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2008年3月26日 (水)

ドグラ・マグラ 41

 一気に続いて来たモノスゴイ説明が、やっとここで中絶すると、私は長い、ふるえた深呼吸をしいしい顔を上げた。正木博士はやはり偉大な精神科学者であった。……というような最初の尊敬を取返すと同時に、何となく安心したような気持になって……それに連れて全身がどことなく冷え冷えと汗を掻いているのに気が附いた。
 私はそのまま今一度ホッとして問うた。
「しかし……あの呉一郎の頭は……治りましょうか」
「呉一郎の頭かね。それあ回復するとも……吾輩には自信がある」
 こう云い放った正木博士は、皮肉な表情でニヤニヤと笑って見せた。私の顔を透(す)かして見るような暗い眼付を真正面から浴びせかけた。
「あの呉一郎の頭が回復するのは、ちょうど君の頭が回復するのと同時だろうと思うがね」
 私は又しても呉一郎と同一人という暗示を与えられたような気がしてドキンとした。……のみならず二人の頭の病気が、全然おなじ経過を執(と)って回復して行きつつあるような正木博士の口吻(くちぶり)に、云い知れぬ気味わるさを感じたのであった。……が……しかし、さりげなくハンカチで顔を拭いて又問うた。
「ハア……でも仲々困難でしょうね」
「ナニ訳はない。発病の原因と経過とが、今まで述べて来たように、精神病理学的に判然しておれば治療(なお)す方法もチャントわかって来る。殊にこの呉一郎みたように、原因のハッキリした精神異状が、治癒(なお)らなければ、吾輩の精神病理学は机上の空論だ」
「……ヘエ。それで……ドンナ方法で治療するんですか」
「ウン。適当な暗示という薬を臨機応変に用いて治療するのだ。それも禁厭(まじない)とか御祈祷とかいうような非科学的なものじゃない。……つまり今まで話して来たように呉一郎は、黴毒(ばいどく)とか、結核とかいう肉体的の疾患に影響されて神経を狂わしたのじゃない。純粋な精神的な暗示だけで発狂したんだ。すなわちこの絵巻物を見た後(のち)の呉一郎は、時間も、空間も、呉一郎も、呉青秀も、支那も、日本もわからなくなって、ただ濃厚、深刻を極めた支那一流の変態性慾の刺戟と、これを渦巻きめぐる錯覚、幻覚、倒錯観念ばかりで生きる事になったんだ。そうしてその変態性慾も亦(また)、呉青秀が一千年前に経過して来た通りの順序で変化して来て、遂(つい)にはただ『女の屍体が見たい』というような単純な、且つ、率直な慾望だけになっている事が、その解放治療場内に於ける夢中遊行の状態で察せられるようになった。……呉一郎の遺伝性、殺人妄想狂、早発性痴呆、兼、変態性慾……すなわち一千年前の呉青秀の怨霊の眼で見ると、世界中、到る処の土の下には、女の死体がベタ一面に匿(かく)されているように思われて来たのだ。だから土さえ見れば鍬が欲しくなったのだ。そうして鍬を貰うと毎日毎日死物狂いに土を掘返す事になったのだ。
 ……こうしてその、時間も空間も超越した変態性慾の幽霊が、先刻も話した通り毎日毎日、当てなしの労働を続けて行くうちに、迫々(おいおい)と屁古垂(へこた)れて来た。人間の性慾の刺戟を高める燃料ホルモン……俗に精力と称する内分泌の刺戟液は、激しい労働を続行すると、その方の精力に消耗されて終(しま)うのだからね。そんな性慾の刺戟をダンダン感じなくなって、唯、疲れ切った神経の端々に、一種の惰力みたように浮出して来る女の屍体の幻覚に釣られながら、喘(あえ)ぎ喘ぎ鍬を動かすというミジメな状態に陥っている。今まで一切の精神作用を圧倒していた変態性慾の怨霊が、消え消えになって来たお蔭で、その下から……ああ苦しい。遣り切れない。いったい俺は、どうしてコンナに非道(ひど)い労働を続けなければならないのだろう……といったような、正気に近い意識が次第次第に浮上りはじめた。時々鍬を休めてボンヤリとそこいらを見まわしては又、思い出したように仕事にかかるらしい気振(けぶり)が見えて来た。その潮合(しおあ)いを見て、吾輩が出て行って、その眼の底に在る疲れ切った意識の力と、吾輩の眼の底に在る理智的の意識力とをピッタリと合わせながら『その女の屍体が、土の底に埋まったのはいつの事だ』と問いかけたものだから、サアわからなくなった。つまり今まで、全く忘れていた『時間』という観念が『いつ』という言葉の暗示力で反射的に復活しかけて来たのだ。