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2008年8月15日 (金)

黒死館殺人事件 5

    二、鐘鳴器(カリリヨン)の讃詠歌(アンセム)で……

「内惑星軌道半径」このあまりにとっぴな一言に眩惑されて、真斎はとっさ)に答えるすべを失ってしまった。法水は厳粛な調子で続けた。
「そうです。無論史家である貴方は、中世ウェールスを風靡したバルダス信経を御存じでしょう。あのドルイデ(九世紀レゲンスブルグの僧正魔法師)の流れを汲(く)んだ、呪法経典の信条は何でしたろうか(宇宙にはあらゆる象徴瀰漫す。しかして、その神秘的な法則と配列の妙義は、隠れたる事象を人に告げ、あるいは予め告げ知らしむ。)」
「しかし、それが」
「つまり、その分析綜合の理を云うのです。私はある憎むべき人物が、博士を殺した微妙な方法を知ると同時に、初めて、占星術(アストロロジイ)や錬金術(アルケミイ)の妙味を知ることが出来ました。確か博士は、室の中央で足を扉の方に向け、心臓に突き立てた短剣のつかを固く握り締めて倒れていたのでしたね。しかし、入口の扉を中心にして、水星と金星の軌道半径を描くと、その中では、他殺のあらゆる証跡が消えてしまうのです」と法水は室の見取図に、別図のような二重の半円を描いてから、

「ところで、その前にぜひ知っておかねばならないのは、惑星の記号が或る化学記号に相当するという事なんです。Venus(ヴィナス) が金星であることは御承知でしょうが、その傍ら銅を表わしています。また、Mercury(マーキュリー) は、水星であると同時に、水銀の名にもなっているのです。しかし、古代の鏡は、青銅(ヴィナス)の薄膜の裏に水銀(マーキュリー)を塗って作られていたのですよ。そうすると、その鏡面に――つまり、この図では金星の後方に当るのですが、それには当然、帷幕の後方から進んで来る犯人の顔が映ることになりましょう。何故なら、金星の半径を水星の位置にまで縮めるということは、素晴らしい殺人技巧であったと同時に、犯行が行われてゆく方向も、また博士と犯人の動きさえも同時に表わしているからなんです。そして、しだいに犯人は、それを中央の太陽の位置にまで縮めてゆきました。太陽は、当時算哲博士が終焉を遂げた位置だったのです。しかし、背面の水銀が太陽と交わった際にいったい何が起ったと思いますか?」
 ああ、内惑星軌道半径縮小を比喩にして、法水は何を語ろうとするのであろうか。検事も熊城も、近代科学の精を尽した法水の推理の中へ、まさかに錬金道士の蒼暗たる世界が、前期化学(スパルジリー)特有の類似律の原理とともに、現われ出ようとは思わなかった。
「ところで田郷さん、S一字でどういうものが表わされているでしょうか」と法水は、調子をゆるめずに続けた。「第一に太陽、それから硫黄ですよ。ところが、水銀と硫黄との化合物は、朱ではありませんか。朱は太陽であり、また血の色です。つまり、扉のきわで算哲の心臓がほころびたのです」
「なに、扉の際で……。これは滑稽な放言じゃ」と真斎は狂ったように、肱掛を叩き立てて、「あんたは夢を見ておる。まさに実状を顛倒した話じゃ。あの時血は、博士が倒れている周囲にしか流れておらなかったのです」
「それは、いったん縮めた半径を、犯人がすぐもとどおりの位置に戻したからですよ。それから、もう一度Sの字を見るのです。まだあるでしょう。悪魔会議日(サバスデー)、立法者(スクライブ)……。そうです、まさしく立法者なんです。犯人はあの像のように……」と法水は、そこでいったん唇を閉じ、じいっと真斎をみつめながら、次に吐く言葉との間の時間を、胸の中で秘かに計測しているかの様子だった。ところが、いきなり頃合を計って、
「あのように、立って歩くことの出来ない人間――それが犯人なんです」と鋭い声で云うと、不思議な事には、それとともに――解し難い異状が、真斎に起った。
 それが、始め上体に衝動が起ったと見る間に、両眼をみひらき口をラッパ形に開いて、ちょうどムンクの老婆に見るような無残な形となった。そして、絶えず唾をのみ下そうとするもののような苦悶の状を続けていたが、そのうちようやく、
