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2008年9月20日 (土)

聖徳太子の予言の書が世に出る時

『太平記』巻6「正成天王寺の未来記披見の事」 
かつて聖徳太子が、百代に渡る世の治乱を見通して未来記を書き残した。
七百余年後の元弘二年(1332)八月三日、楠木正成が天王寺に詣でて未来記を披覧し、「日西天に没ること三百七十余箇日、西鳥来たって東魚を食らふ。その後海内一に帰すること三年」の文面から、北条幕府の滅亡と後醍醐帝の復帰・親政を読み取った。

聖徳太子の予言の書が世に出る時、仏教が終わるといわれた。
天魔波旬が、日本を奪領し、鬼国にしようと計画し三人の悪魔を遣わす。
七難三災、五病七禍が日本を襲い、夜中に太陽が見え、北に月が出る。

まさしく平成の「日出づる国」には「朝」がなくなって、真夜中に電光が溢れ出ている。
現実にも様々な病魔と妖しい化学薬品が蔓延しているし、悪魔のような政治屋が三人が此の國を揺さぶっているようだ。

四天王寺の歴史 中世
後醍醐天皇は四天王寺に立ち寄られたときに聖徳太子の「御手印縁起」をご覧になり、そこに書かれた太子の予見は、、、
http://www.shitennoji.or.jp/rekishi/rekishi%20tyusei.htm

政治を司っていた貴族達は、天皇の元へ夜明け前、参集した。
天皇は夜明けとともに天地四方と天道様を拝み、朝の言葉を発した。政治を行う所を「朝廷」というのは政務を執るのは昼までとしたからであった。日の出から日の昇る間の勢いとともに仕事をして、日が南中だんだん西へ降りていく時には終了しているシステム。
年頭には一年の指針を、月初めにはその月の目標を、週明けには1週間の方針を、朝にはその日の現実行の指示を勢いある言葉を使った。そうしないと、聖徳太子が随の皇帝に親書で、「日出づる国」とこの島を豪語した言魂霊が消えて、日本列島に日出づる「朝」がなくなってしまうという。(聖徳太子の末裔が解く“朝の不思議”より)
http://www.fuluhashi.jp/u21c/report/re00/001205.html


   
  聖徳太子のナゾ

(1)1981年が新日本史の出発点?
 中国の陰陽五行説に基づく讖緯(しんい)思想(=未来予見の説)を利用された。
 讖緯思想には「革命」という考え方がある。それは「天命が改まる」という意味であり、ある期間ごとにおこる。その歴史の超長期の大きな区切りに、「一蔀」(ぼう:1260もしくは1320年)という単位がある。 この超長期の観点から見ると、日本歴史の第一蔀はBC660年の神武天皇の建国、第二蔀は601年の聖徳太子による斑鳩宮の設営を基点とする新政、第三蔀は1861(文久元)年になり、7年後の明治維新がそれに当たる。
 しかし今ひとつの1蔀=1320年説をとると、1981年が日本歴史の第3蔀の始まりになる。
 1980年代後半には日本の政治・経済を上げての狂乱的バブル景気が形成され、1989年にそれが崩壊して、一挙に日本国民は1,000兆円という膨大な資産を失った。
 それ以降に長い深刻な不況を経験してきた現代の我々から見ると、1981年が、これからの日本の千年周期の出発点になるという聖徳太子の予言は、不思議な現実感を感じさせるものでもある。 聖徳太子の時代は、大変な国際化の時代であり、仏教だけではなく原始キリスト教、道教、儒教、ゾロアスター教などいろいろな思想が日本に上陸してきている。
 
(2)聖徳太子とキリスト教のナゾ
 4世紀末頃から、中国、朝鮮半島を経由してかなり夥しい数の外国人が、倭国に渡来し、住みつくようになった。それとともに大陸の文化、宗教、技術、学問がわが国に到来し、仏教、儒教、道教、キリスト教、ゾロアスター教など、いろいろな宗教文化が、同時にわが国に到来したと思われる。 これら多様な宗教文化の中で、神道と仏教と儒教は、江戸時代を通じて国家権力の保護の下で政治、学問、文化の中に組み込まれてきた。しかしそれ以外の宗教や文化については、長い歴史の中で切り捨てられてきたと思われる。 かって松本清張氏により、飛鳥時代に流入したゾロアスター教の追跡が行なわれ、意外に大きな影響を与えていたことが明らかにされた。

●キリスト生誕伝説に類似した聖徳太子の誕生と名前
 「聖徳太子」という通称は、それ自体が尋常ではない。それは多分、太子没後の「太子信仰」の広まりの中から、その徳を慕う人々によって付けられた通り名と思われるが、よく考えてみるとおよそ人間離れした不思議な名前である。
 
