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2008年11月30日 (日)

滝田ゆう ガロ掲載作品 1967.4-1974.2

月刊漫画ガロ  滝田ゆう掲載作品

1967
4 あしがる
5 しずく
6 かわりみ
7 赤飯
8 ふぇあぷれい
9 風法師
10 星の流れ
からまわり
幕尻
まきぞえ
11 昼下がりの妄想
くちおしい
四右衡門失踪
12 死に急ぎの記録
1968
1 浪曲師ベトナムに死す
長い道
2 三算陸尉凹山三助の憂鬱
3 おこつの狂想曲
4 ラララの恋人
5 孤独な島
日々是好日
最後の鋳掛屋
6 すちゃらかちゃん
7 剥製の館
8 神父の休日
本番
9 さんりんぼう
ワラッテ!!
増9 あいつ
太陽は西へしずむ
10 豆腐屋プルース
諸行無常
11 後巻咲子の決断
彼女の世界
12 寺島町奇譚(たん)(1)ぎんなかし

1969
1 寺島町奇譚(たん)(2) おはぐろどぶ
2 寺島町奇譚(たん)(3) げんまいパンのホヤホヤ
3 寺島町奇譚(たん)(4) 日和下駄
4 寺島町奇譚(たん)(5) エジソンパンド

増4 寺島町奇譚(たん)(番外)玉の井界限0番地
用心棒暁に死す
月は上りぬ
女の宿
同志諸君
隠密無情
参加
まるごし会談
涙の連判状
マイゴーストタウン

まじめなまじめなまじめな世界
インポの法則
ドレイタイマー
以下再録
「あしかる」「しずく」「あいつ」
「ラララの恋人」「彼女の世界」

6 寺島町奇譚(たん)(6) 花あらしの頃
7 寺島町奇譚(たん)(7) うぬぼれ鏡
8 寺島町奇譚(たん)(8) 萬古屋事件始末
9 寺島町奇譚(たん)(9) えんがみみとんがった
10 寺島町奇譚(たん)(10) カンカノ魔

増10 カンバスがそこにあるから……
11 寺島町奇譚(たん)(11) ぬけられます
1970
1 寺島町奇譚(たん)(12) 定九郎のロ紅
2 平凡死
7 仰げば尊し
12 ゴミタメ無宿の一匹ワンワン コラム
1974 2 玉の井界限0番地

滝田 ゆう(たきた ゆう、1932年3月1日 - 1990年8月25日)は、日本の漫画家、エッセイスト。本名・滝田祐作。國學院大學文学部中退。
東京都墨田区出身。東京都立墨田川高等学校卒業後、漫画家・田河水泡の内弟子となり、1952年、『クイズ漫画』でデビュー。代表作は『寺島町奇譚』、『ぼくの昭和ラプソディ』、『滝田ゆう落語劇場』他など。

1974年、『怨歌橋百景』他で、第20回文藝春秋漫画賞受賞
1987年、『裏町セレナーデ』で、第16回日本漫画家協会賞大賞受賞
1990年、勲四等瑞宝章受章。

滝田ゆう ファン http://d.hatena.ne.jp/takita_fan/

滝田ゆう 『銃後の花ちゃん』 朝日新聞出版 / 2008.5
アンソロジー。「銃後の花ちゃん」、「カツ丼怨歌」、「銀の砂」、「てっぽううどん」、「鳩野まち子の場合」、「朝子の履歴書」、「憤死学入門」、「朝の朝刊」、「傷心の丘」、「夢いちりん」、「カエルの命日」、「黄色い花」、
「本番」、「さんりんぼう」、「隠密無情」、「同志諸君」、「女の宿」、「参加」、「まるごし会談」、「涙の連判状」、「星の流れ」、「からまわり」、「あしがる」、「長い道」、「月は上りぬ」、「皿右衛門失踪」、「しずく」、「最後の鋳掛屋」、「あいつ」、「マイゴーストタウン」、「ラララの恋人」、「剥製の館」、「彼女の世界」の33編。

2008年11月29日 (土)

ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力

2008年10月22日(水)~1月12日(月)
http://www.neo-tro.com/ 
   
ブラジル、サンバとサッカーが盛んな国。巨大なアマゾン、バイオ燃料の開発などエネルギー問題やエコロジーなど未来に向けて大きな役割を担う国。多くの移民を受け入れ、ハイブリッド文化を生み出しているこのユニークな国は今もっとも熱い視線を集めています。そして魅力的なのはブラジルの表現は、豊かな色彩やしなやかで有機的な形に溢れ、「生きることの喜び」を伝えていることです。カーニバルやサンバ、音楽で知られるように、ブラジルの表現は、ストリートの人々の生が即興的に、そのままリズムや形になったかのように見えます。

この秋、東京都現代美術館は「ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力」展で、このブラジルの創造力を27組のアーティスト、クリエイターの作品を通じて紹介いたします。ブラジルでは60年代に欧米文化から脱し、独自の文化の創造を目指し「熱帯に住む者の文化のオリジナリティ」をうたった、トロピカリアという芸術運動が興りました。「形式よりも喜びを伝える『生きられた場所』を目指すファンタスティックな即興の産物」であるファベーラ(スラム街)からインスピレーションを得たアーティスト、エリオ・オイチシカ。彼がサンバ・ダンサーのための色とりどりの布をあわせてつくったケープのような《パランゴレ》は着る絵画であり、その象徴と言えます。

「生きることはアートそのものだ」-そんなオイチシカの考えは1990年代以降のアーティストたちの中にも脈々と息づいています。リオのトロピカルな植物の花や緑をモティーフにガラスのファサードに鮮やかな壁画をつくるベアトリス・ミリャーゼス、路上のグラフィティから出発し、ユーモラスなファンタジー絵画をつくるオスジェメオス、原住民の文化をとりいれ、独自のモダニズム建築を提案した建築家リナ・ボ・バルジ、リオの色彩とキュートな形をオブジェのような服にしたてるファッションデザイナー、イザベラ・カペト。ほか、国際的に活躍している日系アーティストの作品も展示されます。21世紀のトロピカリア-ブラジル移民100周年、「日本ブラジル交流年」を記念して開催される本展は、遠くて近いパートナー日本へむけた、ブラジルからの「元気をもたらす贈り物」となることでしょう。

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マレッペ《無題》 2001 Photo:Marepe Couertesy: Galeria Luisa Strina  

出品作家:
【建築】リナ・ボ・バルジ/ ルイ・オオタケ
【アート】アシューム・ヴィヴィッド・アストロ・フォーカス(avaf)/ アルトゥール・ビスポ・ド・ホザリオ/
リジア・クラーク/ ホジェリオ・デガキ/ ルシア・コッホ/ アンドレ・コマツ/ レオニウソン/ ルーベンス・マノ/
マレッペ/ シウド・メイレレス/ ベアトリス・ミリャーゼス/ ジウリアーノ・モンティージョ/ ヴィック・ムニーズ/
エルネスト・ネト/ リヴァーニ・ノイエンシュヴァンダー/ トミエ・オオタケ/ エリオ・オイチシカ/ オスジェメオス/
リジア・パペ/ ミラ・シェンデル/ アナ・マリア・タヴァレス/ エリカ・ヴェルズッティ
【ファッション】
イザベラ・カペト/ ロナウド・フラガ/ ジュン・ナカオ

■展覧会公式ホームページ
 http://www.neo-tro.com  

同時開催
会期:2008年10月22日(水)~2009年1月12日(月・祝)
「森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ 写真展-共鳴する静かな眼差し」
「カラーハンティング ブラジル-藤原 大+イッセイ ミヤケ クリエイティブルーム&カンパナプラザーズ」
「MOTコレクション サヴァイヴァル・アクション-新収蔵作品を中心に」
「MOT×Bloomberg Public‘Space’Project-Louisa Bufardeci」

東京都現代美術館
〒135-0022 東京都江東区三好4-1-1
Tel 03-5245-4111(代表) 03-5777-8600(ハローダイヤル)

http://www.mot-art-museum.jp/kikaku/115/

2008年11月28日 (金)

Rolling Stone 誌 「史上最も偉大なシンガー100」

The 100 Greatest Singers of All Time
Our blue-ribbon panel of 179 experts ranks music's finest vocalists.

THE TOP TEN
1. Aretha Franklin By Mary J. Blige
2. Ray Charles By Billy Joel
3. Elvis Presley By Robert Plant
4. Sam Cooke By Van Morrison
5. John Lennon By Jackson Browne
6. Marvin Gaye By Alicia Keys
7. Bob Dylan By Bono
8. Otis Redding By Booker T. Jones
9. Stevie Wonder By Cee-Lo
10. James Brown By Iggy Pop
http://www.rollingstone.com/news/coverstory/24161972

音楽雑誌 Rolling Stone 誌では「史上最も偉大なシンガー100」の投票が行われた。
Rolling Stone 誌編集者やミュージシャン、プロデューサー、その他の音楽関係者ら179人がロック史上最も偉大だと思うシンガーを20人選び、Rolling Stone 誌の重み付けを含めて集計したものである。
今回の100 GREATEST SINGERS。“クイーン・オブ・ソウル”として名高い女性歌手アレサ・フランクリンが1位に選ばれた。6位がマーヴィン・ゲイ、7位ボヴ・ディラン、8位オーティス・レディング、9位スティーヴィー・ワンダー、10位がジェームス・ブラウンという順位。その他ミック・ジャガーが16位、ポール・マッカートニーが11位。

The 100 Greatest Singers of All Time

1位 Aretha Franklin
2位 Ray Charles
3位 Elvis Presley
4位 Sam Cooke
5位 John Lennon
6位 Marvin Gaye
7位 Bob Dylan
8位 Otis Redding
9位 Stevie Wonder
10位 James Brown

11位 Paul McCartney
12位 Little Richard
13位 Roy Orbison
14位 Al Green
15位 Robert Plant
16位 Mick Jagger
17位 Tina Turner
18位 Freddie Mercury
19位 Bob Marley
20位 Smokey Robinson

21位 Johnny Cash
22位 Etta James
23位 David Bowie
24位 Van Morrison
25位 Michael Jackson
26位 Jackie Wilson
27位 Hank Williams
28位 Janis Joplin
29位 Nina Simone
30位 Prince

31位 Howlin' Wolf
32位 Bono
33位 Steve Winwood
34位 Whitney Houston
35位 Dusty Springfield
36位 Bruce Springsteen
37位 Neil Young
38位 Elton John
39位 Jeff Buckley
40位 Curtis Mayfield

41位 Chuck Berry
42位 Joni Mitchell
43位 George Jones
44位 Bobby "Blue" Bland
45位 Kurt Cobain
46位 Patsy Cline
47位 Jim Morrison
48位 Buddy Holly
49位 Donny Hathaway
50位 Bonnie Raitt

51位 Gladys Knight
52位 Brian Wilson
53位 Muddy Waters
54位 Luther Vandross
55位 Paul Rodgers
56位 Mavis Staples
57位 Eric Bourdon
58位 Christina Aguilera
59位 Rod Stewart
60位 Bjork

61位 Roger Daltrey
62位 Lou Reed
63位 Dion
64位 Axl Rose
65位 David Ruffin
66位 Thom Yorke
67位 Jerry Lee Lewis
68位 Wilson Pickett
69位 Ronnie Spector
70位 Gregg Allman

71位 Toots Hibbert
72位 John Fogerty
73位 Dolly Parton
74位 James Taylor
75位 Iggy Pop
76位 Steve Perry
77位 Merle Haggard
78位 Sly Stone
79位 Mariah Carey
80位 Frankie Valli

81位 John Lee Hooker
82位 Tom Waits
83位 Patti Smith
84位 Darlene Love
85位 Sam Moore
86位 Art Garfunkel
87位 Don Henley
88位 Willie Nelson
89位 Solomon Burke
90位 The Everly Brothers

91位 Levon Helm
92位 Morrissey
93位 Annie Lennox
94位 Karen Carpenter
95位 Patti LaBelle
96位 B.B. King
97位 Joe Cocker
98位 Stevie Nicks
99位 Steven Tyler
100位 Mary J. Blige

http://www.rollingstone.com/
http://www.rollingstone.com/issue1066

2008年11月27日 (木)

東芝、16GバイトのmicroSDHCを発売

東芝が国内メーカー初の16GバイトmicroSDHCカードを発売する。Class6対応SDHC2製品も。
2008年11月27日 07時00分 更新
Microsdhc

 東芝は11月26日、容量が16GバイトのmicroSDHCカード「SD-ME016GA」を来年1月に国内外で発売すると発表した。microSDサイズでは最大となる16Gバイトの同カードを発売するのは国内メーカーでは初としている。オープン価格。

 Class2に対応し、最大書き込み速度は6Mバイト/秒。月産3万個規模で量産する計画。

 Class6対応・最大書き込み速度約20Mバイト/秒のSDHCカード2製品も発売する。8Gバイトの「SD-C08GT6」は12月に、16Gバイトの「SD-C16GT6」は来年4月に発売する予定。オープン価格。

http://www.toshiba.co.jp/index_j3.htm

フロッピーディスクに換算すると、16GバイトのmicroSDHC容量は何枚分よ。使いこなすユーザーの頭次第で16Gバイトの真価が問われる。デジタルハードとソフトの関係はある意味では、人の肉体と精神の繋がりに等しいと思う。真価が試されるソリッドな時代へ突き進んだと考えるべきでせうね。

2008年11月25日 (火)

animation(アニメーション)は、ラテン語で霊魂を意味する

animation(アニメーション)は、ラテン語で霊魂を意味するanima(アニマ)から由来しており、生命のない動かないものに命を与えて動かすことを、意味する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ニマ(anima)は本来、ラテン語を表す単語である。

カール・ユングによれば、アニマは男性の人格の無意識女性的な側を意味し、男性が持つ全ての女性的な心理学的性質がこれにあたる。男性の有する未発達のエロス(関係の原理)でもあり、異性としての女性に投影される。フィルム・インタビューでユングはアニマ・アニムスの原形が、「ほんの僅かな意識」または無意識と呼んで、完全に無意識のものであるかどうかは明らかにしなかった。彼はインタビューで、恋に落ちた男性が、女性自身よりも寧ろ自身の無意識の女性像であるアニマと結婚した事に気付き、後になって盲目な選択に後悔するのを例に出した。アニマは通常男性の母親からの集合であるが、姉妹、おば、教師の要素を持つこともある。

ユングはまた全ての女性精神の中に類似の、男性的な属性と潜在力であるアニムスanimus)を持つと信じた。アニムスは女性の人格の無意識男性的な側を意味する。女性の有する未発達のロゴス(裁断の原理)でもあり、異性としての男性に投影される。アニマと比べて集合的であり、男性が一つのアニマしか持たないのに対し、女性は沢山のアニムスを持つとされた。ユングはアニマ・アニムスの過程を想像力の一つの源であるとみなした。

アニマはすべての中で最も顕著な自律性の集合体である。それは男性の女性との相互作用と女性への態度を影響と同様に、夢の中に現れる像としてそれ自身が現れる。ユングはその影に対するものが「apprentice-piece」で、そのにたいするものが「masterpiece」であると言った。また、幼年期の母での投影に始まり、将来の性的伴侶及び続く関係に続き、グノーシス主義におけるソピアーまたは「叡智」と呼ばれる段階で結ばれる、アニマの典型的な発展における四重の理論を唱えた。ユングの理論の多くでは同様に四重構造を適応することには注意を要する。

2008年11月24日 (月)

ペンギンタロット」の世界へ・・・

◆タロットカードは不可思議なシンボルが描かれて、これらキーワードを繋ぎ合わせることでタロットは世界の側面を照らし出すとことができる。漠然とした無意識の断片が、元型のイメージとしてのカードによって具現化され、その人固有の無意識の形を喚起させる。
◆非合理的なシンボルやイメージこそが、無意識の世界を解く鍵。
◆無意識の領域に存在して無意識に人を動かす全人類に共通する心理パターン。このパターンが自然界にもあったことを符合させた図形こそタロット。 無意識の中にあるものを喚起させ、導き出されたキーワードを解釈することでその人だけに当てはまるパターンがある。
◆“シンクロニシティ(共時性)”という無意識の領域にあるものと現実の世界に起こることには一種のアナロジーが存在し、人が偶然として片付ける出来事も、すべては無意識の中にある原因により必然的に起きている。
◆自分の無意識を知ることで、これから自分の身に起こることや、未来に起こる出来事を予測することができる。
◆タロットは普遍な無意識を発掘する道具であり、その無意識を意識化する手段として、占い師が相談者の未来を予測する際に行うカード解釈は、まさしく医師が患者に質問を出して、その内容から医学的に解釈し、患者の精神状態を推測しながらカウセリングを行う心理学の手法そのものです。
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P1120586
I 奇術師 II 女教皇 III 女帝 IV 皇帝 V 教皇 VI 恋人 VII 戦車  VIII 正義 IX 隠者 X 運命の輪 XI 力
XII 吊された男  XIII 死神  XIV 節制 XV 悪魔  XVI 塔 XVII 星 XVIII 月 XIX 太陽 XX 審判 XXI 世界
0 愚者

P1120587
◆ペンギンタロット21+0の原画 
 http://zerogahou.cocolog-nifty.com/photos/peintora22/index.html
 
占いやゲーム性の底に秘められたTAROTの真意を、
ユーモラスで哲学的なペンギンのキャラクターによって顕した大アルカナ22枚
TAROT図形学より、視覚からも分りやすく覚えられる
「ペンギンタロット」の世界へ・・・
新しいアテンション(注意)と上昇力を前向きに促すために作られたカードです。

P1120583

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「ペンギンタロット」の世界へ・・・ 」  http://koinu.cside.com/
◆大アルカナ22枚組1セット・解説書A6版18頁付 
◇名刺サイズ  2000円  ◇タロットサイズ3000円
申込・お問い合せ http://koinu.cside.com/NewFiles/penguintora.html

2008年11月23日 (日)

沖縄・プリズム 1872-2008

Okinawa Prismed 1872-2008   
2008.10.31-12.21

東京国立近代美術館 企画展ギャラリー
2008年10月31日(金)~12月21日(日)
http://www.momat.go.jp/Honkan/Okinawa_Prismed/index.html

概要
近代以降、様々な出自の表現者を創作へと駆り立ててきた沖縄
沖縄と交差したそれぞれの想像力の軌跡を通して
表現の源泉としての、この地の可能性を探ります

Okinawa_prismed

第1章 異国趣味(エキゾティシズム)と郷愁(ノスタルジア) 1872-1945
琉球藩設置(1872年)、廃藩置県(1879年)によって、日本の版図に編入された沖縄は、言葉や風俗、文化を含めた本土への同化を余儀なくされる一方で、異質な文化を有する他者として認識されていました。しかし、1920年代から30年代になると、本土と沖縄の知識人(芸術家)の交流が盛んになり、その文化の特殊性が称揚されたばかりか、既に失われた日本古来の姿を沖縄に見る言説も登場し、沖縄への関心が一気に高まります。
 第1章では、この時代に沖縄がどのように表現されたのかを絵画、写真等を通じて検証することで、日本との不均衡な関係の中で沖縄に付加された意味、すなわち空間的な距離に依拠するエキゾティシズムと、時間的な隔たりが生み出すノスタルジアが綯い交ぜになっていく過程が明らかになるでしょう。国土を視野に収めようとする為政者の眼差しを反映した山本芳翠の風景画、ゴーギャンの影響が見られる菊池契月の《南波照間》、そして異文化としての「沖縄」の記号を散りばめた藤田嗣治《孫》などを取り上げます。

Tou_1958

第2章 「同化」と「異化」のはざま 1945-1975
沖縄戦によって壊滅的な被害を受けた沖縄は、1952年の対日平和条約と日米安保条約の発効によって米軍政下に置かれ、まもなく「極東の要石」としての軍事基地化を強いられます。こうした米統治に対する辛抱強い抵抗の積み重ねは、やがて60年代になると「復帰運動」の大きなうねりを生み出し、72年5月15日の施政権返還に結実します。しかし、日本への「復帰」は、期待されていた基地問題を解決するものではなく、75年の沖縄国際海洋博覧会開催に象徴されるような本土資本の流入をもたらし、新たな「日本化」の波を引き寄せることになりました。
第2章では、安谷屋正義をはじめとする戦後の沖縄の作家が、自己の立脚点から、沖縄の困難な現実に対峙していったことが明らかになります。また、「復帰運動」の盛り上がりとともに本土ジャーナリズムの注目が集まった60年代後半以降は、メディアに流布する沖縄イメージに抗うかのように、沖縄出身の作家と本土出身の作家が、緊張感あふれる相互交渉の末に優れた映像表現を生み出した時期でした。外部の目として挑発者の役割を果たした岡本太郎、東松照明、そして沖縄の比嘉康雄、平良孝七、高嶺剛など。これらの映像群に共通する視点は、日本復帰という再度の「同化」が叫ばれた時代において、沖縄を「異質性」のもとに捉え直し、その思想的可能性を深化させていったことにあるでしょう。

Tarookamoto_1959

第3章 「沖縄」の喚起力
第1章、第2章が、その時代において登場した沖縄の表現を、歴史的、社会的な文脈の中で理解しようとしたのに対して、第3章では「沖縄」という場所の意味と可能性を、時間・空間的な枠組みを取り払って、より開放的な視点から探っていきます。絵画、映像、工芸といったジャンルを超えて、「象徴としての身体」「超越的なものへの通路」「暴力の記憶とその分有」「移民」などの主題のもとに緩やかに作品は関係づけられます。作家の選択に関しても、その出自のみならず、沖縄在住か否か、あるいは復帰運動を経験した世代か復帰後世代かなど、多様な視点を織り交ぜることにしました。それぞれの作家の想像力が切り出した複数の「沖縄」に向き合うことで、この場所から広がる豊かな創造の水脈が見えてくるはずです。

東京国立近代美術館  http://www.momat.go.jp/

ネットカフェ難民にも「定額給付金」は行き渡るのか?

生活困窮者にも行き渡るのか?定額給付金

迷走を続ける「定額給付金」。新たに浮上しているのは「ネットカフェ難民など本当に生活に困窮している人々に行き渡るのか」という議論だ。

ブログ『資格関連ニュース』は、ネットカフェ難民や日雇い派遣労働者の生活苦を綴ったニュースに注目。対象となるネットカフェ難民の給付金受け取り方法など、制度の一層の検討が必要と訴える。たしかに『畦地家のブログ』のブロガーが「住所を持たない方への給付方法はどうするのか。どこかで手渡しした場合、どうやって個人を特定するのか?」と述べるように疑問をあげたらきりがない。また、住民票を移動できないDV被害者が受け取れないと主張するのはブログ『きょうも歩く』。給付金が世帯主口座に振り込まれる場合、「暴力を振るった側が給付金を総取りすることになる」と憤りをあらわにしている。

一方、この議論に異を唱えるのは『lingの所感雑記』のブロガー。「別にホームレスやらネットカフェ難民やらを救うための福祉政策ではなく、経済対策でしょ?」と議論の錯綜を指摘する。給付金制度の不透明さが不要な議論と時間の浪費を招いているようだ。

そもそも定額給付金制度の目的は、減税方式では対象から漏れる低所得者層を救うことだったはず。その目的を明確にし、国民の血税から捻出された給付金を無駄遣いしないよう、最良な施策を見いだしてほしい。- 2008.11.21 11:02 ココログニュース-

 読売新聞の2008年11月13日にも『給付金行き渡るのか ネットカフェ難民』という記事が掲載されていた。「『貧しい人への対策』などと言いつつ、住居を持てない人たちが受け取れないのは矛盾している」というものだ。 
 減税よりも、現金を支給するほうが、納税額が少ない低額所得者への生活対策になるとして決まった定額給付金。それをネットカフェ難民やホームレスにどう支給するのか。給付金が生活に苦しむ人に行き渡らない可能性を放置いいのだろうか。

『畦地家のブログ』http://tomouchi87.cocolog-nifty.com/blog/
『lingの所感雑記』http://ling2dezaji.cocolog-nifty.com/blog/

ネットカフェ難民とは
 アパートなどを借りられず、インターネットカフェや漫画喫茶で寝泊まりする人たち。厚生労働省の昨年の調査では推計5400人で、半数は日雇い派遣やパートなど「非正規労働者」とみられる。

2008年11月22日 (土)

家なき人々の増加

ホームレス、景気悪化で「生活苦しい」 河川敷で相談会

 兵庫県弁護士会などは22日、同県尼崎市と西宮市の間を流れる武庫川の河川敷で、ホームレス向けの無料法律相談会を実施した。ホームレスからは景気の悪化で、リサイクル業者に売る空き缶の値段が下がり「生活が一層苦しくなった」との声が上がった。全国の弁護士や司法書士でつくる「ホームレス法的支援者交流会」が、全国21都道府県で実施している相談会の一環。河川敷で行うのは珍しいという。
共同通信 2008年11月22日 18時39分

シェルター入居者数が過去最高に~ニューヨーク、景気低迷の影響か

景気冷え込みの影響からか、ニューヨーク市では9月、ホームレス・シェルター
への入居者数が過去25年間で最高を記録した。

ニューヨーク・タイムズによると、市の報告では9月にシェルターに入居した
のは1446世帯。25年前に入居者数の統計を取り始めて以来、過去最高の数字と
なった。入居者数は、過去3カ月間毎月過去最高記録を更新しているという。

現在は約9300世帯、2万8000人以上がシェルターで生活している。前回の過去
最高だった2003年では、シェルターで生活する世帯数は月平均9200世帯だった。

ホームレス擁護団体はシェルター入居者増について、景気低迷とともに、市
および州のホームレス予防に対する予算削減が要因だと指摘している。

同市のホームレス・サービス局によると、シェルター入居の申請者数は5月以降
増え続けており、月あたりの入居者数は前年同期と比べかなり増加している。
例えば、07年9月に入居した世帯数は1185世帯だった。

しかし同局は、入居者増が景気の影響とは言い切れないとしている。現在でも、
入居理由の第1位は家庭内暴力であり、2位が住居立ち退き、3位が居住者数が
多すぎるためとなっているからだ。

ホームレス・サービス局は、市は需要増に円滑に対応しており、以前の市政下の
ように市民が野宿を強いられることはないとし、ブルームバーグ市政でのホーム
レス予防対策の強化を主張している。

【アメリカ】2008/11/01(土)
http://www.usfl.com/Daily/News/08/10/1031_027.asp

ホームレス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本のホームレスの自立の支援等に関する特別措置法などの定義は非常に狭義で野宿者・路上生活者のみをホームレスと称している。

さらに広義のホームレスの定義には野宿者・路上生活者と住宅を失う危機にある人に適切でない住居に居住する人(危険だったり修理不能、大修理を要する住居、最低居住水準未満世帯)も含める。テント生活をしていても中東のベドウィンやモンゴルの遊牧民、ロマのような不定住民をホームレスとは呼ばない。金銭的事情等で住居を持てないものだけではなく、米国の実業家ハワード・ヒューズのように、自らの意思でホームレスを選択する場合もある。ベトナム戦争期のアメリカでは、志願してホームレスになる若者が現れた。住所不定になれば、召集令状の送付先がなくなるからである。

かつては乞食・ルンペンなどと呼ばれており、特に日本では浮浪者という名称が定着していたが、差別用語との指摘を受け、海外での同様な状況を指す英語の the homeless に由来する「ホームレス」という呼称がマスメディアを中心に外来語として定着した(とはいえ「ホームレス」も直訳すれば「家無し、宿無し」という意味であり、意味のない言い換えでしかない、とも言える)。

高齢者のホームレスの場合、国民年金の掛け金を払っていた人に対しては年金が受給されるようになり、65歳を期にホームレスを脱することが出来る人もいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%AC%E3%82%B9

2008年11月21日 (金)

ネットいじめ2割増、5900件…文部省調査

 文部科学省は20日、全国の小中高生を対象とする「2007年度問題行動調査」の結果を発表した。

 それによると、暴力行為は前年度比8000件増の5万3000件に上り、過去最多を更新。一方、前回調査で12万件を超えたいじめは10万1000件に減った。ただ、インターネット掲示板などを使った「ネットいじめ」は、前年度比2割増の5900件に達した。

プロフで中傷

 文科省によると、暴力行為が過去最多になったのは、07年度調査から、〈1〉警察へ被害届を出さない〈2〉医師の診断書がない――などのケースについて、報告に加えるよう改めて都道府県教委に促したため。

 その結果、前年度の4万4621件から5万2756件に急増。このうち、児童生徒間の暴力が2万8396件と全体の半数を占めた。これに、物を壊す行為(1万5718件)、教職員への暴力(6959件)が続いた。

 世代別では、中学校が3万6803件、高校1万739件、小学校5214件。中でも、小学校は前年度から37%も増えており、子供の「キレる」傾向が一段と裏付けられた。

 いじめは前年の06年度調査で、認定範囲を「いじめを受けたと子供が感じたケース」に広げた結果、約6倍増の12万4898件に膨らんだ。ところが、今回の調査では約2万4000件減10万1127件にとどまった。これについて、文科省は「減少したものの依然、高水準」として警戒を緩めない。

 自殺した児童生徒も13人減の158人。このうち中学生1人、高校生4人の計5人は、いじめとの関連が指摘されている。都道府県別では、岐阜と熊本で、児童生徒1000人当たりの認知件数が30件を超えた。和歌山(1・2件)や鳥取(1・5件)とは約30倍の開きがあった。

 07年度では初めて、各学校で個人面談や家庭訪問がどの程度行われているかを調べたところ、多く実施している学校ほどいじめ認知件数が高いことが判明。同省は個人面談などが少ない学校では、いじめを把握しきれていないとみている。

 また、いじめの中の「ネットいじめ」は前年度比1016件増の5899件を数えた。「学校裏サイト」などのホームページや、ネット上の自己紹介サイト「プロフ」を使って、個人を中傷するケースが多いという。

(2008年11月21日  読売新聞)

問題行動調査:07年度の公立小中高校のいじめ、前年度の3分の1、740件 /群馬
 県内の公立小中高校で07年度に認知されたいじめの件数が740件で、06年度(2160件)の約3分の1と大幅に減少したことが20日、文部科学省の問題行動調査で分かった。いじめの定義を見直し全国的に件数が急増した06年度調査に対し、07年度は内容を精査した結果、最終的にいじめと判断されなかったケースが増えたとみられる。ただ、近年はいじめの舞台が教室からインターネットなどに広がっており、県教委は「発見や実態調査が難しくなった。件数が減ったからと楽観できない」としている。

 740件の内訳をみると▽小学校228件(前年度比771件減)▽中学校414件(同569件減)▽高校93件(同84件減)▽特別支援学校5件(同4件増)。児童生徒1000人あたりの認知件数は3・4件(同9・8件)、認知したが「現在は解消した」というものが86・8%(同7・4ポイント増)だった。

 小中高とも認知件数が大幅に減ったことについて、県教委義務教育課は「各学校が危機感を持って未然防止と早期発見に取り組んだ成果ではないか」と分析している。

 様態別では前年度に多かった「ひやかし」(68%)と「仲間はずれ」(19%)がいずれも2%減。表面化しにくい「遊ぶふりをしてたたかれる」(21%)や「パソコン・携帯電話での誹謗(ひぼう)中傷」(6・5%)がやや増えた。

 一方、暴力行為は06年度調査より9件多い220件だった。暴力行為は全国で前年度より20%増えたが、県内でも4%の増加だった。内訳は▽小学校20件(前年度比13件増)▽中学校96件(同4件減)▽高校104件(前年度同数)。同課は「子供のコミュニケーション力が低下し、ささいなことでも暴力に訴える傾向がある。ネットの書き込みに起因したものもあり、注意が必要」と警戒している。【鈴木敦子】

 ◇いじめ自殺確認できず
 文部科学省の問題行動調査では、「いじめによる自殺」とみなされた児童・生徒が全国で5人いた。07年度の県内自殺者は高校生4人だったが、いじめが原因とされるものはなかった。このうち西毛地区の県立高校男子生徒(当時17歳)について、両親が「いじめがあったのでは」と県教委に再調査を要望しているが、県教委は「現段階でいじめの事実を確認できていない」として、自殺原因を「不明」と文科省に報告したという。

毎日新聞 2008年11月21日 地方版

2008年11月20日 (木)

対話

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対面して 語りあうこと

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「私の人生においてだが、
この世に確かなものなど何も無いと考えている。
しかし、満天の星空は私に夢を見させてくれることは確かだ」
(ヴァン・ゴッホ)

2008年11月19日 (水)

愚かな男の話

岡本かの子



       ○

「或る田舎に二人の農夫があった。両方共農作自慢の男であった。或る時、二人は自慢の鼻突き合せて

しゃ

べり争った末、それでは実際の成績の上で証拠を見せ合おうという事になった。それには互に

甘蔗

かんしょ

を栽培して、どっちが甘いのが出来るか、それによって勝負を決しようと約束した。
 ところで一方の男が考えた。甘蔗は元来甘いものであるが、その甘いものへもって来て砂糖の汁を肥料としてかけたら一層甘い甘蔗が出来るに相違ない。これは名案々々! と、せっせと甘蔗の苗に砂糖汁をかけた。そしたら苗は腐ってしまった」

       ○

「或ところに愚な男があった。知人が家屋を新築したというので拝見に出かけた。

普請

ふしん

は上出来で、

何処

どこ

彼処

かしこ

も感心した中に特に壁の塗りの出来栄えが目に止まった。そこで男は知人に其の塗り方を訊いてみた。知人が言うには、此の壁は土に

籾殻

もみがら

を混ぜて塗ったので

う丈夫に出来たのであると答えた。
 愚な男は考えた。土に籾殻を混ぜてさえああ美事に出来るのである。一層、実の入っている籾を混ぜて塗ったらどんなに立派な壁が出来るだろう。そして今度は自分の家を新築する際に、此のプランを実行してみた。そしたら壁は腐った」
 以上二話とも、あまり意気込んで程度を越した考えは、

かえ

って不成績を招くという道理の

たと

え話になるようである。

       ○

「或るところに

ずる

くて知慧の足りない男があった。一月ばかり先に客を招んで宴会をすることになった。ところで其の宴会に使う牛乳であるが、相当

沢山

たくさん

の分量が要るのである。
 それを其の時、方々から買い集めるのでは費用もかかり手数もかかると、男は考えたのである。そこで知人から乳の出る牝牛を一ヶ月の約束で賃借りして庭に

つな

いで飼って置いた。
 牝牛の腹から出る牛乳を毎日

しぼ

らずに牝牛の腹に貯めて置いたなら、宴会までには三十日分のものが貯って充分入用の量にはなるだろうと思ったのである。
 宴会の日が来た。男はしてやったり

ばか

り牝牛の乳を搾った。そしたら牝牛の腹からはやっぱり一日分の分量しか牛乳は出なかった」

       ○

「何か

勲功

てがら

があったので

褒美

ほうび

に王様から

ほふ

った

駱駝

らくだ

を一匹

もら

った男があった。男は喜んで料理に取りかかった。なにしろ大きな駱駝一匹料理するのであるから手数がかかる。切り剖く庖丁はじき切れなくなって何遍も

ぎ直さねばならなかった。男は考えた。こう一々研ぎ直すのでは手数がかかってやり切れない。一遍に幾度分も研いどいてやろう。そこで男は二三日がかりで庖丁ばかり研ぎにかかった。
 かくて、庖丁の刃金は研ぎ減り、駱駝は暑気に腐ってしまった」

       ○

「やはり愚な男があった。腹が減っていたので有り合せの

煎餅

せんべい

をつまんでは食べた。一枚食べ、二枚食べして行って七枚目の煎餅を半分食べたとき、彼の腹はちょうど一ぱいになったのを感じた。男は考えた、腹をくちくしたのは此の七枚目の半分であるのだ。さすれば前に食べた六枚の煎餅は無駄というものである。それからというものは、この男は腹が減って煎餅を食べるときには、先ず煎餅を取って数えた。一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、そしてこれ等の六枚の煎餅は数えただけで食わないのである。彼は七枚目に当った煎餅を口へ持って行き半分だけ食った。そしてそれだけでは一向腹がくちくならないのを如何にも不思議そうに考え込んだ」(百喩経より)


初出:「キング」講談社   1936(昭和11)年5月号

2008年11月18日 (火)

北野工房

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北野工房のまち(きたのこうぼうのまち)は、神戸市中央区にある「神戸ブランドに出会う体験型工房」である。

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「校舎の面影を極力残す事」をコンセプトに、旧北野小学校の校舎をリニューアルして1998年にオープンした。館内にはアンテノール、ゴンチャロフ、UCC、ベニール、モロゾフといった神戸ブランドの著名店が20余り入居しており、販売を行っているほか、各店で革小物や化粧品、ピッツァ、珈琲、パン等の製作を体験できる。(Wikipedia)

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  • 敷地面積 5,135m²
  • 延床面積 1,950m²
  • 所在地 〒650-004 兵庫県神戸市中央区中山手通3丁目17番地
  • 北野工房のまち http://www.kitanokoubou.ne.jp/
  • 2008年11月17日 (月)

    神戸の夜と昼

    遣隋使の時代には、既に港は開かれていたが、平清盛により経が島の近くに都である福原京が計画された前後に貿易の拠点として整備され「大輪田泊(おおわだのとまり)」と呼ばれたことがその発展の始まりとされる。その後、明治維新に至るまでは「兵庫津」と呼ばれ、京・大坂の外港・経由地として栄えた。

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    神封戸(じんふこ)

    「神戸」という地名は、現在の三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封戸の集落(神戸「かんべ」)であったことに由来する。西国街道の宿場町であり北前船の出発地の一つでもあった兵庫津(ひょうごのつ)に近く、廻船問屋が軒を並べていた神戸村を指していた。神戸三社(神戸三大神社)をはじめとする市内・国内にある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わり、前述の有馬温泉や神封戸の形成も市名の由来に関係している。

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    南は瀬戸内海の大阪湾に面して世界でも有数の港が広がっている。また、市域中央部の六甲山地が海の近くまで迫っているために市街地は南北に狭く東西に長い。神戸市というと一般的なイメージとしては、この東西にベルトのように伸びる市街地のイメージや港町を思い浮かべる人も多いが、実際は山林や北区などに見られる裏六甲より北の農村部の方がはるかに面積は広い。
    六甲山地の山上の高原一帯は日本における別荘・リゾート等の発祥地として有名であり、六甲北麓の有馬温泉は日本三古湯の一つとして古来より名高い。

    震災復興再開発事業やポートアイランド二期事業・神戸医療産業都市構想などの事業によって震災前を超えるまでに回復した。都心への回帰現象がみられる中央区や大阪へのベッドタウン化が進む東灘区や灘区において高い増加率が目立っている。

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    2008年11月16日 (日)

    神戸の異人館通り

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    阪急三宮の東口に続く、なだらかな坂道を15分ばかり登っていくと、「異人館通り」に着く。
    眺望のよい西六甲の山麓に位置する異人館街は、半世紀の間に200棟以上が建てられ、 エトランゼ気分を味わえるエキゾチックな景観を見せていたという。建物の老朽化、第二次大戦や阪神・淡路大震災によって全半壊したため、往時の1/3以下、約60棟の洋風建築が現存している。

    2008年11月15日 (土)

    『歩いても 歩いても』マル・デル・プラタ国際映画祭の最優秀作品賞を受賞

     ブエノスアイレス(Buenos Aires)で開催されているマル・デル・プラタ国際映画祭(Mar del Plata International Film Festival)で11月15日、是枝裕和(Hirokazu Kore-eda)監督の『歩いても 歩いても(英題:Still Walking)』が最優秀作品賞を受賞した。

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    『歩いても 歩いても 』 http://www.aruitemo.com/index.html
    ●監督・原作・脚本・編集/是枝裕和 出演/阿部寛、夏川結衣、YOU、高橋和也、田中祥平、樹木希林、原田芳雄 ●6月28日よりシネカノン有楽町1丁目、渋谷アミューズCQN、新宿武蔵野館ほかにて日本公開 ●配給/シネカノン

    『歩いても 歩いても』は皮をこそげ取っている音から始まる。にんじんを持っているのは母親で、台所の隣では里帰りしてきた娘が大根の皮を剥いている。引退した医者一家の平凡で特別な一日がゆっくりと紹介されていく。

     「家族」と並ぶ是枝作品のキーワードである「喪失」は重要なテーマとなっている。
     映画の出発点に監督自身の母親の死があった。

     「もともと『なくなってみて初めて、あるものの存在をリアルに感じる』という考えにひかれるところがあるんですが、今回も亡くなったことによってよりリアルに感じるようになった母親を、どう映画にするかという方向で考えていきました。今までの映画で描いてきた人間たちと同じように、母親を失った僕自身を対象化していったんです。」

    是枝裕和 Hirokazu Kore-Eda 1962年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部文芸学科卒業後、テレビマンユニオンに参加。主にドキュメンタリー番組を演出し、現在に至る。95年初監督した『幻の光』で、ヴェネチア国際映画祭金のオゼッラ賞を受賞。04年の『誰も知らない』では主演した柳楽優弥が最年少でカンヌ映画祭最優秀男優賞に輝く。ほか、『ワンダフルライフ』(99年)『ディスタンス』(01年)『花よりもなほ』(05年)と時代を反映させた作品で高い評価を得ている。
    是枝裕和監督の公式サイト http://www.kore-eda.com/

    2008年11月14日 (金)

    「生きるための兆し」を認識できる22パターン

    ◆タロットカードは不可思議なシンボルが描かれて、これらキーワードを繋ぎ合わせることでタロットは世界の側面を照らし出すとことができる。漠然とした無意識の断片が、元型のイメージとしてのカードによって具現化され、その人固有の無意識の形を喚起させる。
    ◆非合理的なシンボルやイメージこそが、無意識の世界を解く鍵。
    ◆無意識の領域に存在して無意識に人を動かす全人類に共通する心理パターン。このパターンが自然界にもあったことを符合させた図形こそタロット。 無意識の中にあるものを喚起させ、導き出されたキーワードを解釈することでその人だけに当てはまるパターンがある。
    ◆“シンクロニシティ(共時性)”という無意識の領域にあるものと現実の世界に起こることには一種のアナロジーが存在し、人が偶然として片付ける出来事も、すべては無意識の中にある原因により必然的に起きている。
    ◆自分の無意識を知ることで、これから自分の身に起こることや、未来に起こる出来事を予測することができる。
    ◆タロットは普遍な無意識を発掘する道具であり、その無意識を意識化する手段として、占い師が相談者の未来を予測する際に行うカード解釈は、まさしく医師が患者に質問を出して、その内容から医学的に解釈し、患者の精神状態を推測しながらカウセリングを行う心理学の手法そのものです。
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    P1120586
    I 奇術師 II 女教皇 III 女帝 IV 皇帝 V 教皇 VI 恋人 VII 戦車  VIII 正義 IX 隠者 X 運命の輪 XI 力
    XII 吊された男  XIII 死神  XIV 節制 XV 悪魔  XVI 塔 XVII 星 XVIII 月 XIX 太陽 XX 審判 XXI 世界
    0 愚者

    P1120587
    ◆ペンギンタロット21+0の原画 
     http://zerogahou.cocolog-nifty.com/photos/peintora22/index.html
     
    占いやゲーム性の底に秘められたTAROTの真意を、
    ユーモラスで哲学的なペンギンのキャラクターによって顕した大アルカナ22枚
    TAROT図形学より、視覚からも分りやすく覚えられる
    「ペンギンタロット」の世界へ・・・
    新しいアテンション(注意)と上昇力を前向きに促すために作られたカードです。

    P1120583

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    申込・お問い合せ
    「ペンギンタロット」http://koinu.cside.com/
    ◆大アルカナ22枚組1セット・解説書A6版18頁付 
    ◇名刺サイズ  2000円  ◇タロットサイズ3000円
    申込・お問い合せ http://koinu.cside.com/NewFiles/penguintora.html

    2008年11月13日 (木)

    オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley, 1872年8月21日 - 1898年3月16日)

    Beardsleysalo

    イギリスの画家、詩人、小説家。ヴィクトリア朝の世紀末美術を代表する存在。悪魔的な鋭さを持つ白黒のペン画で鬼才とうたわれたが、病弱ゆえに25歳の若さで早世した。

    イングランド南部のブライトンに生まれる。父ヴィンセント・ポール・ビアズリーは金銀細工師の息子。母エレン・ピット・ビアズリーはチャタム伯家に繋がる旧家の出で、大ピットの子孫。2人姉弟の長男として生まれたオーブリーは、父方から工芸家としての器用さを受け継ぎ、母方から芸術に対する洗練された趣味を受け継いだ。稼ぎのないヴィンセントのために、母エレンは音楽教師として働き、オーブリーに文学や音楽の本格的な教育を施した。幼時から母にピアノを習ったオーブリーは、学校に上がる前からショパンを弾きこなし、音楽の天才と呼ばれた。姉メイベル・ビアズリーは女優となった。

    Salome

    オスカー・ワイルド作『サロメ』の挿絵1893年2月2日、ロスの紹介で知り合ったルイス・ハインドの発行する『ペル・メル・バジェット』誌でデビュー。同年5月、憧れのホイッスラーにパリで会うが、悪印象を持たれてこき下ろされたため、復讐にホイッスラー夫妻を揶揄する諷刺画を描く。同年6月、パリから帰国後、オスカー・ワイルド作『サロメ』の挿絵を描く契約を結ぶ(本来ビアズリーはこの作品の英訳者になることを望んでいたが叶わなかった)。この作品の挿絵を描くように慫慂したのは作者ワイルド自身だったが、ビアズリーの絵は「僕の劇はビザンチン的なのに、ビアズリーの挿絵はあまりに日本的だ」との理由により、ワイルドには気に入らなかった。作者を揶揄する内容の数枚の挿絵もワイルドを怒らせた。

    Aubrey_beardsley

    1898年3月16日、結核のためマントンにて死去。遺産は836ポンド17シリング10ペンス。ベン・ジョンソン作『ヴォルポーネ』のために描いた作品(未完)が絶筆となった。ビアズリーの作品は『女の平和』の挿絵など猥褻なものが多かったが、死の直前には、スミザーズに宛てた手紙の下書きで、それら全ての猥褻な作品を破棄するよう依頼した。しかしこの依頼は実行されず、その代わりに彼の作品はハリー・クラークやバイロス、フォーゲラー=ヴォルプスヴェーデなど多くの画家に影響を与えた。日本では、水島爾保布、米倉斉加年、佐伯俊男、山名文夫たちの作品にビアズリーの影響が濃厚である。漫画家では山岸凉子や魔夜峰央がビアズリーからの影響を自認している。

    [ギャラリー]

    La Danse du cygne de Bathyllus
    Le danseur Bathyllus fut selon Horace l'amant de Polycrate et d'Anacréon (1894).

    La Caverne du spleen
    Illustration pour The Rape of Lock d'Alexander Pope (1896).

    The Yellow Book
    Dessin de couverture par Aubrey Beardsley (1894).

    Aubrey Beardsley
    Caricature par Max Beerbohm (1894).

    Aubrey Beardsley
    Dessin par Walter Richard Sickert (1894).

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    2008年11月12日 (水)

    世界怪談名作集 序/目次 岡本綺堂編訳

    世界怪談名作集
    序/目次
    岡本綺堂編訳

       序

     外国にも怪談は非常に多い。古今の作家、大抵は怪談を書いている。そのうちから最も優れたるものを選ぶというのはすこぶる困難な仕事であるので、ここでは世すでに定評ある名家の作品のみを紹介することにした。したがって、その多数がクラシックに傾いたのはまことに已(や)む得ない結果であると思ってもらいたい。
     怪談と言っても、いわゆる幽霊物語(ゴースト・ストーリー)ばかりでは単調に陥る嫌いがあるので、たとい幽霊は出現しないでも、その事実の怪奇なるものは採録することにした。たとえば、ホーソーンの作には「ドクトル・ハリスの幽霊」があるにもかかわらず、ここには「ラッパチーニの娘」を採録した類である。ストックトンの「幽霊の移転」のような、ユーモラスの物を加えたのも、やはり単調を救うの意にほかならない。
     アンドレーフの作のごときはすこぶる芸術味の豊かなもので、大衆向きにはどうあろうかと少しく躊躇したのであるが、普通の怪談とはその選を異にし、死から一旦(いったん)よみがえったラザルスという男を象徴にして、「死」に対する人間の恐怖を力強く描いたもので、こういう物も一つぐらいは読んで貰いたいという心から掲載することにしたのである。
     アラン・ポーの作品――殊(こと)にかの「黒猫」のごときは、当然ここに編入すべきであったが、この全集には別にポーの傑作集が出ているので、遺憾ながら省(はぶ)くことにして、その代りに、ポーの二代目ともいうべきビヤースの「妖物(ダムドシング)」を掲載した。人にあらず、獣(けもの)にあらず、形もなく、影もなく、わが国のいわゆる「鎌いたち」に似て非なる一種の妖物が、異常の力をもって人間を粉砕する怪奇の物語は、実に戦慄に値すると言ってよかろう。
     支那も怪談の本場であるから、いわゆる「志怪」の書なるものは実に枚挙に暇(いとま)あらず、これもその選択にすこぶる窮したのであるが、紙数の都合で「牡丹燈記」を選ぶことにした。これは「剪燈(せんとう)新話」中の一節で、誰も知っている「牡丹燈籠」の怪談の原作である。
     ここに編入されたものは、外国の怪談十六種、支那の怪談一種、その原著者はいずれも古今著名の人びとのみで、いちいちあらためて紹介するまでもあるまいと思われるので、単にその時代と出生地のみを記録するにとどめて置いた。

    昭和四年初夏

    訳者

    目次

    貸家 リットン
    スペードの女王 プーシキン
    妖物(ダムドシング) ビヤース
    クラリモンド ゴーチェ
    信号手 ディッケンズ
    ヴィール夫人の亡霊 デフォー
    ラッパチーニの娘 ホーソーン

    北極星号の船長 ドイル
    廃宅 ホフマン
    聖餐祭 フランス
    幻の人力車 キップリング
    上床(アッパーバース) クラウフォード
    ラザルス アンドレーフ
    幽霊 モーパッサン
    鏡中の美女 マクドナルド
    幽霊の移転 ストックトン
    牡丹(ぼたん)燈記 瞿宗吉

    [#底本では「ラッパチーニの娘」まで上巻、「北極星号の船長」から下巻]

    ------------------------------------------------------------------------

    底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年8月4日初版発行
    http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person82.html

    2008年11月11日 (火)

    貸家 リットン Edward Lytton

    世界怪談名作集

    貸家

    リットン Edward George Earle Bulwer-Lytton

    岡本綺堂訳

           一

     わたしの友達――著述家で哲学者である男が、ある日、冗談と真面目と半分まじりな調子で、わたしに話した。
    「われわれは最近思いもつかないことに出逢ったよ。ロンドンのまんなかに

    もの

    屋敷を見つけたぜ」
    「ほんとうか。何が出る。……幽霊か」
    「さあ、たしかな返事はできないが、僕の知っているのはまずこれだけのことだ。六週間以前に、家内と僕とが二人連れで、家具付きのアパートメントをさがしに出て、ある閑静な町をとおると、窓に家具付き貸間という

    ふだ

    が貼ってある家を見つけたのだ。場所もわれわれに適当であると思ったので、はいってみると部屋も気に入った。そこでまず一週間の約束で借りる約束をしたのだが……。三日目に立ちのいてしまった。誰がどう言ったって、家内はもうその家にいるのは

    いや

    だという。それも無理はないのだ」
    「君は何か見たのか」
    「別にいろいろの不思議を見たり聞いたりしたわけでもないのだが、家具のないある部屋の前を通ると、なんとも説明することの出来ない一種の

    凄気

    せいき

    にうたれるのだ。

    ただ

    し、その部屋で何も見えたのではなし、聞こえたのでもないが……。そこで、僕は四日目の朝、その家の番をしている女を呼んで、あの部屋は

    何分

    なにぶん

    われわれに適当しないから、約束の一週間の終わるまでここにいることは出来ないと言い聞かせると、女は平気でこう言うのだ。
    〈わたしはその

    わけ

    を知っています。それでもあなたがたはほかの人たちよりも長くいたほうです。ふた晩辛抱する人さえ少ないくらいで、三晩泊まっていたのはあなたがたが初めてです。それも恐らくあの連中があなたがたに好意を持ったせいでしょう〉
     なんだかおかしな返事だから、僕は笑いながら〈あの連中とはなんだ〉と

    いてみると、女はまたこう言うのだ。
    〈なんだか知りませんが、ここの

    うち

    り着いている者です。わたしは遠い昔からあの連中を識っています。その頃わたしは奉公人ではなしに、ここの家に住んでいたことがあるのです。あの連中はいずれ私を殺すだろうと思っていますが、そんなことは

    かま

    いません。わたしはこの通りの年寄りですから、どの

    みち

    やがて死ぬからだです。死ねばあの連中と一緒になって、やはりこの家に住んでいることが出来るのです〉
     いや、どうも驚いたね。女はそんなことを実に怖ろしいほど平気で話しているのだ。僕は薄気味が悪くなって、もう何も話す元気がなくなったので、

    そう

    そうに立ち去ってしまった。もちろん約束通りに一週間分の

    間代

    まだい

    を払って来たが、そのくらいのことで逃げ出せれば

    やす

    いものさ」
    「不思議だね」と、わたしは言った。「そう聞くと、僕はぜひその化け物屋敷に寝てみたいよ。君が不名誉の退却をしたという、その家のありかを

    後生

    ごしょう

    だから教えてくれないか」
     友達はそのありかを教えてくれた。彼に別れたのち、わたしはまっすぐにかの化け物屋敷だという家へたずねて行くと、その家はオックスフォード・ストリートの北側で、陰気ではあるが

    家並

    やなみ

    の悪くない抜け道にあったが、家はまったく

    め切って、窓に貸間の札もみえない。戸を叩いても返事がない。仕方がなしに引っ返そうとすると、となりの空地にビールの配達が白い金属の

    かん

    をあつめていて、わたしのほうを見かえりながら声をかけた。
    「あなたはそこの家で誰かをお

    たず

    ねなさるんですか」
    「むむ。貸家があるということを聞いたので……」
    「貸家ですか。そこはJさんが雇い婆さんに一週間一ポンドずつやって、窓の

    てをさせていたんですがね。もういけませんよ」
    「いけない。なぜだね」
    「その家は何かに

    たた

    られているんですよ。雇い婆さんは眼を大きくあいたままで、寝床のなかに死んでいたんです。世間の評判じゃあ、化け物に

    め殺されたんだと言いますが……」
    「ふむう。そのJさんというのは、この家の持ち主かね」
    「そうです」
    「どこに住んでいるね」
    「G町です」と、配達はその番地をも教えてくれた。
     わたしは彼にいくらかの心付けをやって、それから教えられた所へたずねて行くと、主人のJ氏は都合よく在宅であった。J氏はもう初老を過ぎた人で、理智に富んでいるらしい風貌と、人好きのするような態度をそなえていた。
     正直に自分の姓名と職業とを明かした上で、わたしはかの貸間の家に何かの祟りがあるらしく思われるということを話した。そうして、わたしはぜひその家を探険してみたいから、ひと晩でもいいからどうぞ貸してくれまいか。それを承知してくれれば、お望み通りの金を払うと言った。
     J氏はそれに対して、非常に丁寧に答えた。
    「よろしゅうございます。あなたのご用の済むまでお貸し申しましょう。家賃などはどうでもかまいません。あの婆さんは

    宿

    やど

    なしの貧乏人で養育院にいたのを、わたしが引き取って来たのです。あの婆さんは子供の時にわたしの家族のある者と知り合いであったと言いますし、またその以前は都合がよくって、わたしの叔父からあの家を借りて住んでいたこともあるというので、それらの関係からわたしが引き取って番人に雇っておいたのですが、可哀そうに三週間前に死んでしまいました。あの婆さんは高等の教育もあり、気性もしっかりした女で、わたしが今まで連れて来た番人のうちで無事にあの家に踏みとどまっていたのは、あの女ばかりでした。それが今度死んで、しかも突然に死んだものですから、検視が来るなどという騒ぎになって、近所でもいろいろの

    いや

    な噂を立てます。したがって、そのかわりの番人を見つけるのも困難ですし、もちろん借り手もあるまいと思いますから、今後一年間はその人がすべての税金さえ納めてくれればいいという約束で、

    無代

    ただ

    で誰にでも貸そうと考えているのです」
    「いったい、いつごろからそんな評判が立つようになったのです」
    「それは確かには申されませんが、もうよほど以前からのことです。

    唯今

    ただいま

    お話し申した婆さんが借りていた時、すなわち三十年前から四十年前のあいだだそうですが、すでにそのころから怪しいことがあったといいます。わたしが覚えてからでも、あの家に三日とつづけて住んでいた人はありません。その怪談はいろいろですから、いちいちにそのお話をすることは出来ませんし、また、そのお話をしてあなたに何かの予覚をあたえるよりも、あなた自身があの家へ入り込んで直接にご判断なさるほうがよろしかろうと思います。ただ、なにかしら見えるかもしれない、聞こえるかもしれないというお覚悟で、あなたがご随意に警戒をなさればよろしいのです」
    「あなたはあの家に、一夜を明かそうというような好奇心をお持ちになったことはありませんか」
    「一夜を明かしたことはありませんが、真っ昼間に三時間ほど、たった一人であの家のなかにいたことがあります。わたしの好奇心は満足されませんでしたが、その好奇心も消滅して、ふたたび経験を新たにする気も出なくなりました。と申したら、なぜ十分に探究しないかとおっしゃるかもしれませんが、それにはまた

    わけ

    があるのです。そこで、あなたもこの一件について非常に興味を持ち、また、あなたの神経が非常に強いというのであれば格別、さもなければあの家で一夜を明かすということは、まあ、お考えになったほうがよろしくはないかと思います」
    「いや、わたしは非常の興味を持っているのです」と、私は言った。「臆病者はともかくも、わたしの神経はいかなる危険にも馴れています。化け物屋敷でも驚きません」
     J氏も深くは言わないで、

    用箪笥

    ようだんす

    から鍵をとり出して私に渡してくれた。その

    腹蔵

    ふくぞう

    のない態度にわたしは

    衷心

    ちゅうしん

    から感謝し、また、わたしの希望に対して紳士的の許可をあたえてくれたことをも感謝して、わたしは自分の望むものを手に入れることになった。そうなると気が

    くので、わたしはひとまず我が家へ戻るやいなや、日ごろ自分が信用しているFという雇い人を呼んだ。彼は年も若いし、快活で、物を恐れぬ性質で、わたしの知っている中では最も迷信的の

    偏見

    へんけん

    などを持っていない人間であった。
    「おい、おまえも覚えているだろう」と、わたしは言った。「ドイツにいるときに、古い城のなかへ首のない化け物が出るというので、その幽霊を見つけに行ったところが、何事もないので失望したことがある。ところが、今度はお望み通り、ロンドンの市中で確かに化け物の出る家のあることを聞いたのだ。おれは今夜そこへ泊まりに行くつもりだ。おれの聞いたところによると、そこの家には確かに何かが見えるか聞こえるかするのだ。その何かがすこぶる怖ろしい物らしい。そこで、おまえが一緒に行ってくれれば、何事が起こっても非常に気丈夫だと思うのだが、どうだろう」
    「よろしい、旦那。わたくしをお連れください」と、彼は歯をむき出して愉快そうに笑った。
    「では、ここにその

    いえ

    の鍵がある。これがその所在地だ。これを持ってすぐに行って、おまえのいいと思う部屋へおれの寝床を用意しておいてくれ。それから幾週間も

    空家

    あきや

    になっていたのだから、ストーブの火をよくおこしてくれ。寝床へも空気を入れるようにしてくれ。もちろん、そこに

    蝋燭

    ろうそく

    き物があるかどうだか見てくれ。おれの

    短銃

    ピストル

    匕首

    あいくち

    も持って行ってくれ。おれの武器はそれでたくさんだ。おまえも同じように武装して行け。たとい一ダースの幽霊が出て来たからといって、それと勝負をすることが出来ないようでは、英国人のつらよごしだぞ」
     しかし、私は非常に差し迫った仕事をかかえているので、その日の残りの時間は

    もっぱ

    らその仕事についやさなければならなかった。わたしは自分の名誉を

    けたる今夜の冒険について、あまり多く考える

    ひま

    を持たないほどに

    いそが

    しく働いた。わたしは

    はなは

    だ遅くなってから、ただひとりで夕飯を食った。食うあいだに何か読むのが私の習慣であるので、わたしはマコーレーの論文の一冊を取り出した。そうして、今夜はこの書物をたずさえて行こうと思った。マコーレーの作は、その文章も健全であり、その主題も実生活に触れているので、今夜のような場合には、迷信的空想に対する一種の

    解毒剤

    げどくざい

    の役を勤めるであろうと考えたからである。
     午後九時半頃に、かの書物をポケットへ押し込んで、わたしは化け物屋敷の方へぶらぶらと歩いて行った。わたしはほかに一匹の犬を連れていた。それは敏捷で、大胆で、勇猛なるブルテリア種の犬で、鼠をさがすために薄気味のわるい路の隅や、暗い

    小径

    こみち

    などを夜歩きするのが大好きであった。かれは幽霊狩りなどには最も適当の犬であった。
     時は夏であったが、身にしむように冷えびえする夜で、空はやや暗く曇っていた。それでも月は出ているのである。たといその光りが弱く曇っていても、やはり月には相違ないのであるから、

    夜半

    よなか

    を過ぎて雲が散れぱ、明かるくなるであろうと思われた。
     かの家にゆき着いて戸をたたくと、わたしの雇い人は愉快らしい微笑を含んで主人を迎えた。
    「支度は万事できています。すこぶる上等です」
     それを聞いて、わたしはむしろ失望した。
    「何か注意すべきようなことを、見も聞きもしなかったか」
    「なんだか変な音を聞きましたよ」
    「どんなことだ、どんなことだ」
    「わたくしのうしろをぱたぱた通るような

    跫音

    あしおと

    を聞きました。それから、わたくしの耳のそばで何かささやくような声が一度か二度……。そのほかには何事もありませんでした」

    こわ

    くなかったか」
    「ちっとも……」
     こう言う彼の大胆な顔をみて、何事が起こっても彼はわたしを見捨てて逃げるような男でないということが、いよいよ確かめられた。
     わたしたちは広間へ通った。往来にむかった窓はしまっている。わたしの注意は今やかの犬の方へ向けられたのである。犬もはじめのうちは非常に威勢よく駈け廻っていたが、やがてドアの方へしりごみして、しきりに外へ出ようとして引っ掻いたり、泣くような声をして

    うな

    ったりしているので、私はしずかにその頭をたたいたりして勇気をつけてやると、犬もようよう落ち着いたらしく、私とFのあとについて来たが、いつもは

    見識

    みし

    らない場所へ来るとまっさきに立って駈け出すにもかかわらず、今夜はわたしの靴の

    かかと

    にこすりついて来るのであった。
     私たちはまず地下室や台所を見まわった。そうして、穴蔵に二、三本の葡萄酒の

    びん

    がころがっているのを見つけた。その罎には

    蜘蛛

    くも

    の巣が一面にかかっていて、多年そのままにしてあったことが明らかに察せられると同時に、ここに棲む幽霊が酒好きでないことも確かにわかったが、そのほかには別に私たちの興味をひくような物も発見されなかった。外には薄暗い小さな裏庭があって、高い塀にかこまれている。この庭の敷石はひどくしめっているので、その湿気とほこりと

    煤煙

    ばいえん

    とのために、わたしたちが歩くたびに薄い足跡が残った。
     わたしは今や初めて、この不思議なる借家において第一の不思議を見たのである。
     わたしはあたかも自分の前に一つの足跡を見つけたので、急に立ちどまってFに指さして注意した。一つの足跡がまたたちまち二つになったのを、わたしたちふたりは同時に見た。ふたりはあわててその場所を検査すると、わたしの方へむかって来たその足跡はすこぶる小さく、それは子供の足であった。その印象はすこぶる薄いもので、その形を明らかに判断するのは困難であったが、それが

