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2008年2月 2日 (土)

日本アンデパンダンとパフォーマンスアート

読売アンデパンダン展(よみうりあんでぱんだんてん、Yomiuri Independent、1949年 - 1963年)は、読売新聞社の主催で行われた無審査出品制の美術展覧会。読売新聞という巨大メディアによる新人発掘の場ということで人気をよび、野心的な若手作家たちがこぞって出品した。1960年から1963年にかけての、ネオダダの作家たちの活躍がとくによく知られている。

[概要]
1949年に「日本アンデパンダン展」の名称でスタート。東京都美術館で、毎年春に開催された。日本美術会による同名の展覧会がすでに存在していたため、同会から再三の抗議を受け、1957年に「読売アンデパンダン展」に改称。1962年12月、東京都美術館は「陳列作品規格基準要項」を制定。「(1)不快音または高音を発する仕掛けのある作品(2)悪臭を発しまたは腐敗のおそれのある素材を使用した作品(3)刃物等を素材に使用し、危害をおよぼすおそれのある作品(4)観覧者にいちじるしく不快感を与える作品などで公衆衛生法規にふれるおそれがある作品(5)砂利、砂などを直接床面に置いたり、また床面を毀損汚染するような素材を使用した作品(6)天井より直接つり下げる作品」の出品を拒否するとした。この条文は、同年の読売アンデパンダン展の作品状況を裏側から描写している。主宰者は相次ぐトラブルに手を焼き、1964年の第16回展直前、突然開催中止をアナウンスし、その歴史に幕をひいた。

[関連文献]
赤瀬川原平 『反芸術アンパン』 筑摩書房(ちくま文庫)、1994年。ISBN 4480029141
瀬木慎一監修・総合美術研究所編『日本アンデパンダン展全記録 1949-1963』総美社、1993年。

ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ(Neo Dadaism Organizers)は、1960年に結成され、約半年活動した日本の前衛芸術グループ。

[概要]
1960年2月に行われた第12回読売アンデパンダン展の直後、同展に「反絵画・反彫刻」(美術評論家の東野芳明が命名した)を出品していた若手アーティストたちによって結成された。メンバーは吉村益信、篠原有司男、赤瀬川原平、荒川修作、風倉匠、有吉新、石橋清治、上田純、上野紀三、豊島壮六。

同年4月、銀座画廊で第一回展を開催。マニフェストを引用すると、「1964年の生殖をいかに夢想しようとも一発のアトムが気軽に解決してくれるようにピカソの闘牛もすでにひき殺された野良猫の血しぶきほどに、我々の心を動かせない。真摯な芸術作品を踏みつぶしていく20.6世紀の真赤にのぼせあがった地球に登場して我々が虐殺をまぬがれる唯一の手段は殺戮者にまわることだ」。

7月、岸本清子、田中信太郎、田辺三太郎、吉野辰海を新メンバーに加えた第二回展を吉村のアトリエ(「芸術革命家のホワイト・ハウス」と称した)で開催した。副題は「クタバレネオ・ダダイスト。恒久平和をうちたてる。嫌悪のダンゴに蜜蜂だ。灼熱の一切が始るぞ。狂乱ドッド。功利主義に埋没したぞ。ネオ・ダダ規制法案通過。したい。したい。したい。したい。したい。したい」。同じころ、TBSの取材に応じて鎌倉の材木座海岸で「白い布を広げ、トマトを投げつける」というパフォーマンスを行っている。

篠原有司男のモヒカン刈りは当時の日本人にとって衝撃的な髪型であり、「ロカビリー画家」というキャプションとともに週刊誌のグラビアを飾った。

9月、抜け駆け的に村松画廊で個展を開いた荒川修作が除名された。10月、升沢金平、木下新を新メンバーに加え、三木富雄、工藤哲巳をゲストに迎えた第三回展を日比谷公園の中にあった都営の日比谷画廊で行う。作品に小便を掛けたりしたため、アンモニア臭がただようなどの理由により、一週間の会期半ばで陳列を拒否され、画廊を閉鎖されてしまう。これがグループの最後の展覧会となった。グループの活動停止の理由は、リーダー格の吉村の結婚、および彼が所有していたホワイト・ハウスの閉鎖などによる。

