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2008年3月27日 (木)

キチガイ博士手記 12

 ここで寝棺と解剖台との間に突立って、又もホッとばかり肩を戦(おのの)かして一息しました黒衣の巨人はやがて又大急ぎで手袋を脱ぎ棄てますと、まず鋏を取上げて、解剖台上の少女の長やかに房々とした頭髪を掻分(かきわ)けながら、まん中あたりの髪毛(かみのけ)を一抓(ひとつま)み程プッツリと切取りました。それを机の抽斗(ひきだし)から取出した半紙でクルクルと包みまして、同じ抽出(ひきだし)から出した屍体検案書の刷物(すりもの)や二三の文房具と一緒に先刻の屍体台帳の横に置並べましたが、やがて鉄製の円型腰掛を引寄せながら、新しい筆を取上げて墨汁を含ませますと、今の半紙の包みの上に恭(うやうや)しく「遺髪」「呉モヨ子殿」と書きました。それから、ちょっと時計を出して見ながらジッと考えている様子でしたが、屍体検案書の書込みの方は後廻しにする決心をしたらしくソッと横の方へ押遣(おしや)って、屍体台帳の方を繰拡げますと、その中央に近い処にある「四百十四号……七」と書いた一枚をほかの書込みの行列と一緒に叮嚀に破って、抜取ってしまいました。
 それから別の皿へ墨汁を溶かして、色々の墨色を作りながら、破った頁(ページ)文字とソックリの筆跡で十数個の屍体に関する名前、年月日、番号等を書入れて参りました……が……その中でも今の「四百十四号……七」に関する書込みは全部飛ばして、次の「四百二十三号……四」の分を記入して、一々「若林」という認印(みとめいん)を捺(お)してしまいました。……すなわち、今しがた寝棺の中に納められたばかりの少女の変装屍体に関する記入は、かくしてこの屍体台帳から完全に追出されてしまった訳で御座います。
 ……諸君はここに於てか、今迄の若林博士の苦心惨憺の怪所業の一々が、何を意味しておったか……という事を、悉(ことごと)く明白に理解されたで御座いましょう。
 美少女、呉モヨ子の身代りとなって、棺の中に納められておりますのは、もともと身よりたよりの無い、行衛(ゆくえ)も知らぬ少女の虐殺屍体で、こちらから通知を出さない限り、遺骨を受取りに来る気づかいのない種類のものである事が、容易に察せられるのであります。
 一方に当大学内に於て、屍体解剖を行われました人間の身寄(みより)の者は、大抵、その翌日のうちに遺骨を受取りに来るように通知が出されるのでありますが、実は、解剖が済みますと直ぐに、裏手の松原に在る当大学専用の火葬場の人夫が受取って行って、立会人も何も無いままに荼毘(だび)に附して、灰のようになった骨と、保存してあった遺髪だけを受取りに来た者に引渡す……という、一般の火葬の場合とは全然違った、信用一点張りの制度になっておりますので、屍体の替玉に気付かれる心配は万に一つもないといってよろしい。尤(もっと)も、その火葬以前にやって来て、今一度、死人の顔を見せてくれと要求するような、取乱した親達がないという断言は出来ないのでありますが、仮令(たとい)そのような場合があるにしても、彼(か)のメチャメチャに縫い潰した顔を見せたら、二(ふ)タ目と見得る肉親の者はまずありますまい。
 但、唯一つここに懸念されるのは、その筋の係官や、関係医師なぞが、今一度、念のために検分に来る場合でありますが、これ程に二重三重の念を入れて、巧妙、精緻な手を入れた換玉(かえだま)である事を、どうして見破り得ましょう。いずれに致しましてもその人格に於て、又はその名声に於て、天下に嘖々(さくさく)たる若林博士が、九大医学部長の職権を利用しつつ、念を入れ過ぎる位に念を入れて仕上げた仕事ですから誰が疑点を挿(はさ)み得ましょう。どこに手ぬかりがありましょう……九大、屍体冷蔵室の屍体紛失事件が、若林博士以外にはタッタ一人しか居ない係りの医員に、不審の頭を傾けさしたまま、永久の闇から闇に葬られて行く時分には、行衛不明になった少女の虐殺屍体は既に、一片の白骨となって、立派な墓の下に葬られて、香華(こうげ)を手向(たむ)けられている訳であります。
 同時に現在、気息を恢復しつつある解剖台上の少女……呉モヨ子と名付くる美少女は、戸籍面から抹殺された、生きた亡者となって、あの蒼白長大な若林博士の手中に握り込まれつつ、呼吸する事になるので御座いますが、しかし、それが後(のち)になって何の役に立つのか、若林博士は何の目的でこの少女を、生きた亡者にして終(しま)ったのか。……その説明は後(のち)のお楽しみ……と申上げたいのですが、実はこの時までは天井裏から覗いておりました正木博士にもサッパリ見当が附(つい)ておりませんでしたので……恐らく諸君とても御同様であろうと思います……が……。
 ……しかし同時に、新聞紙上で、迷宮破りとまで称讃されている絶代のモノスゴイ頭脳の持主、若林鏡太郎博士が、かほどの惨憺たる苦心と、超常識的なトリックを用いて挑戦しつつある事件の内容……もしくはその犯人の頭脳が、如何に怪奇と不可解を極めた、凄絶なものであろうか……という事実に就いては最早(もはや)、十分十二分の御期待が出来ている事と存じます。しかも、この御期待に背(そむ)かない事件の驚くべき内容と、その過程の具体的なものが、順序を逐(お)うて諸君の眼前に展開して参りますのは、最早、程もない事と思われますので……。
 すなわち御覧の通り、事件は最早、既に、九大法医学部、解剖室内の黒怪人物、若林博士の手に落ちているので御座います。そうして同博士は今や、一代の智脳と精力を傾注しつつ、その怪事件を捲起した裏面の怪人物に対する、戦闘準備を整えているところですから……。

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