ドグラ・マグラ 7
扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つ宛(ずつ)、向い合って並んでいる。その廊下の突当りの薄暗い壁の凹(くぼ)みの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と鉄網(かなあみ)で厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、今朝早くの真夜中に……ブウンンンと唸(うな)って、私の眼を醒まさした時計であろう。どこから手を入れて螺旋(ねじ)をかけるのか解らないが、旧式な唐草模様の付いた、物々しい恰好の長針と短針が、六時四分を指し示しつつ、カックカックと巨大な真鍮の振子球(ふりこだま)を揺り動かしているのが、何だか、そんな刑罰を受けて、そんな事を繰り返させられている人間のように見えた。その時計に向って左側が私の部屋になっていて、扉の横に打ち付けられた、長さ一尺ばかりの白ペンキ塗の標札には、ゴジック式の黒い文字で「精、東、第一病棟」と小さく「第七号室」とその下に大きく書いてある。患者の名札は無い。
私は二人の看護婦に手を引かれるまにまに、その時計に背中を向けて歩き出した。そうして間もなく明るい外廊下に出ると、正面に青ペンキ塗、二階建の木造西洋館があらわれた。その廊下の左右は赤い血のような豆菊や、白い夢のようなコスモスや、紅と黄色の奇妙な内臓の形をした鶏頭(けいとう)が咲き乱れている真白い砂地で、その又向(むこう)は左右とも、深緑色の松林になっている。その松林の上を行く薄雲に、朝日の光りがホンノリと照りかかって、どこからともない遠い浪の音が、静かに静かに漂って来る気持ちのよさ……。
「……ああ……今は秋だな」
と私は思った。冷やかに流るる新鮮な空気を、腹一パイに吸い込んでホッとしたが、そんな景色を見まわして、立ち止まる間もなく二人の看護婦は、グングン私の両手を引っぱって、向うの青い洋館の中の、暗い廊下に連れ込んだ。そうして右手の取付(とっつ)きの部屋の前まで来ると、そこに今一人待っていた看護婦が扉を開いて、私たちと一緒に内部(なか)に這入った。
その部屋はかなり大きい、明るい浴室であった。向うの窓際に在る石造(いしづくり)の浴槽(ゆぶね)から湧出す水蒸気が三方の硝子(ガラス)窓一面にキラキラと滴(した)たり流れていた。その中で三人の頬ぺたの赤い看護婦たちが、三人とも揃いのマン丸い赤い腕と、赤い脚を高々とマクリ出すと、イキナリ私を引っ捉えてクルクルと丸裸体(まるはだか)にして、浴槽(ゆぶね)の中に追い込んだ。そうして良(い)い加減、暖たまったところで立ち上るとすぐに、私を流し場の板片(いたぎれ)の上に引っぱり出して、前後左右から冷めたい石鹸(シャボン)とスポンジを押し付けながら、遠慮会釈もなくゴシゴシとコスリ廻した。それからダシヌケに私の頭を押え付けると、ハダカの石鹸をコスリ付けて泡沫(あわ)を山のように盛り上げながら、女とは思えない乱暴さで無茶苦茶に引っ掻きまわしたあとから、断りもなしにザブザブと熱い湯を引っかけて、眼も口も開けられないようにしてしまうと、又も、有無(うむ)を云わさず私の両手を引っ立てて、
「コチラですよ」
と金切声で命令しながら、モウ一度、浴槽(ゆぶね)の中へ追い込んだ。そのやり方の乱暴なこと……もしかしたら今朝ほど私に食事を持って来て、非道(ひど)い目に会わされた看護婦が、三人の中(うち)に交(まじ)っていて、復讐(かたき)を取っているのではないかと思われる位であったが、なおよく気を付けてみると、それが、毎日毎日キ印を扱い慣れている扱いぶりのようにも思えるので、私はスッカリ悲観させられてしまった。
けれどもそのおしまいがけに、長く伸びた手足の爪を截(き)ってもらって、竹柄(たけえ)のブラシと塩で口の中を掃除して、モウ一度暖たまってから、新しいタオルで身体(からだ)中を拭(ぬぐ)い上げて、新しい黄色い櫛で頭をゴシゴシと掻き上げてもらうと、流石(さすが)に生れ変ったような気持になってしまった。こんなにサッパリした確かな気持になっているのに、どうして自分の過去を思い出さないのだろうかと思うと、不思議で仕様がないくらい、いい気持になってしまった。
「これとお着換なさい」