    跣足

    はだし

    の跡であるということは私たちにも認められた。
     この現象は私たちが向うの塀にゆき着いたときに消えてしまって、帰る時にはそれを繰り返すようなこともなかった。階段を昇って一階へ出ると、そこには食堂と小さい控室がある。またそのうしろには更に小さい部屋がある。この第三の部屋は下男の居間であったらしい。それから座敷へ通ると、ここは新しくて綺麗であった。そこへはいって、わたしは肘かけ椅子に

    ると、Fは蝋燭立てをテーブルの上に置いた。わたしにドアをしめろと言いつけられて、彼が振りむいて行ったときに、わたしの正面にある一脚の椅子が急速に、しかもなんの音もせずに壁の方から動き出して、わたしの方から一ヤードほどの所へ来て、にわかに向きを変えて止まった。
    「ははあ、これはテーブル廻しよりもおもしろいな」と、わたしは半分笑いながら言った。
     そうして、わたしがほんとうに笑い出したときに、わたしの犬はその頭をあとへひいて

    えた。
     Fはドアをしめて戻って来たが、椅子の一件には気がつかないらしく、吠える犬をしきりに鎮めていた。わたしはいつまでもかの椅子を見つめていると、そこに青白い

    もや

    のようなものが現われた。その

    輪郭

    りんかく

    は人間の形のようであるが、わたしは自分の眼を疑うほどにきわめて朦朧たるものであった。犬はもうおとなしくなっていた。
    「その椅子を片付けてくれ。むこうの壁の方へ戻して置いてくれ」と、わたしは言った。
     Fはその通りにしたが、急に振りむいて言った。
    「あなたですか。そんなことをしたのは……」
    「わたしが……。何をしたというのだ」
    「でも、何かがわたくしをぶちました。肩のところを強くぶちました。ちょうどここの所を……」
    「わたしではない。しかし、おれたちの前には魔術師どもがいるからな。その

    手妻

    てづま

    はまだ見つけ出さないが、あいつらがおれたちをおどかす前に、こっちがあいつらを取っつかまえてやるぞ」
     しかし、私たちはこの座敷に長居することはできなかった。実際どの

    部屋

    へや

    湿

    しめ

    っぽくて寒いので、わたしは二階の火のある所へ行きたくなったのである。私たちは警戒のために座敷のドアに

    じょう

    をおろして出た。今まで見まわった下の部屋もみなそうして来たのであった。
     Fがわたしのためにえらんでおいてくれた寝室は、二階じゅうでは最もよい部屋で、往来にむかって二つの窓を持っている大きい一室であった。規則正しい四脚の寝台が火にむかって据えられて、ストーブの火は美しくさかんに燃えていた。その寝台と窓とのあいだの壁の左寄りにドアがあって、そこからFの居間になっている部屋へ通ずるようになっていた。
     次にソファー・ベッドの付いている小さい部屋があって、それは階段の

    あが

    り場になんの交通もなく、わたしの寝室に通ずるただ一つのドアがあるだけであった。
     寝室の火のそばには、衣裳戸棚が壁とおなじ平面に立っていて、それには錠をおろさずに、にぶい

    とび

    色の紙をもっておおわれていた。試みにその戸棚をあらためたが、そこには女の着物をかける掛け釘があるばかりで、ほかには何物もなかった。さらに壁を叩いてみたが、それは確かに固形体で、外は建物の壁になっていた。
     これでまず家じゅうの

    見分

    けんぶん

    を終わって、わたしはしばらく火に暖まりながらシガーをくゆらした。この時まで私のそばについていたFは、さらにわたしの探査を十分ならしめるために出て行くと、昇り口の部屋のドアが堅くしまっていた。
    「旦那」と、彼は驚いたように言った。「わたくしはこのドアに錠をおろした覚えはないのです。このドアは内から錠をおろすことは出来ないようになっているのですから……」
     その言葉のまだ終わらないうちに、そのドアは誰も手を触れないにもかかわらず、また自然にしずかにあいたので、私たちはしばらく黙って眼を見あわせた。化け物ではない、何か人間の働きがここで発見されるであろうという考えが、同時に二人の胸に浮かんだので、わたしはまずその部屋へ駈け込むと、Fもつづいた。
     そこは家具もない、なんの装飾もない、小さい部屋で、少しばかりの空き箱と

    かご

    のたぐいが片隅にころがっているばかりであった。小さい窓の

    鎧戸

    よろいど

    はとじられて、火を焚くところもなく、私たちが今はいって来た入り口のほかには、ドアもなかった。床には敷物もなく、その床も非常に古くむしばまれて、そこにもここにも手入れをした継ぎ木の跡が白くみえた。しかもそこに生きているらしい物はなんにも見えないばかりか、生きている物の隠れているような場所も見いだされなかった。
     私たちが突っ立って、そこらを見まわしているうちに、いったんあいたドアはまたしずかにしまった。二人はここに閉じこめられてしまったのである。

           二

     私はここに初めて一種の言い知れない恐怖のきざして来るのを覚えたが、Fはそうではなかった。
    「われわれを

    わな

    に掛けようなどとは

    駄目

    だめ

    なことです。こんな薄っぺらなドアなどは、わたしの足で一度蹴ればすぐにこわれます」
    「おまえの手であくかどうだか、まず

    ため

    してみろ」と、わたしも勇気を振るい起こして言った。「その間におれは鎧戸をあけて、外に何があるか見とどけるから」
     わたしは鎧戸の

    貫木

    かんぬき

    をはずすと、窓は前にいった裏庭にむかっているが、そこには張り出しも何もないので、切っ立てになっている壁を降りる

    便宜

    よすが

    もなく、庭の敷石の上へ落ちるまでのあいだに足がかりとするような物は見あたらなかった。
     Fはしばらくドアをあけようと試みていたが、それがどうにもならないので、わたしの方へ振りむいて、もうこの上は暴力を用いてもいいかと聞いた。
     彼が迷信的の恐怖に打ち

    って、こういう非常の場合にも沈着で快活であることは、実にあっぱれとも言うべきで、わたしはいろいろの意味において、いい味方を連れて来たことを祝さなければならなかった。そこで、わたしは喜んで彼の申しいでを許可したが、いかに彼が勇者であってもその力は弱いものと見えて、どんなに蹴ってもドアはびくともしなかった。
     彼はしまいには息が切れて、蹴ることをあきらめたので、わたしが立ち代ってむかったが、やはりなんの効もなかった。それをやめると、ふたたび一種の恐怖がわたしの胸にきざして来たが、今度はそれが以前よりもぞっとするような、根強いものであった。
     そのとき私は、ささくれ立った

    ゆか

    の裂け目から何だか奇怪な物凄いような煙りが立ち昇って来て、人間には有害でありそうな毒気が次第に充満するのを見たかと思うと、ドアはさながら我が意思をもって働くように、またもやしずかにあいたので、監禁を

    ゆる

    された二人は

    そう

    そうに階段のあがり場へ逃げ出した。
     一つの大きい青ざめた光り――人間の形ぐらいの大きさであるが、形もなくて、ただふわふわしているのである。それが私たちの方へ動いて来て、あがり場から屋根裏の部屋へつづいている階段を昇ってゆくので、私はその光りを追って行った。Fもつづいた。
     光りは階段の右にある小さい部屋にはいったが、その入り口のドアはあいていたので、私もすぐ

    あと

    からはいると、その光りはうず巻いて、小さい玉になって、非常に明かるく、あたかも生けるがごとくに輝いて、部屋の隅にある寝台の上にとどまっていたが、やがて

    ふる

    えるように消えてしまったので、私たちはすぐにその寝台をあらためると、それは奉公人などの住む屋根裏の部屋には珍らしくない

    半天蓋

    はんてんがい

    の寝台であった。
     寝台のそばに立っている

    抽斗

    ひきだし

    戸棚の上には絹の古いハンカチーフがあって、その

    ほころ

    びを縫いかけの針が残っていた。ハンカチーフはほこりだらけになっていたが、それは恐らく先日ここで死んだという婆さんの物で、婆さんはここを自分の寝床にしていたのであろう。
     わたしは多大の好奇心をもって抽斗をいちいちあけてみると、そのなかには女の着物の切れっぱしと二通の手紙があって、手紙には色のさめた細い黄いろいリボンをまきつけて結んであった。わたしは勝手にその手紙を取りあげて自分の物にしたが、ほかには何も注意をひくような物は発見されなかった。
     かの光りは再び現われなかったが、二人が引っ返してここを出るときに、ちょうどわたしたちの前にあたって、床をぱたぱたと踏んでゆくような

    跫音

    あしおと

    がきこえた。私たちはそれから都合

    四間

    よま

    の部屋を通りぬけてみたが、かの跫音はいつも二人のさきに立って行く。しかもその形はなんにも見えないで、ただその跫音が聞こえるばかりであった。
     わたしはかの二通の手紙を手に持っていたが、あたかも階段を降りようとする時に、何ものかが私の

    ひじ

    をとらえたのを明らかに感じた。そうして、わたしの手から手紙を取ろうとするらしいのを軽く感じたが、私はしっかりとつかんで放さなかったので、それはそのままになってしまった。
     二人は私のために設けられている以前の寝室に戻ったが、ここで私は自分の犬が私たちのあとについて来なかったことに気がついた。犬は火のそばに

    り付いてふるえているのであった。
     私はすぐにかの手紙をよみ始めると、Fはわたしが命令した通りの武器を入れて来た小さい箱をあけて、

    短銃

    ピストル

    匕首

    あいくち

    を取り出して、わたしの寝台の頭のほうに近いテーブルの上に置いた。そうして、かの犬をいたわるように

    でていたが、犬は一向にその相手にならないようであった。
     手紙は短いもので、その日付けによると、あたかも三十五年前のものであった。それは明らかに情人がその情婦に送ったものか、あるいは夫が若い妻に宛てたものと見られた。文章の調子ばかりでなく、以前の旅行のことなどが書いてあるのを

    参酌

    さんしゃく

    してみると、この手紙の書き手は船乗りであって、その文字の綴り方や書き方をみると、彼はあまり教育のある人物とは思われなかったが、しかも言葉そのものには力がこもっていて、あらっぽい強烈な愛情が満ちていた。しかし、そのうちのそこここに何らかの暗い不可解の点があって、それは愛情の問題ではなく、ある犯罪の秘密を暗示しているように思われた。すなわち、その一節にこんなことが書いてあったのを、私は記憶していた。
    ――すべてのことが発覚して、すべての人がわれわれを

    ののし

    り憎んでも、たがいの心は変わらないはずだ――
    ――けっして他人をおまえと同じ部屋に寝かしてはならないぞ。夜なかにおまえがどんな寝言を言わないとも限らない――
    ――どんなことがあっても、われわれの破滅にはならない。死ぬ時が来れば格別、それまではなんにも恐れることはない――
     それらの文句の下に、それよりも上手な女文字で「その通りに」と書き入れてあった。そうして、最後の日付けの手紙の終わりには、やはり同じ女文字で「六月四日、海に死す。その同じ日に――」と書き入れてあった。わたしは二通の手紙を下に置いて、それらの内容について考え始めた。
     そういうことを考えるのは、神経を不安定にするものだとは思いながら、わたしは今夜これからいかなる不思議に出逢おうとも、それに対抗するだけの決心は十分に固めていた。
     わたしは

    ちあがって、かの手紙をテーブルの上に置いて、まだ

    さか

    んに輝いている火をかきおこして、それにむかってマコーレーの論文集をひらいて、十一時半頃まで読んだ。それから着物のままで寝台へのぼって、Fにも自分の部屋へさがってもよいと言い聞かせた。

    ただ

    し、今夜は起きていろ、そうして私の部屋との間のドアをあけておけと命じた。
     それから私は一人になって、寝台の枕もとのテーブルに二本の蝋燭をともした。二つの武器のそばに懐中時計を置いて、ふたたびマコーレーを読み始めると、わたしの前の火は明かるく燃えて、犬は

    の前の敷物の上に眠っているらしく寝ころんでいた。二十分ほど過ぎたころに、

    すき

    もる風が不意に吹き込んで来たように、ひどく冷たい空気がわたしの頬を撫でたので、もしやあがり場に通じている右手のドアがあいているのではないかと見返ると、ドアはちゃんとしまっていた。さらに左手をみかえると、蝋燭の火は風に吹かれたように揺れていた。それと同時に、テーブルの上にある時計がしずかに、眼にみえない手につかみ去られるように消え失せてしまった。
     わたしは片手に短銃、かた手に匕首を持って

    び起きた。時計とおなじように、この二つの武器をも奪われてはならないと思ったからである。こう用心して床の上を見まわしたが、どこにも時計は見えなかった。このとき枕もとでしずかに、しかも大きく叩く音が三つ聞こえた。
    「旦那。あなたですか」と、次の部屋でFが呼びかけた。
    「いや、おれではない。おまえも用心しろ」
     犬は今起きあがって、からだを立てて坐った。その耳を左右に早く動かしながら、不思議な眼をして私を見つめているのが、わたしの注意をひいた。犬はやがてしずかに身を起こしたが、なおまっすぐに立ったままで、

    総身

    そうみ

    の毛を

    逆立

    さかだ

    たせながら、やはりあらあらしい眼をして私をじっと見つめていた。しかも、私は犬のほうなどを詳しく検査している

    ひま

    はなかった。Fがたちまちに自分の部屋からころげ出して来たのである。
     人間の顔にあらわれた恐怖の色というものを、私はこのときに見た。もし往来で突然出逢ったならば、おそらく自分の雇い人とは認められないであろうと思われるほどに、Fの

    相好

    そうごう

    はまったく変わっていた。彼はわたしのそばを足早に通り過ぎながら、あるかないかの低い声で言った。
    「早くお逃げなさい、お逃げなさい。わたしのあとからついて来ます」
     彼はあがり場のドアを押しあけて、むやみに外へ駈け出すので、わたしは待て待てと呼び戻しながら続いて出ると、Fはわたしを見返りもせずに、階段を

    ね降りて、手摺りに取りついて、一度に幾足もばたばたさせながら、あわてて逃げ去った。わたしは立ちどまって耳を澄ましていると、表の入り口のドアがあいたかと思うと、またしまる音がきこえた。頼みのFは逃げてしまって、私はひとりでこの化け物屋敷に取り残されたのである。

     ここに踏みとどまろうか、Fのあとを追って出ようかと、わたしもちょっと考えたが、わたしの自尊心と好奇心とが卑怯に逃げるなと命じたので、わたしは再び自分の部屋へ引っ返して、寝台の方へ警戒しながら近づいた。なにぶんにも不意撃ちを食ったので、Fがいったい何を恐れたのか、私にはよく分からなかったのである。もしやそこに隠し戸でもあるかと思って、わたしは再び壁を調べてみたが、もちろんそんな形跡もないばかりか、にぶい褐色の紙には継ぎ目さえも見いだされなかった。してみると、Fをおびやかしたものは、それが何物であろうとも、わたしの寝室を通って進入したのであろうか。わたしは内部の部屋のドアに錠をおろして、何か来るかと待ち構えながら、爐の前に立っていた。
     このとき私は壁の隅に犬の

    のめ

    り込んでいるのを見た。犬は無理にそこから逃げ路を見つけようとするように、からだを壁に押しつけているので、わたしは近寄って呼んだ。
     哀れなる動物はひどい恐怖に襲われているらしく、歯をむき出して、

    あご

    からよだれを垂らして、わたしが

    迂濶

    うかつ

    にさわったらばすぐに

    みつきそうな様子で、主人のわたしをも知らないように見えた。動物園で

    大蛇

    だいじゃ

    に呑まれようとする兎のふるえてすくんだ様子を見たことのある人には、誰でも想像ができるに相違ない。わたしの犬の姿はあたかもそれと同様であった。いろいろに

    なだ

    めても

    すか

    しても無駄であるばかりか、恐水病にでも

    かか

    っているようなこの犬に咬みつかれて、なにかの毒にでも感じてはならないと思ったので、わたしはかれを打ち捨てて、爐のそばのテーブルの上に武器を置いて、椅子に腰をおろして再びマコーレーを読み始めた。
     やがて読んでいる書物のページと

    燈火

    あかり

    とのあいだへ何か邪魔にはいって来たものがあるらしく、紙の上が薄暗くなったので、わたしは仰いで見まわすと、それはなんとも説明し難いものであった。それは、はなはだ朦朧たる黒い影で、明らかに人間の形であるともいえないが、それに似た物を探せばやはり人間の形か影かというのほかはないのであった。それが周囲の空気や燈火から離れて立っているのを見ると、その面積はすこぶる大きいもので、頭は天井にとどいていた。それをじっと

    にら

    んでいると、わたしは身にしみるような寒さを感じたのである。その寒さというものがまた格別で、たとい氷山がわたしの前にあってもこうではあるまい。氷山の寒さのほうがもっと物理的であろうと思われた。しかも、それが恐怖のための寒さでないことは私にも分かっていた。
     わたしはその奇怪な物を睨みつづけていると、自分にも確かにはいえないが、二つの眼が高いところから私を見おろしているように思われた。ある一瞬間には、それがはっきりと見えるようで、次の瞬間にはまた消えてしまうのであるが、ともかくも青いような、青白いような二つの光りが暗い中からしばしばあらわれて、半信半疑のわたしを照らしていた。わたしは口をきこうと思っても、声が出ない。ただ、これが怖いか、いや怖くはないと考えるだけであった。つとめて

    ちあがろうとしても、支え難い力におしすくめられているようで起つことが出来ない。わたしは私の意思に反抗し、人間の力を圧倒するこの大いなる力を認めないわけにはいかなかった。物理的にいえば、海上で暴風雨に出逢ったとか、あるいは大火災に出逢ったとかいうたぐいである。精神的にいえば、何か怖ろしい野獣と闘っているか、あるいは大洋中で

    ふか

    に出逢ったとでもいうべきである。すなわち、わたしの意思に反抗する他の意思があって、その強い程度においては

    風雨

    あらし

    のごとく、火のごとく、その実力においてはかの鱶のごときものであった。
     こういう感想がだんだんにたかまると、なんともいえない恐怖が湧いて来た。それでも私は自尊心――勇気ではなくとも――をたもっていて、それは外部から自然に襲って来る怖ろしさであって、わたし自身が怖れているのではないと、心のうちで言っていた。わたしに直接危害を加えないものを恐れるはずはない。わたしの理性は妖怪などを承認しないのである。いま見るものは一種の幻影に過ぎないと思っていた。
     一生懸命の力を振るい起こして、わたしはついに自分の手を伸ばすことが出来た。そうして、テーブルの上の武器をとろうとする時、突然わたしの肩と腕に不思議の攻撃を受けて、わたしの手はぐたりとなってしまった。そればかりでなく、蝋燭の火が消えたというのでもないが、その光りは次第に衰えて来た。爐の火も同様で、焚き物のひかりは吸い取られるように薄れて来て、部屋の中はまったく暗くなった。この暗いなかで、かの「黒い物」に威力を

    ふる

    われてはたまらない。わたしの恐怖は絶頂に達して、もうこうなったら気を失うか、

    呶鳴

    どな

    るかのほかはなかった。わたしは呶鳴った。一種の悲鳴に近いものではあったが、ともかくも呶鳴った。
    「恐れはしないぞ。おれの魂は恐れないぞ」と、こんなことを呶鳴ったように記憶している。
     それと同時に私は

    ちあがった。真っ暗のなかを窓の方へ突進して、カーテンを引きめくって、

    鎧戸

    よろいど

    をはねあけた。まず第一に外部の光線を入れようと思ったのである。外には月が高く明かるく懸かっているのを見て、わたしは今までの恐怖を忘れたように嬉しく感じた。空には月がある。眠った街にはガス燈の光りがある。わたしは部屋の方を振り返ってみると、月の影はそこへもさし込んで、その光りははなはだ青白く、かつ一部分ではあったが、ともかくもそこらが明かるくなっていた。かの黒い物はなんであったか知らないが、形はもう消えてしまって、正面の壁にその幽霊かとも見えるような薄い影をとどめているのみであった。
     わたしは今、テーブルの上に眼を配ると、テーブル――それにはクロスもカヴァーもない、マホガニーの木で作られた円い古いテーブルであった――の下から一本の手が

    ひじ

    のあたりまでぬうと出て来た。その手は私たちの手のように血や肉の多くない、

    せた、

    しわ

    だらけの、小さい手で、おそらく老人、ことに女の手であるらしく思われたが、そろりそろりと伸びて来て、テーブルの上にある二通の手紙に近づいたかと見るうちに、その手も手紙も共に消えうせた。
     この時さっき聴いたと同じような、物を撃つ音が大きく三度ひびいた。その音がしずかにやむと、この一室が震動するように感じられて、床の上のそこからもここからも、光りの泡のような火花と火の玉があらわれた。それは緑や黄や、火のごとく

    あか

    いのや、空のごとく薄青いのや、いろいろの色をなしているのであった。椅子は誰が動かすともなしに壁ぎわを離れて、寝台の正面に直されたかと思うと、女の形がそこにあらわれた。それは死人のように物凄いものではあったが、生きている者の形であるらしく明らかに認められた。
     それは悲しみを含んだ若い美人の顔であった。身には雲のように白いローブ(長いゆるやかな着物)をまとって、

    のど

    から肩のあたりは

    露出

    あらわ

    になっていた。女は肩に垂れかかる長い黄いろい髪を

    きはじめたが、私のほうへは眼もくれずに、耳を傾けるような、注意するような、待つような態度で、ドアの方を見つめていると、うしろの壁に残っている「黒い物」の影はまた次第に濃くなって、その頭にある二つの眼のようなものが女の姿を窺っているらしくも思われた。
     ドアはしまっているのであるが、あたかもそこからはいって来たように、他の形があらわれた。それも女とおなじくはっきりしていて、同じく物凄く見えるような、若い男の顔であった。男は前世紀か、またはそれに似たような服を着ていたが、その

    ひだ

    の付いた襟や、レースや、帯どめの

    細工

    さいく

    をこらした旧式の美しい服装が、それを着ている死人のような男と不思議の対照をなして、いかにも奇怪に、むしろ怖ろしいようにも見られた。
     男の形が女に近づくと、壁の黒い影も動き出して来て、この三つがたちまちに暗いなかに包まれてしまったが、やがて青白い光りが再び照らされると、男と女の二つの幽霊は、かれらのあいだに突っ立っている大きい黒い影につかまれているように見えた。女の胸には血のあとがにじんでいた。男は剣を杖にして、これもその胸のあたりから血がしたたっていた。黒い影はかれらを

    んで、いずれも皆そのままに消えてしまうと、以前の火の玉がまたあらわれて、走ったり

    ころ

    がったりしているうちに、だんだんにそれが濃くなって、さらに激しく入り乱れて動いた。

           三

     

    の右手にある化粧室のドアがあいて、その口からさらに老婆の形があらわれた。老婆はその手に二通の手紙を持っていた。また、そのうしろに

    跫音

    あしおと

    が聞こえるようであった。老婆は耳を傾けるように振り返ったが、やがてかの手紙をひらいて読みはじめると、その肩越しに

    あお

    ざめた顔がみえた。それは水中に長く沈んでいた男の顔で、

    ふく

    れて、白ちゃけて、その濡れしおれた髪には

    海藻

    かいそう

    がからみついていた。そのほかにも、老婆の足もとには死骸のような物が一つ横たわっていて、その死骸のそばには、またひとりの子供がうずくまっていた。子供はみじめな

    きたな

    い姿で、その頬には

    饑餓

    きが

    の色がただよい、その眼には恐怖の色が浮かんでいた。
     老婆は手紙を読んでいるうちに、顔の皺が次第に消えて、若い女の顔になった。けわしい眼をした

    残忍

    ざんにん

    そう

    ではあるが、ともかくも若い顔になったのである。するとまたここへ、かの黒い影がおおって来て、前のごとくにかれらを暗いなかへ包み去った。
     今はかの黒い影のほかには、この室内になんにも怪しい物はないので、わたしは眼を据えて、じっとそれを見つめていると、その影の頭にある二つの眼は、毒どくしい

    蟒蛇

    うわばみ

    の眼のように大きく飛び出して来た。火の玉は不規則に混乱して、あるいは舞いあがり、あるいは舞いさがり、その光りは窓から流れ込む淡い月の光りにまじりながら狂い騒いでいた。
     そのうちに

    鶏卵

    たまご

    から

    から出るように、火の玉の一つ一つから驚くべき物が爆発して、空中に充満した。それは血のない醜悪な幼虫のたぐいで、わたしには

    到底

    とうてい

    なんとも説明のしようがない。一滴の水を顕微鏡でのぞくと、無数の透明な、柔軟な、敏捷な物がたがいに追いまわし、たがいに喰い合っているのが見える。今ここにあらわれた物もまずそんな種類で、肉眼ではほとんど見分け難いものであると思ってもらいたい。その形になんの

    均一

    きんいつ

    があるわけでもなく、その行動になんの規律があるわけでもなく、居どころも定めずに飛びまわって、私のまわりをくるくると舞いはじめた。
     その集団はだんだんに濃密になって、その廻転はだんだんに急激になって、わたしの頭の上にもむらがって来た。何かの用心に突き出している私の右手の上にも這いあがって来た。時どきに何かさわるように感じたが、それはかれらの

    仕業

    しわざ

    でなく、眼にみえない手が私にさわるのであった。またある時には、冷たい柔らかい手がわたしの

    のど

    をなでるように感じたこともあった。
     ここで恐れをいだいて降参すると、わたしのからだに危険があると思ったので、私はかれらに対抗するという一点にわたしの心力を集中して、かの

    蟒蛇

    うわばみ

    のような眼――それはだんだんにはっきりと見えて来た――から私の眼をそむけた。わたしの周囲にはもう何物もいないのであるが、ここになお一つの「意志」がある。それは力強く、創造的で、かつ活動力に富むところの「悪」の意志であって、その力はよく私を

    圧伏

    あっぷく

    し得るのであった。
     部屋のなかの青白い空気は、今や近火でもあるように

    あか

    くなって、かの幼虫の群れは火のなかに

    む物のようにきらきらと光って来た。月のひかりはふるえて動いた。物を撃つような音がまたもや三度きこえたかと思うと、すべての物がかの黒い影に呑まれて、さらにまた大いなる

    暗黒

    くらやみ

    のうちに隠れてしまったが、やがてその暗黒が

    退

    くと共に、黒い影もまったく消え失せて、今まで光りを奪われていたテーブルの上の蝋燭の火は再びしずかに明かるくなった。爐の火も再び燃えはじめた。この室内は再びもとの平穏の姿に立ちかえった。
     二つのドアはなおしまったままで、Fの部屋へ通ずるドアにも錠をおろしてあった。壁の隅には、かの犬が追い込まれて、

    痙攣

    けいれん

    したように横たわっているので、わたしは試みに呼んでみたが、犬はなんの答えもなかった。さらに近寄ってよく観ると、眼の

    たま

    は飛び出して、口からは舌を吐いて、

    あご

    からは泡をふいて、犬はもう死んでいるのであった。
     わたしはかれを抱きあげて火のそばへ連れて来たが、哀れなる愛犬の死について、強い悲哀と強い自責とを感ぜずにはいられなかった。私がかれを死地へ連れ込んだのである。最初は恐怖のために死んだのであろうと想像していたが、その

    くび

    の骨が実際に

    くだ

    かれているのを発見して、わたしはまた驚いた。それが暗中になされたとすれば、それは私のような人間の手によってなされなければなるまい。して見ると、最初から終わりまでこの室内に人間が働いていたのであろうか。それについて何か疑わしい形跡があるであろうか。私はこの以上に何事をも詳しく語ることが出来ないのであるから、よろしく読者の推断に任せるのほかはない。
     もう一つ驚くべきは、さっき不思議に紛失した私の懐中時計がテーブルの上に戻っていた。

    ただ

    し、あたかもそれが紛失した時刻のところで、時計の針は止まっているのである。その後、上手な時計屋へ持って行って幾度も修繕してもらったが、いつも数時間の後には針の廻転が妙に不規則になって、結局は止まってしまうことになるので、その時計はとうとう廃物になった。
     その後はもう変わったことはなかった。わたしは夜のあけるまで待っていたが、何事もなかった。日が出て、世間が昼になって、わたしがこの家を立ち去るまで、もう何事もなかったのである。
     いよいよここを立ち去る前に、わたしとFとが監禁された部屋、窓のない部屋へ再びはいってみた。奇異なる事件の機械的作用――もしこんな言葉があるならば――を作り出したこの部屋へ今や白昼に踏み込んで、ゆうべの怖ろしさを再び思い出すと、わたしは一刻もここに立っているに

    えられないので、早そうに階段を降りかかると、またもやわたしのさきに立ってゆく

    跫音

    あしおと

    がきこえた。そうして、表の入り口のドアをあけた時に、うしろでかすかな笑い声がきこえたようにも思われた。
     わたしは自分の家へ帰った。ゆうべ逃亡した雇い人は定めて顔を見せるだろうと思いのほか、Fはどこへ行ってしまったか、一向にその消息が分からないのであった。三日の後にリヴァプールからの手紙が来た。
    先夜はご覧の通りの始末で、なんとも申しわけがございません。わたくしが本当に回復するにはこれから一年以上もかかるだろうと存じますから、もちろん今後のご奉公は出来ません。わたくしはこれからメルボルンにいる義兄弟のところへ尋ねて行くつもりで、その船は明日出帆いたします。長い航海をつづけているうちには、わたくしも気がしっかりして来るであろうと存じます。なにしろ

    唯今

    ただいま

    のところでは恐怖と戦慄があるばかりで、怖ろしい物が常に自分のうしろに付きまとっているように思われてなりません。それからはなはだ恐れ入りますが、わたくしの衣類や荷物のたぐいは、ウォルウォースにいるわたくしの母のところへお届けを願います。母の住所はジョンが知っております。――
     手紙の終わりには、なおいろいろの弁解が付け加えてあって、やや

    辻褄

    つじつま

    の合わない点もあるが、筆者はすこぶる注意して書いたらしく、くどくどと

    なら

    べ立ててあった。本人はかねて

    濠州

    ごうしゅう

    へ行きたい希望があったので、それをゆうべの事件に結び付けて、こんな

    こしら

    え事をしたのではないかとも疑われるが、私はそれについてなんにも言わない。むしろ世間には信ずべからざることを信ずる人がたくさんあって、彼もその一人であろうと思った。いずれにしても、この事件に対するわたしの信念と推理は動かないのである。
     夕方になって、わたしは貸馬車を雇って再びかの化け物屋敷へ行った。そこへ置いて来たわたしの物と、死んだ犬の

    亡骸

    なきがら

    とを引き取るためであったが、今度は別になんの邪魔もなかった。ただその階段を昇り降りするときに、例の跫音を聞いたほかには、わたしの注意にあたいするような出来事もなかった。
     そこを出て、さらに家主のJ氏をたずねると、彼はあたかも在宅であった。わたしは鍵を返した上で、わたしの好奇心は十分に満足したことを話した。そうして、ゆうべの出来事を口早に話しかけると、J氏はそれをさえぎって、しょせん誰にも解決のつかないような怪談について、自分は

    最早

    もはや

    興味を持たないと丁寧にことわった。しかし、かの二通の手紙の事と、またそれが不思議に消え失せたことだけは報告しておかなければならないと思ったので、わたしはJ氏にむかって、かの手紙は、かの家で死んだ老婆に宛てたものであると考えられるが、かの老婆が過去の経歴のうちには手紙にあらわれているような暗い秘密をかくしていると思われる節があるかと質問すると、J氏は驚いたように見えた。彼はしばらく考えたのちに、こう答えた。
    「さきにお話し申した通り、あの婆さんがわたしのほうの知り合いであるという以外、その若いときの経歴などについては、あまりよく知らないのです。しかしあなたのお話を伺って、おぼろげな追憶を呼び起こすようにもなりましたから、わたしは更に聞き合わせて、その結果をご報告しましょう。それにしても、ここに一人の犯罪者または犯罪の犠牲者があって、その霊魂が犯罪の行なわれた場所へ再び立ち戻って来るという、世間一般の迷信を承認するとしても、あの婆さんの死ぬ前からあの家に不思議の物が見えたり、不思議な音が聞こえたりしたのはどういうわけでしょうか。……あなたは笑っていられるが、それにはどういうご意見がありますか」
    「もし、われわれがこの秘密の底深くまで進んで行ったら、生きている人間の働いていることを発見するだろうと思われます」
    「え、なんとおっしゃる。では、あなたはすべてのことが

    詐欺

    いかさま

    だと言われるのですか。どうしてそんなことが分かりました」
    「いや、詐欺というのとは違います。たとえば、わたしが突然に深い睡眠状態におちいって――それはあなたが揺り起こすことの出来ないような深い睡眠状態におちいったとして、その時わたしは眼ざめた後に訴えることの出来ないほど正確に、あなたの問いに答えることが出来ます。すなわちあなたのポケットにはいくらの金を持っているとか、あなたは何を考えているとか……そういうたぐいのことは詐欺というべきではなく、むしろ無理にしいられた一種の超自然的の作用ともいうべきものです。わたしは自分の知らないあいだに、遠方からある人間に催眠術をほどこされて、その交感関係に支配されていたのだと思うのです」
    「かりに催眠術師が生きた人間に対してそういう

    感応

    かんのう

    をあたえ得るとしても、生きていないもの……すなわち椅子やドアのような物に対して、それを動かしたり、あけたりしめたりすることが出来るでしょうか」
    「実際はそうでなくして、そういうふうに思わせるのかもしれません。普通に催眠術と称せられるものでは、もちろん、そんなことは出来ませんが、催眠術師のうちにも、一種の血統があるか、あるいはその術の特に優れた者か、それらのうちには昔でいう魔術に似たような不思議の力を持っている者がないとは限りません。その力が果たして

    しょう

    なき物にまで働き得るかどうかは知りませんが、もしそんなことがあったとしても、あえて不自然とは言われまいかと思われます。もちろん、それはこの世の中にはなはだ少ないことで、その人は特殊の体質を持って生まれ、特殊の実験を積んで、その術の最高極度に到達したものと見なければなりません。その力が死んだ者の上に……詳しくいえば、死んだ者にもまだ残っているある思想とか、ある記憶とかいうものの上に働くのです。そうして、正しくは霊魂というべきものではなく、最も地上に近い一種の霊気がわれわれの感覚にあらわれて来るようになるのです。しかし私はそれをもって、真の超自然的の力とは認めません。それを説明するために、パラセルサス(スイスの医師、博物学者、十六世紀初年の人)の著作『文学上の奇観』の一節を申し上げましょう。
     ここに一つの花があって、人がそれを焼けば枯れて焼けうせる。その花の元素が何であろうとも、どこかへ消散してしまって、それを見受けることも出来ず、ふたたび集めることも出来ない。しかし化学的に研究すれば、その花の焼けた灰や

    ごみ

    の中からは、生きているときと同様のスペクトル(分光)を発見することが出来るのである。人間も同じことで、霊魂は花の本体または元素のごとくに離れ去っても、それにスペクトルが残っている。普通の人はそれを霊魂と信じているけれども、それをまことの霊魂と混同してはならない。それは死人の幻影ともいうべきものである。それであるから、古来の怪談に伝えられるところのものには、まことの霊魂が宿っているのではなく、よく分離したる知識のみだと思えばよい。これらの幽霊ともいうべきものは、多少の目的があって出現することもあり、またはなんの目的もなくして現われることもある。かれらは稀に口をきくこともあるが、別になんの思想を発表するわけでもない。したがって、たといその幻影がいかに驚くべきものであっても、哲学の本分としては、超自然的の不思議な物でもないとして拒否すべきである。かれらは人間の死にぎわにその頭脳から他へ運ばれたところの思想に過ぎない。
     ――まずこんな議論であろうとして、ゆうべの出来事を考えると、テーブルが自然にあるき出したのも、怪物のような形が壁に映ったのも、人間の手ばかりが出て来て、そこにある物を持ち去ったのも、または黒い物があらわれたのも、たといそれがわれわれの血を凍らせるほどの怖ろしい出来事であったとしても、そこにはある種の仲介者があって、あたかも電気の線のごとくに、他の頭脳からわたしの頭脳へ流通させたものであると信じられるのです。
     人間は体質によって自然に化学的に出来ている者がある、そうした人間は化学的の驚異を現ずることが出来ます。また、液体的(普通に電気という)の人間は発電の不思議を見せることも出来るのです。
     そこで、ゆうべ私が見たり聞いたりしたすべてのことは、人間……私とおなじように生きている人間が、遠方から何かの仕事をしているのであって、本人自身も知らないほどにいい効果を生じたのであろうと思われます。要するに、その人間がある死人の頭脳を利用しているのであって、頭脳それ自身は単に夢を見ているに過ぎないのです。しかしその力は非常に強大なもので、その物質的の力はわたしの犬を殺したほどです。わたしも恐怖のために屈伏したらば、犬とおなじように殺されたでしょう」
    「あなたの犬を殺しましたか。それは怖ろしいことです」と、J氏は言った。「なるほどそう言えばあの家に動物は棲んでいません。猫一匹も見えません。鼠も見たことはありません」
    「強烈なる獣性の創造力がそれらの動物を殺すほどの影響をあたえるのですが、人間は他の動物よりも更に強い抵抗力を持っているのです。まずそれはそれとして、あなたは私の理論をご

    諒解

    りょうかい

    になりましたか」
    「まず大抵は……。失礼ながらお蔭さまで、多少の手がかりを得ました。われわれが子供部屋にいるときから沁みこんでいる幽霊や化け物に対する概念を、ただそのままに受け入れるよりも、むしろあなたのお説に従うべきでしょう。しかし議論は議論として、わたしの貸家に悪いことのあるのはどうにもなりません。そこで

    一体

    いったい

    あの家をどうしたらいいでしょうか」
    「こうしたらどうです。わたしの泊まった寝室のドアと直角になっている、家具のない小さい部屋が怪しいように思われます。あの部屋があの家に

    たた

    りをなす一種の感動力の出発点か、または置き所だと認められますから、私はぜひあなたにお勧め申して、あすこの壁を取りのけ、あすこの床をはずしたいのです。そうでなければ、あの部屋をみな取り

    こわ

    してしまうのです。あの部屋は建物の総体から離れて、小さい裏庭の上に作られているのですから、あれを動かしたところで、建物の他の部分にはなんにも

    差支

    さしつか

    えはありますまい」
    「そこで、わたしがその通りにしましたらば……」
    「まず電信線を切りはずすのです。それをやってご覧なさい。もしその作業の指揮をわたしに任せて下さるなら、わたしがその工事費の半額を支払います」
    「いや、それは私がみな負担します。その余のことは、書面で申し上げましょう」

           四

     それから十日ほどの後に、わたしはJ氏からの手紙をうけとった。
     その報告によると、彼はわたしが帰ったあとで、かの家へ見廻りに行った。そうして、かの二通の手紙が再びもとの

    抽斗

    ひきだし

    に戻っているのを発見したので、彼もわたしと同じような疑いをもって読んだ。それからまた、わたしが推測した通りに、かの手紙の受け取り人であるらしい老婆の身の上を念入りに調べはじめると、手紙の日付けの一年前、すなわち今から三十六年前に彼女は親族の意志にさからって結婚した。男はアメリカ生まれのすこぶる怪しい人物で、世間からは海賊であると認められていた。彼女は信用の厚い商人の娘で、結婚するまでは乳母に育てられていたほどの身分であった。また、彼女には男やもめの兄があって、それはおそらく金持であったらしく、その当時六歳ぐらいの子供を持っていたのである。彼女が結婚してから一カ月の後、その兄の死骸がテームス河のロンドン橋に近いところで発見されて、死骸の咽喉部には暴力を加えたらしい形跡が見えたが、特に検視を求めるというほどの有力の証拠にもならず、結局は溺死ということで終わった。
     アメリカ人とその妻は死んだ兄の遺言状によって、その一人の孤児の後見人となった。そうして、その子供が死んだために、妻がその財産を相続した。

    ただ

    し、その子供はわずかに六カ月の

    のち

    に死んだので、おそらく後見人夫婦のために冷遇と虐待を受けたせいであろうと想像された。近所の者は夜なかに子供の泣き叫ぶ声を聞いたことがあると証明した。またその死体を検査した医師は、営養欠乏のために死亡したのだといい、しかもその全身にはなまなましい

    紫斑

    しはん

    あと

    が残っていたと言った。なんでもある冬の夜に、子供はそこを逃げ去ろうとして、裏庭まで

    い出して、塀を登ろうとして、疲れて倒れて、あくる朝になって石の上に死んでいるのを発見されたものであるらしい。しかし、そこに虐待の証拠はいくらか認められても、その子供を殺したという証拠はなんにも認められないのである。
     彼の叔母とその夫はその残酷の行為に対して、子供が非常に強情であるのを矯正するがためであったと弁解した。そうして、彼は半気ちがいのような片意地者であったと説明した。いずれにしても、この孤児の死によって、叔母は自分の兄の財産を相続したのであった。
     結婚の第一年が過ぎないうちに、かのアメリカ人はにわかに英国を立ち去って、それぎり再び帰って来なかった。彼はそれから二年の後、大西洋で難破した船に乗り合わせていたのである。
     こうして未亡人とはなったが、彼女は豊かに暮らしていた。しかもいろいろの災厄が彼女の上に落ちかかって来て、預金の銀行は倒れる、投資の事業は失敗するという始末で、とうとう無産者となってしまった。それからいろいろの勤めに出たが、まただんだんに零落して、貸家の監督から更に下女奉公にまで出るようになった。彼女の性質を別に悪いという者もないのであるが、どこへ行ってもその奉公が長くつづかなかった。彼女は沈着で、正直で、ことにその行儀がいいのを認められていながら、どうも彼女を推薦する者がなかった。そうして、ついに養育院に落ち込んだのを、J氏が引き取って来て貸家の番人に雇い入れたのである。その貸家は彼女が結婚生活の第一年に、一家の主婦として借り受けた家であった。
     J氏はそのあとへ、こういうことを付け加えて来た。
     わたしが打ち毀せと勧めたかの部屋に、J氏はただひとりで一時間を過ごしたが、別になんにも見えるでもなく、聞こえるでもないにもかかわらず、彼は非常の恐怖を感じたので、断然わたしの注意にしたがって、その壁をめくり、床を

    がすことに決心して、すでにその職人とも約束しておいたから、わたしの指定の日から工事に着手するというのであった。

     そこで時間をとりきめて、わたしはかの化け物屋敷へ行った。私たちは窓のないがらんどうの部屋へはいって、建物の

    幅木

    はばき

    を取りのけ、それから

    床板

    ゆかいた

    をめくると、

    垂木

    たるき

    の下に屑をもっておおわれた

    ね上げの戸が発見された。そのかくし

    ベル

    は人間が楽にはいられるくらいの大きさで、鉄の

    締金

    しめがね

    びょう

    とで厳重に釘付けにされていた。それらをはずして、下の部屋へ降りてみると、その構造には別に怪しいところもなく、そこには窓も

    烟出

    けむだ

    しもあったが、それらは煉瓦で塗り固められて、すでに多年を経たものであることが明らかに見られた。
     蝋燭の火をたよりにそこらを検査すると、おなじ型の家具――三脚の椅子、一脚の

    かしわ

    の木の長椅子、一脚のテーブル、それらはほとんど八十年前の形式の物であった。壁にむかって

    抽斗

    ひきだし

    つきの箱があって、その箱から八十年前または百年前に、相当の地位を占めていた紳士が着用したのであろうと思われる、男の衣服の附属品の半ば腐朽しているのを発見した。
     高価な鋼鉄のボタンや帯留めや、それらは宮中服の附属品であるらしく、ほかに立派な宮中用らしい帯剣とチョッキ、そのチョッキは金の編み絲で華麗に飾られていたらしいが、今はもう黒くなって

    湿

    しめ

    っていた。それから五ギニアの金と少しばかりの銀貨と、象牙の入場券――これはおそらく遠い昔の宴会か何かのときの物であろう――などが現われたが、私たちの主要なる発見は壁に取り付けてある鉄の金庫のようなもので、その錠をあけるのはなかなか困難であった。
     この金庫には三つの棚と二つの抽斗があって、棚の上には密封したガラス罎がたくさんにならんでいた。その罎には無色の揮発性の物を貯わえてあって、それはなんだかわからない。そのうちに燐とアンモニアの幾分を含んでいるが、別に有毒性の物ではなかったと言い得るだけのことである。そこにはまた、すこぶる珍らしいガラスの

    くだ

    と、結晶石の大きい

    凝塊

    かたまり

    と、小さい点のある鉄の綱と、

    琥珀

    こはく

    と、非常に有力な天然磁石とが発見された。
     一つの抽斗からは、金ぶちの肖像画があらわれた。密画に描いたもので、おそらく多年ここにあったと思われるにもかかわらず、その色彩は眼に立つほどの新しさを保っていた。肖像はやや中年にすすんだ、四十七、八歳ぐらいの男であった。
     その男は特徴のある顔――はなはだ強い印象をあたえる顔で、それをくどくどと説明するよりも、ある大きい

    蟒蛇

    うわばみ

    が人間に化けた時、すなわちその外形は人間にして蟒蛇のタイプであるといったらば、諸君にも大かた想像がつくであろう。前頭の広さと平ったさ、怖ろしい口の力をかくしているような細さと優しさ、

    翠玉

    エメラルド

    のごとくに青く輝いている長く大きい物凄い眼――更にまた、自己の大なる力を信ずるような、一種の無慈悲な落ちつきかた――。
     わたしはその裏をあらためてみようと思って、機械的にその肖像画を裏がえすと、そこにはペンタクル(五芒星形)が彫刻してあった。ペンタクルの中央には

    階子

    はしご

    の形があって、その三段目には一七六五年と記されていた。さらに精密に検査しているうちに、わたしは

    弾機

    ばね

    を発見した。その弾機を押すと、

    がく

    のうしろは

    ふた

    のように開いた。その蓋の裏には「マリアナが

    なんじ

    に命ず。生くる時も死せる時も――に忠実なれ」と彫刻してあった。
     誰に忠実なれというのか、その人の名はここにしるさないが、それは私にも心当たりがないではなかった。わたしは子供のときに老人から聞かされたことがある。かれは人の眼をくらます

    にせ

    学者で、自分の家のなかで自分の妻とその恋がたきとを殺して逃走したために、約一年間もロンドン市中を騒がしたのであった。しかし、わたしはそれをJ氏に語るのを

    いと

    うて、そのまま額の裏をとじてしまった。
     金庫のうちの第一の抽斗をあけるのは、別にむずかしくもなかったが、第二の抽斗をあけるには非常に困った。錠をおろしてあるのではないが、どうしてもあかないので、結局その

    隙間

    すきま

    のみ

    の刃を

    し込んで、ようようにこじあけると、抽斗のなかには、はなはだ簡単な化学機械が順序正しくならんでいた。
     小さな薄い書物――むしろ

    書板

    タブレット

    というべき物の上に、ガラスの皿を置いてあって、その皿には清らかな液体がみたされていた。液体の上には磁石のような物が浮かんでいて、その磁石の針は急速に廻転するのであった。しかし普通の磁石が示す方向とはちがって、天文学者が惑星を指示するものとあまり異っていない七つの奇妙な文字がしるされていた。抽斗は木でしきられていて、それが

    はん

    の木のたぐいであることを後に知ったが、その抽斗の中から一種特別な、しかも強烈でもなく、また不愉快でもないような匂いが発して来た。
     その匂いの原因はなんであるか知らないが、とにかくにそれが人間の神経に感じるもので、J氏と私ばかりでなく、この部屋に居あわせた二人の職人も、指のさきから髪の毛の根までがうずくように感じたのであった。
     タブレットの詮議を急ぐので、わたしはその皿を取りのけると、磁石の針は非常の急速力をもって廻転をはじめて、私は思わずその皿を床の上に取り落としてしまうほどに、全身に一種の

    衝動

    ショック

    を感じた。皿が

    こわ

    れると、液体も流れ出して、磁石は部屋の隅にころがった。――と思うと、その瞬間に、あたかも巨人の手をもって揺すぶるように、四方の壁があちらこちらへと揺れ出した。
     職人たちはおどろいて、初めにこの部屋へ降りて来たところの

    階子

    はしご

    へ逃げあがったが、それぎりで何事も起こらないのを見て、安心して再び降りて来た。
     やがて私がタブレットをひらくと、それは銀の止め金の付いた普通の赤いなめし皮に巻かれていて、そのなかにはただ一枚の厚い皮紙を入れてあった。皮には二重のペンタクルが書いてあって、そのなかに昔の僧侶が書いたらしい語がしるしてあった。それを翻訳すると、こうである。
    ――この壁に近づく者は、有情と非情と、生けると死せるとを問わず、この針の動くが如くにわが意思は働く。この家に呪いあれ。ここに住む者は不安なれ――
     そのほかにはなんにもなかった。J氏はそのタブレットと呪文を焼き捨て、さらにその秘密の部屋とその上の寝室とをあわせて、土台下からすべて切り取ってしまった。そこでJ氏も勇気が出て、彼自身がこの家に一カ月ほども平気で住んだ。
     そうなると、こんな閑静な、居ごこちのいい

    いえ

    はロンドンじゅうにもめったにないというので、彼は相当に儲けて貸すことになったが、借家人はけっして苦情を言わなかった。


    底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年9月4日初版発行
       2002(平成14)年6月20日新装版初版発行

    スペードの女王 プーシキン Alexander S Pushkin

    世界怪談名作集

    スペードの女王

    プーシキン Alexander S Pushkin

    岡本綺堂訳



           一

     近衛騎兵のナルモヴの部屋で

    骨牌

    かるた

    の会があった。長い冬の夜はいつか過ぎて、一同が

    夜食

    ツッペ

    の食卓に着いた時はもう朝の五時であった。勝負に勝った組はうまそうに食べ、負けた連中は気がなさそうに喰い荒らされた皿を見つめていた。しかし、シャンパン酒が出ると、とにかくだんだんに活気づいて来て、勝った者も負けた者もみんなしゃべり出した。
    「で、君はどうだったのだい、スーリン」と、主人公のナルモヴが

    いた。
    「やあ、相変わらず取られたのさ。僕はどうも運が悪いと

    あきら

    めているよ。なにしろやっていることがミランドール(一種の骨牌戯)だし、いつも冷静にしているから、手違いのしようがないのだが、それでいて、しじゅう負けているのだからね」
    「だって君は、一度も赤札に賭けようとしなかったじゃないか。僕は君の強情にはおどろいてしまったよ」
    「しかし君はヘルマンをどう思う」と、客の一人が若い工兵士官を指さしながら言った。「この先生は生まれてから、かつて一枚の骨牌札も手にしたこともなければ、一度も賭けをしたこともないのに、朝の五時までこうしてここに腰をかけて、われわれの勝負を眺めているのだからな」
    「人の勝負を見ているのが僕には大いに愉快なのだ」と、ヘルマンは言った。「だが、僕は自分の生活に不必要な金を犠牲にすることが出来るような身分ではないからな」
    「ヘルマンはドイツ人である。それだから彼は経済家である。……それでちゃんと分かっているじゃあないか」と、トムスキイが批評をくだした。「しかし、ここに僕の不可解な人物が一人ある。僕の祖母アンナ・フェドトヴナ伯爵夫人だがね」
    「どうしてだ」と、他の客たちがたずねた。
    「どうして僕の祖母がプント(賭け骨牌の一種)をしないかが僕には分からないのだ」と、トムスキイは言いつづけた。
    「どうしてといって……。八十にもなったお婆さんがプントをしないのを、何も不思議がることはないじゃないか」と、ナルモヴが言った。
    「君はなぜ不可解だか、その理由を知るまい」
    「むろん、知らないね」
    「よし。では聴きたまえ。今から五十年ほど前に、僕の祖母はパリへ行ったことがあるのだ。ところが、祖母は非常に評判となって、パリの人間はあの『ムスコビートのヴィーナス』のような祖母の流し眼の光栄に浴しようというので、争って、そのあとをつけ廻したそうだ。祖母の話によると、なんでもリチェリューとかいう男が祖母を口説きにかかったが、祖母に手きびしく撥ねつけられたので、彼はそれを悲観して、ピストルで頭を撃ち抜いて自殺してしまったそうだ。
     そのころの貴婦人間にはファロー(賭け骨牌)をして遊ぶのが

    流行

    はや

    っていた。ところが、宮廷に骨牌会があった時、祖母はオルレアン公のためにさんざん負かされて、莫大の金を取られてしまった。そこで、祖母は家へ帰ると、顔の

    美人粧

    パッチ

    と袴の

    箍骨

    フーブス

    を取りながら、祖父にその金額をうちあけて、オルレアン公に支払うように命じたのだというのだが、死んだ僕の祖父というのは、僕も知っていたが、まるで祖母の家令のようで、火のごとくに彼女を恐れていたのだ。その祖父が、祖母から負けた賭け金を聞いたときには、ほとんど気が遠くなったというのだろう、なんでもよほどの金高らしかったのだね。で、さすがの祖父も、半年のあいだに祖母が賭けでつかった金が五十万フランにも達していることをかぞえ立てて、自分のモスクワやサラトヴの領地がパリにあるわけではないから、とてもそんな巨額の負債は払えないと断然拒絶したのだ。すると、僕の祖母は祖父の耳のあたりを平手で一つ喰らわせた上に、自分が怒っているということを示すために、黙って

    ひと

    りで寝てしまった。
     さて、そのあくる日になって、祖母はゆうべの夫への懲らしめがうまく

    いてくれればいいがと心に祈りながら、祖父を呼び寄せて口説いたが、祖父はやはり頑として

    かなかった。祖母は自分には負債に負債があること、しかし貴族と

    馭者

    ぎょしゃ

    とは違うのであるから、負債はどこまでも支払わなければならないことを言い聞かせれば、おそらく説得できるものと思ったので、結婚以来初めて祖父に

    言訳

    いいわけ

    をしたり、説明を試みたりしたのだが、結局それは無効に終わって、祖父は依然として聞き

    れなかった。そこでこの問題は夫婦間だけでは解決がつかなくなって来て、祖母はどうしていいか、

    途方

    とほう

    に暮れてしまったのだ。
     これより前に、祖母は一人の非常に有名な男と知り合いになっていた。諸君はすでに、幾多の奇怪なる物語を伝えられる、サン・ジェルマン伯のことを聞いて知っているだろう。彼はみずから

    宿

    やど

    なしのユダヤ人といい、または不老長生薬の発見者といい、その他いろいろのことを言い触らしていたので、ある者は彼を

    詐欺師

    いかさまし

    として軽蔑していたが、カサノヴァの記録によると、かれは

    間諜

    スパイ

    であったそうだ。いや、そんなことはどうであろうと、彼は非常なる魅力の所有者であるとともに、社交界にはなくてはならぬ人物であった。現に

    今日

    こんにち

    でも、彼のことといえば僕の祖母は大いに同情して、もし誰かがその悪口でも言おうならば烈火のごとくに怒り出すのだ。
     祖母は右のサン・ジェルマン伯が巨額の金でも自由になることを知っていたので、まず彼にすがりつこうと決心して、自分の家へ来てくれるように手紙を出すと、この奇怪なる老人はすぐにたずねて来て、憂いに沈んでいる祖母に対面したのだ。
     そこで、祖母は自分の夫の残酷無情を大いに憤激しながら彼に訴えて、ただ一つの道はあなたの

    友誼

    ゆうぎ

    と同情に頼むのほかはないという結論に到達すると、サン・ジェルマン伯は〈よろしい。あなたがご入用の金額をお立て替え申しましょう。しかし、それを私にご返却なさらない間は、あなたもご安心が出来ますまいし、私としてもあなたに新しいご心配をかけるのは好ましくありません。ところで、ここに一つ、私がその金額のお立て替えをせずに、あなたのご心配を取り除く方法があります。それはあなたがもう一度賭けをなすって、ご入用だけの金額をお勝ちになることです〉と言ったそうだ。〈でも伯爵さま。実は、私にはもうすこしの持ち合わせもないのです〉と祖母が答えると、〈いや、金などはちっとも

    らないのです〉と、今度はサン・ジェルマン伯がそれを打ち消して答えた。〈まあ、私の言うことをお聞きなさい〉と、それから彼は、われわれがおたがいによくやるような一つの秘策を祖母に授けたのだ」
     若い将校連はだんだんに興味を感じて来て、熱心に耳を傾けていた。トムスキイはパイプをくわえると、うまそうに一服吸ってから、またそのさきを語りつづけた。
    「その晩、祖母は女王の遊び(骨牌戯の一種)をするためにヴェルサイユの宮殿へ行った。オルレアン公が

    親元

    おやもと

    をしていたので、祖母はいかにも

    もっと

    もらしく、まだ負債を返済していないことを手軽に言訳してから、公爵と勝負をはじめた。祖母は三枚の骨牌札を選んで順じゅんにそれを賭けて行って、とうとうソニカ(一番手っ取り早く勝負のきまる骨牌戯)で三枚とも勝ったので、祖母は前に負けただけの金額を全部回収してしまったのだ」
    「実に

    僥倖

    しあわせ

    だな」と、一人の客が言った。
    「作り話さ」と、ヘルマンが批評をくだした。
    「たぶん骨牌に

    しるし

    でも付けておいたのではないか」と、三番目に誰かが言った。
     トムスキイは

    断乎

    だんこ

    たる口ぶりで答えた。
    「僕はそうは考えないね」
    「なんだ」と、ナルモヴが言った。「君は三枚ともまぐれ当たりに勝つ方法を知っているおばあさんが生きているのに、彼女からその秘密を引き出し得なかったのか」
    「むろん、僕もいろいろに抜け目なくやっては見たのだがね」と、トムスキイは答えた。「なにしろ、祖母には四人の息子があって、そのうちの一人が僕の父だが、四人とも骨牌では

    玄人

    くろうと

    の方であったし、その秘密を明かしてくれれば叔父や父ばかりでなく、僕にだってまんざら悪いことではないのだが、祖母はどうしてもその秘密を明かそうとはしなかったのだ。だが、この話は叔父も彼の名誉にかけて、実際の話だと断言していたよ。それに、死んだシャプリッツキイね――数百万の資産を

    蕩尽

    とうじん

    して、

    尾羽

    おは

    打ち枯らして死んだ――あの先生が、かつて若いときに三十万ルーブルばかり負けたことがあったのだ。よくは覚えていないが、たぶん相手はゾリッヒであったと思うがね。そこで先生、すっかり悲観してしまっていたところを、いつも若い者のでたらめな生活に対しては厳格であった僕の祖母がひどく同情して、生涯に二度と骨牌をしないという誓言をさせた上で、三枚の切り札の秘密を彼に授けて、順じゅんに賭けるように教えたのだ。そこで、シャプリッツキイは前に負けた敵のところへ出かけて行って、

    新手

    あらて

    の賭けをやった。初めの札で彼は五万ルーブルを賭けて、ソニカで勝ってしまったが、その次の札で彼は十万ルーブルを賭けるとまた勝った。こうして最後まで同じ手を打って、とうとう彼が前に負けた金額よりも遙かに多く勝ってしまったのだ……」
    「もうそろそろ寝ようではないか。六時十五分過ぎだぜ」
     実際すでに夜が明け始めていたので、若い連中はぐっとコップの酒を飲みほして、思い思いに帰って行った。

           二

     三人の侍女はA老伯爵夫人を彼女の衣裳部屋の姿見の前に坐らせてから、そのまわりに附き添っていた。第一の侍女は小さな

    臙脂

    べに

    の器物を、第二の侍女は

    髪針

    ヘヤピン

    の小箱を、第三の侍女は光った赤いリボンのついた高い帽子をささげていた。その伯爵夫人は美というものに対して、もはや少しの

    自惚

    うぬぼれ

    もなかったが、今もなお彼女の若かりし時代の習慣をそのままに、二十年前の流行を固守した衣裳を身につけると、五十年前と同じように、長い時間をついやして念入りの化粧をした。窓ぎわでは、彼女の附き添い役の一人の若い婦人が刺繍台の前に腰をかけていた。
    「お早うございます、おばあさま」と、一人の青年士官がこの部屋へはいって来た。

    今日は

    ボンジュール

    リース嬢

    マドモアゼル・リース

    。おばあさま、ちょっとお頼み申したいことがあるのですが……」
    「どんなことです、ポール」
    「ほかでもないのですが、おばあさまに僕の友達をご紹介した上で、この金曜日の舞踏会にその人を招待したいのですが……」
    「舞踏会にお呼び申して、その席上でそのおかたを私に紹介したらいいでしょう。それはそうと、きのうおまえはBさんのお

    うち

    においででしたか」
    「ええ、非常に愉快で、明けがたの五時頃まで踊り抜いてしまいました。そうそう、イエレツカヤさんが実に美しかったですよ」
    「そうですかねえ。あの人はそんなに美しいのかねえ。あの人のおばあさまのダリア・ペトロヴナ公爵夫人のように美しいのかい。そういえば、公爵夫人も随分お年を召されたことだろうね」
    「なにをおっしゃっているのです、おばあさま」と、トムスキイはなんの気もなしに大きい声で言った。「あの方はもう七年前に亡くなられたではありませんか」
     若い婦人はにわかに顔をあげて、この若い士官に合図をしたので、彼は老伯爵夫人には彼女の友達の死を絶対に知らせていないことに気がついて、あわてて口をつぐんでしまった。しかしこの老伯爵夫人はそうした秘密を全然知らなかったので、若い士官がうっかりしゃべったことに耳を立てた。
    「亡くなられた……」と、夫人は言った。「わたしはちっとも知らなかった。私たちは一緒に女官に任命されて、一緒に皇后さまの

    御前

    ごぜん

    に伺候したのに……」
     それからこの伯爵夫人は、彼女の孫息子にむかって、自分の逸話をほとんど百回目で話して聞かせた。
    「さあ、ポール」と、その物語が済んだときに夫人は言った。「わたしを起こしておくれ。それからリザンカ、わたしの

    かぎ

    煙草の箱はどこにあります」
     こう言ってから、伯爵夫人はお化粧を済ませるために、三人の侍女を連れて

    屏風

    びょうぶ

    のうしろへ行った。トムスキイは若い婦人とあとに残った。
    「あなたが伯爵夫人にお引き合わせなさりたいというお方は、どなたです」と、リザヴェッタ・イヴァノヴナは小声で訊いた。
    「ナルモヴだよ。知っているだろう」
    「いいえ。そのかたは軍人……。それとも官吏……」
    「軍人さ」
    「工兵隊のかた……」
    「いや、騎馬隊だよ。どういうわけで工兵隊かなどと聞くのだ」
     若い婦人はほほえんだだけで、黙っていた。
    「ポール」と、屏風のうしろから伯爵夫人が呼びかけた。「私に何か新しい小説を届けさせて下さいな。しかし、今どきの

    様式

    スタイル

    のは御免ですよ」
    「とおっしゃると、おばあさま……」
    「主人公が父や母の首を

    めたり、溺死者が出て来たりしないような小説にして下さい。わたしは水死した人たちのことを見たり聞いたりするのが恐ろしくってね」

    今日

    こんにち

    では、もうそんな小説はありませんよ。どうです、ロシアの小説はお好きでしょうか」
    「ロシアの小説などがありますか。では、一冊届けさせて下さい、ポール。きっとですよ」
    「ええ。では、さようなら。僕はいそぎますから……。さようなら、リザヴェッタ・イヴァノヴナ。え、おまえはどうしてナルモヴが工兵隊だろうなどと考えたのだ」
     こう言い捨てて、トムスキイは祖母の部屋を出て行った。
     リザヴェッタは取り残されて一人になると、刺繍の仕事をわきへ押しやって、窓から外を眺め始めた。それから二、三秒も過ぎると、むこう側の角の家のところへ一人の青年士官があらわれた。彼女は両の頬をさっと赤くして、ふたたび仕事を取りあげて、自分のあたまを刺繍台の上にかがめると、伯爵夫人は盛装して出て来た。
    「馬車を命じておくれ、リザヴェッタ」と、夫人は言った。「私たちはドライヴして来ましょう」
     リザヴェッタは刺繍の台から顔をあげて、仕事を片付け始めた。
    「どうしたというのです。おまえは

