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2008年8月16日 (土)

黒死館殺人事件 8

    二、死霊集会(シエオール)の所在

 沃化(ようか)銀板――すでに感光している乾板を前にして、法水もさすが二の句が継げなかった。事実この事件とは、異常に隔絶した対照をなしているからであった。それなので、紆余曲折をたどたどしくたどって行って、最初からの経過を吟味してみても、だいたい乾板などという感光物質によって、標章形象化される個所は勿論のことだが、それに投射し暗喩するような、連字符一つさえ見出されないのである。それがもし、実際に犯罪行動と関係あるものなら、恐らく神業であるかもしれない。こうして、しばらく死んだような沈黙が続いた。その間召使が炉に松薪を投げ入れ、室内がぽっかり暖まってくると、法水は焔の舌を見やりながら、微かに嘆息した。
「ああ、まるで恐竜(ドラゴン)の卵じゃないか」
「だが、いったい何に必要だったのだろう?」と検事は法水の強喩法(カタクレーズ)を平易に述べた。そして、スイッチをひねると、
「まさか撮影用じゃあるまいが」と熊城は、不意の明るさに眼をしばたたきながら、「いや、死霊(おばけ)は事実かもしれん。第一、易介が目撃したそうだが、昨夜神意審問会の最中に、隣室の張出縁で何者かが動いていて、その人影が地上に何か落したと云うそうじゃないか。しかも、その時七人のうちで室を出たものはなかったのだ。だいたい階下の窓から落されたものなら、こんなに細かく割れる気遣いはないよ」
「うん、その死霊(おばけ)は恐らく事実だろうよ」と法水はプウと煙の輪を吐いて、「しかし、あいつがその後に死んでいるという事も、また事実だろう」と意外な奇説を吐いた。「だって、ダンネベルグ事件とそれ以後のものを、二つに区分して見給え。僕の持っているあのパラドックスが、きれいさっぱりと消えてしまうじゃないか。つまり、風精は水神のいたのを知って、それを殺したのだ。けっして、あの二つの呪文が連続しているのに、眩(くら)まされちゃならん。ただし、犯人は一人だよ」
「では、易介以外にも」熊城はびっくりして眼を円くしたが、それを検事が抑えて、
「なあに、捨てておき給え。自分の空想に引っ張り廻されているんだから」と法水をたしなめるように見た。「どうも、君の説は世紀児的(アンファン・デュ・シエクル)だ。自然と平凡を嫌っている。粋人的な技巧には、けっして真性も良識もないのだ。現に、さっきも君は夢のような擬音でもって、あの倍音に空想を描いていた。しかし、同じような微かな音でも、伸子の弾奏がそれに重なったとしたらどうするね?」
「これは驚いた! 君はもうそんな年齢になったのかね」と道化した顔をしたが、法水は皮肉に微笑み返して、「だいたいヘンゼンでもエーワルトでもそうだが、お互いに聴覚生理の論争はしていても、これだけは、はっきりと認めている。つまり、君の云う場合に当る事だが……たとえば同じような音色で微かな音が二つ重なったにしても、その音階の低い方は、内耳の基礎膜に振動を起さないと云うのだ。ところが、老年変化が来ると、それが反対になってしまうのだよ」と検事をきめつけてから、再び視線を乾板の上に落すと、彼の表情の中に複雑な変化が起っていった。
「だが、この矛盾的産物はどうだ。僕にもさっぱり、この取り合わせの意味がのみ込めんよ。しかし、ピインと響いてくるものがある。それが妙な声で、ツァラツストラはかく語りき――と云うのだ」
「いったいニイチェがどうしたんだ?」今度は検事が驚いてしまった。
「いや、シュトラウスの交響楽詩(シムフォニック・ポエム)でもないのさ。それが、ゾロアスター(ツァラツストラが創始せるペルシヤの苦行宗教)の呪法綱領なんだよ。神格よりうけたる光は、その源の神をも斃(たお)す事あらん――と云ってね。勿論その呪文の目的は、接神の法悦をねらっている。つまり、飢餓入神を行う際に、その論法を続けると、苦行僧に幻覚の統一が起ってくると云うのだ」と法水は彼に似げない神秘説を吐いたが、云うまでもなく、奥底知れない理性の蔭に潜んでいるものを、その場去らずに秤量(しょうりょう)することは不可能だった。しかし、法水のことばを、神意審問会の異変と対照してみると、あるいは、死体蝋燭の燭火をうけた乾板が、ダンネベルグ夫人に算哲の幻像を見せて、意識を奪ったのではないか。――と云うような幽玄きわまる暗示が、しだいに濃厚となってくるけれども、その矢先思いがけなく、それをやや具体的にほのめかして、法水は立ち上った。
「しかし、これでいよいよ、神意審問会の再現が切実な問題になってきたよ。さて、裏庭へ行って、この見取図に書いてある二条の足跡を調べることにするかな」
 ところが、その途中通りすがりに、階下の図書室の前まで来ると、法水は釘付けされたように立ち止ってしまった。熊城は時計を眺めて、
「四時二十分――もうそろそろ、足許が分らなくなってくるぜ。言語学の蔵書なら後でもいいだろう」
「いや、鎮魂楽(レキエム)の原譜を見るのさ」と法水はキッパリ云い切って、他の二人を面くらわせてしまった。しかしそれで、さっきの演奏中終止符近くになって、二つのヴァイオリンが弱音器をつけた――そのいかにも楽想を無視している不可解な点に、法水が強い執着を持っているのが判った。彼は背後で、把手(とって)を廻しながら、続いて云った。
