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2008年3月18日 (火)

反風景を採集したカメラマン桑原甲子雄

「一九三五年(昭和十年)ごろから急速にわたしは写真に傾倒しはじめたのであった。写真をはじめた特別の動機というものはなかった。たまたま、現在写真家である濱谷浩君が同じ町内のおさな友達で、彼の撮ってきた千葉県房州を無銭旅行してきた密着写真を見せられ、わたしもまた当時流行のベスト判単玉カメラ(ベス単)で、パチパチやりだしたのだった。」
桑原甲子雄は家業の質屋をやりながら、父の友人で写真館経営で成功した人からもらったブローニー判のハンドカメラの重量感に感じ入り、「写真少年」になっていた。
濱谷がまさに「飛行機」的な視野の広さと高度を持った写真家になったとするなら、桑原は東京下町を一人歩きする「遊歩者(フラヌール)」 の身の丈の視線を変えることのない撮影者になった。
一九三〇年代に町歩きをしながらライカで撮った五千枚以上の写真は「どこに発表するというアテもない行為だから、プロ写真家とはいえない。つまり私の写真する人間としての自覚は、ほとんど形成されておらず、ただ東京の町を歩くこと、気の向くまま、足の赴くままにシャッターを切ることが行われたことはたしかだ。」
 Tokiyo1930 Kuwabara_01 Uenoekis11

六〇年代末から七〇年代初めにかけて「古井戸をのぞくような気持ち」 で整理し発表するまでは「私の関心をまるでひかない存在として、放りっぱなしにしてあった」 。
 当時の桑原は、二〇歳前後で結核を患うなど身体が弱かったうえ、商家の長男として暗黙のうちに生業を継がねばならず、写真の歴史や芸術的側面に興味を持ちながらも上級学校に進学できずにいた。それが太平洋戦争への道を歩む時代と重なる鬱屈の青春だったからこそ、わずかにひねり出す「写真の時間」に没頭したという。
撮影地が上野・浅草界隈に集中しているのは、暇を盗んでカメラを向けえたのがそれら「近所」でしかなく、「日常的空間」とは、桑原にとっては「普段のくさぐさのわずらわしさをかかえこんだ憎悪の場所にもなりかねない」 ものであり「だから当時の写真道楽というのは、そうした日常性の脱出のためのいこいとしてあった」。

「不思議なことであるが、今日、私は当時歩き回った下町の光景を、そこで生じた物や人との交流といった生まな形で、深く記憶にとらえられたという思い出をもたない。 
通過者の視線というものは、いつも現実を写真の被写体として抽象化してしまうからであろうか」
 
 「たんに無償の行為として、私の二〇代の欲求不満を吐露していったばっかりに、その映像が、こんにちいまだに透明たりえているのかもしれぬ 」
「オデュッセウスは憔悴すればするほど、ますます忘却する。なぜなら、郷愁は記憶の活動を強めず、想い出を呼び覚まさず、ひたすらその苦しみだけに吸収され、それだけで、みずからの感動だけで、充足するから」
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桑原甲子雄(くわばら きねお、1913年12月9日- 2007年12月10日)
上野、浅草など、東京の下町を撮影し、『アサヒカメラ』『フォトタイムス』『カメラアート』などの写真雑誌で多くの入選。 1940年には南満州鉄道の主催する「八写真雑誌推薦満洲撮影隊」に参加し、中国東北部(旧満州)を撮影。 戦後は雑誌『カメラ』(アルス社)の編集長に就任して、月例写真の選者に土門拳を起用する。当時プロとアマチュアの社会的隔たりは大きく、斬新な変革のひとつだった。以降、『サンケイカメラ』『カメラ芸術』などいくつもの写真雑誌の編集長を歴任して、写真作品の制作よりも新人育成や写真評論に重点をおいた活動を行う。荒木経惟はそこから育っていったひとり。
1960年代末頃から、桑原が撮った戦前の作品が再評価され始め、何冊もの写真集が出版された。 現在では、東京にとっての都市写真の第一人者(戦前においては、最高の都市写真家とも)との評価が固まりつつある。全体をとりまとめて発表するというようなあてもないまま、膨大な作品を残した。
高齢になってもなお、東京を撮影し続けていたが、2007年12月10日老衰のため死去。

[日本における主要展覧会]
ラヴ・ユー・トーキョー(荒木経惟との2人展)/世田谷美術館/1993年7月17日~9月5日
桑原甲子雄写真展 東京・昭和モダン/東京ステーションギャラリー/1995年11月3日~1996年1月15日
桑原甲子雄写真展 ライカと東京/東京都写真美術館/2001年6月19日~9月2日
[著書・写真集]
『満州昭和十五年——桑原甲子雄写真集』(晶文社、1974年)
『東京昭和十一年——桑原甲子雄写真集』(晶文社、1974年)
『一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也との共著、晶文社、1976年)
『私の写真史』(晶文社、1976年)
『夢の町——桑原甲子雄東京写真集』(晶文社、1977年)
『東京長日——桑原甲子雄写真集』 (朝日ソノラマ、ソノラマ写真選書、1978年)
『東京1934〜1993』(新潮社、フォトミュゼ、1995年)ISBN 4106024136
『日本の写真家 19 桑原甲子雄』(岩波書店、1998年)ISBN 4000083597
『一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也との共著、岩波書店、岩波現代文庫、2000年)ISBN 4006030126
クラシックカメラ専科——カメラレビュー(No.60特別号)『桑原甲子雄——ライカと東京』(朝日ソノラマ、ソノラマMOOK、2001年)ISBN 4257130369
(2001年、写真美術館における写真展「ライカと東京」の図録)
『東京下町1930』(河出書房新社、2006年)ISBN 430926929X

反風景的実践としての「採集」――桑原甲子雄と都市
http://www.kyoto-seika.ac.jp/event/kiyo/pdf-data/no31/sato.pdf

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