    つんぼ

    かい」と、老夫人は叫んだ。「すぐに出られるように、馬車を支度させておくれ」

    唯今

    ただいま

    すぐに申しつけます」と、若い婦人は次の間へ急いで行った。
     一人の召使いがはいって来て、ポール・アクレサンドロヴィッチ公からのお使いだといって、二、三冊の書物を伯爵夫人に渡した。
    「どうもありがとうと公爵にお伝え申しておくれ」と、夫人は言った。「リザヴェッタ……。リザヴェッタ……。どこへ行ったのだねえ」
    「唯今、着物を着換えております」
    「そんなに急がなくてもいいよ。おまえ、ここへ掛けて、初めの一冊をあけて、大きい声をして私に読んでお聞かせなさい」
     若い婦人は書物を取りあげて二、三行読み始めた。
    「もっと大きな声で……」と、夫人は言った。「どうしたというのです、リザヴェッタ……。おまえは声をなくしておしまいかえ。まあ、お待ちなさい。……あの足置き台をわたしにお貸しなさい。……そうして、もっと近くへおいで。……さあ、お始めなさい」
     リザヴェッタはまた二ページほど読んだ。
    「その本をお伏せなさい」と、夫人は言った。「なんというくだらない本だろう。ありがとうございますと言ってポール公に返しておしまいなさい。……そうそう、馬車はどうしました」
    「もう支度が出来ております」と、リザヴェッタは

    まち

    の方をのぞきながら答えた。
    「どうしたというのです、まだ着物も着換えないで……。いつでも私はおまえのために待たされなければならないのですよ。ほんとに

    れったいことだね、リザヴェッタ」
     リザヴェッタは自分の部屋へ急いでゆくと、それから二秒と経たないうちに夫人は力いっぱいにベルを鳴らし始めた。三人の侍女が一方の戸口から、また一人の従者がもう一方の戸口からあわてて飛び込んで来た。
    「どうしたというのですね。わたしがベルを鳴らしているのが聞こえないのですか」と、夫人は

    呶鳴

    どな

    った。「リザヴェッタ・イヴァノヴナに、わたしが待っているとお言いなさい」
     リザヴェッタは帽子と外套を着て戻って来た。
    「やっと来たのかい。しかし、どうしてそんなに念入りにお化粧をしたのです。誰かに見せようとでもお思いなのかい。お天気はどうです。風がすこし出て来たようですね」
    「いいえ、奥様。静かなお天気でございます」と、従者は答えた。
    「おまえはでたらめばかりお言いだからね。窓をあけてごらんなさい。それ、ご覧。風が吹いて、たいへん寒いじゃないか。馬具を解いておしまいなさい。リザヴェッタ、もう出るのはやめにしましょう。……そんなにお

    つく

    りをするには及ばなかったね」
    「わたしの一生はなんというのだろう」と、リザヴェッタは心のうちで思った。

     実際、リザヴェッタ・イヴァノヴナは非常に不幸な女であった。ダンテは「未熟なるもののパンは

    にが

    く、彼の階梯は急なり」と言っている。しかもこの老貴婦人の憐れな話し相手リザヴェッタが、

    居候

    いそうろう

    と同じような

    つら

    い思いをしていることを知っている者は一人もなかった。A伯爵夫人はけっして腹の悪い婦人ではなかったが、この世の中からちやほやされて来た婦人のように気まぐれで、過去のことばかりを考えて現在のことを少しも考えようとしない年寄りらしく、いかにも強欲で、

    我儘

    わがまま

    であった。彼女はあらゆる流行社会に頭を突っ込んでいたので、舞踏会にもしばしば行った。そうして、彼女は時代おくれの衣裳やお化粧をして、舞踏室になくてはならない不格好な飾り物のように、隅の方に席を占めていた。
     舞踏室へはいって来た客は、あたかも一定の儀式ででもあるかのように彼女に近づいて、みな丁寧に挨拶するが、さてそれが済むと、もう誰も彼女の方へは見向きもしなかった。彼女はまた自分の邸で宴会を催す場合にも、非常に厳格な礼儀を固守していた。そのくせ、彼女はもう人びとの顔などの見分けはつかなかった。
     夫人のたくさんな召使いたちは主人の次の間や自分たちの部屋にいる間にだんだん肥って、年をとってゆく代りに、自分たちの

    たい

    三昧

    ざんまい

    のことをして、その上おたがいに公然と老伯爵夫人から盗みをすることを競争していた。そのなかで不幸なるリザヴェッタは家政の犠牲者であった。彼女は茶を

    れると、砂糖を使いすぎたと言って叱られ、小説を読んで聞かせると、こんなくだらないものをと言って、作者の罪が自分の上に降りかかって来る。夫人の散歩のお供をして行けば、やれ天気がどうの、舗道がどうのと言って、やつあたりの小言を喰う。給料は郵便貯金に預けられてしまって、自分の手にはいるということはほとんどない。ほかの人たちのような着物を買いたいと思っても、それも出来ない。特に彼女は社交界においては実にみじめな役廻りを演じていた。誰も彼も彼女を知ってはいるが、たれ一人として彼女に注目する者はなかった。
     舞踏会に出ても、彼女はただ誰かに相手がない時だけ引っ張り出されて踊るぐらいなもので、貴婦人連も自分たちの衣裳の着くずれを直すために舞踏室から彼女を引っ張り出す時ででもなければ、彼女の腕に手をかけるようなことはなかった。したがって、彼女はよく自己を知り、自己の地位をもはっきりと自覚していたので、なんとかして自分を救ってくれるような男をさがしていたのであるが、そわそわと日を送っている青年たちはほとんど彼女を問題にしなかった。しかもリザヴェッタは世間の青年たちが追い廻している、

    つら

    の皮の厚い、心の冷たい、

    年頃

    としごろ

    の娘たちよりは百層倍も可愛らしかった。彼女は

    燦爛

    さんらん

    として輝いているが、しかも退屈な応接間からそっと忍び出て、小さな

    みじ

    めな自分の部屋へ泣きにゆくこともしばしばあった。その部屋には一つの

    衝立

    ついたて

    と箪笥と姿見と、それからペンキ塗りの寝台があって、あぶら蝋燭が銅製の燭台の上に寂しくともっていた。
     ある朝――それはこの物語の初めに述べた、かの士官たちの

    骨牌

    かるた

    会から二日ほどの

    のち

    で、これからちょうど始まろうとしている事件の一週間前のことであった。リザヴェッタ・イヴァノヴナは窓の近くで、刺繍台の前に腰をかけていながら、ふと

    まち

    の方を眺めると、彼女は若い工兵隊の士官が自分のいる窓をじっと見上げているのに気がついたが、顔を

    俯向

    うつむ

    けてまたすぐに仕事をはじめた。それから五分ばかりのあと、彼女は再び街のほうを見おろすと、その青年士官は依然として同じ場所に立っていた。しかし、往来の士官に色眼などを使ったことのない彼女は、それぎり街のほうをも見ないで、二時間ばかりは首を下げたままで、刺繍をつづけていた。
     そのうちに食事の知らせがあったので、彼女は立って刺繍の道具を片付けるときに、なんの気もなしにまたもや街のほうをながめると、青年士官はまだそこに立っていた。それは彼女にとってまったく意外であった。食後、彼女は気がかりになるので、またもやその窓へ行ってみたが、もうその士官の姿は見えなかった。――その後、彼女は、その青年士官のことを別に気にもとめていなかった。
     それから二日を過ぎて、あたかも伯爵夫人と馬車に乗ろうとしたとき、彼女は再びその士官を見た。彼は毛皮の襟で顔を半分かくして、入り口のすぐ前に立っていたが、その黒い両眼は帽子の下で輝いていた。リザヴェッタはなんとも分からずにはっとして、馬車に乗ってもまだ身内がふるえていた。
     散歩から帰ると、彼女は急いで例の窓ぎわへ行ってみると、青年士官はいつもの場所に立って、いつもの通りに彼女を見あげていた。彼女は思わず身を引いたが、次第に好奇心にかられて、彼女の心はかつて感じたことのない、ある感動に騒がされた。
     このとき以来、かの青年士官が一定の時間に、窓の下にあらわれないという日は一日もなかった。彼と彼女のあいだには無言のうちに、ある親しみを感じて来た。いつもの場所で刺繍をしながら、彼女は彼の近づいて来るのをおのずからに感じるようになった。そうして顔を上げながら、彼女は一日ごとに彼を長く見つめるようになった。青年士官は彼女に歓迎されるようになったのである。彼女は青春の鋭い眼で、自分たちの眼と眼が合うたびに、男の蒼白い頬がにわかに

    あか

    らむのを見てとった。それから一週間目ぐらいになると、彼女は男に微笑を送るようにもなった。
     トムスキイが彼の祖母の伯爵夫人に、友達の一人を紹介してもいいかと訊いたとき、この若い娘のこころは

    はげ

    しくとどろいた。しかしナルモヴが、工兵士官でないと聞いて、彼女は前後の考えもなしに、自分の心の秘密を気軽なトムスキイに洩らしてしまったことを後悔した。
     ヘルマンはロシアに帰化したドイツ人の子で、父のわずかな財産を相続していた。かれは独立自尊の必要を固く心に沁み込まされているので、父の遺産の収入には手も触れないで、自分自身の給料で自活していた。したがって彼に、贅沢などは絶対に許されなかったが、彼は控え目がちで、しかも野心家であったので、その友人たちのうちには

    まれ

    には極端な節約家の彼に散財させて、

    一夕

    いっせき

    の歓を尽くすようなこともあった。
     彼は強い感情家であるとともに、非常な空想家であったが、堅忍不抜な性質が彼を若い人間にありがちな堕落におちいらせなかった。それであるから、

    はら

    では賭け事をやりたいと思っても、彼はけっして一枚の骨牌をも手にしなかった。彼にいわせれば、自分の身分では必要のない金を勝つために、必要な金をなくすことは出来ないと考えていたのである。しかも彼は骨牌のテーブルにつらなって、夜通しそこに腰をかけて、勝負の代るごとに自分のことのように心配しながら見ているのであった。
     三枚の骨牌の物語は、彼の空想に多大な

    刺戟

    しげき

    をあたえたので、彼はひと晩そのことばかりをかんがえていた。
    「もしも……」と、次の朝、彼はセント・ペテルスブルグの街を歩きながら考えた。「もしも老伯爵夫人が彼女の秘密を僕に洩らしてくれたら……。もしも彼女が三枚の必勝の切り札を僕に教えてくれたら……。僕は自分の将来を試さずにはおかないのだが……。僕はまず老伯爵夫人に紹介されて、彼女に可愛がられなければ――彼女の恋人にならなければならない……。しかしそれはなかなか手間がかかるぞ。なにしろ相手は八十七歳だから……。ひょっとすると一週間のうちに、いや二日も経たないうちに死んでしまうかもしれない。三枚の骨牌の秘密も彼女とともに、この世から永遠に消えてしまうのだ。いったいあの話はほんとうかしら……。いや、そんな馬鹿らしいことがあるものか。経済、節制、努力、これが僕の三枚の必勝の切り札だ。この切り札で僕は自分の財産を三倍にすることが出来るのだ……。いや、七倍にもふやして、安心と独立を得るのだ」
     こんな瞑想にふけっていたので、彼はセント・ペテルスブルグの

    目貫

    めぬき

    の街の一つにある古い建物の前に来るまで、どこをどう歩いていたのか気がつかなかった。街は、

    燦然

    さんぜん

    と輝いているその建物の玄関の前へ、次から次へとひき出される馬車の行列のために通行止めになっていた。その瞬間に、妙齢の婦人のすらりとした小さい足が馬車から舗道へ踏み出されたかと思うと、次の瞬間には騎兵士官の重そうな深靴や、社交界の人びとの絹の靴下や靴があらわれた。毛皮や羅紗の外套が玄関番の大男の前をつづいて通った。
     ヘルマンは立ち停まった。
    「どなたのお

    やしき

    です」と、彼は角のところで番人にたずねた。
    「A伯爵夫人のお邸です」と、番人は答えた。
     ヘルマンは飛び上がるほどにびっくりした。三枚の切り札の不思議な物語がふたたび彼の空想にあらわれて来た。彼はこの邸の前を往きつ戻りつしながら、その女主人公と彼女の奇怪なる秘密について考えた。
     彼は遅くなって自分の質素な下宿へ帰ったが、長いあいだ眠ることが出来なかった。ようよう少しく眠りかけると、骨牌や賭博台や、小切手の束や、金貨の山の夢ばかり見た。彼は順じゅんに骨牌札に賭けると、果てしもなく勝ってゆくので、その金貨を掻きあつめ、紙幣をポケットに

    じ込んだ。
     しかも翌あさ遅く眼をさましたとき、彼は空想の富を失ったのにがっかりしながら街へ出ると、いつの間にか伯爵夫人の邸の前へ来た。ある

    未知

    みち

    の力がそこへ彼を引き寄せたともいえるのである。彼は立ち停まって窓を見上げると、一つの窓から房ふさとした黒い髪の頭が見えた。その頭はおそらく書物か刺繍台の上にうつむいていたのであろう。と思う間に、その頭はもたげられ、生き生きとした顔と黒い二つのひとみが、ヘルマンの眼にはいった。
     彼の運命はこの瞬間に決められてしまった。

           三

     リザヴェッタ・イヴァノヴナは彼女の帽子と外套をぬぐか脱がないうちに、伯爵夫人は彼女を呼んで、ふたたび馬車の支度をするように命じたので、馬車は玄関の前に

    き出された。そうして、夫人と彼女とはおのおのその席に着こうとした。二人の馭者が夫人を

    たす

    けて馬車へ入れようとする時、リザヴェッタはかの工兵士官が馬車の

    うしろ

    にぴったりと身を寄せて立っているのを見た。――彼は彼女の手を

    つか

    んだ。あっと驚いて、リザヴェッタはどぎまぎしていると、次の瞬間にはもうその姿は消えて、ただ彼女の指のあいだに手紙が残されてあったのに気がついたので、彼女は急いでそれを手袋のなかに隠してしまった。
     ドライヴしていても、彼女にはもう何も見えなかった。聞こえなかった。馬車で散歩に出たときには「今会ったかたはどなただ」とか、「この橋の名はなんというのだ」とか、「あの掲示板にはなんと書いてある」とか、絶えず

    くのが夫人の習慣になっていたが、なにしろ場合が場合であるので、きょうに限ってリザヴェッタはとかくに

    辻褄

    つじつま

    の合わないような返事ばかりするので、夫人はしまいに怒り出した。
    「おまえ、どうかしていますね」と、夫人は

    呶鳴

    どな

    った。「おまえ、気は確かかえ。どうしたのです。わたしの言うことが聞こえないのですか。それとも分からないとでもお言いなのですか。お蔭さまで、わたしはまだ正気でいるし、

    呂律

    ろれつ

    もちゃんと廻っているのですよ」
     リザヴェッタには夫人の言葉がよく聞こえなかった。

    やしき

    へ帰ると、彼女は自分の部屋へかけ込んで、手袋から彼の手紙を引き出すと、手紙は密封してなかった。読んでみると、それはドイツの小説の一字一句を訳して、そのままに引用した優しい

    敬虔

    けいけん

    な恋の告白であった。しかもリザヴェッタはドイツ語についてはなんにも知らなかったので、非常に嬉しくなってしまった。
     それにもかかわらず、この手紙は彼女に大いなる不安を感じさせて来た。実際、彼女は生まれてから若い男と人目を忍ぶようなことをした経験は一度もなかったので、彼の大胆には驚かされもした。そこで、彼女は不謹慎な行為をした自分を責めるとともに、このさきどうしていいか分からなくなって来た。とにかく、もう窓ぎわに坐るのをやめて、彼に対して無関心な態度をとり、自分とこのうえ親しくしようとする男の欲望を断たせるのがよいか。あるいはその手紙を彼に返すか、または冷淡なきっぱりした態度で彼に拒絶の返事を書くべきであるか。彼女はまったく決断に迷ったが、それについて相談するような女の友達も、忠告をあたえてくれるような人もなかった。リザヴェッタはついに彼に返事を書くことに決めた。
     彼女は自分の小さな机の前に腰をかけると、ペンと紙を取って、その文句を考えはじめた。そうして、書いては破り、書いては破りしたが、結局彼女が書いた文句は、あまりに男の心をそそり過ぎるか、あるいは

    素気

    すげ

    なくあり過ぎるかで、どうも思ったように書けなかった。それでもようようのことで、自分にも満足の出来るような二、三行の短い手紙を書くことが出来た。
     ――彼女はこう書いた。
    「あなたのお手紙が高尚であるのと、あなたが

    軽率

    けいそつ

    な行為をもってわたくしをお

    はずか

    しめなさりたくないとおっしゃることを、わたくしは嬉しく存じます。しかし、わたくしたちの交際はほかの方法で始めなければなりません。わたくしはひとまずあなたのお手紙をお返し申しますが、どうぞ

    不躾

    ぶしつけ

    仕業

    しわざ

    とお怨み下さりませぬよう、幾重にもお願い申します」
     翌日、ヘルマンの姿があらわれるやいなや、刺繍の道具の前に坐っていたリザヴェッタは応接間へ行って、通風の窓をあけて、青年士官が感づいて拾いあげるに相違ないと思いながら、街の方へその手紙を投げた。
     ヘルマンは飛んで行って、その手紙を拾い上げて、近所の菓子屋の店へ行った。密封した封筒を破ってみると、内には自分の手紙とリザヴェッタの返事がはいっていた。彼はこんなことだろうと予期していたので、家へ帰ると、さらにその計画について深く考えた。
     それから三日の後、一人の晴れやかな眼をした娘が小間物屋から来たといって、リザヴェッタに一通の手紙をとどけに来た。リザヴェッタは何かの勘定の請求書ででもあるのかと、非常に不安な心持ちで開封すると、たちまちヘルマンの手蹟に気がついた。
    「間違えているのではありませんか」と、彼女は言った。「この手紙は私へ来たものではありません」
    「いえ、あなたへでございます」と、娘は抜け目のなさそうな微笑を浮かべながら答えた。「どうぞお読みなすって下さい」
     リザヴェッタはその手紙をちらりと見ると、ヘルマンは会見を申し込んで来たのであった。
    「まあ、そんなこと……」と、彼女はその厚かましい要求と、気違いのような態度にいよいよ驚かされた。「この手紙は私へのではありません」
     そう言うと、彼女はそれを引き裂いてしまった。
    「では、あなたへの手紙でないなら、なぜ引き裂いておしまいになったのでございます」と、娘は言った。「わたくしは頼まれたおかたに、そのお手紙をお返し申さなければなりません」
    「もうこれから二度と再び手紙などを私のところへ持って来ないがようござんす。それから、あなたに使いを頼んだかたに、恥かしいとお思いなさいと言って下さい」と、リザヴェッタはその娘からやりこめられて、あわてながら言った。
     しかしヘルマンは、そんなことで断念するような男ではなかった。毎日、彼は手を替え品をかえて、いろいろの手紙をリザヴェッタに送った。それからの手紙は、もうドイツ語の翻訳ではなかった。ヘルマンは感情の

    くがままに手紙を書き、彼自身の言葉で話しかけた。そこには彼の剛直な欲望と、おさえがたき空想の乱れとがあふれていた。
     リザヴェッタはもうそれらの手紙を彼にかえそうとは思わなくなったばかりか、だんだんにその手紙の文句に酔わされて、とうとう返事を書きはじめた。そうして、彼女の返事は少しずつ長く、かつ愛情がこもっていって、ついには窓から次のような手紙を彼に投げあたえるようにもなった。
    「今夕は大使館邸で舞踏会があるはずでございます。伯爵夫人はそれにおいでなさるでしょう。そうして、わたしたちはたぶん二時までそこにおりましょう。今夜こそは二人ぎりでお会いのできる機会でございます。伯爵夫人がお出ましになると、たぶんほかの召使いはみな外出してしまって、お邸にはスイス人のほかには誰もいなくなると思います。そのスイス人はきまって自分の部屋へ下がって寝てしまいます。それですから、十一時半ごろにおいでください。階段をまっすぐに昇っていらっしゃい。もし控えの間で誰かにお

    いでしたらば、伯爵夫人がいらっしゃるかとおたずねなさい。きっといらっしゃらないと言われましょうから、その時は仕方がございませんからいったん外出なすって下さい。十中の八九までは誰にもお逢いなさらないと存じます。――召使いたちがお邸におりましても、みんな一つ部屋に集まっていると思います。――次の間をおいでになったらば、左へお曲がりなすって、伯爵夫人の寝室までまっすぐにおいで下さると、寝室の

    衝立

    ついたて

    のうしろに二つのドアがございます。その右のドアの奥は、伯爵夫人がかつておはいりになったことのない私室になっておりますが、左のドアをおあけになると廊下がありまして、さらに

    螺旋形

    らせんがた

    の階段をお昇りになると、わたくしの部屋になっております」
     ヘルマンは指定された時刻の来るあいだ、虎のようにからだを

    ふる

    わせていた。夜の十時ごろ、彼はすでに伯爵夫人邸の前へ行っていた。天気はひどく悪かった。風は非常に激しく吹いて、雨まじりの雪は大きい花びらを飛ばしていた。街燈は暗く、街は

    しず

    まりかえっていた。憐れな老馬に

    かせてゆく

    そり

    の人が、こんな夜に迷っている通行人を怪しむように見返りながら通った。ヘルマンは外套で深く包まれていたので、風も雪も身に沁みなかった。
     やっとのことで、伯爵夫人の馬車は玄関さきへ

    き出された。黒い毛皮の外套に包まれた、腰のまがった老夫人を、二人の馭者が抱えるようにして連れ出すと、すぐにそのあとから、温かそうな外套をきて、頭に新しい花の環を頂いたリザヴェッタが附き添って出て来た。馬車のドアがしまって、車は柔らかい雪の上を静かに

    せ去ると、門番は玄関のドアをしめて、窓は暗くなった。
     ヘルマンは人のいない邸の近くを往きつ戻りつしていたが、とうとう街燈の下に立ちどまって時計を見ると、十一時を二十分過ぎていた。ちょうど十一時半になったときに、ヘルマンは邸の石段を昇って照り輝いている廊下を通ると、そこに番人は見えなかった。彼は急いで階段をあがって控え室のドアをあけると、一人の侍者がランプのそばで、古風な椅子に腰をかけながら眠っていたので、ヘルマンは

    跫音

    あしおと

    を忍ばせながらそのそばを通り過ぎた。応接間も食堂もまっ暗であったが、控え室のランプの光りが

    かす

    かながらもそこまで洩れていた。
     ヘルマンは伯爵夫人の寝室まで来た。古い偶像でいっぱいになっている

    神龕

    ずし

    には、金色のランプがともっていた。色のあせたふっくらした椅子と柔らかそうなクッションを置いた長椅子が、陰気ではあるがいかにも調和よく、部屋の中に二つずつ並んでいて、壁にはシナの絹が懸かっていた。一方の壁には、パリでルブラン夫人の描いた二つの肖像画の額が懸かっていたが、一枚はどっしりとした

    あか

    ら顔の四十ぐらいの男で、派手な緑色の礼服の胸に勲章を一つ下げていた。他の一枚は美しい妙齢の婦人で、

    鉤鼻

    かぎばな

    で、ひたいの髪を巻いて、髪粉をつけた髪には薔薇の花が挿してあった。隅ずみには磁器製の男の牧人と女の牧人や、有名なレフロイの工場製の食堂用時計や、

    紙匣

    はりぬきばこ

    や、

    球転

    ルーレット

    (一種の賭博)の道具をはじめとして、モンゴルフィエールの軽気球や、メスメルの磁石が世間を騒がせた前世紀の終わりにはやった、婦人の娯楽用の

    玩具

    おもちゃ

    がたくさんにならべてあった。
     ヘルマンは

    衝立

    ついたて

    のうしろへ忍んで行った。そのうしろには一つの小さい寝台があり、右の方には私室のドア、左の方には廊下へ出るドアがあった。そこで、彼は左の方のドアをあけると、果たして彼女の部屋へ達している小さい螺旋形の階段が見えた。――しかも彼は、引っ返してまっ暗な私室へはいって行った。
     時はしずかに過ぎた。邸内は

    せき

    として鎮まり返っていた。応接間の時計が十二時を打つと、その音が部屋から部屋へと反響して、やがてまた

    しん

    となってしまった。ヘルマンは火のないストーブに

    りながら立っていた。危険ではあるが、避け難き計画を決心した人のように、その心臓は規則正しく

    動悸

    どうき

    を打って、彼は落ちつき払っていた。
     午前一時が鳴った。それから二時を打ったころ、彼は馬車のわだちの音を遠く聞いたので、われにもあらで興奮を覚えた。やがて馬車はだんだんに近づいて停まった。馬車の踏み段をおろす音がきこえた。邸の中がにわかにざわめいて、召使いたちが上を下へと走り廻りながら呼びかわす声が入り乱れてきこえたが、そのうちにすべての部屋には明かりがとぼされた。三人の古風な寝室係の女中が寝室へはいって来ると、間もなく伯爵夫人があらわれて、死んだ者のようにヴォルテール時代の

    臂掛

    ひじか

    け椅子に腰を落とした。
     ヘルマンは

    隙間

    すきま

    から

    のぞ

    いていると、リザヴェッタ・イヴァノヴナが彼のすぐそばを通った。彼女が螺旋形の階段を急いで昇ってゆく跫音を聞いた刹那、彼の心臓は良心の

    苛責

    かしゃく

    といったようなもののためにちくりと刺されるような気もしたが、そんな感動はすぐ消えて、彼の心臓はまたもとのように規則正しく動悸を打っていた。
     伯爵夫人は姿見の前で着物をぬぎ始めた。それから、

    薔薇

    ばら

    の花で飾った帽子を取って、髪粉を塗った

    仮髪

    かつら

    をきちんと刈ってある

    白髪

    しらが

    からはずすと、

    髪針

    ヘヤピン

    が彼女の周囲の床にばらばらと散った。銀糸で縫いをしてある黄いろい

    繻子

    しゅす

    の着物は、彼女の

    しび

    れている足もとへ落ちた。
     ヘルマンは彼女のお化粧の好ましからぬ秘密を残らず見とどけた。夫人はようように夜の帽子をかぶって、

    寝衣

    ねまき

    を着たが、こうした

    服装

    みなり

    のほうが年相応によく似合うので、彼女はそんなに

    いや

    らしくも、

    みにく

    くもなくなった。
     普通のすべての年寄りのように、夫人は眠られないので困っていた。着物を着替えてから、彼女は窓ぎわのヴォルテール時代の臂掛け椅子に腰をかけると、召使いを下がらせた。蝋燭を消してしまったので、寝室にはただ一つのランプだけがともっていた。夫人は真っ黄と見えるような顔をして、締まりのない

    くち

    をもぐもぐさせながら、体をあちらこちらへ揺すぶっていた。彼女のどんよりした眼は心の

    空虚

    うつろ

    をあらわし、また彼女が体を揺すぶっているのは自己の意志で動かしているのではなく、神経作用の結果であることを誰でも考えるであろう。
     突然この死人のような顔に、なんとも言いようのない表情があらわれて、唇の

    ふる

    えも止まり、眼も活気づいて来た。夫人の前に一人の見知らぬ男が突っ立っていたからであった。
    「びっくりなさらないで下さい。どうぞ、お驚きなさらないで下さい」と、彼は低いながらもしっかりした声で言った。「わたくしはあなたに危害を加える意志は少しもございません。ただ、あなたにお願いがあって参りました」
     夫人は彼の言葉がまったく聞こえないかのように、黙って彼を見詰めていた。ヘルマンはこの女は

    つんぼ

    だと思って、その耳の方へからだをかがめて、もう一度繰り返して言ったが、老夫人はやはり黙っていた。
    「あなたは、わたくしの一生の幸福を保証して下さることがお出来になるのです」と、ヘルマンは言いつづけた。「しかも、あなたには一銭のご損害をお掛け申さないのです。わたくしはあなたが勝負に勝つ切り札をご指定なさることがお出来になるということを、聞いて知っておるのです」
     こう言って、ヘルマンは言葉を切った。夫人がようやく自分の希望を

    諒解

    りょうかい

    して、それに答える言葉を考えているように見えたからであった。
    「それは冗談です」と、彼女は答えた。「ほんの冗談に言ったまでのことです」
    「いえ、冗談ではありません」と、ヘルマンは言い返した。「シャプリッツキイを覚えていらっしゃるでしょう。あなたはあの人に三枚の

    骨牌

    かるた

    の秘密をお教えになって、勝負にお勝たせになりましたではありませんか」
     夫人は明らかに不安になって来た。彼女の顔には

    はげ

    しい心の動揺があらわれたが、またすぐに消えてしまった。
    「あなたは三枚の必勝骨牌をご指定なされないのですね」と、ヘルマンはまた言った。
     夫人は依然として黙っていたので、ヘルマンは更に言葉をつづけた。
    「あなたは、誰にその秘密をお伝えなさるおつもりですか。あなたのお孫さんにですか。あの人たちは別にあなたに秘密を授けてもらわなくとも、有りあまるほどのお金持ちです。それだけに、あの人たちは金の価値を知りません。あなたの秘密は金使いの荒い人には、なんの益するところもありません。父の遺産を保管することの出来ないような人間は、たとい悪魔を手先に使ったにしても、結局はあわれな死に方をしなければならないのでしょう。わたくしはそんな人間ではございません。わたくしは金の

    あた

    いというものをよく知っております。あなたもわたくしには、三枚の切り札の秘密をお

    こば

    みにはならないでしょう。さあ、いかがですか」
     彼はひと息ついて、ふるえながらに相手の返事を待っていたが、夫人は依然として沈黙を守っているので、ヘルマンはその前にひざまずいた。
    「あなたのお心が、いやしくも恋愛の感情を経験していられるならば……」と、彼は言った。「そうして、もしもその法悦をいまだに覚えていられるならば……。かりにもあなたがお産みになったお子さんの初めての声にほほえまれた事がおありでしたらば……。いやしくも人間としてのある感情が、あなたの胸のうちにお湧きになった事がおありでしたらば、わたくしは妻として、恋人として、母としての愛情におすがり申してお願い申します。どうぞ私のこの嘆願を

    しりぞ

    けないで下さい。どうぞあなたの秘密をわたくしにお洩らし下さい。あなたにはもうなんのお入り用もないではありませんか。たといどんな恐ろしい罪を受けようとも、永遠の神の救いを失おうとも、悪魔とどんな取り引きをしようとも、わたくしはけっして

    いと

    いません。……考えて下さい。……あなたはお年を召しておられます。そんなに長くはこの世においでになられないお

    からだ

    です……わたくしはあなたの罪を自分のたましいに引き受ける覚悟でおります。どうぞあなたの秘密をわたくしにお伝え下さい。一人の男の幸福が、あなたのお手に握られているということを思い出してください。いいえ、わたくし一人ではありません、わたくしの子孫までがあなたを祝福し、あなたを聖者として尊敬するでしょう……」
     夫人は一言も答えなかった。ヘルマンは立ち上がった。
    「老いぼれの鬼婆め」と、彼は歯ぎしりしながら叫んだ。「よし。

    否応

    いやおう

    なしに返事をさせてやろう」
     彼はポケットからピストルを

    り出した。
     それを見ると、夫人は再びその顔に

    はげ

    しい感動をあらわして、射殺されまいとするかのように頭を振り、手を上げたかと思うと、うしろへそり返ったままに気を失った。
    「さあ、もうこんな子供じみたくだらないことはやめましょう」と、ヘルマンは彼女の手をとりながら言った。「もうお願い申すのもこれが最後です。どうぞわたくしにあなたの三枚の切り札の名を教えて下さい。それとも、お

    いや

    ですか」
     夫人は返事をしなかった。ヘルマンは彼女が死んだのを知った。

           四

     リザヴェッタ・イヴァノヴナは夜会服を着たままで、自分の部屋に坐って、深い物思いに沈んでいた。

    やしき

    へ帰ると、彼女は

    いや

    いやながら自分の用をうけたまわりに来た部屋付きの召使いにむかって、着物はわたし一人で脱ぐからといって、

    そう

    そうにそこを立ち去らせてしまった。そうして、ヘルマンが来ていることを期待しながら、また一面には来ていてくれないようにと望みながら、胸を

    おど

    らせて自分の部屋へ昇って行った。ひと目見ると、彼女は彼がいないことをさとった。そうして、彼に約束を守らないようにさせてくれた自分の運命に感謝した。彼女は着物も着かえずに腰をかけたままで、ちょっとの間に自分をこんなにも深入りさせてしまった今までの経過を考えた。
     彼女が窓から初めて青年士官を見たときから三週間を過ぎなかった。――それにもかかわらず、彼女はすでに彼と文通し、男に夜の会見を許すようになった。彼女は男の手紙の終わりに書いてあったので、初めてその名を知ったぐらいで、まだその男と言葉を

    かわ

    したこともなければ、男の声も――今夜までは、その噂さえも聞いたことはなかった。ところが不思議なことには、今夜の舞踏会の席上で、ポーリン・N公爵の令嬢がいつになく自分と踊らなかったので、すっかり気を悪くしてしまったトムスキイが、おまえばかりが女ではないぞといった復讐的の態度で、リザヴェッタに相手を申し込んで、始めからしまいまで彼女とマズルカを踊りつづけた。その間、彼は絶えずリザヴェッタが工兵士官ばかりを

    贔屓

    ひいき

    にしていることをからかった挙げ句、彼女が想像している以上に、自分は深く立ち入って万事を知っているとまことしやかに言った。実際彼女は自分の秘密を彼に知られてしまったのかといくたびか疑ったほどに、彼の冗談のあるものは

    うま

    くあたった。
    「どなたからそんなことをお聞きになりました」と、ほほえみながら彼女は

    いた。
    「君の親しい人の友達からさ」と、トムスキイは答えた。「ある非常に有名な人からさ」
    「では、その有名なかたというのは……」
    「その人の名はヘルマンというのだ」
     リザヴェッタは黙っていた。彼女の手足はまったく感覚がなくなった。
    「そのヘルマンという男はね」と、トムスキイは言葉をつづけた。「ローマンチックの人物でね。ちょっと横顔がナポレオンに似ていて、たましいはメフィストフェレスだね。まあ、僕の信じているところだけでも、彼の良心には三つの罪悪がある……。おい、どうした。ひどく

    あお

    い顔をしているじゃないか」
    「わたくし、少し頭痛がしますので……。そこで、そのヘルマンとかおっしゃるかたは、どんなことをなさいましたの。お話をして下さいませんか」
    「ヘルマンはね、自分のあるお友達に非常な不平をいだいているのだ。彼はいつも、自分がそのお友達の地位であったら、もっと違ったことをすると言っているが……。僕はどうもヘルマン自身が君におぼしめしがあると思うのだ。少なくとも、彼はその友達が君のことを話すときには、眼の色を変えて耳を傾けているからね」
    「では、どこでそのかたはわたくしをご覧なすったのでしょう」
    「たぶん教会だろう。それとも観兵式かな。……さあ、どこで見そめたかは神様よりほかには知るまいな。ひょっとしたら君の部屋で、君がねむっている間かもしれないぞ。とにかく、あの男ときたら……」
     ちょうどその時に、三人の婦人が彼のところへ近づいて来て、「お忘れになって。それとも、覚えていらしった……」と、フランス語で問いかけたので、この会話はリザヴェッタをさんざん

    らしたままで、それなりになってしまった。
     トムスキイが選んだ婦人はポーリン公爵令嬢その人であった。公爵令嬢はいくたびもトムスキイと踊っているうちに、彼とすっかり仲直りをして、踊りが済んだのちに彼は公爵令嬢を彼女の椅子に連れて行った。そうして自分の席へ戻ると、彼はもうヘルマンのことも、リザヴェッタのこともまったく忘れていた。リザヴェッタは中止された会話を再びつづけたく思ったが、マズルカもやがて終わって、そのうちに老伯爵夫人は帰ることになった。
     トムスキイの言葉は、舞踏中によくあるならいの軽い無駄話に過ぎなかったが、この若い夢想家のリザヴェッタの心に深く沁み込んだ。トムスキイによってえがかれた半身像は、彼女自身の心のうちに描いていたものと一致していたのみならず、このいろいろのでたらめの話のお蔭で、彼女の崇拝者の顔に才能があらわれていることを知ると同時に、彼女の空想をうっとりとさせるような特長がさらに加わって来たのであった。彼女は今、

    露出

    むきだ

    した腕を組み、花の髪飾りを付けたままの頭を素肌の胸のあたりに垂れて坐っていた。
     突然にドアがあいて、ヘルマンが現われたので、彼女ははっとした。
    「どこにおいでなさいました」と、彼女はおどおどしながら声を忍ばせて訊いた。
    「老伯爵夫人の寝室に……」と、ヘルマンは答えた。「わたしは今、伯爵夫人のところから来たばかりです。夫人は死んでいます」
    「え。なんですって……」
    「それですから、わたしは伯爵夫人の死の原因となるのを恐れているのです」と、ヘルマンは付け足した。
     リザヴェッタは彼をながめていた。そうして、トムスキイの言葉が彼女の心の中でこう反響しているのに気がついた。「この男は少なくとも良心に三つの罪悪を持っているぞ!」
     ヘルマンは彼女のそばの窓に腰をかけて、一部始終を物語った。
     リザヴェッタは恐ろしさに

    ふる

    えながら彼の話に耳をかたむけていた。今までの感傷的な手紙、熱烈な愛情、大胆な執拗な愛慾の要求――それらのものはすべて愛ではなかった。金――彼のたましいがあこがれていたのは金であった。貧しい彼女には彼の愛慾を満足させ、愛する男を幸福にすることは出来なかった。このあわれな娘は、盗人であり、かつは彼女の老いたる恩人の殺害者である男の盲目的玩具にほかならなかったのではないか。彼女は後悔のもだえに

    にが

    い涙をながした。
     ヘルマンは沈黙のうちに彼女を見つめていると、彼の心もまたはげしい感動に打たれて来た。しかも、このあわれなる娘の涙も、悲哀のためにいっそう美しく見えてきた彼女の魅力も、彼のひややかなる心情を動かすことは出来なかった。彼は老伯爵夫人の死についても別に良心の

    呵責

    かしゃく

    などを感じなかった。ただ彼を悲しませたのは、一攫千金を夢みていた大切な秘密を失って、取り返しのつかないことをしたという後悔だけであった。
    「あなたは

    人非人

    ひとでなし

    です」と、リザヴェッタはついに叫んだ。
    「わたしだって夫人の死を望んではいなかった」と、ヘルマンは答えた。「私のピストルには

    装填

    たまごめ

    をしていなかったのですからね」
     二人は黙ってしまった。

     夜は明けかかった。リザヴェッタが蝋燭の火を消すと、青白い光りが部屋へさし込んで来た。彼女は泣きはらした眼をふくと、ヘルマンのほうへ向いた。彼は腕組みをしながら、ひたいに

    残忍

    ざんにん

    な八の字をよせて、窓のきわに腰をかけていた。こうしていると、まったく彼はナポレオンに生き写しであった。リザヴェッタもそれを深く感じた。
    「どうしてあなたをお

    やしき

    からお出し申したらいいでしょう」と、彼女はようように口を開いた。「わたくしはあなたを秘密の階段からお降ろし申そうと思ったのですが、それにはどうしても伯爵夫人の寝室を通らなければならないので、わたくしには恐ろしくって……」
    「どうすればその秘密の階段へ行けるか、教えて下さい。……わたしは一人で行きます」
     リザヴェッタは

    ち上がって、

    抽斗

    ひきだし

    から鍵を取り出してヘルマンにわたして、階段へゆく道を教えた。ヘルマンは彼女の冷たい、力のない手を握りしめると、そのうつむいているひたいに接吻して、部屋を出て行った。
     彼は螺旋形の階段を降りて、ふたたび伯爵夫人の寝室へはいった。死んでいる老夫人は化石したように坐っていて、その顔には底知れない静けさがあらわれていた。ヘルマンは彼女の前に立ちどまって、あたかもこの恐ろしい事実を確かめようとするかのように、長い間じっと彼女を見つめていたが、やがて彼は

    掛毛氈

    タペストリー

    のうしろにあるドアをあけて小さい部屋にはいると、強い感動に胸を躍らせながら真っ暗な階段を降りかかった。
    「たぶん……」と、彼は考えた。「六十年前にも今時分、縫い取りをした上着を着て、

    皇帝の鳥

    ロアゾー・ロアイアー

    に髪を結った彼女の若い恋人が、三角帽で胸を押さえつけながら、伯爵夫人の寝室から忍び出て、この秘密の階段を降りて行ったことだろう。もうその恋人はとうの昔に墓のなかに朽ち果ててしまっているのに、あの老夫人は今日になってようよう息を引き取ったのだ」
     その階段を降り切ると、ドアがあった。ヘルマンは例の鍵でそこをあけて、廻廊を通って街へ出た。

           五

     この不吉な夜から三日後の午前九時に、ヘルマンは――の尼寺に赴いた。そこで伯爵夫人の告別式が挙行されたのである。なんら後悔の情は起こさなかったが、「おまえがこの老夫人の

    下手人

    げしゅにん

    だぞ」という良心の声を、彼はどうしても

    おさ

    えつけることが出来なかった。
     彼は宗教に対して信仰などをいだいていなかったのであるが、今や非常に迷信的になってきて、死んだ伯爵夫人が自分の生涯に不吉な影響をこうむらせるかもしれないと信じられたので、彼女のおゆるしを願うためにその葬式に列席しようと決心したのであった。
     教会には人がいっぱいであった。ヘルマンはようように人垣を分けて行った。

    ひつぎ

    はビロードの天蓋の下の立派な

    葬龕

    ずし

    に安置してあった。そのなかに故伯爵夫人はレースの帽子に純白の

    繻子

    しゅす

    の服を着せられ、胸に

    合掌

    がっしょう

    して眠っていた。葬龕の周囲には彼女の家族の人たちが立っていた。召使いらは肩に紋章入りのリボンを付けた黒の

    下衣

    カフタン

    を着て、手に蝋燭を持っていた。一族――息子たちや、孫たちやそれから

    曾孫

    ひこ

    たち――は、みな深い

    かな

    しみに沈んでいた。
     誰も泣いているものはなかった。涙というものは一つの愛情である。しかるに、伯爵夫人はあまりにも年をとり過ぎていたので、彼女の死に心を打たれたものもなく、一族の人たちもとうから彼女を死んだ者扱いにしていたのである。
     ある有名な僧侶が葬式の説教をはじめた。彼は単純で、しかも

    哀憐

    あいれん

    の情を起こさせるような言葉で、長いあいだキリスト教信者としての死を静かに念じていた彼女の平和な永眠を述べた。
    「ついに死の女神は、信仰ふかき心をもってあの世の夫に一身を捧げていた彼女をお迎えなされました」と、彼は言った。
     

    法会

    ほうえ

    はふかい沈黙のうちに終わった。一族の人びとは死骸に永別を告げるために進んでゆくと、そのあとから

    大勢

    おおぜい

    の会葬者もつづいて、多年自分たちのふまじめな娯楽の関係者であった彼女に最後の敬意を表した。彼らのうしろに伯爵夫人の

    やしき

    の者どもが続いた。その最後に伯爵夫人と同年輩ぐらいの老婆が行った。彼女は二人の女に手を取られて、もう老いぼれて地にひざまずくだけの力もないので、ただ二、三滴の涙を流しながら女主人の冷たい手に接吻した。
     ヘルマンも柩のある所へ行こうと思った。彼は冷たい石の上にひざまずいて、しばらくそのままにしていたが、やがて伯爵夫人の死に顔と同じように

    さお

    になって

    ちあがると、

    葬龕

    ずし

    の階段を昇って死骸の上に身をかがめた――。その

    途端

    とたん

    に、死んでいる夫人が彼をあざけるようにじろりと

    にら

    むとともに、一つの眼で何か目配せをしたように見えた。ヘルマンは思わず後ずさりするはずみに、足を踏みはずして地に倒れた。二、三人が飛んで来て、彼を引き起こしてくれたが、それと同時に、失神したリザヴェッタ・イヴァノヴナも教会の玄関へ運ばれて行った。
     この出来事がすこしのあいだ、陰鬱な葬儀の

    荘厳

    そうごん

    をみだした。一般会葬者のあいだからも低い

    つぶや

    き声が起こって来た。

    背丈

    せい

    の高い、痩せた男で、亡き人の親戚であるという侍従職がそばに立っている英国人の耳もとで「あの青年士官は伯爵夫人の

    私生児

    しせいじ

    ですよ」とささやくと、その英国人はどうでもいいといった調子で、「へえ!」と答えていた。
     その日のヘルマンは

    終日

    しゅうじつ

    、不思議に興奮していた。場末の料理屋へ行って、常になく彼はしたたかに酒をあおって、内心の動揺をぬぐい去ろうとしたが、酒はただいたずらに彼の空想を刺戟するばかりであった。家へかえると、かれは着物を着たままで、ベッドの上に身を投げ出して、深い眠りに落ちてしまった。

     彼が眼をさました時は、もう夜になっていたので、月のひかりが部屋のなかへさし込んでいた。時計をみると三時を十五分過ぎていた。もうどうしても寝られないので、彼はベッドに腰をかけて、老伯爵夫人の葬式のことを考え出した。
     あたかもそのとき何者かが往来からその部屋の窓を見ていたが、またすぐに通り過ぎた。ヘルマンは別に気にもとめずにいると、それからまた二、三分の後、控えの間のドアのあく音がきこえた。ヘルマンはその伝令下士がいつものように、夜遊びをして酔っ払って帰って来たものと思ったが、どうも聞き慣れない

    跫音

    あしおと

    で、誰かスリッパを

    穿

    いて床の上をそっと歩いているようであった。ドアがあいた。
     ――と思うと、真っ白な着物をきた女が部屋にはいって来た。ヘルマンは自分の老いたる乳母と勘違いをして、どうして真夜中に来たのであろうと驚いていると、その白い着物の女は部屋を横切って、彼の前に突っ立った。――ヘルマンはそれが伯爵夫人であることに気がついた。
    「わたしは不本意ながらあなたの所へ来ました」と、彼女はしっかりした声で言った。「わたしはあなたの懇願を

    れてやれと言いつかったのです。三、七、一の順に続けて賭けたなら、あなたは勝負に勝つでしょう。しかし二十四時間内にたった一回より勝負をしないということと、生涯に二度と骨牌の賭けをしないという条件を守らなければなりません。それから、あなたがわたしの附き添い人のリザヴェッタ・イヴァノヴナと結婚して下されば、私はあなたに殺されたことを

    ゆる

    しましょう」
     こう言って、彼女は静かにうしろを向くと、足を引き摺るようにドアの方へ行って、たちまちに消えてしまった。ヘルマンは表のドアのあけたてする音を耳にしたかと思うと、やがてまた、何者かが窓から覗いているのを見た。
     ヘルマンはしばらく我れに

    かえ

    ることが出来なかったが、やっとのことで起ち上がって次の間へ行ってみると、伝令下士は

    ゆか

    の上に横たわって眠っていたので、さんざん

    手古摺

    てこず

    った挙げ句にようやく眼をさまさせて、表のドアの鍵をかけさせた。彼は自分の部屋にもどって、蝋燭をつけて、自分が幻影を見たことを細かに書き留めておいた。

           六

     精神界において二つの固定した

    想念

    アイデア

    が共存するということは、物質界において二つの物体が同時に同じ場所に存在する事と同じように不可能である。「三、七、一」の秘伝は、すぐにヘルマンの心から死んだ伯爵夫人の思い出を追いのけてしまって、彼の頭のなかを間断なく駈け廻っては彼の口によって繰り返されていた。
     もし若い娘でも見れば、彼は「よう、なんて美しいんでしょう。まるでハートの三そっくりだ」と言うであろう。また、もし誰かが「いま何時でしょうか」と

    いたとしたら、彼は「七時五分過ぎ」と答えるであろう。それからまた、丈夫そうな人たちに出逢ったときには彼はすぐに一の字を思い出した。「三、七、一」の字は寝ていても彼の脳裏に出没して、あらゆる形となって現われた。
     彼の目の前には三の切り札が

    爛漫

    らんまん

    たる花となって咲き乱れ、七の切り札はゴシック式の半身像となり、一の切り札は大きい蜘蛛となって現われた。そうして、ただ一つの考え――こんなにも高価であがなった以上、この秘密を最も有効に使用しようということばかりが彼の心をいっぱいに埋めていた。彼は

    賜暇

    しか

    を利用して外遊して、パリにたくさんある公営の賭博場へ行って運試しをやろうと考えた。ところが、そんな面倒なことをするまでもなく、彼にとっていい機会が到来した。
     モスクワには、有名なシェカリンスキイが

    元締

    もとじめ

    をしている富豪連の賭博の会があった。このシェカリンスキイはその全生涯を賭博台の前に送りながら何百万の富を築き上げたという人間で、自分が勝てば手形で受け取り、負ければ現金で即座に支払っていた。彼は自分の長いあいだの経験によって仲間からも信頼せられ、彼のあけっ放しの家と、彼の腕利きの料理人と、それから彼が人をそらさぬ態度とによって、一般の人びとから尊敬のまとになっていた。その彼がセント・ペテルスブルグにやって来たので、この首府の若い人びとは舞踏や、女を口説きおとすことなどはそっちのけにして、ファロー(指定の骨牌一組のうちから出て来る順序を当てる一種の賭け骨牌)に

    耽溺

    たんでき

    せんがために、みなその部屋に集まって来た。
     かれらは

    慇懃

    いんぎん

    な召使いの大勢立っている立派な部屋を通って行った。賭博場は人でいっぱいであった。将軍や顧問官はウイスト(四人でする一種の賭け骨牌)を試みていた。若い人びとはビロード張りの長椅子にだらしなく

    りながら

    氷菓子

    アイス

    を食べたり、煙草をくゆらしたりしていた。応接間では、賭けをするひと組の連中が取り巻いている長いテーブルの上席にシェカリンスキイが坐って元締をしていた。
     彼は非常に上品な

    風采

    ふうさい

    の五十がらみの男で、頭髪は銀のように白く、そのむっくりと

    ふと

    った血色のいい顔には善良の

    しょう

    があらわれ、その眼は間断なく微笑にまたたいていた。ナルモヴは彼にヘルマンを引き合わせた。シェカリンスキイは十年の知己のごとくにヘルマンの手を握って、どうぞご遠慮なくと言ってから、骨牌を配りはじめた。
     その勝負はしばらく時間をついやした。テーブルの上には三十枚以上の切り札が置いてあった。シェカリンスキイは骨牌を一枚ずつ投げては少しく

    を置いて、賭博者に持ち札を揃えたり、負けた金の覚え書きなどをする時間をあたえ、一方には賭博者の要求に対していちいち

    慇懃

    いんぎん

    に耳を傾け、さらに賭博に沈黙を守りながら、賭博者の誰かが何かの拍子に手で曲げてしまった骨牌の角を

    ばしたりしていた。やがて、その勝負は終わった。シェカリンスキイは骨牌を切って、再び配る準備をした。
    「どうぞ私にも一枚くださいませんか」と、ヘルマンは勝負をしている一人の男らしい紳士のうしろから手を差し伸べて言った。
     シェカリンスキイは微笑を浮かべると、承知しましたという合図に静かに

    かしら

    を下げた。ナルモヴは笑いながら、ヘルマンが長いあいだ守っていた――骨牌を手にしないという誓いを破ったことを祝って、彼のために

    幸先

    さいさき

    のいいように望んだ。
    「張った」と、ヘルマンは自分の切り札の裏に

    白墨

    チョーク

    で何か

    しるし

    を書きながら言った。
    「おいくらですか」と、元締が眼を細くしてたずねた。「失礼ですが、わたくしにはよく見えませんので……」
    「四万七千ルーブル」と、ヘルマンは答えた。
     それを聞くと、部屋じゅうの人びとは一斉に振りむいて、ヘルマンを見つめた。
    「こいつ、どうかしているぞ」と、ナルモヴは思った。
    「ちょっと申し上げておきたいと存じますが……」と、シェカリンスキイが、例の微笑を浮かべながら言った。「あなたのお賭けなさる金額は多過ぎはいたしませんでしょうか。今までにここでは、一度に二百七十五ルーブルよりお張りになったかたはございませんが……」
    「そうですか」と、ヘルマンは答えた。「では、あなたはわたくしの切り札をお受けなさるのですか、それともお受けなさらないのですか」
     シェカリンスキイは同意のしるしに頭を下げた。
    「ただわたくしはこういうことだけを申し上げたいと思うのですが……」と、彼は言った。「むろん、わたくしは自分のお友達のかたがたを十分信用してはおりますが、これは現金で賭けていただきたいのでございます。わたくし自身の立ち場から申しますと、実際あなたのお言葉だけで結構なのでございますが、賭け事の規定から申しましても、また、計算の便宜上から申しましても、お賭けになる金額をあなたの札の上に置いていただきたいものでございます」
     ヘルマンはポケットから小切手を出して、シェカリンスキイに渡した。彼はそれをざっと調べてからヘルマンの切り札の上に置いた。
     それから彼は骨牌を配りはじめた。右に九の札が出て、左には三の札が出た。
    「僕が勝った」と、ヘルマンは自分の切り札を見せながら言った。
     驚愕のつぶやきが賭博者たちのあいだから起こった。シェカリンスキイは眉をひそめたが、すぐにまた、その顔には微笑が浮かんできた。
    「どうか清算させていただきたいと存じますが……」と、彼はヘルマンに言った。
    「どちらでも……」と、ヘルマンは答えた。
     シェカリンスキイはポケットからたくさんの小切手を引き出して即座に支払うと、ヘルマンは自分の勝った金を取り上げて、テーブルを退いた。ナルモヴがまだ茫然としている間に、彼はレモネードを一杯飲んで、家へ帰ってしまった。
     翌日の晩、ヘルマンは再びシェカリンスキイの家へ出かけた。主人公はあたかも切り札を配っていたところであったので、ヘルマンはテーブルの方へ進んで行くと、勝負をしていた人たちは

    ただ

    ちに彼のために場所をあけた。シェカリンスキイは丁寧に挨拶した。
     ヘルマンは次の勝負まで待っていて、一枚の切り札を取ると、その上にゆうべ勝った金と、自分の持っていた四万七千ルーブルとを一緒に賭けた。
     シェカリンスキイは骨牌を配りはじめた。右にジャックの一が出て、左に七の切り札が出た。
     ヘルマンは七の切り札を見せた。
     一斉に感嘆の声が湧きあがった。シェカリンスキイは明らかに不愉快な顔をしたが、九万四千ルーブルの金額をかぞえて、ヘルマンの手に渡した。ヘルマンは出来るだけ冷静な態度で、その金をポケットに入れると、すぐに家へ帰った。
     次の日の晩もまた、ヘルマンは賭博台にあらわれた。人びとも彼の来るのを期待していたところであった。将軍や顧問官も実に非凡なヘルマンの賭けを見ようというので、自分たちのウイストの賭けをやめてしまった。青年士官らは長椅子を離れ、召使いたちまでがこの部屋へはいって来て、みなヘルマンのまわりに押し合っていた。勝負をしていたほかの連中も賭けをやめて、どうなることかと、もどかしそうに見物していた。
     ヘルマンはテーブルの前に立って、相変わらず

    微笑

    ほほえ

    んではいるが蒼い顔をしているシェカリンスキイと、一騎打ちの勝負をする準備をした。新しい骨牌の封が切られた。シェカリンスキイは札を切った。ヘルマンは一枚の切り札を取ると、小切手の束でそれを

    おお

    った。二人はさながら決闘のような意気込みであった。深い沈黙が四方を圧した。
     シェカリンスキイの骨牌を配り始める手はふるえていた。右に女王が出た。左に一の札が出た。
    「一が勝った」と、ヘルマンは自分の札を見せながら叫んだ。
    「あなたの女王が負けでございます」と、シェカリンスキイは慇懃に言った。
     ヘルマンははっとした。一の札だと思っていたのが、いつの間にかスペードの女王になっているではないか。
     彼は自分の眼を信じることも、どうしてこんな間違いをしたかを理解することも出来なかった。

    途端

    とたん

    に、そのスペードの女王が皮肉な冷笑を浮かべながら、自分の方に眼配せしているように見えた。その顔が彼女に生き写しであるのにぎょっとした。
    「老伯爵夫人だ」と、彼は恐ろしさのあまりに思わず叫んだ。
     シェカリンスキイは自分の勝った金を掻き集めた。しばらくのあいだ、ヘルマンは身動き一つしなかったが、やがて彼がテーブルを離れると、部屋じゅうが騒然と沸き返った。
    「実に見事な勝負だった」と、賭博者たちは称讃した。シェカリンスキイは新しく骨牌を切って、いつものように勝負を始めた。

     ヘルマンは発狂した。そうして今でもなお、オブコフ病院の十七号病室に監禁されている。彼はほかの問いには返事をしないが、絶えず非常な早口で「三、七、一!」「三、七、一!」とささやいているのであった。
     リザヴェッタ・イヴァノヴナは、老伯爵夫人の以前の執事の息子で前途有望の青年と結婚した。その男はどこかの県庁に奉職して、かなりの収入を得ているが、リザヴェッタはやはり貧しい女であることに甘んじている。
     トムスキイは大尉級に昇進して、ポーリン公爵令嬢の夫となった。




    底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年9月4日初版発行
       2002(平成14)年6月20日新装版初版発行

    妖物  アンブローズ・ビヤース

    世界怪談名作集

    妖物

    アンブローズ・ビヤース Ambrose Bierce

    岡本綺堂訳

           一

     

    粗木

    あらき

    のテーブルの片隅に置かれてあるあぶら蝋燭の光りを頼りに、一人の男が書物に何か書いてあるのを読んでいた。それはひどく摺り切れた古い計算帳で、その男は

    燈火

    あかり

    によく照らして視るために、時どきにそのページを蝋燭の側へ近寄せるので、火をさえぎる書物の影が部屋の半分をおぼろにして、そこにいる幾人かの顔や形を暗くした。書物を読んでいる男のほかに、そこには八人の男がいるのである。
     そのうちの七人は動かず、物言わず、あらけずりの丸太の壁にむかって腰をかけていたが、部屋が狭いので、どの人もテーブルから遠く離れていなかった。かれらが手を伸ばせば八人目の男のからだに触れることが出来るのである。その男というのは、顔を仰向けて、半身を

    敷布

    シーツ

    におおわれて、両腕をからだのそばに伸ばして、テーブルの上に横たわっていた。彼は死んでいるのである。
     書物にむかっている男は声を出して読んでいるのではなかった。ほかの者も口をきかなかった。すべての人が来たるべき何事かを待っている様子で、死んだ人ばかりが待つこともなしに眠っているのである。外は真の闇で、窓の代りにあけてある壁の穴から荒野の夜の聞き慣れないひびきが伝わって来た。遠くきこえる狼のなんともいえないように長い尾をひいて吠える声、木立ちのなかで休みなしに鳴く虫の静かに浪打つようなむせび声、昼の鳥とはまったく違っている

    夜鳥

    ナイトバード

    の怪しい叫び声、めくら

    滅法界

    めっぽうかい

    に飛んでくる大きい

    甲虫

    かぶとむし

    の唸り声、

    こと

    にこれらの小さい虫の

    合奏曲

    コーラス

    が突然やんで半分しかきこえない時には、なにかの秘密を

    さと

    らせるようにも思われた。
     しかし、ここに集まっている人びとはそんなことを気にとめる者もなかった。ここの一団が実際的の必要を認めないことに興味を有していないのは、たった一つの暗い蝋燭に照らされている、かれらの粗野なる顔つきをみても明らかであった。かれらは皆この近所の人びと、すなわち農夫や

    樵夫

    きこり

    であった。
     書物を読んでいる人だけは少し違っていた。人は彼をさして、世間を広くわたって来た人であると言っているが、それにもかかわらず、その風俗は周囲の人びとと同じ仲間であることを証明していた。彼の

    上衣

    うわぎ

    はサンフランシスコでは通用しそうもない型で、履き物も町で作られた物ではなく、自分のそばの床に置いてある帽子――この中で帽子をかぶっていないのは彼一人である――は、もしも単にそれを人間の装飾品と考えたらば大間違いになりそうな

    代物

    しろもの

    であった。彼の容貌は職権を有する人に適当するように、自然に馴らされたのか、あるいは

    いて

    よそお

    っているのか知らないが、一方に厳正を示すとともに、むしろ人好きのするようなふうであった。なぜというに、彼は

    検屍官

    けんしかん

    である。彼がいま読んでいる書物を取り上げたのもその職権に

    るもので、書物はこの事件を取り調べているうちに死人の小屋の中から発見されたのであった。

    審問

    しんもん

    は今この小屋で開かれている。
     検屍官はその書物を読み終わって、それを自分のポケットに入れた。その時に入り口の戸が押しあけられて、一人の青年がはいって来た。彼は明らかにここらの

    山家

    やまが

    に生まれた者ではなく、ここらに育った者でもなく、町に住んでいる人びとと同じような服装をしていた。しかも遠路を歩いて来たように、その着物は

    ほこり

    だらけになっていた。実際、彼は審問に応ずるために、馬を飛ばして急いで来たのであった。
     それを見て、検屍官は

    会釈

    えしゃく

    したが、ほかの者は誰も挨拶しなかった。
    「あなたの見えるのを待っていました」と、検屍官は言った。「今夜のうちにこの事件を片付けてしまわなければなりません」
     青年はほほえみながら答えた。
    「お待たせ申して相済みません。私は外へ出ていました。……あなたの

    喚問

    かんもん

    を避けるためではなく、その話をするために、たぶん呼び返されるだろうと思われる事件を原稿に書いて、わたしの新聞社へ郵送するために出かけたのです」
     検屍官も微笑した。
    「あなたが自分の新聞社へ送ったという記事は、おそらくこれから宣誓の上でわれわれに話していただくこととは違いましょう」
    「それはご随意に」と、相手はやや熱したように、その顔を

    あか

    くして言った。「わたしは複写紙を用いて、新聞社へ送った記事の写しを持って来ました。しかし、それが信用できないような事件であるので、普通の新聞記事のようには書いてありません、むしろ小説体に書いてあるのですが、宣誓の上でそれを私の証言の一部と認めていただいてよろしいのです」
    「しかし、あなたは信用できないというではありませんか」
    「いや、それはあなたに

    かか

    り合いのないことで、わたしが本当だといって宣誓すればいいのでしょう」
     検屍官はその眼を

    ゆか

    の上に落として、しばらく黙っていると、小屋のなかにいる他の人びとは小声で何か話し始めたが、やはりその眼は死骸の上を離れなかった。検屍官はやがて眼をあげて宣告した。
    「それではふたたび審問を開きます」
     人びとは脱帽した。証人は宣誓した。
    「あなたの名は……」と、検屍官は訊いた。
    「ウィリアム・ハーカー」
    「年齢は……」
    「二十七歳」
    「あなたは死人のヒュウ・モルガンを

    っていますか」
    「はい」
    「モルガンの死んだ時、あなたも一緒にいましたか」
    「そのそばにいました」
    「あなたの見ている前でどんなことがありましたか。それをお

