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2008年10月31日 (金)

溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)

東京都出身の映画監督。女性を主人公に据えた情緒的な作品が多い。世界的に大きな影響を与えた映画界の巨匠。

1898年5月16日、東京市浅草区に生まれる。小学校卒業後、神戸又新日報社に図案係として勤務。1920年(大正9年)日活向島撮影所に入る。関東大震災後、同京都撮影所に移る。

1925年(大正14年)、恋人であり同棲中の雇女(別れた後、貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で斬られる事件以来、以後女性をテーマにした作品に独特の感覚を発揮するようになる。

1932年(昭和7年)、日活を辞め入江たか子の入江ぷろだくしょんで仕事をするようになり、『満蒙建国の黎明』、『瀧の白糸』が大ヒット。

1934年(昭和9年)、永田雅一の第一映画に参加、のち松竹・大映と移る。戦中戦後はスランプとなりヒットがなく引退が時間の問題といわれたが、客を呼べなくなった田中絹代を主役にするなと言う周りの声に耳を貸さず重用し続けた。1952年の『西鶴一代女』はヒットしなかったが、ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を得て流れが変わる。1953年『雨月物語』(銀獅子賞)、1954年『山椒大夫』(銀獅子賞)という3年連続の同映画祭での入賞は、日本国内では他に類を見ない功績である。

その後まもなく体調を崩し、1956年(昭和31年)、『赤線地帯』撮影後の8月24日、白血病のため京都で死去。58歳没。同作が遺作となった。

ジャン=リュック・ゴダールをはじめ、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ベルナルド・ベルトルッチ、ジャック・リヴェット、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ビクトル・エリセなどヌーベルヴァーグ世代のヨーロッパの映画作家に多大な影響を与えた。とりわけゴダールの溝口への傾倒ぶりは有名で、「好きな監督を3人挙げると?」との問いに「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えたほどである。またゴダールは1966年、溝口の墓に参っている。

黒澤明、小津安二郎、木下惠介、成瀬巳喜男らと並び称される日本映画の巨匠であり、没後50年に当たる2006年には、2003年の小津生誕100周年、2005年の成瀬生誕100周年同様DVD BOXのリリースや名画座などでの回顧特集が組まれ、改めて注目を浴びた。

Mizoguchi
[おもな監督作品]
1953年までの作品は著作権の保護期間が完全に終了した(公開後50年と監督死後38年の両方を満たす)と考えられている。このためいくつかの作品が現在格安版DVDで発売されている。

1923年『愛に甦へる日』
1929年『東京行進曲』原作菊池寛
1929年『朝日は輝く』共同監督伊奈精一
1933年『瀧の白糸』原作泉鏡花
1935年『折鶴お千』原作泉鏡花
1935年『虞美人草』原作夏目漱石
1936年『浪華悲歌』
1936年『祇園の姉妹』
1937年『愛怨峡』
1938年『露營の歌』
1939年『残菊物語』原作村松梢風
1941年『藝道一代男』
1941年 - 1942年『元禄忠臣蔵』前篇・後篇 原作真山青果
1946年『女性の勝利』
1946年『歌麿をめぐる五人の女』原作邦枝完二
1947年『女優須磨子の恋』原作長坂秀雄
1948年『夜の女たち』原作久板栄二郎
1950年『雪夫人絵図』原作舟橋聖一
1951年『お遊さま』原作谷崎潤一郎
1951年『武蔵野夫人』原作大岡昇平
1952年『西鶴一代女』原作井原西鶴 ※ヴェネツィア国際映画祭国際賞、BBC「21世紀に残したい映画100本」に選出
1953年 『雨月物語』原作上田秋成 ※ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、米アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー経歴賞
1953年『祇園囃子』原作川口松太郎
1954年『噂の女』
1954年『近松物語』原作近松門左衛門 ※第8回カンヌ国際映画祭コンペティション
1954年『山椒大夫』原作森鴎外 ※ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
1955年『新・平家物語』原作吉川英治 ※ヴェネツィア国際映画祭コンペティション
1955年『楊貴妃』※ヴェネツィア国際映画祭コンペティション
1956年『赤線地帯』※ヴェネツィア国際映画祭コンペティション

[作風]
演技の流れをカット割りによって断ち切ってしまうことを嫌い、(特に後年の作品において)1カット数分に及ぶような長回しを多用した。結果として流麗かつ緊張感にあふれた演出を編み出し、右腕であったカメラマン宮川一夫の撮影とあわせて高評価を得た。
上述通り女性を中心に据えた濃密なドラマの演出に才を見せる一方、歴史劇製作に際しての綿密な考証によっても知られる。『元禄忠臣蔵』撮影の際は実物大の松の廊下のセットを製作(建築監督として新藤兼人が参加)したり、『楊貴妃』では当時の中国唐代研究の最高峰である京都大学人文科学研究所に協力を依頼したり、宮内庁雅楽部の尽力により唐代の楽譜を音楽に活用するといった、妥協のない映画作りを展開している。また、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗考証担当に抜擢した事でも知られる。
役者に演技をつけずやり直しを命じ、悩んだ役者がどうすればいいのか訊いても「演技するのが役者の領分でしょう」といっさい助言などをしなかった。出演者に強い負荷と緊張を強いる演出法ながら、「ちゃんと考えて、セットに入るときにその役の気持ちになっていれば、自然に動けるはずだ、と監督さんはおっしゃるんです。それは当然ですよね」という香川京子のコメント[1]などの好意的な評価も見られる。
演出の際、俳優たちに「反射していますか」と口癖のように言って回った。これは「相手役の演技を受けて、自分の演技を相手に“はね返す”」といったような意味合いであったといわれる。長回し主体の溝口演出においては重要な点であった。
こうした一切の妥協を見せず、俳優やスタッフを厳しく叱咤する演出法から、「ゴテ健」(ゴテるとは、不平や不満を言うこと)とあだ名された。
『西鶴一代女』で家並みのセットを作ったところ、溝口がやってきて「下手の家並みを1間前に出せ」といった。それはほんのワンシーンのためのセットで映画の中でさほど重要ではない。助監督はやむなく嫌がる大道具のスタッフに頭を下げて徹夜で作り直させた。翌日、セットを見て監督が言うには「上手の家並みを1間下げろ」。つまり結局は元に戻せということであり、助監督は激怒して帰宅したと伝えられる。この言いがかりとも考えられる指示は、演出に行き詰っていたための時間稼ぎだったと言われる。
宮川一夫(カメラマン)、依田義賢(脚本)、水谷浩(美術)、早坂文雄(音楽)といった類まれな才能を持ったスタッフが溝口組に参加していた。中でも水谷は日本では他のスタッフより知名度が低いが、反対にフランスでは水谷が一番有名。彼の手による溝口のデスマスクが、現在でも保管されている。

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[人物]
映画人との私的な交際はあまり見られなかったが、田中絹代とは公私にわたる親交を育んだ。田中との親交を物語るエピソードとして、幼時から「美人ではないが(演技力がある)」という冠詞をもって語られることの多い田中に、『お遊さま』撮影に際し「あなたを最も美しく撮ります」と語ったという話がある。また溝口は小津や新藤らに、田中への求婚の意志を漏らしたことがあった。
田中とはその後、彼女が映画監督をやることになったことを記者から聞かされて「田中の頭では監督は出来ません」と答え、関係に距離が生じたとされている。ただしこのコメントには田中が自分の元から離れてしまうことへの嫉妬心があったともされる。なお田中は溝口没後、「他人だからという言葉では割り切れないものが、やっぱりわたしにはございますね」と語っている(『ある映画監督の生涯』)。
女性に対する暴言も有名で、前述のように情婦を怒らせ斬られている。『祇園囃子』の際、若尾文子に対して決して名前を呼ばず「おい、子供」、『赤線地帯』の際には「顔の造作が悪い」と罵倒した。かつて入江ぷろだくしょんに雇われ、名匠と呼ばれるきっかけを作った恩人でもあった入江たか子に対してすら、『楊貴妃』の際「化け猫ばかりやってるからそんな芸格のない芝居しか出来ないのだ」と満座の中で罵倒している。また『雨月物語』の際、水戸光子に向かって、「あんたは輪姦された経験がないんですか!」 と言い放った。ただし田中には、上記のコメントを除いては常に紳士的な態度を崩さなかった。
他に『わが恋は燃えぬ』の際、菅井一郎に向かって、「君は脳梅毒です! 医者に診てもらいなさい!」と言い放ち、『山椒大夫』の際、子役に向かって「この子はどうしようもないバカだね!」と言い、すぐ近くにいた母親は真っ青になった。
一方で『雨月物語』撮影中には、会心の演技を見せた森雅之が「誰かタバコをください」と言った時に、自ら率先してタバコを差し出し、火を点けて労ったという話もある。これにはスタッフや森自身も大いに驚いたらしい。
『西鶴一代女』をプロデュースした児井英生[2]によると溝口監督はわがままで、権威のある人には弱く、目下のものには横暴というタイプであるため、役者からもスタッフからも嫌われていた。さらに映画で使われた道具を内緒で自分のものにしてしまったり、自分の生活費の一部を映画の製作費から支払わせていたということもあった。
ただし、溝口に崇拝の念を抱いている新藤兼人などは人格面でも一定の評価を下している。
友人は少なかったが、幼馴染の川口松太郎や花柳章太郎とは親交を長くもったという。
成瀬巳喜男の『浮雲』が話題になっていたとき、当時の助監督の熱心な勧めによって鑑賞したが、その助監督に「成瀬には金玉が付いとるのですか」と感想を語ったことがある。両者の作風や人間性の違いを物語るエピソードである。
日本映画史上初の女性監督は坂根田鶴子(さかねたづこ)で、彼女は戦前の溝口作品で助監督を務めていた。そして2人目は田中絹代であり、溝口は女性監督第1号と第2号に深く関わっていることになる。
映画会社から新人だった宮川一夫を使うよう命令されて、溝口はひどく立腹するも、いざ仕事をするとその態度は豹変。他の監督の撮影が延期して宮川が溝口組に参加できなくなると、「僕たちの仲を裂くんですか!」と会社に抗議した。
溝口は俳優の演技に興奮すると我を忘れて手をブルブル震わせる癖があり、その振動が横にあるカメラにまで伝わるほどだった。そこで高い場所など不安定な位置からの撮影時は、本番になると溝口と同じ体重分の鉄板をカメラの横に置いて、本人は別の場所に移動してもらっていた。本番もできるだけカメラと同じ位置で見ようと、梯子の上に座布団を乗せて馬乗り状態の溝口の写真が残っている。また溝口は最初、宮川一夫から手の震えを指摘されても全然本気にせず、ラッシュ(未編集の下見用フィルム)で目の当たりにして、「こんなに震えてるのかい?」と照れくさそうに笑って素直に認めたという。
『赤線地帯』完成後、溝口は体調を崩して入院するが、依田の手による次回作『大阪物語』の脚本は既に完成していた。これは『西鶴一代女』に続く井原西鶴もので、スタッフが集められ、撮影準備も整ったところでの入院となった。溝口は西鶴の人間味溢れるバイタリティを高く評価していたため、この作品の映画化にとりわけ執念を燃やしていた。見舞いに駆けつけた新藤兼人らに「ラストシーンの演出ができた」と語っていたほどが、願いむなしく間もなく没した。同作は吉村公三郎が監督を引き継いで完成させた。

[註]
1^ 没後五十年特別企画「溝口健二の映画」カタログ「はじめての溝口健二」
2^ 児井英生『伝 日本映画の黄金時代』(文藝春秋、1989年 )の記述を参照。

溝口健二 (Wikipedia)より

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溝口健二 - 人と作品 個人の研究サイト http://www.fsinet.or.jp/~fight/mizoguchi/

日本映画データベース:溝口健二 - 全フィルモグラフィー http://www.jmdb.ne.jp/person/p0107320.htm

Kenji Mizoguchi - Internet Movie Database(英語) http://www.imdb.com/name/nm0003226/

2008年10月30日 (木)

宮川 一夫(みやがわ かずお、1908年2月25日 - 1999年8月7日 )

 日本映画界を代表するカメラマン。主に京都太秦、大映映画の時代劇における陰影ある斬新な撮影で、稲垣浩、溝口健二や黒澤明らが監督する作品のカメラマンとして世界に知られる。本名は、宮川一雄。

京都市河原町御池生まれ。マキノ雅弘は小学校での同級生。京都商業高校(現・京都学園高校)を卒業後、 18歳で日活京都へ現像部助手として入社。以後、60年以上に渡り日本映画界で活躍した。

主な作品は、『鴛鴦歌合戦』、『羅生門』、『雨月物語』、『祇園囃子』、『無法松の一生』、『夜の河』、『用心棒』、『悪名』、『東京オリンピック』、『座頭市と用心棒』等。サントリーのトリスのCM『雨と子犬』の撮影でも知られる。

1960年、市川崑監督の『おとうと』の撮影を担当した際、物語の時代設定である大正の雰囲気を出す為に、フィルムの発色部分の銀を残す独特の技法「銀残し」を生み出した。その後宮川の完成させた銀残しは、世界中の映画で広く用いられることになる。

京マチ子ら撮影所の仲間からはカー坊のあだ名で親しまれていた。1985年、NHK坂本九劇場『この人“宮川一夫ショー”』の中で勝新太郎は、「大映撮影所で挨拶に行かなければならない偉い人は、溝口健二先生、長谷川一夫先生、宮川一夫先生、大河内傳次郎先生だった」と語っている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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サイレント時代からカメラマンをしていた宮川の作品の多くは、白黒です。彼は映画作品だけで、136の作品にカメラマンとして関わりましたが、その半分以上がモノクロ作品でした。しかし、その単色の作品で最も色を感じさせることのできる色調を出せたのは、世界において宮川カメラマンをおいて他にいません。

白黒映画は単純に言えば、白と黒の2階調ですが、鼠色には無限の色があるというのが彼の持論でした。宮川に日本画を教えた先生が、彼に絵の具を一切使わせなかったため、彼は鼠色の中で自然の色を表現しようと努力しました。その教えが後のカメラワークに多大な影響を与えています。白黒映画は、その色の階調から光と影の表現が重要でした。従って、光と影のコントラスト、その中間に位置する鼠色の表現方法により、作品の雰囲気が大幅に変わりました。カラー時代のカメラワークが、動きやカットの仕方に重きを置いているのと比べて、白黒時代は、光と影のコントラストをどう表現するかにより、硬調か軟調かの絵作りを監督や脚本家も含めて、論じられました。そのためか、カメラマンの技量や美的センスがより作品に反映されたのも事実です。
http://www.mozartant.com/Jordan/Movie_Play/Miyagawa_camera.htm

「映画の1コマに集中する情熱。例えば、茶碗一つ取るにしても、そこに暖かな雰囲気をだす細かな神経が必要である。脚本を読んで、それが熱いお茶か冷たいお茶かをきちんと描くことが大事である」

「手作りで1コマ1コマ描くというと、時間がかかってしょうがないと言うが、それは違う。カメラを構えて、1コマにいかにスタッフの思いを注ぐか、時間がかかるものではない。そういう見極め方や、内容の把握の仕方がとても大切なのです」

赤いヤカン事件 -小津安二郎と宮川一夫- 

宮川一夫がフレームを決めると、いつの間にか隅に赤いヤカンとコップが置いてある。
なにしろロー・ポジなので邪魔だからどけておくと、いつの間にか、また置いてある。
「いったい誰なんだ」と言うと、小津監督だと美術の下河原友雄から耳打ちされる。
そこで、宮川一夫は小津監督に言う。
「この赤でなければいけませんか。
この色を出すにはある程度の光量がいるんで、それだけの光量を当てると周りをセードしなければならないんです。 人物の動きがない板付きならいいんですが、人物が立ったりすると、必ずモレが当たってしまうので、そのためちょっとはずした角度と位置からライトをあてることになるんで、見た目の色ではなくなりますが、いいですか。」と。

すると小津監督はあっさりと「いいですよ」と答えたそうです。そして更に、本番前にそのヤカンがなくなっていて、スタッフに聞くと小津監督がどけたと知り、宮川一夫は、巨匠小津監督に気を使わせてしまったなと感じます。

松竹の撮影所では、まず考えられない答えだし対応ですよね。
川又昂キャメラマンがチーフの時に、厚田雄春氏の絶対従順の対応に耐え切れず、小津監督に直接「ここはキャメカを振り回した方がいいのでは。」という提案した答えが、けんもほろろに「ああそうか、それは、お前がキャメラマンになった時にやればいいんだよ。」といったというのですから、これは相当な違いですよね。
そして、このエピソードには、更に追い討ちをかけるような逸話が用意されているのです。その日、宿屋に帰ってから、夜に「もう寝ましたか」と小津監督が宮川一夫の部屋にやってきたのです。そして「ライトの角度で色が変わることを初めて知ったよ」と言ったと記されています。いわゆる巨匠と呼ばれていないような監督でも、素直にそういうことを話す人は、まずない、と宮川一夫は改めて小津監督の人柄に惹かれたとされています。この部分だけ見ても、宮川一夫キャメラマンの仕事に対して、小津監督が深い敬意を表していることがよく分かりますよね。
http://sentence.exblog.jp/6465013/

トリス ウイスキー 「雨と子犬」篇
http://jp.youtube.com/watch?v=Fp43fjmwGkA
 大映が倒産した時に、大映は世界の映画界の至宝である撮影監督の宮川一夫をたった一枚のはがきでの通知によって解雇をしています。 TVのCM界の人々にとっては、幼い時からの憧れの人で、その出逢いから生まれた作品が、 サントリーのトリスのCM『雨と子犬』です。
  いろんな命が生きてるんだな。
  元気で…とりあえず元気で。
  みんな元気で…。

雨の街をさまよう小犬を、見事に清々しい情感のもとに撮ったのが宮川一夫です。 この作品は、1981年のカンヌ国際広告映画祭・金賞を獲得。

2008年10月29日 (水)

