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2008年8月16日 (土)

黒死館殺人事件  6

    三、易介は挾まれて殺さるべし

 ところが、法水はすぐ鼻先の拱廊へは行かずに、円廊を迂回して、礼拝堂のドームに接している鐘楼階段の下に立った。そして、課員全部をその場所に召集して、まずそこを始めに、屋上から壁廓上の堡楼(ほろう)にまで見張りを立て、尖塔下の鐘楼を注視させた。こうしてちょうど二時三十分、鐘鳴器(カリリヨン)が鳴り終ってからわずかに五分の後には、蟻も洩らさぬ緊密な包囲形が作られたのであった。そのすべてが神速で集中的であり、もう事件がこれで終りを告げるのではないかと思われたほどに、結論めいた緊張の下に運ばれていったのだった。けれども、勿論法水の脳髄を、截ち割って見ないまでは、はたして彼が何事を企図しているのか――予測を許さぬことは云うまでもないのである。
 ところで読者諸君は、法水の言動が意表を超絶している点に気づかれたであろう。それがはたして的中しているや否やは別としても、まさに人間の限界を越さんばかりの飛躍だった。鐘鳴器の音を聴いて、易介の死体を拱廊の中に想像したかと思うと、続いて行動に現われたものは、鐘楼を目している。しかし、その晦迷錯綜としたものを、過去の言動に照し合わせてみると、そこに一縷(る)脈絡するものが発見されるのである。と云うのは、最初検事の箇条質問書に答えた内容であって、その後執事の田郷真斎に残酷な生理拷問を課してまでも、なおかつ後刻に至って彼の口から吐かしめんとした、あの大きな逆説(パラドックス)の事であった。勿論その共変法じみた因果関係は、他の二人にも即座に響いていた。そして、その驚くべき内容が、たぶん真斎の陳述をまたずとも、この機会に闡明(せんめい)されるのではないかと思われるのだった。が、指令を終った後の法水の態度は、また意外だった。再びもとの暗い顔色(がんしょく)に帰って、懐疑的な錯乱したような影が往来を始めた。それから拱廊の方へ歩んで行くうちに、思いがけない彼の嘆声が、二人を驚かせてしまった。
「ああ、すっかり判らなくなってしまったよ。易介が殺されて犯人が鐘楼にいるのだとすると、あれほど的確な証明が全然意味をなさなくなる。実を云うと、僕は現在判っている人物以外の一人を想像していたんだが、それがとんだ場所へ出現してしまった。まさかに別個の殺人ではないだろうがね」
「それじゃ、何のために僕等は引っ張り廻されたんだ?」検事は憤激の色をなして叫んだ。「だいたい最初に君は、易介が拱廊の中で殺されていると云った。ところが、それにもかかわらず、その口の下で見当違いの鐘楼を見張らせる。軌道がない。全然無意味な転換じゃないか」
「さして、驚くには当らないさ」と法水は歪んだ笑を作って云い返した。「それと云うのが、鐘鳴器(カリリヨン)の讃詠(アンセム)なんだよ。演奏者は誰だか知らないが、しだいに音が衰えてきて、最終の一節はついに演奏されなかったのだ。それに最後に聞えた、日午(ひる)は――のところが、不思議にも倍音(ド・レミ・ファと最終のドを基音にした、一オクターヴ上の音階)を発している。ねえ、支倉君、これは、けだし一般的な法則じゃあるまいと思うよ」
「では、とりあえず君の評価を承ろうかね」と熊城が割って入ると、法水の眼に異常な光輝が現われた。
