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2008年8月23日 (土)

黒死館殺人事件 31

    三、父よ、吾も人の子なり(パテル・ホモ・スム)

 昨年問題の遺言書が発表された――その席上からいち早く出て、算哲がそこへ達しない以前に、金庫の中から、焼き捨てられた全文を映し取った乾板を、取り出した人物がなければならなかった。そうであるからして、その人物の名を印した伸子の封書を握りしめて、法水が、心の中でそう叫んだのも当然であると云えよう。しかし、封を切って、内容(なかみ)を一瞥(いちべつ)した瞬間に、どうしたことか彼の瞳から輝きが失せ、全身の怒張がいっせいに弛(ゆる)んでしまって、その紙片を力なげに卓上へ抛り出した。検事が吃驚(びっくり)して覗き込んでみると、それには人の名はなく、次の一句が記されているのみだった。
 ――昔ツーレ(一)に聴耳筒(ラウシュレーレン)(二)ありき。

注(一)ツーレ――。ゲーテの「ファウスト」の中で、グレートヘンが唄う民謡の最初の出。その時ファウストから指環を与えられたのが開緒となって、彼女の悲運が始まるのである。
(二)聴耳筒――。西班牙(スペイン)宗教審問所に設けられたのが最初。ウファ映画「会議が踊る」の中で、メテルニッヒがウエリントンの会話などを盗み聴くあれがそうである。