と一人の看護婦が云ったので、ふり返ってみると、板張りの上に脱いでおいた、今までの患者服は、どこへか消え失せてしまって、代りに浅黄色の大きな風呂敷包みが置いてある。結び目を解くと、白いボール箱に入れた大学生の制服と、制帽、霜降りのオーバーと、メリヤスの襯衣(シャツ)、ズボン、茶色の半靴下、新聞紙に包んだ編上靴(あみあげくつ)なぞ……そうしてその一番上に置いてある小さな革のサックを開くと銀色に光る小さな腕時計まで出て来た。
私はそんなものを怪しむ間もなく、一つ一つに看護婦から受取って身に着けたが、その序(ついで)に気を附けてみると、そんな品物のどれにも、私の所持品である事をあらわす頭文字のようなものは見当らなかった。しかし、そのどれもこれもは、殆ど仕立卸(したておろ)しと同様にチャンとした折目が附いている上に、身体をゆすぶってみると、さながらに昔馴染(むかしなじみ)でもあるかのようにシックリと着心地がいい。ただ上衣の詰襟(つめえり)の新しいカラが心持ち詰まっているように思われるだけで、真新しい角帽、ピカピカ光る編上靴、六時二十三分を示している腕時計の黒いリボンの寸法までも、ピッタリと合っているのには驚いた。あんまり不思議なので上衣のポケットに両手を突込んでみると、右手には新しい四ツ折のハンカチと鼻紙、左手には幾何(いくら)這入っているかわからないが、滑(やわ)らかに膨らんだ小さな蟇口(がまぐち)が触(さわ)った。
私は又も狐に抓(つま)まれたようになった。どこかに鏡はないか知らんと、キョロキョロそこいらを見まわしたが、生憎(あいにく)、破片(かけら)らしいものすら見当らぬ。その私の顔をやはりキョロキョロした眼付きで見返り見返り三人の看護婦が扉を開けて出て行った。
するとその看護婦と入れ違いに若林博士が、鴨居よりも高い頭を下げながら、ノッソリと這入って来た。私の服装を検査するかのように、一わたり見上げ見下すと、黙って私を部屋の隅に連れて行って、向い合った壁の中途に引っかけてある、洗い晒(ざら)しの浴衣(ゆかた)を取り除(の)けた。その下から現われたものは、思いがけない一面の、巨大(おおき)な姿見鏡であった。
私は思わず背後(うしろ)によろめいた。……その中に映っている私自身の年恰好が、あんまり若いのに驚いたからであった。
今朝暗いうちに、七号室で撫でまわして想像した時には、三十前後の鬚武者(ひげむしゃ)で、人相の悪いスゴイ風采だろうと思っていたが、それから手入れをしてもらったにしても、掌(てのひら)で撫でまわした感じと、実物とが、こんなに違っていようとは思わなかった。
眼の前の等身大の鏡の中に突立っている私は、まだやっと二十歳(はたち)かそこいらの青二才としか見えない。額の丸い、腮(あご)の薄い、眼の大きい、ビックリしたような顔である。制服がなければ中学生と思われるかも知れない。こんな青二才が私だったのかと思うと、今朝からの張り合いが、みるみる抜けて行くような、又は、何ともいえない気味の悪いような……嬉しいような……悲しいような……一種異様な気持ちになってしまった。
その時に背後(うしろ)から若林博士が、催促をするように声をかけた。
「……いかがです……思い出されましたか……御自分のお名前を……」
私は冠(かむ)りかけていた帽子を慌てて脱いだ。冷めたい唾液(つば)をグッと嚥(の)み込んで振り返ったが、その時に若林博士が、先刻から私を、色々な不思議な方法でイジクリまわしている理由がやっと判明(わか)った。若林博士は私に、私自身の過去の記念物を見せる約束をしたその手初めに、まず私に、私の過去の姿を引合わせて見せたのだ。つまり若林博士は、私の入院前の姿を、細かいところまで記憶していたので、その時の通りの姿に私を復旧してから、突然に私の眼の前に突付けて、昔の事を思い出させようとしているのに違いなかった。……成る程これなら間違いはない。たしかに私の過去の記念物に相違ない。……ほかの事は全部、感違いであるにしても、これだけは絶対に間違いようのないであろう、私自身の思い出の姿……。
しかしながら……そうした博士の苦心と努力は、遺憾ながら酬(むく)いられなかった。初めて自分の姿を見せ付けられて、ビックリさせられたにも拘わらず、私は元の通り何一つ思い出す事が出来なかった……のみならず、自分がまだ、こんな小僧っ子であることがわかると、今までよりも一層気が引けるような……馬鹿にされたような……空恐ろしいような……何ともいえない気持ちになって、われ知らず流れ出した額の汗を拭き拭きうなだれていたのであった。
