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2008年3月26日 (水)

ドグラ・マグラ 43

 私は思わず立竦(たちすく)んだ。そういう正木博士の態度の中には、私を押え付けて動かさない或る力が満ち満ちていた。……曠古(こうこ)の大事業……空前の強敵……絶後の怪事件……そんなものに取巻かれて、嘘か本当か自殺の決心までさせられながら、それを片(かた)ッ端(ぱし)から茶化(ちゃか)してしまっている。その物凄い度胸の力……その力に押え付けられるように私は又、ソロソロと椅子に腰をかけた。そうして改めてその力に反抗するように居住居(いずまい)を正した。
「……よござんす……それじゃ僕は出かけますまい。その代りこの犯人を発見するまで、僕はここを動きません。僕の頭が回復して、この絵巻物の神秘を見破り得るまで、この椅子を離れませんが……いいですか先生……」
 正木博士は返事をしなかった。そうして何と思ったか、急に腰を落して、グズグズと椅子の中に屈(かが)まり込み初めた。短かくなった葉巻を灰落しの達磨(だるま)の口へ突込んで、背中を丸めて、卓子(テーブル)に頬杖を突いたが、その時にジロリと私を見た狡猾(ずる)そうな眼付と、鼻の横に浮かんだ小さな冷笑と、一文字に結んだ唇の奥に、何かしら重大な秘密を隠しているらしい気振(けぶり)を見せた。
 私は思わず身体(からだ)を乗り出した。身体中の皮膚が火照(ほて)るほどの異状な昂奮に包まれてしまった。
「いいですか先生……その代りに、万一、僕がこの犯人を発見し得たら、僕が勝手な時に、勝手な処でその名前を発表しますよ。そうして呉一郎を初め、モヨ子、八代子、千世子の仇敵(かたき)を取りますよ。そのためには、僕がドンな眼に会おうとも、又、犯人が如何なる人間であろうとも驚きませんが……いいですか、先生……。その残忍非道な人間のために、こんな狂人(きちがい)地獄に陥れられて、一生涯、飼い殺しにされているなんて……僕にはトテモ我慢が出来ないのですから……」
「ウン……まあやって見るさ」
 正木博士は如何にも気のなさそうにこう云った。そうしてアヤツリ人形のようにピッタリと眼を閉じた、一種異様な冷笑を鼻の横に残して……。
 私は今一度座り直した。自分の無力を眼の前に自覚させられたような気がして、思わずカーッとなった。
「……いいですか先生。僕が自分で考えてみますよ。……まず仮りにこの犯人が僕でないとすればですね。まさか村の者の云うように、この絵巻物がひとり手に弥勒様の仏像から抜け出して、呉一郎の手に落ちるような事は、有り得る筈がないでしょう」
「……ウフン……」
「……又……伯母の八代子と、母の千世子も、呉一郎をこの上もなく愛して、便(たよ)り縋(すが)りにしている女ですから、こんな恐ろしい云い伝えのある絵巻物を呉一郎に見せる筈はありますまい。雇人(やといにん)の仙五郎という爺(じじい)も、そんな事をする人間ではないようです。……お寺の坊さんは又、呉家の幸福を祈るために呉家に仕えているようなものですから、巻物があると判ったら却(かえ)って隠す位でしょう。そうとすれば、他にまだ誰にも気付かれていない、意外な人間の中に、嫌疑者がある筈です」
「……ウフン。自然、そういう事になる訳だね」
 正木博士は変な粘(ねば)っこい口調で、不承不承にこう云った。それからチョット眼を開(あ)いて私を見た。その眼の色は、鼻の横の微笑とは無関係に、いかにも青白く残忍であった……と思う間もなく又、もとの通りにピッタリと閉じた。
 私は一層急(せ)き込んだ。
「若林博士のその調査書類の中には、そんな嫌疑者について色々と心当りが、調べてあるんですね」
「……ないようだ」
「……エッ……一つも……」
「……ウ……ウン……」
「……じゃ……その他の事は、みんな念入りに調べてあるんですか」
「……ウ……ウン……」
「……何故ですか……それは……」
「……ウ……ウン……」
 正木博士は微笑を含んだまま、ウトウトと眠りかけているようである。その顔を見詰めたまま私は唖然となった。