「熊城君、算哲という人物は、実に偉大な象徴派詩人(サムボリスト)じゃないか。この厖大な館もあの男にとると、たかが『影と記号で出来た倉』にすぎないのだ。まるで天体みたいに、多くの標章をぶちまけておいて、その類推と総合とで、ある一つの恐ろしいものを暗示しようとしている。だから、そういう霧を中に置いて事件を眺めたところで、どうして何が判ってくるもんか。あの得体の知れない性格は、あくまでも究明せんけりゃならんよ」
 その最終の到達点というのが、黙示図の知られてない半葉を意味していると云うことも……また、その一点に集注されてゆく網流の一つでもと、いかに彼が心中あえぎ苛立って捜し求めているか、十分想像に難くないのであった。しかし、ドアを開くと、そこには人影はなかったけれど、法水は眼のくらむような感覚に打たれた。四方の壁面は、ゴンダルド風のパネルで区切られていて、壁面の上層には囲繞(いにょう)式の採光層(クリアストーリー)が作られ、そこに並んでいる、イオニア式の女像柱(カリアテイデ)が、天井の迫持(せりもち)を頭上で支えている。そして、クリアストーリーから入る光線は、「ダナエの金雨受胎」を黙示録の二十四人長老で囲んでいる天井画に、なんとも云えぬ神々しい生動を与えているのだった。なお床に、チュイルレー式の組字をつけた書室家具が置かれてあるところと云い、また全体の基調色として、乳白大理石と焦褐色(ヴァンダイクブラウン)の対比を択んだところと云い、そのすべてが、とうてい日本においては片影すら望むことの出来ない、十八世紀クムメルスブリュケル風の書室造りだったのである。その空(がら)んとした図書室を横切って、突当りの明りが差している扉を開くと、そこは、好事家(こうずか)に垂涎(すいぜん)の思いをさせている、降矢木の書庫になっていた。二十層あまりに区切られている、書架の奥に事務机があって、そこには、久我鎮子の皮肉な舌が待ち構えていた。
「オヤ、この室にお出でになるようじゃ、たいした事もなかったと見えますね」
「事実そのとおりなんです。あれ以後人形が出ない代りに、死霊(おばけ)は連続的に出没していますよ」と法水は先を打たれて、苦笑した。
「そうでしょう。さっきはまた妙な倍音が聴えましたわ。でも、まさか伸子さんを犯人になさりゃしないでしょうね」
「ああ、あの倍音を御存じでしたか」と法水は瞼を微かに戦かせたが、かえって探るような眼差で相手を見て、
「しかし、この事件全体の構成だけは判りましたよ。それが、貴女(あなた)の云われたミンコフスキーの四次元世界なんです」といっこう動じた色も見せず、続いて本題を切り出した。
「ところで、その過去圏を調べにまいったのですが、たしか、レキエムの原譜はあるでしょうな」
「鎮魂楽(レキエム)」と鎮子は怪訝な顔をして、「だが、あれを見て、いったいどうなさるのです?」
「それでは、まだ御存じないのですか」法水はちょっと驚いた素振を見せたが、厳粛な調子で云った。
「実は、フィナーレ近くで、二つのヴァイオリンが弱音器を付けたのですよ。ですから、かえって私は、ベルリオーズの幻想交響楽でも聴く心持がしました。たしかあれには、絞首台に上った罪人が地獄に堕ちる――その時の雷鳴を聴かせるというところに、雹(ひょう)のようなティムパニーの独奏(ソロ)がありましたっけね。そこに私は、算哲博士の声を聴いたような気がしたのです」
「マア、とんでもない誤算ですわ」と鎮子は憫笑(びんしょう)を湛えて、
「あれは、算哲様の御作ではございません。威人(ウェルシュ)の建築技師クロード・ディグスビイ自作ものなのです。とにかく、あんなものをお気になさるようじゃ、もう一人死霊がふえた訳ですわね。ですが、貴方の対位法的推理にぜひ必要なものなら、なんとか捜し出してまいりましょう」
 法水がしばらく自己を失っていたのも、けっして無理ではなかった。彼がジョン・ステーナー(今世紀の当初病歿した牛津(オックスフォード)の音楽科教授)の作と推測し、それに算哲が、何かの意志で筆を加えたものと信じていた鎮魂曲(レキエム)が、人もあろうに、この館の設計者ディグスビイの作だったのだ。帰国の船中ラングーンで投身したと云われるウェルシュの建築技師が、この不思議な事件にも何か関係(かかわり)を持っているのではないのだろうか。しかし法水が、最初から死者の世界にも、詮索を怠らなかったことは、さすがに烱眼(けいがん)であると云えよう。
 鎮子が原譜を探している間、法水は書架に眼をはせて、降矢木の驚嘆すべき収蔵書を一々記憶に止めることが出来た。それが、黒死館において精神生活の全部を占めるものであることは云うまでもないが、あるいはこの書庫のどこかに、底知れない神秘的な事件の、根源をなすものが潜んでいないとも限らないのである。法水は背文字をすばやく追うていって、しばらくの間、紙と革のいきれるような匂いの中で陶酔していた。
 一六七六年版のプリニウス「万有史」の三十冊と、古代百科辞典の対として「ライデン古文書(パピルス)」が、まず法水に嘆声を発せしめた。続いてソラヌスの「使者神指杖(カデュセウス)」をはじめ、ウルブリッジ、ロスリン、ロンドレイ等の中世医書から、バーコー、アルノウ、アグリッパ等の記号語使用の錬金薬学書、本邦では、永田知足斎(ちそくさい)、杉田玄伯、南陽原(みなみようげん)等の蘭書釈刻をはじめ、古代支那では、隋の「経籍志」、「玉房指要」、「蝦蟇図経(かばくずきょう)」、「仙経」等の房術書医方。その他、Susrta(スシュルタ), Charaka Samhita(チャラカ・サンヒター) 等の婆羅門医書、アウフレヒトの「愛経(カーマ・スートラ)」梵語原本。それから、今世紀二十年代の限定出版として有名な「生体解剖要綱」、ハルトマンの「小脳疾患者の徴候学」等の部類に至るまで、まさに千五百冊に垂々(なんなん)とする医学史的な整列だった。