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2008年3月26日 (水)

ドグラ・マグラ  39

……誰か……何者かが傍に附いていたんだ……今しがた私が聞いたような説明をして聞かせた奴が居たんだ……居たんだ……そいつが……そいつが……そいつは……そいつは……

 こう思ううちに一しきり高まっていた心臓の鼓動が又ピッタリと静まった。そうして、それと同時に正木博士の厳粛な眼の光りが次第次第に柔らいで行くのを見た。一文字に結ばれた唇が見る見る弛(ゆる)んで、私を憫(あわ)れむような微笑(ほほえみ)にかわって行くのを見た……と思うと、無雑作に投げ出すような言葉が葉巻の煙と一緒に飛び出した。
「……『狐憑(きつねつ)き、落つればもとの無筆(むひつ)なり』……という川柳を知っているかね君は……」
 私は面喰った。不意に横頬に何か見えないものをタタキ付けられたような気持ちがして、暫く眼をパチパチさせていた。
「……そ……そんな川柳は知りません」
「……フ――ン……この句を知らなけあ川柳を知っているたあ云えないぜ。柳樽(やなぎだる)の中でもパリパリの名吟なんだ」
 こう云うと正木博士は得意の色を鼻の先にほのめかしながら、片膝をぐっと椅子の上に抱え上げた。
「……ソ……それが……どうしたんです」
「ドウしたんじゃない。この川柳があらわしている心理遺伝の原則を呑み込んでいない以上、シャイロック・ホルムスとアルセーヌ・ルパンのエキスみたいな名探偵が出て来ても、この疑問は解けっこない」
 冷やかにこう云い放った正木博士の口から、小さな煙の輪が一ツクルクルと湧き出して、私の頭の上の方へ消えて行った。私は又、眼をパチパチさした。
 ……狐憑き……落つれば……落つれば……もとの無筆……もとの無筆……
 と心の中で繰り返したが、わからないものはいくら考えても解らなかった。
「若林先生は知っているんですか……その理屈を……」
「吾輩が説明してやった。感謝していたよ」
「……ヘエ……どういう訳なんで……」
「どういう訳ったって……こうだ。いいかい……」
 正木博士はユッタリと椅子の背に身を凭(も)たせて足を長々と踏み伸ばした。
「……この川柳は狐憑きが、心理遺伝の発作である事を遺憾なく説明しているのだ……すなわち狐憑きはその発作の最中に妙な獣(けもの)じみた身振りをしたり飯櫃(めしびつ)に面(つら)を突込んだり、床下に這い込んで寝たがったりして、眼の玉を釣り上がらせつつ、遠い遠い大昔の先祖の動物心理を発揮するから、狐憑きという名前を頂戴しているんだが、同時にこの狐憑きはソンナ性質と一緒に、何代か前の祖先の人間の記憶や学力なぞいうものまでも発揮する場合が多いのだ。一字も知らなかった奴が狐憑きになるとスラスラと読んだり書いたり、祖先のいろんな才能や知識を発揮したりして人を驚かす例がイクラでもあるから、こんな川柳にまで読まれているんだ」
「ヘエ――。そんなに細かいところまで先祖の記憶が……」
「……出て来るから心理遺伝と名付けるんだ。無学文盲の土百姓が狐に憑(つ)かれると歌を詠(よ)んだり、詩を作ったり、医者の真似をして不治の難病を治したりする。一寸(ちょっと)不思議に思えるが心理遺伝の原則に照せば何でもない。当り前の事なんだ……殊にこの絵巻物は、絵の方が先になっているんだから、それを見ているうちに呉一郎はスッカリ昂奮して、あらかた呉青秀の気持ちになってしまっている。そうしているうちに自分の先祖代々が、何度も何度も発狂する程深く読んで来た由来記の内容に対する記憶までも一緒に呼び起しているんだから訳はない。范陽(はんよう)の進士呉青秀の学力が、自分の経歴を暗記した奴を、又読み返すようなもんだ。白紙を突きつけても間違わずに読める訳だ」
「……驚いた……成る程……」
「こいつが第一段の暗示になった訳だが、次に、第二段の暗示となって呉一郎を昏迷させたものは、その六個の死美人像の中(うち)に盛り込まれている思想である」
「思想というと……やはり呉青秀の……」
