておりました。
 皇后はまもなく御綱柏(みつながしわ)の葉をお船につんで、難波(なにわ)へ向かって帰っていらっしゃいました。そのお途中で、お供の中のある女たちの乗っている船が、皇后のお船におくれて行き行きするうちに、難波(なにわ)の大渡(おおわたり)という海まで来ますと、向こうから一そうの船が来かかりました。その中には、高津(たかつ)のお宮のお飲み水を取る役所で働いていた、吉備(きび)の生まれの、ある身分(みぶん)の低い仕丁(よぼろ)で、おいとまをいただいておうちへ帰るのが、乗り合わせておりました。その者が船のすれちがいに、
「天皇さまは、このごろ八田若郎女(やたのわかいらつめ)がすっかりお気に入りで、それはそれはたいそうごちょう愛になっているよ」としゃべって行きました。それを聞いた女どもはわざわざ大急ぎで皇后のお船に追いついて、そのことを皇后のお耳に入れました。
 そうすると、例のご気性(きしょう)の皇后は、たちまちじりじりなすって、せっかくそこまで持っておかえりになった御綱柏(みつながしわ)の葉を、すっかり海へ投げすてておしまいになりました。それからまもなく船はこちらへ帰りつきましたが、皇后は若郎女(わかいらつめ)のことをお考えになればなるほどおくやしくて、そのお腹立(はらだ)ちまぎれに、港へおつけにならないで、ずんずん船を堀江(ほりえ)へお入れになり、そこから淀川(よどがわ)をのぼって山城(やましろ)まで行っておしまいになりました。
 その時皇后は、
「私はあんまりにくらしくてたまらないので、こんなにあてもなく山城(やましろ)の川をのぼって来たものの、思えばやっぱり天皇のおそばがなつかしい。今この目の前の川べりには、鳥葉樹(さしぶのき)がはえている。その木の下には、茂(しげ)った、広葉(ひろは)のつばきがてかてかとまっかに咲(さ)いている。ああ、あの花のように輝(かがや)きに充(み)ち、あの広葉のようにお心広く、おやさしくいらっしゃる天皇を、どうして私はおしたわしく思わないでいられよう」とこういう意味のお歌をお歌いになりました。
 しかしそれかといってこのまま急にお宮へお帰りになるのも少しいまいましくおぼしめすので、とうとう船からおあがりになって、大和(やまと)の方へおまわりになりました。
 そのときにも皇后は、
「私(わたし)はとうとう山城川(やましろがわ)をのぼり、奈良(なら)や小楯(おだて)をも通りすぎて、こんなにあちこちさまよってはいるけれど、それもどこをひとつ見たいのでもない。見たいのは高津(たかつ)のお宮よりほかにはなんにもない」という意味をお歌いになりました。
 それからまた山城(やましろ)へひきかえして、筒木(つつき)というところへおいでになり、そこに住まっている朝鮮(ちょうせん)の帰化人(きかじん)の奴里能美(ぬりのみ)という者のおうちへおとどまりになりました。
 天皇はすべてのことをお聞きになりますと、鳥山(とりやま)という舎人(とねり)に向かって、
「おまえ早く行って会ってこい」という意味をお歌でおっしゃって、皇后のところへおつかわしになりました。そのつぎには、丸邇臣口子(わにのおみくちこ)という者をお召(め)しになって、
「皇后はあんなにいつまでもすねて、お宮へもかえって来ないけれど、しかし心の中ではわしのことを思っているに相違(そうい)ない。二人の間であるものを、そんなに意地(いじ)を張らないでもよいであろうに」という意味を二つのお歌にお歌いになって、また改めて口子(くちこ)をお迎えにおやりになりました。
 お使いの口子(くちこ)は、奴里能美(ぬりのみ)のおうちへ着きますと、天皇のそのお歌をかたときも早く皇后に申しあげようと思いまして、御座所(ござしょ)のお庭先(にわさき)へうかがいました。
 そのときにちょうどひどい大雨がざあざあ降っておりました。口子(くちこ)はその雨の中をもいとわず、皇后のおへやの前の地(じ)びたへ平伏(へいふく)しますと、皇后は、つんとして、いきなり後ろの戸口の方へ立って行っておしまいになりました。口子(くちこ)は怖(おそ)る怖るそちらがわにまわって平伏しました。そうすると皇后はまたついと前の方の戸口へ来ておしまいになりました。口子(くちこ)はあっちへ行ったりこっちへ来たりして土の上にひざまずいているうちに、雨はいよいよどしゃぶりに降りつのって、そのたまり水が腰(こし)まで浸(ひた)すほどになりました。口子(くちこ)は赤いひものついた、あい染(ぞ)めの上着(うわぎ)を着ておりましたが、そのひもがびしょびしょになって赤い色がすっかり流れ出したので、しまいには青い着物もまっかに染まってしまいました。
 そのとき皇后のおそばには、口子(くちこ)の妹の口媛(くちひめ)という者がお仕(つか)え申しておりました。口媛(くちひめ)はおにいさまのそのありさまを見て、
「まあおかわいそうに、あんなにまでしておものを申しあげようとしているのに、見ている私には涙(なみだ)がこぼれてくる」
という意味を歌に歌いました。
 皇后はそれをお聞きになって、
「兄とはだれのことか」とおたずねになりました。
「さっきから、あすこに、水の中にひれ伏(ふ)しておりますのが私の兄の口子(くちこ)でございます」と、口媛(くちひめ)は涙をおさえてお答え申しました。
 口子(くちこ)はそのあとで、口媛(くちひめ)と奴里能美(ぬりのみ)の二人に相談して、これはどうしても天皇にこちらへいらしっていただくよりほかには手だてがあるまいと、こう話を決めました。そこで口子(くちこ)は急いでお宮へかえって申しあげました。
「まいりまして、すっかりわけをお聞き申しますと、皇后さまがあちらへお出向きになりましたのは、奴里能美(ぬりのみ)のうちに珍(めずら)しい虫を飼(か)っておりますので、ただそれをご覧(らん)になるためにおでかけになりましたのでございます。そのほかにはけっしてなんのわけもおありにはなりません。その虫と申しますのは、はじめははう虫でいますのが、つぎには卵(たまご)になり、またそのつぎには飛ぶ虫になりまして、順々に三度姿(すがた)をかえる、きたいな虫だそうでございます」と、口子(くちこ)は子供でも心得ているかいこのことを、わざと珍(めずら)しそうに、じょうずにこう申しあげました。
 すると天皇は、
「そうか、そんなおもしろい虫がいるなら、わしも見に行こう」とおっしゃって、すぐにお宮をお出ましになり、奴里能美(ぬりのみ)のおうちへ行幸(ぎょうこう)になりました。
 奴里能美(ぬりのみ)は、口子(くちこ)が申しあげたとおりの三(み)とおりの虫を、前もって皇后に献上(けんじょう)しておきました。
 天皇は皇后のおへやの戸の前にお立ちになって、
「そなたがいつまでも怒(おこ)ったりしているので、とうとうみんながここまで出て来なければならなくなった。もうたいていにしてお帰りなさい」とお歌いになり、まもなくおともどもに難波(なにわ)のお宮へご還幸(かんこう)になりました。
 天皇はそれといっしょに、八田若郎女(やたのわかいらつめ)においとまをおつかわしになりました。しかしそのかわりには、郎女(いらつめ)の名まえをいつまでも伝え残すために、八田部(やたべ)という部族をおこしらえになりました。

       四

 それからあるとき天皇は、女鳥王(めとりのみこ)という、あるお血筋(ちすじ)の近い方を宮中(きゅうちゅう)にお召(め)しかかえになろうとして、弟さまの速総別王(はやぶさわけのみこ)をお使いにお立てになりました。
 王(みこ)はさっそくいらしって、そのおぼしめしをお伝えになりますと、女鳥王(めとりのみこ)はかぶりをふって、
「いえいえ私は宮中(きゅうちゅう)へはお仕え申したくございません。皇后さまがあんなにごしっと深くいらっしゃるので、八田若郎女(やたのわかいらつめ)だってご奉公ができないでさがってしまいましたではございませんか。それよりもこんな私でございますが、どうぞあなたのお嫁(よめ)にしてくださいまし」とお頼(たの)みになりました。
 それで王(みこ)はその女鳥王(めとりのみこ)をお嫁になさいました。そして天皇に対しては、いつまでもご返事を申しあげないままでいらっしゃいました。
 すると天皇は、しまいにご自分で女鳥王(めとりのみこ)のおうちへお出かけになり、戸口のしきいの上にお立ちになってのぞいてご覧になりますと、王(みこ)はちょうど中でお機(はた)を織っていらっしゃいました。
 天皇は、
「それはだれの着物を織っているのか」とお歌に歌ってお聞きになりました。すると女鳥王(めとりのみこ)もやはりお歌で、
「これは速総別王(はやぶさわけのみこ)にお着せ申しますのでございます」とお答えになりました。
 天皇はそれをお聞きになって、二人のことをすっかりおさとりになり、そのままお宮へおかえりになりました。
 女鳥王(めとりのみこ)はそのあとで、まもなく速総別王(はやぶさわけのみこ)が出ていらっしゃいますと、
「もし。あなたさまよ。ひばりでさえもどんどん大空へかけのぼるではございませんか。あなたはお名まえもたかの中のはやぶさと同じでいらっしゃるのに、さあ早くささぎをとり殺しておしまいなさい」とこういう意味をお歌いになりました。それはいうまでもなく、天皇のお名が大雀命(おおささぎのみこと)なので、それをささぎにかよわせて、一ときも早く天皇をお殺し申してご自分でお位におつきになるようにと、怖(おそ)ろしい入れぢえをなすったのでした。
 そうすると、そのお歌のことが、いつのまにか天皇のお耳にはいりました。天皇はすぐに兵をあつめて速総別王(はやぶさわけのみこ)を殺しにおつかわしになりました。
 速総別王(はやぶさわけのみこ)はそれと感づくと、びっくりして、女鳥王(めとりのみこ)といっしょにすばやく大和(やまと)へ逃げ出しておしまいになりました。そのお途中、倉橋山(くらはしやま)という険(けわ)しい山をお越(こ)えになるときに、かよわい女鳥王(めとりのみこ)はたいそうご難渋(なんじゅう)をなすって、夫の王(みこ)のお手にすがりすがりして、やっと上までお上りになりました。
 お二人はそこからさらに同じ大和(やまと)の曾爾(そに)というところまでいらっしゃいますと、天皇の兵がそこまで追いついて、お二人を刺(さ)し殺してしまいました。
 そのとき軍勢を率(ひき)いて来たのは山辺大楯連(やまべのおおだてのむらじ)というつわものでした。連(むらじ)は女鳥王(めとりのみこ)のお死がいのお手首に、りっぱなお腕飾(うでかざ)りがついているのを見て、さっそくそれをはぎ取って、自分の家内(かない)に持ってかえってやりました。
 そのうちに宮中にあるご宴会(えんかい)があって、臣下の者の妻女たちが、おおぜいお召(め)しにあずかりました。すると大楯連(おおだてのむらじ)の妻は、女鳥王(めとりのみこ)のお腕飾りを得意(とくい)らしく手首に飾(かざ)ってまいりました。皇后はそれらの女たちへ、お手ずから、お酒を盛(も)るかしわの葉をおくだしになりました。みんなはかわるがわる御前(ごぜん)へ出て、それをいただいてさがりました。
 皇后はそのときに、ふと、連(むらじ)の妻の腕飾りにお目がとまりました。するとそれはかねてお見覚(みおぼ)えのある女鳥王(めとりのみこ)のお持物(もちもの)でしたので皇后はにわかにお顔色をお変えになり、この女にばかりはかしわの葉をおくだしにならないで、そのまますぐにご宴席(えんせき)から追い出しておしまいになりました。そしてさっそく夫の連(むらじ)をお呼(よ)びつけになって、
「そちは人の腕飾りをぬすんで来て家内にやったろう。あの速総別(はやぶさわけ)と女鳥(めとり)の二人は、天皇に対して怖(おそ)ろしい大罪を犯そうとしたのだから、かれたちが殺されたのはもとよりあたりまえである。しかしそちなぞからいえば、二人とも目上の王(みこ)たちではないか。その人が身につけている物を、死んでまだ膚(はだ)のあたたかいうちにはぎとって、それをおのれの妻に与(あた)えるなぞと、まあ、よくもそんなひどいことができたね」とおっしゃって、ぐんぐんおいじめつけになったうえ、ようしゃなくすぐ死刑(しけい)に行なわせておしまいになりました。

       五

 この天皇の御代(みよ)に、兎寸川(とさがわ)というある川の西に、大きな大きな大木が一本立っておりました。いつも朝日がさすたんびに、その木の影(かげ)が淡路(あわじ)の島までとどき、夕日(ゆうひ)が当たると、河内(かわち)の高安山(たかやすやま)よりももっと上まで影がさしました。
 土地の者はその木を切って船をこしらえました。するとそれはそれはたいそう早く走れる船ができました。みんなその船に「枯野(からの)」という名前をつけました。そして朝晩それに乗って、淡路島(あわじしま)のわき出るきれいな水をくんで来ては、それを宮中(きゅうちゅう)のお召(め)し料にさしあげておりました。
 後にみんなは、その船が古びこわれたのを燃やして塩を焼き、その焼け残った木で琴(こと)を作りました。その琴をひきますと、音が遠く七つの村々まで響(ひび)いたということです。
 天皇はついにおん年八十三でおかくれになりました。

大鈴(おおすず)小鈴(こすず)

       一

 仁徳天皇(にんとくてんのう)には皇子(おうじ)が五人、皇女(おうじょ)が一人おありになりました。その中で伊邪本別(いざほわけ)、水歯別(みずはわけ)、若子宿禰(わくごのすくね)のお三方(さんかた)がつぎつぎに天皇のお位におのぼりになりました。
 いちばんのお兄上の伊邪本別皇子(いざほわけのおうじ)は、お父上の亡(な)きおあとをおつぎになって、同じ難波(なにわ)のお宮で、履仲天皇(りちゅうてんのう)としてお位におつきになりました。
 そのご即位(そくい)のお祝いのときに、天皇はお酒をどっさり召(め)しあがって、ひどくお酔(よ)いになったままおやすみになりました。
 すると、じき下の弟さまの中津王(なかつのみこ)が、それをしおに天皇をお殺し申してお位を取ろうとおぼしめして、いきなりお宮へ火をおつけになりました。火の手は、たちまちぼうぼうと四方へ燃え広がりました。お宮じゅうの者はふいをくって大あわてにあわて騒(さわ)ぎました。
 天皇は、それでもまだ前後もなくおよっていらっしゃいました。それを阿知直(あちのあたえ)という者が、すばやくお抱(かか)え申しあげ、むりやりにうまにお乗せ申して、大和(やまと)へ向かって逃(に)げ出して行きました。
 お酔いつぶれになっていた天皇は、河内(かわち)の多遅比野(たじひの)というところまでいらしったとき、やっとおうまの上でお目ざめになり、
「ここはどこか」とおたずねになりました。阿知直(あちのあたえ)は、
「中津王(なかつのみこ)がお宮へ火をお放ちになりましたので、ひとまず大和(やまと)の方へお供(とも)をしてまいりますところでございます」とお答え申しました。
 天皇はそれをお聞きになって、はじめてびっくりなさり、
「ああ、こんな多遅比(たじひ)の野の中に寝(ね)るのだとわかっていたら、夜風(よかぜ)を防ぐたてごもなりと持って来ようものを」
と、こういう意味のお歌をお歌いになりました。
 それから埴生坂(はにうざか)という坂までおいでになりまして、そこから、はるかに難波(なにわ)の方をふりかえってご覧(らん)になりますと、お宮の火はまだ炎々(えんえん)とまっかに燃え立っておりました。天皇は、
「ああ、あんなに多くの家が燃えている。わが妃(きさき)のいるお宮も、あの中に焼けているのか」という意味をお歌いになりました。
 それから同じ河内(かわち)の大坂(おおさか)という山の下へおつきになりますと、向こうから一人の女が通りかかりました。その女に道をおたずねになりますと、女は、
「この山の上には、戦道具(いくさどうぐ)を持った人たちがおおぜいで道をふさいでおります。大和(やまと)の方へおいでになりますのなら、当麻道(たじまじ)からおまわりになりましたほうがよろしゅうございましょう」と申しあげました。
 天皇はその女の言うとおりになすって、ご無事に大和(やまと)へおはいりになり、石上(いそのかみ)の神宮(じんぐう)へお着きになって、仮にそこへおとどまりになりました。
 すると二ばんめの弟さまの水歯別王(みずはわけのみこ)が、その神宮へおうかがいになって、天皇におめみえをしようとなさいました。天皇はおそばの者をもって、
「そちもきっと中津王(なかつのみこ)と腹(はら)を合わせているのであろう。目どおりは許されない」とおおせになりました。王(みこ)は、
「いえいえ私はそんなまちがった心は持っておりません。けっして中津王(なかつのみこ)なぞと同腹(どうふく)ではございません」とお言いになりました。天皇は、
「それならば、これから難波(なにわ)へかえって、中津王(なかつのみこ)を討(う)ちとってまいれ。その上で対面しよう」とおっしゃいました。

       二

 水歯別王(みずはわけのみこ)は、大急ぎでこちらへおかえりになりました。そして中津王(なかつのみこ)のおそばに仕えている、曾婆加里(そばかり)というつわものをお召(め)しになって、
「もしそちがわしの言うことを聞いてくれるなら、わしはまもなく天皇になって、そちを大臣にひきあげてやる。どうだ、そうして二人で天下を治めようではないか」とじょうずにおだましかけになりました。すると曾婆加里(そばかり)は大喜びで、
「あなたのおおせなら、どんなことでもいたします」
 と申しあげました。皇子(おうじ)はその曾婆加里(そばかり)にさまざまのお品物をおくだしになったうえ、
「それでは、そちが仕えているあの中津王(なかつのみこ)を殺してまいれ」とお言いつけになりました。曾婆加里(そばかり)は、
「かしこまりました」と、ぞうさもなくおひき受けして飛んでかえり、王(みこ)がかわやにおはいりになろうとするところを待ち受けて、一刺(ひとさ)しに刺(さ)し殺してしまいました。
 水歯別王(みずはわけのみこ)は、曾婆加里(そばかり)とごいっしょに、すぐに大和(やまと)へ向かってお立ちになりました。その途中、例の大坂(おおさか)の山の下までおいでになったとき、命(みこと)はつくづくお考えになりました。
「この曾婆加里(そばかり)めは、私(わし)のためには大きな手柄(てがら)を立てたやつではあるが、かれ一人からいえば、主人を殺した大悪人である。こんなやつをこのままおくと、さきざきどんな怖(おそ)ろしいことをしだすかわからない。今のうちに手早くかたづけてしまってやろう。しかし、手柄(てがら)だけはどこまでも賞(ほ)めておいてやらないと、これから後、人が私(わし)を信じてくれなくなる」
 こうお思いになって急にその手だてをお考えさだめになりました。それで曾婆加里(そばかり)に向かって、
「今晩(こんばん)はこの村へとまることにしよう。そしてそちに大臣の位をさずけたうえ、あすあちらへおうかがいをしよう」とおっしゃって、にわかにそこへ仮のお宮をおつくりになりました。そしてさかんなご宴会(えんかい)をお開きになって、そのお席で曾婆加里(そばかり)を大臣の位におつけになり、すべての役人たちに言いつけて礼拝をおさせになりました。
 曾婆加里(そばかり)はこれでいよいよ思いがかなったと言って大得意(だいとくい)になって喜びました。水歯別王(みずはわけのみこ)は、
「それでは改めて、大臣のおまえと同じさかずきで飲み合おう」とおっしゃりながら、わざと人の顔よりも大きなさかずきへなみなみとおつがせになりました。そして、まずご自分で一口めしあがった後、曾婆加里(そばかり)におくだしになりました。曾婆加里(そばかり)はそれをいただいて、がぶがぶと飲みはじめました。
 王(みこ)は曾婆加里(そばかり)の目顔(めがお)がそのさかずきで隠(かく)れるといっしょに、かねてむしろの下にかくしておおきになった剣(つるぎ)を抜(ぬ)き放して、あッというまに曾婆加里(そばかり)の首を切り落としておしまいになりました。
 それからあくる日そこをお立ちになり、大和(やまと)の遠飛鳥(とおあすか)という村までおいでになって、そこへまた一晩(ばん)おとまりになったうえ、けがれ払(ばら)いのお祈りをなすって、そのあくる日石上(いそのかみ)の神宮へおうかがいになりました。そしておおせつけのとおり、中津王(なかつのみこ)を平(たい)らげてまいりましたとご奏上(そうじょう)になりました。
 天皇はそれではじめて王(みこ)を御前(ごぜん)へお通しになりました。それから阿知直(あちのあたえ)に対しても、ごほうびに蔵(くら)の司(つかさ)という役におつけになり、たいそうな田地(でんぢ)をもおくだしになりました。

       三

 天皇は後に大和(やまと)の若桜宮(わかざくらのみや)にお移りになり、しまいにおん年六十四でおかくれになりました。そのおあとは、弟さまの水歯別王(みずはわけのみこ)がお継(つ)ぎになりました。後に反正天皇(はんしょうてんのう)とお呼(よ)び申すのがこの天皇のおんことです。
 天皇はお身のたけが九尺(しゃく)二寸五分(ぶ)、お歯の長(なが)さが一寸(すん)、幅(はば)が二分(ぶ)おありになりました。そのお歯は上下とも同じようによくおそろいになって、ちょうど玉をつないだようにおきれいでした。河内(かわち)の多遅比(たじひ)の柴垣宮(しばがきのみや)で、政(まつりごと)をおとりになり、おん年六十でおかくれになりました。

