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2008年3月26日 (水)

ドグラ・マグラ 32

32
「ハハハハハハ……どうだい。もうわかったかい、錯覚の原因が……ウン。わかった。……併(しか)しまだ少々解らないところが在るだろう。ウン。在る……なかなか頭がいいね。……第一そこに居る君自身が、どこの何という青年で、如何なる因果因縁でもってこの事件に捲込まれるに到ったか……という事が君にはテンキリ解っていない筈だからね。ハッハッハッ……しかし心配し給うな。吾輩がこれから話すことを聞いておれば、一切の疑問が櫛の歯で梳(す)くようにパラリと解けて来る。その話というのは、少々重複するかも知れないが、その吾輩の遺言書の続きになる話で、この実験に関する吾輩と若林の過去の秘密から、だんだんと呉一郎の心理遺伝の内容に立ち入って行って、一番おしまいに君自身が何者であるかという事が、やっとわかる段取りになるのだ。尤(もっと)もその途中で君自身が自分の身の上を感付くとすれば止むを得ない。話はそれ切りの芽出度(めでた)し芽出度しになる訳だが、その時はその時として、まずそれまでのお楽しみとして聞いていたまえ。……しかし、もう一度念を押しておくが、もうこの上に尚(なお)、錯覚を起したりしちゃいけないよ。吾輩が幽霊だとか、吾輩が死んでから一箇月目だとかいうような飛んでもない気もちになってくれちゃ困るよ。ハッハッハッ、いいかい。これから先の話を聞いてそんな錯覚や妄想に陥ると、もう永久に取り返しが付かなくなるかも知れないからね。いいかい……ほんとに大丈夫かい。……ウンよしよし。それじゃ安心して話を進めるが……」
 と云い云い正木博士は消えかけた葉巻に火をつけた。それからポケットに両手を突込んでサモ美味(うま)そうにスパスパと吸立てたが、軈(やが)て葉巻を啣(くわ)え直すと、濛々(もうもう)たる煙の中にヤッコラサと座り直した。
「……ところでだ。……ところで、こいつはいずれ社会に曝露される事と思うから、その時に新聞で見ればわかるが……否(いや)。もう昨日(きのう)の夕刊か、今朝あたりの新聞に出ているかも知れないが……実は、昨日、あの狂人の解放治療場に一大事変が勃発したのだ。つまり吾輩がこの事件を中心とする心理遺伝の実験の結論をつけるために、あの解放治療場の精神病者の群れの中に仕掛けておいた精神科学応用の爆弾の導火線が、この間からジリジリと燃え詰(つま)って来たのが、昨日の正午――すなわち大正十五年の十月の十九日の午砲(ドン)が鳴ると殆ど同時に物の美事に爆発したのだ……ナアニ。種を明かせば何でもない。その導火線というのは一挺の鍬に仕かけてあったに過ぎないのだが、何といっても精神科学を応用した導火線で煙も立てず、火も見えないのだから普通人の眼には、そんな種仕掛けがあるものとは思えない。どこまでも普通の鍬としか見えていなかったのだ。……しかも、その結果は、正直のところ爆発し過ぎたと云ってもいい位で、吾輩も一時面喰った位の意外な惨劇になってしまったので、その責任を負うた吾輩は、即刻、総長室に出頭して辞職を申し出たんだが……なおよく考えてみると……何でもここいらが吾輩の実験の切り上げ時らしい。吾輩の今日までの研究に関する一切の発表はあとに若林が控えているから……実は吾輩もその時までは若林を、それほど腹の黒い奴と思っていなかったもんだからね……若林が、どうにかしてくれるだろう。序(ついで)に面倒臭いから人間の方も辞職しちまえ……というので吾輩は一旦、下宿へ帰って、あとを片付けて、それから東中洲(ひがしなかす)の賑やかな処で一杯引っかけてスッカリいい心持ちになりながら、書類を整理すべくここへ引返して見ると……又驚いたね。つい今先刻(さっき)、吾輩がここを出かける時まで空室(あきべや)であった、あの六号の病室にアカアカと電燈が灯(つ)いている。おかしいなと思って帰りかけている小使に様子を聞いてみると、若林先生がどこからか一人のお嬢さんを連れて来て、当直の医員に頼んで、たった今入院おさせになったところだと云う。おまけにそのお嬢さんというのは、今までに見た事もない、何ともかんとも云えない美しい綺倆(きりょう)だと云うんだ。