「なるほど、聴耳筒(ラウシュレーレン)か――。その恐ろしさを知っているのは、独り伸子のみならずさ」と法水は、苦笑を交えながら独り頷(うなず)きをして、「事実も事実、ファウスト博士の隠形聴耳筒(おんぎょうラウシュレーレン)たるや、時と場所とに論なく、僕等の会話を細大洩らさず聴き取ってしまうのだからね。だから、当然迂闊(うかつ)なことでもしようものなら、伸子がグレートヘンの運命に陥るのは判りきった話なんだよ。必ず何かの形で、あの悪鬼の耳が陰険な制裁方法を採らずにおくもんか」
「まず、それはいいとしてだ……。ところで、くどいようだけど、君がいま再現した神意審問会の光景だがね」とその声に法水が見上げると、検事の顔に疑い深そうな皺(しわ)が動いていた。「君は、ダンネベルグ夫人を第二視力者(セカンド・サイター)だと云って、しかも驚くべきことには、犯人がその幻覚を予期していたと結論している。けれども、そういうような、精神の超形而上的な型式が――だ。仮りにもし、軽々と予測され得るものだと云うのなら、君の論旨はとうてい曖昧以外にはないな。けっして深奥だとは云えない」
 法水はちょっと身振をして皮肉な嘆息をしたが、検事をまじまじと見詰めはじめて、「どうして、僕はヒルシュじゃあるまいし……。ダンネベルグ夫人をそれほど神秘的な英雄めいた――例えばスウェーデンボルグやオルレアンの少女(おとめ)みたいな、慢性幻覚性偏執症(パラノイア・ハルツィナトリア・クローニカ)だと云うわけじゃないのだよ。ただ、夫人のある機能が過度に発達しているので、時偶(ときたま)そういう特性が、有機的な刺戟に遇うと、感覚の上に技巧的な抽象が作られてしまう。つまり、漠然と分離散在しているものを、一つの現実として把握してしまうのだ。それに支倉君、フロイドは幻覚というものに、抑圧されたる願望の象徴的描写――という仮説を立てている。勿論夫人の場合では、それが算哲の禁断に対する恐怖――つまり云うと、レヴェズとの冒してはならぬ恋愛関係に起源を発していたのだ。それだから、犯人が夫人の幻覚を予期し得る条件としては、当然その間の経緯(いきさつ)を熟知していなければならない。また、ひいてはそれが一案を編み出させて、屍体蝋燭に水晶体凝視(クリスタル・ゲージング)を起すような、微妙な詭計を施した。それで、夫人を軽い自己催眠に誘ったのだったよ。ところが支倉君、その潜勢状態という観念が、僕に栄光を与えてくれた……」
 そう鋭く言葉を截ち切って、それから黙々と考えはじめたが、そのうち幾つかの[#「幾つかの」は底本では「幾つかのの」]莨(たばこ)を換える間に、法水は一つの観念を捉え得たらしかった。彼は、旗太郎・セレナ夫人・伸子の三人を至急喚(よ)ぶように命じてから、再び礼拝堂に降りて行った。人気のないガランとした礼拝堂の内部には、いかにも佗(わび)しげな陰鬱な灰色をしたものが、いっぱいに立ち罩(こ)めていて、上方に見透しもつかぬほど拡がっている闇が、天井を異様に低く見せた。その中に光と云えば、聖壇に揺れている微かな灯のみで、それが、全体の空間をなおいっそう小さく思わせた。そこから暗く生暖(なまぬる)い、まるで何かの胎内ででもあるかのような――それでいて、妙に赭(あか)みを帯びた闇が始まっていた。おまけに、その絶えずはためいている金色の輪には、見詰めていると眼を痛めるような熾烈(しれつ)な感覚があって、あたかもそれが、法水の酷烈をきわめた熱意と力――成敗をこの一挙に決し、ファウスト博士の頭上に、地獄の礎石円柱を震い動かさんばかりの刑罰――を下そうとする、それのごとくに思われるのだった。やがて、六人は円卓(テーブル)を囲んで座に着いた。その夜の旗太郎は、平常(ふだん)なら身ごなしに浮き身をやつす彼には珍しく、天鵞絨(びろうど)の短衣(チョッキ)のみを着ていて、絶えず伏眼になったまま、その薄気味悪いほどの光のある、白い手を弄(もてあそ)んでいた。その側(かたわら)に、伸子の小さい甲斐甲斐(かいがい)しい手が――その乾杏(ほしあんず)のように、健康そうな艶やかさが、いとも可愛らしげに照り映えているのである。しかし、セレナ夫人を見ると、相変らず恋の楯にでも見るような、いかにも紋章的な貴婦人だった。けれども、その箍骨(たがぼね)張りの腰衣(スカート)に美斑(いれぼくろ)とでも云いたい古典的な美しさの蔭には、やはり、脈搏の遅い饒舌(じょうぜつ)を忌(い)み嫌うような、静寂主義者(キエティスト)らしい静けさがあった。が、一座の空気は、明らかに一抹(いちまつ)の危機をはらんでいた。それはあながち、津多子を除外した法水の真意が、奈辺(なへん)にあるや疑うばかりでなく、それぞれに危懼(きぐ)と劃策(かくさく)を胸に包んでいると見えて、ちょっとの間だったけれども、妙に腹の探り合いでもしているかのような沈黙が続いた。そのうち、セレナ夫人がチラと伸子に流眄(ながしめ)をくれると、恐らく反射的に口を突いて出たものがあった。
「法水さん、証言に考慮を払うということが、だいたい捜査官の権威に関しますの。確かに先刻(さっき)の方々は、伸子さんが動いた衣摺(きぬず)れの音を聴いたのでしたわ」
「いいえ、竪琴(ハープ)の前枠に手をかけていて、私は、そのまま凝(じ)っと息を凝(こ)らしておりました」と伸子は躊(ため)らわずに、自制のある調子で云い返した。「ですから、長絃だけが鳴ったと云うのなら、また聞えた話ですけど……。とにかく、貴女様の寓喩(アレゴリー)は、全然実際とは反対なのでございます」