次に、神秘宗教に関する集積もかなりな数に上っている。ロンドンアジア協会の「孔雀王呪経」初版、シャム皇帝勅刊の「阿曩胝(アタナテイ)経」、ブルームフィールドの「クリシュナ・ヤジュル・ヴェーダ」をはじめ、シュラギントヴァイト、チルダース等の梵字密教経典の類。それに、ユダヤ教の非経聖書、黙示録、伝道書類の中で、特に法水の眼を引いたのは、猶太教会音楽の珍籍としてフロウベルガーの「フェルディナンド四世の死に対する悲嘆」の原譜と、聖ブラジオ修道院から逸出を伝えられている手写本中の稀書、ヴェザリオの「神人混婚」が、秘かに海を渡って降矢木の書庫に収まっていることだった。それから、ライツェンシュタインの「密儀宗教」の大著からデ・ルウジェの「葬祭儀式」。また、抱朴子(ほうぼくし)の「遐覧篇」費長房の「歴代三宝記」「老子化胡経(けこきょう)」等の仙術神書に関するものも見受けられた。しかし、魔法本では、キイゼルヴェターの「スフィンクス」、ウェルナー大僧正の「イングルハイム呪術(マジック)」など七十余りに及ぶけれども、大部分はヒルドの「悪魔の研究」のような研究書で、本質的なものは算哲の焚書(ふんしょ)に遇ったものと思われた。さらに、心理学に属する部類では、犯罪学、病的心理学心霊学に関する著述が多く、コルッチの「擬佯の記録」リーブマンの「精神病者の言語」、パティニの「蝋質撓拗性」等病的心理学の外に、フランシスの「死の百科辞典」、シュレンク・ノッチングの「犯罪心理及精神病理的研究」、グアリノの「ナポレオン的面相」、カリエの「憑着及殺人自殺の衝動の研究」、クラフト・エーヴィングの「裁判精神病学教科書、ボーデンの「道徳的癡患の心理」等の犯罪学書。なお、心霊学でも、マイアーズの大著「人格及びその後の存在」サヴェジの「遠感術は可能なりや」ゲルリングの「催眠的暗示」シュタルケの奇書「霊魂生殖説」までも含む尨大な集成だった。そして、医学、神秘宗教、心理学の部門を過ぎて、古代文献学の書架の前に立ち、フィンランド古詩「カンテレタル」の原本、婆羅門音理字書「サンギータ・ラトナーカラ」、「グートルーン詩篇」サクソ・グラムマチクスの「ヒストリア・ダニカ」等に眼を移した時だった。鎮子がようやく、レキエムの原譜を携えて現われた。その譜本は、焦茶色に変色していて、かえって女王アンの透し刷が浮いて見え、歌詞はほとんど判らなかった。法水は手に取ると、さっそく最終の頁に眼を落したが、
「ハハア、古式の声音符記号で書いてあるな」とつぶやいただけで、無雑作にテーブルの上に投げ出した。そして、鎮子に云った。「ところで久我さん、貴女は、この部分に何故弱音器符号を付けたものか、御承知ですか?」
「存じませんとも」鎮子は皮肉に笑った。「Con(コン) sordino(ソルディノ) には、弱音器を附けよ――以外の意味があるのでしょうか。それとも、Hom(ホモ) Fuge(フゲ)(人の子よ逃れ去れ)とでも」
 法水は、鎮子の辛辣な嘲侮(ちょうぶ)にもたじろがず、かえって声を励ませて云った。
「いや、かえって此の人を見よ(エッケ・ホモ)――の方でしょうよ。これは、ワグネルの『パルシファル』を見よ――と云っているのですからね」
「パルシファル」鎮子は法水の奇言に面くらったが、彼は再びその問題には触れず、別の問いを発した。
「それから、もう一つ御無心があるのですが、レッサーの『死後機械的暴力の結果に就いて』がありましたら……」
「たぶんあったと思いますが」と鎮子はしばらく考えた後に云った。「もしお急ぎでしたら、彼方(あちら)の製本に出す雑書の中を探して頂きましょう」
 鎮子に示された右手のくぐり戸を上げると、その内部の書架には、再装を必要とするものが無雑作に突き込まれていて、ただABC(アルファベット)順に列んでいるのみだった。法水は、Uの部類を最初から丹念に眼を通していったが、やがて、彼の顔にさわやかな色がうかんだと思うと、「これだ」と云って、簡素な黒クロース装幀の一冊を抜き出した。見よ、法水の双眼には、異常な光輝がみなぎっているではないか。この片々たる一冊が、はたして何ものをもたらそうとするのだろうか ところが、表紙を開くと、意外な事に、彼の顔をサッと驚愕の色がかすめた。そして、思わずその一冊を床上に取り落してしまったのだった。
「どうしたのだ?」検事はびっくりして、詰め寄った。
「いかにも、表紙だけはレッサーの名著さ」と法水は下唇をギュッと噛み締めたが、声のふるえは治まっていなかった。
「ところが、内容はモリエルの『タルチュフ』なんだよ。見給え、ドーミエの口絵で、あの悪党坊主(ブラック・モンク)がわらっているじゃないか」
「あッ、鍵がある!」その時熊城が頓狂な声で叫んだ。彼が床からその一冊を取り上げた時に、ちょうど内容の中央辺と覚しいあたりから、旆斧のような形をした、金属が覗いているのに気が付いたからだった。取り出してみると、輪形に小札がぶら下っていて、それには薬物室と書かれてあった。
「タルチュフと紛失した薬物室の鍵か……」法水はうつろな声でつぶやいたが、熊城を顧みて、「この曝し札の意味はどうでも、だいたい犯人の芝居気たっぷりなところはどうだ?」
 熊城は憤懣のやり場を法水に向けて、毒づいた。
「ところが、役者はこっちの方だと云いたいくらいさ、最初から、給金(しんしょう)も出ないくせにわらわれどおしじゃないか」
「どうして、あんな淫魔(インキブス)僧正どころの話じゃない」と検事は熊城をたしなめるような軽い警句を吐いたが、かえって、それがぞっとするような結論を引き出してしまった。「事実まったく、クォーダー侯のマクベス様(四人の妖婆の科白)――とでも云いたいところなんだよ。どうしてあいつが死霊でもなければ、法水君が見当をつけたものを、それ以前に隠すことなんて出来るものじゃない」