    たず

    ね申したいのです」
    「わたくしは銃猟や魚釣りをするために、ここへモルガンを

    たず

    ねて来たのです。もっとも、そればかりでなく、わたくしは彼について、その寂しい山村生活を研究しようと思ったのです。彼は小説の人物としてはいいモデルのように見えました。わたくしは時どきに

    物語

    ストーリー

    をかくのです」
    「わたしも時どきに読みますよ」
    「それはありがとうございます」
    「いや、一般のストーリーを読むというので……。あなたのではありません」
     陪審官のある者は笑い出した。陰惨なる背景に対して、ユーモアは非常に明かるい気分をつくるものである。戦闘中の軍人はよく笑い、死人の部屋における一つの冗談はよくおどろきに打ち勝つことがある。
    「この人の死の状況を話してください」と、検屍官は言った。「あなたの随意に、筆記帳でも控え帳でもお使いなすってよろしい」
     証人はその意を

    りょう

    して、胸のポケットから原稿をとり出した。彼はそれを蝋燭の火に近寄せて、自分がこれから読もうとするところを見いだすまで、その幾枚を繰っていた。

           二

     ――われらがこの家を

    いで

    たる時、日はいまだ昇らざりき。われらは

    うずら

    あさ

    らんがために、手に手に散弾銃をたずさえて、ただ一頭の犬をひけり。
     最もよき場所は

    あぜ

    を越えたるところに在り、とモルガンは指さして教えたれば、われらは低き

    かしわ

    の林をゆき過ぎて、草むらに沿うて行きぬ。路の片側にはやや平らかなる土地ありて、野生の

    燕麦

    からすむぎ

    をもって深く

    おお

    われたり。われらが林を

    いで

    て、モルガンは五、六ヤードも前進せる時、やや前方に当たれる右側のすこしく隔たりたるところに、

    けもの

    のたぐいが

    やぶ

    を突き進むがごときひびきを聞けり。その響きは突然に起こりて、草木のはげしく動揺するを見たり。
    「われらは鹿を狩りいだしぬ。かくと知らば

    旋条銃

    ライフル

    を持ち来たるべかりしに……」と、われは言いぬ。
     モルガンは歩みを

    めて、動揺する林を注意深く窺いいたり。彼は何事をも語らざりき。しかも、その銃の打ち

    がね

    をあげて、何物をか狙うがごとくに身構えせり。

    焦眉

    しょうび

    の急がにわかに迫れる時にも、彼は

    はなは

    だ冷静なるをもって知られたるに、今や少しく興奮せる

    てい

    を見て、われは驚けり。
    「や、や」と、われは言いぬ。「

    うずら

    撃つ銃をもて鹿を撃つべくもあらず。君はそれをこころみんとするか」
     彼はなお答えざりき。しかもわがかたへ少しく振り向きたる時、われはその顔色の

    はげ

    しきに甚だしくおびやかされたり。かくてわれは、容易ならざる仕事がわれらの目前に横たわれることを

    さと

    りぬ。おそらく灰色熊を狩り出したるにあらずやと、われはまず推量して、モルガンのほとりに進み寄り、おなじくわが銃の打ち金をあげたり。
     藪のうちは今や

    しず

    まりて、物の響きもやみたれど、モルガンは前のごとくにそこを窺いいるなり。
    「何事にや。何物にや」と、われは問いぬ。

    妖物

    ダムドシング

    ?」と、彼は見かえりもせずに答えぬ。その声は怪しくうら

    れて、かれは明らかにおののけり。
     彼は更に言わんとする時、近きあたりの燕麦がなんとも言い分け難き不思議のありさまにて狂い騒ぐを見たり。それは風の通路にあたりて動揺するがごとく、麦は押し曲げらるるのみならず、押し倒され、押し

    ひし

    がれて、ふたたび起きも得ざりき。しかも、その風のごとき運動は

    じょ

    じょにわがかたへも延長し来たれるなり。
     この見馴れざる不可解の現象ほど、われに奇異の感を

    いだ

    かしめたることはかつてなかりき。しかもわれはなお、それに対して恐怖の念を起こすにいたらざりき。われはかくの如くに記憶す。――たとえば、開かれたる窓より何心なしに表をながめたる時、目前にある小さき立ち木を遠方にある大木の林の一本と見誤まることあり。それは遠方の大木と同様の大きさに見ゆれど、しかもその

    かさ

    においても、その局部においても、後者とはまったく一致せざるはずなり。要するに、大気中における遠近錯覚に過ぎざるなれど、一時は人を驚かし、人を恐れしむることあり。われらは最も見馴れたる自然の法則の、最も普通なる運用を信頼し、そのあいだになんらかの疑うべきものあるを見れば、

    ただ

    ちにそれをもってわれらの安全をおびやかすか、あるいは不思議なる災厄の予報と認むるを常とす。されば、今や草むらが理由なくして動揺し、その動揺の一線が迷うことなくおもむろに進行し来たるをみれば、たとい恐怖を感ぜざるまでも、確かに不安を感ぜざるを得ざるなり。
     わが同伴者は実際に恐怖を感じたるがごとく、あわやと見る間に、彼は突然その銃を肩のあたりに押し当てて、ざわめく穀物にむかって二発を射撃したり。その

    たま

    けむりの消えやらぬうちに、われは野獣の

    ゆるがごとき

    獰猛

    どうもう

    なる叫び声を高く聞けり。モルガンはその銃を地上に投げ捨てて、

    おど

    り上がって現場より走り

    退

    きぬ。それと同時に、われはある物の衝突によって地上に激しく投げ倒されたり。煙りにさえぎられて確かに見えざりしが、柔らかく、しかも重き物体が大いなる力をもってわれに衝突したりしと覚ゆ。
     われは再び起きあがりて、わが手より取り落としたる銃を拾い上げんとする前に、モルガンが今や

    最期

    さいご

    かとも思わるる苦痛の叫びをあぐるを聞けり。さらにまた、その叫び声にまじりて、闘える犬の

    うな

    るがごとき

    皺枯

    しわが

    れたる

    すさ

    まじき声をも聞けり。異常の恐怖に襲われて、われはあわてて

    ね起きつつモルガンの走り行きたる方角を打ち見やれば、ああ、二度とは見まじき怖ろしの有様なりしよ。三十ヤードとは隔てざる

    ところ

    に、わが友は片膝を突いてありき。その

    かしら

    は甚だしき角度にまでのけぞりて、その長き髪はかき乱され、その全身は右へ左へ、前へうしろへ、激しく揺られつつあるなり。その右の腕は高く挙げられたれど、わが眼にはその手先はなきように見えたり。左の腕はまったく見えざりき。わが記憶によれば、この時われはその身体の一部を認めたるのみにて、他の部分はさながら

    ぼか

    されたるように見えしと言うのほかなかりき。やがてその位置の移動によりて、すべての姿は再び我が眼に入れり。
     かく言えばとて、それらはわずかに数秒時間の出来事に過ぎず。そのあいだにもモルガンはおのれよりも

    すぐ

    れたる重量と力量とに圧倒されんとする、決死の

    力者

    りきしゃ

    のごとき姿勢を保ちつつありき。しかも、彼のほかには何物をも認めず、彼の姿もまた折りおりには定かならざることありき。彼の叫びと呪いの声は絶えず聞こえたれど、その声は人とも

    けもの

    とも分かぬ一種の兇暴

    獰悪

    ねいあく

    の唸り声に圧せられんとしつつあるなり。
     われは

    しばら

    くなんの思案もなかりしが、やがてわが銃をなげ捨てて、わが友の応援に

    せむかいぬ。われはただ漠然と、彼はおそらく逆上せるか、あるいは

    痙攣

    けいれん

    を発せるならんと想像せるなり。しかもわが走り着く前に、彼は倒れて動かずなりぬ。すべての物音は鎮まりぬ。しかもこれらの出来事なくとも、われを恐れしむることありき。
     われは今や再びかの不可解の運動を見たり。野生の燕麦は風なきに乱れ騒ぎて、眼にみえざる動揺の一線は

    俯伏

    うつぶ

    しに倒れている人を越えて、踏み荒らされたる現場より森のはずれへ、しずかに真っ直ぐにすすみゆくなり。それが森へと行き着くを見おくり果てて、さらにわが同伴者に眼を移せば――彼はすでに死せり。

           三

     検屍官はわが席を離れて、死人のそばに立った。彼は

    敷布

    シーツ

    のふちを

    って引きあげると、死人の全身はあらわれた。死体はすべて赤裸で、蝋燭のひかりのもとに粘土色に黄いろく見えた。しかも明らかに打撲傷による出血と認められる青黒い大きい

    汚点

    しみ

    が幾カ所も残っていた。胸とその周囲は棍棒で殴打されたように見られた。ほかに怖ろしい引っ掻き

    きず

    もあって、糸のごとく、または切れ屑のごとくに裂かれていた。
     検屍官は更にテーブルのはしへ廻って、死体の

    あご

    から頭の上にかかっている絹のハンカチーフを取りはずすと、

    咽喉

    いんこう

    がどうなっているかということが

    あら

    われた。陪審官のある者は好奇心にかられて、それをよく見定めようとして

    ちかかったのもあったが、彼らはたちまちに顔をそむけてしまった。証人のハーカーは窓をあけに行って、わずらわしげに悩みながら窓台に

    りかかっていた。死人の

    くび

    にハンカチーフを置いて、検屍官は部屋の隅へ行った。彼はそこに積んである着物のきれはしをいちいちに取り上げて検査すると、それはずたずたに引き裂かれて、乾いた血のために固くなっていた。陪審官はそれに興味を持たないらしく、近寄って綿密に検査しようともしなかった。彼らは先刻すでにそれを見ているからである。彼らにとって新しいのは、ハーカーの証言だけであった。
    「皆さん」と、検屍官は言った。「わたくしの考えるところでは、

    最早

    もはや

    ほかに証拠はあるまいと思われます。あなたがたの職責はすでに証明した通りであるから、この上に質問するようなことがなければ、外へ出てこの評決をお考えください」
     陪審長が起ちあがった。粗末な服を着た、六十ぐらいの、

    ひげ

    の生えた

    背丈

    せい

    の高い男であった。
    「検屍官どのに一言おたずね申したいと思います」と、彼は言った。「その証人は近ごろどこの精神病院から抜け出して来たのですか」
    「ハーカー君」と、検屍官は

    おも

    おもしく、しかもおだやかに言った。「あなたは近ごろどこの精神病院を抜け出して来たのですか」
     ハーカーは烈火のごとくになったが、しかしなんにも言わなかった。もちろん、本気で

    くつもりでもないので、七人の陪審官はそのままに列をなして、小屋の外へ出て行ってしまった。検屍官とハーカーと、死人とがあとに残された。
    「あなたは私を侮辱するのですか」と、ハーカーは言った。「私はもう勝手に帰ります」
    「よろしい」
     ハーカーは行こうとして、戸の掛け金に手をかけながら、また立ちどまった。彼が職業上の習慣は、自己の威厳を保つという心持ちよりも強かったのである。彼は振り返って言った。
    「あなたが持っている書物は、モルガンの日記だと思います。あなたはそれに多大の興味を有していられるようで、わたしが証言を陳述している間にも読んでいられました。わたしにもちょっと見せていただけないでしょうか。おそらく世間の人びともそれを知りたいと思うでしょうから……」
    「いや、この書物にはこの事件に関するなんの形をもとどめていません」と、検屍官はそれを

    上衣

    うわぎ

    のポケットに

    すべ

    り込ませた。「これにある記事はみんな本人の死ぬ前に書いたものです」
     ハーカーが出て行ったあとへ、陪審官らは再びはいって来て、テーブルのまわりに立った。そのテーブルの上には、かの

    おお

    われたる死体が、

    敷布

    シーツ

    の下に行儀よく置かれてあった。陪審長は胸のポケットから鉛筆と紙きれを

    り出して、念入りに次の評決文を書くと、他の人びともみな念を入れて署名した。
     ――われわれ陪審官はこの死体はマウンテン・ライオン(豹の一種)の手に

    って殺されたるものと認む。

    ただ

    し、われわれのある者は、死者が

    癲癇

    てんかん

    あるいは痙攣のごとき疾病を有するものと思考し、一同も同感なり。

           四

     ヒュウ・モルガンが残した最後の日記は確かに興味ある記録で、おそらく科学的の暗示を与えるものであろう。その死体検案の場合に、日記は証拠物として提示されなかった。検屍官はたぶんそんなものを見せることは、陪審官の頭を混乱させるに過ぎないと考えたらしい。日記の第一項の日付けははっきりせず、その紙の上部は引き裂かれていたが、残った分には次のようなことが

    しる

    されている。
     ――犬はいつでも中心の方へ頭をむけて、半円形に駈けまわる。そうして、ふたたび静かに立って激しく吠える。しまいには出来るだけ早く

    やぶ

    の方へ駈けてゆく。はじめはこの犬め、気が違ったのかと思ったが、

    うち

    へ帰って来ると、おれの罰を恐れている以外に別に変わった様子も見せない。犬は鼻で見ることが出来るのだろうか。物の匂いが脳の中枢に感じて、その匂いを発散する物の形を想像することが出来るのだろうか。
     九月二日――ゆうべ星を見ていると、その星がおれの家の東にあたる

    あぜ

    の境の上に出ている時、左から右へとつづいて消えていった。その消えたのはほんの一

    刹那

    せつな

    で、また同時に消える数がわずかだったが、畔の全体の長さに沿うて一列二列の間はぼかされていた。おれと星との間を何物かが通ったのらしいと思ったが、おれの眼にはなんにも見えない。また、その物の輪郭を限ることの出来ないほどに、星のひかりも曇ってはいないのだ。ああ、こんなことは

    いや

    だ……。
    (日記の紙が三枚

    ぎ取られているので、それから数週間の記事は失われている。)
     九月二十七日――あいつが再びここへ出て来た。おれは毎日あいつが出現することの証拠を握っているのだ。おれは昨夜もおなじ

    上掩

    うわおお

    いを着て、鹿撃ち弾を二重

    めにした鉄砲を持って、夜のあけるまで見張っていたのだが、朝になって見ると新しい足跡が前の通りに残っているではないか。しかし、おれは誓って眠らなかったのだ。確かにひと晩じゅう眠らないはずだ。
     どうも怖ろしいことだ。どうにも防ぎようのないことだ。こんな奇怪な経験が本当ならば、おれは気違いになるだろう。万一それが空想ならば、おれはもう気違いになっているのだ。
     十月三日――おれは立ち去らない。あいつにおれを追い出すことが出来るものか。そうだ、そうだ。ここはおれの家だ、ここはおれの土地だ。神さまは卑怯者をお憎みなさるはずだ。
     十月五日――おれはもう我慢が出来ない。おれはハーカーをここへ呼んで、幾週間を一緒に過ごしてもらうことにした。ハーカーは気のおちついた男だ。あの男がおれを気違いだと思うかどうかだが、その様子をみていれば大抵判断ができるはずだ。
     十月七日――おれは秘密を解決した。それはゆうべ判ったのだ――一種の

    示顕

    じげん

    を蒙ったように突然に判ったのだ。なんという単純なことだ――なんという怖ろしい単純だ!
     世の中にはおれたちに聞こえない物音がある。音階の両端には、人間の耳という不完全な機械の

    鼓膜

    こまく

    には震動を感じられないような音符がある。その音はあまりに高いか、またはあまりに低いかであるのだ。おれは木の頂上に

    つぐみ

    の群れがいっぱいに止まっているのを見ていると――一本の木ではない、たくさんの木に止まっているのだ――そうして、みな声を張りあげて歌っているのだ。すると、不意に――一瞬間に――まったく同じ一刹那に――その鳥の群れはみな空中へ舞いあがって飛び去ってしまった。それはなぜだろう。どの木も重なって邪魔になって、鳥にはおたがい同士が見えないはずだ。また、どこにもその指揮者――みんなから見えるような指揮者の棲んでいる場所がないのだ。してみれば、そこには何か普通のがちゃがちゃいう以上に、もっと高い、もっと鋭い、通知か指揮かの合図がなければならない。ただ、おれの耳にきこえないだけのことだ。
     おれはまた、それと同じようにたくさんの鳥が一度に飛び去る例を知っている。鶫の仲間ばかりでなく、たとえば

    うずら

    のような鳥が藪のなかに広く分かれている時、さらに遠い岡のむこう側にまで分かれている時、なんの物音もきこえないにもかかわらず、たちまち一度に飛び去ることがあるのだ。
     船乗りたちはまた、こんなことを知っている。

    くじら

    の群れが大洋の表面に浮かんだり沈んだりしている時、そのあいだに凸形の陸地を有して数マイルを隔てているにもかかわらず、ある時には同じ刹那に泳ぎ出して、一瞬間にすべてその影を見失うことがある。信号が鳴らされた――マストの上にいる水夫やデッキにいるその仲間の耳にはあまりに低いが、それでも寺院の石がオルガンの低い音響にふるえるように、船のなかではその

    顫動

    せんどう

    を感じるのだ。
     音響とおなじことで、物の色もやはりそうだ。化学者には太陽のひかりの各端に

    化学線

    アクテニック・レイ

    というものの存在を見いだすことが出来る。その線は

    しゅ

    じゅの色をあらわすもので、光線の成分にしたがって完全な色を見せるのだそうだが、われわれにはそれを区別することが出来ない。人間の眼は耳とおなじように不完全な機械で、その眼のとどく程度はただわずかに染色性の一部に限られているのだ。おれは気が違っているのではない、そこには俺たちの眼にもみえない種じゅの色があるのだ。
     そこで、たしかに嘘でない、あの妖物はそんなたぐいの色であった!


    底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年8月4日初版発行
    ※底本は表題に、「

    妖物

    ダムドシング

    」とルビをふっています。

    クラリモンド ゴーチェ Theophile Gautier

    世界怪談名作集

    クラリモンド

    ゴーチェ Theophile Gautier

    岡本綺堂訳

           一

     わたしがかつて恋をしたことがあるかとお

    たず

    ねになるのですか。あります。わたしの話はよほど変わっていて、しかも怖ろしい話です。わたしは六十六歳になりますが、いまだにその記憶の灰をかき乱したくないのです。
     わたしはごく若い少年の頃から、僧侶の務めを自分の天職のように思っていましたので、すべて私の勉強はその方面のことに向けていました。二十四のころまでのわたしの生活は、長い初学者としての生活でした。神学の課程を

    えますと、つづいて

    しゅ

    じゅの雑務に従事しましたが、牧師長の人たちはわたしがまだ若いにもかかわらず、わたしを認めてくれまして、最後に聖職につくことを許してくれました。そうして、その僧職の授与式は復活祭の週間のうちに行なわれることに決まりました。
     わたしはその頃まで、世間に出たことがありませんでした。わたしの世界は、学校の壁と、神学校関係の社会だけに限られていました。それで、わたしは世間でいう女というものには、極めて漠然とした考えしか持っていませんでしたし、また、そんな問題において考えたりすることは決してありませんでしたので、全く無邪気のままに生活していたのでした。私は一年にたった二度、わたしの年老いた虚弱な母に逢いに行くばかりで、私とほかの世間との

    かか

    り合いというものは、全くこれだけのことしかなかったのであります。
     わたしはこの生活になんの不足もありませんでした。わたしは自分が二度と替えられない終身の職に就いたことに対しては、なんの

    躊躇

    ためらい

    も感じていませんでした。私はただ心の喜びと、胸の

    おど

    りを感じていました。どんな婚約をした恋人でも、わたしほどの夢中の喜びをもって、ゆるやかな時刻の過ぎるのをかぞえたことはありますまい。わたしは寝る時には、

    聖餐式

    せいさんしき

    でわたしが説教する時のことを夢みながら

    とこ

    につくのです。わたしはこの世に、僧侶になるというほどの喜びは、他に何もないものだと信じていました。詩人になれても、帝王になれても、わたしはそれを断わりたいほどで、わたしの野心はもうこの僧侶以上に何も思っていませんでした。
     とうとう私にとって大事の日が参りました。私はまるで自分の肩に

    はね

    でも生えているように、浮きうきした心持ちで、教会の方へ軽く歩んでいました。まるで自分を

    天使

    エンジェル

    のように思うくらいでした。そうして、

    大勢

    おおぜい

    の友達のうちには暗いような物思わしげな顔をしている者があるのを、不思議に思うくらいでありました。わたしは

    祈祷

    きとう

    にその一夜を過ごして、まったく

    法悦

    ほうえつ

    の状態にあったのです。慈愛ぶかい司教さまは永遠にいます父――神のごとくに見え、教会の

    円天井

    まるてんじょう

    のあなたに天国を見ていたのであります。
     この儀式をくわしくご存じでしょうが、まず

    浄祓式

    ベネゼクション

    がおこなわれ、それから、両種の

    聖餐拝受式

    コミュニオン

    、それから、てのひらに洗礼者の油を塗る

    抹油式

    まつゆしき

    、それが済んでから、司教と声をそろえて勤める神聖なる献身の式が終わるのであります。
     ああ、しかしヨブ(旧約ヨブ記の主人公)が、「眼をもて誓約せざるものは愚かなる人間なり」と言ったのは、よく真理を説いています。わたしがその時まで垂れていた頭を偶然にあげると、わたしの眼の前にまるでさわれるぐらいに近く思われて、実際は自分のところからかなり離れた聖壇の手すりのはしに、非常に美しい若い女が目ざむるばかりの高貴の服装をしているのを見ました。
     それはわたしの眼には、世界が変わったように思われました。私はまるで盲目の眼が再びあいたように感じたのです。つい今の瞬間までは栄光に輝いていた司教の姿はたちまちに消え去って、黄金の燭台に燃えていた蝋燭はあかつきの星のように薄らいで、一面の

    暗闇

    くらやみ

    がお堂の内に拡がったように思われました。かの愛らしい女はその暗闇を背景にして、天使の出現のようにきわだって浮き出していたのです。彼女は輝いていました。実際、輝いて見えるというだけでなく、光りを放っていました。
     わたしは他のことに気を

    られてはならないと思って、二度と眼をあくまいと決心してまぶたを伏せました。なぜといって、わたしの煩悶はだんだんに

    こう

    じてきて、自分はいま何をしているか分からないくらいになったからでした。それにもかかわらず、次の瞬間にはまたもや眼をあげて、

    睫毛

    まつげ

    のあいだから彼女を見ました。すると、誰しも太陽を見つめる時、むらさき色の半陰影が輪を描くように、彼女はすべて

    虹色

    にじいろ

    にかがやいていました。
     ああ、なんという美しさであろう。偉大なる画家は、理想の美を天界に求めて、地上に聖女の真像を描きますが、今わたしの眼前にある自然のほんとうの美しさに近い描写はまだ見いだされません。いかなる詩句といえども、画像の

    絵具面

    パレット

    といえども、彼女の美を写してはいませんでした。彼女はやや

    脊丈

    せい

    の高い、女神のような形と態度とを有していました。やわらかい

    金色

    こんじき

    な髪をまん中で二つに分け、それが金の波を打つ二つの河になって両方の

    ※(「需+頁」、第3水準1-94-6)

    こめかみ

    に流れているところは、王冠をいただく女王のように見えました。

    ひたい

    は透き通った青みのある白さで、二つのアーチ形をした睫毛の上にのび、おのずからなる快活な輝きを持つ海緑色の

    ひとみ

    をたくみに

    際立

    きわだ

    たしているのでした。ただ不思議に見えたのは、その眉がほとんど黒いことでした。それにしても、なんという眼でしょう。ただ一度のまたたきだけでも、一人の男の運命を決めることのできる眼です。今までわたしが人間に見たことのない、清く澄んだ、熱情のある、うるんだ光りを持つ、生きいきした眼でありました。
     二つの眼は矢のように光りを放ちました。それがわたしの心臓に透るのをはっきりと見たのです。わたしはその輝いている眼の火が、天国より来たものか、あるいは地獄から来たものかを知りませんが、いずれかから来ているに相違ありません。彼女は

    天使

    エンジェル

    か、

    悪魔

    デモン

    かでありました。おそらく両方であったろうと思います。たしかに彼女は普通の女から――すなわちイヴの腹から生まれたのではありませんでした。

    光沢

    つや

    のある真珠の歯は、愛らしい微笑のときに光りました。彼女が少しでも

    口唇

    くちびる

    を動かすときに、小さなえくぼが輝く

    薔薇

    ばら

    色の頬に現われました。優しい整った鼻は、高貴の生まれであることを物語っていました。
     半分ほどあらわに出した

    なめ

    らかな光沢のある二つの肩には、

    瑪瑙

    めのう

    と大きい真珠の首飾りが首すじの色と同じ美しさで光っていて、それが胸の方に垂れていました。時どきに彼女があふれるばかりの笑いを帯びて、驚いた蛇か

    孔雀

    くじゃく

    のように顔を上げると、それらの宝石をつつんだ銀格子のような高貴な

    襞襟

    ひだえり

    が、それにつれて揺れるのでした。彼女は赤いオレンジ色のビロードのゆるやかな着物をつけていました。

    てん

    の皮でふちを取った広い

    そで

    からは、光りも透き通るほどのあけぼのの女神の指のような、まったく理想的に透明な、限りなく優しい貴族風の手を出していました。
     これらの細かいことは、その時わたしが非常に煩悶していたのにかかわらず、何ひとつ

    がさずに、あたかもきのうのことのように明白に思い出します。

    あご

    のところと口唇の隅にあった極めてわずかな影、額の上のビロードのようなうぶ毛、頬にうつる睫毛のふるえた影、すべてのものが、驚くほどにはっきりと語ることができるのです。
     それを見つめていると、わたしは自分のうちに今まで

    じられていた門がひらくのを感じました。長い間さえぎられていた口があいて、すべてのものが明らかになり、今まで知らなかった内部のものが見えるようになったのです。人生そのものがわたしに対して新奇な局面をひらきました。わたしは新しい別の世界、いっさいが変わっているところに生まれて来たと思ったのです。恐ろしい苦悩が赤く

    けた

    はさみ

    をもって、わたしの心臓を苦しめ始めました。絶え間なく続いている時刻がただ一秒のあいだかと思われると、また一世紀のように長くも思われます。
     そのうちに儀式は進んでゆく。わたしはその時、山でも根こぎにするほどの強い意志の力を出して、わたしは僧侶などになりたくないと叫び出そうとしましたが、どうしてもそれが言えないのです。わたしは自分の舌が

    上顎

    うわあご

    に釘づけにでもなったくらいで、いやだというの字も言うことができなかったのです。それはちょうど夢におそわれた人が命がけのことのために、なんとかひと声叫ぼうとあせっても、それができ得ないのと同じことで、わたしは現在目ざめていながらも叫ぶことが出来なかったのです。
     彼女はわたしが殉道に身を投じてゆく

    破目

    はめ

    になるのを知って、いかにも私に勇気づけるように、力強い頼みがいのある顔を見せました。その眼は詩のように、眼の動きは歌のように思われたのです。
     彼女はその眼でわたしに言いました。
    「もしあなたがわたしのものになって下さるなら、神が天国にいますよりも、もっと幸福にしてあげます。天使たちがあなたに嫉妬を感じるほどにしてあげます。あなた自身を包もうとしている、あの喪服を引っぱがしておしまいなさい。わたしは美しいのです。わたしは若いのです。わたしには命があるのです。わたしのところへ来て下さい。お互いに愛します。エホバの神は何をあなたに上げるのでしょう。なんにもくれますまい。わたしたちのいのちは、ただ一度の

    接吻

    せっぷん

    のあいだに夢のように過ぎてしまいます。あの

    聖餐盃

    チャリース

    を投げ出しておしまいなさい。そうして、自由におなりなさい。わたしはあなたを遠い島へお連れ申します。あなたは、銀の屋根の建物の下で、大きい

    黄金

    おうごん

    の寝台の上で、わたしのふところで寝られます。わたしはあなたを愛しております。わたしはあなたを神様より奪ってしまいたいのです。これまでどれだけの尊い人たちが愛の血をそそいだかもしれませんが、誰も神様のそばにも近寄った者はないのではございませんか」
     これらの言葉が、無限の優しいリズムをもってわたしの耳に流れ込みました。彼女の顔はまったく歌のようで、その眼で物を言っています。そうして、それが本当のくちびるから

    れ出るようにわたしの胸の奥にひびくのでした。
     わたしはもう神様にむかって、僧侶となることを断わりたい心持ちが胸いっぱいでしたが、それでどういうものか、わたしの舌は儀式通りに言ってしまうのです。美しいひとは更にまた、わたしの胸を刺し通す鋭い

    白刃

    しらは

    のような絶望の顔や、歎願するような顔を見せるのです。それは「悲しみの聖母」のどれよりも、もっと強い刃でつらぬくような顔つきでありました。
     そのうちにすべての儀式はとどこおりなく終わって、わたしは一個の僧侶になったのであります。
     この時ほど、彼女の顔に深い

    苦悶

    くもん

    の色が描かれたのを見たことはありませんでした。婚約した愛人の死を

    のあたり見ている少女も、死んだ子を悲しんで

    から

    の乳母車をのぞき込んでいる母も、天界の楽園を追われてその門に立つイヴも、

    吝嗇

    りんしょく

    な男が自分の宝と置き換えられた石をながめている時でも、詩人がたましいをこめた、ただひとつの原稿を何かのために火に

    こうとしている時でも、この時における彼女ほどには、あきらめ切れないような絶望の顔を見せないであろうと思われました。彼女の愛らしい顔にすっかり血の色が失せて、大理石よりも白くなりました。美しい二つの腕は筋肉のゆるんだように、体の両方に力なく垂れてしまいました。

    柔順

    すなお

    な足も今は自由にならなくなって、彼女は何か力と頼むべき柱をさがしていました。
     わたしはといえば、これも死人のような青白い色をして、教会のドアの方へよろめいて行きましたが、あのクリストの

    磔刑

    はりつけ

    の像よりも更に血の汗を浴びて、まるで首を

    められている人のように感じました。円天井はわたしの肩の上へひら押しに落ちかかって来て、わたしの頭だけでこの円天井のすべての重みを

    ささ

    えているようでありました。
     ちょうど、わたしが教会の

    しきい

    をまたごうとする時でした。突然に一つの手がわたしの手を握ったのです。それは女の手です。わたしはこれまでに女の手などにふれたことはありませんでしたが、その時わたしに感じたのは蛇の肌にさわったような冷たい感じで、その時の感じはいまだに

    の上に、熱鉄の

    烙印

    やきいん

    を押したように残っています。それは彼女の手であったのです。
    「不幸なかたね。ほんとうに不幸なかた……。どうしたということです」と、彼女は低い声を強めて言って、すぐに人込みのなかに消えて行ってしまいました。
     老年の司教がわたしのそばを通りかかりました。彼は何かわたしを冷笑するようなけわしい眼を向けて行きました。わたしはよほど取りみだした顔つきをしていたらしく、顔を赤くしたり、青くしたりして、まぶしい光りが眼の前にきらめくように感じました。そのうちに、一人の友達がわたしに同情して、わたしの腕をとって連れ出してくれました。わたしはもう誰かに

    たす

    けられないでは、学寮へ帰ることが出来ないくらいでした。
     町の角で、わたしの若い友達が何かよその方へ気をとられて振りむいている

    刹那

    せつな

    に、風変わりの服装をした黒人の

    召仕

    ページ

    がわたしに近づいて来て、歩きながらに金色のふちの小さい手帳をそっと渡して、それをかくせという合図をして行きました。わたしはそれを袖のなかに入れて、わたしの居間でただひとりになるまで隠しておきました。
     

    ひと

    りになってから、その手帳の止めを外すと、中には一枚の紙がはいっていて、「コンティニ宮にて、……クラリモンド」と、わずかに書いてありました。[#「ありました。」は底本では「ありました」]

           二

     わたしはその当時、世間のことはなんにも知りませんでした。名高いクラリモンドのことなども知っていません。コンティニ宮がどこにあるかさえも、まったく

    見当

    けんとう

    がつきませんでした。わたしはいろいろに想像をたくましくしてみましたが、実のところ、もう一度逢うことが出来れば、彼女が高貴な女であろうと、または娼婦のたぐいであろうと、わたしはそんなことを気にかけてはいないのでした。
     わたしの恋はわずかいっときのあいだに生まれたのですが、もう打ち消すことの出来ないほどに根が深くなってゆきました。わたしはもう、まったく取りみだしてしまって、彼女が触れたわたしの手に接吻したり、幾時間ものあいだに繰り返して彼女の名を呼んだりしました。わたしは彼女の姿を目のあたりにはっきりと認めたいがために、眼をとじてみたりしました。
     わたしは教会の門のところで、わたしの耳にささやいた彼女の言葉を繰り返しました。「不幸なかたね。ほんとうに不幸なかた……どうしたということです」
     ――わたしはそうしているうちに、とうとう自分の地位の恐ろしさがわかるようになりました。暗い

    いま

    わしい束縛――その生活のうちに、自分がはいっていったということがわかるようになりました。
     僧侶の生活――それは純潔にして身を慎んでいること、恋をしてはならないこと、男女の性別や老若の区別をしてはならないこと、すべて美しいものから眼をそむけること、人間の眼を抜き取ること、一生のあいだ教会や

    僧房

    そうぼう

    の冷たい日影に身をかがめていること、死人の家以外を訪問してはならないこと、見知らない死骸のそばに番をしていること、いつも喪服にひとしい

    法衣

    ころも

    を自分ひとりで着て、最後にはその喪服がその人自身の棺の

    おお

    いになるということであります。
     もう一度クラリモンドに逢うには、どうしたらいいかと思いました。町には誰も知っている人がないので、学寮を出る口実がなかったのです。わたしはもうこんな所にいっときもじっとしてはいられないと思いました。そこにいたところが、ただわたしはこれから職に就く新しい任命を待っているばかりです。
     窓をあけようと思って、

    貫木

    かんぬき

    に手をかけましたが、それは地面から非常に高い所にありますので、別に

    梯子

    はしご

    を見つけない限りは、この方法で逃げ出すことは無駄であることが分かりました。その上に、どうしても夜ででもなければ、そこから降りられそうもないのです。それからまた、あの迷宮のように複雑な街の様子も分かりかねるのでありました。これらの困難は、他人にとってはさほどむずかしいとは思われないのでしょうが、わたしにとっては非常に困難の仕事であったのです。それというのは、わたしはつい前の日に、生まれて初めて恋に落ちたばかりの学徒で、経験もなければ金も持たない、衣服も持たない、あわれな身の上であったからです。
     わたしは盲目にひとしい自分にむかって、ひとりごとを言いました。
    「ああ、もし自分が僧侶でなかったなら、毎日でもあの

    ひと

    に逢うことも出来る。そうして、あの女の恋人となり、あの女の夫になっていられるのだが……。こんな陰気な喪服の代りに、絹やビロードの着物を身にまとって、金のくさりや剣をつけて、ほかの若い騎士たちのように美しい羽毛をつけていられるのに……。髪もこんなぶざまな

    剃髪

    トンシュア

    などにしていないで、襟まで垂れている髪を波のようにちぢらせて、立派に伸びた

    頤鬚

    あごひげ

    までもたくわえて、優雅な風采でいられるのに……」
     しかも、かの聖壇の前における一時間、その時のわずかな

    明晰

    めいせき

    な言葉が、永久にわたしをこの世の人のかずから引き離してしまって、わたしは自分の手で自分の墓の

    石蓋

    いしぶた

    をとじ、自分の手で自分の牢獄の門をとじたのでありました。
     わたしはまた窓へ行って見ると、空はうららかに青く晴れて、すべての樹木はみな春のよそおいをして、自然は皮肉な歓楽の行進をつづけています。そこには、多くの人びとが往来して、姿のよい若い紳士や、美しい淑女たちが二人連れで、森や花園の方へそぞろ歩きをしています。元気のいい青年がおもしろそうに酔って歌っています。すべてが快活、生命、躍動の一幅の絵画で、わたしの悲哀と孤独とくらべると実にひどい対照をなしているのです。門の階段のところには、若い母が、自分の子供と遊んでいます。母はまだ乳のしずくの残っている可愛らしい

    薔薇

    ばら

    色の口に接吻をしたり、子供を喜ばせるためにいろいろあやしてみたり、母だけしか知らないような種じゅ様ざまな尊い

    仕科

    しぐさ

    をしています。その子供の父は腕を組んでにこやかに

    微笑

    ほほえ

    みながら、少し離れたところに立ってその可愛らしい仲間をながめています。
     わたしはもうこんな楽しい景色を見るに

    えられなくなって、手あらく窓をしめきって、急いで床のなかに飛び込んでしまいました。わたしのこころは、はげしい嫉妬と

    嫌悪

    けんお

    でいっぱいになって、十日も飢えている虎のように、わが指を噛みました。
     こうして私はいつまで寝台にいたか、自分でも覚えませんでしたが、床のなかで発作的に苦しみ

    もだ

    えている間に、突然この部屋のまんなかに僧院長のセラピオン師がまっすぐに突っ立って、注意ぶかくわたしを見つめているのに気がつきました。
     わたしは非常に恥かしくなって、おのずと胸の方へ首を垂れて、両手で顔を掩いかくしたのです。セラピオン師はしばらく無言で立っていましたが、やがて私に言いました。
    「ロミュオー君。何か非常に変わったことがあなたの身の上に起こっているようですな。あなたの様子はどうも理解できない。あなたはいつも沈着で

    敬虔

    けいけん

    温順

    すなお

    な人物であるのに、どうしてそんなに、野獣などのように怒り狂っているのです。気をおつけなさい。悪魔の声に耳を傾けてはならない。恐れてはならない。勇気を失ってはなりませんぞ。そんな誘惑に出逢った場合には、何よりも確固たる信念と注意とに頼らなくてはいけません。さあ、しっかりしてよくお考えなさい。そうすれば悪魔の霊はきっとあなたから退散してしまいます」
     セラピオン師の言葉で、わたしは我れにかえって、いくぶんか心が落ちついて来ました。彼は更に言いました。
    「あなたはCという所の司祭に就くことになったので、それを知らせに来たのです。そこの僧侶が死んだので、あなたがそこへ就職するように司教さまから命ぜられました。明日すぐに出発できるように用意してもらいたいのです」
     彼女に再び逢うことなしに、明日ここを離れて行き、今まで二人のあいだを隔てる

    さわ

    りある上に、さらに二人の仲をさくべき関所を置くことになったら、奇蹟でもない限りは彼女に逢うことは永遠にできなくなるのです。手紙を書いてやることは

    所詮

    しょせん

    できないことです。誰にたのんでその手紙を渡していいか、それさえも分からない。僧職にある身が誰にこんなことを打ち明けていいか、誰を信じていいか。それが私にはまったく

    えられないほどの苦労でありました。
     翌あさ、セラピオン師はわたしを連れに来たのです。旅行用の貧しい手鞄などを乗せている二匹の

    騾馬

    らば

    が門前に待っていました。セラピオン師は一方の騾馬に乗り、わたしは型のごとくに他の騾馬に乗りました。
     町の

    みち

    みちを通るとき、わたしはもしやクラリモンドに逢いはしないかと、家いえの窓や露台に気をつけて見ました。朝が早かったので、

    まち

    もまだほとんど起きてはいませんでした。わたしは自分の通りかかった邸宅という邸宅の窓の

    鎧戸

    よろいど

    やカーテンを見透すように眼をくばりました。
     セラピオン師はわたしの態度を別に疑いもせず、ただ私がそれらの邸宅の建築を珍らしがっているのだと思って、わたしがなお十分に見ることが出来るように、わざと自分の馬の歩みをゆるやかにしてくれました。わたしたちはついに町の門を過ぎて、前方にある丘をのぼり始めました。その丘の頂上にのぼりつめた時、わたしはクラリモンドの住む町に最後の

    一瞥

    いちべつ

    を送るために見返りました。
     町の上には、大きい雲の影がおおい拡がっておりました。その雲の青い色と赤い屋根との二つの異った色が一つの色に

    け合って、新しく立ち昇る

    ちまた

    の煙りが白い泡のように光りながら、あちらこちらにただよっています。ただ眼に見えるものは一つの大きい建物で、周囲の建物を

    しの

    いで高くそびえながら、水蒸気に包まれて

    あわ

    く霞んでいましたが、その塔は高く清らかな日光を浴びて美しく輝いていました。それは三マイル以上も離れているのに、気のせいか、かなりに近く見えるのでした。

    こと

    にその建物は、塔といい、歩廊といい、窓の枠飾りといい、つばめの尾の形をした

    風見

    かざみ

    にいたるまで、すべていちじるしい特長を示していました。
    「あの日に照りかがやいている建物は、なんでございます」
     わたしはセラピオン師にたずねました。彼は手をかざして眼の上をおおいながら、わたしの指さす方を見て答えました。
    「あれはコンティニ公が、娼婦のクラリモンドにあたえられた昔の宮殿です。あすこでは恐ろしいことが行なわれているのです」
     その瞬間でした。それはわたしの幻想であったか、それとも事実であったか分かりませんが、かの建物の敷石の上に、白い人の影のようなものがすべってゆくのを見たような気がしたのです。ほんのいっとき、光るように通り過ぎて、間もなく消えたのですが、それは確かにクラリモンドであったのです。
     ああ、実にそのとき、遠く離れたけわしい道の頂上――もう二度とここからは降りて来ないであろうと思われる所から、落ちつかない興奮した心持ちで彼女の住む宮殿の方へ眼をやりながら、雲のせいかその邸宅が間近く見えて、わたしをそこの王として住むように差し招いているかとも思う。――その時のわたしの心持ちを彼女は知っていたでしょうか。
     彼女は知っていたに違いないと思うのです。それはわたしと彼女とのこころは、

    わず

    かの

    すき

    もないほどに深く結ばれていて、その清い彼女の愛が――寝巻のままではありましたが――まだ朝露の冷たいなかをあの敷石の高いところに彼女を立たせたに相違ないのです。
     雲の影は宮殿をおおいました。いっさいの景色は家の屋根と

    破風

    はふう

    との海のように見えて、そのなかに一つの山のような起伏がはっきりと現われていました。
     セラピオン師は騾馬を進めました。わたしも同じくらいの足どりで馬を進めて行くと、そのうちに道の急な曲がり角があって、とうとうSの町は、もうそこへ帰ることのできない運命とともに、永遠にわたしの眼から見えなくなってしまいました。
     田舎のうす暗い野原ばかりを過ぎて、三日間の

    み疲れた旅行ののち、わたしが預かることになっている、

    牡鶏

    おんどり

    の飾りのついている教会の尖塔が

    樹樹

    きぎ

    の間から見えました。それから、

    かや

    ぶきの家と小さい庭のある曲がりくねった道を通ったのち、あまり立派でもない教会の玄関の前に着いたのです。
     入り口には、いくらかの彫刻が施してあるが、

    荒彫

    あらぼ

    りの砂岩石の柱が二、三本と、またその柱と同じ石の控え壁をもっている瓦ぶきの屋根があるばかり、ただそれだけのことでした。左の方には墓所があって、雑草がいっぱいに生いしげり、まん中あたりに鉄の十字架が建っています。右の方に司祭館が立っていて、あたかも教会の蔭になっているのです。それがまた極端に単純素朴なもので、囲いのうちにはいってみると、二、三羽の

    とり

    がそこらに散らばっている穀物をついばんでいます。鶏は僧侶の陰気な習慣になれていると見えて、わたしたちが出て来ても別に逃げて行こうともしません。どこかで

    れたような

    き声がきこえたかと思うと、老いさらばえた一匹の犬が近づいて来るのでした。
     それは

    ぜん

    の司祭の犬で、ただれた眼、灰色の毛、これ以上の年をとった犬はあるまいと思われるほどの衰えを見せていました。わたしは犬を軽くたたいてやりますと、何か満足らしい様子で、すぐにわたしのそばを通って行ってしまいました。そのうちに前の司祭の時代からここの留守番であったというひどい婆さんが出て来ました。老婆はうしろの小さい客間へわたしたちを案内して、今後もやはり自分を置いてもらえるかということを

    たず

    ねるのです。彼女も、犬も鶏も、前の司祭が残したものはなんでも皆そのままに世話をしてやると答えますと、彼女は非常に喜びました。セラピオン師はこれだけの小さい世帯を保ってゆくために、彼女の望むだけの金をすぐに出してやったのであります。
     さて、それからまる一年のあいだ、わたしは自分の職務について、十分に行き届いた忠実な勤めをいたしました。祈祷と精進はもちろん、病める者はわが身の痩せるような思いをしても救済し、その他の施しなどについても、わたし自身の

    生計

    くらし

    に困るほどまでに尽力しました。しかもわたしは自分のうちに、大きい

    たされないものがありました。神の恵みは、わたしには与えられないように思われました。この神聖な布教の職にあるものに湧きでるはずの幸福というものが、一向に分からなくなりました。わたしの心は遠い外に行っていたのです。クラリモンドの言葉が今もわたしの

    口唇

    くちびる

    に繰り返されていたのでした。
     ああ、皆さん。このことをよく考えてみて下さい。わたしがただの一度、眼をあげて一人の

    女人

    にょにん

    を見て、その後何年かのあいだ、最もみじめな苦悩をつづけて、わたしの一生の幸福が永遠に破壊されたことを考えてみてください。しかし私はこの敗北状態について、また霊的には勝利のごとく見えながら、更におそろしい破滅におちいったことについて、くどくどと申し上げますまい。それからすぐに事実のお話に移りたいと思います。

           三

     ある晩のことでした。わたしの司祭館のドアの

    ベル

    が長くはげしく鳴りだしたのです。老婆が立ってドアをあけると、一つの男の影が立っていました。その男の顔色はまったく

    銅色

    あかがねいろ

    をしておりまして、身には高価な外国の衣服をつけ、帯には短剣を

    びているのが、老婆のバルバラの提灯で見えました。老婆も一度は驚いて怖れましたが、男は彼女を押し鎮めて、わたしの神聖な仕事についてお願いに来たのであるから、わたしに会わせてもらいたいというのです。
     わたしが二階から降りようとした時に、老婆は彼を案内して来ました。この男はわたしに向かって、非常に高貴な彼の女主人が重病にかかっていて、臨終のきわに僧侶に逢いたがっていることを話したので、わたしはすぐに一緒に行くからと答えて、臨終塗油式に必要な聖具をたずさえて、大急ぎで二階を降りて行きました。
     夜の暗さと

    区別

    わかち

    がないほどに黒い二頭の馬が門外に待っていました。馬はあせってあがいていて、鼻から大きい息をすると、白い煙りのような水蒸気が胸のあたりを

    おお

    っていました。男は

    あぶみ

    をとって、わたしをまず馬の上にのせてくれましたが、彼は鞍の上に手をかけたかと思うと

    たちま

    ちほかの馬に乗り移って、膝で馬の両腹を押して

    手綱

    たづな

    をゆるめました。
     馬は勇んで、矢のように走り出しました。わたしの馬は、かの男が手綱を持っていてくれましたので、彼の馬と押し並んで駈けました。全くわたしたちはまっしぐらに駈けました。地面はまるで青黒い長い線としか見えないようにうしろへ流れて行き、わたしたちの駈け通る両側の黒い

    樹樹

    きぎ

    の影は混乱した軍勢のようにざわめきます。真っ暗な森を駈け抜ける時などは、一種の迷信的の恐怖のために、

    総身

    そうみ

    に寒さを覚えました。またある時は馬の

    鉄蹄

    てってい

    が石を蹴って、そこらに

    き散らす火花の光りが、あたかも火の路を作ったかと疑われました。
     誰でも、夜なかのこの時刻に、わたしたちふたりがこんなに

    疾駆

    しっく

    するのを見たらば、悪魔に

    った二つの妖怪と間違えたに相違ありますまい。時どきにわれわれの行く手には怪しい火がちらちらと飛びめぐり、遠い森には夜の鳥が人をおびやかすように叫び、また折りおりは燐光のような野猫の眼の輝くのを見ました。
     馬は

    たてがみ

    をだんだんにかき乱して、脇腹には汗をしたたらせ、鼻息もひどくあらあらしくなってきます。それでも馬の走りがゆるやかになったりすると、案内者は一種奇怪な叫び声をあげて、またもや馬を激しく

    おど

    らせるのでした。
     

    旋風

    つむじかぜ

    のような疾走がようやく終わると、多くの黒い人の群れがおびただしい灯に照らされながら、たちまち私たちの前に立ち現われて来ました。わたしたちは大きい木の吊り橋を音を立てて渡ったかと思うと、二つの巨大な塔のあいだに黒い大きい口をあいている、

    まる

    屋根ふうのおおいのある門のうちに乗り入れました。わたしたちがはいると、城のなかは急にどよめきました。

    松明

    たいまつ

    をかかげた家来どもが各方面から出て来まして、その松明の火はあちらこちらに高く低く揺れています。わたしの眼はただこの広大な建物に

    戸惑

    とまど

    いしているばかりであります。幾多の円柱、歩廊、階段の交錯、その

    荘厳

    そうごん

    なる豪奢、その幻想的なる壮麗、すべてお

    伽噺

    とぎばなし

    にでもありそうな造りでした。
     そのうち黒ん坊の

    召仕

    ページ

    、いつかクラリモンドからの手紙をわたしに渡した召仕が眼に入りました。彼はわたしを馬から降ろそうとして近寄ると、

    くび

    に金のくさりをかけた黒いビロードの衣服をつけた執事らしい男が、

    象牙

    ぞうげ

    の杖をついて私に挨拶するために出て来ました。見ると、涙が眼から頬を流れて、彼の白い

    ひげ

    をしめらせています。彼は行儀よく

    かしら

    をふりながら、悲しそうに叫びました。
    「遅すぎました、神父さま。遅すぎましてございます。あなたが遅うございましたので、あなたに霊魂のお救いを願うことは出来ませんでした。せめてはあのお気の毒な御遺骸にお通夜を願います」
     かの老人はわたしの腕をとって、死骸の置いてある

    へや

    へ案内しました。わたしは彼より

    はげ

    しく泣きました。死人というのは

    余人

    よじん

    でなく、わたしがこれほどに深く、また烈しく恋していたクラリモンドであったからです。
     寝台の下に祈祷台が設けられてありました。銅製の燭台に輝いている青白い

    火焔

    ほのお

    は、あるかなきかの薄い光りを暗い室内に投げて、その光りはあちらこちらに家具や

    蛇腹

    じゃばら

    の壁などを見せていました。
     机の上にある彫刻した壺の中には、あせた白

    薔薇

    ばら

    がただ一枚の葉を残しているだけで、花も葉もすべて香りのある涙のように花瓶の下に散っています。

    こわ

    れた黒い

    仮面

    めん

    や扇、それからいろいろの変わった仮装服が腕椅子の上に置いたままになっているのを見ると、死がなんの知らせもなしに、突然にこの豪奢な住宅に入り込んで来たことを思わせました。
     わたしは寝台の上に眼をあげる勇気もなく、ひざまずいて亡き人の冥福を熱心に祈り始めました。神が彼女の霊と私とのあいだに墳墓を置いて、この

    のち

    わたしの祈祷のときに、死によって永遠に

    きよ

    められた彼女の名を自由に呼ぶことが出来るようにして下されたことについて、わたしはあつく感謝しました。
     しかし私のこの熱情はだんだんに弱くなって来て、いつの間にか空想に

    ちていました。この

    へや

    には、すこしも死人の室とは思われないところがあったのです。私はこれまでに死人の通夜にしばしば出向きまして、その時にはいつも気が

    滅入

    めい

    るような匂いに慣れていたものですが、この室では――実はわたしは女の

    なま

    めかしい香りというものを知らないのですが――なんとなくなま温かい、東洋ふうな、だらけたような香りが柔らかくただよっているのです。それにあの青白い灯の光りは、もちろん歓楽のために

    けられていたのでしょうが、死骸のかたわらに置かれる通夜の黄いろい蝋燭の代りをなしているだけに、そこには

    黄昏

    たそがれ

    と思わせるような光りを投げているのです。
     クラリモンドが死んで、永遠にわたしから離れる

    間際

    まぎわ

    になって、わたしが再び彼女に逢うことが出来たという不思議な運命について、わたしは考えました。そうして、苦しく愛惜の溜め息をつきました。すると、誰かわたしの

    うしろ

    の方で、同じように溜め息をついているのを感じたのです。驚いて振り返って見ましたが、誰もいません。自分の溜め息の声が、そう思わせるように反響したのでした。わたしは見まいとして、その時までは心を押さえていたのですが、とうとう死の床の上に眼を落としてしまいました。

    ふち

    に大きい花模様があって、金糸銀糸の

    ふさ

    を垂れている真っ紅な

    緞子

    どんす

    の窓掛けをかかげて私は美しい死人をうかがうと、彼女は手を胸の上に組み合わせて、十分にからだを伸ばして寝ていました。
     彼女はきらきら光る白い

    麻布

    あさぬの

    でおおわれていましたが、それが壁掛けの濃い紫色とまことにいい対照をなして、その白麻は彼女の優美なからだの形をちっとも隠さずに見せている綺麗な地質の物でありました。彼女のからだのゆるやかな線は白鳥の首のようで、実に死といえどもその美を奪うことは出来ないのでした。彼女の寝ている姿は、巧みな彫刻家が女王の墓の上に置くために彫りあげた雪花石膏の像のようでもあり、または静かに降る雪に隈なくおおわれながら睡っている少女のようでもありました。
     わたしはもう

    祈祷

    いのり

    をささげに来た人としての謹慎の態度を持ちつづけていられなくなりました。床のあいだにある薔薇は半ばしぼんでいるのですが、その強烈な匂いはわたしの頭に沁み透って酔ったような心持ちになったので、

    何分

    なにぶん

    じっとしていられなくなって、室内をあちらこちらと歩きはじめました。そうして、行きかえりに寝台の前に立ちどまって、その

    屍衣

    しい

    を透して見える美しい死骸のことを考えているうちに、

    途方

    とほう

    もない空想が私の頭のなかに浮かんで来ました。
     ――彼女はほんとうに死んだのではないかもしれない。あるいは自分をこの城内に連れ出して、恋を打ち明ける目的のために、わざと死んだふりをしているのではないかとも思いました。またある時は、あの白い

    おお

    いの下で彼女が足を動かして、波打った長い

    敷布

    シーツ

    のひだを

    かす

    かに崩したようにさえ思われました。
     わたしは自分自身に

    いたのです。
    「これはほんとうにクラリモンドであろうか。これが彼女だという証拠はどこにある。あの黒ん坊の

    召仕

    ページ

    は、あの時ほかの婦人の使いで通ったのではなかったか。実際、自分はひとりぎめで、こんな気違いじみた苦しみをしているのではあるまいか」
     それでも、わたしの胸は烈しい動悸をもって答えるのです。
    「いや、これはやっぱり彼女だ。彼女に相違ない」
     わたしは再び寝台に近づいて、疑問の死骸に注意ぶかい眼をそそぎました。ああ、こうなったら正直に申さなければなりますまい。彼女の実によく整ったからだの形、それは死の影によって更に

    きよ

    められ、さらに神聖になっていたとはいえ、世に在りし時よりも更に肉感的になって、誰が見てもただ睡っているとしか思われないのでした。わたしはもう、葬式のためにここへ来たことを忘れてしまって、あたかも花婿が花嫁の室にはいって来て、花嫁は

    はず

    かしさのために顔をかくし、さらに自分全体を包み隠してくれる

    ベール

    をさがしているというような場面を想像しました。
     わたしは悲歎に暮れていたとはいえ、なお一つの希望にかられて、悲しさと嬉しさとにふるえながら、彼女の上に身をかがめて、掩いのはしをそっとつかんで、彼女に眼を醒まさせないように息をつめてその掩いをはがしました。わたしは烈しい動悸を感じ、こめかみに血ののぼるのを覚え、重い大理石の板をもたげた時のように、ひたいに汗の流れるのを知りました。
     そこに横たわっているのは、まさしくクラリモンドでした。わたしが前にわたしの僧職授与式の日に教会で見た時と少しも違わない、愛すべき彼女でありました。死によって、彼女はさらに最後の魅力を示していました。青白い彼女の頬、やや

    光沢

    つや

    のあせた肉色のくちびる、下に垂れた長いまつげ、白い皮膚にきわだって見えるふさふさした金色の髪、それは静かな純潔と、精神の苦難とを示して、なんともいえない

    蠱惑

    こわく

    の一面を現わしています。彼女はたけ長い

    けた髪に小さい青白い花をさして、それを光りある枕の代りとし、豊かな

    き毛はさらに

    あら

    わなる肩を包んでいます。彼女の美しい二つの手は

    天使

    エンジェル

    の手よりも透き通って、

    敬虔

    けいけん

    な休息と静粛な祈りの姿を示していましたが、その手にはまだ真珠の腕環がそのままに残っていて、象牙のようななめらかな肌や、その美しい形の丸みは、死の後までも一種の妖艶をとどめていました。
     わたしはそれから言葉に尽くせない長い思索に

    ふけ

    りましたが、彼女の姿を見守っていればいるほど、どうしても彼女はこの美しいからだを永久に捨てたとは思えないのでした。見つめていると、それは気のせいか、それともランプの光りのせいかわかりませんが、血の気のない顔の色に血がめぐり始めたように思われました。わたしはそっと軽く彼女の腕に手をあてますと、冷たくは感じましたが、いつか教会の門でわたしの手にふれた時ほどには冷たくないような気がしました。わたしは再び元の位置にかえって、彼女の上に身をかがめましたが、わたしの熱い涙は彼女の頬をぬらしました。
     ああ、なんという絶望と無力の悲しさでありましょう。なんとも言いようのない苦しみを続けながら、わたしはいつまでも彼女を見つめていたことでしょう。わたしは自分の全生涯の生命をあつめて彼女にあたえたい。わたしの全身に燃えている

    火焔

    ほのお

    を彼女の冷たい

    亡骸

    なきがら

    にそそぎ入れたいと、無駄な願いを起こしたりしました。
     夜は

    けてゆきました。いよいよ彼女と永遠のわかれが近づいたと思った時、わたしはただひとりの恋人であった彼女に、最後の悲しい心をこめた、たった一度の

    接吻

    せっぷん

    をしないではいられませんでした――。
     おお、奇蹟です。熱烈に押しつけた私のくちびるに、わたしの息とまじって、かすかな息がクラリモンドの口から感じられたのです。彼女の眼があいて来ました。それは以前のような光りを持っていました。それから深い溜め息をついて、二つの腕をのばして、なんともいわれない喜びの顔色をみせながら私の

    くび

    を抱いたのです。
    「ああ、あなたはロミュオーさま……」
     彼女は

    竪琴

    たてごと

    の消えるような優しい声で、ゆるやかにささやきました。
    「どこかお悪かったのですか。わたしは長い間お待ち申していたのですが、あなたが来て下さらないので死にました。でも、もう今は結婚のお約束をしました。わたしはあなたに逢うことも出来ます。お訪ね申すことも出来ます。さようなら、ロミュオーさま、さようなら。私はあなたを愛しています。わたしが申し上げたかったのは、ただこれだけです。わたしは今あなたが接吻をして下すったからだを生かして、あなたにお戻し申します。わたしたちはすぐにまたお逢い申すことが出来ましょう」
     彼女の

    かしら

    はうしろに倒れましたが、その腕はまだわたしを引き止めるかのように巻きついていました。突然に烈しい

    旋風

    つむじかぜ

    が窓のあたりに起こって、

    へや

    のなかへ吹き込んで来ました。
     白薔薇に残っていた、ただ一枚の葉はちっとの間、枝のさきで

    ちょう

    のようにふるえていましたが、やがてその葉は枝から離れて、クラリモンドの霊を乗せて、窓から飛んで行ってしまいました。ランプの灯は消えました。私はおぼえず死骸の胸の上に

    俯伏

    うつぶ

    しました。

           四

     わたしがわれに返った時、わたしは司祭館の小さな部屋のなかに寝ていました。前の司祭の時から飼ってあるかの犬が、掛け蒲団の外に垂れているわたしの手をなめていました。あとになって知ったのですが、わたしはそのままで三日も寝つづけていたので、その間に少しの

    呼吸

    いき

    もせず、生きている様子はちっともなかったそうです。老婆のバルバラの話によると、わたしが司祭館を出発した晩にたずねて来たかの

    銅色

    あかがねいろ

    の男が、翌あさ無言でわたしを

    かつ

    いで来て、すぐに帰って行ったということです。しかし私がクラリモンドを再び見たかの城のことについて、この近所では誰もその話を知っている者はありませんでした。
     ある朝、セラピオン師はわたしの部屋へたずねて来ました。彼はわたしの健康のことを偽善的な優しい声で

    きながら、しきりに

    獅子

    ライオン

    のような大きい黄いろい眼を据えて、測量鉛のように私のこころのうちへ探りを入れていましたが、突然に澄んだはっきりした声で話しました。それはわたしの耳には最後の審判の日の

    喇叭

    ラッパ

    のようにひびいたのです。
    「かの有名な娼婦のクラリモンドが、二、三日前に八日八夜もつづいた酒宴の果てに死にました。それは魔界ともいうべき大饗宴で、バルタザールやクレオパトラの饗宴をそのままの乱行が再びそこに繰り返されたのです。ああ、われわれはなんという時世に生まれ合わせたのでしょう。言葉は何を言っているのか分からないような黒ん坊の奴隷が客の給仕をしましたが、どうしても私にはこの世の悪魔としか見えませんでした。そのうちのある人びとの着ている晴れ

    などは、帝王の晴れ衣にも間に合いそうな立派なものでした。かのクラリモンドについては、いろいろの不思議な話が伝えられていますが、その愛人はみな怖ろしい悲惨な終わりを遂げているようです。世間ではあの女のことを

    発塚鬼

    グール

    だとか、女の

    吸血鬼

    ヴァンパイヤ

    だとか言っているようですが、わたしはやはり悪魔であると思っています」
     セラピオン師はここで話をやめて、その話が私にどういう効果をあたえたかということを、以前よりもいっそう深く注意し始めました。わたしはクラリモンドの名を聞いて、驚かずにはいられませんでした。それは彼女が死んだという知らせの上に、さらに私を苦しめたのは、その事件がさきの夜に私が見た光景と寸分たがわない偶然の暗合であります。わたしはその

    煩悶

    はんもん

    や恐怖を出来るだけ平気に

    よそお

    おうとしましたが、どうしても顔には現われずにはいませんでした。セラピオン師は不安らしい

    けわ

    しい眼をして私を見つめていましたが、また、こう言いました。
    「わたしはあなたに警告しますが、あなたは今や

    奈落

    ならく

    のふちに足をのせて立っているのです。悪魔の爪は長い。そうして、かれらの墓はほんとうの墓ではない場合があります。クラリモンドの墓石は三重にも

    ふた

    をしておかなければなりません。なぜというに、もし世間の話が本当であるとすれば、彼女が死んだのは今度が初めてでないのです。ロミュオー君、どうかあなたの上に神様のお守りがあるように祈ります」
     こう言って、セラピオン師は静かに戸口の方へ出て行きました。間もなく彼はSの町へ帰りましたが、わたしはそれを見送りもしませんでした。
     わたしはそののち健康を回復して、型のごとくに職務を始めました。クラリモンドの記憶と、セラピオン師の言葉とは絶えず私の心に残っていたのですが、セラピオン師の言った不吉な予言が真実として現われるような、特別の事件も別に知らなかったのでした。そこでわたしは、セラピオン師やわたしの恐怖にはやはり誇張があったのだと思うようになりました。ところがある夜、不思議な夢を見たのです。
     わたしはその夜まだ本当に寝入らないとき、寝室のカーテンのあく音を聞きました。わたしはその環がカーテンの横棒の上を烈しくすべったのに気がついて、急いで