「……そ……そ……それは怪訝(おか)しいじゃないですか先生……犯人の事をお留守にして、他の事ばかりに念を入れるなんて……仏作って魂入れずじゃないですか。ねえ先生……」
「……………」
「……ねえ先生……たとい悪戯(いたずら)にしろ何にしろ、これ程に残忍な……そうしてコンナにまで非人道的に巧妙な犯罪が、ほかに在り得ましょうか。……本人が発狂しなければ無論、罪にはならないし、万一発狂すれば何もかも解らなくなる。又、万が一犯人として捕まったとしても、法律はもとより、道徳上の罪までも胡魔化(ごまか)せるかも知れないというのですから、これ位アクドイ、残酷な悪戯(いたずら)は又と在るまいと思われるじゃないですか先生……」
「……ウ……フン……」
「その根本問題にちっとも触れないで調査した書類を、先生に引渡すのは、どう考えても怪訝(おか)しいじゃないですか」
「……ウ……フン。……おかしいね……」
「……この事件の真犯人を明かにするには、是非とも呉一郎か、僕かの頭を回復さして、犯人を指示(ゆびさ)させるより他に方法はないのでしょうか……先生みたような偉い方が二人も掛り切っておられながら……」
「……ないよ……」
 正木博士は乞食を断るように、面倒臭そうな口ぶりで答えた。サモサモ眠たそうに眼を閉じたまま……。私はグイと唾液(つば)を嚥込(のみこ)んだ。
「……一体、この絵巻物を呉一郎に見せた目的というのは何でしょうか」
「……ウ……ウン……」
「ほんとうの心から出た親切か……又は悪戯(いたずら)か……恋の遺恨か……何かの咀(のろ)いか……それとも……それとも……」
 私はギョッとした。呼吸が絞め上げられるように苦しくなった。胸を波打たせつつ正木博士の顔を凝視した。
 博士の鼻の横の微笑がスッと消えた。……と同時に、眼をパッチリと開いて私を見た。心持ち蒼い顔に、黒い瞳を凝然(じっ)と据えたまま静かに部屋の入口を振返った……が、やがて又おもむろに私の方へ向き直ると、やおら椅子の上に居住居(いずまい)を正した。
 その黒い瞳(め)は博士独特の鋭い光りを失って、何ともいえない柔らかい静けさを帯びていた。その態度にも今までの横着な、図々しい感じが全くなくなっていた。見る見る一種の神々しい気品を帯びて来ると同時に、何ともいえず淋しい、悲しい心持を肩のあたりに見せている。その態度を見ているうちに私の呼吸がだんだんと静まって来た。そうして吾にもあらず眼を伏せて、頭を低(た)れてしまったのであった。
「……犯人は俺だよ……」
 と博士は空洞(ほらあな)の中で呟(つぶや)くような声で云った。
 私は思わずビクリとして顔を上げた。弱々しい、物悲しい微笑を漾(ただよ)わしている博士の顔を仰いだが又、ハッと眼を伏せた。
 ……私の眼の前が灰色に暗くなって来た。全身の皮膚がゾワゾワと毛穴を閉じ初めたような……。
 私はヒッソリと眼を閉じた。わななく指を額に当てた。心臓がドキンドキンと空に躍りまわっているのに、額は冷めたく濡れている。その耳元に正木博士の悄然(しょうぜん)たる声が響く。
「……君がそこまで判断力を回復しているならば止むを得ない。一切を打明けよう」
「……………」
「何を隠そう。吾輩は夙(と)うから覚悟を決めていたのだ。この調査書類の内容の全部が、吾輩をこの事件の犯人として指していることを、最初から明かに認めていながら、知らぬ顔をし通して来たのだ」
「……………」
「この調査書類の内容は一字一句、吾輩を指して『お前だお前だ。お前以外にこの犯人はない』と主張しているのだ。……すなわち……第一回に直方(のうがた)で起った惨劇は、高等な常識を持っている思慮周密な人間が、あらゆる犯跡を掻き消しつつ、事件が迷宮に這入るように、故意に呉一郎が帰省した時を選んで、巧みに麻酔剤を使用して行った犯罪である。呉一郎の夢中遊行では断じてない……と……」
 正木博士はここで一つ、静かな咳払いをした。私は又もビクリとさせられたが、それでも顔を上げる事が出来なかった。正木博士が吐き出す一句一句の重大さに、圧(お)しかかられたようになって……。
