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2008年6月30日 (月)

グノーシス文書

グノーシス文書(‐ぶんしょう、英語:Gnostic Scriptures)とはグノーシス主義における教典であり、またグノーシスの神話・文学作品等を記した文書である。『ナグ・ハマディ写本』に収載されている文書の大部分はグノーシス文書である。

西方グノーシス主義の教典文書等は、初期キリスト教によって異端文書とされ、外典ともされ、意図的な破壊・湮滅が図られたため、20世紀なかばの『ナグ・ハマディ写本』発見に至るまで、古代の原典文書は、僅かな例外が伝存したのみであった。このため、グノーシス主義とはどのような宗教・思想・世界観であったのか不明となっていた。

[概説]
西方グノーシス主義に属する文書と東方グノーシス主義に属する文書に大きく二分される。また、古代より『真珠のうた』、『ポイマンドレース』など、少数のグノーシス文書が例外的に伝存していた。

[西方グノーシス主義]
西方グノーシス主義の文書は、その代表的なものが多く新約聖書外典に分類されている。本来、グノーシス主義という異なる宗教の教典であるものが、キリスト教の「異端的文書」として把握されて来た。

これは、グノーシス主義の本質として、既存の秩序世界観(コスモス)を反転させ、否定神学において創作神話を造るためにこのような誤解あるいは誤謬が生じたものである。グノーシス主義は、既存の宗教・哲学・思想・文学の人物や逸話を借用して、しかし内容的にはグノーシス思想を開示する神話を構成する。

このため、キリスト教的グノーシス主義においては、キリスト教が主題とした人物や逸話を借用し、例えば、イエズス・クリストスの名において、またはマグダラのマリアの名において、更に、イエズスの弟子に当たる使徒たちの名において、福音書や神話書、あるいは黙示書や書翰文学を作成した。それ故、初期キリスト教の教父や代表的な指導者たちは、グノーシス文書を、キリスト教の異端文書であるとし、また地中海世界におけるグノーシス主義の擡頭があまりにも急激かつ華々しかった為、これを「最大の異端」として敵視した。

西方グノーシス主義におけるグノーシス文書は、ウァレンティノスの思想を文書化したものや、その系列にあるプトレマイオスやマルコスの主張が文書化されたものが代表的である。例えば、『ナグ・ハマディ写本』中に見出された『真理の福音』は、ウァレンティノスの説教を記録し、文書としたものと考えられている。

[トマス福音書]
また、初期キリスト教時代より「第五の福音書」として知られ、使徒トマスの名が冠せられた福音書が存在し、外典として名が伝わっていた。キリスト教側の異端絶滅運動が熾烈を極め、そのため多数の外典及びグノーシス文書が意図的に破壊・湮滅されたことも手伝って、この文書『トマス福音書』は伝存していなかった。しかし、20世紀半ばにおける『ナグ・ハマディ写本』の発見において、写本群中に含まれる一つの文書が、内容からみて、伝承の『トマス福音書』であると比定された。

『トマス福音書』は1500年近くにわたって実体が不明なままに、キリスト教の外典として記録に残って来た。しかし、『ナグ・ハマディ写本』中より発見された比定原典より、これが物語や奇蹟譚を伴わない純粋な「イエズス語録集」であることが分かり、また、その内容の研究より明らかにグノーシス主義文書であることが判明した。この文書は、共観福音書中のイエズスの言葉と比較することが可能であり、キリスト教新約聖書学にとっても重要な資料である。更に、『トマス福音書』が「語録集」であったことより、19世紀より新約聖書学で想定されていた「イエズス語録」の原資料『Q福音書』が存在した可能性が高くなった。

[東方グノーシス主義]

[マニ教教典]
他方、東方グノーシス主義においては、紀元3世紀初頭にサーサーン朝ペルシアの擡頭と軌を一にして勃興したマニ教が多数の教典を備えていた。教祖マニ自身が自筆で多数の教典を執筆し、また弟子たちを指導して、これらの教典を東西ユーラシアの諸言語に翻訳させた。

マニの殉教の後も、マニ教は東西ユーラシアに展開し続け、様々な言語によって多様なマニ教教典が執筆され作成された。これらが、東方グノーシス主義における代表的なグノーシス文書である。

マニが執筆した教典にあっては、ユダヤ教、キリスト教、そしてゾロアスター教の神話や登場人物などが題材として取り上げられ、マニ教は公的にも、アブラハムを先行する預言者として認め、また西方の啓示者としてイエスを、東方の啓示者として仏陀を、中央世界(ペルシア)の啓示者としてザラスシュトラを認め、マニ自身は中央世界に啓示を示す、最終の預言者(預言者の封緘)たることを自認した。

しかし、ウァレンティノスやその他の西方グノーシス主義の教師たちとは異なり、マニ教の教師たちの語る教えは、キリスト教やユダヤ教の神話を適用しているとしても、明らかに異教である。またマニ教が地中海世界に展開した時代には、キリスト教は教義的にすでに強固な基盤を築いていたため、異端反駁論者リヨンのエイレナオスやローマのヒッポリュトスが危惧したような、「異端敵対勢力」とは見えなかった。

マニ教教典は、異教文書として受け止められ、キリスト教側はヒッポのアウグスティヌスを代表として反駁は行ったが、マニ教文書を「新約聖書外典」に入れることは基本的になかった。マニ教グノーシス文書は、東西ユーラシアの様々な言語で記され、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、アラム語、シリア語、ペルシア語、そして中央アジアや西域の言語でも記され、更に中国語でも記された。

[マンダ教教典]
紀元の初期はおそらくパレスティナに所在したと想定されているマンダ教の信徒コミュニティは、2000年の経過のあいだに、ティグリス・ユーフラテス川を南下して、現在のイランとイラクの国境近辺に存続した。彼らが備える教典は、ギンザーについて語り、これは考古学的発見とは別に、現在まで伝存したグノーシス文書である。

[ヘルメス思想]
ヘルメス思想は、おそらくエジプトを起源とするシンクレティズム思想で、後の錬金術などの基盤となった古代の秘教的思想である。『ヘルメス文書』はヘルメス思想の教典書で、トートと医神アスクレピアースの対話形式を持つ。それぞれ独立した文書の集成で、グノーシス主義の影響が明らかに認められる。

この文書集のなかに収められている『ポイマンドレース』は、西方グノーシス主義のアイオーンの神話に類似したヴィジョンを記述している。古代より伝わるグノーシス文書である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2008年5月26日

2008年6月29日 (日)

ヘルメス文書またはヘルメティカ文書

ヘルメス・トリスメギストスが著したと考えられた神秘主義的な古代思想の文献写本の総称である。

ヘルメス・トリスメギストスのトリスメギストス(三+偉大)はギリシャ神話のヘルメスより三倍偉大という意味だという。モーゼと同時代の知者とも考えられていた。

文書には紀元前3世紀に成立した占星術などの部分も含まれるが、紀元後3世紀頃までにネオプラトニズム(新プラトン主義)やグノーシス主義などの影響を受けて、エジプトで成立したと考えられている。一般に「ヘルメス文書」といえば、11世紀頃までに東ローマ帝国で17冊の文書に編集されたもの(ヘルメス選集)を中心とする。
ヘルメス選集の中でも、第一文書「ポイマンドレース」は、グノーシス主義的な文献として有名であり、アラビア語に翻訳され、イスラム圏のスーフィーズムでも言及される文書である。ムスリムにとってヘルメスは預言者エノクと同一視されており 、クルアーンでは預言者イドリースとされる。

内容は複雑であり、占星術・太陽崇拝・ピュタゴラスなどの要素を取り入れており、「一者」からの万物の流出(ネオプラトニズム的)や、神を認識することが救いである(グノーシス主義的)などの思想もみられる。

ヘルメス選集は中世の西ヨーロッパでは知られていなかったが、ルネサンス期1460年にコジモ・デ・メディチが東ローマ帝国から写本を入手し、人文主義者マルシリオ・フィチーノがギリシャ語からラテン語に翻訳した(Corpus Hermeticum)。キリスト教の立場から合理的に解釈する者もいたが、魔術思想の書とも考えられた。

ヘルメス主義と総称されるヘルメス文書の思想はキリスト教以前の知とみなされ、地動説を唱えたコペルニクス、神学者で生理学者のセルベトゥス(ミシェル・セルヴェ)、天文学者のケプラー、磁気による引力論を唱えたギルバート、微積分をあみ出したライプニッツ、科学者ニュートン等に広く影響を及ぼしたと言われる。

ヘルメス文書とは別に、ヘルメスの著作とされる『アスクレピウス』がある。これはラテン語に翻訳され、(唯一?)中世西ヨーロッパでも知られていたという。また20世紀に発見されたグノーシス主義のナグ・ハマディ写本にもヘルメス文書の一部が含まれていた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポイマンドレース (ヘルメス選集 I)より

「七人 の誕生があつたのであるが、それは次のやうにしてである。「土」は女性であり。水は男性であつた。(下降する) フュシスは火からの成熟と、天空(アイテール) からは氣息を受け取り、人間(アントローポス) の像にならつて身體を産出した。人間(アントローポス) は命と光から魂と叡智(ヌース) の中に移つた。すなはち、命から魂に、光から叡智(ヌース) の中に。そして、感覺的な世界にある萬物は周期の終りと諸種族の始まりの時までそのままの状態に留つてゐた。

周期が滿ちると、萬物の絆が神の意志(プレー) によつて解かれた。すべての生き物と人間とは男女(をめ) であつたが分離され、一方は男性になり、他方は女性になつた。
『もろもろの造られしもの、また被造物よ、殖えに殖え、滿ち滿ちよ。また、叡智を持てる者、自己の不死なることを愛慾(エロース) が死の原因たることを、しかして一切の存在せるものを再認識すべし』。
攝理(プロノイア) は運命(ヘイマルメネー) と組織 (の性質) とを通じて交接といふものを決まりとし、生誕といふものを定めた。すると、すべてのものが種族毎に滿ち擴がつた。そして、自己を認識した者は溢れるばかりの善に至つた。しかし、愛慾の迷ひから生じた身體を愛した者は、さ迷ひながら闇の内に留り、死をもたらすものを感覺によつて味はつてゐた」
http://kstn.fc2web.com/poimandres.html

2008年6月28日 (土)

0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる

0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる。

人間の精神は神的なものである。
しかしそれは物理的な身体に幽閉されており、かれはその神性に気づかない(愚者)。

より高き星々の使者が物質的世界に対する支配を表明し、表面的な現実よりさらに深いなにかの存在を証明する。
いくつかの説によると、かれは愚者の師および仲間となる(奇術師)。

(女教皇、女帝、皇帝、教皇によって表される)
世界の支配的な力が、抵抗にあい、日常的存在が挑戦を受け、
克服されて初めて、開放の切望が可能となる(恋人と戦車)。

探求者(隠者)は一定の成熟に達したときにのみ、かれの精神的故郷に自分を回帰させるための旅に出発できる。

かれの慎重な内省(運命の輪)は、肉体的衝動(女力士)の克服とより高きもののために、より低きものを故意に犠牲とすることによる
日常的価値の逆転を求める(吊るされた男)。

より低き個我(死神)の昇華は、 
デミウルゴス(悪魔)の打倒を可能とする
霊的な活力(節制)の流出に至る。

これはかれの地上の牢獄(塔)の崩壊を招来し、
かれの精神が、天の星々(星、太陽、月)を経て、
やがて神秘的再生(審判)を経験し、最終的には
世界の超個人的な霊アニマ・ムンディ(世界)と
一体化することを可能とする。ーーアルフレッド・ダグラスーー

さらなる高みを目指すためには、精神的充足をもとめて再度旅に出て、今までの見方を変え、自我を壊さなければ、新たな次元に到達することはできない。22枚には0から21までのサイクルになっていたのだった。。
そして輪の入口と出口は零によってつながれている。

そして0の愚者から21の世界への話が、姿と形をかえてふたたび物語がくりかえされる。
人の心は高くめざすものである。けれども物理的な肉体に閉ざされて、そのめざすものに気づかない(愚者)。星々の使者が物質的世界に対して表面的な現実より深い存在を証明する(奇術師)。そして世界は(女教皇、女帝、皇帝、教皇によって表される)支配的な力で日常的に形をひろげていく。世界への開放が初めての選択と望みができるようになる(恋人と戦車)。さらに高くめざすもの求めて一つの成熟に達したときに、精神の故郷にを回帰させる旅にたつ(隠者)。その慎重な心の内(運命の輪)は、肉体の衝動(力)の克服していく。高きもののために低きものを犠牲として、故意に日常的価値の逆転を求める(吊るされた男)。低く役目を終えたものの昇華(死神)は、焚きつける欲望(悪魔)をも打ちたおすことができた。きびしい試練をこえると生きる活力が整えられて与えられる(節制)。やがて時をへて構築された、高くそびえたつ地上の牢獄(塔)は崩壊を招いて、天の星々(星、太陽、月)の永き歳月をくぐり、そして神秘的なる再生(審判)を経験されて、ついに世界の超個人的な存在(世界)と一体化することができうるゴールラインが待つ。今までの見方を変え、自我を壊さなければ、新たな次元に到達することはできない。そして輪の入口と出口は零によってつながれている。

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1+21は魂の遍歴を表す・
0 魂は物質的に身体へ幽閉されて「愚者」は、そのことも一寸先に起こる出来事も気がついてはいないようにみえる。
1  別世界よりの使者がやってきて「奇術師」の姿で、天・地・火・水の四要素によって自然界が成り立っていることを示す。彼は意識というトリックを使って物理的世界を支配していく。
2.知識をたくわえてゆく「女教皇」 3.大地へ繁殖させていく「女帝」 4.力によって「皇帝」 5.定めによって「法皇 」は支配する。、
幼児の自我より肉体的力と精神的力を、女性原理と男性原理により高めていく四過程がうかがえる。直感→感情→感覚→思考
この四過程は、それぞれ水・地・下・天の順で四要素に対応した動きである。

2008年6月26日 (木)

東京国際ブックフェア(TIBF)は日本最大の本の展示会

本の仕入れ・注文・購入、著作権取引に絶好の場。
2008年7月10日(木)から13日(日)まで東京ビッグサイト西1・2ホールで開催される。
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第15回東京国際ブックフェアは、世界30カ国より770社が一堂に出展する日本最大のブックフェア。
毎年、全国各地の書店、図書館・学校関係者、さらには海外出版社や一般読者が多数来場。会場では、書籍の実物を見ながらその場で書籍の受発注、著作権取引などの商談が活発に行われています。

12日(土)、13日(日)の一般公開日にはあらゆるジャンルの本が割引価格で販売される。
 
■出展品目
一般書籍・雑誌・コミック・海外出版物 など
   
理学書・工学書、農学書、医学書、家政学書などの自然科学書出版社が一堂に集結。
■出展品目
理学書・工学書(数学/物理/化学/機械/金属/電気・電子/土木・建築/情報/計測/航空/天文/地学/生物 など)
農学書、医学書、家政学書 など
【後援】社団法人自然科学書協会
 
歴史、国文学、哲学、心理学、法律、経済、経営などの人文・社会科学書が一堂に集結。
■出展品目
人文書(歴史、国文学、宗教、哲学、心理学、芸術 など)
社会科学書(法律、政治、経済、経営、会計 など)
【後援】国語・国文学出版会/人文会/大学出版部協会/歴史書懇話会
 
絵本、童話、児童文学、図鑑などの児童書出版社が一堂に集結。 ■出展品目
児童向け図書(絵本・詩集・名作・推理・歴史・SF・音楽・スポーツ など)
児童向けビデオ・CD-ROM
ぬり絵 テキストブック  コミック  百科事典 など
【後援】日本児童図書出版協会
 
編集制作プロダクション各社が制作した書籍、パンフレット、デジタルコンテンツなどを一堂に展示。 ■出展品目
編集制作プロダクション フェアが制作した作品/製品

【後援】日本編集制作会社協会
学習書、教育ソフトからITソリューションまで、教育現場で使用される製品・サービスが一堂に集結。
■出展品目
学校・教育機関(学校・塾など)向けソリューション
教育・学習用ソフトウェア
教育用ハードウェア
学習用書籍・教材
【後援】文部科学省/社団法人日本教育工学振興会/社団法人日本図書教材協会/辞典協