その私の顔と、鏡の中の顔とを、依然として無表情な眼付きで、マジマジと見比べていた若林博士は、やがて仔細らしく点頭(うなず)いた。
「……御尤(ごもっと)もです。以前よりもズット色が白くなられて、多少肥ってもおられるようですから、御入院以前の感じとは幾分違うかも知れませぬ……では、こちらへお出でなさい。次の方法を試みてみますから……。今度は、きっと思い出されるでしょう……」
私は新らしい編上靴を穿(は)いた足首と、膝頭(ひざがしら)を固(こわ)ばらせつつ、若林博士の背後に跟随(くっつ)いて、鶏頭(けいとう)の咲いた廊下を引返して行った。そうして元の七号室に帰るのかと思っていたら、その一つ手前の六号室の標札を打った扉の前で、若林博士は立ち止まって、コツコツとノックをした。それから大きな真鍮(しんちゅう)の把手(ノッブ)を引くと、半開きになった扉の間から、浅黄色のエプロンを掛けた五十位の附添人らしい婆さんが出て来て、叮嚀に一礼した。その婆さんは若林博士の顔を見上げながら、
「只今、よくお寝(やす)みになっております」
と慎しやかに報告しつつ、私たちが出て来た西洋館の方へ立ち去った。
若林博士は、そのあとから、用心深く首をさし伸ばして内部(なか)に這入った。片手で私の手をソッと握って、片手で扉を静かに閉めると、靴音を忍ばせつつ、向うの壁の根方(ねかた)に横たえてある、鉄の寝台に近付いた。そうしてそこで、私の手をソッと離すと、その寝台の上に睡っている一人の少女の顔を、毛ムクジャラの指でソッと指し示しながら、ジロリと私を振り返った。
私は両手で帽子の庇(ひさし)をシッカリと握り締めた。自分の眼を疑って、二三度パチパチと瞬(まばた)きをした。
……それ程に美しい少女が、そこにスヤスヤと睡っているのであった。
その少女は艶々(つやつや)した夥(おびただ)しい髪毛(かみのけ)を、黒い、大きな花弁(はなびら)のような、奇妙な恰好に結んだのを白いタオルで包んだ枕の上に蓬々(ぼうぼう)と乱していた。肌にはツイ私が今さっきまで着ていたのとおんなじ白木綿の患者服を着て、胸にかけた白毛布の上に、新しい繃帯(ほうたい)で包んだ左右の手を、行儀よく重ね合わせているところを見ると、今朝早くから壁をたたいたり呼びかけたりして、私を悩まし苦しめたのは、たしかにこの少女であったろう。むろん、そこいらの壁には、私が今朝ほど想像したような凄惨な、血のにじんだ痕跡を一つも発見する事が出来なかったが、それにしても、あれ程の物凄い、息苦しい声を立てて泣き狂った人間とは、どうしても思えないその眠りようの平和さ、無邪気さ……その細長い三日月眉、長い濃い睫毛(まつげ)、品のいい高い鼻、ほんのりと紅をさした頬、クローバ型に小さく締まった唇、可愛い恰好に透きとおった二重顎(ふたえあご)まで、さながらに、こうした作り付けの人形ではあるまいかと思われるくらい清らかな寝姿であった。……否。その時の私はホントウにそう疑いつつ、何もかも忘れて、その人形の寝顔に見入っていたのであった。
すると……その私の眼の前で、不思議とも何とも形容の出来ない神秘的な変化が、その人形の寝顔に起り初めたのであった。
新しいタオルで包んだ大きな枕の中に、生(う)ぶ毛(げ)で包まれた赤い耳をホンノリと並べて、長い睫毛を正しく、楽しそうに伏せている少女の寝顔が、眼に見えぬくらい静かに、静かに、悲しみの表情にかわって行くのであった。しかも、その細長い眉や、濃い睫毛や、クローバ型の小さな唇の輪廓(りんかく)のすべては、初めの通りの美しい位置に静止したままであった。ただ、少女らしい無邪気な桃色をしていた頬の色が、何となく淋(さび)しい薔薇(ばら)色に移り変って行くだけであったが、それだけの事でありながら、たった今まで十七八に見えていた、あどけない寝顔が、いつの間にか二十二三の令夫人かと思われる、気品の高い表情に変って来た。そうして、その底から、どことなく透きとおって見えて来る悲しみの色の神々(こうごう)しいこと……。