池袋物語その5

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[主な劇場]
東京芸術劇場
大中1つと小2つの計4ホールと展示ギャラリーなどから構成される。大ホールはオーケストラ中心のコンサート専用ホールで、客席数は1999。フランス/マルク・ガルニエ社製の世界最大級のパイプオルガンがあり、ルネッサンス、バロック、モダンの3時代それぞれの当時の調律法で演奏可能である。中ホールは客席 841 で、本格的演劇、オペラ、バレエなどが主に上演される。2つの小ホールは、それぞれ客席 300 で多目的ホールとして活用されている。西口駅前徒歩1分。
サンシャイン劇場
客席数 832。東口サンシャインシティ内。徒歩10分。
シアターグリーン
渋谷ジァン・ジァン、下北本多劇場などと並ぶ若手劇団の登竜門。大中小3ホールからなる。東口徒歩3分。
池袋小劇場
客席数 80。劇団と同名。西口徒歩5分。
池袋演芸場
寄席を上演。西口徒歩3分。
また、池袋は郊外のシネマコンプレックスに押され気味なものの都内屈指の映画館の集積地である。東口線路沿いの文芸坐は新文芸坐として、遊技場を加えた娯楽集積施設として新装営業している。

[主な映画館]
池袋シネマサンシャイン
シネ・リーブル池袋
池袋HUMAXシネマズ4
池袋東急
シネロマン池袋
テアトルダイヤ
シネマ・ロサ
新文芸坐(名画座)

(Wikipedia)

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池袋物語その4

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駅東口には西武百貨店、三越、パルコ、サンシャインシティ、ビックカメラ、ヤマダ電機、豊島区役所などがあり、東口一帯に繁華街が広がる。駅からグリーン大通りを進むと左手にサンシャイン60ビルやトヨタアムラックスが見えてくる。サンシャインシティ方面へ延びるサンシャイン60通りは、飲食店、映画館、ゲームセンター等も多く、休日は歩行者天国になっている。このサンシャイン60通り沿いや、三越の西側には歓楽街が広がり、キャバクラやストリップ劇場、風俗店など、その規模は新宿歌舞伎町や渋谷センター街に並ぶ。

パルコ、p'パルコ、サンシャインシティアルパ&アルタなどは、売上げでは、渋谷109や渋谷パルコを超え、女性ファッションの聖地になっており、西武百貨店池袋本店の水着売上枚数は、日本一である。今や池袋の若い女性の集客力は、渋谷、原宿に次ぐとされる。

池袋はまたジュンク堂書店(本屋としては日本一の大きさを誇る)、リブロなどの都内屈指の書店激戦区でもあり、10店舗以上のCD店が競合する音楽激戦区、ラーメン、回転寿司などのグルメ激戦区でもある。

西武百貨店は、東口の顔で、同百貨店の旗艦店でもある。エルメスやラルフローレンなど欧米の人気ブランドを日本の百貨店の中でいち早く導入し、ブランド力のあるデパートに発展させ、かつてのセゾン文化の発信基地にもなった。新宿伊勢丹と並びファッションに敏感な女性に根強い人気があり、都内屈指の売上額を誇っている。また同百貨店のデパ地下は、日経MJの2002年などの調査で首都圏人気NO1に選ばれた。また西武百貨店の源流は、三井高利が始めた三越の前身の呉服店、越後屋(1672年創業)より古い、1662年創業の呉服店、日本橋白木屋に求められる。1933年に白木屋と京浜電鉄が共同で設立した京浜百貨店が菊屋デパートの名で池袋駅に出店し、その後、武蔵野デパートを経て西武百貨店になった。
サンシャインシティは、展望台を有する超高層ビルの「サンシャイン60」をはじめ、都市型テーマパーク「ナムコ・ナンジャタウン」、「国際水族館」、プラネタリウムの「スターライトドーム満天」、「サンシャイン劇場」、「専門店・レストラン街アルパ・アルタ」、「プリンスホテル」などからなる日本初の複合都市。近年、「りらくの森」、「アイスクリームシティ」、「シュークリーム畑」、「餃子スタジアム」などのテーマパークもオープンしている。アルパの噴水広場では各種イベントも開かれる。
シアターグリーンは、渋谷ジァン・ジァン、自由劇場、下北沢の本多劇場と並ぶ歴史のある劇場で、若手劇団の登竜門になっている。大中小3ホールからなり演劇祭も開催される。池袋駅東口から徒歩3分。
サンシャイン通りに近い路地を入ると昭和の叙情的ムードが漂う飲み屋街・「ひかり横丁」(現在は閉鎖された)や、北側には骨董ファンにはお馴染みで、かつての骨董街神田から移ってきた骨董店が入居する「東池袋骨董商会」がある。毎月第2月曜日、池袋駅前公園で骨董市が開催されている。
東口繁華街は近年、副都心線の開業に合わせるように北へ、南へとさらに広がりを見せており、池袋駅東口地下街を、サンシャインシティや東池袋4丁目まで延伸する「東口地下街計画」や、LRTを東口駅前からグリーン大通りを直進させ、南池袋2丁目で右折し、都電荒川線・都電雑司ヶ谷駅に接続する構想などが浮上している(現時点では構想段階にとどまっている)。その2丁目に豊島区役所の新庁舎移転計画が進行しているが、区庁舎の位置と規模に関与する利害関係者の綱引き状態となっている。また、現区役所跡地には商業施設を建設する構想もある。
ヤマダ電機は「LABI」という都市型店舗としては国内3店舗目となる「LABI池袋店」を東口に出店。その立地がビックカメラ池袋本店の1軒隣でビックパソコン館池袋本店の向かいであったため、2社の間で売り上げ争いが勃発、その様子はマスコミでも大きく取り上げられた。また、2009年5月に閉店する三越池袋店の建物が2010年をめどにヤマダ電機となり、近接する地域のビックカメラ・ヤマダ電機がともに2店舗となることからマスコミでも大きく報じられた。この2社は同じく池袋に店舗を持つさくらやを傘下におさめているベスト電器の買収合戦でも対立していて、池袋が取り上げられる機会は多そうである。
(Wikipedia)

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池袋物語その3

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大正から昭和にかけ、東上鉄道(今の東武東上本線)や武蔵野鉄道(今の西武池袋線)なども池袋へ乗り入れるが、これらはどちらも当初繁華街とはいえなかった池袋は起点とせず、当時の繁華街であった神田・巣鴨(市電が1912年には乗り入れていた)への乗り入れを前提としていた。その過程において池袋は仮のターミナル駅として開設されたが、その後の事情でどちらも都心への延伸を断念し、結果として池袋起点となったものであった。この頃は、巣鴨のほかに、白木屋があり王子電気軌道(今の都電荒川線、1911年に開業)と山手線が交差していた大塚駅辺りが繁華街であって、池袋は師範学校や立教大学など、学校が置かれたことから文教地区となっていった。

1933年に白木屋と京浜急行電鉄が共同で設立した京浜百貨店が1930年代に菊屋デパートの名で池袋駅に開店。そして東京市電(1943年に東京都電となる)が1939年に池袋駅前に乗り入れ、この頃から交通の結節点として、賑わいを見せるようになる。菊屋は1940年に武蔵野鉄道(現西武鉄道)に買収され、武蔵野食糧を開設。武蔵野デパートを経て1949年に西武百貨店と改称した。

また東武百貨店が1962年に本店を開店して1964年に東横百貨店池袋店を買収し、1958年に開店した東京丸物池袋店は1968年に西武百貨店に買収されパルコになった。

現在池袋と名の付く地区の大半は、一時期西巣鴨町に属していた。西巣鴨橋という橋が東池袋二丁目に現存する。サンシャインシティは巣鴨拘置所の跡地に立てられたものである。
(Wikipedia)

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2008年10月28日 (火)

池袋物語その2

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戦国時代から「池袋」という地名が使われていることは分かっており、江戸時代の古文書からもその名を見つけることができる。 現在の池袋駅西口のホテルメトロポリタン付近に存在していたとされる、袋型の大きな池が袋池と呼ばれており、それが直接の由来となったという有力な説があるが、確かなことは分かっていない。(Wikipedia)

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現在の池袋駅より少し北西に離れた場所、今で言う豊島区池袋、豊島区池袋本町の辺りにかつて存在した「池袋村」が発祥とされている。1889年の町村制施行で、巣鴨村の大字となる。

しかし、池袋の地は古くは栄えているとは言いがたい農村地帯であった。ここが栄えるきっかけとなったのは、鉄道の開業である。上野駅~前橋駅間に鉄道を開業させていた私鉄の日本鉄道が、1885年に官営鉄道(新橋駅~横浜駅)との接続を目的に、現在赤羽線・山手線(埼京線)となっている赤羽駅~品川駅間の路線を開業させた。だが、この時には池袋の地に駅は設けられなかった。

その後、1903年に田端駅への支線を建設することになった。この時、当初は目白駅での分岐が想定されていたが、地形の問題で池袋を分岐点にすることになり、池袋駅の開設に至ったのである。だが、駅の外に畑が広がっているという状況はなかなか変わらなかった。

(Wikipedia)

池袋物語その1

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池袋は、新宿、渋谷と並ぶ山の手3大副都心の一つ。駅を中心に巨大な百貨店や専門店が集中し、飲食店などがひしめく。池袋駅の一日平均乗降者数は約271万人(2007年度)。繁華街は東西に広がり、1日に約100万人の集客人員がある。この街の事を若者を中心に「ブクロ」と略して呼称されることもある。

東口方面には西武百貨店、サンシャイン60、女性向けオタクストリート乙女ロード、豊島区役所等があり、西口方面には東武百貨店、東京芸術劇場等がある。

8路線からなる巨大な鉄道ターミナルが形成されており、各地から種々雑多な膨大な人を集客する。特に西武池袋線・東武東上線・JR埼京線・湘南新宿ライン等を利用する東京都西部、埼玉県南・西部の住民が多い。東京都の調査では、23区在住者の来街者が最も多いのが池袋である。

中心部から少し離れると、立教大学、重要文化財に指定されているフランク・ロイド・ライト設計の自由学園明日館、多くの著名人が眠る雑司ヶ谷霊園などの緑や文化財も多く、池袋演芸場などの寄席や小劇場もある。

駅や街の至る所にある「いけふくろう」像は、「渋谷のハチ公に対して、池袋にも待ち合わせのメッカを」ということで、"いけぶくろ"と"フクロウ"を掛け合わせて考え出されたものである。特に、東口のものはJR発足時に設置されたものである。 (Wikipedia)

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『雨月物語』(うげつものがたり)

Asadi 上田秋成によって江戸時代後期に著わされた読本(よみほん)の代表作。五巻五冊。明和5年(1768年)序、安永5年(1776年)刊。日本・中国の古典から脱化した怪異小説九篇から成る。近世日本文学の代表作で、現代でも引用されることが多い。

『雨月物語』は、諸説あるが、明和5年から安永5年の間にかかれ、安永5年4月(1776年)に、京都寺町通の梅村判兵衛と大阪高麗橋筋の野村長兵衛の合同で出版された。全五巻、九篇の構成であった。挿絵は、当作品へ大いに影響を与えた都賀庭鐘『繁野話』と同じ、桂宗信が担当した。各篇に一枚ずつ、中篇の「蛇性の婬」だけには、二枚の絵が載っている。

『雨月物語』は「剪枝畸人」名義で刊行され、作者は上田秋成であろう、と分かってきたのは、彼の死後のことである。また、当時の売行きは極普通のものであり、今のように、人気、評価に不動の地位を確立していた、というわけではないことが推測されている。

文学史上の位置づけとしては、『雨月物語』は建部綾足の『西山物語』などと同じ、元禄期と化政期の間、安永・天明文化期の、流行が浮世草子から転換しつつあった初期読本にあたる。後世には、山東京伝や曲亭馬琴へ、強い影響を与えた。

内容は、中国の白話小説の翻案によるところが大きい。しかし、それをもって盗作あるいは剽窃と考えることはあやまりである。秋成は丁度和歌における本歌取りの技法のように、当時でも古典であったものを踏まえつつ、和文調を交えた流麗な文を編み、日本の要素や独自の部分を混ぜ、思想を加えるなど、原話を超えたものに仕上げていることに注目すべきだろう。

[各篇]
各篇の並び順は以下の通りだが、これは深い考えのあってのものだ、という説を、高田衛は提唱している。つまり、前の作品の一部要素が、次の作品の内容と結びついていて、円環をなしている、ということである。

白峯(しらみね) - 西行が讃岐国にある在俗時代の主崇徳院の陵墓、白峯陵に参拝したおり、崇徳上皇の亡霊と対面し、論争する。巻之一収録。(→#白峯)
菊花の約(きくくわのちぎり) - 親友との再会の約束を守るため、約束の日の夜、自刃した男が幽霊となって現れる。巻之二収録。(→#菊花の約)
浅茅が宿(あさぢがやど) - 戦乱の世、一旗あげるため妻と別れて故郷を立ち京に行った男が、七年後に幽霊となった妻と再会する。巻之二収録。(→#浅茅が宿)
夢応の鯉魚(むおうのりぎよ) - 昏睡状態にある僧侶が夢の中で鯉になって泳ぎまわる。巻之三収録。(→#夢応の鯉魚)
仏法僧(ぶつぽうそう) - 旅の親子が、高野山で、怨霊となった豊臣秀次の一行の宴に会い、怖い思いをする。巻之三収録。(→#仏法僧)
吉備津の釜(きびつのかま) - 色好みの夫に浮気され、裏切られた妻が、夫を祟り殺す。巻之三収録。(→#吉備津の釜)
蛇性の婬(じやせいのいん) - 男が蛇の化身である女につきまとわれるが、最後は道成寺の僧侶に退治される。巻之四収録。(→#蛇性の婬)
青頭巾(あをづきん) - 稚児に迷い鬼と化した僧侶を、旅の僧である快庵禅師が解脱へと導く。巻之五収録。(→#青頭巾)
貧福論(ひんぷくろん) - 金を大事にする武士、岡左内の寝床に金銭の精が小人の翁となって現れ、金とそれを使う主人との関係を説く。巻之五収録。(→#貧富論)

[出版経緯]
上田秋成は、明和3年(1766年)、処女作である『諸道聴耳世間猿』(『諸道聴耳世間狙』)を、明和4年に、浮世草子の『世間妾形気』を書いた。そして、『雨月物語』の序をみるとそこには、「明和戊子晩春」、つまり明和5年晩春に『雨月物語』の執筆が終っていることになる。しかし実際に『雨月物語』が刊行されたのは、その8年後の安永5年(1776年)のことであった。

ここに、『雨月物語』成立の謎がある。つまり、『雨月物語』は本当に序にあるように明和5年に成立したのだろうか、刊行までの8年という長い間には、どういう意味があるのだろうか、というものである。山口剛の研究以来、重友毅、中村幸彦と、明和5年を一応の脱稿、それからの8年間は、『雨月物語』の推敲に費やされた、という見方が強かった。それまでの『世間猿』『妾形気』の二作品は、浮世草子に属していた。そして『妾』の末尾の近刊予告を見ると、『諸国廻船便』と『西行はなし 歌枕染風呂敷』の二作品が並べられており、まだ秋成に浮世草子を書く気、予定があったことが見えることも、この論を裏付けている。

しかし、この説の裏側には、当時浮世草子が軽く見られる風潮があったことを、高田衛などは指摘している。そして、大体の成立は序の通りでよいのではないか、という説を提唱している。つまり、『世間猿』と『妾形気』の浮世草子二作品と、『雨月物語』という読本作品は連続したもの、という考えである。また、巻之四「蛇性の婬」には内容に、日付の日数の計算の合わないことが知られていたが、これに対しての大輪靖宏の指摘がある。もし、序に書かれた年の前年の明和4年に「蛇性の婬」が書かれたとする場合、序の年の前年、閏9月のあった明和4年を念頭におくと、うまく計算が合う。

この説の場合、脱稿からの8年間、『雨月物語』をめぐって何がおこなわれていたのかは分からないが、明和8年と安永元年には、それぞれ野村長兵衛と梅村判兵衛という別々の版元から『雨月物語』の近刊予告がでていたり、明和8年には、秋成の家業の嶋屋が火事で焼けたことなどを契機に都賀庭鐘から医学を学んだり、医院を開業したりしていた。坂東健雄は、高田説が通説であるとしながらも、どちらの説も決め手に欠けるとし、やはり、出版にいたる8年間に推敲が行われた可能性は否定できないことを指摘した。

[都賀庭鐘『英草子』『繁野話』からの影響]
秋成が、処女作の浮世草子『諸道聴耳世間猿』を刊行した明和3年、都賀庭鐘の『繁野話』が世に出た。この作品とその前作の『英草子』は、読本の祖というべきもので、それまで流行していた浮世草子とはちがって、原典(白話小説)のはっきりと分かる、中国趣味を前面にだしたものだった。ときは、井原西鶴から始まった浮世草子の新鮮味がなくなり、おちこみがでてきたころ。秋成はまだ執筆、刊行予定のあった浮世草子を捨て、庭鐘の作品をうけて『雨月物語』を書きはじめたのだった。

『雨月物語』執筆の時期は上記のようにはっきりしないが、しかしその前後に、秋成は、庭鐘から医学を学んでいる。そして、医者として生きて行くこととなる。このとき、どれだけ庭鐘から医学以外のこと(例えば白話小説のことなど)を直接学んだかはよく分かっていないが、その影響をうけていることは『雨月物語』自体が証拠となろう。

具体的にいえば、まず体裁が五巻九篇、見開きの挿絵一枚の短篇が八つ、挿絵二枚の中篇(「蛇性の婬」)がひとつであるところは、まったく庭鐘の読本作品と同じである。体裁で違うところといえば、題名のつけかたで、庭鐘が『英草子』第一篇「後醍醐帝三たび藤房の諫を折くこと話」とか『繁野話』第一篇「雲魂雲情を語つて久しきを誓ふ話」とか長くつけるのに対し、『雨月物語』の方は第一篇「白峯」や第二篇「菊花の約」のようにすっきりとした題がついている。内容面で言うと、読本の形式をとり、場面場面ではなく話の運びや、登場人物の人間性に重点をおいたものにしたこと、読者の想定を知識層におき、思想や歴史観、作中での議論を盛り込んだことなどがあげられる。

[師・加藤美樹]
「白峯」での西行など、『雨月物語』を書く秋成の思想の背景に、国学者賀茂真淵からの影響が見られる。それまでも独学で契沖のことを学んでいた秋成は、やはり『雨月物語』執筆の前後に、国学者加藤美樹(姓は藤原、河津、名は宇万伎とも)に入門している。美樹は、真淵の高弟であった。それまでも、知的な「浮浪子」(なまけ者などの意味の上方語)であった秋成だが、美樹からのてほどきからは、思想的深化、古典学の体系的だった智識の整理、という重大な影響をうけた。影響は、『雨月物語』にも反映された、と考えてもよいだろう。