出版物・制作物など、コンテンツのデジタル化・配信にかかわる最新技術・サービスが一堂に集結。
■出展品目
コンテンツのデジタル化技術・サービス
デジタルコンテンツの管理・運用技術
デジタルコンテンツの配信技術・サービス
受信端末
【後援】日本電子出版協会/財団法人デジタルコンテンツ協会


■ アートブック スクエア
世界中の美術書・建築書・デザインブックが一堂に集結。
■ 語学教育コーナー
外国語学習のための教材、書籍、サービスなどが一堂に集結。
■ デジタル コンテンツ コーナー
電子書籍、映像、音楽、ゲームなどのデジタルコンテンツが一堂に集結。
■ 出版流通ソリューション コーナー
出版社、取次会社、書店向けの売上拡大・業務改善ソリューションが一堂に集結。 
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http://www.bookfair.jp/

2008年6月22日 (日)

稲垣 足穂(1900年12月26日 - 1977年10月25日)

大正時代から昭和時代にかけて、抽象志向と飛行願望・メカニズム愛好と不毛なエロティシズム・天体とオブジェなどをモチーフにした数々の作品を発表。小説家になる前に前衛芸術家を志望していた経歴もあり、凝った装丁の本が多い。代表作は『一千一秒物語』、『弥勒』など。1970tal

1900年、大阪市船場に歯科医の次男として生まれる。小学生の時、祖父母のいる明石に移住し、神戸で育つ。1914年関西学院普通部に入学。関西学院では今東光などと同級になる。小さいころから、映画や飛行機などに魅了され、その経験をその後の作品に昇華させる。在学時に同人誌『飛行画報』を創刊。

1919年関西学院卒業後、上京。当初は飛行家を目指し、「日本飛行機学校」の第一期生に応募するが近視のため不合格(ちなみに、この時の合格者に円谷英二がいる)となり断念。神戸で複葉機製作に携わる。後に再び東京へ。1919年に出版社に原稿を送った後、1921年、佐藤春夫に「一千一秒物語」の原型を送付、佐藤の知遇を得て、佐藤の弟の住まいに転居。第1回未来派展に出品している。1922年には、「チョコレット」「星を造る人」を『婦人公論』に発表。1923年に、『一千一秒物語』を金星堂より刊行。同年、関東大震災により西巣鴨に移る。
この前後、雑誌『文藝春秋』『新潮』『新青年』を中心に作品を発表、単行本も『星を売る店』(1926年)、『天体嗜好症』(1928年)と数冊ほど刊行され、新感覚派の一角とみなされる。「WC」は横光利一の絶賛を得る。『文芸時代』同人。このころには、自身と同じく同性愛研究家でもあった江戸川乱歩と出会う。ところが、佐藤春夫が菊池寛の作品を褒めたことにより「文藝春秋のラッパ吹き」と佐藤を罵倒、寄宿していた佐藤春夫の家を飛び出し、文壇から遠ざかる。
1930年、家郷の明石へ。1934年には父の死を受け、衣装店を経営するが、共同経営者の使い込みが発覚して、これを単独経営にするが、これも差し押えられ、その後は、家賃の未払などもあって、各所を転々とする。アルコール、ニコチン中毒により執筆も滞ったが、同時期伊藤整、石川淳と交友を結ぶ。文壇から離れた後は、主に同人誌で作品を発表しつづけたが、極貧の生活を送り、出版社からも距離を取られることになる。

1950年、篠原志代と結婚、京都に移る。それまでの著作の改稿を始め、『作家』に160編など精力的に作品を発表。佐藤没後の1968年、三島由紀夫の後押しで『少年愛の美学』で第1回日本文学大賞を受賞。1969年から『稲垣足穂大全』(全6巻)が刊行され、一種の「タルホ」ブームが起きる。人間を口から肛門にいたるひとつの筒と見立てた怪作「A感覚とV感覚」については、澁澤龍彦が独自の一元的エロス論として評価した。戦後に入っては、松岡正剛、荒俣宏など、多くの人から尊敬を集めることになり、特に「一千一秒物語」の評価は高い。彼は、すべての自作を処女作「一千一秒物語」の注釈であると宣言し、その後の多くの作品は何度も改稿したが、この作品だけは改稿することがなかった。1998年には、英語で「一千一秒物語」が刊行されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

[著作]
一千一秒物語 (1923年1月金星堂)
チョコレット (1922年2月『婦人公論』)
黄漠奇聞 (1923年2月『中央公論』)
星を売る店 (1923年7月『中央公論』)
天体嗜好症 (1926年4月『女性』)
ヰタ マキニカリス
ヒコーキ野郎たち
弥勒 (1940年11月『新潮』)
彼等 (1946年7月『新潮』)
美のはかなさ (1952年8月『作家』)
A感覚とV感覚 (1954年7~9月『群像』)
ヴァニラとマニラ
少年愛の美学
戦争童話集
びっくりしたお父さん
人生は短く芸術は長し
誰にも似ないように(ダンディの原理について)
随筆 ウィタ・マキニカリス
僕の弥勒浄土
横寺日記
古典物語
鼻高天狗はニセ天狗
唯美主義の回顧
男と女
キャプテン・カポロを送る
黒い箱
ヒコーキ野郎たち
機械学宣言 地を匍う飛行機と飛行する蒸気機関車
タルホ=コスモロジー
パテェの赤い雄鶏を求めて
菫色のANUS
ミシンと蝙蝠傘
タルホ座流星群
男性における道徳
宝石を見詰める女
まりのるうにい装幀・装画
人間人形時代
東京きらきら日誌
生活に夢を持っていない人々のための童話

http://homepage3.nifty.com/beatles/taruho/

2008年6月21日 (土)

月刊漫画『ガロ』

1962年に長井勝一によって設立された青林堂は白土三平「忍法秘話」などの貸本を出版。その資金をもとに「忍法秘話」に続く「カムイ伝」を連載するために1964年雑誌「月刊漫画ガロ」を創刊。当時の学生たち「カムイ伝」に受け入れられ、水木しげるの「鬼太郎夜話」、林静一「赤色エレジー」が掲載。永島慎二、つげ義春、池上遼一、佐々木マキなども執筆を始める。マンガの文脈はこの時期に大きく変転されていった。

1970年代は安部慎一、鈴木翁二、古川益三が佳作を次々に発表して、「ガロ」一二三トリオや三羽烏といわれた。

Garo1968 Garo1970 

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『ガロ』は白土三平の赤目プロの援助を受けて創刊され、手塚治虫の虫プロ商事による後発の『COM』と共に全共闘時代の大学生に強く支持されていった。商業性よりも作品を重視、オリジナリティを何より第一としたため、編集者の干渉が比較的少なく、作家側にすれば自由に作品を発表出来たため、新人発掘の場として独創的な作品を積極的に掲載した。このことは、それまで漫画という表現を選択することのなかったアーティストたちにも門戸を開放する結果となり、ユニークな新人が続々と輩出されるようになった。
しかし1970年代に入り、1971年に『カムイ伝』が終了すると『ガロ』の売上は徐々に下降線をたどるようになる。サブカルチャーの総本山的な立場として一目置かれつつも、単行本の売上で糊口をしのぐという状態が続いた。この時期大手出版社から買収の話も持ち上がるが、長井はこれを拒否したという。1980年代に入ると部数は実売3000部台にまで落ち込み、社員ですらまともに生活ができないほど経営が苦しくなった。原稿料は長井による「儲かったら支払う」という「公約」のもと、すでに支払を停止せざるを得なくなっていた(その旨は作品募集の欄にも常に書き添えられていた)。それでも長井社長を支持する歴代の作家陣などの精神的・経済的支援と強い継続の声により、細々ながら刊行は続く。そして読者は一部のマニア、知識者層、サブカルチャーファンなどへと限られていった。その一方で「『ガロ』でのデビュー=入選」に憧れる投稿者は依然多く、部数低迷期にあってもその中から数々の有望新人を発掘していった。この時期は完全に単行本の売上によって雑誌の赤字を埋めるといういびつな体制になっており、社員編集者たちは『ガロ』以外の媒体からいかに単行本を刊行させてくれる作家を見つけるか、また実際に編集の合間に営業や倉庫の在庫出しや返品整理をするなどして、『ガロ』を支え続けた。

『ガロ』はその先見性と独自性で一時代を画した、単なる漫画雑誌ではない足跡を出版界に遺した。また、独自の作家性の強い漫画家たちの作風は「ガロ系」と呼ばれ、『ガロ』出身でもない作家でも「あの作家はガロ系」などと表現されることが多い。また、彼等の作風は、海外のオルタネイティブ・コミックの作家たちとも、親和性が高い。

[年譜]
1964年(昭和39年)7月24日、『月刊漫画ガロ』創刊。部数は8000部。白土三平が4号目より『カムイ伝』の連載開始。
1966年 『カムイ伝』が人気を呼び、発行部数が延びる(80000部)。
1967年 (ライバル誌『COM』創刊)
1971年 『カムイ伝』連載終了。
1980年 次第に『ガロ』の人気が低迷するが、一方で有力新人を次々と発掘して行く。
1994年 「月刊ガロ創刊30周年記念パーティー」。 
1996年、長井死去。享年74。
1997年 『ガロ』本誌8月号で休刊(7月7日付で全社員が退社)。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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[おもな執筆陣] 五十音順
安部慎一『やさしい人』  池上遼一  内田春菊『南くんの恋人』  勝又進『勝又進作品集』
楠勝平『茎』『彩雪に舞う』 佐々木マキ  白土三平『カムイ伝』  杉浦日向子『合葬』『二つ枕』
鈴木翁二『オートバイ少女』 滝田ゆう『寺島町奇譚』  つげ義春『ねじ式』(『ガロ増刊・つげ義春特集』)
永島慎二『フーテン』『漫画家残酷物語』  林静一『赤色エレジー』 古川益三『紫の伝説』
ますむらひろし  水木しげる『鬼太郎夜話』  やまだ紫『性悪猫』『しんきらり』
あがた森魚 赤瀬川原平 荒木経惟(写真) 安西水丸 糸井重里 岩本久則 鴨沢祐仁 川崎ゆきお たむらしげる つげ忠男  つりたくにこ とり・みき 野間吐史 花輪和一 ひさうちみちお 日野日出志 平口広美 古屋兎丸 三橋乙耶(シバ) 湯村輝彦 淀川さんぽ 渡辺和博

[参考図書]
ちくま文庫 『「ガロ」編集長 』長井勝一【著】1982年 ガロ20年史『木造モルタルの王国』1984年 
書誌データベース/ http://www.infonet.co.jp/apt/March/comics/Garo/Garo.html
http://www.garo.co.jp/

2008年6月20日 (金)

虫プロは手塚治虫が創設したアニメーション専門のプロダクション

最初期の名称は手塚動画プロダクション(手塚治虫プロダクション動画部であったという説もあり)。手塚はこれ以前に、東映動画嘱託としてアニメ制作に携わったことがあり、その経験と人脈を生かしてプロダクションを立ち上げた。1962年1月、虫プロダクションに名称を変更した。名称の由来は、「動画の虫」、「漫画の虫」、スタジオが狭く蒸していたので「蒸し風呂」から「虫プロ」にしたという。手塚本人は言及していないが、手塚治虫の筆名の最後の1字もとっている。

同年11月、第1作である短編アニメーション映画『ある街角の物語』及び『鉄腕アトム』第1話を公開。同年12月、株式会社として法人登記。翌1963年1月、日本初の本格的連続テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を、1965年に日本初のカラーの本格的連続テレビアニメ番組『ジャングル大帝』などの多くのアニメ作品を制作(その後も「どろろ」などのモノクロ作品は制作していた)し、従業員数も400人を数える日本有数のアニメーションスタジオになった。テレビ向け作品は多くがフジテレビで放送された。初期には手塚原作の作品のみを制作していたが、末期には『あしたのジョー』など手塚作品ではない漫画のアニメ化も行った。多忙な手塚の決済を仰いだり、手塚からリテイクの要求が出て、スケジュール遅延の原因となったことが、手塚作品を原作に用いなくなった理由の一つと言われる。なお現在と異なり、当時のアニメーターの給与はとんでもなく高く(航空会社パイロット並)、高卒で5年働けば家が建つ唯一の職場と呼ばれていた(某商業高校では、60年代にそのようなキャッチコピーの求人案内が貼られていた)。

1970年代に入り、極端な人材難(ベタ塗り等の必要な概念を持っている人間のみを採用する行為により、美術分野の学生を採用できなかったため入社試験合格者の大幅な減少を招いたことも一因とされている。)から、人件費が高騰。テレビアニメ制作プロダクションが多く設立されると他プロダクションとの受注合戦となり、これに破れる形でテレビ局からの受注が減少し、資金繰りが悪化した。子会社の虫プロ商事の経営悪化と労働争議も、金融機関が虫プロ本体に警戒を抱く原因になった。劇場用作品の興行的な失敗もあり、資金繰りが短期間に極端に悪化。1973年8月22日に関連会社の虫プロ商事が倒産。この後、銀行などからの融資が引き上げられたことが倒産の直接のきっかけとされるが、実際には、子会社の倒産を回避できないほどに、虫プロ本体の経営状態も悪化していた。8月現在で9月放映終了の『ワンサくん』以後の制作作品のめどはたっておらず、この時点で既に虫プロ本体の倒産は免れない状態となっていた。『ワンサくん』放映終了直後の1973年11月5日に3億5千万円の負債を抱えて倒産した。なお、手塚原作作品の率が少なくなってきた1971年に、手塚は社長を退任している。ただし、手形の保証などを手塚個人名義で行っていたため、手塚はその後残務処理に忙殺された。この倒産から新社設立までの間に、多くのスタッフは他のスタジオへと移籍していった。また、プロ野球球団・ヤクルトアトムズがヤクルトスワローズに名称変更したきっかけになった。

手塚自身もアニメーターであったため、「アニメーターにあらずんば人にあらず」というアニメーター尊重の社風であったことを在籍した豊田有恒、富野由悠季らが証言している。そして、手塚はアニメーターに「作家であれ」と主張し、実際に虫プロで『おす』『しずく』『タバコと灰』『創世紀』『めもりい』といった短編の非商業作品を制作した。虫プロ社内には、手塚の発案で、20万円の実験作品製作資金助成制度まで設けられていたという。テレビアニメ制作に忙殺されて、この制度が活かされることはなかったというが、商業性にとらわれない実験的作品を発表させるという趣向は、手塚が発刊した漫画雑誌『COM』とも共通するものである。

旧虫プロがアニメ史に果たした役割には、テレビアニメの時代を切り開いたこと、日本のアニメが漫画を原作とするストーリー性の強いものになったこと、虫プロのビジネスモデルをならってそれに続く新興アニメスタジオが勃興したこと、虫プロ出身者がその後のアニメ界で活躍し人材の育成供給の場になったことなどがある。

人材は、作家精神が旺盛だった東映動画から移籍した若手スタッフや横山隆一のおとぎプロ出身者などアニメ制作の経験者、貸本漫画などを描いていた漫画家、虫プロの生え抜きスタッフなどに負っていた。

[編集] 虫プロダクションのビジネスモデル
旧虫プロのビジネスモデルは、その後のアニメ製作の規範となった。2006年現在も、日本国内では、基本的に、旧虫プロが行ったものと同じ形態で資本回収が行われる形でのアニメ制作が行われている。

虫プロダクションが、制作プロダクションとしてテレビ局から受け取る制作費は実際にかかった経費よりも大幅に下回っていた。その赤字を関連商品の著作権収入(マーチャンダイジング収入)・海外輸出で補う日本におけるテレビアニメのビジネスモデルを確立したのは旧虫プロである。手塚が『鉄腕アトム』で予算的に引き合わないテレビアニメに参入したのは、自らの漫画の原稿料で赤字を補填し、他社の参入を妨げて、テレビアニメ市場の独占を図るためであったと言う。著作権収入というビジネスモデルについてはディズニーに倣ったものであったが、この著作権ビジネスでの副収入は他社の参入を許すこととなった。「鉄腕アトム」後、旧虫プロ主宰者の手塚は、当たりはずれの大きいマーチャンダイジング収入にはなるべく頼らない作品作りを目指そうと考えた。しかしそのような方式のアニメ制作は定着せず、「鉄腕アトム」式のビジネスモデルが旧虫プロ以後の時代も引き継がれた。

