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2008年4月28日 (月)

アペニン山脈 (Appennini)

 イタリアの脊梁山脈。全長は1,350キロメートル。アペニノ山脈とも呼ばれる。ジェノヴァの湾岸のサヴォーナの西北西に位置するカディボナ峠においてアルプス山脈から分岐し、イタリア半島を縦断している。シチリア島北部のトルト川に至る山脈も、アペニン山脈の延長と考えられている。造山運動は始新世および中新世に始まるが、鮮新世の活発な活動によって、ほぼ現在の輪郭ができあがった若い山脈である。標高は大部分が1,000メートルから1,500メートルであるが、イタリア半島中央部でもっとも高く、最高峰コルノ山の標高は2,912メートルである。

地質は複雑であるが、おもに中生代から古第三紀にかけての地層からなる。三畳紀の地層は石灰岩相、ジュラ紀から白亜紀にかけての地層は砕漢岩相と石灰岩相、白亜紀から古第三紀にかけての地層はフリッシュ相が特徴的である。とくに、三畳紀の石灰岩は石材として利用され、トスカーナ地方のカラーラ産の大理石は古来有名である。第四紀には火山活動が起こり、ベスビオ山、エトナ火山など現在でも活発な火山活動が見られる。

アペニン山脈の主脈は中部アペニン以南においてはイタリア半島のアドリア海寄りに位置しているため、ティレニア海側の斜面とアドリア海側の斜面とではその形が非対称である。すなわち、アドリア海側は一般に急傾斜で丘陵が海にせまり、河川はあまり複雑な水路をとることなく、まっすぐに海に注いでいる。これに対してティレニア海側には、前アペニン山地を形づくるいくつかの支脈が主脈と平行に走り、アルノ川、テヴェレ川をはじめ、ティレニア海に注ぐ河川はきわめて複雑な流路をとっている。

アペニン山脈はイタリア半島の気候をアドリア海側とティレニア海側とで非常に異なったものにする役割を果たしている。とくに冬には中緯度大陸気団の影響を妨げる役割を果たすので、ティレニア海側はかなり温暖であるのに対し、アドリア海側は寒冷であり、海岸部ではときにはボラ(冬の北東季節風)の影響が及んで冷たい潮風が吹きつける。

石灰岩質の地帯が多いため、アペニン山地では地表水が少ない。20世紀後半からは植林が盛んに行われているが、森林は一般に貧弱である。土壌侵食も激しく、粘土質の地帯では崩壊地形も多く見られる。

アペニン山脈を越える峠は複数存在するが、古来もっとも重要な交通路として用いられていたのは、テヴェレ川に沿ってさかのぼり、メタウロ川を経てファーノにぬけるフラミニア街道であった。鉄道時代になって、フィレンツェからまっすぐにボローニャにぬける全長18キロメートルのアペニン・トンネルが掘られ、また、最近は最高峰コルノ山の下にも高速自動車道のトンネルが掘られ、ローマからまっすぐアドリア海側にぬけられるようになった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年4月24日 (木)

Marino Marini (1901-1980) イタリア表現主義彫刻家

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マリノ・マリーニ(Marino Marini,1901年2月27日 - 1980年8月6日) イタリアの彫刻家・画家・版画家。表現主義の油絵や版画も制作しているがフィレンツェで絵画と彫刻を学び、エトルリア文化の影響を受けた。
1929年からミラノ近くの美術学校で教えて、馬と騎手の彫刻を制作しはじめるようになる。ジョルジョ・デ・キリコらと交友があった。
1952年にはヴェネツィア・ビエンナーレでグランプリを受賞。

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The Marino Marini Museum
Marino Marini at the Peggy Guggenheim Museum

エトルリア美術(エトルリアびじゅつ)は、イタリア中部のエトルリア(現在のトスカナ地方にほぼ相当する)を中心とした、古代民族エトルリア人の美術活動およびその作品を指す。起源は紀元前10世紀に始まるビラノーバ文化にある。青銅器時代から鉄器時代への転換期に出現したこの文化は、イタリア中部を中心に栄え、円錐形を上下に組み合わせた黒陶骨壺を伴出する土壙墓に特徴を有し、紀元前700年以降のエトルリア文化と共通する本質的要素を有していることから原エトルリア文化と見なされている。

紀元前7世紀末までのエトルリア美術は、東方化様式時代であり、アナトリア、北シリア、フェニキアの美術の影響が認められる。特に装身具などの青銅器や貴金属器が特徴的であり、陶器としてはカノポス型骨壺(人頭形蓋付き骨壺)、薄手式ブッケロなどを有していた。スフィンクス、グリフォンなどの動物文、ロータス文、ロゼット文などの植物文にこの時代の東方的要素を見ることができる。この時代は、鉱物資源の開発やギリシアおよび東方との貿易によって経済基盤の確立した時代でもあり、ベイオ(ウェイイ)、タルクイニア、チェルベテリ、ブルチなどの都市が発展し、豊かな副葬品を伴う墓(カンパーナの墓、レゴリーニ・ガラッシの墓など)が数多く造られた。またローマを中継地とする塩の道によって南イタリアのギリシア美術とも直接的な接触をもち、紀元前7世紀後半から、コリント式陶器を模した陶器も制作されるようになった。ギリシア美術との接触は、タルクイニアで墓室壁画を生み、チェルベテリやウェトゥロニアで等身大彫刻を誕生させた。紀元前6世紀に入るとギリシア美術の影響はさらに強くなり、紀元前5世紀中頃までのアルカイク時代に、エトルリア美術はほぼ30年ほど遅れてギリシア美術の様式変遷を繰り返した。特に紀元前6世紀後半からはイオニア地方の美術要素が濃厚に見られ、将来品としてのギリシア陶器が副葬品として数多く出土している。フランソアの壺をはじめとして、ヨーロッパの美術館に収蔵されているほとんどのギリシア陶器の優品は、エトルリア出土のものである。エトルリア出身の美術家で唯一名前の伝わるウルカは、紀元前6世紀末に活躍した彫刻家で、ベイオ出土のアポロン像は彼の作風を伝えていると考えられている。この時代のエトルリア美術は彩色塑像や青銅製の燭台をはじめとする装飾具に優れた水準を示し、金属製工芸品にはギリシアのそれを凌駕する作品も数多く認められる。ただしギリシアのごとく、社会制度、倫理、宗教観などが一致した、人間像中心の美術ではなく、貴族たちによって支えられた美術であるため、洗練性と地方性を有し、内在的様式展開の活力に欠ける美術であった。

紀元前6世紀初頭に確立するエトルリア式神殿は高い石造基壇と豪華な彩色テラコッタ装飾を有する木造建築で、その発達した段階のタイプは、ローマの神殿建築にも影響を与えた。土木事業においても、石材を巧みに利用して城壁、城門、排水路などを建設し、前 5 世紀からはアーチも使用している。都市計画ではマルツァボットのごとく、ヒッポダモス式と言われる碁盤目状の街区を造り、社会制度の発展を反映している。またタルクイニアを中心とする墓は、壁画によって装飾され、宴会、競技、踊り、鳥占い、釣りなどを主題とする現世肯定の明るくおおらかな絵画であった(牝牛の墓、鳥占い師の墓など)。これらの墓はヒュポゲウム式であり、生前の住宅室内の空間を模したものもある。紀元前6世紀末か紀元前5世紀初頭はギリシアのアッティカ地方の美術が大きな影響力を有していた。それは壁画(豹の墓など)や塑像(ヘルメス像)などに明確に見ることができる。

紀元前5世紀前半、エトルリアは南イタリアに有していた領土を放棄し、ローマ以北の故地に撤退する。このため、マグナ・グラエキアとの直接の交流を失い、ギリシア美術の影響は弱まり間欠的となった。これによりギリシア古典期の美術の要素は少なくなり、経済的停滞とあいまって、エトルリアの各都市を中心にした地方化が進んだ。この時代は古典時代と呼ばれているが、統一的な様式としてエトルリア美術をとらえることは困難である。紀元前4世紀に入ると、徐々にローマの勢力がエトルリアを圧迫し、その社会状況は美術のうえにも認められる。タルクイニアの船の墓や戦士の墓などのごとく、冥界のデーモン的存在が描出されるようになり、彫刻においても以前の活力は見られなくなった。しかし、アレッツォから出土したキマイラ像などのような青銅像、テラコッタ製肖像、石棺浮彫などには優れたものが多く、ヘレニズム時代の紀元前4世紀末からは写実性に優れた作品が認められるようになった。紀元前3世紀以降エトルリアはローマの政治的支配を受けたが、なお文化的には独自性を有し、特に彫刻、建築に優れたものがあった。それゆえに、ローマ美術の形成に大きな役割を果たしたわけであるが、紀元前2世紀末からは、ローマ美術の中に吸収されていった。

エトルリア美術は地中海地域で開花した多くの古代美術と同じく、約5世紀間にわたってギリシア美術の影響下に栄えた美術であった。しかし、イタリア中部という一定の閉鎖性をもつ地理的条件のゆえに、この地方と民族固有の要素を持ち続けた美術でもあった。すなわち、東方化時代の優れた装飾文、アルカイク時代の精妙な工芸品、それに神殿建築やアーチを用いた土木技術、紀元前4世紀以後の写実主義、これらはローマ美術の形成に大きな影響を与え、その意味でギリシア美術とローマ美術の仲介の役割を果たした。
ウィキペディア(Wikipedia)より

2008年4月20日 (日)

アナログ放送、全国一斉終了へ 総務省方針

 2011年7月24日に予定されている地上波テレビのデジタル放送(地デジ)への完全移行に合わせ、地上アナログ放送は全国一斉に停止する方針を、総務省などが固めた。予期できない問題の発生をチェックするため、一部地域での「先行停波」を検討したが、時間的な余裕がなく地デジの普及が遅れている地方が混乱すると判断した。

 情報通信審議会(総務相の諮問機関)が昨年8月にまとめた地デジ普及についての中間答申では、アナログ停波に向けた問題点の洗い出しが課題とされた。このため、モデル地域でアナログ放送を先行停波することの是非が焦点になり、総務省、NHK、全民放で構成される全国協議会が具体的な計画を検討していた。

 先行停波する場合は、視聴者数が都市より少ない地方での実施が想定された。しかし、地方ではデジタル中継局の設置時期が遅く、具体的なデータは公表されていないものの「受信機の普及も大都市ほど進んでいない」(総務省幹部)。その状況での先行停波には地方の自治体に反発があり、協議会は「特定の地域を対象にすれば地域間の不公平感が高まる」として、先行停波を断念した。

 一斉に停波すれば地域間の公平性は保たれ、視聴者にも「11年7月24日にアナログ放送は一斉に終わる」と周知しやすい。しかし、予期できなかったトラブルが全国的に起きる恐れもある。

 このため、地デジへの完全移行まで3年となる今夏から、総務省と放送業界は地デジ受信機の普及率アップに向けた取り組みを抜本的に強化する。NHK・全民放の放送で文字スーパーやロゴを挿入するほか、毎日の番組終了時には「お知らせ」画面を放映する予定だ。

 総務省によると、海外では英国が4年かけて地域ごとに段階的なアナログ停波を実施中。一方、一斉停波を計画している米国は、地デジ普及の遅れで停波を延期した。総務省などが一斉停波の方針を固めたことで、混乱を避けるための「停波延期論」が現実味を帯びる可能性もある。

 地デジは日本では03年に始まり、07年3月時点の受信機の世帯普及率は約28%。今夏の北京五輪時に半数弱の世帯に普及させる計画だ。 朝日新聞 2008年04月20日

1953年に放送が開始されたアナログ方式のテレビジョン放送(VHF1~12ch・UHF13~62ch)を、「電波の有効利用」を主目的にUHFチャンネル(13~52ch、53~62chは2012年まで暫定使用)のみを使用したデジタル方式に置き換えるものである。

2003年12月1日11時より東京、名古屋および大阪の3大都市圏のNHK3局、民放16社から放送が開始され、2006年12月1日には全ての県庁所在地を含む一部の地域で放送が開始された。放送体制の未整備などにより、受信が不可能な地域も多く存在していることから、2011年までに全ての地域で受信可能にすることを目標に各地の送信所・中継局の整備が進められ、また整備が追いつかない一部地域では衛星による送信やIP放送といった代替手段を利用することも検討されている。

国の政策により、現在放送されている地上アナログテレビジョン放送は2011年7月24日までに全国で終了(停波)することになっている。つまり、アナログ放送のみに対応している従来型テレビ受像機は、新たにチューナーを導入しなければ一切のテレビ放送が(アナログBSも同年までに放送終了なので)視聴出来なくなりビデオモニターと化す。

終了時期については、普及状況などによっては変更される可能性もあるが、総務省は、2008年3月に、「概ね2010年末までに従来のアナログ放送と同等のエリアを確保すること」との具体的指針を、官報で告示し、関係する基本計画を変更した。

停波予定とされている「2011年7月24日まで」の根拠は、電波法が2001年7月25日に改正施行された際に、地上アナログ放送の周波数を使用できる期間を“施行から10年を超えない期間”と定めた事による。

これに伴い、空きとなるVHF1~12chとUHF53~62chの周波数帯は、地上デジタルラジオ放送、高度道路交通システム(ITS) 、携帯電話、携帯電話向けの放送、業務用通信、公共機関向け通信などに使用する予定である。ただし、地上デジタルラジオ放送については、放送統合運営会社(マルチプレックスジャパン)設立を参加予定の民放側から「白紙にする」と示されたことから、本放送開始時期は確定していない。

MPEG-2 TS圧縮による 1125i/1080i のデジタル・ハイビジョン放送が行われている。解像度は1440×1080i、最大16.8Mbps(データ放送・音声を含む)のビットレートでほぼリアルタイム圧縮されているため、データ放送・音声を含めて最大約24Mbps、1920×1080iでの放送も多いBSデジタル放送や最大1125p/1080p、映像のみで最大30~40Mbps、しかも多くがMPEG-2より高圧縮なコーデックH.264も使用されている次世代DVDに比べれば画質は劣る。なお、ハイビジョンで制作されていない番組はアップ・コンバートによりピラーボックス形式で放送されている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[高音質・多機能音声]
デジタル放送のため、十分な利得の余裕をもって受信出来れば、電波障害による音質劣化がほとんど生じない。またキー局などからのネット番組でも光ファイバーのデジタル中継回線を使用して送られているため音質劣化がほとんどない。音声はMPEG-2 AACで圧縮されている。稀に「CD並みの高音質」と呼ばれることがあるが、CD並の非圧縮PCM音声を採用している訳ではない為、これは誤りである。アナログ放送ではモノラルでの二か国語放送かステレオの一方でしか放送が不可能だったが、ステレオによる二か国語放送や5.1chマルチ・チャンネルでの放送も可能になった。

[電子番組表、番組情報]
電子番組ガイド(EPG)により受信機で番組表や番組情報を利用できる。地上アナログ放送用にDVDレコーダーなどで利用されているGガイドやADAMSによる番組表よりも更新頻度が多く、留守録の時も録画機器が対応していれば番組放送時間の延長やズレにも正しく追随が可能となっている。

[データ放送]
テレビ番組と同時にデータ放送の閲覧が可能である。BMLという規格を用いて制作されている。基本的にはニュースや天気予報が表示でき、受信機で設定した地域情報に合った情報が配信される。また一部では番組の解説や紹介された店舗などの情報を連動データ放送として番組放送中に提供している。Category:データ放送連動番組も参照。局によっては受信機をインターネットに接続して受けるサービスもある。

データ放送のフォーマットは地上デジタル放送・ワンセグともにキー局が製作し、各地方局でローカル情報を追加するのが基本である。独立局では各局が個別にフォーマットから制作している。ただし日本テレビ系列での日本テレビと系列地方局の様に、同じ系列でもフォーマットが違う場合がある。

また、データ放送を利用してテレビやDVDレコーダーなどの機能を向上したり不具合を修正するファームウェアを配信することが可能である。電波が受信できる状態であれば視聴者は特に意識することなくファームウェアが最新の状態に更新される。

[コピー制御]
日本のデジタル放送では2007年現在一部の番組を除き、著作権に配慮した業界内(放送・機器製造メーカーなど)で合意された自主規制ルールに基いたコピー制御信号が付加されており、視聴者が放送番組を機器で録画する際には幾つかの制限を受ける。放送開始当初は暗号化およびコピー制御は行われていなかったが、2004年4月5日に運用が開始され、ほとんどの番組は「コピーワンス(1回だけ録画可能)」となった。

前述のコピー制御の仕組みには著作権保護技術(詳細はコピーガードの記事を参照)としてCGMS が使用されている。これにより、デジタル放送の番組をデジタル信号のままで録画・複製(視聴者が番組を録画することは、放送番組の1度目の複製という解釈になる。)や移動を行う場合に対して許可や禁止の制御を行っている。CGMS の録画・複製についての具体的な制御の種類は、「コピーフリー(録画自由)」、「コピーワンス」、「ネバーコピー(録画禁止)」があるが、「ネバーコピー」については2007年現在、採用されている番組の例は確認されていない。また、コピーワンス制御信号が含まれた番組は、CPRM技術に対応したデジタル録画器や記録メディアで記録・保存(録画)・移動が可能になっており、CPRMに非対応のデジタル録画機器では、録画・複製・移動が全て不可能か全て可能になる。

デジタル放送の録画にアナログ信号による録画機器を使用(受信機・受信回路からアナログ信号として出力[8])した場合、放送信号に含まれるコピー制御信号はCGMS-A信号として出力されるが、アナログ録画器機側の動作上ではコピーワンス信号による制限は受けない。ただし、CGMS-A信号を無効化してしまう一部の特殊な機器・機種を除き、通常はCGMSの制御情報は有効になったまま伝送・記録される。従って、一旦アナログ録画をした番組を再度デジタル録画機器に取り込んで録画した場合、最初からデジタル録画した場合と同様に、CGMSの制御による番組の複製・録画や移動に対しの制限を受ける。

[ダビング10]
このコピー制限については、アナログ放送と同様の利便性をデジタル放送にも求めるユーザーからの不満の声が強かったが(また参考としてB-CASの関連章なども参照)、1回しか録画できない「コピーワンス」をコピー9回さらにムーブ1回の合計10回まで可能とする回数緩和策を2007年7月に総務省が要請し、これを受けて電子情報技術産業協会は2007年12月20日に「ダビング10」に基づく放送の運用開始を2008年6月2日午前4時と発表した。消費者団体や家電メーカは緩和を、一方、著作権団体や放送局は3回程度までの制御規制を求めていた。この9回+1回という制限条件は、家族3人が3通りの機器(DVDレコーダ、携帯電話、音楽プレーヤー等)にダビングやコピーを行う利用条件を必要十分に満たす程度のものとして考案されたもの。ただし、この規制緩和採用後も海賊版や不正コピーが増えた場合は、更に制御のルールを見直すとしている。また、衛星放送の有料デジタル放送については著作権に配慮し、既存のコピーワンスが引き続き継続される。しかし、孫コピーは従来通り不可能(ただし、コンポジット端子やS端子など、アナログ接続を介する場合は、孫コピーが作成できる可能性もある。詳しくは「ダビング10」の項目を参照。)なままであり、たとえばHDDレコーダーから記録型DVDなどにコピーした段階でレコーダーが破損、DVDのみにしか映像が残されていない状態になると、そのDVDからのコピーはできず、DVDが破損した段階で記録が失われるという問題が発生する可能性がある。特に、近年増えてきている中国、韓国、台湾など新興工業国生産のディスクメディアの中には粗悪な製品もあり、録画、あるいはムーブ時は正常に番組等が記録できていたにも関わらず、ディスクメディアが短期間の間に劣化し再生不能になるという問題も起きている。

