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2008年3月30日 (日)

ドグラ・マグラ 11

「……あなたの中に潜伏しております過去の御記憶は、最前から、極めて微妙に眼醒めかけているように思われるのです。貴方が只今、あの、ドグラ・マグラの原稿からこの狂人焚殺(ふんさつ)の絵を見ておいでになるうちに、眼ざめかけて来ました貴方御自身の潜在意識が、只今、貴方を導いて、この写真の前に連れて来たものとしか思われないのです。何故かと申しますと、彼(か)の狂人焚殺の名画と、この斎藤先生の御肖像をここに並べて掲げた人は、ほかでも御座いませぬ。あなたの精神意識の実験者、正木先生だからで御座います。……正木先生はあの狂人焚殺の絵に描いてあるような残酷非道な精神病者の取扱い方が、二十世紀の今日に於ても、公然の秘密として、到る処に行われている事実に憤慨されまして、生涯を精神病の研究に捧ぐる決心をされたのですから……。そうして斎藤先生の御指導と御援助の下にトウトウその目的を達しられたのですから……」
「狂人焚殺……狂人の虐殺が今でも行われているのですか」
 と私は独言(ひとりごと)のように呟(つぶや)いた。又も底知れぬ恐怖に囚(とら)われつつ……。しかし若林博士は平気でうなずいた。
「……行われております。遺憾なく昔の通りに行われております。否。焚(や)き殺す以上の残虐が、世界中、到る処の精神病院で、堂々と行われているので御座います。今日只今でも……」
「……そ……それはあんまり……」
 と云いさして私は言葉を嚥(の)み込んだ。あんまり非道(ひど)い云い方だと思ったので……。しかし若林博士は動じなかった。私と肩を並べて、狂人焚殺の油絵と、斎藤博士の写真を見比べながら冷然とした口調で私に云い聞かせた。
「あんまりではありませぬ。儼然(げんぜん)たる事実に相違ないのです。その事実は追々(おいおい)と、おわかりになる事と思いますが、正木先生は、そうした虐待を受けている憐れな狂人の大衆を救うべく、非常な苦心をされました結果、遂に精神科学に関する空前の新学説を樹(た)てられる事になったのです。その驚異的な新学説の原理原則と申しますのは、前にもちょっとお話しました通り、極めてわかり易い、女子供にでも理解され得るような、興味深い、卑近な種類のもので……その学説の原理を実際に証明すべく『狂人解放』の実験を初められた訳です……が……しかも、その実験は、もはや、ほかならぬ貴方御自身の御提供によって、申分(もうしぶん)なく完成されておりますので……あとに残っている仕事と申しますのは唯一つ、貴方が昔の御記憶を回復されまして、その実験の報告書類に、署名さるるばかりの段取りとなっておるので御座います」
 私は又も呆然となった。開(あ)いた口が塞(ふさ)がらないまま、並んで立っている若林博士の横顔を見上げた。そういう私が、何とも形容の出来ない厳粛な、恐ろしい因縁に囚(とら)われつつ、この部屋の中に引寄せられて来て、その因縁を作った二つの額縁に向い合わせられたまま、動く事が出来ないように仕向けられているような気がしたので……。しかし若林博士は依然として、そうした私の気持ちに無関係のままスラスラと言葉を続けた。
「……で御座いますからして、斎藤先生と正木先生と、あの狂人焚殺の因果関係をお話し致しますと、そのお話が一々、貴方の過去の御経歴に触れて来るので御座います。すなわち正木先生が、解放治療場に於て、貴方を精神科学の実験にかけるために、どれ程の周到な準備を整えてこの九大に来られたか……この実験に関する準備と研究のために、どのような恐ろしい苦心と努力を払って来られたか……」
「エッ。エッ。僕を実験するために、そんなに恐ろしい準備……」
「そうです、正木先生は実に二十余年の長い時日を、この実験の準備のために費されたので御座います」
「……二十年……」