 その時旗太郎が、妙に老成したような態度で、冷たい作り笑いを片頬(かたほほ)に泛(うか)べた。「さて、その妖冶(ようや)な性質を、法水さんに吟味して頂きたいですがね。――そもそも、あの時竪琴(ハープ)の方から近づいてきた、気動というのが何を意味するか。ところが、その楽音嚠喨(クリングクランゲ)たるやです。美しい近衛胸甲騎兵(ガルド・キュイラシエール)の行進ではなくて、あの無分別者ぞろいの、短上衣(ヤッケ)をはだけて胸毛を露き出して、ぷんぷん鹿が落した血の跡を嗅ぎ廻るといった、黒色猟兵(シュワルツ・イエガー)だったのです。いやきっと、あいつは人肉(フライッシュ)が嗜(す)きなんでしょうよ」
 そうして、追及される伸子の体位は、明らかに不利だった。その残忍な宣告が、永遠に彼女を縛りつけてしまったかと思われたが、法水はちょっと熱のあるような眼を向けて、
「いや、たしかそれに、人肉(フライッシュ)ではなく魚(フィッシュ)だったはずですがね。しかし、その不思議な魚が近づいて来たために、かえってクリヴォフ夫人は、貴女がたの想像とは反対の方向に退軍を開始したのでしたよ」と相変らず芝居げたっぷりな態度だったけれども、一挙にそれが、伸子と二人の地位を転倒してしまった。
「ところで、装飾灯(シャンデリヤ)が消えるほんの直前でしたが、その時たしか伸子さんは、全絃にわたってグリッサンドを弾いておられましたね。すると、その直後灯が消された瞬間に、思わず機(はず)みを喰って、全部のペダルを踏みしめてしまったのです。実は、その際に起った唸(うな)りが、ちょうど踏んでいったペダルの順序どおりに起ったものですから、それが、迫って来る気動のように聞えたのですよ。つまり、韻のまだ残っているうちにペダルを踏むと、竪琴(ハープ)には唸りが起る。――貴方がたは、あの悪ゴシップのおかげで、そんな自明の理を、僕から講釈されなければならんのですよ」と瓢逸(ひょういつ)な態度が消えてしまって、法水は俄然厳粛な調子に変った。
「ところが、そうなると、クリヴォフ事件の局面が全然逆転してしまうのです。もし、夫人がその音を聴いたとすれば、当然貴方がた二人の方に後退(あとずさ)りしてゆくでしょうからね。そこで旗太郎さん、その時、弓(キュー)に代って貴方の手に握られたものがあったはずです。いや、むしろ直截(ちょくせつ)に云いましょう。だいたい装飾灯(シャンデリヤ)が再び点いた時に、左利(きき)であるべき貴方が何故、弓(キュー)を右に提琴(ヴァイオリン)を左に持っていたのですか」
 と法水の凄愴な気力から、迸(ほとばし)り落ちてきたものに圧せられて、旗太郎はまったく化石したように硬くなってしまった。それは、恐らく彼にとって、それまでは想像もつかぬほど、意外なものであったに相違ない。法水は、相手を弄(もてあそ)ぶような態度で、ゆったり口を開いた。
「ところで、旗太郎さん、波蘭(ポーランド)の諺(ことわざ)に、提琴奏者(ヴァイオリニスト)は引いて殺す――と云うのがあるのを御存じですか。事実、ロムブローゾが称讃したというライブマイルの『能才及び天才の発達』を見ると、その中に、指が痳痺[#「痳痺」はママ]してきたシューマンやショパン、それから改訂版では、提琴家(ヴァイオリニスト)のイザイエの苦悩などが挙げられていて、なおかつ音楽家の全生命たる、骨間筋(指の筋肉)にも言及しているのです。それによるとライブマイルは、急激な力働がその筋に痙攣(けいれん)を起させる――と説いています。しかし、勿論それは、この場合結論として確実なものではありません。けれども、貴方が演奏家である限りは、とうていその慣性を無視することは出来まいと思われるのです。たぶんあの後には、左手の二つの指で、弓(キュー)を持つのが不可能だったのではありませんか」
「す、すると、もうそれだけですか――貴方の降霊術(ティシュリュッケン)と云うのは? 机の脚をがたつかせて、厭(いや)に耳ざわりな……」とあの不気味な早熟児は、満面に引っ痙(つ)れたような憎悪を燃やせて、やっと嗄(か)すれ出たような声を出した。しかし、法水はさらに急追を休めず、「いやどうして、それこそ正確な中庸な体系(ジャスト・ミリュウ・システム)――なんですよ。それから、貴方は人形の名を、いつぞやダンネベルグ夫人に書かせましたっけね」と驚くべき言葉を放って、その大見得が、一座を昂奮の絶頂にせり上げてしまった。
「実は、先刻(さっき)神意審問会の情景を再現してみたのですが、その場ではしなく、ダンネベルグ夫人が、驚くべき第二視力者(セカンド・サイター)であり、彼女に比斯呈利(ヒステリー)性幻視力が具わっていたのを知ることが出来ました。そうなると、当然発作が起った場合、あの方の痳痺した方の手には、自働手記(心理学者ジャネーの実験に端を発したもので、知らぬ間に筆を持たせた者の痺れた手を、気付かぬように握って、両三回文字を書かせると、その握った手を離した後でも、その通りの文字を自分の筆跡でしたためる――と云う、一種の変態心理現象。)が可能になるではありませんか。いや、伸子さんの室(へや)の扉(ドア)際にあった、鉤裂(かぎざ)きの跡を見ても、夫人の右手が、あの当時痳痺していたことが判るんですよ。しかし、あの場合は、それがもう一段蜻蛉(とんぼ)返りを打って、さらに異様な矛盾を起してしまったのでした。と云うのは、利手(ききて)の異なる方の手で、刺戟を与えた場合には、時折要求した文字ではなく、それに類似したものを書くということなんです。勿論あの夜は、伸子さんが花瓶を倒し、それと入れ代りにダンネベルグ夫人が入って来て、しかも激奮に燃えた夫人は、寝室の帷幕(カーテン)の間から、右肩のみを現わしていました。ですから、時やよしと、貴方は自働手記を試みたのでしたね。しかし、結果において夫人が認(したた)めたものは、貴方が要求したそれとは異なっていたのです」と卓上の紙片に、法水は次の二字を認(したた)め、とくにその中央の三字を円で囲んだ。

Thrse Sere  na

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