「それが、まさに悪夢なんだ。怖ろしい神秘じゃないか。どうして、散文的に解る問題なもんか」と一旦は狂熱的な口調だったのが、しだいに落着いてきて、「ところで、最初易介が、すでにこの世の人でないとしてだ――勿論何秒か後には、その厳然たる事実が判るだろうと思うが、さてそうなると、家族全部の数に一つの負数があまってしまうのだ。で、最初は四人の家族だが、演奏を終ってすぐ礼拝堂を出たにしても、それから鐘楼へ来るまでの時間に余裕がない。また、真斎はあらゆる点で除外されていい。すると、残ったのは伸子と久我鎮子になるけれども、一方、鐘鳴器の音がパタリと止んだのではなく、しだいに弱くなっていった点を考えると、あの二人がともに鐘楼にいたという想像は、全然当らないと思う、勿論その演奏者に、何か異常な出来事が起ったには違いないけれども、その矢先、讃詠の最後に聞えた一節が、微かながら倍音を発したのだ。云うまでもなく、鐘鳴器の理論上倍音は絶対に不可能なんだよ。すると熊城君、この場合鐘楼には、一人の人間の演奏者以外に、もう一人、奇蹟的な演奏を行える化性のものがいなければならない。ああ、あいつはどうして鐘楼へ現われたのだろうか?」
「それなら、何故先に鐘楼を調べないのだね?」と熊城がなじり掛ると、法水は、幽に声をふるわせて、
「実は、あの倍音に陥穽があるような気がしたからなんだ。なんだか微妙な自己曝露のような気がしたので、あれを僕の神経だけに伝えたのにも、なんとなくたくらみがありそうに思われたからなんだよ。第一犯人が、それほど、犯行を急がねばならぬ理由が判らんじゃないか。それに熊城君、僕等が鐘楼でまごまごしている間、階下の四人はほとんど無防禦なんだぜ。だいたいこんなダダっ広い邸の中なんてものは、どこもかしこも隙だらけなんだ。どうにも防ぎようがない。だから、既往のものは致し方ないにしても、新しい犠牲者だけは何とかして防ぎ止めたいと思ったからなんだ。つまり、僕を苦しめている二つの観念に、それぞれ対策を講じておいたという訳さ」
「フム、またお化けか」と検事は下唇を噛みしめて呟いた。「すべてが度外れて気違いじみている。まるで犯人は風みたいに、僕等の前を通り過ぎては鼻を明かしているんだ。ねえ法水君、この超自然はいったいどうなるんだい。ああ徐々に、鎮子の説の方へまとまってゆくようじゃないか」
 いまだ現実に接していないにもかかわらず、すべての事態が、明白に集束して行く方向を指し示している。やがて、開け放たれた拱廊の入口が眼前に現われたが、突当りの円廊に開いている片方の扉が、いつの間にか鎖じられたとみえて、内部は暗黒に近かった。その冷やりと触れてくる空気の中で、微かに血の臭気が匂ってきた。それが、捜査開始後、まだ四時間にすぎないのである。それにもかかわらず、法水等が暗中摸索を続けているうちに、その間犯人は隠密な跳梁(ちょうりょう)を行い、すでに第二の事件を敢行しているのだ。

 法水は、すぐ円廊の扉を開いて光線を入れてから、左側に立ち並んでいる吊具足の列を見渡しはじめた。が、すぐに「これだ」と云って、中央の一つを指差した。その一つは、萌黄匂(もえぎにおい)の鎧で、それに鍬形(くわがた)五枚立の兜を載せたほか、毘沙門篠(びしゃもんしの)の両籠罩(こて)、小袴(こばかま)、脛当(すねあて)、鞠沓(まりぐつ)までもつけた本格の武者装束。面部から咽喉にかけての所は、咽輪と黒漆の猛悪な相をした面当(めんぼう)で隠されてあった。そして、背には、軍配日月(じつげつ)の中央に南無日輪摩利支天(なむにちりんまりしてん)と認(したた)めた母衣(ほろ)を負い、その脇に竜虎の旗差物(はたさしもの)が挾んであった。しかし、その一列のうちに注目すべき現象が現われていたと云うのは、その萌黄匂を中心にして、左右の全部が等しく斜めに向いているばかりでなく、その横向きになった方向が、かわるがわる一つ置きに一致していて、つまり、右、左、右という風に、異様な符合が現われている事だった。法水がその面当を外すと、そこに易介の凄惨な死相が現われた。はたせるかな、法水の非凡な透視は適中していたのだ。のみならず、ダンネベルグ夫人の屍光と代り合って、この侏儒(こびと)の傴僂(せむし)は奇怪千万にも、甲冑を着し宙吊りになって殺されている。ああ、ここにもまた、犯人の絢爛(けんらん)たる装飾癖が現われているのだった。