「おお、わしの身体を見るがいい。こんな不具者がどうして……」とからくもしゃがれ声を絞り出した。が、真斎には確か咽喉部に何か異常が起ったとみえて、その後も引き続き呼吸の困難に悩み、異様な吃音とともに激しい苦悶が現われるのだった。その有様を、法水は異常な冷やかさで見やりながら云い続けたが、その態度には、相変らず計測的なものが現われていて、彼は自分のことばのテンポに、周到な注意を払っているらしい。
「いや、その不具な部分をまってこそ、殺人を犯すことが出来たのですよ。僕は貴方の肉体でなく、その手働四輪車とカーペットだけを見ているのです。たぶんヴェンヴェヌート・チェリニ(文芸復興期の大金工で驚くべき殺人者)が、カルドナツォ家のパルミエリ(ロムバルジヤ第一の大剣客)をたおしたという事蹟を御存じでしょうが、腕で劣ったチェリニは、最初カーペットを弛ませて置いて、中途でそれをピインと張らせ、パルミエリが足許を奪われてよろめくところを刺殺したのでした。しかし、算哲を斃すためには、その敷物を応用したルネサンスの剣技が、けっして一場のロマーンではなかったのです。つまり、内惑星軌道半径の縮伸というのは、要するに貴方が行った、カーペットのそれにすぎなかったのですよ。さて、犯行の実際を説明しますかな」と云ってから、法水は検事と熊城に詰責気味な視線を向けた。「だいたい何故扉の浮彫を見ても、君達は、傴僂(せむし)の眼が窪んでいるのに気がつかなかったのだね」
「なるほど、楕円形に凹んでいる」熊城はすぐ立って行って扉を調べたが、はたして法水の云うとおりだった。法水はそれを聴くと、会心の笑みを真斎に向けて、
「ねえ田郷さん、その窪んでいる位置が、ちょうど博士の心臓の辺に当りはしませんか。それが、楕円形をしているのですから、護符刀の束がしらであることは一目瞭然たるものです。そうなると、当然天寿を楽しむよりほかに自殺の動機など何一つなく、おまけにその日は、愛人の人形を抱いて若かった日の憶い出に耽ろうとしたほどの博士が、何故とぎわに押し付けられて、心臓を貫いていたのでしょう」
 真斎は声を発することはおろか、依然たる症状を続けて、気力がまさに尽きなんとしていた。蝋白色に変った顔面からはあぶらのような汗が滴り落ち、とうてい正視に耐えぬ惨めさだった。ところが、それにもかかわらず法水は、この残忍な追求をいっかな止めようとはしなかった。
「ところで、ここに奇妙なパラドックスがあるのです。その殺人が、かえって五体の完全な人間には不可能なんですよ。何故なら、ほとんど音の立たない、手働四輪車の機械力が必要だったからで、それがまず、カーペットに波を作って縮め重ねてゆき、終いには、博士を扉に激突させたからでした。何分にも、当時室は闇に近い薄明りで、右側の帷幕の蔭に貴方が隠れていたのも知らずに、博士は帷幕の左側を排して、召使が運び入れて置いた人形を寝台の上で見、それから、鍵を下しに扉の方へ向ったのでしょう。ところが、それを追うて、貴方の犯行が始まったのでしたね。まずそれ以前に、敷物の向う端を鋲で止め、人形の着衣から護符刀(タリズマン)を抜いておく――そしていよいよ博士が背後を見せると、カーペットの端をもたげて、縦にした部分を足台で押して速力を加えたので、カーペットには皺が作られ、勿論その波はしだいに高さを加えたのです。そして、背後から足台を、博士の膝かがみに衝突させる。と、波が横から潰されて、ほとんど腋下に及ぶほどの高さになってしまう。と同時に、いわゆるイエンドラシック反射が起って、その部分に加えられた衝撃が、上膊筋に伝導して反射運動を起すのですから、当然博士は、無意識裡に両腕を水平に上げる。その両脇から博士を後ろざまに抱えて、右手に持った護符刀を心臓の上に軽く突き立て、すぐにその手を離してしまう。と、博士は思わず反射的に短剣を握ろうとするので、間髪のあいだに二つの手が入れ代って、今度は博士がつかを握ってしまう。そして、その瞬後扉に衝突して、自分が束を握った刃が心臓を貫く。つまり、高齢で歩行ののろい博士に、カーペットに波を作りながら音響を立てずして追い付ける速力と、その機械的な圧進力――。それから、束を握らせるために、両腕を自由にしておかねばならないので、何よりまず膝膕窩(ひかがみ)を刺戟して、イエンドラシック反射を起さねばならない――。そういうすべての要素を具備しているのが、この手働四輪車でして、その犯行は寸秒の間に、声を立てるまがなかったほど恐ろしい速度で行われたのでした。ですから、貴方の不具な部分をもってせずには、誰一人博士に、自殺の証跡を残して、息の根を止めることは不可能だったのですよ」