それに連れて『ハテ。ここは一体、どこなんだろう』といったような空間的の観念も動き出して来たので、不思議そうにそこいらを見まわし初めた。同時に『ハテ。おかしいぞ。自分は今まで何をしていたのだろう』といったような自己意識も、それにつれて頭を擡(もた)げて来たので、何となく不可思議な淋しい気持になった。悲し気に頸低(うなだ)れると、今まで大切に抱えていた鍬を力なく取落して、自分の部屋へ引込んで行った……というのが、この遺言書に出ている呉一郎の治療順序の説明だ。狂人の解放治療というのは、そういう風に患者の自由行動にあらわれた心理状態を観察して、病気の経過を察しながら、適当な暗示を与えつつ治療して行く意味から付けた名前に外ならないのだ。
 ……勿論こうした治療法をこころみるには、相当の頭が要る。些(すくな)くとも今までのように当てズッポーの病名を付けて、浅薄な外科や内科の療法を応用したり、そいつが巧く当らなかった時には縛り上げたり、監禁したりなぞ、原始時代をそのままの手当を試みたりするような低級な頭では駄目の皮だ。今後の世界に於て行わるべき、正しい精神病の治療法というものは、そんな曖昧(あやふや)なもんじゃない。即ち精神というものの解剖、生理、病理の原則を、心理遺伝の学理に照してドン底まで理解すると同時に、解放されている患者の自由奔放な一挙一動によって、その心理遺伝の夢中遊行発作が、如何に推移し変化しつつ在るかを隅から隅まで看破しつつ、適当な時機に、適当な暗示を与えて、一歩一歩と正しい時間と空間の観念……正気に導いて行くだけの鋭敏さを持った頭でなくちゃならぬ。アハハハハ。思わず手前味噌に脱線してしまったが……ところでだ……。
 ……ところで、話を前に戻すと、それから後一個月の間、呉一郎が一回も解放治療場に出て来ないで、例の七号室に閉じ籠もってばかりいたのは、その間(かん)に色んな意識を回復していたものと考えられるのだ。すなわち時間の意識、空間の意識、自己の存在を認める意識なぞが、吾輩の暗示をキッカケにして次第次第に夜が明けるように蘇(よみがえ)りはじめた。『ハテナ……ここはどこで、今はいつで、俺は何という名前の人間なんだろう』とか『おれは一体、何のためにこんな処に閉籠(とじこ)められているんだろう』といった風にネ……それに連れて又、それに伴う色んな疑問や不可解が、雲の如く渦巻き起って、迷っては考え、考えては迷いしていたものだ。これは呉一郎の毎日の言動を、特に医員に命じて、細大洩らさず病床日誌に記録させてあるから、それに就いて観察して見れば、その迷い具合が手に取る如くわかる。君が最前若林博士に読まされたアンポンタン・ポカン博士の街頭演説なぞも、その時分の出来事を吾輩が実例に取って、新聞記者に説明しただけのものなんだが、それでも最近になったら、そんなような観念が呉一郎の頭の中で、次第に一つの焦点に統一されて、余程、正気に近付いて来たらしい。つまり『考えても解らないが、いずれその中(うち)に解るだろう』というような、一種の諦らめに似た安心が付いて来たらしく見える。……というのは一箇月前に鍬を棄てて、自分の部屋に引込んだ当時は、かなり非道い憂鬱状態に陥っていた。食慾が非常に減退して排泄の具合が悪くなり、体量なぞもかなり減少していたが、その後だんだんと回復して来て、今では涼しくなったせいでもあろうが、旧来(もと)以上になっている事が、病床日誌にチャンと出ている。だから目下はあのとおり、ステキに良(い)い栄養状態で、精神状態も頗(すこぶ)る明朗になったらしく、アンナにニコニコしている訳なのだ。
 ……そうして昨日(きのう)まで部屋に閉じ籠もっていた奴が、思い出したようにヒョッコリとあそこへ出て来たのは、そうした意識の秩序の回復が、一段落のところまで落付いたか、それとも栄養が良くなったために再び頭を擡(もた)げて来た性慾の刺戟が、以前の変態にまで高潮して来たので、又もあの鍬を振廻しに出て来たのか……という事は、もう暫く模様を見ていないと、わからないがね……いずれにしても呉一郎の精神状態の回復はここいらで、又、一転機を描くらしい予感が、先刻からシキリに吾輩の頭を襲って来るようだがね。ハッハッハッ」
 私はこんな言葉や笑い声を、耳には慥(たし)かに聞いていた。……窓の下で又も、何やら唄い出している舞踏狂の少女の声と一緒に……けれども眼は一心に大卓子(テーブル)の燃え上るような緑色を見詰めていた。