「うん、まさに小気味よい敗北さ。実は、僕も忸怩(じくじ)となっているところなんだよ」法水は何故か伏目になって、神経的な云い方をした。「さっき僕は、鍵の紛失した薬物室に犯人をはかるものがあると云った。また、易介の死因に現われた疑問を解こうとして、レッサーの著書に気がついたのだ。ところが、その結果、理智の秤量が反対になってしまって、かえってこっちの方が、犯人の設えた秤皿の上に載せられてしまったのだよ。しかし、こうやってわらいの面を伏せておくところを見ると、案外あの著述にも、僕が考えたような本質的な記述はないのかもしれない。とにかく、易介の殺害も、最初から計画表(スケジュール)の中に組まれてあったのだよ。どうして、あの死因に現われた矛盾が、偶然なもんか」
 法水は、彼がレッサーの著述を目した理由を明らかにしなかったけれども、ともかくそこに至るまでの彼等の進路が、腑甲斐ないことに、犯人の神経繊維の上を歩いていたものであることは確かだった。のみならず、ここで明らかに、犯人が手袋を投げたということも、また、想像を絶しているその超人性も、この一つで十分裏書されたと云えよう。やがて、もとの書庫に戻ると、法水は未整理庫の出来事をあからさまには云わず、鎮子に訊ねた。
「とうとう、事件の波動がこの図書室にも及んできましたよ。最近この潜り戸を通った人物を御記憶でしょうか」
「マア、そんな事ですか。では、この一週間ほどのあいだダンネベルグ様ばかりと申し上げたら」と鎮子(しずこ)の答弁は、この場合詐弁としか思われなかったほどに意外なものだった。「あの方は何かお知りになりたいものがあったと見えて、この未整理庫の中をしきりと捜してお出でのようでございましたが」
「昨夜はどうなんです?」と熊城は、たまりかねたような声で云った。
「それが、あいにくとダンネベルグ様のお附添で、図書室に鍵を下すのをうっかりしてしまいました」と無雑作に答えて、それから鎮子は、法水に皮肉な微笑を送った。「つきましては貴方に、賢者の石(シュタイン・デル・ヴァイゼン)をお贈りしたいと思うのですが、クニッパーの『生理的筆蹟学』ではいかがでございましょう?」
「いや、かえって欲しいのはマーローの『ファウスト博士の悲史』なんですよ」と法水が挙げたその一冊の名は、呪文の本質を知らない相手の冷笑を弾き返すに十分だったが、なおそれ以外に、ロスコフの「Volksbuch の研究」(ファウスト伝説の原本と称されている)、バルトの「ヒステリー性睡眠状態に就いて」、ウッズの「王家の遺伝」をも借用したい旨を述べて、図書室を出た。そして、鍵が手に入ったのを機に、続いて薬物室を調べることになった。
 次の薬物室は階上の裏庭側にあって、かつては算哲の実験室に当てられるはずだった、空室を間に挾み、右手に、神意審問会が行われた室と続いていた。しかし、そこには薬室特有の浸透的な異臭が漂っているのみで、そこの床には、証明しようのないスリッパの跡が縦横に印され、それ以外には、袖摺れ一つ残されていなかった。したがって、彼等に残された仕事というのは、十にあまる薬品棚の列と薬筐(ばこ)とを調べて、薬瓶の動かされた跡と、内部の減量を見究めるにすぎなかった。けれども、一方五分あまりも積み重なっている埃の層が、かえって、その調査を容易に進行させてくれた。最初眼に止ったのは、壜栓の外れた青酸加里(シヤンニック・ポッタシウム)であった。
「うんよし、では、その次……」と法水は一々書き止めていったが、続けて挙げられた三つの薬名を聴くと、彼は異様に眼をまたたき、懐疑的な色をうかべた。何故なら、硫酸マグネシウムにヨードフォルムと抱水クロラールは、それぞれに、きわめてありふれた普通薬ではないか。検事も怪訝そうに首をかしげて、つぶやいた。
「下剤(瀉痢塩が精製硫酸マグネシウムなればなり)、殺菌剤、睡眠薬だ。犯人は、この三つで何をしようとするんだろう?」
「いや、すぐに捨ててしまったはずだよ。ところが、のまされたのはわれわれなんだ」と法水はここでもまた、彼が好んで悲劇的準備と呼ぶ奇言を弄ぼうとする。
「なに僕等が」と、熊城はたまげて叫んだ。
「そうさ、匿名批評には、毒殺的効果があると云うじゃないか」法水はグイと下唇を噛み締めたが、実に意表外な観察を述べた。「で、最初に硫酸マグネシウムだが、勿論内服すれば、下剤に違いない。しかし、それをモルヒネに混ぜて直腸注射をすると、爽快な朦朧睡眠を起すのだ。また、次のヨードフォルムには、嗜眠性の中毒を起す場合がある。それから、抱水クロラールになると、他の薬物ではとうてい睡れないような異常亢進の場合でも、またたく間に昏睡させることが出来るのだよ。だから、新しい犠牲者に必要どころの話じゃない。全然、犯人の嘲笑癖が生んだ産物にすぎないのだ。つまり、この三つのものには、僕等の困憊状態が諷刺されているのだよ」
 眼に見えない幽鬼は、この室にも這い込んでいて、例により黄色い舌を出し横手を指して、わらっているのだった。しかし、調査はそのまま続けられたが、結局収穫は次の二つにすぎなかった。その一つは、密陀僧(即ち酸化鉛)の大壜に開栓した形跡があるのと、もう一つは、再度死者の秘密が現われた事だった。と云うのは、危くみすごそうとするところだったが、奥まった空瓶の横腹に、算哲博士の筆蹟で次の一文がしたためられている事だった。

ディグスビイ所在を仄めかすも、遂に指示する事なくこの世を去れり――