「すると、カーペットの波は何のためだい」熊城が横合から訊ねた。
「それが、内惑星軌道半径の縮伸じゃないか。いったんピリオドにまで縮んだものを、今度は波の頂点に博士のくびを合わせて、カーペットをもとどおりに伸ばしていったのだ。だから、つかを握り締めたままで、博士の死体は室の中央に来てしまったのだよ。勿論、空室でも、鎖されていたのではないから、ほとんど跡は残らぬし、死後はけっして固く握れるものじゃない。けれども、だいたい検屍官なんてものが、秘密の不思議な魅力に、感受性を欠いているからなんだよ」
 その時、この殺気に充ちた陰気な室の空気を揺ぶって、古風な経文歌(モテット)を奏でる、侘しい鐘鳴器(カリリヨン)の音が響いてきた。法水はさっき尖塔の中に錘舌鐘(ピール)(錘舌のある振り鐘)は見たけれども、鐘鳴器(鍵盤を押して音調の異なる鐘を叩きピアノ様の作用をするもの)の所在には気がつかなかった。しかし、その異様な対照に気を奪われている矢先だった。それまで肱掛に俯伏していた真斎が必死の努力で、ほとんど杜絶(とぎ)れがちながらも、微かな声を絞り出した。
「嘘だ……算哲様はやはり室の中央で死んでいたのだ……。しかし、この光栄ある一族のために……わしは世間の耳目を怖れて、その現場から取り除いたものがあった……」
「何をです?」
「それが黒死館の悪霊、テレーズの人形でした……背後からおぶさったような形で死体の下になり、短剣を握った算哲様の右手の上に両掌を重ねていたので……それで、衣服を通した出血が少なかったことから……わしは易介に命じて」
 検事も熊城も、もうすくみ上るような驚愕の色は現わさなかったけれども、すでに生存の世界にはないはずの不思議な力の所在が、一事象ごとに濃くなってゆくのを覚えた。しかし、法水は冷然と云い放った。
「これ以上はやむを得ません。僕もこの上進むことは不可能なんですから。博士の死体はとうに泥のような無機物ですし、もう起訴を決定する理由と云えば、貴方の自白以外にないのですからね」
 そう法水が云い終った時だった。その時経文歌の音が止んだかと思うと、突然思いもよらぬ美しいいとの音が耳膜を揺りはじめた。遠く幾つかの壁を隔てた彼方で、四つの絃楽器は、あるいは荘厳な全絃合奏(コーダ)となり、時としては囁く小川のように、ファースト・ヴァイオリンがサマリアの平和を唱ってゆくのだった。それを聴くと、熊城は腹立たしそうに云い放った。
「何だあれは、家族の一人が殺されたと云うのに」
「今日は、この館の設計者クロード・ディグスビイの忌斎日でして……」と真斎は苦し気な呼吸の下に答えた。「館の暦表の中に、帰国の船中ラングーンで身を投げた、ディグスビイの追憶が含まれているのです」
「なるほど、声のない鎮魂楽ですね」と法水は恍惚となって云った。「なんだかジョン・ステーナーの作風に似ているような気がする。支倉君、僕はこの事件であの四重奏団の演奏が聴けようとは思わなかったよ。サア、礼拝堂へ行ってみよう」
 そうして、私服に真斎の手当を命じて、この室を去らしめると、
「君はなぜ、最後の一歩というところで追求を弛めたのだ?」と熊城はさっそくになじり掛ったが、意外にも、法水は爆笑を上げて、
「すると、あれを本気にしているのかい」
 検事も熊城も、途端に嘲笑されたことは覚ったけれども、あれほど整然たる条理に、とうていそのままを信ずることは出来なかった。法水はおかしさを耐えるような顔で、続いて云った。