……如何なる名探偵が出て来ても探り得ない精神科学応用の犯罪……お前自身に名探偵となって、この事件の真相を探って見よ……

 と云った正木博士の言葉を頭の中で繰返しつつ……。その時に正木博士の言葉が途絶(とだ)えて、何やらカチッという音がした。ビクリとして頭を上げてみると、それは正木博士の頭の上に掛っている電気時計の針が、十時五十六分から七分へ移った音であった。
「……どうだ。愉快な話だろう。この一例を見ても、今までの精神病学者の治療法が、全然、見当違いをやっていた事が解るだろう。同時に、吾輩のこの解放治療の実験が、如何に素晴らしい、学界空前の……」
「ちょっと待って下さい」
 私は右手を揚げて、滝のように迸(ほとばし)り出て来る正木博士の言葉を遮(さえぎ)り止めた。得意に輝く骸骨ソックリの顔を仰ぎつつ、廻転椅子の上に座り直して問うた。
「……ちょっと……待って下さい。……しかし……先生の、そうした治療の実験は、純粋な学術研究の目的でなさるのですか、それとも……」
「……無論……むろん純粋の学術研究を目的としているんだよ。精神病の治療というものはこうするものだ……という事を、洽(あま)ねく全世界のヘゲタレ学者たちに……」
「マ……待って下さい。そうじゃありません。僕がお尋ねしているのは……」
「……何だ……」
 正木博士は不満そうに眼の球を凹(へこ)ました。肩を一つ揺り上げて椅子の背に反(そ)り返った。
「僕がお尋ねしようと思っている事は、こうなんです。呉一郎を発狂さした暗示が、この絵巻物だって事は、まだ誰も知らないでいるんですね」
「……ア。その話はまだ、しなかったっけね。無論、誰も知ってやしないよ。司法当局の奴等だって知らないも同然だよ。テンデ問題にしていないんだからね」
 正木博士は又、ツルリと顔を撫でまわして、鼻眼鏡をかけ直した。
「最前からも話した通り、この絵巻物は、呉一郎の伯母の八代子が、土蔵の二階から取って来て隠していたのを、若林が睨んで捲上げて、そのまんま吾輩に引渡したものだから、若林と吾輩以外にこの絵を見た者は君だけだ。裁判所や警察の連中は、八代子が現場の机の上の、この絵巻物が置いてあった所に、自分の鼻紙を拡げておいたので、見事に一パイ喰わされている上に『迷宮破りの若林博士が、事件の真相の説明に窮して迷信を担(かつ)ぎ出した』と云って笑っているそうだ。たしかその当時の新聞の編輯余録といったような欄の中に、素破抜(すっぱぬ)いてあったと思うが……却(かえ)って仙五郎爺から巻物の話を聞いた村の者が、色んな事を云っているそうだ。一郎が夢のお告(つげ)を受けて石切場に行ったら、巻物が高岩の蔭に置いてあったんだとか、その時がちょうど日暮狭暗(ひぐれさぐれ)の逢魔(おうま)が時(とき)だったとか云ってね……又、そんな迷信を担がない連中は、誰かモヨ子に惚れ込んでいた奴が、叶(かな)わぬ恋の意趣晴らしに、古い云い伝えから思い付いて、一郎にコンナ悪戯(いたずら)をしかけたのが、マンマと首尾よく図に当ったんだとか何とか……」
「アッ……」
 と私は突然に叫んで立上りかけた。大卓子(テーブル)の端に両手を突張って、穴の明くほど正木博士の顔を見た。正木博士も私の叫び声に驚いたらしく、吐きかけた煙を頬張ったまま、眼を丸くした。
 私の呼吸と胸の動悸が、見る見る息苦しく高まって来た。

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