「そうだ。この心理遺伝のそもそもというものは、呉青秀の忠君愛国から初まって、その自殺に終る事になっているが、それはその由来記の表面だけの事実で、その事実の裡面に今一歩深く首を突込んでみると豈計(あにはか)らんや。呉青秀の忠勇義烈がいつの間にか変化して、純然たる変態性慾ばかりになって行く過程が遺憾なく窺われるのだ。ちょうど材木が乾溜(かんりゅう)されて、アルコールに変って行くようにね」
「……………」
「……ところでこの経過を説明すると、とても一年や二年ぐらいの講座では片付かないのだが、吾輩が昨夜(ゆんべ)焼いてしまった心理遺伝論のおしまいに、附録にして載せようと思っていた腹案の骨組みだけを掻(か)い抓(つま)んで話すと、こうだ。……呉青秀がこの仕事を思い立ったソモソモの動機というのは今も云った通り、天下万生のためという神聖無比な、純誠純忠なもののように思えるが、これは皮相の観察で、その後の経過から推測して研究すると、その神聖無比、純誠純忠の裏面に、芸術家らしい変態心理の深刻なものの色々が異分子として含まれているのを、御本人の呉青秀も気付かずにいた。……と考えなければ、その絵巻物の存在の意義に就いて、いろんな不合理があるのを、どうしても説明出来なくなって来るのだ」
「この絵巻物の存在の意義……」
「そうだよ。その絵巻物の絵と、由来記に書いてある事実とを、よくよく比較研究してみると、この絵巻物はその根本義に於て、存在の意義が怪しくなって来るのだ。……すなわち……この絵巻物は、この六体の画像を描(か)き並べただけで、天子を諫(いさ)めるだけの目的は充分に達し得るのだ。女の肉体美が如何に果敢(はか)ないものか……無常迅速なものかという事を悟らせるにはこの六個の腐敗美人像だけで沢山なのだ。……論より証拠だ。現在、たった今、君が一(ひと)わたり眼を通しただけでもゾッとさせられた位だからね……」
「……それは……そう……ですねえ……」
「そうだろう。その第六番目の乾物みたような姿のあとに、今一つ白骨の絵か何かを描(か)き添えたら、それでモウ充分にその絵巻物は完成していると云っていい。そうして残った白い処へ諫言(かんげん)の文だの、苦心談だのを書いて献上しておいて、自分はあとで自殺でもすれば、気の弱い文化天子の胆(きも)っ玉(たま)をデングリ返らせる効果は十分、十二分であったろうものを、そうしないで、なおも飽く事を知らずに、必要もない新しい犠牲を求めて歩いたのは何故か……黛夫人の遺骸が白骨になり終るのを、温和(おとな)しく待っておりさえすれば、何の苦もなく完成するであろうその絵巻物を、未完成のままに後代に伝えて、呉家(くれけ)を呪いつくす程の恐ろしい心理遺伝の暗示材料としたのは何故か……一千百年後の今日、吾々の学術研究の材料として珍重さるべき因果因縁を作ったのは何故か……」
 私は思わず溜息をさせられた。正木博士の話から湧出(わきだ)して来る一種の異妖な気分に魅せられて、何となく狂人(きちがい)じみた不可思議な疑いが、だんだん嵩(こう)じて来るのを感じながら……。
「どうだ……不思議だろう。小さな問題のようで仲々重大な問題だろう。しかもこの問題は、考えれば考える程、わからなくなって来る筈だからね。ハハハハハ。だから吾輩は云うのだ。この問題を解くには、やはり呉青秀がこの絵巻物の作製を思い立った最初の心理的要素にまで立返って観察して見なければならぬ。その時の呉青秀の心理状態を解剖して、こうした矛盾の因(よ)って起ったそのそもそもを探って見なければならぬ……しかもそれは決して難かしい問題ではないのだ」
「……………」
「すなわち、まずその時の呉青秀の心理的要素を包んでいる『忠君愛国の観念』という、表面的な意識を一枚引っ剥(ぱ)いで見ると、その下から第一番に現われて来るのは燃え立つような名誉慾だ。その次には焦(こ)げ付くような芸術慾……その又ドン底には沸騰点を突破した愛慾、兼、性慾と、この四つの慾望の徹底したものが一つに固まり合って、超人間的な高熱を発していた。つまるところ、呉青秀のスバラシイ忠君愛国精神の正体は、やはりスバラシク下等深刻な、変態性慾の固まりに過ぎなかった事が、ザラリと判明して来るのだ」
 私は思わずハンカチで鼻を撫でた。自分の心理を解剖されているような気がしたので……。

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