       四

 反正天皇(はんしょうてんのう)のおあとには、弟さまの若子宿禰王(わくごのすくねのみこ)が允恭天皇(いんきょうてんのう)としてお位におつきになり、大和(やまと)の遠飛鳥宮(とおあすかのみや)へお移りになりました。
 天皇は、もとからある不治のご病気がおありになりましたので、このからだでは位にのぼることはできないとおっしゃって、はじめには固(かた)くご辞退(じたい)になりました。しかし、皇后やすべての役人がしいておねがい申すので、やむなくご即位(そくい)になったのでした。
 するとまもなく新羅国(しらぎのくに)から、八十一そうの船で貢物(みつぎもの)を献(けん)じて来ました。そのお使いにわたって来た金波鎮(こんばちん)、漢起武(かんきむ)という二人の者が、どちらともたいそう医薬のことに通じておりまして、天皇の永(なが)い間のご病気を、たちまちおなおし申しあげました。そのために天皇はついにおん年七十八までお生きのびになりました。
 天皇は日本じゅうの多くの部族の中で、めいめいいいかげんなかってな姓(せい)を名のっているものが多いのをお嘆(なげ)きになり、大和(やまと)のある村へ玖訂瓮(くかえ)といって、にえ湯のたぎっているかまをおすえになって、日本じゅうのすべての氏姓(しせい)を正しくお定めになりました。そのにえ湯の中へ一人一人手を入れさせますと、正直(しょうじき)にほんとうの姓(せい)を名のっている者は、その手がどうにもなりませんが、偽(いつわ)りを申し立てているものは、たちまち手が焼けただれてしまうので、いちいちうそとほんとうとを見わけることができました。

       五

 天皇がおかくれになったあとにはいちばん上の皇子(おうじ)の、木梨軽皇子(きなしのかるのおうじ)がお位におつきになることにきまっておりました。ところが皇子はご即位(そくい)になるまえに、お身持ちの上について、ある言うに言われないまちがいごとをなすったので、朝廷(ちょうてい)のすべての役人やしもじもの人民たちがみんな皇子をおいとい申して、弟さまの穴穂王(あなほのみこ)のほうへついてしまいました。
 軽皇子(かるのおうじ)はこれでは、うっかりしていると、穴穂王(あなほのみこ)方(がた)からどんなことをしむけるかもわからないとお怖(おそ)れになり、大前宿禰(おおまえのすくね)、小前宿禰(こまえのすくね)という、きょうだい二人の大臣のうちへお逃(に)げこみになりました。そしてさっそくいくさ道具をおととのえになり、軽矢(かるや)といって、矢(や)の根を銅でこしらえた矢などをも、どっさりこしらえて、待ちかまえていらっしゃいました。
 それに対して、穴穂王(あなほのみこ)のほうでもぬからず戦(いくさ)の手配(てくば)りをなさいました。こちらでも穴穂矢(あなほや)といって、後の代(よ)の矢と同じように鉄の矢じりのついた矢を、どんどんおこしらえになりました。そしてまもなく王(みこ)ご自身が軍務をおひきつれになって、大前(おおまえ)、小前(こまえ)の家をお攻(せ)め囲(かこ)みになりました。
 王(みこ)はちょうどそのとき急に降り出したひょうの中を、まっ先に突進(とっしん)して、門前へ押(お)しよせていらっしゃいました。
「さあ、みんなもわしのとおり進んで来い。ひょうの雨は今にやむ。そのひょうのやむように、すべてを片づけてしまうのだ。さあ来い来い」という意味をお歌いになって、味方の兵をお招きになりました。
 すると大前(おおまえ)、小前(こまえ)の宿禰(すくね)は、手をあげひざをたたいて、歌い踊(おど)りながら出て来ました。
「何をそんなにお騒(さわ)ぎになる。宮人(みやびと)のはかまのすそのひもについた小さな鈴(すず)、たとえばその鈴が落ちたほどの小さなことに、宮人も村の人も、そんなに騒ぐにはおよびますまい」
 こういう意味の歌を歌いながら穴穂王(あなほのみこ)のご前(ぜん)に出て来て、
「もしあなたさま、軽皇子(かるのおうじ)さまならわざわざお攻めになりますには及びません。ご同腹(どうふく)のお兄上をお攻めになっては人が笑(わら)います。皇子さまは私がめしとってさし出します」と申しあげました。
 それで穴穂王(あなほのみこ)は囲みを解(と)いて、ひきあげて待っておいでになりますと、二人の宿禰(すくね)は、ちゃんと軽皇子(かるのおうじ)をおひきたて申してまいりました。

       六

 軽皇子(かるのおうじ)には、軽大郎女(かるのおおいらつめ)とおっしゃるたいそう仲(なか)のよいご同腹(どうふく)のお妹さまがおありになりました。大郎女(おおいらつめ)は世(よ)にまれなお美しい方で、そのきれいなおからだの光がお召物(めしもの)までも通して光っていたほどでしたので、またの名を衣通郎女(そとおしのいらつめ)と呼(よ)ばれていらっしゃいました。
 穴穂王(あなほのみこ)の手(て)にお渡(わた)されになった軽皇子(かるのおうじ)は、その仲のよい大郎女(おおいらつめ)のお嘆(なげ)きを思いやって、
「ああ郎女(いらつめ)よ。ひどく泣(な)くと人が聞いて笑(わら)いそしる。羽狹(はさ)の山のやまばとのように、こっそりと忍(しの)び泣きに泣くがよい」という意味の歌をお歌いになりました。
 穴穂王(あなほのみこ)は、軽皇子(かるのおうじ)を、そのまま伊予(いよ)へ島流しにしておしまいになりました。そのとき大郎女(おおいらつめ)は、
「どうぞ浜べをお通りになっても、かきがらをお踏(ふ)みになって、けがをなさらないように、よく気をつけてお歩きくださいまし」という意味の歌を、泣き泣きお兄上にお捧(ささ)げになりました。
 大郎女(おおいらつめ)はそのおあとでも、お兄上のことばかり案じつづけていらっしゃいましたが、ついにたまりかねてはるばる伊予(いよ)までおあとを追っていらっしゃいました。
 軽皇子(かるのおうじ)はそれはそれはお喜びになって、大郎女(おおいらつめ)のお手をとりながら、
「ほんとうによく来てくれた。鏡のように輝き、玉のように光っている、きれいなおまえがいればこそ、大和(やまと)へも帰りたいともだえていたけれど、おまえがここにいてくれれば、大和(やまと)もうちもなんであろう」とこういう意味のお歌をお歌いになりました。
 まもなくお二人は、その土地で自殺しておしまいになりました。

しかの群(むれ)、ししの群(むれ)

       一

 穴穂王(あなほのみこ)は、おあにいさまの軽皇子(かるのおうじ)を島流しにおしになった後、第二十代の安康天皇(あんこうてんのう)としてお立ちになり、大和(やまと)の石上(いそのかみ)の穴穂宮(あなほのみや)へおひき移りになりました。
 天皇は弟さまの大長谷皇子(おおはつせのおうじ)のために、仁徳天皇(にんとくてんのう)の皇子(おうじ)で、ちょうど大おじさまにおあたりになる大日下王(おおくさかのみこ)とおっしゃる方のお妹さまの、若日下王(わかくさかのみこ)という方を、お嫁(よめ)にもらおうとお思いになりました。
 それで根臣(ねのおみ)という者を大日下王(おおくさかのみこ)のところへおつかわしになって、そのおぼしめしをお伝えになりました。大日下王(おおくさかのみこ)はそれをお聞きになりますと、四たび礼拝をなすったうえ、
「実は私も、万一そういうご大命(たいめい)がくだるかもわからないと思いましたので、妹は、ふだん、外へも出さないようにしていました。まことにおそれ多いことながら、それではおおせのままにさしあげますでございましょう」とたいそう喜んでお受けをなさいました。しかしただ言葉(ことば)だけでご返事を申しあげたのでは失礼だとお考えになって、天皇へお礼のお印(しるし)に、押木(おしぎ)の玉かずらというりっぱな髪飾(かみかざ)りを、若日下王(わかくさかのみこ)から献上品(けんじょうひん)としておことづけになりました。
 するとお使いの根臣(ねのおみ)は、乱暴(らんぼう)にも、その玉かずらを途中で自分が盗(ぬす)み取ったうえ、天皇に向かっては、
「おおせをお伝えいたしましたが、王(みこ)はお聞き入れがございません。おれの妹ともあるものを、あんなやつの敷物(しきもの)にやれるかとおっしゃって、それはそれは、刀の柄(つか)に手をかけてご立腹になりました」
 こう言って、まるで根のないことをこしらえて、ひどいざん言(げん)をしました。
 天皇は非常にお怒(いか)りになって、すぐに人を派(は)せて大日下王(おおくさかのみこ)を殺しておしまいになりました。そして王(みこ)のお妃(きさき)の長田大郎女(ながたのおおいらつめ)をめしいれて自分の皇后になさいました。
 あるとき天皇は、お昼寝(ひるね)をなさろうとして、お寝床(ねどこ)におよこたわりになりながら、おそばにいらしった皇后に、
「そちはなにか心の中に思っていることはないか」とおたずねになりました。皇后は、
「いいえけっしてそんなはずはございません。これほどおてあついお情けをいただいておりますのに、このうえ何を思いましょう」とお答えになりました。
 そのとき、ちょうど御殿(ごてん)の下には、皇后が先の大日下王(おおくさかのみこ)との間におもうけになった、目弱王(まよわのみこ)とおっしゃる、七つにおなりになるお子さまが、ひとりで遊んでおいでになりました。
 天皇はそれとはご存じないものですから、ついうっかりと、
「わしはただ一つ、いつも気になってならないことがある。それは目弱(まよわ)が大きくなった後に、あれの父はわしが殺したのだと聞くと、わしに復しゅうをしはしないだろうかと、それが心配である」とこうおおせになりました。
 目弱王(まよわのみこ)は下でそれをお聞きになって、それではお父上を殺したのは天皇であったのかとびっくりなさいました。
 そのうちに、まもなく天皇はぐっすりお眠(ねむ)りになりました。目弱王(まよわのみこ)はそこをねらってそっと御殿(ごてん)へおあがりになり、おまくらもとにあった太刀(たち)を抜(ぬ)き放して、いきなり天皇のお首をお切りになりました。そしてすぐにお宮を抜け出して、都夫良意富美(つぶらおおみ)という者のうちへ逃(に)げこんでおしまいになりました。
 天皇はそのままお息がお絶えになりました。お年は五十六歳でいらっしゃいました。
 そのときには、弟さまの大長谷皇子(おおはつせのおうじ)は、まだ童髪(どうはつ)をおゆいになっている一少年でおいでになりましたが、目弱王(まよわのみこ)が天皇をお殺し申したとお聞きになりますと、それはそれはお憤(いきどお)りになって、すぐにお兄上の黒日子王(くろひこのみこ)のところへかけつけておいでになり、
「おあにいさま、たいへんです。天皇をお殺し申したやつがいます。どういたしましょう」とご相談をなさいました。すると、黒日子王(くろひこのみこ)は天皇のご同腹(どうふく)のおあにいさまでおありになりながら、てんで、びっくりなさらないで平気にかまえていらっしゃいました。大長谷皇子(おおはつせのおうじ)はそれをご覧(らん)になりますと、くわッとお怒(いか)りになり、
「あなたはなんという頼(たの)もしげもない人でしょう。われわれの天皇がお殺されになったのじゃありませんか。そして、それは、またあなたのおあにいさまじゃありませんか。それを平気で聞いているとは何ごとです」とおっしゃりながら、いきなりえりもとをひッつかんでひきずり出し、刀を抜くなり、一打(ひとう)ちに打ち殺しておしまいになりました。
 皇子(おうじ)はそれからまたつぎのおあにいさまの白日子王(しろひこのみこ)のところへおいでになって、同じように、天皇がお殺されになったことをお告げになりました。白日子王(しろひこのみこ)は天皇のご同腹(どうふく)の弟さまでいらっしゃいました。それだのに、この方も同じく平気な顔をして、すましておいでになりました。皇子はまたそのおあにいさまのえり首をつかんでひきずり出して、小治田(おはりだ)という村まで引っぱっていらっしゃいました。そしてそこへ穴(あな)を掘(ほ)って、その中へまっすぐに立たせたまま、生き埋(う)めに埋(う)めておしまいになりました。
 王(みこ)はどんどん土をかけられて、腰(こし)までお埋められになったとき両方(りょうほう)のお目の玉が飛び出して、それなり死んでおしまいになりました。

       二

 大長谷皇子(おおはつせのおうじ)はそれから軍勢をひきつれて、目弱王(まよわのみこ)をかくまっている都夫良意富美(つぶらおおみ)の邸(やしき)をおとり囲みになりました。すると、こちらでもちゃんと手くばりをして待ちかまえておりまして、それッというなり、ちょうどあしの花が飛び散(ち)るように、もうもうと矢(や)を射(い)出(だ)しました。
 大長谷皇子(おおはつせのおうじ)は、その前から、この都夫良(つぶら)の娘(むすめ)の訶良媛(からひめ)という人をお嫁(よめ)におもらいになることにしていらっしゃいました。皇子(おうじ)は今どんどん射(い)向ける矢の中に、矛(ほこ)を突(つ)いてお突ッ立ちになりながら、
「都夫良(つぶら)よ、訶良媛(からひめ)はこのうちにいるか」と大声でおどなりになりました。
 都夫良(つぶら)はそれを聞くと、急いで武器を投げすてて、皇子(おうじ)の御前(ごぜん)へ出て来ました。そして八度(やたび)伏(ふ)し拝(おが)んで申しあげました。
「娘(むすめ)の訶良媛(からひめ)はお約束のとおり必(かなら)ずあなたにさしあげます。また五か村(そん)の私の領地も、娘に添(そ)えて献上(けんじょう)いたします。ただどうぞ、今しばらくお待ちくださいまし。私がただ今すぐに娘をさしあげかねますわけは、昔(むかし)から臣下の者が皇子さま方のお宮へ逃(に)げかくれたことは聞いておりますが、貴(とうと)い皇子さまがしもじもの者のところへお逃(のが)れになったためしはかつて聞きません。私はいかに力いっぱい戦いましても、あなたにお勝ち申すことができないのは十分わきまえております。しかし、目弱王(まよわのみこ)は、私ごとき者をも頼(たよ)りにしてくださって、いやしい私のうちへおはいりくださっているのでございますから、私といたしましては、たとえ死んでもお見捨(みす)て申すことはできません。娘はどうぞ私が討(う)ち死(じ)にをいたしましたあとで、おめしつれくださいまし」
 こう申しあげて御前をさがり、再び戦(いくさ)道具を取って邸(やしき)にはいって、いっしょうけんめいに戦(いくさ)をいたしました。
 そのうちに都夫良(つぶら)はとうとうひどい手傷(てきず)を負いました。みんなも矢だねがすっかり尽(つ)きてしまいました。それで都夫良(つぶら)は目弱王(まよわのみこ)に向かって、
「私もこのとおりで、もはや戦(いくさ)を続けることができません。いかがいたしましょう」と申しあげました。
 お小さな目弱王(まよわのみこ)は、
「それではもうしかたがない。早く私(わたし)を殺してくれ」とおっしゃいました。都夫良(つぶら)はおおせに従ってすぐに王(みこ)をお刺(さ)し申した上、その刀で自分の首を切って死んでしまいました。

       三

 このさわぎが片(かた)づくとまもなく、ある日、大長谷皇子(おおはつせのおうじ)のところへ、近江(おうみ)の韓袋(からぶくろ)という者が、そちらの蚊屋野(かやの)というところに、ししやしかがひじょうにたくさんおりますと申し出ました。
「そのどっさりおりますことと申しますと、群がり集まった足はちょうどすすきの原のすすきのようでございますし、群がった角(つの)は、ちょうど枯木(かれき)の林のようでございます」と韓袋(からぶくろ)は申しあげました。
 皇子(おうじ)は、ようし、とおっしゃって、履仲天皇(りちゅうてんのう)の皇子で、ちょうどおいとこにおあたりになる、忍歯王(おしはのみこ)とおっしゃるお方とお二人で、すぐに近江(おうみ)へおくだりになりました。お二人は蚊屋野(かやの)にお着きになりますと、ごめいめいに別々の仮屋(かりや)をお立てになって、その中へおとまりになりました。
 そのあくる朝、忍歯王(おしはのみこ)は、まだ日も上らないうちにお目ざめになりました。それでまったくなんのお気もなく、すぐにおうまにめして、大長谷皇子(おおはつせのおうじ)のお仮屋へ出かけておいでになりました。こちらでは、皇子(おうじ)はまだよくおよっていらっしゃいました。王(みこ)は、皇子のおつきの者に向かって、
「まだお目ざめでないようだね。もう夜(よ)も明けたのだから、早くお出かけになるように申しあげよ」とおっしゃって、そのままおうまをすすめて、りょう場へお出かけになりました。
 皇子のおつきの者は、皇子に向かって、
「ただ今忍歯王(おしはのみこ)がおいでになりまして、これこれとおっしゃいました。なんだかおっしゃることが変ではございませんか。けっしてごゆだんをなさいますな。お身固(かた)めも十分になすってお出かけなさいますように」と悪く疑(うたが)ってこう申しあげました。それで皇子も、わざわざお召物(めしもの)の下へよろいをお着こみになりました。そして弓矢(ゆみや)を取っておうまを召(め)すなり、大急ぎで王(みこ)のあとを追ってお出かけになりました。
 皇子はまもなく王に追いついて、お二人でうまを並(なら)べてお進みになりました。そのうちに皇子はすきまをねらって、さっと矢をおつがえになり、罪もない忍歯王(おしはのみこ)を、だしぬけに射(い)落としておしまいになりました。そして、なお飽(あ)き足(た)らずに、そのおからだをずたずたに切り刻(きざ)んで、それをうまの飼葉(かいば)を入れるおけの中へ投げ入れて、土の中へ埋(う)めておしまいになりました。

       四

 忍歯王(おしはのみこ)には意富祁王(おおけのみこ)、袁祁王(おけのみこ)というお二人のお子さまがいらっしゃいました。
 お二人はお父上がお殺されになったとお聞きになりまして、それでは自分たちも、うかうかしてはいられないとおぼしめして、急いで大和(やまと)をお逃(に)げになりました。
 そのお途中でお二人が、山城(やましろ)の苅羽井(かりはい)というところでおべんとうをめしあがっておりますと、そこへ、ちょう役(えき)あがりの印(しるし)に、顔(かお)へ入墨(いれずみ)をされている、一人の老人(ろうじん)が出て来て、お二人が食べかけていらっしゃるおべんとうを奪(うば)い取りました。お二人は、
「そんなものは惜(お)しくもないけれど、いったいおまえは何者だ」とおたしなめになりました。
「おれは山城(やましろ)でお上(かみ)のししを飼(か)っているしし飼(かい)だ」とその悪者(わるもの)の老人は言いました。
 お二人は、それから河内(かわち)の玖須婆川(くすばがわ)という川をお渡(わた)りになり、とうとう播磨(はりま)まで逃げのびていらっしゃいました。そして固くご身分をかくして、志自牟(しじむ)という者のうちへ下男におやとわれになり、いやしいうし飼、うま飼の仕事(しごと)をして、お命をつないでいらっしゃいました。

とんぼのお歌

       一

 大長谷皇子(おおはつせのおうじ)は、まもなく雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)としてご即位(そくい)になり、大和(やまと)の朝倉宮(あさくらのみや)にお移(うつ)りになりました。皇后には、例(れい)の大日下王(おおくさかのみこ)のお妹さまの若日下王(わかくさかのみこ)をお立てになりました。
 その若日下王(わかくさかのみこ)が、まだ河内(かわち)の日下(くさか)というところにいらしったときに、ある日天皇は、大和(やまと)からお近道(ちかみち)をおとりになり、日下(くさか)の直越(ただごえ)という峠(とうげ)をお越(こ)えになって、王(みこ)のところへおいでになったことがありました。
 そのとき天皇は、山の上から四方の村々をお見わたしになりますと、向こうの方に、一軒(けん)、むねにかつお木をとりつけているうちがありました。かつお木というのは、天皇のお宮か、神さまのお社(やしろ)かでなければつけないはずの、かつおのような形をした、むねの飾(かざ)りです。
 天皇はそれをご覧(らん)になって、
「あの家はだれの家か」とおたずねになりました。
「あれは志幾(しき)の大県主(おおあがたぬし)のうちでございます」と、お供の者がお答え申しました。天皇は、
「無礼なやつめ。おのれが家をわしのお宮に似(に)せて作っている」とお怒(いか)りになり、
「行ってあの家を焼きはらって来い」とおっしゃって、すぐに人をおつかわしになりました。
 すると大県主(おおあがたぬし)はすっかりおそれいってしまいました。
「実は、おろかな私どものことでございますので、ついなんにも存じませんで、うっかりこしらえましたものでございます」と言って、縮(ちぢ)みあがってお申しわけをしました。そして、そのおわびの印(しるし)に、一ぴきの白いぬにぬのを着せ、鈴(すず)の飾(かざ)りをつけて、それを身内(みうち)の者の一人の、腰佩(こしはき)という者に綱(つな)で引かせて、天皇に献上(けんじょう)いたしました。
 それで天皇も、そのうちをお焼きはらいになることだけは許しておやりになり、そのまま若日下王(わかくさかのみこ)のおうちへお着きになりました。
 天皇はお供(とも)の者をもって、
「これはただいま途中で手に入れたいぬだ。珍(めずら)しいものだから進物(しんもつ)にする」とおっしゃって、さっきの白いぬを若日下王(わかくさかのみこ)におくだしになりました。しかし王(みこ)は、
「きょう天皇は、お日さまをお背中(せなか)になすっておこしになりました。これではお日さまに対しておそれおおうございますので、きょうはお目にかかりません。そのうち、私のほうからすぐにまかり出まして、お宮へお仕え申しあげます」
 こう言って、おことわりをなさいました。
 天皇はお帰りのお途中、山の上にお立ちになって、若日下王(わかくさかのみこ)のことをお慕(した)いになるお歌をおよみになり、それを王(みこ)へお送りになりました。王(みこ)はそれからまもなくお宮へおあがりになりました。