 こう叫びかけた私の声は、まだ声にならないうちに、一種の唸り声みたようなものになって、咽喉(のど)の奥に引返した。その正木博士の二十年間の苦心が、そのまま私の頸筋(くび)に捲き付いて来るような気がしたので……。
 すると今度は若林博士もそうした、私の気持ちを察したらしく又もゆっくりとうなずいた。
「そうです。正木先生は、まだ貴方が、お生れにならない以前から、貴方のためにこの実験を準備して来られたのです」
「……まだ生れない僕のために……」
「さよう。こう申しますと、わざわざ奇矯な云い廻しを致しているように思われるかも知れませぬが、決してそのような訳では御座いませぬ。正木先生はたしかに、貴方がまだお生れにならないズット以前から、貴方の今日ある事を予期しておられたのです。貴方が只今にも、過去の御記憶を回復されました後(のち)に……否……たとい過去の御記憶を思い出されませずとも、これから私が提供致します事実によって、単に貴方御自身のお名前を推定されましただけでもよろしい。その上で前後の事実を照合(てらしあわ)されましたならば、私の申します事が、決して誇張でありませぬ事実を、御首肯(ごしゅこう)出来る事と信じます。……又……そう致しますのが、貴方御自身のお名前をホントウに思い出して頂く、最上の、最後の手段ではないかと、私は信じている次第で御座いますが……」
 若林博士は、こう説明しつつ大卓子(テーブル)の前に引返して、ストーブに面した小型な廻転椅子を指しつつ私を振り返った。私はその命令に従って手術を受ける患者のように、恐る恐るその椅子に近付くと、オズオズ腰を卸(おろ)すには卸したが、しかし腰をかけているような気持ちはチットモしなかった。余りの気味悪さと不思議さに息苦しくなった胸を押えて、唾液(つば)を呑込み呑込みしているばかりであった。
 その間に若林博士はグルリと大卓子をまわって、私の向側の大きな廻転椅子の上に座った。最前あの七号室で見た通りの恰好に、小さくなって曲り込んだのであったが、今度は外套を脱いでいるためにモーニング姿の両手と両脚が、露(あら)わに細長く折れ曲っている間へ、長い頸部(くび)と、細長い胴体とがグズグズと縮み込んで行くのがよく見えた。そうしてそのまん中に、顔だけが旧(もと)の通りの大きさで据(す)わっているので、全体の感じが何となく妖怪じみてしまった。たとえば大きな、蒼白い人間の顔を持った大蜘蛛(ぐも)が、その背後の大暖炉の中からタッタ今、私を餌食(えさ)にすべく、モーニングコートを着て匐(は)い出して来たような感じに変ってしまったのであった。
 私はそれを見ると、自ずと廻転椅子の上に居住居(いずまい)を正した。するとその大蜘蛛の若林博士は、悠々と長い手をさし伸ばして、最前から大卓子の真中に置いたままになっている書類の綴込みのようなものを引寄せて、膝の下でソッと塵(ごみ)を払いながら、小さな咳払いを一つ二つした。
「……ところでその正木先生が、生涯を賭(と)して完成されました、その実験の前後に関するお話を致しますに就(つい)ては、誠に恐縮で御座いますが、かく申す私の事を引合いに出させて頂かなければなりませぬので……と申します理由は、ほかでも御座いませぬ。正木先生と私とは元来、同郷の千葉県出身で御座いまして、この大学の前身でありました京都帝国大学、福岡医科大学と申しましたのが、明治三十六年に福岡の県立病院を改造して新設されました当初に、第一回の入学生として机を並べましたものです。そうして同じく明治四十年に、同時に卒業致しましたのですから、申さば同窓の同輩とも申すべき間柄だったので御座います。しかも、今日まで二人とも独身生活を続けまして、学術研究の一方に生涯を打ち込んでおりますところまで、そっくりそのまま、似通っているので御座いましたが……しかしその正木先生の頭脳の非凡さと、その資産の莫大さとの二つの点に到っては、トテモ私どもの思い及ぶところでは御座いませんでした。