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2008年3月26日 (水)

ドグラ・マグラ 38

大倭朝(やまとちょう)天平宝字(てんぴょうほうじ)三年(ねん)癸亥(きがい)五月(がつ)於(おいて)二西海(さいかい)火国(ひのくに)末羅潟(まつらがた)法麻殺几駅(はまさきえきに)一

大唐(だいとう)翰林学士(かんりんがくし)芳九連(ほうきゅうれん)二女(じょ)芬(ふん) 識(しるす)

 という文字を二三度繰り返して読んで、いくらか気を落付けてから、もとの通りに巻き返して箱の横に置いた。それから神経を鎮(しず)めるべく椅子に背を凭(も)たせて、両手でピッタリと顔を押えながら眼を閉じた。
「……どうだ。驚いたろう。ハハハハハ。これだけ描いてもまだ足りないと思った、呉青秀の心理がわかるかね」
「……………」
「常識から考えれば天子を驚かすには、そこに描いてある六ツの死美人像だけで沢山なんだ。大抵の奴はその半分を見ただけでも参ってしまうんだ。それに呉青秀が、なおも新しい女の屍体を求めたというのは、彼が病的の心理に堕落していた証拠だ。自分の描いた死美人の腐敗像に咀(のろ)われて精神に異状を来たしたんだ。その心理がわかるかね君には……」
 こうした言葉を鼓膜にピンピンと受け付けながら、眼をシッカリと閉じて、両手でグッと押え付けている、瞼(まぶた)の内側の薄赤い暗(やみ)の中に、たった今見たばかりの死美人の第一番目の絵像が、白い光りを帯びてウッスリと現われた。……と思う間もなく第二図、第三図と左から右へ順々に辷(すべ)り初めたが、ちょうど第五番目の死後五十日目にあらわしている、白茶気た笑い顔のところまで来ると、ピタリと眼の前に静止してしまった。
 私は思わず身ぶるいをした。パッと眼を開くと、いつの間にか椅子を廻転さして、こっちを正面に腕を組んでいる正木博士と視線がカチ合った……途端に博士は黒ずんだ唇の間から義歯(いれば)を光らしてニッと笑いつつ、その顔の両脇に在る赤い薄っペラな耳朶(みみたぶ)をズッと上の方へ動かしたので、私は又、思わずゾッとして眼を伏せた。
「ウフフフフフフ。ぞっとしたろう。ウフフフフフフ……ゾッとする筈だ。……あの呉一郎も初めてこれを見た時には、君と同じように慄(ふる)え上がったに違いないのだ。……恰(あたか)も太古の生物の遺骸が、石油となって地層の底に残っているように、あの呉一郎の心理の底に隠れ伝わっていた祖先の一念は、この絵巻物を見てゾッとすると同時に点火されたんだ。……そうしてみるみるうちに一切の現実の意識を打ち消すほどの大光明となって燃え上って来た。過去も、現在も、未来も、日月星辰(じつげつせいしん)の光りもことごとくその大光明に掻き消されてしまって、自分自身が呉青秀と同じ心理……すなわち呉青秀自身になり切ってしまうまでゾッとし続けたのだ……姪の浜の石切場の赤い夕日の中に立ち上って、この絵巻物を捲き納めながら、ホッと溜め息をして西の空を凝視していた呉一郎は、最早(もはや)、今までの呉一郎ではなかったのだ。呉青秀の熱烈な慾求そのものを全身の細胞に喚び起した、或る青年の記憶力、判断力、習慣性なぞの残骸に過ぎなかったのだ……呉一郎が発狂以後今日まで、呉青秀と同じ心理で暮して来たことは、この由来記に現われている呉青秀の心理の推移と、呉一郎の今日までに於ける精神病状態の経過が、全然同一であるところを見ても遺憾なく推察される。否、二人の行動に現われた心理の推移を精神病理的に観察してみると、呉一郎は、一千年後の呉青秀に相違ないのだ」
 私は又、別の気持ちでゾッとして腰をかけ直した。
「この驚くべき奇怪な現象を理解するには、まず、呉一郎と呉青秀とがどんな順序で入れかわって行ったかという、その精神病理的の階梯(かいてい)から明かにして行かねばならぬ。平たく云えば、如何に秀才とはいえ、中学卒業以来漢文を勉強しなかったという呉一郎が、純粋の漢文の白文で、四五尺近くも細かに書き続けてあるこの由来記を、発狂するほど深刻な程度にまでドウして読みこなし得たか……という事から疑ってかからねばならぬ。……どうだ……わかるかね。その理由が」
 私は正木博士の底光りする眼を凝視(みつ)めたまま、乾燥した咽喉(のど)に唾液を押しやった。どうしてこれが気付かなかったろうと驚きつつ……。
「……わかるまいナ……わからない筈だ。呉一郎が自分の学力でこの由来記を読んだと思うと誰でも理屈がわからなくなる」
「……じゃ誰か……読んで聞かせた……」
 と云いも終らぬうちに私は愕然として慄(ふる)え上がった。

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