 最初眼についたのは、咽喉につけられている二条の切創(きりきず)だった。それを詳しく云うと、合わせた形がちょうど二の字形をしていて、その位置は、甲状軟骨から胸骨にかけての、いわゆる前頸部であったが、創形が楔形をしているので、鎧通し様のものと推断された。また、深さを連ねた形状が、形をしているのも奇様である。上のものは、最初気管の左を、六センチほどの深さに刺してから刀を浮かし、今度は横に浅い切創(せっそう)を入れて迂廻してゆき、右側にくると、再びそこヘグイと刺し込んで刀を引き抜いている。下の一つもだいたい同じ形だが、その方向だけは斜め下になっていて、創底は胸腔内に入っていた。しかし、いずれも大血管や臓器には触れていず、しかも、巧みに気道を避けているので、勿論即死を起す程度のものではないことは明らかだった。
 それから、天井と鎧の綿貫(わたぬき)とを結んでいる二条の麻紐を切り、死体を鎧から取り外しに掛ると、続いて異様なものが現われた。それまでは、不自然な部分が咽輪のたれで隠されていたので判らなかったのだが、不思議な事に、易介は鎧を横に着ているのだった。すなわち、身体を入れる左脇の引合口の方を背後にして、そこからはみ出した背中の瘤起(りゅうき)を、幌骨(ほろぼね)の刳形(くりがた)の中に入れてある。そして、傷口から流れ出たドス黒い血は、小袴から鞠沓(まりぐつ)の中にまで滴り落ちていて、すでに体温は去り、硬直は下顎骨に始まっていて、優に死後二時間は経過しているものと思われた。が、死体を引き出してみると、愕然とさせたものがあった。と云うのは、全身にわたり著明な窒息徴候が現われている事で、無残な痙攣の跡が到る処にゆきわたっているばかりではなく、両眼にも、排泄物にも、流血の色にも、まざまざと一目で頷(うなず)けるものが残されていた。のみならず、その相貌は実に無残をきわめ、死闘時の激しい苦痛と懊悩(おうのう)とが窺われるのだった。が、しかし、気管中にも栓塞したらしい物質は発見されず、口腔を閉息した形跡もないばかりか、索痕(さっこん)や扼殺(やくさつ)した痕跡は勿論見出されなかった。
「まさにラザレフ(聖アレキセイ寺院の死者)の再現じゃないか」と、法水はうめくような声を出した。「この傷は死後に付けられているんだよ。それが、刀を引き抜いた断面を見ても判るんだ。通例では、刺し込んだ途端に引き抜くと、血管の断面が収縮してしまうもんだが、これはダラリと咨開(しかい)している。それに、これほど顕著な特徴をもった、窒息死体を見たことはないよ。残忍冷酷もきわまっている。――恐らく、想像を絶した怖ろしい方法に違いない。そして、窒息の原因をなしたものが、易介には徐々と迫っていったのだ」
「それが、どうして判るんだ?」と熊城が不審な顔をすると、法水はその陰惨きわまる内容を明らかにした。
「つまり、死闘の時間が徴候の度に比例するからなんだが、まさにこの死体は、法医学に新しい例題を作ると思うね。だって、その点を考えたらどうしたって、易介がしだいに息苦しくなっていったと想像するよりほかにないじゃないか。たぶん、その間易介は凄惨な努力をして、なんとかして死の鎖を断とうとしたに違いないのだ。しかし、身体は鎧の重量のために活力を失っている。もはやどうすることも出来ない。そうして、空しく最後の瞬間が来るのを待つうちに、たぶん幼少期から現在までの記憶が、電光のように閃いて、それが、次から次へと移り変っていったに違いないのだよ。ねえ熊城君、人生のうちでこれほど悲惨な時間があるだろうか。また、これほど深刻な苦痛を含んだ、残忍な殺人方法がまたと他にあるだろうか」