取りあえず学問の方だけで申しましても、その頃の私どもの研究というものは、只今のように外国の書物が自由自在に得られませぬために、あらゆる苦心を致しましたものです。学校の図書館の本を借りて来て、昼夜兼行で筆写したりなぞしておりましたのに、正木先生だけはタッタ一人、頗(すこぶ)る呑気な状態で自費で外国から取寄せられた書物でも、一度眼を通したら、あとは惜し気もなく他人(ひと)に貸してやったりしておられたものでした。そうして御自身は道楽半分ともいうべき古生物の化石を探しまわったり、医学とは何の関係もない、神社仏閣の縁起を調べて廻(ま)わったりしておられたような事でした。……尤(もっと)もこうした正木先生の化石集めや、神社仏閣の縁起調べは、その当時から、決して無意義な道楽ではありませんでした。……『狂人解放治療』の実験と、重大な関係を持っている計劃的な仕事であった。……という事が、二十年後の今日に到って、やっと私にだけ解かりかけて参りましたので、今更のように正木先生の頭脳の卓抜、深遠さに驚目駭心(きょうもくがいしん)させられているような次第で御座います。いずれに致しても、そのような訳で、正木先生はその当時から、一風変った人物として、学生教授間の注目を惹いておられた次第ですが、しかも、そのように偉大な正木先生の頭脳を真先に認められましたのがここに掲げてありますこの写真の主、斎藤寿八先生と申しても過言では御座いませんでした。
 ……と申しますのは斯様(かよう)な次第で御座います。元来この斎藤先生と申しますのは、この大学の創立当初から勤続しておられたお方で、現在、この部屋に在ります標本の大部分を、独力で集められた程の、非常に篤学な方で御座いましたが、殊に非常な熱弁家で、余談ではありますが、こんな逸話が残っている位であります。嘗(かつ)て、当大学創立の三週年記念祝賀会が、大講堂で行われました際に、学生を代表された正木先生が、こんな演説をされた事があります。
「近頃当大学の学生や、諸先生が、よく花柳(かりゅう)の巷(ちまた)に出入したり、賭博に耽(ふけ)ったりされる噂が、新聞でタタカレているようであるが、これは決して問題にするには当らないと思う。そもそも学生、学者たるものの第一番の罪悪は、酒色に耽る事でもなければ、花札を弄(もてあそ)ぶことでもない。学士になるか博士になるかすると、それっきり忘れたように学術の研究をやめてしまう事である。これは日本の学界の一大弊害と思う」
 と喝破された時には、満堂の学生教授の顔色が一変してしまったものでした。ところが、その中にタッタ一人斎藤先生が、自席から立上って熱狂的な拍手を送って、ブラボーを叫ばれました姿を、只今でも私はハッキリと印象しておりますので、この一事だけでもその性格の一端を窺(うかが)うのに十分で御座いましょう。
 ……しかし先生が当大学に奉職をされました当初の中(うち)は、まだ、九大に精神病科なぞいう分科もありませず、斎藤先生は学内で、唯一人の精神病の専攻家として、助教授格で、僅かな講座を受持っておられました位のことでしたので、この点に就いては大分、御不平らしく見えておりました。いつもお気に入りの正木先生と、その頃から御指導を仰いでおりました私との二人を捉(つか)まえては、現代の唯物科学万能主義を罵倒したり、国体の将来を憂えたりしておられたものですが、そのような場合に私はどのような受け答えを致してよいのか解らなかったにも拘わらず、正木先生はいつも奇想天外式な逆襲をして、斎藤先生を閉口させておられたもので……その中でも特に私の記憶に残っておりますのはかような言葉で御座いました。