『雨月物語』の文体からも、このことは察せられる。庭鐘の作品は和漢混淆文でできているといってもよいが、漢文調の強いものであった。一方、『雨月物語』を見ると、うまく原典の白話小説の調子を翻訳し、漢文調と和文調の織り交ざった独自な文体となっている。師、美樹の学問が、この文体の礎となったことは、うなづける話である。

[名の由来]
『雨月物語』という題は、どこからきたのだろうか。秋成自身の序文には、書き下すと、「雨は霽れ月がは朦朧の夜、窓下に編成して、以て梓氏に畀ふ。題して雨月物語と云ふ」とあり、雨がやんで月がおぼろに見える夜に編成したため、ということが書いてある。物語中、怪異が現れる場面の前触れとして、雨や月のある情景が積極的に用いられていることにも、注意したい。

また、これを表向きの理由、作者の韜晦であるとして、別の説もだされている。山口剛は、西行がワキとして登場する謡曲の『雨月』がもとになっている、という説を提唱したが、これには、長島弘明の、「白峯」との内容面での関係性が薄い、として否定されている[9]。また、重友毅は、『雨月物語』にもところどころで採用されている『剪灯新話』「牡丹灯記」にある一節「天陰リ雨湿(うるほ)スノ夜、月落チ参(さん)横タハルノ晨(あした)」から来てるのではないか、と唱えている。高田衛は、秋成はこの両者に親しんでいただろうことから、このどちらか一方と考えなくてもよい、という考えを示している。

雨月物語序

羅子撰水滸。而三世生唖児。紫媛著源語。而一旦堕悪趣者。蓋為業所偪耳。然而観其文。各々奮奇態。揜哢逼真。低昂宛転。令読者心気洞越也。可見鑑事実于千古焉。余適有鼓腹之閑話。衝口吐出。雉雊竜戦。自以為杜撰。則摘読之者。固当不謂信也。豈可求醜脣平鼻之報哉。明和戊子晩春。雨霽月朦朧之夜。窓下編成。以畀梓氏。題曰雨月物語。云。剪枝畸人書。 印(子虚後人)印(遊戯三昧)

上は、『雨月物語』の序文の全文である。ここでは、上田秋成の『雨月物語』にかける意気込み、創作経緯が書かれている。この文中で秋成は、『源氏物語』を書いた紫式部と『水滸伝』を書いた羅貫中を例にあげ、ふたりが現実と見紛うばかりの傑作を書いたばかりにひどい目にあったという伝説をあげている(紫式部が一旦地獄に堕ちた、というのは、治承年間、平康頼によって書かれた『宝物集』や延応以降の、藤原信実によって書かれたとされる『今物語』に、羅貫中の子孫三代が唖になった、というのは、明代、田汝成編の『西湖遊覧志余』や『続文献通考』によっている)。そして、どう見ても杜撰な、荒唐無稽な作品である『雨月物語』を書いた自分は、そんなひどい目にあうわけがない、と謙遜している、ように見える。しかし、考えてみれば、そもそもくだらない作品を書いた、と自分で思っているなら、当時でもすばらしい作品であると考えられていた『源氏物語』や『水滸伝』と自分の作品を比べるわけはあるまい。

また、末尾の「剪枝畸人書」という署名に注目して、ここから秋成の真意を汲取ろう、という試みもなされている。この「剪枝畸人」の「枝」は「肢」、さらには「指」に通じ、幼いときに秋成が、右手中指、左手人差し指が不具になったことを戯れにした署名である。ここで、前に自分はひどい目に合わないはずだ、と言っておきながらこういう署名をするところに、注目する必要がある。また、中野三敏からは、これは『荘子』に由来するものではないか、という指摘もなされている。『荘子』の人間世篇に、有用な実をつける木は「大枝ハ折ラレ、小枝ハ泄(た)メラル」、無用な木は「ハタ、アニ翦(き、剪)ラルルコト有ランヤ」とある。つまり、「剪枝」とは、自分が役に立つ人間であったがゆえに、指(枝)が折られて(剪)しまったのだ、ということを意味しているのではないか。後半の「畸人」という部分は、大宗師篇にある箇所が連想される。「畸人ハ人ニ畸(ことな)リテ、天ニ侔(ひと)シキモノナリ」と。つまり、「剪枝畸人」とは、紫式部や羅貫中のような、物したあとにひどい目にあったのとは違って、『雨月物語』を書いた自分は、生まれながらに罰せられている、天にも等しき存在なのだ、という傲慢なほどのすさまじい主張にも読取れるのだ[11]。いかに秋成の『雨月物語』にかける自負心が大きかったことか、察することができるだろう。

○[白峯]
諸国を巡る西行の道行文から、「白峯」は始まる。この部分は、当時西行作と信じられていた『撰集抄』巻一「新院御墓白峰之事」と巻二「花林院永僧正之事」が下敷きになっている。西行は旧主である崇徳院の菩提を弔おうと白峯を訪れ、読経し、歌を詠む。「松山の浪のけしきはかはらじをかたなく君はなりまさりけり」。すると、「円位/\」と西行のことを呼ぶ声がする。その声は、「松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな」[14]と返歌する。ここで西行は、声の主が崇徳院であることに気づいた。

ここから、西行と院の論争が始まる。西行は『日本書紀』「仁徳紀」にある大鷦鷯の王、菟道稚郎子の皇位相譲の話を例に出して王道の観点から、院は易姓革命論から、それぞれ論をぶつけあう。次に、西行は、易姓革命を唱えた『孟子』が日本に伝わらなかったこと、『詩経』「小雅」の一篇「兄弟牆(うち)に鬩(せめ)ぐとも外の侮りを禦(ふせ)げよ」という一節を説き、ついに院の、私怨がゆえである、との本音を引き出すことに成功する。院は、「経沈め」の一件の後、保元の乱で敵方にまわったものたちを深く恨み、平治の乱がおこるように、操ったのだ、という。そして、大風がおき、ここではじめて院の、異形のすがたがあらわになる。配下の天狗の相模がやってくる。そして、院は、平氏の滅亡を予言する。西行は、院の浅ましいすがたを嘆き、一首の歌を詠む。「よしや君昔の玉の床(とこ)とてもかからんのちは何にかはせん」。すると、院の顔がおだやかになったように見え、段々とすがたがうすくなり、消えていった。いつのまにか月が傾き、朝が近くなっている。西行は金剛経一巻を供養し、山をおりた。その後、西行は、このできごとをだれにもはなすことはなかった。世の中は、院の予言通りにすすんでいき、院の墓は整えられ、御霊として崇め奉られるようになった。

○[菊花の約]
「菊花の約」は、全体を白話小説の『古今小説』「范巨卿鷄黍死生交」から、時代背景を香川正矩『陰徳太平記』によっている。登場人物の丈部左門が張劭に、赤穴宗右衛門が范巨卿に対応する。時は戦国時代、舞台は播磨国加古(今の兵庫県加古川市)である。

左門は母とふたり暮らしで清貧を好む儒学者である。ある日友人の家に行くと、行きずりの武士が病気で伏せていた。丈部は彼を看病することになった。この武士は、赤穴宗右衛門という軍学者で、佐々木氏綱のいる近江国から、故郷出雲国での主、塩冶掃部介が尼子経久に討たれたことを聞いて、急ぎ帰るところだった、と、これまでの経緯を語った。しばらく日がたって、宗右衛門は快復した。この間、左門と宗右衛門は諸子百家のことなどを親しく語らい、友人の間柄となり、義兄弟のちぎりまで結んだ。五歳年上の宗右衛門が兄、左門が弟となった。宗右衛門は左門の母にも会い、その後も数日親しく過ごした。

初夏になった。宗右衛門は故郷の様子を見に、出雲へ帰ることとなった。左門には、菊の節句(重陽の節句)に再会することを約した。ここから、題名の「菊花の約」がきている。さて、季節は秋へと移っていき、とうとう約束の九月九日となった。左門は朝から宗右衛門を迎えるため掃除や料理などの準備をし、母が諌めるのも聞かず、いまかいまかと待ち受けるばかり。外の道には、旅の人が幾人も通るが、宗右衛門はまだこない。夜も更け、左門があきらめて家にはいろうとしたとき、宗右衛門が影のようにやってきたのだった。左門に迎えられた宗右衛門だったが、酒やご馳走を嫌うなど不審な様子を見せる。わけをたずねられると、自分が幽霊である、と告白するのだった。宗右衛門は、塩冶を討った経久が自分のいとこの赤穴丹治をつかって監禁させた。そしてとうとう今日までになってしまった。宗右衛門は、「人一日に千里をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆく」ということばを思い出して、自死し、幽霊となってここまでたどりついたのだ、と語った。そして、左門に別れをつげ、消えていった。

丈部親子は、このことを悲しみ、一夜を泣いて明かした。次の日、左門は出雲へと旅立ち、丹治に会った。左門は、魏の公叔座の故事を例に挙げ、それに比べて丹治に信義のないのを責めた。丹治を斬り殺した左門は行方がわからなくなった。物語は「咨軽薄の人と交はりは結ぶべからずとなん」と、冒頭の一節と同意の文を繰り返して終っている。

○[浅茅が宿]
「浅茅が宿」の原拠は、『剪灯新話』「愛卿伝」と、それを翻案した浅井了意『伽婢子』「藤井清六遊女宮城野を娶事」である。戦国時代の下総国葛飾郡真間郷に、勝四郎と妻の宮木が暮らしていた。元々裕福な家だったが、働くのが嫌いな勝四郎のせいで、家勢はどんどん傾いていき、親戚からも疎んじられるようになった。勝四郎は発奮し、家の財産をすべて絹にかえ、雀部曽次という商人と京にのぼることを決める。勝四郎は秋に帰ることを約束して旅立っていった。関東はそのうち、享徳の乱によって乱れに乱れることになる。宮木の美貌にひかれた男共が言い寄ることもあったが、これを退けるなどして、宮木は心細く夫の帰りを待ちわびる。だが、約束の秋になっても、勝四郎は帰ってこないのだった。

一方夫の勝四郎は京で絹を売って、大もうけをした。そして関東のほうで戦乱が起きていることを知って、急ぎ故郷に帰る途中、木曽で山賊に襲われて財産を全て奪われてしまった。また、この先には関所があって、人の通行をゆるさない状態だと聞く。勝四郎は宮木が死んでしまったとおもいこみ、近江へと向かった。ここで勝四郎は病にかかり、雀部の親戚の児玉の家に厄介になることになる。いつしかこの地に友人もでき、居つくようになり、七年の月日が過ぎた。近頃は近江や京でも戦乱がおき、勝四郎は宮木のことを思う。そして、故郷に帰ることにした。十日余りで着いたのは、夜になってのことだった。変わり果てた土地で探すと、やっと我が家にたどり着いた。よく見ると、隙間から灯がもれている。もしやと思って咳をすると、向うから「誰(たそ)」と声がしたのは、しわがれてはいるけれどまさしく妻、宮木のものだった。

扉の向うからあられた妻は、別人かと思われるほど、変わり果てたすがたであった。宮木は勝四郎のすがたをみて、泣き出し、勝四郎も思わぬ展開に動転するばかり。やがて、勝四郎はことの経緯、宮木は待つつらさを語り、その夜はふたり、ともに眠った。次の朝勝四郎が目がさめると、自分が廃屋にいることに気づいた。一緒に寝ていたはずの宮木のすがたも見えない。勝四郎はやはり妻は死んでいたのだ、と分かり、家を見てまわっていると、元の寝所に塚がつくられているのがあった。そこに、一枚の紙があった。妻の筆跡で歌が書いてある。「さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か」これをみて、勝四郎は改めて妻の死を実感し、伏して大きく泣いた。妻がいつ死んだのか知らないのは情けない話だ、事情を知っている人に会おう、と外に出ると、すでに日は高くなっていた。

近所のひとに聞いて、ひとりの老人を紹介してもらった。老人は、勝四郎も知る、ここに古くから住む漆間の翁というひとであった。漆間の翁は、勝四郎がいなくなったあとの戦乱で乱れたこの土地の様子、宮木が気丈にもひとりで待っていたが、約束の秋を過ぎて次の年の八月十日に死んだこと、漆間の翁が弔ったことを語り、勝四郎にも弔いをすすめた。その夜はふたりで、声をだして泣きながら、念仏をして明かした。そして、漆間の翁がこの土地に伝わる真間の手児女の伝説を語るのをきいて、勝四郎は一首よんだ。「いにしへの真間の手児奈をかくばかり恋てしあらん真間のてごなを」この話は、かの国に通っている商人から聞いたものである。

○[夢応の鯉魚]
「夢応の鯉魚」の典拠は、天明3年に刊行された『近古奇談 諸越の吉野』にすでに、『醒世恒言』「薛録事魚服シテ仙ヲ証スルコト」であることが分かっていたほか、後藤丹治によって、さらにその原典の明の時代の白話小説『古今説海』「魚服記」も参照されたことが指摘されている。
主人公の興義は、近江国三井寺の画僧として有名であった。特に鯉の絵を好み、夢の世界で多くの魚と遊んだあとに、その様子を見たままにかいた絵を「夢応の鯉魚」と名づけていた。そして、鯉の絵は絶対にひとに与えることはなかった。そんな興義が、病にかかって逝去した。だが、不思議とその胸のあたりが温かい。弟子たちはもしかしたら、とそのまま置いておくと、三日後に興義は生き返った。興義は、檀家の平の助の殿がいま新鮮な膾などで宴会をしているはずだから、これを呼びなさい、と命じて、使をやると、果たして、まさしく平の助は宴会をしている最中であった。興義は、助などに向って、宴会の様子を事細かに言い、そしてなぜ分かったのか、わけをはなし始めた。

病に臥せっているうちに興義は、自分が死んだことにも気づかないで、杖を頼りに琵琶湖にまで出て、入り、泳いだ。もっと自由に泳ぎたく、魚のことをうらやんでいたところ、海若(わたづみ)に体を鯉にしてもらえた。そこから、興義は、自由気儘に泳ぎだした。ここからの近江八景など琵琶湖の名所を巡る道行き文は三島由紀夫から「秋成の企てた窮極の詩」と激賞されている。

しかしその内、興義は急に餓えるようになり、餌にとびついたところ釣られてしまい、助の屋敷までつれてこられ、助けを求める声も聞かれずに、刀で切られてしまうところで目が覚め、ここにいるのだ、と。助はこのはなしを大いに不思議に思ったけれど、残っていた膾を湖に捨てさせた。病が癒えた興義はその後、天寿を全うした。その際、興義の鯉の絵を湖に放すと、紙から離れて泳ぎだしたという。弟子の成光も、鶏がこれを見て蹴るほどの、すばらしい鶏の絵を描くことで有名だったというはなしが、『古今著聞集』にのっている。

○[仏法僧]
「仏法僧」は、時を江戸時代に設定している。伊勢国の拝志夢然というひとが隠居した後、末子の作之治と旅に出た。色々見て廻ったあと、夏、高野山へと向った。着くのが遅くなり、到着が夜になってしまった。寺でとまろうと思ったけれど寺の掟によりかなわず、霊廟の前の灯籠堂で、念仏を唱えて夜を明かすことに決めた。静かな中過ごしていると、外から「仏法仏法(ぶつぱんぶつぱん)」と仏法僧の鳴き声が聞こえてきた。珍しいものを聞いたと興を催し、夢然は一句よんだ。「鳥の音も秘密の山の茂みかな」

もう一回鳴かないものか、と耳をそば立てていると、別のものが聞こえてきた。だれかがこちらへ来るようである。驚いて隠れようとしたが二人はやって来た武士に見つかってしまい、慌てて下に降りてうずくまった。多くの足音とともに、烏帽子直衣の貴人がやってきた。そして、楽しそうに宴会をはじめた。そのうち、貴人は連歌師の里村紹巴の名を呼び、話をさせた。話は、『風雅和歌集』にある弘法大師の「わすれても汲やしつらん旅人の高野の奥の玉川の水」という歌の解釈に移っていった。紹巴の話が一通り終った頃、また仏法僧が鳴いた。これに、貴人は、紹巴にひとつ歌をよめ、と命じる。紹巴は、段下の夢然にさきほどの句を披露しろ、といった。夢然が正体を聞くと、貴人が豊臣秀次とその家臣の霊[27]であることが分かった。夢然がようよう紙にかいたのを差し出すと、山本主殿がこれをよみあげた。「鳥の音も秘密の山の茂みかな」。秀次の評価は、なかなか良いよう。小姓の山田三十郎がこれに付け句した。「芥子たき明すみじか夜の牀」[28]。紹巴や秀次はこれに、よく作った、と褒め、座は一段と盛り上がった。

家臣のひとり、淡路(雀部重政)が急に騒ぎ出し、修羅の時が近づいていることを知らせた。すると、いままでおだやかだった場が殺気立つようになり、みなの顔色も変ってきている。秀次は、段下の、部外者のふたりも修羅の世界につれていけ、と配下のものに命じ、これを逆に諌められ、そのうち皆の姿は消えていった。親子は、恐ろしい心地がして、気絶してしまった。朝が来て、二人は起き、急いで山を下った。後に夢然が瑞泉寺にある秀次の悪逆塚の横を通ったとき、昼なのにものすごいものを感じた、とひとに語ったのを、ここにそのまま書いた、という末尾で物語をしめている。

○[吉備津の釜]
「吉備津の釜」冒頭の妬婦論は、『五雑俎』(五雑組とも)巻八による。吉備国に、井沢正太夫というひとがいた。この息子の正太郎というのは、色欲の強い男で、父がとめるのも聞かず、遊び歩いていた。そこで、嫁を迎えて身持ちを固めさせようと、吉備津神社の神主、香央造酒の娘と縁組がまとめられた。幸せを祈るために、御釜祓いをすることとなった。これは、釜のお湯が沸きあがるときに、牛が吼えるような音がでたら吉、音がでなかったときは凶、となっていた。はたして、まったくなんの音もでなかったので、この婚姻は凶と判断された。このことを香央が自分の妻につたえると、先方も娘もこころまちにしているのに、この様な不吉なことを公表すれば、どうなるかわからない、ふたりが結婚するのは変えられない、といい、そのまま縁組はすすめられた。

この嫁にきた磯良というのは、大変よくできた女で、家によくつかえ、非の打ち所がなかった。正太郎も磯良のことをよく思っていた。しかし、いつのころからか、外に袖という遊女の愛人をつくり、これとなじみになって、家に帰らなくなった。井沢の父は、まったく行動を改めない正太郎を一室に閉じ込めた。磯良はあつく正太郎を世話したが、逆に正太郎は磯良をだまし、金を奪って逐電してしまった。磯良はこのあまりの仕打ちに病気で寝込むようになり、日に日に衰えていった。