    ひじ

    で起き上がると、わたしの前に一人の女がまっすぐに立っているのを見たのです。
     彼女はその手に、墓場でよく見る小さいランプを持っていましたが、その指は薔薇色に透き通っていて、指さきから腕にかけてだんだんに暗くほの白く見えているのです。彼女の身につけているものは、ただ一つ、死の床に横たわっている時におおわれていた白い麻布でありました。彼女はそんな貧しいふうをしているのが恥かしそうに、胸のあたりを掩おうとしましたが、優しい手には充分にそれが出来ませんでした。ランプの青白い灯に照らされて、彼女のからだの色も、身にまとっているものも、すべて一つの真っ白な色に見えていましたが、一つの色に包まれているだけに、彼女のからだのすべての輪郭はよくあらわれて、生きている人というよりは、

    ゆあ

    みしている昔の美女の大理石像を思わせました。
     死生を問わず、彫像であろうと、生きた女であろうと、彼女の美には変わりはありませんが、ただ多少その緑の眼に光りがないのと、かつては

    真紅

    しんく

    の色をなしていた口が、頬の色と同じように弱い薔薇色をしているだけの相違でありました。彼女はその髪に小さい青い花をさしていましたが、ほとんどその葉を振るい落として花も枯れしぼんでいました。しかし、それは少しも彼女の優しさをさまたげず、こんな冒険をあえてして、不思議な

    身装

    みなり

    でこの部屋にはいって来ても、ちっとも私を恐れさせないほどの美しい魅力をそなえているのでした。
     彼女はランプを机の上に置いて、わたしの寝台の下に坐って私の方へ

    かしら

    を下げました。そうして、ほかの女からはまだ一度も聞いたことのないような愛らしい柔らかな、しかし時には銀のような冴えた声で言いました。
    「ロミュオーさま。わたしは長い間あなたをお待ち申しておりました。あなたのほうでは、わたしがあなたをお忘れ申していたとでも、思っていらっしゃるに相違ないと思います。それでもわたしは、遠い、たいへんに遠い、誰も二度とは帰って来られないような

    ところ

    から参ったのです。そこには太陽もなければ、月もないのです。そこにはただ空間と影とがあるばかりで、通り路もなく、地面もなく、羽で飛ぶ空気もない処です。それでも私は来たのでございます。愛は死よりも強いもので、しまいには死をも征服しなければならないものですから……。ああ、ここまで参るのにどんなに悲しい顔や、怖ろしいものに出逢ったか知れません。わたしの霊魂が、ただ意志の力だけでこの地上に帰って来て、わたしの元のからだを探し求めて、そのなかに帰るまでにはどんなに難儀をしたでしょう。わたしは自分の上に掩いかぶさっている重い石の蓋を引き上げるには、恐ろしいほどの努力を要しました。わたしの

    を見て下さい。こんなに傷だらけになってしまったのです。この上に接吻をして下さい。これが

    なお

    りますように……」
     彼女は冷たい手を交るがわるに私の口へあてたのです。わたしは全くいくたびも接吻しました。彼女はその間に、なんとも言われない愛情をもってわたしを見ていました。
     恥かしいことですが、わたしはセラピオン師の忠告も、また、わたしの神聖なる職業に任ぜられていることも、全く忘れていました。わたしは彼女が最初の来襲に対してなんの拒絶もなしに服従し、その誘惑をしりぞけるために僅かの努力さえもしませんでした。クラリモンドの皮膚の冷たさが沁み透って、わたしの全身はぞっとするように

    ふる

    えました。

    あわ

    れなことには、わたしはその後にもいろいろのことを見ているにもかかわらず、いまだに彼女を悪魔だと信じることができません。すくなくとも彼女は悪魔らしい様子を持っていないばかりでなく、悪魔がそれほど巧妙にその爪や角を隠すことが出来るはずがないと思っていたからです。
     彼女はうしろの方に身を引くと、いかにも

    だる

    そうな魅惑を見せながら長椅子のはしに腰をおろしました。彼女はそれからだんだんに私の髪のなかへ小さい手を差し入れて、髪の毛をくねらしたりして、新しい型が私の顔に似合うかどうかを試みたりしました。
     わたしはこの罪深い歓楽に酔って彼女のなすがままに

    まか

    せていましたが、その間も彼女は何かと優しい子供らしい無駄話などをしていたのです。何より不思議なのは、こんな普通でないことをしていて、わたし自身が少しも驚かなかったことです。それはあたかも夢をみているとき、非常に幻想的な事柄がおこっても、それは当たり前のこととして別に不思議に思わないようなもので、今のすべての場合もわたし自身には全く自然なことのように思われたのです。
    「ロミュオーさま。わたしはあなたをお見かけ申した前から愛していました。そうして、あなたを捜していたのです。あなたは私の夢にえがいていたかたです。教会のなかで、しかもあの運命的な瀬戸ぎわにあなたを初めてお見かけ申したのです。わたしはその時すぐに〈あの方だ〉と自分に言いました。わたしは今までに持っていたすべての愛、あなたのために持つ未来のすべての愛、それは司教の運命も変え、帝王もわたしの足もとにひざまずかせるほどの愛をこめてあなたを見つめたのです。それをあなたは、わたしには来て下さらないで、神様をお選びになったのです……。ああ、わたしは神様がねたましい。あなたは私よりも神様を愛していらっしゃるのです。考えると詰まりません、わたしは不幸な女です。わたしはあなたの心をわたし一人のものにすることが出来ないのです。あなたは一度の接吻でわたしをこの世によみがえらせて下さいました。この死んだクラリモンドを……。そのクラリモンドは今あなたのために墓の戸を打ち開いて来たのです。わたしはあなたに生の喜びを捧げたい、あなたを幸福にしてあげたいと思って来たのです」
     それらの熱情的の愛の言葉は、わたしの感情や理性を

    眩惑

    げんわく

    させました。わたしは彼女を慰めるために、平気で彼女にむかって「神を愛するほどに愛する」などと、恐るべき不敬なことを言ってしまいました。
     彼女の眼はふたたび燃えはじめて、緑玉のように光りました。
    「本当でございますか。神様を愛するほどにわたしを愛して下さるの」と、彼女は美しい手を私に巻きつけながら叫びました。「そんなら、わたしと来て下さるでしょう。わたしの行きたい所へ来て下さるでしょう。もう

    いや

    な陰気な商売はやめておしまいなさい。あなたを騎士のうちでもいちばん偉い、みんなの羨望の

    まと

    になるような人にしてあげます。あなたは私の恋びとです。クラリモンドの気に入った恋びと――ローマ法王さえ撥ねつけたほどの私の恋びと――それなら男の誇りになるはずです。ああ、わたしの人……。わたしたちはなんともいえないほどに

    幸福

    しあわせ

    です。これから美しい黄金生活を

    とも

    にしましょう。わたしたちはいつ出発しましょうか」
    「あした、あした……」と、わたしは夢中になって叫びました。
    「あした……。では、そうしましょう。その間にわたしはお化粧する暇があります。このままではあまりお粗末で、旅行するには困ります。わたしはすぐにこれから行って、わたしが死んだと思って大変に悲しんでいるお友達に知らせてやります。お金も、着物も、馬車も、何もかも用意して、今夜とおなじ時間にまいります。さようなら」
     彼女は軽く私のひたいに接吻しました。それから彼女の持つランプが行ってしまうと、カーテンは元の通りにとじられて、あたりは真っ暗になりました。わたしは熟睡して、翌朝まで何も覚えませんでした。

           五

     わたしはいつもより遅く起きましたが、この不思議な出来事が思い出されて、わたしは終日悩みました。わたしは結局、ゆうべの出来事は自分の熱心なる想像から湧き出した空想に過ぎないと思ったのです。それにもかかわらず、そのときの感激があまりに生まなましいので、ゆうべのことがどうも

    空事

    そらごと

    ではないようにも思われ、今度また何か起こって来るのではないかという予感を除くことが出来ないので、わたしは悪魔的の考えをいっさい追い出して下さることを神に祈って、寝床についたのであります。
     わたしはすぐに深い眠りに落ちました。するとまた、かの夢がつづきました。カーテンがふたたび開くと、クラリモンドが以前とは違って、

    屍衣

    しい

    に包まれて青白い色をしていたり、頬に死のむらさき色を現わしていたりすることなく、華やかな陽気な、快活な顔色をしてはいって来ました。彼女は

    金色

    こんじき

    のふちを取って絹の下袴の見えるほどに

    くく

    ってある緑色のビロードの旅行服を着ていました。

    金色

    こんじき

    の髪はひろい黒色のフェルト帽の下に深ぶかとした

    ふさ

    をみせ、その帽子の上には白い羽が物好きのようにいろいろの形に取り付けてありました。彼女は片手に金の笛をつけた小さい馬の

    むち

    を持っていましたが、その笛で軽くわたしを叩いて言いました。
    「まあ、お寝坊さんね。これがあなたのご用意なのですか。もう起きて、着物をきていらっしゃると思っていましたのに……。早く起きて頂戴よ。もう時間がありませんわ」
     わたしはすぐ寝台から飛びあがりました。
    「さあ、ご自分で着物をお着なさい。行きましょうよ」と、彼女は自分が持って来た小さい荷造りを見せながら言いました。「ぐずぐずしているから馬がじれて、戸をぼりぼりと噛みはじめましたわ。もう今までに三十マイルも遠く行けましたのに……」
     わたしは急いで服をつけにかかりますと、彼女は一つ一つに服を渡して、わたしの不器用な手つきを見ては笑いこけたり、わたしが間違うと、その着方を教えてくれたりしました。彼女はさらに私の髪を急いでととのえてくれて、ふところからふちに金銀線の細工がしてある、ヴェニスふうの小さい水晶の鏡を出して、芝居気たっぷりに、「お気に召しましたでしょうか。あなたの

    侍女

    こしもと

    にして下さりませ」などと訊いたりしました。
     わたしはもう以前と同じ人間ではなく、自分ではないくらいに変わり果てました。立派に出来あがった石像とただの石ころほどに変わってしまいました。わたしはまったく美男子になり済まして、なんだか

    くすぐ

    ったいような心持ちになりました。上品な服装、贅沢にふちを取った胸着は、まるでわたしを違った人間にしてしまい、縞柄のついた二、三ヤードの布でこしらえただけのものが、こんなにも人の姿を変えるものかと驚きました。衣服が変わると、わたしの皮膚の色まで変わって、わずか十分というあいだに相当の

    伊達者

    だてしゃ

    のようになったのです。
     わたしはこの新しい服を着馴らすために室内を歩き廻りました。クラリモンドは母のような喜びをもって私をながめて、自分の仕事に満足したように見えました。
    「さあ、このくらいにして出かけましょうよ。遠い所へ行かなければなりませんから……。さもないと時間通りに行き着きませんわ」
     彼女はわたしの手を取って出ました。すべてのドアは、彼女が手を触れると開きました。わたしたちは犬のそばを眼を醒まさせないで通りぬけたのです。門のところにマルグリトーヌが待っていました。さきに私を迎えに来た浅黒い男です。彼は三頭の馬の手綱をとっていましたが、馬はいずれもさきに城中へ行った時と同じ黒馬で、一頭はわたし、一頭は彼、他の一頭はクラリモンドが乗るためでした。それらの馬は西風によって

    牝馬

    めすうま

    から生まれたスペインの

    麝香猫

    じゃこうねこ

    にちがいないと思うくらいに、風のように

    はや

    く走りました。出発の時にちょうど昇ったばかりの月はわれわれのゆく手を照らして、戦車の片輪が車を離れた時のように大空をころがって行きました。われわれの右にはクラリモンドが飛ぶように馬を走らせ、わたしたちにおくれまいとして息が切れるほどに努力しているのを見ました。間もなくわれわれは平坦な野原に出ましたが、その立ち木の深いところに、四頭の大きい馬をつけた一台の馬車がわれわれを待っていました。
     わたしたちはその馬車に乗ると、馭者は馬を励まして狂奔させるのでした。わたしは一方の腕をクラリモンドの胸に廻しましたが、彼女もまた一方の腕をわたしに廻して、その頭をわたしの肩にもたせかけました。わたしは彼女の半ばあらわな胸が軽くわたしの腕を押し付けているのを感じました。わたしはこんな熱烈な幸福を覚えたことはありませんでした。わたしは一切のことを忘れました。母の胎内にいた時のことを忘れたように、自分が僧侶の身であることを忘れて、まったく悪魔に

    みい

    られるほどの恍惚たる心持ちになったのでした。
     その夜からわたしの性質はなんだか半分半分になったようで、わたしの内におたがいに知らない同士の二人の人間がいるように思われました。ある時は、自分は僧侶で紳士になっている夢を見ているようにも思われ、またある時は、自分は紳士で僧侶になっているような気もしたのです。わたしはもはや現実と夢との境を判別することが出来ず、どこからが事実で、どこで夢が終わったのか分からなくなって、高貴な若い貴族や放蕩者は僧侶を

    ののし

    り、僧侶は若い貴族の放埒な生活を

    み嫌いました。
     こういうわけで、わたしはこの二つの異った生活を認めていながら、あくまでも強烈にそれを持続していました。ただ自分にわからない不合理なことは、一つの同じ人間の意識が性格の相反した二つの人間のうちに存在していることでありました。わたしは小さいCの村の司祭であるか、またはクラリモンドの肩書つきの愛人ロミュオー君であるか、この変則がどうしても分かりませんでした。
     それはどうでもいいとして、とにかくに私はヴェニスで暮らしていました。少なくとも私はそう信じていました。わたしのこの幻想的な旅行は、どれだけが現実の世界で、どれだけが幻影であるか、確かには分かりかねますが、わたしたちふたりはカナレイオ河岸の大邸宅に住んでいました。邸内は壁画や彫像をもって満たされ、大家の名作のうちにはティチアーノ(十五世紀より十六世紀にわたるヴェニスの画家)の二つの作品もクラリモンドの

    へや

    に掛けてありました。そこは全く王宮とひとしき所でありました。ふたりともに、めいめいゴンドラをそなえていて、家風の定服を着た船頭が付いており、さらに音楽室もあり、特別にお抱えの詩人もありました。
     クラリモンドはいつも豪奢な生活をして自然にクレオパトラの

    ふう

    があり、わたしはまた公爵の子息を小姓にして、あたかも十二使徒のうちの一族であり、あるいはこの静かな共和国(ヴェニス)の四人の布教師の家族であるかのごとくに尊敬され、ヴェニスの総督といえども道を

    けるくらいでありました。実に

    悪魔

    サタン

    がこの世に

    くだ

    って以来、わたしほど傲慢無礼の動物はありますまい。わたしは更にリドへ行って賭博を試みましたが、そこは全く

    阿修羅

    あしゅら

    ちまた

    ともいうべきものでした。わたしはあらゆる階級――零落した旧家の子弟、劇場の女たち、狡猾な悪漢、幇間、威張り散らす乱暴者のたぐいを招いて遊びました。
     こんな放蕩生活をしているにも

    かかわ

    らず、わたしはクラリモンドに対しては忠実であり、また熱烈に彼女を愛していました。クラリモンドも大いに満足して愛のかわることはありませんでした。クラリモンドを持っていることは、二十人の女、

    いな

    、すべての女を持っているようなものでした。彼女は実に感じ易い性質といろいろの変わった風貌と、新しい生きいきとした魅力とをすべて身に備えて、かのカメレオンのごとき女でありました。人がもしほかの女の美に酔うて淫蕩の心を起こした場合には、彼女は

    ただ

    ちにその美女の性格や魅力や容姿を完全に身にまとって、その人に同じ淫蕩の念を起こさせる女でありました。
     彼女はわたしの愛を百倍にして返してくれたのです。この地の若い貴公子や十法官からも

    はな

    ばなしい結婚の申し込みがありましたが、それはみな失敗に終わりました。フォスカリ家(ヴェニスの総督たりしフォスカリ・フランセソの一家)の人からも申し込みがありましたが、彼女はそれをも拒絶しました。金は十分に持っているので、彼女は愛のほかには何物をも望んでいませんでした。ただこの愛――青春の愛、純真の愛、それは自分のこころから燃え出した愛、そうして、それが最初であり、また最後であるところの熱情のほかには、なんにも望んでいなかったのです。わたしは全く幸福であるといえたかもしれません。しかし

    ただ

    ひとつの苦しみは、毎夜呪わしい夢魔におそわれることで、貧しい村の司祭として終日自分の乱行を

    懺悔

    ざんげ

    し、また滅罪の

    苦行

    くぎょう

    をしている有様を夢みるのでした。
     いつも彼女と一緒にいるために安心して、わたしはクラリモンドの変わった様子について別に考えもしませんでしたが、セラピオン師が彼女について語った言葉は時どきにわたしの記憶を

    び起こして、不安な心持ちを去るというわけにはゆきませんでした。
     どうかすると、クラリモンドの健康が以前のようによくないことがありました。彼女の皮膚は日に日に

    あお

    ざめて、呼ばれて来た医者たちにもその病症がわからず、どうにも療治のしようがないことがありました。医者たちはみな

    わけ

    のわからない薬をくれましたが、どれも無効で二度と呼ばれた者はありませんでした。彼女の色の蒼さは眼に見えるほどにいや増して、からだはだんだんに冷たく、さきの夜、かの見知らぬ城の中にあったように、白く死んでゆくのでした。わたしはその枯れ死んでゆく姿を見て、言うに言われない苦悶を感じました。彼女はわたしの苦しみに感動して、死ななければならない人間の感ずるような、運命的な微笑を美しく、また悲しそうに浮かべていました。
     ある朝のことでした。わたしは彼女の寝台のそばの小さい食卓で朝食をすませた後、わずかの間も離れてはならないと彼女のそばに腰をかけていました。その時に果物の皮をむいていると、誤まって自分の指に深く切り込んだのです。小さい紫色の血がすぐにほとばしり出て、いくらかクラリモンドにもかかったかと思うと、その顔色は急に変わって、今までの彼女にかつて見たことのない野蛮な、残忍な喜びの表情を帯びて来ました。彼女は動物のような身軽さ――あたかも猿か猫のように軽く飛び降りて、わたしの傷口に飛びついて、いかにも嬉しそうな様子でその血を吸い始めたのです。
     彼女は小さい口いっぱいに――あたかも酒好きの人間がクセレスかシラクサの酒を味わっているように、ゆっくりと注意ぶかく飲むのでした。その

    ひとみ

    はだんだんに半ばとじられて、緑色の眼の

    まる

    瞳孔

    ひとみ

    が楕円形にかわって来ました。彼女は時どきにわたしの手に接物するために、血を吸うことをやめましたが、さらに赤い血のにじみ出るのを待って、傷に

    口唇

    くちびる

    を持っていくのでした。血がもう出ないのを知ると、彼女の眼は

    みず

    みずしく輝いて、五月の夜明けよりも薔薇色になって

    ち上がりました。顔の色も生きいきとして、手にも温かいうるみが出て、今までよりもさらに美しく、まったく健康体のようになっているのです。
    「わたしは死なないわ、死なないわ」と、彼女は半気ちがいのようになって、わたしの

    くび

    にかじりついて叫びました。
    「わたしはまだ長い間あなたを愛することが出来るわ。わたしの

    生命

    いのち

    はあなたのものです。わたしのからだはすべてあなたから貰ったのです。あなたの尊い、高価な、この世界にあるどの霊薬よりも優れて高価な血のいく滴が、わたしの生命を元の通りにしてくれたのですわ」
     この光景は永く私をおびやかして、クラリモンドについては不思議な疑問を起こさせました。その夜、わたしが寝床にはいると、睡眠は私を誘い出して、むかしの司祭館に連れ戻しました。わたしはセラピオン師が今までよりもいっそう厳粛な不安らしい顔をしているのを見ました。彼は私をじっと見つめていましたが、やがて悲しそうに叫びました。
    「あなたは魂を失うばかりではない、今はその身をも失おうとしている。堕落した若い人は、実に恐ろしいことになっている」
     その言葉の調子は私を強く動かしました。しかしその時の印象がまざまざとしていたにもかかわらず、それもすぐに私から消えていって、ほかのさまざまな考えも皆わたしの心から去ってしまいました。

           六

     とうとうある晩のことでした。わたしが鏡を見ていると、その鏡に彼女の姿が映っていることを

    さと

    らずに、クラリモンドはいつも二人の食卓のあとで使うことにしている、

    薬味

    やくみ

    を入れた葡萄酒の盃のなかに、何かの粉を入れているのです。それが鏡に映ったので、わたしは盃を手にとって、口のところに持ってゆく真似をして、そばにある器物の上に置きました。彼女がうしろを向いたときに、私はその盃のものをテーブルの下にそっとこぼして、それから自分の部屋に帰って寝床についたのですが、今夜はけっして睡るまい、そうして、このすべての不思議なことについて何かの発見をしようと決心しました。
     間もなくクラリモンドは夜の服を着てはいって来ましたが、服をぬぐとわたしの寝台に這い上がって来て、私のそばに横になりました。彼女はわたしが寝ていることを確かめると、やがてわたしの腕をまくりました。そうして、髪から黄金のピンを抜き取ると、低い声で言いました。
    「一滴……ほんの一滴よ。この針のさきへ

    紅玉

    ルビー

    ほど……あなたがまだ愛して下さるなら、わたしは死んではならないわ。……ああ、悲しい恋……。あなたの美しい、紫色の輝いた血をわたしは飲まなければならない。お

    やす

    みなさい、わたしの貴い宝……。お寝みなさい、わたしの神様、わたしの坊ちゃん……。わたしはあなたに悪いことをするのではないのよ。わたしは永久に

    くならないように、あなたの

    生命

    いのち

    を吸わなければならないのよ。わたしはあなたをたいへんに愛していたので、ほかの恋びとの血を吸うことに決めていたの。しかし、あなたを知ってからは、ほかの人たちは

    いや

    になったわ……。ああ、綺麗な腕……。なんという

    まる

    い、なんという白い腕でしょう。どうしたらこんなに綺麗な青い血管が刺せるでしょう」
     彼女は独りごとを言いながらさめざめと泣くのです。わたしはその涙がわたしの腕を濡らすのを覚え、彼女がその手でしがみつくのを感じました。そのうちに彼女はとうとう決心して、ピンでわたしの腕を軽く刺して、そこから

    み出る血を吸いはじめました。二、三滴しか飲まないのに、彼女はもうわたしが眼を醒ますのを怖れて、傷口をこすって膏薬を貼って、注意深くわたしの腕に小さい繃帯を巻きつけたので、その痛みはすぐに去りました。
     もう疑う余地はなくなりました。セラピオン師の言葉は間違ってはいませんでした。この明らかな事実を知ったにもかかわらず、わたしはまだクラリモンドを愛さずにはいられませんでした。私はみずから進んで、彼女の不自然な健康を保持させるために、欲しがるだけの生き血をあたえました。そうしてまた、彼女を恐れてもいませんでした。彼女も自分を

    吸血鬼

    ヴァンパイア

    と思ってくれるなと歎願するようでした。わたしも今まで見聞したところによって、さらにそれを疑いませんでしたので、一滴ずつの血をそれほどに惜しくも思いませんでした。私はむしろ自分から腕の血管をひらいて、「さあ、飲むがいい。わたしの愛がわたしの血と一緒におまえの血に沁み込んでゆけば何よりだ」と言ったのです。それでも私は、彼女に麻酔するほど飲ませたり、またはピンを刺させたりすることは、常に注意して避けていたので、二人はまったく調和した生活を保っていたのです。
     それでも僧侶として、わたしの良心の

    呵責

    かしゃく

    は今まで以上にわたしを苦しめ始めました。わたしはいかなる方法で自分の肉体を抑制し、浄化することが出来るかについて、まったく

    途方

    とほう

    に暮れたのです。かの多くの幻覚が無意識の間に起こったにもせよ、直接に私がそれを行なわなかったにもせよ、それが夢であるにせよ、事実であるにせよ、かくのごとき淫蕩に

    よご

    れた心と汚れたる手をもって、クリストの身に触れることは出来ませんでした。
     わたしはこの不快な幻覚に誘われない手段として、睡眠におちいらないことに努めました。わたしは指で自分の

    眼瞼

    まぶた

    をおさえ、壁にまっすぐに

    りかかって何時間も立ちつづけ、出来る限り

    睡気

    ねむけ

    と闘いました。しかし睡気は相変わらずわたしの眼を襲って来て我慢がつかず、絶望的な不快のうちに両腕はおのずとおろされて、睡りの波は再びわたしを不誠実の岸へ運んでゆくのでした。
     セラピオン師は最もはげしい訓告をあたえて、わたしの柔弱と、熱意の不足をきびしく責めました。ついにある日、わたしが例よりも更に悩んでいる時に、彼は言いました。
    「あなたがこの絶えざる苦悩から逃がれ得るただひとつの道は、非常手段によらなければなりません。

    おお

    いなる病苦は大いなる療治を要する。わたしはクラリモンドが埋められている場所を知っている。わたしたちは彼女の

    亡骸

    なきがら

    を発掘して見る必要がある。そうして、あなたの愛人がどんな憐れな姿をしているかをご覧なさい。さすれば、あの虫ばんだ不浄の死体――土になるばかりになっている死体のために、あなたの魂を失うようなことはありますまい。かならずあなたを元へ引き戻すに相違ないと思います」
     わたしとしても、たとい

    一時

    いちじ

    は満足したとはいえ、二重の生活にはもうあきました。自分は空想の犠牲になっている紳士であるか、または僧侶であるか、ということをはっきり確かめたいと思いました。わたしは自分のうちにあるこの二人に対して、どちらかを殺して他を生かすか、あるいは両方ともに殺すか、とても現在の恐ろしい状態には長く堪えられないと決心したのであります。
     セラピオン師は

    鶴嘴

    つるはし

    てこ

    と、提灯とを用意して来ました。そうして夜なかに、わたしたちは――墓道を進みました。その付近や墓場の勝手を僧院長はよく心得ていました。たくさんの墓の碑銘をほの暗い提灯に照らし見た末に、二人は長い雑草にかくされて、

    こけ

    がむして、寄生植物の生えている石板のあるところに行き着きました。碑銘の前文を判読すると、こうありました。
    ここにクラリモンド埋めらる
    在りし日に
    最も美しき女として聞こえありし。
    「ここに相違ない」と、セラピオン師はつぶやきながら提灯を地面におろしました。
     彼は梃を石板の端から下へ押し入れて、それをもたげ始めました。石があげられると、さらに鶴嘴で掘りました。夜よりも暗い沈黙のうちに、わたしは彼のなすがままに眺めていると、彼は暗い仕事の上に身をかがめて、汗を流して掘っています。彼は死に瀕した人のように、絶えだえの

    呼吸

    いき

    をはずませています。実に怪しい物すごい光景で、もし人にこれを見せたらば、確かに神に仕うる僧侶とは思われず、何か

    けが

    れたる

    悪漢

    わるもの

    か、

    屍衣

    しい

    盗人

    ぬすびと

    と、思い違えられたであろうと察せられました。
     熱心なセラピオン師の厳峻と乱暴とは、使徒とか天使とかいうよりも、むしろ一種の悪魔のふうがありました。その鷲のような顔を始めとして、すべて厳酷な

    相貌

    そうぼう

    が灯のひかりにいっそう強められて、この場合における不愉快な想像力をいよいよ高めました。わたしの額には氷のような汗が大きいしずくとなって流れ、髪の毛は怖ろしさに逆立ちました。苛酷なセラピオン師は実に

    にく

    むべき

    涜神

    とくしん

    の行為を働いているように感じられ、われわれの上に重く渦巻いている黒雲のうちから雷火がひらめき来たって、彼を灰にしてしまえと、わたしは心ひそかに祈りました。
     

    糸杉

    サイプレス

    の梢に巣をくむ

    ふくろう

    は灯の光りにおどろいて飛び立ち、灰色のつばさを提灯のガラスに打ち当てながら悲しく叫びます。野狐も闇のなかに遠く

    いています。そのほかにも数知れない無気味な音がこの

    沈黙

    しじま

    のうちに響いて来ました。最後にセラピオン師の鶴嘴が棺を撃つと、棺は激しい音を立てました。彼はそれをねじ廻して、

    ふた

    を引きのけました。さてかのクラリモンドは――と見ると、彼女は大理石像のような青白い姿で、両手を組みあわせ、頭から足へかけて白い

    屍衣

    しい

    一枚をかけてあるだけでした。彼女の色もない口の片はしに、小さい真っ紅な一滴が露のように光っていました。セラピオン師はそれを見ると、大いに怒りを発しました。
    「おお、悪魔がここにいる。

    けが

    れたる娼婦! 血と

    黄金

    こがね

    を吸うやつ!」
     それから彼は死骸と棺の上に聖水をふりかけて、その上に聖水の

    刷毛

    はけ

    をもって十字を切りました。哀れなるクラリモンド――彼女は聖水のしぶきが振りかかるやいなや、美しい五体は土となって、ただの灰と、なかば石灰に化した骨と、ほとんど形もないような

    かたまり

    になってしまいました。
     冷静なセラピオン師は、いたましい死灰を指さして叫びました。
    「ロミュオー卿、あなたの情人をご覧なさい。こうなっても、あなたはまだこの美人とともに、リドの河畔やフュジナを散歩しますか」
     わたしは両手で顔をおおって、大いなる破滅の感に打たれました。わたしは司祭館に帰りました。
     クラリモンドの愛人として身分の高いロミュオー卿は、長いあいだ不思議な道連れであった僧侶の身から離れてしまったのです。しかもただ一度、それは前の墓ほり事件の翌晩でしたが、わたしはクラリモンドの姿を見ました。彼女は初めて教会の入り口でわたしに言ったと同じことを言いました。
    「不幸なかた、ほんとうに不幸なかた……。どうしてあなたは、あんな馬鹿な坊さんの言うことを

    きなすったのです。あなたは不幸でありませんか。わたしのみじめな墓を侮辱されたり、うつろな物をさらけ出されたりするような悪いことを、わたしはあなたに仕向けたでしょうか。あなたとわたしとの間の霊魂や肉体の交通は、もう永遠に破壊されてしまいました。さようなら。あなたはきっと私のことを後悔なさるでしょう」
     彼女は煙りのように消えて、二度とその姿を見せませんでした。
     ああ、彼女の言葉は真実となりました。わたしは彼女のことをいくたび

    なげ

    いたか分かりません。いまだに彼女のことを後悔しています。わたしの心はそのご落ちついて来ましたが、神様の愛も彼女の愛に換えるほどに大きくはありませんでした。

     皆さん。これはわたしの若い時の話です。けっして女を見るものではありません。

    戸外

    そと

    を歩く時は、いつでも地の上に眼をしっかりと据えて歩かなければなりません。どんなに清く注意ぶかく自分を保っていても、一瞬間のあやまちが永遠に取りかえしのつかないことになってしまうものです。


    底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年9月4日初版発行
       2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
    ※「

    吸血鬼

    ヴァンパイヤ

    」と「

    吸血鬼

    ヴァンパイア

    」の混在は底本通りにしました。

    2008年11月10日 (月)

    信号手  ディッケンズ Charles Dickens

    世界怪談名作集

    信号手

    ディッケンズ Charles Dickens

    岡本綺堂訳

    「おぅい、下にいる人!」
     わたしがこう呼んだ声を聞いたとき、信号手は短い棒に巻いた旗を持ったままで、あたかも信号所の小屋の前に立っていた。この土地の勝手を知っていれば、この声のきこえた方角を聞き誤まりそうにも思えないのであるが、彼は自分の頭のすぐ上の

    けわ

    しい断崖の上に立っている私を見あげもせずに、あたりを見まわして更に線路の上を見おろしていた。
     その振り向いた様子が、どういう

    わけ

    であるか知らないが少しく変わっていた。実をいうと、わたしは高いところから

    はげ

    しい夕日にむかって、手をかざしながら彼を見ていたので、深い

    みぞ

    に影を落としている信号手の姿はよく分からなかったのであるが、ともかくも彼の振り向いた様子は確かにおかしく思われたのである。
    「おぅい、下にいる人!」
     彼は線路の方角から振り向いて、ふたたびあたりを見まわして、初めて頭の上の高いところにいる私のすがたを見た。
    「どこか降りる所はありませんかね。君のところへ行って話したいのだが……」
     彼は返事もせずにただ見上げているのである。わたしも

    執拗

    しつこ

    く二度とは聞きもせずに見おろしていると、あたかもその時である。最初は漠然とした大地と空気との動揺が、やがて激しい震動に変わってきた。わたしは思わず引き倒されそうになって、あわてて後ずさりをすると、急速力の列車があたかも私の高さに蒸気をふいて、遠い景色のなかへ消えて行った。
     ふたたび見おろすと、かの信号手は列車通過の際に揚げていた信号旗を再び巻いているのが見えた。わたしは重ねて

    いてみると、彼はしばらく私をじっと見つめていたが、やがて巻いてしまった旗をかざして、わたしの立っている高い所から二、三百ヤードの遠い方角を指し示した。
    「ありがとう」
     私はそう言って、示された方角にむかって周囲を見廻すと、そこには高低のはげしい

    小径

    こみち

    があったので、まずそこを降りて行った。断崖はかなりに高いので、ややもすれば真っ逆さまに落ちそうである。その上に

    湿

    しめ

    りがちの岩石ばかりで、踏みしめるたびに水が

    み出して

    すべ

    りそうになる。そんなわけで、わたしは彼の教えてくれた道をたどるのがまったく

    いや

    になってしまった。
     私がこの難儀な小径を降りて、低い所に来た時には、信号手はいま列車が通過したばかりの

    軌道

    レール

    の間に立ちどまって、私が出てくるのを待っているらしかった。
     信号手は腕を組むような格好をして、左の手で

    あご

    を支え、その

    ひじ

    を右の手の上に休めていたが、その態度はなにか期待しているような、また深く注意しているようなふうにみえたので、わたしも

    怪訝

    けげん

    に思ってちょっと立ちどまった。
     わたしは再びくだって、ようやく線路とおなじ低さの場所までたどり着いて、はじめて彼に近づいた。見ると、彼は薄黒い

    ひげ

    を生やして、

    睫毛

    まつげ

    の深い陰鬱な青白い顔の男であった。その上に、ここは私が前に見たよりも荒涼陰惨というべき場所で、両側には

    峨峨

    がが

    たる

    湿

    しめ

    っぽい岩石ばかりがあらゆる景色をさえぎって、わずかに大空を仰ぎ観るのである。一方に見えるのは、大いなる牢獄としか思われない曲がりくねった岩道の延長があるのみで、他の一方は暗い赤い灯のあるところで限られた、そこには暗黒なトンネルのいっそう暗い入り口がある。その重苦しいような畳み石は、なんとなく

    粗野

    そや

    で、しかも人を圧するような、

    えられない感じがする上に、日光はほとんどここへ

    し込まず、土臭い有毒らしい匂いがそこらにただよって、どこからともなしに吹いて来る冷たい風が身に沁みわたった。私はこの世にいるような気がしなくなった。
     彼が身動きをする前に、私はそのからだに

    れるほどに近づいたが、彼はやはり私を見つめている眼を離さないで、わずかにひと足あとずさりをして、挨拶の手を挙げたばかりであった。前にもいう通り、ここはまったく寂しい場所で、それが向こうから見たときにも私の注意をひいたのである。おそらくたずねて来る人は稀であるらしく、また稀に来る人をあまり歓迎もしないらしく見えた。
     わたしから観ると、彼は私が長い間どこかの狭い限られた所にとじこめられていて、それが初めて自由の身となって、鉄道事業といったような重大なる仕事に対して、新たに眼ざめたる興味を感じて来た人間であると思っているらしい。私もそういうつもりで彼に話しかけたのであるが、実際はそんなこととは大違いになって、むしろ彼と会話を開かない方が仕合わせであったどころか、更に何か私をおびやかすようなものがあった。
     彼はトンネルの入り口の赤い灯の方を不思議そうに見つめて、何か見失ったかのように周囲を見まわしていたが、やがて私の方へ向き直った。あの灯は彼が仕事の一部であるらしく思われた。
    「あなたはご存じありませんか」と、彼は低い声で言った。
     その動かない二つの眼と、その幽暗な顔つきを見た時に、彼は人間ではなく、あるいは幽霊ではないかという怪しい考えが私の胸に浮かんで来たので、私はそのご絶えず彼のこころに感受性を持つかどうかを注意するようになった。
     私はひと足さがった。そうして、彼がひそかに私を恐れている眼色を探り出した。これで彼を怪しむ考えもおのずと消えたのである。
    「君はなんだか私を

    こわ

    そうに眺めていますね」と、私はしいて

    微笑

    ほほえ

    みながら言った。
    「どうもあなたを以前に見たことがあるようですが……」と、彼は答えた。
    「どこで……」
     彼はさきに見つめていた赤い灯を指さした。
    「あすこで……?」と、わたしは訊いた。
     彼は非常に注意ぶかく私を打ちまもりながら、音もないほどの低い声で「はい」と答えた。
    「冗談じゃあない。私がどうしてあんなところに行っているものですか。かりに行くことがあるとしても、今はけっしてあすこにいなかったのです。そんなはずはありませんよ」
    「わたしもそう思います。はい、確かにおいでにならないとは思いますが……」
     彼の態度は、わたしと同じようにはっきりしていた。彼は私の問いに対しても正確に答え、よく考えてものを言っているのである。彼はここでどのくらいの仕事をしているかといえば、彼は大いに責任のある仕事をしているといわなければならない。まず第一に、正確であること、注意ぶかくあることが、何よりも必要であり、また実務的の仕事という点からみても、彼に及ぶものはないのである。信号を変えるのも、

    燈火

    あかり

    を照らすのも、

    転轍

    てんてつ

    のハンドルをまわすのも、みな彼自身の頭脳の働きによらなければならない。
     こんなことをして、彼はここに長い寂しい時間を送っているように見えるが、彼としては自分の生活の習慣が自然にそういう形式をつくって、いつのまにかそれに慣れてしまったというのほかはあるまい。こんな谷のようなところで、彼は自分の言葉を習ったのである。単にものを見ただけで、それを粗雑ながらも言葉に移したのであるから、習ったといえばいえないこともないかも知れない。そのほかに分数や小数を習い、代数も少し習ったが、その文字などは子供が書いたように

    まず

    いものである。
     いかに職務であるとはいえ、こんな谷間の

    湿

    しめ

    っぽい所にいつでも残っていなければならないのか。そうして、この高い石壁のあいだから日光を仰ぎに出ることは出来ないものか。それは時間と事情が許さないのである。ある場合には、線路の上にいるよりも他の場所にいることもないではなかったが、夜と昼とのうちで、ある時間だけはやはり働かなければならないのである。天気のいい日に、ある機会をみて少しく高い所へ登ろうと企てることもあるが、いつも電気ベルに呼ばれて、幾倍の心配をもってそれに耳を傾けなければならないことになる。そんなわけで、彼が救われる時間は私の想像以上に少ないのであった。
     彼は私を自分の小屋へ誘っていった。そこには火もあり、机の上には何か記入しなければならない職務上の帳簿や

    指針盤

    ししんばん

    の付いている電信機や、それから彼がさきに話した小さい電気ベルがあった。わたしの観るところによれば、彼は相当の教育を受けた人であるらしい。少なくとも彼の地位以上の教育を受けた人物であると思われるが、彼は多数のなかにたまたま少しく

    悧口

    りこう

    な者がいても、そんな人間は必要でないと言った。そういうことは工場の中にも、警察官の中にも、軍人の中にもしばしば聞くことで、どこの鉄道局のなかにも多少は

    まぬか

    れないことであると、彼はまた言った。
     彼は若いころ、学生として自然哲学を勉強して、その講義にも出席しているが、中途から乱暴を始めて、世に出る機会をうしなって、次第に零落して、ついにふたたび頭をもたげることが出来なくなった。ただし、彼はそれについて不満があるでもなかった。すべてが

    自業自得

    じごうじとく

    で、これから方向を転換するには、時すでに遅しというわけであった。
     かいつまんで言えばこれだけのことを、彼はその深い眼で私と火とを見くらべながら静かに話した。彼は会話のあいだに時どきに

    貴下

    サー

    という敬語を用いた。

    こと

    に自分の青年時代を語るときに多く用いていたのは、わたしが想像していた通り、彼が相当の教育を受けた男であることを思わせたのである。
     こうして話している間にも、彼はしばしば小さいベルの鳴るのに妨げられた。彼は通信を読んだり、返信を送ったりしていた。またある時はドアの外へ出て、列車が通過の際に信号旗を示し、あるいは機関手にむかって何か口で通報していた。彼が職務を執るときは非常に正確で注意ぶかく、たとい談話の最中でもはっきりと区切りをつけ、その目前の仕事を終わるまではけっして口をきかないというふうであった。
     ひと口にいえば、彼はこういう仕事をする人としては、その資格において十分に安心のできる人物であるが、ただ不思議に感じられたのはある場合に――それは彼が私と話している最中であったが、彼は二度も会話を中止して、鳴りもしないベルの方に向き直って、顔の色を変えていたことであった。彼はそのとき、戸外のしめった空気を防ぐためにとじてあるドアをあけて、トンネルの入り口に近い、かの赤い灯を眺めていた。この二つの出来事ののち、彼はなんとも説明し難い顔つきをして、火のほとりに戻って来たが、そのあいだに別に変わったこともないらしかった。
     彼に別れて

    ち上がるときに、私は言った。
    「君はすこぶる満足のように見うけられますね」
    「そうだとは信じていますが……」と、彼は今までにないような低い声で付け加えた。「しかし私は困っているのです。実際、困っているのです」
    「なんで……。何を困っているのです」
    「それがなかなか説明できないのです。それが実に……実にお話しのしようがないので……。またおいでになった時にでもお話し申しましょう」
    「わたしも、また来てもいいのですが……。いつごろがいいのです」
    「わたしは朝早くここを立ち去ります。そうして、あしたの晩の十時には、またここにいます」
    「では十一時ごろに来ましょう」
    「どうぞ……」と、彼は私と一緒に外へ出た。そうして、極めて低い声で言った。

    みち

    のわかるまで私の白い

    燈火

    あかり

    を見せましょう。路がわかっても、声を出さないで下さい。上へ行き着いた時にも呼ばないで下さい」
     その様子がいよいよ私を薄気味わるく思わせたが、私は別になんにも言わずに、ただ、はいはいと答えておいた。
    「あしたの晩おいでの時にも呼ばないで下さい。それから少しおたずね申しますが、どうしてあなたは今夜おいでの時に〈おぅい、下にいる人!〉と、お呼びになったのです」
    「え。私がそんなようなことを言ったかな」
    「そんなようなことじゃありません。あの声は私がよく聞くのです」
    「私がそう言ったとしたら、それは君が下の方にいたからですよ」
    「ほかに理由はないのですな」
    「ほかに理由があるものですか」
    「なにか、超自然的の力が、あなたにそう言わせたようにお思いにはなりませんか」
    「いいえ」
     彼は「さようなら」という代りに、持っている白い燈火をかかげた。
     私はあとから列車が追いかけて来るような不安な心持ちで、下り列車の線路のわきを通って自分の路を見つけた。その路はさきに下って来たときよりも容易に登ることが出来たので、さしたる冒険もなしに私の宿へ帰った。

     約束の時間を正確に守って、わたしは次の夜、ふたたびかの高低のひどい坂路に足をむけた。遠い所では、時計が十一時を打っていた。彼は白い燈火を掲げながら、例の低い場所に立って私を待っていた。わたしは彼のそばへ寄った時に

    いた。
    「わたしは呼ばなかったが……。もう話してもいいのですか」
    「よろしいですとも……。今晩は……」と、彼はその手をさし出した。
    「今晩は……」と、わたしも手をさし出して挨拶した。それから二人はいつもの小屋へはいってドアをしめて、火のほとりに腰をおろした。
     椅子に着くやいなや、彼はからだを前にかがめて、ささやくような低い声で言った。
    「わたしが困っているということについて、あなたが重ねておいでになろうとは思っていませんでした。実は昨晩は、あなたをほかの者だと思っていたのですが……。それが私を困らせるのです」
    「それは思い違いですよ」
    「もちろん、あなたではない。そのある者が私を困らせるので……」
    「それは誰です」
    「知りません」
    「わたしに似ているのですか」
    「わかりません。私はまだその顔を見たことはないのです、左の腕を顔にあてて、右の手を振って……激しく振って……。こんなふうに……」
     わたしは彼の動作を見つめていると、それは激しい感情を

    苛立

    いらだ

    たせているような腕の働き方で、彼は「どうぞ

    退

    いてくれ」と叫ぶように言った。そうして、また話し出した。
    「月の明かるい、ある晩のことでした。私がここに腰をかけていると〈おぅい、下にいる人!〉と呼ぶ声を聞いたのです。私はすぐに

    って、そのドアの口から見ると、トンネルの入り口の赤い灯のそばに立って、今お目にかけたように手を振っている者がある。その声は叫ぶような

    うな

    るような声で〈見ろ、見ろ〉という。つづいてまた〈おぅい、下にいる人! 見ろ、見ろ〉という。わたしは自分のランプを赤に直して、その者の呼ぶ方角へ駈けて行って〈どうかしましたか、何か

    出来

    しゅったい

    しましたか。いったいどこです〉とたずねると、その者はトンネルの暗やみのすぐ前に立っているのです。私はさらに近寄ってみると、不思議なことには、その者は袖を自分の眼の前にあてている。私はまっすぐに進んで行って、その袖を引きのけてやろうと手をのばすと、もうその形は見えなくなってしまったのです」
    「トンネルの中へでもはいったかな」と、わたしは言った。
    「そうではありません。私はトンネルの中へ五百ヤードも駈け込んで、わたしの頭の上にランプをさしあげると、前に見えたその者の影がまた同じ距離に見えるのです。そうして、トンネルの壁をぬらしている

    しずく

    が上からぽたぽたと落ちています。わたしは職務という観念があるので、初めよりも更に

    はや

    い速度でそこを駈け出して、自分の赤ランプでトンネルの入り口の赤い灯のまわりを見まわしたのち、その赤い灯の鉄梯子をつたって、頂上の展望台に登りました。それからまた降りて来て、そこまで駈けて戻りましたが、どうも気になるので、上り線と下り線とに電信を打って〈警戒の報知が来た。何か事故が起こったのか〉と問い合わせると、どちらからも同じ返事が来て〈故障なし〉……」
     この話を聞かされて、なんだか背骨がぞっとするような心持ちになったが、私はそれを

    こら

    えながら、そんなあやしい人影などはなにかの視覚のあやまりである。あらぬものの影を見たりするのは神経作用から起こるもので、病人などにはしばしばその例を見ることがあると話して聞かせた。また、そんな人びとのうちには、そういう苦悩を自覚し、それを自分で実験している人さえあるということをも話した。
    「その叫び声というのも……」と、わたしは言った。「まあ、すこしのあいだ聴いていてご覧なさい。こんな不自然な谷間のような場所では、われわれが小さい声で話している時に、電信線が風にうなるのを聞くと、まるで

    竪琴

    たてごと

    を乱暴に鳴らしているように響きますからね」
     彼はそれに

    さか

    らわなかった。二人はしばらく耳をかたむけていると、風と電線との音が実際怪しくきこえるのであった。彼も幾年のあいだ、ここに長い冬の夜を過ごして、ただひとりで寂しくそれを聴いていたのである。しかも彼は、自分の話はまだそれだけではないと言った。
     わたしは中途で口をいれたのを謝して、更にそのあとを聴こうとすると、彼は私の腕に手をかけながら、またしずかに話し出した。
    「その影があらわれてから六時間ののちに、この線路の上に怖ろしい事件が起こったのです。そうして十時間ののちには、死人と重症者がトンネルの中から運ばれて、ちょうどその影のあらわれた場所へ来たのです」
     わたしは不気味な戦慄を感じたが、つとめてそれを押しこらえた。この出来事はさすがに

    ※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)

    うそ

    であるとはいえない。まったく驚くべき

    暗合

    あんごう

    で、彼のこころに強い印象を残したのも無理はない。しかも、かくのごとき驚くべき暗合がつづいて起こるというのは、必ずしも疑うべきことではなく、こういう場合も

    往々

    おうおう

    にあり得るということを勘定のうちに入れておかなければならない。もちろん、世間多数の常識論者は、とかく人生の上に生ずる暗合を信じないものではあるが――
     彼の話は、まだそれだけではないというのである。私はその談話をさまたげたことを再び詫びた。
    「これは一年前のことですが……」と、彼は私の腕に手をかけて、うつろな眼で自分の肩を見おろしながら言った。「それから六、七カ月を過ぎて、私はもう以前の驚きや怖ろしさを忘れた時分でした。ある朝……夜の明けかかるころに、わたしがドアの口に立って、赤い灯の方をなに心なく眺めると、またあの怪しい物が見えたのです」
     ここまで話すと、彼は句を切って、私をじっと見つめた。
    「それがなんとか呼びましたか」
    「いえ、黙っていました」
    「手を振りませんでしたか」
    「振りません。

    燈火

    あかり

    の柱に

    りかかって、こんなふうに両手を顔に当てているのです」
     わたしは重ねて彼の

    仕科

    しぐさ

    を見たが、それは私がかつて墓場で見た石像の姿をそのままであった。
    「そこへ行って見ましたか」
    「いえ、私は内へはいって、腰をおろして、自分の気を落ちつけようと思いました。それがために私はいくらか弱ってしまったからです。それから再び外へ出てみると、もう日光が

    していて、幽霊はどこへか消え失せてしまいました」
    「それから何事も起こりませんでしたか」
     彼は指のさきで私の腕を二、三度押した。その

    都度

    つど

    に、彼は怖ろしそうにうなずいたのである。
    「その日に、列車がトンネルから出て来たとき、私の立っている側の列車の窓で、人の頭や手がごっちゃに出て、何かしきりに、振っているように見えたので、わたしは

    早速

    さっそく

    に機関手にむかって、

    停止

    ストップ

    の信号をしました。機関手は運転を

    めてブレーキをかけました。列車は五百ヤードほども行き過ぎたのです。私がすぐに駈けてゆくと、そのあいだに怖ろしい叫び声を聞きました。美しい若い女が列車の貸切室のなかで突然に死んだのです。その女はこの小屋へ運び込まれて、ちょうどあなたと私とが向かい合っている、ここの

    ところ

    へ寝かしました」
     彼がそう言って指さした場所を見おろしたとき、わたしは思わず自分の椅子をうしろへ押しやった。
    「ほんとうです。まったくです。私が今お話をした通りです」
     私はなんとも言えなくなった。私の口は乾き切ってしまった。外ではこの物語に誘われて、風や電線が長い悲しい唸り声を立てていた。
    「まあ、聴いてください」と、彼はつづけた。「そうして、私がどんなに困っているか、お察しください。その幽霊が一週間前にまた出て来ました。それからつづいて、気まぐれのように時どきに現われるのです」
    「あの灯のところに……?」
    「あの危険信号燈のところにです」
    「どうしているように見えますか」
     彼は激しい恐怖と戦慄を増したような風情で「どうか

    退

    いてくれ!」と言うらしい

    仕科

    しぐさ

    をして見せた。そうして、さらに話しつづけた。
    「私はもうそれがために平和も安息も得られないのです。あの幽霊はなんだか苦しそうなふうをして、何分間もつづけて私を呼ぶのです。……〈下にいる人! 見ろ、見ろ〉……そうして、私を差し招くのです。そうして、その小さいベルを鳴らすのです」
     私はそれを引き取って言った。
    「では、私がゆうべ来ていたときに、そのベルが鳴ったのですか。君はそれがために戸のところへ出て行ったのですか」
    「そうです。二度も鳴ったのです」
    「どうもおかしいな」と、私は言った。「その想像は間違っているようですね。あのとき私の眼はベルの方を見ていて、私の耳はベルの方に向いていたのだから、私のからだに異状がない限りは、あのときにベルは一度も鳴らないと思いますよ。あのとき以外にも鳴りませんでした。もっとも、君が停車場と通信をしていたときは別だが……」
     彼はかしらをふった。
    「わたしは今までベルを聞き誤まったことは一度もありません。わたしは幽霊が鳴らすベルと、人間が鳴らすベルとを混同したことはありません。幽霊の鳴らすベルは、なんともいえない一種異様のひびきで、そのベルは人の眼にみえるように動くのではないのです。それがあなたの耳には聞こえなかったかも知れませんが、私には聞こえたのです」
    「では、あのときに外を見たらば、怪しい物がいたようでしたか」
    「あすこにいました」
    「二度ながら……?」
    「二度ながら……」と、彼ははっきりと言い切った。
    「では、これから一緒に出て行って見ようじゃありませんか」
     彼は下くちびるを噛みしめて、あまり行きたくない様子であったが、それでも故障なしに起ちあがった。私はドアをあけて階段に立つと、彼は入り口に立った。そこには危険信号燈が見える。暗いトンネルの入り口がみえる。ぬれた岩の高い断崖がみえる。その上にはいくつかの星がかがやいていた。
    「見えますか」と、私は彼の顔に特別の注意を払いながら訊いた。
     彼の眼は大きく――それはおそらくそこを見渡したときの私の眼ほどではなかったかもしれないが――緊張したように輝いていた。
    「いえ、いません」
    「わたしにも見えない」
     二人は再びうちにはいって、ドアをしめて椅子にかかった。私はいまこの機会をいかによく利用しようかということを考えていたのである。たとい何か彼を呼ぶものがあるとしても、ほとんど真面目に論議するにも足らないような事実を

    たて

    にとって、彼がそれを当然のことのように主張する場合には、なんと言ってそれを説き導いてよかろうか。そうなると、わたしははなはだ困難な立場にあると思ったからである。
    「これで、私がどんなに困っているかということが、あなたにもよくお分かりになったろうと思いますが、いったいなんであの幽霊が出るのでしょうか」
     私は彼に対して、自分はまだ十分に理解したとは言いかねると答えると、彼はその眼を爐の火に落として、時どきに私の方をみかえりながら、沈みがちに言った。
    「なんの知らせでしょうか。どんな変事が起こるのでしょうか。その変事はどこに起こるのでしょうか。線路の上のどこかに危険がひそんでいて、おそるべき

    わざわ

    いが起こるのでしょう。いままでのことを考えると、今度は三度目です。しかし、これはたしかに私を残酷に苦しめるというものです。どうしたらいいでしょうか」
     彼はハンカチーフを取り出して、その熱いひたいからしたたる汗を拭いた。そうして、さらに手のひらを拭きながら言った。
    「わたしが上下線の一方か、または両方へ危険信号を発するとしても、さてその理由をいうことが出来ないのです。私はいよいよ困るばかりで、

    ろく

    なことにはなりません。みんなは私が気でも狂ったと思うでしょう。まずこんなことになります。……私が〈危険、警戒ヲ要ス〉という信号をすると、〈イカナル危険ナリヤ、場所ハイズコナリヤ〉という返事が来ます。それにたいして、私が〈ソレハ不明、ゼヒトモ警戒ヲ要ス〉と答えるとしたら、どうなるでしょう。結局わたしは免職になるのほかはありますまい」
     彼の悩みは見るにたえないほどであった。こんな不可解の責任のために、その生活をもくつがえすということは、実直な人間にとって精神的苦痛に相違なかった。彼は黒い髪をうしろへ押しやって、極度の苦悩にこめかみをこすりながら言いつづけた。
    「その怪しい影が初めて危険信号燈の下に立った時に、どこに事件が起こるかということを、なぜ私に教えてくれないのでしょう。それがどうしても起こるのなら……。そうしてまた、それが避けられるものならば、どうしたらそれを避けられるかということを、なぜ私に話してくれないのでしょう。二度目に来た時には顔を隠していましたが、なぜその代りに〈女が死ぬ、外へ出すな〉と言わないのでしょう。前の二度の場合は、その予報が事実となって現われることを示して、私に三度目の用意をしろと言うにとどまるならば、なぜもっとはっきりと私に説明してくれないのでしょう。悲しいかな、私はこの

    寂寥

    せきりょう

    たるステーションにある一個の哀れなる信号手に過ぎないのです。彼はなぜ私以上に信用もあり実力もある人のところへ行かないのでしょうか」
     このありさまを見た時に、私はこの気の毒な男のために、また二つには公衆の安全のために、自分としてはこの場合、つとめて彼の心を取り鎮めるように仕向けなければならないと思った。そこで私は、それが事実であるかないかというような問題を別にして、誰でもその義務をまっとうするほどの人は、せいぜいその仕事をよくしなければならないということを説きすすめると、彼は怪しい影の出現について依然その疑いを解かないまでも、自己の職責をまっとうするということについて一種の

    慰藉

    いしゃ

    を感じたらしく、この努力は彼が信じている怪談を理屈で説明してやるよりも遙かに好結果を奏したのであった。
     彼は落ちついてきた。夜の

    けるにしたがって、彼は自分の持ち場に偶然おこるべき事故に対して、いっそうの注意を払うようになった。私は午前二時ごろに彼に別れて帰った。朝まで一緒にとどまっていようと言ったのであるが、彼はそれには及ばないと断わったのである。
     わたしは坂路を登るときに、いくたびか、あの赤い灯をふり返って見た。その灯はどうも心持ちがよくなかった。もしあの下にわたしの寝床があったとしたら、私はおそらく眠られないであろう。まったくそうである。私はまた、鉄道事故と死んだ女との二つの事件についても、いい心持ちがしない。どちらもまったくそうである。しかもそれらのことよりも最も私の気にかかるのは、この打ち明け話を聴いた私の立ち場として、これをどうしたらいいかということであった。
     かの信号手は相当に教育のある、注意ぶかい、丹念な確かな人間であるには相違ないが、ああいう心持ちでいた日には、それがいつまで続くやら分からない。彼の地位は低いけれども、最も重要な仕事を受け持っているのである。私もまた彼があくまでも、かの事件の探究を続けるという場合に、いつまでも一緒になって自分の暇をつぶしてはいられないのである。
     わたしは彼が所属の会社の上役に書面をおくって、彼から聴いた

    顛末

    てんまつ

    を通告しようかと思ったが、彼になんらの相談もしないで仲介の

    位地

    いち

    に立つことは、なんだか彼を裏切るような感じが強かったので、私は最後に決心して、この方面で知名の熟練の医師のところへ彼を同伴して、

    一応

    いちおう

    その医師の意見を聴くことにした。彼の話によると、信号手の交代時間は次の日の夜に廻って来るので、彼は日の出後一、二時間で帰ってしまって、日没後から再び職務に就くことになっているというので、私もひとまず帰ることにした。

     次の夜は心持ちのいい晩で、わたしは遊びながらに早く出た。例の断崖の頂上に近い畑路を横ぎるころには、夕日がまだまったく沈んでいなかったので、もう一時間ばかり散歩しようと私は思った。半時間行って、半時間戻れば、信号手の小屋へ行くにはちょうどいい刻限になるのであった。
     そこで、このそぞろ歩きをつづける前に、わたしは崖のふちへ行って、先夜初めて信号手を見た地点から何ごころなく見おろすと、私はなんとも言いようがないようにぞっとした。トンネルの入り口に近いところで、ひとりの男が左の

    そで

    を眼にあてながら、熱狂的にその右の手を振っているのである。
     わたしを圧迫したその言い知れない恐怖は、一瞬間にして消え失せた。次の瞬間には、その男がほんとうの人間であることが分かったのである。それから少し離れたところには、いくらかの人がむらがっていて、かの男はその群れにむかって何かの手真似をしているのであった。危険信号燈にはまだ灯がはいっていなかった。私はこのとき初めて見たのであるが、信号燈の柱のむこうに小さい低い小屋があった。それは木材と

    脂布

    あぶらぬの

    とで作られて、やっと寝台を入れるくらいの大きさであった。
     何か変事が

    出来

    しゅったい

    したのではないか。私が信号手ひとりをそこに残して帰ったがために、何か

    致命的

    ちめいてき

    の災厄が起こったのではあるまいか。だれも彼のすることを見ている者もなく、またそれを注意する者もなかったがために、何かの変事が出来したのではあるまいか。
     ――こういう自責の念に

    られながら、私は出来るだけ急いで坂路を降りて行った。
    「何事が起こったのです」と、私はそこらにいる人たちに訊いた。
    「信号手が、けさ殺されたのです」
    「この信号所の人ですか」
    「そうです」
    「では、わたしの知っている人ではないかしら」
    「ご存じならば、お分かりになりましょう」と、一人の男が他に代って、丁寧に脱帽して答えた。そうして、脂布のはしをあげて、「まだ顔はちっとも変わっていません」
    「おお。どうしたのです、どうしてこんなことになったのです」
     小屋が再びしめられると、私は人びとを交るがわるに見まわしながら訊いた。
    「機関車に

    かれたのです。英国じゅうでもこの男ほど自分の仕事をよく知っている者はなかったのですが、あるいは外線のことについていくらか暗いところがあったと見えます。時は真っ昼間で、この男は信号燈をおろして、手にランプをさげていたのです。機関車がトンネルから出て来たときに、この男は機関車の方へ背中をむけていたものですから、たちまちに轢かれてしまいました。あの男が機関手で、今そのときの話をしているところです。おい、トム。このかたに話してあげるがいい」
     粗末な黒い服を着ている男が、さきに立っていたトンネルの入り口に戻って来て話した。
    「トンネルの

    曲線

    カーブ

    まで来たときに、そのはずれの方にあの男が立っている姿が遠眼鏡をのぞくように見えたのですが、もう速力をとめる

    ひま

    がありません。また、あの男もよく気がついていることだろうと思っていたのです。ところが、あの男は汽笛をまるで聞かないらしいので、私は汽笛をやめて、精いっぱいの大きい声で呼びましたが、もうその時にはあの男を轢き倒しているのです」
    「なんと言って呼んだのです」
    「下にいる人! 見ろ、見ろ。どうぞ

    退

    いてくれ。……と、言いました」
     私はぎょっとした。
    「実にどうも

    いや

    でしたよ。私はつづけて呼びました。もう見ているのがたまらないので、私は自分の片腕を眼にあてて、片手を最後まで振っていたのですが、やっぱり

    駄目

    だめ

    でした」

     この物語の不思議な事情を詳細に説明するのはさておいて、終わりに臨んで私が指摘したいのは、不幸なる信号手が自分をおびやかすものとして、私に話して聞かせた言葉ばかりでなく、わたし自身が「下にいる人!」と彼を呼んだ言葉や、彼が真似てみせた手振りや、それらがすべて、かの機関手の警告の言葉と動作とに暗合しているということである。


    底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年9月4日初版発行
       2002(平成14)年6月20日新装版初版発行

    ヴィール夫人の亡霊 デフォー Daniel Defoe

    世界怪談名作集

    ヴィール夫人の亡霊

    デフォー Daniel Defoe

    岡本綺堂訳

     この物語は事実であるとともに、理性に富んだ人たちにも、なるほどと思われるような出来事が伴っている。この物語はケント州のメイドストーン治安判事を勤めている非常に聡明な一紳士から、ここに書かれてある通りに、ロンドンにいる彼の一友人のところへ知らせてよこしたもので、しかもカンタベリーで、この物語に現われて来るバーグレーヴ夫人の二、三軒さきに住んでいる上記の判事の親戚で、冷静な理解力のある一婦人もまたこの事実を確証している。
     したがって、治安判事は自分の親戚の婦人も確かに亡霊の存在を認めているものと信じ、また彼の友達にも極力この物語の全部はほんとうの事実だと断言している。そうして、その亡霊を見たというバーグレーヴ夫人自身の口から、この物語を聞いたままを治安判事に伝えたその婦人は、正直で、善良で、

    敬虔

    けいけん

    な一個の女性としてのバーグレーヴ夫人が、この事実談を一つの

    荒唐無稽

    こうとうむけい

    な物語に粉飾するような婦人でないことを信じているのである。
     私がこの事実談をここに引用したのは、この世の私たちの人生には更にまた一つの生活があって、そこに平等なる神は私たちが生きている間の行為にしたがって、それに審判をなされるのであるから、私たちは自分が現世でなして来たところの過去を反省しなければならない。また、私たちの現世の生命は短くて、いつ死ぬか分からないが、もし不信仰の罰をまぬかれて、信仰の