       二

 天皇はあるとき、大和(やまと)の美和川(みわがわ)のほとりへお出ましになりました。そうすると、一人の娘(むすめ)が、その川で着物を洗っておりました。それはほんとうに美しい、かわいらしい娘でした。天皇は、
「そちはだれの子か」とおたずねになりました。
「私(わたくし)は引田郎(ひけたべ)の赤猪子(あかいのこ)と申します者でございます」と娘はお答え申しました。天皇は、
「それでは、いずれわしのお宮へ召(め)し使ってやるから待っていよ」とおっしゃって、そのままお通りすぎになりました。
 赤猪子(あかいのこ)はたいそう喜んで、それなりお嫁(よめ)にも行かないで、一心にご奉公(ほうこう)を待っておりました。しかし宮中(きゅうちゅう)からは、何十年たっても、とうとうお召(め)しがありませんでした。そのうちに、もうひどいおばあさんになってしまいました。赤猪子(あかいのこ)は、
「これではいよいよお宮へご奉公にあがることはできなくなった。しかしこんなになるまで、いっしょうけんめいにおめしを待っていたことだけは、いちおう申しあげて来たい」こう思って、ある日、いろいろの鳥やお魚(さかな)や野菜ものをおみやげに持って、お宮へおうかがいいたしました。すると天皇は、
「そちはなんという老婆(ろうば)だ。どういうことでまいったのか」とおたずねになりました。赤猪子(あかいのこ)は、
「私は、いついつの年のこれこれの月に、これこれこういうおおせをこうむりましたものでございます。こんにちまでお召(め)しをお待ち申してとうとう何十年という年を過(す)ごしました。もはやこんな老婆(ろうば)になりましたので、もとよりご奉公(ほうこう)には堪(た)えられませんが、ただ私がどこまでもおおせを守(まも)っておりましたことだけを申しあげたいと存じましてわざわざおうかがいいたしました」と申しあげました。天皇(てんのう)はそれをお聞きになって、びっくりなさいました。
「私(わし)はそのことは、もうとっくに忘(わす)れてしまっていた。これはこれはすまないことをした。かわいそうに」とおっしゃって、二つのお歌をお歌いになり、それでもって、赤猪子(あかいのこ)のどこまでも正直(しょうじき)な心根(こころね)をおほめになり、ご自分のために、とうとう一生お嫁(よめ)にも行かないで過ごしたことをしみじみおあわれみになりました。赤猪子(あかいのこ)は、そのお歌を聞いて、たまりかねて泣(な)きだしました。その涙(なみだ)で、赤色にすりそめた着物の袖(そで)がじとじとにぬれました。そして泣き泣き歌って、
「ああああ、これから先はだれにすがって生きて行こう。若(わか)い女の人たちは、ちょうど日下(くさか)の入江(いりえ)のはすの花のように輝(かがや)き誇(ほこ)っている。私(わたし)もそのとおりの若さでいたら、すぐにもお宮で召(め)し使っていただけようものを」と、こういう意味をお答え申しあげました。
 天皇はかずかずのお品物をおくだしになり、そのままおうちへおかえしになりました。

       三

 またあるとき天皇は、大和(やまと)の阿岐豆野(あきつの)という野へご猟(りょう)においでになりました。そして猟場(りょうば)でおいすにおかけになっておりますと、一ぴきのあぶが飛(と)んで来て、お腕(うで)にくいつきました。すると一ぴきのとんぼが出て来て、たちまちそのあぶを食(く)い殺(ころ)して飛(と)んで行きました。
 天皇はこれをご覧(らん)になって、たいそうお喜びになり、
「なるほどこんなふうに天皇のことを思う虫だから、それでこの日本のことをあきつ島というのであろう」という意味をお歌に歌っておほめになりました。とんぼのことを昔(むかし)の言葉(ことば)ではあきつと呼(よ)んでおりました。
 そのつぎにはまた別のときに、大和(やまと)の葛城山(かつらぎやま)へお上りになりました。そうすると、ふいに大きな大いのししが飛び出して来ました。天皇はすぐにかぶら矢(や)をおつがえになって、ねらいをたがえず、ぴゅうとお射(い)あてになりました。すると、ししはおそろしく怒(いか)り狂(くる)って、ううううとうなりながら飛びかかって来ました。それには、さすがの天皇もこわくおなりになって、おそばに立っていたはんのきへ、大急ぎでお逃(に)げのぼりになり、それでもって、やっと危(あぶな)いところをお助かりになりました。
 天皇はそのはんのきの上で、
「ああ、この木のおかげで命びろいをした。ありがたいありがたい」とおっしゃる意味を、お歌にお歌いになりました。

       四

 天皇はその後、また葛城山(かつらぎやま)におのぼりになりました。そのときお供の人々は、みんな、赤いひものついた、青ずりのしょうぞくをいただいて着ておりました。
 すると、向こうの山を、一人のりっぱな人がのぼって行くのがお目にとまりました。その人のお供の者たちも、やはりみんな、赤ひものついた、青ずりの着物を着ていまして、だれが見ても天皇のお行列と寸分(すんぶん)も違(ちが)いませんでした。
 天皇はおどろいて、すぐに人をおつかわしになり、
「日本にはわしを除いて二人と天皇はいないはずだ。それだのに、わしと同じお供を従えて行くそちは、いったい何者だ」と、きびしくお問いつめになりました。すると向こうからも、そのおたずねと同じようなことを問いかえしました。
 天皇はくわッとお怒(いか)りになり、まっ先に矢をぬいておつがえになりました。お供の者も残らず一度に矢をつがえました。そうすると、向こうでも負けていないで、みんなそろって矢をつがえました。天皇は、
「さあ、それでは名を名乗れ。お互(たが)いに名乗り合ったうえで矢を放とう」とお言い送りになりました。向こうからは、
「それではこちらの名まえもあかそう。私(わたし)は悪いことにもただ一言(ひとこと)、いいことにも一言だけお告げをくだす、葛城山(かつらぎやま)の一言主神(ひとことぬしのかみ)だ」とお答えがありました。天皇はそれをお聞きになると、びっくりなすって、
「これはこれはおそれおおい、大神(おおかみ)がご神体をお現わしになったとは思いもかけなかった」とおっしゃって、大急ぎで太刀(たち)や弓矢(ゆみや)をはじめ、お供(とも)の者一同の青ずりの着物をもすっかりおぬがせになり、それをみんな、伏(ふ)し拝(おが)んで、大神(おおかみ)へご献上(けんじょう)になりました。
 すると大神(おおかみ)は手を打ってお喜びになり、その献上物(けんじょうもの)をすっかりお受けいれになりました。それから天皇がご還幸(かんこう)になるときには、大神(おおかみ)はわざわざ山をおりて、遠く長谷(はつせ)の山の口までお見送りになりました。

       五

 天皇はつぎにはまたあるとき、その長谷(はつせ)にあるももえつきという大きな、大けやきの木の下でお酒宴(さかもり)をお催(もよお)しになりました。
 そのとき伊勢(いせ)の生まれの三重采女(みえのうねめ)という女官(じょかん)が、天皇におさかずきを捧(ささ)げて、お酒をおつぎ申しました。すると、あいにく、けやきの葉が一つ、そのさかずきの中へ落ちこみました。采女(うねめ)はそれとも気がつかないで、なおどんどんおつぎ申しました。天皇はふと、その木の葉をご覧(らん)になりますと、たちまちむッとお怒(いか)りになって、いきなり采女(うねめ)をつかみ伏(ふ)せておしまいになり、お刀をおぬきになって、首を切ろうとなさいました。采女(うねめ)は、
「あッ」と怖(おそ)れちぢかんで、
「どうぞ命(いのち)だけはお許しくださいまし。申しあげたいことがございます」と言いながら、つぎのような意味の、長い歌を歌いました。
「このお宮は、朝日も夕日もよくさし入る、はればれとしたよいお宮である。堅(かた)い地伏(ぢふく)の上に立てられた、がっしりした大きなお宮である。お宮のそとには大きなけやきの木がそびえたっている。その大木(たいぼく)の上の枝(えだ)は天をおおっている。中ほどの枝は東の国においかぶさり、下の枝はそのあとの地方をすっかりおおっている。上の枝のこずえの葉は、落ちて中の枝にかかり、中の枝の落ちた葉は下の枝にふりかかる。下の枝の葉は采女(うねめ)が捧(ささ)げたおさかずきの中へ落ち浮(う)かんだ。
 それを見ると、大昔(おおむかし)、天地がはじめてできたときに、この世界が浮き油のように浮かんでいたときのありさまが思い出される。また、神さまが、大海(たいかい)のまん中へこの日本の島を作りお浮かべになった、そのときのありさまにもよく似(に)ている。ほんとは尊(とうと)くもめでたいことである。これはきっと、後の世までも話し伝えるに相違(そうい)ない」
 采女(うねめ)はこう言って、昔(むかし)からの言い伝えを引いておもしろく歌いあげました。天皇はこの歌に免(めん)じて、采女(うねめ)の罪を許しておやりになりました。すると皇后もたいそうお喜びになって、
「この大和(やまと)の高市郡(たかいちごおり)の高いところに、大きく茂(しげ)った広葉(ひろは)のつばきが咲(さ)いている。今、天皇は、そのつばきの葉と同じように、大きなお寛(ひろ)い、そして、その花と同じように美しくおやさしいお心で、采女(うねめ)をお許しくだすった。さあ、この貴(とうと)い天皇にお酒をおつぎ申しあげよ。このありがたいお情けは、みんなが後の世まで永(なが)く語り伝えるであろう」と、こういう意味のお歌をお歌いになりました。 
 それについで天皇も楽しくお歌をお歌いになり、みんなでにぎやかにお酒盛(さかもり)をなさいました。
 采女(うねめ)は罪を許されたばかりでなく、そのうえに、さまざまのおくだし物をいただいて、大喜びに喜びました。
 天皇はしまいに、おん年百二十四歳でおかくれになりました。

うし飼(かい)、うま飼(かい)

       一

 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)のおあとには、お子さまの清寧天皇(せいねいてんのう)がお立ちになりました。天皇はしまいまで皇后をお迎えにならず、お子さまもお一人もいらっしゃいませんでした。
 ですから天皇がおかくれになると、おあとをお継(つ)ぎになるお方がいらっしゃらないので、みんなはたいそう当惑(とうわく)して、これまでのどの天皇かのお血筋(ちすじ)の方をいっしょうけんめいにお探(さが)し申しました。すると、さきに大長谷皇子(おおはつせのおうじ)にお殺されになった、忍歯王(おしはのみこ)のお妹さまで忍海郎女(おしぬみのいらつめ)、またのお名まえを飯豊王(いいとよのみこ)とおっしゃる方が、大和(やまと)の葛城(かつらぎ)の角刺宮(つのさしのみや)というお宮においでになりました。それで、このお方にともかく一時(じ)政(まつりごと)をおとりになっていただきました。みんなは、例の忍歯王(おしはのみこ)のお子さまの意富祁(おおけ)、袁祁(おけ)のお二人が、播磨(はりま)の国でうし飼(かい)、うま飼(かい)になって、生きながらえておいでになるということはちっとも知らないでいました。
 その後まもなく、その播磨(はりま)の国へ、山部連小楯(やまべのむらじおだて)という人が国造(くにのみやつこ)になって行きました。するとその地方の志自牟(しじむ)という者が新築(しんちく)したおうちでお酒盛(さかもり)をしました。そのとき小楯(おだて)をはじめ、よばれた人たちも、お酒がまわるにつれて、みんなで代わる代わる立って舞(まい)を舞いました。しまいにはかまどのそばで火をたいていたきょうだい二人の火たきの子供にも舞えと言いました。
 すると弟のほうの子は、兄の子に向かって、おまえさきにお舞いと言いました。兄は弟に向かって、おまえから舞えと言いました。みんなは、そんないやしい小やっこどもが、人なみに、もっともらしくゆずり合うのをおもしろがって、やんやと笑(わら)いました。
 そのうちに、とうとう兄のほうがさきに舞いました。弟はそのあとに舞い出そうとするときに、まず大声でつぎのような歌を歌って自分たちきょうだいの身の上をうちあけました。
「男らしい大きな男が、太刀(たち)のつかに赤い飾(かざ)りをつけ、太刀のおには赤いきれをつけて、いかにも人目を引く姿(すがた)をしていても、深くおい茂(しげ)ったたけやぶの後ろにはいれば、隠(かく)れて目にも見えない」と、こう歌いだして、たけやぶという言葉(ことば)を引き出した後、
「そんなたけやぶの大きなたけを割って、それを並(なら)べてこしらえた、八絃琴(はちげんきん)は、それはそれは調子がよく整(ととの)って申し分がない。今から五代(だい)前(まえ)の履仲天皇(りちゅうてんのう)は、ちょうどその琴(こと)のしらべと同じように、どこまでもりっぱに天下をお治めになったお方である。その皇子(おうじ)に忍歯王(おしはのみこ)とおっしゃる方がいらしった。みんなの人々よ、われわれ二人は、その忍歯王(おしはのみこ)の子であるぞ」と歌いました。
 小楯(おだて)はそれを聞くとびっくりして、床(ゆか)からころがり落ちてしまいました。そして大あわてにあわてて、さっそくみんなを残らず追い出したうえ、意外なところでお見出し申した、意富祁(おおけ)、袁祁(おけ)のお二人を左右のおひざにお抱(かか)え申しながら、お二人の今日(こんにち)までのご辛苦(しんく)をお察し申しあげて、ほろほろと涙(なみだ)を流して泣(な)きました。
 小楯(おだて)はそれから急いでみんなを集めて、仮のお宮をつくり、お二人をその中にお移し申しました。そして、すぐに大和(やまと)へ早うまの使いを立てて、おんおば上の飯豊王(いいとよのみこ)にご注進(ちゅうしん)申しあげました。飯豊王(いいとよのみこ)はそれをお聞きになると、大喜びにお喜びになり、すぐにお二人をお呼(よ)びのぼせになりました。

       二

 お二人は、角刺(つのさし)のお宮でだんだんにご成人(せいじん)になりました。
 あるとき袁祁王(おけのみこ)は、歌がきといって、男や女がおおぜいいっしょに集まって、歌を歌いかわす催(もよお)しへおでかけになりました。
 そのとき菟田首(うたのおびと)という人の娘(むすめ)で、王(みこ)がかねがねお嫁(よめ)にもらおうと思っておいでになる、大魚(おうお)という美しい女の人も来あわせておりました。するとそのころ、臣下の中でおそろしく幅(はば)をきかせていた志毘臣(しびのおみ)というものが、その大魚(おうお)の手を取りながら、袁祁王(おけのみこ)にあてつけて、
「ああ、おかしやおかしや、お宮の屋根がゆがんでしまった」と歌いだし、そのあとの歌のむすびを王(みこ)にさし向けました。王(みこ)は、すぐにそれをお受けになって、
「それは大工(だいく)がへただからゆがんだのだ」とお歌いになりました。すると志毘(しび)は重(かさ)ねて、
「いや、どんなに王(みこ)があせられても、わしがゆいめぐらした、八重(やえ)のしばがきの中へははいれまい。大魚(おうお)とわしとの仲(なか)をじゃますることはできまい」と歌いかけました。王(みこ)はすかさず、
「潮(しお)の流れの上の、波の荒(あら)いところにしびが泳いでいる。しびのそばにはしびの妻がついている。ばかなしびよ」とお歌いになりました。
 そうすると志毘(しび)はむっと怒(おこ)って、
「王(みこ)のゆったしばがきなぞは、いかに堅固(けんご)にゆいまわしてあろうとも、おれがたちまち切り破って見せる。焼き払(はら)って見せてやる」と歌いました。王(みこ)はどこまでも負けないで、
「あはは、しびよ。そちは魚(さかな)だ。いかにいばっても、そちを突(つ)きに来る海人(あま)にはかなうまい。そんなにこわいものがいては悲しかろう」とお歌いになりました。
 王(みこ)は、そんなにして、とうとう夜があけるまで歌い争っておひきあげになりました。そして、お宮へお帰りになるとすぐに、お兄上の意富祁王(おおけのみこ)とご相談なさいました。志毘(しび)はひとりでつけあがって、われわれをもまるで踏(ふ)みつけている。われわれのお宮に仕えている者も、朝はお宮へ来るけれど、それからさきは昼じゅう志毘(しび)の家に集まってこびいっている。あんなやつは後々のために早く討(う)ち亡(ほろぼ)してしまわなければいけない。志毘(しび)は今ごろは疲(つか)れて寝入(ねい)っているにちがいない。門には番人もいまい、襲(おそ)うのは今だとお二人でご決心になりました。そしてすぐに軍勢を集めて志毘(しび)の家をお取り囲みになり、目あての志毘(しび)を難なく切り殺しておしまいになりました。

       三

 お二人はもはや、お年の上でも十分おひとり立ちで天下をお治めになることがおできになるので、順序(じゅんじょ)からいって、お兄上の意富祁王(おおけのみこ)が、まず第一にご即位(そくい)になるのがほんとうでした。しかし、命(みこと)は弟さまに向かって、
「二人が志自牟(しじむ)のうちにいたときに、もしそなたが名まえを名乗らなかったら、二人ともあのままあそこに埋(うず)もれていなければならなかったはずであった。お互(たが)いにこんなになったのもみんなそなたのお手柄(てがら)である。それで、私は兄に生まれてはいるけれど、どうかそなたからさきに天下を治めておくれ」とおっしゃいました。袁祁王(おけのみこ)はそのことだけはどこまでもご辞退(じたい)になりましたが、お兄上がどうしてもお聞きいれにならないので、とうとうしかたなしに、第一にお位におつきになりました。後に顕宗天皇(けんそうてんのう)と申しあげるのがすなわちこの天皇でいらっしゃいます。
 天皇はそれといっしょに大和(やまと)の近飛鳥宮(ちかあすかのみや)へお移りになり、石木王(いしきのみこ)という方のお子さまの難波王(なにわのみこ)とおっしゃる方を、皇后にお迎えになりました。
 天皇は、お父上の忍歯王(おしはのみこ)のご遺骨(いこつ)をおさがし申そうとおぼしめして、いろいろ、ご苦心をなさいました。すると、近江(おうみ)から一人の卑(いや)しい老婆(ろうば)がのぼって来て、
「王(みこ)のお骨(こつ)をお埋(う)め申したところは私がちゃんと存じております。おそれながら、王(みこ)には、ゆりの根のようにお重(かさ)なりになったお歯がおありになりました。そのお歯をご覧(らん)になりませば、王(みこ)のお骨(こつ)ということはすぐにお見分けがつきます」と申しあげました。天皇はさっそく近江(おうみ)の蚊屋野(かやの)へおくだりになって、土地の人民におおせつけになって、老婆(ろうば)の指(さ)す場所をお掘(ほ)らせになり、たしかにお父上のご遺骨をお見出しになりました。それで蚊屋野(かやの)の東の山にみささぎを作ってお葬(ほうむ)りになり、さきに、お父上たちに猟をおすすめ申しあげた、あの韓袋(からぶくろ)の子孫をお墓守(はかも)りにご任命になりました。
 天皇はそれからご還御(かんぎょ)の後、さきの老婆(ろうば)をおめしのぼせになりまして、
「そちは大事な場所をよく見届(みとど)けておいてくれた」とおほめになり、置目老媼(おきめのおみな)という名をおくだしになりました。そして、とうぶんそのまま宮中(きゅうちゅう)へおとどめになって、おてあつくおもてなしになった後、改めてお宮の近くの村へお住ませになり、毎日一度はかならずおそばへめして、やさしくお言葉(ことば)をかけておやりになりました。天皇はそのためにわざわざお宮の戸のところへ大きな鈴(すず)をおかけになり、置目(おきめ)をおめしになるときは、その鈴をお鳴らしになりました。
 後には置目(おきめ)は、
「私もたいそう年をとりましたので、生まれた村へ帰りたくなりました」と申しあげました。
 天皇は置目(おきめ)のおねがいをお許しになり、それではもうあすからそなたを見ることもできないのかとおっしゃる意味の、お別れの歌をお歌いになりながら、わざわざ見送りまでしておやりになりました。
 つぎに天皇は、昔(むかし)お兄上とお二人で大和(やまと)からお逃(に)げになる途中で、おべんとうを奪(うば)い取った、あのしし飼(かい)の老人をおさがし出しになって大和(やまと)の飛鳥川(あすかがわ)の川原(かわら)で死刑(しけい)にお行ないになりました。その悪者の老人は志米須(しめす)というところに住んでおりました。天皇はなおその上の刑罰(けいばつ)として、その老人の一族の者たちのひざの筋(すじ)を断(た)ち切らせておしまいになりました。これらの者たちは、その後大和(やまと)へのぼるのに、いつもびっこを引いて出て来ました。

       四

 天皇は、お父上をお殺しになった雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)を、深くお恨(うら)みになりまして、せめてそのみ霊(たま)に向かって復しゅうをしようというおぼしめしから、人をやって、河内(かわち)の多治比(たじひ)というところにある、天皇のみささぎをこわさせようとなさいました。
 するとお兄上の意富祁王(おおけのみこ)が、
「天皇のみささぎをこわすためなら、ほかのものをやってはいけません。私(わたし)が自分で行っておぼしめしどおりこわして来ます」とご奏上(そうじょう)になりました。天皇は、
「それではあなたがおいでになるがよい」とお許しになりました。意富祁王(おおけのみこ)は急いでお出かけになりました。そしてまもなくお帰りになって、
「ちゃんとこわしてまいりました」とおっしゃいました。
 しかし、そのお帰りがあんまりお早いので、天皇は変だとおぼしめし、
「いったいどんなふうにおこわしになったのです」とおたずねになりました。するとお兄上は、
「実はみささぎの土を少しだけ掘(ほ)りかえしてまいりました」とお答えになりました。天皇は、それをお聞きになって、
「それはまたどういうわけでしょう。お父上の復しゅうをするのに、土を少し掘って帰られただけでは飽(あ)きたりないではありませんか。なぜみささぎをすっかりこわして来てくださらないのです」とおっしゃいました。お兄上は、
「そのおおせはいちおうごもっともです。しかし、相手の方はいくら父上のかたきとはいえ、一方ではわれわれのおじであり、またわれわれの天皇のお一人でいらっしゃるお方です。私たちがただ父上のかたきということだけ考えて天皇ともある方のみささぎをこわしたとなりますと、後の世の人から必ずそしりを受けます。ただかたきはどこまでも報いねばならないので、その印(しるし)に土を少し掘(ほ)って来たのです。このくらいの恥(はじ)を与えたのならば、後世(こうせい)だれにもはばかることはありますまいから」
 こう言って、そのわけをお話しになりました。すると天皇も、
「なるほどそれは道理である。あなたのなさったとおりでよろしい」とおっしゃってご満足になりました。
 天皇は八年の間天下をお治めになった後、おん年三十八歳でおかくれになりました。天皇はお子さまが一人もおありになりませんでした。それでおあとにはお兄上の意富祁王(おおけのみこ)が仁賢天皇(にんけんてんのう)としてご即位(そくい)になりました。
 天皇は大和(やまと)の石上(いそのかみ)の広高宮(ひろたかのみや)へお移りになり、皇后には雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)のお子さまの春日大郎女(かすがのおおいらつめ)とおっしゃる方をお立てになりました。
 天皇のおつぎには、皇子(おうじ)小長谷若雀命(こはつせのわかささぎのみこと)が武烈天皇(ぶれつてんのう)としてお位におつきになりました。そのおあとには、継体(けいたい)、安閑(あんかん)、宣化(せんか)、欽明(きんめい)、敏達(びたつ)、用明(ようめい)、崇峻(すしゅん)、推古(すいこ)の諸天皇(しょてんのう)がつぎつぎにお位におのぼりになりました。