旧虫プロは、基本的に作品の著作権をテレビ局に売り渡さなかった。もちろん、そのような形態の作品は当時から存在はしたが、虫プロダクションの場合、マーチャンダイジング収入なしでは制作費の回収が事実上不可能なビジネスモデルであったため、戦略的に著作権を売り渡さない契約を行った。また、版権部という部署を設け、積極的に自社作品の著作権の管理を行った。ただし、他プロダクションの下請けや、人形劇番組のアニメーション部分を下請けの形で請け負ったことはある。

『鉄腕アトム』を輸出する際も、期限を区切った配給契約を結び、放映時に必ず虫プロダクションの名を表示することと、フィルムの編集には虫プロダクション側の合意を必要とする契約を、アメリカのテレビ局NBCの子会社NBC FILMSと締結した。NBCのネットワーク放送に乗せられず、シンジケーションによる番組販売という形で放送される形だった。30分枠52話という長時間の番組をアメリカに配給契約という形で輸出したのは「鉄腕アトム」が最初、というのが当時旧虫プロ社長だった手塚治虫の説明である(のちに、契約話数は104話に増加)。ただし虫プロ文芸部に所属した豊田有恒によれば、『鉄腕アトム』は世界配給権はアメリカのNBC FILMSが取得して、ドイツやメキシコで放映されても虫プロの収入にはならず、またNBC FILMSへの納品にはアメリカで放映できるものという条件だったため、英語への吹替費用を虫プロ側が負担し、アメリカでの放送に適さない場合の編集は虫プロ側が行なっているのが実態であった。こうした経験から、『鉄腕アトム』に次いでNBC FILMSと契約した『ジャングル大帝』は当初から輸出を前提とした作品作りを行なっている。しかし、この形での輸出は定着せず、後に輸出を開始した竜の子プロダクション(タツノコプロ)作品などは、日本側スタッフ・プロダクション名の表示なしで、現地で大幅に編集して放映することが許可された。

(なお、虫プロダクションと異なり、テレビ局側が用意した企画・脚本を元に、プロダクション側は動画制作のみを行う形態の作品も、1960年代には存在した。ただし、この形式での製作は主流にはならなかった)

旧虫プロは、東映動画など従来のアニメーション制作スタジオと同様に、企画・脚本・キャラクター設定から動画や彩色、録音などのすべての工程を社内で行う内制システムをとっていた。この方式によって、作品を早く仕上げ、品質を保つことができた。その後、他プロダクションが相次いでテレビアニメを制作するようになると、注文の奪い合いになった。しかし、受注が減ってくるようになっても、全スタッフには基本給を支給しなければならない。最終的には受注減が根本的な理由になって、旧虫プロは倒産した。この後、同様の内制システムをとっていた東映動画でも労働争議が起き、最終的に東映動画でも内制システムを破棄。動画・彩色はさらに下請けのプロダクションに出来高払いで発注するようになった。

その後はアニメ制作プロダクションは、テレビ局から直接受注を請ける企画プロダクションと、そこから動画・彩色などを孫請けの形で請ける動画プロダクションにはっきり分けられるようになった。(企画プロダクションでも、若干の動画・彩色スタッフは存在することは多い)この点では、現代のアニメの制作システムは、旧虫プロ時代の頃とは異なっている。

旧虫プロも外注は行ったが、まるまる1話を下請けプロダクションに制作させるという方式(いわゆるグロス請け)で、動画・彩色などの工程ごとに孫請けプロダクションに発注する21世紀初頭での主流の外注方法とは異なる。

[編集] 主な出身者
明田川進  芦田豊雄  荒木伸吾 飯塚正夫  石津嵐
宇田川一彦  浦上靖夫  勝井千賀雄  金山明博  川尻善昭  神田武幸
北野英明  坂口尚  坂本雄作  佐々門信芳
杉井ギサブロー  杉野昭夫   杉山卓  鈴木良武(五武冬史)
清水達正  高橋良輔  田代敦巳  月岡貞夫
出崎統  富野由悠季   富岡厚司  豊田有恒
永島慎二  中村一夫 中村和子
西牧秀夫  布川ゆうじ 波多正美  彦根のりお
平田敏夫  丸山正雄  宮本貞雄
村野守美  森田浩光  安彦良和
山本暎一  りんたろう

[虫プロ出身のアニメ制作会社]
サンライズ (営業系の人材が主体となり独立)……岸本吉功等
マッドハウス (制作系の人材が主体となり独立)……りんたろう・川尻善昭 等
グループ・タック(音響系の人材が主体となり独立)……田代敦巳等
ナック……西野聖市・小柳朔郎・月岡貞夫等
アートフレッシュ ……杉井ギサブロー等
アニメフィルム (動画撮影系の人材が主体となり独立)……清水達正等
シャフト……若尾博司
スタジオ・ライブ……芦田豊雄
ぎゃろっぷ……若菜章夫
京都アニメーション……在籍経験がある八田陽子が設立
アナザープッシュピン・プランニング……在籍経験がある野村和史が設立
グルーパープロダクション……波多野恒正・波多正美
イマジン……在籍経験がある酒井明雄が設立

[手塚治虫原作作品]
鉄腕アトム(テレビシリーズ、1963年-1966年)
W3(テレビシリーズ、1965年-1966年)
ジャングル大帝(テレビシリーズ、1965年-1966年)
悟空の大冒険(テレビシリーズ、1967年)
新宝島(単発テレビ作品、1965年)
リボンの騎士(テレビシリーズ、1967年-1968年)
バンパイヤ(虫プロ商事製作、テレビシリーズ、1968年-1969年)
どろろ(テレビシリーズ、1969年)
ワンサくん(テレビシリーズ、1973年)

[手塚治虫原作以外の作品]
わんぱく探偵団(テレビシリーズ、1968年-1969年)
アニマル1(虫プロ商事製作、テレビシリーズ、1968年)
佐武と市捕物控(テレビシリーズ、東映動画、スタジオ・ゼロとの共同制作、1968年-1969年)
アンデルセン物語(テレビシリーズ、1971年)
さすらいの太陽(テレビシリーズ、1971年)
あしたのジョー(テレビシリーズ、1970年-1971年)
国松さまのお通りだい(テレビシリーズ、1971年-1972年)
アニメラマ三部作(劇場作品)
千夜一夜物語(1969年)
クレオパトラ(1970年)
哀しみのベラドンナ(1973年)

[虫プロ商事]
虫プロ商事(むし-しょうじ)は旧虫プロの子会社。元々は虫プロの出版部門であり、『鉄腕アトム』のファンクラブ会報などを制作していた。『鉄腕アトム』のテレビ放送終了と前後して、1966年9月、出版社として独立。虫プロの今井義章常務が社長に就任した。漫画雑誌『COM』と児童向けの漫画レーベル『虫コミックス』の発行や、海外販売などの営業、特撮テレビ番組の制作、グッズの著作権管理を行っていた。1971年9月に労働争議が発生。その後これが知れ渡ると、銀行からの資金調達なども難しくなり、最終的には資金繰りの悪化などから、1億2千万円の負債を抱えて1973年8月22日に本体の虫プロダクションより若干先に倒産した。虫プロ最後の作品『ワンサくん』をプロデュースした西崎義展が一時社長の代行を務めた。倒産時、手塚は名目上、同社役員になっていたため、残務処理のためにこの時期、作品数が減少した。

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2008年6月18日 (水)

COM(コム)1967年から1973年まで発刊された漫画雑誌

「COM」は、COMICS, COMPANION, COMMUNICATIONの略だという。発行は、1966年に虫プロから分離した虫プロ商事。刊行期間は、1967年1月号~1971年12月号。1973年に8月号として、1号だけ復刊された(1973年8月1日発行)が、その後、虫プロ商事は倒産。姉妹誌には、1969年5月に虫プロ商事より創刊された少女漫画雑誌『ファニー』がある。

「描きたいものが書ける雑誌」および「新人を育てる雑誌」として、手塚治虫が、虫プロ友の会発行の会報『鉄腕アトムクラブ』を発展解消する形で創刊した。「まんがエリートのためのまんが専門誌」がキャッチフレーズ。1964年に先行して創刊された『月刊漫画ガロ』を強く意識して、両誌はライバル関係と目された。

手塚治虫の「火の鳥」(黎明編・未来編・ヤマト編・宇宙編・鳳凰編・復活編・羽衣編・望郷編・乱世編)を看板作品とし、これはライバル誌の『ガロ』の看板連載だった白土三平の「カムイ伝」に対抗する形だったとされる。「火の鳥」以外には手塚治虫の旧作の復刻、手塚治虫系の著名作家陣が執筆した作品が誌面を飾り、石森章太郎「章太郎のファンタジーワールド・ジュン」「サイボーグ009 神々との闘い」、永島慎二「漫画家残酷物語」「フーテン」、出崎統「悟空の大冒険」などが連載された。その他、松本零士も登場している。手塚治虫とトキワ荘に関わりのある赤塚不二夫、石森章太郎、鈴木伸一、つのだじろう、寺田ヒロオ、藤子不二雄、水野英子ら計12名の作家による競作漫画「トキワ荘物語」が発表されたのもCOMであった。

既存の漫画家の作品に加えて、COMからデビューした新人作家による作品がCOMの両輪として人気を博した。登竜門としてのCOMから巣立った作家たち としては、青柳裕介、あだち充、市川みさこ、居村真二、岡田史子、加藤広司 (現・かとうひろし)、コンタロウ、竹宮惠子、能條純一、日野日出志、諸星大二郎、やまだ紫、長谷川法世、宮谷一彦、西岸良平らがいる。また、真崎守が峠あかね名義で指導した読者投稿コーナー「ぐら・こん」(グランド・コンパニオン)は、吾妻ひでお、飯田耕一郎、市川ジュン、勝川克志、河あきら、樹村みのりらを輩出した。

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2008年6月17日 (火)

吾妻 ひでお(あづま ひでお、1950年2月6日 - )

北海道十勝郡浦幌町宝町。本名は吾妻 日出夫。
1969年に秋田書店の『まんが王』でデビュー。SF・ロリコン色の強いマニアックな不条理ギャグ漫画を描き、徐々に注目される。1970年代後半に一大ブームを起こし、現在に至るまでのオタク文化に大きな影響を与えている。

1979年、SF小説のパロディネタをふんだんにまぶした「不条理日記」で第10回日本SF大会星雲賞コミック部門を受賞している。この作品をきっかけに「不条理」という単語がマニア層に浸透し、のちに「不条理ギャグ」「不条理漫画」というジャンルが花開くきっかけとなった。11 1

1980年代の美少女漫画ブームの旗手でもあり、自動販売機本『少女アリス』誌などに「純文学シリーズ」と題してロリコンマンガを発表している。当時はメジャー誌出身の漫画家がポルノ誌に描くことなど考えられなかったので、周囲にあたえた衝撃は大きかった。

1985年ごろから低迷期に入り、自殺未遂や失踪、アルコール依存症を経験したが、2005年に、それらの異常体験を描いた自伝的作品『失踪日記』が評価され、ふたたび注目を浴びた。

作中に自分自身(「あじましでお」などさまざまな呼称が使われる)を頻繁に登場させることでも有名。

[初期] 北海道浦幌高等学校在学中、『COM』主宰のぐら・こん北海道支部に参加。

1968年に高校を卒業し、上京して凸版印刷に就職するが、3ヶ月で退職。板井れんたろうのアシスタントに採用され、仕事のかたわら『少年サンデー』(小学館)に無記名作品(「ミニミニまんが」など)を描く。

1969年に『まんが王』(秋田書店)に「リングサイド・クレイジー」を発表、漫画家デビューする。翌年アシスタントをやめ独立。徐々に少女漫画誌、青年漫画誌にも活動の場を広げる。初期の作品は、軽いギャグ漫画にもかかわらずSFのエッセンスをちりばめ、アメリカン・ニューシネマの影響も感じさせるという作風で、一部のファンから熱心に支持された。このころ、ページ内の1コマを1コママンガとして完結させるという試みを多く行った。

その後、ハレンチコメディ路線で売ろうとした編集者の熱心な介入のもとで『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に「ふたりと5人」を連載し、大きな人気を得る。巨根が「ピカー」と光る東大生の先輩は読者に強烈な印象を残した。しかし吾妻は自分本来の資質とのギャップに悩む。

私生活では1972年に結婚し、1980年に長女、1983年に長男をもうけている[2]。夫人は当時から現在に至るまで吾妻のアシスタントをつとめ、『うつうつひでお日記』等では「アシスタントA」として登場している。ちなみに「アシスタントB」は長女、「アシスタントC」は長男である。

[ブーム期]
1970年代後半、『プレイコミック』連載の「やけくそ天使」から自由にSFネタを描き始め、1978年から『別冊奇想天外』ほかに掲載した「不条理日記」がSFファンから絶大な支持を得る。『不条理日記』は、1979年の第10回日本SF大会の星雲賞コミック部門を受賞した。

1980年代前半、自動販売機本『少女アリス』などに「純文学シリーズ」と題してロリコン漫画を発表。メジャー誌出身の漫画家がポルノ誌に進出したことは周囲に衝撃を与えた。またこのころ、沖由加雄、蛭児神建らとともにロリコン同人誌『シベール』をコミックマーケットで販売する。これも評判となり、ロリコンブームの立役者とみなされるようになる。

その後、作品はどんどん実験の度合いを深めてゆき、「でたらめ」などと自己批判をしたり[3]、「もうネタがありません、ゆるして下さい」とだけ書いてオチをつけなかったり[4]、「感情のない」顔を並べて「あまり長いことみつめないでください」と書いたり[5]した。

1983年4月、『SF大会本』(虎馬書房刊)に発表した「冷たい汗」は、それまでのアニメ絵とは違った劇画的な絵で、その年のSF大会の様子を描いている。自分のホームグランドにすら違和感を感じ、声をかけられただけでギクリとしてしまう疲れ果てた作者の姿が描かれている。

1984年、連作『夜の魚』、『笑わない魚』を発表。『冷たい汗』の絵とも異なる暗い絵で、自分の生活をシュールリアリスティックに描いている。

[低迷期]

1980年代半ばから約8年に渡る沈黙期に入る。その間に二度長い失踪をしている。1990年代後半にはアルコール依存症となり入院。この間の経緯が、脚色を加えた上で『失踪日記』に描かれている。 1990年代後半に再び漫画作品を発表し始める。本人の記述によれば、持込みの際に吾妻ひでおのマネをしている無名のマンガ家扱いをされるという、創作家としては耐えられない扱いをされたという。[編一度目の失踪集] 1989年11月 - 1990年2月。一日中酒を飲んでは寝るという生活を繰り返しているうちにうつが重くなり、山で首つり自殺をしようとしたが失敗。そのままホームレス生活を始める。深夜に駅前でシケモクを拾っていたとき、警官に発見・保護された。[二度目の失踪] 1992年4月 - 1993年3月ごろ。大塚英志に『夜の魚』のあとがき(のちに『失踪日記』の最初のエピソードとなる)を宅配便で送ったその足で再び失踪し、ホームレスとなる。同年8月ごろから「日本ガス(仮称)の孫受け会社」で配管工として働きはじめる。翌年春、知り合いにもらって乗っていた自転車が盗難車だったため警察の取り調べを受け、家族に連絡される。帰宅したのちもさらに半年間配管工の仕事を続けた。

[編集] アルコール依存と治療
1980年代半ばからさかんに飲酒し、「アル中」と自称していた。しかし本当のアルコール依存症、すなわち眠っている時以外は酒が手離せなくなるという「連続飲酒」状態になったのは1998年春ごろからである。その状態が半年続き、しだいに奇行が多くなり、同年12月25日、家族によって三鷹市の某病院に強制入院させられる。1999年春、三ヶ月の治療プログラムを終了して退院。以後、断酒を続けている。