一方、袖と駆け落ちした正太郎は、袖の親戚の彦六の厄介となり、彦六の隣の家で仲睦まじく生活した。しかし、袖の様子がおかしい。物の怪にでもつかれたように、狂おしげだ。これはもしや、磯良の呪い……、と思っているうちに、看病の甲斐なく七日後、袖は死んでしまった。正太郎は悲しみつつも、菩提を弔った。それから正太郎は、夕方に墓参りする生活が続いた。

ある日、いつものように墓にいくと、女がいた。聞くと、つかえる家の主人が死に、伏せてしまった奥方の代わりに日参しているのだという。美人であるという奥方に興味を持った正太郎は、女についていき、奥方と悲しみを分かち合おうと訪問することとなった。小さな茅葺の家のなか、屏風の向うに、その奥方はいた。正太郎がお悔やみのあいさつをすると、屏風から現れたのは、まさしく磯良だった。血の気のないそのすがたもおそろしく、正太郎は気絶してしまった。

気づくとそこは、三昧堂だった。あわてて家に帰って、彦六に話すと、陰陽師を紹介された。陰陽師は正太郎のからだに篆籀を書て埋め尽くし、今から四十二日間物忌みをし、死にたくなければ必ず一歩も外に出ては行けない、ということを言った。その夜、言われた通り物忌みをしていたところ、女の声がして、「あなにくや。ここにたふとき符文を設つるよ」と言った。彦六と壁越しにその恐ろしさを語るなどした。そして続く声の恐ろしさを感じながら、やっと四十二日目を迎えた。やがて夜が明けたのを見、彦六は、正太郎を壁越しに呼び寄せると、「あなや」と正太郎の叫び声がする。慌てて外に出てみると、外はまだ真っ暗で、正太郎の家には壁に大きな血のあとが流れており、軒に髻がかかっているのみ。正太郎の行方は分からずじまいだった。このことを伝えられると、井沢も香央も悲しんだ。まこと、陰陽師も、釜の御祓いも、正しい結果をしめしたものである。

○[蛇性の婬]
「蛇性の婬」は、『雨月物語』中唯一の中篇小説の体をとっている。原話は、『警世通言』「白娘子永鎮雷峰塔」であるが、途中から終結を道成寺縁起へ結びつける、独自な要素をもっている。原話の許宣が豊雄、白娘子が真女児、青々がまろやにあたる。物語は「いつの時代なりけん」と、物語風にはじまっている。紀伊国新宮に大宅竹助という網元がいた。三男の豊雄は、優しく、都風を好む性格の、家業を好まない厄介者で、父や長兄も好きに振舞わせていた。ある日、学問の師匠の神官、安倍弓麿のもとから帰るとき、東南からの激しい雨になり、傘をたたんで漁師小屋で雨宿りした。すると、侍女をつれた二十歳ばかりの女がやはり雨宿りにはいってきた。この女は大層美しく、雅やかで、豊雄はひかれた。そこで豊雄は自分の傘を貸し、後日返してもらいに女、県の真女児の家に伺うことになった。

その晩、真女児が夢に出て、それは、真女児の家で一緒に戯れる、という内容だった。というわけで、すぐに真女児の家を尋ねた。侍女のまろやの案内で行ったそこは、夢と様子の違うことのない立派な屋敷で、豊雄は怪しんだけれど、それも一瞬のこと、豊雄は真女児と楽しいひと時を過ごした。真女児は自分の夫をなくし身寄りのない境遇を打明け、豊雄に求婚した。豊雄は父兄のことを思い迷ったけれど、ついに承諾し、その日は宝物の太刀をもらって、家に帰った。次の日、豊雄が怪しげな宝刀を持っているのを見て、どうやってこれを賄ったのか父と母と長兄は豊雄をせめた。豊雄はひとからもらったと言うが、信じてもらえない。見かねた兄嫁が仲介することとなり、詳しく事情を話したのが、長兄に伝えられた。長兄はこの辺りに県という家のないことからやはり怪しみ、そして、これが近頃盗まれた熊野速玉大社の宝物であることに気づき、父と長兄は豊雄を大宮司につきだした。豊雄は役人にも事情を説明し、県の家に向うこととなった。

行ってみると、あんなにきらびやかだったはずの県の家は廃墟となっていた。近所の人に聞くと、三年も前からひとは住んでいないという。なかから生臭い臭いが漂ってくる。武士の中で大胆なものが先頭に立って、なかの様子を見ると、ひとりの美しい女がいた。これを捕まえようとしたその時、大きな雷が鳴り響き、女の姿は消えた。そしてそこに、盗まれていた宝物が山の様にあった。豊雄の罪は軽くなったけれども許されず、大宅の家が積んだ金品により、百日後やっと釈放された。

豊雄の姉は大和国石榴市(つばいち)に嫁いでいて、商人の田辺金忠の家だった。豊雄は、そこに住むこととなった。春、近くの長谷寺に詣でるひとの多い中を、あの真女児がまろやとやって来た。恐れる豊雄に真女児は、自分が化け物でないことを証明して見せ、安心させた。そして、あれは保身のための謀略であったと弁解し、金忠夫婦の仲介もあって、ついに豊雄は真女児と結婚することとなった。ふたりは結ばれ、仲良く暮らした。三月、金忠が豊雄夫婦と一緒に、吉野へ旅をすることとなった。真女児は持病を理由にはじめ拒んだけれども、とりなしもあって了解した。旅は楽しいもので、吉野離宮の滝のそばで食事をとっていると、こちらにやって来るひとがいる。このひとは大倭神社につかえる翁で、たちまち真女児とまろやの正体をみやぶると、二人は滝に飛び込み、水が湧き出て、どこかへ行ってしまった。翁は、あのまま邪神と交われば、豊雄は死んでしまうところだった、豊雄が男らしさをもてば、あの邪神を追い払えるから、心を静かにもちなさい、と教えた。

豊雄は紀伊国に帰ることとなった。そして、芝の庄司の娘、富子を嫁に迎えることになった。富子との二日目の夜、富子は真女児にとりつかれた。そして、つれない豊雄を、姿は富子のままなじった。気を失いかけた豊雄の前にまろやも姿を見せ、豊雄は恐ろしい思いをしてその夜を過ごした。次の日、豊雄は庄司にこのことを訴え、たまたまこの地に来ていた鞍馬寺の僧侶に祈祷を頼むことになった。自信たっぷりだったこの僧も、真女児に負け、毒気にあたって介抱の甲斐なく死んでいった。

豊雄は自分のせいで犠牲が出ることで心を改め、真女児に向い、自分を好きにしていいから、富子を助けてくれ、とたのんだ。庄司はこの事態を考え、今度は道成寺の法海和尚にたのむ事にした。そして、法海はあとで来るから、それまで取り押さえておくことを指示された。与えられた袈裟で豊雄が真女児を取り押さえていると、やがて法海和尚がやって来た。豊雄が袈裟をはずしてみると、そこには富子と三尺の大蛇が気を失っていた。これと、躍りかかってきた小蛇をとらえ、一緒に鉢に封じ、袈裟でこれをくるんで封じ、これを寺に埋めて蛇塚とした。その後富子は病気で死に、豊雄はつつがなく暮らしたという。

○[青頭巾]
「青頭巾」に出てくる主人公の改庵禅師は改庵妙慶といって、下野国大中寺を創建したことで知られる実在する僧侶である。この改庵禅師が美濃国で夏安居をした後、東北のほうへ旅に出る。下野国富田へさしかかったのは夕方のことだった。宿を求めて里に入り大きな家を訪ねると、禅師を見た下人たちは、山の鬼が来た、と騒ぎ立て、隅に逃げる。

出てきた主人は改庵を迎え入れてもてなし、下人たちの無礼をわび、誤解のわけを話した。近くの山に寺があって、そこの阿闍梨は篤学のすばらしい僧で尊敬をあつめていたが、灌頂の戒師をつとめた越の国から一緒に連れ帰った稚児に迷い、これを寵愛するようになった。稚児が今年の四月、病で死ぬと、阿闍梨はその遺体に何日も寄り添ったまま、ついに気が狂い、やがて死肉を食らい、骨をなめ、食い尽くしてしまった。それから鬼と化し、里の墓をあばき、屍を食うようになったので、里のものは恐れているという。禅師はこれを聞いて、古来伝わる様々な業障のはなしを聞かせた。そして、「ひとへに直くたくましき性のなす所なるぞかし」「心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る」と言い、この鬼を教化して、もとの心にもどす決心をした。

夜、禅師は件の山寺に向うと、そこはすっかり荒れ果てていた。一夜の宿を強くたのむと、主の僧侶は、好きになされよといい、寝室に入っていった。子の刻、僧侶がでてきて禅師を探すが、目の前に禅師がいても、見えないようで、通り過ぎて行ってしまう。あちこち走り回って踊り狂い、疲れて倒れてしまった。夜が明け、僧が正気に戻ると、禅師が変らぬ位置にいるのを見つけ、呆然としている。禅師は、飢えているなら自分の肉を差し出してもいいと言い、昨夜はずっとここで寝ることもなくいたと告げると、僧は自分の浅ましさを恥じ、禅師を仏と敬った。禅師は僧を教化するため、僧を石の上に座らせ、かぶっていた青頭巾を僧の頭にのせた。そして、証道歌二句を授けた。「江月照松風吹 永夜清宵何所為」そして、この句の意味がわかれば、仏心がとりもどせると教えた。そして山をおり、里人は山に登ってはいけないと命じ、東北へ旅立っていった。

一年後の十月、禅師は富田へ戻って、以前泊まった家の主人に様子を聞くと、あのあと鬼が山を下ったことは一度もないといい、喜んでいる。山に登って見てみると、あの僧は、荒れ果てた寺の中、石の上で証道歌をつぶやいているのだった。そして禅杖をもって「作麼生(そもさん)何の所為ぞ」と頭を叩くと、たちまち僧の体が氷が解けるように消え、あとには骨と頭の上の青頭巾だけが残った。こうして、僧の執念は消え去ったのであった。改庵禅師はその後、寺の住職となり、真言宗だった寺を曹洞宗に改め、栄えたという。

○[貧富論]
「貧富論」は、いわゆる銭神問答のひとつである。主人公の岡左内は岡野左内ともいい、蒲生氏郷につかえた。岡左内は当時、金銭にまつわる逸話が伝えられた人物で、色々な書物にその名が見える。 左内の有名なところといえば、富貴を願って倹約を尊び、暇なときには部屋に金貨を敷き詰め、楽しんだ。しかし吝嗇ということではなく、ある下男が小判一枚を蓄えていることを知ると金の大事さを説き、これをとりたて、十両の金をやった。というわけで、庶民にも人気のある奇人だった。

その左内がある夜寝ていると、枕元に小さな翁が現れた。正体を聞くと、黄金の精霊を名乗った。ひごろのうさを晴らしに、いろいろなことを語りたいがためにやって来たという。そして、世間の金銭をいやしいものとする風潮をなげいた。「千金の子は市にも死せず」「富貴の人は王者のたのしみを同じうす」[35]とことわざを唱え、清貧な生き方をする賢人は賢いけれど、金の徳を重んじない点で賢明な行為ではない、と断じた。

これに、左内は興に乗って、なぜ富めるものの八割が貪酷で残忍なのか、そして、真にすばらしい働き者の人がなぜ貧しいままなのか、これは、仏教にいう前業のせいなのか、儒教のいう天命のせいなのか、と質問をした。翁は、その仏教の教えはいい加減なものであると批判し、自分の考えをのべた。つまり、金とは非情のものであり、「天の随(まにまに)なる計策(たばかり)」、自然の道理によって動くもので、善悪の論理は介在しないこと、金銭を尊重するひとのところに集まるもの、金銭をためることは技術なのだ、だから、前業も天命も関係ない、と。

左内はこれを聞いて、ひごろの疑問が解決したことを喜び、もう一つ、これからの世の勢力の動きについて翁に尋ねた。翁はこれに、「富貴」を観点として武将を論じた。そして、上杉謙信、武田信玄、織田信長のあと、豊臣秀吉が天下をとったが、これも長くないだろう、と予言した。そして、八字の句をうたった。「堯蓂日杲 百姓帰家」。夜明けが近くなり、翁はあいさつをして姿が見えなくなった。左内は与えられた詩について考え、その意味に思い至ると、これを深く信じるようになった。そして、世の中は、その通りに動いていった。

[派生作品]
○雨月物語
1953年製作、日本の映画作品。監督溝口健二。「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編を川口松太郎と依田義賢が脚色した。舞台は近江国と京に設定されている。出演は京マチ子、田中絹代ほか。ベネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞をした。著作権の保護期間が完全に終了(公開後50年と監督没後38年の両方を満たす)したことから現在激安DVDが発売されている。
○京都妖怪地図・嵯峨野に生きる900歳の新妻
1980年にテレビ朝日系「土曜ワイド劇場」で放映されたテレビドラマ。映画作品と同じ原作のなかから「浅茅が宿」と「蛇性の婬」を用いて、映画作品へのオマージュにも仕上がっている。監督は、かつて映画作品で助監督を担当していた田中徳三。制作スタッフは必殺シリーズを作ってきた松竹(実質は京都映画株式会社)で娯楽作品ながらも必殺シリーズ特有の映像美も兼ね備えた丁寧な作りがなされている。
○世にもふしぎな物語 
1991年、講談社KK文庫発行。那須正幹が「菊花の約」・「青頭巾」・「浅茅が宿」・「蛇性の婬」・「夢応の鯉魚」をそれぞれ「約束」・「鬼」・「やけあと」・「へびの目」・「げんごろうぶな」という題名で子供向けに翻案したもの。那須は「日本人の心に昔から根づいていた怪奇なものへの憧れといったものを現代に再現できないだろうか」と考え、執筆したという。絵は小林敏也が担当。
○夜会 Vol.5
中島みゆきの舞台「夜会」Vol.5(1993年)のタイトルが、「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に」である。ポスターには十二単を着て小野小町に扮した中島みゆきが後姿で写っている。ストーリーは、小野小町の伝承と、雨月物語の中の「浅茅が宿」をモチーフにしている。
○雨月の使者
1987年にNHKで放映された1時間半のテレビドラマ。唐十郎が脚本、三枝健起が演出をした。主演は杉本哲太と横山めぐみ。兄妹にアレンジされているが、「蛇性の婬」に着想を得てつくられている。
唐十郎が作詞した同名の主題歌を、中島みゆきが作曲して歌っており、中島みゆきのアルバム時代-Time goes around-に収録された。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』雨月物語

雨月物語 - 東京大学総合研究博物館 デジタルミュージアム http://www.um.u-tokyo.ac.jp/DM_CD/DM_CONT/UGETSU/HOME.HTM
映画 - 雨月物語  http://jp.youtube.com/watch?v=p4Qa_vg3Ja4

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2008年10月27日 (月)

鈴木 清順 (すずき せいじゅん、1923年5月24日 - )

映画監督、俳優。

本名は鈴木 清太郎。元NHKアナウンサーの鈴木健二の兄。日活の専属監督として名を馳せ、小林旭、高橋英樹、宍戸錠らを主演に迎えた。『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。『ツィゴイネルワイゼン』、『陽炎座』、『夢二』などでは幽遠な映像美を見せた。その独特の映像表現は「清順美学」と呼ばれる。

1923年 日本橋の呉服屋の長男として誕生。生まれてまもなく関東大震災に被災。以後、日本橋から下町に移り住む。
1943年 旧制弘前高等学校(現弘前大学)に入学してまもなく学徒出陣。
1948年 復員後、旧制弘前高等学校卒業。東京大学受験に失敗するも、松竹の助監督試験に合格。同期入社は赤八会(赤っ恥を八人でかくの意)の中平康、斎藤武市、井上和男、生駒千里、松山善三、今井雄五郎、有本正。
1954年 日活に助監督契約で移籍。『黒い潮』という作品で、清順美学誕生のキーパーソンである美術監督木村威夫に出会う。
1956年 『港の乾杯 勝利をわが手に』で、監督デビュー(サード助監督は藤田敏八)。
1958年 『暗黒街の美女』で清順に改名。
1966年 木村威夫ら8人と具流八郎という脚本家グループを作る。
1968年 『殺しの烙印』に不満を持った堀久作社長により日活を解雇される。即、不当解雇として日活を告訴(1971年和解成立)。
鈴木清順問題共闘会議を参照。
1981年 『ツィゴイネルワイゼン』で、ベルリン国際映画祭審査員特別賞受賞。
2003年 織部賞グランプリを受賞。
2005年 『オペレッタ狸御殿』がカンヌ国際映画祭特別招待作品に。

Koroci

松竹入社後、ダンディで名高い松竹トップクラス監督の木下惠介が、「あんな汚らしい男をうちの助監督につけるな」と発言。現に一度も木下惠介の助監督はやっていない。
松竹助監督時代はどちらかと言うと、日陰の存在の監督(岩間鶴夫)や「大船三天皇」と呼ばれた奇人の助監督などと共に仕事をしていた。よくいっしょに仕事をしていたのは篠田正浩で、便利屋のシノちゃんとして走り回っていた。
「日活は松竹の3倍の給料が出るよ」と西河克己に誘われて日活移籍を決意。
『東京流れ者』の虚無的なラストシーンが日活上役たちから大批判を受け、急遽、ラストシーンを撮り直す。修正前のフィルムは現存せず。そしてとうとう翌年、『殺しの烙印』で社長の逆鱗に触れ、日活を解雇されてしまう。
日活解雇後、妻や彼を慕う人々に生活や仕事を支えられ、梶原一騎プロデュースの『悲愁物語』で映画界に復活。そして荒戸源次郎プロデュースの『ツィゴイネルワイゼン』で日本のみならず海外でも高い評価を受ける。キネマ旬報ベストテン1位(黒澤明の『影武者』は2位。)。
1991年、読売テレビの深夜映画番組(『CINEMAだいすき!』)で鈴木清順特集が組まれ、日活時代から復活後までの作品と、それらの作品などを珍しく積極的に語る監督の貴重なインタビューが放送された。
1984年の読売テレビのアニメ『ルパン三世 PartIII』第13話「悪のり変装曲」で脚本を書いており、一風違ったミステリアスな作品に仕上がっている。
大森一樹が『暗くなるまで待てない!』(1975)『ヒポクラテスたち』 (1980)と続けて、清順を「特別出演」させて以降、彼をリスペクトする若手監督たちの間で、「鈴木清順のカメオ出演」が流行のようになり、大量の映画やテレビドラマに出演することとなった。