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鈴木 三重吉 Suzuki, Miekichi  生年: 1882-09-29  没年: 1936-06-27
小説家、児童文学者。広島市猿楽町に生まれ、九歳で母を失う。東京帝国大学文学部英文学科在籍時、私淑する夏目漱石に送った「千鳥」が、夏目の推薦を得て「ホトトギス」に掲載される。大学卒業後、一時、中学校教師を務めたが、「小鳥の巣」「桑の実」などを発表、小説家としての評価を高める。娘「すず」のために、子供の読み物をあさったことをきっかけの一つとして、童話への関心を抱くようになり、1916(大正5)年、童話集「湖水の女」を出版。以降は、児童文学に集中する。1918(大正7)年7月、児童文芸誌「赤い鳥」を創刊。芥川竜之介、有島武郎、小川未明、島崎藤村、新美南吉等、当時活躍していた作家に執筆を働きかけて、子供たちに質の高い読み物を提供しようと試みる一方、子供達からの作品を求め、誌面で紹介。「赤い鳥」は、生活綴り方の源流としての役割も果たした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E4%B8%89%E9%87%8D%E5%90%89
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person107.html

今わたしたちから奪われているのは、想像する力と、いくばくかの時間だ。眼の前に提示されるのは、想像することをや   めさせているドラマたちである。

2008年2月28日 (木)

古事記から聞こえてきた物語

昔々、大和は三輪山のふもと、引田部(ヒケタベ)の村に、アカイコという女がいた。
赤い猪の子、という名は、三輪山の信仰にちなんだ名であって、決して赤ら顔の猪に似ていたわけではない。
それどころか、幼いころからあかあかと照り輝いて美しかった。

ある日のこと、川で衣を洗っていると、背後に気配がした。振り向いて見ると、わらわらと男どもがやってきた。野山遊びのなりではあったが、みんな立派なかたちをしていた。
先頭はとりわけきらぎらしい少年だった。目が合った。アカイコの心にぼっと火がともった。誘いの型どおりに少年が問うた。
「きみはどこの子だ」
浅黒い精悍な顔に、やんちゃな表情を浮かべていた。確かに初めて会うのだが、どこか深々と懐かしい気がする。アカイコはすっと、これもまた型どおりに答えていた。
「ヒケタベのアカイコという」
名を教えるのは受け入れたしるし。喜びが、少年の目に一瞬、走った。そして言った。
「結婚するなよ。今に召すから」
アカイコがうなづくやいなや、少年は走り出し、男たちが笑いながらあとを追った。アカイコは微笑んでまた川に向き合い、鼻唄まじりで仕事を続けた。

あの少年は長谷(はつせ)の宮の大王である、と知ったのは、その翌日。村人の噂話でだった。それで「召す」などとエラそうなことを言ったのか、とアカイコは合点して、くすりと笑った。それだけのことだった。大王はどうしようもない乱暴者だ、という評判にも、アカイコの心は動かなかった。すぐにかっとして人を殺す、という噂話も、少年がともした心の火を消すことはなかった。

それからは誰の誘いも拒んだ。あまりしつこく誘われると、怒った。それで、なんと情のこわい女だ、あれではアカイコというよりコワイコだ、と仇名がついて、いつしか誘いはなくなった。

けれどアカイコは幸せだった。
少年との約束を胸に秘めて、光った。
誘われよう、という気がないので、のびのびと暮らした。好きなように寝起きし、好きなように装い、好きなようにふるまった。
それで、アカイコはますます照り輝いた。
親きょうだいも村人も、そんなアカイコを愛した。
恋人からの連絡を、首を長くして待ってはいたが、だからアカイコは少しも淋しくなかった。

(つづきは妖精の詩 「アカイコ」の頁へ)
http://faily.cocolog-nifty.com/blog/cat7925356/index.html

2008年2月27日 (水)

神世七代

日本神話で天地開闢のとき生成した七代の神の総称。またはその時代をいう。神代七代とも書き、天神七代ともいう。初めは、抽象的だった神々が、次第に男女に別れ、異性を感じるようになり、最終的には愛を見つけ出し夫婦となる過程をもって、男女の体や性が整っていくことを表す部分だと言われている。
古事記では、別天津神の次に現れた十二柱七代の神を神世七代としている。最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代とする。

1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
3.宇比邇神(ういじのかみ)・須比智邇神(すいじのかみ)
4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5.い富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
(左側が男神、右側が女神)

○国之常立神(くにのとこたち)独神、国土の根源神
天地開闢の際に出現した神である。古事記においては神世七代の一番目に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為している。独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。日本書記本文では、国常立尊が最初に現れた神としており、男神であると記している。他の一書においても、一番目か二番目に現れた神となっている。記紀ともに、それ以降の具体的な説話はない。神名の「クニノトコタチ」は、国の床(とこ、土台、大地)の出現を表すとする説や、国が永久に立ち続けるの意とする説など、諸説ある。

日本書紀では最初、古事記でも神代七代の一番目に現れた神とされることから、始源神・根源神・元神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とした。その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れをくむ教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。例えば大本教では、根本神である艮の金神は国之常立神と同一神であるとされ、昭和19年6月10日に千葉県成田市台方の麻賀多神社で岡本天明に降ろされた日月神示もこの神によるものとされる。

○豐雲野神(とよくもの)独神
古事記では、神代七代の二番目、国之常立神の次に化生したとしている。国之常立神と同じく独神であり、すぐに身を隠したとある。日本書紀本文では、天地開闢の後、国常立尊、国狭槌尊の次の三番目に豊斟渟尊が化生したとしており、これらの三柱の神は男神であると記している。第一の一書では、国常立尊・国狭槌尊の次の三番目に化生した神を豊国主尊(とよくにぬしのみこと)とし、別名がして豊組野尊(とよくむののみこと)、豊香節野尊(とよかぶののみこと)、浮経野豊買尊(うかぶののとよかふのみこと)、豊国野尊(とよくにののみこと)、豊野齧尊(とよかぶののみこと)、葉木国野尊(はこくにののみこと)、見野尊(みののみこと)であると記している。「豊」がつく名前が多く、豊雲野神・豊斟渟尊と同一神格と考えられている。第二から第六の一書には、同一神とみられる神名は登場しない。古事記・日本書紀とも、これ以降、豊雲野神が神話に登場することはない。
神話にはほとんど名前しか登場しないので、その神格については神名しか手がかりがなく、様々な解釈が行われている。『古事記伝』では、「豊国野尊」の別名に注目して、豊かに富み足りた国の意であるとしている。
「クモ」「クミ」「クニ」などは「籠る」「組む」の意味で、浮脂のように漂っていたものが次第に固まる様子を表したものという説 「クモ」「クム」などは「木間(こま)」の意味で、樹木が生えている土地を表すという説

○宇比地邇神(うひぢに)と妹須比智邇神(すひぢに)
神世七代の第3代の神で、ウヒヂニが男神、スヒヂニが女神である。それまでは独神であったが、この代ではじめて男女一対の神となった。神名の「ウ」は泥(古語で「うき」)、「ス」は沙(砂)の意味で、大地が泥や沙によってやや形を表した様子を表現したものである。

○角杙神(つのぐひ)と妹活杙神(いくぐひ)
神世七代の第4代の神で、ツヌグイが男神、イクグイが女神である。「クイ(クヒ)」は「芽ぐむ」などの「クム」で、「角ぐむ」は角のように芽が出はじめる意、「活ぐむ」は生育しはじめるの意である。泥土が段々固まってきたことにより、生物が発成し育つことができるようになったことを示す神名である。

○意富斗能地神(おほとのぢ)と妹大斗乃辨神(おほとのべ)
神世七代の第5代の神で、オオトノヂが男神、オオトノベが女神である。大地が完全に凝固した時を神格化したもので、「ヂ」は男性、「ベ」は女性の意味である。また、「ト」は「ミトのマグワイ」の「ト」で、性器の象徴であるとする説もある。

○於母蛇流神(おもだる)と妹阿夜詞志古泥神(あやかしこね)
神世七代の第6代の神で、オモダルが男神、アヤカシコネが女神である。オモダルは「大地の表面(オモ=面)が完成した(タル=足る)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの(『古事記伝』による)である。中世には、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における天界の最高位である第六天魔王の垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。明治の神仏分離により、第六天魔王を祀る寺の多くは神社となり、「第六天神社」「面足神社」と改称した。

○伊邪那岐神と伊邪那美神男女の神、夫婦
イザナキ(伊弉諾・伊邪那岐)は、日本神話に登場する男神。イザナギという名で知られているが、近年の上代文学研究者の間では、イザナキと呼ぶのが一般的になっている。『古事記』では伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神と表記される。

イザナミの夫。文中に「妹伊邪那美」の記述があるためイザナミの兄であると誤解されるが、この場合の「妹」は妻や年下の女性を親しみを込めて使う言葉であって、自分より年下の女子の兄弟の意味ではないとされる。天地開闢において神世七代の最後にイザナミとともに生まれた。国産み・神産みにおいてイザナミとの間に日本国土を形づくる多数の子を儲ける。その中には淡路島を筆頭に本州・四国・九州等の島々、石・木・海(大綿津見神)・水・風・山(大山津見神)・野・火など森羅万象の神が含まれる。

イザナミが、火の神であるカグツチを産んだために陰部に火傷を負って亡くなると、そのカグツチを殺し(その血や死体からも神が生まれる)、出雲と伯伎(伯耆)の国境の比婆山に埋葬した。しかし、イザナミに逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉国まで逢いに行くが、そこで決して覗いてはいけないというイザナミとの約束を破って見てしまったのは、腐敗してウジにたかられ、雷(いかづち)に囲まれたイザナミの姿であった。その姿を恐れてイザナキは逃げ出してしまう。追いかけるイザナミ、雷(いかづち)、黄泉醜女(よもつしこめ)らをやっとの思いで振り切り、黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を大岩で塞ぎ、イザナミと離縁した。その後、イザナキが黄泉国のケガレを落とすために日向国で禊を行うと様々な神が生まれ、最後にアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子が生まれた。イザナキは三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。しかし、スサノオが「妣国根之堅州国」へ行きたいと言って泣き止まないためスサノオを追放し、淡道(淡路島、淡路市)の多賀に篭った。古事記の写本の一部には淡海(近江、滋賀県犬上郡)の多賀との記載があるが古事記では近江を近淡海と書いており淡道の誤写ではないかと考えられる。日本書紀では淡道で統一されている。
名前の「いざな」は「誘う(いざなう)」の意で、「ぎ」は男性を表す語である。また、イザ・ナギ(凪)と解してイザ・ナミ(波)と対の神名であるとする説もある
(Wikipedia)より

Izanami_and_izanagi

世界の最初に高天原で、別天津神・神世七代という神々が生まれた。これらの神々の最後に生まれてきたのが、イザナキ・イザナミである。葦原中国に降り、結婚して、大八洲と呼ばれる日本列島を形成する島々を次々と生み出していった。さらに、様々な神々を生み出していったが、火の神カグツチを出産した際に、イザナミは火傷で死んでしまい出雲と伯耆の堺の比婆の山(現;島根県安来市)に埋葬された。イザナキはカグツチを殺し、イザナミをさがしに黄泉の国へと赴く。しかし、黄泉の国のイザナミは既に変わり果てた姿になっていた。これにおののいたイザナキは逃げた。イザナキは、黄泉のケガレを嫌って、禊をした。この時も、様々な神々が生まれた。左目を洗った時に生まれた神がアマテラス(日の神、高天原を支配)・右目を洗った時にツクヨミ(月の神、夜を支配)・鼻を洗った時にスサノオ(海原を支配)が成り、この三柱の神は三貴子と呼ばれ、イザナキによって世界の支配を命じられた。

スサノオは、イザナミのいる根の国へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。そして、アマテラスの治める高天原へと登っていく。アマテラスは、スサノオが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えて、スサノオを迎えた。スサノオは、アマテラスの疑いを解くために、各の身につけている物などで子(神)を産みその性別によりスサノオは身の潔白を証明した。これによりアマテラスはスサノオを許したが、スサノオが高天原で乱暴を働いたため、アマテラスは、天岩戸に隠れた。日の神であるアマテラスが隠れてしまったために、太陽が出なくなってしまい、神々は困った。そこで、計略でアマテラスを天岩戸から出した。スサノオは、下界に追放された。

スサノオは、出雲の国に降り立った。そして、害獣であるヤマタノオロチ(八俣遠呂智)を切り殺し、国津神の娘と結婚する。スサノオの子孫である大国主は、スサノオの娘と結婚し、スクナビコナと葦原中国の国づくりを始めた。出雲風土記では意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名制定説話にヤマタノオロチ退治がでるが、スサノオではなく大穴持(大国主)神となっているところに相違がある。

アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に使わした。大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も大国主の為の宮殿建設と引き換えに、天津神に国を譲ることを約束する。この宮殿は後の出雲大社である。

アマテラスの孫であるニニギが、葦原中国平定を受けて、日向に降臨した。ニニギは、コノハナノサクヤビメと結婚した。

ニニギの子である海幸彦・山幸彦は、山幸彦が海幸彦の釣り針をなくしたことでけんかになった。山幸彦は、海神の宮殿に赴き、釣り針を見つけ、釣り針を返した。山幸彦は海神の娘と結婚し、ウガヤフキアエズという子をなした。ウガヤフキアエズの子が、カムヤマトイワレヒコ(又はカンヤマトイワレヒコ。後の神武天皇)である。

カムヤマトイワレヒコは、兄たちと図って、ヤマトを支配しようともくろむ。ヤマトの先住者たちは果敢に抵抗し、カムヤマトイワレヒコも苦戦するが、結局天孫のカムヤマトイワレヒコの敵ではなかった。カムヤマトイワレヒコは、畝傍橿原宮の山麓で、即位する。これが、初代天皇である神武天皇である。

神武天皇の死後、神武天皇が日向にいた時の子であるタギシミミが反乱を起こす。カムヌナカワミミがそれを破り、皇位を継ぐ。

[比較神話]  日本神話の中には、他の神話との関連性を指摘されている物が多く存在する。
ギリシャ神話に於けるオルフェウスの黄泉の国行きと伊弉諾尊の黄泉の国行き、デメテルと天照大神が隠れると草花が枯れるなど多くの類似点が見られると言われている(→死と再生の神)。
アポロンのカラスと八咫烏、中国の金烏は何れも太陽神の使い、元は白い、星図によっては烏座が三本足のものもあるなど類似性を指摘されている。(三本足のカラスについては、一説には太陽黒点の図形が起源ともいわれている。)
アレキサンダー大王の説話と神武天皇の遠征と類似しているという説もある。
イザナギとイザナミは兄妹であるが、人類の始祖たる男女が兄妹であったとする神話は南アジアからポリネシアにかけて広くみられる。
イザナミは「最初の死人」となり「死の国を支配する神」となったが「最初の死人」が「死の国を支配する神」となる話は古代エジプトのオシリスやインドのヤマなどに見られる。
イザナギが黄泉の国から帰ってきたときに筑紫の日向にて行った禊のときに左目を洗うとアマテラス(太陽)が、右目を洗うとツキヨミ(月)が誕生したという話の類似例としては、中国神話において創造神たる盤古の死体のうち左目が太陽に、右目が月に化生したとされる話が見られる。
因幡の白兎が、海を渡るのにサメを騙して利用する話があるが、動物が違えど似た内容の昔話が南方の島にある。(Wikipedia)より

日本神話と比較神話 『ギリシャ神話と日本神話――比較神話の試み』
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai02/tz0203.html

2008年2月26日 (火)

天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が語られ、天孫が降臨し山幸彦までの神代の話を記す「日本神話」

天地開闢とともに様々な神が生まれたとあり、その最後にイザナキ、イザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで山の神、海の神などアニミズム的な様々な神を産んだ。こうした国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまった。そのなきがらは出雲と伯耆の堺の比婆山(現;島根県安来市)に葬られた。イザナキはイザナミを恋しがり、黄泉の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わってしまう。

イザナキは、黄泉の国の穢れを落とすため、禊を行い、左目を洗った時に天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗った時に月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗った時に須佐之男命(スサノオノミコト)を産む。これら三神は、三貴子と呼ばれ、神々の中で重要な位置をしめるのだが、月読命に関しては、その誕生後の記述が一切ない。スサノオノミコトは乱暴者なため、姉の天照大御神に反逆を疑われる。そこで、天照大御神とスサノオノミコトは心の潔白を調べる誓約を行う。その結果、スサノオノミコトは潔白を証明するが、調子に乗って狼藉を働いてしまう。我慢の限度を越えた天照大御神は、天岩屋戸に閉じこもるが、集まった諸神の知恵で引き出すことに成功する。

一方スサノオノミコトは神々の審判を受けて高天原を追放され、葦原中津国の出雲国に下る。ここまでは乱暴なだけだったスサノオノミコトの様相は変化し、英雄的なものとなって有名なヤマタノオロチ退治を行なう。次に、スサノオノミコトの子孫である大国主神が登場する。大国主の稲羽の素兎(因幡の白兎)や求婚と受難の話が続き(大国主の神話)、スクナヒコナと供に国作りを進めたことが記される。国土が整うと国譲りの神話に移る。天照大御神は、葦原中津国の統治権を天孫に委譲することを要求し、大国主と子供の事代主神はそれを受諾する。しかし、子の建御名方神は、始めは承諾せず抵抗するが、後に受諾する。葦原中津国の統治権を得ると高天原の神々は天孫ニニギを日向の高千穂に降臨させる。次にニニギの子供の山幸彦と海幸彦の説話となり、浦島太郎の説話のルーツとも言われる、海神の宮殿の訪問や異族の服属の由来などが語られる。山幸彦は海神の娘と結婚し、彼の孫の神武天皇が誕生することをもって、「古事記」上巻は終わる。

[古事記に出てくる主な神々]
別天(ことあま)つ神五柱(いつはしら)独神(ひとりがみ)

○天之御中主神(あめのみなかぬし)独神、天原の中心の神
神話に殆ど記述がなく、生活に直接かかわる神ではないため、長らく信仰の対象とはされてこなかった。中世以降になって、寺院や陰陽道などで祭られるようになった。現在、この神を祭る神社には、妙見社系と水天宮系の二系統がある。妙見社系の端緒は、道教における天の中央の至高神(天皇大帝)信仰にある。北極星・北斗七星信仰、さらに仏教の妙見信仰(妙見菩薩・妙見さん)と習合され、平田篤胤が北斗七星の神とする教学を確立した。さらに、明治初期に大教院の祭神とされ、いくつかの神社が祭神を天之御中主神に改めた。千葉氏ゆかりの千葉神社、九戸氏ゆかりの九戸神社、埼玉県の秩父神社などは妙見信仰のつながりで天之御中主神を祀る妙見社である。妙見社は千葉県県では宗教法人登録をしているものだけでも50社以上もある。全国の小祠は数知れない。水天宮は、元は仏教の神・水天を祀るものであるが、神仏分離の際、水天の元となったヴァルナの神格が始源神であることから、記紀神話における始源神・天之御中主神に置き換えられたものである。

○高御産巣日神(たかむすび)独神、生成力の神格化
天照大神の御子神・天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が高皇産霊神(タカミムスビノカミ)の娘と結婚して生まれたのが天孫ニニギノミコトであるので、タカミムスビは天孫ニニギの外祖父に相当する。古事記によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(カミムスビノカミ)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神である。天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の三神とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。この造化三神のうち、神皇産霊神・高皇産霊神は、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられたため、神祇官八神として八神殿で祀られた。タカミムスビは、日本書紀では、天地初発条一書第四に「又曰く~」という形式で登場しているに過ぎない神であり、その他では巻十五の顕宗紀において阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に名前が登場する程度ではあるが、天孫降臨神話では天照大神より優位に立って天孫降臨を司令している伝が存在することから、この神が本来の皇祖神だとする説もある。また、延喜式祝詞・出雲国神賀詞には、「神王タカミムスビ」とされている。神皇産霊神は出雲神話で、高皇産霊神は高天原神話で働くという。天津国玉神の子である天稚彦(アメノワカヒコ)が、天孫降臨に先立って降ったが復命せず、問責の使者・雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を射殺した。それが高皇産霊神の怒りに触れ、その矢を射返されて死んだという。「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神であり、女神的要素を持つ神皇産霊神と対になって男女の「むすび」を象徴する神であるとも考えられる。子に八意思兼神(ヤゴココロオモイカネノカミ)、萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)がいる。

○神産巣日神(かみむすび)独神、生成力の神格化
天地開闢の時、天御中主神・高皇産霊神の次に高天原に出現し、造化の三神の一とされる。本来は性のない独神であるが、造化三神の中でこの神だけが女神であるともされる。また、先代旧事本紀においては、高皇産霊神の子であるとも言われる。大国主が兄神らによって殺されたとき、大国主の母が神産巣日神に願い出、神皇産霊尊に遣わされた蚶貝姫と蛤貝姫の治療によって大己貴命は蘇生する。古事記では、少彦名神は神産巣日神の子である。「産霊」は生産・生成を意味する言葉で、高皇産霊神とともに「創造」を神格化した神であり、高皇産霊神と対になって男女の「むすび」を象徴する神でもあると考えられる。