[字幕放送]
地上アナログ放送では文字多重放送の一つとして行われている字幕放送が引き続き行われている。この機能の受信機器への搭載率は地上アナログ放送よりも高い。日本語と英語など多カ国語での放送も可能である。

[字幕スーパー機能]
映像信号とは別にニュース速報などの字幕スーパーの信号を放送にのせ、映像と合成して視聴者に見せることができる。受信機によってはこれは録画されない。地上デジタル放送開始当初はテレビ東京で使用が確認された。この機能はB-CASカードのID番号によって表示の有無を制御できる。これを利用してNHKがBSデジタル放送では既に実施されているテレビ画面の一部に未登録者へ住所登録を促すメッセージを割り込ませる新たな受信料未契約・不払い対策の検討に入ったと報じられた。

2008年4月19日 (土)

「ペンギンタロット」申込・お問い合せ 

「生きるための兆し」を認識でき22パタ-ン

◆タロットは砂漠の民たちによって見い出され、神話時代を経て、宗教によって弾圧され、15 世紀、ルネッサンスと個人が自分を見い出そうとする自己探求に興味が向けられた時、歴史の表舞台に現われてきました。

タロット――TORAは人生の規範です。
これは B.C.500年~B.C.300年頃に人類の伝承を集大成して確立された人間の英知を、
「生きた言葉」として使えるようにするシステムである。

「生者の書」としての「タロット」は、人生の障害が、13であることを暴き出し、
それからの解決方法を教えてくれるカードです。

◆「13の障害」の根本的原因の中心は、人間は、父、母、子供の内に魂を形成する上で、最も永続的な問題が生まれるということです。  
現代の心理学では、あらゆる生物の中で人間だけが、母親がいつまでも手をかけずには生きられないのだと言います。
人間は母の体内から出てくるのが早すぎるために、外に出てからの母親の庇護下に置かれる胎内期間が延長されます。
生命ある存在として完璧でなく、外界に対応する準備が整わずに、依存、嫉妬、敵対などのおびただしい障害を生んでいます。
これが人間自身の手で人生に障害が生まれる主要な原因です。

◆そしてタロットの源流となった古代の神話を生んだ人たちは、
通過儀礼という、過去と断絶し、
不完全なそれまでの性情、慣習、従来の生活態度を根こそぎ切り払うという生き方を
採用することによって、未来を切り開きました。
それを今日では「創造」という言葉として捉えることが出来ます。
そして神話を形成することによって絶えず心の進化を実践した彼らの人生には、
今日の私たちが体験しているような犯罪や事件や不倫などは、全くありませんでした。

◆ 人生には「13の障害」があるという運命論を教えてくれますが、
タロットの象徴学を学び、神話的なエネルギーに接続することは、
それだけで人生の障害の70 %は自動的に消滅します。
日常の障害からの「分離」、そしてそのような人生の「変容」、更に新しい人生への「再生」が、「タロット」が私たちにもたらせてくれるものです。

Tarot2 Tarot1

 
占いやゲーム性の底に秘められたTAROTの真意を、
ユーモラスで哲学的なペンギンのキャラクターによって顕した大アルカナ22枚
TAROT図形学より、視覚からも分りやすく覚えられる
「ペンギンタロット」の世界へ・・・
新しいアテンション(注意)と上昇力を前向きに促すために作られたカードです。

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大アルカナ22枚組1セット・解説書A4版16頁付 

「ペンギンタロット」申込・お問い合せ 
http://koinu.cside.com/

■■■■■■品切などのお詫び■■■■■■
好評につき「ペンギンタロット」解説書A4版16頁は、手作りにつき品切れとなりました。今後申込される分には、解説書はコンパクトサイズで、A6版18面となります。

「生きるための兆し」を認識できる22パターンには、神話のコードが多様に含まれている。それは関心のある人には掘り下げる意味もあるのだが、全くと言ってイイほど神学が目的でないから、用心深くそれらのキーワードも可能なかぎりはずして、解り易さと実用としての道具カードに徹した解説書となった。
一枚の図版には本一冊分の内容が刻まれてることも、カードを作ってよく体現した。時間があるときに、現代の人にも理解できうる物語の要因をさらに詳しく書きとめたいと思う。いずれインターネットでも配信を予定している。

2008年4月16日 (水)

プログラマたち

史上初のプログラマは、詩人バイロンの娘、 エイダ・ラブレス(ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング・1815-1852)であるとされる。彼女はチャールズ・バベッジが作成した解析機関のオペレータであった。プログラミング言語Adaは、彼女の名前に因んで命名された。ただし、それはあくまで概念的あるいは数学的なものでしかなく実質的なプログラマはコンピュータの登場からである。

1940年代に入り、初期コンピュータが登場しはじめると、人手では時間がかかり過ぎる科学的計算に使用された。その際、計算内容の変更に伴い回路変更が必要であったが、その作業は急速に増大していく。この頃は、プログラマとハードウェア設計者との区別は難しく、どこからがプログラマでどこからが回路設計者かは議論あるいは解釈の余地があるが、回路変更作業の増大と高度複雑化に伴い、徐々にプログラマと呼べる存在が確立していった。仮に、回路設計の変更をもってプログラミングとするならば、設計図を変更し、半田ごてを持ったり、ケーブルの差し替えを行う事が初期プログラマの仕事となる。あるいは、回路設計業務から離れ、スイッチのオンオフをもってプログラムと考えることも可能ではあるが、それらをハード設計の仕事とみなせば、プログラマの登場とは回路変更を行わずにコンピュータの処理内容変更が可能となり、入出力装置が発展してからである。

1944年にハワード・エイケンによってコンピュータ用穿孔機(せんこうき)と読み取り機が発明されると、紙によるプログラムの提供が可能となる。1945年にフォン・ノイマンによりプログラム内蔵したコンピュータが発明されると、目的別に回路変更を行う煩雑さから開放されていくようになり、これら以降、ハードウェアとソフトウェアーがそれぞれ分立していくようになる。ただし、この頃のプログラマは、ハード設計者と同一である事も多く、また職業としては数学者と記載される事が多い。この頃のプログラマとして前記エイケンの元(ハーバード大学エイケン計算研究所)にいた、グレース・マレー・ホッパー女史がいる。

1950年代に入ると、プログラミング言語が登場してくる。アセンブリ言語がこの頃登場し長らく使われた他、より人間が使用する言語に比較的近い高級言語も生み出された。前述のホッパーが1952年(あるいは言語として完成した1957年)にコンパイラを発明した。より完成度が高いコンパイラとしてはジョン・バッカスが1954年(あるいは1958年)に開発したFortranが登場し、また、ホッパーは自らのコンパイラを発展させたCOBOLを1959年に開発した。これらをもって、より人間に近いプログラミング言語の登場となり、プログラムの記述も属機械的な数字の羅列あるいは単調な穿孔機による紙へのパンチ、穴の有無から、より人間の言語に近いコードとなっていき、ほぼ同時期に登場したトランジスターによるコンピュータの集積回路化にあわせ、ソフトウェアーとハードウェアの分立がより明確化していく。それに従い、専業としてのプログラマが登場してくる。なお、余談だが、ホッパーはプログラミング言語部門責任者として海軍に復帰所属し、特例措置的に少将まで昇進しており、海軍は彼女の死後、その功績を称えて米海軍イージス艦(アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦)にホッパーと名付けた。彼女は、数学者・コンピュータ科学者・軍人と記載される事が多いが、プログラマとして見れば、おそらく初めて軍艦に名付けられたプログラマであろう。

1960年代には、行政手続の際職業欄にプログラマと記述し窓口に拒絶された話が残っている。この頃は、1952年に商用コンピュータをIBMが発売して幾分経過したとは言え、多くのプログラマは国防関係の機関所属であったり、学術研究機関所属である場合が多く、社会的にプログラマとして認知されていたわけではなかった。プログラミング言語の登場とコンピュータの高度化により、プログラミング処理の幅が広がってくるに従い商業利用へ拡大していくと、さまざまな企業ニーズに合わせプログラマとしての企業雇用が増えてくる。また、IBMの701シリーズからオペレーティングシステム(OS)が本格的に普及し始めた事により、「ハードウェア」・「ハードウェアを操作するOS」・「OS上で稼動するソフトウェア」の分立が始まる。これらにより、プログラマは機械従属的な操作や基盤部分開発から徐々に開放され、より創造的なソフトウェア構築にシフトして行くことになる。

1970年代に入ると、パーソナルコンピュータが登場するようになり、それに伴い、パッケージソフトウェアの開発が盛んになってくる。また、コンピュータ処理能力も増大し、商用利用以外にも、ゲームなどの娯楽部門にも転用されるようになってくる。コンピュータの多分野進出すると、それに伴い徐々に社会的に職業としても認知されるようになってくる。これらの結果、1970年代後半に入ると様々な需要に即したプログラミング言語・OS・コンピュータメーカの乱立が始まり、一種の戦国時代とも言える状況が出現すると、増大する需要にともないプログラマの深刻な不足が問題化した。この頃の主要プログラミング言語はアセンブラ・COBOL・Fortran・BASICそして1973年に登場したC言語であり、また、その他膨大な数のプログラミング言語が登場しては、消えていった。また、スーパーコンピュータ・メインフレーム・オンラインシステム・ワークステーション・パーソナルコンピュータ・マイコン・工業用ロボットなどの組み込みシステム・ゲームなどの様々なカテゴリ分けも発生していき、プログラマ達はそれぞれに特化していくようになる。

1980年代に入るとパーソナルコンピュータの爆発的普及が始まり、プログラマの中には自らのアイデアを商品化し巨万の富を得るものが出てくる。それに伴い、ソフトウェア産業という区分が発生し、企業単位でプログラム開発に業務特化したものが続々と登場してくるようになる。この頃をさして(プログラマの)黎明期と呼ばれ、無数のパソコンメーカ、ソフトウェアハウス、膨大な数のソフトウェアが開発されるようになり、さらに苛烈な競争時代へと突入していく。

1990年代に突入すると、あらゆる分野にコンピュータが進出するようになる。また、プログラマであるビル・ゲイツが1993年にフォーブス誌の世界長者番付一位となるとプログラマという職業が完全に社会的認知を受けるようになってくる。それまで、商用ソフトウェアを一人のプログラマが設計していた事例も見受けられていたが、ソフトウェア開発の巨大化に伴い、一人もしくは少数のプログラマによる開発が難しくなり、より大人数、組織化した開発プロジェクトが標準化してくるようになる。それに伴い、それまでプログラマの役割も分科されるようになり、ソースコードを記述するプログラマと、その設計および指示を行うシステムエンジニアに分かれてくるようになる。また、それまで属人的に行われていた(いわゆる脳内での思考)設計も、書類化するようになり、仕様書による分担作業とプログラマの仕事は変質していく。これらは、より大規模な軍需産業などであれば1970年代から見られた状況だが、ほぼ職業プログラマ全域に広まるのはこの頃である。その為、プログラマの上位概念あるいは、分立職業者としてシステムエンジニアを重視する風潮が生まれた。なお、この頃ビルゲイツが「自分はシステムエンジニアではなく、プログラマである」と発言している。ほぼ同時期に、ネットワーク技術向上に伴い、パソコン通信あるいはインターネットが登場してくるようになると、これまでと違った個人活動的プログラマが登場してくるようになる。個人でプログラムを行い、それらをネットワークを使って有償もしくは無料にて配布するシェアウェアプログラマあるいはフリープログラマである。また、本来見ることができない内部を見るハッカーなども登場してくるようになる。

2000年以降の現代では、それぞれの分野での競争が一段落するようになり、パソコン業界でのOSはWindowsが主流となり、プログラミング言語はC言語系が主流となるようになる。反面、新たな需要にこたえる形で、htmlなどの簡易言語が普及し、携帯電話分野ではjavaが主流を占めるなど、それぞれの住み分け専業化が明確化してくる。また、プログラムはさらに巨大複雑化し、必要な知識も個人ですべて把握するのは不可能な量となった。そのため、プログラマはより狭く深い部分に特化する事例が多い。これら複合要因により、同じプログラマと言ってもある部分だけは詳しいが他の分野は把握していない事も多く、全体を把握しようにも、もはや人間の記憶限界を超えた分量であるため事実上不可能に近い。このため、2000年問題などのシステム掌握限界による問題などが多数発生した。コンピュータは生活基盤に無くてはならないものとなったために、プログラマに課せられた社会的責任は増大しつつある。

[文化]
歴史は浅い。しかしそれ故に、プログラマは独特な文化を持つと言われている。いわゆるギークに属する人間が携わる事が多い職種であることも手伝って、部外者にとっては奇妙な冗談に思えるジョークをプロジェクトなどの名称に盛り込む事もしばしばである。(Linuxのパッケージの一つの名称の「kondara」など) またプログラマにも種類があり、組み込み系開発、基幹系業務開発、データベース系開発、Web開発、研究開発ではそれぞれ、まったくといっていいほど文化や労働形態や仕事内容が異なる。ただし、世間的には「プログラマ=コンピュータに詳しい人=ハッカー=オタク」といったステレオタイプなイメージを持たれることが多く、ことにフィクション(テレビドラマ・漫画など)においてはキワ物な性質の職業として描かれることが多々ある。

ラリー・ウォールによれば、プログラマの三大美徳とは
無精(Laziness)
短気(Impatience)
傲慢(Hubris)
との事。これはプログラマに必要とされる、効率や再利用性の重視・処理速度の追求・品質に賭ける自尊心をいったものである。

プログラミングのことを「コーディング」とも呼ぶことからプログラマを「コーダー」と呼ぶこともあるが、コーディングという言葉が「設計を含まない記述のみ」というニュアンスを含むため、プログラマの蔑称であると受け止められることもあるので注意が必要である。企業によっては、HTMLを弄るウェブデザイナのことをコーダーと呼ぶことがある。

日本のソフトウェア受託開発業においてシステムエンジニアは、プログラマより能力的に優れた人間の役割という建前があるが、これは残念ながら建前にしかなっていないことも多い。なぜなら、プログラムを作成する能力の無い人間でも、プログラムのコードを書かないシステムエンジニアの振りをする/させることはできるが、プログラムを作成する能力の無い人間に、プログラムのコードを書かなければならないプログラマの振りをする/させることはできないので、プログラムを作成する能力の無い人間をシステムエンジニアに偽装する事が多々あるからである。

プログラムの開発は、システムエンジニアの職域とされる顧客との折衝・初期の開発段階にて、成功か失敗かがほとんど決まるので、そうした偽装された無能なシステムエンジニアは悲劇を起こしやすい。
(Wikipedia)より

2008年4月15日 (火)

プログラマ35歳定年説は本当?

IT業界の人ならば、一度は耳にしたことがあるだろうプログラマ35歳定年説。30代後半になると、マネジメントラインに就かないとベースアップが望めないというもの。もちろん生涯プログラマとして活躍することは不可能ではないが、日常の業務に追われ、新しい技術や言語を身に付けることが困難なようだ。

プログラミングは、論理的な思考や発想が要求される作業であり、ちょっとしたことでバグなどを生むことがあるため、緻密さと根気も要求される。プログラムの作成にあたっては、実際にプログラムを記述するコーディング以外にも種々の作業が必要とされる。また、プログラムを作成する能力は、プログラムの作成のみならずコンピューターを使いこなすためにも必要とされるので、プログラマに任される仕事は単にプログラムの作成だけではない。
日本の、特にソフトウェア受託開発業においては、しばしばプログラマという語はシステムエンジニア(SE)という職種との対比で用いられる。システムエンジニアがシステムの設計を行うのに対し、プログラマは設計に基づいて実装のみを行うという意味を含んでいる。ただし、ソフトウェアの分野では、設計方式が確立されていないこともあって、設計が実装レベルの作業に委ねられていることも多い。そのため、一人の技術者がプログラマおよびシステムエンジニア双方の領域にまたがる作業を行うことも多く、その境界は曖昧になっている。結果としてプログラマは、システムエンジニアと同義と捉えられることがあり、どちらを名乗るかは、本人や所属企業の任意による面もある。(Wikipedia)より

[プログラマ定年説]
プログラミング技術は進歩が激しく、技術の陳腐化も著しいため、常に新しい技術に目を向け習得していくバイタリティや、場合によっては永年の努力によって培ってきた技術を捨て去る柔軟性が必要である。また、年功序列的賃金体系のもとでは、高年齢のプログラマはコストが高すぎると考える企業がある(特にプログラミングを単純作業と考える企業に多い)。俗にIT土方とも呼ばれデスマーチとなった場合は徹夜が続いたり体力が必要となってくる。そのため、プログラマとしての限界は30~35歳前後であるという説が存在した。これは「プログラマ35(30)歳定年説」と呼ばれる。コストの観点からは、定年に至ったプログラマに、より単価の高いシステムエンジニアや営業へ転向がすすめられることがある(参考:SEと記者,どちらが短命?、36歳になって思う「プログラマ35歳定年説」)。

http://japan.cnet.com/blog/itheart/2007/11/20/entry_25001908/

私に限って言えば・・・35歳定年説は本当だった。というより、プログラムを動かすことより、人を動かすことに魅力を感じてしまったのだから、ずっとプログラマだったらどう思うかというのは残念だがわからない。

いかにプログラムを美しく書くか?いかにオブジェクティブに書くか?以前はあんなにプログラミングが好きだったのに・・・。 今ではプログラムを作ってくれと言われても「面倒だなぁ」という気持ちが先にくる。(実際には、作り始めれば「あぁ、コレコレ。コレだよなぁ、プログラミングの面白さって」という感じになるのだが・・・)なんでそうなったのかなんてわからない。「他のことのほうが楽しくなったから」が理由だと思う。

その反面、違う人々も多く見てきた。前出と違う40歳以降のプログラマと言えば、管理職はやりたくない または、任せられないからプログラマをしている人がほとんどだった。
私がもし、プロジェクトを任され、40歳以降のプログラマを見たら、正直「いろんな選択肢がある中で、なぜプログラマをやっているですか?」と聞くだろう。

「プログラムが大好きなんですよ」と笑顔で答えてくれたら、きっと喜んでお任せすると思う。けれども、それ以外の答えだったら、たぶん任せない。結局は、自分がどこまで求め続けることができるかということなのかもしれない。前出の楽しそうに仕事をしている人たちは本当に楽しそうで、好奇心旺盛だ。それに比べて、肯定説の側の方々は好奇心というよりも、「今私にできるのはこれです。これには自信があります。だから使ってください。」という感じだった。

35歳プログラマ定年説は本当か?・・・プログラマに限らない
本当に大好きなら、その道を切り開いていく・・・プログラマという職業はきっとそういう厳しさと現実は他の職業よりあるのかもしれない。自分で仕事をとってきて、「技術者は楽しい」とイキイキと仕事をしている方は知人でも実際にいる。そういう方は応援したくなるしもちろん定年なんかない。
業界の構造、下請け体質、外注の評価・・・確かに問題はあるかもしれないが、それと戦っていても時間の無駄だ。業界を自分の理想に傾けることにエネルギーを使うなら、いかに早く自分の理想に近づけるかにエネルギーを使ったほうが効率がいい。世間に流されず自分自身と相談しながら、自分の行きたい方向をしっかりと見て、自分で決めて進んで欲しいと思う。途中で方向が違うなと思ったら、修正すればいいじゃないか。
その道を選ぶなら、覚悟を決めて頑張ってみよう。