「……ソ――ラ、又、先生一流の愚痴の紋切型が初まった。安月給取りの蓄音器じゃあるまいし、もうソロソロ蝋管(ろうかん)を取り換えちゃどうです。今の人間は、みんな西洋崇拝で、一人残らず唯物科学の中毒に罹(かか)っているのですから、先生の愚痴を注射した位ではナカナカ癒りませんよ。……まあまあ、そんなにヤキモキなさらずに、今から二十年ほど待っていらっしゃい。二十年経つ中(うち)には、もしかするとこの日本に一人のスバラシイ精神病患者が現われるかも知れないのです。……そうするとその患者は、自分の発病の原因と、その精神異常が回復して来た経過とを、自分自身に詳細に記録、発表して全世界の学者を驚倒させると同時に、今日まで人類が総がかりで作り上げて来た宗教、道徳、芸術、法律、科学なぞいうものは勿論のこと、自然主義、虚無主義、無政府主義、その他のアラユル唯物的な文化思想を粉微塵(こなみじん)に踏み潰して、その代りに人間の魂をドン底まで赤裸々に解放した、痛快この上なしの精神文化をこの地上にタタキ出すべく、そのキチガイが騒ぎ初めるのです。……そのキチガイ先生の騒ぎが、マンマと首尾よく成功した暁(あかつき)には、先生のお望み通りに精神科学が、この地上に於ける最高の学問となって来るのです。同時にこの大学みたように精神病科を継子(ままこ)扱いにする学校は、全然無価値なものになってしまうのです。……ですから、それを楽しみにして、精々(せいぜい)長生をして待っていらっしゃい。学者に停年はありませんからね」
 といったような事だったと記憶しておりますが、これには流石(さすが)の斎藤先生も呆(あき)れておられましたようで……一緒に聞いておりました私も、少なからず驚かされた事でした。第一、こんな予言者めいた事を、正木先生が果して本気で云っておられるのか、どうかすら判然致しませんでしたので……正木先生がこの時、既に、自分自身で、そのような精神病者を作り出して、学界を驚ろかそうと計劃しておられた……なぞいうような事が、その時代にどうして想像出来ましょう。……のみならず正木先生が、かような突拍子もない事を云って人を驚かされる事は、その頃から決して珍らしい事ではありませんでしたので、斎藤先生も私も、この事に就いては格別に不審を起した事もなく、深く突込んで質問した事なぞもありませんでした。
 ……ところが間もなく、斯様(かよう)な斎藤先生の御不満が、正木先生の天才的頭脳と相俟(あいま)って、当時の大学部内に、異常な波瀾を捲き起す機会が参りました。それは、ちょうど、私共が当大学を卒業致します時で、正木先生が卒業論文として『胎児の夢』と題する怪研究を発表されたのに、端(たん)を発したので御座いました」
「……胎児……胎児が夢を見るのですか」
 と私は突然に頓狂な声を出した。それ程に胎児の夢という言葉が、異様な響きを私の耳に与えたのであった……が……しかし若林博士は矢張(やは)りチットモ驚かなかった。私が驚くのが如何にも当然という風にうなずいた。手にした書類を一枚一枚、念入りに繰り拡げては、青白い眼で覗き込みながら……。
「……さようで……その『胎児の夢』と申します論文の内容も、追付(おっつ)けお眼に触れる事と存じますが、単にその標題を見ましただけでも尋常一様の論文でない事がわかります。普通人が見る、普通の夢でさえも、今日までその正体が判然(わか)っておりませぬのに、況(ま)して今から二十年も昔に遡(さかのぼ)った……貴方がお生れになるか、ならない頃に、学術研究の論文として斯様な標題が選まれたのですからね。……のみならず正木先生の頭脳が尋常でない事は、予(か)ねてから定評がありましたので、この論文の標題は忽ち、学内一般の評判になりまして、ドンナ内容だろうと眼を瞠(みは)らぬ者はないくらいで御座いました。