「実をいうと、あれは僕の一番厭などうかつ訊問なんだよ。真斎を見た瞬間に直感したものがあったので、応急に組み上げたのだったけれど、真実の目的と云えば、実はほかにあったのだ。ただ真斎よりも、精神的に優越な地位を占めたい――というそれだけの事なんだよ。この事件を解決するためには、まずあの頑迷な甲羅を砕く必要があるのだ」
「すると、扉の窪みは」
「二二が五さ。あれは、この扉の陰険な性質を剔抉(てっけつ)している。また、それと同時に水の跡も証明しているんだ」まさしく仰天に価する逆転だった。グワンと脳天をドヤされたかのように茫然となった二人に、法水はさっそく説明を始めた。「水で扉を開く。つまり、この扉を鍵なくして開くためには、水が欠くべからざるものだったのだ。ところで、最初それと類推させたものを話すことにしよう。マームズベリー卿が著わした『ジョン・デイ博士鬼説』という古書がある。それには、あの魔法博士デイの奇法の数々が記されているのだが、その中で、マームズベリー卿を驚嘆させた隠顕扉の記録が載っていて、それが僕に、水で扉を開け――と教えてくれたのだ。勿論一種の信仰療法(クリスチャンサイエンス)なんだが、まずデイは、瘧(おこり)患者を附添いといっしょに一室へ入れ、鍵を附添いに与えて扉を鎖さしめる。そして、約一時間後に扉を開くと、鍵が下りているにもかかわらず、扉は化性のものでもあるかのように、スウッと開かれてしまう。そこでデイは結論する――憑神の半山羊人(フォーン)はのがれたり――と。ところが、まさしく扉の附近には山羊の臭気がするので、それで患者は精神的に治癒されてしまうのだ。ねえ熊城君、その山羊の臭気というものの中に、デイの詐術が含まれているのだよ。ところで、君はたぶん、ランプレヒト湿度計(ハイグロメーター)にもあるとおりで、毛髪が湿度によって伸縮するばかりでなく、その度が長さに比例する事実も知っているだろう。そこで、試みに、その伸縮の理論を、落し金の微妙な動きに応用して見給え。知ってのとおり、ゼンマイで使用する落し金というのは、元来、ハーフ・チムバア(漆喰壁の上に規則的な木配りで荒削りの木材を打ち附ける英国十八世紀初頭の建築様式)特有のものと云われているのだが、大体が平たい真鍮桿の端に遊離しているもので、その桿の上下によって、支点に近い角体の二辺に沿い起倒する仕掛になっている。そして、支点に近づくほど起倒の内角が小さくなるということは、たぶん簡単な理法だから判っているだろう。そこで、落し金の支点に近い一点を結んで、その紐を、倒れた場合水平となるように張っておき、その線の中心とすれすれに、頭髪の束で結んだ重錘を置いたと仮定しよう。そして、鍵穴から湯を注ぎ込む。すると、当然湿度が高くなるから、毛髪が伸長して、重錘が紐の上に加わってゆき、勿論紐が弓状になってしまう。したがって、その力が落し金の最小内角に作用して、倒れたものが起きてしまうのだ。だから、デイの場合は、それが羊の尿(いばり)だったろうと思うのだがね。またこの扉では、傴僂の眼の裏面が、たぶんその装置に必要な刳穴(こけつ)だったので、その薄い部分が、頻繁に繰り返される乾湿のために、凹陥を起したに違いないのだよ。つまり、その仕掛を作ったのが算哲で、それを利用して永い間出入りしていた人物と云うのが、犯人に想像されるんだ。どうだね支倉君、これでさっき人形の室で、犯人が何故絲と人形のトリックを遺して置いたのか判るだろう。外側からのトリックばかりを詮索していた日には、この事件は永遠に、扉一つが鎖してしまうのだ。それに、そろそろこの辺から、ウイチグス呪法の雰囲気が濃くなってゆくような気がするじゃないか」
「すると、人形はその時のこぼれた水を踏んだという事になるね」と検事は、引きつれたような声を出した。「もう後は、あの鈴のような音だけなんだ。これで犯人を伴った人形の存在は、いよいよ確定されたとみて差支えない。しかし、君の神経が閃(ひらめ)くたびごとに、その結果が、君の意向とは反対の形で現われてしまう。それは、いったいどうしたってことなんだい」
「ウム、僕にもどうも解せないんだ。まるで、穽(わな)の中を歩いているような気がするよ」と法水にも錯乱した様子が見えると、