2008年4月13日 (日)

rockin’on CD Track List

ロッキング・オン付録CD Track List vol.1-7
雑誌「ロッキング・オン(rockin’on)」 2005年より半年ごとに付録となっているCDには、
アルバムカバーもないために、曲目リストデーター作成した。

[ rockin’on CD vol.1 Track List ] 2005.4

01 BLOC PARTY / Banquet
02 BRIGHT EYES / Take It Easy(Love Nothing)
03 THE FUTUREHEADS / Decent Days And Nights
04 MAXIMO PARK / Apply Some Pressure
05 GOLDIE LOOKIN CHAIN / Your Mother’s Got A Penis
06 THE DEPARTURE / Just Like TV
07 ROOSTER / Come Get Some
08 BRITISH SEA POWER / Please Stand Up
09 SCISSOR SISTERS / Tits On The Radio
10 NEON / Hit Me Again

[ rockin’on CD vol.2 Track List ] 2005.10

01 H.I.M./Wings Of A BUtterfly
02 THE RAKES/Work, Work, Work(Pub, Club, Sleep)
03 HER SPACE HOLIDAY/Forever And A Day
04 SIGUR ROS/Glosoli
05 BULLET FOR MY VALENTINE/Suffocating Under The Words Of Sorrow(What Can I Do)
06 HARD-FI/Hard To Beat
07 JUNIOR SENIOR/Take My Time
08 BLACK REBEL MOTORCYCLE CLUB/Ain’t No Easy Way
09 GANG OF FOUR/Damaged Dogs

[ rockin’on CD vol.3 Track List ]2006.5

1. Morningwood / Nth Degree
2. Delays / Valentine
3. Clap Your Hands Say Yeah / Is this Love?[Single Edit]
4. Editors / Munich
5. The Streets / War Of The Sexes
6. The Dresden Dolls / Sing
7. The Velvet Teen / Gyzmkid
8. Living Things / Bom Bom Bom
9. Jack’s Mannequin / The Mixed Tape
10. Mystery Jets / You Can’t Fool Me Dennis [Single Version]
11.Soft / Gold ("Higher"の予定がマスタリング時の不備により収録)

[ rockin’on CD vol.4 Track List ] 2006.10

1.SHE’S GOT STANDARDS / THE RIFLES
2.NOT ANYMORE / THE KBC
3.MONA LISA’S CHILD / KEITH
4.HOUSE PARTY AT BOOTHY’S / LITTLE MAN TATE
5.THE SAD WALTZES OF PIETRO CRESPI / OWEN
6.SMILE / LILY ALLEN
7.BAILING OUT / LITTLE BARRIE
8.I’M SO SICK / FLYLEAF

[ rockin’on CD vol.5 Track List ] 2007.5

1.The Holloways / Generator
2.Hopewell / Beautiful Targets
3.Earl Greyhound  / S.O.S.
4.Switches / Drama Queen
5.1990s / See YOU At The Lights
6.The Enemy / 40 Days And 40 Nights
7.Simian Mobile Disco  / Hustler
8.Justice / Phantom
9.Walking Ashland / Drought Of 2001

[ rockin’on CD vol.6 Track List ] 2007.11

1. BLACK MARKET / MAGIC TRICKS
2. BIFFY CLYRO / LIVING IS A PROBLEM BECAUSE EVERYTHING DIES
3. EIGHT LEGS / TELL ME WHAT WENT WRONG
4. SHOUT OUT LOUDS / TONIGHT I HAVE TO LEAVE IT
5. HADOUKEN! / LIQUID LIVES
6. CAITLYN / SCENES FROM A SUNNY DREAM
7. RIPCHORD / LOCK UP YOUR DAUGHTERS (AND THROW AWAY THE KEY)
8. THE GO! TEAM / DOING IT RIGHT
9. MAYDAY PARADE / JAMIE ALL OVER

[ rockin’on CD vol.7 Track List ] 2008.5
1.FOALS "CASSIUS"
2.YOU SAY PARTY! WE SAY DIE! "MONSTER"
3.THE GET GO "FACE IN THE DIRT"
4.OPERATOR PLEASE "JUST A SONG ABOUT PING PONG"
5.WHIP "TRASH (RADIO EDIT)"
6.SCOUTING FOR GIRLS "IT’S NOT ABOUT YOU"
7.THOESE DANCING DAYS "HITTEN"

いずれ[ rockin’on CD  Track List ] サイトは望まれるだろう。
rockin’on CD vol.8発行までに加筆予定。

東京都渋谷区桜丘町20-1 渋谷インフォスタワー19F 株式会社ロッキング・オン
http://www.rock-net.jp/

0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる

0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる。

人間の精神は神的なものである。
しかしそれは物理的な身体に幽閉されており、かれはその神性に気づかない(愚者)。

より高き星々の使者が物質的世界に対する支配を表明し、表面的な現実よりさらに深いなにかの存在を証明する。
いくつかの説によると、かれは愚者の師および仲間となる(奇術師)。

(女教皇、女帝、皇帝、教皇によって表される)
世界の支配的な力が、抵抗にあい、日常的存在が挑戦を受け、
克服されて初めて、開放の切望が可能となる(恋人と戦車)。

探求者(隠者)は一定の成熟に達したときにのみ、かれの精神的故郷に自分を回帰させるための旅に出発できる。

かれの慎重な内省(運命の輪)は、肉体的衝動(女力士)の克服とより高きもののために、より低きものを故意に犠牲とすることによる
日常的価値の逆転を求める(吊るされた男)。

より低き個我(死神)の昇華は、 
デミウルゴス(悪魔)の打倒を可能とする
霊的な活力(節制)の流出に至る。

これはかれの地上の牢獄(塔)の崩壊を招来し、
かれの精神が、天の星々(星、太陽、月)を経て、
やがて神秘的再生(審判)を経験し、最終的には
世界の超個人的な霊アニマ・ムンディ(世界)と
一体化することを可能とする。ーーアルフレッド・ダグラスーー

さらなる高みを目指すためには、精神的充足をもとめて再度旅に出て、今までの見方を変え、自我を壊さなければ、新たな次元に到達することはできない。22枚には0から21までのサイクルになっていたのだった。。
そして輪の入口と出口は零によってつながれている。

そして0の愚者から21の世界への話が、姿と形をかえてふたたび物語がくりかえされる。
人の心は高くめざすものである。けれども物理的な肉体に閉ざされて、そのめざすものに気づかない(愚者)。星々の使者が物質的世界に対して表面的な現実より深い存在を証明する(奇術師)。そして世界は(女教皇、女帝、皇帝、教皇によって表される)支配的な力で日常的に形をひろげていく。世界への開放が初めての選択と望みができるようになる(恋人と戦車)。さらに高くめざすもの求めて一つの成熟に達したときに、精神の故郷にを回帰させる旅にたつ(隠者)。その慎重な心の内(運命の輪)は、肉体の衝動(力)の克服していく。高きもののために低きものを犠牲として、故意に日常的価値の逆転を求める(吊るされた男)。低く役目を終えたものの昇華(死神)は、焚きつける欲望(悪魔)をも打ちたおすことができた。きびしい試練をこえると生きる活力が整えられて与えられる(節制)。やがて時をへて構築された、高くそびえたつ地上の牢獄(塔)は崩壊を招いて、天の星々(星、太陽、月)の永き歳月をくぐり、そして神秘的なる再生(審判)を経験されて、ついに世界の超個人的な存在(世界)と一体化することができうるゴールラインが待つ。今までの見方を変え、自我を壊さなければ、新たな次元に到達することはできない。そして輪の入口と出口は零によってつながれている。

「ペンギンタロット」は兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。

占いやゲーム性の底に秘められたTAROTの真意を、
ユーモラスで哲学的なペンギンのキャラクターによって顕した大アルカナ22枚
TAROT図形学より、視覚からも分りやすく覚えられる
「ペンギンタロット」の世界へ・・・
新しいアテンション(注意)と上昇力を前向きに促すために作られたカードです。

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「ペンギンタロット」 大アルカナ22枚組1セット・解説書(A6判図版多数18面)付  http://koinu.cside.com
申込・お問い合せ http://koinu.cside.com/NewFiles/penguintora.html

1+21は魂の遍歴を表す・
0 魂は物質的に身体へ幽閉されて「愚者」は、そのことも一寸先に起こる出来事も気がついてはいないようにみえる。
1  別世界よりの使者がやってきて「奇術師」の姿で、天・地・火・水の四要素によって自然界が成り立っていることを示す。彼は意識というトリックを使って物理的世界を支配していく。
2.知識をたくわえてゆく「女教皇」 3.大地へ繁殖させていく「女帝」 4.力によって「皇帝」 5.定めによって「法皇 」は支配する。、
幼児の自我より肉体的力と精神的力を、女性原理と男性原理により高めていく四過程がうかがえる。直感→感情→感覚→思考
この四過程は、それぞれ水・地・下・天の順で四要素に対応した動きである。

2008年4月12日 (土)

「亀」象徴としての黒  亀[伝承,民俗〕


■1.かめ(生簀)
水面の一部を網、タケ、篭などで仕切り、その中で魚を飼っておく装置。代表的なものに、カツオ釣りの生餌として使うイワシを飼っておくいけすがある。巻網でとったイワシは、海上で角材を組んで作った木枠に網をはって作ったいけすに直接移され、基地へ曳航され、カツオ船が買いにくるまで蓄養される。いけすで1週間以上ならしたイワシを〈いけつけイワシ〉と呼ぶ。船にもいけす(活魚倉)があり、漁場まで生かして運ぶ。昔は船底に換水孔を開けて、自然換水に頼っていた。最近はポンプを使って強制換水(1時間に4~6回)するようになり、飼育環境の面でも、また船底の換水孔が不要になったため船の機能の面でも改善された。なお船のいけすのことを活間<いけま>とかかめ(甕)とか呼ぶことも多い。 従来はいけすというと比較的短期間飼っておく小規模のものが想起されたが、近年は養殖に用いられる大規模ないけすもある。内水面ではコイ、ウナギ、海面ではハマチ、マダイなどの養殖に用いられる。網いけすが使われることが最も多い(網いけす養殖)。浮動式、固定式、沈下式があるが、浮動式が最も普及している。形は正方形、長方形、六角形、八角形などさまざま。表層に浮かばせる場合、周囲を海面より高くして魚が跳ね出すのを防ぐ。また天井網をはることもある。天井網をはり、投餌用の特別の開口部をもった網いけすを中層につるしたり、海底に沈めておくことも行われる。魚の成長に合わせ、網目の大きさ、収容密度を変えていかなければならない。
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■2.亀(黒〔象徴としての黒〕)
くろい意を表す漢字は黒のほかに玄があり,古くはむしろこちらのほうが多く使わ れた。玄の字は黒い糸を束ねた形で,かすかで見にくいところから天の色とされ,ま た北方の色とされた。四神の一つ玄武は北方の神で亀または亀と蛇の組合せで表され る。玄武は黒帝ともいう。一般に黒は白の対色である場合と白黒未分の原初の状態の 色を指す場合とを分けて考える必要がある。後者はすべての創造の根源の色であり( これを白とすることもある),その意味でインドのビシュヌ神(創造の根源的エネル ギーの化身),エジプトからギリシア,中世に至る母神(イシス,キュベレ,〈黒い 聖母〉など),ヒンドゥー教のカーリー神,イスラムの聖地メッカの神殿カーバ(お よび,そこにはめこまれた〈聖なる黒石〉)などの黒色が理解される。しかしまた, 黒は地下の色であって,そこから再生,豊饒を意味する色となり,それゆえに母神な どと結びついたともいえる。一般に地下は冥府として地上と対立し,その意味で黒は 生に対する死,光に対する闇,善に対する悪として理解される。まず黒が死ないし喪 <も>の色であることは世界に普遍的な現象で(ただし中国など白の場合もある), 死の国と関係する諸神(エジプトのオシリス,アヌビスなど)に黒を身色とするもの が多い。黒は現世の悦楽を断つという意味で禁欲の色であり,キリスト教,イスラム などの聖職者の黒衣や仏僧の墨染めの衣がこれを示す。さらに進んで,黒を光に対す る闇,善に対する悪を象徴する色とすることも一般的で,黒は悪神・悪霊の身色とな る。なおインドの4階級(カースト)を象徴する4色(白,赤,黄,黒)のうち,黒 は第4のシュードラ(隷属民階級)の色である。
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■3.カメ(妙見)
妙見菩薩の略。北極星を神格化したものといわれ、国土を守護し、災厄を除き、福寿 を増益するという菩薩。尊星王,北辰菩薩ともいう。形像は一定しないが,二臂像, 四臂像の形で,雲中に結跏趺坐する姿,青竜に乗る姿などに描かれる。天台宗園城寺 (三井寺)では吉祥天と同体と説く。これを勧請し延命や除災,とくに眼病平癒のた め修する法を▽北斗七星法という。日本の妙見信仰は平安時代すでに行われていたと みられ,《日本霊異記》には妙見神が霊験を現した話が収められている。妙見菩薩が 異形を現じて盗人をあらわしたという話と,海に漂流していたとき妙見菩薩を念じて 助かった話がそれで,その信仰はかなり広まっていたとみられる。中世には武士の守 護神として敬われ,千葉氏,相馬氏,大内氏など地方の豪族たちによって信仰された が,これは北斗七星中の第七星が破軍星と呼ばれるところから,弓箭の神として崇拝 されたことによる。鎌倉時代の末期に,日蓮宗が千葉氏の帰依を受けると,法華経寺 (現,千葉県市川市)に妙見神が守護神として勧請され,寺領が寄進された。仏教信 仰に属する妙見信仰が,妙見宮に鎮守神としてまつられるようになったのは,このこ ろからであろう。その後,日蓮宗の寺院に多くまつられ,近世初頭に勧請された大阪 府豊能郡能勢町にある真如寺の妙見堂は,〈▽能勢妙見〉として広く名を知られてい る。現在の日蓮宗では,《法華経》を擁護する善神の一つとして,確かな地位を得て いる。東京都墨田区業平にある法性寺は,境内の妙見宮が柳島の妙見として有名で, 江戸の町人から熱狂的な信仰を集めた。妙見宮の前には影向松<ようごうのまつ>が あり,妙見神がこの霊樹に降臨した日(1年に12回)には参詣者でにぎわった。日 蓮宗寺院では毎月朔日<ついたち>が縁日とされ,洗米,神酒,菓子,花などを供え て,七星九曜二十八宿を供養することが行われ,星祭と呼ばれている。なお,現在も 妙見社の多く分布する相馬地方では,勝善神と習合して牛馬の守護神となっており, 熊本県八代市の妙見宮には中国より漂着したという伝説が伝わり,熊本県下の妙見社 は水神的要素が強い。妙見社をまつる地域でカメを飼わないとされているのは,▽四 神のうち北方守護神が,カメとヘビの合体した玄武であることによる。
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■4.亀(竜〔中国〕)
中国では鱗介類(鱗<うろこ>や甲羅を持った生物)の長<かしら>だとされる。 竜は平素は水中にひそみ,水と密接な関係をもち,降雨をもたらすとされる。しかし 竜のより重要な性格は,時がいたれば水を離れて天に昇<のぼ>ることができるとい う点にあり,この地上と超越的な世界を結ぶことに竜の霊性の最大のものがある。仙 人となった黄帝が竜に乗って升天したり,死者が竜あるいは竜船に乗って▽崑崙山に 至るとされるのも,竜のそうした霊性を基礎にした観念である。天子の象徴として竜 が用いられるのもその超越性によるものであり,竜の出現が新帝の即位をあらわす祥 瑞とされ,また天子が儀礼に用いる衣服の文様,十二章の中でも竜が最も重要なもの である。また竜の隠れるもの,変化きわまりないもの(たとえば竜は大きくも小さく もなれる)という特質から,大きな才能をもちながら世に現れぬ人物の比喩にも用い られる。孔子が老子を〈竜の猶<ごと>し〉と言ったのがそれである。  こうした超越的な動物である竜の原像となったのが何であったかについては,さま ざまな推測がなされている。蛇との関係を指摘するのは水との結びつきにより,その 鼻の形から豚,四足のある所から鰐<わに>と関係があるとされ,また天地を結ぶと ころから竜巻を原形としたとする説もある。出土遺物からみれば,後世の竜とつなが る文様や竜形の玉器はすでに新石器文化の中に出現しており,卜辞にも竜の字が方国 ,部族名として見える。▽甲骨文の竜の字に特徴的なのは,その頭上にアンテナのよ うな飾りを戴くことで,これがのちには尺木と呼ばれる竜の角となるもので,竜は尺 木があるので天に升<のぼ>れるのだとされる。《礼記<らいき>》では,竜は鳳, 麟,▽亀とともに四霊の一つとされ(▽鳳凰<ほうおう>,▽麒麟<きりん>),漢 代に成立した▽四神の観念の中では,東方に位置づけられて青竜と呼ばれる。四神の 観念の成立にともなって竜の図像も多数出現するようになるが,そこでの竜は立派な たてがみと足とを持ち,馬との類似性が大きい。竜は天帝の馬だとされ,逆に大きい 馬が竜と呼ばれるのも,竜と馬との習合を示唆しよう。  仏教伝来にともない,仏法を守護する八部衆の一つとしての竜(▽竜王)が中国古 来の竜と重なり合い,四海竜王の観念が中国に定着するのもそうした結果である。仏 典の中では竜王が人間的に活躍するが,中国の小説や戯曲の中に竜王や竜女の物語が 展開するのもまた,そうした外来文化の影響によったものであろう。現在の民話の中 に竜王や竜女がしばしば出現するほか,旧暦2月の春竜節には冬のあいだ眠っていた 竜を呼びおこす種々の行事があり,また▽端午節には竜船の競争が行われるなど,季 節の行事の中に水と豊作をつかさどる竜の農業神的な性格をみることができる。
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■5.亀〔寿命〕
〈鶴は千年、亀は万年〉といわれるが、一般には30~50年のものが多い。飼育 記録としてはアルダブラゾウガメの152年(推定180歳)、カロライナハコガメ の138年、ヨーロッパヌマガメの120年以上というのが知られている。
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■6.亀[伝承,民俗〔中国〕]
《礼記<らいき>》に四つの神秘的な動物,四霊の一つとして,麟<りん>,鳳< ほう>,竜とともに亀が並べられ,亀は甲虫(甲羅をかぶった動物)の長だとされる 。亀のもつ霊力はさまざまな面に現れるが,その第1は未来を予知する能力があると されることである。その予知能力は同じく占いの道具である筮竹<ぜいちく>に勝る とされ,両者の卜占<ぼくせん>の結果が異なったときには▽亀卜の予兆のほうを取 るべきだとされた。殷代に盛んに亀卜が行われたことは,殷墟出土の多量の遺物から も知られ,また周王朝においても先王からの宝亀が伝えられ,政治的な事件や危機の 際に亀卜が行われたことが《尚書》や《詩経》に記されている。《周礼<しゆらい> 》にも亀卜に関係する職務として大卜,卜師,亀人,〓人,占人などの官が整備され ている。亀卜に際しては,亀甲は単に道具として扱われるのではなく,なお生命のあ るもののごとく遇された。卜占に先立って,亀甲に向かって占うべき内容をいいふく めるため〈命亀の辞〉が告げられるのもその現れである。《史記》亀策列伝に,卜占 用の亀甲が月旦(ついたち)ごとに清水で清め卵で祓の礼が加えられるとあるのも, その霊力を保存するための呪術であろう。  亀に未来予知の能力があるのは,その長寿と関連するとされる。亀は千載にして1 尺2寸の大きさとなる。天子はその1尺2寸の亀を占いに用い,諸侯は8寸,大夫は 6寸,士民は4寸と,用いる亀の大きさに身分による差別があって,その大きさは亀 の年齢とも関係して予知の能力の差ともなると考えられていたのであろう。あるいは 亀は三千歳の寿命を得て神秘な能力を示すともいう。その三千歳の亀を火にあぶり突 きくだいて服用すれば,人間も千歳の寿命を得ると《抱朴子<ほうぼくし>》佚文< いつぶん>にいう。亀が長寿であるのは導引など特殊な呼吸法を用いるからだとされ る。亀が行う導引のことはすでに《史記》に見えるが,後漢末の雑記集《異聞記》に は次のような物語が見える。張広定という人物が戦乱から避難する際に,まだ十分に は歩けない幼い女の子を村はずれの墓の中に入れたままにして逃げる。3年の後,も どってきた彼はその骨だけでも捨おうと墓のところにいってみたところ,女の子はま だ生きていた。尋ねてみると,その子は墓中の大きな亀が〈伸頚呑気〉を行っている のをまねて生きのびたのであった。  亀が担うもう一つの重要な神話的な役割は,大地の下にあって大地を支えることで あった。馬王堆漢墓出土の帛画<はくが>にも見られるように,この大地の底には水 生の動物がいると考えられていたが,日本のナマズの伝承につながる大魚などのほか ,亀の一類が地底にあって大地を支えていると考えられる場合もあった。《列仙伝》 には鼇<ごう>(大亀)が蓬莱山を背にのせているとあり,また《列子》にも東海の 三神山が鼇の上にのるという寓話が見える。より古くは,東海の神山ではなく,この 大地自体が亀の背に支えられているという伝承があったものであろう。《淮南子<え なんじ>》に女■<じよか>が鼈(スッポン)の足を断って四極(大地の端にある4 本のむね柱)を立てたとあるのも同じ伝承につながる。また道教経典の中で▽西王母 が〈亀山〉にいるとされるのも,西王母の大地を鎮める女神としての性格と結びつい て,大地の下に亀がいるという観念の反映であろう。沂南<きなん>の画像石墓では ,神山の上に座る西王母の下に亀が描かれている。  なお,元,明のころより,亀は,妻の淫奔<いんぽん>を阻止できない夫の意とし て,ののしりのことばに用いられるようになること,《■余叢考》諱亀の条などに詳 しい。近世になり亀の価値が,このようにほとんど逆転することについてはいくつか の説明があるが,その基礎にあるのは次のような観念の変質であろう。すなわち四霊 の後をうける四神のうち,北方に位置する玄武が亀と蛇とがからみ合った形で描かれ ていて,その背後には冬の季節に世界の復活をもたらす宇宙的な聖婚が行われるとい う観念が存在したことをうかがわせるが,その聖婚の性的な意味が俗化して淫奔と受 けとられるようになった。これが亀に対する価値観の転換をもたらしたと考えられる のである。
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■7.亀[伝承,民俗〔日本〕]
日本では亀は長寿の象徴であり縁起のよいものとして鶴と並べて祝いの飾りに用い られる。これを長寿とするのは冬季地下に入って春に出現するのを再生と考えたから であろう。この背に緑藻が付着しているものは蓑亀<みのがめ>と呼ばれてとくに喜 ばれた。海亀は古くから海の神の使者と考えられ,浦島太郎の伝説のようにこれによ って海神の宮に往復しうると考えられた。とくに南海に多く見られる青海亀は漁民に 珍重され,これを見ると酒を飲ませて放ち豊漁を祈る。海浜にきて砂中に産卵するが ,その場所がなぎさに近いか遠いかでその年の波の高さ,すなわち荒天の有無を判断 し,産卵の場所にしめ縄を張って孵化,成育を祈らせる土地も淡路島などにあった。 他方で,近世この甲に加工して櫛,笄<こうがい>などをつくり,南洋産の玳瑁<た いまい>甲の模造品とするようになった。また,淡水産の亀であるスッポンは精力を つけるとして食用とされるが,甲羅が円形なので,形が似ながらまったく異なるもの のたとえとして〈月とすっぽん〉のことわざがある。
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■8.亀[伝承,民俗〔インド,その他〕]
亀はその特殊な形状,強い生命力などからして,世界各地で種々の象徴的意味を担 った。インドの世界創造神話(《シャタパタ・ブラーフマナ》VII:5:1:2) では,創造者のプラジャーパティPrajapatiによってつくられた亀の腹の甲 が地に背の甲が天に,亀の体は大気になったという。丸く盛り上がった背の甲は天空 を,平たい腹の甲は地を思わせるからである。ビシュヌ神の十の化身の一つクールマ アバターラは亀(クールマ)の姿をとる。またインドでは亀はヤムナー川の女神の乗 物の役をも務めている。中国,韓国では亀跌<きく>と称して石碑の台に亀の石彫を 用いるのがふつうである。中国では亀は神亀,霊亀などと称され,その甲の文様(亀 甲紋,亀背紋)は吉祥の意味をもって衣料,家具その他に多用される。古代西アジア の陶器画に描かれる亀は,おそらく水の象徴であろう。北アメリカの原住民の神話に も亀は主要な役を担っている。
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■9.亀[伝承,民俗〔西洋〕]
《イソップ物語》の〈兎と亀〉の話が示すように,亀はもっぱら堅実・勤勉の象徴 とされるが,同書には鷲の忠告を聞かず飛ぶことを望んで墜落した頑固者の亀の話も ある。図像表現では豊饒<ほうじよう>多産のほか,特異な寓意として女性の貞節( 家=甲羅から出ず寡黙)を表す。なお,俊足のアキレウスがのろい亀を追いこせない というパラドックスは,エレアのゼノンの名とともに有名。
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中国古代文字、甲骨文字に使われた亀甲他
亀・カメ・かめに関する情報が満載興味深いHP 亀博物館 http://www.delco.co.jp/designmuseum/muse-de-turtese/kame_home.html