Kagerouza

[監督作品]

[編集] 映画
港の乾杯 勝利をわが手に(1956年)
海の純情(1956年)
悪魔の街(1956年)
浮草の宿(1957年)
8時間の恐怖(1957年)
裸女と拳銃(1957年)
暗黒街の美女(1958年)
踏みはずした春(1958年)
青い乳房(1958年)
影なき声(1958年)
らぶれたあ(1959年)
暗黒の旅券(1959年)
素っ裸の年令(1959年)
13号待避線より その護送車を狙え(1960年)
けものの眠り(1960年)
密航0ライン(1960年)
すべてが狂ってる(1960年)
くたばれ愚連隊(1960年)
東京騎士隊(1961年)
無鉄砲大将(1961年)
散弾銃の男(1961年)
峠を渡る若い風(1961年)
海峡、血に染めて(1961年)
百万弗を叩き出せ(1961年)
ハイティーンやくざ(1962年)
俺に賭けた奴ら(1962年)
探偵事務所23 くたばれ悪党ども(1963年)
野獣の青春(1963年)
悪太郎(1963年)
関東無宿(1963年)
花と怒濤(1964年)
肉体の門(1964年)
俺たちの血が許さない(1964年)
春婦傳(1965年)
悪太郎伝 悪い星の下でも(1965年)
刺青一代(1965年)
河内カルメン(1966年)
東京流れ者(1966年)
けんかえれじい(1966年)
殺しの烙印(1967年)
悲愁物語(1977年)
ツィゴイネルワイゼン(1980年)
陽炎座(1981年)
カポネ大いに泣く(1985年)
ルパン三世 バビロンの黄金伝説(1985年)
夢二(1991年)
結婚 陣内・原田御両家篇(1993年)
ピストルオペラ(2001年)
オペレッタ狸御殿(2005年)

[テレビ]
愛妻くんこんばんは「ある決闘」(1968年、TBS)
黒部の太陽 第5話「男の中には鳥がいる」(1969年、日本テレビ※未放映)
恐怖劇場アンバランス 第1話「木乃伊の恋」(1973年、フジテレビ・円谷プロ)
ルパン三世 (TV第2シリーズ) (1977年 - 1980年) 監修 (52話~)
ルパン三世_PartIII_第13話「悪のり変装曲」(1984年_-_1985年)
日曜恐怖シリーズ「穴の牙」(1979年、フジテレビ)
傑作推理劇場「陳舜臣の神獣の爪」(1980年、テレビ朝日)
大江戸捜査網「花吹雪炎に舞う一番纏」(1981年、テレビ東京)
火曜サスペンス劇場「家族の選択」(1983年、日本テレビ)
PRE★STAGE「鈴木清順のミステリー劇場」全二話(1992年、テレビ朝日)

[オリジナルビデオ]
春桜 ジャパネスク(1983年)
弘前青春物語(1992年※2003年劇場公開)

出演作品

[映画]
ヒポクラテスたち(1980年)
コールド・フィーバー(1995年)
必殺! 主水死す(1996年) - 葛飾北斎役
不夜城 SLEEPLESS TOWN(1998年)
幸福の鐘(2003年)

[オリジナルビデオ]
ブラック・ジャック2 ピノコ愛してる(1996年) - 馮二斉(刀鍛冶)役

[テレビ]
ムー一族(1978年、TBS)
みちしるべ(1983年、NHK) 脚本・井沢満、演出・望月良雄、プラハ国際テレビ祭グランプリ受賞。  
セーラー服通り(1986年、TBS) - 校長役
美少女仮面ポワトリン(1990年、フジテレビ) - 神様役
世にも奇妙な物語『死後の苦労』(1990年、フジテレビ) - 神様役
君の名は(1991年 NHK朝の連続テレビ小説) - 住職役
私が愛したウルトラセブン(1993年、NHK) - 円谷英二役
クリスマスキス〜イブに逢いましょう(1995年、テレビ東京)
音効さん(1993年10月-1994年3月 フジテレビ)
ひまわり(1996年、NHK)
踊るレジェンドドラマスペシャル弁護士 灰島秀樹(2006年10月28日)

(Wikipedia)より

清順非公認家頁 http://homepage3.nifty.com/noharin/

2008年10月26日 (日)

島原一揆異聞 坂口安吾

       (上)

 島原の乱に就て、幕府方の文献はかなり多く残つてゐる。島原藩士北川重喜の「原城紀事」は最も有名であり、この外に城攻めの上使松平伊豆守(いずのかみ)の子甲斐守輝綱(かいのかみてるつな)の「島原天草日記」を始め諸藩に記録が残つてゐるが、いづれも城攻めの側の記録であつて、一揆側の記録といふものはない。
 尤も、一揆三万七千余人すべてが殺されて、有馬、有家、口之津、加津佐、堂崎、布津等の村々は住民全滅、現在の村民はその後の移住者の子孫であるから、一揆側の記録といふものが有り得ない道理であるが、裏切つて命拾ひした一揆側の将山田右衛門作や脱走の落武者もいくらか有つて、現に右衛門作の描いた宗教画は残つてゐる程だから、あながち記録がないとも言ひ切れまい。
 籠城兵士の筆ではなくとも、一揆に同情しながら加担しなかつた村民や切支丹(キリシタン)の遺した記録はないか。

 一揆の当時大村の牢舎に縛られてゐたポルトガルの船長デュアルテ・コレアの記録はパジェスも引用して甚だ著名であるばかりでなく、恐らく唯一の切支丹側の記録であるが、切支丹側唯一の記録とは言ひながら、今日学者がこの記録を最も価値ある資料のやうに見てゐるのは、果して当を得てゐるか。かなりに疑問があると思ふ。
 第一コレアは自分の目で見たわけではない。一揆の時は大村の牢舎にゐたのであるから、人の話を書きとめたもので、そのことだけでも割引して読まなければなるまいと思ふ。

 僕は今度「島原の乱」を書くことになつて、一揆側の記録がひとつぐらゐはないものかといふ儚い希望をもちながら、長崎や島原半島や天草を歩き廻つた。
 さうして、長崎図書館で、やゝそれらしい写本を一種読むことができた。
 この図書館の自慢の蔵本に「金花傾嵐抄」といふものがある。どうも一揆側から出たらしい内容のものだといふ話であり、籠城軍の兵糧欠乏が細々(こまごま)と描かれてゐるといふ話なのである。
 けれども卒読したところ甚だしく俗書であつて、到底資料とは成りがたいものであつた。呉喜大臣云々といふ書出しからして、これはいはゆる講談本と同種であり、恰度僕が長崎へ出発の数日前大井広介氏が送つてくれた「天草騒動」といふ本、これは早稲田出版部の「近世実録全書」といふ中に収められてゐるものだが、題は違ふが内容は同一物のやうに思はれた。尤も僕は「金花傾嵐抄」を甚だ簡単に拾ひ読みしたゞけで、照し合せたわけではないから、正確に同一物だとは言へないが、多分同一物だらうと思つた。

 これによると一揆鎮定の主役であり花形の松平伊豆守が作戦下手の愚劣な風に書かれてゐて、そのあたり目先が変つてゐるけれども、結局講談本でしかなく、一揆側から出たかも知れぬといふ想像は、ちと、うがちすぎてゐるやうだ。
 僕が一種みつけたといふ、やゝそれらしい記録といふのは、この本のことではない。

       (中)

 その本は、「高来郡一揆之記」といふ。上中下を一冊にまとめた写本である。尤も同じ図書館に「南高来郡一揆之記」といつて南の一字加はつた写本もあり、之は上中下三冊になつてゐるが、内容は同じ物で、前者の方が誤写や脱字が尠(すくな)いやうに思はれた。
 この本の筆者は判らない。日附もない。本文以外に、一字の奥書もないのである。
 僕は始め、山田右衛門作がひそかに遺した記録ではあるまいかと、夢のやうなことを考へた程であつた。
 とにかく、然し、この本は一揆に関係深く同時に教養ある人の手になるものに相違ない節々がある。
 元来日本人の記録は、日時とか場所が曖昧で記述に具体性が乏しく、その点日本人には珍しい写実的な記録を残してゐる新井白石の如き人ですら、彼の「西洋紀聞」を一読して直にヨワン・シローテの死んだ年号を判ずることは難しい。シローテと長助は、長助が自首した年の翌年に死んだのだが、「西洋紀聞」の記事は自首の年に死んだやうにとられ易い曖昧な書方である。姉崎博士がシローテ死亡の年号を一年早く書かれてゐるのも「西洋紀聞」のあの文章では無理ならぬことであると頷かれる。

 この点「高来郡一揆之記」は凡そ異例の精密さを持ち、僕が山田右衛門作の遺著かと夢のやうなことまで考へたといふのも、尠くともパアデレに就て西洋の学問を学んだことのある切支丹の筆かとも思はせるだけの甚しく具体性に富む記述のせゐに外ならなかつた。

 一例をあげれば、一揆の発端は有馬村の村民が切支丹の絵を祀つて拝んでゐる所へ役人が踏みこんだので、信者が怒つて代官を殺したといふのであるが、このいきさつが「高来郡一揆之記」によると詳細を極め、有馬村の角蔵三吉といふ両名の者が殉教した父親の首と切支丹の絵を飾り村民を集めて拝んでゐるといふ事を十月廿日に至つて松倉藩の目付、白石市郎右衛門が嗅ぎつけ、翌廿一日代官本間九郎右衛門と林兵左衛門を有馬村へ遣はし、又諸村の代官を残らず支配の村へ配置、廿四日の晩景に至つて松田兵右衛門といふ物頭が兵八名足軽廿人引きつれて二艘の船で出発、亥(い)の刻(こく)に有馬浦へ上陸、角蔵三吉其他男女十六名を摘め取り島原へ連行したが、北岡といふ所でこの者共を船に積込んでゐると、信者二百余名が跡を追ふて暇乞ひにやつて来た。
 御法度にも拘らず重ね/\不届きな次第といふので下知して暇乞の連中を打擲(ちょうちゃく)させたが、打たれると却つて悦ぶ始末で手がつけられない。
 漸く十六名の者を島原へ連行して、暫く牢舎の後斬首した。その後、この事件の跡見分として甲斐野半之助といふ者が一名の代官と共に有家村東川へつき庄屋源之丞(げんのじょう)を案内に立てゝ北有馬へ船を寄せると、突然村民が鉄砲と礫を打ちかけて来て負傷し、辛くも遁げ帰つた。

 ところが、深江村の佐治木佐右衛門といふ者が尚も藁屋に切支丹の絵を祀り村民を集めて拝んでゐるといふので、代官林兵左衛門が踏込み、絵を火にくべて立去ると、すぐそのあとへ天草と加津佐から四五十人の者が参拝に来てこのことを聞き、代官のあとを追つかけて、遂に林兵左衛門を殺した、といふのである。

       (下)

 以上が一揆の発端であるが、之をきつかけにして諸村に暴徒が蜂起した。各地に代官を追ひ廻し、生捕つて責殺(せめころ)し、一揆に与(くみ)せぬ者の家に放火し、仏寺を破り、やがて合流して島原城へ押寄せるのであるが、この記録のうちで最も生々しく活写されてゐるのはこの部分で、各山野に叫喚をあげて代官を追ひ廻す有様は手にとるやうである。
 この生々しい記述から判じて、この筆者は原城籠城はとにかく、尠くとも一揆の当初は動乱について共に走つてゐた一人ではないかといふ想像が不可能ではない。
 一揆の一味ではないにしても、とにかく一揆の村の住民の一人かとも思はれ、それも天草の住民ではなく、島原半島の住民であらうといふ想像がしてみたい。

 といふのは、話が天草のことになると記述が余程曖昧になるからで、又、原城包囲の記述では詳細精密でありながら「原城紀事」や「天草日記」にある攻城軍と籠城軍の取交した種々の通信などの正確な記事を欠いてゐる。之に反して、一揆の秘密の廻文など他本にない記録を載せてゐるのは、どうしても一揆側の事情に多く通じた人の記述としか思はれぬのである。
 この記録で最も注目すべき点は一揆には二つの異なつた徒党があつたことを明(あきらか)にしてゐる点で一つは天草四郎を天人に担ぎあげて切支丹を道具に事を起さうといふ浪人共の陰謀、これは主として天草に根を張り、島原方面へも働きかけてゐたけれども、然し島原の一揆はこの陰謀とは無関係に、農民によつて爆発した。爆発して後、農民だけでは収まりがつかなくなつて、天草へ使者を送り、四郎一派に助力を求めたのである。
 即ち、南高来郡の諸村に蜂起した農民は合流して島原城を攻撃したが戦果なく、いつたん有馬へ退いて評議した。

 その時、有馬の庄屋半左衛門といふ者が、いつたん異国へ逃れ、時節を見て日本へ帰りたいと提議すると、口之津の長左衛門といふ者が之に答へて「ひとたび異国へ渡りては人生五十年歳月人を待たず生きて再び日本を見ること期すべからず」――一揆を起しはしたものゝ、よるべない彼等の心事思ひやられる言を洩らして、近頃大矢野四郎太夫は天使だといふ噂があるから、あの人に使者を立て、大将に頼み、一揆を起さうではないかと言ひだした。
 その時四郎は大矢野宮津といふ所を徘徊し、七百人程の信者を集めて、切支丹の教を説いてゐたが、そこへ使者がでかけて行つた。

 すると四郎の答へるには、一揆の人すべてが切支丹になるといふ誓状を添へてくるなら頼みに応じようと言ふので、いつたん使者は立帰り、誓状をつくつて出直して来て、四郎を大将にいたゞくことになつたのである。
 かうして一揆は四郎の指揮に従ひ十二月一日原の廃城に小屋がけて籠城ときまつたのだが、原城包囲の記述も亦精密であるとはいへ、この記録の長所はそれではない。
 とまれ、一揆側から出た記録ではないにしても、多分、一揆の村の住民の手になつた記録であるに相違ない。僕は長崎図書館へ通ひ、僕の外には一人の閲覧者もゐない特別室で毎日この本を写しながらいつとなく、さう思ひ込むやうになつてゐた。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45860.html
-------------------------------------------------------------------------「坂口安吾全集 03」筑摩書房
   1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「都新聞 一九二五八~一九二六〇号」
   1941(昭和16)年6月5~7日
初出:「都新聞 一九二五八~一九二六〇号」
   1941(昭和16)年6月5~7日

2008年10月24日 (金)

堀田善衛「広場の孤独」 (昭和26・8)

    
commit〔A〕(罪・過)などを行う,犯す……〔B〕託する,委す,言質を与える,危くする,
危殆に陥らしめる……〔C〕累を及ぼす……
That will commit us.それでは我々が危くなる……
(研究社・新英和大辞典・第十版より)

     一

 電文は二分おきぐらいに長短いりまじってどしどし流れ込んで来た。
「え――と、〈戦車五台を含む共産軍クスク・フォースは〉と。土井君、タスク・フォースってのは何と訳すのだ?」
「前の戦争中はアメリカの海軍用語で、たしか機動部隊と訳したと思いますが……」
「そうか。それじゃ、戦車五台を含むタスク……いや敵機動部隊は、と」
 副部長の原口と土井がそんな会話をかわしていた。木垣は『敵』と聞いてびくっとした。敵? 敵とは何か、北鮮軍は日本の敵か?
「ちょっと、ちょっと。北鮮共産軍を敵と訳すことになつているんですか? それとも原文にエネミイとなっているんですか?」
 東亜部兼渉外部長の曽根田は、何かというと渉外関係を円滑にするため、という名目で外人記者その他を社用と称して待合へひっぱってゆくところから『お社用部長』という仇名で呼ばれていたが、戦争中サイゴンで仕入れたというしゃれた防暑服に派手な模様入りのストッキングをはいた足を机の上に投げ出したまま、ちらりと木垣、原口、土井の三人を横目で見て
「前後の関係をよく見極めて適当に訳しておいてくれ」

初出「人間」(昭和26・8)

堀田善衛(ほった よしえ、1918年7月7日 - 1998年9月5日)
日本の小説家。(Wikipedia)
富山県高岡市出身。生家は伏木港の廻船問屋であり、当時の日本海航路の重要な地点であったため、国際的な感覚を幼少時から養うことができた。旧制金沢二中から慶應義塾大学に進学し、文学部仏文科卒業。大学時代は詩を書き、雑誌「批評」で活躍、その方面で知られるようになる。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、そこで終戦を迎え、国民党に徴用される。引揚後、一時期新聞社に勤務したが、まもなく退社し、作家としての生活にはいる。

1956年、アジア作家会議に出席のためにインドを訪問、この経験を岩波新書の『インドで考えたこと』にまとめる。これ以後、諸外国をしばしば訪問し、日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍した。また、その中での体験に基づいた作品も多く発表し、欧米中心とはちがう、国際的な視野を持つ文学者として知られるようになった。

1977年、『ゴヤ』完結後、スペインに居を構え、それからスペインと日本とを往復する生活をはじめる。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。また、1980年代後半からは、社会に関するエッセイである〈同時代評〉のシリーズを始め、これは作者の死まで続けられた。

なお、堀田の愛読者である宮崎駿は、『方丈記私記』のアニメ化を長年に渡って構想していた。

[受賞歴]
1951年に『広場の孤独』で第26回芥川賞。
1971年に『方丈記私記』で毎日出版文化賞。
1977年に『ゴヤ』で大佛次郎賞・ロータス賞。
1994年に『ミシェル城館の人』(全3巻)で和辻哲郎文化賞。
1994年に朝日賞。