私は又も、自分の眼を疑いはじめた。けれども、眼をこすることは愚か、呼吸(いき)も出来ないような気持になって、なおも瞬(またたき)一つせずに、見惚(みと)れていると、やがてその長く切れた二重瞼の間に、すきとおった水玉がにじみ現われはじめた。それが見る見るうちに大きい露の珠(たま)になって、長い睫毛にまつわって、キラキラと光って、あなやと思ううちにハラハラと左右へ流れ落ちた……と思うと、やがて、小さな唇が、微(かす)かにふるえながら動き出して、夢のように淡い言葉が、切れ切れに洩れ出した。
「……お姉さま……お姉さま……すみませんすみません。……あたしは……妾(あたし)は心からお兄様を、お慕い申しておりましたのです。お姉様の大事な大事なお兄様と知りながら……ずっと以前から、お慕い申して……ですから、とうとうこんな事に……ああ……済みません済みません……どうぞ……どうぞ……許して下さいましね……ゆるして……ね……お姉様……どうぞ……ね……」
それは、そのふるえわななく唇の動き方で、やっと推察が出来たかと思えるほどの、タドタドとした音調であった。けれども、その涙は、あとからあとから新らしく湧き出して、長い睫毛の間を左右の眥(めじり)へ……ほのかに白いコメカミへ……そうして青々とした両鬢(りょうびん)の、すきとおるような生(は)え際(ぎわ)へ消え込んで行くのであった。
しかし、その涙はやがて止まった。そうして左右の頬に沈んでいた、さびしい薔薇色が、夜が明けて行くように、元のあどけない桃色にさしかわって行くにつれて、その表情は、やはり人形のように動かないまま、健康(すこやか)な、十七八の少女らしい寝顔にまで回復して来た。……僅かな夢の間に五六年も年を取って悲しんだ。そうして又、元の通りに若返って来たのだな……と見ているうちにその唇の隅には、やがて和(なご)やかな微笑さえ浮かみ出たのであった。
私は又も心の底から、ホ――ッと長い溜め息をさせられた。そうして、まだ自分自身が夢から醒め切れないような気持ちで、おずおずと背後(うしろ)をふり返った。
私の背後に突立った若林博士は、最前(さっき)からの通りの無表情な表情をして、両手をうしろにまわしたまま、私をジッと見下していた。しかし内心は非常に緊張しているらしい事が、その蝋石(ろうせき)のように固くなっている顔色でわかったが、そのうちに私が振り返った顔を静かに見返すと、白い唇をソッと嘗(な)めて、今までとはまるで違った、響(ひびき)の無い声を出した。
「……この方の……お名前を……御存じですか」
私は今一度、少女の寝顔を振り返った。あたりを憚(はばか)るように、ヒッソリと頭を振った。
……イイエ……チットモ……。
という風に……。すると、そのあとから追っかけるように若林博士はモウ一度、低い声で囁(ささや)いた。
「……それでは……この方のお顔だけでも見覚えておいでになりませんか」
私はそう云う若林博士の顔を振り仰いで、二三度大きく瞬(まばたき)をして見せた。
……飛んでもない……自分の顔さえ知らなかった私が、どうして他人の顔を見おぼえておりましょう……
といわんばかりに……。
すると、私がそうした瞬間に、又も云い知れぬ失望の色が、スウット若林博士の表情を横切った。そのまま空虚になったような眼付きで、暫くの間、私を凝視していたが、やがて又、いつとなく元の淋しい表情に返って、二三度軽くうなずいたと思うと、私と一緒に、静かに少女の方に向き直った。極めて荘重な足取で、半歩ほど前に進み出て、恰(あた)かも神前で何事かを誓うかのように、両手を前に握り合せつつ私を見下した。暗示的な、ゆるやかな口調で云った。
「……それでは……申します。この方は、あなたのタッタ一人のお従妹(いとこ)さんで、あなたと許嫁(いいなずけ)の間柄になっておられる方ですよ」
「……アッ……」
と私は驚きの声を呑んだ。額(ひたい)を押えつつ、よろよろとうしろに、よろめいた。自分の眼と耳を同時に疑いつつカスレた声を上げた。
「……そ……そんな事が……コ……こんなに美しい……」
「……さよう、世にも稀(まれ)な美しいお方です。しかし間違い御座いませぬ。本年……大正十五年の四月二十六日……ちょうど六個月以前に、あなたと式をお挙げになるばかりになっておりました貴方(あなた)の、たった一人のお従妹さんです。その前の晩に起りました世にも不可思議な出来事のために、今日まで斯様(かよう)にお気の毒な生活をしておられますので……」