    むく

    いとして来世における永遠の生命を

    把握

    はあく

    しようとするならば、今後すみやかに悔い改めて神に

    帰依

    きえ

    し、努めて悪をなさず、善をおこなおうと心がけなければならない。幸いに神が私たちに目をかけて下されて、神の

    御前

    みまえ

    で楽しく暮らせるような来世のために、現世において信仰の生活を導いて下さるならば、ただちに神を求めなければならないということを、お互いに考えんがためである。

     この物語は、こうした種類の出来事のうちでも非常に珍らしく、実際をいうと、私が今まで書物の上で読んだり、人から聞いたりしたことなどは、この事実談ほどに私のこころを

    かなかった。したがって、これは好奇心に富んだ、まじめな

    詮索

    せんさく

    家を満足させるに十分であると思う。バーグレーヴ夫人は現在生きている人で、死んだヴィール夫人の亡霊が彼女のところに現われたのであった。
     バーグレーヴ夫人は私の親しい友達で、私が知ってから最近の十五、六年のあいだ、彼女は世間の評判のよい夫人であったこと、また私が初めて近づきになった時でも、彼女は若い時そのままの純潔な性格の所有者であったことを確言し得る。それにもかかわらず、この物語以来、彼女はヴィール夫人の弟の友達などから

    誹謗

    ひぼう

    されている。その人たちはこの物語を気違い

    沙汰

    ざた

    だと思って、極力彼女の名声を

    くじ

    こうとするとともに、一方には狼狽してその物語を一笑にふしてしまおうと努めている。しかも、こうした誹誘をこうむっている上に、さらに不行跡な夫からは

    虐待

    ぎゃくたい

    されているにもかかわらず、快活な性格の彼女は少しも失望の色をみせず、また、こういう境遇の婦人にしばしば見るような、始終なにかぶつぶつ言っているような

    鬱症

    うつしょう

    におちいったということもかつて聞かず、夫の蛮的行為のまっ最中でも常に快活であったということは、私をはじめ他の多数の名望ある人びとも証人に立っているのである。
     さてあなたに、ヴィール夫人は三十歳ぐらいの

    中年増

    ちゅうどしま

    のわりに、娘のような温和な婦人であったが、数年前に人と談話をしているうちに突然発病して、それから

    痙攣

    けいれん

    的の発作に苦しめられるようになったということを知っておいてもらわなければならない。彼女はドーバーに

    うち

    を持っていた、たった一人の弟の厄介になっていた。彼女は非常に信心の厚い婦人であった。その弟は見たところ実に落ち着いた男であったが、今では彼はこの物語を極力打ち消している。ヴィール夫人とバーグレーヴ夫人とは子供のときからの親友であった。
     子供時分のヴィール夫人は貧しかった。彼女の父親はその日の生活に追われて、子供の面倒まで見ていられなかった。その当時のバーグレーヴ夫人もまた同じように不親切な父親を持っていたが、ヴィール夫人のように衣食には事を欠かなかったのである。
     ヴィール夫人はよくバーグレーヴ夫人にむかって、「あなたはいちばんいいお友達で、そうして世界にたった一人しかないお友達だから、どんな事があっても永久に私はあなたとの友情を失いません」と言っていた。
     彼女らはしばしばお互いの不運を歎きあい、ドレリンコート(十七世紀におけるフランスの神学者)の「死」に関する著書や、その他の書物を一緒に読み、そうしてまた、二人のキリスト教徒の友達のように、彼女らは自分たちの悲しみを慰めあっていた。
     その後、彼女はヴィールという男と結婚した。ヴィールの友達は彼を

    周旋

    しゅうせん

    してドーバーの税関に勤めるようにしたので、ヴィール夫人とバーグレーヴ夫人との交通は自然だんだんに疎遠になった。といって、別に二人の間が気まずくなったというわけではなかったが、とにかくにその心持ちが追いおいに離れていって、ついにバーグレーヴ夫人は二年半も彼女に逢わなかった。もっとも、バーグレーヴ夫人はその間の十二カ月以上もドーバーにはいなかった。また最近の半年のうちで、ほとんど二カ月間カンタベリーにある自分の実家に住んでいたのであった。

     この実家で、一七〇五年九月八日の午前に、バーグレーヴ夫人はひとりで坐りながら、自分の不運な生涯を考えていた。そうして、自分のこうした逆境もみな持って生まれた運命であると

    あきら

    めなければならないと、自分で自分に言い聞かせていた。そうして彼女はこう言った。
    「私はもう前から覚悟をしているのであるから、運命にまかせて落ち着いていさえすればいいのだ。そうして、その不幸も終わるべき時には終わるであろうから、自分はそれで満足していればいいのだ」
     そこで、彼女は自分の針仕事を取りあげたが、しばらくは仕事を始めようともしなかった。すると、ドアをたたく音がしたので、出て見ると、乗馬服を着けたヴィール夫人がそこに立っていた。ちょうどその時に、時計は正午の十二時を打っていた。
    「あら、あなた……」と、バーグレーヴ夫人は言った。「ずいぶん長くお目にかからなかったので、あなたにお逢いすることが出来ようとは、ほんとうに思いも寄りませんでした」
     それからバーグレーヴ夫人は彼女に逢えたことの喜びを述べて、挨拶の接吻を申し込むと、ヴィール夫人も承諾したようで、ほとんどお互いの

    口唇

    くちびる

    と口唇とが触れ合うまでになったが、手で眼をこすりながら「わたしは病気ですから」と言って接吻をこばんだ。彼女は旅行中であったが、何よりもバーグレーヴ夫人に逢いたくてたまらなかったので

    たず

    ねて来たと言った。
    「まあ、あなたはどうして独り旅なぞにおいでになったのです。あなたには優しい弟さんがおありではありませんか」
    「おお!」とヴィール夫人が答えた。「わたしは弟に内証で家を飛び出して来ました。わたしは旅へ立つ前に、ぜひあなたに一度お目にかかりたかったからです」
     バーグレーヴ夫人は彼女と一緒に

    うち

    へはいって、一階の部屋へ案内した。
     ヴィール夫人は今までバーグレーヴ夫人が掛けていた安楽椅子に腰をおろして、「ねえ、あなた。私は再び昔の友情をつづけていただきたいと思います。それで今までのご

    無沙汰

    ぶさた

    のお

    びながらに伺ったのです。ねえ、ゆるして下さいな。やっぱりあなたは私のいちばん好きなお友達なのですから」と、口をひらいた。
    「あら、そんなことを気になさらなくってもいいではありませんか。私はなんとも思ってはいませんから、すぐに忘れてしまいます」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
    「あなたは私をどう思っていらっしゃって……」と、ヴィール夫人は言った。
    「別にどうといって……。世間の人と同じように、あなたも幸福に暮らしていらっしゃるので、私たちのことを忘れているのだろうと思っていました」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
     それからヴィール夫人はバーグレーヴ夫人にいろいろの昔話をはじめて、その当時の友情や、逆境当時に毎日まいにち取りかわしていた会話のかずかずや、たがいに読み合った書物、特におもしろかった「死」に関するドレリンコートの著書――彼女はこうした主題の書物では、これがいちばんいいものであると言っていた――のことなどを思い出させた。それからまた、彼女はドクトル・シャロック(英国著名の宗教家)のことや、英訳された「死」に関するオランダの著書などについて語った。
    「しかし、ドレリンコートほど死と未来ということを明確に書いた人はありません」と言って、彼女はバーグレーヴ夫人に何かドレリンコートの著書を持っていないかと

    いた。
     持っているとバーグレーヴ夫人が答えると、それでは持って来てくれと彼女は言った。
     バーグレーヴ夫人はすぐに二階からそれを持って来ると、ヴィール夫人はすぐに話し始めた。
    「ねえ、バーグレーヴさん。もしも私たちの信仰の眼が肉眼のように開いていたら、私たちを守っているたくさんの

    天使

    エンジェル

    が見えるでしょうに……。この書物でドレリンコートも言っているように、天国というものはこの世にもあるのです。それですから、あなたも自分の不運を不運と思わずに、全能の神様が特にあなたに目をお掛け下すっているのですから、不運が自分の役目だけを済ませてしまえば、きっとあなたから去ってしまうものと信じていらっしゃい。そうして、どうぞ私の言葉をも信じて下さい。あなたの今までの苦労なぞは、これからさきの幸福の一秒間で永遠に

    むく

    われます。神様がこんな不運な境遇にあなたの一生を終わらせるなどということは、私にはどうしても信じられません。もう今までの不運もあなたから去ってしまうか、さもなければ、あなたのほうでそれを去らせてしまうであろうと、私は確信しているのです」
     こう言いながら彼女はだんだんに熱して来て、手のひらで自分の膝を叩いた。そのときの彼女の態度は純真で、ほとんど神のように尊くみえたので、バーグレーヴ夫人はしばしば涙を流したほどに深く感動した。
     それからヴィール夫人はドクトル・ケンリックの「禁欲生活」の終わりに書いてある初期のキリスト信者の話をして、かれらの生活を学ぶことを勧めた。かれらキリスト信者の会話は現代人の会話と全然ちがっていたこと、すなわち現代人の会話は実に浮薄で無意味で、古代のかれらとは全然かけ離れている。かれらの言葉は教訓的であり、信仰的であったが、現代人にはそうしたところは少しもない。私たちはかれらのしてきたようにしなければならない。また、かれらの間には心からの友情があったが、現代人には果たしてそれがあるかというようなことを説いた。
    「ほんとうに今の世の中では、心からの友達を求めるのはむずかしいことですね」と、バーグレーヴ夫人も言った。
    「ノーリスさんが円満なる友情と題する詩の美しい写本を持っていられましたが、ほんとうに立派なものだと思いました。あなたはあの本をご覧になりましたか」
    「いいえ。しかし私は自分で写したのを持っています」
    「お持ちですか」と、ヴィール夫人は言った。「では、持っていらっしゃいな」
     バーグレーヴ夫人は再び二階から持って来て、それを読んでくれとヴィール夫人に差し出したが、彼女はそれを

    こば

    んで、あまり

    俯向

    うつむ

    いていたので頭痛がして来たから、あなたに読んでもらいたいと言うので、バーグレーヴ夫人が読んだ。こうして、この二人の夫人がその詩に歌われたる友情をたたえていた時、ヴィール夫人は「ねえ、バーグレーヴさん。私はあなたをいつまでもいつまでも愛します」と言った。その詩のうちには極楽という言葉を二度も使ってあった。
    「ああ、詩人たちは天国にいろいろの名をつけていますのね」と、ヴィール夫人は言った。
     そうして、彼女は時どきに眼をこすりながら言った。「あなたは私が持病の

    発作

    ほっさ

    のために、どんなにひどく体をこわしているかをご存じないでしょう」
    「いいえ。私には、やっぱり以前のあなたのように見えます」と、バーグレーヴ夫人は答えた。
     すべてそれらの会話は、バーグレーヴ夫人がとてもその通りに思い出して言い現わすことが出来ないほど、非常にあざやかな言葉でヴィール夫人の亡霊によって進行したのであった。
    (一時間と四十五分をついやした長い会話を全部おぼえていられるはずもなく、また、その長い会話の大部分はヴィール夫人の亡霊が語っているのである。)
     ヴィール夫人は更にバーグレーヴ夫人にむかって、自分の弟のところへ手紙を出して、自分の指輪は誰だれに贈ってくれ、二カ所の広い土地は彼女の

    従兄弟

    いとこ

    のワトソンに与えてくれ、金貨の財布は彼女の

    私室

    キャビネット

    にあるということを書き送ってくれと言った。
     話がだんだんに怪しくなってきたので、バーグレーヴ夫人はヴィール夫人が例の発作におそわれているのであろうと思った。ひょっとして椅子から床へ倒れ落ちては大変だと考えたので、彼女の膝の前にある椅子に腰をかけた。こうして、前の方を防いでいれば、安楽椅子の両側からは落ちる気づかいはないと思ったからであった。それから彼女はヴィール夫人を慰めるつもりで、二、三度その上着の袖を持ってそれを

    めると、ヴィール夫人はこれは

    練絹

    ねりぎぬ

    で、新調したものであると話した。しかも、こうした間にもヴィール夫人は手紙のことを繰り返して、バーグレーヴ夫人に自分の要求を

    こば

    まないでくれと懇願するのみならず、機会があったら今日の二人の会話を自分の弟に話してやってくれとも言った。
    「ヴィールさん、私にはあまり差し出がましくて、承諾していいか悪いか分かりません。それに、私たちの会話は若い

    殿方

    とのがた

    の感情をどんなに害するでしょう」と、バーグレーヴ夫人は渋るように言って、「なぜあなたご自身でおっしゃらないのです。私はそのほうがずっといいと思います」と付けたした。
    「いいえ」と、ヴィール夫人は答えた。「今のあなたには差し出がましいようにお思いになるでしょうが、あとであなたにもわかる時があります」
     そこで、バーグレーヴ夫人は彼女の懇願を

    れるために、ペンと紙とを取りに行こうとすると、ヴィール夫人は、「今でなくてもよろしいのです。私が帰ったあとで書いてください、きっと書いて下さい」と言った。別れる時には彼女はなお念を押したので、バーグレーヴ夫人は彼女に固く約束したのであった。
     彼女はバーグレーヴ夫人の娘のことを

    たず

    ねたので、娘は留守であると言った。「しかし、もし逢ってやって下さるならば、呼んで来ましょう」と答えると、「そうして下さい」と言うので、バーグレーヴ夫人は彼女を残しておいて、隣りの家へ娘を探しに行った。帰って来てみると、ヴィール夫人は玄関のドアの外に立っていた。きょうは土曜日で

    いち

    の開ける日であったので、彼女はその家畜市のほうを眺めて、もう帰ろうとしているのであった。
     バーグレーヴ夫人は彼女にむかって、なぜそんなに急ぐのかと

    たず

    ねると、彼女はたぶん月曜日までは旅行に出られないかもしれないが、ともかくも帰らなければならないと答えた。そうして、旅行する前にもう一度、

    従兄弟

    いとこ

    のワトソンの家でバーグレーヴ夫人に逢いたいと言った。それから彼女はもうお

    いとま

    をしますと別れを告げて歩き出したが、町の角を曲がってその姿は見えなくなった。それはあたかも午後一時四十五分過ぎであった。

     九月七日の正午十二時に、ヴィール夫人は持病の

    発作

    ほっさ

    のために死んだ。その死ぬ前の四時間以上はほとんど意識がなかった。

    臨床塗油式

    サクラメント

    はその間におこなわれた。
     ヴィール夫人が現われた次の日の日曜日に、バーグレーヴ夫人は

    悪感

    さむけ

    がして非常に気分が悪かった上に、

    のど

    が痛んだので、その日は終日外出することが出来なかった。しかし、月曜の朝、彼女は船長のワトソンの家へ女中をやって、ヴィール夫人がいるかどうかを尋ねさせると、そこの家の人たちはその問い合わせに驚かされて、彼女は来ていない、また来るはずにもなっていないという返事をよこした。その返事を聞いても、バーグレーヴ夫人は信じなかった。彼女はその女中にむかって、たぶんおまえが名前を言い違えたのか、何かの間違いをしたのであろうと言った。
     それから気分の悪いのを押して、彼女は

    頭巾

    ずきん

    をかぶって、自分と一面識のない船長ワトソンの家へ行って、ヴィール夫人がいるかどうかをまた尋ねた。そこの人たちは彼女の再度の問い合わせにいよいよ驚いて、「ヴィール夫人はこの町には来ていない、もし来ていれば、きっと自分たちの家へ来なければならない」と答えると、「それでも私は土曜日に二時間ほどヴィール夫人と一緒におりましたのですが……」と彼女は言った。
     いや、そんなはずはない。もしそうだとすれば、第一自分たちがヴィール夫人に逢っていなければならないと、たがいに押し問答をしている間に、船長のワトソンがはいって来て、おおかた彼女が死んだので、お知らせがあったのだろうと言った。その言葉がバーグレーヴ夫人には妙に気がかりになったので、早速にヴィール夫人一家の面倒を見てやっていた人のところへ手紙で聞き合わせて、初めて彼女が死んだことを知った。
     そこで、バーグレーヴ夫人はワトソンの家族の人たちに、今までの一部始終から、彼女の着ていた着物の縞柄や、しかもその着物は練絹であるといったことまでを打ち明けて話した。すると、ワトソン夫人は「あなたがヴィールさんをご覧になったとおっしゃるのは本当です。あの人の着物が練絹だということを知っている者は、あの人と私だけですから」と叫んだ。ワトソン夫人はバーグレーヴ夫人が彼女の着物について言ったことは、何から何まで本当であると

    首肯

    しゅこう

    して、「私が手伝ってあの着物を縫って上げたのです」と言った。
     そうして、ワトソン夫人は町じゅうにそのことを言いひろめながら、バーグレーヴ夫人がヴィール夫人の亡霊を見たのは事実であると、証明したので、その夫のワトソンの紹介によって、二人の紳士がバーグレーヴ夫人の家へたずねて来て、彼女自身の口から亡霊の話を聞いて行った。
     この話がたちまち拡まると、あらゆる国の紳士、学者、分別のある人、無神論者などという人びとが彼女の門前に

    いち

    をなすように押しかけて来たので、しまいには邪魔をされないように防禦するのが彼女の仕事になってしまった。というのは、かれらはたいてい幽霊の存在ということに非常な興味を持っていた上に、バーグレーヴ夫人が

    全然

    ぜんぜん

    鬱症になど

    かか

    っていないのを目撃し、また彼女がいつも愉快そうな顔をしているので、すべての人たちから好意をむけられ、かつ尊敬されているのを見聞して、大勢の見物人は彼女自身の口からその話を聞くことが出来れば、大いなる記念にもなると思うようになったからであった。
     私は前に、ヴィール夫人がバーグレーヴ夫人にむかって、自分の妹とその夫がロンドンから自分に逢いに来ていると言っていたことを、あなたに話しておかなければならなかった。その時にも、バーグレーヴ夫人が「なぜ今が今、そんなにいろいろのことを整理しなければならないのですか」と

    くと、「でも、そうしなければならないのですもの」と、ヴィール夫人は答えている。
     果たして彼女の妹夫婦は彼女に逢いに来て、ちょうど彼女が息を引き取ろうというときに、ドーバーの町へ着いたのであった。
     話はまた前に戻るが、バーグレーヴ夫人はヴィール夫人にお茶を飲むかと訊くと、彼女は「飲んでもいいのですが、あの気違い(バーグレーヴ夫人の夫をいう)が、あなたの道具をこわしてしまったでしょうね」と言った。そこで、バーグレーヴ夫人は「私はまだお茶を飲むぐらいの道具はあります」と答えたが、彼女はやはりそれを辞退して、「お茶などはどうでもいいではありませんか。打っちゃっておいてください」と言ったので、そのままになってしまった。
     私がバーグレーヴ夫人と数時間むかい合って坐っている間、彼女はヴィール夫人の言ったうちで今までに思い出せなかった言葉はないかと、一生懸命に考えていた結果、ただ一つ重要なことを思い出した。それはブレトン老人がヴィール夫人に毎年十ポンドずつを給与していてくれたという秘密で、彼女自身もヴィール夫人に言われるまでは全然知らなかった。
     バーグレーヴ夫人はこの物語に手加減を加えるようなことは絶対にしなかったが、彼女からこの物語を聞くと、亡霊の実在性を疑っている人間や、少なくとも幽霊などと馬鹿にしている連中も迷ってしまった。ヴィール夫人が彼女の家へ訪ねて来たとき、隣りの家の

    召仕

    めしつか

    いはバーグレーヴ夫人が誰かと話しているのを庭越しに聞いていた。そうして、彼女はヴィール夫人と別れると、すぐに一軒置いて隣りの家へ行って、昔の友達と夢中になって話していたと言って、その会話の内容までを詳しく語って聞かせた。それから不思議なことには、この事件が起こる前に、バーグレーヴ夫人は死に関するドレリンコートの著書をちょうどに買っておいた。それからまた、こういうことに注目しなければならない。すなわちバーグレーヴ夫人は心身ともに非常に疲れているにもかかわらず、それを我慢してこの亡霊の話をいちいちみんなに語って聴かせても、けっして一銭も受け取ろうとはしないばかりか、彼女の娘にも人から何ひとつ貰わせないようにしていたので、この物語をしたところで彼女には何の利益もあるはずはないのである。
     しかも、亡霊の弟のヴィール氏は、極力この事件を

    隠蔽

    いんぺい

    しようとした。一度バーグレーヴ夫人に親しく逢ってみたいと言っていたが、彼は姉のヴィール夫人が死んだのち、船長のワトソンの家までは行っていながら、ついにバーグレーヴ夫人をおとずれなかった。彼の友達らはバーグレーヴ夫人のことを嘘つきだと言い、彼女は前からブレトン氏が毎年十ポンドずつ送って来ることを知っていたのだと言っているが、私の知っている名望家の間では、かえってそんなふうに言い触らしているご本尊のほうが大嘘つきだという評判が立っている。ヴィール氏はさすがに紳士であるだけに、彼女は嘘を言っているとは言わないが、バーグレーヴ夫人は悪い夫のために気違いにされたのだと言っている。しかし彼女がただ一度でも彼に逢いさえすれば、彼の口実を何よりも有効に

    論駁

    ろんばく

    するであろう。
     ヴィール氏は姉が臨終の間ぎわに何か遺言することはないかと

    たず

    ねると、ヴィール夫人は無いと言ったそうである。なるほど、ヴィール夫人の亡霊の遺言はきわめてつまらないことで、それらを処理するために別に裁判を仰ぐというほどの事件でもなさそうである。それから考えてみると、彼女がそんな遺言めいたことを言ったのは、要するにバーグレーヴ夫人をして自分が亡霊となって現われたという事実を明白に説明させるためと、彼女が見聞した事実談を世間の人たちに疑わせないためと、もう一つには理性の

    った、分別のある人たちの間にバーグレーヴ夫人の評判を悪くさせまいための心遣いであったように思われるのである。
     それからまた、ヴィール氏は金貨の財布もあったことを承認しているが、しかし、それは夫人の

    私室

    キャビネット

    ではなくて、櫛箱の中にあったと言っている。それはどうも信じ難い気がする。なぜなれば、ワトソン夫人の説明によると、ヴィール夫人は自分の私室の鍵については非常に用心ぶかい人であったから、おそらくその鍵を誰にも預けはしないであろうというのである。もしそうであるとすれば、彼女は確かに自分の私室から金貨を他へ移すようなことはしなかったであろう。
     ヴィール夫人がその手でいくたびか両方の眼をこすったことと、自分の持病の発作が

    顔容

    かおかたち

    を変えはしないかと訊ねたことは、わざとバーグレーヴ夫人に自分の発作のことを思い出させるためと、彼女が弟のところへ指環や金貨の分配方を書いて送るように頼んだことを、臨終の人の要求のように思わせずに、発作の結果だと思わせるためであったように考えられる。それであるから、バーグレーヴ夫人も確かにヴィール夫人の持病が起こって来たものと思い違いをしたのである。同時にバーグレーヴ夫人を驚かせまいとしたことは、いかに彼女を愛し、彼女に対して注意を払っていたかという実例の一つであろう。その心遣いはヴィール夫人の亡霊の態度に始終一貫して現われていて、特に白昼彼女のところに現われたことや、挨拶の接吻を拒んだことや、

    ひと

    りになった時や、更にまたその別れる時の態度、すなわち彼女に挨拶の接吻をまた繰り返させまいとしたことなどが皆それであった。
     さて、なぜにヴィール氏がこの物語を気違い沙汰であると考えて、極力その事実を隠蔽しようとしているのか、私には想像がつかない。世間ではヴィール夫人を善良の亡霊と認め、彼女の会話は実に神のごときものであったと信じているのではないか。彼女の二つの大いなる使命は、逆境にあるバーグレーヴ夫人を

    慰藉

    いしゃ

    するとともに、信仰の話で彼女を力づけようとした事と、疎遠になっていた詫びを言いに来た事とであった。また仮りに、何か複雑の事情とか利益問題とかいうことを抜きにして、バーグレーヴ夫人がヴィール夫人の死を早く知って、金曜の昼から土曜の昼までにこんな筋書を作りあげたものと想像してご覧なさい。そんな真似をするような彼女であったらば、もっと機智があって、もっと生活が豊かで、しかも他人が認めているよりも、もっと陰険な女でなければならないはずである。
     私はいくたびかバーグレーヴ夫人にむかって、確かに亡霊の上着に触れたかどうかを

    ただ

    してみたが、いつも彼女は謙遜して、「もしも私の感覚に間違いがないならば、私は確かにその上着に触れたと思います」と答えるのであった。それからまた、亡霊がその手で膝をたたいた時に、確かにその音を聞いたかと訊ねると、彼女は聞いたかどうかはっきりとは記憶していないが、その亡霊の肉体は自分とまったく同じものであったと言った。
    「それですから、私の見たのはあの人ではなくて、あの人の亡霊であったと言われれば、いま私と話しているあなたも、私には亡霊かと思われます。あの時の私には、怖ろしいなどという感じはちっともいたしませんで、どこまでもお友達のつもりで家へ入れて、お友達のつもりで別れたのでございます」
     また、彼女は「私は別にこの話を他人に信じてもらおうと思って、一銭の金も使った覚えもございませんし、また、この話で自分が利益を得ようとも思っていません。むしろ自分では、長い間よけいな面倒が

    えただけだと思っています。ふとしたことで、この話が世間へ知れるようにならなかったら、こんなに拡まらずに済みましたのに……」と言っていた。
     しかし今では、彼女もこの物語を利用して、出来るだけ世の人びとのためになるように尽くそうと、ひそかに考えてきたと言っている。そうして、その以来、彼女はその考えを実行した。彼女の話によると、ある時は三十マイルも離れた所からこの物語を聞きに来た紳士もあり、またある時は

    一時

    いちじ

    に部屋いっぱいに集まって来た人びとにむかって、この物語を話して聞かせたこともあったそうである。とにかくに、ある特殊な紳士たちはバーグレーヴ夫人の口からみな直接にこの物語を聞いたのであった。

     このことは私を非常に感動させたとともに、私はこの正確なる根底のある事実について大いに満足を感じている。そうして、私たち人間というものは、確実な見解を持つことが出来ないくせに、なぜに事実を論争しあっているのか、私には不思議でならない。ただ、バーグレーヴ夫人の証明と誠実とだけは、いかなる場合にも疑うことの出来ないものであろう。


    底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年9月4日初版発行
       2002(平成14)年6月20日新装版初版発行

    ラッパチーニの娘 ホーソーン Nathaniel Hawthorne

    世界怪談名作集

    ラッパチーニの娘 アウペパンの作から

    ホーソーン Nathaniel Hawthorne

    岡本綺堂訳

           一

     遠い以前のことである。ジョヴァンニ・グァスコンティという一人の青年が、パドゥアの大学で学問の研究をつづけようとして、イタリーのずっと南部の地方から

    はる

    ばると出て来た。
     財嚢のはなはだ乏しいジョヴァンニは、ある古い屋敷の上の方の陰気な部屋に下宿を取ることにした。これはあるパドゥアの貴族の邸宅ででもあったらしく、その入り口の上には今はすっかり古ぼけてしまったある一家の紋章が表われているのが見られた。自国イタリーの有名な偉大な詩を知っていた旅の青年は、この屋敷の家族の祖先の一人、おそらくその所有者たる人は、ダンテの筆によって、かのインフェルノの煉獄の

    永劫

    えいごう

    呵責

    かしゃく

    の相伴者として描き出されたものであることを、想いおこされるのであった。これらの回想や連想が、はじめて故郷を去った若者にはきわめてありがちの断腸の思いと結び付いて、ジョヴァンニは思わず溜め息をついた。そうして、物さびしい粗末な部屋の中をあちらこちらと見まわした。
    「おや、あなた」と、リザベッタ老婦人は、この青年の人柄のひどく立派なのに打たれて、この部屋を住み心地のよいように見せようと努めながら声をかけた。
    「お若いかたの胸から溜め息などが出るとは、これはどうしたことでございましょう。あなたはこの古い屋敷を陰気だとでも思っていらっしゃるのですか。では、どうぞその窓から首を出してご覧下さい。ナポリと同じようにきらきらした日の光りが

    おが

    まれますよ」
     ジョヴァンニは、老婦人の言うがままにただ機械的に窓から首を突き出して見たが、パドゥアの日光が南イタリーの日光のように陽気だとは思われなかった。とはいえ、日光は窓の下の庭を照らして、さまざまの植物に恵みある光りを浴びせていた。その植物はまたひとかたならぬ注意をもって育てられたもののように見えた。
    「この庭は、お

    うち

    のものですか」と、ジョヴァンニは

    いた。
    「ほんとうに、あなた。あんな植物なぞはどうか出来ないで、それよりももっとよい野菜でも出来ましたらば……」と、老いたるリザベッタ婦人は答えた。「いいえ、そうではございません。あの庭はジャコモ・ラッパチーニさまが、ご自身の手で作っておいでになります。あの先生は名高いお医者さんで、きっと遠いナポリのほうまでもお名前がひびいていることと思います。先生はあの植物をたいそうつよい魅力を持った薬に蒸溜なさるとかいう噂で、折りおりに先生が働いていらっしゃるのが見えます。またどうかすると、お嬢さままでが庭に生えている珍らしい花を集めているのが見えますよ」
     老婦人は、この部屋の様子について、もう何もかも言い尽くしてしまったので、青年の幸福を祈りながら出て行った。
     ジョヴァンニはなんの所在もないので、窓の下の庭園をいつまでも見おろしていた。その庭の様子で、このパドゥアの植物園は、イタリーはおろか、世界のいずこよりも早く作られたものの一つであると判断した。もしそうでないとすると、もっとも、これはあまり当てにはならないが、かつて富豪の一族の娯楽場か何かであったかもしれない。
     庭園の中央には稀に見るほどの巧みな彫刻を施した大理石の噴水の跡がある。それも今はめちゃくちゃにこわれてしまって、その残骸はほとんど原形をとどめぬほどになっているが、その水だけは今も相変わらず噴き出して、日光にきらきらと輝いていた。その水のさらさらと流れ落ちる小さいひびきは、上にいる青年の部屋の窓までも聞こえてくる。この噴水が永遠不滅の霊魂であって、その周囲の

    有為転変

    ういてんぺん

    にはいささかも気をとめずに絶えず歌っているもののように思われるのであった。すなわち、ある時代には大理石をもって泉を造り、またある時はそれを

    こぼ

    って地上に投げ出してしまうような、有為転変の姿も知らぬように――。
     水の落ちてゆく

    プール

    の周囲に、いろいろな植物が生い繁っているのを見ると、大きい木の葉や、美しい花の営養には、十分なる水分の供給が大切であるように思われた。池の中央にある大理石の花瓶のうちに、特にきわだって眼につく一本の

    灌木

    かんぼく

    があった。その木には無数の紫の花が咲いて、花はみな宝石のような光沢と華麗とをそなえていた。こういう花が一団となって目ざましい壮観を現出し、たとい日光がここに至らずとも、十分に庭を明かるく照らすにたるかのようであった。
     土のあるところには、すべて草木が植えられてある。それらはその豊麗なることにおいて、かの灌木にやや劣っているとしても、なおひとかたならざる丹精の跡がありありと見られた。また、それらの草木は皆それぞれに特徴を

    ゆう

    していて、それがその培養者たる科学者にはよく知られているらしく、あるものは多くの古風な彫刻を施した壺のうちに置かれ、また、あるものは普通の植木鉢のうちに植えられていた。それらのあるものは蛇のように地上を這いまわり、あるいは心のままに高く這いあがっていた。また、あるものはバータムナスの像のまわりを花環のように取り巻いて、

    きれ

    のように垂れさがった枝はその像をすっかり

    おお

    っていた。それらはまこと立派に配列されていて、彫刻家にとってはこの上もないよい研究材料であろうと思われた。
     ジョヴァンニが窓の側に立っていると、木の葉の茂みのうしろから物の摺れるような音が聞こえたので、彼は誰か庭のうちで働いているのに気がついた。間もなくその姿が現われたが、それは普通の労働者ではなく、黒の学者服を身にまとった、

    脊丈

    せい

    の高い、痩せた、土気色をした、弱よわしそうに見える男であった。彼は中年を過ぎていて、髪は半白で、やはり半白の薄い

    ひげ

    を生やしていたが、その顔には知識と教養のあとがいちじるしく目立っていた。

    ただ

    し、その青春時代にも、温かな人情味などはけっして表わさなかったであろうと思われるような人物であった。
     なにものも及ばぬほどの熱心をもって、この科学者的の庭造り師は、順じゅんにすべての灌木を試験していった。彼はそれらの植物のうちにひそんでいる性質を

    しら

    べ、その創造的原素の観察をおこない、何ゆえにこの葉はこういう形をしているか、かの葉はああいう形をしているか、また、そのためにそれらの花がたがいに色彩や香気を異にしているのである、というようなことを発見しようとしているらしい。しかも彼自身は、植物についてこれほどの深い

    造詣

    ぞうけい

    があるにもかかわらず、彼とその植物との間には、少しの親しみもないらしく、むしろ反対に、彼は植物に触れることも、その匂いを吸うことも、まったく避けるように注意を払っていた。それがジョヴァンニに

    はなは

    だ不快な印象を与えたのであった。
     科学者的庭造り師の態度は、たとえば猛獣とか、毒蛇とか、悪魔とかいうもののような、少しでも気を許したらば恐ろしい災害を与えるような、有害な影響を及ぼすもののうちを歩いている人のようであった。庭造りというようなものは、人間の労働のうちでも最も単純な無邪気なものであり、また人類のまだ純潔であった時代の祖先らの労働と

    喜悦

    きえつ

    とであったのであるから、今この庭を造る人のいかにも不安らしい様子を見ていると、青年はなんとはなしに一種の怪しい恐怖をおぼえた。それでも、この庭園を現世のエデンの園であるというのであろうか。その害毒を知りながら自ら培養しているこの人は、果たしてアダムであろうか。
     この疑うべき庭造り師は

    灌木

    かんぼく

    の枯葉を除き、生い繁れる葉の手入れをするのに、厚い手袋をはめて両手を保護していた。彼の装身具は、単に手袋ばかりではなかった。庭を歩いて、大理石の噴水のほとりに紫の色を垂れているあの目ざましい灌木のそばに来ると、彼は一種のマスクでその口や鼻を掩った。この木のあらゆる美しさは、ただその恐ろしい害毒を隠しているかのように――。それでもなお危険であるのを知ってか、彼は後ずさりしてマスクをはずし、声をあげて呼んだ。もっとも、その声は弱よわしく、身のうちに何か病気をもっている人のようであった。
    「ベアトリーチェ、ベアトリーチェ!」
    「はい、お父さん、なにかご用……」と、向うの家の窓から声量のゆたかな若やいだ声がきこえた。
     その声は熱帯地方の日没のごとくに豊かで、ジョヴァンニは何とは知らず、紫とか真紅の色とか、または非常に愉快なある香気をも、ふと心に思い浮かべた。
    「お父さん、お庭ですか」
    「おお、そうだよ、ベアトリーチェ」と、父は答えた。「おまえ、ちょっと手をかしてくれ」
     彫刻の模様のついている入り口から、この庭園のうちへ最も美しい花にもけっして劣らない豊かな風趣をそなえた、太陽のように美しい一人の娘の姿があらわれた。その手には眼も醒めるばかりの、もうこれ以上の強い色彩はとても見るにたえないと思われるような、非常に濃厚な色彩の花を持っていた。彼女は生命の力と健康の力と精力とが充満しているように見えた。これらの特質はその多量を彼女の処女地帯の内に制限せられ、圧縮せられ、なおかつ強く引きしめられているのである。
     しかし庭を見おろしているうちに、ジョヴァンニの考えは確かに一種の病的になったであろう。この美しい未知の人が彼にあたえた印象は、さらに一つの花が咲き出したかのようであった。そうして、この人間の花はそれらの植物の花と

    姉妹

    きょうだい

    で、同じように美しく、さらにそれよりも遙かに美しく、しかもなお手袋をはめてのみ触れ得べく、またマスクなしには近づくべからざる花のようであった。ベアトリーチェが庭の小径に降りて来た時、彼女はその父がきわめて用意周到に避けてきたいくつかの植物の匂いを平気で吸い、また平気でそれに手も触れているのが見えた。
    「さあ、ベアトリーチェ」と、父は言った。「ご覧、私たちのいちばん大切な宝のために、しなければならない仕事がたくさんある。私は弱っているから、あまりむやみにそれに近づくと、命を失うおそれがある。それで、この木はおまえひとりに任せなければならないと思うが……」
    「そんなら、わたしは喜んで引き受けます」と、再び美しい声で叫びながら、彼女はかの目ざましい灌木にむかって腰をかがめ、それを抱くように両腕をひろげた。
    「ええ、そうですよ。ねえ、わたしの立派な妹さん、あなたを育ててゆくのは、このベアトリーチェの役目なのです。それですから、あなたの

    接吻

    キッス

    と……それから私の命のその

    かん

    ばしい

    呼吸

    いき

    とを、わたしに下さらなければならないのですよ」
     その言葉にあらわれたような優しさを、その態度の上にもあらわして、彼女はその植物に必要と思われるだけの十分の注意をもって忙しく働きはじめた。
     ジョヴァンニは高い窓にもたれかかりながら、自分の眼をこすった。娘がその愛する花の世話をしているのか、または花の姉妹がたがいに愛情を示しあっているのか、まったくわからなかった。しかも、この光景はすぐに終わった。ドクトル・ラッパチーニがその庭造りの仕事を終わったのか、あるいはその慧眼がジョヴァンニのあることを見てとったのか。そのいずれかは知れないが、父は娘の手をとって庭を立ち去ってしまった。
     夜はすでに近づいていた。息づまるような臭気が庭の植物から発散して、あけてある窓から忍び込むようであった。ジョヴァンニは窓をしめて寝床にはいって、美しい花と娘のことを夢想した。花と娘とは別べつのものであって、しかも同じものである。そうして、その両者には何か不思議な危険が含まれていた。
     しかし朝の光りは、太陽が没している間に、または夜の影のあいだに、あるいは曇りがちな月光のうちに生じたところの、どんな間違った想像をも、あるいは判断さえも、まったく改めるものである。眠りから醒めて、ジョヴァンニがまっさきの仕事は、窓をあけてかの庭園をよく見ることであった。それは昨夜の夢によって、大いに神秘的に感じられてきたのであった。早い朝日の光りは花や葉に置く露をきらめかし、それらの稀に見る花にも皆それぞれに輝かしい美しさをあたえながら、あらゆるものをなんの不思議もない普通日常の事として見せている。その光りのうちにあって、この庭も現実の明らかな事実としてあらわれたとき、ジョヴァンニは驚いて、またいささか恥じた。この殺風景な都会のまんなかで、こんな美しい

    贅沢

    ぜいたく

    な植物を自由に見おろすことの出来る特権を得たのを、青年は喜んだのである。彼はこの花を通じて自然に接することが出来ると、心ひそかに思った。
     見るからに病弱の、考え疲れたような、ドクトル・ジャコモ・ラッパチーニも、またその美しい娘も、今はそこには見えなかったので、ジョヴァンニは自分がこの二人に対して感じた不思議を、どの程度までかれらの人格に負わすべきものか、また、どの程度までを自分自身の奇蹟的想像に負わすべきものかを、容易に決定することが出来なかった。しかし彼はこの事件全体について、最も合理的の見解をくだそうと考えた。
     その日、彼はピエトロ・バグリオーニ氏を訪問した。氏は大学の医科教授で、有名な医者であった。ジョヴァンニはこの教授に宛てた紹介状を貰っていたのである。教授は相当の年配で、ほとんど陽気といってもいいような、一見快活の性行を有していた。彼はジョヴァンニに食事を馳走し、

    こと

    にタスカン酒の一、二罎をかたむけて、少しく酔いがまわってくると、彼は自由な楽しい会話でジョヴァンニを愉快にさせた。ジョヴァンニは双方が同じ科学者であり、同じ都市の住民である以上、かならず互いに親交があるはずだと思って、よい

    おり

    を見てドクトル・ラッパチーニの名を言い出すと、教授は彼が想像していたほどには、こころよく答えなかった。
    「神聖なるべき仁術の教授が……」と、ピエトロ・バグリオーニ教授は、ジョヴァンニの問いに答えた。「ラッパチーニのごとき非常に優れた医者の、適当と思われる賞讃に対して、それを

    けな

    すようなことを言うのは悪いことであろう。しかし一方において、ジョヴァンニ君。君は旧友の子息である。君のような有望の青年が、この

    のち

    あるいは君の生死を掌握するかもしれないような人間を尊敬するような、誤まった考えをいだくのを黙許してもいいかわるいかという僕は自己の良心に対して、少しばかりそれに答えなければならない。実際わが尊敬すべきドクトル・ラッパチーニは、ただ一つの例外はあるが、おそらくこのパドゥアばかりでなく、イタリー全国におけるいかなる有能の士にも劣らぬ立派な学者であろう。しかし、医者としてのその人格には、大いなる故障があるのだ」
    「どんな故障ですか」と、青年は

    いた。
    「医者のことをそんなに

    詮索

    せんさく

    するのは、君は心身いずれかに病気があるのではないかな」と、教授は笑いながら言った。「だが、ラッパチーニに関しては――僕は、彼をよく知っているので、実際だと言い得るが――彼は人類などということよりも全然、科学の事ばかりを心にかけているといわれている。彼におもむく患者は、彼には新しい実験の材料として興味があるのみだ。彼の偉大な

    蘊蓄

    うんちく

    に、けしつぶぐらいの知識を加えるためにも、彼は人間の生命――なかんずく、彼自身の生命、あるいはそのほか彼にとって最も親しい者の生命でも、犠牲に供するのを常としているのだ」
    「わたしの考えでは、彼は実際

    おそ

    るべき人だと思います」と、心のうちにラッパチーニの冷静なひたむきな智的態度を思い出しながら、ジョヴァンニは言った。「しかし、崇拝すべき教授であり、また、まことに崇高な精神ではありませんか。それほどに科学に対して、精神的な愛好をかたむけ得る人が他にどれほどあるでしょうか」
    「少なくとも、ラッパチーニの

    った見解よりは、治療術というもっと健全な見解を執るのでなかったら……。ああ、神よ禁じたまえ」と、教授はやや

    き立って答えた。「あらゆる医学的効力は、われわれが植物毒剤と呼ぶものの内に含蓄されているというのが、彼の理論である。彼は自分の手ずから植物を培養して、自然に生ずるよりは遙かに有害な種じゅの恐ろしい新毒薬を作ったとさえいわれている。それらのものは彼が直接に手をくださずとも、永遠にこの世に

    わざわ

    いするものである。医者たる者がかくのごとき危険物を用いて、予想よりも害毒の少ないことのあるのは、否定し得ないことである。時どきに彼の治療が驚くべき偉効を奏し、あるいは奏したように見えたのは、われわれも認めてやらなければなるまい。しかしジョヴァンニ君。打ち明けて言えば、もし彼が……まさに自分が行なったと思われる失敗に対して、厳格に責任を負うならば、彼はわずかの成功の例に対しても、ほとんど信用を受けるにたらないのである。まして、その成功とてもおそらく偶然の結果に過ぎなかったのであろう」
     もしこの青年が、バグリオーニとラッパチーニの間に専門的の争いが長くつづいていて、その争いは一般にラッパチーニのほうが有利と考えられていたことを知っていたならば、バグリオーニの意見を大いに

    斟酌

    しんしゃく

    したであろう。もしまた、読者諸君がみずから判断をくだしてみたいならば、パドゥア大学の医科に蔵されている両科学者の論文を見るがよい。
     ラッパチーニの極端な科学研究熱に関して語られたところを、よく考えてみた後に、ジョヴァンニは答えた。
    「よく分かりませんが、先生。あの人はどれほど医術を愛しているか、私には分かりませんが、確かにあの人にとって、もっと愛するものがあるはずです。あの人には、ひとりの娘があります」
    「ははあ」と、教授は笑いながら叫んだ。「それで初めて君の秘密がわかった。君はその娘のことを聞いたのだね。あの娘についてはパドゥアの若い者はみな大騒ぎをしているのだが、運よくその顔を見たという者は、まだほんの

    幾人

    いくにん

    もない。ベアトリーチェ嬢については、わたしはあまりよく知らない。ラッパチーニが自分の学問を彼女に十分に教え込んだということと、彼女は若くて美しいという噂だが、すでに教授の椅子に着くべき資格があるということと、ただそれだけを聞いている。おそらく彼女の父は、将来わたしの椅子を彼女のものにしようと決めているのだろう。ほかにまだつまらない噂は二、三あるが、言う価値もなく、聞く価値もないことだ。では、ジョヴァンニ君。赤葡萄酒の盃をほしたまえ」

           二

     ジョヴァンニは飲んだ

    ワイン

    にやや熱くなって、自分の下宿へもどった。酒のために、彼の頭はラッパチーニと美しいベアトリーチェについて、いろいろの空想をたくましゅうした。帰る途中で偶然に花屋のまえを通ったので、彼は新しい花束を一つ買って来た。
     彼は自分の部屋にのぼって、窓のそばに腰をおろしたが、自分の影が窓の壁の高さを超えないようにした。それで、彼はほとんど発見される危険もなしに庭を見おろすことができた。眼の下に人の影はなかったが、かの不思議な植物は日光にぬくまりながら、時どきにあたかも同情と親しみとを表わすかのように、静かにうなずき合っていた。庭園の中央のこわれた噴水のほとりには、それを

    おお

    うように群がる紫色の花をつけて、めざましい灌木が生えていた。花は空中に輝き、それが

    池水

    プール

    の底に映じて再びきらきらと照り返すと、池の水はその強い反射で、色のついた光りを帯びて溢れ出るようにも見えた。
     初めは前に言ったように、庭には人影がなかった。しかし間もなく――この場合、ジョヴァンニが半ば望み、半ば恐れたごとく――人の姿が古風の模様のある入り口の下にあらわれた。そうして、植物の列をなしている間を歩み来ながら、甘い香りを食べて生きていたという古い物語のなかの人物のように、植物のいろいろの香気を彼女は吸っていた。ふたたびベアトリーチェをみるに及んで、青年がいっそうおどろいたのは、彼女がその記憶よりも遙かに美しいことであった。彼女は太陽の光りのうちに輝き、また、ジョヴァンニがひそかに思っていた通り、庭の

    小径

    こみち

    の影の多いところを明かるく照らすほどに、その人は光り輝いているのであった。
     彼女の顔は前のときよりも、いっそうはっきりと現われた。そうして、彼は天真爛漫な柔和な娘の表情に、いたく心を打たれた。こんな性質を彼女が持っていようとは、彼の考えおよばないところであったので、彼女がいったいどんな

    たち

    の人であろうかと、彼は新たに想像してみるようになった。彼は忘れもせずに、この美しい娘と、噴水の下に宝石のような綺麗な花を咲かせている灌木と、この両者の類似点を再び観察し、想像するのであった。――この類似は、彼女の衣服の飾りつけと、その色合いの選択とによって、ベアトリーチェが

    いや

    が上にも空想的気分を高めたからであった。
     灌木に近づくと、彼女はあたかも熱烈な愛情を有しているかのように、その両腕を大きくひらいて、その枝をひき寄せて、いかにも親しそうに抱えた。その親しさは、彼女の顔をその葉のうちに隠し、きらめく縮れ毛は皆その花にまじって埋められてしまうほどであった。

    私の姉妹

    マイ・シスター

    ! あなたの息をわたしに下さい」と、ベアトリーチェは叫んだ。「わたしはもう、普通の空気がいやになったのですから。――そうして、あなたのこのお花を下さいな。わたしはきっと大事に枝を折って、わたしの

    ハート

    の側にちゃんとつけて置きます」
     こう言って、ラッパチーニの美しい娘は灌木の最も美しい花の一輪をとって、自分の胸につけようとした。しかしこの時、あるいは酒のためにジョヴァンニの意識が混乱していたのかもしれないが、もしそうでないとすれば、実に不思議なことが起こった。小さいオレンジ色の

    蜥蜴

    とかげ

    かカメレオンのような動物が小径を這って、偶然にベアトリーチェの足もとへ近寄って来たのである。
     ジョヴァンニが見ている所は遠く離れていて、そんなに小さなものは

    到底

    とうてい

    見えなかったであろうと思われるが、しかし彼の眼には、花の切り口から、一、二滴の液体が蜥蜴の頭に落ちたと見えたのである。すると、その動物はたちまち荒あらしく体をゆがめて、日光のもとに動かなくなってしまった。ベアトリーチェはこの驚くべき現象をみて、悲しそうであったが格別におどろきもせず、しずかに十字を切った。それから彼女はためらいもせずに、その恐ろしい花を取って自分の胸につけると、花はまたたちまちに

    くれない

    となって、ほとんど宝石も同様にきらきらと輝いて、この世の何物もあたえられないような独特の魅力を、その衣服や容貌にあたえるのであった。ジョヴァンニはびっくりして、窓のかげから差し出していた首を急に引っ込めて、

    ふる

    えながら独りごとを言った。
    「おれは眼が覚めているのだろうか。意識を持っているのだろうか。いったい、あれはなんだろう。美しいと言っていいのか、それとも大変に怖ろしいというのか」
     ベアトリーチェはなんの気もつかないように、庭をさまよい歩きながらジョヴァンニの窓の下へ近づいて来たので、彼女に刺戟された痛烈の好奇心を満足させるためには、彼はそこから首を突き出さなければならなかった。あたかもそのときに庭の垣根を越えて、一匹の美しい虫が飛んで来た。おそらく市中を迷い暮らして、ラッパチーニの庭の灌木の強い香気に遠くから誘惑されるまでは、どこにも新鮮な花を見いだすことが出来なかったのであろう。
     この輝く虫は花には降りずに、ベアトリーチェに心を

    かれてか、やはり空中をさまよって彼女の頭のまわりを飛びまわった。これはどうしてもジョヴァンニの見あやまりに相違なかったのであるが、ともかくも彼はこう想像したのである。ベアトリーチェが子供らしい楽しみをもって虫をながめていると、その昆虫はだんだんに弱って来て、その足もとに落ちた。そうして、その光っている

    はね

    をふるわしているかと見るうちに、とうとう死んでしまった。それがどういうわけであるのか、彼には分からなかったが、おそらく彼女の息に触れたがためであろう。ベアトリーチェはふたたび十字を切って、虫の死骸の上にかがんで深い溜め息をついた。
     ジョヴァンニはいよいよ驚いて、思わず身動きをすると、それに気がついて彼女は窓を見あげた。彼女は青年の美しい頭――イタリー式よりはむしろギリシャ型で、美しく整った容貌と、かがやく金髪の

    捲毛

    まきげ

    とを持っていた――その頭が中空にさまよっていた、かの虫のように彼女を一心に見詰めているのを知った。ジョヴァンニは今まで手に持っていた花束をほとんど無意識に投げおろした。
    「お嬢さん」と、彼は言った。「ここに清い健全な花があります。どうぞジョヴァンニ・グァスコンティのために、その花をおつけ下さい」
    「ありがとうございます」と、あたかも一種の音楽のあふれ出るような豊かな声をして、半分は子供らしく、半分は女らしい、嬉しそうな表情でベアトリーチェは答えた。「あなたの贈り物を

    頂戴

    ちょうだい

    いたします。そのお礼に、この美しい紫の花を差し上げたいのですが、わたしが投げてもあなたのところまでは届きません。グァスコンティさま、お礼を申し上げるだけで、どうぞおゆるし下さい」
     彼女は地上から花束を取り上げた。未知の人の挨拶にこたえるなど、娘らしい慎しみを忘れたのを内心恥ずるかのように、彼女は庭を過ぎて足早に家の中へはいってしまった。それはわずかに数秒間のことであったが、彼女の姿が入り口の下に見えなくなろうとしている時、かの美しい花束がすでに彼女の手のうちで

    しお

    れかかっているように見えた。しかし、それは愚かな想像で、それほど離れたところにあって、新鮮な花の

    しぼ

    んでゆくことなどがどうして認められるであろう。
     このことがあってのち、しばらくの間、青年はラッパチーニの庭園に面している窓口に行くことを避けた。もしその庭を見たらば、何かいやな醜怪な事件が、かさねて彼の眼に映るであろうと思ったようであった。彼はベアトリーチェと知り合いになったがために、何か

    し難いようなある力の影響をうけていることを、自分ながら

    幾分

    いくぶん

    か気がついた。もし彼の心に本当の危険を感じているならば、最も賢明なる策はこのパドゥアを一度離れることであろう。第二の良策は、日中に見たところのベアトリーチェの親しげな様子に出来るだけ慣れてしまって、彼女をきわめて普通の女性と思うようになることであろう。

    こと

    に彼女を避けているあいだ、ジョヴァンニはこの異常なる女性に断然接近してはならない。彼女と親しい交際が出来そうにでもなったらば、絶えず想像をたくましゅうしている彼の気まぐれが、いつか真実性を帯びて来る

    おそ

    れがあるからである。
     ジョヴァンニは、深い心を持たずして――今それを

    はか

    ってみたのではないが――敏速な想像力と、南部地方の熱烈な気性とを持っていた。この性質はいつでも熱病のごとくに

    たか

    まるのである。ベアトリーチェが恐るべき特質――彼が目撃したところによれば、その恐ろしい呼吸とか、美しい有毒の花に似ているとかいうこと――それらの特質を持っていると

    いな

    とにかかわらず、彼女はすくなくとも、非常に猛烈な不可解の毒薬をそのからだのうちに沁み込ませてしまったのである。彼女の濃艶は彼の心を狂わせるが、それは愛ではない。彼はまた、彼女の肉体にみなぎるように見えるごとく、彼女の精神にも同じ有毒の原素が沁み込んでいると想像しているが、それは恐怖でもない。それは愛と恐怖との二つが生んだもので、しかもその二つの性質をそなえているものである。すなわち愛のごとくに燃え、恐怖のごとくに

    ふる

    えるところのものである。
     ジョヴァンニは何を恐るべきかを知らず、また、それにも増して何を望むべきかをも知らなかった。しかも希望と恐怖とは絶えずその胸のうちで争っていた。交るがわるに、他の感情を征服するかと思えば、また

    って戦いを新たにするのである。暗いと明かるいとを問わず、いずれにしても単純なる感情は幸福である。

    かく

    かくたる地獄の

    火焔

    ほのお

    をふくものは、二つの感情の物凄いもつれである。
     時どきに彼はパドゥアの街や郊外をむやみに歩き廻って、熱病のような精神を鎮めようと努めた。その歩みは頭の動悸と歩調を合わせたので、さながら競争でもしているように、だんだんに速くなっていくのであった。ある日、彼は途中である人にさえぎられた。ひとりの人品卑しからぬ男が彼を認めて引き返し、息を切りながら彼に追いついて、その腕を取ったのである。
    「ジョヴァンニ君。おい、君。ちょっと待ちたまえ。君は、僕を忘れたのか。僕が君のように若返ったとでもいうのなら、忘れられても仕方がないが……」と、その人は呼びかけた。
     それはバグリオーニ教授であった。この教授は

    悧口

    りこう

    な人物で、あまりに深く他人の秘密を見透し過ぎるように思われたので、彼は初対面以来、この人をそれとなく避けていたのである。彼は自己の内心の世界から外部の世界をじっと眺めて、自己の妄想から眼覚めようと努めながら、夢みる人のように言った。
    「はい、私はジョヴァンニ・グァスコンティです。そうしてあなたは、ピエトロ・バグリオーニ教授。では、さようなら」
    「いや、まだ、まだ、ジョヴァンニ・グァスコンティ君」と、教授は微笑とともに青年の様子を熱心に見つめながら言った。「どうしたことだ。僕は君のお父さんとは仲よく育ったのに、その息子はこのパドゥアの街で僕に逢っても、知らぬ振りをして行き過ぎてもいいのかね。ジョヴァンニ君。別れる前にひとこと話したいから、まあ、待ちたまえ」
    「では、早く……。先生、どうぞお早く……」と、ジョヴァンニは、非常にもどかしそうに言った。「先生、私が急いでいるのがお見えになりませんか」
     彼がこう言っているところへ、黒い着物をきた男が、健康のすぐれぬ人のように前かがみになって弱よわしい形でたどって来た。その顔は全体に、はなはだ病的で土色を帯びていたが、鋭い積極的な理智のひらめきがみなぎっていて、見る者はその単なる肉体的の

    虚労

    きょろう

    を忘れて、ただ驚くべき精力を認めたであろう。彼は通りがかりに、バグリオーニと遠くの方から

    ひや

    やかな挨拶を取り交したが、彼はこの青年の内面に何か注意に

    あた

    いすべきものあらば、何物でも身透さずにはおかぬといったような鋭い眼をもって、ジョヴァンニの上にきっとそそがれた。それにもかかわらず、その容貌には独特の落ち着きがあって、この青年に対しても人間的ではなく、単に思索的興味を感じているように見られた。
    「あれが、ドクトル・ラッパチーニだ」と、彼が行ってしまった時に教授はささやいた。「彼は君の顔を知っているのかね」
    「私は知っているというわけではありません」と、ジョヴァンニはその名を聞いて驚きながら答えた。
    「彼のほうでは確かに君を知っているよ。彼は君を見たことがあるに違いない」と、バグリオーニは

    き込んで言った。「何かの目的で、あの男は君を研究している。僕はあの様子で分かったのだ。彼がある実験のために、ある花の匂いで殺した鳥や鼠や蝶などに臨むとき、彼の顔に冷たくあらわれるものとまったく同じ感じだ。その容貌は自然そのもののごとくに深味をもっているが、自然の持つ愛の暖か味はない。ジョヴァンニ君。君はきっとラッパチーニの実験の一材料であるのだ」
    「先生。あなたは僕を馬鹿になさるのですか。そんな不運な実験だなどと……」と、ジョヴァンニは怒気を含んで叫んだ。
    「まあ、君、待ちたまえ」と、

    執拗

    しつよう

    な教授は繰りかえして言った。「それはね、ジョヴァンニ君。ラッパチーニが君に学術的興味を感じたのだよ。君は恐ろしい魔手に

    とら

    われているのだ。そうして、ベアトリーチェは……彼女はこの秘密についてどういう役割を勤めるのかな」
     しかしジョヴァンニはバグリオーニ教授の執拗にたえきれないで、逃げ出して、教授がその腕を再び捉えようとしたときには、もうそこにはいなかった。教授は青年のうしろ姿をまばたきもせずに見つめて、頭を振りながらひとりごとを言った。
    「こんなはずではないが……。あの青年は、おれの旧友の息子だから、おれは医術によって保護し得る限りは、いかなる危害をも彼に加えさせないつもりだ。それにまた、おれに言わせると、ラッパチーニがあの青年をおれの手から奪って、かの憎むべき実験の材料にするなどとは、あまりにひどい仕方だ。彼の娘も監視すべきだ。最も博学なるラッパチーニよ。おれはたぶんおまえを夢にも思わないようなところへ追いやってしまうであろう」
     ジョヴァンニは廻り道をして、ついにいつの間にか自分の宿の入り口に来ていた。彼が入り口の

    しきい

    をまたいだときに、老婦人のリザベッタに出逢った。
     彼女はわざと作り笑いをして、彼の注意をひこうと思ったが、彼の沸き立った感情はすぐに冷静になって、やがて

    茫然

    ぼうぜん

    と消えてしまったので、その目的は達せられなかった。彼は、微笑をたたえた皺だらけの顔の方へ真正面に眼を向けてはいたが、その顔を見ているようには思われなかった。そこで、老婦人は彼の

    外套

    がいとう

    をつかんだ。
    「もし、あなた、あなた」と、彼女はささやいた。その顔にはまだ一面に微笑をたたえていたので、彼女の顔は幾世紀を経て薄ぎたなくなった怪異な木彫りのように見えた。
    「まあお聴きなさい。庭へはいるのには、秘密の入り口があるのでございますよ」
    「なんだって……」と、ジョヴァンニは無生物が生命を吹き込まれて飛び上がるように、急に振り返って叫んだ。「ラッパチーニの庭へはいる秘密の入り口……」
    「しっ、しっ。そんなに大きな声をお出しになってはいけません」と、リザベッタはその手で、彼の口を

    おお

    いながら言った。「さようでございます。あの偉い博士さまのお庭にはいる秘密の入り口でございます。そのお庭では、立派な灌木の林がすっかり見られます。パドゥアの若いかたたちは、みんなその花の中に入れてもらおうと思って、お金を下さるのでございます」
     ジョヴァンニは金貨一個を彼女の手に握らせた。
    「その道を教えてくれたまえ」と、彼は言った。
     たぶんバグリオーニとの会話の結果であろうが、このリザベッタ婦人の橋渡しは、ラッパチーニが彼をまき込もうとしていると教授が想像しているらしい陰謀――それがいかなる性質のものであっても――と、何か関連しているのではないかという疑いが、彼の心をかすめた。しかし、こうした疑いは、ジョヴァンニの心を

    一旦

    いったん

    かきみだしたものの、彼を抑制するには不十分であった。ベアトリーチェに接近することが出来るということを知った

    刹那

    せつな

    、そうすることが彼の生活には絶対に必要なことのように思われた。
     彼女が天使であろうと、悪魔であろうと、そんなことはもう問題ではなかった。彼は絶対に彼女の

    掌中

    しょうちゅう

    にあった。そうして、彼は永久に小さくなりゆく圏内に追い込まれて、ついには、彼が予想さえもしなかった結果を招くような法則に、従わなければならなかった。
     しかも不思議なことには、彼はにわかにある疑いを起こした。自分のこの強い興味は、幻想ではあるまいか。こういう不安定の位置にまで突進しても差し支えないと思われるほどに、それが深い確実な性質のものであろうか。それは単なる青年の頭脳の妄想で、彼の心とはほんのわずかな関係があるに過ぎないか、またはまるで無関係なのではあるまいか。彼は疑って、

    躊躇

    ちゅうちょ

    してあと戻りをしかけたが、ふたたび思い切って進んで行った。
     皺だらけの案内人は幾多のわかりにくい小径を通らせて、ついにあるドアをひらくと、木の葉がちらちらと風にゆらいで、日光が葉がくれにちらちらと輝いているのが見えた。ジョヴァンニは更に進んで、隠れた入り口の上を蔽っている灌木の

    つる

    がからみつくのを押しのけて、ラッパチーニ博士の庭の広場にある自分の窓の下に立った。
     われわれはしばしば経験することであるが、不可能と思うようなことが起こったり、今まで夢のように思っていたことが実際にあらわれたりすると、歓楽または苦痛を予想してほとんど夢中になるような場合でも、かえって落ち着きが出て、冷やかなるまでに大胆になり得るものである。運命はかくのごとくわれわれにさからうことを喜ぶ。こういう場合には、情熱が時を

    得顔

    えがお

    にのさばり出て、それがちょうどいい

    工合

    ぐあい

    に事件と調和するときには、いつまでもその事件の蔭にとどこおっているものである。
     今のジョヴァンニは、あたかもそういう状態に置かれてあった。彼の

    脈搏

    みゃくはく

    は毎日熱い血潮で波打っていた。彼はベアトリーチェに逢って、彼女を美しく照らす東洋的な日光を浴びながら、この庭で彼女と向かい合って立ち、彼女の顔をあくまでも眺めることによって、彼女の生活の謎になっている秘密をつかもうと、出来そうもないことを考えていた。しかも今や彼の胸には、不思議な、時ならぬ平静が湧いていた。彼はベアトリーチェか、またはその父がそこらにいるかと思って、庭のあたりを見まわしたが、まったく自分ひとりであるのを知ると、さらに植物の批評的観察をはじめた。
     ある植物――

