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2008年3月26日 (水)

ドグラ・マグラ 37

 今まで弛(ゆる)み加減になっていた私の全神経は、正木博士の高やかな笑いの波動のうちに、見る見る一パイに緊張して来たのであった。
 ……冷(ひや)かしているのか……威嚇(いかく)しているのか……又は何等かの暗示を与えているのか、それとも亦(また)……心安立てに冗談を云っているのか……全く見当のつかないその笑い顔を見ているうちに、私は又もその笑い顔の持ち主が、世にも恐るべく、戦慄すべき魔法使いその者のように見えて来て仕様がなかった。しかし又それと同時に……

……何を糞ッ……高の知れた絵巻物の一巻に、男一匹が発狂するまで飜弄されるような事が、あり得よう筈はない……ドンナ名人の手に成った如何にモノスゴイ絵であるにしろ、要するに色と線との配合以外の何者でもないだろう。況(いわ)んやこっちで覚悟をしている以上、何の恐ろしい事があろう……ヨシッ……

 というような反抗心が見る見る高まって来るのを押え付ける事が出来なかった。
 ……だから私はできるだけ冷静な態度で箱を引き寄せた。そうして木の蓋と、鬱紺木綿を開くと、又も、どことなく緊張しかけて来た感情を押え付けようと力(つと)めつつ、まず絵巻物の外側から見まわした。
 巻物の軸は美しい緑色の石で八角形に磨いてあるが、あまり美しいので思わず指を触れて撫で廻してみた位であった。表装の布地(きれ)はチョット見たところ織物のようであるが、眼を近づけて見るとそれは見えるか見えぬ位の細かい彩糸(いろいと)や金銀の糸で、極く薄い絹地の目を拾いつつ、一寸大の唐獅子の群れを一匹毎(ごと)に色を変えて隙間(すきま)なく刺した物で、貴いものである事がシミジミとわかって来る。千年も昔のものだというのにピカピカと新しく見えるのは、叮嚀に蔵(しま)ってあったせいであろう。その一隅には小さな短冊型の金紙が貼りつけてあるが、何も書いた痕(あと)はない。
「それが問題の縫(ぬ)い潰(つぶ)しという刺繍なんだよ。呉一郎の母の千世子は、それを手本にして勉強したに違いないのだ」
 と正木博士は投げ遣るように説明しつつ、クルリと横を向いて葉巻を吹かし初めた。しかし私も丁度そんなような聯想を頭に浮かめていたところだったので、格別驚きもせずにうなずいた。
 象牙の篦(へら)を結び付けた暗褐色の紐を解いて巻物をすこしばかり開くと、紫黒色の紙に金絵具(きんえのぐ)で、右上から左下へ波紋を作って流れて行く水が描いてあるが、非常に優雅な筆致(ふでつき)に見えた。私はその青暗い平面に浮き出している夢のような、又は細い煙のような柔らかい金線の美しい渦巻きに魅せられながら、何の気もなくズルズルと右から左へ巻物を拡げて行ったのであったが……やがて眼の前に白い紙が五寸ばかりズイとあらわれると、私は思わず……
「……アッ……」
 と叫びかけた。けれどもその声は、まだ声にならない次の瞬間に咽喉(のど)の奥へ引返してしまった。……巻物を両手に引き拡げたまま動けなくなってしまった。息苦しい程胸の動悸が高まって……。
 そこに横たわっている裸体婦人の寝顔……細い眉……長い睫毛(まつげ)……品のいい白い鼻……小さな朱唇……清らかな腮(あご)……それはあの六号室の狂美少女の寝顔に生き写しではないか……黒い、大きな花弁(はなびら)の形に結(ゆ)い上げられた夥しい髪毛(かみのけ)が、雲のように濛々(もうもう)と重なり合っている……その鬢(びん)の恰好から、生え際のホツレ具合までも、ソックリそのままあの六号室の少女の寝姿を写生したものとしか思われないではないか…………。
 しかしこの時の私には「何故」というような疑問を起す余裕がなかった。その寝顔……否、眠っているかのように見える表情の下から、微妙な彩色や線の働らきによって見え透いて来る死人の相好(そうごう)の美くしさ……一種譬(たと)えようのない魅力の深さに、全霊を吸い寄せられ吸い奪われてしまって、今にもその眼がパッチリと開きはしまいか。そうして最前のように「アッ……お兄様ッ……」と叫んで飛び付いて来はしまいか……というような、あり得べからざる予感に全神経を襲われつづけていたのであった。瞬(まばたき)一つ出来ず、唾液一つ呑み込み得ないままに、その臙脂(えんじ)色の薄ぼけた頬から、青光りする珊瑚(さんご)色の唇のあたりを凝視していたのであった。
「ハッハッハッ。馬鹿に固くなっているじゃないか。エー……オイ。どうだい。大したものだろう。呉青秀(ごせいしゅう)の筆力は……」
 絵巻物の向うから正木博士がこんな風に気軽く声をかけた。しかし私は依然として身動きが出来なかった。唯やっと切れ切れに口を利く事が出来ただけであった。今までと丸で違った妙なカスレた声で……。
「……この顔は……さっきの……呉モヨ子と……」
「生き写しだろう……」
 と正木博士はすぐに引き取って云った。その途端に私は、やっと絵巻物から眼を外(そ)らして、正木博士のこっちに振り向いた顔を見る事が出来たが、その顔には一種の同情とも、誇りとも、皮肉とも何ともつかぬ笑いが一面に浮き出していた。