[『失踪日記』出版後] 2005年3月、『失踪日記』を出版。一度目の失踪を描いた「夜を歩く」、二度目の失踪を描いた「街を歩く」、アルコール依存と治療の時期を描いた「アル中病棟」を収録している。出版とともに各メディアで話題となり、第34回日本漫画家協会賞大賞、平成17年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、第10回手塚治虫文化賞マンガ大賞、第37回日本SF大会星雲賞ノンフィクション部門を受賞した。

テーマの暗さにもかかわらずあっけらかんと描かれているが、吾妻は「自分を第三者の視点で見るのは、お笑いの基本ですからね」と片づけている。[6]

[ギャグ漫画家引退宣言] 『芸術新潮』2005年5月号(つまり失踪日記刊行時)のインタビューなどで「仕事は来ないし、限界だし、自分を苦しめるだけなので、ギャグ漫画をやめる」と宣言。公式サイトには「今後は暗い漫画を描くつもり」と書いた。しかしその後も、公式サイトや単行本のおまけ書き下ろしはもとより、雑誌連載にもギャグ主体の作品を発表し続けている。

[ロリコンブームとの関連] いわゆるロリコンブームに関しては、吾妻ひでおがその火付け役との声があり、少なくともその動きの中で重要な位置を占めていたことは間違いない。

彼がエロ劇画誌の『劇画アリス』や自販機本の『少女アリス』に作品を発表したことは、漫画の世界での表と裏の境界を低くする動きの始まりととれ、また、『少女アリス』に発表したいわゆる「純文学シリーズ」は後のロリコン漫画に直接につながる作品である。大塚英志は純文学シリーズを「おそらくは最初の確信犯的な「ロリコンまんが」」と表現し、それ以降のこの手のまんがは吾妻の拡大再生産にすぎないとすら言っている。

また、彼とその周辺の若手作家による上述の同人誌『シベール』はこの分野の火付け役となり、またそれらの作家はロリコン漫画誌のレモンピープルや漫画ブリッコの主要な描き手となった。

[スター・システム] 彼は手塚治虫的なスター・システムを使ったことでも知られている。ただし、彼の手中のキャラクターは変態的、あるいは病的であり、それが特徴でもある。以下に代表的な彼のスター的キャラクターをあげる。

吾妻ひでお
作者の戯画化である。右目の方が大きく、ぼさぼさ髪。とてもいじましく、すぐに落ち込む。ロリコン。唐突に顔を出す例が多いが、「ドクターアジマフ」シリーズなどで主役を張っている。
さんぞう
ふとっちょではげ頭にサングラスをかけている。名前は「きまぐれ悟空」で三蔵法師だったことから。とにかく素直にスケベ。後に「スーパー三蔵」で主役を張り、「チョコレートデリンジャー」ではあらゆる変態技を駆使する一方で家庭持ちの中年男の悲哀をも表現した。
不気味
やや長髪の下に三白眼、それにマスクをしているやせぎすの男。常に落ち込んでおり、口数少ない。マゾヒスティック。初登場の「ゴタゴタマンション」では“無気味”と表記されていた。「不気味が走る」「とつぜんDr.」で主役を張った。なお、ロボット化したR.ブキミはサディスティック。こちらは「ドクターアジマフ」シリーズなどに。
ナハハ
禿頭、肥満体、大きく見開かされた眼、カタレプシーで開いたままの口。あらゆる表情を示さない。吾妻ひでおキャラでもっとも非人間的とも言える。名前は笑い方から。初登場は「おしゃべりラブ」の大家。大家は彼の定番。「シッコモーロー博士」では天才的科学者として主役を張る。ちなみにカタレプシーで口を開いたままのキャラクターは吾妻作品に頻出する。
なお、さんぞう、不気味、ナハハは吾妻ひでおの三大変態キャラとも言われる。これが総出演したのが「ひでお童話集」の「3人の王子」で、そこではこの順に「上の王子は変態性欲、次の王子は変態の上に変な顔、下の王子はなんだかわからない」とされている。

[影響を受けた人物]
松久由宇
北海道浦幌高等学校時代の同級生。天才的に漫画が上手く、吾妻がプロの漫画家を目指すきっかけを作った。
板井れんたろう
アシスタントとして師事し、「笑い目で泣く」「笑い目で汗をかく」という表現法の影響を受けた(これは高橋留美子らにも遺伝している)。なお、板井の漫画『ドタマジン太』には吾妻をモデルにした「ヒデ公」が登場する。
手塚治虫
手塚流のスター・システムを用いる。たとえば作品中に作者(あじましでお)を頻繁に登場させるなど。なお吾妻自身、強弱の無い線と丸っこい絵柄は手塚の影響であると語っている。[7]
石ノ森章太郎
アマチュア時代に石ノ森の『少年のためのマンガ家入門』を愛読。高校時代の絵柄は石ノ森のマネだったと「私はこうしてマンガ家した」にある。女の子をかわいく描くことに注力したのも石ノ森の影響だという。「手塚以上の影響を受けたかもしれない」とインタビューで発言している[8]。「プランコ君」では「ファンタジーワールド・ジュン」のパロディを試みている。
筒井康隆
熱心なファンで、形式破壊・不条理・スラプスティックというスタイルを受け継ぐ。インタビューでそれを指摘された際、「筒井さんに近づけた」と喜んだというエピソードがある。

[友人ほか]
いしかわじゅん
ギャグマンガ家同士の「抗争」相手として、吾妻作品にさかんに登場。高信太郎はふたりを「リトル・メジャー」(いしかわ)、「ビッグ・マイナー」(吾妻)と評した。いしかわは吾妻の呼称をひそかにうらやんだという[9]。手塚治虫の漫画「七色いんこ」に、校長役の吾妻と女性役のいしかわがキスを交わしたのち結婚するというエピソードがあり、マニアックな読者を喜ばせた。
大友克洋
いしかわ・吾妻とともに、SFマンガ・ニュー・ウェーブの御三家と呼ばれた。
とり・みき
熱心な吾妻ファンであり、対談を二度行っている[10][11]。
沖由佳雄
吾妻の元アシスタントで、同人誌『シベール』では中心人物として活躍。『オリンポスのポロン』のエロースや、『ななこSOS』のDr.チャバネのモデル。
蛭児神建
『シベール』の同人。『ななこSOS』『スクラップ学園』などに登場した“変質者”のモデル。『出家日記』出版の際は吾妻が出版社との間をとりもった。
米澤嘉博
『月刊OUT』、『ぱふ』の吾妻特集、さらに奇想天外臨時増刊『吾妻ひでお大全集』で吾妻へのロングインタビューをはじめ大量の記事・評論を執筆した。数あるペンネームの一つ「阿島俊」はもともと吾妻作品の評論を執筆する際のペンネームであった。自らが所属する「迷宮」が「劇画アリス」の編集を請け負ったこともある(吾妻は『るなてっく』を執筆)。私的な交友もあり、『ぶらっとバニー』に登場した食えないアニメーターは米澤の似顔絵を基にしたキャラクターである。
悟東あすか
小学生時代から吾妻家に出入りし、吾妻ひでおから直接漫画の描き方を教わった。
庵野秀明
アマチュア時代に制作した『DAICON III オープニングアニメ』(1981年)には、当時の吾妻ブームの反映がみとめられる。
竹本泉
読者時代からのファン。吾妻作品を読むと面白すぎて止まらなくなるのでトイレで読むのを禁止している。後に愛蔵版にも寄稿した。
坂本龍一
1981年小学館から刊行された「YMO写真集 OMIYAGE」で好きなもの・興味のあるものを列挙した写真の中に吾妻の作品「海馬」の1コマがあり、「今一番自分に近いものを感じる人」とコメントしている。同年、東京三世社「少年少女SFマンガ競作大全集」誌上で吾妻ファンとしてインタビューに応じている。なお、吾妻の長男は坂本にちなんで名付けられた。

[単行本リスト]
失踪日記 (イースト・プレス、2005年3月)ISBN 4872575334
うつうつひでお日記 (角川書店、2006年7月)ISBN 4048539779
逃亡日記 (インタビュー形式による自伝)(日本文芸社、2007年1月)ISBN 4537254653
アズマニア (1) - (3) (早川書房、1996年3月 - 7月)ISBN 4150305439ほか
ネオ・アズマニア (1) - (3) (早川書房、2006年11月 - 2007年1月)ISBN 4150308675ほか
オリンポスのポロン (1) - (2) (早川書房、2005年2月 - 2007年1月)ISBN 4150307822ほか
ななこSOS (1) - (3) (早川書房、2005年3月 - 5月)ISBN 4150307865ほか
ときめきアリス定本 (チクマ秀版社、2006年6月)ISBN 480500455X
夜の帳の中で吾妻ひでお作品集成 (チクマ秀版社、2006年8月)ISBN 4805004568
便利屋みみちゃん (1) (ぶんか社、2006年10月)ISBN 482118351X
(以降初出版時のデータのみ。同じタイトルで収録内容が異なる本も除外)

ふたりと5人 少年チャンピオンコミックス全12巻(秋田書店、1974年5月 - 1976年12月)
おしゃべりラブ プリンセスコミックス全2巻(秋田書店、1976年4月 - 1977年11月)
シッコモーロー博士 サンコミックス全1巻(朝日ソノラマ、1976年9月)
きまぐれ悟空 サンコミックス全2巻(朝日ソノラマ、1977年3月)
ちびママちゃん 少年チャンピオンコミックス全2巻(秋田書店、1977年5月 - 1978年3月)
エイト・ビート サンコミックス全2巻(朝日ソノラマ、1977年6月)
みだれモコ パワァコミックス全1巻(双葉社、1977年9月)
チョッキン 少年チャンピオンコミックス全4巻(秋田書店、1977年10月 - 1978年7月)
やけくそ天使 秋田漫画文庫全5巻(秋田書店、1977年10月 - 1980年5月)
セクシー亜衣 サンコミックス全1巻(朝日ソノラマ、1978年3月)
ネムタくん KCコミックス全2巻(講談社、1978年4月 - 1978年7月)
オリンポスのポロン(おちゃめ神物語コロコロポロンのタイトルでアニメ化) プリンセスコミックス全2巻(秋田書店、1979年6月 - 7月)
パラレル狂室 奇想天外コミックス全1巻(奇想天外社、1979年6月)
吸血鬼ちゃん 奇想天外コミックス全1巻(奇想天外社、1979年8月)
不条理日記 奇想天外コミックス全1巻(奇想天外社、1979年12月)
やどりぎくん 少年チャンピオンコミックス全1巻(秋田書店、1980年1月)
人間失格 マイコミックス全1巻(東京三世社、1980年3月)
美美 サンコミックス全1巻(朝日ソノラマ、1980年3月)
メチル・メタフィジーク 奇想天外コミックス吾妻ひでお作品集1(奇想天外社、1980年7月)
贋作ひでお八犬伝 奇想天外コミックス吾妻ひでお作品集2(秋田書店、1980年8月)
アニマル・カンパニー マイコミックス全1巻(東京三世社、1980年9月)
ぶらっとバニー アニメージュコミックス全2巻(徳間書店、1980年10月 - 1982年6月)
格闘ファミリー 奇想天外コミックス吾妻ひでお作品集3(奇想天外社、1980年10月)
翔べ翔べドンキー プリンセスコミックス全1巻(秋田書店、1980年11月)
ざ・色っぷる 奇想天外コミックス吾妻ひでお作品集4(奇想天外社、1980年12月)
スクラップ学園 秋田漫画文庫全3巻(秋田書店、1981年1月 - 1983年6月)
PAPER NIGHT 少年少女SFマンガ競作大全集増刊号(東京三世社、1981年3月)
好き!すき!!魔女先生 アニメージュコミックス全1巻(徳間書店、1981年4月)
陽射し 全1巻(奇想天外社、1981年7月)
妖精の森 全1巻(虎馬書房、1981年7月)
ミャアちゃん官能写真集 全1巻(自費出版、1981年8月)
魔法使いチャッピー アニメージュコミックス全1巻(徳間書店、1981年9月)
やけくそ黙示録 サンコミックス全1巻(朝日ソノラマ、1982年1月)
海から来た機械 全1巻(奇想天外社、1982年3月)
仁義なき黒い太陽 ロリコン編 「ロリコン大全集」(群雄社出版 1982年5月31日(「ミニティー夜夢」秋田書店 PLAY COMICS SERIES 1984年12月30日発売に再録))
ハイパードール プレイコミックシリーズ全1巻(秋田書店、1982年6月)
ぶつぶつ冒険記 マイコミックス全1巻(東京三世社、1982年8月)
チョコレート デリンジャー プレイコミックシリーズ全1巻(秋田書店、1982年8月)
マジカルランドの王女たち 全1巻(サンリオ、1982年12月)
ななこSOS(アニメ化) ジャストコミック増刊全5巻(光文社、1983年6月 - 1986年7月)
おちゃめ神物語コロコロポロン(アニメ化にあわせて連載されたもの) 100てんランドコミックス全1巻(双葉社、1983年7月)
ミャアちゃんラブワールド BEST HIT SERIES全1巻(秋田書店、1983年7月)
ななこMY LOVE 吾妻ひでお イラスト・ブック ジャストコミック増刊(光文社、1983年11月)
魔ジョニア☆いぶ プレイコミックシリーズ全1巻(秋田書店、1984年10月)
ひでお童話集 アクションコミックスHideo Collection 1(双葉社、1984年12月)
十月の空 アクションコミックスHideo Collection 2(双葉社、1984年12月)
ミニティー夜夢 プレイコミックシリーズ全1巻(秋田書店、1984年12月)
すみれ光年 アクションコミックスHideo Collection 3(双葉社、1985年1月)
天界の宴 アクションコミックスHideo Collection 4(双葉社、1985年2月)
ぱるぷちゃんの大冒険 ぱるぷコミックス全1巻(ぱるぷ、1985年6月)
大冒険児 アクションコミックスHideo Collection 5(双葉社、1985年3月)
あめいじんぐマリー プレイコミックシリーズひでおランド1(秋田書店、1985年4月)
陽はまた昇る アクションコミックスHideo Collection 6(双葉社、1985年4月)
ときめきアリス アクションコミックスHideo Collection 7(双葉社、1985年5月)
幕の内デスマッチ!! ジェッツコミックス全1巻(白泉社、1985年9月)ISBN 4592130650
Oh!アヅマ ぶんかコミックス全1巻(ぶんか社、1995年8月)ISBN 4821194406
夜の魚 太田COMICS―芸術漫画叢書(大田出版、1992年9月)ISBN 4872330749
銀河放浪 マグコミックス全2巻(マガジンハウス、1995年9月 - 1997年9月)ISBN 4838707142ほか
クラッシュ奥さん ぶんか社コミックス全2巻(ぶんか社、1998年8月 - 2002年3月)ISBN 4821196913ほか
二日酔いダンディー マグコミックス全1巻(マガジンハウス、1999年3月)ISBN 4838711387
吾妻ひでおの不自由帖 全1巻(まんだらけ、1999年12月)
エイリアン永理 ぶんか社コミックス全1巻(ぶんか社、2000年4月)ISBN 4821198193
産直あづまマガジン 1 - (自費出版、2001年7月 - )

[その他の仕事] 特撮ドラマ『好き!すき!!魔女先生』 アンドロ仮面コスチュームデザイン(1971 - 1972年) 特撮番組『ぐるぐるメダマン』 キャラクターデザイン(1976年) アニメ『劇場版クラッシャージョウ』 モンスターデザイン(アズマジロ)(1984年)

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Ajimahp
[外部リンク]
吾妻ひでお official homepage http://azumahideo.nobody.jp/
全著作リストhttp://www.kurata-wataru.com/
「輪舞-ロンド」http://www3.to/sfalamod

Rondo1

2008年6月16日 (月)