    いな

    、すべての植物の姿態が彼には不満であった。その

    絢爛

    けんらん

    なることもあまりに強烈で、情熱的で、ほとんど不自然と思われるほどであった。たとえば、ひとりで森の中をさまよっている人が、あたかもその茂みの中からこの世のものとも思われぬ顔が現われて、じろりと

    にら

    まれた時のように、その不気味な姿に驚かされない灌木はほとんどなかった。また、あるものはいろいろの科に属する植物を混合して作り出したかと思われるような、人工的の形状で、感じやすい本能を刺戟した。それはもはや神の創造したものではなく、単に人間がその美を下手に模倣して、堕落した考えによって作りあげたものに過ぎなかった。これらはおそらく一、二の実験の結果、

    個個

    ここ

    の植物を混合して、この庭の全植物と異った、不思議な性質をそなえたものに作り上げることにおいて成功したのであろう。ジョヴァンニはただ二、三の植物を集めてみたが、それは彼が有毒植物ということを、かねて熟知している種類のものであった。
     こんな考察にふけっているとき、彼はふと

    きぬ

    ずれの音を聞いた。ふりかえって見ると、それはベアトリーチェが、彫刻した入り口の下から現われ出たのであった。

           三

     ジョヴァンニはこの際いかなる態度をとるべきものか。庭園に

    闖入

    ちんにゅう

    した申しわけをすべきものかどうか。また、みずから望んだことではなくても、少なくともラッパチーニとその娘には無断でここへ立ち入ったことを自認すべきものかどうか。そんなことは別に考えていなかったので、その瞬間すこしくあわてたが、ベアトリーチェの態度を見るにつけて、彼の心はやや落ち着いた。もっとも、誰の案内でここにはいることを許されたかということになれば、なおそこに一種の不安がないでもなかった。彼女は

    小径

    こみち

    を軽く歩んで来て、こわれた噴水のほとりで彼に出逢って、さすがに驚いたような顔をしていたが、また、その顔は親切な愉快な表情に輝いていた。
    「あなたは花の鑑識家でございますね」と、ベアトリーチェは彼が窓から投げてやった花束を指して

    微笑

    ほほえ

    みながら言った。「それですから、父の集めた珍しい花に誘惑されて、もっと近寄って見たいとお思いになるのも不思議はありません。もし父がここにおりましたら、自然こういう灌木の性質や習慣などについて、いろいろな不思議なおもしろいことをお話し申し上げることが出来ましょうに……。父はそういう研究に一生涯をついやしました。そうして、この庭が父の世界なのでございます」
    「あなたもそうでしょう」と、ジョヴァンニは言った。「世間の評判によると、あなたもたくさんの花やいい匂いについて、ずいぶんご

    造詣

    ぞうけい

    が深いそうではありませんか。いかがです、わたしの先生になって下さいませんか。そうすると、わたしはラッパチーニ先生の教えを受けるよりも、もっと熱心な学生になるのですが……」
    「そんないい加減な噂があるのでしょうか」と、ベアトリーチェは音楽的な愉快な笑い方をして

    いた。「わたくしが父に似て植物学に通じているなどと、世間では言っておりますか。まあ、冗談でしょう。わたくしはこの花のなかに育ちましたけれど、色と匂いのほかには、なんにも存じませんのです。その貧弱な知識さえも時どきに

    くなってしまうように思うことがあります。ここにはたくさんの花があって、あまりにけばけばしいので、それを見るとわたくしはなんだか

    いま

    いましくなって来ます。しかしあなた、こうした学術に関するわたくしの話は、どうぞ信用して下さらないように……。あなたのご自分の眼でご覧になることのほかは、わたくしの言うことなどはなんにもご信用なさらないで下さい」
    「わたしは自分の眼で見たものをすべて信じなければならないのですか」と、ジョヴァンニは以前の光景を思い出して

    逡巡

    しりごみ

    しながら、声をとがらして訊いた。「いいえ、あなたはわたくしに求めなさ過ぎます。どうぞ、あなたの

    口唇

    くちびる

    からもれること以外は信じるなと言って下さい」
     ベアトリーチェは彼の言うことを理解したように見えた。彼女の頬は

    真紅

    まっか

    になった。しかも彼女はジョヴァンニの顔をじっと眺めて、彼が不安らしい疑惑の眼をもって見ているのに対して、さながら女王のような

    傲慢

    ごうまん

    をもって見返した。
    「では、そう申しましょう。あなたがわたくしのことをどうお考えになっていたとしても、それは忘れて下さい。たとい外部の感覚は本当であっても、その本質において相違しているところがあるかもしれません。けれども、ベアトリーチェ・ラッパチーニのくちびるから出る言葉は、心の奥底から出る真実の言葉ですから、あなたはそれを信じて下すってもよろしいのです」
     彼女の容貌には熱誠が輝いていた。その熱誠は真実そのものの光りのようにジョヴァンニの意識の上にも輝いた。しかし、彼女がそれを語っている間、その周囲の空気のうちには、消えやすくはあるが豊かないい匂いがただよっていたので、この青年はなんとも知れぬ反感から、努めてその空気を吸わないようにしていた。
     その匂いは花の香りであろう。しかも、彼女の言葉をさながら胸の奥にたくわえてあったかのように、かくも不思議の豊富にしたのは、ベアトリーチェの呼吸であろうか。一種の臆病心は影のようにジョヴァンニの胸から飛び去ってしまった。彼は美しい娘の眼を通して、水晶のように透きとおったその魂を見たように思って、もはやなんの疑惑も恐怖も感じなかった。
     ベアトリーチェの態度にあらわれていた情熱の色は消えて、彼女は快活になった。そうして、孤島の少女が文明国から来た航海者と談話をまじえて感ずるような純な歓びが、この青年との会合によって彼女に新しく湧き出したように思われた。
     明らかに彼女の生涯の経験は、その庭園内に限られていた。彼女は日光や夏の雲のような、単純な事物について話した。また、都会のことや、ジョヴァンニの遠い家や、その友人、母親、

    姉妹

    きょうだい

    などについてたずねた。その質問はまったく浮世離れのした、流行などということはまったく掛け離れたものであったので、ジョヴァンニは赤ん坊に話して聞かせるような調子で答えた。
     彼女は今や初めて日光を仰いだ新しい小川が、その胸にうつる天地の反映に驚異を感じているような態度で、彼の前にその心を打ち明けた。また、深い

    水源

    みなもと

    からはいろいろの考えが湧き出して、あたかもダイヤモンドやルビーがその泉の泡の中からでも光り輝くように、宝石のひかりを持った空想が湧き出した。
     青年の心には折りおりに懐疑の念がひらめいた。彼は

    兄妹

    きょうだい

    のように話をまじえて、彼女を人間らしく、

    乙女

    おとめ

    らしく思わせようとするようなある者と、相並んで歩いているのではないかと思った。その人間には怖ろしい性質のあらわれるのを彼は実際に目撃しているのであって、その恐怖の色を理想化しているのではないかと思った。しかもこうした考えはほんの一時的のもので、彼女の非常に真実なる性格のほうは、容易に彼を親しませるようになったのである。
     こういう自由な交際をして、かれらは庭じゅうをさまよい歩いた。並木のあいだをいくたびも廻り歩いたのちに、こわれた噴水のほとりに来ると、そのそばにはめざましい灌木があって、美しい花が今を盛りと咲き誇っていた。その灌木からは、ベアトリーチェの

    呼吸

    いき

    から出るのと同じような一種の匂いが散っていたが、それは比較にならないほどにいっそう強烈なものであった。彼女の眼がこの灌木に落ちたとき、ジョヴァンニは彼女の心臓が急に激しい鼓動を始めたらしく、苦しそうにその胸を片手でおさえるのを見た。
    「わたしは今までに初めておまえのことを忘れていたわ」と、彼女は灌木に

    ささや

    きかけた。
    「わたしが大胆にあなたの足もとへ投げた花束の代りに、あなたはこの生きた宝の一つをやろうと約束なすったのを覚えています。今日お目にかかった記念に、今それを取らせて下さい」と、ジョヴァンニは言った。
     彼は灌木の方へ一歩進んで手をのばすと、ベアトリーチェは彼の心臓を

    やいば

    でつらぬくような鋭い叫び声をあげて駈け寄って来た。彼女は男の手をつかんで、かよわいからだに全力をこめて引き戻したのである。ジョヴァンニは彼女にさわられると、全身の繊維が突き刺されるように感じた。
    「それにふれてはいけません。あなたの命がありません。それは恐ろしいものです」と、彼女は苦悩の声を張りあげて叫んだ。
     そう言ったかと思うと、彼女は顔をおおいながら男のそばを離れて、彫刻のある入り口の下に逃げ込んでしまった。ジョヴァンニはそのうしろ姿を見送ると、そこには、ラッパチーニ博士の痩せ衰えた姿と

    あお

    ざめた魂とがあった。どのくらいの時間かはわからないが、彼は入り口の蔭にあってこの光景を眺めていたのであった。

     ジョヴァンニは自分の部屋にただひとりとなるやいなや、初めて彼女を見たとき以来、ついに消え失せないありたけの魅力と、それに今ではまた、女性らしい優しい温情に包まれたベアトリーチェの姿が、彼の情熱的な瞑想のうちによみがえってきた。彼女は人間的であった。彼女はすべての優しさと、女らしい性質とを

    賦与

    ふよ

    されていた。彼女は最も崇拝にあたいする女性であった。彼女は確かに高尚な勇壮な愛を持つことができた。彼がこれまで彼女の身体および人格のいちじるしい特徴と考えていたいろいろの特性は、今や忘れられてしまったのか。あるいは巧妙なる情熱的詭弁によって魔術の金冠のうちに移されてしまったのか。彼はベアトリーチェをますます賞讃すべきものとし、ますます比類なきものとした。これまで

    みにく

    く見えていたすべてのものが、今はことごとく美しく見えた。もしまた、かかる変化があり得ないとしても、醜いものはひそかに忍び出て、昼間は完全に意識することの出来ないような薄暗い場所にむらがる漠然とした考えのうちに影をひそめてしまった。
     こうして、ジョヴァンニはその一夜を過ごしたのである。彼はラッパチーニの庭を夢みて、あかつきがその庭に眠っている花をよび醒ますまでは、安らかに眠ることができなかった。
     時が来ると日は昇って、青年のまぶたにその光りを投げた。彼は苦しそうに眼をさました。まったく醒めたとき、彼は右の手に

    火傷

    やけど

    をしたような、ちくちくした痛みを感じた。それは彼が宝石のような花を一つ取ろうとした刹那に、ベアトリーチェに握られたその手であった。手の裏には、四本の指の

    あと

    のような紫の痕があって、

    こぶし

    の上には細い

    拇指

    おやゆび

    の痕らしいものもあった。
     愛はいかに強きことよ。――たといそれが想像のうちにのみ栄えて、心の奥底までは揺り動かさないような、うわべばかりの

    まが

    いものであったとしても――薄い霞のように消えてゆく最後の瞬間までも、いかに強くその信念を持続することよ。ジョヴァンニは自分の手にハンカチーフを巻いて、どんな

    わざわ

    いが起こって来るかと憂いたが、ベアトリーチェのことを思うと、彼はすぐにその痛みを忘れてしまったのである。
     第一の会合の後、第二の会合は実に運命ともいうべき避けがたいものであった。それが第三回、第四回とたびかさなるにつれて、庭園におけるベアトリーチェとの会合は、もはやジョヴァンニの日常生活における偶然の出来事ではなくなって、その生活の全部であった。彼がひとりでいる時は、嬉しい逢う瀬の予想と回想とにふけっていた。
     ラッパチーニの娘もやはりそれと同じことであった。彼女は青年の姿のあらわれるのを待ちかねて、そのそばへ飛んで行った。彼女は彼が赤ん坊時代からの親しい友達で、今でもそうであるかのように、なんの遠慮もなしに大胆に振舞った。もし何かの場合で、まれに約束の時間までに彼が来ないときは、彼女は窓の下に立って、室内にいる彼の心に反響するような甘い調子で呼びかけた。
    「ジョヴァンニ……。ジョヴァンニ……。何をぐずぐずしているの。降りていらっしゃいよ」
     それを聞くと、彼は急いで飛び出して、毒のあるエデンの花園に降りて来るのであった。
     これほどの親しい間柄であるにもかかわらず、ベアトリーチェの態度には、なお打ち解けがたい点があった。彼女はいつも行儀のいい態度をとっているので、それを破ろうという考えが男の想像のうちには起きないほどであった。すべての外面上の事柄から観察すると、かれらは確かに相愛の仲であった。かれらは

    みち

    ばたでささやくには、あまりに神聖であるかのように、たがいの秘密を心から心へと眼で運んだ。かれらの心が永く秘められていた

    火焔

    ほのお

    の舌のように、言葉となってあらわれ出るときには、情熱の燃ゆるがままに恋を語ることさえもあった。それでも接吻や握手や、または恋愛が要求し神聖視するところの軽い抱擁さえも試みたことはなかった。彼は彼女の輝いたちぢれ毛のひと筋にも、手をふれたことはなかった。彼の前で彼女の着物は微風に動かされることさえもなかった。それほどにかれらの間には、肉体的の障壁がいちじるしかった。
     まれに男がこの限界を超えるような誘惑を受けるように思われた時には、ベアトリーチェは非常に悲しそうな、また非常に厳格な態度になって、身を

    ふる

    わせて遠く離れるような様子を見せた。そうして、彼を近づけないために、なんにも口をきかないほどであった。こんな時には、彼は心の底から湧き出て来て、じっと彼の顔を眺めている、不気味な恐ろしい疑惑の念におどろかされるので、その恋愛は朝の

    もや

    のように薄れていって、その疑惑のみがあとに残った。しかも瞬間の暗い影のあとに、ベアトリーチェの顔がふたたび輝いた時には、彼がそれほどの恐怖をもって眺めた不思議な人物とはすっかり変わっていた。彼が知っている限りでは、彼女は確かに美しい

    初心

    うぶ

    乙女

    おとめ

    であった。
     ジョヴァンニが

    さき

    にバグリオーニ教授に逢ってからは、かなりに時日が過ぎた。ある朝、彼は思いがけなく、この教授の訪問を受けて不快に思った。彼はこの数週間、教授のことなどを思い出してもみなかったのみならず、いっそいつまでも忘れていたかった。彼は長く打ちつづく刺戟に疲れてはいたが、自分の現在の感激状態に心から同情してくれる人でなければ逢いたくなかった。しかしこんな同情は、バグリオーニ教授に期待することは出来なかった。教授はしばらくの間、市中のことや大学のことなどについて噂ばなしをしたのちに、ほかの話題に移って行った。
    「僕は、この頃、ある

    古典

    クラシック

    的な著者のものを読んでいるが、その中で非常に興味のある物語を見つけたのだ」と、彼は言った。「君もあるいは思い出すかもしれないが、それはあるインドの皇子の話だ。彼はアレキサンダー大帝に一人の美女を贈った。彼女はあかつきのように愛らしく、夕暮れのように美しかったが、非常に他人と異っているのは、その息がペルシャの薔薇の花園よりもなお

    かぐわ

    しい、一種の

    馥郁

    ふくいく

    たる香気を帯びていることであった。アレキサンダーは、若い征服者によくありがちなことであるが、この美しい異国の女をひと目見るとたちまちに恋におちてしまった。しかも偶然その場に居合わせたある賢い医者が彼女に関する恐ろしい秘密を見破ったのだ」
    「それはどういうことだったのですか」と、ジョヴァンニは教授の眼を避けるように、

    伏目

    ふしめ

    がちに訊いた。
     バグリオーニは言葉を強めて語りつづけた。
    「この美しい女は、生まれ落ちるときから毒薬で育てられて来たのだ。そこで、彼女の本質には毒が沁み込んで、そのからだは最もはなはだしい有毒物となった。つまり、毒薬が彼女の生命の要素になってしまったのだ。その毒素の匂いを彼女は空中に吹き出すのであるから、彼女の愛は毒薬であった――彼女の抱擁は死であった。まあこういうことだが、なんと君、実に不思議なおどろくべき物語ではないか」
    「子供だましのような話ではありませんか」と、ジョヴァンニはいらいらしたように椅子から

    ちあがって言った。「尊敬すべきあなたが、もっとまじめな研究もありましょうに、そんなばかばかしい物語をお望みになるひまがあるとは、おどろきましたね」
    「時に君、この部屋には何か不思議な匂いがするね」と、教授は不安そうにあたりを見まわしながら言った。「君の

    手套

    てぶくろ

    の匂いかね。

    かす

    かながらもいい匂いだ。しかし、けっして心持ちのいい匂いではないね。こんな匂いに長くひたっていると、僕などは気分が悪くなる。花の匂いのようでもあるが、この部屋には花はないね」
     教授の話を聴きながら、ジョヴァンニは

    あお

    くなって答えた。
    「いいえ、そんな匂いなどはしません。それはあなたの心の迷いです。匂いというものは、感覚的なものと精神的なものとを一緒にした一種の要素ですから、時どき、こういうふうにわれわれは

    だま

    されやすいのです。ある匂いのことを思い出すと、まったくそこにないものでも実際あるように思い誤まりやすいものですからね」
     バグリオーニは言った。
    「そうだ。しかし僕の想像は確実だから、そんな

    悪戯

    いたずら

    をすることはめったにない。もし僕が何かの匂いを思いうかべるとしても、僕の指にしみ込んでいる売薬の悪い匂いだろうよ。噂によると畏友ラッパチーニは、アラビヤの薬よりも更にいい匂いをもって、薬に味をつけるそうだ。美しい博学のベアトリーチェも、きっと父と同様に、

    乙女

    おとめ

    の息のようないい匂いのする薬を、患者にあたえることだろう。それを飲む者こそ災難だ」
     ジョヴァンニの顔には、いろいろな感情の争いをかくすことが出来なかった。教授が、清く優しいラッパチーニの娘を指して言った言葉の調子が、彼の心に

    いや

    な感じをあたえた。しかも自分とはまるで反対の見方をしている教授の暗示が、あたかも百千の鬼が歯をむき出して彼を笑っているような、暗い疑惑を誘い出したのである。彼は努めてその疑いをおさえながら、ほんとうに恋人を信ずるの心をもって、バグリオーニに答えた。
    「教授。あなたは父の友人でした。それですから、たぶんその息子にも友情をもって接しようというおつもりなのでしょう。わたしはあなたに対して心から敬服しているのです。しかしわれわれには、口にしてはならない話題があるということを、どうか考えていただきたいのです。あなたはベアトリーチェをご存じではありません。それがために間違ったご推測をなすっては困ります。彼女の性格に対して、軽慮な失礼な言葉をお用いになるのは、彼女を

    冒涜

    ぼうとく

    するというものです」
    「ジョヴァンニ。憐れむべきジョヴァンニ」と、教授は冷静な

    憐愍

    れんびん

    の表情を浮かべながら答えた。「僕はこの

    可憐

    かれん

    な娘のことについて、君よりも、ずっとよく知っている。これから君にむかって、毒殺者ラッパチーニと、その有毒の娘とに関する事実を話して聞かせよう。そうだ、有毒者ではあるが、彼女は美しいには美しいね。まあ、聴きたまえ。たとい君が腹を立てて、僕の

    白髪

    しらが

    を乱暴にかきむしっても、僕はけっして黙らない。そのインドの女に関する昔の物語は、ラッパチーニの深い恐ろしい学術によって、美しいベアトリーチェのからだに真実となってあらわれたのだ」
     ジョヴァンニはうめき声を立てて彼の顔をおおうと、バグリオーニは続けて言った。
    「彼女の父はこの学術に対して、狂的というほどに熱心のあまり、わが子をその犠牲とするに躊躇しなかったのだ。公平にいえば、彼は蒸溜器をもって彼自身の心を蒸発してしまったかと思われるほど、学術には忠実な人間であるのだ。そこで、君の運命はどうなるかという問題であるが……疑いもなく、君はある新しい実験の材料として選ばれたのだ。おそらくその結果は死であろう。いや、もっと恐ろしい運命かもしれない。ラッパチーニは自分の眼の前に、学術上の興味を

    くものがあれば、いかなるものでもちっとも躊躇しないのだ」
    「それは夢だ。たしかに夢だ」と、ジョヴァンニは小さい声でつぶやいた。
     教授は続けて言った。
    「けれども、君、楽観したまえ。まだ今のうちならば助かるのだ。たぶんわれわれは彼女が父の狂熱によって失われている普通の性質を、悲惨なる娘のために取り戻してやれると思うのだ。この小さな銀の花瓶を見たまえ。これは有名なベンヴェニュート・チェリーニの手に成ったもので、イタリーで最も美しい婦人に愛の贈り物としても恥かしくないものだ。

    こと

    にこの中にはいっているのはまたとない尊いもので、この解毒剤を一滴でも飲めば、どんな劇薬でも無害になるのだ。ラッパチーニの毒薬に対しても、十分の効力あることは疑いない。この尊い薬を入れた花瓶を、君のベアトリーチェに贈りたまえ。そうして、確実の希望をもってその結果を待ちたまえ」
     バグリオーニは精巧な

    細工

    さいく

    をほどこした小さい銀の花瓶を、テーブルの上に置いて出て行った。彼は自分の言ったことが青年の心の上にいい効果をあたえることを望んだ。
    「まだ今のうちならば、ラッパチーニをさえぎることが出来るだろう」と、彼は階段を降りながら、独りでほくそえんだ。「彼について本当のことを白状すれば、彼はおどろくべき男だ――実に不思議な男だ。しかしその実行の方法を見ると、つまらない

    やぶ

    医者だ。古来の医者のよい法則を尊ぶわれわれには我慢のならないことだ」

           四

     ジョヴァンニがベアトリーチェと交際している間、前にも言ったように、彼はときどきに彼女の性格について暗い疑いの影がさした。それでも彼はどこまでも彼女を純な自然な、最も愛情に富んだ、偽りのない女性であると思っていたので、今かのバグリオーニ教授の主張するがごときものの姿は、彼自身の本来の考えとは一致せず、はなはだ不思議な、信じ難いもののように思われた。
     実際この美しい娘を初めて見たときには、

    いま

    わしい思い出があった。彼女がさわるとたちまちに

    しお

    れた花束のことや、彼女の息の匂いのほかにはなんら明らかな媒介物もなしに、日光のかがやく空気のうちで死んでいった昆虫のことや、それらは今でもまったく忘れることは出来なかったが、こういう出来事は彼女の性格の清らかな光りのうちに

    けこんで、もはや、事実としての効力を失い、いかなる感情が事実を証明しようとしても、かえってそれを誤まれる妄想と認めるようになっていた。
     世の中にはわれわれが眼で見、指でふれるものよりも、さらに真実で、さらに実際的なものがある。そういう都合のいい論拠のもとに、ジョヴァンニはベアトリーチェを信頼した。それは彼の深い莫大な信念からというよりも、むしろ彼女の高潔なる特性による必然的の力に由来しているのであったが、今や彼の精神は、これまで情熱に心酔して登りつめていた高所に踏みとどまることを許さなくなった。彼はひざまずいて世俗的な疑惑の前に降伏[#「伏」は底本では「状」]し、それがためにベアトリーチェに対する純潔な心象をけがした。彼女を見限ったというのではないが、彼は信じられなくなったのである。
     彼は一度それを試みれば、すべてにおいて彼を満足させるような、ある断乎たる試験を始めようと決心した。それは、ある怪異な魂なくしてはほとんど存在するとは思われないような恐ろしい特性が、はたして彼女の体質のうちにひそんでいるかどうかということを試験することであった。遠方から眺めているのならば、

    蜥蜴

    とかげ

    や、昆虫や、花について、彼の眼は彼をあざむいたかも知れない。しかも、もしベアトリーチェがわずか二、三歩を離れたところに、新しい生きいきとした花を手にして現われたのを見たとすれば、もはやその上に疑いをいれる

    余地

    よち

    はなくなるであろう。こう考えたので、彼は急いで花屋へ行って、まだ朝露のかがやいている花束を一つ買った。
     今は彼が毎日ベアトリーチェに逢う定刻であった。庭に降りてゆく前に、彼は自分の姿を鏡にうつして見ることを忘れなかった。――それは美しい青年にありがちな虚栄心からでもあり、かつは情熱の燃ゆる瞬間にあらわれる一種の浅薄な感情と、虚偽な性格との表象とも言うべきであった。彼は鏡をじっと眺めた。彼の容貌に、こんなにも豊かな美しさは、今までにけっして見られなかった。その眼にも今までこんな快活の光りはなかった。その頬にも今までこんな旺盛な生命の色が燃えていなかった。
    「少なくとも彼女の毒は、まだおれの身体には流れ込んでいないのだ。おれは花ではないのだから、彼女に握られても死ぬようなことはないのだ」と、彼は思った。
     彼はさっきから手に持っていた花束に眼をそそいだ。そうして、その露にぬれた花がもう

    しお

    れかかっているのを見たとき、なんとも言われない恐怖の戦慄が彼の全身をめぐった。その花は、ついきのうまでは生きいきとして美しい姿を見せていたのである。
     ジョヴァンニは色を失って、大理石のように白くなった。かれは鏡の前に突っ立って、何か怖ろしいものの姿でも見るように、彼自身の影をながめた。彼は部屋じゅうにみなぎっているように思われる匂いについて、バグリオーニ教授の言ったことを思い出した。自分の呼吸には、毒気が含まれているに違いない。彼は身を

    ふる

    わした。――自分のからだを見て

    ふる

    えた。
     やがて我れにかえって、彼は物珍らしそうに一匹の

    蜘蛛

    くも

    を眺め始めた。蜘蛛はその部屋の古風な

    蛇腹

    じゃばら

    から行きつ戻りつして、巧みに糸を織りまぜながら、いそがしそうに巣を作っていた。それは古い天井からいつもぶらりと下がるほどに強い活溌な蜘蛛であった。
     ジョヴァンニはその昆虫に近寄って、深い長い息を吹きかけると、蜘蛛は急にその仕事をやめた。その巣は、この小さい職人のからだに起こっている戦慄のためにふるえた。ジョヴァンニは更にいっそう深く、いっそう長い息を吹きかけた。彼は心から湧いて来る毒どくしい感情に満たされた。彼は悪意でそんなことをしているのか、単に

    自棄

    やけ

    でそんなことをしているのか、自分にも分からなかった。蜘蛛はその脚を苦しそうに痙攣させた後、窓の先に死んでぶら下がった。
    「呪われたか。おまえの息ひとつでこの昆虫が死ぬほどに、おまえは有毒になったのか」と、ジョヴァンニは小声で自分に言った。
     その瞬間に、庭の方から豊かな優しい声がきこえてきた。
    「ジョヴァンニ……。ジョヴァンニ……。もう約束の時間が過ぎているではありませんか。何をぐずぐずしているのです。早く降りていらっしゃい」
     ジョヴァンニは再びつぶやいた。
    「そうだ。おれの息で殺されない生き物はあの女だけだ。いっそ殺すことが出来ればいいのに……」
     彼は駈け降りて、直ぐにベアトリーチェの輝かしい優しい眼の前に立った。
     彼は

    憤怒

    ふんぬ

    と失望に熱狂して、ひと睨みで彼女を萎縮させてやろうと思いつめていたのであるが、さて彼女の実際の姿に接すると、すぐに振り切ってしまうにはあまりに強い魅力があった。彼はしばしば彼を宗教的冷静に導いたところの、彼女の美妙な慈悲ぶかい力を思い出した。純粋な清い泉がその底から透明の姿を、彼の心眼に明らかにうつし出したとき、彼女の胸から神聖な熱情のほとばしり出たことを思い出した。彼はすべてのこの

    みにく

    い秘密は、世俗的の錯覚に過ぎないことを考えた。いかなる悪霧が彼女の周囲に立ちこめているように思われても、実際のベアトリーチェは神聖な

    天使

    エンジェル

    であることを考えた。彼はもちろん、それほどまでに信じ切ることは出来なかったが、それでも彼女の姿は彼に対して、まるでその魅力を失うことはなかった。
     ジョヴァンニの憤怒はやや鎮まったが、不機嫌な冷淡な態度はおおわれなかった。ベアトリーチェは敏速な霊感で、彼と自分との間には越えることの出来ない暗い

    みぞ

    が横たわっていることを早くも

    さと

    った。二人は悲しそうに黙って、一緒に歩いた。大理石の噴水のほとりまで来ると、その中央には宝石のような花をつけた灌木が生えていた。ジョヴァンニはあたかも食欲をそそられるように、一生懸命にその花の匂いを吸って喜んで、自分ながらそれに気がついて驚いた。
    「ベアトリーチェ。この灌木はどこから持って来たのですか」と、彼は突然に訊いた。
    「父が初めて作りました」と、彼女は簡単に答えた。
    「初めて作った……。作り出したのですか……」と、ジョヴァンニは繰りかえして言った。「ベアトリーチェ。それはいったいどういうことですか」
     ベアトリーチェは答えた。
    「父は恐ろしいほどに自然の秘密に通じた人でした。わたくしが初めてこの世界に生まれ出たと同じ時間に、この木が土の中から芽を出して来たのです。わたくしはただ世間並の子供ですが、この木は父の学問、父の知識の子供です。その木にお近づきになってはいけません」
     ジョヴァンニがその灌木にだんだん近づいて行くのを見て、彼女ははらはらするように言いつづけた。
    「その木は、あなたがほとんど夢にも考えていないような、性質を持っています。わたくしはその木と一緒に育って、その

    呼吸

    いき

    で養われて来たのです。その木とわたくしとは、

    姉妹

    きょうだい

    であったのです。わたくしは人間を愛すると同じように、その木を愛して来ました。……まあ、あなたは、それをお疑いになりませんでしたか。……そこには恐ろしい運命があったのです」
     このとき、ジョヴァンニは彼女を見て、非常に暗い

    渋面

    じゅうめん

    を作ったので、ベアトリーチェは吐息をついてふるえたが、男の優しい心を信じているので、彼女は更に気を取り直した。そうして、たとい一瞬間でも彼を疑ったことを恥かしく思った。
    「そこには恐ろしい運命があったのです」と、彼女はまた言った。「父が、恐ろしいほどに学問を愛した結果、人間のあらゆる運命からわたくしを引き離してしまったのです。それでも神様はとうとうあなたをよこして下さいました。わたくしの大事の大事のジョヴァンニ……。あわれなベアトリーチェは、それまでどんなに寂しかったでしょう」
    「それが苦しい運命だったのですか」と、ジョヴァンニは彼女を

    凝視

    みつ

    めながら訊いた。
    「ほんの近ごろになって、どんなに苦しい運命であるかを知りました。ええ、今までわたくしの心は感覚を失っていましたので、別になんとも思わなかったのです」
    「ちくしょう!」と、彼は毒どくしい侮蔑と憤怒とに燃えながら叫んだ。「おまえは、自分の孤独にたえかねて、僕も同じようにすべての温かい人生から引き離して、口でも言えないような怖ろしい世界に引き込もうとしたのだな」
    「ジョヴァンニ……」
     ベアトリーチェはその大きい輝いた眼を男の顔に向けて言った。彼の言葉の力は相手の心に達するまでにはいたらないで、彼女はただ

    らい

    にでも撃たれたように感じたばかりであった。
     ジョヴァンニは、もう我れを忘れて、怒りに任せて

    ののし

    った。
    「そうだ、そうだ。毒婦! おまえが、それをしたのだ。おまえはおれを呪い倒したのだ。おれの血管を毒薬で満たしたのも、おまえの

    仕業

    しわざ

    だ。おまえはおれを自分と同じような、憎むべき厭うべき死人同然な

    みにく

    い人間にしてしまったのだ。世にも不思議な、いまわしい怪物にしてしまったのだ。さあ、幸いにわれわれの呼吸が他のものに対すると同じように、われわれの命にも

    かか

    わるものならば、限りない憎悪の接吻を一度こころみて、たがいに死んでしまおうではないか」
    「何がわたくしの身にふりかかって来たというのでしょう、

    セント

    マリア! どうぞわたくしをあわれとおぼしめしてください。……この哀れな失恋の子を……」
     ベアトリーチェは、その心から湧き出る低いうめき声で言った。
    「おまえは……。おまえは祈っているのだね」と、ジョヴァンニはまだ同じような悪魔的の侮蔑をもって叫んだ。「おまえのくちびるから出て来るその祈りは、空気を〈死〉でけがしてしまうのだ。そうだ、そうだ、一緒に祈ろう。一緒に教会へ行って、入り口の聖水に指をひたそう。おれたちのあとから来た者は、みんなその毒のために死んでしまうだろう。空中に十字を切る真似をしよう。そうすると、神聖なシンボルの真似をして、外部に

    呪詛

    じゅそ

    をまき散らすことになるだろうよ」
    「ジョヴァンニ……」
     ベアトリーチェは静かに言った。彼女は悲しみのあまりに、怒ることさえも出来なかったのである。
    「あなたはなぜそんな恐ろしい言葉のうちに、わたくしと一緒に自分自身までも引き入れようとなさるのです。なるほど、わたくしはあなたのおっしゃる通りの恐ろしい人間です。しかし、あなたは何でもないではありませんか。この花園から出て、あなたと同じような人間に立ちまじわるのを見て、ほかの人たちが身ぶるいする、わたくしのような者は問題になさいますな。あわれなベアトリーチェのような

    怪物

    モンスター

    が、かつては地の上に這っていたということを、どうぞ忘れてしまって下さい」
    「おまえは、なんにも知らない振りをしようとするのか」と、ジョヴァンニは眉をひそめながら彼女を見た。「これを見ろ。この力はまぎれもないラッパチーニの娘から得たのだぞ」
     そこには夏虫のひと群れが、命にかかわる花園の花の香にひきつけられて、食物を求めながら、空中を飛びまわって、ジョヴァンニの頭のまわりに集まった。しばらくのあいだ幾株の灌木の林に

    き付けられていたのと同じ力によって、彼の方へ惹きつけられていることが、明らかであった。彼はかれらの間へ息を吹きかけた。そうして、少なくとも二十匹の昆虫が、地上に倒れて死んだときに、彼はベアトリーチェを見かえって、

    にが

    にがしげにほほえんだ。
     ベアトリーチェは叫んだ。
    「分かりました、分かりました。それは父の恐ろしい学問です。いいえ、いいえ、ジョヴァンニ……。それはわたくしではなかったのです。けっして、わたくしではありません。わたくしはあなたを愛するあまり、ほんのちっとのあいだ、あなたと一緒にいたいと思っただけです。そうして、ただあなたのお姿を、わたくしの心に残してお別れ申そうと思っていたのです。ジョヴァンニ……。どうぞわたくしを信じてください。たといわたくしのからだは、毒薬で養われていても、心は神様に作られたもので、日にちの

    かて

    として愛を熱望していたのです。けれども、わたくしの父は……父は、学問に対する同情、その恐ろしい同情で、わたくしたちを結びつけてしまったのです。ええもう、どうぞわたくしを蹴とばして下さい、踏みにじって下さい、殺してください。あなたにそんなことを言われては、死ぬことくらいはなんでもありません。けれども……けれども、そんなことをしたのはわたくしではなかったのです。幸福な世界のために、わたくしがそんなことをするものですか」
     ジョヴァンニはその憤怒をくちびるから爆発するがままに任せておいたので、今はもう疲れて鎮まっていた。彼の心のうちには、ベアトリーチェと彼自身とのあいだの密接な、かつ特殊な関係について、悲しい柔らかい感情が湧いてきた。いわば、かれらはまったく孤独の状態に置かれたようなもので、人間がたくさん集まれば集まるほど、ますます孤独となるであろう。もしそうならば、かれらの周囲の人間の沙漠は、この孤立の二人を更にいっそう密接に結合すべきではなかろうか。自分が普通の性質に立ちかえって、ベアトリーチェの手を引いて導くだけの望みがまだ残ってはいないだろうかと、ジョヴァンニは考えるようになった。
     しかもベアトリーチェの深刻なる恋が、ジョヴァンニの激しい悪口によってこれほどに悲しくそこなわれたのちに、この世の結合、この世の幸福があり得るように考えるのは、なんという

    こわ

    い、また

    我儘

    わがまま

    な卑しい心であろう。いや、こんな望みは、しょせん考えられないことである。彼女は恋に破れたる心をいだいて、現世の境いを苦しく越えなければならない。彼女はその心の痛手を楽園の泉にひたし、または不滅の光りに照らさせて、その悲しみを忘れなければならないのである。
     しかし、ジョヴァンニはそれに気がつかなかった。
    「愛するベアトリーチェ……」
     彼女がいつものように近づくことを恐れたにもかかわらず、彼は今や異常なる衝動をもって、彼女に近づいた。
    「わたしが最愛のベアトリーチェ。われわれの運命はまだそんなに絶望的なものではありません。ごらんなさい。これは偉い医者から証明された妙薬です。その効能の顕著なことは、実に

    しん

    のようだということです。これはあなたの恐ろしいお父さんが、あなたとわたしの身の上にこの

    わざわ

    いをもたらしたものとは、まったく反対の要素から出来ているのです。それは神聖な草から蒸溜して取ったものです。どうです、一緒にこの薬をぐっと

    んで、おたがいに禍いを

    きよ

    めようではありませんか」
    「それをわたしに下さい」
     ベアトリーチェは男が胸から取り出した小さい銀の花瓶を受け取ろうとして、手を伸ばしながら言った。それから、特に力を入れて付け加えた。
     「わたくしが

    みましょう。けれども、あなたはその結果を待って下さい」
     彼女はバグリオーニの解毒剤をその

    くち

    にあてると、その瞬間にラッパチーニの姿が入り口から現われて、大理石の噴水の方へそろそろと歩いて来た。近づくにしたがって、この蒼ざめた科学者はいかにも勝ち誇ったような態度で、美しい青年と

    処女

    おとめ

    とを眺めているように思われた。それはあたかも一つの絵画、または一群の彫像を仕上げるために、全生涯を捧げた芸術家がついに成功して、大いに満足したというような姿であった。
     彼はちょっと立ち停まって、かがんだからだを

    わざ

    とぐっと伸ばした。彼はその子供らのために、幸福を祈っている父親のような態度で、かれらの上に両手をひろげたが、それはかれらの生命の流れに毒薬をそそいだ、その手であった。ジョヴァンニはふるえた。ベアトリーチェは神経的に身をふるわした。彼女は片手で胸をおさえた。
     ラッパチーニは言った。
    「ベアトリーチェ。おまえはもうこの世の中に、独りぽっちでいなくともいいのだ。おまえの妹分のその灌木から貴い宝の花を一つ取って、おまえの花婿の胸につけるように言ってやれ。それはもう彼にも有害にはならないのだ。わたしの学問の力と、おまえたちふたりへの同情とによって、わたしの誇りと勝利の娘であるおまえと同じように、あの男のからだの組織を変えて、今ではほかの男とは違ったものにしてしまったのだ。それであるから、ほかのすべての者には恐れられても、おたがい同士は安全だ。これから仲よくして世界じゅうを通るがいい」
    「お父さま。なぜあなたはこんな悲惨な運命をわたくしたちにお与えになったのですか」
     ベアトリーチェは弱よわしい声で言った。――彼女は静かに話したが、その手はまだその胸をおさえていた。
    「悲惨だと……」と、父は叫んだ。「いったいおまえはどういうつもりなのだ。馬鹿な娘だな。おまえは自分に反対すれば、いかなる力も敵を利することが出来ないような、天賦の能力をあたえられたのを、悲惨だと思うのか。最も力の強い者をも、ひと息で打ち破ることが出来るのを、悲惨だというのか。おまえは美しいと同様に、怖ろしいものであることを悲惨だというのか。それならば、おまえはすべての悪事を暴露されても、どうすることも出来えないような、弱い女の境遇のほうが、むしろ

    しだと思うのか」
     娘は地上にひざまずいて、小声で言った。
    「わたくしは恐れられるよりも、愛されとうございました。しかし今となっては、そんなことはもうどうでもようございます。お父さま。わたくしはもう……。あなたがわたくしのからだに織り込もうとなすった禍いが夢のように、……この毒のある花の匂いのように、

    くなってしまうところへ参ります。エデンの園の花のなかには、わたくしの

    呼吸

    いき

    に毒を沁みさせるような花はないでしょう。では、さようなら、ジョヴァンニ……。あなたの憎しみの言葉は、鉛のようにわたくしの心のうちに残っています。それもわたくしが天国へ昇ってしまえば、みんな忘れられるでしょう。おお、あなたの体質には、わたくしの体質のうちにあったよりも、もっとたくさんの毒が最初から含まれていたのではありますまいか」
     彼女の現世の姿は、ラッパチーニの優れた手腕によって、非常に合理的に作られていたので、毒薬が彼女の生命であったと同じように、効能のいちじるしい解毒剤は彼女にとって「死」であった。
     こうして、人間の発明と、それにさからう性質の犠牲となり、かくのごとく誤用された知識の努力に伴う運命の犠牲となって、あわれなるベアトリーチェは、父とジョヴァンニの足もとに

    たお

    れた。
     あたかもそのとき、ピエトロ・バグリオーニ教授は窓から覗いて、勝利と恐怖とを

    こん

    じたような調子で叫んだ。彼は雷に撃たれたように驚いている科学者にむかって、大きい声で呼びかけたのである。
    「ラッパチーニ……。ラッパチーニ……。これが君の実験の終局か」


    底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年8月4日初版発行

    2008年11月 9日 (日)

    北極星号の船長  ドイルArthur Conan Doyle

    世界怪談名作集

    北極星号の船長 医学生ジョン・マリスターレーの奇異なる日記よりの抜萃

    ドイル Arthur Conan Doyle

    岡本綺堂訳

           一

     九月十一日、北緯八十一度四十分、東経二度。依然、われわれは壮大な氷原の真っただ中に停船す。われわれの北方に拡がっている一氷原に、われわれは

    氷錨

    アイス・アンカー

    をおろしているのであるが、この氷原たるや、実にわが英国の一郡にも相当するほどのものである。左右一面に氷の面が地平の遙か

    彼方

    かなた

    まで果てしなく

    ひろ

    がっている。けさ運転士は南方に氷塊の徴候のあることを報じた。もしこれがわれわれの帰還を妨害するに十分なる厚さを形成するならば、われわれは全く危険の地位にあるというべきで、聞くところによれば、糧食は既にやや不足を来たしているというのである。時あたかも

    季節

    シーズン

    の終わりで、長い夜が再びあらわれ始めて来た。けさ、

    前檣下桁

    フォア・ヤード

    の真上にまたまた星を見た。これは五月の初め以来最初のことである。
     船員ちゅうには

    いちじ

    るしく不満の色がみなぎっている。かれらの多くは

    にしん

    の漁猟期に間に合うように帰国したいと、しきりに望んでいるのである。この漁猟期には、スコットランドの海岸地方では、労働賃金が高率を唱えるを例とする。しかし、かれらはその不満をただ不機嫌な

    容貌

    ようぼう

    と、恐ろしい

    見幕

    けんまく

    とで表わすばかりである。
     その日の午後になって、かれら船員は代理人を出して船長に苦情を申し立てようとしているということを二等運転士から聞いたが、船長がそれを受け容れるかどうかは

    はなは

    だ疑わしい。彼は非常に

    獰猛

    どうもう

    な性質であり、また彼の権限を犯すようなことに対しては、すこぶる敏感をもっているからである。夕食のおわったあとで、わたしはこの問題について船長に何か少し言ってみようと思っている。従来彼は他の船員に対していきどおっているような時でも、わたしにだけはいつも寛大な態度を取っていた。
     スピッツバーゲンの北西隅にあるアムステルダム島は、わが右舷のかたに当たって見える――島は火山岩の

    凹凸

    おうとつ

    線をなし、氷河を現出している白い地層線と

    交叉

    こうさ

    しているのである。一直線にしても優に九百マイルはある。グリーンランド南部のデンマーク移住地より近い処には、おそらくいかなる人類も現在棲息していないことを考えると、実に不思議な心持ちがする。およそ船長たるものは、その船をかかる境遇に

    ひん

    せしめたる場合にあっては、みずから大いなる責任を負うべきである。いかなる捕鯨船もいまだかつてこの時期にあって、かかる緯度の処にとどまったことはなかった。
     午後九時、私はとうとうクレーグ船長に打ち明けた。その結果はとうてい満足にはゆかなかったが、船長は私の言わんとしたことを、非常に静かに、かつ熱心に聴いてくれた。わたしが語り終わると、彼は私がしばしば目撃した、かの鉄のような決断の色を顔に浮かべて、数分間は狭い船室をあちらこちちと足早に歩きまわった。最初わたしは彼をほんとうに怒らせたかと思ったが、彼は怒りをおさえて再び腰をおろして、ほとんど

    追従

    ついしょう

    に近い様子でわたしの腕をとった。その狂暴な黒い眼は著るしく私を驚かしたが、その眼のうちにはまた深いやさしさも

    こも

    っていた。
    「おい、ドクトル」と、彼は言い出した。「わしは実際、いつも君を連れて来るのが気の毒でならない。ダンディ

    埠頭

    クエイ

    にはもうおそらく帰れぬだろうなあ。今度という今度は、いよいよ

    いち

    ばち

    かだ。われわれの北の方には鯨がいたのだ。わしは

    檣頭

    マストヘッド

    から

    しお

    いている鯨のやつらをちゃんと見たのだから、君がいかに

    かぶり

    を横にふっても、そりゃあ駄目だ」
     わたしは別にそれを疑うような様子は少しも見せなかったつもりであったが、彼は突然に怒りが勃発したかのように、こう叫んだ。
    「わしも男だ。二十二秒間に二十二頭の鯨! しかも

    ひげ

    の十フィート以上もある大きい奴をな!(捕鯨者仲間では鯨を体の長さで計らず、その鬚の長さで計るのである)
     さて、ドクトル。君はわしとわしの運命とのあいだに

    多寡

    たか

    が氷ぐらいの邪魔物があるからといって、わしがこの国を去られると思うかね。もし、あしたにも北風が吹こうものなら、われわれは獲物を満載して結氷前に帰るのだ。が、

    南風

    みなみ

    が吹いたら……そうさ、船員はみんな命を賭けなければならんと思うよ。もっとも、そんなことは、わしにはたいしたことでもないのだ。なぜと言えば、わしにとってはこの世界よりも、あの世のほうが余計に縁がありそうなのだからね。だが、正直のところ君にはお気の毒だ。わしはこの前われわれと一緒に来たアンガス・タイト老人を連れて来ればよかった。あれならたとい死んでも憎まれはしないからな。ところで、君は……君は、いつか結婚したと言ったっけねえ」
    「そうです」と、わたしは時計の鎖についている

    小盒

    ロケット

    のバネをぱくりとあけて、フロラの小さい写真を差し出して見せた。
    「畜生!」と、彼は椅子から飛びあがって、憤怒の余りに

    顎鬚

    あごひげ

    を逆立てて叫んだ。「わしにとって、君の幸福がなんだ。わしの眼の前で、君が

    れん

    れんとしているようなそんな写真の女に、わしがなんの係り合いがあるものか」
     彼は怒りのあまりに、今にもわたしを

    ち倒しはしまいかとさえ思った。しかも彼はもう一度

    ののし

    ったあとに、船長室のドアを荒あらしく突きあけて

    甲板

    デッキ

    へ飛び出してしまった。
     取り残された私は、彼の途方もない乱暴にいささか驚かされた。彼がわたしに対して礼儀を守らず、また親切でなかったのは、この時がまったく初めてのことであった。私はこの文を書きながらも、船長が非常に興奮して、頭の上をあっちこっちと歩きまわっているのを聞くことが出来る。
     わたしはこの船長の人物描写をしてみたいと思うが、わたし自身の心のうちの観念が

    せい

    ぜいよく考えて見ても、すでに

    曖昧糢糊

    あいまいもこ

    たるものであるから、そんなことを書こうなどというのは

    烏滸

    おこ

    がましき

    わざ

    だと思う。私はこれまで何遍も、船長の人物を説明すべき

    かぎ

    を握ったと思ったが、いつも彼はさらに新奇なる性格をあらわして私の結論をくつがえし、わたしを失望させるだけであった。おそらく私以外には、誰しもこんな文句に眼をとめようとする者はないであろう。しかも私は一つの心理学的研究として、このニコラス・クレーグ船長の記録を書き残すつもりである。
     およそ人の外部に表われたところは、幾分かその内の精神を示すものである。船長は

    たけ

    高く、均整のよく取れた体格で、色のあさ黒い美丈夫である。そうして、不思議に手足を痙攣的に動かす癖がある。これは神経質のせいか、あるいは単に彼のありあまる精力の結果からかもしれぬ。口もとや顔全体の様子はいかにも男らしく決断的であるが、その眼はまがうべくもなしに、その顔の特徴をなしている。二つの眼は

    漆黒

    しっこく

    はしばみ

    のようで、鋭い輝きを放っているのは、大胆を示すものだと私は時どきに思うのであるが、それに恐怖の情の著るしく含まれたように、何か別種のものが奇妙にまじっているのであった。大抵の場合には大胆の色がいつも優勢を占めているが、彼が瞑想にふけっているような場合はもちろん、時どきに恐怖の色が深くひろがって、ついにはその容貌全体に新しい性格を生ずるに至るのである。彼はまったく安眠することが出来ない。そうして、夜なかにも彼が何か

    呶鳴

    どな

    っているのをよく聞くことがある。しかし船長室はわたしの船室から少し離れているので、彼の言うことははっきりとは分からなかった。
     まずこれが彼の性格の一面で、また最も

    いや

    な点である。私がこれを観察したのも、

    畢竟

    ひっきょう

    は現在のごとく、彼とわたしとが

    にち

    にち極めて密接の間柄にあったからにほかならない。もしそんな密接な関係が私になかったならば、彼は実に愉快な僚友であり、博識でおもしろく、これまで海上生活をした者としては、まことに立派なる海員の一人である。わたしはかの四月のはじめに、解氷のなかで

    大風

    ゲール

    に襲われた時、船をあやつった彼の手腕を容易に忘れ得ないであろう。電光のひらめきと風のうなりとの真っ最中に、ブリッジを前後に歩き廻っていたその夜の彼のような、あんな快活な、むしろ愉快そうに

    嬉嬉

    きき

    としていたところの彼を、わたしはかつて見たことがない。彼はしばしば私に告げて、死を想像することはむしろ愉快なことだ、もっとも、これは若い者たちに語るのはあまり

    かん

    ばしくないことではあるが――と言っている。
     彼は髪も

    ひげ

    もすでに幾分か

    胡麻塩

    ごましお

    となっているが、実際はまだ三十を幾つも出ているはずはない。思うにこれは、何かある大きな悲しみが彼をおそって、その全生涯を枯らしてしまったのに相違ない。おそらく私もまた、もし万一わがフロラを失うようなことでもあったら、全くこれと同じ状態におちいることであろう。私は、これが彼女の身の上に関することでなかったなら、あしたに風が北から吹こうが、南から吹こうが、そんなことはちっとも構わないと思う。
     それ、船長が明かり窓を降りて来るのが聞こえるぞ。それから自分の部屋にはいって

    じょう

    をかけたな。これはまさしく、彼の心がまだ解けない証拠なのだ。それでは、どれ、ペピス爺さんがいつも口癖に言うように、寝るとしようかな。蝋燭ももう燃え倒れようとしている。それに

    給仕

    スチュワード

    も寝てしまったから、もう一本蝋燭にありつく望みもないからな――。

           二

     九月十二日、静穏なる好天気。船は依然おなじ位置に在り。すべて風は南西より吹く。

    ただ

    し極めて微弱なり。船長は機嫌を直して、朝食の前に私にむかって昨日の失礼を

    びた。――しかし彼は今なお少しく放心の

    てい

    である。その眼にはかの粗暴の色が残っている。これはスコットランドでは「

    デス

    」を意味するものである。――少なくともわが機関長は私にむかってそう語った。機関長はわが船員中のケルト人のあいだには、前兆を予言する人として相当の声価を有しているのである。
     冷静な、実際的なこの人種に対して、迷信がかくのごとき勢力を有していたのは、実に不思議である。もし私がみずからそれを観たのでなかったらば、その迷信が非常に拡がっていることを

    到底

    とうてい

    信じ得なかったであろう。今度の航海で、迷信はまったく流行してしまった。しまいには私もまた、土曜日に許されるグロッグ酒と適量の鎮静薬と、神経強壮剤とをあわせ用いようかと、心が傾いてくるのを覚えてきた。迷信のまず最初の徴候はこうであった――。
     シェットランドを去って間もなく

    舵輪

    ホイール

    にいた水夫たちが、何物かが船を追いかけて、しかも追いつくことが出来ないかのように、船のあとに哀れな叫びと金切り声をあげているのを聞いたと、しばしば繰り返して話したのがそもそも始まりであった。
     この話はその航海が終わるまでつづいた。そうして、

    海豹

    あざらし

    漁猟開始期の暗い夜など、水夫らに

    輪番

    りんばん

    をさせるには非常に骨が折れたのであった。疑いもなく、水夫らの聞いたのは、

    舵鎖

    ラダー・チェイン

    のきしる音か、あるいは通りすがりの海鳥の鳴き声であったろう。わたしはその音を聞くために、いくたびか寝床から連れて行かれたが、なんら不自然なものを聞き分けることは出来なかった。しかし水夫らは、ばかばかしい

    ほど

    にそれを信じていて、とうてい議論の余地がないのであった。わたしはかつてこのことを船長に話したところ、彼もまた非常にまじめにこの問題をとったには、私もすくなからず驚かされた。そうして、彼は実際わたしの言ったことについて、著るしく心を掻き乱されたようであった。わたしは、彼が少なくともかかる妄想に対しては超然としているだろうと、当然考えていたからである。
     迷信という問題に就いて、かくのごとく論究した結果、わたしは二等運転士のメースン氏がゆうべ幽霊を見たということ――

    いな

    、少なくとも彼自身は見たと言っている事実を知った。何ヵ月もの間、言いふるした、熊とか鯨とかいう、いつも変わらぬ極まり文句のあとで、なにか新らしい会話の種があるのは、まったく気分を新たにするものである。メースンは、この船は何かに取り

    かれているのだから、もし、どこかほかに行くところさえあれば、一日もこの船などにとどまってはいないのだが、と言っている。
     実際、あの

    やっこ

    さん、ほんとうに

    怖気

    おじけ

    がついているのである。そこで、私は今朝あいつを落ち着かせるために、クロラルと臭素カリを少々

    ませてやった。わたしが彼にむかって、おとといの晩、君は特別の望遠鏡を持っていたのだなと冷やかしてやると、奴さんすっかり憤慨していたようであった。そこで、わたしは彼をなだめるつもりで、出来るだけまじめな顔をして、彼の話すところを聴いてやらなければならなかった。彼はその話をまっこうから事実として、

    とく

    とくとして物語ったのであった。
     彼の

    いわ

    く――
    「僕は夜半直の四点時鐘ごろ(

    当直

    とうちょく

    時間は四時間ずつにして、ベルは三十分毎に一つずつ増加して打つのである。よってこれは四点なればあたかも中時間である)

    船橋

    ブリッジ

    にいた。夜はまさに真の闇であった。空には何か月の欠けでもあったらしいが、雲がこれを吹きかすめて、遙かの船からははっきりと見ることが出来なかった。あたかもその時、

    魚銛発射手

    もりなげ

    のムレアドが船首から船尾へやって来て、右舷船首にあたって奇妙な声がすると報告した。僕は前甲板へ行って、彼と二人で耳をそろえてその声をきくと、ある時は泣き叫ぶ子供のように、またある時は心傷める小娘のようにも聞こえる。僕はこの地方に十七年も来ていたが、いまだかつて

    海豹

    あざらし

    が老幼にかかわらず、そんな鳴き声をするのを聞いたためしはない。われわれが船首にたたずんでいると、月の光りが雲間を洩れて来て、二人はさっき泣き声を聞いた方向に、なにか白いものが氷原を横切って動いているのを見た。それはすぐに見えなくなったが、再び左舷にあらわれて、氷上に投げた影のように、はっきりとそれを認めることが出来た。
     僕はひとりの水夫に命じて、船尾へ鉄砲を取りにやった。そうして、僕はムレアドと一緒に浮氷へ降りて行った。おそらくそれは熊の奴だろうと思ったのである。われわれが氷の上に降りたときに、僕はムレアドを見失ってしまったが、それでも声のする方へすすんで行った。おそらく一マイル以上も、僕はその声を追って行ったであろう。そうして、氷丘のまわりを走って、いかにも僕を待っているかのように立っている、その頂きへまっすぐに登って、その上から見おろしたが、かの白い形をしたものはなんであったか、一向にわからない。とにかくに熊ではなかった。それは丈が高く、白く、まっすぐなものであった。もしそれが男でも、女でもなかったとしたらば、きっと何かもっと悪いものに違いないことを保証する。僕は怖くなって、一生懸命に船の方へ走って来て、船に乗り込んでようやくほっとした次第である。僕は乗船中、自己の義務を果たすべき

    条款

    じょうかん

    に署名した以上、この船にとどまってはいるが、日没後はもう二度と氷の上へはけっして行かないぞ」
     これがすなわち彼の物語で、わたしは出来るかぎり彼の言葉をそのままに記述したのである。
     彼は極力否定しているが、わたしの想像するところでは、彼の見たのは若い熊が

    後脚

    あとあし

    で立っていた、その姿に相違あるまい。そんな格好は、熊が何か物に驚いたりした時に、いつもよくやることである。

    覚束

    おぼつか

    ない光りの中で、それが人間の形に見えたのであろう。まして既に神経を多少悩ましている人においてをやである。とにかく、それが何であろうとも、こんなことが起こったということは一種の不幸で、それが多数の船員らに非常に不快な、おもしろからぬ結果をもたらしたからである。
     かれらは以前よりも一層むずかしい顔をし、不満の色がいよいよ露骨になって来た。

    にしん

    猟に行かれないのと、かれらのいわゆる物に憑かれた船にとどめられているのと、この二重の苦情がかれらを

    って無鉄砲な行為をなさしめるかもしれない。船員ちゅうの最年長者であり、また最も着実な、あの魚銛発射手でさえも、みんなの騒ぎに加わっているのである。
     この迷信騒ぎの馬鹿らしい発生を除いては、物事はむしろ愉快に見えているのである。われわれの南方に出来ていた浮氷は一部溶け去って、海潮はグリーンランドとスピッツバーゲンの間を走る湾流の一支流にわれらの船は在るのだと、わたしを信ぜしめるほどに暖かになって来た。船の周囲には、たくさんの

    小海蝦

    こえび

    と共に、無数の小さな

    海月

    くらげ

    うみうしなどが集まって来ているので、鯨のみえるという見込みはもう十分である。果たしてその通り、夕食の頃に汐を噴いているのを一頭見かけたが、あんな地位にあっては、船でその

    あと

    を追いかけることは不可能であった。

     九月十三日。ブリッジの上で、一等運転士ミルン氏と興味ある会話を試みた。
     わが船長は水夫らには大いなる謎である。私にもそうであったが、船主にさえもそうであるらしい。ミルン氏の言うには、航海が終わって、給金済みの手切れになると、クレーグ船長はどこへか行ってしまって、そのまま姿を見せない。再び

    季節

    シーズン

    が近づくと、彼はふらりと会社の事務所へ静かにはいって来て、自分の必要があるかどうかを

    たず

    ねるのである。それまではけっしてその姿を見ることは出来ない。彼はダンディには朋輩を持たず、たれ一人としてその生い立ちを知っている者もない。船長として彼の地位は、まったく海員としての彼の手腕と、その勇気や沈着などに対する名声とによっているのである。そうして、その名声も彼が個個の指揮権を托される前に、すでに運転士としての技倆によって獲得したのであった。彼はスコットランド人ではなく、そのスコットランド風の名は仮名であるというのが、みんなの一致した意見のようである。
     ミルン氏はまたこう考えている――船長という職は彼がみずから選み得るなかで最も危険な職業であるという理由によって、単に捕鯨に身をゆだねて来たのであって、彼はあらゆる方法で死を求めているのであると。ミルン氏はまた、それに就いて数個の例を挙げている。そのうちの一つは、もしそれが果たして事実とすれば、むしろ不思議千万である。ある時、船長は猟のシーズンが来ても、例の事務所に姿を見せなかったので、これに代る者を物色せねばならないことになった。それはあたかも最近の

    露土

    ろど

    戦争の始まっている時であった。ところが、その翌年の春、船長が再びその事務所へ戻って来た時には、彼の横頸には

    しわ

    だらけの傷が出来ていた。彼はいつもこれを襟巻で隠そう隠そうと努めていた。彼は戦争に従事していたのであろうというミルンの推測が、果たして真実なりや否やということは、私にも断言出来ないが、いずれにもせよ、これは確かに不思議なる暗合といわなければならなかった。
     風は東寄りの方向に吹きまわしてはいるが、依然ほんの微風である。思うに、氷はきのうよりも密なるべし。見渡すかぎり

    はく

    皚皚

    がいがい

    、まれに見る氷の裂け目か、氷丘の黒い影のほかには、一点のさえぎるものなき一大氷原である。遙か南方に

    あお

    い海の狭い通路がみえる。それがわれわれの逃がれ出ることの出来る

    唯一

    ゆいいつ

    の道であるが、それさえ

    日毎

    ひごと

    に結氷しつつあるのである。
     船長はみずから重大な責任を感じている。聞けば、馬鈴薯のタンクはもう終わりとなり、ビスケットさえ不足を告げているそうである。しかし船長は相変わらず無感覚な顔をして、望遠鏡で地平線を見渡しながら、一日の大部分を

    マスト

    の上の見張り所に暮らしている。彼の態度は非常に変わりやすく、彼はわたしと一緒になるのをみずから避けているらしい。といって、何も先夜示したような乱暴を再びしたわけではない。

           三

     午後七時三十分。熟慮の結果、ようやくに得たる私の意見は、われわれは狂人に支配されているということである。この以外のものでは、クレーグ船長の非常な

    斑気

    むらき

    を説明することは不可能である。わたしがこの航海日誌を付けてきたのはまことに幸いである。われわれが彼をどんな種類の監禁のもとに置くにしても――この手段は最後のものとして、私は承認するのみであるが――われわれの行為を正当なるものと証拠だてる場合には、この日誌がどれほど役に立つことになるかもしれないからである。まったく不思議なことではあるが、精神錯乱を暗示したのは船長自身であって、その怪しい行為の原因が単なる特異の風変わりとは認められないのであった。
     彼は約一時間ばかり前に、ブリッジの上に立っていた。そうして、私が後甲板をあちらこちらと歩いている間、絶えず例の望遠鏡でじっと立って眺めていた。船員の多くは下で茶を

    んでいた。というのは、近ごろ見張りが規則正しく続けられなくなってきたからである。歩くに疲れて、わたしは舷檣に

    りかかりながら、周囲にひろがっている大氷原に、今しも沈もうとしている太陽の投げる

    澄明

    ちょうめい

    な光りを心から感歎して眺めていると、その夢幻の状態から、わたしは

    間近

    まぢか

    にきこえる

    しゃが

    れ声のために突然われにかえった。それと同時に、船長があたりをきょろきょろ見廻しながら降りて来て、わたしのすぐ側に立っているのを見いだした。
     彼は恐れと驚きと、何か喜びの近づいて来るらしい感情とが相争っているような表情で、氷の上を見まもっていた。寒いにもかかわらず、大きい汗のしずくがその額に流れていて、彼が恐ろしく興奮していることが明らかにわかった。その手足は

