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2008年8月23日 (土)

黒死館殺人事件 34

「うん、焔の弁舌だよ。しかも、その焔はけっして見ることは出来ないのだ。しかも、ファウスト博士の最後の儀礼(パンチリオ)で、それは一種の秘密表示(サイファリング・エキスプレッション)なんだ。ねえ支倉君、例えば、髪・耳・唇・耳・鼻――と順々に押えてゆくと、それが Hair(ヘーア). Ear(イーア). Lips(リップス). Ear(イーア). Nose(ノーズ) で、結局 Helen(ヘレン) となる――そういう、秘密表示(サイファリング・エキスプレッション)の一種を、伸子は、他殺から自殺に移ってゆく転機の中に、秘めておいたのだ。ところで、その最初は、屍体で描いたKの文字だが、それは伸子が自企的に起した、比斯呈利(ヒステリー)性痳痺の産物だったのだよ。その幾多の実例が、グーリュとブローの『人格の変換』の中にも記されているとおりで、ある種の比斯呈利(ヒステリー)病者になると、鋼鉄を身体に当てて、その反対側に痳痺を起すことが出来るのだ。つまり、左手を高く挙げて、一方の扉の角に寄り掛っていた所へ、右頬へ拳銃を当てたのだから、当然左半身に強直が起るだろう。そして、そのまま発射とともに、床の上に倒れたので、垂直をなしている左半身が、例の薄気味悪いKの字を描かせてしまったのだ。しかし、勿論それは、地精よいそしめ(コボルト・ジッヒ・ミューヘン)――の表象(シムボル)ではない。その二つの扉(ドア)を結んで、竜舌蘭(リネゾルム・オルキデエ)の繊維が作った――その半円というのは、どう見てもU字形じゃないか。それから、扉に押された拳銃が動いていった線が、あろうことかSの字を描いているんだ。ああ、地精(コボルト)、水精(ウンディネ)、風精(ジルフェ)……。そして、最後に、あの局状(シチュエーション)の真相 Suicide(自殺)を加えると、その全体が Kss となってしまう。そこに、奇矯を絶したファウスト博士の懺悔(ざんげ)文が現われてくるのだ。勿論伸子は、それ以前に或る物体を、『接吻』の像の胴体に隠匿しておいた……」
 それには、二つの異常な霊智が、生死を賭してまで打ち合う壮観が描かれていた。検事は、腐れ溜った息で窒息しそうになったのを、危く吐き出して、
「すると、当然その竜舌蘭(リネゾルム・オルキデエ)の詭計(トリック)が、鐘鳴器(カリリヨン)室の扉や十二宮(ゾーディアック)の円華窓にも行われたのだろうがね。しかし、あの時は旗太郎が犯人に指摘され、自分自身は、勝利と平安の絶頂に上りつめた――そのところで、伸子は不思議にも自殺を遂げているのだ。法水君、そのとうてい解しきれない疑問と云うのは……」
「それが支倉君、あの夜最後に僕が伸子に云った――色は黄なる秋、夜の灯(ともしび)を過ぎれば紅き春の花とならん――というケルネルの詩にあるんだよ。まさにその瞬間、伸子は悲惨な転落を意識しなければならなかったのだ。何故なら、元来アレキサンドライトという宝石は、電燈の光で透かすと、それが真紅に見えるからだ。そこで僕は、伸子がレヴェズにあの室を指定して、自分はアレキサンドライトを髪飾りにつけ、それに電燈の光を透過(すか)させて、レヴェズを失意せしめた――と解釈するに至った。ねえ支倉君、この警句はどうだろうね。レヴェズ――あの洪牙利の恋愛詩人(ツルバズール)は、秋を春と見てこの世を去った――と」と一息深く莨を吸いこんでから二人が惑乱気味に嘆息するのも関わず、法水は云い続けた。
「ところが、あの黄から紅――には、なおそれ以外にも別の意義があって、勿論僕が、サントニンの黄視症を透視したというのも、偶然の所産ではなかったのだよ。何故なら、それから、犯人の潜勢状態を剔抉したからだ。それを他の言葉で云うと、兇行によってうけた犯人の精神的外傷――つまり、その際に与えられた表象や観念の、感覚的情緒的経験の再現にあったのだ。勿論僕は、神意審問会の情景を再現した際に、なんとなく伸子の匂いが強く鼻を打ってきたのだ。で、試みに、譏詞と諷刺のあらん限りを尽し、お座なりの捏造を旗太郎に向けてみた。云うまでもなく、それは伸子の緊張と警戒を取り去るためだったのだが、勿論ダンネベルグ夫人の自働手記は、伸子がテレーズの名を書かせたのだったし、レヴェズの死と拇指痕の真相以外は、何一つ真実でなかったのだよ。それで、ふと黄から紅に――という一言を、アレキサンドライトと紅玉(ルビー)の関係に、寓喩(アレゴリー)として使ってみた。ところが、意外にも、それが全然異なった形となって、伸子の心像の中に現われてしまったのだ。