 ……ところがサテこの論文が、当時の規定に従って、学内全教授の審査を受ける段取りになりますと、その文体からして全然、従来の型を破ったもので、教授の諸先生を唖然たらしむるものがありました。……と申しますのは、元来、正木先生は語学の天分にも十二分に恵まれておられましたので、英独仏の三箇国語で書かれたものは、専門外の難解な文学書類でも平気で読破して行かれるというのが、学生仲間の評判になっていた程です。……ですから卒業論文なぞも無論、その頃まで学術用語と称せられていた独逸(ドイツ)語で書かれている事と期待されておりましたのに、案に相違して、その頃まではまだ普及されていなかった言文一致体の、しかも、俗語や方言混(まじ)りで書いてあるのでした。その上にその主張してある主旨というものが又、極端に常軌を逸しておりまして、その標題と同様に、人を愚弄(ぐろう)しているかの如く見えましたので、流石(さすが)に当時の新知識を網羅した新大学の諸教授も、ことごとく面喰らわされてしまいました。その中でも八釜(やかま)し屋を以(もっ)て鳴る某教授の如きは憤激の余りに……
「……こんな不真面目な論文を吾々に読ませる学長からして間違っている。正木の奴は自分のアタマに慢心しておるから、こんなものを平気で提出するのだ。当大学第一回の卒業論文銓衡(せんこう)の神聖を穢(けが)す者は、この正木という青二才に外(ほか)ならない。こんな学生は将来の見せしめのために放校してやるがいい」
 と敦圉(いきま)いているという風評が、学生仲間に伝わった位でありました。むろんこれは事実であったろうと思いますが……。
 ……斯様(かよう)な事情で、卒業論文銓衡の教授会議に対しては、学内一般の緊張した耳目が集中していたのでありますが、サテ、愈々(いよいよ)当日となりますと果して各教授とも略々(ほぼ)、同意見で、放校はともかくもとして、この論文を卒業論文としてパスさせる事だけは即決否決という形勢になりました。するとその時に、当時の最年少者として席末に控えておられました斎藤先生が、突然に立上られまして、今でも評判に残っておりますほどの有名な反対意見を吐かれました。
「……暫く待って頂きたい。席末から甚だ僭越と思うけれども、学術のためには止むを得ないと思うから敢えて発言するのであるが、私は諸君と全然正反対の意見を、この論文に対して持っている者である。その理由を次に述べる。
 ……第一にこの論文を批難する諸君は、文章が体(たい)を成しておらぬ。規定に合っていない。……と主張されているようであるが、これは殆んど議論にならない議論で、特に弁護の必要はないと思う。ただ学術論文というものは『どうぞ卒業させて下さい』とか『博士にして下さい』とかいって御役所に差出す願書なぞとは全然、性質の違ったものである。規定された書式とか、文体とかいうものはどこにもない……という一言を添えておけば十分であると思う。
 ……次にはこの論文の内容であるが、これも亦(また)、諸君が攻撃されるような不真面目なものでは絶対にないのである。この論文の価値が認められないのは、現代の医学者が、余りに唯物的な肉体の研究にのみ囚(とら)われて、人間の精神というものを科学的に観察する学術……すなわち精神科学に対する知識が欠けているからである。この論文に発表されているような根本的な精神、もしくは生命、もしくは遺伝の研究方法を発見すべく、全世界の精神科学者が、如何に焦慮し、苦心しているかという事実を諸君が御存じない。そのためにこの論文の真価値が理解されないものである事を、私は専門の名誉にかけて主張する者である。
 ……すなわちこの論文は、人間が、母の胎内に居る十箇月の間に一つの想像を超絶した夢を見ている。それは胎児自身が主役となって演出するところの『万有進化の実況』とも題すべき数億年、乃至(ないし)数十億年の長時間に亘(わた)る連続活動写真のようなもので、既に化石となっている有史以前の異様奇怪を極めた動植物や、又は、そんな動植物を惨死滅亡させた天変地妖の、形容を絶する偉観、壮観までも、一分(ぶ)一厘(り)違わぬ実感を以て、さながらに描きあらわすのみならず、引続いては、その天変地妖の中から生み出された原始人類、すなわち胎児自身の遠い先祖たちから、現在の両親に到る迄の代々の人間が、その深刻な生存競争のためにどのような悪業を積み重ねて来たか。