「……その犯行の目的というのは外でもない。呉一郎を母親の千世子から切離して、モヨ子と接近させるべく、伯母の手によって姪の浜へ連れて来させるにある……モヨ子は姪の浜小町と唄われている程の美人だから、とやかく思っている者が、その界隈(かいわい)に多いにきまっているし、同時に、絵巻物の本来の所在地で、大部分の住民は多小に拘わらず、それに関する伝説を知っている。一方に呉一郎とモヨ子の縁組は、九十九パーセントまで外(はず)れる気遣いがないのだから、この実験を試みるにも、又は、その跡を晦(くら)ますにも、この姪の浜以上に適当な処はない訳である」
「……………」
「……だから第二回の姪の浜事件というのも、決して神秘的な出来事ではない。直方事件以来の計劃通り、或る人間が、石切場附近で呉一郎の帰りを待伏せて、絵巻物を渡したにきまっている……すなわちこの直方と、姪の浜の二つの事件は、或る一つの目的のために、同一の人間の頭脳によって計劃されたものである。その人間は、この絵巻物に関する伝説に対して、非常に高等な理解と、興味とを併(あわ)せ持っている者で、これを実地に試験すべく最適当した時機……すなわち被害者、呉一郎が或る大きな幸福に対する期待に充たされている最高潮のところを狙って、その完全な発狂を予期しつつ、この曠古(こうこ)の学術実験を行った……と云えば、吾輩より以外(ほか)に誰があるか……」
「ありますッ……」
 私は突然に椅子を蹴って立上った。顔が火のようにカ――ッと充血した。全身の骨と筋肉が、力に満ち満ちて戦(おのの)いた。愕然としている正木博士の鼻眼鏡を睨み付けた。
「……ワ……ワ……若林……」
「馬鹿ッ……」
 という大喝が木魂(こだま)返しに正木博士の口から迸(ほとばし)り出た。同時に黒い、凹(くぼ)んだ眼でジリジリと私を睨み据えた。……がその真黒い眼の光りの強烈さ……罪人を見下す神様のような厳粛さ……怒った猛獣かと思われる凄じさ……。怒髪天を衝(つ)くばかりの勢(いきおい)であった私は一たまりもなく慄(ふる)え上った。ヨロヨロと背後(うしろ)によろめく間もなくドタリと椅子に尻餅を突いた。その恐ろしい瞳に、自分の眼を吸い付けられたまま……。
「……馬鹿ッ……」
 私は左右の耳朶(みみたぼ)に火が附いたように感じつつ、ガックリと低頭(うなだ)れた。
「……無考(むかんが)えにも程がある……」
 その声は私の頭の上から大磐石(だいばんじゃく)のように圧(お)しかかって来た。しかも今までのタヨリない、淋しい態度とは打って変って、父親の言葉かと思われるほどの威厳と慈悲とが、その底に籠(こも)っていた。
 私は又、何故ともなく胸が一パイになりかけて来た。正木博士の筋ばった両手の指が机の端を押え付けて、一句一句に力を入れて行くのを見詰めながら……。
「……これ程の恐ろしい実験を、ここまで突込んで行(や)り得る者が、吾輩でなければ、外には今一人しかいないであろうという事は誰でも考え得る事じゃないか。又それがわかればその人間の名前が、ウッカリ歯から外へ出されない事も、直ぐに考え付く筈じゃないか。……何という軽率さだ」
「……………」
「況(いわ)んや本人は既に……一切を自白している」
「……エッ……エッ……」
 私は愕然として顔を上げた。
 見ると正木博士は、青いメリンスの風呂敷に包まれた調査書類を、右手でシッカリと押え付けながら、冷然として唇を噛んでいた。それは何の意味か知らず、或る神聖な言葉を発する前提と思われる。その緊張した態度に打たれて、私は又も頭を垂れてしまった。
「その自白の記録が、この調査書類である。これは本人が、自分で犯した罪跡を、自分で調査して吾輩に報告したものだ」
 ……スラリ……と冷めたいものが一筋、私の背中を走り降りて行った。
「……君はまだ犯罪の隠蔽心理とか、自白心理とかいうものが、ドンナものだか詳しくは知るまいが……よく聞いておき給え。人間の智慧が進むに連れて……又は社会機構が、複雑過敏になって来るに連れて、こんな恐ろしい犯罪心理が、有触(ありふ)れたものと成って来るに、きまっているんだから……よろしいか……」
