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2008年10月26日 (日)

島原一揆異聞 坂口安吾

       (上)

 島原の乱に就て、幕府方の文献はかなり多く残つてゐる。島原藩士北川重喜の「原城紀事」は最も有名であり、この外に城攻めの上使松平伊豆守(いずのかみ)の子甲斐守輝綱(かいのかみてるつな)の「島原天草日記」を始め諸藩に記録が残つてゐるが、いづれも城攻めの側の記録であつて、一揆側の記録といふものはない。
 尤も、一揆三万七千余人すべてが殺されて、有馬、有家、口之津、加津佐、堂崎、布津等の村々は住民全滅、現在の村民はその後の移住者の子孫であるから、一揆側の記録といふものが有り得ない道理であるが、裏切つて命拾ひした一揆側の将山田右衛門作や脱走の落武者もいくらか有つて、現に右衛門作の描いた宗教画は残つてゐる程だから、あながち記録がないとも言ひ切れまい。
 籠城兵士の筆ではなくとも、一揆に同情しながら加担しなかつた村民や切支丹(キリシタン)の遺した記録はないか。

 一揆の当時大村の牢舎に縛られてゐたポルトガルの船長デュアルテ・コレアの記録はパジェスも引用して甚だ著名であるばかりでなく、恐らく唯一の切支丹側の記録であるが、切支丹側唯一の記録とは言ひながら、今日学者がこの記録を最も価値ある資料のやうに見てゐるのは、果して当を得てゐるか。かなりに疑問があると思ふ。
 第一コレアは自分の目で見たわけではない。一揆の時は大村の牢舎にゐたのであるから、人の話を書きとめたもので、そのことだけでも割引して読まなければなるまいと思ふ。

 僕は今度「島原の乱」を書くことになつて、一揆側の記録がひとつぐらゐはないものかといふ儚い希望をもちながら、長崎や島原半島や天草を歩き廻つた。
 さうして、長崎図書館で、やゝそれらしい写本を一種読むことができた。
 この図書館の自慢の蔵本に「金花傾嵐抄」といふものがある。どうも一揆側から出たらしい内容のものだといふ話であり、籠城軍の兵糧欠乏が細々(こまごま)と描かれてゐるといふ話なのである。
 けれども卒読したところ甚だしく俗書であつて、到底資料とは成りがたいものであつた。呉喜大臣云々といふ書出しからして、これはいはゆる講談本と同種であり、恰度僕が長崎へ出発の数日前大井広介氏が送つてくれた「天草騒動」といふ本、これは早稲田出版部の「近世実録全書」といふ中に収められてゐるものだが、題は違ふが内容は同一物のやうに思はれた。尤も僕は「金花傾嵐抄」を甚だ簡単に拾ひ読みしたゞけで、照し合せたわけではないから、正確に同一物だとは言へないが、多分同一物だらうと思つた。

 これによると一揆鎮定の主役であり花形の松平伊豆守が作戦下手の愚劣な風に書かれてゐて、そのあたり目先が変つてゐるけれども、結局講談本でしかなく、一揆側から出たかも知れぬといふ想像は、ちと、うがちすぎてゐるやうだ。
 僕が一種みつけたといふ、やゝそれらしい記録といふのは、この本のことではない。

       (中)

 その本は、「高来郡一揆之記」といふ。上中下を一冊にまとめた写本である。尤も同じ図書館に「南高来郡一揆之記」といつて南の一字加はつた写本もあり、之は上中下三冊になつてゐるが、内容は同じ物で、前者の方が誤写や脱字が尠(すくな)いやうに思はれた。
 この本の筆者は判らない。日附もない。本文以外に、一字の奥書もないのである。
 僕は始め、山田右衛門作がひそかに遺した記録ではあるまいかと、夢のやうなことを考へた程であつた。
 とにかく、然し、この本は一揆に関係深く同時に教養ある人の手になるものに相違ない節々がある。
 元来日本人の記録は、日時とか場所が曖昧で記述に具体性が乏しく、その点日本人には珍しい写実的な記録を残してゐる新井白石の如き人ですら、彼の「西洋紀聞」を一読して直にヨワン・シローテの死んだ年号を判ずることは難しい。シローテと長助は、長助が自首した年の翌年に死んだのだが、「西洋紀聞」の記事は自首の年に死んだやうにとられ易い曖昧な書方である。姉崎博士がシローテ死亡の年号を一年早く書かれてゐるのも「西洋紀聞」のあの文章では無理ならぬことであると頷かれる。

 この点「高来郡一揆之記」は凡そ異例の精密さを持ち、僕が山田右衛門作の遺著かと夢のやうなことまで考へたといふのも、尠くともパアデレに就て西洋の学問を学んだことのある切支丹の筆かとも思はせるだけの甚しく具体性に富む記述のせゐに外ならなかつた。