○宇摩志阿斯詞備比古遲神(うましあしかびひこぢ)独神
天地開闢において現れた別天津神の一柱である。古事記では宇摩志阿斯訶備比古遅神、日本書紀では可美葦牙彦舅尊と表記する。古事記では、造化三神が現れた後、まだ地上世界が水に浮かぶ脂のようで、クラゲのように混沌と漂っていたときに、葦が芽を吹くように萌え伸びるものによって成った神としている。すなわち4番目の神である。日本書紀本文には書かれていない。第2・第3の一書では最初に現れた神、第6の一書では2番目に現れた神としている。独神であり、すぐに身を隠したとあるだけで事績は書かれておらず、これ以降日本神話には登場しない。神名の「ウマシ」は「うまし国」などというのと同じで良いものを意味する美称である。「アシ」は葦、「カビ」は黴と同源で、醗酵するもの、芽吹くものを意味する。ここでは「アシカビ」で「葦の芽」のことになる。すなわち、葦の芽に象徴される万物の生命力を神格化した神である。一般的に活力を司る神とされる。「ヒコヂ」は男性を表す語句であるが、この神は独り神であり性別を持たない。葦が芽吹く力強さから、中国から伝わった陰陽思想の影響により「陽の神」とみなされ、「ヒコ」という男性を表す言葉が神名に入ったものと考えられる。

○天之常立神(あめのとこたち)独神
天地開闢の際、別天津神五柱の最後に現れた神である。独神であり、現れてすぐに身を隠した。日本書紀本文には現れず、古事記および日本書紀の一書にのみ登場する。日本書紀では天常立尊と表記される。天(高天原)そのものを神格化し、天の恒常性を表した神である。先代旧事本紀では天之御中主神と同一の神であるとしている。その後に現れる国之常立神の方が古くから信仰されてきた神であり、国之常立神の対になる神として創造された神と考えられている。抽象的な神であり、神話に事績が全く出ないことから、祀る神社は少ない。

神世七代(かみよななよ)
国之常立神(くにのとこたち)独神、国土の根源神
豐雲野神(とよくもの)独神、
宇比地邇神(うひぢに)と妹須比智邇神(すひぢに)
角杙神(つのぐひ)と妹活杙神(いくぐひ)
意富斗能地神(おほとのぢ)と妹大斗乃辨神(おほとのべ)
於母蛇流神(おもだる)と妹阿夜詞志古泥神(あやかしこね)
伊邪那岐神と伊邪那美神男女の神、夫婦

三貴子(みはしらのうずのみこ)
天照大御神 イザナキが左の目を洗ったとき生まれた。
月読命(つくよみのみこと) イザナキが右の目を洗ったとき生まれた。
須佐之男命 イザナキが鼻を洗ったとき生まれた。

天之忍穂耳命
大国主神
邇邇芸命
火遠理命
鵜葺草葺不合命

(Wikipedia)より

グローバリゼーションという世界経済の自由化が進められてきた。
世界中の国々にアメリカのコーラやマクドナルドやハリウッド映画が広がっている。
コンピュータやインターネットの技術などもアメリカの独占場となって、グローバリゼーションとは、「世界の人々の生活スタイルの均一化」いった「アメリカ化」を促進している。
将来を担う子供達は国際化社会の中で生きて、今よりももっと外国人との交流や外国の文化に接する機会は多くなっていくだろう。国際化とは世界がひとつの国になるということではない。民族や文化が違う人々が、その違いを尊重しつつ、戦争のない平和な社会を作って行くことが、本当の意味の国際化でありえる。 外国の友達と互いの国の文化について話をするときに、自分たちの国の神話について何も知らないとすれば、それはとても恥ずかしいことだ。いったい何のために、この国を選んで生まれてきたのか意味を失っている。日本文化を理解する上でも、日本の神話の知識は不可欠といっていいだろう。

古事記の世界
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/kojiki/kojiki_top.htm

古事記の現代語訳
http://homepage1.nifty.com/Nanairo-7756/
http://www15.plala.or.jp/kojiki/

日本神話の御殿 「比較神話学の手法」と「伝承史の視点」から読み解く
http://nihonsinwa.at.infoseek.co.jp/index.htm

2008年2月25日 (月)

南極大陸こそがアトランティス

地球の自転軸移動以前の南極大陸こそがアトランティスであるという。
この説の特徴は「アトランティスは沈んでいない」ので構造地質学的な問題が全く発生しないとされている。なお、南極大陸から恐竜などの温暖な気候帯の生物の化石が発見されているのは事実であるが、プレートテクトニクスでは何万年もかけて大陸が移動した証拠とされている。

Aronax_atlantis

ポールシフト (pole shift) とは、惑星など天体の自転に伴う極(自転軸や磁極など)が、何らかの要因で現在の位置から移動すること。実際に、地球の地磁気は過去100万年あたり1.5回程度の頻度で反転していることが地質的に明らかである。自転軸に関しても、2004年12月26日に発生したマグニチュード9.3のスマトラ島沖地震では、北極の自転軸が最大で約2cm程度移動した(広義の"ポールシフト"、極運動が発生した)可能性があるとする予測がある。

2008年2月24日 (日)

オリハルコンは飛行船を宙に浮かせる事が出来る

今から約1万2000年前、現代文明をはるかに凌ぐ「アトランティス」と呼ばれる超古代文明が大西洋に存在した。このアトランティスについて最初に語ったのはギリシャの哲学者プラトンで、彼はこの伝説について『ティマイオス』と『クリティアス』という2つの著書に書き残している。

アトランティスは、リビアとアジアを合わせたほどの大きさがあり、場所は「ヘラクレスの柱の外側」にあった。そしてこの大陸に住むアトランティス人は、非常に徳が高く、聡明で、テレパシーも使い、「オリハルコン」と呼ばれる超金属を自在に操っていたという。ちなみにこの金属の性質について『クリティアス』の中では、「オリハルコンは飛行船を宙に浮かせる事が出来る」と書かれている。

オリハルコンをもとに、飛行機、船舶、潜水艦などが建造され、テレビ、ラジオ、電話、エレベーターが普及しており、エネルギーはレーザーを用いた遠隔操作によって供給されていた。しかしこれだけ高度な文明を持っていたアトランティスだが、今から約1万2000年前に大地震と大洪水が大陸を襲い、わずか一昼夜のうちに海中に没し、姿を消してしまった。

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アトランティスは海中に没して滅亡した原因は人々の心の乱れ、愛の欠如、食の乱れ、特記すべきは肉食の開始ということである。その状況は、丁度今の日本とシンクロと言えるほど共通点が多く見られる。人類の共通意識に、この時の絶望という感情が根深く残っており、それが現在カルマとして多くの人々の感情面に影響を与えている。
私達人類が集合意識のレベルで背負い続けてきている絶望のカルマがかなり軽減され、人類意識全体がアトランティス滅亡時代とのシンクロを終了することができ、次の段階である3万年前のアトランティス全盛時代とのシンクロを開始し始めた。私達の眠っている潜在意識や能力が、今までと比較できないほど目覚めやすくなり、更には顕在意識をも含めて、人類が最も進化していた3万年前のアトランティス全盛時代と同じ力を取り戻せる大きなチャンスが来たという。そして百匹目の猿の現象通り、ある一定人数がその能力に目覚めれば、世界中の人々が目覚めるという状況が起きるという。

Kritias Atlantiswww
・ほとんどの国民が超能力者であった
・能力開発のシステムが完璧だった
・人間の才能は国の宝であると共通の認識があった
・子供達の教育には、細心の注意が払われていた
・ 一人の子供に対して、複数の超能力者の教育者(乳母や保母や家庭教師)がついていた。
・男性も女性も自分の能力を使って仕事をしていた。
・特に結婚という形式的な夫婦関係はなかった。
・食べ物はほんの少々の穀類であり、超天才レベルになると食物は一切とらず、水だけだった
・貨幣経済ではなかった
・概念はあり、他国との貿易では使用していたが、国内では必要がなかった
・財産を所有したいという欲望から解放されていた
・必要な生活物資は、すべて無料で手に入った
・自給自足だった(もともと食物をそれほどど必要としなかった)
・平均寿命は140歳だった
・コミュニケーションはほとんどテレパシーによる。
・巨大遺跡群はこの頃造られた。

人類史上かつてないほどの繁栄を誇っていた、3万年前のアトランティス全盛時代より http://blog.livedoor.jp/parallel_life/archives/50035084.html

Mc185 クリティアス Κριτίας (Kritias, Critias) 

 前640年頃の有名な立法家でありギリシアの七賢人の一人ソロンが前590年頃エジプトのサイスに行った折、エジプトの神官からアトランティスの伝説を聞いたという。神官の話によると、都市国家アテネが成立した前9600年頃、アトランティスはすでに偉大な文明を築き上げていた。
 
 当時、アトランティスは破竹の勢いでヨーロッパとアジア全域に侵略していたが、アテネがこれに待ったをかけた。アトランティスはヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の前方にある巨大な島であり、リビアとアジアをアジアを合わせたよりも大きかった。リビアとティレニア(イタリア中部のエトルリア)を征服した偉大で絢爛たる帝国だったが、敵対国家アテネとの戦いに敗れ、ついに征服されたという。しかし、その時、巨大な洪水と地震がアテネとアトランティスの両方を襲い、かつて栄華を謳歌したアトランティスは島ごと波の下に没した……
 
 そこにはさながら海に浮かぶエデンの園、地上の楽園のような世界が描写されている。それによると、島の南端にはアクロポリス(環状都市)が位置しており、その北には高い山々で囲まれた豊かな平野が広がっていた。首都ポセイドニアは三つの環状濠と二つの環状島からなる直径2キロのアクロポリスで、そこにはポセイドンとその愛人クレイトーを祭る壮麗な王宮や神殿がそびえていた。神殿の表面はすべて銀で覆われ、内部も金、銀、象牙、そして炎のような輝きを放つ謎の金属オリハルコンで装飾されていた。
 
 海の神ポセイドンは、人間の処女クレイトーを運河に囲まれた丘の上に住まわせ、これに十人の子供を産ませてアトランティス種族を創始した。これによると、アトランティスは十人の王がそれぞれ十の部族を治める連合国家だったことになる。かれらは首都を丘の上に建て、これを同心円状に陸路と水路で幾重にも取り巻いていた。さらにこれを大規模なトンネル構造でつなぎ、海に向かう運河に連絡することで、内陸部から船で楽に海に出ることもできた。都市部には熱泉と冷泉の両方を備えた豪華な娯楽施設や共有の大レストラン、公園、学校、競技場、各種のスポーツスタジアムが建ち並び、道路は石組みにより完全に舗装されていた。
 
 アトランティスは亜熱帯性気候であるため、年中暖かく、山岳部には鬱蒼と茂る森林があった。また、大規模な灌漑水路網が確立しており、土壌も肥えていたため、農作物や果樹が豊かに実った。自然の恵みが豊かな楽園王国である一方、王宮近くには戦士の住居や戦車競技場があり、強大かつ膨大な軍事力を擁していた。広大な長方形の平野を6万の区画で仕切り、各小区画は戦時体制化においてさまざまな割り当てを課せられていた。全地区で一万台の戦車が組み立てられるような部品の供出や、重装兵・弓兵・投石兵など各二名ずつの徴兵が行われ、馬二頭、騎手二名の徴募もあった。
 
 総数はすべて、この人数を六万倍したものであり、さらに十の国の総軍事力となると想像もつかないほど膨大で桁外れの軍備であっただろう。この先、『クリティアス』はゼウスは……罰を与えようとお考えになった……神々を残らずお集めになり、神々が集まってこられると、申された……という記述を最後に、未完のまま中断している。彼は『クリティアス』を完成させることも、3部作を締めくくる第三の対話編『ヘルモクラテス』を書くこともなく終わった。ティマイオスの内容から推測して、大陸そのものの壊滅によるアトランティス人への審判が書かれるはずだったのだろう。
  http://www.fitweb.or.jp/~entity/kodaibunmei/atoranthisu.html

2008年2月23日 (土)

アトランティス (Atlantis) とは

古代ギリシアの哲学者プラトン (紀元前427頃–347頃) が著作『ティマイオス』 (Timaios) 及び『クリティアス』 ( Kritias)) の中で記述した、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことであり、強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、ゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとされている。

本来古代ギリシア語の『アトランティス』という単語は、ギリシア神話のティタン族の神であるアトラス (’Ατλας, Atlas) の女性形であり、『アトラスの娘』、『アトラスの海』、『アトラスの島』 (古代ギリシア語の『海』 (タラッサ, θάλασσα) や『島』 (ネーソス, νη̃σος) は女性名詞) などを意味する。

アトラス神
アトラスは (1) 『支える』を意味する印欧祖語のdher-2 (英語のholdに相当)に由来する (2) ベルベル諸語の単語が元で、ベルベル人のアトラス山脈への信仰に由来するなど、その語源には諸説ある。アトラス神への言及はホメロス (紀元前9–8世紀頃に活躍)の『オデュッセイア』が初出で、「大地と天空を引き離す高い柱を保つ」と謳われている。(Hom.Od.i.52) 一方、ヘシオドス (紀元前700頃に活躍) の『神統記』以降は、ティタノマキアにおいてティタン族側に加担した罪で、地の果てで蒼穹を肩に背負う姿として叙述されるようになり、フルリ人やヒッタイト人の神話に登場するウベルリの影響を受けたものと考えられている。また、アトラスが立つ地の果ての向こうの大洋には島があり、ニュクス (夜) とエレボス (曙) の娘達とされるヘスペリデスが、ゴルゴン族の傍らで黄金の林檎を守っているとされ、(Hes.Theog.213–216,275–280,517–521) 後にアトラスの娘達として知られるプレイアデスやアトランティデスなどと同一視されるようになる。(Diod.iv.27.2; Paus.v.17.2,vi.19.8)

Atranths

大西洋、アトラス山脈とアトラスの名前を冠する諸民族
プラトンの対話集に先立ち『アトランティス』は大西洋を意味する地名として使われている。ヘロドトス (紀元前484頃–420頃)は『歴史』の中で大西洋を「アトランティスと呼ばれる柱の外の海」と記述した。(Herod.i.203.1) 以降大西洋は今日に至るまで「アトラスの」海、大洋 (ラテン語: Atlanticum Mare; 英語: the Atlantic Ocean) と呼ばれるようになる。

またヘロドトスはアトラス山脈について始めて言及しているが、山脈としてではなく単独の雪山としてリビア内陸のフェザン地方にそびえているものとして記述し、その山麓の砂漠に暮らす、日中の太陽を呪い、名前を持たないアタランテス人 (’Ατάραντες, Atarantes) と、肉食をしないために夢を見ないアトランテス人 (’Άτλαντες , Atlantes) に触れている。(Herod.iv.184–185)

シケリアのディオドロス (紀元前1世紀に活躍) は『歴史叢書』の中で、アフリカの大西洋岸 (モロッコ西岸) に聳えるアトラス山と、その麓でギリシア人並の文明生活を送っているアトランティオイ人 (’Ατλάντιοι, Atlantioi) について記載している。アトランティオイ人の神話によると、ウラノスがアトランティオイ人に都市文明をもたらし、その後ティタン達が世界を分割統治した際にアトラスが大西洋岸の支配圏を得たが、アトラスはアトラス山の上で天体観測を行い、地球が球体であることを人々に伝えたという。また、アトラス王は弟ヘスペロスの娘ヘスペリティスと結婚して7人の美しい娘達 (ヘスペリデス、アトランティデス) の父となり、エジプトのブシリス王の依頼を受けた海賊に誘拐されてしまった娘達をヘラクレスが救った際に、その礼としてヘラクレスの最後の功業を手伝ったのみならず、天文の知識を教えたが、これがギリシア世界でアトラスの蒼穹を担ぐアトラス伝説へと変化してしまったという。(iii.56–57,iii.60–61,iv.27)

ストラボン (紀元前64頃–紀元23頃) の『地誌』においては、アトラスはマウレタニアの山脈として認識されるようになり、ベルベル人はデュリス山脈 (Dyris) と呼ぶと紹介している。また、ストラボンは、ジブラルタル海峡以西のアフリカ沿岸世界については、古来より嘘にまみれた様々な創作のせいで、真実の報告を見分けるのは難しいとも述べている。(Strabo.xvii.3.2(p.825–826))

ガイウス・プリニウス・セクンドゥス (大プリニウス, 23–79) の『博物誌』は、歴史家ポリュビオス (紀元前200頃–118頃) や クラウディウス帝時代のローマの遠征軍がマウレタニアで得た知識を元に、現地の言葉でディリス山脈 (Diris) とも呼ばれるアトラス山脈の地理を詳しく記述しており、古典時代のギリシア人の北西アフリカにおける不正確な地理的知識は、当時この地を支配していたカルタゴ人のハンノ(Hanno, 紀元前5世紀頃) 以来、さまざまな空想の混じった伝聞が流布してしまったことによるものと指摘している。(Plin.Nat.v.2–5(s1)) アトランテス人に関してはヘロドトスのアタランテス人の特徴と混ぜて引用し、リビアの砂漠の奥に住むと記述している。(Plin.Nat.v.14(s4)) また、ポリュビオスの報告として、アフリカのアトラス山脈の大西洋側の末端の山の沖合いに、ケルネ島とアトランティス島があると記述している。(Plin.Nat.vi.60(s36))

ポンポニウス・メラ (Pomponius Mela, 1世紀に活躍) は『世界地理』の中で大西洋岸に面したアトラス山を紹介し、(Mela.iii.101(s4)) また、リビアの内陸に住むアトランテス人についても、ほぼ大プリニウスと同様の内容を記述している。(Mela.i.23(s1),i.43(s2))

クラウディオス・プトレマイオス (90頃–168頃) は『地理学』の中で、アトラス山脈の大西洋側の末端に相当する岬の山として、大アトラス山 (経度8°北緯26°30′[1]) と小アトラス山 (経度6°北緯33°10′) について座標を与えている。(Ptol.Geo.iv.1.2)

パウサニアス (Pausanias, 2世紀に活躍) の『ギリシア案内記』はリビアの砂漠の中に住む民族としてヘロドトスのアトランテス人を引用し、この民族は大地の広さを知っており、リクシタイ人 (Λίξιται, Lixitai) とも呼ばれることを記している。また、砂漠の中のアトラス山からは3つの川が流れ出るが、全て海へ流れ込む前に蒸発してしまうという。(Paus.i.33.5–i.33.6(s.5))

[プラトンのアトランティス伝説]

作品構想と背景
『ティマイオス』と『クリティアス』は、プラトンがシュラクサイの僭主ディオニュシオス2世 (Dionysios, 紀元前390頃–330頃) の下で理想国家建設に失敗した後、晩年にアテナイで執筆した作品と考えられている。両作品はプラトンの師匠である哲学者ソクラテス (紀元前470頃–399)、プラトンの数学の教師とも伝えられているロクリスの政治家・哲学者ティマイオス (紀元前5世紀後半)、プラトンの曾祖父であるクリティアス (紀元前500頃–420頃)[2]、そして、シュラクサイの政治家・軍人ヘルモクラテス (紀元前450頃–408/407) の4名の対談の形式で執筆されている。『ティマイオス』では主にティマイオスが宇宙論について語り、『クリティアス』では主にクリティアスが実家に伝わっているアトランティス伝説について語っている。ヘルモクラテスは一連の作品群で語りの役割を果たしていないが、作品中ソクラテスによって第三の語り手と紹介されていることから、(Pl.Criti.108a) アトランティスとアテナイの間の戦争に関して軍人ヘルモクラテスに分析させた、『ヘルモクラテス』という作品が構想されていたという説が、プラトンの対話集の英訳で知られる英国の古典学者ベンジャミン・ジャウエット (Benjamin Jowett, 1817-1893)などにより提唱されている。

クリティアスの家で行われたとされるこの対談が現実のものであったとするのなら、ニキアスの和約が成立した紀元前421年8月頃のパンアテナイア祭りの最中で、(Pl.Criti.21a) クリティアスの孫のプラトンはまだ6歳の少年としてこの話を横で聞いたということになる。また、対談には病気で欠席した人間がいることになっている。[3](Pl.Criti.17a)

核となる伝説は、アテナイの政治家ソロン (紀元前638頃–559頃) がエジプトのサイス (Sais) の神官から伝え聞いた話を親族にして友人のドロピデス(Dropides, 紀元前6世紀前半頃) に伝え、更にその息子のクリティアス (紀元前580頃–490頃) が引き継ぎ、更に同名の孫のクリティアスが10歳の頃に90歳となった祖父のクリティアスからアパトゥリア祭 (Apaturia) の時に聞かされた事として、対話集の中で披露されている(ソロンとクリティアス、プラトンの血縁関係はクリティアス (プラトンの曾祖父)参照)。(Pl.Tim.20d–21e) 作中の神官によると、伝説の詳細は手に取ることのできる文書に文字で書かれていることになっている。(Pl.Tim.24a) ソロンはこの物語を詩作に利用しようと思って固有名詞を調べたところ、これらの単語は一度エジプトの言葉に翻訳されていることに気付いた。そこでソロンはエジプトで聞いた伝説に登場する固有名詞を全てギリシア語風に再翻訳して文書に書き残し、その文書がクリティアスの実家に伝わったという。(Pl.Criti.112e–113b)

『ティマイオス』
『ティマイオス』の冒頭でソクラテスが前日にソクラテスの家で開催した饗宴で語ったという 理想国家論が要約されるが、その内容はプラトンの国家とほぼ対応している。そして、そのような理想国家がかつてアテナイに存在し、その敵対国家としてアトランティスの伝説が語られる。
アマシス2世 (Amasis; アアフメス2世, 紀元前600頃–526年)が即位した後の紀元前570–560年頃、ソロンは賢者としてエジプトのサイスの神殿に招かれた。そこでソロンは、デウカリオンの洪水伝説で始まる人類の歴史の知識を披露する。

「すると神官たちの中より非常に年老いた者が言われた「おおソロンよ、ソロン。ヘレネス (ギリシア人) は常に子供だ。ヘレン (ギリシア) には老人 (賢者) がいない。」」(Pl.Tim.22b)

神官は、ギリシアでは度重なる災害によってせっかくある程度発達した文明が何度も消滅し、歴史の記録が何度も失われてしまったが、ナイル河によって守られているエジプトではそれよりも古い記録が完全に残っており、デウカリオン以前にも大洪水が何度も起こったことを指摘する。また、女神アテナと同一視される女神ネイト (Neith)が神官達の国家体制を建設してまだ8,000年しか時間が経っていないが、[4] アテナイの町はそれよりさらに1,000年古い9,000年前 (即ち紀元前9,560年頃) に成立しており、女神アテナのもたらした法の下で複数の階層社会を形成し、支配層に優れた戦士階級が形成されていたことを告げる。