と云うのは、ラインハルトの『抒情詩の快不快の表出』という著述の中に、ハルピンの詩『愛蘭土星学(アイリッシュ・アストロノミー)』のことが記されてある。その中の一句――聖パトリック云いけらく獅子座彼処にあり、二つの大熊、牡牛、そうして巨蟹が(セント・パトリック・セエッド・エ・ライオン・ライス・ゼア・ツウ・ベアス・エ・ブル・エンド・キャンサー)――とその巨蟹(Cancer)という個所に来ると、朗読者は突然、それを運河(Canalar)と発音してしまったと云うのだ。つまり、その朗読者が、それまで星座の形を頭の中に描いていたからで、いわゆるフロイドの云う――言い損いの表明にこびりついている感覚的痕跡――に相違ないのだ。また、一面には聯想というものが、その一字一字には現われず、全体の形体的印象――つまり、空間的な感覚となって現われたとも云えるだろう。しかし、伸子の場合になると、それが、ダンネベルグ事件から礼拝堂の惨劇に至る――都合四つの事件を表出化してしまったのだ。何故なら伸子は、洋橙(オレンジ)と云った後で、麦藁(ストロー)を束にして檸檬水(レモナーデ)を嚥む――という言葉を吐いた。当然それには、鐘鳴器(カリルロン)に並んでいる鍵盤の列が、その印象に背景をなしていると思われた。それから、続いてダンネベルグ夫人の名を、丁抹国旗(ダーネブローグ)(Danebrog)と云い損ったのだが、それには明(あか)らさまに、武具室の全貌が現われているのだ。と云うのは、あの時伸子は、前庭の樹皮亭(ボルケンハウス)の中にいて、レヴェズの作った虹の濛気が、窓から入り込んでゆくのを、眺めていた。ところが、あの樹皮亭の内枠には、様々な詩文が刻み込まれていて、その中にフィッツナーのその時霧は輝きて入りぬ(ダン・ネーベル・ロー・グクテン)(Dann, Nebel-loh-guckten)――の一文があったのだ。つまり、その際の混淆された印象が丁抹国旗(ダーネブローグ)という、相似した失語になって現われたのだよ。そうすると支倉君、あの四句に分れていた伸子の言葉の中で、鐘鳴室(カリルロン)と武具室と――こう二つの印象だけが、奇妙にも、真中に挾まれている。となると……」と言葉を切って、その驚くべき心理分析に、法水は、最後の結論を与えた。
「すると当然、その首尾にある黄と紅――。その二つからうけた感覚が、最初のダンネベルグ事件と、終りの礼拝堂の場面でなければならないだろう。そうして、最後の紅が、絢爛たる宮廷楽師(カペルマイスター)の朱色の衣裳だとすれば、何故最初のダンネベルグ事件から、伸子は、黄という感覚をうけたのだろうか」そのあいだ検事と熊城は、さながら酔えるがごとき感動に包まれていた。が、ややあってから、熊城はおもむろに不明な点を訊ねた。
「しかし、礼拝堂で暗中に聞えたという二つの唸りには、伸子か旗太郎か――そのいずれかを、決定するものがあるように思われるんだが」
「それは、死点(デッドポイント)と焦点(フォーカス)の如何――つまり、音響学の単純な問題にすぎないのさ。たぶんクリヴォフ夫人の位置が、伸子がペダルで出した唸りに対して、死点(デッドポイント)。旗太郎の弓(キュー)が擦れ合って起った響には、あの微かな囁(ささや)きさえも、聴き取れるという焦点(フォーカス)だったに相違ないのだ。そして、夫人が伸子の方に寄ったところを、背後から刺し貫いたのだ。ねえ支倉君、これ以上論ずる問題はないと思うが、ただただ憐憫を覚えるのは、伸子に操られて鞠沓を履かせられ、具足まで着せられた暗愚な易介なんだよ」そう云ってから法水は、最初から順序を追い、伸子の行動を語りはじめた。勿論それによって、ピロカルピンの服用も、一場の悪狡い絵狂言であることが判明した。それから、語り終えると法水は言葉を改めて、いよいよ、黒死館殺人事件の核心をなす疑義中の疑義――どんなに考えてもとうてい窺知し得べくもなかった、伸子の殺人動機に触れた。それは無言の現実だった。ロダンの「接吻(キッス)」の胴体から取り出したものを、法水が衣袋(ポケット)から抜き出した時、思わず二人の眼がその一点に釘付けされてしまった――乾板。そして、幾つかの破片をつなぎ合わせて見ると、それには次の全文が現われたのである。

一、ダ□□ベ□□□□□砒石の□□□□。
一、川那部□□□□、胸腺死の危□□□□。
(特異体質の箇条は、その二つにのみ尽きていて、それ以前のものは不明だった)
一、余は、吾児□犠牲とするに忍□□□□を以て、生れた女児を男児に換えて、生長後余が秘書として手許□□□□□紙谷伸子なり。それ故、旗太郎は□□□□血系には全然触れざるものなり。

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