どんなに残忍非道な所業を繰返しつつ、他人の耳目を眩(くら)まして来たか……そうしてそのような因果に因果を重ねた心理状態を、ドンナ風にして胎児自身に遺伝して来たかというような事実を、胎児自身の直接の主観として、詳細、明白に描きあらわすところの、驚駭(きょうがい)と、戦慄とを極めた大悪夢である事が、人間の肉体、及(および)、精神の解剖的観察によって、直接、間接に推定され得る……と主張している。但(ただし)、それは胎児自身が記録した事実でもなければ、大人の記録に残っている事でもないので、いわば一つの推測に過ぎない。だから学術上の価値は認められない。卒業論文としての点数も零(ゼロ)である……という事に諸君の御意見は一致しているようである。
 ……これは一応、御尤(ごもっと)も千万のように聞こえるが……しかし……私は失礼ながら、ここで一つ諸君にお尋ねしたい事がある。それは諸君が中学時代に於て、必ず一度は眼を通されたであろう『世界歴史』というものを諸君はドウ思って読んで来られたかという事である。……そもそも世界歴史というものは、人類生活の過去に属する部分の記録で、これを個人にとってみると、自分自身の過去の経歴に関する記憶と同様のものである……くらいの事は、今更、諸君の前で説明するさえ失礼な位に、わかり切った事であろう。苟(いやしく)も過去を持たない人間でない限り、否定し得ないところであろう。
 ……ところでもしそうとすれば、その歴史的の記録が残っていない、所謂(いわゆる)、有史以前の人類が、その宗教に、その芸術に、その社会組織に、如何なる夢を描きあらわしておったか。如何なる夢を見つつ自分達の歴史を記録し得るまでに進化して来たかという事を、現在の世界に残っている各種の遺跡に照し合わせて推測するところの学術……たとえば文化人類学、先史考古学、原始考古学なぞいう学問は学術上無価値のものといえようか。科学的の研究でないといえようか。……況(いわ)んや人類出現以前の地球の生活として記録されている地質の変遷や、古生物の盛衰興亡は、誰が見て来て、誰が記録しておいたものであろうか。現在の地球表面上に残る各種の遺跡によって、そんな事実を推定して行く地質学者や、古生物学者は皆、想像のみを事とするお伽話(とぎばなし)の作者といえようか。科学者でないといえようか。
 ……すなわち、この論文『胎児の夢』の一篇は、吾々の頭脳の記録に残っていない、みごもり時代の吾々の夢の内容を、吾々成人の肉体、及(および)、精神の到る処に残存し、充満している無量無数の遺跡によって推定するという、最も嶄新(ざんしん)な学術の芽生えでなければならぬ。最尖鋭、徹底した空前の新研究でなければならぬ。……のみならずこの論文中に含まれている人間の精神の組み立てに関する解剖的な説明の如きは、実に破天荒なこころみで、全世界の精神科学者が絶対不可能事と認めながらも、明け暮れ翹望(ぎょうぼう)し、渇望して止まなかった精神解剖学、精神生理学、精神病理学、精神遺伝学なぞというものを包含している事が明らかに認められるので、本篇の主題たる『胎児の夢』の研究がモウ一歩進展して、この方面にまで分科して来たならば、恐らく将来の人類文化に大革命が与えられはしまいかと思われる位である。すくなくとも従来の精神科学が問題にして来た幽霊現象とか、メスメリズム、透視術、読心術なぞとは全く違った純科学的な研究態度をもって、精神科学の進むべき大道を切り開いているものである事を、私は特に、今一度、私の専門の立場から、強く裏書きしておく者である。
 ……私は確信する、この『胎児の夢』の一篇は元来、一学生の卒業論文として提出されているのであるが、実は、現在ありふれている、所謂、博士論文なぞとは到底、比較にならない程の高級、且つ深遠な科学的価値を有する発表である。無論、今期、当大学第一回の卒業論文中の第一位に推して、当学部の誇りとすべきもので、これを無価値だなぞと批評する学者は、新しい学術が如何にして生まれて来たか……偉大な真理が、その発表の当初に於て、如何に空想の産物視せられて来たかという、歴史上の事実を知らない人々でなければならぬ」