 一例をあげれば、一揆の発端は有馬村の村民が切支丹の絵を祀つて拝んでゐる所へ役人が踏みこんだので、信者が怒つて代官を殺したといふのであるが、このいきさつが「高来郡一揆之記」によると詳細を極め、有馬村の角蔵三吉といふ両名の者が殉教した父親の首と切支丹の絵を飾り村民を集めて拝んでゐるといふ事を十月廿日に至つて松倉藩の目付、白石市郎右衛門が嗅ぎつけ、翌廿一日代官本間九郎右衛門と林兵左衛門を有馬村へ遣はし、又諸村の代官を残らず支配の村へ配置、廿四日の晩景に至つて松田兵右衛門といふ物頭が兵八名足軽廿人引きつれて二艘の船で出発、亥(い)の刻(こく)に有馬浦へ上陸、角蔵三吉其他男女十六名を摘め取り島原へ連行したが、北岡といふ所でこの者共を船に積込んでゐると、信者二百余名が跡を追ふて暇乞ひにやつて来た。
 御法度にも拘らず重ね/\不届きな次第といふので下知して暇乞の連中を打擲(ちょうちゃく)させたが、打たれると却つて悦ぶ始末で手がつけられない。
 漸く十六名の者を島原へ連行して、暫く牢舎の後斬首した。その後、この事件の跡見分として甲斐野半之助といふ者が一名の代官と共に有家村東川へつき庄屋源之丞(げんのじょう)を案内に立てゝ北有馬へ船を寄せると、突然村民が鉄砲と礫を打ちかけて来て負傷し、辛くも遁げ帰つた。

 ところが、深江村の佐治木佐右衛門といふ者が尚も藁屋に切支丹の絵を祀り村民を集めて拝んでゐるといふので、代官林兵左衛門が踏込み、絵を火にくべて立去ると、すぐそのあとへ天草と加津佐から四五十人の者が参拝に来てこのことを聞き、代官のあとを追つかけて、遂に林兵左衛門を殺した、といふのである。

       (下)

 以上が一揆の発端であるが、之をきつかけにして諸村に暴徒が蜂起した。各地に代官を追ひ廻し、生捕つて責殺(せめころ)し、一揆に与(くみ)せぬ者の家に放火し、仏寺を破り、やがて合流して島原城へ押寄せるのであるが、この記録のうちで最も生々しく活写されてゐるのはこの部分で、各山野に叫喚をあげて代官を追ひ廻す有様は手にとるやうである。
 この生々しい記述から判じて、この筆者は原城籠城はとにかく、尠くとも一揆の当初は動乱について共に走つてゐた一人ではないかといふ想像が不可能ではない。
 一揆の一味ではないにしても、とにかく一揆の村の住民の一人かとも思はれ、それも天草の住民ではなく、島原半島の住民であらうといふ想像がしてみたい。

 といふのは、話が天草のことになると記述が余程曖昧になるからで、又、原城包囲の記述では詳細精密でありながら「原城紀事」や「天草日記」にある攻城軍と籠城軍の取交した種々の通信などの正確な記事を欠いてゐる。之に反して、一揆の秘密の廻文など他本にない記録を載せてゐるのは、どうしても一揆側の事情に多く通じた人の記述としか思はれぬのである。
 この記録で最も注目すべき点は一揆には二つの異なつた徒党があつたことを明(あきらか)にしてゐる点で一つは天草四郎を天人に担ぎあげて切支丹を道具に事を起さうといふ浪人共の陰謀、これは主として天草に根を張り、島原方面へも働きかけてゐたけれども、然し島原の一揆はこの陰謀とは無関係に、農民によつて爆発した。爆発して後、農民だけでは収まりがつかなくなつて、天草へ使者を送り、四郎一派に助力を求めたのである。
 即ち、南高来郡の諸村に蜂起した農民は合流して島原城を攻撃したが戦果なく、いつたん有馬へ退いて評議した。

 その時、有馬の庄屋半左衛門といふ者が、いつたん異国へ逃れ、時節を見て日本へ帰りたいと提議すると、口之津の長左衛門といふ者が之に答へて「ひとたび異国へ渡りては人生五十年歳月人を待たず生きて再び日本を見ること期すべからず」――一揆を起しはしたものゝ、よるべない彼等の心事思ひやられる言を洩らして、近頃大矢野四郎太夫は天使だといふ噂があるから、あの人に使者を立て、大将に頼み、一揆を起さうではないかと言ひだした。
 その時四郎は大矢野宮津といふ所を徘徊し、七百人程の信者を集めて、切支丹の教を説いてゐたが、そこへ使者がでかけて行つた。

 すると四郎の答へるには、一揆の人すべてが切支丹になるといふ誓状を添へてくるなら頼みに応じようと言ふので、いつたん使者は立帰り、誓状をつくつて出直して来て、四郎を大将にいたゞくことになつたのである。
 かうして一揆は四郎の指揮に従ひ十二月一日原の廃城に小屋がけて籠城ときまつたのだが、原城包囲の記述も亦精密であるとはいへ、この記録の長所はそれではない。
 とまれ、一揆側から出た記録ではないにしても、多分、一揆の村の住民の手になつた記録であるに相違ない。僕は長崎図書館へ通ひ、僕の外には一人の閲覧者もゐない特別室で毎日この本を写しながらいつとなく、さう思ひ込むやうになつてゐた。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45860.html
-------------------------------------------------------------------------「坂口安吾全集 03」筑摩書房
   1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「都新聞 一九二五八~一九二六〇号」
   1941(昭和16)年6月5~7日
初出:「都新聞 一九二五八~一九二六〇号」
   1941(昭和16)年6月5~7日

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