 さすがの熊城も、その思わず眼を覆いたいような光景を想起して、ブルッと身ぶるいしたが、「しかし、易介は自分からこの中に入ったのだろうか。それとも犯人が……」
「いや、それが判れば殺害方法の解決もつくよ。第一、悲鳴をあげなかったことが疑問じゃないか」と法水がアッサリ云いのけると、検事は兜の重量でペシャンコになっている死体の頭顱を指差して、彼の説を持ち出した。
「僕はなんだか、兜の重量に何か関係があるような気がするんだ。無論、創(きず)と窒息の順序が顛倒してりゃ、問題はないがね……」
「そうなんだ」と法水は相手の説に頷(うなず)いたが、「一説には、頭蓋のサントリニ静脈は、外力をうけてからしばらく後に、血管が破裂すると云うからね。その時は、脳質が圧迫されるので、窒息に類した徴候が表われるそうだよ。しかし、これほど顕著なものじゃない。だいたいこの死体のは、そういった頓死的なものではないのだよ。じわじわと迫っていったのだ。だから、むしろ直接死因には、咽輪の方に意味がありそうじゃないか。無論気管を潰すというほどじゃないが、相当頸部の大血管は圧迫されている。すると、易介がなぜ悲鳴を上げなかったか――判るような気がするじゃないか」
「フム、と云うと」
「いや、結果は充血でなくて、反対に脳貧血を起すのだよ。おまけに、グリージンゲルという人は、それに癲癇様の痙攣を伴うとも云っているんだ」と法水はなにげなさそうに答えたけれども、なにやら逆説(パラドックス)に悩んでいるらしく、苦渋な暗い影が現われていた。熊城は結論を云った。
「とにかく、切創(せっそう)が死因に関係ないとすると、この犯行は、恐らく異常心理の産物だろう」
「いやどうして」と法水は強くくびを振って、「この事件の犯人ほど冷血な人間が、どうして打算以外に、自分の興味だけで動くもんか」
 それから、指紋や血滴の調査を始めたが、それには、いっこう収穫はなかった。わけても甲冑の内部以外には、一滴のものすら発見されなかったのである。調査が終ると、検事は、法水が透視的な想像をした理由を訊ねた。
「君はどうして、易介がここで殺されているのが判ったのだね」
「無論鐘鳴器の音でだよ」と法水は無雑作に答えた。「つまり、ミルの云う剰余推理さ。アダムスが海王星を発見したというのも、残余の現象は或る未知物の前件である――という、この原理以外にはないことなんだ。だって、易介みたいな化物が姿を消しても、発見されない。そこへ持ってきて、倍音以外にもう一つ、鐘鳴器(カリリヨン)の音に異常なものがあったからだよ。扉で遮断された現場の室とは異なって、廊下では、空間が建物の中に通じているのだからね」
「と云うのは……」
「その時残響が少なかったからだよ。だいたい鐘には、ピアノみたいに振動を止める装置がないので、これほど残響のいちじるしいものはない。それに、鐘鳴器は一つ一つに音色も音階も違うのだから、距離の近い点や同じ建物の中で聴いていると、後から後からと引き続いて起る音に干渉し合って、終いには、不愉快な騒音としか感ぜられなくなってしまうのだ。それを、シャールシュタインは色彩円の廻転に喩えて、初め赤と緑を同時にうけて、その中央に黄を感じたような感覚が起るが、終いには、一面に灰色のものしか見えなくなってしまう――と。まさに至言なんだよ。まして、この館には、所々円天井や曲面の壁や、また気柱を作っているような部分もあるので、僕は混沌としたものを想像していた。ところが、さっきはあんな澄んだ音が聞えたのだ。外気の中へ散開すれば、当然残響が稀薄になるのだから、その音は明らかに、テラスと続いているフランス窓から入って来る。それを知って、僕は思わずがくっとしたのだ。では何故かと云うと、どこかに、建物の中から広がってくる、噪音を遮断したものがなけりゃならない。区劃扉は前後とも閉じられているのだから、残っているのは、拱廊の円廊側に開いている扉一つじゃないか。しかし、さっき二度目に行った時は、確か左手の吊具足側の一枚を、僕は開け放しにしておいたような記憶がする。それに、あそこは他の意味で僕の心臓に等しいのだから、絶対に手をつけぬように云いつけてあるんだ。無論それが閉じられてしまえば、この一劃には、吸音装置が完成して、まず残響に対してはデット・ルームに近くなってしまうからだ。だから、僕等に聞えてくるのは、テラスから入る、強い一つの基音よりほかになくなってしまうのだよ」