ハヤカワ文庫

早川書房が発行している文庫のシリーズ。SFや推理小説を中心に収録。日本国外の翻訳作品が多い。

[歴史]
1970年8月:創刊(ハヤカワSF文庫)
No.1は『さすらいのスターウルフ』(エドモンド・ハミルトン)。当初は内外問わず、SF作品を収録していたが、「JA」創刊後、日本人作家はそちらで刊行されるようになる。
1971年7月:「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズ刊行開始(第1巻『大宇宙を継ぐもの』)
1972年1月:NV創刊(ハヤカワNV文庫)
No.1は『エデンの東1』(ジョン・スタインベック)
1973年3月:JA創刊(ハヤカワJA文庫)
No.1は『果てしなき流れの果てに』(小松左京)。以降、日本人のSF作品を刊行。
1974年:各文庫が「ハヤカワ文庫」として統一される
1976年4月:ハヤカワ・ミステリ文庫創刊(HM)
No.1は『そして誰もいなくなった』(アガサ・クリスティ)
1977年5月:NF創刊
No.1は『空想自然科学入門』(アイザック・アシモフ)
1979年2月:FT創刊
No.1は『妖女サイベルの呼び声』(パトリシア・A・マキリップ)
1979年9月:「グイン・サーガ」シリーズ刊行開始(第1巻『豹頭の仮面』)
1980年2月:Jr創刊
1985年:SF文庫に初めて品切れ作品がでる(26作品)
1986年:YR創刊
No.1は『恋はおまかせ』(井辻朱美)
1986年12月:GB創刊
No.1は『グイン・サーガ ラルハスの戦い』
1989年1月:ミステリアス・プレス文庫創刊
No.1は『古い骨』(アーロン・エルキンズ)
1991年11月:HB創刊
No.1は『2X殺人事件』(豊田淳子)
1994年1月:NFが装幀を一新
1995年4月:JAが総合エンタテインメント文庫になり、ミステリ、漫画なども収録されるようになる
1999年10月:ダニエル・キイス文庫創刊
No.1は『アルジャーノンに花束を』
2001年5月:epi文庫創刊
No.1は『第三の男』(グレアム・グリーン)
2003年10月:クリスティー文庫(クリスティーの全作品を収録)創刊
No.1は『スタイルズ荘の怪事件』
2004年6月:トリイ・ヘイデン文庫創刊
No.1は『シーラという子』
2006年9月:演劇文庫創刊
No.1は『アーサー・ミラー I』

[分類]
SF [ Science Fiction ]
HM [ Hayakawa Mystery ]
FT [ Fantasy ]
JA [ Japanese Author ]
NV [ Novel ]
NF [ Nonfiction ] ハヤカワ・ノンフィクション
Jr [ Junior ]
YR [ Young Romance ] ヤングロマンス
HB [ Hi! Books ] ハィ!ブックス
GB [ Game Book ] ハヤカワ・ゲームブック

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株式会社早川書房 Hayakawa Publishing Corporation 
本社所在地 101-0046 東京都千代田区神田多町2-2
電話番号 03-3252-3111
設立 1945年8月 資本金 3,500万円 従業員数 83名

早川書房 http://www.hayakawa-online.co.jp/

2008年6月15日 (日)

東京創元社

[概要] 元々は、キリスト教系出版社創元社の東京支社であった。現在の社名は、当時の屋号、創元社東京支社にちなむ。 翻訳推理小説の老舗出版社として知られ、多くの叢書を送り出している。今日では国内の新人作家・旧作の発掘に力を入れている。 創元推理文庫、創元SF文庫などがある。

[来歴]
1948年 創元社から同じ名前の創元社で独立(のれん分け)。
1954年 株式会社東京創元社 発足
1956年「世界推理小説全集」全80巻刊行開始、「世界大ロマン全集」65巻刊行開始
1957年「現代推理小説全集」全15巻刊行開始(~1958年)
1958年「クライム・クラブ」全29巻刊行開始
1959年「創元推理文庫」創刊
1961年 株式会社東京創元社 倒産
1962年 株式会社東京創元新社として再興
1963年「創元推理文庫」にSF部門が創設(現在の「創元SF文庫」)
1970年 株式会社東京創元社に改称
1988年「鮎川哲也と十三の謎」全12巻刊行開始(~1989年/第13巻は未刊行)
1990年「創元ミステリ'90」全10巻刊行、「鮎川哲也賞」開始
1991年「黄金の13」全13巻刊行開始(~1995年)、「創元クライム・クラブ」刊行開始(~刊行中)
1992年「創元推理」創刊(~2003年全25冊)
1996年「クイーンの13」刊行開始
2003年「ミステリーズ!」創刊、「ミステリ・フロンティア」刊行開始
2008年「ラング世界童話集」全12巻刊行開始

[関連項目]
創元推理文庫
創元SF文庫
鮎川哲也賞
ミステリーズ!新人賞
創元推理短編賞
創元推理評論賞

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東京創元社 Tokyo Sogensha Co., Ltd. 種類 株式会社
本社所在地 162-0814 東京都新宿区新小川町1-5
電話番号 03-3268-8201

外部リンク http://www.tsogen.co.jp/

2008年6月14日 (土)

「生きるための兆し」を認識でき22パタ-ン

◆タロットは砂漠の民たちによって見い出され、神話時代を経て、宗教によって弾圧され、15 世紀、ルネッサンスと個人が自分を見い出そうとする自己探求に興味が向けられた時、歴史の表舞台に現われてきました。

タロット――TORAは人生の規範です。
これは B.C.500年~B.C.300年頃に人類の伝承を集大成して確立された人間の英知を、
「生きた言葉」として使えるようにするシステムである。

「生者の書」としての「タロット」は、人生の障害が、13であることを暴き出し、
それからの解決方法を教えてくれるカードです。

◆「13の障害」の根本的原因の中心は、人間は、父、母、子供の内に魂を形成する上で、最も永続的な問題が生まれるということです。  
現代の心理学では、あらゆる生物の中で人間だけが、母親がいつまでも手をかけずには生きられないのだと言います。
人間は母の体内から出てくるのが早すぎるために、外に出てからの母親の庇護下に置かれる胎内期間が延長されます。
生命ある存在として完璧でなく、外界に対応する準備が整わずに、依存、嫉妬、敵対などのおびただしい障害を生んでいます。
これが人間自身の手で人生に障害が生まれる主要な原因です。

◆そしてタロットの源流となった古代の神話を生んだ人たちは、
通過儀礼という、過去と断絶し、
不完全なそれまでの性情、慣習、従来の生活態度を根こそぎ切り払うという生き方を
採用することによって、未来を切り開きました。
それを今日では「創造」という言葉として捉えることが出来ます。
そして神話を形成することによって絶えず心の進化を実践した彼らの人生には、
今日の私たちが体験しているような犯罪や事件や不倫などは、全くありませんでした。

◆ 人生には「13の障害」があるという運命論を教えてくれますが、
タロットの象徴学を学び、神話的なエネルギーに接続することは、
それだけで人生の障害の70 %は自動的に消滅します。
日常の障害からの「分離」、そしてそのような人生の「変容」、更に新しい人生への「再生」が、「タロット」が私たちにもたらせてくれるものです。

Tarot2 Tarot1

 
占いやゲーム性の底に秘められたTAROTの真意を、
ユーモラスで哲学的なペンギンのキャラクターによって顕した大アルカナ22枚
TAROT図形学より、視覚からも分りやすく覚えられる
「ペンギンタロット」の世界へ・・・
新しいアテンション(注意)と上昇力を前向きに促すために作られたカードです。

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-Tarot3

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大アルカナ22枚組1セット・解説書A4版16頁付 

「ペンギンタロット」申込・お問い合せ 
http://koinu.cside.com/

■■■■■■品切などのお詫び■■■■■■
好評につき「ペンギンタロット」解説書A4版16頁は、手作りにつき品切れとなりました。今後申込される分には、解説書はコンパクトサイズで、A6版18面となります。

「生きるための兆し」を認識できる22パターンには、神話のコードが多様に含まれている。それは関心のある人には掘り下げる意味もあるのだが、全くと言ってイイほど神学が目的でないから、用心深くそれらのキーワードも可能なかぎりはずして、解り易さと実用としての道具カードに徹した解説書となった。
一枚の図版には本一冊分の内容が刻まれてることも、カードを作ってよく体現した。時間があるときに、現代の人にも理解できうる物語の要因をさらに詳しく書きとめたいと思う。いずれインターネットでも配信を予定している。

2008年6月12日 (木)

美学校基本構想

美学校(びがっこう 美學校) 1969年(昭和44年)2月、現代思潮社(出版社)の川仁宏らによって創立された東京神田神保町にある美術・芸術の専門学校。創立以来の講師陣には、中西夏之、加納光於、赤瀬川原平、松沢宥などの美術家のほか、笠井叡(舞踊家)、鈴木清順(映画監督)、木村威夫(映画美術監督)、小杉武久(音楽家)、松山俊太郎(インド哲学)、澁澤龍彦(作家・評論家)、唐十郎(舞台俳優・演出家)など多彩な人物が教壇に立った。

特に赤瀬川原平が、創設以来長年に渡って講義をした「絵・文字工房」は、赤瀬川のその折々の興味の対象を講義する人気の教室で、平口広美、南伸坊、渡辺和博、泉昌之(泉晴紀/久住昌之)、森伸之など、多くの人物を輩出した。

その他にも、平出隆、林英哲、村上龍、佐野史郎、浜津守(アニメータ)、末井昭、浅生ハルミン、長谷川貴子らも出身者。

1975年(昭和50年)に現代思潮社から独立。現在は会田誠を初めとする昭和40年会のメンバーなども教えている。最近では、1回ごとに金額を払う「パーソナルLab」コースも開設されている。

ただし、2004年3月25日の朝日新聞の記事によると、ここ数年は新入生は50人を切り続けており、それによる赤字は第1期卒業生である、代表の藤川公三(2000年から今泉省彦の辞任にともない、代表に)が個人で負担しているという。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


美学校基本構想
裾野に至って現代における美意識(倫理)への介入という想定に立ちつつ 現在の美学校を全構想かつ最高形態の追求として位置づける ・・・教えをうけることをみずからの意志として捉えて欲するものを得ることはありえても 教えることをみずから意図し果たしうることはないのであって 教える意志は生徒の脳皮質をかすめて消えるのである 総じて耳目を通しすなわち空間を媒介として達して頭脳に至るコースに於いてそうなので 脳皮質を駁撃して残るのは極めて生理的な衝撃感ということだけであったり ・・・あるいは金蒔絵に使う筆は舟ねずみの毛で作らねばいけないといったことだけで終わるのである そこで教えられる機関は考えるとしても教える機関は考える訳にはいかぬ 最高の教育とは教える意志をもたぬものから必要なものを盗ませるということになろうか
http://www.bigakko.jp/index.htm

ギグメンタ2008-美学校1969年の現在展(70年代から現在までにつながる「美学校文化」を見渡す初の試み) 2008年4月1日(火)~15日(火)11:00~20:00 会場:アートコンプレックスセンター 企画:美学校1969年の現在・実行委員会
参加作家:赤瀬川原平、みうらじゅん、根本敬、泉靖紀、平口広美、久住昌之、南伸坊、町田久美、室伏鴻、会田誠、小林嵯峨、細江英公、黒田育世、間島秀徳、大野慶人、土方巽、白土三平、中村宏、中西夏之、亀村佳宏、森下隆、松澤宥、GROUPE DU VENT(風組)、野口暁、赤土類、para ROUND(伊丹裕+中村祥士)、サエグサユキオ、TOPPER、王×児×狼×(ill existence)、御厨貴、内海信彦、ホシノマサハル、久住卓也、佐々木良枝、文井秋、荒井良二、メチクロ、韮沢靖、植地毅、相馬大、もとはし遥、小野のん子、田尻麻里子、中西美穂、谷川まり、涓東節江、蔭山ヅル、イトー・ターリ、山岡佐紀子、井上玲、ほか

2008年6月10日 (火)

0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる。

0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる。

人間の精神は神的なものである。
しかしそれは物理的な身体に幽閉されており、かれはその神性に気づかない(愚者)。

より高き星々の使者が物質的世界に対する支配を表明し、表面的な現実よりさらに深いなにかの存在を証明する。
いくつかの説によると、かれは愚者の師および仲間となる(奇術師)。

(女教皇、女帝、皇帝、教皇によって表される)
世界の支配的な力が、抵抗にあい、日常的存在が挑戦を受け、
克服されて初めて、開放の切望が可能となる(恋人と戦車)。

探求者(隠者)は一定の成熟に達したときにのみ、かれの精神的故郷に自分を回帰させるための旅に出発できる。

かれの慎重な内省(運命の輪)は、肉体的衝動(女力士)の克服とより高きもののために、より低きものを故意に犠牲とすることによる
日常的価値の逆転を求める(吊るされた男)。

より低き個我(死神)の昇華は、 
デミウルゴス(悪魔)の打倒を可能とする
霊的な活力(節制)の流出に至る。

これはかれの地上の牢獄(塔)の崩壊を招来し、
かれの精神が、天の星々(星、太陽、月)を経て、
やがて神秘的再生(審判)を経験し、最終的には
世界の超個人的な霊アニマ・ムンディ(世界)と
一体化することを可能とする。ーーアルフレッド・ダグラスーー

さらなる高みを目指すためには、精神的充足をもとめて再度旅に出て、今までの見方を変え、自我を壊さなければ、新たな次元に到達することはできない。22枚には0から21までのサイクルになっていたのだった。。
そして輪の入口と出口は零によってつながれている。

そして0の愚者から21の世界への話が、姿と形をかえてふたたび物語がくりかえされる。
人の心は高くめざすものである。けれども物理的な肉体に閉ざされて、そのめざすものに気づかない(愚者)。星々の使者が物質的世界に対して表面的な現実より深い存在を証明する(奇術師)。そして世界は(女教皇、女帝、皇帝、教皇によって表される)支配的な力で日常的に形をひろげていく。世界への開放が初めての選択と望みができるようになる(恋人と戦車)。さらに高くめざすもの求めて一つの成熟に達したときに、精神の故郷にを回帰させる旅にたつ(隠者)。その慎重な心の内(運命の輪)は、肉体の衝動(力)の克服していく。高きもののために低きものを犠牲として、故意に日常的価値の逆転を求める(吊るされた男)。低く役目を終えたものの昇華(死神)は、焚きつける欲望(悪魔)をも打ちたおすことができた。きびしい試練をこえると生きる活力が整えられて与えられる(節制)。やがて時をへて構築された、高くそびえたつ地上の牢獄(塔)は崩壊を招いて、天の星々(星、太陽、月)の永き歳月をくぐり、そして神秘的なる再生(審判)を経験されて、ついに世界の超個人的な存在(世界)と一体化することができうるゴールラインが待つ。今までの見方を変え、自我を壊さなければ、新たな次元に到達することはできない。そして輪の入口と出口は零によってつながれている。

「ペンギンタロット」は兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。

占いやゲーム性の底に秘められたTAROTの真意を、
ユーモラスで哲学的なペンギンのキャラクターによって顕した大アルカナ22枚
TAROT図形学より、視覚からも分りやすく覚えられる
「ペンギンタロット」の世界へ・・・
新しいアテンション(注意)と上昇力を前向きに促すために作られたカードです。

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「ペンギンタロット」 大アルカナ22枚組1セット・解説書(A6判図版多数18面)付  http://koinu.cside.com
申込・お問い合せ http://koinu.cside.com/NewFiles/penguintora.html

1+21は魂の遍歴を表す・
0 魂は物質的に身体へ幽閉されて「愚者」は、そのことも一寸先に起こる出来事も気がついてはいないようにみえる。
1  別世界よりの使者がやってきて「奇術師」の姿で、天・地・火・水の四要素によって自然界が成り立っていることを示す。彼は意識というトリックを使って物理的世界を支配していく。
2.知識をたくわえてゆく「女教皇」 3.大地へ繁殖させていく「女帝」 4.力によって「皇帝」 5.定めによって「法皇 」は支配する。、
幼児の自我より肉体的力と精神的力を、女性原理と男性原理により高めていく四過程がうかがえる。直感→感情→感覚→思考
この四過程は、それぞれ水・地・下・天の順で四要素に対応した動きである。