 聖徳太子も不思議な名前であるが、太子の生前から使われていたと思われる厩戸皇子(うまやとのみこ)は、さらに不思議な名前である。この名は、日本書紀の推古天皇条の冒頭に、厩戸豊聡耳皇子(ウマヤトノトヨミミノミコ)という名で書かれている。「厩戸」に続く「豊聡耳」は、太子が8人~10人の人々の願い事などを一度に聞き分けることができたとする、太子の聡明さを示す今ひとつの名前であり、これも生前からの名前であったと思われる。

 聖徳太子は、父を用明天皇、母を穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒト)とし、敏達天皇3(574)年甲午に生誕された。両親ともに皇族であり、用明天皇の母はキタシヒメ、間人皇女の母はオアネギミ、共に蘇我稲目の娘であるから、太子は蘇我氏の一族である
 この太子の生前からの名前の一つである厩戸皇子(うまやとのみこ)は、用明天皇の皇妃であるアナホベノハシヒトノヒメミコ妃が宮廷の厩の戸に当たって不意に産気つき、聖徳太子が誕生されたとする伝説からきている。

 この伝説はキリストの誕生伝説と非常に似ており、そのことは、既に戦前の太子研究の第1人者である久米邦武氏により、「上宮太子実録」(明治36年出版)の中で指摘されていた。 ところが中国へネストリウス派のキリスト教が伝来して景教と呼ばれるようになるのは、太子の逝去より8年後、唐の太宗の貞観9(635)年である。
 その太子の生前の名前が、キリスト伝説を思わせる「厩戸皇子」であったことは、キリスト教が中国へ入る60年も前に太子にその名前が使われたことになり、大きなナゾであるが、従来、これに明快な見解を出した人はいなかった。

 日本にキリスト教が伝来したのは、1549(天文18)年にフランシスコ・ザビエルが来日して布教を始めたときと考えられている。それ以前にネストリウス派の原始キリスト教団が日本で活動していたことについては全く分らない。
 太子伝説には、聖徳太子の名前だけでなく、いくつものキリスト伝説に類似した点がある。そのことから梅原猛氏が1972年に出された有名な法隆寺論の題名を、「隠された十字架」とされたほどである。

歴史はミステリー http://www.araki-labo.jp/shiso21.htm  より抜粋
 

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聖徳太子虚構説
聖徳太子が実在したこと自体を否定する説がある。

大山誠一は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。さらにこれら2つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しない、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。

大山は、飛鳥時代にたぶん斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。

大山説は近年マスコミにも取り上げられ話題となった。従来の論者とは違い、大山は古代史分野において実績のある大学教授であったことから大きな反響を呼んだとも考えられる。

ただし、これ以前にもこうした虚構説あるいは架空説は存在しなかった訳ではなかった。例えば高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)では、聖徳太子と厩戸皇子は別人で実は蘇我馬子の子・善徳こそが真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った残虐非道な架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。

さらにさかのぼれば、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者に始まる。また、津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において太子作ではないとしている(『日本上代史研究』ほか著書四冊は発禁となり、津田左右吉は早稲田大学を辞職した)。井上光貞、坂本太郎らは津田説に反論している。また関晃は狩谷鍵斎、津田左右吉などの偽作説について、「その根拠はあまり有力とはいえない」とする。一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている。

聖徳太子虚構説に対する反論としては、遠山美都男 『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(2000年)、上原和『世界史上の聖徳太子-東洋の愛と智慧』(2002年)、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(2007年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005)などがある。

聖徳太子については『日本書紀(巻22推古紀)』、「三経義疏」、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。)」、「法起寺塔露盤銘」、『上宮記』、『上宮聖徳法王帝説』などの歴史的資料がある。これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。

法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする。一方、志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする[26]。

大山説では道後湯岡碑銘文は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年~1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年~正安3年頃(1274年~1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は前掲二書に引用された伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)の官命で編纂された古風土記)の一部としている[30]。牧野謙次郎は「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、船首王の墓誌等がその最なるものである。」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『續日本紀』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた。」と述べている。

「勝鬘経義疏」について藤枝晃は、敦煌より出土した「勝鬘義疏本義」と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたものであるとする。「法華経義疏」巻頭の題箋(貼り紙)について、大山説は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(「是」、「非」など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。王勇(浙江工商大学日本文化研究所所長)は三経義疏について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、「法華経義疏」の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする[33]。また花山信勝は「法華経義疏」行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している。

「天寿国繍帳」について大山説では天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繍帳の銘文に現れる干支が日本では持統4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている[35]。義江明子は天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみて良いとする[36]。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。

慶雲3年(706年)に彫られたとされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では法起寺塔露盤銘は暦仁一年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記(古今目録抄〔法隆寺本〕)』にしか見出せないことなどから偽作とする。但し、全文の引用は無いものの、嘉禄三年(1227年)に四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている。 また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではないと考える」とする。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」とする。

日本書紀における聖徳太子像について、大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武朝(697年~707年)に文章博士の山田史御方(やまだのふひとみかた)がβ群の述作を開始したとする。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

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