 要するに、算哲が求めていたものと云うのは、何かの薬物であろう。しかし、それが何であるかということよりかも、法水の興味は、むしろこの際、なんらの意義もないと思われる空瓶の方にひかれていって、それに限りない神秘感を覚えるのだった。それは、荒涼たる時間の詩であろう。この内容のない硝子器が、絶えず何ものかを期待しながらも、空しく数十年を過してしまって、しかも未だもって充されようとはしないのだ。つまり、算哲とディグスビイとの間に、なんとなく相闘うようなものがあるかに感ぜられるのだった。また、酸化鉛のような製膏剤に働いていった犯人の意志も、この場合謎とするよりほかにないのだった。いずれにしても以上の二つからは、事件の隠顕両面に触れる重大な暗示をうけたのであったが、法水等三人は、それを将来に残して、薬物室を去らねばならなかった。
 続いて、昨夜神意審問会が行われた室を調べることになったが、そこは、この館にはめずらしい無装飾の室で、確かに最初は、算哲の実験室として設計されたものに相違なかった。広さの割合に窓が少なく、室の周囲は鉛の壁になっていて、床の混たたきの上には、昨夜の集会だけに使ったものと見え、安手の絨毯が敷かれてあった。なお、庭に面した側には窓が一つしかなく、それ以外には、左隅の壁上に、換気筒の丸い孔が、ポツリと一つ空いているにすぎなかった。そして、周壁を一面に黒幕で張りめぐらしてあるので、たださえ陰気な室がいっそう薄暗くなってしまって、そこには、とうてい動かし難い沈鬱な空気が漂っているのだった。涸れしなびた栄光の手の一本一本の指の上に、死体蝋燭を差して、それが、ものうげな音を立てて点りはじめた時の――あの物凄い幻像が、未だに弱い微かな光線となって、この室のどこかに残っているかのように思われた。その室を一巡してから、法水は左隣りの空室に行った。そこは、昨夜易介が神意審問会の最中に人影を見たと云う、張出縁のある室だった。その室は、広さも構造もほとんど前室と同じであったが、ただ窓が四つもあるので、室の中は比較的明るかった。床には粗目(あらめ)のズックようのものが敷いてあって、その上に不用な調度類が、白い埃を冠ってうず高く積まれてあった。法水は扉の横手にある水道栓に眼を止めたが、それからは、昨夜のうちに誰か水を出したと見えて、蛇口から蚯蚓(みみず)のような氷柱が三、四本垂れ下っている。云うまでもなく、それは昨夜ダンネベルグ夫人が失神すると、すぐに水を運んで来たとか云う――紙谷伸子の行動を裏書するものにすぎなかった。
「とにかく、問題はこの張出縁だ」と熊城は、右外れの窓際に立って憮然と呟いた。その窓の外側には、アカンサスの拳葉でアラベスクが作られている、古風な鉄柵縁が張り出されてあった。そこからは、裏庭の花卉(かき)園や野菜園を隔てて、遠く表徴樹(トピアリー)の優雅な刈り籬(まがき)が見渡される。暗く濁って、塔櫓に押し冠さるほど低く垂れ下った空は、その裾に、わずか蝋色の残光を漂わせるのみで、籬の上方にはすでに闇が迫っていた。そして、時々合間を隔てて、ヒュウと風のきしる音が虚空ですると、鎧扉がわびしげに揺れて、雪片が一つ二つ棧の上でひしげて行く。
「ところが、死霊(おばけ)は算哲ばかりじゃないさ」と検事が応じた。「もう一人ふえたはずだよ。だがディグスビイという男はたいしたものじゃない。たぶん彼奴(あいつ)は魑魅魍魎(ポルターガイスト)だろうぜ」
「どうして、やつは大魔霊(デモーネン・ガイスト)さ」と法水は意外な言を吐いた。「あの弱音器記号には、中世迷信の形相凄じい力が籠っているのだよ」
 楽譜の知識のない二人には、法水が闡明(せんめい)するのを待つよりほかになかった。法水は一息深く煙を吸い込んで云った。
「勿論、Con(コン) Sordino(ソルディノ) では意味をなさないのだが、それには、一つだけ例外があるのだ。と云うのは、僕が先刻(さっき)鎮子を面喰(めんくら)わせた、『パルシファル』なんだよ。ワグネルはあの楽劇の中で、フレンチ・ホルンの弱音器記号に+(よこじゅうじ)という符号を使っている。ところが、それは傍ら棺龕(カタファルコ)十字架の表象(シムボル)でもあり、また数論占星学では、三惑星の星座連結を表わしているのだ」と法水は、指で掌(てのひら)に描いたその記号の三隅に、ちょうど+となるような位置で、点を三つ打った。
「そうすると、いったいその棺龕(カタファルコ)と云うのは、どこにあるのだね?」検事が問い返すと、法水はちょっと凄惨な形相をして、耳を窓外へ傾げるような所作をした。
「聞えないかい、あれが。風の絶え間になると、錘舌(クラッパー)が鐘に触れる音が、僕には聞えるのだがね」
「ああなるほど」そうは云ったものの、熊城は背筋に冷たいものを感じて、自分の理性の力を疑わざるを得なかった。葉摺れのざわめきに入り交って、微かに、軽く触れた三角錘(トライアングル)のような澄んだ音が聞えるのだけれども、その音はまさしく、七葉樹(とちのき)で囲まれていて、そこには何ものもないと思われていた、裏庭の遙か右端の方から響いて来るのだった。しかし、それは神経の病的作用でもなく、勿論妖しい瘴気の所業であり得よう道理はない。すでに法水は、墓の所在を知っていたのである。
「さっき窓越しに、太い椈(ぶな)の柱を二本見たので、それが棺駐門であるのを知ったのだよ。いずれ、ダンネベルグ夫人の柩(ひつぎ)がその下で停るとき、頭上の鐘が鳴らされるだろう。けれども、それ以前に僕は、他の意味であの墓を訪れねばならないのだ。何故なら、あの+(よこじゅうじ)の記号――ディグスビイが楽想を無視してまで、暗示しなければならなかったものが何であるか。それを知るには、あの墓と鐘楼の十二宮以外にはないように思われるからなんだよ」