その頃ヘラクレスの柱 (ジブラルタル海峡) の入り口の手前の外洋であるアトラスの海 (’Ατλαντικός πελαγος, 大西洋)にリビアとアジアを合わせたよりも広い、アトランティスという1個の巨大な島が存在し、大洋を取り巻く彼方の大陸との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。アトランティス島に成立した恐るべき国家は、ヘラクレスの境界内 (地中海世界) を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニアに至るまでのヨーロッパを支配した。その中でギリシア人の諸都市国家はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。

「しかしやがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、あなた方 (=アテナイ勢) の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまった。それ故その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている。」(Pl.Tim.25c–d)

ここでクリティアスは太古のアテナイとアトランティスの物語の簡単な紹介を終え、以降ティマイオスによる宇宙論へ対談の話題が移る。

『クリティアス』
作品の冒頭の記述から、この作品は先の『ティマイオス』の対談と同じ日に行われた続編にあたる対談であることが示唆されている。ティマイオスにおける宇宙論に引き続き、今度はクリティアスがアテナイとアトランティスの物語を披露する。
アトランティスと戦った時代のアテナイ
9,000年以上前、ヘラクレスの柱の彼方に住む人々とこちらに住む人々の間で戦争が行われた時、それぞれアテナイとアトランティスが軍勢を指揮した。当時のアテナイ市民は私有財産を持たず、多くの階層に分かれてそれぞれの本分を果たしていた。また、当時のアテナイは現在よりも肥沃であり、約2万人の壮年男女からなる強大な軍勢を養うことが出来たし、アテナイのアクロポリスも遥かに広い台地であったが、デウカリオンの災害から逆算して三つ目に当たる彼の大洪水により多くの森が失われ、泉が枯れ、今日のような荒涼とした姿になってしまった。エジプトの神官は当時のアテナイの王の名前として、ケクロプス (Κέκρωψ, Kekrops)、エレクテウス (’Ερεχθεύς, Erechtheus)、エリクトニオス (’Εριχθόνιος, Erichthonios)、エリュシクトン (’Eρυσίχθων, Erysichthon)などを挙げたとソロンは証言している。

アトランティスの建国神話
アトランティス島の南の海岸線から50 スタディオン (約 9.25 km)の位置に小高い山があり、そこで大地から生まれた原住民エウエノル (Ε’υήνωρ, Euenor) が妻レウキッペ (Λευκίππη, Leukippe)の間にクレイト (Κλειτώ, Kleito) という娘を生んだ。アトランティスの支配権を得た海神ポセイドンはクレイトと結ばれ、5組の双子の合計10人の子供が生まれた。即ち『アトラスの海』 (大西洋) の語源となった初代のアトランティス王 アトラス、スペインのガデイラに面する地域の支配権を与えられたエウメロス (Ε’ύμηλος, Eumelos) ことガデイロス (Γάδειρος, Gadeiros)、アンペレス (’Αμφήρης, Ampheres)、エウアイモン (Ε’υαίμον, Euaimon)、ムネセウス (Μνησεύς, Mneseus)、アウトクトン (Α’υτόχθον, Autochthon)、エラシッポス (’Ελάσιππος, Elasippos)、メストル (Μήστωρ, Mestor)、アザエス (’Αξάης, Azaes)、ディアプレペス (Διαπρεπής, Diaprepes) で、ポセイドンによって分割された島の10の地域を支配する10の王家の先祖となり、何代にも渡り長子相続により王権が維持された。ポセイドンは人間から隔離するために、クレイトの住む小高い山を取り囲む三重の堀を造ったが、やがてこの地をアクロポリスとするアトランティスの都、メトロポリス (μητρόπολις, metropolis)が人間の手で形作られていった。

アトランティスの都
アクロポリスのあった中央の島は直径5 スタディオン (約925 m)で、その外側を幅1 スタディオン (約185 m)の環状海水路が取り囲み、その外側をそれぞれ幅2 スタディオン (約 370 m) の内側の環状島と第2の環状海水路、それぞれ幅3 スタディオン (約555 m)の外側の環状島と第3の環状海水路が取り囲んでいた。一番外側の海水路と外海は、幅3 プレトロン (約92.5 m)、深さ100 プース (約30.8 m)、長さ50 スタディオン (約 9.25 km)[5]の運河で結ばれており、どんな大きさの船も泊まれる3つの港が外側の環状海水路に面した外側の陸地に設けられた。3つの環状水路には幅1 プレトロン (約30.8 m) の橋が架けられ、それぞれの橋の下を出入り口とする、三段櫂船が一艘航行できるほどのトンネル状の水路によって互いに連結していた。環状水路や運河はすべて石塀で取り囲まれ、各連絡橋の両側、即ちトンネル状の水路の出入り口には櫓と門が建てられた。これらの石の塀は様々な石材で飾られ、中央の島、内側の環状島、外側の環状島の石塀は、それぞれオレイカルコス(オリハルコン)、錫、銅の板で飾られた。内外の環状水路には石を切り出した跡の岩石を天井とする二つのドックが作られ、三段櫂の軍船が満ちていた。

中央島のアクロポリスには王宮が置かれていた。王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされる、クレイトとポセイドン両神を祀る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。これとは別に縦1 スタディオン (約185 m)、横3 プレトロン (約92.5 m) の大きさの異国風の神殿があり、ポセイドンに捧げられていた。ポセイドンの神殿は金、銀、オレイカルコス、象牙で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬に引かせた戦車にまたがったポセイドンの黄金神像が安置され、その周りにはイルカに跨った100体のネレイデス像や、奉納された神像が配置されていた。更に10の王家の歴代の王と王妃の黄金像、海外諸国などから奉納された巨大な神像が神殿の外側を囲んでいた。神殿の横には10人の王の相互関係を定めたポセイドンの戒律を刻んだオレイカルコスの柱が安置され、牡牛が放牧されていた。5年または6年毎に10人の王はポセイドンの神殿に集まって会合を開き、オレイカルコスの柱の前で祭事を執り行った。即ち10人の王達の手によって捕えられた生贄の牡牛の血で柱の文字を染め、生贄を火に投じ、クラテル (葡萄酒を薄めるための甕) に満たした血の混じった酒を黄金の盃を用いて火に注ぎながら誓願を行ったのち、血酒を飲み、盃をポセイドンに献じ、その後礼服に着替えて生贄の灰の横で夜を過ごしながら裁きを行い、翌朝判決事項を黄金の板に記し、礼服を奉納するというものである。

また、アクロポリスにはポセイドンが涌かせた冷泉と温泉があり、その泉から出た水をもとに『ポセイドンの果樹園』とよばれる庭園、屋外プールや屋内浴場が作られたほか、橋沿いに設けられた水道を通して内側と外側の環状島へ水が供給され、これらの内外の環状島にも神殿、庭園や運動場が作られた。さらに外側の環状島には島をぐるりと一回りする幅1スタディオン (約185 m) の戦車競技場が設けられ、その両側に護衛兵の住居が建てられた。より身分の高い護衛兵の居住は内側の環状島におかれ、王の親衛隊は中央島の王宮周辺に住むことを許された。 内側の3つの島々に王族や神官、軍人などが暮らしていたのに対し、港が設けられた外側の陸地には一般市民の暮らす住宅地が密集していた。更にこれらの市街地の外側を半径50 スタディオン (約9.25 km) の環状城壁が取り囲み、島の海岸線と内接円をなしていた。港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢れ、昼夜を問わず賑わっていた。

島の大平原と軍制
アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物資源、象などの野生動物や家畜、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。

島の南側の中央には一辺が3,000 スタディオン (約555 km)、中央において海側からの幅が2,000 スタディオン (約370 km) の広大な長方形の大平原が広がり、その外側を海面から聳える高い山々が取り囲んでいた。山地には原住民の村が沢山あり、樹木や放牧に適した草原が豊かにあった。この広大な平原と周辺の山地を支配したのはアトラス王の血統の王国で、平原を土木工事により長方形に整形した。平原は深さ1 プレトロン (約31 m)、幅1 スタディオン (約185 m) の総長10,000 スタディオン (約1,850 km) の大運河に取り囲まれ、山地から流れる谷川がこの大運河に流れ込むが、この水は東西からポリスに集まり、そこから海へ注いだ。[6] 大運河の中の平原は100 スタディオン (約18.5 km) の間隔で南北に100 プース (約31 m) の幅の運河が引かれていたが、更に碁盤目状に横断水路も掘られていた。運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使った。

平原は10 スタディオン平方 (約3.42 km2)を単位とする6万の地区に分割され、平原全体で1万台の戦車と戦車用の馬12万頭と騎手12万人、戦車の無い馬12万頭とそれに騎乗する兵士6万人と御者6万人、重装歩兵12万人、弓兵12万人、投石兵12万人、軽装歩兵18万人、投槍兵18万人、1,200艘の軍船のための24万人の水夫が招集できるように定められた。山岳部もまたそれぞれの地区に分割され、軍役を負った。他の9つの王国ではこれとは異なる軍備体制が敷かれた。

アトランティスの堕落
アトランティスの支配者達は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり、堕落してしまった。それを目にしたゼウスは天罰を下そうと考えた。

「 (ゼウスは) 総ての神々を、自分達が最も尊敬する住まい、即ち全宇宙の中心に位置し、生成に関わる総てのものを見下ろす所 (= オリュンポス山) に召集し、集まるとこう仰った。」(Pl.Criti.121c)

ここで『クリティアス』の文章は途切れる。

Atlantisthum

他作品における言及
プラトンのアトランティス伝説は他の作品で引用されており、特にプルタルコス、アイリアノス、プロクロスは、プラトンの原文に載っていない情報を提供している。
ストラボン『地誌』
ストラボンは『地誌』の中で、ポセイドニオス (紀元前135頃–51) の著作である『大洋(オケアノス)について』 (オリジナルのテキストは現存せず) の内容批判を行っているが、ストラボンの引用により、ポセイドニオスのアトランティス伝説に対する見解が残っている。ポセイドニオスは<例えばキンブリア人とその仲間の民族が移動を行ったのは、元々住んでいた土地が突然海に浸食されたことによるものと推測されるように>、プラトンのアトランティス伝説について、<「詩人 (= ホメロス) がアカイア勢の防壁について行ったのと同様に、創作者 (= ソロン または プラトン) が消し去った」などという意見があるが、プラトンが言うように真実を含んでいるとみなすべきである>と考えていたという。ストラボンはポセイドニオスの考えについては批判的だが、地殻変動に関してはポセイドニオスと同じ考えを持っており、プラトンのアトランティス伝説に関しては特に否定も肯定もしていない。(Strabo.ii.3.6(p.102))

なお、「詩人が創作し、破壊した」というのは、<トロイア戦争におけるイリオン湾のアカイア勢の防壁はホメロスの創作で、辻褄合わせのためにトロイア戦争終了後に防壁もろとも洪水で破壊されたことにした>という意味であり、ストラボンによると、プラトンの弟子であるアリストテレス (紀元前384–322) の見解とされている。(Strabo.xiii.1.36(p.598)) アリストテレスがプラトンを批判した文章が様々残っていることから、これらの文を組み合わせ、既にプラトンの生きていた時代からアリストテレスは、アトランティス伝説についてもトロイア戦争の防壁と同じようにプラトンの創作物とみなしたと解釈する人もいる。

キケロ『ティマエウス』、『最高善と最大悪について』、『国家』
マルクス・トゥッリウス・キケロ (紀元前106–43)はプラトンの『ティマイオス』をラテン語へ翻訳したが、現在残っている断片は宇宙論に関する部位のみであり、(Pl.Tim.27d–37e, 38c–43b, 46b–47b) アトランティス伝説に関する部位の翻訳は残っていない。(Cic.Tim.) またキケロの『最高善と最大悪について』と『国家』によると、ロクリスのティマイオスはプラトンの数学の師匠であったという。(Cic.de Fin.v.29; de Re Publ.i.10)

プルタルコス『対比列伝』、『イシスとオシリスについて』
プルタルコス (46頃–119以降) の『対比列伝』の『ソロン伝』によると、ソロンはアテナイで改革を行った後 (紀元前594年)、海外を10年間旅し (紀元前593–584)、その最初にエジプトを訪れ、[7] その際ソロンはヘリオポリスではプセノピス (Ψένωφις, Psenophis)、サイスではソンキス (Σω̃γχις, Sonchis) という博識な神官と親交を深め、特にサイスの神官から失われたアトランティスの物語を聞いたという。(Plut.Sol.26.1) このアトランティスの伝説、とりわけアテナイ人の関わる神話 (ロゴス (論理、λόγος) とミュートス (寓話、μυ̃θος)) についてソロンは執筆を始めたが結局中止してしまった。(Plut.Sol.31.3)

ソロンの血縁者であったプラトンは、アトランティスの物語を書き上げようとしたが、結局作品を書き終える前に亡くなり、今日アテナイのオリュンピエイオンの神殿に収められているプラトンの全作品の内、アトランティスの物語 (= 『クリティアス』) だけが未完に終わってしまい、本当に残念なことだとプルタルコスは感想を述べている。(Plut.Sol.32.2) このことから少なくともプルタルコスの時代には、すでに『クリティアス』は未完の作品として伝わっていたことが判る。

なおプルタルコスの別の作品『イシスとオシリスについて』の中でも、ギリシア人の賢者とエジプトの神官との交友の一例として、ソロンとサイスのソンキスの親交が挙げられている。(Plut.de Is. et Osir.10)

アイリアノス『動物の特性について』
アイリアノス (本名クラウディウス・アエリアヌス (Claudius Aelianus), 175頃–235頃) は『動物の特性について』の中で、サルデーニャやコルシカ沖で冬場を過ごし、しばしば波打ち際で人すら襲うというタラッティオス・クリオス (θαλάττιος κρ`ιός, 『海の羊』) と呼ばれる海獣 (シャチと解釈されることが多いが、イッカク説もある) について語っているが、大洋近くに住む住民に伝わる寓話として、ポセイドンの子孫であるアトランティスの王達は王の権威の象徴であるクリオスの雄の皮で作られた帯を頭に巻き、王妃達はクリオスの雌の巻き毛を身に着けていたという話を紹介している。(Ael.NA.ix.49,xv.2)

ピロン『世界の堕落について』、大プリニウス『博物誌』、アテナイオス『食卓の賢人たち』、テルトゥリアヌス『外套について』、ポルピュリオス『プロティノス伝』、大アルノビウス『異邦人に対して』、アンミアヌス・マルケリヌス『歴史』
ユダヤ人の哲学者 アレクサンドリアのピロン (紀元前20頃–紀元50頃) は『世界の堕落について』 (但し贋作と考えられている) の中で、プラトンのティマイオスからの引用として、リビアとアジアを合わせたよりも広かったアタランテスの島が異常な地震により一昼夜で消滅したことに言及している。(Philo.Incor.xxvi)

大プリニウスは『博物誌』において、「プラトンの言うことを信じるのなら、大西洋 (atlanticum mare)に広大な土地があったが」という前置きとともに、海に大地が削り取られた例として言及している。(Plin.Nat.ii.90(s92)) これとは別に、アトランティスという名前の島がアトラス山脈の沖合いに現存していることを示唆している。(Plin.Nat.vi.60(s36))

ナンクラティスのアテナイオス (紀元200頃に活躍)は『食卓の賢人たち』の中で、食後のデザートに関する薀蓄としてプラトンのアトランティス伝説に登場する作物 (Pl.Criti.115a–b) を引用している。(Athen.Deipn.xiv.640d–e)

クイントゥス・セピティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌス (155頃–220頃) は『外套について』の中で、大地の姿形が変化した一例として、大西洋にあったというリビアやアジアと同じ大きさの島が消えた事を挙げている。(Tertul.De Pallio.i.2.21)

ポルピュリオス (Porphyrios, 234頃–305頃)の『プロティノス伝』によると、ネオプラトニスムの創始者といわれるプロティノス (205頃–270)の弟子ゾティコス (Zotikos, 265頃死去)は、コロポンのアンティマコス (Antimachos, 紀元前400頃に活躍)の詩を校正し、『アトランティコン』 (’Ατλαντικόν , Atlantikon, アトランティスの物語)という詩の完成度を高めたという。(Porph. Vit. Plot.7.12–16)詩の内容は現存しない。

大アルノビウス (Arnobius Afer, 紀元3世紀末–330頃) は『異邦人に対して』の中で、1万年前にネプトゥヌスのアトランティカ (Atlantica Neptuni) と呼ばれた島が沈み、多くの人々が消滅したというプラトンの言葉を信用していいのかどうかを自問している。(Arnob.Adv.Gent.i.5.1)

アンミアヌス・マルケリヌス (330頃–395)は『歴史』の中で、地震で誘発される現象を隆起 (brasmatiae)、断層 (climatiae)、沈下 (chasmatiae)、轟音 (mycematiae)の4種類に分類しており、地盤沈下の一例として、ヨーロッパよりも広い島が大西洋に沈んだことを挙げている。(Ammian.Marcell.xvii.7.13–14)

ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』
ディオゲネス・ラエルティオス (3世紀頃に活躍) の『哲学者列伝』の『プラトン伝』によると、アレクサンドリアの図書館の館長であったビュザンティオンのアリストパネス (Aristophanes, 紀元前264頃–180) がプラトンの作品を纏めた際、トリロギア (三部作集)の第1編に『ティマイオス』と『クリティアス』を収録した。(Diog.Laert.iii.61–62(s.37))

一方ティベリオス・クラウディオス・トラシュルス (Tiberios Claudios Thrasyllos, 紀元前1世紀–紀元36頃) はプラトンの作品を研究して年代順に9編のテトラロギア (四部作集) に纏め、その第8編に『ティマイオス』と『クリティアス』を収めたが、それぞれに『自然について』 (περ`ι φύσεως )、『アトランティコス』 (’Ατλαντικός , Atlantikos, アトランティスの物語) という副題をつけたという。(Diog.Laert.iii.56–60(s.35))

カルキディウス『ティマエウス注解』
バチカン図書館所蔵 カルキディウス著『ティマエウス注解』『ティマイオス』は400年頃にカルキディウス (4世紀–5世紀)によって再びラテン語に翻訳された。キケロのラテン語訳とは異なり、アトランティス伝説の 部位を含む大部分のテキスト(Pl.Tim.17a–53c)が現存する。(Calcidius,In Tim.5–68)カルキディウスのラテン語訳は12世紀以降欧州で読まれるようになったが、特に『ティマイオス』に登場する宇宙論については詳しい解説を残しており、ヨーロッパ中世の宇宙論の基礎の一つとなった。但しカルキディウスはアトランティス伝説の部分に関しては翻訳をしただけで、解説は残していない。

プロクロス『ティマイオス注解』
ネオプラトニスムの哲学者として知られるリュキアのプロクロス・ディアドコス (Proklos Diadochos, 410頃–475) は、プラトンの『ティマイオス』に関する注釈『ティマイオス注解』を残しており、ネオプラトニスムに立脚したプラトンの作品の解釈が示されている。

当時すでに多くの人たちは、プラトンの記述が寓話であると考えており、アパメイアのヌメニオス (Numenios, 2世紀後半に活躍)、アメリオス (Amelios, 3世紀後半に活躍)、オリゲネス (Origenes, 3世紀後半に活躍)、ディオニュシオス・カッシオス・ロンギノス (Dionysios Cassios Longinos, 3世紀後半に活躍)、ポルピュリオス、カルキスのイアンブリコス (Iamblichos, 250頃–330頃)、シュリアノス (Syrianos, 5世紀前半に活躍) などの解釈が紹介されている。(Procl.Comm.Tim.24b–25e)
ソロイのクラントル (Krantor, 紀元前4世紀後半に活躍) は、プラトンの弟子であるカルケドンのクセノクラテス (紀元前396頃–314) の弟子で、始めてプラトンの書物に注釈をつけたとされる。現在では失われてしまったクラントルの古註によると、クラントルはアトランティスの伝説は総て真実だと主張しており、生前のプラトンは、アトランティスの物語を嘲笑する者に対しては、エジプト人にアテナイとアトランティスの歴史を尋ねろと反論したとのことである。また、クラントルは証拠として、この伝説が神殿の柱に今なお刻まれていると神官たちが主張していることを挙げている。(Procl.Comm.Tim.24a–b)
プロクロスが参考にしたあるエジプトの史書によると、ソロンはサイスの町ではパテネイト (Πατενεΐτ, Pateneit)、ヘリオポリスではオクラピ (’Οχλα̃πι, Ochlapi)、セベンニュトスではエテモン (’Εθήμων, Ethemon) という神官から知識を得たとされており、プルタルコスが記した神官の名前 (サイスのソンキス、ヘリオポリスのプセノピス) と異なる。(Procl.Comm.Tim.31d)
歴史家マルケッルス (Markellos, Marcellus, 紀元前1世紀頃に活躍) の『エティオピア誌』(現存せず) によると、大西洋の沖合いにはペルセポネに捧げられた7つの島と、更に外側のプルトンとポセイドンとアンモン (アメン) に捧げられた3つの島があり、ポセイドンに捧げられた島は2番目に大きく、1,000スタディオン (約185 km) の大きさがあるという。かつては大西洋全域を支配したという広大なアトランティス島の住民の末裔がこの島に住んでおり、アトランティスの文化を継承していると記述している。(Procl.Comm.Tim.54f–55a)
コスマス『キリスト教地誌』
アレクサンドロスのコスマス・インディコプレウステス (6世紀中頃に活躍) は『キリスト教地誌』の中で、大地を取り囲む大洋の外を天空を支える大地が取り囲んでいるという地勢観を正統化するために、『ティマイオス』の記述を引用している。プラトンやアリストテレスに褒め称えられ、プロクロスによって注釈をなされているティマイオスによると、ガデイラの西の大洋にあったアトランティス島は10の王国からなり、10世代の間栄えたが、アテナイとの戦争の後に神罰として沈められたとあり、これはまさに天地創造から10世代後に起こったノアの大洪水そのものであり、おそらくティマイオスは、カルデア人から世界最初の歴史家であるモーセの書を知り、大洋の彼方からやって来た10人の王、海の下に消えたアトランティス島、住民を動員した軍隊によるヨーロッパとアジアを征服などといった話を総て創作して付け加えたのだという。(Cosmas Indi.Topog.Christ.xii.376–377,381) また、ソロモン (Solomon) と言う名のエジプト人がプラトンに向かって「ヘレネス (ギリシア人) は常に子供であり、誰も老人 (賢者) にならず、またいにしえからの教えも全くない」などと言ったのは、他国のことを知らないギリシア人が自分たちこそが文字や法律を発明したなどと思い上がっているからであり、リュクルゴスやソロンなどといった輩よりも、モーセの方が偉大な立法者であると主張している。(Cosmas Indi.Topog.Christ.xii.379–380)