「……………」
「……この調査書が如何に恐るべきものであるか……この調査書類の中に含まれている犯罪の隠蔽心理と自白心理の二つが、如何に深刻な、眩惑的な、水も洩らさぬ魔力をもって吾輩に、この罪を引受るべく迫って来たか……という理由を、これから説明するから……」
 私は、私の全身の筋肉が、みるみる冷え固って行くのを感じた。両眼の視線は又も、眼の前に横たわる緑色の羅紗(らしゃ)に吸い寄せられて、動かす事が出来なくなった。
 その時に正木博士は軽い咳払いを一つした。
「……仮りに或る人間が一つの、罪を犯したとすると、その罪は、如何に完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の『記憶の鏡』の中に残っている。罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い消す事が出来ないものである。これは人間に記憶力というものがある以上、止むを得ないので、誰でも軽蔑する位よく知っている事実ではあるが……サテ実際の例に照してみると、なかなか軽蔑なぞしておられない。この記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿なるものは、常に、五分も隙(すき)のない名探偵の威嚇力と、絶対に逃れ途(みち)のない共犯者の脅迫力とを同時にあらわしつつ、あらゆる犯罪に共通した唯一、絶対の弱点となって、最後の息を引取る間際(まぎわ)まで、人知れず犯人に附纏(つきまと)って来るものなのだ。……しかもこの名探偵と共犯者の追求から救われ得る道は唯二つ『自殺』と『発狂』以外にないと言っても宜(い)い位、その恐ろしさが徹底している。世俗に所謂(いわゆる)、『良心の苛責』なるものは、畢竟(ひっきょう)するところこうした自分の記憶から受ける脅迫観念に外(ほか)ならないので、この脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺して了(しま)うより外に方法はない……という事になるのだ。
 ……だから、あらゆる犯罪者はその頭が良ければいい程、この弱点を隠蔽して警戒しようと努力するのだが、その隠蔽の手段が又、十人が十人、百人が百人共通的に、最後の唯一絶対式の方法に帰着している。すなわち自分の心の奥の、奥のドン底に一つの秘密室を作って、その暗黒の中に、自分の『罪の姿』を『記憶の鏡』と一緒に密閉して、自分自身にも見えないようにしようと試みるのであるが、生憎(あいにく)な事に、この『記憶の鏡』という代物(しろもの)は、周囲を暗くすればする程、アリアリと輝き出して来るもので、見まいとすればする程、見たくてたまらないという奇怪極まる反逆的な作用と、これに伴う底知れぬ魅力とを持っているものなのだ。しかもそれをそうと知れば知るほど、その魅力がたまらないものとなって来るので、死物狂いに我慢をした揚句(あげく)、やり切れなくなってチラリとその記憶の鏡を振返る。そうするとその鏡に映っている自分の罪の姿も、やはり自分を振り返っているので、双方の視線が必然的にピッタリと行き合う。思わずゾッとしながら自分の罪の姿の前にうなだれる事になる……こんな事が度重なるうちに、とうとう遣り切れなくなって、この秘密室をタタキ破って、人の前にサラケ出す。記憶の鏡に映る自分の罪の姿を公衆に指さして見せる。『犯人は俺だ。この罪の姿を見ろ』……と白日の下に告白する。そうするとその自分の罪の姿が、鏡の反逆作用でスッと消える……初めて自分一人になってホッとするのだ。
 ……又は、自分の罪悪に関する記憶を、一つの記録にして、自分の死後に発表されるようにしておくのも、この苛責を免れる一つの方法だ。そうしておいて記憶の鏡を振返ると、鏡の中の『自分の罪の姿』も、その記録を押え付けつつ自分を見ている。それでイクラか安心して淋しく笑うと『自分の罪の姿』も自分を見て、憫(あわ)れむように微苦笑している。それを見ると又、いくらか気が落付いて来る……これが吾輩の所謂(いわゆる)自白心理だ……いいかい……。