「……………………」
「……ですから……このお方と貴方のお二人を無事に退院されまするように……そうして楽しい結婚生活にお帰りになるように取計らいますのが、やはり、正木先生から御委托を受けました私の、最後の重大な責任となっているので御座います」
若林博士の口調は、私を威圧するかのように緩(ゆる)やかに、且(か)つ荘重であった。
しかし私はもとの通り、狐に抓(つま)まれたように眼を瞠(みは)りつつ、寝台の上を振り返るばかりであった。……見た事もない天女のような少女を、だしぬけに、お前のものだといって指さされたその気味の悪さ……疑わしさ……そうして、その何とも知れない馬鹿らしさ……。
「……僕の……たった一人の従妹……でも……今……姉さんと云ったのは……」
「あれは夢を見ていられるのです。……今申します通りこの令嬢には最初から御同胞(ごきょうだい)がおいでにならない、タッタ一人のお嬢さんなのですが……しかし、この令嬢の一千年前の祖先に当る婦人には、一人のお姉さんが居(お)られたという事実が記録に残っております。それを直接のお姉さんとして只今、夢に見ておられますので……」
「……どうして……そんな事が……おわかりに……なるのですか……」
といううちに私は声を震わした。若林博士の顔を見上げながらジリジリと後退(あとずさ)りせずにはおられなかった。若林博士の頭脳(あたま)が急に疑わしくなって来たので……他人の見ている夢の内容を、外(ほか)から見て云い当てるなぞいう事は、魔法使いよりほかに出来る筈がない……況(ま)して推理も想像も超越した……人間の力では到底、測り知る事の出来ない一千年も前の奇怪な事実を、平気で、スラスラと説明しているその無気味さ……若林博士は最初から当り前の人間ではない。事によると私と同様に、この精神病院に収容されている一種特別の患者の一人ではないか知らんと疑われ出したので……。
けれども若林博士は、ちっとも不思議な顔をしていなかった。依然として科学者らしい、何でもない口調で答えた。依然として響の無い、切れ切れの声で……。
「……それは……この令嬢が、眼を醒(さま)しておられる間にも、そんな事を云ったり、為(し)たりしておられるから判明(わか)るのです。……この髪の奇妙な結(ゆ)い方を御覧なさい。この結髪のし方は、この令嬢の一千年前(ぜん)の御先祖が居られた時代の、夫を持った婦人の髪の恰好で、時々御自身に結い換えられるのです……つまりこの令嬢は、只今でも、清浄無垢の処女でおられるのですが、しかし、御自身で、かような髪の形に結い変えておられる間は、この令嬢の精神生活の全体が、一千年前の御先祖であった或る既婚婦人の習慣とか、記憶とか、性格とかいうものに立返っておられる証拠と認められますので、むろんその時には、眼付から、身体(からだ)のこなしまでも、処女らしいところが全然見当らなくなります。年齢(とし)ごろまでも見違えるくらい成熟された、優雅(みやび)やかな若夫人の姿に見えて来るのです。……尤(もっと)も、そのような夢を忘れておいでになる間は、附添人の結うがまにまに、一般の患者と同様のグルグル巻(まき)にしておられるのですが……」
私は開(あ)いた口が閉(ふさ)がらなかった。その神秘的な髪の恰好と、若林博士の荘重な顔付きとを惘々然(ぼうぼうぜん)と見比べない訳に行かなかった。
「……では……では……兄さんと云ったのは……」
「それは矢張(やは)り貴方の、一千年前(ぜん)の御先祖に当るお方の事なのです。その時のお姉様の御主人となっておられた貴方の御先祖……すなわち、この令嬢の一千年前の義理の兄さんであった貴方と、同棲しておられる情景(ありさま)を、現在夢に見ておられるのです」
「……そ……そんな浅ましい……不倫な……」
と叫びかけて、私はハッと息を詰めた。若林博士がゆるやかに動かした青白い手に制せられつつ……。
「シッ……静かに……貴方が今にも御自分のお名前を思い出されますれば、何もかも……」
と云いさして若林博士もピッタリと口を噤(つぐ)んだ。二人とも同時に寝台の上の少女をかえりみた。けれども最早(もう)、遅かった。