「すると、その扉は何が閉じたのだ?」
「易介の死体さ。生から死へ移って行く凄惨な時間のうちに、易介自身ではどうにもならない、この重い鎧を動かしたものがあったのだ。見るとおりに、左右が全部斜めになっていて、その向きが、一つ置きに左、右、左となっているだろう。つまり、中央の萌黄匂が廻転したので、その肩罩板が隣りの肩罩を横から押して、その具足も廻転させ、順次にその波動が最終のものにまで伝わっていったのだ。そして、最終の肩罩板がノッブを叩いて、扉を閉めてしまったのだよ」
「すると、この鎧を廻転させたものは?」
「それが、兜と幌骨なんだ」と云って、法水は母衣(ほろ)を取りのけ、太い鯨筋(げいきん)で作った幌骨を指し示した。「だって、易介がこれを通常の形に着ようとしたら、第一、背中の瘤起がつかえてしまうぜ。だから、最初に僕は、易介が具足の中で、自分の背の瘤起をどう処置するか考えてみた。すると思い当ったのは、鎧の横にある引合口を背にして、幌骨の中へ背瘤を入れさえすれば、――という事だったのだ。つまり、この形を思い浮べたという訳だが、しかし病弱非力の易介には、とうていこれだけの重量を動かす力はないのだ」
「幌骨と兜?」と熊城はいぶかしそうに何度となく繰り返すのだったが、法水は無雑作に結論を云った。
「ところで、僕が兜と幌骨と云った理由を云おう。つまり、易介の体が宙に浮ぶと、具足全体の重心が、その上方へ移ってしまう。のみならず、それが一方に偏在してしまうのだ。だいたい、静止している物体が自働的に運動を起す場合というのは、質量の変化か、重点の移動以外にはない。ところが、その原因と云うのが、事実兜と幌骨にあったのだよ。それを詳しく云うと、易介の姿勢はこうなるだろう。脳天には兜の重圧が加わっていて、背の瘤起は、幌骨の半円の中にスッポリとはまり込み、足は宙に浮いている、云うまでもなく、これは非常に苦痛な姿勢に違いないのだ。だから、意識のあるうちは、当然手足をどこかで支えてしのいでいたろうから、その間は重心が下腹部辺りにあるとみて差支えない。ところが、意識を喪失してしまうと、支える力がなくなるので、手足が宙に浮いてしまい、今度は重点が幌骨の部分に移ってしまうのだ。つまり、易介自身の力ではなくて、固有の重量と自然の法則が決定した問題なんだよ」
 法水の超人的な解析力は、今に始まったことではないけれども、瞬間それだけのものを組み上げたかと思うと、馴れきった検事や熊城でさえも、脳天がジインとしびれゆくような感じがするのだった。法水は続いて云った。
「ところで、絶命時刻の前後に、誰がどこで何をしていたか判ればいいのだがね。しかし、これは鐘楼の調査を終ってからでもいいが……、とりあえず熊城君、傭人(やといにん)の中で、最後に易介を見た者を捜してもらいたいのだ」
 熊城は間もなく、易介と同年輩ぐらいの召使を伴って戻ってきた。その男の名は、古賀庄十郎と云うのだった。
「君が最後に易介を見たのは、何時頃だったね」とさっそくに法水が切り出すと、
「それどころか、私は、易介さんがこの具足の中にいたのも存じておりますので。それから、死んでいるという事も……」と気味悪そうに死体から顔をそむけながらも、庄十郎は意外なことばを吐いた。
 検事と熊城は衝動的に眼をみはったが、法水は和やかな声で、
「では、最初からの事を云い給え」