「僕はその点が両方に通じてやしないかと思うよ。いまの真斎の混乱はどうだ。あれはけっして看過しちゃならん」とこれぞとばかりに、熊城が云った。
「ところがねえ」と法水は苦笑して、「実は、僕の恫(どうかつ)訊問には、妙なことばだが、一種の生理拷問(ごうもん)とでも云うものが伴っている。それがあったので、初めてあんな素晴らしい効果が生れたのだよ。ところで、二世紀アリウス神学派の豪僧フィリレイウスは、こういう談法論を述べている。霊気(呼吸の義)は呼気とともに体外に脱出するものなれば、その空虚を打て――と。また、比喩には隔絶したるものを択べ――と。まさに至言だよ。だから、僕が内惑星軌道半径をミリミクロン的な殺人事件に結び付けたというのも、究極のところは、共通した因数を容易に気づかれたくないからなんだ。そうじゃないか、エディントンの『空間・時・及び引力(スペース・タイム・エンド・グレヴィテイション)』でも読んだ日には、その中の数字に、てんで対称的な観念がなくなってしまう。それから、ビネーのような中期の生理的心理学者でさえも、肺臓が満ちた際の均衡と、その質量的な豊かさを述べている。無論あの場合僕は、まさに吸気を引こうとする際にのみ、激情的な言葉を符合させていったのだが、またそれと同時に、もしやと思った生理的なショックも狙っていたのだ。それは、喉頭後筋搦(ミュールマンちくでき)という持続的な呼吸障害なんだよ。ミュールマンはそれを『老年の原因』の中で、筋質骨化に伴う衝動心理現象と説いている。勿論間歇(かんけつ)性のものには違いないけれども、老齢者が息を吸い込む中途で調節を失うと、現に真斎で見るとおりの、無残な症状を発する場合があるのだ。だから、心理的にも器質的にも、僕は滅多に当らない、その二つの目を振り出したという訳なんだよ。とにかく、あんな間違いだらけの説なので、いっさい相手の思考を妨害しようとしたのと、もう一つは去勢術なんだ。あの蠣(かき)の殻を開いて、僕はぜひにも聴かねばならないものがあるからだよ。つまり、僕の権謀術策たるや、ある一つの行為の前提にすぎないのだがね」
「驚いたマキアベリーだ。しかし、そう云うのは?」と検事が勢い込んで訊ねると、法水は微かに笑った。
「冗談じゃないよ、君の方でしたくせに。さっき僕に訊ねた(一)・(二)・(五)の質問を忘れたのかい。それに、あのリシュリュウみたいな実権者は、不浄役人どもに黒死館の心臓を窺わせまいとしている。だからさ、あの男が鎮静注射から醒めた時が、事によるとこの事件の解決かもしれないのだよ」
 法水は相変らず茫漠たるものをほのめかしただけで、それから鍵孔に湯を注ぎ込み、実験の準備をしてから、演奏台のある階下の礼拝堂におもむいた。広間を横切ると、楽の音は十字架と楯形の浮彫のついた大扉の彼方に迫っていた。扉の前には一人の召使が立っていて、法水がその扉を細目に開くと、冷やりとした、だが広い空間をわびしげに揺れている、寛闊な空気に触れた。それは、重量的な荘厳なもののみが持つ、不思議な魅力だった。礼拝堂の中には、あかい蒸気の微粒がいっぱいに立ちこめていて、そのもやのような暗さの中で、弱い平穏な光線が、どこか鈍い夢のような形で漂うている。その光は聖壇の蝋燭から来ているのであって、三稜形をした大燭台の前には乳香がたかれ、その煙と光とは、火箭のように林立している小円柱をのぼって行って、頭上はるか扇形に集束されている穹窿(きゅうりゅう)の辺にまで達していた。楽の音は柱から柱へと反射していって、異様な和声を湧き起し、今にもアルカードから金色燦然たる聖服をつけた、司教助祭の一群が現われ出るような気がするのであった。が、法水にとってはこの空気が、問罪的な不気味なものとしか考えられなかった。