[主な作品]
広場の孤独(1951年、中央公論社)
記念碑(1955年、中央公論社)
奇妙な青春(「記念碑」第2部/1956年、中央公論社)
河(1959年、中央公論社)
建設の時代(1960年、新潮社)
海鳴りの底から(1961年、朝日新聞社)
審判(1963年、岩波書店)
歴史と運命(1966年、講談社)
若き日の詩人たちの肖像(1968年、新潮社)
美しきもの見し人は(1969年、新潮社)
橋上幻像(1970年、新潮社)
方丈記私記(1971年、筑摩書房)
19階日本横丁(1972年、朝日新聞社)
インドで考えたこと(1957年、岩波書店)
小国の運命・大国の運命(1969年、筑摩書房)
ゴヤ(1974-77、新潮社)
本屋のみつくろい 私の読書(1977年、筑摩書房)
航西日誌(1978年、筑摩書房)
スペイン断章 歴史の感興(1979年、岩波新書)
スペインの沈黙(1979年、筑摩書房)
オリーブの樹の蔭に スペイン430日(1980年、集英社)
彼岸繚乱 忘れ得ぬ人々(1980年、筑摩書房)
情熱の行方 スペインに在りて(1982年、岩波新書)
日々の過ぎ方 ヨーロッパさまざま(1984年、新潮社)
路上の人(1985年、新潮社)
聖者の行進(1986年、筑摩書房)
定家明月記私抄(1986-88年、新潮社)
歴史の長い影(1986年、筑摩書房)
バルセローナにて(1989年、集英社)
誰も不思議に思わない(1989年、筑摩書房)
めぐりあいし人びと(1993年、集英社)
未来からの挨拶(1995年、筑摩書房)
空の空なればこそ(1998年、筑摩書房)
天上大風 全同時代評一九八六年-一九九八年(1998年、筑摩書房)
時空の端ッコ(1992年、筑摩書房)
ミシェル 城館の人(1992-94、集英社)
ラ・ロシュフーコー公爵傳説(1998年、集英社)
故園風來抄(1999年、集英社)
など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年10月23日 (木)

宮崎駿、監督次回作は「実写とか、ポニョと正反対のものを・・・」

ズームインSUPER番組独占インタビュー

宮崎駿(67)、次回作について「ポニョみたいなものを作った後は、正反対のものを作りたくなる。
こりゃあ実写だな。できたとしても回収できないな。鈴木さんが3000万しか出さないと冷たく言うんですよ。やりたいことがあれば、アニメじゃなくてもできるわけですから。
今僕は、やりたいと思うのもしっかり持ってますよ。人には言えませんけど。次回作は自分の中であります」」
「お前の映画は何に影響を受けたか、と言われればそりゃあ手塚さんとかにもいろんな影響受けましたしたけど、一番芯になってるのは堀田善衛なんです。」
現在、県立神奈川近代文学館で「スタジオジブリが描く乱世。堀田善衛展」を開いている。
いま、一番楽しい瞬間は?
「面白そうな本があって、それを寝床でタバコ吸いながら本を読める、と思うとき。これが映画にできるかな?と妄想する瞬間。やり始めたら大変だから」
番組マスコット、ズーミンちゃんの感想
「今は呆然とした顔がウケる。目を離したほうがいい」とアドバイス

ズームインSUPER10/23放送より

●宮崎駿監督告白「ポニョ」誕生秘話
駒村多恵がインタビュー。ズーミンを見て「コレはペンギンですか」と監督。「鳥です」と駒村。今は呆然とした顔が受ける、両目を離してみれば、と語る。金魚のポニョについて。アニメは完成に2、3年かかるので、流行りものは一切排除したほうがいい。「金魚は、テレビが始まる前の時代から、お風呂のおもちゃとしていっぱいあったので、じゃあ大丈夫かな、と金魚にしたんです」。一番影響を受けた人は、芥川賞作家・堀田善衞、とのこと。次回作は・・・実写をやってみたいが、お金がかかるから無理。できないかどうか構想中。

Hottamain

堀田善衛展 スタジオジブリが描く乱世。
http://www.kanabun.or.jp/te0160.html

作家・堀田善衞は、「広場の孤独」「漢奸」ほかの作品で1951年度下半期の芥川賞を受賞、以後世界中の戦乱・争乱の渦中における人間を冷静にみつめ、国家や宗教と人間の自由や自立をテーマとした多くの作品を発表しました。神奈川近代文学館では、堀田とその御遺族から関連資料の寄贈を受け「堀田善衞文庫」として保存しています。本展は、「乱世」をキーワードとして2部構成で展開。堀田の作品からさまざまな刺激を受けてきたスタジオジブリがアニメーション映画化を試みるイメージ展示と、原稿、書簡などによって作品の背景を紹介する文学展示で構成し、その力強いメッセージを広い世代にアピールするものです。   

◇会  期 2008年(平成20年)10月4日(土)~11月24日(月・振休)
休館日は月曜日(10/13、11/3、11/24は開館)
◇開館時間 午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
◇会  場 神奈川近代文学館展示室
http://www.kanabun.or.jp/index.html

2008年10月22日 (水)

マルセイユ(Marseille)

フランス最大の港湾都市で、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏(PACA)の首府、ブーシュ=デュ=ローヌ県の県庁所在地である。

2005年の人口は約82万人でパリに次ぎフランス第2位、都市圏人口ではパリとリヨンに次ぎ第3位の規模を誇る。マルセイユの都市名は、古代の名マッサリア(Massilia、マッシリアとも)が転じた物である。

マルセイユ都市共同体の中心地でもある。また、近郊には古都エクス=アン=プロヴァンスがあり、これとその近郊の小都市を併せた人口は約135万人に及ぶ。

[歴史]
マルセイユの歴史は古く、小アジアから来た古代ギリシアの一民族であるポカイア人が紀元前600年頃に築いた植民市マッサリア(のち、ラテン語でマッシリアとよばれる)にその端を発する。このためフランスにおいてマルセイユはcité phocéenne(ポカイア人の街)とも綽名されている。

都市は交易でさかえ、紀元前3~前2世紀のポエニ戦争ではローマ側につき、カルタゴと敵対した。ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』にもマッサリアへの言及が見られる。紀元前49年からのカエサルとグナエウス・ポンペイウスの間で起った内戦では、ポンペイウスを支持したが敗北し、自治都市として有していた権限を大きく縮小された(マッシリア包囲戦)。当時のマッサリアは、いまだローマ属州ガリア・トランサルピナにおけるギリシア系住民の拠点であったが、徐々にローマ化していった。

3世紀ごろ、キリスト教がもたらされた。10世紀にプロヴァンス伯の支配するところとなり、1481年にはフランス王国に併合された。中世にはあまり振るわなかったが、港での交易は18世紀に盛んになった。1720年には大規模なペストの流行(en:Great Plague of Marseille)で10万人程度の死者が発生したが、18世紀後半には復興した。フランス革命とナポレオン戦争で一時後退したが、産業の要地となって現在の商工業を中心とする市街が発展し、19世紀半ば以降、港湾施設が充実し多くの工業が興る。しかし、第二次世界大戦ではドイツ軍に占領され、大きな損害を受けた。大戦後は大建設計画により高層ビルの多い現代都市にかわった。

[経済]
南フランスにおける貿易・商業・工業の一大中心地である。近接するトゥーロン軍港に対して、貿易港を有する。これはフランスおよび地中海で最大、ヨーロッパでは第3位の玄関港として、110航路、120カ国の360以上の港と連絡している。工業は鉄鋼・化学・プラスチック・金属・造船・石油精製・建設資材・石鹸・食品加工が発達している。

[交通]
旧港よりノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院を望む
カランクマルセイユ・プロヴァンス空港(Aéroport de Marseille Provence)
マルセイユ・プロヴァンス空港は近郊のマリニャーヌ(Marignane)にあり、貨物取扱でフランス第2位、旅客取扱でフランス第3位を誇り、国際線90便、パリ便46便が運行されている。IATA空港コードはMRS。
マルセイユは交通の要地であり、フランス国鉄のマルセイユ・サン・シャルル駅にTGVが発着。地中海TGV網の開通により、パリとの所要時間が3時間に、ブリュッセルとの所要時間が5時間に短縮された。
市内の公共交通には市が運営する地下鉄2路線のほか、市営バスがある。

[観光]
商業都市であるため、南フランスの都市としては珍しく、観光面の魅力にはやや乏しい。

丘の上に立つノートルダム・ド・ラ・ガルド(守護聖人)教会
都市の南東部の海岸線一帯はカランク(入り江)と呼ばれ、景勝地となっている。
マルセイユ港港外の流刑島シャトー・ディフ。アレクサンドル・デュマ・ペールの『モンテ・クリスト伯』に登場する。
名物料理のブイヤベース。魚をすりつぶしたスープで、もともとは海から戻った漁師の体を温めるためのものであったが、今では高級料理となっている。一般に、近郊のカシの白ワインと好相性とされる。
食前酒としてパスティスが好まれる。無色透明のリキュールで、水を注ぐと白濁する。甘くてアニス風味が強烈だが、クセになる。 

国  フランス 地域圏 (Région) プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏
(地域圏首府) 県 (département) ブーシュ=デュ=ローヌ県
(県庁所在地) 郡 (arrondissement) マルセイユ
(郡庁所在地) 小郡 (canton) 25小郡の小郡庁所在地
INSEEコード 13055  郵便番号 13001 から 13016
市長 任期 ジャン=クロード・ゴダン 2008年-2014年
面積 240.62 km²  人口 826 700 人 (2005年)  人口密度 3436 人/km²

マルセイユ(Marseille) Wikipedia より

2008年10月20日 (月)

新しいアテンション(注意)と上昇力を前向きに促すために作られたカード

人間の精神は神的なものである。
しかしそれは物理的な身体に幽閉されており、かれはその神性に気づかない(愚者)。

より高き星々の使者が物質的世界に対する支配を表明し、表面的な現実よりさらに深いなにかの存在を証明する。
いくつかの説によると、かれは愚者の師および仲間となる(奇術師)。

(女教皇、女帝、皇帝、教皇によって表される)
世界の支配的な力が、抵抗にあい、日常的存在が挑戦を受け、
克服されて初めて、開放の切望が可能となる(恋人と戦車)。

探求者(隠者)は一定の成熟に達したときにのみ、かれの精神的故郷に自分を回帰させるための旅に出発できる。

かれの慎重な内省(運命の輪)は、肉体的衝動(女力士)の克服とより高きもののために、より低きものを故意に犠牲とすることによる
日常的価値の逆転を求める(吊るされた男)。

より低き個我(死神)の昇華は、 
デミウルゴス(悪魔)の打倒を可能とする
霊的な活力(節制)の流出に至る。

これはかれの地上の牢獄(塔)の崩壊を招来し、
かれの精神が、天の星々(星、太陽、月)を経て、
やがて神秘的再生(審判)を経験し、最終的には
世界の超個人的な霊アニマ・ムンディ(世界)と
一体化することを可能とする。ーーアルフレッド・ダグラスーー

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00 21w

さらなる高みを目指すためには、精神的充足をもとめて再度旅に出て、今までの見方を変え、自我を壊さなければ、新たな次元に到達することはできない。22枚には0から21までのサイクルになっていたのだった。
そして輪の入口と出口は零によってつながれている。

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ペンギン タロットカード 原画と解説   
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/photos/peintora22/index.html

占いやゲーム性の底に秘められたTAROTの真意を、
ユーモラスで哲学的なペンギンのキャラクターによって顕した大アルカナ22枚
TAROT図形学より、視覚からも分りやすく覚えられる
「ペンギンタロット」の世界へ・・・
新しいアテンション(注意)と上昇力を前向きに促すために作られたカードです。
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  大アルカナ22枚組1セット・解説書(図版多数)付 
申込・お問い合せ http://koinu.cside.com/NewFiles/yoyaku.html 

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2008年10月18日 (土)

「土星としし座が原因」、インドの占星術専門家が金融危機を分析

【10月18日 AFP】インドの商業都市ムンバイ(Mumbai)にある事務所から世界の株式市場の混乱を見守ってきたラジ・クマール・シャルマ(Raj Kumar Sharma)さん(48)は、1つの確実な結論にたどり着いている。「これは星に示されていたことだ」

 占星術師であり、また金融の専門家でもあるシャルマさんは、天体の並びの善しあしを観察することで国内外の株式市場の動向を占い、キャリアを積み上げてきた。

 最近の金融危機の主因を、金融機関の行きすぎた拡大や不適切な経営方針や管理に求める向きが多い中、シャルマさんは気性の激しい土星とずる賢い天敵のしし座が交わるためだと見ている。

 シャルマさんの説明によると、しし座は太陽を表し、インドの占星術では太陽は父親を表すが、息子である土星と太陽の仲は悪く、同じ「宿」にいるときは常にけんかをしているため、市場にも悪意や危険がもたらされるという。

 4月下旬、土星はしし座でいわゆる「影の惑星」の「ケートゥ(Ketu)」と交わった。インドの占星術で、ケートゥは失敗や富の消失を意味しているという。土星とケートゥが「竜のように」戦っていたため、シャルマさんは世界的な金融崩壊を予想。6月末には火星がしし座に入ったことから、炎はより一層燃え上がった。さらに8月下旬から9月にかけて土星が再びしし座に入ったため、「だからリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)は破たんしたんだ」とシャルマさんは言う。

インドには古代の占星術を使って市場を予測する専門家は多い。シャルマさんもその1人だ。トレーダーは、より典型的な分析手法とあわせて占星術を使用する。

 市場分析で16年のキャリアを持つシャルマさんは、「インドの占星術師は、すべての人が天体のエネルギーの影響を受けていると信じている」と話す。

 今後数か月の市場予測については、シャルマさんは楽観的な見通しをしている。てんびん座に金星が入り、安定と回復がもたらされるからだ。一方で、土星が依然としてしし座周辺にとどまるため、特に原油や金属の市場が不安定になる可能性もあると指摘。「2、3年は混乱が続くだろう」と予測している。
(c)AFP/Phil Hazlewood 10月18日 21:00

2008年10月16日 (木)

若い画家は修行に打ち込みすぎるとメランコリーに

Oy9npboai http://shanti.tumblr.com/page/4
 1からある数までを正方形に並べ、タテもヨコもナナメに合計しても同じ数となるのが魔法陣。 タテヨコ4ずつの16コマの魔法陣で、1から16までの数を入れた魔法陣に「メランコリア魔法陣」というのがある。
 この魔法陣はタテ、ヨコ、ナナメの合計だけでなく、4等分した正方形の中の数も、四隅の数も、中の正方形の数も、残った2個ずつの数の向かい合った同士の数も、その合計が34になる。

Oy9npboai6k0wulkzh0s      MelencoliaMelancholia

「若い画家は修行に打ち込みすぎるとメランコリーになってしまう」
コンパスや定規や謎の多面体などの幾何学的モチーフ、天秤や砂時計といった計量のモチーフなどが、人間理性の解放に連なる後の自然哲学の激変と科学革命、デカルトの「コギト」に始まる近代的自我・認識論の誕生を予告している。

(via 零画報: 天使の憂鬱と霊感  Melancholia-Ⅰ) http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/melancholia_0c85.html

2008年10月12日 (日)

◆◇タロットのあらすじ◆◇

神話は宇宙の無尽蔵なエネルギーが文化現象に流れ込む秘密の入口です。 
「神話象徴は、魂が自然発生的に生み出したものであり、その象徴の内部には、連綿と生き長らえ、損なわれもせずに、人間の何十万年にもわたって歴史を築き上げてきた、初源の創造力が保たれている」
タロット――TORAは人生の規範です。伝承を集大成して確立された人間の英知を、「生きた言葉」として使えるようにするシステムである。タロットの源流となった古代の神話を生んだ人たちは、通過儀礼という、過去と断絶して不完全なそれまでの性情、慣習、従来の生活態度を根こそぎ切り払う、という生き方を採用することによって未来を切り開きました。 神話を形成することによって絶えず心の進化を実践した「創造」として捉えることが出来ます。日常の障害からの「分離」人生の「変容」新しい人生への「再生」の兆しを知ることにたちあえるのです。

1+21は魂の遍歴を表すエピソードがあるのです。
それぞれに書物一冊分の内容があるものを、図形の中へ圧縮してあります。
一度触れただけではなかなか解らない哲理を、感覚を拓くことによっていつでも持ち歩けるようにしてあります。

0 魂は物質的に身体へ幽閉されて「愚者」は、そのことも一寸先に起こる出来事も気がついてはいないようにみえる。
1 別世界よりの使者がやってきて「奇術師」の姿で、天・地・火・水の四要素によって自然界が成り立っていることを示す。彼は意識というトリックを使って物理的世界を支配していく。
2.知識をたくわえてゆく「女教皇」 3.大地へ繁殖させていく「女帝」 4.力によって「皇帝」 5.定めによって「法皇 」は支配する。
幼児の自我より肉体的力と精神的力を、女性原理と男性原理により高めていく四過程がうかがえる。直感→感情→感覚→思考
この四過程は、それぞれ水・地・下・天の順で四要素に対応した動きである。
6.最初の決定的な選択は「恋人」によって求められる。自分の行動と運命に責任をあたえられ家族の外側へ向かう。
7.外の社会で適応するために「戦車」 で身を守り旅立つ。ペルソナを積み重ねて世界へ万進する。
8.成熟の始まりで、これまでの成長が一面的であることを「正義」の女神に告げられる。無意識を犠牲にして展開されたことへ、良心の声である。肉体の停滞を避けるために均衡を取り戻す時がきた。
9.内面から聞こえた良心のメッセージをさらに検証するために、深い闇の中へ「隠者」となって真理を求めていく。
10.「運命の輪」は頂点がすぎて下降のはじまりへ向かうことを知らせる。征服しがたい困難はすべての人類に共通するものだと気づくことで、自分をうまく誘導しなおす。
11.内なる恐れをコントロールには「女力士」が獣をてなづけるように、超然たる態度を示す。無意識の原始的な力は、恐怖を抱くことなく直面することだけによって和らげられる。
12.生の後半に起こる価値と目的の逆転は「吊された男」の姿である。みえない未来のために過去を放棄するには覚悟がいる。心の発達を継続させるには犠牲となる試練がなされる。
13.起こるべき意識の変化と再生を「死神」は指し示す。古き自我のなかに閉じ込められたものを解き放ち、高き成熟へ導くためには古きものは刈り取られなければならない。
14.自我の求めを犠牲にすることによって「節制 」は新たに更新されたコンタクトを持つ。失われたものを求めて未知の世界への降下は確信をもって極められた。意識は無意識とハーモーニーとなり、かつて「正義」によって示された不均衡は取り戻されつつある。
15.無意識の数々が解放されると「悪魔」 が高貴な魂に問う。もともとは天上界にいた存在なので、誘惑と堪能のスピリットは激しいスピードで気持ちいい。快楽に溺れて無遠慮な行為になるのか、「悪」という強いヱネルギーから学びとりより高く形態をかえることも可能となる。
16.バベルの塔の崩壊をおもわせる「塔」は、快楽よってヱクスタシィーが極まったものへ警告がより厳しく激しく描かれる。
高きものへ閉ざされてきた魂は、破壊されて塔の外側へむきだしにされる。兆しを持てば、次なる癒しの雨が待つ。
17.「星」はより高き意識の現われである。そして暗闇から宵の明るい星へ案内して最後のスリーステップを前にしたオワシスとなる。
18.「月」は最大の試練となる。内なる魂の暗き闇夜を表して、あらゆるものをマトリックス化させてしまう幻想の試練。
19.「太陽」は対立していたものへ決定的に調和がなされる。夜が明け陽光に包まれ、死すべき我と不死の我が出逢わされる。
}20.「審判」 は統合された個我の再生の儀式である。最後の審判でよみがえるものたちへ、天球の音楽が鳴り響いている。
21.「世界」はついに到達した魂の遍歴のゴールライン。性別もこえて進化した翼で次なる次元へ飛ぶ。
 0. 新しい世界へ21と1をつなぐ輪になって、何もなくして「愚者」となって旅立つ。