 それから裏庭へ出るまでに、雪はやや繁くなってきたので、急いで足跡の調査を終らねばならなかった。まず法水は、左右から歩み寄って来た二条の足跡が合致している点に立って、そこから、左方にかけての一つを追いはじめた。そこはちょうど、死霊が動いていたと云われる張出縁の真下に当っているのだが、なおその附近に、もう一つ顕著な状況が残っていた。と云うのは、ごく最近に、その辺一帯の枯芝を焼いたらしい形跡が残っている事だった。その真黒な焦土(こげつち)が、昨夜来の降雨のために、じとじと泥濘(ぬかる)んでいるので、その上には銀色をした鞍(くら)のような形で、中央の張出間(アプス)が倒影していた。のみならず、焼け残りの部分が様々な恰好で、焦土の所々に黄色く残っているところは、ちょうど焼死体の腐爛した皮膚を見るようで、薄気味悪く思われるのだった。
 ところで、その二条(すじ)の足跡を詳細に云うと、法水が最初たどりはじめた左手のものは、全長が二十センチほどの男の靴跡で、はなはだしく体躯の矮小な人物らしく思われるが、全体が平滑で、いぼも連円形もない印像の模様を見ると、それが特種の使途に当てられる、ゴム製の長靴らしく推定された。それを順々に追うて行くと、本館の左端と密着して建てられていて、造園倉庫という掛札のしてある、シャレイ式(スイス山岳地方、即ちアルペン風の様式)のしゃれた積木小屋から始まっている。また、もう一つの方は全長二十六、七センチほどで、この方はまさに常人型と思われる、男用の套靴(オヴァ・シューズ)の跡だった。本館の右端に近い出入扉から始まっていて、張出間(アプス)の外側を弓形に沿い、現場に達しているが、その二つはいずれも、乾板の破片が落ちている場所との間を往復していた。
 法水はポケットから巻尺を取り出して、一々印像に当て靴跡の計測を始めた。套靴(オヴァ・シューズ)の方は、歩幅にはやや小刻みというのみの事で、これぞと云う特徴はなく、きわめて整然としている。が、印像には不審なものが現われていた。すなわち、爪先と踵(かかと)と、両端だけがグッと窪んでいて、しかも内側へ偏曲した内翻の形を示しているが、さらに異様な事には、その両端のものが、中央へ行くに従い浅くなっているのだった。また、ゴム製の長靴らしく思われる方は、形状の大きさに比例すると歩幅が狭く、さらにいちじるしく不揃いであるばかりでなく、後踵部には重心があったと見え、特に力の加わった跡が残っていた。のみならず、印像全体の横幅も、わずかながら一つ一つ異なっていたのである。その上、爪先の部分を中央部に比較すると、均衡上幾分小さいように思われて、それがやや不自然な観を与える。また、その部分の印像が特に不鮮明で、形状の差異も、その辺が最もはなはだしかった。そして、往路の歩線は建物に沿うているが、復路には造園倉庫まで直線に行こうとしたものらしく、七、八歩進んで焼け残りの枯芝の手前まで来ると、幅三尺ほどにすぎない帯状のそれを、またぎ越えた形跡を残している。ところが、それから二歩目になると、まるで建物が大きな磁石ででもあるかのように、突然歩行が電光形に屈折していて、そこから、横飛びに建物とすれすれになり、今度は、往路に印された線の上をたどって、出発点の造園倉庫に戻っていた。なお、復路に掛ろうとする最初の一歩は、右足で身体を廻転させ左足から踏み出しており、枯芝を越えた靴跡は、左足で踏み切って、右足でまたいでいる。のみならず、二様の靴跡のいずれにも、建物に足を掛けたらしい形跡は残されていなかった。(以上一六六頁の図参照)

 以上述べたところの、総体で五十に近い靴跡には、周囲の細隙から滲み込んだ泥水が、底ひたひたに澱んでいるだけで、印像の角度は依然鮮明に保たれていた。すなわち、雨に叩かれた形跡は、些細なものも現われていないのである。してみると、靴跡が印されたのは、昨夜雨が降り止んだ十一時半以後に相違ない。しかも、その二様の靴跡について、前後を証明するものがあった。と云うのは、乾板の破片を中心に、二つの靴跡が合流している附近に、一ヶ所套靴(オヴァ・シューズ)の方が、片方の上を踏んでいる跡が残っていた。したがって、套靴を付けた人物の来た時刻が、ゴム製の長靴と思われる方と同時か、あるいはそれより以後である事は明らかなのである。続いて、法水の調査が造園倉庫にも及んだのは当然であるが、そのシャレイ風の小屋は床のない積木造りで、内部からドア一つで本館に通じていた。そして、各種の園芸用具や害虫駆除の噴霧器などが、雑然と置かれてあった。法水は、本館に出入りする扉の側で、一足の長靴を見付けだした。それは先がラッパ形に開いていて、腿の半分ぐらいまでも埋まってしまう、純護謨製(ピュアー・ラバー)の園芸靴だった。しかも、底に附着している泥の中で、砂金のように輝いているのが、乾板の微粒だったのである。のみならず、後刻になって、その園芸用の長靴は、川那部易介の所有品である事が判明した。
 そうなってみると読者諸君は、この二様の靴跡に様々な疑問を覚えられるであろうが、ことに、ある一つの驚くべき矛盾に気づかれたことと思う。また、靴跡相互の時間的関係から推しても、夜半陰々たる刻限に、二人の人物によって何事が行われたのか――恐らくその片影すら、窺うことは不可能であるに相違ない。云うまでもなく法水でさえも、原型を回復することは勿論のこと、この紛乱錯綜した謎の華には、疑義を挾む一言半句さえ述べる余地はなかったのである。しかし法水は、心中何事か閃いたものがあったとみえて、鑑識課員に靴跡の造型を命じた後に、次項どおりの調査を私服に依頼した。

一、附近の枯芝は何時(いつ)頃焼いたか?