ゼノンのパラドックス

ゼノンのパラドックスは、エレア派のゼノンの考えたパラドックスで、パルメニデスの「感覚は全て疑わしいものである」こと、特に「一があるのであって多があるのではない、多があるとすれば運動は不可能である」という学説を、ピュタゴラス派の多を主張する立場を批判して唱えたものであった。

今日、ゼノンのパラドックスと呼ばれるものは、アリストテレスの「自然学」とそのシンプリキウスによる注釈の中に八つ伝わっている。そのうちのいくつかは、本質的に同じ問題を取り扱ったものである。ウィキペディア(Wikipedia)より

これらの結果は非現実的であるが、結果を導く論証は一見したところ正しいように見える。その論証の誤りを指摘するのは簡単ではなく、それゆえ多くの哲学者達がこの問題に挑むこととなった。しかし、ゼノンの意図としては、世界が不可分な要素的な点やアトムからなるとすれば、運動は背理となることを示そうとしたもので、もちろん、運動自体を否定する意図はなかった。

[二分法]
地点Aから地点B0へ移動するためには、まずAからの距離がAB0間の距離の半分の地点B1に到達しなければならない。さらにAからB1へ移動するためには、Aからの距離がAB1間の距離の半分の地点B2に到達しなければならない。以下、このような事が無限に続くため地点Aから地点B0へ移動しようとしても移動を開始することすら不可能である。

[アキレウスと亀]
あるところにアキレウスと亀がいて、二人は徒競走をすることとなった。しかしアキレウスの方が足が速いのは明らか(注:イリアスにおいてアキレウスの枕詞の一つは「駿足の」である)なので亀がハンデをもらって、いくらか進んだ地点(地点 A とする)からスタートすることとなった。

スタート後、アキレウスが地点 A に達した時には亀はアキレウスがそこに達するまでの時間分先に進んでいる(地点 B)。アキレウスが今度は地点 B に達したときには亀はまたその時間分先へ進む(地点 C)。同様にアキレウスが地点 C の時には亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレウスは亀に追いつけないことになる。

[飛んでいる矢は止まっている]
これは物体の運動に関するものである。矢が飛んでいる様子を考えよう。ある瞬間には、矢はある場所に位置している。僅かな時間だけに区切って見れば、矢はやはり少ししか移動しない。この時間をどんどん短くすれば、矢は動くだけの時間がないから、その瞬間だけは同じ場所に留まっているであろう。次の瞬間にも、同じ理由でやはりまた同じ場所に留まっているはずである。こうして矢は、どの瞬間にも同じ場所から動くことはできず、ずっと同じ場所に留まらなくてはならない。従って、飛んでいる矢は止まっている 。

[競技場]
競技場において、一瞬間の間に一単位の距離を移動することができる二台の馬車を考える。

 □□□□  観客席
 ■■■■  馬車・・・移動方向は右(→)
 ▲▲▲▲  馬車・・・移動方向は左(←)
それぞれの馬車が移動を開始し、次のように客席に対して一単位移動したとする。

 □□□□
  ■■■■
▲▲▲▲
このとき、いずれかの馬車に対し、もう一方の馬車がどれだけ移動したかを観察すると、二単位移動していることがわかる。すなわち馬車は一瞬間のうちに一単位移動しようとすれば、二単位移動しなければならないことになりこれは不可能である。したがって、馬車の運動は不可能である。

[数学的な解釈]
これらのパラドックスを解決するためには、何を前提とした議論なのか?を考える必要がある。パラドックスのいくつかは無限という概念に関係しているが、数学においても無限について厳密に取り扱えるようになるのは近世以降のことである。

ピタゴラス学派が無理数を発見した時、例えば

√2 ≒ 1.41421 35623 73095 04880 16887 24209…
は、1以上2以下という有限な区間に含まれるが、有限な区間にこれといった法則も無く(整数や分数では表せない)無限に続く数が存在できるのは何故か?という問いに対する答えを見つけられずピタゴラス学派では、無理数を禁忌としている。

17世紀以降に発展した微分積分学、とくにその中の級数(無限級数)や極限の概念を前提とするならば、アキレウスと亀の問題は、「考えをいくらでも続けることができる」ということから「いつまでたっても追いつけない」という結論を導いている箇所に飛躍がある。

有限の項を無限に 集めた級数の和は有限におさまることがあり得る。アキレウスが前に亀のいた場所にたどりつくまでの時間は何度繰り返しても有限だが、これらを全て足し合わせてもやはり有限の時間しか経過しないこともあり得るのである。そしてそれはアキレウスが亀を追い越すのに要する時間である。たとえばアキレスの速さを秒速10m、亀の速さを秒速1m、亀はアキレスの100m前方にいるものとする。このときアキレスが亀に追いつくまでの時間は、100/9秒と計算される。

ただし級数や極限を用いた数学的な解釈も、ゼノンのパラドックスにおける前提を正確に反映しているかどうかは定かではない。有限を、無限の回数の加算の結果と「みなしうる」という独自の前提を定めて、アキレスのほうが亀よりも速い(級数が収束する)からアキレウスは亀に有限時間内に追いつけるとしているだけであり、ゼノンのパラドックスに対する反論に都合のよい前提を持ってきただけとも言えるため、数学における極限の概念を持ちだしただけではゼノンのパラドックスを解決したことにはならない。 数学上の概念によって説明される場合には、数や連続性や極限、無限の概念などにいくつかの仮定を用いているが、パラドックスの指している状況と数学モデルの置いている仮定が同一のことなのかということが哲学的な議論の対象になる。 たとえば無限回の加法と自然言語で記述されていても、それが有限加法性のことなのか完全加法性のことなのかは自明ではない。 数学的な解釈がゼノンのパラドックスについて示唆してくれることは、ゼノンのパラドックスがパラドックスでなくなるような視点がある数学モデルにより得られるということであり、その数学モデルはニュートン力学と親和性が高いものであるということである。

[哲学的な観点から]
哲学的には、数学的な前提に立った場合のように、このパラドックスは「間違っている」とは見なされない。極限や収束をどう理解するかということ、とくに、仮に、有限を、無限の回数の加算の結果と「みなしうる」ということから、現に、そうした無限個の「加算されたもの」から「構成されている」といっていいかどうかが、このパラドックスでは問題になる。

つまり、たしかにパラドックスの結論は不合理なもののように見えるが、それは不連続な複数の単位から構成される連続という(原子論者の考えたような「多」の立場)を前提にすると不条理に陥る、ゆえにこの「多」という仮定が間違っており、連続は「一」が基底的な属性であって、より基底的な「多」から「一」が構成されているとはいえない、という背理法の論法なのである。

それが無限に切り分けられるということと、無限に足し合わせられたものからなっている、ということは、一見同じことのように見えるが違う。そして、現実の運動や連続について、前者は言えるが、後者はいえない。

線を無限に分割して、無限にたくさんの点を見出すことができるということから、線が無限にたくさんの点からなっているとはいえない。ゼノンやエレア派的にいえば、無をいくら足しても有にはならない。有がある以上、どこかに有の起源が無ければならない。長さゼロの点から長さ一の線を作る事は出来ない。ゼロをいくら加算しても一にはならない。しかし、線と線の交点として点を定義する事は出来る。

これは不動の矢のパラドックスにおいてより根本的に現れており、いわゆるこの動かない動く矢は、あくまでも運動の或る瞬間の概念的切片であって、現実に特定の瞬間に特定の位置を占めているそうした要素的断片が実在的に「存在」し、その加算として運動があるわけではない。連続がまずあって、それを切片に切って把握することができるのであって、要素的な断片がまずあって、それが合わさって連続が構成されているのではない。(ピュタゴラス派的「数字」や「点」の議論)運動という連続は「多」からなっているわけではない。

さらにいえば、パラパラマンガやアニメのようなものとして、現実の連続性を理解することはできない、ということが、このパラドックスの、そしてエレア派の問題にしていることなのである。

[思想史]
アリストテレスは、無限にあるものが現勢的でなく可能的にあるのだとすれば、それらを通過し尽くすことは可能であるとしている。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、「点とはありうるかぎりのものよりさらに小さいものであり、線はその点の運動によって作られる。線の極限は点である。次に面は線の運動から生れ、そしてその極限は線である。立体は(面積の)運動によって作られる。(そしてその極限は面である)(「手記」)」と語っている。

スピノザは、持続が瞬間から成るとの主張は、悟性によって把握される不可分な無限の量、表象能力によって把握される可分的な有限の量の両者が区別されないことに基づくものと指摘している。

ヘーゲルは、ゼノンの議論を認めた上、そこから帰結するのは、運動が存在しないということでなく、運動は定有する矛盾であるということであるとしている。

ベルグソンは、ゼノンの議論は、時間や運動を空間に翻訳するものとした上、運動そのものは持続であって分割不能であるとしている。

量子力学では、放射性崩壊を起こす可能性のあるはずの不安定な原子核は、完全に連続した観測の下では崩壊を起こさない。このことは(ゼノンの議論と直接の関係はないものの)量子力学的ゼノンのパラドックスと呼ばれている。

アキレスと亀 -- ゼノンのパラドックス

 第二の議論はいわゆるアキレスの議論である。すなわち、走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追いつかれないであろう。なぜなら、追うものは、追いつく以前に、逃げるものが走り始めた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である。
(岩波書店:アリストテレス全集3 自然学 258ページ)

 アキレスは、亀の後を追いかけている。ある時点に亀のいる地点に、アキレスが到達するとしよう。すると、その時点では、亀は少し前進しているはず。それで、さらにその時点で亀のいる地点に、アキレスが到達すると、その時点でも、やはり亀は少し前進しているはず。従って、これを無限に繰返しても、アキレスは永久に亀に追いつけない。

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 アキレス(ギリシア名:アキレウス)は、トロイ戦争のギリシア軍側のヒーローで、大変足が速かったと言われている。常識的・経験的に言って、アキレスが亀を追い越せないわけがないのだが、ここでは、運動というものがそもそも論理的に立証可能かどうかが問われているのである。
ここで留意すべき点は、アキレスは、速く、亀は遅いということは、言葉では述べられてはいるが、速さとは何か、速いとか遅いとかとはどういう意味なのかということについては何の説明も定義もされておらず、従って、速度とか距離の変化とかの概念はこの論理の中では一切使われていないということである。あくまで、その時点、その地点での到達如何をのみ問題にする形で、議論が進められている。この前提に立って考えると確かに難しいパラドックスのように思えてくる。

 よく見かける、模範解答的解決法として、無限等比級数が、一定値に収束することを示すというやり方がある。例えば、アキレスが、(1/2)メートル進む間に、亀は(1/4)メートル、アキレスが、(1/4)メートル進む間に、亀は(1/8)メートル進むという割合でアキレスが亀を追いかけた場合、この過程を無限に繰り返したとしても、アキレス、または亀が進む距離(メートル)は、

 (1/2)+(1/4)+(1/8)+(1/16)+...+(1/2n)+...