 ……その時には流石(さすが)の吾輩も、思わずアッと感歎の膝を打ったね。コイツは面黒(おもくろ)い事になった。この様子でみると彼奴(きゃつ)若林鏡太郎はどうして一筋縄にも二筋縄にもかかる奴じゃない。彼奴の法医学者としての価値に相当する……否、それ以上かも知れない大悪党だ。第一、吾輩の前ではスッカリ猫を冠(かぶ)っているが、ウッカリすると吾輩に敗けない位の精神病学者で、おまけに人情の弱点を利用する事に頗(すこぶ)る妙を得ているという事が一ペンにわかってしまったのだ。……というのはほかでもない。この遺言書にも書いておいた通り、彼(か)れ若林鏡太郎が、この事件の勃発当時に、学長の権威を利用して彼(か)の少女を生きた亡者にしてしまって、自分の手中に握り込んだ目的がどこにあるかという事は、その当時から今日までどうしてもわからなかったのであるが、今となってみると何の事はない。彼奴は、君が或る程度まで本性を回復した時を見澄まして、コッソリとあの娘に引き会わせて、色と、慾と、理詰めの三方から、君自身に君自身を無理にも呉一郎と認めさせよう。そうして今も云ったように、吾輩を君の不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵(かたき)と思い込ませて、その事実を公式に言明させよう……彼の思い通りに引き歪(ゆが)めた事件の真相を社会に曝露させてやろう。……のみならず、その君の言明を、自分の畢生(ひっせい)の事業としている『精神科学的犯罪とその証跡』の第一例として掲げようと巧(たく)らんでいるスジミチが手に取る如くわかって来たのだ。
 ……そこで吾輩も考えた。……よろしい。そっちがそんな考えなら、こっちにも了簡(りょうけん)がある。もともと若林の精神科学的犯罪の研究は、吾輩独創の心理遺伝の学理原則を土台にして組み立てられているんだから、まぜっ返しをしようと思えば訳はない。ここで思い切って吾輩の精神科学の研究発表の原稿を全部焼き棄ててしまって、あとにその内容の概略を書いたヒヤカシ半分の遺言書を残しておけば、彼奴、若林は嫌でも応でもその著述の中に、この遺言書を組み込まなければ研究発表の筋が立たなくなる訳だ。しかし、果して彼奴(きゃつ)が吾輩の遺言書を公表し得るかどうか……公表するとすれば、どんな風に手品を使って公表するかは、ずいぶん面白い見物だぞ……事に依ると吾輩の遺言書は恐らく空前絶後のタチのわるい置き土産になるかも知れないぞ……。
 ……と……こう考えると吾輩、急に嬉しくなったね。大急ぎでこの室(へや)へ来て書類をスッカリ焼き棄てて、この遺言書を書き初めたんだが、そのうちに夜が明けてみると、君が覚醒しかけたというので、兼ねてから待ちかねて準備していた若林が時を移さず馳けつけて、早速彼(か)の美少女に引き合わせた。……が……こいつはまんまと首尾よく失敗した。尤も先方は君を恋しい恋しい兄さんと認めてくれたので、まず半分は成功した訳だが、御本尊の君自身が、あの美少女にズドンと肘鉄砲(ひじでっぽう)を喰わせた……自分の従妹(いとこ)とも許嫁(いいなずけ)とも、何とも認めなかったので、今度は手段をかえて、君をこの室に連れて来る様子だ。