私達の声が、少女の耳に這入ったらしい。その小さい、紅い唇をムズムズと動かしながら、ソッと眼を見開いて、ちょうどその真横に立っている私の顔を見ると、パチリパチリと大きく二三度瞬(まばたき)をした。そうしてその二重瞼の眼を一瞬間キラキラと光らしたと思うと、何かしら非常に驚いたと見えて、その頬の色が見る見る真白になって来た。その潤んだ黒い瞳が、大きく大きく、殆んどこの世のものとは思われぬ程の美しさにまで輝やきあらわれて来た。それに連(つ)れて頬の色が俄(にわ)かに、耳元までもパッと燃え立ったと思ううちに、
「……アッ……お兄さまッ……どうしてここにッ……」
と魂消(たまぎ)るように叫びつつ身を起した。素跣足(すはだし)のまま寝台から飛び降りて、裾(すそ)もあらわに私に縋(すが)り付こうとした。
私は仰天した。無意識の裡(うち)にその手を払い除(の)けた。思わず二三歩飛び退(の)いて睨(にら)み付けた……スッカリ面喰ってしまいながら……。
……すると、その瞬間に少女も立ち止まった。両手をさし伸べたまま電気に打たれたように固くなった。顔色が真青になって、唇の色まで無くなった……と見るうちに、眼を一パイに見開いて、私の顔を凝視(みつ)めながら、よろよろと、うしろに退(さが)って寝台の上に両手を支(つ)いた。唇をワナワナと震わせて、なおも一心に私の顔を見た。
それから少女は若林博士の顔と、部屋の中の様子を恐る恐る見廻わしていた……が、そのうちに、その両方の眼にキラキラと光る涙を一パイに溜めた。グッタリとうなだれて、石の床の上に崩折(くずお)れ座りつつ、白い患者服の袖(そで)を顔に当てたと思うと、ワッと声を立てながら、寝台の上に泣き伏してしまった。
私はいよいよ面喰った。顔中一パイに湧き出した汗を拭いつつ、シャ嗄(が)れた声でシャクリ上げシャクリ上げ泣く少女の背中と、若林博士の顔とを見比べた。
若林博士は……しかし顔の筋肉(すじ)一つ動かさなかった。呆然となっている私の顔を、冷やかに見返しながら、悠々と少女に近付いて腰を屈(かが)めた。耳に口を当てるようにして問うた。
「思い出されましたか。この方のお名前を……そうして貴女(あなた)のお名前も……」
この言葉を聞いた時、少女よりも私の方が驚かされた。……さてはこの少女も私と同様に、夢中遊行状態から醒めかけた「自我忘失状態」に陥っているのか……そうして若林博士は、現在、私にかけているのと同じ実験を、この少女にも試みているのか……と思いつつ、耳の穴がシイ――ンと鳴るほど緊張して少女の返事を期待した。
けれども少女は返事をしなかった。ただ、ちょっとの間(ま)、泣き止んで、寝台に顔を一層深く埋めながら、頭を左右に振っただけであった。
「……それではこの方が、貴方とお許嫁(いいなずけ)になっておられた、あのお兄さまということだけは記憶(おぼ)えておいでになるのですね」
少女はうなずいた。そうして前よりも一層烈(はげ)しい、高い声で泣き出した。
それは、何も知らずに聞いていても、真(まこと)に悲痛を極めた、腸(はらわた)を絞るような声であった。自分の恋人の名前を思い出す事が出来ないために、その相手とは、遥かに隔たった精神病患者の世界に取り残されている……そうして折角(せっかく)その相手にめぐり合って縋り付こうとしても、素気(そっけ)なく突き離される身の上になっていることを、今更にヒシヒシと自覚し初めているらしい少女の、身も世もあられぬ歎きの声であった。
男女の相違こそあれ、同じ精神状態に陥って、おなじ苦しみを体験させられている私は、心の底までその嗄(か)れ果てた泣声に惹き付けられてしまった。今朝、暗いうちに呼びかけられた時とは全然(まるで)違った……否あの時よりも数層倍した、息苦しい立場に陥(おとしい)れられてしまったのであった。この少女の顔も名前も、依然として思い出す事が出来ないままに、タッタ今それを思い出して、何とかしてやらなければ堪(た)まらないほど痛々しい少女の泣声と、そのいじらしい背面(うしろ)姿が、白い寝床の上に泣伏して、わななき狂うのを、どうする事も出来ないのが、全く私一人の責任であるかのような心苦しさに苛責(さい)なまれて、両手を顔に当てて、全身に冷汗を流したのであった。気が遠くなって、今にもよろめき倒れそうになった位であった。
けれども若林博士は、そうした私の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の肩をいたわり撫でた。