一、裏庭側全部の鎧扉に附着している氷柱(つらら)の調査。
一、夜番について、裏庭における昨夜十一時半以後の状況聴取。

 それからほどなく、闇の中を点のような赭い灯が動いていったと云うのは、法水等が網龕灯(がんどう)を借りて、野菜園の後方にある墓地に赴いたからだった。その頃は雪が本降りになっていて、烈風は櫓楼を簫(しょう)のように唸らせ、それが旋風と巻いて吹き下してくると、いったん地面に叩き付けられた雪片が再び舞い上ってきて、たださえほの暗い灯の行手を遮るのだった。やがて、凄愴(せいそう)な自然力に戦いている橡の樹林が現われ、その間に、二本の棺駐門の柱が見えた。そこまで来ると、頭上の格の中から、歯ぎしりのような鐘を吊した鐶の軋りが聞え、振動のない鐘を叩く錘舌(クラッパー)の音が、狂った鳥のような陰惨な叫声を発している。墓地はそこから始まっていて、小砂利道の突当りが、ディグスビイの設計した墓(ぼこう)だった。

 墓の周囲は、ヨハネと鷲、ルカと有翼犢(こうし)と云うような、十二師徒の鳥獣を冠彫(かしらぼり)にした鉄柵に囲まれ、その中央には、巨大な石棺としか思われないカタファルコが横たわっていた。さて、ここで墓柵の内部を詳述しなければならない。だいたいにおいて、聖(サン)ガール寺院(スイスコンスタンス湖畔に六世紀頃アイルランド僧の建設したる寺院)や、南ウエイルズのペンブローク寺(アベイ)などにも現に残存している、露地式カタファルコを模したものであったが、それには、いちじるしい異色が現われていた。と云うのは、墓地樹として、典型的な、ななかまどや枇杷の類がなく、無花果・糸杉・胡桃・合歓樹(ねむのき)・桃葉珊瑚(あおき)・巴旦杏(はたんきょう)・水蝋木犀(いぼたのき)の七本が、別図のような位置で配置されていた。またそれ等の樹木に取り囲まれた中央のカタファルコは、ウムブリヤの泣儒(なきおとこ)を浮彫にした薬研石(やげんいし)の台座まではともかくとして、その上に載せられた白大理石の棺蓋(かんおおい)になると、はじめて異様な構想が現われてくるのだった。伝統的な儀習としては、その上が、紋章あるいは人像か単純な十字架が通例だが、それには、音楽を伝統とする降矢木の標章としての三角琴(プサルテリウム)が筋彫にされ、その上に、鍛鉄製のギリシャ十字架と磔刑耶蘇(はりつけやそ)が載せられてあった。しかも、その耶蘇もまた異形なもので、首をやや左に傾けて、両手の指を逆に反らせて上向きにねじり上げ、そろえた足尖を、さも苦痛を耐えているかのよう、内輪へ極度に反らせているところは……さらに、肋骨(あばら)が透いて見えて、いかにも貧血的な非化体相(ひかたいそう)と云い……そのすべてが、祭(カタコムブ)時代のものに酷似してはいる、がかえってそれよりも、ヒステリー患者の弓状硬直でも見るようで――いかにもそう云った、精神病理的な感じに圧倒されるのだった。ひととおり観察を終えると、法水は熱病患者のような眼をして検事を顧みた。

「ねえ支倉君、キャムベルに云わせると、重症の失語症患者でも、人を呪う言葉は最後まで残っていると云うじゃないか。また、すべて人間が力尽きて、反噬(はんぜい)する気力を失ってしまった時には、その激情を緩解するものは、精霊主義(オクルチスムス)以外にはないと云うがね。明らかに、これは呪詛(じゅそ)だよ。なにより、ディグスビイは威人(ウエルシュ)なんだぜ。未だに、悪魔教バルダスの遺風が残っていて、ミュイヤダッハ十字架(クロッス)風の異教趣味に陶酔する者があると云われる――あのウエイルズ生れなんだ」
「いったい君は、何を云いたいんだ」と検事は、薄気味悪くなったように叫んだ。
「実は支倉君、このカタファルコは並大抵のものではないのだ。ボズラ(死海の南方)の荒野にあって、昼はハイエナが守護し、夜になると、魔神降下を喚き出すと伝えられる――死霊集会(シエオール)の標(しるし)なんだよ」と法水は横なぐりに睫毛の雪を払って、云った。「だが僕はヤーウェ教徒でもリビ族(祭司となる一族)でもないのだからね。眼前に死霊集会(シエオール)の標を眺めていても、それをモーゼみたいに、壊さねばならぬ義務はないと思うよ」
「そうすると」熊城は衝くように云った。「さっきの弱音器記号の解釈は、どうしたんだ?」
「それなんだ熊城君、やはり、僕の推定が正しかったのだよ」と法水は、+(よこじゅうじ)の記号がもたらした解説を始めた。「僕が予想した三惑星の連結は、まさしく暗示されているのだ。最初に、墓地樹の配置を見給え。アルボナウト以後の占星学(アストロロジイ)では、一番手前の糸杉と無花果(いちじく)とが、土星と木星の所管とされているし、向う側の中央にある合歓樹(ねむのき)は、火星の表徴(シムボル)になっているのだ。またそれを、曼陀羅華(マンドラゴーラ)・矢車草(オーレゴニア)・苦艾(アブサント)と、草木類でも表わすことが出来るけれども……いったいその三外惑星の集合に、どういう意味があるかと云うと、モールレンヴァイデなどの黒呪術的占星学(ブラックマジカル・アストロロジイ)では、それが変死の表徴(シムボル)になっているのだ。ところで君達は、十一世紀ドイツのニックス教(ムンメル湖の水精でニクジーと云う、基督教徒を非常に忌み嫌う妖精を礼拝する悪魔教)を知っているかね。あの悪魔教団に属していた毒薬業者の一団は、その三惑星の集合を、纈草(かのこそう)・毒人蔘(ヘムロック)・蜀羊泉(ズルカマラ)の三草で現わしていて、その三つを軒辺に吊し、秘かに毒薬の所在を暗示していたと伝えられている。それが、後世になって三樹の葉に代えられたと云うのだが、さてそこで、その三本の樹を連ねた、三角形と交わるものが何だろうか?」