2008年6月 8日 (日)

演技指導論草案 伊丹万作

○演技指導という言葉はわずかにこの仕事の一面を表出したにすぎない。この仕事の真相は指導でもなく、監督でもなく、化育でもなく、叱正でもない。最も感じの似通った言葉をさがせば啓発であろうが、これではまだ少し冷たい。
 仕事中我々は意識して俳優に何かをつけ加えることもあるが、この仕事の本質的な部分はつけ加えることではなく、抽(ひ)き出すために費される手続きである。

○俳優から彼の内包せる能力を抽き出すためには必ず多少の努力を要するものであるが、抽き出そうとする能力があまりにも深部にかくされており、俳優自身もその存在を確信しないような場合には我々の仕事は著しく引き伸ばされ、仕事の形式は訓練という言葉に近づいてくる。

○ある時間内の訓練が失敗に終ったとしてもあきらめてしまうのはまだ早い。その次に我々が試みなければならぬことは、さらに多くの時間と、そしてさらに熱烈な精神的努力をはらうことである。たとえばめんどりのごとき自信と執拗さをもって俳優を温め温めて、ついに彼が孵化するまで待つだけの精神的強靱さを持たなければならぬ。

○演技とは俳優が「自己の」肉体を通じて、作中人物の創造に参与し、これを具体化し完成せしむることによって自己を表現せんとする手続きをいう。

○演技指導とは演出者が「俳優たちの」肉体を介して、作中人物の創造に参与し、これを具体化し完成せしむることによって自己を表現せんとする手続きをいう。

○演技指導は行動である。理論ではない。

○読書の中から演技指導の本質を探り取ろうとするのは地図をにらんで戦争を知ろうとするようなものだ。いくらにらんでも地図は地図だ。戦争ではない。

○演技指導の方法論に関して私にできるただ一つのことは、その具体的な手続きのうちに比較的法則めいたことを発見してこれを書きとめるということだけだ。

○法則というものに対する信頼にはおのずから限界があるべきを忘れてはいけない。
「美のためには破ってはならない法則は存在せぬ。」(ベートーヴェン)

○法則とは自分が発見したら役に立つが、人から教わるとあまり役に立たぬものだ。

○演技指導の本質の半分は「批評」である。

○演技指導について少し広義に記述しているといつかそれは演出論になる。

○演技指導について少し末梢的に記述しているといつかそれは演技論になる。

○自信と権威ある演技指導というものはすぐれた台本を手にしたときにだけ生れるものだ。作のくだらなさを演技指導ないし演出で補うなどということはあり得べきこととは思えない。
 くだらぬ台本を手にした場合、俳優に注文をつける自分の声はいちいち空虚な響きをもって自分の耳にはねかえってくる。

○演技の一節を、あるいは一カットの演技を顔に持って行くか、全身に持って行くか、あるいはうしろ姿にするか、それとも手の芝居にするかというような問題はすでに演技指導を離れて広く演出の分野に属するが、これらのコンティニュイティ的処理のいかんが演技の効果に影響する力は、ときに演技指導そのものよりも、はるかに根本的であり、その重量の前には区々たる演技指導の巧拙などはけし飛んでしまうことさえある。

○演技指導における俳優と演出者の関係は、ちょうど一つの駕籠(かご)をかつぐ先棒と後棒の関係に似ている。先棒の姿は後棒に見えるが、先棒自身には見えない。

○演出者と俳優と、二つの職業的立場を生み出した最大の理由は、人間の眼が自分を見るのに適していないためらしい。

○俳優に対する演出者の強みには個人的なものと一般的なものと両様ある。個人的なものとはもっぱら演出者の個々の眼の鋭さに由来するが、一般的なものは、演出者がいつもカメラの眼を背負って立っているという職分上の位置からくる。

○カメラの眼の位置はすなわち観客の眼の位置である。

○演出者とは、一面観客の象徴である。

○どんなに個性の強烈な演出者と、どんなに従順な俳優とを結びつけても、俳優が生きているかぎり、彼が文字どおり演出者の傀儡(かいらい)になりきることはあり得ない。

○どんなに妥協的な演出者と、どんなに専横な俳優とを結びつけても、演出者が機械を占領しているかぎり、俳優はいつまでも彼を征服することができない。

○どの俳優にでもあてはまるような演技指導の形式はない。

○演技指導をそれ以外のものから明瞭に切り離し得るのは観念の中においてのみである。
 実際には種々なものと複雑にからみ合っていて、純粋な抽出は不可能である。

○演技指導はそれが始まるときに始まるのではない。通例配役の考慮とともにそれは始まる。

○百の演技指導も、一つの打ってつけな配役にはかなわない。

○最も能率的な演技指導は成功せる配役である。その逆もまた真である。
(したがって純粋な立場からいえば、配役は演出者の仕事であるが、実際には必ずしもそうは行かない場合が多い。)

○私の見るところでは、俳優は偉大なる指導者(それは伝説的であってもいい。)の前では多少ともしゃちこばってしまう傾向を持っている。したがって駈け出しの演出者こそ最も生き生きした演技を彼らから抽き出し得る機会に恵まれているというべきであろう。
(このことを方法論的にいうならば、演出者は威厳を整えるひまがあったら愛嬌を作ることに腐心せよということになる。)

○演技指導の実践の大部分を占めるものは、広い意味における「説明」である。しかし一般に百を理解している人が百を説明しきれる場合は稀有に属する。私の場合は四十パーセントがあやしい。これは自分の天性の劣弱なことにもよるが、もっと大きな原因は我々が古色蒼然たる言論蔑視の倫理に締めつけられてきたことにある。いわく「ことあげせず」。いわく「不言実行」。いわく「雄弁は銀沈黙は金」。いわく「巧言令色鮮(すく)ないかな仁」。いわく何。いわく何。そうしてついに今唖(おし)のごとき演出家ができあがって多くの俳優を苦しめているというわけである。将来の演技指導者たらんとするものはまず何をおいても「説明」の技術を身につけることを資格の第一条件と考えるべきであろう。

○俳優の一人一人について、おのおの異った指導方法を考え出すことが演技指導を生きたものたらしめるための必須条件である。

○演出者の仕事の中で演技指導こそは最も決定的でかつ魅力的なものだ。カッティングやコンティニュイティを人任せにする演出者はあっても、演技指導を人任せにする演出者はない。

○演出者は平生から日本中のあらゆる俳優についてできるだけ多くのことを知っているほうがいい。しかしもしそれが困難だとすれば、せめて近い将来において仕事のうえで自分と交渉を持つことを予想される幾十人かの俳優についてだけでも知り得る範囲のことを知っているべきである。そのためには直接彼らと知り合って談笑のうちにその特質や性癖を見抜くことはもちろん必要であるが、一方ではまたできるだけ彼らの出演している舞台や映画を見てまわって、その演技や肉体的条件をよく記憶しておくことが必要である。
 しかしかくして得た予備知識がどんなに豊饒であろうとも、それがただちに俳優に対する評価を決定する力になるとはかぎらない。

○俳優に関するどんな厖大な予備知識も、演出者として半日彼と交渉することとくらべたらほとんど無意味に等しい場合がある。

○厳密な意味において俳優を批評し得る人は、その俳優と仕事をした演出者以外にはない。

○俳優のほとんど残らずは、彼が自身のいかなる演技中にも決して示さないようなすぐれたアクションや、魅力的な表情や、味の深いエロキューションを日常の生活の中に豊富に持っているものである。演出者はそれらをよく観察し、記憶していて、彼の演技の中へこれを移植しなければならぬ。

○演技指導の基本的な二つの型として、おもに演技をやってみせる方法と、おもに説明に依拠する方法とがある。前者は端的であり成功した場合は能率的であるが、ただしこれは指導者が完全な演技者に近い場合に限るようだ。ところが実際においてかかる実例は極めて乏しい。不完全な演技を示すことの結果は、往々にして何も示さないことよりもっと悪い場合がある。かくして極めて迂遠ながら第二の説明に頼る方法が取り上げられる。現在は日本の演出者の大部分はおそらくこの方法にもたれかかっていると想像されるが、さてここで用心しなければならぬことは、説明ということの可能性には限界があり、しかもその限界がかなり低いということと、我々の説明技術の貧困がその限界をさらに低下させているということである。

○私自身の演技指導はいったいどの型であろう。演技をやってみせることは私にはできない。説明の才能はほとんど落第点である。それにもかかわらず私はあくまでも自分の意志を相手の肉体のうえに顕現しなければならない。そこで私は無意識のうちに次のような方法にすがりついて行った。つまり私は第一にできるだけ動いて見せることを避け、説明をもってこれにかえよう。そして次には、さらに、できるだけ説明することを避け、「何か」をもってこれに代えよう。「何か」とは何であろう。この「何か」の説明くらい困難なことはない。あるときはそれは沈黙であり、あるときは微笑であり、あるときは椅子から立ち上って歩くことであり、あるときは瞑目することであり、あるときは――。これでは際限がないから、私はこれにへたな名前を与えよう。いわく、「暗示的演技指導」。

○俳優をしかってはいけない。彼はいっしょうけんめいにやっているのだから。私は公式主義からこんなことをいうのではない。私は俳優を打ったこともある。私も人間であり相手も人間であるからには、ときとして倫理も道徳も役に立たない瞬間があり得る。しかし法則を問われた場合には私はいう。どんなことがあっても俳優をしかってはいけない、と。

○俳優にむかってうそをついてはならぬ。たとえそれがやむを得ない方便である場合においても。

○演技に際して俳優が役に成り切るべきであるように、演技指導に際して演出者は俳優になりきるべきである。このことは一見俳優に対する批評的立場と抵触するようだが、実際には抵触しない。万一抵触するにしても、そのためにこの法則を撤回するわけには行かない。

○俳優の演技を必要以上に酷評するな。
 それは必要以上に賞讃することよりもっと悪い。

○俳優をだれさすな。カメラマンをだれさしても、照明部をだれさしても、俳優はだれさすな。

○いかなる演技指導もむだだと思われるのは次に示す二つの場合である。
 一、俳優の芸がまったく可撓性(かとうせい)を欠いている場合。
 二、俳優が自己の芸は完全だと確信している場合。
(以上のような実例はおそらくないだろうとだれしも考えがちであるが、既成スターの中には右の典型的な例が珍しくない。)

○可撓性のないものを曲げようとすれば、それは折れる。

○自分は健康だと信じているものは薬をのみはしない。自分は完全であると信じきっているものは決して忠告を受けいれない。

○演技の中から一切の偶然を排除せよ。
 予期しない種々な偶然的分子が往々にして演技の中へ混りこむ場合がある。
 たとえば俳優が演技的意図とはまったく無関係にものにつまずいたり、観客の注目をひいている俳優の顔に蝿がとまったり、突然風が強く吹いてきて俳優のすそが乱れたり、などなど、その例は枚挙にいとまがないが、要するにあらかじめ演出者の計算にははいっていない偶発的できごとは一切これを演技の中に許容しないほうがよい。ところが我々は実際においては、ともすればかかる偶然を、ことにそれが些事である場合は、いっそう見逃してしまいたい誘惑を感じる。
 そしてその場合、自分自身に対する言いわけはいつも「実際においてもこういうことはよくあるじゃないか」である。
 しかもかかる偶発的些事というものは、もともと自然発生的であるだけにその外見は極めて自然で受けいれられやすい姿をしている。我々の経験によるとこれらの偶然のほうがときには計量された演技よりもむしろ立ちまさって見える場合さえある。だからなおさら我々は偶然に対していっそう用心深くならなければいけないのである。
 あらかじめ計算されざる偶然はなぜ排除しなければならぬか、その理由はただ一つ。
 作中の世界は作者によって整理された世界でなければならぬから。しかして整理とは一面無意味な偶然の排除を意味する。ここでぜひとも思い浮べなければならぬことは、いつも時間とともに流れている映画の本質である。映画の美は時間と関連せずには考えられないし、映画の世界のできごとはどんなに複雑でも通例二時間以内に圧縮整理されてしまう運命を持っている。たえず美の法則に従って映画の流れを整え、時間を極度に切り詰めて最も有効に使わなければならぬ映画作者がどこに無意味な偶然を許容する余裕を持ち得るだろう。「実際にもしばしばある」ということは偶然を許容する理由としては何の意味をも持たない。なぜなら我々の作っているのは芸術であり、偶然はなまの事実にすぎない。芸術の構成中の偶然は米の中の石つぶのごときものだ。それは人の歯にがちりとさわる。映画の場合は、それは美しき流れを乱し、時間を攪拌(かくはん)する。しかし私はこれらの結論を理論の中から導き出したのではない。私の経験によると撮影のときにそれを許容する気持ちにさせた偶然が、試写のときには必ず多少とも後悔と自責の念に私を駆り立てずにはおかないからである。はっきりいえばその実際の経験だけが私に偶然の警戒すべきを教えるのであって、理窟は実はどうでもいいのである。ついでだからもう一つ例をあげると、俳優が偶然あるせりふにつまって絶句したとする。かようなことは実際の人生には絶えずあることで、むしろむだのない長せりふを順序を違えず一つの脱落もなく、絶句もしないで滔々としゃべることこそはなはだしき不自然だといえる。だから絶句は自然だといって許しておいたらどういう結果になるかは考えるまでもないことである。もちろんこのことはアクションの場合においても同様である。
 要するに我々の人生はこれを芸術的に見れば数限りもない無意味な偶然と、無聊と倦怠と、停滞と混沌と、平凡にして単調なる、あるいは喧騒にしていとうべきことの無限の繰り返しによってその大部分を占められているのであるが、まずこれらの不用な部分を切り捨てて、有用な部分だけを拾いあげ、美的秩序に従ってこれを整理することが芸術的表現の根幹であり、無意味な偶然というものは畢竟(ひっきょう)不用の部分にすぎないのである。

○演出者によってあらかじめ計量し採択せられたる「偶然」は、もはや「偶然」ではない。

○十分なる理解と、十分なる信頼と、そして十分なる可撓性と。俳優の中にこれだけのものを発見した瞬間に演技指導の仕事は天国のように楽しくなり、演出者は自分が天才のように思えてくる。

○この仕事の制度上の位置が俳優に対して上位を占めていることを過信し、無反省に仕事の優位性の上に寝そべることは極めて危険である。しかし実際においては我々はたえず彼らの上に立ち、ときには叱し、ときには命令しなければならぬ。つまりこの仕事を成り立たせるためには俳優に対して少なくとも形式的には自分自身を上位に保つことが必要なのである。しかしただ漫然と形式上の優位性にあまえることは厳に戒めなければならない。
 我々はむしろ仕事の価値観のうえではまったく俳優と等位にあることを信ずべきである。しかしそれにもかかわらず我々はあくまでも自分の仕事に権威を持たなければならない。そしてそのためには仕事自体の持つ形式的な優位性などはすっかり抛擲(ほうてき)してしまうほうがいい。そして微量でもいいから自分一個の実力による権威ができあがってきて、つまりは極めて自然に自分自身を優位に導き得るように人間として芸術家としての自分を高めて行く努力をつづけるよりしかたがない。そしてかかる実質的な権威以外に真に自分を優位に支えてくれる力は決してあり得ないことを知るべきである。

○一般に演出者がある俳優を好きになることはいけない。好きになった瞬間に批判の眼は曇ってしまう。
 しかしもしも意地悪きしゅうとのごとく冷い眼を持ちつづけることさえできるならば、演出者は安心して俳優に惚れこむべきである。

○演出者以外のものが、演技指導に関係のあることを直接俳優に言ってはいけない。
 たとえば録音部が直接俳優にむかってせりふの調子の大小を注文したり、カメラマンが直接俳優にむかってアクションの修正を要求したりしてはならぬ。それらは必ず一度演出者を通じて行なわれねばならぬ。

○非常に低度の演技、つまり群衆の動きや背景的演技などを対象とする場合は必ずしも右の原則によらない。
(ただし群衆撮影の場合あまりカメラマン任せにすると、カメラマンの多くは群衆を一人残らず画面内に収めようとしすぎるため、画面外には人間が一人もいないことがわかるような撮り方をする傾向があるから注意を要する。)