「……さ……さ……落ち付いて……おちついて……もう直(じ)きに思い出されます。この方も……あなたのお兄さまも、あなたのお顔を見忘れておいでになるのです。しかし、もう間もなく思い出されます。そうしたら直ぐに貴女にお教えになるでしょう。そうして御一緒に退院なさるでしょう。……さ……静かにおやすみなさい。時期の来るのをお待ちなさい。それは決して遠いことではありませんから……」
こう云い聞かせつつ若林博士は顔を上げた。……驚いて、弱って、暗涙(あんるい)を拭い拭い立ち竦(すく)んでいる私の手を引いて、サッサと扉の外に出ると、重い扉を未練気もなくピッタリと閉めた。廊下の向うの方で、鶏頭の花をいじっている附添の婆さんを、ポンポンと手を鳴らして呼び寄せると、まだ何かしら躊躇している私を促しつつ、以前の七号室の中に誘い込んだ。
耳を澄ますと、少女の泣く声が、よほど静まっているらしい。その歔欷(すす)り上げる呼吸の切れ目切れ目に、附添の婆さんが何か云い聞かせている気はいである。
人造石の床の上に突立った私は、深い溜息を一つホーッと吐(つ)きながら気を落ち付けた。とりあえず若林博士の顔を見上げて説明の言葉を待った。
……今の今まで私が夢にも想像し得なかったばかりか、恐らく世間の人々も人形以外には見た事のないであろう絶世の美少女が、思いもかけぬ隣りの部屋に、私と壁一重(ひとえ)を隔てたまま、ミジメな精神病患者として閉じ籠められている。
……しかもその美少女は、私のタッタ一人の従妹(いとこ)で、私と許嫁の間柄になっているばかりでなく「一千年前の姉さんのお婿(むこ)さんであった私」というような奇怪極まる私と同棲している夢を見ている。
……のみならずその夢から醒めて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとした。
……それを私から払い除(の)けられたために、床の上へ崩折(くずお)れて、腸(はらわた)を絞るほど歎き悲しんでいる……
というような、世にも不可思議な、ヤヤコシイ事実に対して、若林博士がドンナ説明をしてくれるかと、胸を躍らして待っていた。
けれども、この時に若林博士は何と思ったか、急に唖(おし)にでもなったかのように、ピッタリと口を噤(つぐ)んでしまった。そうして冷たい、青白い眼付きで、チラリと私を一瞥しただけで、そのまま静かに眼を伏せると、左手で胴衣(チョッキ)のポケットをかい探って、大きな銀色の懐中時計を取り出して、掌(てのひら)の上に載せた。それからその左の手頸に、右手の指先をソッと当てて、七時三十分を示している文字板を覗き込みながら、自身の脈搏を計り初めたのであった。
身体(からだ)の悪い若林博士は、毎朝この時分になると、こうして脈を取ってみるのが習慣になっているのかも知れなかった。しかし、それにしても、そうしている若林博士の態度には、今の今まで、あれ程に緊張していた気持が、あとかたも残っていなかった。その代りに、路傍でスレ違う赤の他人と同様の冷淡さが、あらわれていた。小さな眼を幽霊のように伏せて、白い唇を横一文字に閉じて、左手の脈搏の上の中指を、強く押えたり、弛(ゆる)めたりしている姿を見ると、恰(あたか)もタッタ今、隣りの部屋で見せ付けられた、不可思議な出来事に対する私の昂奮を、そうした態度で押え付けようとしているかのように見えた。……事もあろうに過去と現在と未来と……夢と現実とをゴッチャにした、変妙奇怪な世界で、二重三重の恋に悶(もだ)えている少女……想像の出来ないほど不義不倫な……この上もなく清浄純真な……同時に処女とも人妻ともつかず、正気ともキチガイとも区別されない……実在不可能とも形容すべき絶世の美少女を「お前の従妹で、同時に許嫁だ」と云って紹介するばかりでなく、その証拠を現在、眼の前に見せ付けておきながら、そうした途方もない事実に対する私の質問を、故意に避けようとしているかのように見えたのであった。
だから私は、どうしていいかわからない不満さを感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのであった。
……しかも……私が、何だかこの博士から小馬鹿まわしにされているような気持を感じたのは、実に、そのうつむいた瞬間であった。