(註)(一)纈草。敗醤【オミナエシ】科の薬用植物で、癲癇(てんかん)、ヒステリー痙攣(けいれん)等に特効あるため、学者の星と云われる木星の表徴とす。
(二)毒人蔘。繖形科の毒草にして、コニインを多量に含み、最初運動神経が痳痺[#「痳痺」はママ]するため、妖術師の星と称される土星の表徴とす。
(三)蜀羊泉。茄科の同名毒草にして、その葉には特にソラニン、デュルカマリンを含むものなれば、灼熱感を覚えると同時に中枢神経がたちどころに痳痺[#「痳痺」はママ]するため、火星の表徴とす。

 網龕灯(あみがんどう)の赭黒い灯が、薄く雪の積った聖像の陰影を横に縦に揺り動かして、なんとも云えぬ不気味な生動を与える。また、その光は、法水の鼻孔や口腔を異様に拡大して見せて、いかにも、中世異教精神を語るに適わしい顔貌を作るのだった。しかし、熊城は不審を唱えた。
「だが、胡桃・巴旦杏・桃葉珊瑚(あおき)・水蝋木犀(いぼたのき)の四本では、結局正方形になってしまうぜ」
「いや、それが魚なんだよ」と法水は突飛な言を吐いた。
「エジプトの大占星家ネクタネブスは、毎年ニイルの氾濫を告げる双魚座(ピスケス)を、でなしにという記号で現わしている。と云うのは、いま君の云った正方形が、いわゆる天馬星(ペガスス)の大正方形であって、天馬座(ペガスス)の鞍星(マルカブ)の外二星にアンドロメダ座のアルフェラッツ星を結び付け、そうして出来る正四角形を指しているからなんだ。そして、この三角琴(プサルテリウム)の筋彫が三角座(トリアングルム)とすれば、その中央に挾まれた聖像は、天馬座(ペガスス)と三角座(トリアングルム)の間にある、双魚座(ピスケス)ではないだろうか。ところで、一五二四年にもそれがあって、当時有名な占星数学者ストッフレルが再洪水説を称えたと云うほどで、とにかく三つの外惑星が双魚座と連結するという天体現象は、大凶災の兆とされているのだ。しかし、凶災を人為的に作ろうとするのが、呪詛じゃないか。ともあれ、これを見給え。実は、さっき図書室で見たマクドウネルの梵英辞典に、見なれない蔵書印が捺おしてあった。しかし、いま考えると、それがディグスビイの印らしいので、それから推すとたぶんこの葬龕(カタファルコ)も、あの男の奇異(ふしぎ)な趣味と、病的な性格を語るものに相違ないのだよ」
 と法水が、聖像のぐるりにある雪を払い退のけると、鍛鉄の十字架から浮び上った痛ましい全身には、みるみる不思議な変化が現われていった。それは、あるいは彼が魔法を使ったのではないかと疑われたほどに、よもや人間の世界にあろうとは思われぬ奇怪な符号だった。磔身(たくしん)の頭から爪尖(つまさき)までが、白く(ラン)形で残されてしまったからだ。しかし、法水は静かに、聖像から変化した不可解な記号の事を説きはじめた。
「ねえ支倉君、黒呪術(ブラックマジック)は異教とキリスト教を繋ぐ連字符である――とボードレールが云うじゃないか。まさしくこれは、調伏呪語に使う梵語の(ラン)の字なんだよ。また、三角琴(プサルテリウム)のに似た形は、呪詛調伏(アビチャーラカ)の黒色三角炉に、欠いてはならぬ積柴法形(せきさいほうがた)なのだ。チルダースの『呪法僧(アンギラス)』の中に、不空羂索神変真言経(ふくうけんじゃくじんべんしんごんぎょう)の解釈が載っているが、それによると、(ラン)は、火壇に火天を招く金剛火だ。その字片をの形に積んだ柴(しば)の下に置いて、それに火を点じ、白夜珠吠陀(シュクラ・ヤジュル・ヴェーダ)の呪文(オム)(ア)(ギァ)(ナウ)(エイ)(ソワ)(カ)を唱えると、千古の大史詩『摩訶婆羅多(マハーバーラタ)』の中に現われる毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)の四大鬼将――乾闥婆大刀軍将(げんだつばだいりきぐんしょう)・大竜衆(たつちむーか)・鳩槃荼大臣大将(くばんだだいじんたいしょう)・北方薬叉鬼将の四鬼神が、秘かに毘沙門天(ヴィシュラヴァナ)の統率を脱し来り、また、史詩『ラーマーヤナ』の中に現われる羅刹羅縛拏(ラーヴァナ)も、十の頭を振り立て、悪逆火天となって招かれると云うのだ。だから、僕がもし仏教秘密文学の耽溺者だとしたら、毎夜この墓では、眼に見えない符号呪術の火が焚かれていて、黒死館の櫓楼の上を彷徨する、黒い陰風がある――と結論しなければならないだろう。しかし、とうてい僕には、それを一片の心霊分析としか解釈できない。そして、ディグスビイという神秘的な性格を持つ男が、生前抱いていた意志である――という推断だけに止めておきたいのだ。何故なら熊城君、すでに僕は危険を悟って、心理学の著述などは、ロッジの『レイモンド』ボルマンの『デル・スコッテホーム』の改訂版以後は読まないのだし、また、『妖異評論』の全冊を焼き捨ててしまったほどだからね」
 最後に至って、法水は鉄のような唯物主義者の本領を発揮した。けれども、彼の張りきった絃線のような神経に触れるものは、たちどころに、その場去らず類推の花弁となって開いてしまうのだ。わずか一つの弱音器記号からでも、当の館の人々にさえ顔相(かおかたち)すら知られていない、故人クロード・ディグスビイの驚くべき心理を曝け出したのであった。それから、法水等は墓地を出て、風雪の中を本館の方に歩んで行ったが、こうして、捜査は夜になるも続行されて、いよいよ、黒死館における神秘の核心をなすと云われる、三人の異国楽人と対決することになった。

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