コスマスはこのように『ティマイオス』に書かれている内容を色々混同して紹介していることから、コスマス本人はプラトンの原文を読んだことが無く、伝聞で内容を知ったと思われる。この時代よりプラトンを含む古代ギリシアの思想は反キリスト的とみなされ、アトランティス伝説も12世紀中頃のホノリウスの著作までしばし忘れ去られる。

ホノリウス『世界の模写』
オータンのホノリウス (Honorius Augustodunensis, 1080頃–1156頃)は『世界の模写』の中で、プラトンの名前を引用し、アフリカとヨーロッパを合わせたよりも広い巨大な島が、惨劇により凍った海 (Concretum Mare) の下に沈んだことを述べている。(Honorius Aug.Imago Mundi i.35) ホノリウスはカルキディウスのラテン語訳でアトランティス伝説を知ったと思われる。

『世界の模写』はラテン語から様々な口語体に訳されており、例えばウィリアム・キャクストン (William Caxton, 1420頃–1492) は1489年に 『The Mirrour of the World』という題名で英語訳を出版している。

ギリシア・ローマ時代の文献
覇権国家の崩壊伝説をモチーフとした類似の物語は、他の文献にも登場する。
ディオドロス『歴史叢書』
シケリアのディオドロスの『歴史叢書』は、同時代のハリカルナッソスのディオニュシオス (Dionysios, 紀元前1世紀に活躍)の著作 (該当する作品は現存せず) にまとめられたリビアの諸民族に関する内容を参考にしながら、アフリカのに暮らす女人族である アマゾネス人 (’Αμαζόνες , Amazones) の歴史を記している。

トロイア戦争などで黒海沿岸に住むアマゾネスが有名だが、これとは別にアフリカに住んでいたアマゾネスがおり、こちらの方が歴史が古い。アトラス山の近くのアフリカの大西洋側にトリトン川 (Тρίτων, Triton) の水が流れ込むトリトニスの湿地帯 (Тριτωνίς, Tritonis) があり、巨大なヘスペラ島 (’Εσπέρα) があった。島は様々の農産物と畜産物に恵まれ、また、火山があり、ルビー、紅玉髄、エメラルドなどの鉱物を産した。この島に暮らす諸民族の一つであったアマゾネスは女性上位社会で、男性が家事・子育てをし、女性が政治と兵役を担った。女性は戦闘で乳が邪魔にならないように嬰児のうちに右側の乳房 (μαστός ) を焼いており、そのためにアマゾネス (乳無し) と呼ばれた。アマゾネスはエチオピア系のイクテュイパゴイ人が暮らす神聖なメネ(Μήνη, Mene) の町を除き全島を掌握し、続いて湖周辺の諸民族を征圧した。そして、トリトニス島に突き出た半島に、アマゾネスの都ケロネソス (Χερρόνησος , Cherronesos, ギリシア語で『半島』) を建設した。
ミュリナ (Μύρινα, Myrina) がアマゾネスの女王になると、歩兵3万人、騎兵3,000頭からなる軍勢を組織し、まず近隣のアトランティオイ人 (上述) の町ケルネ (Κέρνη, Kerne) を破壊し、住民を虐殺した。これを恐れた他の町のアトランティオイ人は降伏し、アマゾネスの支配下に入った。アトランティオイ人は別の女人族であるゴルゴネス人の制圧を女王ミュリナに依頼したが、ゴルゴネス人の地の制圧には失敗した。当時エジプトの王はイシスの子のホロスであったが、ミュリナはエジプト王ホロスと同盟を結び、アラビア人の暮らすシリア、トロス山脈、カイコス川までの大プリュギア地方を戦争により制圧し、キリキア人を支配下においた。また、レスボス島には自分の姉妹の名前に由来する町ミュティレネ (Μυτιλήνη, Mytilene)を建設したほか、配下の腹心の女将にちなんだキュメ (Κύμη, Kyme)、ピタナ (Πιτάνα, Pitana)、プリエネ (Πριήνη, Priene) などの殖民市をイオニア海側に建設した。女王ミュリナが難破した際に立ち寄った島には、『聖なる島』サモトラケ (Σαμοθράκη, Samothrake) と名付けた。やがて女王ミュリナは、トラキアの亡命中の王モプソス (Μόψος, Mopsos) とスキタイの亡命中の王シピュロス (Σίπυλος, Sipylos) の連合軍との戦いに敗れて死に、大多数が戦死したアマゾネス軍はアフリカの地に退却した。その後ペルセウスとその曾孫のヘラクレスにより、それぞれ女人族のゴルゴネス人、アマゾネス人は滅びてしまい、その記念にヘラクレスは柱を立てた。その後トリトニス湖の大西洋に近い側が地震により裂け、湖は消失してしまった。(Diod.iii.52–55,Diod.iii.74)
アイリアノス『多彩な物語』
アイリアノスは、『多彩な物語』の中で、キオスのテオポンポス (Theopompos, 紀元前380頃–4世紀末) の史書 (該当作品は今日残っていない) に載っていた物語を掲載しているが、もしかしたらテオポンポスの創作かもしれないと断りを入れている。

プリュギアの王ミダスがセイレノスと親交を結んだ時、次のような物語がセイレノスの口より紡がれた。<我々の世界を取り巻く彼方の大陸には、我々の世界とは違う生物や文明が存在するが、そこにはマキモス (Μάχιμος, Machimos, 『好戦』) とエウセベス (Ε’υσεβη̃ς, Eusebes, 『敬虔』) という対照的な二つの都市国家が存在する。金銀が豊富なマキモスは戦争に明け暮れて多くの部族を支配し、2千万人を下らぬ人口を有していたが、その多くは戦場で石や木製の棍棒で寿命を終えた。ある時マキモスは我々の世界を征服しようと1千万人の軍隊を連れてオケアノスを渡り、ヒュペルボレオイ (‘Υπερβορέοι, Hyperboreoi, 『極北の人々』) の地を訪れたが、その清貧な生活ぶりに落胆して、軍隊を連れ帰ってしまった。また、彼方の大陸のメロペス人 (Мέροπές, Meropes) が住む領域に、アノストス (’Άνοστος, Anostos, 戻れぬ地) という場所があり、そこの水を飲むと死んでしまう。> (Ael.V.H.iii.18)
なお、ストラボンは『地誌』の中で、ホメロスの創作を詮無い事と弁護し、歴史家たちの同じような無知を告発する文脈として「テオポンポスが伝えたメロピス地方 (Мεροπίς, Meropis)」に言及している。テオポンポスの史書が実在したことを示すとともに、ストラボン本人はテオポンポスが書き記した一連の大陸の物語を真実とは見なさなかったことを示唆する。 (Strabo.vii.3.6(p.299))

[科学的研究]
1939年 - ギリシアの考古学者マリナトスが、クレタ島の北岸に位置するアムニソスにある宮殿を調査。宮殿の崩壊が津波によるものであることを発見。同時に火山灰が厚く堆積していることも確認した。
1956年 - アテネ大学の地震学者ガラノプロスがサントリーニ島を調査。炭素14法で、島の噴火が紀元前1400年ごろであることが分かった。
1967年 - マリナトスがサントリーニ島の南端に位置するアクロテリで火山灰の中から宮殿を発見。クレタ島とサントリーニ島が、あわせてミノア王国であったとするフレスコ画を発見。

[エジプト文明との関係の指摘]
『エメラルド・タブレット』は「エジプトのギザの大ピラミッドの中から発見されたとの伝説をもつが、これには歴史的に伝承されたものと近年モーリス・ドリールにより発見された「世界最古の書籍」である原本と称するものがあり、その原本には、その著者はアトランティスの祭司王トートであり、タブレットIの文頭にて『われアトランティス人トートは、諸神秘の精通者、諸記録の管理者、力ある王、正魔術師にして世々代々生き続ける者なるが…』と書かれているといわれている。

また、グラハム・ハンコックの『神々の指紋』によれば、原本にはギザのピラミッドはトートが造ったとも記載されていることからエジプト文明の源流がアトランティスにあることも推測ができるとしている。

ただし原本のエメラルド・タブレットは、原史料の公開もなく他に写本もないことから学者からはその正確性を疑問視されている。

[脚注]
^ プトレマイオスが『地理学』を記述するに当たり基準として設定した本初子午線は、当時西の果てと考えられていたカナリア諸島であり、グリニッジ子午線より西へ約20°ずれている。グリニッジ基準の東経とプトレマイオス記載の経度では、実際は地中海世界内で約30°ほどずれている。
^ このクリティアスは、アテナイの三十人僭主として独裁政治を行った、プラトンの母親の従兄のクリティアス (紀元前460頃–403) であるとする説もある。詳しくはクリティアス (プラトンの曾祖父)参照。
^ 病欠した人物はプラトンだとする説もあるが、当時のプラトンはまだ子供である。もっとも敵国の有力者同士がこのような対談をするはずがなく、あくまでもプラトンの創作の架空対談であり、病欠した人物というのは対談に真実味を出すためのプラトンの文学的テクニックであるとする解釈も一般的である。
^ この部分は、(1) エジプトが建国されてから8,000年、(2) ネイトを保護神とするサイスの町が建設されてから8,000年、(3) サイス王朝が建国されてから8,000年、の三通りの解釈がされて来ており、特にアトランティス伝説としては「アトランティスはエジプトの歴史よりも古い」という(1)の解釈が広まっているが、文中では神官がアテナイと「我々の」都市の制度の比較をし、サイスとアテナイを建設したとされるアテナの偉業を讃え、(Pl.Tim.24a–24d) エジプトが有史来正確に歴史を伝えていることを強調していることから、(Pl.Tim.21b–22b) (2)の解釈が一番妥当である。
^ 運河の長さが50 スタディオンだとすると、海岸から中央のアクロポリスまでの距離は50 + 3 + 3 + 2 + 2 + 1 + 5/2 = 63.5 スタディオンということになり、海岸からアクロポリスまでの距離 (50 スタディオン)、(Pl.Criti.112c) 町を取り囲む城壁の半径 (50 スタディオン) (Pl.Criti.117e) などの記述と矛盾する。
^ これらの記述から大平原は東西3,000スタティオン、南北2,000スタディオンの長方形で、アトランティスの都はこの長方形の大平原の南端に位置し、海岸線との間に挟まれていたことになる。大運河の水がアトランティスの都の海水路に注いでいるのなら、都の一番外側の海水路の北側と大運河を結ぶ水路が存在しているはずであるが、都を迂回する形の河が流れていたことも考えられる。なお、2,000スタディオンの幅を「平原の」中央から海までの距離と解釈し、歪な四角形(例えば東西の辺が3,000と4,000スタディオン、南北の辺が1,000と2,000 スタディオン)を描く考えもあるが、徴兵制度の項目で説明で説明される平原の面積 (600 万平方スタディオン) と合致しない。(Pl.Criri.119a)
^ 紀元前593年頃にソロンがエジプトを旅したとなると、アマシス王の時代 (紀元前570–526) とするプラトンの文章と矛盾する。 (Pl.Tim.21e)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』Atlantis

Perseus Digital Library(プラトンの作品を始めとするギリシア・ローマの古典が原文で読める。)http://www.perseus.tufts.edu/

Atlantis(スペイン語/英語) http://atlantis.sitio.net/

アトランティス大陸 (超常現象の謎解き) http://www.gmter.com/

Gmter http://www.gmter.com/

エメラルド・タブレット http://www2.tokai.or.jp/shaga/atorantis/sub10.htm#11bu/

これだけ知識の記載があること自体が驚きなのだが、誰が何のために「嘘か真か」としていることに掘り下げてみると、現代にもあてはまるパターンがみえてくる。

2008年2月19日 (火)

日曜日の太陽 (Sunday Sun)

Atlantide3

解るべきことなんて そんなにない
ぼくの眼といえば また彷徨ってる
衛星を探してるんだ
天国の光の中で また
他の終わりかたなんてないんだ
日曜日の太陽
きのうが終わりかけてる
日曜日の太陽

嫉妬がならんであるいてる
そいつらの顔で気分がまいる
無限大の空間に取残されて
奴らは困ったことにならなくてすんでる
これが終わりかたってものなんだ
日曜日の太陽
いくつものきのうが癒えてきてる
日曜日の太陽

beck (Sunday Sun)

2008年2月12日 (火)

物語

物語とは語り手が語られる主体に、順序だてて語るさまざまな出来事のこと。ナラティブ(英 narrative)、ストーリーとも言われる。虚構作品(フィクション)だけではなく、歴史や新聞記事の中にも見られる。

文学理論の物語論の観点からは、筋としてまとめられる言説のことをひろく物語と捉える。「物語言説」「物語内容」「語り」などの視点から研究される。
プロット、ストーリー、語り手も参照のこと。
道徳的教訓を含めた物語をとくに寓話と呼ぶ。
近代小説に対比させて近代以前の文学作品やその様式のことを物語と呼んで区別することがある。
日記文学や随筆、場合によっては私小説などを含む自照的なもの以外の、他人に向かって語られる作品のことを物語と定義することもある。叙事的な内容のものを指すことが多い。

狭義には『竹取物語』にはじまり鎌倉時代の擬古物語に至る古典の物語文学のことを指す。『伊勢物語』『平中物語』『宇津保物語』『落窪物語』『源氏物語』『栄華物語』『浜松中納言物語』『狭衣物語』『とりかへばや物語』などが挙げられる。

さらに広く、後の軍記物語や説話物語まで含めることもある。『雨月物語』などの戯作までを指すこともできる。また、『お伽草子』などに含まれるおとぎ話や説話、昔話、民話などを漠然と指して物語と呼ぶこともある。

これらの定義にあてはまらないが、たとえば『はてしない物語』のように近現代の作品であっても物語という語をタイトルに含むものは多い。

日本文学の物語は次のように分類される。

作り物語
歌物語 - 語り物語に対して、筋の主要な部分で和歌が使われているもの。
古物語
擬古物語

古い物語として有名なのは、古代オリエントの『ギルガメシュ叙事詩』である。長いものは、古代インドの『マハーバーラタ』がよく知られている。

日本文学においては『竹取物語』が仮名で書かれた最初のいわゆる「物語」であり、紫式部はこれを「物語の出で来始めの祖」と評した。

2008年2月 9日 (土)

「循環」を起動させるものこそが「作品」

「芸術家は作品の起源である。作品は芸術家の起源である」

マルティン・ハイデッガー(1889〜1976 現代ドイツ哲学)は、建築作品としてのギリシヤの神殿について次のように語る。

「そこに立つ建築作品は岩根の上にやすらっている。この作品がこのようにやすらうことによって、岩からそのぶこつな、だがやはり何ものへ向けられているのでもない支える力の暗さがとり出される。そこに立つその建築作品は、その上に荒れ狂う嵐に耐え、そのようにしてはじめて嵐の荒々しい力に気づかせる。石材のきらめきと輝きは、見たところただ太陽の恩恵によるように見えるが、むしろそれがはじめて日の光や空の広がり、夜の闇を現出させるのである。それが確固とそびえ立つことにおって、大気の満ちた眼に見えぬ空間が可視的になるのだ。この作品のゆるぎなさが大海原の潮の波立ちから際立ち、この作品の安らぎを背景に潮騒が響きわたるのである。樹と草、鷲と牛、蛇とこおろぎが、この作品のまわりではじめてそのくっきりとした形態をとるようになり、それらがそれぞれに現われ出てくることになる。このように姿を見せ立ち現れることそのことを、そしてその全体を早朝のギリシア人たちはピュシスと呼んだ。ピュシスは同時に、人間がその上に、またそのうちにおのれの住まいを定めるあのものに光を当てる。われわれはそれを〈大地〉と呼ぶ。・・・・・・大地とは、立ち現れることがすべての立ち現れるものを、しかもそのように立ち現れるものとしてのそれらを、そこへ引きもどしてかくまうところである。立ち現れるもののうちで、かくまうものとしての大地が現成するのである。・・・・・神殿という作品は、そこに立つことによって一つの世界を開き、同時にその世界を大地へと送りかえす。そのようにしてはじめて大地そのものも、故郷とも言うべき基底としての姿を現わすのである。」『芸術作品の起源』

木と草、ワシと牡牛、蛇とコオロギはまずその安らぎの際立った形のなかへ入りこむ、そしてそれらがそれであるところのものとして現れ出てくるのだ。
作品は大地を或る一つの大地であらしめる。
存在に対する問いは、循環におちいってしまうのではないかという危惧が表明されるが、存在に対する問いがもつ「前提」と、演繹的な思考における「発端」とが区別され、前者においてはいかなる循環もない。
「或る存在者の存在様態としての問うことに、問われているもの〔存在〕が『逆行的もしくは先行的に関係づけられている』という注目すべきことなら、たしかにある。」
問いをたてる人間存在の側の在り方は循環的であるということが述べられている。
問いにおける「循環」が、了解と解釈の唯一可能な方法とされている。循環であるとの非難は、従って自然認識をモデルとするような「或る特定の認識理想」の立場からのみ提示されるものとして相対化される。「循環」のうちにこそ「最も根源的な認識の或る積極的な可能性が秘匿されている」
だが人間存在について「循環」という性格づけをすることは、「循環」が事物的存在性に関わるものだから、避けるべきである。

「気遣いの存在意味の学的解釈のために獲得された解釈学的状況と、実存論的分析論一般の方法的性格」では、自己解釈が人間存在に属するものとされる。自己解釈が循環的な構造をもつことから、「循環」は人間存在に属するものとなる。「根源的に、また全体的にこの『円環』のなかへと飛びこみ、かくして、現存在分析のために置かれた発端においてすでに、現存在の循環的な存在へと向けられた完全な眼差しを確保することをめざして努力されなければならない」と語られている。
このような「循環」を起動させるものこそが「作品」(Werk)なのである。

Martinheidegger
『存在と時間』(1927)によると、物はただ存在している。人間はただ存在するだけではなく、自分の存在をたえず配慮している。自分が生きているということを、たえず配慮する。「自分の存在を配慮する存在」。こういうあり方を「実存」というのがハイデッガーの定義である。
いつでも自分自身に反省的に(レフレクティブ reflectiveに)自分自身のあり方をいつでも考えようとしている生き物だという。こういうあり方、存在のしかたを実存という。

Martin Heidegger『存在と時間』(Sein und Zeit)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

2008年2月 7日 (木)

Asafa Powell World Record angles

Asafa Powell CM
http://jp.youtube.com/watch?v=1k-V1q-lRBk&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=xTi060JSmlw

高速度カメラにてスタート撮影

<object width="425" height="355"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/dvC1PNoJ2-k&rel=1"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/dvC1PNoJ2-k&rel=1" type="application/x-shockwave-flash" wmode="transparent" width="425" height="355"></embed></object>
http://jp.youtube.com/watch?v=dvC1PNoJ2-k&feature=related

Asafa Powell World Record angles
http://jp.youtube.com/watch?v=YEUD_LwsDUI&NR=1

2008年2月 5日 (火)

ねじり式

Genpei01

2008年2月 2日 (土)

日本アンデパンダンとパフォーマンスアート

読売アンデパンダン展(よみうりあんでぱんだんてん、Yomiuri Independent、1949年 - 1963年)は、読売新聞社の主催で行われた無審査出品制の美術展覧会。読売新聞という巨大メディアによる新人発掘の場ということで人気をよび、野心的な若手作家たちがこぞって出品した。1960年から1963年にかけての、ネオダダの作家たちの活躍がとくによく知られている。

[概要]
1949年に「日本アンデパンダン展」の名称でスタート。東京都美術館で、毎年春に開催された。日本美術会による同名の展覧会がすでに存在していたため、同会から再三の抗議を受け、1957年に「読売アンデパンダン展」に改称。1962年12月、東京都美術館は「陳列作品規格基準要項」を制定。「(1)不快音または高音を発する仕掛けのある作品(2)悪臭を発しまたは腐敗のおそれのある素材を使用した作品(3)刃物等を素材に使用し、危害をおよぼすおそれのある作品(4)観覧者にいちじるしく不快感を与える作品などで公衆衛生法規にふれるおそれがある作品(5)砂利、砂などを直接床面に置いたり、また床面を毀損汚染するような素材を使用した作品(6)天井より直接つり下げる作品」の出品を拒否するとした。この条文は、同年の読売アンデパンダン展の作品状況を裏側から描写している。主宰者は相次ぐトラブルに手を焼き、1964年の第16回展直前、突然開催中止をアナウンスし、その歴史に幕をひいた。

[関連文献]
赤瀬川原平 『反芸術アンパン』 筑摩書房(ちくま文庫)、1994年。ISBN 4480029141
瀬木慎一監修・総合美術研究所編『日本アンデパンダン展全記録 1949-1963』総美社、1993年。

ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(Neo Dadaism Organizers)は、1960年に結成され、約半年活動した日本の前衛芸術グループ。

[概要]
1960年2月に行われた第12回読売アンデパンダン展の直後、同展に「反絵画・反彫刻」(美術評論家の東野芳明が命名した)を出品していた若手アーティストたちによって結成された。メンバーは吉村益信、篠原有司男、赤瀬川原平、荒川修作、風倉匠、有吉新、石橋清治、上田純、上野紀三、豊島壮六。

同年4月、銀座画廊で第一回展を開催。マニフェストを引用すると、「1964年の生殖をいかに夢想しようとも一発のアトムが気軽に解決してくれるようにピカソの闘牛もすでにひき殺された野良猫の血しぶきほどに、我々の心を動かせない。真摯な芸術作品を踏みつぶしていく20.6世紀の真赤にのぼせあがった地球に登場して我々が虐殺をまぬがれる唯一の手段は殺戮者にまわることだ」。