伝説的なエピソードに『東京都美術館爆破計画』がある。「反芸術を徹底するために、芸術の象徴である美術館を爆破すべきである」というものだったが、「美術館の価値は絶対的なものではなく、爆破する意味はない」という意見が優勢で、実行には至らなかった。

「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」という呼称は正式なものではない。メンバー自身も「ネオ・ダダ・オルガナイザーズ」「ネオダダ・グループ」「グループ・ネオダダ」「ネオ・ダダ」など、さまざまな呼称を用いている。ちなみに第一回展のパンフレットに記載されたグループ名は「ネオダダイズム・オルガナイザー」であり、第二回展以降は「ネオダダ」である。

[関連文献]
篠原有司男 『前衛の道』 (美術出版社、1968年<2006年に再発>)ISBN 4568221285
赤瀬川原平 『いまやアクションあるのみ!—<読売アンデパンダン>という現象』(筑摩書房、1985年)ISBN B000J6XMJQ
篠原有司男 『篠原有司男対談集 早く、美しく、そしてリズミカルであれ』(美術出版社、2006年)ISBN 4568221277 http://gyuchang.jugem.jp/
[関連項目]
同時代に活動した日本の前衛芸術グループ
暗黒舞踏派
ヴァン映画科学研究所
九州派
具体美術協会
グループ音楽
時間派
ゼロ次元
ハイレッド・センター(赤瀬川原平が参加している)
フィルム・アンデパンダン

パフォーマンスアート(Performance art)とは、芸術家自身の身体が作品を構成し、作品のテーマになる芸術である。また、特定の場所や時間における、ある個人や集団の「動き」が作品を構成する芸術の一分野である。パフォーマンスアートは美術・視覚芸術の一分野であるが、絵画や彫刻等のような、物体が作品を構成する芸術とは異なったものである。

パフォーマンスアートは時間、場所、パフォーマーの身体、パフォーマーと観客との関係という、四つの基本的な要素を含むすべての状態において成立しうる。

その作品の行われる場所は美術館、ギャラリー、カフェ、劇場、路上など非常に多様である。
また行われる時間や長さも多様である。1回限りのものもあれば、何度も演じられるものもある。一瞬で終わるものもあれば、映画並みに長いものや果てしなく続くものもある。
パフォーマーは演劇とは違い、普通はキャラクターを演じず、芸術家自身としてパフォーマンスを行う。
即興の場合もあれば、練られた脚本に従って練習を入念に行い演じられるものもある。そのストーリーは一般的な起承転結や物語りに属しないものもあるし、そもそもストーリーが全く存在しないものもある。また観客は一方的に見るだけでなく、参加や助力を頼まれたり、場合によっては危害を加えられることもあるなど、パフォーマンスに巻き込まれることが多い。

[他の表現との関係]
パフォーマンスアートという概念は、演劇・ダンス等の舞台芸術、音楽、サーカス(火吹きやジャグリング等)、体操など、比較的主流の表現活動をも含むともいえる。実際に、これらの分野に越境しているパフォーマンスアーティストも多い。しかし、普通は、「パフォーマンスアート」という名のある種の芸術表現-視覚芸術の中から誕生した前衛美術やコンセプチュアルアートの表現活動の一部を指すために使われている。パフォーマンスは大勢の人々に直接訴える方法であり、同時に人々にショックを与え自分達の芸術観や文化との関係を見直させる方法でもあった。

[歴史]
パフォーマンスアートという用語はいまや一般的な言葉になっているが、もともと使われ始めたのは1960年代、ヴィト・アコンチ(Vito Acconci)、ヘルマン・ニッチ(Hermann Nitsch)、ヨゼフ・ボイス(Joseph Beuys)、「ハプニング」の創始者アラン・カプロー(Allan Kaprow)らの作品の出現と同時期である。欧米の研究者はパフォーマンスアートの起源を20世紀初頭の前衛芸術に遡って考えることもある。代表的なものはダダイスムで、リヒァルト・ヒュルゼンベック(Richard Huelsenbeck)やトリスタン・ツァラ(Tristan Tzara)らによりキャバレー・ヴォルテールで開催された型にはまらない詩の朗読パフォーマンスなど、パフォーマンスアートの重要な創始者を生み出している。しかし、ルネサンス期の芸術家が行った公共の場でのパフォーマンスを、近代のパフォーマンスアートの祖先と考える議論もある。またパフォーマンスアーティストの中には、部族の伝統儀式からスポーツにいたるあらゆるものにその表現の起源を置いている者もいる。パフォーマンスアートの活動は西洋芸術に限られるものではなく、アジア、ラテンアメリカ、第三世界や先住民出身者などに優れたアーティストが存在する。