「初めは、確か十一時半頃だったろうと思いますが」と庄十郎は、割合わるびれのしない態度で答弁を始めた。「礼拝堂と換衣室との間の廊下で、死人色をしたあの男に出会いました。その時易介さんは、とんだ悪運に魅入られて真先に嫌疑者にされてしまった――と、爪の色までも変ってしまったような声で、愚痴たらたらに並べはじめましたが、私は、ひょいと見るとあまり充血している眼をしておりますので、熱があるのかと訊ねましたら、熱だって出ずにはいないだろうと云って、私の手を持って自分の額に当てがうのです。まず八度くらいはあったろうと思われました。それから、とぼとぼ広間の方へ歩いて行ったのを覚えております。とにかく、あの男の顔を見たのは、それが最後でございました」
「すると、それから君は、易介が具足の中に入るのを見たのかね」
「いいえ、ここにある全部の吊具足が、グラグラ動いておりましたので……たぶんそれが、一時を少し廻った頃だったと思いますが、御覧のとおり円廊の方の扉が閉っていて、内部は真暗でございました。ところが金具の動く微かな光が、眼に入りましたのです。それで、一つ一つ具足を調べておりますうちに、偶然この萌黄匂の射籠罩(いごて)の蔭で、あの男のてのひらを掴んでしまったのです。とっさに私は、ハハアこれは易介だなと悟りました。だいたいあんな小男でなければ、誰が具足の中へからだを隠せるものですか。ですからその時、オイ易介さんと声を掛けましたが、返事もいたしませんでした。しかし、その手は非常に熱ばんでおりまして、四十度は確かにあったろうと思われました」
「ああ、一時過ぎてもまだ生きていたのだろうか」と検事が思わず嘆声をあげると、
「さようでございます。ところが、また妙なんでございます」と庄十郎は何事かを仄めかしつつ続けた。「その次はちょうど二時のことで、最初の鐘鳴器が鳴っていた時でございましたが、田郷さんを寝台にねかしてから、医者に電話を掛けに行く途中でございました。もう一度この具足の側に来てみますと、その時は易介さんの妙な呼吸使いが聞えたのです。私はなんだか薄気味悪くなってきたので、すぐに拱廊を出て、刑事さんに電話の返事を伝えてから、戻りがけにまた、今度は思いきっててのひらに触れてみました。すると、わずか十分ほどの間になんとしたことでしょう。その手はまるで氷のようになっていて、いきもすっかり絶えておりました。私は仰天して逃げ出したのでございます」
 検事も熊城も、もはや言葉を発する気力は失せたらしい。こうして庄十郎の陳述によって、さしも法医学の高塔が、無残な崩壊を演じてしまったばかりでない。円廊に開いている扉の閉鎖が、一時少し過ぎだとすると、法水の緩窒息説も根柢からくつがえされねばならなかった。易介の高熱を知った時刻一つでさえ、推定時間に疑惑を生むにもかかわらず、一時間という開きはとうてい致命的だった。のみならず、庄十郎の挙げた実証によって解釈すると、易介はわずか十分ばかりの間に、ある不可解な方法によって窒息させられ、なおその後に咽喉を切られたと見なければならない。その名状し難い混乱の中で、法水のみは鉄のような落着きを見せていた。
「二時と云えば、その時鐘鳴器で経文歌が奏でられていた……。すると、それから讃詠が鳴るまでに三十分ばかりの間があるのだから、前後の聯関には配列的に隙がない。事によると鐘楼へ行ったら、たぶん易介の死因について、何か判ってくるかもしれないよ」と独白じみた調子でつぶやいてから、「ところで、易介には甲冑の知識があるだろうか」
「ハイ、手入れは全部この男がやっておりまして、時折具足の知識を自慢げに振り廻すことがございますので」
 庄十郎を去らせると、検事はそれを待っていたように云った。
「ちと奇抜な想像かもしれないがね。易介は自殺で、この創は犯人が後で附けたのではないだろうか」