 ……云々といったような主旨であったと、後に斎藤先生が私に話しておられました。
 ……ところで斎藤先生の斯様(かよう)な主張が、ほかの諸教授たちの反感を買ったのは無論の事でありました。斎藤先生は忽(たちま)ちの中(うち)に満座の諸教授の論難攻撃の焦点に立たれたのでありますが、しかし先生は一歩も退かずに、該博(がいはく)深遠なる議論を以て、一々相手の攻撃を逆襲、粉砕して行かれましたので、午後の三時から始まった会議が、日が暮れても片付きませぬ。何をいうにも新興医学部の最高の使命と名誉とを中心とする、必死の論争なのですから、真に血湧き肉躍るものがありましたでしょう。止むを得ず、他の論文の銓衡(せんこう)を全部、翌日に廻わして、ラムプを点(つ)けて議論を続行しました結果、やっと午後九時に到って一同が完全に沈黙させられてしまいました。その時に、後(のち)に名総長と謳(うた)われました盛山学部長が裁決をしまして、この『胎児の夢』の一篇を、一個の学術研究論文と認める旨を宣言しまして、やっとこの日の会議を終る事になりました。そうしてその翌日と、その翌々日と三日がかりで全部十六通の論文を銓衡致しました結果、正木先生の『胎児の夢』が斎藤先生の御主張通りに、卒業論文中の第一位に推さるる事になったのであります。
 ……が……こうして評判に評判を重ねた、医学部の卒業式の当日になりますと、意外にも、恩賜(おんし)の銀時計を拝受すべき当の本人の正木医学士が、いつの間にか行衛(ゆくえ)不明になっている事が発見されまして、又も、人々を驚かしました」
「ホウ。卒業式の当日に行衛不明……どうしてでしょう」
 私が思わずこう口走ると、同時に若林博士は、何故かしらフッと口を噤(つぐ)んだ。恰(あたか)も何かしら重大な事を言い出す前のように、私の顔を凝視していたが、やがて、又、今までよりも一層慎しやかに口を啓(ひら)いた。
「正木先生が何故(なにゆえ)に、かかる光栄ある機会を前にして、行衛不明になられたかという真個(ほんと)の原因に就ては今日まで、何人(なんぴと)も考え及んだ者が在るまいと思います。無論、私にもその真相は解かっていないので御座いますが、しかしその正木先生の行衛不明事件と、今申上げました『胎児の夢』の論文との間に、何等かの因果関係が潜んでいるらしい推測が可能であることは疑を容(い)れないようであります。……換言致しますれば、正木先生は、御自分の書かれた卒業論文『胎児の夢』の主人公に脅やかされて行衛を晦(くら)まされたものではないかと考えられるので御座います」
「……胎児の夢の主人公……胎児に魘(おび)やかされて……何だか僕にはよく解りませんが……」
「イヤ。今のうちは、ハッキリとお解りにならぬ方が宜(よろ)しいと思いますが」
 と若林博士は私をなだめるように椅子の中から右手を上げた。そうして例の異様な微笑を左の眼の下に痙攣(ひきつ)らせながら、依然として謹厳な口調で言葉を続けた。
「……今のうちは、お解りにならぬ方が宜しいと思います。こう申上げては失礼ですが、いずれ貴方が、御自身の過去の記憶を、残りなく回復されました暁には、その『胎児の夢』と題する恐怖映画の主人公が何人(なんぴと)であるかというような裏面の消息を、明らかにお察しになる事と存じますから、その時の御参考のために、特にこの際御注意を促しておきます次第で御座います。……ところで、扨(さ)て、その当学部第一回の卒業式が、正木先生の御欠席のままで終了致しますと、その翌日になって盛山学部長の手許に、正木先生からの書信が参りましたが、その中には斯様(かよう)な意味の抱負が述べてありましたそうです。

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