 ……ところで、実を云うとこの時には吾輩も聊(いささ)か狼狽(ろうばい)したね。恐るべきは彼奴、若林鏡太郎だ。彼奴は吾輩のこうした心事を、もう疾(と)っくに見抜いていたんだ。彼奴は吾輩が遅かれ早かれこの危険千万な放れ業式の解放治療の実験を切り上げて、その内容を学界に発表すると同時に、行衛を晦(くら)ますであろう事を、ずっと前から察していたんだね。しかも、それと同時に、この姪(めい)の浜(はま)の花嫁殺し事件も、吾輩一人の実験材料に使い棄てて、あとから誰が見ても犯罪事件と見えないようにして、学界に報告するであろう事までもチャンと看破していたんだね。そこで彼奴は全力を挙げて電光石火式に事を運んだ。そうして吾輩がまだ行衛を晦(くら)まさないうちに吾輩を押え付けてギャフンと参らせようと、巧(たく)らんだ訳だ。
 ……彼奴は吾輩が昨夜からここに居据(いず)わりで居る事を、今朝(けさ)本館の玄関を這入ると同時に見貫(みぬ)いていたに違いない。そうして何等かの策略で吾輩を凹(へこ)ませるために、君をここへ連れて来るんだな……と気が付いたから、ドッコイその手は桑名(くわな)の何とかだ。一つ驚かしてやれと思って、その遺言書や、焼き残りの書類をそこに置きっ放しにしたまま、ウイスキーの瓶と一緒に姿を消してしまったのだ。無論窓から飛び出したのでもなければ、向うの扉から抜け出した訳でもない。一歩もこの室から出ないまま誰にも気付かれないように消え失せた……というと何だか又精神科学応用の手品じみて来るが、そんな事じゃない。種というのはこの大暖炉(ストーブ)だ。
 この大暖炉は、万一この実験が失敗するか、又は吾輩の研究の内容を他人に盗まれそうになった時に、そんな著述の原稿を全部、この中で焼き棄ててくれよう。事に依ったら吾輩自身もこの大暖炉を利用して天下を煙(けむ)に巻きながら、ヒュードロドロドロと行衛を晦ましてくれようと思って、最初から瓦斯(ガス)と電気併用の自動点火式に設計したものだが……見給え……この鉄の蓋を取ると、内部(なか)はこんなに広々して、底一面の電熱装置の間から瓦斯が噴き出すようになっている。何の事はないブンゼンラムプの大きなヤツを二百ばかり併列した形だ。この上に生きた物でも戴せて、瓦斯のコックを開いて電気のスイッチを捻(ね)じると、取りあえず瓦斯が飛び出して窒息させてしまう。そのうちに電熱器が熱して来て、ドカンと瓦斯に点火したら一時間経たぬうちに骨までボロボロになって終(しま)うだろう。その上に石でも瓦でも積み重ねておくと全部白熱して強烈な輻射熱を出すのだからね。見給え、肉よりも焼け難(にく)いという西洋紙の原稿ばかり、本箱に四杯近くもあったのが、どうだい。たったこれんばかりの白い灰になってしまっているだろう。これで吾輩が又煙(けむ)になれば、折角の大学理が、又、もとの空中に還元されて終(しま)うわけだ。ハッハッハッ。……吾輩は、君と若林が、あの階段を上って来る音を耳にすると同時に、ウイスキーの瓶と一緒にこの中に逃げ込んで、この灰の上にこうして新聞紙を敷いて楽々と胡座(あぐら)を掻(か)いたまま、いつ何時でも煙になる覚悟で、葉巻を吹かし吹かし耳を澄ましていた訳だ。
 ……ところが流石(さすが)は彼奴(きゃつ)だ。天下の名法医学者だ。吾輩の姿が見えなくても平気の平左でいるばかりか、すぐにその機会を利用して君を錯覚に陥れ初めた。……彼奴のアタマは聖徳太子と同様二重三重に働くんだからね。だから吾輩や斎藤先生の事を色々と君に話して行く片手間に、この遺言書の内容を大急ぎで検査してみると、少々都合のわるい処もあるが、結論まで書いてないのだからまず安全である。のみならず、こいつを君に読ませれば、自分で説明するよりも遥かに都合よく、君自身を呉一郎と思い込ませ得るという見込みが付いたので、わざと君に押し付けておいて、君が夢中になって読んでいるうちにコッソリ姿を消してしまったのだ。そうしてこれに対して吾輩がドンナ処置を執(と)るかを試験しているらしい様子だ。