 ……それから今一つ、やはり極く頭のいい……地位とか信用とかを持っている人間が、自分の犯罪を絶対安全の秘密地帯に置きたいと考えたとする。その方法の中(うち)でも最も理想的なものの一つとして今云った自白心理を応用したものがある。即ち、自分の犯罪の痕跡という痕跡、証拠という証拠を悉(ことごと)く自分の手で調べ上げて、どうしても自分が犯人でなければならぬ事が、云わず語らずの中にわかる……という紙一枚のところまで切詰(きりつ)める。そうしてその調査の結果を、自分の最も恐るる相手……すなわち自分の罪跡を最も早く看破し得る可能性を持った人間の前に提出する。そうするとその相手の心理に、人情の自然と、論理の焦点の見損ないから生ずる極めて微細な……実は『無限大』と『零(れい)』ほどの相違を持つ眩惑的な錯覚を生じて、どうしても眼の前の人間が罪人と思えなくなる。その瞬間にその犯罪者は、今までの危険な立場を一転して、殆ど絶対の安全地帯に立つことが出来る。そうなったら最早(もう)、占(し)めたものである。一旦、この錯覚が成立すると、容易に旧態(もと)に戻すことが出来ない。事実を明らかにすればする程、相手の錯覚を深めるばかりで、自分が犯人である事を主張すればする程、その犯人が立つ安全地帯の絶対価値が高まって行くばかりである。しかもこの錯覚に引っかかる度合いは、相手の頭が明晰であればある程、深いのだ……いいかい……。
 ……この『犯罪自白心理』の最も深刻なものと『犯罪隠蔽心理』の最も高等なものとが、一緒になって現出したのが、この調査書類なのだ。正に、これこそ、吾輩の遺言以上の、前代未聞の犯罪学研究資料であろうと思われるのだ……いいかい……そうして更に……」
 ここまで云って言葉を切ったと思うと、正木博士は不意に身軽く、如何にも自由そうに廻転椅子から飛降りた。自分の考えを踏み締めるように両手を背後(うしろ)に組んで、一足一足に力を入れて、大卓子(テーブル)と大暖炉(ストーブ)の間の狭いリノリウムの上を往復し初めた。
 私は矢張(やっぱ)り旧(もと)の通りに、廻転椅子の中に小さくなって、眼の前の緑色の羅紗(らしゃ)の平面を凝視していた。その眩(まぶ)しい緑色の中に、ツイ今しがた発見した黒い、留針(ピン)の頭ほどの焼け焦(こ)げが、だんだんと小さな黒ん坊の顔に見えて来る……大きな口を開(あ)いてゲラゲラ笑っているような……それを一心に凝視していた。
「そうして更に恐るべき事には、この書類に現われている自白と、犯罪の隠蔽手段は、一分一厘の隙間(すきま)もなく吾輩をシッカリと押え付けておるのだ。……即ち、もしもこの書類が公表されるか、又は司直の手に渡るかした暁には、如何に凡(ぼん)クラな司法官でも、直ぐに吾輩を嫌疑者として挙げずにはおられないように出来ているのだ。……のみならず……万一そうして吾輩が法廷に立つような事があった場合には、仮令(たとい)、文殊(もんじゅ)の智慧、富楼那(フルナ)の弁が吾輩に在りと雖(いえど)も、一言も弁解が出来ないように、この調査書は仕掛けてあるのだ。そのカラクリ仕掛の恐ろしい内容を今から説明する……いいかい……吾輩がこの戦慄すべき学術実験の張本人として名乗りを上げずにおられなくなった、その理由を説明するんだよ」
 こう云ううちに正木博士は大卓子(テーブル)の北の端にピタリと立止まった。両腕を縛られているかのようにシッカリと背後(うしろ)に組んだまま、私の方を振返ってニヤニヤと冷笑した。その瞬間に、その鼻眼鏡の二つの硝子(ガラス)玉が、南側の窓から射込む青空の光線をマトモに受けて、真白く剥(む)き出された義歯(いれば)と共に、気味悪くギラギラピカピカと光った。それを見ると私は思わず視線を外(そ)らして、眼の前の小さな焼焦(やけこ)げを見たが、その中から覗いていた黒ん坊の顔はもうアトカタもなく消え失せていた……と同時に私の頬や、首筋や、横腹あたりが、ザワザワザワと粟立(あわだ)って来るのを感じた。