何故という事は解らないけれども若林博士は、私の頭がどうかなっているのに付け込んで、人がビックリするような作り話を持かけて、根も葉もない事を信じさせようと試みているのじゃないか知らん。そうして何かしら学問上の実験に使おうとしているのではあるまいか……というような疑いが、チラリと頭の中に湧き起ると、見る見るその疑いが真実でなければならないように感じられて、頭の中一パイに拡がって来たのであった。
何も知らない私を捉(つか)まえて、思いもかけぬ大学生に扮装させたり、美しい少女を許嫁だなぞと云って紹介(ひきあわ)せたり、いろいろ苦心しているところを見るとドウモ可怪(おか)しいようである。この服や帽子は、私が夢うつつになっているうちに、私の身体(からだ)に合せて仕立てたものではないかしらん。又、あの少女というのも、この病院に収容されている色情狂か何かで、誰を見ても、あんな変テコな素振りをするのじゃないかしらん。この病院も、九州帝国大学ではないのかもしれぬ。ことによると、眼の前に突立っている若林博士も、何かしらエタイのわからない掴ませもので、何かの理由で脳味噌を蒸発させるかどうかしている私を、どこからか引っぱって来て、或る一つの勿体(もったい)らしい錯覚に陥(おとしい)れて、何かの役に立てようとしているのではないかしらん。そうでもなければ、私自身の許嫁だという、あんな美しい娘に出会いながら、私が何一つ昔の事を思い出さない筈はない。なつかしいとか、嬉しいとか……何とかいう気持を、感じない筈はない。
……そうだ、私はたしかに一パイ喰わされかけていたのだ。
……こう気が付いて来るに連れて、今まで私の頭の中一パイにコダワっていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだのいうものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。そうして私の頭の中は、いつの間にか又、もとの木阿弥(もくあみ)のガンガラガンに立ち帰って行ったのであった。何等の責任も、心配もない……。
けれども、それに連れて、私自身が全くの一人ポッチになって、何となくタヨリないような、モノ淋しいような気分に襲われかけて来たので、私は今一度、細い溜息をしいしい顔を上げた。すると若林博士も、ちょうど脈搏の診察を終ったところらしく、左掌(ひだりて)の上の懐中時計を、やおら旧(もと)のポケットの中に落し込みながら、今朝、一番最初に会った時の通りの叮嚀な態度に帰った。
「いかがです。お疲れになりませんか」
私は又も少々面喰らわせられた、あんまり何でもなさそうな若林博士の態度を通じて、いよいよ馬鹿にされている気持を感じながらも、つとめて何でもなさそうにうなずいた。
「いいえ。ちっとも……」
「……あ……それでは、あなたの過去の御経歴を思い出して頂く試験を、もっと続けてもよろしいですね」
私は今一度、何でもなくうなずいた。どうでもなれ……という気持で……。それを見ると若林博士も調子を合わせてうなずいた。
「それでは只今から、この九大精神病科本館の教授室……先程申しました正木敬之(まさきけいし)先生が、御臨終の当日まで居(お)られました部屋に御案内いたしましょう。そこに陳列してあります、あなたの過去の記念物を御覧になっておいでになるうちには、必ずや貴方の御一身に関する奇怪な謎が順々に解けて行きまして、最後には立派に、あなたの過去の御記憶の全部を御回復になることと信じます。そうして貴方と、あの令嬢に絡(から)まる怪奇を極めた事件の真相をも、一時に氷解させて下さる事と思いますから……」
若林博士のこうした言葉には、鉄よりも固い確信と共に、何等かの意味深い暗示が含まれているかのように響いた。
しかし私は、そんな事には無頓着なまま、頭を今一つ下げた。……どこへでも連れて行くがいい。どうせ、なるようにしかならないのだから……というような投げやりな気持で……。同時に今度はドンナ不思議なものを持出して来るか……といったような、多少の好奇心にも駈られながら……。
すると若林博士も満足げにうなずいた。
「……では……こちらへどうぞ……」


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