○衣裳小道具などを俳優が勝手に注文してはいけない。

○俳優がはじめて扮装して現われた場合、演出者は必ずやり直しをさせるつもりで点検するがよい。でないと眼前に現われた俳優の扮装にうっかり釣りこまれてしまうおそれが多分にある。
 演出者のいだいているものはいくら正しくても畢竟イメージにすぎないが、これに反して俳優の扮装はいくらまちがっていてもそれは実在であるから我々はともするとその現実性にだまされて「うむ、このほうがいいかな」と思ってしまうのである。

○仕事の場にのぞんで「さあ何かやってみせてください」という顔で演出者を見まもる俳優がいる。そういう俳優にむかって私は言う。「やって見せなきゃならないのは君のほうだよ」

○俳優のつごうによるせりふの改変を許してはいけない。一つでもそれを許したら、あとはもう支離滅裂である。しかしこれを完全に遂行するためには、演出者のほうでも仕事の途中でせりふを書直したり、未完成のシナリオで仕事にかかったりすることをやめなければいけない。
(これは秘密だが、もしも私が俳優だったらせりふをなおさずにやれるシナリオはただの一つもないじゃないかと言いたいような気がする。)
 右の括弧の中は俳優に読まれたくないものだ。

○地面に線を引いてあらかじめ俳優の立ちどまる位置を確保したり、移動するカメラと俳優との間隔を一本の棒で固定したり、かようなあまりにも素朴な機械主義とは、もういいかげんに訣別したいものである。
 人間がこんなにも機械の侮辱にあまんじていなければならぬ理由はない。

○テストのとき、厳密には本意気になれない性質の俳優があるようだ。これは理論的にはもちろんいけないことだが、実際問題としては多少の考慮をはらってやるべきである。かかる俳優の演技のテストに際しては微妙な計算が必要である。

○テストの回数はしばしば問題となるが、私の考えでは、一般的な法則としては、それは多ければ多いほどよい。
 テストが多過ぎるとかえって演技の質が落ちると主張する俳優はみずから自己の演技が偶然に依存している事実を告白しているようなものだ。
 このことはその反対の場合の、あらゆる古典芸術の名人芸を思い浮べてみたら容易に納得の行くことである。彼らの芸は練習回数の夥多によって乱され得るほど偶然的ではない。

○演出者が意識して演技の中に偶然を利用しようとする場合は無反省にテストをくり返してはいけない。たとえば非常にアクロバティックな演技や、子役を使う場合などにはある程度以上のテストは概して無効である。

○経験の浅い女優などに激情的な演技を課するような場合は、偶然的分子が結果を支配する率が多いからテストの回数を重ねることは危険である。
 なお一般に激情的なカットを撮る場合に考慮すべきことは人間の感情には麻痺性があるという心理的事実である。通例いわゆる甲らを経た俳優ほど感情を動かすことなくして激情を表現し得るものであるが、多くの俳優は演技の必要に応じてある程度まで自分の感情を本当に動かしてかかっているのである。したがって前者の演技は持続的な麻痺の上に立っているがゆえにもはや麻痺の心配はないが後者は麻痺によって感激が失せると演技が著しく生彩を欠いてしまう。
 ことに演技中に落涙を要求する場合などは、いかなる俳優といえども麻痺性の支配を受けないものはないのであるからテストは最小限度にとどめ、でき得るならばまったくテストを省略するように工夫すべきである。

○演出者は演技指導中はできるだけ俳優の神経を傷つけないように努めなければならぬ。そのためには文字どおりはれものにさわるような繊細な心づかいを要する。なかんずく俳優が自信を喪失する誘因になるような言動は絶対に慎しまなければならない。
 演技指導とは俳優を侮辱することだと思っているらしい演出者がいるのは驚くべきことだ。

○演出者は俳優がテストに際してどんなに拙い演技を示しても、決してそれによる驚きや失望を色に現わしてはいけない。彼の示した演技と、自分の望む演技との間にたとえ非常な距離があるにしても、いきなりその距離の大きさを俳優に知らせることはよくない。数多いテストによって少しずつ俳優を引きあげて行って次第にその距離を縮めて行くように試みるべきである。

○俳優がすぐれた演技を示した場合には何らかの形で必ず賞讃すべきである。

○俳優がせりふを暗記しようと努めているふうが見えるときは話しかけてはいけない。

○重要なあるいは困難な演技をシュートするときは必要以外の人間を仕事場に入れてはならぬ。

○セットはたえず掃除せよ。しかし掃除していることが目立ってはいけない。
 つつましやかにいつもセットを掃除していてくれるような働き手を演出者は見つけるべきである。そういう人が見つからないときは自分で掃くがよい。それほどこれは肝腎な仕事なのだ。セットがきたないことは仕事の神聖感を傷つけ、緊張をそこね、そこで働く人たちを容易に倦怠に導く。ことに俳優への心理的影響が軽くない。
 通例照明部の人たちは泥のついたコードを曳きずり、泥靴をはいたままで、殿様の書院でも江戸城の大広間でも平気で蹂躙してまわる。その後から白足袋で歩いて行く大名や旗本は、演技にかかるまえにもうその神経を傷つけられてしまうのである。かかる無教養ながさつさはおそらく畳というものの意味を知らない西洋人技師の所業を無反省にまねたことから始まったのだろうと思われるが、一度しみ込んだ悪風は容易に除かれないものである。

○俳優は実生活では軽い化粧カバンさえ持つのをいやがって弟子と称するものに持たせるくせに演技中には絶えず何かを持ちたがる。
 しかし彼らの望みに任せてむやみに物を持たせてはいけない。芝居が下品になる。

○俳優は常に手を内懐かポケットの中へ隠したがる。ある俳優のごときは娘の結婚式の来客を迎える紳士の役を、両手をズボンのかくしへ突込んだままで押し通したのを私は見て人ごとながら冷汗を流した。
 彼らの手をかくしから引っぱり出せ。でないと折目正しい演技はなくなって、すべてが猿芝居になってしまう。

○俳優のしゃべるせりふが不自然に聞えるとき、そしてその原因がはっきりつかめない時は、ためしにもっと声の調子を下げさせてみるがよい。それでもまだ不自然な場合は、さらにもっと調子を下げさせる。こうすれば大概それで自然になるものである。
 一般に、こうして得たせりふの調子がその人の持ちまえの会話の声の高さであり、せりふが不自然に聞える場合のほとんど九十パーセントまでは持ちまえの声より調子を張っているためだといっていい。したがって録音部の注文で無反省に俳優に声を張らせるくらい無謀な破壊はない。
 我々はいかなる場合にも機械が人間に奉仕すべきで、人間が機械に服従する理由のないことを信じていてまちがいはない。

○声を張ることを離れてはほとんど表現ということの考えられない舞台芸術の場合には前項の記述はまったく役に立たない。
 たとえどんなにリアルな舞台でももしも我々が映画に対するとまったく同一の態度でこれを見るならば、そこには自然なエロキューションなどは一つもないのに驚くだろう。

○しぐさに関する演技指導の中で、視線の指導くらい重要でかつ効果的なことはあまりない。その証拠に、俳優が役の気持ちに同化した場合には別に注文しなくても視線の行き場所や、その移行する過程が、ぴたりぴたりとつぼにはまって行く。
 ちょうどその裏の場合、たとえ俳優自身はその役のそのときの気持ちを理解していなくても、視線の指導さえ正確緻密に行なわれるならばその結果はあたかも完全なる理解の上に立った演技のごとく見えてくる。
 気持ちの説明が困難な場合(たとえば子役を使う場合など)、もしくは説明が煩雑で、むしろ省略するほうが好ましいような場合には、私は俳優の私に対する信頼にあまえて、理由も何もいわず、ただ機械的に視線の方向と距離とその移行する順序を厳密に指定することがしばしばあった。その結果、彼あるいは彼女たちの演技は正しく各自の考えでそうしているように見えてくるのであった。

○私の経験によると多くの女優は演技よりもなお一層美貌に執着する。
 たとえば彼女たちが昔の既婚婦人に扮する場合、演出者の注意をまたずして、眉を落し歯を染めて出るのは時代劇の常識であるべきはずだが、実際にはこれらの問題で手を焼かせなかった女優は極めて稀である。ドオランで無理やり眉をつぶして出るのはまだいいほうで、なかには平然と眉黒々と澄まして出るのがある。なだめすかして眉を落させると歯が染めてなかったりする。あるいは中には稀にこういうことをいいかげんにすませる演出者があるためにこうなるのではないかとも思う。
 しかし私が言いたいことはほかにある。それは、眉を落しかねをつけることによって、美しさが倍加しなかった女優を私はまだ見たことがないということである。
 すなわち女優諸君が真に美貌に執するならば、そしておのれの持つ最も蠱惑(こわく)的な美を発揮したいならば、むしろすすんで眉を落し歯を染めるべきであるということを私は提言したいのである。

○女優は貝のように堅く口をつぐむ。そのわけはもちろん彼女たちが人間の顔をいかなる場合にも口を結んでいるほうが美しいように勘違いしているからだ。
(口を開かなければならないときに無理に閉じているのは必要のないときに口をあけているのと同じようにばかげたものだが――。)
 そこで我々は絶えず彼女たちの唇をこじあけるために、一本の鉄梃(かなてこ)を用意してセットへ向かうわけである。そうでもしないと彼女たちは堅く口を結んだままで驚愕の表情までやってのけようとするからだ。

○演技にある程度以上動きのある場合には、演出者は必ず一度俳優の位置に自分の身を置いて、実地に動いて見るがよい。それは人に見せるためではない。そのおもなる目的は俳優に無理な注文を押しつけることを避けるためである。演技のような微妙な仕事を指導するためには、終始おのれを客観的な位置にばかり据えていたのではいかに熱心に看視していてもどこかに見落しや、俳優に対する理解の行きとどかない点が残ってくるものである。しかもこれは自分で動いてみる以外には避けようのないことであると同時に、動いてさえみれば簡単に避けられることである。
 要するに我々は原則として自分にできない動きを人に強要しないことである。自分には簡単にできると思っていたことが、動いてみると案外やれないことは珍しくない。(この場合の動きの難易は技術的な意味よりもむしろ生理的な意味を多く持っている。)
 自分で動いてみて始めて自分の注文の無理をさとった経験が私には何回となくある。

○俳優の動きにぎごちない感じがつきまとい、何となく見た目に形がよくないようなときは、俳優自身が必ずどこかで肉体的に無理な動きや不自然な重心の据え方をしていながら、しかも自身でそれを発見し修正する能力を欠いている場合にかぎるようであるが、この場合も演出者が客観的にいくら観察していても具体的な原因を突きとめることはかなり困難である。しかし一度俳優の位置に身を置いて自分で動いてみると実にあっけないほど簡単にその原因を剔出(てきしゅつ)することができるものである。

○エロキューションの指導に関しても前二項とほぼ同様のことがいえる。

○演出者が大きな椅子にふんぞりかえっているスナップ写真ほど不思議なものはない。病気でもない演出者がいつ椅子を用いるひまがあるのか、私には容易に理解ができない。
○現場における演技指導はいつ、いかなる手順で行なわるべきか。こんなふうな問題は能率(商品的な意味ばかりでなく)のうえから最も肝要なテーマであるが、我々は慣習としてもこれを自分の身につけていないし、法則としてもそれを教えられていない。いわばまったくでたらめだったのである。多少とも批判の眼を持って我々の仕事場を参観に来る人々に対し、私がいつも汗背の念を禁じ得ないのは我々の仕事があまりにも無秩序で原始的なことであった。
 そしてこんなことは一人や二人の力ではどうにもなることではないが、しかしこのままでたらめを続けて行くわけにも行かない。そこで私は自分の仕事のときだけでも多少の秩序を設けたいと思い、最近の仕事では次のような順序による方法を励行してみた。

一、その日の撮影プランの説明。(これは実際的な理由から大概省略したが向後はなるべく実行したい。)
一、そのカットの演技の手順の説明。
一、右の説明に沿って俳優を実際に動かせ、しゃべらせてみる。(むろん大略でよろしい。)
一、右の三項の間、演出助手、カメラマン、照明部、録音部、大道具、小道具、移動車の係などそのときの仕事に関係あるものは残らず手を休め、静粛にこれを注視している。
一、次に俳優はいったんその位置を去り、付近の自由なる場所において任意にせりふの暗誦その他練習をする。
一、その間にカメラのすえつけならびに操作準備、照明器具に関する作業、マイクの操作準備、大道具の取りはずし、移動の用意など、必要に応じて、要するにいっさいの荒々しき作業を片づける。
一、右がほぼ終ったころを見はからって俳優を既定の位置に着かせる。本格的な演技指導がそれから始まり、進むにつれて指導は次第に細部におよんで行く。
一、これと並行して、同時に一方では照明の修正、カメラの操作テスト、録音に関する整備、小道具の充足、大道具の修理などが行われる。
一、大体の見当がついたら綜合的テスト。
一、十分に見当がついたら本意気のテスト。
一、シュート。

○古くさい芸術家きどりの「気分主義」くらいこっけいで、えてがってで野蛮なものはない。
 我々の仕事は一面には芸術の貌を持っているが、他の一面には純粋に工場労働的な貌をも持っていることを忘れてはならない。
 自分の書斎でひとりお山の大将になっていればいい文士の仕事と我々の仕事とは違う。かびの生えた「気分」などという言葉は蹂躙しても、「時間」を尊重することに我々は光栄を感ずべきだ。
 芸術家もセザンヌくらいの巨人になると、その日課は時計のごとく正確で平凡であった。

○私は自分の周囲にある後進者たちに対し、いまだかつて演出あるいは演技指導について何事をも説いたことがない。そのわけはこんなにも行動の形で見せる以上の教え方はどこにもないにもかかわらず、もしも彼らがそこから必要なことを学び取り得なかったとしたら、それは最も手近にころがっている最上の機会を彼らが取り逃がしたことであり、それを補うに足る方法はもはや一つとして存在しないからである。

○俳優に信頼せられぬ場合、演出者はその力を十分に出せるものではない。
 また演出者を信頼せぬ場合、俳優はその力を十分に出せるものではない。

○「信頼」が飽和的な状態にあるときは、たとえば演出者が黙って出てきて椅子に坐っただけで既にある程度の効果を挙げ得るものだと私は信じている。
 そして私が心の中に描いている理想的な演出、もしくは完成されつくした演技指導の型といったようなものの特色は、著しく静かでほとんど無為に似た形式をとりながら、その実、当事者間には激しい精神の交渉、切磋、琢磨がつづけられ、無言のうちに指導効果が刻々上昇して行くといった形において想像される。
 このことは一見わらうべき精神主義的迷妄のごとくに誤解されるおそれがないでもないが、たとえば我々が実生活における幾多の経験を想い出してみても、我々が真に深い理解に到達したり、新しい真実を発見したりするのは、言葉のある瞬間よりも言葉のない瞬間におけるほうが比較にならぬくらい多くはなかったか。あるいはまた、最もすぐれた説明は、何も説明しないことであるような例が決して少なくない事実に気がつくならば、私の意図している方向が、まんざら荒唐無稽でないことだけはわかるはずである。
 こうはいっても、私はそのために別項で強調した説明技術の重要性に関する主張をいささかでも緩和する気持ちはない。むしろそこを通らずして一躍私の意図する方向に進む方法はないといってもまちがいではない。
 しかしいずれにしてもよき演技指導の最初の出発点は指導者に対する「信頼」であることを銘記すべきである。

○「信頼」の上に立たない演技指導は無効である。

(『映画演出学読本』一九四〇年十二月)

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「現代日本思想大系 14 芸術の思想」筑摩書房   1964(昭和39)年8月15日発行

2008年6月 7日 (土)

やっぱり、火星に氷?…着陸探査機の下に「ようなもの」

火星探査機「フェニックス」が撮影した火星の氷と思われる白く輝く固い地表面=NASA提供 米航空宇宙局(NASA)は1日、火星に着陸した探査機フェニックスが、氷のようなものを撮影したと発表した。