 正木博士はそのまま、黙って北側の窓の処まで歩いて行った。そこでチョイト外を覗くと直ぐに大卓子(テーブル)の前の方へ引返して来たが、その態度は、今までよりも又ズット砕(くだ)けた調子になっていた。これ程の大事件を依然として馬鹿にし切って、弄(もてあそ)んでいるような、滑(なめ)らかな、若々しい声で言葉を続けた。
「……そこでだ。いいかい。まず君が裁判長の頭になって、この前代未聞の精神科学応用の犯罪事件を、厳正、公平に審理してみたまえ。吾輩が検事、兼、被告人という一人二役を兼ねた立場になってこの事件の最後の嫌疑者、即ち『W』と『M』の行動に関する一切の秘密を、知っている限り摘発すると同時に、告白するから……君は結局、双方の弁護士であると同時に裁判長だ。同時に精神科学の原理原則に精通した名探偵の立場に立ってもいい……いいかい……」
 私の直ぐ傍に立佇(たちど)まった正木博士は、リノリウムの床の上を、北側から南側へコツリコツリと往復しながら咳一咳(がいいちがい)した。
「……まず……呉一郎が、その絵巻物を見せられて、精神病的の発作に陥れられた当時の事から話すと……その大正十五年の四月の二十五日……呉一郎とモヨ子との結婚式の前日には『W』も『M』も姪の浜から程遠からぬこの福岡市内に確かに居た。……Mはまだ九州大学に着任匆々で、下宿が見付からなかったために、博多駅前の蓬莱館(ほうらいかん)という汽車待合兼業の旅宿(はたご)に泊っていたが、この蓬莱館というのはかなりの大きな家(うち)で、部屋の数が多い上に、客の出入りがナカナカ烈しい。おまけに博多一流で客待遇(あしらい)が乱暴と来ているから、金払いをキチンキチンとして飯をチャンチャンと喰ってさえおれば、半日や一晩いなくたって、気にも止めてくれないという、現場不在証明(アリバイ)の胡魔化(ごまか)しには持って来いの場所だ。……ところでこれに対するWはと見ると、いつも九大医学部の法医学教授室に立て籠(こも)って勉強ばかりしている。仕事の忙がしい時は内側から鍵をかけていて、一切の用事は電話で弁ずる。鍵穴が塞(ふさ)がっている時は、決して外からノックしないのが、法医学部関係者の規則みたような習慣になっている。こうしたWの神経質は、小使や友人は勿論の事、新聞記者仲間でも評判になっている位だから、これも現場不在証明(アリバイ)の製造には最も便利な習慣だ。
 ……サア又、一方に……呉一郎が、結婚式の前日に出席する筈になっていたという、福岡高等学校の英語演説会の日取や、時刻は、新聞に気を付けておればキットわかる。呉一郎が軌道に乗らずに歩いて帰るという習慣も、著しい習慣だから、前以て調査しておれば直ぐに気が付く……そこで石切場に働いている石切男(いしや)の一家族に、何かしら検出の困難な毒物を喰わせて、その日を中心にした二三日か一週間も休ませて、その隙(すき)に仕事をするという段取りになるのだ。もっともこの姪の浜という処は半漁村で、鮮魚を福岡市に供給している関係から、よく虎列剌(コレラ)とか、赤痢(せきり)とかいう流行病の病源地と認められる事があるので、その手の病原菌を使うと手軽でいいのだが、しかしこの種のバクテリヤは、その人間の体質や、その時その時の健康の状態によって利かない事があるから困る。いずれにしても九大の法医学教室は衛生、細菌の教室と共同長屋で、細菌や毒物の研究が盛だから、その方の手筈には頗(すこぶ)る便利な訳だと思う。とにかく微塵(みじん)も狂いのないようにして取りかかったところに、この事件の特徴があるのだからね。