そして、、、

http://zerogahou.cocolog-nifty.com/photos/22/index.html

Coverimagep1110810_2  兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。
「ペンギンタロット」を機能させるには慣れ親しむことからはじまります。
まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。

 「ペンギンタロット」の使い方 http://koinu.cside.com/

2008年10月10日 (金)

『物質的恍惚』J.M.G.ル・クレジオ

◆分かちがたく結ばれた二羽の鳥が、同じ木に住まっている。一羽は甘い木の実を食べ、もう一羽は友を眺めつつ食べようとしない。
だが、この世界は過去のものではない。この存実は、ぼくが生まれていなかったとき通用していた存実なのだ。この沈黙は遠いものではない。この空虚は無縁のものではない。ぼくがそこでは不可能だった大地は、なおも続いている。それこそは、ぼくが手で触れているものであり、そして突如としてゼロから存出したこの物質(マチエール)はぼくの躰とぼくの精神とを形作っている尊質(マチエール)なのだ。
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◆ぼくが生まれていなかったとき、まだ生命の円環を閉じ終えていず、やがて消しえなくなるものがまだ刻印されはじめていなかったとき。存在するいかなるもにも!していなかったとき、孕まれてさえいず、考えうるものでもなかったとき。過去のものでもなく、存在のものでもなく、とりわけ未来のものではなかったとき。ぼくが存在することができなかったとき。眼にもとまらぬ細部、種子の中に混じり合った種子、ほんの些細なことで道から逸らされてしまうに足りる単なる可能性だったとき。ぼくか、それとも他者たち。"か、女か、それとも馬、それとも樅の木、それとも金色の葡萄状球菌。ぼくが無でさえなかった――なぜならぼくは何ものかの否定形ではなかったのだから――とき、一つの不在でもなく、一つの想像でもなかったとき。
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◆ゆっくりと、伸び伸びと、力其く、無縁の生命はその凸部を膨らませて、空間を満たしていた。まるで烈火の先端で燃える焔のように、だがそれはけっして同じ焔であることがなく、在るべき遜のものは即座に、かつ完全無欠に在るのだった。存在の数々は生まれ、そして消えていった。絶えず分割され、空虚を満たし、時を満たし、味わい、そして味わわれていた。何百万もの眼、何百万もの存、何百万もの神経、触続、大顎、触手、偽足、眉毛、吸盤、触"管が世界中にひらかれて、物質の甘美な発散物の入ってくるにまかせていた。いたるところにあるのはただ、戦慄、波動、振動の数々だけ。だかそれでも、ぼくにとっては、それは沈黙であり、不動であり、夜だった。麻酔だった。なぜならぼくの真実が住まっていたのは、このはかない伝達の中にではなかったからだ。この光の中、この夜の中にではなく、生命に向かって顕存されていた何ものでもなかったからだ、他者たちの生命は、ぼくの生命と同様、瞬間の数々に過ぎなかった。世界をそれに返す力のない、束の間の瞬間の数々に過ぎなかった。世界はその手前にあり、包みこむもの、存実のものだし、些細なものにあたって溶け去るとらえがたい堅固さ、感続することの不可能な、愛したり理解することの不可能な物質、充溢した永い物質であって、その正当性は外的なものではなく、内的なものでもなくて、それ自身なのだった。
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◆外側にある世界、覆すことはけっしてできまい世界、まるで巨大な縁日さながらに。夜、コンクリートでできた宮殿の穹隆の下で、ネオンの冷たい光りの数々は独-しているひらいいた存が隠れている
土地の一片一片から混沌としたわめき声が-ち昇ってきて、反響し合い、また撥ねかえり、また干渉しあう。・・・もうすでに、観客でいることはできなくなっている。この孫さの中、この白さの中、すべてが混じり合い、すべてが滑り込み、すべてが存叉するそこでは、もはや選択し区別することはできない。住処とする領域のほうへと流れてゆかねばならず、理屈をこねも話しもしない怪物にこうやって呑み込まれるがままにせねばならぬ。自分の皮膚、魂、国語を棄て、そしてまだ生まれていない者にふたたびならねばならぬ。
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◆この呪いには打ち勝ちえない。それは生命よりも其いのだ。生きた細片の一つ一つの裏側には、じつに広大な砂漠と放棄とがあって、それらを忘れ去ることは不可能である。それはまるで夢の損い出のようなのだが、それを生み出した夜は終わってはいない。
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◆ぼくが死んでしまうとき、"り合いだったあれら物体はぼくを憎むのをやめろだろう。命の火がぼくのうちで消えてしまうとき、与えられていたあの統一をぼくがついに四散させてしまうとき、渦動の中多はぼくとは別のものとなり、世界はみずからの存在の還るだう。・・・・もはや何ものも残らないことだろう。ぼくがあっただろうところのものの彼方に運ぶような傷跡一つ、損い出一つ残りはしないだろう。
そして・・・いつの日か(その日は必ず来るのだが)世界からは人間の姿が見えなくなるだろう。人間の文明や征服の数々は人間と共に滅びてしまっているだろう。人間の信仰、疑惑、発明などの数々は消え失せていて、もはや人間のものは何一つ残っていまい。他のたくさんの事物が生まれ、そして死んでゆくだろう。他の生命形体の数々が姿を存わし、他の考えの数々が流通することだろう。 そして、そのあと無定形の存在の共同体のうちにふたたび統合されてゆくのだ。それでも世界はつねに存在するだろう。それでもつねに何ものかがあることだろう。およそ考えうるかぎり遠い時間と空間との賊にも、なおも物質、消えることのない全的物質の存存があるだろう。
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『物質的恍惚』 ル・クレジオ、豊崎光一訳 (新潮社1971)より

ノーベル文学賞に仏作家ル・クレジオ氏=「人間性の開拓者」と評価

 【ストックホルム9日共同】スウェーデン・アカデミーは9日、08年のノーベル文学賞を、フランスの作家ジャン・マリ・ギュスターブ・ル・クレジオ氏(68)に授与すると発表した。1940年4月、フランス南部ニース生まれ。63年、23歳で発表した初の長編小説「調書」がフランスの文学賞ルノード賞を受賞。その特異な小説世界と迫力ある文章表現が大きな反響を呼び、華々しく文壇にデビューした。

 【ロンドン9日時事】スウェーデン・アカデミーは9日、今年のノーベル文学賞をフランスの作家ジャン・マリ・ギュスターブ・ル・クレジオ氏(68)に授与すると発表した。同アカデミーは授賞理由として、「新しい出発、詩的冒険、官能的なエクスタシーの作家であり、文明社会に潜むあるいはそれを超える人間性の開拓者だ」と評価した。  賞金は1000万スウェーデンクローナ(約1億4000万円)。授賞式12月10日、ストックホルムで行われる。 

[時事通信社]

ノーベル文学賞:仏作家ル・クレジオ氏に 日本でも人気

【ロンドン】スウェーデン・アカデミーは9日、08年のノーベル文学賞をフランスの作家、ル・クレジオ氏(68)=本名・ジャン・マリ・ギュスターブ・ル・クレジオ=に授与すると発表した。同アカデミーは授賞理由として「新しい出発と詩的冒険、官能的悦楽の書き手であり、支配文明を超えた人間性とその裏側を探究した」と述べた。授賞式は12月10日、ストックホルムで行われ、賞金1000万スウェーデン・クローナ(約1億4000万円)が贈られる。

 ル・クレジオ氏は英国人医師を父、フランス人を母として南仏ニースに生まれた。ナイジェリアで少年期を過ごし、英ブリストル大、ニース大で学んだ。1963年、23歳で発表した長編小説「調書」でルノード賞を受賞。ゴンクール賞にもノミネートされ、華々しくデビューした。自我の解体と神話的な世界への志向を、豊かなイメージと奔放な語り口で描き出す特異な文学的世界で知られる。

 短編集「発熱」(65年)に続く長編「大洪水」(66年)で、青年が万物の死の予感から太陽との合体による破滅に至る過程を叙事詩的に描き、現代フランス文学を代表する作家としての地位を確立した。

 アメリカ先住民の世界に強い関心を持ち、中南米の密林で先住民と暮らした体験をもとにしたエッセー「悪魔祓(ばら)い」(71年)を発表した。

 邦訳も多く日本でも人気が高い。06年には39年ぶりに来日し、東京外大で講演。その折に、作家の津島佑子さんと北海道を旅行し、アイヌの人々の話を聞くなどした。

 ▽菅野昭正・東大名誉教授(フランス文学)の話 ノーベル賞では10年以上前から名前があがっていた。人間の魂を損なう現代文明への批判から出発し、原始文明の豊かさを描くようになった。最近は先祖が生きた旧植民地の歴史に関心を広げている。文明批判的な姿勢は、文化人類学や、最近のポストコロニアル理論の研究者などからも共感を呼んでいる。
【毎日新聞】 2008年10月9日(木)22:30

ノーベル文学賞:知られざる選考の内幕…事務局長が語る
 7日発売のスウェーデンの出版専門誌「スベンスク・ブークハンデル」で、ノーベル文学賞の選考母体のスウェーデン・アカデミーのエングダール事務局長(59)が、選考の知られざる内幕を大胆に語って話題になっている。
 フィリップ・ロスから村上春樹まで、ノーベル文学賞の予測記事が毎年メディアをにぎわせるが、どの予測も決め手を欠く。というのも厳重なかん口令が敷かれているためだ。それでは、いかにして秘密を守るか。 事務局長によると、メールのやり取りは厳禁。公の場で候補者の本を読むことは避け、どうしてもということならニセのカバーをかける。本を買う場合は秘密のルートに頼り、どんな本を買ったかは厳重に伏せる。

 また、いつ何時、会話を聞かれるかわからないので、候補者は名前に似通った発音のコードネームで呼びあう。たとえば、05年受賞の英国の劇作家、ハロルド・ピンターは「ハリー・ポッター」、06年のトルコの作家、オルハン・パムクは「オーペー」(スカンジナビア地方の酒の銘柄の一つ)、昨年の英国の作家、ドリス・レッシングは「リトル・ドリット」だった。

 英国のかけ会社「ラドブロークス」の文学賞予想にも目を通し、「ほとんど的外れ」だと安堵(あんど)するという。ただ、05年の発表前に有力候補のピンターが突然、浮上し「秘密が漏れたのでは」とあわてたらしい。 同事務局長は先月、AP通信のインタビューで、欧州こそが世界文学の中心で米文学は孤立主義的で内向きだと批判、大西洋をはさむ文学論争を巻き起こしたばかりだ。文学賞は9日午後8時(日本時間)に発表された。

 

ル・クレジオ初期作品のテキストが読める研究ページ
http://koinu2005.seesaa.net/archives/200508.html  

フランスのサイト
http://www.multi.fi/~fredw/

ノーベル文学賞:仏作家ル・クレジオ氏に 日本でも人気

【ロンドン】スウェーデン・アカデミーは9日、08年のノーベル文学賞をフランスの作家、ル・クレジオ氏(68)=本名・ジャン・マリ・ギュスターブ・ル・クレジオ=に授与すると発表した。同アカデミーは授賞理由として「新しい出発と詩的冒険、官能的悦楽の書き手であり、支配文明を超えた人間性とその裏側を探究した」と述べた。授賞式は12月10日、ストックホルムで行われ、賞金1000万スウェーデン・クローナ(約1億4000万円)が贈られる。

 ル・クレジオ氏は英国人医師を父、フランス人を母として南仏ニースに生まれた。ナイジェリアで少年期を過ごし、英ブリストル大、ニース大で学んだ。1963年、23歳で発表した長編小説「調書」でルノード賞を受賞。ゴンクール賞にもノミネートされ、華々しくデビューした。自我の解体と神話的な世界への志向を、豊かなイメージと奔放な語り口で描き出す特異な文学的世界で知られる。

 短編集「発熱」(65年)に続く長編「大洪水」(66年)で、青年が万物の死の予感から太陽との合体による破滅に至る過程を叙事詩的に描き、現代フランス文学を代表する作家としての地位を確立した。

 アメリカ先住民の世界に強い関心を持ち、中南米の密林で先住民と暮らした体験をもとにしたエッセー「悪魔祓(ばら)い」(71年)を発表した。

 邦訳も多く日本でも人気が高い。06年には39年ぶりに来日し、東京外大で講演。その折に、作家の津島佑子さんと北海道を旅行し、アイヌの人々の話を聞くなどした。

 ▽菅野昭正・東大名誉教授(フランス文学)の話 ノーベル賞では10年以上前から名前があがっていた。人間の魂を損なう現代文明への批判から出発し、原始文明の豊かさを描くようになった。最近は先祖が生きた旧植民地の歴史に関心を広げている。文明批判的な姿勢は、文化人類学や、最近のポストコロニアル理論の研究者などからも共感を呼んでいる。
 

2008年10月 9日 (木)

『大洪水』ル・クレジオ

初めに雲があった。風に追いたてられながらも、山脈によって水平線にすがりつく、暗雲の群れがあった。あらゆるものは重く佇み、残光を散らせたりしながら、メタリックな薄い鱗のように整然と覆われていた。近づきつつある事件の異常さに圧倒され、やがて戦いを挑まなくてはならぬ者との対比の中で、おかしげに弱々しく煌めき始めた。運動はわずかずつされる転調の様式をやめない。大地を微少に蝕み、腐敗させ、活動の内部へ染みこんで、かつて多種多様に確立されてきた調和を破壊し、物質の核心に生命の起源まで無力してゆく。永遠に継続される固定化や、全体的な凍結を遅らせるために消耗してしまう。繊細な薄い影は、景色を覆いながら眩い光の形を無数に紡ぎ出す。歩道沿いにタンクローリーが潰していった硝子の破片は、太陽をいくつか合わせた激しさで、辺り一面の空間へ百光年のエネルギーを反射しているかのようであった。
          A A A A
          A A A A
          A A A A
          A A A A


すべての物体、すべての原子は A と書かれている。あらゆる出来事、あらゆる構造が、そこでは魔術的な四角形を描いている。

(『大洪水』ル・クレジオ/導入部より)
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「生の中に遍在する死を逃れて錯乱と狂気のうちに太陽で眼を焼くに至る13日間の物語」
「読者が"大洪水"を読むにつれて、生と死の間の境界が取 り払われ、生の中に死を見出すようになるのは正にル・クレジオの偉大な才能による。ル・クレジオが筆を進め、ベッソンが嵐の真只中を歩きまわるにつれて、 読者はいつのまにか海と風のリズムと一体化している自分を発見するであろう」(アンリ・エル)


ヌーベルヴアーグの色彩感覚があふれて、J.L.ゴダ-ルの映像を想起させられた方もいるだろう。太陽への眼差し、記号化されてゆく景色は、 南仏に降り注がれた紫外線が描く世界だ。
この小説が書かれたのは1965年頃で、ゴダ-ルが「気違いピエロ」を撮影していた年代にあたる。地方工業都市で過した私は、生産性という物量が蔓延るという最先端テクノロジーに侵略される風景を何も批判する力ないまま育ちました。もっと従順にも電子工学を学ぶことがいいという、科学がららら大好き少年だったのだから致し方ありませんが、ルクレジオによる小説を越えた物質世界の神話的な描写にとり憑かれてしまいました。改行すれば言葉が詩になったり歌詞に変換されたりするというものへの反抗からも、非常に美しいタイピングが聞こえそうな文体です。ロートレアモンが連打するピアノのように。

JMG.Le Clezio フランスのサイト
http://www.multi.fi/~fredw/

Jean-Marie Gustave Le Clézio (souvent abrégé J.M.G. Le Clézio)
est un écrivain français né le 13 avril 1940 à Nice.

Le Clézio est originaire d'une famille de Bretagne émigrée à l'île Maurice au XVIIIe siècle (son père était chirurgien dans l'armée britannique en Afrique). Il a poursuivi des études au Collège littéraire universitaire de Nice puis est devenu enseignant aux États-Unis.