となるのだが、その値は、無限に足しこまれているにもかかわらず、アキレスが亀を追い越す所の1メートルに限りなく近づいていくだけで無限大にはならず、(ある種の演算処理を施せば1に等しいことも示せる)、そしてまた、所要時間についても、アキレスが先に亀のいた地点に行くというその1行程にかかる時間は限りなく零に近づいていくため、一定値に収束していくわけで、結局、これは、アキレスが亀に追いつく限りなく微小に直前のところまでのことを言っているにすぎないのだという説明である。
 しかし、これでは、ゼノンのパラドックスの克服にはなっていないという指摘もよくなされることである。ゼノンは、無限の行程が必要とされるような運動というものは、有りえないということが言いたいわけで、それに対して無限の数列の和の性質について論じたところで、論駁になっていないというわけだ。
 いずれにせよ、西洋哲学史を貫くようなタイムスパンでこの問題は、論じ続けられてきた。そして、今に至ってもなお論じられている。
http://www.infonia.ne.jp/~l-cosmos/relativity/zeno/ZenoParadox.html

2008年4月 6日 (日)

夢と人生 原民喜

 夢のことを書く。お前と死別れて間もなく、僕はこんな約束をお前にした。その時から僕は何も書いていない夢に関するノートを持ち歩いているのだ。僕は罹災後、あの寒村のあばら屋の二階で石油箱を机にして、一度そのノートに書きかけたことがある。が、原子爆弾の惨劇を直接この眼で見てきた僕にとっては、あの奇怪な屍体の群が僕のなかで揺れ動き、どうしても、すっきりとした気持になれなかった。そうだ、僕はあの無数の死を目撃しながら、絶えず心に叫びつづけていたのだ。これらは「死」ではない、このように慌しい無造作な死が「死」と云えるだろうか、と。それに較べれば、お前の死はもっと重々しく、一つの纏まりのある世界として、とにかく、静かな屋根の下でゆっくり営まれたのだ。僕は今でもお前があの土地の静かな屋根の下で、「死」を視詰めながら憩っているのではないかとおもえる。あそこでは時間はもう永久に停止したままゆっくり流れている……。
 僕は夢のノートを石油箱の上に置いて思い耽けっていた。僕のいる二階は火の気もなく、暗い餓じい冬がつづいていた。と、ある日、はじめて春らしい日が訪れた。快い温度がじっと蹲っている僕にも何かを遠くへ探求させようとするのだった。あばら屋の二階には、たまたま兄が疎開させていた百科辞典があった。それを開いてみると、花の挿絵のところが目に触れた。すると、これらの花々は過ぎ去った日の還らぬことどもを髣髴と眼の前に漾わす。僕はあの土地へ、嘗てそれらの花々が咲き誇っていた場所へ行ってみたくなった。魅せられたように僕はその花の一つ一つに眺め入った。
 しゃか。カーネーション。かのこゆり。てっぽうゆり。おだまき。らん。シネラリヤ。パンジー。きんぎょそう。アマリリス。はなびしそう。カンナ。せきちく。ベチュニア。しゃくやく。すずらん。ダリア。きく。コスモス。しょうぶ。とりとこ。グロキシニア。ゆきわりそう。さくらそう。シクラメン。つきみそう。おいらんそう。福寿草。ききょう。ひめひまわり。ぼけ。うつぼかずら。やまふじ。ふじ。ぼたん。あじさい。ふよう。ばら。ゼラニューム。さざんか。つばき。しでこぶし。もくれん。さつき。のばら。ライラック。さくら。ざくろ。しゃくなげ。まんりょう。サボテン。……僕はノートに花の名を書込んだままだった。

 僕は小さな箱のなかにいる。僕は石油箱に夢のノートや焼残りの書物を詰めて、それから間もなく東京へ出て来た。僕を置いてくれた、その家は、ガラスと板だけで出来ている奇妙な家屋だが、その二階の二・五米四方の一室に寝起するようになった。僕はその板敷の上で目が覚めるたびに、何か空漠とした天界から小さな箱のなかに振り落されている自分を見出す。僕のいる小さな箱のなかには、焼残ったわずかばかりの品物と僕のほかには何にもない。……何にもない、僕はもう過去を持っていない人間なのだろうか。眼が昏むほどお腹が空いて、板敷の上に横わっていると、すりガラス越しに箱の外の空気が僕の瞼の上に感じられる。窓の下のすぐ隣りの家には、ささやかな庭があって、萌えだしたばかりの若葉が縁側の白い障子に映っている。あそこには、とにかく、あのような生活があるのだ。僕が飢えて、じりじり痩せ衰えてゆくとしても、僕にはまだ夢のようなことを考えることができそうだ。夢は、この夢はどこから投影してくるのだろうか。メリメリと壊れそうなガラス窓に映っている緑色の光……あの光はお前なのか、それとも僕なのだろうか。
 ある日、僕は何かに弾きだされたように、千葉の方へ出掛けて行った。あの家が残っているかどうか、僕にはわからなかったのだが、電車がその方向に接近して行くに随い、水蒸気を含んだ麦畑の崖が見えて来たりすると、僕は昔の僕に還っていた。家に戻れば、お前の病床もそのままあって、僕は何の造作もなくお前の枕頭に坐れるかもしれない……。その方向に接近するにつれ殆ど自分でも見定め難いさまざまの感覚がそっくり甦って来るようだった。僕はお前の側に坐るときの表情まで用意していた。……駅で電車を降りると、僕は一目見て、あたりの景色が以前のまま残っているのを知った。僕は勝手知った袋路の方へとっとと歩いて行った。すると、つい四五時間僕はこの場所を離れて他所へ行っていただけのような気持がした。ふと近所のおかみさんの顔が少し驚きを含んで僕の方を振向いていた。僕はあの家の七八歩手前で立ちどまった。僕の眼は板垣の外へ枝を張っている黐の樹の青葉に喰い入っていた。それから僕はあの家の方へ近づいた。それから僕は板垣の外から、あの狭い小さな庭にじっと目を注いでいた。すぐ向の縁側から、何かがちらっと爽やかに僕の眼に見えた。それは僕の心の内側の反映があの縁側にあったのだ。それは忽ち無限に展がってゆきそうだった。だが、気がつくと、その縁側では見知らぬ子供が不審げにこちらを見ているにすぎなかった。そうか、今ではあそこに見知らぬ人が住んでいるのか。そうか、しかし、とにかく家は残っていたのだったか。僕は自分に云いきかせて、その場所を立去った。僕は海岸の方へ出る国道や焼跡のバラックの路をじりじりした気分でひとり歩き廻っていた。空気のにおいや、どよめきや、過去と繋りのある無数の類型や比喩が僕のまわりを目まぐるしく追越そうとする。……そして、東京へ戻って来ると、僕は再びあの小さな箱のなかに振り落されているのだった。
 僕はX大学の図書館の書庫のことは書いておきたい。この学校の夜間部の教師の口にありついた僕は餓じい体を鞭打ちながら、いつも小さな箱のなかから、ここへ出掛けて来る。ここでは焼け失せた空間と焼け残った空間が罅割れた観念のように僕の眼に映る。坂の石段を昇りつめたところにある図書館も赤煉瓦の六角塔は崩れ墜ちて、鉄筋の残骸ばかりが見えている。僕は昔、あの赤煉瓦の塔を見上げたとき、その上にある青空が磨きたての鏡のようにおもえたのを憶えているので、どこか僕のなかには磨きたての新鮮な空気がまだありそうな気もする。表の閲覧室の方は壊れたままだが、裏側にある書庫は無事に残っているのだ。僕はあるとき、入庫証をもらうと、はじめてその書庫のなかに這入ることが出来た。重たい鉄の扉を押して、ガラスの破片などの散乱している仄暗い地下室に似た処を横切ると、窓のところに受附の少年がいた。そこから細い階段を昇って行くと、階上はひっそりとして、どの部屋もどの部屋も薄明りのなかに書籍が沈黙しているのだった。僕はいま、受附の少年のほかに、この建物のなかには誰も人間がいないのを感じた。それから、窓の外にある光線はかなり強烈なのに、この書庫に射して来る光は、ものやわらかに書物の影を反映しているようだった。僕はゆっくり部屋から部屋を見て歩いた。「イーリヤス」「ドン・キホーテ」など懐しい本の名前が見えて来る。どの書物もどの書物も、さあ僕の方から読んでくれたまえと、背文字でほほえみかけてくるようだ。僕はへとへとになりながら、時間を忘れ、ものに憑かれたように、あちこち探し歩いた。だが、何を探しているのか、僕には自分でもはっきりわからないようだった。
「これは全世界を失って自己の魂を得た者の問題である」
 借りて来た書物のなかから、この言葉を見出したとき僕は何かはっとした。ジェラル・ド・ネルヴァルのことを誌したその数頁の文章は怕しい追憶か何かのように僕をわくわくさせる。「理性と称する頭脳の狂いない健全さのなかに、我々の諸能力を結合している鎖の薄弱さに就いて、その鎖が、過ぎゆく夢の羽搏きにも破れるほど脆く細々と擦り減ったように見える時がありはしないか。……眠れない夜々、心を痛めて待ちあぐむ日々に突然的な事件の衝動、こういうありふれた悩みの一つでも、人の神経のなかにある調子はずれの鐘を乱打するに充分であろう」と、その書物は悲しげに語っている。が、僕にはあのアドリイヌと呼ぶ少女のことも、青いリボンの端に結んで匍わせていた一匹の大鰕のことも、突然、幻想の統制力が崩れた惨めな瞬間のことも、何か朧気に心おぼえがあるのではないかという気がして来る。だが、僕はあのネルヴァルが書いたという「夢と人生」はまだ読んだことがないのだ。
 ふと僕は図書館の地下室の椅子に腰かけていた昔の自分もおもいだす。学生の頃、あそこは休憩室になっていたが、はじめて僕があの地下室に這入って行ったのは、朝から夢のような雨が煙っている日だった。室内は湿気と情緒に満たされていた。僕が窓際のテーブルに肘をついて椅子に腰かけると、僕の眼の位置の高さに窓の外の地面が見えた。視野は仄暗い光線とすぐ向側にある建物に遮られてひどく狭められていたが、雨に濡れている芝生の緑が何か柔かい調子を僕のなかに誘った。その時、僕は世界がすべて柔かい調子で優しく包まれているようにおもえた。僕の視野が狭くとも僕の経験が乏しく僕の知識が浅くとも、僕を包んでいる世界は優しく僕を受入れてくれそうだった。僕は世界が静かな文章の流れのようにおもえた。あのとき僕はその流れのなかに立停まっていたのではないか。僕はしずかに嗟嘆した。まるでもう一つの生涯を畢えて回想に耽けっているもののようであった。
 だが、学生の僕は、僕の上にかぶさる世界が今にも崩れ墜ちそうになる幻想によく悩まされた。ときどき僕の神経は擦り切れて、今にも張り裂けるかとおもえた。僕は東京駅の食堂に友人と一緒にいた。衰弱した異常なセロファンのような空気が僕の眼の前から、その食堂の円天井まで漲っているのだった。僕の向に友人がいるということも、僕の頭上に円天井があるということも、刻々に耐え難くなり、測り知れないことがらのようになっていた。……おお、僕の今いる小さな箱の天井は僕の瞬き一つでも墜落しそうになる。僕は箱のなかを出てゆく。
「何処に私の過去を蔵って置かれようか。過去はポケットの中には入らない。過去を整頓して置くためには一軒の家を持つ事が必要である。私は自分の身体しか持たない。まったく孤独で、自分の身体だけより他には何も持たない男は思い出を止めて置くことが出来ない。思い出はこの男を斜に通り抜ける。私は嘆くべきではなかったであろう」
 ロカタンスの言葉が僕の歩いている靴の底から僕に突上げて来る。僕は箱のなかを抜け出して、駅に出る坂路を歩いてゆく。思い出はこの男を斜に通り抜ける……斜にこの男を。だが思い出は坂下に見える駅の群衆にも氾濫している。あのように思い出は昔から氾濫していたのか。僕は今の今の僕の思い出を掴みたい。僕はぼろぼろの服と破れ靴を穿いている。僕は飢えとおしで、胃袋は鏡のようにおもえる。この鏡には並木路の青葉が映るようだ。そのなかを乞食に似た男が歩いている。歩いている。歩いている。そうだ、僕は死ぬ日まで歩かねばならないのだろう。僕はもうあの小さな箱のなかにはいない。あの場所を立退けと命じられている僕だ。僕はやはり自分の身体しか持たない人間なのか。突然、暗闇が滑り墜ちた。あのとき突然、僕の頭上に暗闇が滑り墜ちて来た。それから何も彼も崩壊していた。それから僕は惨劇のなかを逃げ廻った。突然、暗闇が滑り墜ちた。僕の歩いている側に流れてゆく群衆、バラック、露店……思い出は僕と擦れちがう。比喩や類型が擦れちがう。擦れちがう僕には何にもない。何にもない。僕は既に荒々しく剥ぎとられた人間。荒々しく押寄せてくる波が僕を……。
 僕の人生は小説か何かのようにうまく排列されては行かないようだ。僕はこの振り落されている箱のなかで夜どおし一睡もしない。この場所を立退かねばならないという脅迫が僕の胸を締めつけるようだが、何か僕はもっとはてしないものを胸一杯吸い込んでいるのかもわからない。これは僕をとり囲んでいる日毎の辛さとも異う。熱っぽく、懐しく、殆どとらえどころのないもの、だが、すぐ側にある。そうだ、僕は僕の身体の隅々に甦ってくるお前の病苦の美しさにみとれているのだ。滅茶苦茶に悲しい濁ったものを突破ろうとして冴えてゆくものを……。

 お前はよく僕に夢の話をしてくれた。たった今みたばかりの夢を語るとき、お前はその夢がお前の身体のなかを通って遙かなところへ消えてゆくのを、じっと見送るような顔つきをしていた。お前には夢の羽搏が聴えたり、その行手が見えるのだろうか、無形なものを追おうとするお前の顔つきには何か不思議なものがあった。僕はお前と同じように不思議な存在になれないのを不思議におもったが、お前にとっては、やはり僕がお前の夢の傍にいてその話をきいていることが、ふと急に堪え難く不思議になったのかもしれない。そして、そういう気分はすぐ僕の方にも反映するようだった。僕たちが生きている世界の脆さ、僕たちの紙一重向に垣間見えてくる「死」……何気なく生きている瞬間のなかにめり込んでくる深淵……そうした念想の側で僕はまた何気なく別のことを考えていたものだ。お前が生れて以来みた夢を一つ一つ記述したらどういうことになるのだろうか、それはとても白い紙の上にインクで書きとめることは不可能だろう、けれども蒼空の彼方には幻の宝庫があって、そのなかに一切は秘められているのではなかろうかと。……美しい夢が星空を横切って、夜地上に舞降りて僕を訪れて来ても、僕の魂は澄みきっていないので、それをしっかりと把えることは出来ない。僕の魂は哭いた。ただ、あざやかに僕を横切ってかすめて行ったものの姿におどろかされて。(僕は子供のときから頭のなかを掠めて行った美しい破片のために、じりじりと憧れつづけていたのだ。じりじりと絶えず憧れつづけて絃は張裂けそうだったが)……そして、お前があのように、たった今みたばかりの夢を僕に語るとき、その夢はほんの他愛ないものにすぎなくても、お前のなかには「美しい破片」のために苛まれている微かな身悶えがありはしなかったか。他愛ない夢の無邪気に象徴しているものをお前は僕に告げたが、お前が語ったどんな微かな夢にもお前の顔附があって、お前の過去と未来がしっかり抱きあったまま消えて行ったのではなかったか。
 僕はあの家でみた一番綺麗な夢を思い出す。すべての嘆きと憧れが青い粒子となって溶けあっている無限の青みのなかを僕は青い礫のような速さで押流されていた。世界がそのように、いきなり僕にとって変っているということは、睡っている僕に一すじの感動を呼びおこしていたが、醒めぎわが静かに近づいて来るに随って、僕はそこが嘗てお前と一緒に旅行をしたときの山のなかの景色になって来るのに気づいていた。……お前は重苦しいものから抜け出そうとして、あの旅行を思いついたのだ。金時計を売って旅費にしたときの、お前の身軽そうな姿は大空へ飛立とうとする小鳥に似ていた。今でも僕はお前の魂の羽搏を想像する。泡立つ透明のなかから花びらを纏って生誕する一つの顔。

 僕はその頃、夢みがちの少年であった。朝毎に窓をあけると新しい朝が訪れて来るようだった。遠くにきこえる物音や窓の向に見える緑色の揺らぎが、僕を見えない世界へ誘っていた。僕は飛立とうとしていた。書物では知っていたが、まだ経験したことのない放浪や冒険の夢が日毎に僕のまわりにあった。僕は硝子張の木箱の前に坐っていた。僕にとって、ぼんやり僕の顔を映している硝子が、そのあたりにすべての予感が蹲っているようでもあった。だが、こうして部屋に坐っているということが、僕には何か堪らない束縛ではないかとおもえた。僕にはどうしようもない枠が、この世の枠が既にそっと準備されているのではないか。それは中学生の僕が足に穿いている兵隊靴のようなものかもしれなかった。大人たちは平凡な顔つきをして、みな悲しげに枠のなかにいた。書物の頁のなかから流れて来る素晴らしい観念だけが僕を惹きつけた。それは僕の見上げる晴れ渡った青空のなかに流れているようだった。僕は学校の植物園をひとりで散歩していた。柔らかい糸杉の蔭に野うばらの花が咲いていた。五月の日の光は滴り、風は静かだった。蒼穹の弧線の弾力や彼の立っている地面の弾力が直接僕の胸や踵に迫って来るようだった。荘厳な殿堂の幻が見えて、人類の流れは美しくつづいて行く。だが、そういう想像のすぐ向側で、何か凄惨な翳が忽ち僕のなかに拡がって行く。それも書物の頁から流れてくる観念かもしれなかった。傷つけあい、痛めあい、はてしなく不幸な群の連続、暗澹とした予感がどこからともなく僕に紛れ込んで来るのだ。全世界は一瞬毎にその破滅の底へずり降ってゆく。静かに音もなくずり降ってゆく。この不安定なもの狂おしい気分は植物園の空気のなかにも閃めいた。急に湿気を含んだ風が草の葉を靡かすと、樹木の上を雲が走って、陽は翳って行った。すると光を喪った叢の翳にキリストの磔刑の図を見るような気がした。ふと、植物園の低い柵の向に麦畑のうねりや白い路が見えた。と、その黒い垣が忽ち僕を束縛している枠のようにおもえるのだった。
 僕は小娘のように何かを待ち望んでいたのかもしれない。そのように待ち望んでいるものを夢みていたのかもしれない。可憐の花の蕾や小鳥たちの模様に取囲まれて、朝毎に美しく揺らぐ透明な空気が何処かから僕を招いていたのだろうか。ふと僕は花の蕾の上に揺らぐ透明なのが刻々に何かもの狂おしく堪えがたくなってゆくような気分に襲われた。すると僕の眼のすぐ裏側には、美しい物語のなかの女の涙が凝と宿ってゆく。「世界はこんなに美しいのに……」とその嘆き声がききとれるようだった。……僕は嘆くような気持で家を出ると、街を通り抜けて、川に添う堤の白い路を歩いて行った。うっとりとしたものは僕の内側にも、僕の歩いて行く川岸にもあった。白い河原砂の向に青い水がひっそりと流れていた。その水の流れに浮かんで、石を運ぶ船がゆるやかに下ってゆく。石の重みのため胸まで水に浸っていながら進んでゆく船が何か人間の悲痛の姿のようにおもえた。僕の頭上を燕はしきりに飛び交わしていた。月見草の咲いている堤の叢に僕は腰を下ろすと、身体を後へ反らして寝転んで行った。すると眩しい太陽の光が顔一ぱいに流れて来た。僕は眼を閉じた。閉じた瞼の暗い底に赤い朧の塊りがもの狂おしく見えた。「世界はこんなに美しいのに、どうして人生は暗いのか」と僕はそっとひとり口吟んでいた。(この静かなふるさとの川岸にも惨劇の日はやって来たのだった。そして最後の審判の絵のように川岸は悶死者の群で埋められたのだが……)
 僕はあのとき、あの静かな川岸で睡って行ったなら、どんな夢をみたのだろうか。その頃、僕のなかには幻の青い河が流れていたようだ。それも何かの書物で読んでからふと僕に訪れて来たイメージだったが、青い幻の河の流れは僕が夜部屋に凝と坐っていると、すぐ窓の外の楓の繁みに横わっているのではないかとおもわれた。が、そんなに間近かに感じられるとともに、殆ど無限の距離の彼方にそのイメージは流れていた。まだ、この世に生誕しない子供たちが殆ど天使にまがう姿で青い川岸の花園のなかに蹲っている。だが、子供たちは既にみなそれぞれ愛の宿命を背負っているのか、二人ずつ花蔭に寄り添って優しく羞しげに抱き合っているのだ。無数の花蔭のなかの無数の抱きあったやさしい姿、子供たちは青い光のなかに白く霞んで見えた。ちらりと僕はそのなかに僕もいるのではないかという気がした。
 僕の喪失した記憶の疼きといったようなものが、いつも僕の夢見心地のなかにはあった。どうかすると僕は無性に死んでしまいたくなることがあった。早く、早く、という囁きのなかに、芝居の書割に似た河岸を走っているオフェリアの姿が見えた。僕のすぐ足許にも死の淵があった。「死」は僕にとって透明な球体のようだった。何の恐怖もなく美しい澄んだ世界がじっと遠方からこちらを視詰めているようだった。僕は何ごとかを念じることによって、忽ちそのなかに溶け入ることが出来るのではないかとおもった。すると僕の足許には透明の破片がいくつも転がって来た。僕の歩くところに天から滑り墜ちて来る「死」の破片が見えた。その「死」は僕の柔かい胸のなかに飛込んで不安げに揺らぎ羽搏くのだった。
 不安げに揺らぐものを持ったまま僕は、ある日、街の公会堂で行われている複製名画の展覧会場へ這入って行った。木造建の粗末な二階の壁はひっそりとした光線を湛えていた。その壁に貼られている小さな絵は、僕にとって殆どはじめて見る絵ばかりであった。ボティチェルリの「春」が、雀に説教をしている聖フランシスの絵が、音もなく滑り墜ちて僕のなかに飛込んで来るようだった。僕は人類の体験の幅と深みと祈りがすべてそれらの絵のなかに集約されて形象されているようにおもえた。僕にとって揺らぐ不安げなものは既にセピア色の澱みのなかに支えられ、狂おしく燃えるものは朱のなかに受けとめてあった。
(今も僕はボティチェルリの描いた人間の顔ははっきり想い出せるのに、僕がこれまでの生涯で出会った無数の人間の顔はどうなったのだろうか。現実の生きている人間の印象は忽ち時間とともに消え去るのに、記憶の底に生き残っている絵の顔は何故消えないのか。その輪郭があまりにきびしく限定され、その表情が既に唯一の無限と連結しているためなのだろうか。……恐らく、僕が死ぬる時、それは精神が無限の速力で墜落して行くのか、昂揚してゆくのか、僕にはわからないが、恐らく僕が死ぬる時、僕はこの世からあまり沢山のものを抱いて飛び去るのではないだろう。僕のなかで最も持続されていた輪郭、僕のなかで最も結晶されていた理念、最も切にして烈しかったもの、それだけを、僕はほんの少しばかしのものを持って行くのではないのだろうか)
 その展覧会を見てから後は、世界が深みと幅を増して静まっていた。僕の眼には周囲にあるものの像がふと鮮やかに生れ変って、何か懐しげに会釈してくれた。それから、はじめてすべてのものが始まろうとする息ぐるしいような悦びが僕の歩いている街の空間にも漲っていた。ある昼、僕は書店の奥に這入って行くと、書棚のなかから一冊の詩集を手にとった。その書物を開いて覗き込もうとした瞬間、僕のなかには突然、何か熱っぽい思考がどっと流れ込んだ。僕は何か美しいものに後から抱き締められているような羞恥におののいているのだった。