 ……次に当日、呉一郎が福岡市の出外(ではず)れの今川橋から姪の浜まで、約一里の間を歩いて帰るとすれば、是非ともあの石切場の横の、山と田圃(たんぼ)に挟まれた国道を通らなければならぬ事は、戸倉仙五郎の話にも出ていたが、これは実地を見ても直ぐにうなずける。麦はもう大分伸びている頃だが、深い帽子に色眼鏡、薄い襟巻とマスク、夏マントなぞいうものを取合わせて、往来に近い石の間か何かに腰をかけて、動かない事にしておれば、顔形や背恰好までもかなり違った人間に見せかける事が出来たであろう。……そこで帰って来る呉一郎を呼び止めて、言葉巧みに誘惑するんだね。たとえば……実は私は貴方(あなた)の亡くなられたお母様を存じている者ですが、まだ貴方がお幼少(ちいさ)いうちに、貴方の事に就いて極く秘密のお頼みを受けている事がありました。そのお約束を果すために、斯様(かよう)な処でお待ち受けしていたのです……テナ事を云えばイクラ呉一郎が人見知り屋のお坊ちゃんでも引付けられずにはいられないだろう。そこでその絵巻物を勿体らしく出して見せて……これは呉家の宝物で、お母様が家中(うち)に置いておくと教育上悪いからというので、私に預けておかれたものですが、最早(もう)、明日(あした)からは貴方が一軒の御家庭の主人公になられると承(うけたまわ)りましたから、御返却(おかえ)しに参りました。つまり貴方が、モヨ子さんと式をお挙げになる前に、是非とも見ておかれなければならぬ品物で、貴方の遠い御先祖に当る或る御夫婦があらわされた、この上もない忠義心と愛情との極致をこの中に描きあらわして在るのです。これに就ては色々な恐ろしい噂や伝説が絡(まつ)わり付いている程の御宝物なのですが、それはウッカリした者が見ないように云い触(ふ)らしたのが一種の迷信みたようになってしまったので、実はトテモ素晴らしい名画と名文章なのです。嘘だと思われるならば今、ここで御覧になっても宜しい。その上で御不用だったら今一度、私が御預りしても構いません。あすこの高い岩の蔭なら、誰も来はしないでしょう……と云ったかどうか知らないが、吾輩だったら、そんな風に云いまわして好奇心を唆(そそ)るのが一番だと思うね。果せる哉(かな)、呉一郎は美事に蹄係(わな)に引っかかった。岩の蔭で夢中になって絵巻物を繰り展げているうちに、スラリと姿を消して終(しま)うくらい何でもない芸当であったろう……いいかね……。
 ……それから次にその二年前のこと……すなわち大正十三年の三月二十六日に起った直方(のうがた)事件に移ると、あの当夜も、WとMは、たしかに福岡市に居たことになっている。……というのはその三月二十六日の前日の二十五日には、久方振りでこの大学の門を潜って、当時、精神病学教授として存命中であった斎藤博士初め、同窓や旧知の先輩、後輩に面会した後(のち)、総長に会って論文を提出して、卒業以来預けておいた銀時計を受取っている。宿はやはり蓬莱館に泊る事にした。またWもその当時から今の春吉(はるよし)六番町の広い家に、飯爨婆(めしたきばあ)さん一人を相手の独身生活をやっているんだから、日が暮れてからソッと脱け出して、朝方帰って来る位、何でもない仕事だ。つまり二人とも現場不在証明(アリバイ)を胡魔化(ごまか)すには持って来いの処に居た訳だ。……それかあらぬかその晩の九時頃に一台の新しい箱自動車(セダン)が、曇り空の暗黒を東に衝(つ)いて福岡を出た。乗っている人物は炭坑成金らしい風采で「ちょうど直方へ連絡する汽車が無くなったところへ、急用が出来たものだから止むを得ない。一つ全速力で直方まで遣(や)ってくれ」と云って……」
「……エッ……そ……それじゃあの呉一郎の夢遊病は……」
 正木博士は私の前を通り抜けつつ振り返って冷笑した。
「……ウソさ……真赤な嘘だよ」
「……………」
 私の脳髄の全部が忽ち煽風機(せんぷうき)のような廻転を初めた。身体(からだ)が自然(おのず)と傾いて一方に倒れそうになったのを、辛(かろ)うじて椅子の肘掛けで支え止めた。
「……あんな夢中遊行があったら二度とお眼にかからないよ。……第一、台所の入口の竹の心張棒が落ちた説明からして甚だ明瞭を欠いているじゃないか。いずれ手袋を穿(は)めた手を、戸の間から差し入れて指の股で掴もうと試みたものだろうが、その時に誤って取落した……とでも考えれば説明が付くが……又は難なく無事に外(はず)しておいて、あとで自然に落ちたように見せかけておいた……と考える事も出来るが……しかし、まあいい。イクラ際どいところが抜きにしてあっても、吾輩の説明を聞いておれば一ペンに解るから……。それを吾輩が何故(なにゆえ)に夢中遊行病と断定してしまったかという理由も、同時に判明するんだから……」