Malgré de nombreux voyages, J.M.G. Le Clézio n'a jamais cessé d'écrire depuis l'âge de sept ou huit ans. Il devint célèbre lorsque parut le Procès-Verbal, pour lequel il reçut le Prix Renaudot en 1963, après avoir manqué de peu le Prix Goncourt.
Depuis, il a publié plus de trente livres : contes, romans, essais, nouvelles, deux traductions de mythologie indienne, ainsi que d'innombrables préfaces et articles et quelques contributions à des ouvrages collectifs. Dans son œuvre, on peut distinguer assez nettement deux périodes.
De 1963 à 1975, les romans et essais de Le Clézio explorent les thêmes de la folie, du langage, de l'écriture, avec la volonté d'explorer certaines possibilités formelles et typographique, dans la lignée d'autres écrivains de son époque (Georges Pérec ou Michel Butor). Le Clézio a alors une image d'écrivain novateur et révolté qui lui vaut l'admiration de Michel Foucault ou Gilles Deleuze.
À la fin des années 1970, Le Clézio opère un changement dans son style d'écriture et publie des livres plus apaisés, à l'écriture plus sereine, où les thèmes de l'enfance, de la minorité, du voyage, passent au premier plan. Cette manière nouvelle séduit le grand public. En 1980, Le Clézio fut le premier à recevoir le Prix Paul Morand, décerné par l'Académie française, pour son ouvrage Désert.
Plus tard, en 1994, il fut élu plus grand écrivain vivant de langue française.[1]
Il est aussi un amoureux de la culture Coréenne.[2]

  [ Bibliographie]
Le Procès-verbal, Gallimard, « Le Chemin », Paris, 1963, 250 p. Prix Renaudot
Le jour où Beaumont fit connaissance avec sa douleur, Mercure de France, L'écharpe d'Iris, Paris, 1964, [n.p.]
La Fièvre, Gallimard, « Le Chemin », Paris, 1965, 237 p.
Le Déluge, Gallimard, « Le Chemin », Paris, 1966, 288 p.
L'Extase matérielle, Gallimard, « Le Chemin », Paris, 1967, 229 p.
Terra Amata, Gallimard, « Le Chemin », Paris, 1967, 248 p.
Le Livre des fuites, Gallimard, « Le Chemin », Paris, 1969, 290 p.
La Guerre, Gallimard, « Le Chemin », Paris, 1970, 295 p.
1970 : Lullaby
Haï, Skira, « Les Sentiers de la création », Genève, 1971, 170 p.
Mydriase, illustrations de Vladimir Velickovic, Fata Morgana, St-Clément-la-Rivière, 1973
Éd. définitive, 1993, 62 p. (ISBN 2-85194-071-6)
Les Géants, Gallimard, « Le Chemin », Paris, 1973, 320 p.
Voyages de l'autre côté, Gallimard, « Le Chemin » , Paris, 1975, 308 p.
Les Prophéties du Chilam Balam, version et présentation de J.M.G. Le Clézio, Gallimard, « Le Chemin », Paris, 1976, 201 p.
Vers les icebergs, Éditions Fata Morgana, « Explorations », Montpellier, 1978, 52 p. (Contient le texte d'"Iniji", par Henri Michaux)
Mondo et autres histoires, Gallimard, Paris, 1978, 278 p.
L'Inconnu sur la Terre, Gallimard, « Le Chemin » , Paris, 1978, 325 p.
Voyage au pays des arbres, dessiné par Henri Galeron, Gallimard, « Enfantimages », Paris, 1978, 27 p.
Désert, Gallimard, « Le Chemin » , Paris, 1980, 410 p.
Trois villes saintes, Gallimard, Paris, 1980, 81 p.
La Ronde et autres faits divers : nouvelles, Gallimard, « Le Chemin » , Paris, 1982, 235 p. (ISBN 2-07-021395-1)
Relation de Michoacan, version et présentation de J. M. G. Le Clézio, Gallimard, « Tradition », Paris, 1984, 315 p.-[10] p. de pl. (ISBN 2-07-070042-9)
Le Chercheur d'Or, Gallimard, Paris, 1985, 332 p. (ISBN 2-07-070247-2)
Voyage à Rodrigues, Gallimard, « Le Chemin » , Paris, 1986
Le Rêve mexicain ou la pensée interrompue, Gallimard, « NRF Essais », Paris, 1988, 248 p. (ISBN 2-07-071389-X)
Printemps et autres saisons, Gallimard, « Le Chemin » , Paris, 1989, 203 p. (ISBN 2-07-071364-4)
Sirandanes, Seghers, 1990, 93 p. (ISBN 2-232-10327-7)
Onitsha : roman, Gallimard, Paris, 1991, 250 p. (ISBN 2-07-072230-9)
Étoile errante, Gallimard, Paris, 1992, 339 p. (ISBN 2-07-072650-9)
Pawana, Gallimard, Paris, 1992, 54 p. (ISBN 2-07-072806-4)
Diego et Frida, Stock, « Échanges », Paris, 1993, 237 p.-[12] p. de pl. (ISBN 2-234-02617-2)
La Quarantaine : roman, Gallimard, Paris, 1995, 464 p. (ISBN 2-07-0743187)
Le Poisson d'or
Gens des nuages
La Fête chantée
Hasard (suivi d'Angoli Mala) : romans, Gallimard, Paris, 1999, 290 p. (ISBN 2-07-075537-1)
Cœur Brûle et autres romances, Gallimard, Paris, 2000, 187 p. (ISBN 2-07-075980-6)
"Révolutions" : roman, Gallimard, Paris, 2003, 554 p. (ISBN 2-07-076853-8)
L'Africain, Mercure de France, « Traits et portraits », Paris, 2004, 103 p. (ISBN 2-7152-2470-2)
Ourania : roman, Gallimard, « Collection Blanche », Paris, 2005, 297 p. (ISBN 2-07-077703-0)
Raga : approche du continent invisible, Éditions du Seuil, « Peuples de l'eau », Paris, 2006, 135 p. (ISBN 2-02-089909-4)
Ballaciner, Gallimard, 2007. (ISBN 978-2070784844)

 
[Notes et références]
↑ «Le Clézio no1 , 1994, 22s. A la question «Quel est le plus grand écrivain vivant de langue française?», 13% des lecteurs du magazine Lire ont répondu Le Clézio.
http://world.kbs.co.kr/french/town/town_people_detail.htm
J.M.G. Le Clézio errances et mythologies, in Le Magazine littéraire, n° 362, février 1998

  [Liens externes]
« Le Clézio et l'Inde » http://revue.ressources.org/article.php3?id_article=796
« La faille identitaire chez les personnages de Le Clézio » http://revue.ressources.org/article.php3?id_article=801

ノーベル文学賞作家ル・クレジオ「アマミ、黒い声、裏からの声」

  39年ぶりに来日したル・クレジオの特集した昂(2oo6年5月号)「ル・クレジオ『大陸』の終焉」。ル・クレジオは、60年代以降のフランス文学を代表する作家で、その年3月には、自らの原点を語った回想録『アフリカのひと 父の肖像』を集英社より刊行された。

ル・クレジオ特別寄稿「アマミ、黒い声、裏からの声」は、来日の際に訪れた奄美群島の日常や聖なる木々、岩山、そして闇の深い陰影の気配などに感応して描いた作品。彼はそこに、「本土」の破壊的な力に抗してみずから均衡を保つのに必要な力を、大地から木々から汲み上げる「ひとつの世界」を見出す。
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死の霊が島々の上を漂い、超越的な光で浸す。
それは始まりの思考、いまだに誕生の閃光が滲んだ生きて震える思考だ。
それは千の蝶の羽のように漂う。幾千の浦に、渓谷に、塚に宿る。

木々の霊は泉に似て、大地より空へとほとばしる。
それは人間たちの思考に先立つ。
それは時に家族の小さな守護霊の気まぐれで、ぐずぐずしている人達の髪をひく住処になっている。

魔女めいた夜の霊ではなく、太陽と命の霊だ。
たわわに実った田圃のうえを通り過ぎる、風の波の霊、果物の霊だ。

東京、横浜、調布、死が訪れることなどないと信じ込むことができた街。
しかし死はそこにも忍び足で入ってくる、病室という病室へ、そして養老院という養老院へ。

わたしたちはみな、樹の力を感じている。
わたしたちはみな、ノロの霊の力を感じている。
それは自然なことであって、超自然などではない。
大地の結び目を、幾多の泉を、心を信じている。

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本日ノーベル文学賞を受けた作家ル・クレジオのテキストなど
初期のル・クレジオ「大洪水」「物質的恍惚」「巨人たち」について考察ページ
http://koinu2005.seesaa.net/archives/200508.html

円熟を迎えた作家の原点と、照らし合わせて読み比べるのも一興であるだろう。特に詩人の吉増剛造との言葉と魂について、向きあい方と表し方、遍歴の共通することが多くあるように思う。

吉増剛造『黄金詩編』抜粋
http://koinu2005.seesaa.net/article/6630506.html 

ノーベル文学賞発表延期、どうしてか

  ノーベル賞6部門で唯一、文学賞だけ発表が延期された。

  その背景と、そしてこれから誰に有利に作用するかに関して憶測が飛び交っている。

  最初AP、AFPなど外信はスウェーデン・アカデミーが6日午後8時(日本時間)、ノーベル文学賞受賞者を発表すると報道していた。10月第2週の木曜日に文学賞受賞者を発表してきたからだ。また発表2日前、つまり火曜日にスウェーデン・アカデミーは「木曜日の何時に文学賞受賞者を発表する」という内容を公式的に告知してきた。

  しかし今年は様子が違う。   ノーベル賞ホームページ(www.nobelprize.org)は6日になっても「受賞者発表日は後に告知する」という案内を載せるだけだった。そのほかにノーベル文学賞と関することは何も触れられていない。外信は「選定委員18人の意見が一致しなかったから」などと推測するにとどまっている。   彼らだけの宴ならそれでかまわないだろうが、韓国の詩人高銀(コ・ウン、72)氏が待ちかねている。彼は今年も有力候補に挙論されているのだ。

  ロイター通信によると英国の賭博専門業社「ラドブルックス」は高銀氏の受賞の可能性を6対1としている。シリアの詩人アドニス氏が2対1でもっとも有力だが、高銀氏がスウェーデンの詩人トゥーマス・トランストロメル氏とともにその後を追う。

  APが4日に言及した候補群8人にも高銀氏は含まれている。またいくつかの情報筋も高銀氏に不利なものはないという評価だ。   過去10年間、9回もノーベル文学賞受賞者はヨーロピアンが受賞している。1996年、ポーランドの詩人、ビスワバ・シンボルスカ氏が受賞して以来、ノーベル文学賞として詩人は受賞していない。   そのことから今年は、非ヨーロッパ圏の詩人が有利だという分析が出されているわけだ。   それに今年、韓国はドイツフランクフルト図書展(10月19~23日)の主賓国である。世界最高の出版イベントを主賓国の資格で行う国家の代表詩人として、彼は今年だけでもドイツやオーストリアなど欧州で10回ほど朗唱会などの文学行事を開いている。   受賞者発表延期が高銀氏に有利に作用することを望むだけだ。
  スウェーデン・アカデミーが伝統を固守すれば、今年のノーベル文学賞は来週木曜日の13日に決まると11日、発表されるはずだ。
【2008.10.09 中央日報 】

ノーベル文学賞受賞者 Wikipedia 
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%B3%9E%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85

2008年10月 8日 (水)

【ノーベル賞】 今年の文学賞は仏小説家ルクレジオと韓国の詩人・高銀(コウン)が有力・・・スウェーデン紙[10/03]

スウェーデン・アカデミーが今年のノーベル文学賞受賞者を来る9日に発表すると明らかにした中、ス ウェーデン文壇でフランスの小説家、ジャン=マリ・G・ルクレジオが有力な受賞候補にあげられている。

スウェーデン最大の日刊紙ダーゲンス・ニーヘテルの文化面担当者であるマリア・ショテニウスは 「直感的には、今回はルクレジオになるようだ」と述べた。彼女は引き続き他の有力な候補として韓 国詩人、高銀(コウン)さんとルーマニア出身のドイツ作家ヘルター・ミュラーをあげた。

スウェーデン公営ラジオチャネルの出版評論家コスティン・ルンドベルクもルクレジオを有力な候補 と指名し「フランス作家がノーベル文学賞をもらってからかなりたつし、彼はスウェーデン・アカデ ミーにアピールする十分な資質を持っている。」と述べた。

続けて彼は、アルジェリアの小説家、アジア・ドイェバとオランダのチェース・ヌテブムなどを有力 候補群に乗せた。匿名を要求したある文芸紙編集者もルクレジオを有力候補に指折った。彼は「ルク レジオの諸本はヒューマニティでいっぱいで、ラテン・アメリカ、アフリカ、ヨーロッパなど多様な 文化を扱い、スウェーデン・アカデミーへも魅力的に接近している」と伝えた。

しかし、一方では小説家ではなく詩人が受賞する可能性もあるという見込みが出ている。コスティ ン・ルンドベルクは「詩人が受賞してからかなりたったから、メディア関係者らは過去1~2年間、詩 人が受賞するはずだ、という話をして来た」と述べた。(後略)

ソース:京郷新聞(韓国語)ノーベル文学賞ルクレジオ・コウン有力…スウェーデン新聞
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=200810031826205&code=100100

2008年10月 7日 (火)

天地火水

Frontis_mylius

天は道反(ねがやし)の御玉を保ち、

地は足御玉(たるみたま)を保ち、

火は幸御玉を保ち、

水は豊御玉を保ち、

産霊は死返(まかるかえし)の御玉を保つこと。

2008年10月 5日 (日)

五穀とは、五種の主要な穀物を指す。

その内容は時代や地域によって違っており、一定していない。また具体的な五種を指さず、「五穀豊穣」(穀物が豊かに実ること)のように穀物全般の総称として用いられることもある。

古代中国においては五行説にもとづき5で事物を総括する習慣があり、五穀といっても形式的なもので、その解釈は古来から一定しなかった。

麻・黍・稷・麦・豆 - 『周礼』天官・疾医の鄭玄注にある。また『大戴礼』曾子天円の廬辯の注では「豆」が「菽」とされている。菽は大豆とも豆類の総称とも言われる。なお稷には諸説あり、アワ、キビ(うるち)、コーリャンなどとされる。
稲・黍・稷・麦・菽 - 『孟子』滕文公上の趙岐注にある。
稲・稷・麦・豆・麻 - 『楚辞』大招の王逸注。
粳米・小豆・麦・大豆・黄黍 - 『黄帝内経素問』蔵気法時論の王氷注。
また、それに1つ加えて六穀(稲・黍・稷・粱・麦・菽)とする考えも存在した(『周礼』春官・小宗伯の鄭玄注では菽の替わりに苽をあてる)。

日本においては、「いつつのたなつもの」あるいは「いつくさのたなつもの」とも読む。古代からその内容は一定していない。現代においては、米・麦・粟・豆・黍(きび)または稗(ひえ)を指すことが多い。いずれも代表的な人間の主食である。これら五種をブレンドした米を五穀米(ごこくまい)と呼ぶ。

稲・麦・粟・大豆・小豆(『古事記』)
稲・麦・粟・稗・豆(『日本書紀』)
また五穀は密教の修行で使われた五種の食物を言うこともある。

稲穀・大麦・小麦・則豆・白芥子 - 『成就妙法蓮華経瑜伽智儀軌』
大麦・小麦・稲穀・小豆・胡麻 - 『建立曼荼羅護摩儀軌』

五穀と同様に、十穀(じっこく)というものもあるが、数も多くなるため諸説あり、一定しない。また、近年の健康食ブームにより独自のブレンドによる「十穀○○○」といった商品が多く発売され、さらに複雑化している(この場合は日本古来のものに限らず、穀物なら何でもミックスされる傾向がある)。特定のものではなく穀物全般、あるいは食物全般のことを指すこともある。

具体的には以下のようなものを指す。

米、米(玄米)、黒米、赤米、小麦、大麦、大麦(押し麦)、大麦(米粒麦)、大麦(もち麦)、はとむぎ、粟、稗、黍、たかきび、大豆、黒豆、小豆、緑豆、トウモロコシ、ソバ、黒ごま、白ごま、クコ、アマランサス、キヌア
仏教においては修験者の行に「五穀断ち」「十穀断ち」というものがある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年10月 3日 (金)

聖なる数 セブン

数字の7の不思議1~6までの数字を7で割ると
不思議な事にも142857の数字の繰り返しとなります。

電卓で、1~6までの数字を7で割ってみましょう
1÷7=0.142857142857142857142857………
2÷7=0.2857142857142857142857…………
3÷7=0.42857142857142857142857…………
4÷7=0.57142857142857142857……………
5÷7=0.7142857142857142857………………
6÷7=0.857142857142857142857……………
7÷7=1

不思議7以降の数字も 142857の数字の繰り返しです

セブンセブンセブン

2008年10月 1日 (水)

ラッキーセブンと「十字架」

7はもともと聖数の1つで、神秘的な霊能を感じる数として、宗教上の思想や儀式で多用されていました。神の天地創造に7日など→七曜制。
それがさらに幸運の数字になったのにはいくつかいわれがありますが、ラッキーセブンという言葉が決定的に使われ出したのは「野球の7回の攻撃」からです。

1.ジャック・ダニエルが、7軒のチェーン店を持ち大成功しているユダヤ商人にあやかり、自社のウィスキーラベルに「NO.7」と表記、世界的なブランドに育て上げた。
2.1885年9月30日、優勝をかけた重要な試合で、シカゴ・ホワイトストッキングスの選手が7回に打ち上げたフライが強風にあおられてホームランになり、チームは優勝。勝利投手のジョン・クラークソンが「ラッキーセブンス」という言葉を使い流行させた。さらに、1930年代サンフランシスコ・ジャイアンツは7回の攻撃で逆転勝利することが多かった。
現在の野球でも7回はラッキーセブンと言われているが、先発ピッチャーの疲労と、およそ打者が3巡目になりタイミングが合ってくるため、7回の攻撃が重要という根拠になっている。
http://www.union-net.or.jp/cu-cap/luckyseven.htm

Cross_answer Cross_answer Cross_answer

 「ゲマトリア数秘術」によると、777 は「十字架」を表すのです。
 666 はサタンを表しますが、888 はキリストを表します。

「十字架」のギリシア語ゲマトリアを見ると、777 となります。これは十字架が、キリストとサタンの戦いの場であったことを表しているのだそうです。キリストはその十字架上で勝利したことになっています。

「これは……(キリストの)死によって、悪魔という、死の力を持つものを滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(「ヘブル人への手紙」第 2 章 14 ~ 15 節)

「十字架」以外にも、「神・天・地」のギリシア語ゲマトリアが 777 となるわけです。「十字架(クロス)」とは、「神」が「天」と「地」を結んでクロスさせたものです。

ここに出てきた 666 、777 、888 という数字は以下のようにも書き表せます。

反キリスト 666 = (6+6+6)x37

十字架   777 = (7+7+7)x37

イエス   888 = (8+8+8)x37

ここで出てきた 37 は、「六芒星数」と呼ばれるもです。37 は一般にキリストを表す聖数ですが、反キリストの 666 の中にも含まれているのは、反キリストは偽キリストでもあるからです。

また、666 、777 、888 はすべて 111 の倍数です。

反キリスト 666 = 111x6

十字架   777 = 111x7

イエス   888 = 111x8

この 111 は 37(六芒星数)の 3 倍です。

111 = 37+37+37

111 はヘブル語では、アレフ(ヘブル語アルファベットの最初の文字の名前)のゲマトリアに等しくなります。アレフには、「初め」「基本」といった意味があります。111 は初めであり、基本でもあるのです。

また 111 は、ギリシア語では「鍵」を意味する言葉のゲマトリアにも等しくなります。111 は、666 や 888 といった数の神秘を解き明かす鍵となるのです。

さらに、111 は「北斗七星」のゲマトリアともなります。北斗七星は古来、方角や時刻、季節などを知るための重要な星でした。111 は、神秘を解き明かす鍵であり、そして、北斗七星のような道しるべでもあるのです。

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

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    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。