------------------------------------------------------------------------------底本:「日本の名随筆14 夢」作品社
   1984(昭和59)年1月25日第1刷発行
   1985(昭和60)年3月30日第2刷発行
底本の親本:「原民喜全集 第二巻」青土社
   1978(昭和53)年9月

夢の影響  与謝野晶子

夢の影響
與謝野晶子

 小野小町に夢の歌の多いのを見て、小町は特に夢を愛したのだと云ふ説があります。私は特に夢を尊重もしませんが、夢見が好いと其日一日の氣分が何となく嬉しく愉快で、心に張りがあり、仕事をするのに勇氣が自然に伴つて、それがために仕事が意外に捗ると云ふやうな經驗は月の中に二三度もあります。反對に夢見が好くないために氣分がくさくさして、何をしても程好く運ばないと云ふやうなことも月に一度ぐらゐはあるやうです。人は或程度まで氣分に支配されることを免れません。
 夢の中で歌を詠んで自分ながら面白いと思つたものが、目が覺めてから考へるとお話にならない駄作であつたりすることは私に屡あります。けれども、その夢ですらすらと歌の詠めたと云ふ氣持が覺めて後の私を非常に興奮させて、其日はまことに樂に筆が執れたりもします。
 古人のやうに夢の中で好い歌を感得したやうな經驗は持ちませんが、小説やお伽噺の構想を夢の中で捉へることは屡あります。それには空想的なものもありますが、夢の中では意識が一方に集つて照り輝くためでせう、微妙な心理や複雜な生活状態から目が覺めて居る時よりも一層よく寫實的に觀察することの出來るばかりで無く、其れにおのづから明暗の度が適度に附いて、ちやんと一つの藝術品として立體的に浮き上つて構圖されて居る場合があります。さう云ふ場合に、人が夢を見て居ると云ふことは眠つて居るので無くて、藝術家としての最も純粹な活動をして居ることに當ると思ひます。
 それから、また、平生ぼんやりと考へて居ることや、どうして解釋して好いか解らないで行き惱んで居る問題などがはつきりと夢の中で判斷のつくこともあります。さう云ふ場合に夢と現實との間に境目と云ふものが無いやうな氣がします。と云つて、私は夢を少しも當てにして居るのでは無いのですが、小野小町が夢を愛したと云ふ氣持は私にも想像することが出來るやうに思ひます。
 私の良人はよくM先生を夢に見ると云つて喜んで居ります。それで斷えずM先生にお目に掛つてお話を承つて居る積りになつて居て、却て久しく先生のお宅へ上ることもせず御無沙汰をして居るのは夢と不精との連合した極端な例ですが、崇拜したり、景慕したりする人を夢に見るのは嬉しいことであつて、支那の聖人が「近頃夢に周公を見なくなつた」と云つて歎かれたのも、全く聖人の實感であつたらうと思はれます。
 古代は夢に由つて身の吉凶を判斷する占術者があつて、それを「夢解き」と云ひました。平安朝の初めに應天門を燒いた謀叛人の伴大納言善男がまだ田舍で郡司の從者をして居る程の卑しい身分であつた頃、東大寺と西大寺の塔に兩足を掛けて立つた夢を見て、その事を妻に話すと、無智な妻は「股が裂けるでせう」と云ふやうなことを云ひました。善男は瑞兆の夢だと考へて居たのに、妻の言ひ草を聞いて縁起でも無いと思つて夢解きの名人に占なつて貰ふと、その名人は「非常に吉い夢であるが、惜しいかなよく無い人に喋べつてしまつたので、上運に傷が附いた」と云ひました。果して善男は次第に好運が續いて大納言までに成り上りましたが、後に應天門の事件で失脚して流罪になつたと宇治拾遺物語に書かれて居ります。(これと同じことが藤原師輔に就いての傳説にもあります)また古代には吉い夢を他人が買ふと云ふことがありました。北條政子が妹の見た夢を買つて頼朝を良人にしたと云ふやうなことがその一例です。かう云ふ風に夢を迷信的に尊重する所から、吉い夢を見た時は其れを他人に話してはならない、話すと反對に惡運を招くと云ふやうな習慣までが生ずるに到りました。かうなると「癡人夢を説く」と云ふ痛罵が必要になります。
 現代の人は「夢想家」と云ふ語を古臭いやうに云つて、そんな人間は日日に活動して居る實際の社會に一人も居ないやうな口氣を洩します。けれども果して其通りでせうか。人間は誰もまだまだ傳習の夢を見て居て、折々にちよいと目を開いては微かに眞實の一片を見るのでは無いでせうか。

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底本:「日本の名随筆14 夢」作品社
   1984(昭和59)年1月25日第1刷発行
   1985(昭和60)年3月30日第2刷発行
底本の親本:「定本・与謝野晶子全集 第一六巻」講談社
   1980(昭和55)年7月

夢  森鴎外


森鴎外

 カントが発狂の階梯だと恐れた夢を自身に検究する事に再び着目したるは、新約克のジユリウス、ネルソン Julius Nelson です、既に記録した夢の数は四千あつて、短いのは一語で写され、長いのには百語を費す、ネルソンは夢を区別して晩夢、夜夢、朝夢の三としたり、晩夢は疲労の日に継ぐもので、大抵日業の継続から悲壮的(トラーギシユ)の結末を示し――昼間氷の戯をなし夕にもこれを夢み遂に僵る――醒める時には筋肉の劇動をし又は叫喚す、夜夢は日間神経の刺衝興奮に継ぐ――火災の後に烟火の昇るを、点竄をなす後に難符号の出るを、聴楽の後に音響を夢みる――飲酒はこれを促す、朝夢は安眠の間に貧血になつて居たのが充血するの結果、その充血の少ない時には後で僅に夢を見たと思ふのみ、充血が多ければこれを記憶す、凡そ夢の中で面白いのは朝夢で平生忘れて仕舞た瑣末な事が思ひも掛けず浮き出し様々に変化せられ、敷衍せられ、走馬燈の如く、劇部の場面の如く、時間も空間も放縦自在となり、頃刻の間に数十年の事を瞥見するは独り邯鄲の枕に依る計りではなし、
 次にネルソンは夢記の単複で夢の劇易を測り、これを弧に作つて見たに二十八日毎に弧線が跳上する、二十八日は即ち太陰暦の月に当る、然し真の月輪満虧には関係せずネルソンは是れを以てハムモンド Hammond の曾て信じた「男子月経」 Katamenia masculina の明証と云へり。
 この消長はまた一年の中にも見えて三四月の弧線は尤も低く十一、十二月は尤も高し(Americ. Journal of Psychol., I, 3.)
 これと趣を異にしたるものはニツツアーの人マカリオ Macario が病人の夢の検究なり未だ閾を越えて識界に入らざる痛楚、不仁等も眠つて居る間休む調停作用のお蔭で夢に顕はれる即ち所謂病兆夢 Prmonitorische Trume なり、――両足が石に成つた夢を見た跡から脊髄的の両下脚麻痺が起り、夢に犬に噬まれたと思つた所に跡で癰が呈はれ、右の腹に刀を刺された夢を度々見た跡で肝膿瘍が知れ、腹の上へ鷲鳥が下りた夢の跡で腸窒扶斯が発し、沈溺縊首の夢は屡々真の呼吸困難に先つ、また発狂前にも種々の夢を見る――其外既に発した病は症に随て夢を殊にす、鬱憂家の夢は悲むべく、躁狂家の夢は誇張し、痴狂家の夢は稀疎にして飄忽たり、依卜昆垤児(ひぽこんでる)の夢と喜斯的里(ひすてりー)の夢は多く自分の身を困め、心臓病者の夢は短くして醒(さめ)る時には瀕死の苦あり、小児の腹中に虫湧く時は睡眠中驚き醒むること多し、陰部の刺衝と老人の僂麻質斯(れうまちす)性睾丸炎の夢は猥褻にして洩精す、又萎黄病の処女は何時も心臓の噪響を聴く為め歟その見る夢は海の波の音、風の戦ぐ声、鶯のしばなく声などなり(Gaz. md. de Paris 1888 & 1889.)

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底本:「日本の名随筆14 夢」作品社
   1984(昭和59)年1月25日第1刷発行
   1985(昭和60)年3月30日第2刷発行
底本の親本:「鴎外選集 第一一巻」岩波書店
   1979(昭和54)年9月
初出:「衛生新誌」
   1889(明治22)年9月

底本:「日本の名随筆14 夢」作品社
   1984(昭和59)年1月25日第1刷発行
   1985(昭和60)年3月30日第2刷発行
底本の親本:「鴎外選集 第一一巻」岩波書店
   1979(昭和54)年9月
初出:「衛生新誌」
   1889(明治22)年9月

夢もろもろ 横光利一

夢もろもろ
横光利一

    夢

 私の父は死んだ。二年になる。
 それに、まだ私は父の夢を見たことがない。

    良い夢

 夢は夢らしくない夢がよい。人生は夢らしくない。それがよい。

    性欲の夢

 トルストイがゴルキーに君はどんな恐ろしい夢を見たかと質問した。
「長靴がひとり雪の中をごそごそと歩いていた。」とゴルキーが答えた。
「うむ、それは性欲から来ているね。」と、いきなりトルストイは解答を与えた。
 何ぜか、これは少し興味がある。

    恐い夢

 私は歯の抜ける夢をしばしば見る。音もなくごそりと一つの歯が抜ける。すると二つが抜ける。三つが抜けたと思わないのに、不思議に皆抜けているのである。赤い歯茎だけが尽く歯を落して了って、私の顔であるにも拘らずその歯を落した私の顔が私にからかって来るのである。

    夢の解答

 私は今年初めて伯父に逢った。伯父は七十である。どう云う話のことからか話が夢のことに落ちて行った。そのとき伯父は七十の年でこう云った。
「夢と云うものは気にするものではない。長い間夢も見て来たが皆出鱈目だ。」

    たまらぬ夢

 ある小説に、妻が他の男と夢の中でけしからぬ悦び事をしているにちがいないと思って悩む男のことが書いてあった。男はそれを、
「たまらぬことだ。」と云っていた。
 なるほど、これはたまらぬことだ。手のつけようがないではないか。そう云う妻の行為に対する処罰の方法は! それは空を見ることだ。空を見ると、夜なれば星と月。星と月とを見ていれば、総てが夢だと思うだろう。空は無いもの。夢は空と同じ質のものに相違ない。

    夢の定義

 生理学の夢の定義は、夢とは催眠中の記憶が現識(げんしき)の中に呼び起されたものだと云う。してみれば、夢の中の妻の行為は良人にとっては重大なことである。

    夢の効果

 愛人を喜ばすには、
「私は昨夜あなたの夢を見ましたよ。」と云うが良い。
 なお喜んで貰うためには、
「私はこれからあなたの夢を毎夜見ようと思います。」と云うが良い。
 またもし彼女と争うた場合には、
「ああ、私は今夜あなたと争った夢を見なければなりません。」と云えば良い。
 そうしてもしも、彼女が君を裏切ったときが来たならば、いとも悲しく細々と、
「私は毎夜あなたの夢をひとり見て楽しむことといたしましょう。」と云い給え。
 またもし君が彼女を裏切った日が来たならば、
「私はあなたの夢となって生涯お怨みいたします。」と云われなければ君は不徳な男である。

    痛快な夢

 私は喧嘩をした。負けた。蹴り落された。どこへともなく素張らしい勢いで落ち込んで行く。ハッと思うと、私の身体はまん円い物の上へどしゃりッと落(おっこ)ったのだ。はてな―ふわふわする。何ァんだ。他愛もない地球であった。私は地球を胸に抱きかかえて大笑いをしているのである。

    まごついた夢

 歩こうとするのに足がどちらへでも折れるではないか、……………

    面白くない夢

 金を拾った夢。……………

    笑われた子

 これは夢を題材にした私の創作の中の一つである。ある子供の両親がその子を何に仕立てていってよいものかと毎夜相談をしている。そう云うある夜、子は夢を見た。野の中で大きな顔に笑われる夢である。翌朝眼が醒めてから子はその夢の中の顔をどうかして彫刻したくなって来た。そこで二ヶ月もかかって漸く彫刻仕上げたとき、父親に見つけられて了った。父は子の造ったその仮面を見ると実に感心をしたのである。
「これはよく出来とる。」
 そこで、子は下駄屋にされて了った。これは夢が運命を支配した話。

    佐藤春夫の頭

 私は或る夜佐藤春夫の頭を夢に見た。頭だけが暗い空中に浮いているのである。顔をどうかして見ようと思うのに少しも見えない。その癖顔は何物にも邪魔されてはいないのだ。頭だけが大きく浮き上り、頂上がひどく突角(とが)って髪が疎らで頭の地が赤味を帯んでいるのである。実物の春夫氏の頭はよく見て知っているにも拘らず、実物とは全く変っている夢の中のその無気味な頭を、誰だかこれが春夫氏の頭だ頭だとしきりに説明をするのである。誰が説明をしているのかと思うと誰もいないのだ。

    見ない夢

 友人で文学をやっているものがいた。その男の告白によると、
「僕は夢と云うものをまだ生れてから見たことがない。」と云う。
 私にはそれが嘘だとより思えなかった。が、彼はどうかして一生に一度夢と云うものを見たいとしきりに云った。私はこれが「夢を見たことのない男」だと思うと、おかしくなった。そう云う種類の男に逢ったことがないからだ。その癖、彼の作品の中には夢と云う字があったのだ。もっともその頃は夢と云う字を用いなければ文学だと思わない頃ではあった。しかしそれにしても、夢を見たことがないと云う男のことを聞いた例があるかしら。未だに疑わざるを得ないのだ。

    夢の色

 夢の色とはどう云う色か。夢では色彩を見ないと云うことが夢の特色ではないか。

    夢の研究家

 私の友人で夢の研究家があった。夢ばかりを分析していた。逢うと夢の話をしていた。すると、死んで了った。

    夢の話

 夢の話と云うものは、一人がすると、他の者が必ずしたくなる。すると、前に話した者は必ず退屈し出すのだ。何ぜかと云えば、それは夢にすぎないからだ。

-------------------------------------------------------------------------- http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card2153.html

底本:「日本の名随筆14 夢」作品社
   1984(昭和59)年1月25日第1刷発行
   1985(昭和60)年3月30日第2刷発行
底本の親本:「横光利一全集 第一四巻」河出書房新社
   1982(昭和57)年12月

2008年4月 5日 (土)

「生きるための兆し」を認識でき22パタ-ン

「生きるための兆し」を認識でき22パタ-ン

◆タロットは砂漠の民たちによって見い出され、神話時代を経て、宗教によって弾圧され、15 世紀、ルネッサンスと個人が自分を見い出そうとする自己探求に興味が向けられた時、歴史の表舞台に現われてきました。

タロット――TORAは人生の規範です。
これは B.C.500年~B.C.300年頃に人類の伝承を集大成して確立された人間の英知を、
「生きた言葉」として使えるようにするシステムである。

「生者の書」としての「タロット」は、人生の障害が、13であることを暴き出し、
それからの解決方法を教えてくれるカードです。

◆「13の障害」の根本的原因の中心は、人間は、父、母、子供の内に魂を形成する上で、最も永続的な問題が生まれるということです。  
現代の心理学では、あらゆる生物の中で人間だけが、母親がいつまでも手をかけずには生きられないのだと言います。
人間は母の体内から出てくるのが早すぎるために、外に出てからの母親の庇護下に置かれる胎内期間が延長されます。
生命ある存在として完璧でなく、外界に対応する準備が整わずに、依存、嫉妬、敵対などのおびただしい障害を生んでいます。
これが人間自身の手で人生に障害が生まれる主要な原因です。

◆そしてタロットの源流となった古代の神話を生んだ人たちは、
通過儀礼という、過去と断絶し、
不完全なそれまでの性情、慣習、従来の生活態度を根こそぎ切り払うという生き方を
採用することによって、未来を切り開きました。
それを今日では「創造」という言葉として捉えることが出来ます。
そして神話を形成することによって絶えず心の進化を実践した彼らの人生には、
今日の私たちが体験しているような犯罪や事件や不倫などは、全くありませんでした。

◆ 人生には「13の障害」があるという運命論を教えてくれますが、
タロットの象徴学を学び、神話的なエネルギーに接続することは、
それだけで人生の障害の70 %は自動的に消滅します。
日常の障害からの「分離」、そしてそのような人生の「変容」、更に新しい人生への「再生」が、「タロット」が私たちにもたらせてくれるものです。

Tarot2 Tarot1

 
占いやゲーム性の底に秘められたTAROTの真意を、
ユーモラスで哲学的なペンギンのキャラクターによって顕した大アルカナ22枚
TAROT図形学より、視覚からも分りやすく覚えられる
「ペンギンタロット」の世界へ・・・
新しいアテンション(注意)と上昇力を前向きに促すために作られたカードです。

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-Tarot3

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大アルカナ22枚組1セット・解説書A4版16頁付 

「ペンギンタロット」申込・お問い合せ 
http://koinu.cside.com/

■■■■■■品切などのお詫び■■■■■■
好評につき「ペンギンタロット」解説書A4版16頁は、手作りにつき品切れとなりました。今後申込される分には、解説書はコンパクトサイズで、A6版18面となります。
「ペンギン」を愛好する団体より、「ペンギンタロット」の集団注文が予定されております。残りが僅かとなる限定生産のため申込は、今月一杯でタロットサイズは品切れとなるもようであります。申込完了された方を優先に続々と配送させていただいておりますので、予約問い合わせ後にも在庫が切れる場合があります。