[種類]
パフォーマンスアートのジャンルには、ボディアート、フルクサス、メディアアートなども含まれる。ネオダダやウィーン・アクション派のアーティストらは、自らの活動を「ライブ・アート」「アクション・アート」「即興」などと呼ぶことが多かった。

パフォーマンスアートには、観客の前で生で上演するものだけでなく、カメラの前で行いその記録を写真やビデオに写す者(マリーナ・アブラモヴィッチ、マシュー・バーニー、シンディ・シャーマンや森万里子など)、絵画のキャンバスの上で行う者(ジャクソン・ポロックやイブ・クライン、具体美術協会のようなアクション・ペインティングなど)もその一部といえる。また中には自分の身体に暴力を加える者(クリス・バーデンなど)、身体能力を誇示する者(マシュー・バーニーなど)、ギャラリーの床下で自慰行為を行ったコンセプチュアル・アートに近い者(ヴィト・アコンチ)もいる。

[参考文献]
『パフォーマンスアート・未来派から現在まで』 ローズリー・ゴールドバーグ (Performance Art: From Futurism to the Present、ISBN 0500203393)

外部リンク
Performance artists and art...the-artists.org
Performance Art in the Culture Jammer's Encyclopedia
SAL VANILLA / Performance Artists
ポラリス
INFR'ACTION - festival international d'art performance
LONG'ACTION - rencontres franco-chinoises d'art performance

ハプニングは、1950年代から1970年代前半を中心に、北米・西ヨーロッパ・日本などで展開された、ギャラリーや市街地で行われる非再現的で一回性の強いパフォーマンスアートや作品展示などを総称するのに用いられる美術用語。ハプニングの創始者と言われているアラン・カプローによると「きまった時間と空間の中で演じられる点では演劇に関連をもった芸術形式」。

[最初の「ハプニング」]
アラン・カプローが1959年にニューヨークのルーベン画廊で行った『6つの部分の18のハプニング(18 Happenings in 6 Parts)』という催しが、最初に「ハプニング」という名前を使ったイヴェントだった。

まずカプローは、ニューヨーク・メトロポリタンの住民に、ルーベンとカプローの連名で手紙を送った。「18のハプニングが行われます」「アラン・カプローがそれらの計画を実現するのに協力していただくべく招待します」「75人の参加者のうちのひとりとして、あなたはハプニングの一部分となるでしょう。同時に、あなたはそれを体験するでしょう」

画廊の中に木の枠を組んで小屋を作り、それを半透明のビニールシートで3つの部屋に分けて、その壁のところどころにタブローを吊るす。それぞれの部屋に椅子を大量に並べ、異なる色で点滅する電灯で照らす。その部屋の中で、カプローを含む6人の芸術家がカプローの書いたシナリオに沿って、入念にリハーサルをしたのちに、それぞれのアクションを行うというイヴェントだった。

このイヴェントは評判を呼んだ。タイトルの一部でしかなかった「ハプニング」だったが、そのアクションまでもがハプニングと呼ばれるようになり、さらには一般化し、ある種の芸術形式として定着した。

その後、アル・ハンセン、キャロリー・シュニーマン、クレス・オルデンバーグ、ジム・ダイン、ジョージ・シーガル、レッド・グルームス、ロバート・ホイットマンなどの画家が様々な形式のハプニングを展開していった。

ハプニングは特に抽象表現主義の画家に愛された。抽象表現主義が爛熟し、アクション・ペインティングを超えたサムシング・ニューを追求しようという情熱と、ジャンク・アートのオブジェ性と卑俗性などの要素が複雑に絡み合ったこのアクションは、ひとつの芸術的な転換期にある画家にはひどく新鮮に映ったのだろう。しかし、多くの画家はハプニングを行うことで自らの「本来の作品」の着想を得た後、徐々にハプニングから離れていった。