 聖壇の前には半円形の演奏台がしつらえてあって、そこに、ドミニク僧団の黒と白の服装をした、四人の楽人が無我恍惚の境に入っていた。右端の、不細工な巨石としか見えないチェリスト、オットカール・レヴェズは、そこに半月形の髯でも欲しそうなフックラ膨んだ頬をしていて、体躯(たいく)の割合には、小さなヒョウタン形の頭が載っていた。彼はいかにも楽天家らしく、おまけに、チェロがギターほどにしか見えない。その次席が、ヴィオラ奏者のオリガ・クリヴォフ夫人であって、眉弓が高くまなじりが鋭く切れ、細い鉤形の鼻をしているところは、いかにも峻厳な相貌であった。聞くところによれば、彼女の技量はかの大独奏者、クルチスをも凌駕すると云われているが、それもあろうか演奏中の態度にも、傲岸な気魄と妙に気障な、誇張したところがうかがわれた。ところが、次のガリバルダ・セレナ夫人は、すべてが前者と対蹠的な観をなしていた。皮膚が蝋色に透き通って見えて、それでなくても、顔の輪廓が小さく、柔和な緩い円ばかりで、小じんまりと作られている。そして、黒味がちのパッチリした眼にも、凝視するような鋭さがない。総じてこの婦人には、憂鬱などこかに、謙譲な性格が隠されているように思われた。以上の三人は、年齢四十四、五と推察された。そして、最後にヴァイオリンを弾いているのが、やっと十七になったばかりの降矢木旗太郎だった。法水は、日本中で一番美しい青年を見たような気がした。が、その美しさもいわゆる俳優的な遊惰な媚色であって、どの線どの陰影の中にも、思索的な深みや数学的な正確なものが現われ出てはいない。と云うのも、そういった叡知の表徴をなすものが欠けているからであって、博士の写真において見るとおりの、あの端正な額の威厳がないからであった。
 法水は、とうてい聴くことは出来ぬと思われた、この神秘楽団の演奏に接することは出来たけれども、彼はいたずらに陶酔のみはしていなかった。と云うのは、楽曲の最後の部分になると、二つの提琴が弱音器を附けたのに気がついたことであって、それがために、低音の弦のみが高く圧したように響き、その感じが、天国の栄光に終る荘厳な終曲(フィナーレ)と云うよりも、むしろ地獄から響いてくる、恐怖と嘆きのうめきとでも云いたいような、実に異様な感を与えたことである。終止符に達する前に、法水は扉を閉じて側の召使に訊ねた。
「君は、いつもこうして立番しているのかね」
「いいえ、今日が初めてでございます」と召使自身も解せぬらしい面持だったが、その原因は何となく判ったような気がした。それから、三人がゆったりと歩んで行くうち、法水が口をきって、
「まさにあの扉が、地獄の門なんだよ」とつぶやいた。
「すると、その地獄は、扉の内か外かね」と検事が問い返すと、彼は大きく呼吸をしてから、すこぶる芝居がかった身振で云った。
「それが外なのさ。あの四人は、確かに怯えきっているんだ。もしあれが芝居でさえなければ、僕の想像と符合するところがある」
 鎮魂楽(レキエム)の演奏は、階段を上りきった時に終った。そして、しばらくの間は何も聞えなかったけれども、それから三人が区劃扉を開いて、現場の室の前を通る、廊下の中に出た時だった。再び鐘鳴器(カリリヨン)が鳴りはじめて、今度はラッサスの讃詠(アンセム)を奏ではじめたのであった(ダビデの詩篇第九十一篇)。

夜はおどろくべきことあり
昼はとびきたる矢あり
幽暗(くらき)にはあゆむ疫癘(えやみ)あり
日午(ひる)にはそこなう激しき疾(やまい)あり
されどなんじ畏(おそ)ることあらじ

 法水はそれを小声で口ずさみながら、讃詠と同じ葬列のような速度で歩んでいたが、しかし、その音色は繰り返す一節ごとに衰えてゆき、それとともに、法水の顔にも憂色が加わっていった。そして、三回目の繰り返しの時、幽暗には――の一節はほとんど聞えなかったが、次の、日午には――の一節に来ると、不思議な事には、同じ音色ながらも倍音が発せられた。そうして、最後の節はついに聴かれなかったのであった。
「なるほど、君の実験が成功したぜ」と検事は眼を円くしながら、鍵の下りた扉を開いたが、法水のみは正面の壁に背をもたせたままで、暗然と宙をみつめている。が、やがてつぶやくような微かな声で云った。
「支倉君、拱廊へ行かなけりゃならんよ。あそこの吊具足の中で、たしか易介が殺されているんだ」
 二人は、それを聴いて思わず飛び上ってしまった。ああ、法水はいかにして、鐘鳴器(カリリヨン)の音から死体の所在を知ったのであろうか

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