「生きるための兆し」を認識できる22パターンには、神話のコードが多様に含まれている。それは関心のある人には掘り下げる意味もあるのだが、全くと言ってイイほど神学が目的でないから、用心深くそれらのキーワードも可能なかぎりはずして、解り易さと実用としての道具カードに徹した解説書となった。
一枚の図版には本一冊分の内容が刻まれてることも、カードを作ってよく体現した。時間があるときに、現代の人にも理解できうる物語の要因をさらに詳しく書きとめたいと思う。いずれインターネットでも配信を予定している。

2008年4月 3日 (木)

日本国外で「アニメ(anime)」と言う場合

日本で制作されたセルアニメーション作品、あるいはそれと同種の作風を持った作品のことを指すことが多い。「マンガ(Manga)」も、紙媒体のものではなく、しばしば日本のセルアニメ全般の同義語である。

日本語の「アニメ」という語は単にアニメーションの略で製作国等は関係無い。例えば、アメリカ合衆国のディズニー製作映画は単にディズニーアニメと呼ばれ、ディズニー公認の絵本、ノベライズ版にもそう銘打ったものがある[1]。つまり、日本ではアニメはすべてのアニメーションを指し、日本以外ではanimeと言えば日本のアニメーションのことを指すということである。
[『鉄腕アトム』の時代から、アニメはキャラクターグッズ化によって制作資金回収を行うという独自のシステムが形成されていた。鉄腕アトムの制作者手塚治虫は、ディズニーアニメの販売戦略を真似たともいわれるが、日本のアニメはディズニーのそれとは別の道を歩むことになった。

現代、ディズニーアニメは製作費が高騰し、全世界で配給して多くの年齢層の観客をとりこみ、できるだけ多くの興行収入を確保するというシステムになっており、それに伴ってストーリーや題材も当たり障りがなく、どこからも苦情が来ないようにあえて工夫されて作られているものが多くなりつつある。これに対して日本では、ディズニーのようなアニメの巨人が存在しなかった。多くのアニメスタジオが競って作品を作ったため、作家性の薄いもの、強いもの、個性的なもの、平凡なもの、当たり障りのないものなど、おびただしい数と種類のアニメ作品が生まれた。現在も少人数、低予算で制作されるという点は変わっておらず、これが欠点であり武器でもあるという点も変わっていない。

「アニメ」という語の成立
当初の日本では「アニメーション」「アニメ」という語はあまり用いられず、「漫画映画」または単に「動画」と呼ばれていた。アニメーションという語は映像業界の専門用語で、その略である「アニメ」という語も一般には普及しなかった。

テレビでアニメーション番組が放送されるようになると、「テレビまんが」などという語が使われた。最初のテレビアニメ番組とされる「鉄腕アトム」では、本放送当時「テレビマンガ」という表記を使っていた。このためか中高年を中心に現在でも「アニメ」を「まんが」と呼ぶ者もいる。

「アニメ」という用語の最初期の使用例は、雑誌『小型映画』1965年7月号で現れる。ただしこの雑誌も映像制作者向けの専門雑誌であった。『小型映画』は、1965年6月号までは主に「アニメーション」という語を使用しており、この頃から映像業界内で「アニメ」という語が一般的になりはじめたとみられる。

一般向けに「アニメ」という語をタイトルに用いた最初期の例は、1968年、偕成社の絵本のシリーズ名に「名作アニメート絵話」という語が現れる。ただしこれは、animationの動詞形のanimateを日本語読みにしたもので、「アニメーション」を略したものではない。

1969年公開のアニメーション映画『千夜一夜』は、「アニメラマ」という語を用いた。これは、アニメーションとドラマの合成語である。アニメラマはシリーズとなり、1973年公開の第3作まで続いた。

単に「アニメ」という語を用いた最初の書籍タイトルは、1975年、ポプラ社の絵本シリーズ名「テレビ名作アニメ劇場」とみられる。同年には日本アニメーションが創設されており、同社制作番組だけとはいえ、毎週、テレビのアニメ番組内で、社名の一部として「アニメーション」という語が表示されるようになった。

1978年に雑誌『アニメージュ』の刊行が始まり、その後数年で誌名に「アニメ」を含むアニメ雑誌が相次いで発刊されると、アニメという語は急速に普及し、1980年頃を境に「テレビまんが」「動画」という語はほとんど使用されなくなった。しかし前述の通りアニメに関心のない中高年の世代の人は、現在でもアニメを「まんが」と呼ぶことがある。

外国語における「アニメ」
戦後日本においてアニメ作品の主流は他の地域と異なる方向に発達し、かつ大きな発展を遂げた結果、明らかに固有の様式をもつに至っている。これら日本製ないし日本風である“日本のアニメ”は、日本以外では特にanime(アニメ)と呼ばれ他のanimation(アニメーション)と区別される場合がある。米国では、ANIMEはMANGAと同じで日本語という感覚で用いており、animation→アニメ→animeと数少ない逆輸入語であり、かつ文化用語でもあるために、大学の講義題材として取り上げられている。

英単語での animation という語は略しても anime にはならない(eという文字がもともと存在しない)。このため、英語で anime は、animation の略ではなく、日本由来の外来語だと考えられている。また、anime という綴りでは「エイニム」または「アニーム」という読みとするほうが英語としては自然で、animeとつづって「アニメ」と読むことも、外来語とみなされる理由である。animationの動詞形の英語animateを意味するフランス語animer(動く)を活用させるとその過去分詞アニメanimé(動いた、動かれた)という綴り方があり得ること(例えばドビュッシーのピアノ曲「映像」第3曲「ムーヴマンmouvement(動き)」の冒頭のテンポ指示に「トレザニメtrès animé(とても動いて)」と表記されている)、また、英語でもしばしばアニメはaniméと綴られることから、フランス語由来だと考えられたこともあるが、現代ではこの説はあまり信じられていない。英語以外の言語圏には、英語からさらに輸出される形で移入された。フランスではアニメーション動画はデサンナニメ fr:dessin animéと呼ばれるが、特に日本由来のアニメは単にアニメfr:animeと呼ばれる。

1975年末、アメリカ合衆国で家庭用ビデオデッキが発売されると、1976年2月に、各地で放映されていたテレビ番組を録画して見せ合う活動が始まった。1977年にはこの種の活動を行う専門のサークルが活動を開始した。フレッド・パッテン(Fred Patten)によれば、この時点(1977年当時)で既に日本製ロボットアニメを指す語としてanimeという語が用いられていた。ただし、この語は愛好家たちの隠語か専門用語に近く、一般には広まらなかった。

1991年にアメリカ合衆国でThe Society for the Promotion of Japanese Animation (略称SPJA)が発足し、翌1992年から毎年「Anime Expo」という催しを開催するようになると、animeという語は急速に普及した。

ジャパニメーション
animeという用語の他に「ジャパニメーション(Japanimation)」という呼び方もある。この用語は1970-1980年代ごろ北米で良く使われた。この言葉が生まれた当時は、日本と北米の文化・習慣の違いや表現規制の問題から、日本的・性的・暴力的なシーンをカットしたり、子供向けとしては難解な長期に渡る物語を一話完結にしてしまうことが、アメリカ人編集者の手によって行われていた背景がある。転じて、この頃の独自編集が施された作品のみを、ジャパニメーションと分類する人もいる[3]。

また、一部の放送枠では同一作品で最低65話が必要だったため、それに合わせるべく日本の複数の作品を組み合わせてそれを満たすことも行われた。例えば米ハーモニーゴールド社は、それぞれ独立した3作品を編集して、『ロボテック』という長編シリーズに仕立てあげている。この作品は、元の物語と同一ではないにしろ、比較的暴力的な描写を多く残し、物語も複雑で、その結果多くの視聴者を獲得した。その状態で、他国に再輸出もされており、好評を博したとされる。このヒットは、元になった日本製アニメを評価するきっかけともなった。

しかし、ジャパニメーションは単に日本製のアニメーション作品という意味だけではなく、主に親の世代が、日本発の文化や日本人に対する「差別」「偏見」や、アニメーション自体への「偏見」から、日本製の子供向けアニメーションを指して「くだらないもの」、あるいは「子供の教育上良くないもの」というニュアンスを込めて、この言葉を使っていたとする説がある。音節的に japan-animation から(an 音節が繰り返されているため、ひとつが脱落し) Japanimation に略されただけではあるが、Jap(日本人の蔑称) の Animation とも読める。

現代では、anime が定着しつつあり[4]、日本及びアニメーションに偏見を持たない世代や真摯なファン(OTAKU)も増えたためか[5]、 Japanimation が使われる事はほとんどなくなってきた。ただし、アニメーション関連のオンラインショップの名称[6]など、蔑称や偏見という意識を持っていないと思われる使用例もある。

日本では、マスコミや一部のファンが(広義の)アニメーションと区別するために使ったり、日本の文化として誇る意味を込めて使う場合もある。講談社は、『AKIRA』『攻殻機動隊』が海外で人気を博しているとして、「ジャパニメーション」という用語を戦略的に使った。

日本アニメとアニメ全般の呼び名  日本アニメ アニメ全般
日本語 日本アニメ
ジャパニメーション アニメ
アニメーション
英語 anime
japanimation(現在では稀) animation

※「アニメ」がアニメ全般を指すのに対し、「anime」は日本アニメを指す。

アニメの輸出
アニメはごく初期、1963年から日本国外に輸出されていた。最初に輸出されたアニメは『鉄腕アトム』で、日本での放送開始から8ヶ月後に、アメリカ合衆国のNBC系列局で放送された。この後もアメリカや北米向けの輸出は続いており、輸出金額では過半数が北米向けが占めるとも言われる。

また、1970年代にはほとんど時差無くして北東アジア圏、東南アジア圏にてアニメが放送された。だが同時にアニメの日本文化の影響が強い表現や、性的な物を示唆する表現は徹底的に排除される傾向にあった。1980年代になると、東南アジア圏では性的な表現を除き、日本文化的な表現も受容されつつあり、再評価されている。好まれるアニメは日本と大して変わらず、また『ドラえもん』は教育的であるとさえ言われた。

だがこの時代における北東アジア、東南アジアへのアニメの輸出は、さほど日本でアニメの国際化に寄与したと言う評価は得られなかった。現在においては、香港、タイ、台湾などではほぼ1週間程度の時差で日本で放送されているアニメが放送されており、文化的な距離を縮めつつある。

ヨーロッパへの輸出は1970年代に開始された。アニメは制作費を短期間で回収するために、安価で多くの国へ輸出する販売戦略がとられたため、放送先は世界各地に広がった。現在では、北米、南米、ヨーロッパ、南アジア、東アジア、ロシア、オーストラリアなど放送地域は全世界に広がっている。各作品毎に集計したものはあるが、全体として具体的な統計などはとられていない。

輸出先では、内容の大きな改変が行われることが多い。特に暴力的なシーンについての反応は、日本より海外で拒否反応が激しいことが多い。また、日本製だということで警戒されることもあり、スタッフ名が削除されたり、各国風に書き換えられたりして放送され、当の視聴者が日本製だと知らないでいることも多い。

動物アニメや世界名作ものは比較的広い地域で受け入れられているが、日本の生活風景が出るもの(『ドラえもん』など)や、特定の国を扱ったもの(『ベルサイユのばら』など)は、受け入れられるかどうかは国によって大きく異なる。文化の違いとしては、前出の『ドラえもん』はなまけものの主人公をロボットが手助けする話であり、アジアで好評価を得るが、いわゆるヒーロー的な男性を尊ぶ北米では受け入れられず、放送されていない。また逆に、『超電磁マシーンボルテスV』のように、特定の国だけで日本以上に爆発的な人気を呼ぶ作品もある。その他、北米など一部地域では性的描写の規制が日本より緩い場合があり、対米向け作品を横流しし、国内で流通させる店舗が出て小さな問題になっている。

東アジアでは正規な契約の基にテレビ放送されている作品もあるが、無許可で各国語字幕付きのDVDなどが作成されて流通しており、問題になっている。また、ファンサブ活動によって作成されたデータも、違法に全世界で流通している(ファンサブについては後述)。

海外での主な評価
日本のアニメは前述した通り、ディズニー作品に慣れた外国では暴力的・性的なシーンを含むために多く批判される(だが、実際はアメリカ制作のアニメであっても『Happy Tree Friends』のような作品もあるにはある)。また、アニメに登場するキャラクターの容姿が幼児に見え、幼児性愛好者を増長させているとの指摘もされ、ニュージーランドではOVA『ぷにぷに☆ぽえみぃ』が政府機関により発禁指定を受けたりもしている。しかしながら、日本において幼児性愛好者が起こした犯罪は他国と比較して圧倒的に少ないとの指摘もある。この問題は現在も議論中であり、結論は出ていない。

逆に、フランスの美術評論家エルベ・シャンデスは、アニメを中心とする日本のおたく文化を「21世紀のジャポニズム」と評し、これらの文化が欧米の文化に大きな影響を与えていると主張し、おたく文化を擁護した。

北米のファン活動
この小項目では主に北米でのファン活動について述べる。日本で紹介される海外でのアニメの評価は、これらのアメリカ合衆国の熱心なファンの反応や活動であることが多い。もちろん、アメリカは金額で最大の輸出先でもあり、日本アニメのファンも多い国ではあるが、それらの評価は日本と同様、高年齢向けアニメの評価が相対的に高い方に偏っていること、実際のアニメの輸出先はアメリカだけではないこと、児童・ファミリー向け作品も数多く放送されているが、それらの作品への評価は日本と同じように少ないことにも注意する必要がある。

アメリカでの日本アニメのファン活動は、1976年にテレビを録画したアニメの上映会が始まることによって開始された。1980年代までは、おおむねこのような活動がささやかに行われていたが、映画『AKIRA』(1988年)が1989年に世界公開されたことを発端に、日本には高年齢層向けのアニメが存在することが知られ始めた。『AKIRA』は大規模な公開はされず、世界各地の芸術系映画館で小規模な上映会を巡回的に行うという配給方式がとられたが、これが元で、逆にアニメは芸術作品であるという見方もされるようになった。そして、世界各地の観客たちに確実に強い印象を与え、日本と同じように熱狂的なアニメファンを産むことになった。ただし、そのファン層は日本と同じように一部に限定され、それ以外の層への浸透はまだまだ進んでいない。一部のアニメファンサイトは、アメリカ共和党の政治家にアニメファンが居る事を知ると、狂喜してネット中にその事実をばら撒いた。逆に言えば、それほどアニメファンは一般的でなかったということでもある。

これらの熱心なアニメファンは、現在でもアメリカ合衆国に多い。多くは、放送されている作品や、北米でソフト化されている作品だけに飽き足らず、日本で放送中のアニメをほぼリアルタイムで字幕つきで見る、ファンサブという活動を行っている。これは、日本でテレビ放送されたアニメ番組をパソコンのP2Pソフトなどで入手し、手製の字幕をつけてインターネット上で配布するという活動である。ただしこの活動は違法である。アニメコンベンションの人気は拡大するなど、アニメファン自体は増加傾向にある。

日本のアニメの特徴
日本のアニメの特徴は、その成立過程に密接にかかわっているため、まず特徴を、そしてその歴史を続けて述べる。ほとんどがリミテッドアニメで、1秒間に使われる絵(動画)の枚数は8枚が基本である。ただしこれは動かす場合であり、常に1秒間に8枚の動画を使うという意味ではない。つまり、同じ絵を3回ずつ撮影するのであり、動きの少ない場合には、同じ絵を24回撮影するので、一般映画と同様の秒24コマである。ディズニーアニメに代表されるようなフルアニメ作品は少ない。
作品やアニメーターによって区々だが、動きのメリハリを強く強調する傾向にある。
上下左右に大きな背景の上でセル画をスクロール(パン)させたり、カメラの寄りや引きによる演出(カメラワーク)が多用される(「引き絵」、実際は、固定カメラの下で絵の方を引っ張る)。これは、作画枚数の節約になり、演出意図を明確にする技術である。主に競技場の観客席やパーティ会場など、人物が多くにぎやかな状態を演出するために使われる。また、静止画そのものが使われることもある(「止め絵」)。
以前に使われたシーンと全く同じシーンを繰り返して使用する、バンクシステムという技法が多用される。これは、連続テレビアニメでの前回までのあらすじの説明、ロボットアニメの合体シーン、魔法少女アニメの変身シーンや、主人公がしゃべるシーンなどでも使われる。あるいは背景画のみを差し替えて、全く別のシチュエーションで利用することもある。
同一キャラでも、口や目、手、足など、部分を別セルにして、そこだけを動かす部分アニメ(口だけでなく総じて「口パク」)が多用される。製作の手間を省くだけでなく、静止との対比で動きが鮮明になる。
マンガとの共通性が高く、動画にもかかわらず、動線が多用される。集中線、漫符なども、マンガと共通に用いられる。ただし、吹き出しは用いず声優が演じる(コミックから発展したアメリカの初期アニメーションでは、吹き出しが多用されている)。
制作費が非常に安い。
内容が多種多様であり、作家性の高いものも多い。
1回30分(これはCM等を含んだ番組枠の長さで、実際の映像は24分程度)の番組を毎週放映する、連続テレビアニメという形態をとる作品が多く、劇場用作品の比率は低い。
実写ではありえない現象(特撮ではある程度可能であるが)を表現することができる。(魔法や超能力、異空間など。)その反面、逆に実写に近いリアリティな表現技術に欠けている。
例として
キャラクターの顔の向きを変える(振り向く)時、瞬きをする。(眼球の表現が困難なため)
老若男女問わず、殆どの登場人物は脇や顎、脛などに生える所謂無駄毛が表現されない。
男女の皮膚の色の明るさの違いがかなり極端。

歴史
それまでも劇場用アニメなどは作られていたが、最初の連続テレビアニメ番組、『鉄腕アトム』の放送が開始された1963年1月1日をもって日本商業アニメの創始とするのが通例である。このとき制作を指揮した原作者の手塚治虫は、スポンサーの提示より極端に低い制作費で番組制作を請け負い、回収できない部分を本業である漫画の原稿料・再放送・海外輸出・版権ビジネス(マーチャンダイジング、アニメ番組のキャラクターの絵のついた製品の製造権を玩具・文具・菓子メーカーに売るビジネス)によって制作費を回収する体制とした。これは、現代の日本アニメにも通じるビジネスモデルである。また、フルアニメーションによらずに作品を成立させるための工夫や技術が数多く考案されている。

鉄腕アトムが好評だったため、1960年代から数多くのアニメ制作スタジオが設立され、アニメ番組の本数は増加し、題材も多岐にわたるようになった。鉄腕アトムが日本のアニメ文化を牽引したのは間違いないが、一方で後々に至るまで制作費が安く抑えられる状況を作り出した原因ともなっている。このことは、アニメ作家の宮崎駿も批判している。

テレビアニメの成功は、劇場用アニメ映画にも広く影響を与えた。1960年代から1970年代までは、テレビアニメを再編集しただけの映画が劇場公開され、それぞれが比較的良い興行収入を得た。1980年代以降は、放送中のテレビアニメ番組の新エピソードを映画として公開する手法が取り入れられている。2000年を過ぎると、日本映画はアニメなしでは成り立たないといわれるほどアニメ映画の比重は増加した。2002年度、2003年度の日本映画興行収入上位10位までの内、7つから5つはアニメ映画であった。

アニメ制作の変革のひとつとしてカラー化がある。鉄腕アトムを含め、初期のテレビアニメは白黒だったが、カラーテレビの普及に伴い、1965年に最初のカラー連続アニメ番組ジャングル大帝が制作された。この後数年で他のテレビ番組と同じようにカラー化が進み、1968年ごろまでにはほぼ全作品がカラーで制作されるようになった。

