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2008年4月24日 (木)

Marino Marini (1901-1980) イタリア表現主義彫刻家

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マリノ・マリーニ(Marino Marini,1901年2月27日 - 1980年8月6日) イタリアの彫刻家・画家・版画家。表現主義の油絵や版画も制作しているがフィレンツェで絵画と彫刻を学び、エトルリア文化の影響を受けた。
1929年からミラノ近くの美術学校で教えて、馬と騎手の彫刻を制作しはじめるようになる。ジョルジョ・デ・キリコらと交友があった。
1952年にはヴェネツィア・ビエンナーレでグランプリを受賞。

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The Marino Marini Museum
Marino Marini at the Peggy Guggenheim Museum

エトルリア美術(エトルリアびじゅつ)は、イタリア中部のエトルリア(現在のトスカナ地方にほぼ相当する)を中心とした、古代民族エトルリア人の美術活動およびその作品を指す。起源は紀元前10世紀に始まるビラノーバ文化にある。青銅器時代から鉄器時代への転換期に出現したこの文化は、イタリア中部を中心に栄え、円錐形を上下に組み合わせた黒陶骨壺を伴出する土壙墓に特徴を有し、紀元前700年以降のエトルリア文化と共通する本質的要素を有していることから原エトルリア文化と見なされている。

紀元前7世紀末までのエトルリア美術は、東方化様式時代であり、アナトリア、北シリア、フェニキアの美術の影響が認められる。特に装身具などの青銅器や貴金属器が特徴的であり、陶器としてはカノポス型骨壺(人頭形蓋付き骨壺)、薄手式ブッケロなどを有していた。スフィンクス、グリフォンなどの動物文、ロータス文、ロゼット文などの植物文にこの時代の東方的要素を見ることができる。この時代は、鉱物資源の開発やギリシアおよび東方との貿易によって経済基盤の確立した時代でもあり、ベイオ(ウェイイ)、タルクイニア、チェルベテリ、ブルチなどの都市が発展し、豊かな副葬品を伴う墓(カンパーナの墓、レゴリーニ・ガラッシの墓など)が数多く造られた。またローマを中継地とする塩の道によって南イタリアのギリシア美術とも直接的な接触をもち、紀元前7世紀後半から、コリント式陶器を模した陶器も制作されるようになった。ギリシア美術との接触は、タルクイニアで墓室壁画を生み、チェルベテリやウェトゥロニアで等身大彫刻を誕生させた。紀元前6世紀に入るとギリシア美術の影響はさらに強くなり、紀元前5世紀中頃までのアルカイク時代に、エトルリア美術はほぼ30年ほど遅れてギリシア美術の様式変遷を繰り返した。特に紀元前6世紀後半からはイオニア地方の美術要素が濃厚に見られ、将来品としてのギリシア陶器が副葬品として数多く出土している。フランソアの壺をはじめとして、ヨーロッパの美術館に収蔵されているほとんどのギリシア陶器の優品は、エトルリア出土のものである。エトルリア出身の美術家で唯一名前の伝わるウルカは、紀元前6世紀末に活躍した彫刻家で、ベイオ出土のアポロン像は彼の作風を伝えていると考えられている。この時代のエトルリア美術は彩色塑像や青銅製の燭台をはじめとする装飾具に優れた水準を示し、金属製工芸品にはギリシアのそれを凌駕する作品も数多く認められる。ただしギリシアのごとく、社会制度、倫理、宗教観などが一致した、人間像中心の美術ではなく、貴族たちによって支えられた美術であるため、洗練性と地方性を有し、内在的様式展開の活力に欠ける美術であった。

紀元前6世紀初頭に確立するエトルリア式神殿は高い石造基壇と豪華な彩色テラコッタ装飾を有する木造建築で、その発達した段階のタイプは、ローマの神殿建築にも影響を与えた。土木事業においても、石材を巧みに利用して城壁、城門、排水路などを建設し、前 5 世紀からはアーチも使用している。都市計画ではマルツァボットのごとく、ヒッポダモス式と言われる碁盤目状の街区を造り、社会制度の発展を反映している。またタルクイニアを中心とする墓は、壁画によって装飾され、宴会、競技、踊り、鳥占い、釣りなどを主題とする現世肯定の明るくおおらかな絵画であった(牝牛の墓、鳥占い師の墓など)。これらの墓はヒュポゲウム式であり、生前の住宅室内の空間を模したものもある。紀元前6世紀末か紀元前5世紀初頭はギリシアのアッティカ地方の美術が大きな影響力を有していた。それは壁画(豹の墓など)や塑像(ヘルメス像)などに明確に見ることができる。

紀元前5世紀前半、エトルリアは南イタリアに有していた領土を放棄し、ローマ以北の故地に撤退する。このため、マグナ・グラエキアとの直接の交流を失い、ギリシア美術の影響は弱まり間欠的となった。これによりギリシア古典期の美術の要素は少なくなり、経済的停滞とあいまって、エトルリアの各都市を中心にした地方化が進んだ。この時代は古典時代と呼ばれているが、統一的な様式としてエトルリア美術をとらえることは困難である。紀元前4世紀に入ると、徐々にローマの勢力がエトルリアを圧迫し、その社会状況は美術のうえにも認められる。タルクイニアの船の墓や戦士の墓などのごとく、冥界のデーモン的存在が描出されるようになり、彫刻においても以前の活力は見られなくなった。しかし、アレッツォから出土したキマイラ像などのような青銅像、テラコッタ製肖像、石棺浮彫などには優れたものが多く、ヘレニズム時代の紀元前4世紀末からは写実性に優れた作品が認められるようになった。紀元前3世紀以降エトルリアはローマの政治的支配を受けたが、なお文化的には独自性を有し、特に彫刻、建築に優れたものがあった。それゆえに、ローマ美術の形成に大きな役割を果たしたわけであるが、紀元前2世紀末からは、ローマ美術の中に吸収されていった。

エトルリア美術は地中海地域で開花した多くの古代美術と同じく、約5世紀間にわたってギリシア美術の影響下に栄えた美術であった。しかし、イタリア中部という一定の閉鎖性をもつ地理的条件のゆえに、この地方と民族固有の要素を持ち続けた美術でもあった。すなわち、東方化時代の優れた装飾文、アルカイク時代の精妙な工芸品、それに神殿建築やアーチを用いた土木技術、紀元前4世紀以後の写実主義、これらはローマ美術の形成に大きな影響を与え、その意味でギリシア美術とローマ美術の仲介の役割を果たした。
ウィキペディア(Wikipedia)より

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