[変貌するハプニング]
ハプニングの起点はアラン・カプローの、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングへの多大な関心にあった。(1.ペインティング Painting)カプローはそれを展開してアクション・コラージュを考案した。(2.アッサンブラージュ Assemblage)それにさらに空間的な要素を追加した。(3.エンバイラメント Environment)そして出来上がった「描く自分とその対象物」という構図はわずかにスライドし「自分と様々な物質の相互作用」という構図に落ち着いた。(4.ハプニング Happening)

空間的な要素を追加するきっかけになったのは、1958年にカプローが学んでいたニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチでジョン・ケージの講義を受けたことによる。(同じクラスに、アル・ハンセン、ジョージ・ブレクト、ディック・ヒギンズなどがいた。)

カプローは、演劇やゲーム、あるいはスポーツといった既存の概念を避けるように心がけ、イベントを数多くこなしていく間に「自らのハプニングの定義」を明確にしていったが、ハプニングは様々な芸術家に愛されていく中で、少しずつその概念や役割を変えていった。

音楽家のハプニング
演技や個性のドラマティックな表現の否定。アクションの起点となる楽譜を「正確に」緊張に耐えてアクションを遂行する。(ジョン・ケージ一派、ラ・モンテ・ヤングなど)

舞踊家のハプニング
ハプニングの瞬間的衝動に基づく行動を定型の舞踊に持ち込み、その境界を揺さぶる。ジャディソン教会ホールを中心に「ダンス・イヴェント」の名でさかんに行われた。(アン・ハルプリン、イヴォンヌ・ライナー、ロバート・モリスなど)

演劇人のハプニング
1964年、イギリスのエジンバラで行われた国際演劇会議の「未来の演劇」の日に、ケネス・デューイは会議そのものをハプニングにしてしまった。(後にフルクサスが行う『フルクサス会議』のさきがけといえる)

反芸術の意図でのハプニング
物体の破壊や恐怖で観客に「もっとアクティブになれ」と挑戦する。西ドイツの「デ・コラージュ」(ヴォルフ・フォステル、ナム・ジュン・パイク)

フルクサスのハプニング
当初は「芸術と日常の垣根をなくす」という反芸術的な意図でハプニングを用いたが、メンバーの多さ・曖昧さ・リーダーへの反発などの様々な理由で徐々にメンバーそれぞれの特徴をもったハプニングが生まれるようになった。演劇やゲーム、あるいはスポーツといったカプローが避けていた概念を持ち込み、ユーモアにあふれたハプニングを展開した。また、ハプニングとは別の「イヴェント」という表現活動も行った。

[世界のハプニング]
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
フランス
1960年頃から、詩人のジャン・ジャック・ルベルを中心に。また、ベン・ヴォーティエのメール・ハプニング。

チェコ
ミラン・クニザク

オランダ
シモン・ヴァンケンヌーグ、バルト・ヒューゲス、マリーケ・コーゲル

日本
1950年代のはじめの吉原治良を中心とした具体美術協会のアクションをひとつの表現とみなした活動。 1960年代のテレビ番組「木島則夫ハプニングショー」で「ハプニング」という言葉が流行。 草月ホール、アングラとの結びつきなど。

[影響・評価など]
ハプニングはパフォーマンスアート、インスタレーションに大きな影響を与えた。また、日本と米国においては、同時代に盛んだった市民運動や反戦運動、学生運動などのカウンターカルチャーと強い結び付きを得て、しばしば行政当局に事前の許可を取らないゲリラ的活動をとった。そのため、若い世代には「ハプニングは全てゲリラ的活動」という誤解が蔓延っている。

一般にハプニングは物事を予期しない方向に連れて行き退屈感を緩和するということで、管理されたセリエル音楽や偶然性が強い不確定性の音楽と一定の共通点がある。ただし、このハプニングという「技法」は音楽などの再現芸術にとって普通一回しか有効ではない。
[参考資料]
美術手帖 1967年5月号、1968年8月号 ハプニング特集

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