近年の大きな変革としてコンピューター化が挙げられる。アニメは長い間、紙に描いた線画をセルと呼ばれる透明なシートに転写し、それを手作業で着色した上で、順番に取替えながら撮影する制作方式だった。これは人海戦術的な方式でありながら技術も必要であり、その放送時間と比較して大変な労力を要した。しかし、紙に描いた絵をコンピューターに取り込んでコンピューター上の作業で彩色・編集する方法や、紙への作画をせず最初からCGで描く方法が考案された。

1995年にセルを使用しない最初の連続CGアニメ、『ビット・ザ・キューピッド』が制作された。1997年には東映動画がほぼ全作品の彩色をコンピューター化した。現在では一部作品を除き、アニメ制作のほとんどの過程がコンピューター化され、セル制作はほぼ消滅している。現在毎週新作でセル制作をしている作品は実質的に『サザエさん』のみである。3DCG(3次元コンピューターグラフィックス)を使用したフルデジタルアニメーションの制作も増えている。

流通における大きな変革として1983年に登場したOVAがある。これは、テレビ放映も劇場公開も前提とせずに制作されるアニメで、ビデオソフトの形で市場に流通する。家庭用ビデオデッキの普及により、レンタルビデオ店と一般消費者が購入するビデオソフトの売り上げ代金だけで製作費の回収が可能になった結果として生み出されたビジネスモデルである。OVAでは玩具メーカーなどのスポンサーの意向を聞かずに作品制作ができるため、比較的表現の自由度が増す。最初のOVA作品は、ぴえろ制作の『ダロス』である。

OVAはそれまでのテレビアニメのような児童・ファミリー向けのものは少なく、それより高年齢の10代から40歳代程度の男性をターゲットにしたものが多い。いわゆる、おたくが大きな購買層である。そのため、作品の内容はマニアックであり、美少女やロボットや戦争などある程度の傾向がみられる。

これらOVAとして発表された作品がテレビ放送されることもある。また、テレビ放送を前提としながらもマニアックな傾向が強い作品が作られる例もある。ただし、視聴者が限られるため、深夜帯やケーブルテレビ、独立UHF放送局、衛星放送であることが多い。結果として、児童・ファミリー向けのテレビアニメと、高年齢の男性向けのアニメに二極分化している。

アニメの現在
日本におけるアニメ作品は大半がテレビアニメ番組となっている。OVAや劇場版は時間の制限が無く、元々OVAは60分から90分程度の長さで、1巻完結の作品として制作されたものが多かったが、シリーズ物が増えるにつれ、次第にテレビアニメと同じように、主題歌込みで24分程度を1エピソードとした数本単位で制作されたものが主流を占めるようになった。これはテレビアニメと同じく、後にテレビ局に放映権を売るときのことを考えているためだとも言われる。映画は数分の短編から2時間の大作まで様々である。

アニメは娯楽の世界だけでなく、教育などの分野にも広がっている。かつて、教育映画は実写のドキュメンタリーが主軸であったが、現在はアニメのものも増えている。1980年代は幼児向けに限られていたアニメの教育映画が、1990年代以降、中学生向け程度にまで広がった。また、歴史、人権、納税啓発、広報ビデオなどにも広くアニメが使われている。10~20分程度の作品が多い。

1930年代から当時の文部省は、教育映画の一環としてアニメ製作を奨励していた。また、1970年代のアニメ映画にも、文部省選定映画は多くある。このように特に日本政府はアニメを無視していたわけではないが、政府組織などによるアニメの評価は近年上昇したと言われる。これは、1997年から、教育白書でアニメへの言及が行われるようになったというのを根拠としている。

2004年5月、アニメや漫画など、日本のソフト産業の保護・育成に官民一体で取り組むための「コンテンツ法」が参院本会議で全会一致で可決、成立した。

将来、少子化による国内向けアニメの需要減少が懸念されている。近年は子ども向けアニメがやや減少気味に対し、大人の視聴者をターゲットにしたアニメ作品が増加している(内容がファミリー向けのようなアニメでも深夜で放送されることもある)。

数値
アニメだけを対象にした数値的な統計は、はっきりとは採られていない。山口康男『日本のアニメ全史』によれば、全世界の放送局で放送されるアニメーション番組の内、60%が日本製である(純日本製と言う意味では無い)と言われ、山口は日本製アニメの市場規模は、日本国内では2000億円、国外で2兆円から3兆円と推定している。これには、テレビアニメ製作費、映画の興行収入、ビデオソフトの売り上げや玩具メーカーなどからの知的財産権使用料の内、アニメ制作会社が受け取る分をすべて含む。山口の著書によれば2003年4月現在でのテレビアニメのタイトル数は81本である。本数は増加傾向であり、この本数は史上最高である。

デジタルコンテンツ協会による2003年度調査(映画のみ2002年推計)によると、日本国内のアニメの市場規模は3739億円(うち映画興業収入377億円)で、制作会社の売上高は約966億円(うち映画興業収入約100億円)。

アニメと周辺文化
アニメは他の映像文化・児童文化・活字文化等に密接に関わっている。特に漫画との結び付きが強い。ごく初期にはアニメは漫画映画と呼称された時代もあり、漫画とアニメはしばしば混同されたり同一視されたりした。現在も若干その傾向は残っている。また、アニメ化される作品の大多数は漫画が原作である。また、原作にはほとんどが日本の漫画、それも人気作が選ばれる。一方、漫画の方もアニメの影響を受けつつ成長して来た。

この他、児童文化に与えた影響も計り知れない。現在、日本に生まれて育った子供がアニメを全く見ずに成年まで成長するのはまず不可能でさえある。

勿論、アニメは他文化に影響を与えただけではなく、多くの影響をそれらの文化から受けて来た事も事実である。例えば、ある種の玩具や娯楽が流行し、それを題材に取った漫画が作られ、更にアニメ化された例も多い。スーパーカーブームを題材とした『グランプリの鷹』『激走!ルーベンカイザー』『とびだせ!マシーン飛竜』、ゲームブームの『ゲームセンターあらし』、ミニ四駆ブームの『ダッシュ!四駆郎』『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』などである。

アニメへの批評・研究
アニメに関する批評は、1917年の「活動之世界」誌9月号掲載の幸内純一の作品への批評が、日本における初めてのアニメ作品に対する批評とされる。以後、アニメへの批評については「キネマ旬報」「映画評論」など映画雑誌が主要な発表の媒体となり、新作への批評という形で行なわれてきた。1950年代になると、大手資本による東映動画が設立。年に1作のペースで長編作品が定期的に制作されるようになると、朝日新聞など一般紙の映画欄でも扱われるようになった。それは映画作品というくくりでの扱いであった。

1977年には山口且訓と渡辺泰の共著による『日本アニメーション映画史』が刊行される。今日に至るも参考資料として挙げられることが多く、発行時点までの日本アニメ史をまとめた基本文献として地位を確立している。海外アニメーションやアートアニメーションの評論については、1966年に『アニメーション入門』を著した森卓也やおかだえみこらが独自に活動をしていた。

一方、1963年の『鉄腕アトム』に始まるテレビアニメーションについての批評と研究については、1970年代末に始まるアニメブームを待たなければならなかった。アニメブームが到来すると、これまで「テレビまんが」「紙芝居」として、評論の対象にならなかったテレビアニメの作品群と、そのクリエイターにスポットライトが当たるようになった。その担い手は、テレビアニメによって育った世代によるものである。この頃に創刊されたアニメ雑誌は、かねてより同人誌で活動していたファン出身のライターの力を借りて誌面を構成していた。氷川竜介、小黒祐一郎、原口正宏、霜月たかなか、中島紳介らは学生アルバイトから始まり、2000年代以降もプロのライターとして活発に活動している。「アニメージュ」誌はクリエイターの作品歴を系統的に紹介することに力を入れ、「アニメック」誌と「OUT」誌の初期においては、評論記事と読者投稿による作品評論が一つの売り物にもなっていた。しかし「Newtype」誌が登場した1980年代半ば以降は、アニメ誌はクリエイターや研究などのマニア的な記事から、キャラクターやグラビアを重視した作りに軸足を移していく。批評と研究を中心とした専門誌には、1998年創刊の「動画王」誌、1999年創刊の「アニメ批評」誌、2000年創刊の「アニメスタイル」誌などの試みがあったが、いずれも短命に終わり、「アニメスタイル」はインターネットのweb上で継続することとなった。定期刊行物の一方で、マニアックな研究本は、人気作品や人気クリエイターのものを中心に継続的に発行される状況にある。

ファンによる批評活動の媒体としては、アニメブーム以前より存在する同人誌によるもの。1980年代半ばまでを全盛期とするアニメ雑誌の読者投稿欄。1980年代半ばから1990年代前半までのパソコン通信の電子掲示板、1990年代半ば以降のインターネットがある。

1998年10月には、日本で初めてのアニメの学術的研究を趣旨とする「日本アニメーション学会」が設立された。

高年齢層のアニメのファン層の文化
1970年代初頭まで、テレビアニメは子供番組の一部と認識され、青年であるにもかかわらず、アニメだけを好んで見る趣味者がいることは知られていなかった。1977年8月、映画版『宇宙戦艦ヤマト』公開日に徹夜組が出たことで、アニメを好んで見る趣味者がいることが一般にも知られ始めた。これらの趣味者がいつ頃から存在していたのかについては研究がないが、『ヤマト』のテレビ本放送(1974年)以前にはほとんど存在しなかったと考える研究者が多い。

ヤマトのヒットを契機に、翌年から数年で数誌のアニメ雑誌が創刊されると、それら趣味者同士が雑誌の文通コーナーなどを通じて連絡を取り合うようになった。これらの趣味者は当時アニメファンと呼ばれ、また、本人たちも主にそう自称していた。これらの趣味者の多くは、当時、中学生・高校生であった。これ以前にも、子供向けでない劇場版アニメーション映画がヒットしたことはあるが、その世代と1977年以降に存在が知られはじめたアニメファンとは世代的に断絶していると考えられている。これらの趣味者同士の主な連絡・情報収集手段は、1980年代以降、文通の時代から後述する同人誌即売会へと移った。1990年代以降は、インターネットなども連絡・情報収集手段として使われるようになっている。

セルアニメ(Cel animation)は、透明なセルロイドに(絵の)輪郭を描き、裏面から不透明な絵の具で彩色し絵を描いてセル画をつくり、それを重ね合わせてアニメーションを作成する手法。または、それで作られた動画のこと。かつては多くの劇場アニメーションやテレビアニメで使われており、アニメといえばセルアニメを想像する人が多い。アニメーションの制作技法として一時代を築いた伝統的手法のひとつといえる。セルロイドは燃えやすいため、後にはアセテートが使われるようになったが、現場では一概に「セル」と呼ばれた。デジタルアニメが主流になった今でもこの風習は残っている。背景の上にキャラクターを描いたセルを重ねて撮影するのが一般的手法である。キャラクターごとにセル画をつくり、セルは数枚重ねて撮影することが多い。キャラクターを描いたセルの組み合わせを変えて、別のシーンをつくることもできる。ストップモーション・アニメーションや切り絵アニメなど他の手法に比べると大人数による分業に向いているため、広く使われるようになった。多くのアニメスタジオでは1997年以降からデジタルアニメに移行、2008年現在でもセル画を使っているテレビアニメは『サザエさん』だけである。
(Wikipedia)

フルアニメ(full animation)とリミテッド・アニメーション(Limited animation

フルアニメ(full animation)は、アニメーションの表現形式の一つであり、特にリミテッド・アニメと対を成す概念である。
フルアニメとはアニメーション作品において、動きが忠実に表現されている状態、またはそれが満たされている作品を示す。

ここで言う「動きが忠実」であるとは

写実的表現において、自然な状態であれば動いているべき部分を省略せずに動かす表現。
抽象的表現において、制作者が「動くべきである」と意図した箇所がその意図通りに動かされた表現。
を意味する。

これに対し、動きを限定し、抽象化したアニメーション表現を「リミテッド・アニメ(リミテッド・アニメーション)」と呼称する。フルアニメであるアニメーションの特徴として、写実的表現においてはその動きが自然でなくてはならず、画面上で一度に動く箇所が多くなる。また細部の変化を表現するために、リミテッド・アニメに比較して制作上の作業量が増加する傾向にある。
アニメーションは多くの場合ムービーフィルムで撮影され、フィルムを直接上映するか、またはフィルムをテレビジョンなどの他媒体用に変換して鑑賞するのが殆どであるが、ムービーフィルムは上映時に24コマ/秒で進行するため(16コマ/秒、18コマ/秒のものも存在するが一般的ではない)、24コマに対して24回の変化を割り当てる場合、即ち「時間単位における動作の変化回数が多い」場合を指して「フルアニメ」という呼称が用いられる場合がある。また対義語に相当するリミテッド・アニメも同様に、リミテッド(「限定された」の意)という語が動画枚数の限定と解釈される場合がある。

特に日本では、アニメーションに対する映像学的見地からの研究が満足に行われているとは言いがたい状況があり、アニメーション制作現場として世界的にも特異な規模を誇る商業アニメ作品業界やそのファンの間で、この誤用が共通の理解として了解されていると言ってよい。このように日本ではセルアニメーションの制作者を中心に「作画枚数がフィルムのコマ数と同数かそれ以上」であったり、「画面全体が動いている」ものをフルアニメ、それよりも作画枚数が少ないか、「特定の階層のセルにおいてのみ表現対象の形態が変化し、多くの部分が固定」であるものをリミテッド・アニメと呼称する場合が殆どである。

ただし上記のように作画枚数や作画手法を前提とする場合、「フル作画」などの技法上の語を用いるのが正確である。

このような誤解から「フルアニメは(動画枚数が多いため)動きが滑らかである」「フルアニメは常に動いている」と考えられる場合があるが、高速度の微振動に見られるようなぎこちない形態変化を表現したフルアニメや、表現上の静止状態を意図したフルアニメも存在する。またフルアニメを基調としつつ、表現上の意図として部分的にリミテッド・アニメーションに相当する表現を導入した作品も数多く存在する。

リミテッド・アニメーション(Limited animation)とは、動きを簡略化しセル画の枚数を減らすアニメーションの表現手法である。旧来のリアルな動作を追求したアニメーションに対し、簡略化された抽象的な動作を表現するために、アメリカのアニメーション制作会社UPAにより導入された。

本来は表現手法として考え出されたリミテッド・アニメーションであったが、後のハンナ・バーベラなどにより、専ら省力化のために使われるようになった。日本の手塚治虫もまた鉄腕アトムのテレビアニメを作る際に、この手法を制作費や製作時間を削減するために取り入れた。それが手法として洗練され、現在の日本のアニメーションとして発展した。

画面の一部だけを動かす場合、特にキャラクターの体はそのままで口だけが動いたり、画面内の多くのキャラクターのうち、1,2名のみが動いたりするのが特徴である。海外のリミテッドアニメは、動画枚数が1秒あたり12枚のことが多いが、日本のリミテッドアニメは1秒あたり8枚のことが多い。

他にも似たようなセル画を使い回すバンクシステムなどの工夫が知られる.
(Wikipedia)

2008年4月 1日 (火)

幻魔怪奇探偵小説 『ドグラ・マグラ』

『ドグラ・マグラ』は、探偵小説家夢野久作の代表作とされる小説である。構想・執筆に10年以上の歳月をかけて、1935年に刊行された。その常軌を逸した作風から一代の奇書として高く評価されている。「ドグラ・マグラ」の原義は、作中では切支丹バテレンの呪術を指す九州地方の方言とされたり、「戸惑う、面食らう」がなまったともされたりしているが、明らかではない。本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす、と称されている。
本書は1935年(昭和10年)1月、松柏館書店より書下し作品として刊行された。「幻魔怪奇探偵小説」という惹句が附されていた。類例のほとんど無い極めて特異な作品であることから、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』や、中井英夫(塔晶夫)『虚無への供物』とともに、「黒い水脈」と通称される日本探偵小説三大奇書に数えられる。
本書の原型となったのは、夢野久作が作家として作品を発表し始めた頃に書き始められた、精神病者に関する小説『狂人の開放治療』である。10年以上にわたって徹底的に推敲され、夢野はこれを発表した1年後の1936年に死去している。

[内容]
『ドグラ・マグラ』の基本的な骨格は、大正15年頃、九州帝国大学医学部精神病科の独房に閉じ込められた、記憶喪失中の若き精神病患者の物語である(と思われる)。彼は過去に発生した複数の事件と何らかの関わりを有しており、物語が進むにつれて、謎に包まれた一連の事件の真犯人・動機・犯行手口等が次第次第に明かされていく。そうした意味では既存の探偵小説・推理小説の定石に沿っている。が、筋立てが非常に突飛。

胎内で胎児が育つ十ヶ月のうちに閲する数十億年の万有進化の大悪夢の内にあるという壮大な論文「胎児の夢」(エルンスト・ヘッケルの反復説を下敷きにしている)や、「脳髄は物を考える処に非ず」と主張する「脳髄論」、入れられたら死ぬまで出られない精神病院の恐ろしさを歌った「キチガイ地獄外道祭文」などが挿入されており、すべてが渾然一体となって読者の常識を転倒させる破天荒な展開となっており、到底まともには要約不能の奇書である。

特に、主人公とも言うべき青年が「ドグラ・マグラ」の作中で「ドグラ・マグラ」なる書物を見つけ、「これはある精神病者が書いたものだ」と説明を受ける場面については、特徴的かつ幻覚性を感じさせる極めて奇異なシーンである。その際、登場人物の台詞を借りて、本作の今後の大まかな流れが予告されており、結末部分までも暗示している。この点も奇異であり、一種メタフィクショナルとも評し得る。その結末は様々な解釈が可能であり、便宜上「探偵小説」に分類されているものの、そのような画一的なカテゴリには到底収めきれない。

[登場人物] 前述の通り、この物語を要約することは難しい。登場人物を明確に記すことは困難である。よって、ここでは外面上に出た特徴を記すに留める。


「ドグラ・マグラ」の語り部の青年。九州帝国大学の精神病科の病室で目覚める。記憶を失っており、自分の名前すら判らない。若林博士の言葉によると、呉一郎が起こした二つの殺人事件の鍵を握る重要人物らしい。次第に、自分は呉一郎ではないかと思い始めるのだが…。
呉 一郎(くれ いちろう)
この物語の最重要人物。二十歳。「私」自身ではないかと思われる青年。
呉 モヨ子(くれ もよこ)
呉一郎の従妹にして許嫁の美少女。「私」の隣の病室に入っている狂少女こそがモヨ子だ、と「私」は聞かされるのだが…。
呉 八代子(くれ やよこ)
呉一郎の伯母で、モヨ子の母。
正木 敬之(まさき けいし)
九州帝国大学精神病科教授。従六位。「狂人の解放治療」なる計画の発起人。学生時代から常人の理解を超越した言動で周囲を驚かせてきたが、すべては「狂人の解放治療」を見据えてのことだったらしい。若林博士の言葉によると、「私」が目覚める1ヶ月前に自殺したらしいのだが…。
若林 鏡太郎(わかばやし きょうたろう)
九州帝国大学法医学教授。「私」の記憶が戻るようにと色々と取り計らってくれている。
呉 青秀(ご せいしゅう)
呉家の祖先で、唐時代の画家。若くして天才と称せられた。ある時、夫人の死体を前にスケッチをするという常軌を逸した行動に出る。

『ウィキペディア(Wikipedia)』より

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  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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