「……どうだい面白いだろう。心理遺伝が恐ろしいように肉体の遺伝も恐ろしいものなんだ。姪の浜の一農家の娘、呉モヨ子の眼鼻立ちが、今から一千百余年前(ぜん)、唐の玄宗皇帝の御代(みよ)に大評判であった花清宮裡(かせいきゅうり)の双姉妹(そうきょうきょうだい)に生き写しなんていう事は、造化の神でも忘れているだろうじゃないか」
「……………」
「歴史は繰り返すというが、人間の肉体や精神もこうして繰り返しつつ進歩して行くものなんだよ。尤(もっと)もコンナのはその中でも特別誂(あつら)えの一例だがね……呉モヨ子は、芬(ふん)夫人の心理を夢中遊行で繰り返すと同時に、その姉の黛(たい)夫人が、喜んで夫の呉青秀に絞め殺された心理も一緒に繰り返しているらしい形跡があるのを見ると、二人の先祖にソンナ徹底したマゾヒスムスの女がいて、その血脈を二人が表面に顕(あら)わしたものかも知れぬ。又は呉青秀を慕う芬女の熱情が、思う男の手にかかって死んだ姉の身の上を羨ましがる位にまで高潮していたと認められる節(ふし)もある。しかしそこまで突込んで行かずともその絵巻物の一巻が、呉青秀と、黛芬姉妹の夫婦愛の極致を顕(あら)わしていることはたやすく解るだろう……とにかくズット先まで開いて見たまえ。呉一郎の心理遺伝の正体が、ドン底まで曝露して来るから……」
 私はこの言葉に追い立てられるように、半ば無意識に絵巻物を左の方へ開いて行った。
 それから順々に白紙の上に現われて来た極彩色の密画を、ただ、真に迫っているという以外に何等の誇張も加えないで説明すると、それは右を頭にして、両手を左右に伏せて並べて、斜(ななめ)にこっち向きに寝かされた死美人の全長一尺二三寸と思われる裸体像で、周囲が白紙になっているために空間に浮いているように見える。それが間隔三四寸を隔てて次から次へと合わせて六体在るのであるが、皆殆ど同じ姿勢の寝姿で、只違うのは、初めから終りへかけて姿が変って行っている事である。
 すなわち巻頭の第一番に現われて私を驚かした絵は、死んでから間もないらしい雪白(せっぱく)の肌で、頬や耳には臙脂(えんじ)の色がなまめかしく浮かんでいる。その切れ目の長い眼と、濃い睫毛(まつげ)を伏せて、口紅で青光りする唇を軽く閉じた、温柔(おとな)しそうなみめかたちを凝視していると、夫のために死んだ神々しい喜びの色が、一パイにかがやき出しているかのように見えて来る。
 然(しか)るに第二番目の絵になると、皮膚(はだ)の色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にいくらか腫(は)れぼったく見える上に、眼のふちのまわりに暗い色が泛(うか)み漂(ただよ)い、唇も稍(やや)黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。
 その次の第三番目の像では、もう顔面の中で、額と、耳の背後(うしろ)と、腹部の皮膚の処々が赤く、又は白く爛(ただ)れはじめて、眼はウッスリと輝き開き、白い歯がすこし見え出し、全体がものものしい暗紫色にかわって、腹が太鼓のように膨(ふく)らんで光っている。
 第四の絵は総身が青黒とも形容すべき深刻な色に沈みかわり、爛れた処は茶褐色、又は卵白色が入り交(まじ)り、乳が辷(すべ)り流れて肋骨が青白く露(あら)われ、腹は下側の腰骨の近くから破れ綻(ほころ)びて、臓腑の一部がコバルト色に重なり合って見え、顔は眼球が全部露出している上に、唇が流れて白い歯を噛み出しているために鬼のような表情に見えるばかりでなく、ベトベトに濡れて脱け落ちた髪毛(かみのけ)の中からは、美しい櫛や珠玉の類がバラバラと落ち散っている。
 第五になると、今一歩進んで、眼球が潰(つい)え縮み、歯の全部が耳のつけ根まで露われて冷笑したような表情をしている。一方に臓腑は腹の皮と一緒に襤褸切(ぼろき)れを見るように黒ずみ縮んでピシャンコになってしまい、肋骨(あばらぼね)や、手足の骨が白々と露われて、毛の粘り付いた恥骨(ちこつ)のみが高やかに、男女の区別さえ出来なくなっている。
 最終の第六図になると、唯、青茶色の骨格に、黒い肉が海藻のように固まり附いた、難破船みたようなガランドウになって、猿とも人ともつかぬ頭が、全然こっち向きに傾き落ちているのに、歯だけが白く、ガックリと開いたままくっ付いている。
 ……私は嘘を記録する事は出来ない。あとから考えても恥かしい限りであるが、私はおしまいの方ほど急いで見た。
 勿論、この絵巻物を開いた最初のうちこそ、一種の反抗心と共に落ち付いた態度を保っていたが、死美人の絵が出て来ると間もなくそんな気持ちはどこへやら消えうせて、巻物を開き進める手がだんだんと早くなるのを自覚しながら、どうしてもそれを押し止める事が出来なくなった。それでも眼の前の正木博士に笑われてはいけないと思って一所懸命に息を詰めて、出来るだけ念を入れて見たつもりであったが、それでもとうとうしまいには我慢出来なくなって、第六番目の絵なぞは殆ど眼の前を通過させただけと云ってよかった。画面から湧き出して来る底知れぬ鬼気と、神経から匂って来る堪(た)え難い悪臭に包まれて、殆ど窒息しそうな思いをしながら、やっと、おしまいの由来記の頭が見える処まで来ると、思わずホッとして吾に返った。それから四五尺の長さにメッキリと書き詰めた漢文の上を形式ばかり眼を通して、その結末にある、

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