「そうなるかねえ」と法水は呆れ顔で、「すると、事によったら吊具足は、一人で着られるかもしれないが、だいたい兜の忍緒(しのびお)を締めたのは誰だね。その証拠には、他のものと比較して見給え。全部正式な結法で、三乳(みつぢ)から五乳(いつぢ)までの表裏二様――つまり六とおりの古式によっている。ところが、この鍬形五枚立の兜のみは、甲冑に通暁している易介とは思われぬほど作法はずれなんだ。僕がいま、この事を庄十郎に訊ねたと云うのも、理由はやはり君と同じところにあったのだよ」
「だが男結びじゃないか」と熊城が気負った声を出すと、
「なんだ、セキストン・ブレークみたいなことを云うじゃないか」と法水は軽蔑的な視線を向けて、「たとえ男結びだろうと、男がはいた女の靴跡があろうとどうだろうと……、そんなものが、この底知れない事件で何の役に立つもんか。これはみな、犯人の道しるべにすぎないんだよ」と云ってからものうげな声で、
「易介は挾まれて殺さるべし――」と呟いた。
 黙示図において、易介の屍様を預言しているその一句は、誰の脳裡にもあることだったけれども、妙に口にするのをはばむような力を持っていた。続いて、引き摺られたように検事も復誦したのだったが、その声がまた、この沼水のような空気を、いやが上にも陰気なものにしてしまった。
「ああ、そうなんだ支倉君、それが兜と幌骨――なんだよ」と法水は冷静そのもののように、「だから、一見したところでは、法医学の化物みたいでも、この死体に焦点が二つあろうとは思われんじゃないか。むしろ、本質的な謎というのは、易介がこの中へ、自分の意志で入ったものかどうかということと、どうして甲冑を着たか……つまり、この具足の中に入る前後の事情と、それから、犯人が殺害を必要としたところの動機なんだ。無論僕等に対する挑戦の意味もあるだろうが」
「ばかな」熊城は憤まんの気をこめて叫んだ。「口をふさぐよりも針を立てよ――じゃないか。見え透いた犯人の自衛策なんだ。易介が共犯者であるということは、もうすでに決定的だよ。これがダンネベルグ事件の結論なんだ」
「どうして、ハプスブルグ家の宮廷陰謀じゃあるまいし」と法水は再び、直観的な捜査局長を嘲った。
「共犯者を使って毒殺を企てるような犯人なら、とうに今頃、君は調書の口述をしていられるぜ」
 それから廊下の方へ歩み出しながら、
「さて、これから鐘楼で、僕のまぐれあたりを見ることにしよう」
 そこへ、硝子の破片がある附近の調査を終って、私服の一人が見取図を持って来たが、法水は、その図で何やら包んであるらしい硬い手触りに触れたのみで、すぐポケットに収め鐘楼におもむいた。二段に屈折した階段を上りきると、そこはほぼ半円になった鍵形の廊下になっていて、中央と左右に三つの扉があった。熊城も検事も悲壮に緊張していて、罠の奥にうずくまっているかもしれない、異形な超人の姿を想像しては息をつめた。ところが、やがて右端の扉が開かれると、熊城は何を見たのか、ドドドッと右手に走り寄った。壁際にある鐘鳴器の鐘盤の前では、はたせるかな紙谷伸子が倒れていたのだ。それが、演奏椅子に腰から下だけを残して、そのままの姿で仰向けとなり、右手にしっかりと鎧通(よろいどお)しを握っているのだった。
「ああ、こいつが」と熊城は何もかも夢中になって、伸子の肩口を踏みにじったが、その時法水が中央の扉を、ほとんど放心の態で眺めているのに気がついた。卵色の塗料の中から、ポッカリ四角な白いものが浮き出ていた。近寄ってみると、検事も熊城も思わず身体が竦(すく)んでしまった。その紙片には……
 Sylphus(ジルフス) Verschwinden(フェルシュヴィンデン)(風精(ジルフス)よ消え失せよ)

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