 探査機のロボットアームに取り付けられたカメラで撮影した画像で、探査機の下の地面に、周囲よりひときわ明るく、平らで滑らかな場所が写っている。 NASAは「探査機が着陸する際の逆噴射で表面の土が吹き飛ばされ、下に隠れていた氷の層が露出した可能性が高い」と見ている。 NASAは、氷と見られる物体をロボットアームで採取、探査機内部で分析して、最終判定したい考えだ。
 フェニックスは、表面温度が氷点下の地表のすぐ下に存在するとされる氷を掘削で確認するのが任務。今回の物体が氷だとすると、探査開始からわずか1週間で狙いの氷に行き当たったことになる。氷が確認されれば、生命の手がかりの発見への期待が高まる。

(読売新聞 2008年6月1日  )

20080601

NASA(=アメリカ航空宇宙局)は5月31日に火星探査機「フェニックス」が撮影した写真を公開。中央に白い岩盤状のものが写って、氷の可能性がある。NASAは「探査機が着陸した時の噴射で地表が削られ、氷が露出したのではないか」と分析している。 フェニックスは5月25日に火星に着陸して探査を行っている。

2008年6月 3日 (火)

エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年1月19日 - 1849年10月7日)

アメリカ合衆国ボストン市生まれの小説家・詩人。血液型はAB型。
1841年に発表された小説『モルグ街の殺人』には探偵のC・オーギュスト・デュパンが登場し、史上初の推理小説と評価されることが多く、その後の推理小説の発展に寄与した。また、ホラー小説の分野でも一時代を代表する作家とみなされている。さらに作品に科学的事実を取り入れる手法はジュール・ヴェルヌによって注目され、近代SF発展の一因ともなった。詩人としては、自らの詩を解説しながら詩の構築を説いた『詩の原理』で、フランスの詩人、ボードレール、ステファヌ・マラルメなどの象徴派の系譜に多大な影響を与えた。
ちなみに日本の推理作家、江戸川乱歩の名前は、エドガー・アラン・ポーをもじって付けられたものである。

[生涯]
エドガー・ポーはマサチューセッツ州ボストン市で女優エリザ・ポーと俳優デービッド・ポーの息子として1809年に産まれた。両親共にスコッチアイリッシュ。ポーの両親はポーが3歳の時に相次いで亡くなり、ポーはバージニア州リッチモンド市の富裕な商人ジョン・アランの養子として引き取られエドガー・アラン・ポーを名乗ることとなった。

イングランドとバージニア州リッチモンドの学校に学んだ後にポーはバージニア大学に入学したが、僅か一年で放校された。1827年5月26日、ポーはエドガー・A・ペリーの名で新兵として合衆国陸軍に入隊した。2年間の軍隊生活で上級曹長まで昇級した後、除隊した。ポーはウェスト・ポイントの合衆国陸軍士官学校への入学を許可されたが、意図的な反抗により除籍された。

次いでポーは叔母である未亡人マリア・クレムと従姉妹ヴァージニアと共に、メリーランド州ボルチモア市に転居した。ポーは自活の手段として創作を利用し、リッチモンドのトーマス・W・ホワイトの創立した『南方文学新報』(the Southern Literary Messenger)の1835年12月号から編集長となり、1837年1月まで務めた。この頃、ポーは周囲の猛反対を押し切って幼いヴァージニアとリッチモンドで結婚した(1836年5月16日)。

ニューヨークでの実りのない15ヶ月の後に、ポーはフィラデルフィアへ転居した。到着から間を置かず『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』が出版され、広く評価された。1839年の夏、元役者のバートン氏が主宰する『バートンズ・ジェントルマンズ・マガジン』(Burton’s Gentleman’s Magazine)の共同編集者となる。週給10ドルという薄給ながら、編集のみならず多数の記事や物語、批評を発表し、南方文学新報で確立された彼の辛辣な批評家としての名声を、より一層強固なものとすると同時に、売上げに多大な貢献をした。1839年には、短編集『グロテスクとアラベスクの物語』Tales of the Grotesque and Arabesque が二分冊で出版された。金銭的な成功こそ得られなかったものの、この短編集はアメリカ文学史の道標となった。だが、バートン氏が劇場設立に投資を始めたこと、黒人奴隷関連の小説に関するポーの酷評を掲載禁止としたこと、そしてポーが自らの雑誌発行の計画を知ったことなどから、二人は衝突。1841年、『バートンズ・ジェントルマンズ・マガジン』の版権は売りに出され、3500ドルで買い取ったグレアム氏が新たに作った雑誌『グレアムズ・マガジン』(Graham’s Magazine)に、月額50ドルで編集および執筆に参加する。

1842年1月にヴァージニアが肺出血に見舞われた。この出血は肺結核の最初の兆候であり、ヴァージニアは病に伏し、後には命を落とすことになる。ヴァージニアの病気による圧迫感から、ポーは過度の飲酒を始めた。ポーはグレアム社を去り、妻の看病や創作活動に時間を取れる公務員になろうと試みた。

ポーはニューヨークに帰還、『ミラー』(Mirror)の編集に参加後、『ブロードウェイ・ジャーナル』(Broadway Journal)の編集長を務め、そのかたわら、短期間『イブニング・ ミラー』紙で活動した。ここでポーは、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローとの公開論争に没頭するようになった。1845年1月29日、イブニング・ミラー紙にポーの詩『大鴉』が公表され、絶賛を博した。

ブロードウェイ・ジャーナルは1846年に倒産した。ポーはブロンクスにある一軒家に引っ越した。この一軒家はグランド・コンコースとキングスブリッジ通りの東南の角にあり、現在でも一般に公開されている。1847年に、ヴァージニアはこの一軒家で亡くなった。愛妻の死から、より精神に不安を来たすようになったポーは、詩人サラ・ヘレン・ホイットマンへの求婚を試みた。この求婚は失敗したが、ポーの飲酒癖と常軌を逸した行動が原因であったとされる。しかしながら、ホイットマンの母親が二人を引き離すために介入したとする証拠も存在する。ポー自身の記述によれば、彼はこの時期に阿片チンキの過剰服用による自殺を試みている。その後、ポーはリッチモンドに帰郷し、その頃には未亡人となっていた幼馴染の恋人サラ・エルミラ・ロイスターとの関係を再開した。

1849年10月3日、ボルチモア市の路上で重篤状態に陥っているところを発見されたポーは、ワシントン大学病院へ搬送され、10月7日の朝に死亡した。多くの資料は、ポーの最期の言葉は“It's all over now; write Eddy is no more.(もう何もかも終わりだ、墓には「エディはもういない」と刻んでくれ)”であったとしている。別の資料は、“Lord, help my poor soul.(主よ、哀れな魂をお救いください)”であったとしている。ポーの死因については諸説あるが、最期を看取ったJ・E・スノッドグラス医師は、過度の飲酒が直接の死因だと述べている。

[ヴァージニア・クレム]
ポーがヴァージニアと結婚したとき、ポーは27歳4ヶ月、ヴァージニアは13歳9ヶ月だった。ヴァージニアのあまりにも若すぎる結婚に対して風当たりが強かったときに、ポーは彼女に対して「私の恋人、私の優しい妹、私の可愛いちっちゃな奥さん。あなたの従兄エディの心を破滅させる前に、よく考えてみてね」という内容の手紙を送っている。1842年の1月、ヴァージニアはピアノを弾きながら歌をうたっているときに喀血。それ以降ポーは、愛する妻の死という現実から逃れようと深酒を繰り返し、また神経的な憂鬱症を深めていくこととなる。1847年1月30日、彼女は貧しさの中、24歳の若さで結核で死ぬ。その後、ポーの生活はかなり荒んだものとなっていく。ヴァージニアの死後2年半後、ポーは40歳で亡くなる。ポーの死後2日目に地元新聞『ニューヨーク・トリビューン』紙に、ヴァージニアへの愛を詠ったとされる『アナベル・リー』が発表される。ヴァージニアが死ぬ直前に、ポーに対して語りかけた言葉が記録に残っている。「私が死んだなら、あなたを守る天使になってあげる。あなたが悪いことをしそうになったら、その時は両手で頭を抱えるの。私が守ってあげるから……」。

[作品]

[オーギュスト・デュパンもの]
モルグ街の殺人(The Murders in the Rue Morgue)(1841年)
マリー・ロージェの謎(The Mystery of Marie Roget)(1842年)
盗まれた手紙(The Purloined Letter)(1845年)

[その他の小説]
1833年

壜のなかの手記(Ms. Found in a Bottle)
1835年

息の喪失(Loss of Breath)
影(Shadow)
ハンス・プファールの無類の冒険(The Unparalleled Adventure of One Hans Pfaall)
ペスト王(King Pest)
ベレニス(Berenice)
ボンボン(Bon-Bon)
名士の群れ(Lionizing)
モレラ(Morella)
約束ごと(The Assignation)
1836年

エルサレムの物語(A Tale of Jerusalem)
オムレット公爵(The Duc De L'omelette)
四獣一体(Four Beasts in One)
メッツェンガーシュタイン(Metzengerstein)
1837年

沈黙(Silence)
ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語(The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket)
1838年

リジイア(Ligeia)
1839年

アッシャー家の崩壊(The Fall of the House of Usher)
ウィリアム・ウィルソン(William Wilson)
鐘楼の悪魔(The Devil in the belefry)
使いきった男(The Man That Was Used Up)
1840年

実業家(The Business Man)
ジューリアス・ロドマンの日記(Journal of Julius Rodman)
1841年

赤死病の仮面(The Masque of the Red Death)
大渦に呑まれて(メエルシュトレエムに呑まれて)(A Descent into the Maelstrom)
1842年

落とし穴と振り子(陥穽と振子)(The Pit and the Pendulum)
庭園(The Landscape Garden)
1843年

黄金虫(The Gold Bug)
黒猫(The Black Cat)
告げ口心臓(The Tell-Tale Heart)
1844年

「お前が犯人だ」(Thou Art the Man)
軽気球夢譚(The Balloon-Hoax)
長方形の箱(The Oblong Box)
鋸山奇談(A Tale of the Ragged Mountains)
1845年

ヴァルドマアル氏の病症の真相(The Facts in the Case of Mr.Valdemar)
シェヘラザーデの千二夜の物語(The Thousand-and-Second Tale of Scheherazade)
タール博士とフェザー教授の療法(The System of Dr.Tarr and Prof.Feather)
ミイラとの論争(Some Words with a Mummy)
1846年

アモンティリヤアドの酒樽(The Cask of Amontillado)
1847年

アルンハイムの地所(The Domain of Arnheim)
1849年

フォン・ケンペレンと彼の発見(Von Kempelen and His Discovery)
メロンタ・タウタ(Mellonta Tauta)
1850年

悪魔に首を賭けるな(Never Bet the Devil Your Head)
天邪鬼(The Imp of the Perverse)
ウィサヒコンの朝(Morning on the Wissahicon)
Xだらけの社説(Xずくめの社説)(X-Ing a Paragraph)
エレオノーラ(Eleonora)
群衆の人(The Man of the Crowd)
煙に巻く(Mystification)
催眠術の啓示(Mesmeric Revelation)
週に三度の日曜日(Three Sundays in a Week)
スフィンクス(The Sphinx)
楕円形の肖像(The Oval Portrait)
チビのフランス人は、なぜ手に吊繃帯をしているのか?(Why the Little Frenchman Wears His Hand in a Sling)
ちんば蛙(Hop-Frog)
早すぎた埋葬(早まった埋葬)(The Premature Burial)
不条理の天使(The Angel of the Odd)
眼鏡(The Spectacles)
妖精の島(The Island of the Fay)
ランダーの別荘(Landor's Cottage)

[評論やエッセイなど]
メルツェルの将棋差し(Maelzel's Chess-Player)(1836年)

[代表的な詩]
大鴉(The Raven)
アナベル・リー(Annabel Lee)

[参考文献]
創元推理文庫 『ポオ小説全集1』 エドガー・アラン・ポー著 ISBN 4-488-52201-7
創元推理文庫 『ポオ小説全集2』 エドガー・アラン・ポー著 ISBN 4-488-52202-5
創元推理文庫 『ポオ小説全集3』 エドガー・アラン・ポー著 ISBN 4-488-52203-3
創元推理文庫 『ポオ小説全集4』 エドガー・アラン・ポー著 ISBN 4-488-52204-1
創元推理文庫 『ポオ 詩と詩論』 エドガー・アラン・ポー著 ISBN 4-488-52205-X
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポー エドガー・アラン:作家別作品リスト(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person94.html

2008年6月 1日 (日)

「生きるための兆し」を認識でき22パタ-ン

「生きるための兆し」を認識でき22パタ-ン

◆タロットは砂漠の民たちによって見い出され、神話時代を経て、宗教によって弾圧され、15 世紀、ルネッサンスと個人が自分を見い出そうとする自己探求に興味が向けられた時、歴史の表舞台に現われてきました。

タロット――TORAは人生の規範です。
これは B.C.500年~B.C.300年頃に人類の伝承を集大成して確立された人間の英知を、
「生きた言葉」として使えるようにするシステムである。

「生者の書」としての「タロット」は、人生の障害が、13であることを暴き出し、
それからの解決方法を教えてくれるカードです。

◆「13の障害」の根本的原因の中心は、人間は、父、母、子供の内に魂を形成する上で、最も永続的な問題が生まれるということです。  
現代の心理学では、あらゆる生物の中で人間だけが、母親がいつまでも手をかけずには生きられないのだと言います。
人間は母の体内から出てくるのが早すぎるために、外に出てからの母親の庇護下に置かれる胎内期間が延長されます。
生命ある存在として完璧でなく、外界に対応する準備が整わずに、依存、嫉妬、敵対などのおびただしい障害を生んでいます。
これが人間自身の手で人生に障害が生まれる主要な原因です。

◆そしてタロットの源流となった古代の神話を生んだ人たちは、
通過儀礼という、過去と断絶し、
不完全なそれまでの性情、慣習、従来の生活態度を根こそぎ切り払うという生き方を
採用することによって、未来を切り開きました。
それを今日では「創造」という言葉として捉えることが出来ます。
そして神話を形成することによって絶えず心の進化を実践した彼らの人生には、
今日の私たちが体験しているような犯罪や事件や不倫などは、全くありませんでした。

◆ 人生には「13の障害」があるという運命論を教えてくれますが、
タロットの象徴学を学び、神話的なエネルギーに接続することは、
それだけで人生の障害の70 %は自動的に消滅します。
日常の障害からの「分離」、そしてそのような人生の「変容」、更に新しい人生への「再生」が、「タロット」が私たちにもたらせてくれるものです。

Tarot2 Tarot1

 
占いやゲーム性の底に秘められたTAROTの真意を、
ユーモラスで哲学的なペンギンのキャラクターによって顕した大アルカナ22枚
TAROT図形学より、視覚からも分りやすく覚えられる
「ペンギンタロット」の世界へ・・・
新しいアテンション(注意)と上昇力を前向きに促すために作られたカードです。

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-Tarot3

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大アルカナ22枚組1セット・解説書A4版16頁付 

「ペンギンタロット」申込・お問い合せ 
http://koinu.cside.com/

■■■■■■品切などのお詫び■■■■■■
好評につき「ペンギンタロット」解説書A4版16頁は、手作りにつき品切れとなりました。今後申込される分には、解説書はコンパクトサイズで、A6版18面となります。

「生きるための兆し」を認識できる22パターンには、神話のコードが多様に含まれている。それは関心のある人には掘り下げる意味もあるのだが、全くと言ってイイほど神学が目的でないから、用心深くそれらのキーワードも可能なかぎりはずして、解り易さと実用としての道具カードに徹した解説書となった。
一枚の図版には本一冊分の内容が刻まれてることも、カードを作ってよく体現した。時間があるときに、現代の人にも理解できうる物語の要因をさらに詳しく書きとめたいと思う。いずれインターネットでも配信を予定している。

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
フォト

22カードの意味

  • _0 愚者
    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

オンライン状態

ペンギンタロットの原画

  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。