 ……そこで吾輩いよいよ面白くなったね。……よし……その儀ならばこっちも一つその計略の裏を行って、あべこべに彼奴の挑戦に逆襲してやれと思って、暖炉(ストーブ)の中からソーッとここへ出て来て、この椅子に腰を卸しながら、君がその遺言書を読み終るのを待っていた訳なんだが……。ハッハッ……どうだい。今君と吾輩とは天下の名法医学者、若林鏡太郎氏の計劃の下に対決しているんだよ。そうして君がどこの何という名前の青年であるか……この事件と如何なる因果関係によって結び付けられて、現在その椅子に座らせられているのかという事は、まだ学理上にも実際上にも明白に決定されていないのだよ。
 ……だから彼奴、若林の予想通りに、君がその自我忘失症から、姪の浜の一青年呉一郎として覚醒して、吾輩をその事件の裏面に活躍している怪魔人……血も涙もない極悪非道の精神科学の手品使いとして指摘すれば、この対決は吾輩の負けになる。しかし、これに反して、君がドウシテモ呉一郎としての過去の記憶を思い出さなければ、早い話が吾輩の勝になる……君は『自我忘失症』と名づくる一種の自家意識障害を起して、九大の精神科に収容されている、第三者の立場から若林の手にかかって突然にこの事件に捲き込まれて来た無名の一青年という事実が公表され得る事になって、若林の計劃がオジャンになるという、その際どい土俵際に立っているんだよ君は……。ドウダイ面白いだろう。古今無双の名法医学者と、空前絶後の精神科学者の、痛快深刻を極めた智慧比べだ。しかも、その勝負を決すべき呉一郎が、君自身だかどうだかは、今も云う通りまだ決定しないでいる。ハッケヨイヤ残った残ったというところだね。ハッハッハッ……」
 正木博士の高笑いは、室(へや)の中の色々なものにケタタマシク反響しつつ、私の耳に飛び込んで来た。そうして二人の博士の云う事の、どちらが本当か嘘か解らないままボンヤリとなっている私の頭の中を、メチャメチャに引っかき廻すとそのまま、どこかへシインと消え失せて行った。

 しかし正木博士は私のそうした気持ちに頓着なく、又も片眼をシッカリとつぶって、さも美味(うま)そうに葉巻の煙を吸い込んだ。それから廻転椅子の肘掛けに両手を突張って、ソロソロと立ち上りかけた。
「……や……ドッコイショ……と……そこでいよいよ本勝負に取りかからなければ、ならないのだ。まず是非とも吾輩の手で君の過去の記憶を回復さして、君が誰であるかを君自身に確かめさせなくちゃ、若林の手前、卑怯に当るからね。……とりあえずこっちに来てみたまえ。今度は吾輩自身が、君の過去を思い出させる第一回の実験をやってみるんだから……」
 私はもう半分夢遊病にかかっている気持ちでフワフワと椅子から離れた。どこからか若林博士の青白い瞳が覗いているような気味わるさの中を、正木博士に導かれるままに南側の窓に近づいた……が……正木博士の白い診察服の肩ごしに窓の外を一眼見ると、私はハッとして立ち止まった。
 眼の下に狂人解放治療場の全景が展開されているのであった。……そうしてその一隅に紛(まぎ)れもない呉一郎が突立っているのであった。……老人の畠打(はたう)ちを見守りながら、背中をこっちに向けている……髪毛(かみのけ)を蓬々(ぼうぼう)とさした……色の白い……頬ぺたの赤い……黒い着物をダラシなく纏うた青年の姿……。
 その悽惨(みじめ)な姿をアリアリと現実に見た一瞬間、私は思わず眼を閉じた。その上から両手でピッタリと顔を蔽(おお)うた。……とても正視出来ないほどの驚きと……恐れと……云い知れぬ神経の緊張に打たれて……。

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