 私の脳味噌の中の廻転が次第に静まって、やがてヒッソリと停止した。同時に頭の毛がザワザワザワとし初めたのを奥歯でギュッと噛み締めながら眼を閉じた。
「……裁判長……シッカリしないと駄目だぞ。これから先がいよいよ解らない、恐ろしい事ずくめになって来るんだから……ハハ……」
「……………」
「……そこでだ……次にこの調査書類を、よくよく読み味わって見ると、異様に感ぜられる点が二つある。その一ツはツイ今しがた君が疑ったところで、犯人の捜索方法を、ただ呉一郎の記憶回復後の陳述のみに期待して、その他の捜索方法を全然放棄している事である。……それから今一つは呉一郎の生年月日に就いて特別の注意が払ってある点と……この二つだ。いいかい……」
「……ところでその呉一郎の年齢に就いて、この調査書には一つの新聞記事の切抜を参考として挿入してあるのであるが、その記事に依ると、呉一郎の母親の千世子は、明治三十八年頃に家出をしてから一年ばかりの間、福岡市外水茶屋(みずぢゃや)の何とかいう、気取った名前の裁縫女塾に通っていたが、その間には子供を生まなかったように見える。……で……もしその頃に生まなかったものとすれば呉一郎が生まれたのは、明治三十九年の後半から、四十年一パイぐらいの間だ……という推測が出来る。……但(ただし)、こんな年齢の推定材料の切抜記事は、常識的に考えると、呉一郎が私生児だから、特に念のために挿入したものと考えられるかも知れぬ。又はその当時の話題になっていたこの『美人後家(ごけ)殺しの迷宮事件』の真相を、古い色情関係と睨んでいた新聞記者が、そんなネタを探し出した。ところが又その記事の中に、虹野(にじの)ミギワなぞいう呉虹汀(くれこうてい)に因(ちな)んだ名前が出て来たりしたので、傍々(かたがた)以てこの調査書の中に取入れたものとも考えられるようでもある。……が……しかし吾輩の眼から見るとそこにモットモット意味深長な、別個の暗示が含まれているように思える。……というのは外でもない。その呉一郎が生まれた年らしく推定される明治四十年の十二月は、この九州帝大の前身たる福岡医科大学が、第一回の卒業生……即ち吾々を生んだ年に当るのだ。……いいかい……」
「……………」
「……ところでこれが又、局外者の眼から見るとチョット根拠の薄弱な、余計な疑いのように見えるかも知れないが実はそうでない。当時の大学生の中に怪しい奴がいた。そいつがこの事件のソモソモの発頭人で、直方事件の下手人も其奴(そやつ)に相違ないという事を、この調査書は云いたくて云い得ずにおるように見える。……これが吾輩の所謂(いわゆる)、自白心理だ。問うに落ちずして語るに落ちるという千古不磨(せんこふま)の格言のあらわれだ。呉一郎が生まれた真実の時日と場所を知っているのは、母親の千世子を除いてはWとMの二人きりだからね」
 私は強く肩をユスリ上げた、自分でも意味がわからないままに……。正木博士もその時にチョット沈黙したが、その沈黙は私を無限の谷底に陥れるように深く、私の胸を打った……と思うと正木博士は又、言葉を続けた。
「……そうと気が付いた時に吾輩はゾッとしたよ。おのれと思ったが弁解の余地がない。しかも呉一郎の血液を検査して誰の子かを決定する法医式鑑定法の世界的権威はWの手中に在る」
 正木博士は南側の窓の所で向うむきにハタと立止まった。悄然とうつむいて唾液(つば)を嚥(の)み込んでいるように見えた。
 私は又もわななき出した片手を額に当てた。湧き起り湧き起りして来る胴ぶるえを押え付け押え付けしながら片手でシッカリと膝頭を掴んでいた。

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    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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