7月、岸本清子、田中信太郎、田辺三太郎、吉野辰海を新メンバーに加えた第二回展を吉村のアトリエ(「芸術革命家のホワイト・ハウス」と称した)で開催した。副題は「クタバレネオ・ダダイスト。恒久平和をうちたてる。嫌悪のダンゴに蜜蜂だ。灼熱の一切が始るぞ。狂乱ドッド。功利主義に埋没したぞ。ネオ・ダダ規制法案通過。したい。したい。したい。したい。したい。したい」。同じころ、TBSの取材に応じて鎌倉の材木座海岸で「白い布を広げ、トマトを投げつける」というパフォーマンスを行っている。

篠原有司男のモヒカン刈りは当時の日本人にとって衝撃的な髪型であり、「ロカビリー画家」というキャプションとともに週刊誌のグラビアを飾った。

9月、抜け駆け的に村松画廊で個展を開いた荒川修作が除名された。10月、升沢金平、木下新を新メンバーに加え、三木富雄、工藤哲巳をゲストに迎えた第三回展を日比谷公園の中にあった都営の日比谷画廊で行う。作品に小便を掛けたりしたため、アンモニア臭がただようなどの理由により、一週間の会期半ばで陳列を拒否され、画廊を閉鎖されてしまう。これがグループの最後の展覧会となった。グループの活動停止の理由は、リーダー格の吉村の結婚、および彼が所有していたホワイト・ハウスの閉鎖などによる。

伝説的なエピソードに『東京都美術館爆破計画』がある。「反芸術を徹底するために、芸術の象徴である美術館を爆破すべきである」というものだったが、「美術館の価値は絶対的なものではなく、爆破する意味はない」という意見が優勢で、実行には至らなかった。

「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」という呼称は正式なものではない。メンバー自身も「ネオ・ダダ・オルガナイザーズ」「ネオダダ・グループ」「グループ・ネオダダ」「ネオ・ダダ」など、さまざまな呼称を用いている。ちなみに第一回展のパンフレットに記載されたグループ名は「ネオダダイズム・オルガナイザー」であり、第二回展以降は「ネオダダ」である。

[関連文献]
篠原有司男 『前衛の道』 (美術出版社、1968年<2006年に再発>)ISBN 4568221285
赤瀬川原平 『いまやアクションあるのみ!—<読売アンデパンダン>という現象』(筑摩書房、1985年)ISBN B000J6XMJQ
篠原有司男 『篠原有司男対談集 早く、美しく、そしてリズミカルであれ』(美術出版社、2006年)ISBN 4568221277 http://gyuchang.jugem.jp/
[関連項目]
同時代に活動した日本の前衛芸術グループ
暗黒舞踏派
ヴァン映画科学研究所
九州派
具体美術協会
グループ音楽
時間派
ゼロ次元
ハイレッド・センター(赤瀬川原平が参加している)
フィルム・アンデパンダン

パフォーマンスアート(Performance art)とは、芸術家自身の身体が作品を構成し、作品のテーマになる芸術である。また、特定の場所や時間における、ある個人や集団の「動き」が作品を構成する芸術の一分野である。パフォーマンスアートは美術・視覚芸術の一分野であるが、絵画や彫刻等のような、物体が作品を構成する芸術とは異なったものである。

パフォーマンスアートは時間、場所、パフォーマーの身体、パフォーマーと観客との関係という、四つの基本的な要素を含むすべての状態において成立しうる。

その作品の行われる場所は美術館、ギャラリー、カフェ、劇場、路上など非常に多様である。
また行われる時間や長さも多様である。1回限りのものもあれば、何度も演じられるものもある。一瞬で終わるものもあれば、映画並みに長いものや果てしなく続くものもある。
パフォーマーは演劇とは違い、普通はキャラクターを演じず、芸術家自身としてパフォーマンスを行う。
即興の場合もあれば、練られた脚本に従って練習を入念に行い演じられるものもある。そのストーリーは一般的な起承転結や物語りに属しないものもあるし、そもそもストーリーが全く存在しないものもある。また観客は一方的に見るだけでなく、参加や助力を頼まれたり、場合によっては危害を加えられることもあるなど、パフォーマンスに巻き込まれることが多い。

[他の表現との関係]
パフォーマンスアートという概念は、演劇・ダンス等の舞台芸術、音楽、サーカス(火吹きやジャグリング等)、体操など、比較的主流の表現活動をも含むともいえる。実際に、これらの分野に越境しているパフォーマンスアーティストも多い。しかし、普通は、「パフォーマンスアート」という名のある種の芸術表現-視覚芸術の中から誕生した前衛美術やコンセプチュアルアートの表現活動の一部を指すために使われている。パフォーマンスは大勢の人々に直接訴える方法であり、同時に人々にショックを与え自分達の芸術観や文化との関係を見直させる方法でもあった。

[歴史]
パフォーマンスアートという用語はいまや一般的な言葉になっているが、もともと使われ始めたのは1960年代、ヴィト・アコンチ(Vito Acconci)、ヘルマン・ニッチ(Hermann Nitsch)、ヨゼフ・ボイス(Joseph Beuys)、「ハプニング」の創始者アラン・カプロー(Allan Kaprow)らの作品の出現と同時期である。欧米の研究者はパフォーマンスアートの起源を20世紀初頭の前衛芸術に遡って考えることもある。代表的なものはダダイスムで、リヒァルト・ヒュルゼンベック(Richard Huelsenbeck)やトリスタン・ツァラ(Tristan Tzara)らによりキャバレー・ヴォルテールで開催された型にはまらない詩の朗読パフォーマンスなど、パフォーマンスアートの重要な創始者を生み出している。しかし、ルネサンス期の芸術家が行った公共の場でのパフォーマンスを、近代のパフォーマンスアートの祖先と考える議論もある。またパフォーマンスアーティストの中には、部族の伝統儀式からスポーツにいたるあらゆるものにその表現の起源を置いている者もいる。パフォーマンスアートの活動は西洋芸術に限られるものではなく、アジア、ラテンアメリカ、第三世界や先住民出身者などに優れたアーティストが存在する。

[種類]
パフォーマンスアートのジャンルには、ボディアート、フルクサス、メディアアートなども含まれる。ネオダダやウィーン・アクション派のアーティストらは、自らの活動を「ライブ・アート」「アクション・アート」「即興」などと呼ぶことが多かった。

パフォーマンスアートには、観客の前で生で上演するものだけでなく、カメラの前で行いその記録を写真やビデオに写す者(マリーナ・アブラモヴィッチ、マシュー・バーニー、シンディ・シャーマンや森万里子など)、絵画のキャンバスの上で行う者(ジャクソン・ポロックやイブ・クライン、具体美術協会のようなアクション・ペインティングなど)もその一部といえる。また中には自分の身体に暴力を加える者(クリス・バーデンなど)、身体能力を誇示する者(マシュー・バーニーなど)、ギャラリーの床下で自慰行為を行ったコンセプチュアル・アートに近い者(ヴィト・アコンチ)もいる。

[参考文献]
『パフォーマンスアート・未来派から現在まで』 ローズリー・ゴールドバーグ (Performance Art: From Futurism to the Present、ISBN 0500203393)

外部リンク
Performance artists and art...the-artists.org
Performance Art in the Culture Jammer's Encyclopedia
SAL VANILLA / Performance Artists
ポラリス
INFR'ACTION - festival international d'art performance
LONG'ACTION - rencontres franco-chinoises d'art performance

ハプニングは、1950年代から1970年代前半を中心に、北米・西ヨーロッパ・日本などで展開された、ギャラリーや市街地で行われる非再現的で一回性の強いパフォーマンスアートや作品展示などを総称するのに用いられる美術用語。ハプニングの創始者と言われているアラン・カプローによると「きまった時間と空間の中で演じられる点では演劇に関連をもった芸術形式」。

[最初の「ハプニング」]
アラン・カプローが1959年にニューヨークのルーベン画廊で行った『6つの部分の18のハプニング(18 Happenings in 6 Parts)』という催しが、最初に「ハプニング」という名前を使ったイヴェントだった。

まずカプローは、ニューヨーク・メトロポリタンの住民に、ルーベンとカプローの連名で手紙を送った。「18のハプニングが行われます」「アラン・カプローがそれらの計画を実現するのに協力していただくべく招待します」「75人の参加者のうちのひとりとして、あなたはハプニングの一部分となるでしょう。同時に、あなたはそれを体験するでしょう」

画廊の中に木の枠を組んで小屋を作り、それを半透明のビニールシートで3つの部屋に分けて、その壁のところどころにタブローを吊るす。それぞれの部屋に椅子を大量に並べ、異なる色で点滅する電灯で照らす。その部屋の中で、カプローを含む6人の芸術家がカプローの書いたシナリオに沿って、入念にリハーサルをしたのちに、それぞれのアクションを行うというイヴェントだった。

このイヴェントは評判を呼んだ。タイトルの一部でしかなかった「ハプニング」だったが、そのアクションまでもがハプニングと呼ばれるようになり、さらには一般化し、ある種の芸術形式として定着した。

その後、アル・ハンセン、キャロリー・シュニーマン、クレス・オルデンバーグ、ジム・ダイン、ジョージ・シーガル、レッド・グルームス、ロバート・ホイットマンなどの画家が様々な形式のハプニングを展開していった。

ハプニングは特に抽象表現主義の画家に愛された。抽象表現主義が爛熟し、アクション・ペインティングを超えたサムシング・ニューを追求しようという情熱と、ジャンク・アートのオブジェ性と卑俗性などの要素が複雑に絡み合ったこのアクションは、ひとつの芸術的な転換期にある画家にはひどく新鮮に映ったのだろう。しかし、多くの画家はハプニングを行うことで自らの「本来の作品」の着想を得た後、徐々にハプニングから離れていった。

[変貌するハプニング]
ハプニングの起点はアラン・カプローの、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングへの多大な関心にあった。(1.ペインティング Painting)カプローはそれを展開してアクション・コラージュを考案した。(2.アッサンブラージュ Assemblage)それにさらに空間的な要素を追加した。(3.エンバイラメント Environment)そして出来上がった「描く自分とその対象物」という構図はわずかにスライドし「自分と様々な物質の相互作用」という構図に落ち着いた。(4.ハプニング Happening)

空間的な要素を追加するきっかけになったのは、1958年にカプローが学んでいたニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチでジョン・ケージの講義を受けたことによる。(同じクラスに、アル・ハンセン、ジョージ・ブレクト、ディック・ヒギンズなどがいた。)

カプローは、演劇やゲーム、あるいはスポーツといった既存の概念を避けるように心がけ、イベントを数多くこなしていく間に「自らのハプニングの定義」を明確にしていったが、ハプニングは様々な芸術家に愛されていく中で、少しずつその概念や役割を変えていった。

音楽家のハプニング
演技や個性のドラマティックな表現の否定。アクションの起点となる楽譜を「正確に」緊張に耐えてアクションを遂行する。(ジョン・ケージ一派、ラ・モンテ・ヤングなど)

舞踊家のハプニング
ハプニングの瞬間的衝動に基づく行動を定型の舞踊に持ち込み、その境界を揺さぶる。ジャディソン教会ホールを中心に「ダンス・イヴェント」の名でさかんに行われた。(アン・ハルプリン、イヴォンヌ・ライナー、ロバート・モリスなど)

演劇人のハプニング
1964年、イギリスのエジンバラで行われた国際演劇会議の「未来の演劇」の日に、ケネス・デューイは会議そのものをハプニングにしてしまった。(後にフルクサスが行う『フルクサス会議』のさきがけといえる)

反芸術の意図でのハプニング
物体の破壊や恐怖で観客に「もっとアクティブになれ」と挑戦する。西ドイツの「デ・コラージュ」(ヴォルフ・フォステル、ナム・ジュン・パイク)

フルクサスのハプニング
当初は「芸術と日常の垣根をなくす」という反芸術的な意図でハプニングを用いたが、メンバーの多さ・曖昧さ・リーダーへの反発などの様々な理由で徐々にメンバーそれぞれの特徴をもったハプニングが生まれるようになった。演劇やゲーム、あるいはスポーツといったカプローが避けていた概念を持ち込み、ユーモアにあふれたハプニングを展開した。また、ハプニングとは別の「イヴェント」という表現活動も行った。

[世界のハプニング]
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
フランス
1960年頃から、詩人のジャン・ジャック・ルベルを中心に。また、ベン・ヴォーティエのメール・ハプニング。

チェコ
ミラン・クニザク

オランダ
シモン・ヴァンケンヌーグ、バルト・ヒューゲス、マリーケ・コーゲル

日本
1950年代のはじめの吉原治良を中心とした具体美術協会のアクションをひとつの表現とみなした活動。 1960年代のテレビ番組「木島則夫ハプニングショー」で「ハプニング」という言葉が流行。 草月ホール、アングラとの結びつきなど。

[影響・評価など]
ハプニングはパフォーマンスアート、インスタレーションに大きな影響を与えた。また、日本と米国においては、同時代に盛んだった市民運動や反戦運動、学生運動などのカウンターカルチャーと強い結び付きを得て、しばしば行政当局に事前の許可を取らないゲリラ的活動をとった。そのため、若い世代には「ハプニングは全てゲリラ的活動」という誤解が蔓延っている。

一般にハプニングは物事を予期しない方向に連れて行き退屈感を緩和するということで、管理されたセリエル音楽や偶然性が強い不確定性の音楽と一定の共通点がある。ただし、このハプニングという「技法」は音楽などの再現芸術にとって普通一回しか有効ではない。
[参考資料]
美術手帖 1967年5月号、1968年8月号 ハプニング特集

2008年2月 1日 (金)

反芸術からネオダダへ

反芸術(はんげいじゅつ、Anti-art)は芸術作品に対する定義で、伝統的な展覧会の文脈の中で展示されながら、真剣な芸術をあざ笑うかのような内容を持つ作品、また芸術というものの本質を問い直し変質させてしまうような作品のこと。さらに既存の芸術という枠組みを逸脱するような芸術思想や芸術運動のこと。

ダダイスムによるオブジェや自動筆記による文学、ナンセンス詩など、挑発的な芸術形態が「反芸術」と呼ばれたが、芸術の枠がある限り、反芸術はいつでもどこでも出現する可能性がある。また20世紀美術の歴史は、反芸術が芸術の範囲を押し広げた結果ともいえる。

[ダダイスム]
反芸術は、第一次世界大戦中からはじまったダダイスムにその端を発する。反芸術的な作品の、初期にしてもっとも有名な例は、ダダイストのマルセル・デュシャンが1917年にニューヨークの無審査公募展・「アンデパンダン展」にリチャード・マット名義で出展した『泉』である。この作品はただの既製品の男性用小便器を寝かせたもので当時の観念から見ればどう見ても芸術品とも作品とも呼べるものではなく、無審査展のため仕方なく受け付けられたものの会場に展示されることなく紛失するが、この処置に抗議したデュシャンはアンデパンダン展委員を辞任し、新聞にリチャード・マット氏の作品を弁護しその意義を訴える文章を発表し大論争を起こした。この事件の例のように、ダダイスムの活動は美術や文学など既存の芸術をはみ出すもので、結果、芸術の概念を非常に大きく広げることとなった。

[メール・アート]
郵便物を使った芸術の表現であるメール・アートも反芸術の一種とみなしうる。公式な美術の発表の場(展覧会など)から離れた場で発表され、しかも政府の郵便制度を利用したさまざまな実験は、芸術と社会との摩擦を巻き起こした。

[日本における反芸術]
日本において「反芸術」という単語は、安保闘争などで社会が揺れていた1960年前後の現代美術界の熱気を抜きには語れない。1954年から関西で活動していた具体美術協会は、その型破りなパフォーマンスなど、既存の芸術を超えて表現する反芸術の色彩が強かった。反芸術が爆発的に広がるのは戦後まもなくから1963年まで東京都美術館で行われていた無審査公募展「読売アンデパンダン展」で、1950年代末以降、廃物などを利用した作品が数多く出展されるようになり、1960年に評論家・東野芳明がこの展覧会に出展していた工藤哲巳の作品を評して「反芸術」の語を使用し日本の若手美術家に反芸術ブームを起こした。

同じく1960年、読売アンデパンダン展に出展していた荒川修作・吉村益信・篠原有司男・風倉匠作・赤瀬川原平ら若い作家たちがネオ・ダダイズム・オルガナイザーズという組織を結成、その短い活動時期にアナーキーな作品や構想を数多く残した。メンバーの一人、赤瀬川原平は1963年に高松次郎・中西夏之と「ハイレッド・センター」を結成し反芸術的なパフォーマンスを開催している。また秋山祐徳太子の東京都知事選挙出馬に至るパフォーマンスなど、反芸術は1950年代から1960年代にかけてマスコミにも多くの話題を提供した。

ネオダダ(Neo-Dada)は、作品制作の方法論や意図が初期のダダイスムと類似点を持つ、1950年代後半から1960年代のアメリカ合衆国の美術家や美術運動を表すのに使われた用語である。

もとは、1958年のアートニューズ誌において、当時廃物や大衆的なイメージを使用した絵画で抽象表現主義に替わり注目を浴びつつあったロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズといった画家、ハプニングなどのパフォーマンスアート活動を行っていたアラン・カプロー、クレス・オルデンバーグ、ジム・ダインなどの作家たちを一括りに特集し、美術評論家ハロルド・ローゼンバーグがこれらにネオダダと名づけたことがはじまりである。以後、評論家バーバラ・ローズによって「ネオダダ」と言う用語は1960年代に広まり、おおむね1950年代~1960年代にこれらの作家によって行われた活動を指して使われる。

[特徴]
ネオダダの作品の例としては、既製品の使用(レディメイド)や大衆的な図像の流用(アッサンブラージュ、コラージュ)、そしてその不条理性などがある。また伝統的な芸術や美学の概念を否定する反芸術的なところもある。これらの手法や反芸術性が、新たなダダイスムとみなされた要因である。確かにロバート・ラウシェンバーグの、既製品を組み合わせて(コンバインして)その上から絵具を塗りつけたコンバイン・ペインティングなどはレディメイドやアサンブラージュなどと形式上共通点がある。

しかし、ネオダダは、概念や言葉の実験としてのレディメイドなどを制作した第一次世界大戦後のダダイスムとは時代背景が異なり、より工業化や大量生産・大量消費が進み廃物があふれていた時代のアメリカを舞台としているため、新品よりは廃物を好んで用いたり新品を廃物同様にするなどより即物性や即興性が強い。これらの作品はジャンク・アート(ゴミ芸術、廃物芸術)などとも呼ばれていた。反芸術でありながら、環境を埋め尽くしていた廃品を新たな自然と見て、そこに美を見出そうとしたネオダダを「工業化社会の自然主義」と呼ぶ向きもある。

ネオダダに属する作家たちのうち、ロバート・ラウシェンバーグらは1930年代から1950年代にかけて存在したノースカロライナ州の小さな芸術学校、「ブラック・マウンテン・カレッジ」で学んでいた。ここでは美術家のみならず音楽家、詩人、思想家らが教えており、なかでも教鞭をとっていた音楽家ジョン・ケージの、音響を即物的に考えることや偶然性を利用するといった活動から強い思想的な影響を受けている。

[ジャンク・アート、反芸術の世界同時多発]
この時代には、同じく廃物を寄せ集めた芸術作品や、従来の美術の範疇をはみでたハプニング、パフォーマンス、「反芸術」的な潮流が、工業化した欧州や日本など各国に現れた。

フランスではこの頃、収集した生ゴミを透明ケースに入れたり、同じ種類の機械や道具の残骸を無数に収集して組み合わせたアルマン、くず鉄を寄せ集めて溶接した「アマルガム彫刻」や自動車をプレス機に入れて直方体に圧縮する「圧縮彫刻」を行ったセザール、日用品などを梱包していたクリストら、工業社会の「自然」をあるがままに受け容れそこに意味を見出そうとする作家たちが活躍していた。1960年、こうした傾向の作家たちを集めて評論家ピエール・レスタニによる展覧会が行われ、これに、さまざまなパフォーマンスを行っていたイブ・クラインや、ジャン・ティンゲリー、ニキ・ド・サンファルらが集まり、「ヌーヴォー・レアリスム」というグループを組んだ。グループは数年で解体したが、その思想や活動はネオダダと通じ合うものがある。
ドイツでは美術家や音楽家、詩人などをメンバーとするパフォーマンスアートのグループが現れ、1961年にフルクサスの名が使われた。流転・変転し、二度と同じ事を繰り返さないと言う彼らのパフォーマンスは各国の芸術家を巻き込み、1960年代前半にかけてドイツやアメリカなどで非常に活発に活動した。
日本でも反芸術の動きが1960年前後に活性化していた。
1954年から関西に具体美術協会が現れ、1950年代後半にかけてアクション・ペインティングや野外におけるインスタレーションなど矢継ぎ早に活動を行った。ここにはネオダダ的な身近な素材の利用やハプニング、反芸術の要素が多く含まれていた。
また、1950年代後半ごろから、東京都美術館で行われていた無審査公募展「読売アンデパンダン展」に廃物などを利用した作品が数多く出展されるようになり、1960年に評論家・東野芳明がこの展覧会に出展していた工藤哲巳の作品を評して「反芸術」の語を使用し日本の若手美術家に反芸術ブームを起こした。

1960年、荒川修作・吉村益信・篠原有司男・風倉省作(風倉匠)]・赤瀬川原平ら、読売アンデパンダン展に出展していた若い作家たちがネオ・ダダイズム・オルガナイザーズという組織を結成。その後「ネオダダ」と名称を簡略化し、3度の展覧会を実施したが、荒川修作の除名問題や吉村益信の結婚による活動場所の問題を経るなどわずか1年たらずで解体する。しかし、その間に社会風俗現象として週刊誌などマスコミを大いににぎあわせ、一部美術評論家に注目されるアナーキーな作品や構想を数多く残し、スキャンダリズムを旨とするわが国の前衛美術のひとつの傾向を示す典型となった。
その後メンバーの大半が渡米したが、赤瀬川原平は1963年に高松次郎・中西夏之と「ハイレッド・センター」を結成し反芸術的なパフォーマンスを開催し、篠原有司男らは新たなアメリカの動向であったポップ・アートにいち早い反応を見せた。

[ネオダダの影響]
ネオダダや反芸術の運動は、現在に至るまで多くのパフォーマンスアートや芸術表現に影響を与えている。また、アメリカではすぐ後に来るポップアートに手法的・理論的な影響を与えた。

[作家] ロバート・ラウシェンバーグ  ジャスパー・ジョーンズ

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

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