    癲癇

    てんかん

    の発作を今にも起こそうとしている人のように、ぴりぴりと引きつってきた。その口のあたりの相貌はみにくくゆがんで、固くなっていた。
    「見たまえ!」と、彼はわたしの手首をとらえて、あえぎながら言った。
     しかし、眼は依然として遠い氷の上にそそぎ、頭は幻影の野を横切って動く何物かを追うかのように、おもむろに地平のあなたに向かって動いていた。
    「見たまえ! それ、あすこに人が! 氷丘のあいだに! 今、あっちのうしろから出て来る! 君、あの女が見えるだろう。いや、当然見えなければならん! おお、まだあすこに! わしから逃げて行く。きっと逃げているのだ……ああ、行ってしまった!」
     彼はこの最後の一句を、

    鬱結

    うっけつ

    せる苦痛のつぶやきをもって発したのである。
     これはおそらく永久にわたしの記憶から消え去ることはないであろう。彼は

    縄梯子

    なわばしご

    に取りすがって、舷檣の頂きに登ろうと

    つと

    めた。それはあたかも去りゆくものの最後の

    一瞥

    いちべつ

    を得んと望むかのように――。
     しかし、彼の力は足らず、

    集会室

    ホール

    の明かり窓によろめき

    退

    しさ

    って来て、そこに彼はあえぎ疲れて

    りかかってしまった。その顔色は蒼白となったので、私はきっと彼が意識を失うものと思って、時を移さずに彼を伴って明かり窓を降りて、船室のソファの上にそのからだを横たえさせた。それから私はその

    くち

    にブランディをつぎ込んだ。幸いにそれが

    卓効

    たくこう

    を奏して、蒼白な彼の顔には再び血の気があらわれ、ふるえる手足をようやく落ち着かせるようになった。彼は

    ひじ

    を突いてからだを起こして、あたりを見まわしていたが、われわれ二人ぎりであるのを見て、やっと安心したように、こっちへ来て自分のそばへ坐れと、わたしを手招きした。
    「君は見たね」と、この人の性質とはまったく似合わないような、低い

    おそ

    れたような調子で、彼は訊いた。
    「いいえ、何も見ませんでした」
     彼の頭は、ふたたびクッションの上に沈んだ。
    「いや、いや、望遠鏡を持ってはいなかったろうか」と、彼はつぶやいた。「そんなはずがない。わしに彼女をみせたのは望遠鏡だ。それから愛の眼……あの愛の眼を見せたのだ。ねえ、ドクトル、

    給仕

    スチュワード

    を内部へ入れないでくれたまえ。あいつはわしが気が狂ったと思うだろうから。その戸に

    かぎ

    をかけてくれたまえ。ねえ、君!」
     私は

    って、彼の言う通りにした。
     彼は瞑想に呑み込まれたかのように、しばらくの間じっと横になっていたが、やがてまた肘を突いて起き上がって、ブランディをもっとくれと言った。
    「君は、思ってはいないのだね、僕が気が狂っているとは……」
     私がブランディの

    びん

    を裏戸棚にしまっていると、彼がこう訊いた。
    「さあ、男同士だ。きっぱりと言ってくれ。君はわしが気が狂っていると思うかね」
    「船長は何か心に

    屈託

    くったく

    があるのではありませんか。それが船長を興奮させたり、また非常に苦労させたりしているのでしょう」と、わたしは答えた。
    「その通りだ、君」と、ブランディの効き目で眼を輝かしながら、船長は叫んだ。「全くたくさんの屈託があるのさ。……たくさんある。それでもわしはまだ経緯度を計ることは出来る、

    六分儀

    ろくぶんぎ

    も対数表も正確に扱うことが出来る。君は法廷でわしを気違いだと証明することはとうていできまいね」
     彼が椅子に

    りかかって、さも冷静らしく自分の正気なることを論じているのを聞いていると、わたしは妙な心持ちになって来た。
    「おそらくそんな証明は出来ないでしょう」と、私は言った。「しかし私は、なるべく早く帰国なすって、しばらく静かな生活を送られたほうがよろしかろうと思います」
    「え、国へ帰れ……」と、彼はその顔に嘲笑の色を浮かべて言った。「国へ帰るというのはわしのためで、静かな生活を送るというのは君自身のためではないかね、君。フロラ……可愛いフロラと一緒に暮らすさね。ところで、君、悪夢は発狂の徴候かね」
    「そんなこともあります」
    「何かそのほかに徴候はないかね。一番最初の徴候は何かね」
    「頭痛、耳鳴り、

    眩暈

    めまい

    、幻想……まあ、そんなものです」
    「ああ、なんだって……?」と、突然に彼はさえぎった。「どんなのを

    幻想

    デルージョン

    というのだね」
    「そこに無いものを見るのが幻想です」
    「だって、あの女はあすこにいたのだよ」と、彼はうめくように言った。「あの女はちゃんとそこにいたよ」
     彼は起ち上がってドアをあけ、のろのろと不確かな足取りで、船長室へ歩いて行った。
     わたしは疑いもなく、船長は明朝までその部屋にとどまることと思った。彼がみずから見たと思った物がどんなものであるとしても、彼のからだは非常な

    衝動

    ショック

    を受けたようである。
     船長は

    日毎

    ひごと

    にだんだんおかしくなってくる。わたしは彼自身が暗示したことが本当のことであり、またその理性が

    おか

    されているのを恐れた。彼が自己の行為に関して、何か良心の

    呵責

    かしゃく

    を受けているのであると、わたしは思われない。こんな考えは、高級船員などの間ではありふれた考え方であり、また普通船員のうちにあってもやはり同様であると信じられる。しかし私は、この考え方を主張するに足るべき何物をも見たことがない。彼には、罪を犯した人のような様子は少しも見えない。かれは苛酷な運命の取り扱いを受けて、罪人というよりはむしろ殉教者と認むべき人のような様子が多く見られるのであった。
     今夜の風は南にむかって吹き廻っている。ねがわくば、われわれが

    唯一

    ゆいいつ

    の安全航路であるところの、あの狭い通路が遮断されないように――。大北極の氷群、すなわち捕鯨者のいわゆる「

    関所

    バリアー

    」のはしに位してはいるが、どんな風でも北さえ吹けば、われわれの周囲の氷を粉砕して、われわれを助けてくれることになる。南の風は解けかかった氷をみなわれわれのうしろへ吹きよせて、二つの氷山の間へわれわれを挾むのである。どうぞ助かるようにと、私はかさねて言う。

     九月十四日。日曜日にして、安息日。わたしの気遣っていたことが、いよいよ実際となって現われた。
     唯一の逃げ道であるべき

    あお

    い細長い海水の通路が、南の方から消えてきた。怪しげな氷丘と、奇妙な頂端を持って動かない一大氷原が、吾人の周囲につらなるのみである。恐ろしいその広原を

    おお

    うものは、死のごとき沈黙である。今や一つのさざなみもなく、海の

    かもめ

    の鳴く声もきこえず、帆を張った影もなく、ただ全宇宙にみなぎる深い沈黙があるばかりである。
     その沈黙のうちに、水夫らの不平の声と、白く輝く甲板の上にかれらの靴のきしむ音とが、いかにも不調和で不釣合いに響くのである。ただ訪れたものは一匹の

    北極狐

    アークチック・フォックス

    のみで、これも陸上では極めてありふれたものであるが、氷群の上にはまれである。しかしその狐も船に近づかず、遠くから探るような様子をしたのちに、氷を超えて

    すみや

    かに逃げ去ってしまった。これは不思議な行動というべきで、北極の狐は一般に人間をまったく知らず、また

    穿索

    せんさく

    好きの性質であるので、容易に捕えられるほど非常に慣れ近づくものであるからである。信ぜられないことのようであるが、この際こんな

    些細

    ささい

    な事件でさえも、船員らには悪影響を及ぼしたのであった。
    「あの清浄な動物は怪物を知っている。そうだ。われわれを見てではなく、あの魔物を見たからなのだ」というのが、主だった

    魚銛発射手

    もりうち

    の一人の注釈であった。そうして、その他の者も皆それに同意を示したので、こんな他愛もない迷信に反対しようとする者さえも、まったく無益のことであった。かれらはこの船の上には呪いがあると信じ、そうして、たしかにそうであると決定してしまったのである。
     船長は午後の約三十分、後甲板へ出てくる以外は、

    終日

    しゅうじつ

    自分の部屋にとじこもっていた。わたしは彼が後甲板で、きのう、かの幻影が現われた場所をじっと見入っているのを見たので、またどうかするのではないかとじゅうぶん覚悟していたが、別に何事も起こらなかった。私はそのそば近くに立っていたが、彼はかつて私を見る様子もなかった。
     機関長がいつものごとくに祈祷をした。捕鯨船のうちで、イングランド教会の祈祷書が常に用いられるのはおかしなことである。しかも高級船員のうちにも、普通船員のうちにも、けっしてイングランド教会の者はいないのである。われわれは

    天主教徒

    ローマン・カトリック

    長老教会派

    プレスビテリアンス

    のもので、天主教徒が多数を占めている。そこで、どちらの信徒にも異なる宗派の儀式が用いられているのであるから、いずれも自分たちの儀式がいいなどと苦情を言うことも出来ない。そうして、そのやりかたが気に入ったものであれば、かれらは熱心に傾聴するのである。
     かがやく日没の光りが、大氷原を血の

    うみ

    のように

    いろど

    った。私はこんな美しい、またこんな気味の悪い光景を見たことがない。風は吹きまわしている。北風が二十四時間吹くならば、なお万事好都合に運ぶであろう。

           四

     九月十五日。きょうはフロラの誕生日なり。愛する

    乙女

    おとめ

    の君よ。君のいわゆるボーイなる私が、頭の狂った船長のもとに、わずか数週間の食物しかなくて、氷のうちにとじこめられているのが、君にはむしろ見えないほうがいいのである。うたがいもなく、彼女はシェットランドからわれわれの消息が報道されているかどうかと、毎朝スコッツマン紙上の船舶欄を、眼を皿にして見ていることであろう。わたしは船員たちに手本を示すために、元気よく、平静をよそおっていなければならない。しかも神ぞ知ろしめす。――わたしの心は、しばしば

    はなは

    だ重苦しい状態にあることを――。
     きょうの温度は華氏十九度、微風あり。しかも不利なる方向より吹く。船長は非常に機嫌がいい。彼はまた何かほかの前兆か幻影を見たと想像しているらしい。ゆうべは夜通し苦しんだらしく、けさは早くわたしの

    へや

    へ来て、わたしの寝棚によりかかりながら、「あれは妄想であったよ。君、なんでもないのだよ」と、ささやいた。
     朝食後、彼は食物がまだどれほどあるかを調べて来るように、わたしに命じたので、早速二等運転士とともに行ったところ、食物は予期したよりも遙かに少なかった。船の前部に、ビスケットの半分ばかりはいったタンクが一つと、塩漬けの肉が三樽、それから極めてわずかのコーヒーの実と、砂糖とがある。また、後船鎗と戸棚の中とに、鮭の鑵詰、スープ、羊肉の

    旨煮

    うまに

    、その他のご馳走がある。しかし、それとても五十人の船員が食ったらば、

    またた

    くひまに無くなってしまうことであろう。なお貯蔵室に

    こな

    二樽と、それから数の知れないほどに煙草がたくさんある。それら全体を引っくるめたところで、各自の食量を半減して、約十八日

    乃至

    ないし

    二十日間ぐらいを支え得るだけのものがある――おそらく、それ以上はとうてい困難であろう。
     われわれ両人がこの事情を報告すると、船長は全員をあつめて、後甲板の上から一場の訓示を試みた。私はこの時ほどの立派な彼というものを今まで見たことがない。丈高く引きしまった体躯、色やや浅黒く溌剌たる顔、彼はまさに支配者として生まれて来たもののようであった。彼は冷静な海員らしい態度で、

    じゅん

    じゅんとして現状を説いた。その態度は、一方に危険を洞察しながら、他方にありとあらゆる脱出の機会を狙っていることを示すものであった。
    「諸君」と、彼は言った。「諸君はうたがいもなく、この苦境に諸君をおとしいれたものは、このわしであると思っていられるであろう。そうして、おそらく諸君のうちにはそれを

    にが

    にがしく思っている者もあるであろう。しかし多年の間、このシーズンにここへ来る船のうちで、どの船であろうとも、わが北極星号のごとく多くの鯨油の金をもたらしたものはなく、諸君も皆その多額の分配にあずかってきたことを、心にきざんでおいてもらわなければならない。

    意気地

    いくじ

    なしの水夫どもは娘っ子たちに会いたがって村へ帰ってゆくのに、諸君らは安んじてその妻をあとに残しておいて来たのである。そこで、もし諸君が金儲けが出来たためにわしに感謝しなければならぬというのならば、この冒険に加わって来たことに対しても、当然、わしに感謝していいはずで、つまりこれはお互いさまというものである。大胆な冒険を試みて成功したのであるから、今また一つの冒険を企てて失敗しているからといって、それをとやかく言うにはあたらない。たとい最も悪い場合を想像してみても、われわれは氷を横切って陸に近づくことも出来る。

    海豹

    あざらし

    の貯蔵のなかに

    ていれば、春まではじゅうぶん生きてゆかれる。しかし、そんな悪いことはめったに起こるものでない。三週間と経たないうちに、諸君は再びスコットランドの海岸を見るであろう。それにしても現在においては、いやとも各自の食量を半減してもらわなければならない。同じように分配して、誰も余計にとるようなことがあってはならない。諸君は心を強く持ってもらいたい。そうして、以前に多くの危険を

    しの

    いできたように、この後なおいっそうの努力をもってそれを防がなければならない」
     彼のこの言葉は、船員らに対して驚くべき効果をあたえた。今までの彼の不人気は、これによってすっかり忘れられてしまった。迷信家の魚銛発射手の老人がまず万歳を三唱すると、船員一同は心からこれに合唱したのであった。

     九月十六日。風は夜の間に北に吹き変わって、氷は

    けそうな徴候を示した。食糧を大いに制限されたにもかかわらず、船員らはみな機嫌をよくしている。もし危険区域脱出の機会が見えたらば、少しの

    猶予

    ゆうよ

    もないようにと、機関室には蒸気が保たれて、出発の用意が整っている。
     船長はまだ例の「死」の

    そう

    から離れないが、元気は

    旺溢

    おういつ

    している。こう突然に愉快そうになったので、私はさきに彼が陰気であった時よりも更に面喰らった。わたしには

    到底

    とうてい

    これを諒解することが出来ない。私はこの日誌の初めの方にそれを挙げたと思うが、船長の奇癖のうちに、彼はけっして他人を自分の部屋へ入れないことがある。現に今もなおそれを実行しているのであるが、彼は自身で寝床を始末し、ほかの船員らにもこれを実行させている。ところが、驚いたことには、きょうその部屋の鍵をわたしに渡して、その船室へ降りて行って、彼が正午の太陽の高度を測っている間、船長の時計で

    時間

    タイム

    を取るようにと私に命令したのであった。
     部屋は洗面台と数冊の書籍とをそなえた飾り気のない小さい

    へや

    である。壁にかけられた

    若干

    じゃっかん

    の絵のほかには、ほとんど何の装飾もない。それらの多くは油絵まがいの安っぽい石版画であるが、ただ一つわたしの注意をひいたのは、若い婦人の顔の水彩画であった。
     それは明らかに肖像画であって、舟乗りなどが特に心を

    かれるような、想像的タイプの美人ではなかった。どんな画家でも、こんな性格と弱さとが妙に

    混淆

    こんこう

    したところのものを、その内面的から描き出すことは、なかなかむずかしいことであったろう。

    睫毛

    まつげ

    の垂れた不活発そうな物憂い眼と、そうして思案にも心配にも容易に動かされないような、広い平らな顔とは、綺麗に切れて浮き出した

    あご

    や、きっと引き締まった下唇と、強い対照をなしていた。肖像画の一方の下隅に、「エム・ビー、年十九」と書かれていた。わずか十九年の短い生涯に、彼女の顔に刻まれたような強い意志の力をあらわし得るとは、その時わたしにはほとんど信じられなかった。彼女は定めて非凡な婦人であったに相違なく、その容貌はわたしに非常な魅力をあたえた。私は単にちらりと見ただけであったが、もしわたしが製図家であるならば、この日記に彼女の容貌のあらゆる点を描き出すことがきっと出来るであろう。
     彼女はわが船長の生涯において、いかなる役割りを演じたのであろうか。船長はこの絵をその寝床のはしにかけておくので、彼の眼は絶えずこの画の上にそそがれているはずである。もし船長がもっと無遠慮であったらば、何かこのことに関して観察することも出来たのであろうが、彼は無口で控え目の性質であったので、奥深く観察が出来なかったのである。
     彼の室内のほかのものについては、なんら記録にあたいするようなものはなかった。――すなわち船長服、携帯用の床几、小形の望遠鏡、煙草の

    かん

    、いくつかのパイプ及び

    水煙管

    みずぎせる

    ――ちなみに、この水煙管は船長が戦争に参加したというミルン氏の物語に少しく色をつけるが、その連想はむしろ当たらないらしい。
     午後十一時二十分。船長は長いあいだ雑談に花を咲かせた後、たった今寝床についた。彼が気の向いているときは、実に惚れぼれするようないい相手である。非常に博識で、しかも独断的に見ゆることなしに、強く自己の意見を表示する力を持っている。それを思うと、わたしは自分の頭のよく働かないのが

    いや

    になる。
     彼は霊魂の性質について話した。そうして、アリストテレスやプラトンの説をよく消化して、問題のうちに点出した。彼は

    輪廻

    りんね

    を学び、ピタゴラス(紀元前のギリシャの哲学者)の説を信ずるもののようである。それらを論じているうちに、われわれは降神術の問題に触れた。私はスレードの詐欺に対して、ふざけた

    引喩

    いんゆ

    をしたところ、彼は有罪と無罪とを混同しないようにと、はなはだ熱心にわたしに向かって警告した。そうして、キリスト教と邪教とをひとしく心に刻するのは正しい議論である、なぜなれば、キリスト教を

    いつわ

    りよそおったユダは

    悪漢

    わるもの

    であったと彼は論じた。それから間もなく、彼はお

    やす

    みと言って、自分の部屋へ退いて行った。
     風は新たになり、確かに北から吹いている。夜は英国の夜のごとくに暗い。あすは、この氷の

    桎梏

    かせ

    からのがれ得ることを祈る。

     九月十七日。再びお化け騒ぎ。ありがたいことに、わたしは至極大胆である。意気地のない水夫らの迷信と、熱心なる自信をもってかれらが語る詳細の報告とは、かれらの平生に慣れていない者を戦慄させるであろう。
     妖怪事件については、多くの説がある。しかしそれらを要約すれば、何か怪しいものが船の周囲を終夜飛びあるくというのである。ピーターヘッドのサイディ・ムドナルドもそれを見たと言い、シェットランドの

    背高

    せいたか

    のっぽうのピーター・ウィリアムソンもそれを見たと言い、ミルン氏もまたブリッジで確かに見たという。これで都合三人の証人があるので、二等運転士が見た時よりは、船員の主張がいっそう有力になってきた。
     朝食の後、私はミルン氏に話して、こういうばかばかしいことには超然としていなければならず、また、ほかの船員らによい手本を示さなければならないと言ってやった。ところが、彼は例によって何かを予言するように、風雨にさらされたその頭をふって、特殊の注意を払いながら答えたのは、こうであった――。
    「おそらくそうであるかもしれず、そうでないかもしれないよ、ドクトル」と、彼は言った。「僕はそれを幽霊と呼びはしなかった。これについてはいろいろの言い分もあるが、僕は海お化けや、この種のものについて、自分の信条を本当らしく言い

    こしら

    えるようなことはしないつもりだ。僕はむやみに怖がるのではない。しかし明かるい日中にとやかく言わず、もし君がゆうべ僕と一緒にいて、あの怖ろしい形をした、白い

    無気味

    ぶきみ

    なものが、あっちへ行ったり、こっちへ来たりして、ちょうど母親を失った

    仔羊

    こひつじ

    のように、闇のなかを泣き叫ぶのを見たら、おそらく君だってぞっとしたろうと思う。そうすれば、君も、ばかばかしい話だなどと、そう簡単には片付けてしまわないだろうよ」
     わたしは彼を説きつける望みはないと思って、この次にもしまた幽霊があらわれたらば、私を呼び上げてくれるように特に頼んでおくのほかはなかった。――この頼みを、彼は「そのような機会はけっして来ないように」との願いをあらわす祈りのことばをもって、ともかくも承知だけはすることになった。

           五

     わたしが望んだごとく、われわれのうしろの氷面が破れて、細い水の

    しま

    が現われて来た。それが遠く全体にわたって拡がっている。今日われわれが

    るところの緯度は北緯八十度五十二分で、これはすなわち氷群に南からの強い潮流がまじっていることを示すのである。風が都合よく吹きつづくならば、結氷と同じ速さでまた解氷するであろう。現在のわれわれは、煙草をふかして機会を待ち望むのほかに何事も手につかない。わたしは急激に運命論者にならんとしつつある。風や氷のような、とかく不確実な要素のものばかりを取り扱っていると、人間もしまいにはそうならざるを得ない。マホメットの最初の従者らの心を運命に従わしめたものは、おそらくアラビア砂漠の風か砂であったろう。
     このようなお化け騒ぎが、船長に対して非常に悪い影響を与えてしまった。わたしは彼の敏感な心を刺戟するのを恐れて、このばかばかしい話を隠そうと努めていたが、不幸にして彼は船員の一人がこの話をほのめかしているのを洩れ聞いて、どうしてもそれを聞こうと言い出した。そうして、わたしが予期した通り、それがために船長のいったん

    しず

    まっていた心がまた大いに狂い出した。これが昨夜、最も批判的聡明と最も冷静なる判断とをもって、哲学を論じたその同一人とは、とうてい信ぜられなかった。彼は後甲板を檻のなかの虎のようにあちらこちらと歩き廻っている。時どきに立ち停まって、うっとりとした様子で手を突き出しながら、何かたえられないように氷の上を見入っているのである。
     彼は絶えずつぶやいている。そうして一度「ほんのちっとの間、愛して……ほんのちっとの間!」と叫んだ。
     ああ、可哀そうに。立派な海員にして教養ある紳士が、こんな境遇に落ちてゆくのを見るのは悲しいことである。また真の危険もただ生活の一刺戟に過ぎぬとしているような船長の心を、あの空想と妄想とが威嚇するかと思うと、さらに悲しくなるのである。発狂せる船長と、幽霊におびえている運転士との間に、かつて私のような地位に立った者があるだろうか。わたしは時どきに思うのであるが、おそらくあの二等機関手を除いては、私がこの船中でただ一人の正気の人間ではあるまいか。しかし、かの機関手も一種の瞑想家で、彼を独りでおく限り、またその道具を掻きみださない限り、彼は紅海の悪魔に関するほかは何も注意しないのである。
     氷は依然として

    すみや

    かにひらいている。明朝出発することが出来そうな見込みはじゅうぶんである。国へ帰って、、これまでにあった不思議な出来事を話したらば、みんなきっと私が作り話をしていると思うであろう。
     午後十二時。私は実にもう、ぞっとしてしまった。今はいくぶん落ち着いてはきたが、これとても強いブランディを一杯引っかけたお蔭である。以下この日記が証明するように、私はいまだ全く自己を取り戻してはいないのである。わたしは非常に不思議な経験を味わった。そうして、私にはどうしても合理的だとは思われないような事物を、かれらをたしかに見たというので、私は船中の者をみな狂人ときめてしまったが、今となってはそれが果たして正しいかどうか、はなはだ疑わしくなってきたのである。ああ、こんなつまらないことに神経を奪われてしまうとは、私もなんという大馬鹿者であろう。これはすべての馬鹿騒ぎのあとから起こったことであるが、ここに書き加える価値があると思う。いつも馬鹿にしていたことも、今みずからこれを経験するに及んで、もはやミルン氏の話も、例の運転士の話も、いずれもこれを疑うことが出来なくなったからである。
     

    畢竟

    ひっきょう

    、これとてたいしたことではない――ただ一つの音だけであったに過ぎない。私はこの日記を読まれる人が、いつかこの

    くだり

    を読むとしても、私の感情と共鳴し、あるいはその時わたしに及ぼしたような結果を実感せられるであろうとは思わない。
     さて夕食が終わって、私は

    しん

    に就く前に、しずかに煙草をふかそうと思って、甲板へ登って行った。夜は

    はなは

    だ暗く――その暗さは、

    船尾端艇

    ウォーターボート

    の下に立っていてさえも、ブリッジの上にいる運転士の姿が見えないほどであった。前にも言った通り、非常な沈黙がこの氷の海に

    ち満ちているのである。この世界のほかの部分では、たといいかに不毛の地であろうとも、

    かす

    かながらも大気の振動というものがある。――遠くの人の集まっている処からも、あるいは木の葉から、あるいは鳥の

    つばさ

    から、または地をおおう草のかすかなざわめきの音からさえも、何かかすかな響きがあるものである。人間は積極的に音響を知覚こそしないが、もし音というものが全然なくなってしまうと、実に物足りなくて寂しいものである。測り知られざる真の静けさが、あらゆる現実の無気味さをもって、われわれの上に押しせまっているのは、ここ北極の海においてのみで、わずかなつぶやきの声をも

    とら

    えんとして緊張し、船中にちょっと起こった小さい物音にまで熱心に注意する、われと我が鼓膜に気がつくのである。
     こんな心持ちで、わたしは舷檣にひとり

    りかかっていると、ほとんど私のすぐ下の氷から、夜の静寂の空気を破って、鋭い

    とが

    った叫び声がひびいてきた。
     最初はあたかも楽劇の

    首歌妓

    プリマドンナ

    も及ばぬような

    い音調で、それがだんだんに調子を上げて、ついにその頂点は苦痛の長い号泣と変わってしまった。これは死者の最期の絶叫であったかもしれない。このものすごい絶叫は、今もなお私の耳にひびいている。悲哀――いうにいわれぬ悲哀がそのうちに表わされているかのようで、また非常な熱望と、それをつらぬいて時どきに狂喜の乱調とが伴っていた。それは私のすぐそばから叫び出したのであるが、わたしが

    暗闇

    くらやみ

    のうちをじっと見つめた時には、何も見分けることは出来なかった。私はややしばらく待っていたが、再びその音を聞くことがなかったので、そのままに降りて来た。実にわたしは、わが全生涯中にかつて覚えない戦慄を感じながら――。
     明かり取りのあるところを降りて来ると、見張り番交代に昇って来るミルン氏に逢った。
    「さて、ドクトル」と、彼は言った。「おそらくそれは馬鹿な話だろうよ。君はあの

    金切

    かなき

    り声を聞かなかったかね。たぶん、それは迷信だろうよ。君は今どうお考えだね」
     私はこの正直な男に詫びを言い、そうして私もまた彼と同じように

    まど

    っていることを認めなければならなかった。おそらく、あすはわたしの考えも違ってくるであろう。しかも今の私は自分の考えをすべて書きしるす勇気はほとんどない。他日これらの

    いや

    な連想をいっさい振り落としたあかつきに再びこれを読んで、わたしはきっと自分の臆病を笑うであろう。

     九月十八日。わたしはなお、かの奇妙な声に悩まされつつ、落ち着かない不安な一夜を過ごした。船長も安眠したようには見えない。その顔は

    蒼白

    そうはく

    で、眼は血走っていた。
     わたしは昨夜の冒険を彼に話さなかった。いや、今後とてもけっして話すまい。彼はもう落ち着きというものが少しもなく、まったく興奮している。そわそわと立ったり居たりして、少しの間もじっとしていることが出来ないらしい。
     けさは私の予期のごとく、あざやかな通路が群氷のうちに現われたので、ようやくに

    氷錨

    アイス・アンカー

    を解いて、西南西の方向に約十二マイルほど進むことが出来たが、またもや一大浮氷に妨げられて、そこに

    余儀

    よぎ

    なく停船することとなった。この氷山は、われわれが後に残してきたいずれもに劣らない巨大なものである。これが全くわれわれの進路を妨害したために、われわれは再び投錨して、氷のとけるのを待つのほかには、どうすることも出来なくなったのである。もっとも、風が吹きつづけさえすれば、おそらく二十四時間以内には氷は解けるであろう。鼻のふくれた海豹数頭が水中に泳いでいるのが見えたので、その一頭を射とめると、十一フィート以上の実に素晴らしいやつであった。かれらは獰猛な喧嘩好きの動物で、優に熊以上の力があるといわれているが、幸いにその動作はにぶく不器用なので、氷の上でかれらを襲ってもほとんど危険というものがない。
     船長はこれが苦労の仕納めだとは全然思っていないようであった。他の船員らはみな奇蹟的脱出をなし得たと考えて、もはや広い大海へ出るのは確実であると思っているのに、なにゆえに船長は事態を悲観的にのみ見ているのか、わたしにはとうてい測り知られないことである。
    「ドクトル。察するに、君はもう大丈夫だと思っているね」と、夕食の後、一緒にいる時に船長は言った。
    「そうありたいものです」と、私は答えた。
    「だが、あまり楽観してはならない。もっとも、たしかなことはたしかだが……。われわれはみな、間もなく自分自分のほんとうの愛人のところへ行かれるのだよ。ねえ、君、そうではないかね。しかしあまり楽観してはならない。……楽観し過ぎてはならないね」
     彼は考え深そうに、その足を前後にゆすりながら、しばらく黙っていた。
    「おい、君」と、彼はつづけた。「ここは危険な場所だよ。一番いい時でも、いつどんな変化があるか分からない危険な場所だ。わしはこんなところで、まったく突然に人がやられるのを知っている。ちょっとした失策の踏みはずしが、時どきそういう結果を惹き起こすのだ。――わずかに一つの失策で氷の裂け目に陥落して、あとには緑の泡が人の沈んだところを示すばかりだ。まったく不思議だね」
     彼は神経質のような笑い方をしながら、なおも語りつづけた。
    「ずいぶん長い間、毎年わしはこの国へ来たものだが、まだ一度も遺言状を作ろうなどと考えたことはない。もっとも、特にあとに残すようなものが何も無いからでもあるが……。しかし人間が危険にさらされている場合には、よろしく万事を処理し、また用意しておくべきだと思うが、どうだね」
    「そうです」と、私はいったい、彼が何を思っているのかと怪しみながら答えた。
    「誰にしたところが、それがみな決めてあると思えば安心するものだ」と、彼はまた言った。「そこで、何かわしの身の上に起こったら、どうかわしに代って君が諸事を処理してくれたまえ。わしの

    船室

    キャビン

    にはたいしたものもないが、まあ、そんなつまらないものでも売り払ってしまって、その代金は鯨油の代金が船員のあいだに分配されるように、平等にかれらに分配してやってくれたまえ。時計は、この航海のほんの記念として、君が取っておいてくれ。もちろん、これは

    ただ

    あらかじめ用心しておくというに過ぎないが、わしはこれをいつか君に話そうと思って、機会を待っていたのだ。もし何かの必要のある場合には、わしは君の

    厄介

    やっかい

    になるだろうと思うがね」
    「まったくそうです」と、私は答えた。「船長さんがこういう手段をとられるからには、わたしもまた……」
    「君は……君は……」と、彼はさえぎった。「君は大丈夫だ。いったい君になんの関係があろうか。わしは短気なことを言ったわけではない。ようやく一人前になったばかりの若い人が、〈死〉などということについて考えているのを、聞いているのは

    いや

    だ。さあ、船室のなかのくだらない話はもうやめにして、甲板へ行って新鮮の気を吸おうではないか。わしもそうして元気をつけよう」
     この会話について考えれば考えるほど、私はますます忌な心持ちになって来た。あらゆる危険を逃がれ得られそうな時に、なぜ遺言などをする必要があるのであろう。彼の気まぐれには、きっと何かの方法があるに相違ない。彼は自殺を考えているのであろうか。私はある時、彼が自己破壊のいまわしい罪であることを、非常に

    敬虔

    けいけん

    な態度で語ったのを記憶している。しかし今の私は、彼から眼を離すまい。その私室へ

    闖入

    ちんにゅう

    することは出来ないにしても、少なくとも彼が甲板にある限りは、私もかならず甲板にとどまっていることにしようと思った。
     ミルン氏は私の恐怖を嘲笑して、それは単に「船長のちょっとした癖」に過ぎないと言っている。彼は

    はなは

    だ事態を楽観しているのである。その言うところによれば、明後日までには、われわれは

    とざ

    された氷から脱出することが出来る。それから二日にしてジャン・メーエンを過ぎ、また一週間ばかりにしてシェットランドが見られるであろうと――。どうか、彼が楽観し過ぎていなければいいがと思う。もっとも彼の意見は、船長の悲観的な考えとは違って、おそらく公平な判断であろう。彼はいろいろの古い経験に富んだ海員であって、なんでも物事をよく熟考した上でなくては、容易に口をきかないという人であるから――。

           六

     長い間、まさに来たらんとしていた不幸の

    大団円

    だいだんえん

    が、ついに来てしまった。私はそれをどう書いていいか、ほとんど分からない。船長は行ってしまった。あるいは彼は再び生きて帰るかもしれない。しかし、おそらく――おそらくそれは絶望であろう。
     今は九月十九日の午前七時である。わたしは何か彼の足跡にでも

    逢着

    ほうちゃく

    することもあるまいかと、水夫の一隊を伴って、終夜前方の氷山を歩きまわったが、それは徒労に終わった。わたしは彼の行くえ不明について、ここに少しく書いてみよう。もし他日これを読む人があったならば、これは臆測や伝聞によって書いたものではなく、正気の、しかも教育あるわたしが、自分の眼前に現に発生したことを正確に記述しているものであることを必ず承知してもらいたい。わたしの推量は――それは単に私自身の推量であるに相違ないが、その事実に対して私はあくまでも責任を持つのである。
     前述の会話の後、船長はまったく元気であった。しかし、しばしばその姿勢を変えたり、彼の癖の舞踏病的な方法でその手足を動かしたりして、神経質そうに

    いら

    いらしているように見えた。彼は十五分間に七たびも甲板へのぼって行った。そうして、二、三歩も大股に急ぎ足で甲板を歩いたかと思うと、また直ぐに降りて来る。わたしはその

    都度

    つど

    について行った。彼の顔の上に、なんとなく不安な影がただよっているのが見えたからである。彼は私のこの

    懸念

    けねん

    をさとったらしく、わたしを安心させようとして

    殊更

    ことさら

    に快活をよそおい、ほんのつまらない冗談にも、わざとからからと笑ったりしてみせた。
     夜食の後、彼は再び船尾の高甲板へ登った。夜は暗く、円材にあたる風のひゅうひゅうという陰気な音を除いては、まったく静寂であった。密雲が北西の方から押し寄せて来て、その雲の投げたあらい

    触角

    しょっかく

    が、月の面を横ぎって流れていた。月はこの雲間を透して時どきに照るのである。船長は足早に往ったり来たりしていたが、私がまだついて来ているのを見て、彼はわたしのそばへ来て、下へ行ったらいいだろうということを、謎かけるように言うのであった。――それは言うまでもなく、甲板にとどまっていようとする私の決心をますます強めるものであった。
     この後、彼は私の存在を忘れたように、黙って船尾の手摺りによりかかって、一部分は暗く、一部分は月の光りにおぼろに輝いている大氷原のあなたを、まじろぎもせずに見詰めていたのである。わたしは彼の動作によって、彼がいくたびか懐中時計をながめているのを見た。彼は一度、何か短い文句をつぶやいたが、ただその中の「もういいよ」という一語しか聴き取れなかった。
     闇に浮かぶ船長の大きい

    朦朧

    もうろう

    とした姿をながめ、さらに彼があたかも

    媾曳

    あいび

    きの約束を守る人がぼんやりと物を考えているような姿で立っているのを見たとき、私は全身にさっと不気味な寒さを感じたことを白状する。しかし、誰との逢いびきであろう。私が一つの事実と他の事実とを

    ぎあわせたとき、あるおぼろげな観念は浮かんで来たけれども、その結論はやはりまとまらないのであった。
     彼が突然に熱狂したような様子を示したので、わたしは当然彼が何かを見たと思った。私はそっとそのうしろに忍び寄ると、彼は船と一直線上をすみやかに飛んでいる霧の圏のようなものを熱心に見つめていた。それは形のない朦朧たる一種の星雲体のもので、それに月の光りがさしたとき、ある時は大きく、ある時は小さく見えるのである。月はこのとき、あたかもアネモネの

    おお

    いのように、極めて薄い雲の天蓋をもって、その光りを

    小暗

    おぐら

    くしていた。
    「ああ、やって来るよ、あの娘が……。ああ、やって来るよ」と、測り知れぬ優しさと、憐れみの籠った声で、船長は叫んだ。
     それはあたかも長いあいだ待ち設けていた愛情をもって、可愛い者を慰めてやるように――。そうしてまた、愛を与えるのは、受けるのと同じく愉快であるといったように――。
     その次のことは、まったく瞬間的に突発したのであって、私には何とも手のくだしようがなかった。彼は舷檣の

    天辺

    てっぺん

    にむかって飛んだ。それから再び飛ぶと、彼はすでに氷の上にあって、かの蒼白い朦朧たる物の足もとに立ったのである。彼はそれを抱くように両手を

    と差し出した。そうして、両方の腕をひろげて、何か色めいた言葉を口にしながら、闇の中へまっしぐらに走り去った。
     わたしは硬くなって突っ立ったままで、その声が遠く消えてしまうまで、闇に吸われてゆく彼の姿を、大きい眼で見送っていた。私は再び彼の姿を見ようとは思わなかった。ところが、その瞬間に月は雲のあいだから

    こう

    こうと輝き

    いで

    て、大氷原の上を照らしたので、わたしは氷原を横切って非常の速力で走ってゆく彼の黒影を、遙かに遠いあなたに認めた。これが、彼に対するわれわれの最後の

    一瞥

    いちべつ

    であった。――おそらく永久にそうであろう。
     間もなく追跡隊が組織されて、私もそれに加わったが、みんなの気が張っていないので、何を見いだすことも出来なかった。数時間以内には、さらにもう一度、捜索が試みられるはずである。私はこれらのことを書きながら、自分は夢でも見ているのか、あるいは何か恐ろしい夢魔にでもおそわれているような心持ちがしてならない。

     午後七時三十分。第二回の船長捜索から、疲れ切ってただいま帰って来た。捜索は不成功である。この氷山は途方もなく広いので、われわれはその上を少なくも二十マイルは歩いたが、行けども行けども果てしがありそうにも思われなかった。寒気は近ごろ非常に厳しいので、氷の上に降り積む雪が

    御影石

    みかげいし

    のように固くなっている。こんなことさえなければ、船長の足跡ぐらいはすぐに見つけられたであろう。
     船員らは

    ともづな

    を解いて、氷山を迂回して南方にむかって船を進めようと、しきりにあせっている。氷も夜のあいだはひらけて、海水は地平線上に見えているからである。かれらは「クレーグ船長はきっと死んでいる。それであるから、われわれに脱出の機会があるにもかかわらず、ここにぐずぐずしているのはくだらなくみんな

    生命

    いのち

    しち

    をするものである」と論じている。ミルン氏とわたしとが大いに尽力して、ようよう明日の晩まで待つように一同を説き伏せたが、その以上はいかなる事情があっても、出発を延期しないと約束させられてしまった。そこで、われわれは数時間の睡眠を取った上で、最後の捜索に出発するように提議したのであった。

     九月二十日、夜。わたしは今朝、氷山の南部を探索に出発し、ミルン氏は北の方へ出発した。十マイル

    乃至

    ないし

    十二マイルの間、およそ生きているものの影というものは全く見られず、ただ一羽の鳥がわれわれの頭の上を高く飛んで行ったばかりである。その飛び方によって、私はそれを

    たか

    だと思った。氷原の南端は狭い

    みさき

    のように、その尖端が細まって海中に突出している。この岬の麓へ来た時に、一行は足を停めてしまった。しかし私はいかなる機会をもおろそかにしなかったという満足を得たかったので、岬の行き止まりまで探して見るようにと、みんなに頼んだ。
     百ヤードほど行くか行かぬに、ピーターヘッドのムドナルドが、われわれの前方に何か見えると叫んで走り出した。われわれもまた、ちらりとそれを見て走り出した。最初はそれが白い氷に対して、ぼんやりと黒く見えただけであったが、近づくにつれてそれは人の形をなして来た。そうして、しまいにはわれわれが捜しているその人の形となって現われたのである。彼は氷の土手にうつむきに倒れていた。多くの小さな

    氷柱

    つらら

    や、雪の小片が、倒れている彼の上に吹きつけて、黒い水兵着の上にきらきらと光っていた。
     われわれが近づいてゆくと、にわかに一陣の旋風がさっと吹いてきて、

    ふん

    ぷんたる雪片を空中に巻き上げたが、その一部は落ちて来て、また再び風に乗って、海の方へすみやかに飛んで行ってしまった。わたしの眼にはそれが単に吹雪としか見えなかったが、同行者の多くの者の眼には、それが婦人の形をして立ち上がり、

    しかばね

    の上にかがんでこれに接吻し、それから氷山を横ぎって急いで飛び去ったように見えたと言うのであった。
     わたしは何事によらず、それがどんなに奇妙に思われても、ひとの意見をけっして嘲笑しないようにこれまで仕馴れてきた。たしかに、ニコラス・クレーグ船長は

    いた

    ましい死を遂げたのではなかったものと思う。彼の青く押し付けたような顔には、輝かしい微笑を含んでいる。そうして、死のあなたに横たわる暗い世界へ彼を招いた不思議の訪問者をとらえるかのように、彼はなお両手を突き出しているのである。
     われわれは彼を船旗に包み、足もとに三十二ポンド弾を置いて、その日の午後に彼を

    ほうむ

    った。わたしが

    弔辞

    ちょうじ

    を読んだとき、荒らくれた水夫はみな子供のように泣いた。それというのも、そこにいる多くの者は彼の親切な心に感じていたのである。そうして、今こそその愛情を示すことが出来たのである。彼の生きている時には例の不思議な癖で、彼はむしろこういう愛情を不快に感じて、いつも拒絶してきたのであった。
     船長の屍は、にぶい寂しい

    飛沫

    しぶき

    をあげて、船の格子を離れていった。わたしは青い水面を凝視していると、その屍は低く低く、遂に永久の暗黒にゆらめく白い小さい斑点となって、それさえもやがて見えなくなってしまった。秘密や、悲哀や、神秘や、あらゆるものを彼の胸にふかく秘めて、復活の日まで彼はそこに横たわっているのであろう。その復活の日には、海はその死者を放ち、わがニコラス・クレーグは笑みをたたえ、かの

    こわ

    ばった腕を突き出して挨拶しながら、氷の間から現われて来るであろう。彼の運命がこの世におけるよりは、あの世においていっそう幸福ならんことを、わたしは

    せつ

    に祈るものである。
     私はもうこの日記をやめにしよう。われわれの帰路は平穏無事であり、大氷原もやがては単に過去の思い出となるであろう。少し経てば、私はこの事件によって受けた

    衝動

    ショック

    に打ち

    つことが出来よう。この航海日誌をつけ始めたとき、私はそれを終わりまで書かなければならないとは考えていなかった。私は人のいない

    船室

    キャビン

    でこれを書いている。今もなお時どきにびくりとしたり、または頭の上の甲板に死んだ人の神経的な

    はや

    跫音

    あしおと

    を聞くように思ったりして――。
     私は今晩、かねて私の義務であったので、公正証書のために彼の動産表を作ろうと思って、船長室へはいってみると、すべての物は以前にはいった時と少しも変わっていなかった。ただ、かの婦人の水彩画だけが――これは船長の寝床のはしにかけられていたと言ったが――ナイフのようなものでその枠から切り取られて、ゆくえ知れずになっていた。これを不思議な証跡の連鎖となるべき最後のものとして、私は「北極星号」のこの航海日誌の筆を

    く。

    (附記)――父のマリスターレー医師の注。――わたしは自分の

    せがれ

    の航海日誌に書かれている、北極星号の船長の死に関する不思議な出来事を通読した。すべての事がまさに記述のごとくに起こったということは、私の十分に信ずるところであり、また実際、最も正確なことである。というのは、彼は真実を語ることには最も慎重な注意を払うものであることを知っている。かつまた、この物語は一見非常に

    曖昧糢糊

    あいまいもこ

    としているところから、私は長い間その出版に反対していたのであるが、二、三日前、この問題について独立的な確実の証拠を握ったので、それによって新らしい光明があたえられることとなった。
     わたしは英国医学協会の会合に出席するために、エジンバラへ行ったことがある。そこでドクトルP氏に出逢った。氏は古い大学の同窓生で、今はデボンシャーのサルタッシに開業しているのである。忰のこの経験談をわたしが物語ると、彼はその人をよく知っていると言った。さらに少なからず驚いたことには、私にかの船長の人相書をあたえた。それは船長がやや少し若く描かれているほかは、この日誌に

    しる

    されたところと、まったく符合しているのである。彼の説明によれば、その船長はコーニッシ海岸に住んでいる非常に美しい若い婦人と

    許嫁

    いいなずけ

    の仲であった。ところが、彼が航海の留守中に、その婦人は奇怪なる恐怖が原因をなして死んでしまったというのであった。


    底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年9月4日初版発行
       2002(平成14)年6月20日新装版初版発行

    廃宅 ホフマン

    世界怪談名作集

    廃宅

    エルンスト・テオドーア・アマーデウス・ホフマン Ernst Theodor Amadeus Hoffmann

    岡本綺堂訳

     諸君はすでに、わたしが去年の夏の大部分をX市に過ごしたことを御承知であろう――と、テオドルは話した。
     そこで出逢った

    大勢

    おおぜい

    の旧友や、自由な快闊な生活や、いろいろな芸術的ならびに学問上の興味――こうしたすべてのことが一緒になって、この都会に私の腰をおちつかせてしまったが、まったく今までにあんなに愉快なことはなかった。わたしは一人で街を散歩して、あるいは飾窓の絵や、塀のビラを眺め、あるいはひそかに往来の人びとの運勢をうらなったりして、私の若い時からの嗜好を満足させていた。
     このX市には、町の門に達する広い並木の通りがあって、美しい建築物が軒をならべていた。いわばこの並木通りは富と流行の集合地である。宮殿のような高楼の階下は、贅沢品を売りつけようとあせっている商店で、その上のアパートメントには富裕な人たちが住んでいた。一流のホテルや外国の使節などの邸宅も、みなこの並木通りにあった。こう言えば、諸君はこうした町が近代的生活と悦楽との焦点になっていることを容易に想像するであろう。
     私はたびたびこの並木通りを散歩しているうちに、ある日、ほかの建築物に

    くら

    べて実に異様な感じのする一軒の家をふと見つけた。諸君、二つの立派な大建築に挟まれて、幅広の四つの窓しかない低い二階家を心に描いてごらんなさい。その二階はとなりの階下の天井より僅かに少し高いくらいで、しかも荒るるがままに荒れ果てた屋根や、ガラスの代りに紙を貼った窓や、色も何も失っている塀や、それらが何年もここに手入れをしないということを物語っていた。
     これが富と文化の中心地のまんなかに立っているのであるから、実に驚くではないか。よく見ると、二階の窓に堅くドアを閉め切ってカーテンをおろしてあるばかりか、往来から階下の窓を覗かれないように塀を作ってあるらしい。隅の方についている門が入り口であろうが、掛け金や錠前らしいものもなければ、

    呼鈴

    ベル

    さえもない。これは

    空家

    あきや

    に相違ないと私は思った。一日のうち、なんどきそこを通っても、家内に人間が住んでいるらしい様子は更に見えなかった。
     私がしばしば不思議な世界を見たと言って、自分の透視眼を誇っていることは、どなたもよく御承知であろう。そうして、諸君はそんな世界を常識から観て、あるいは否定し、あるいは一笑に付せらるるであろう。私自身もあとになって考えると、それが一向不思議でもなんでもないことを発見するような実例がしばしばあったことを、白状しなければならない。そこで今度も最初のうちは、私をおどろかすようなこの異様な廃宅もまた、いつもの例ではないかと考えたのである。しかしこの話の要点を聞けば、諸君もなるほどとうなずかれるに相違ない。まずこれからの話をお聴きください。
     ある日、当世風の人たちがこの並木通りを散歩する時刻に、私は例によってこの

    廃宅

    はいたく

    の前に立って、じっと考え込んでいると、私のそばへ来て私を見つめている人のあることを突然に感じた。その人はP伯爵であった。伯爵は私にむかって、この空家はとなりの立派な菓子屋の工場である、階下の窓の塀はただ

    かまど

    のためにこしらえたもので、二階の窓の厚いカーテンは商売物の菓子に日光が当たらないようにおろしてあるまでのことで、別になんの秘密があるわけでは無いと教えてくれた。
     それを聞かされて、私はバケツの冷たい水をだしぬけにぶっかけられたように感じた。しかし、それが菓子屋の工場であるというP伯爵の話を何分にも信用することが出来なかった。それはあたかもお

    伽噺

    とぎばなし

    を聞いた子供が、本当にあったことだと信じていながらも、ふとした気まぐれにそれを嘘だと思ってみるような心持ちであった。しかし私は自分が馬鹿であるということに気がついた。かの家は依然としてその外形になんの変化もなく、いろいろの空想は自然に私の頭の中から消えてしまった。ところが、ある日偶然の出来事から再び私の空想が働き出すようになったのである。
     私はいつもの通りにこの並木通りを散歩しながら、かの廃宅の前まで来ると、無意識に二階のカーテンのおりている窓をみあげた。その時、菓子屋の方に接近している最後の窓のカーテンが動き出して、片手が、と思う間に一本の腕がその

    ひだ

    の間から現われた。私は早速にポケットからオペラグラスをとり出して見ると、実に肉付きのよい美しい女の手で、その小指には大きいダイヤモンドが異様にかがやき、その白いふくよかな腕には宝石をちりばめた

    腕環

    うでわ

    がかがやいていた。その手は妙な形をしたひょろ長いガラス

    びん

    を窓の張り出しに置いて、再びカーテンのうしろへ消えてしまった。
     それを見て、わたしは石のように冷たくなって立ち停まったが、やがて極度の愉快と恐怖とが入りまじったような感動が電流の温か味をもって、からだじゅうを流れ渡った。私はこの不思議な窓を見あげているうちに、おのずと心の奥から希望の溜め息があふれ出してきたのである。しかも再び我れにかえってみると、私の周囲には物珍らしそうな顔をして、かの窓をみあげている見物人がいっぱいに突っ立っているではないか。
     私は腹が立ったので、誰にも覚られないように、その人垣をぬけてしまった。すると、今度は常識という平凡きわまる悪魔めが私の耳のそばで、おまえが今見たのは日曜日の

    晴着

    はれぎ

    を着た金持の菓子屋のおかみさんが、

    薔薇

    ばら

    香水か何かをこしらえるために使ったあきびんを窓の張り出しに置いただけのことだとささやき始めた。考えてみると、あるいはそうかもしれない。しかもそのとたんに、非常な名案が浮かんだので、私は

    みち

    を引っ返して、鏡のように磨き立てた菓子屋の店へはいった。まずチョコレートを一杯注文して、それを

    ゆう

    ゆうと飲みながら、私は菓子屋の職人に言った。
    「君は隣りにうまい建物を持っているじゃあないか」
     相手は私の言葉の意味がわからないと見えて、帳場に寄りかかりながら

    怪訝

    けげん

    らしい微笑を浮かべて私を見ているので、私はあの空家を工場にしているのは

    悧口

    りこう

    なやりかただと、私の意見をくり返して言った。
    「ご冗談でしょう、旦那。いったい隣りの家がわたしたちの店の物だなんて、誰からお聞きになったんです」と、職人は口を切った。
     わたしが探索の計画は不幸にして失敗したのである。しかし、この男の言葉から察すると、あの空家には何かの

    いわ

    くがあるらしいような気もするのであった。諸君は私がこの男から、かの廃宅について左のような話を聞き出して、どんなに愉快を感じたかを想像することが出来るであろう。
    「わたしもよくは知りませんが、なんでもあの家はZ伯爵の持ち物だということだけはたしかです。伯爵の令嬢は当時ご領地の方に住んでいて、もう何年もここへお見えになりません。人の話を聞くと、あの家もまだ当今のような立派な建物ができない昔には、なかなか洒落たお邸で、この並木通りの名物だったそうでしたが、今じゃあもう何年となく空家同様に打っちゃらかしてあるんです。それでもあすこには、人に逢うのが嫌いだという偏屈な執事の

    じい

    さんと、馬鹿に不景気な犬がいましてね。犬の奴め、時どきに裏の庭で月に

    え付いていますよ。世間じゃあ幽霊が出るなんて言っていますが、実のところ、この店を持っているわたしの兄貴とわたしとが、まだ人の寝しずまっている頃から起きて、菓子の

    こしら

    えにかかっていると、塀の向う側で変な音のするのを毎日聞くことがありますが、それがごろごろというように響くかと思うと、また何か掻きむしるような音がして、なんともいえない

    いや

    な心持ちがしますよ。ついこの間なども、変な声でなんだか

    得体

    えたい

    のわからない唄を歌っていました。それがたしかに婆さんの声らしいんですけれど、そのまた調子が途方もなく

    甲高

    かんだか

    で、わたしもずいぶんいろいろの国の歌い手の唄を聴いたことがありますが、今まであんな調子の高い声は聴いたことがありません。自然に身の毛がよだってきて、とてもあんな気ちがいじみた化け物のような声をいつまで聴いてはいられなかったので、よくはっきりとはわかりませんが、どうもそれがフランス語の唄のように思われました。それからまた、往来のとぎれた真夜中に、この世のものとは思われないような深い溜め息や、そうかと思うと、また気ちがいのような笑い声がきこえてくることもあるんです。なんなら、旦那。わたしの家の奥の部屋の壁に耳を当ててごらんなさい。きっと隣りの家の音がきこえますよ」
     こう言って、彼はわたしを奥の部屋へ案内して、窓から隣りを指さした。
    「そこの塀から出ている煙突が見えましょう。あの煙突から時どき猛烈に煙りを

    き出すので、どうも火の用心が悪いといって、

    うち

    の兄貴がよくあの執事と喧嘩をすることがあるんです。それがまた、冬ばかりじゃあない、てんで火の気なんぞのいらないような真夏でさえもなんですからね。あの

    老爺

    じじい

    は食事の支度をするんだと言っているんです。あんな

    獣物

    けだもの

    が何を食うんだか知りませんけれど、煙突から煙りがひどく出るときには、いつでも家じゅうに変な匂いがするんですよ」
     ちょうどその時に店のガラス戸があいたので、菓子屋の職人は急いで店の方へ出て行って、今はいって来た客に挨拶しながら、ちらりと私の方を見かえって眼顔で合図したので、私はすぐにその客が例の不思議な邸の執事であることを直覚した。鷲鼻で、口を一文字に結んで、猫のような眼をして、薄気味の悪い微笑を浮かべて、

    木乃伊

    みいら

    のような顔色をしている、痩形の小男を想像してごらんなさい。さらに彼はその髪に古風な高い

    かもじ

    を入れて、その先きをうしろに垂らした上に、こてこてと髪粉をつけ、ブラシはよく掛けてあるがもうよほどの年数物らしい褐色の

    上衣

    うわぎ

    をきて、灰色の長い靴下に、バックルのついた爪さきの平たい靴をはいている。彼は痩せているにもかかわらず、すこぶる頑丈な骨ぐみをして、手は大きく、指は長く、かつ

    節高

    ふしだか

    で、しっかりした足取りで帳場の方へ進んで行ったが、やがてどことなく間のぬけたような笑いを見せながら「砂糖漬けのオレンジを二つと

    巴旦杏

    はたんきょう

    を二つと、砂糖のついた栗を二つ」と鼻声で言う、この小男の老人の姿をこころに描いてごらんなさい。
     菓子屋の職人は私に微笑を送りながら、老人の客に話しかけた。
    「どうもあなたはお加減がよろしくないようですね。これもお年のせいとでもいうんでしょうな。どうもこの年というやつは、われわれのからだから力を吸い取るんでね」
     老人はその顔色を変わらせなかったが、その声を張りあげた。
    「年のせいだと……。年のせいだと……。力がなくなる……。弱くなる……。おお……」
     彼はその関節が砕けるかと思うばかりに両手を打ち鳴らすと、店全体がびりびりと震えて、棚のガラス器や帳場はがたがたと揺れた。それと同時に、ものすごい叫び声がきこえたので、老人は自分のあとからついて来て足もとに寝ころんでいる黒犬に近寄った。
    「畜生! 地獄の犬め」
     例の哀れな調子で

    うな

    るように呶鳴りながら、栗一つを袋から出して犬に投げてやると、かれは人間のような悲しそうな声を出したが、急におとなしく坐って、

    栗鼠

    りす

    のようにその栗をかじり始めた。やがて犬が小さな御馳走を平らげてしまうと、老人もまた自分の買物を済ませた。
    「さようなら」と、老人はあまりの痛さに相手が思わずあっと言ったほどに、菓子屋の職人の手を強く握りしめた。「弱い年寄りは、おまえさんがいい夢をみるように祈っているよ、お隣りの大将」
     老人は犬を連れて出て行った。彼は私に気がつかないらしかった。私はあきれたようにただ

    茫然

    ぼうぜん

    と見送っていると、職人はまた話し出した。
    「どうです、ごらんの通りです。月に二、三度ここへ来るたびに、いつもきまってあんなふうなんです。あの

    じい

    さんについていくら探してみても、以前はZ伯爵の従者で、今はあの邸の留守番をして、何年もの長い間、主人一家の来るのを待っているのだということだけしか分からないんです」
     時はあたかも町の贅沢な人たちが一種の流行で、この綺麗な菓子屋へあつまって来る刻限になってきたので、入り口のドアは休みなしにあいて、店の中ががやがやし始めたので、私はもうこれ以上にたずねるわけにはゆかなくなった。

     わたしはさきにP伯爵があの廃宅について話したことが全然嘘であることを知った。あの人嫌いの老執事は不本意ながらも他の人間と一緒に住んでいて、その古い壁のうしろには何かの秘密が隠されているということを知った。それにしても、あの窓ぎわの美しい女の腕と、気味の悪い不思議な唄の声のぬしとをどう結び付けたものであろうか。あの腕が年を取った女の

    しわ

    だらけのからだの一部であろうはずがない。しかし菓子屋の職人の話では、唄の声は若い血気盛りの女性の喉から出るものでもないらしい。わたしはそれを

    贔屓眼

    ひいきめ

    に見て、これはきっと音楽の素養によって若い女がわざと年寄りらしい声を作ったものか、あるいは菓子屋の職人が恐怖のあまりに、そんなふうに聞き誤まったのではないかと、判断をくだしてみた。
     しかし、かの煙突の煙りのことや、異様な匂いや、妙な形のガラス壜のことが心に

    かんだとき、宿命的な魔法の

    呪縛

    じゅばく

    にかかっている美しい一人の女の姿が、生けるがごとくにわたしの幻影となって現われてきた。そうして、かの執事は伯爵家とはまったく無関係の魔法使いで、あの廃宅のうちに何か魔法の

    かまど

    を作っているのではないかとも思われてきた。わたしのこうした空想はだんだんに

    たく

    ましくなって、その晩の夢に、かのダイヤモンドのきらめく手と、腕環のかがやく腕とを、ありありと見るようになった。薄い灰色の

    もや

    のうちから哀願しているような青い眼をした、可憐な娘の顔が見えたかと思うと、やがてその優しい姿があらわれた。そうして、わたしが靄だと思ったのは、まぼろしの女の手に握られているガラス壜のうちから、輪を作って湧き出している美しい煙りであった。
    「ああ、わたしの夢に現われてきた美しいお嬢さん」と、わたしは張りさけるばかりに叫んだ。「あなたはどこにいるのです。何があなたを呪縛しているのです。それをわたしに教えてください。いや、私はみな知っています。あなたを監禁しているのは、腹黒い魔法使いです。八分の五の調子で悪魔の唄を歌ったあとで、褐色の着物に

    仮髪

    かつら

    をつけて、菓子屋の店をうろつきあるいて、自分たちの食いものを素早く掻きあつめ、栗をもって悪魔の弟子の犬めを飼っている、あの意地悪な魔法使いに

    とら

    われて、あなたは不運な

    奴隷

    どれい

    となっているのです。美しい、愛らしいまぼろしのあなたよ、わたしは何もかも知っています。あのダイヤモンドはあなたの情火の反映です。しかもあの腕にはめている腕環こそは、あなたを縛る魔法の

    くさり

    です。その腕環を信じてはいけません。もう少し我慢なさい。きっと自由の身になれます。どうぞあなたの薔薇の

    つぼみ

    のような口をあいて、あなたの居どころを教えてください」
     このとき節くれ立った手がわたしの肩越しにあらわれて、たちまちガラス壜をたたきつけたので、壜は空中で微塵にくだけて散乱し、弱い悲しそうなうめき声とともに、可憐の幻影はたちまち闇のうちに消え失せた。

     夜が明けて、わたしは夢から醒めると、急いで並木通りへ行って、いつものようにそれとなく例の廃宅を窺っていると、菓子屋に接した二階の窓にぴかりと何か光ったものがあった。近寄ってみると

    鎧戸

    よろいど

    があいて、細目にあけたカーテンの

    隙間

    すきま

    からダイヤモンドの光りがわたしの眼を射た。
    「や、しめたぞ」
     夢のうちで見たかの娘が、ふくよかな腕に頭をもたせかけながら、しとやかに哀願するように私の方を見ているではないか。しかし、この激しい往来なかに突っ立っていると、またこの間のように人目に立つおそれがあるので、わたしはまず家の真正面にある歩道のベンチに腰をかけて、しずかに不思議な窓を見守ると、彼女はたしかに夢の女であるが、わたしの方を見ていると思ったのは間違いで、彼女はどこを見るともなしにぼんやりと下を見おろしているのであった。その

    まな

    ざしはいかにも冷やかで、もし時どきに手や腕を動かさなかったらば、わたしはよく描けている画を見ているのではないかと思うくらいであった。
     私はこの窓の神秘的な女性にたましいを奪われてしまって、私のそばへ押し売りに来たイタリー人の物売りの声などは耳に入らないほどに興奮していた。そのイタリー人はとうとう私の腕をたたいたので、私ははっと我れにかえったが、あまりに

    いま

    いましかったので、おれにかまうな、あっちへ行けと言ってやったが、まだ口明けだからと

    執拗

    しつこ

    く言うので、早く追い払おうと思ってポケットの金を出しにかかると、彼は言った。
    「旦那。こんなに素敵な物があるんです」
     彼は箱の

    抽斗

    ひきだし

    から小さな円い懐中鏡をとり出して、わたしの鼻のさきへ突きつけたので、なんの気もなしに見かえると、その鏡のなかには廃宅の窓も、かのまぼろしの女の姿も、ありありと映っているではないか。
     私はすぐにその鏡を買った。そうして、鏡のなかの彼女の姿を見れば見るほど、だんだんに不思議な感動に打たれてきた。じっと

    ひとみ

    をこらして鏡のなかを見つめていると、さながら嗜眠病がわたしの視力を狂わせてしまったようにも思われてきた。まぼろしの女はとうとうその美しい眼をわたしの上にそそいだ。その柔らかい眼の光りがわたしの心臓にしみとおってきた。
    「あなたは可愛らしい鏡をお持ちですな」
     こういう声に夢から醒めて、わたしは鏡から眼を離すと、わたしの両側には微笑をうかべながら私を眺めている人たちがあるので、私もすこぶる面喰らってしまった。かの人たちはわたしと同じベンチに腰をかけて、おそらく私が妙な顔をして鏡をながめているのをおもしろがって見物していたのであろう。
    「あなたは可愛らしい鏡をお持ちですな」
     私がさきに答えなかったので、その人は再びおなじ言葉をくりかえした。
     しかも、その人の眼つきはその言葉よりも更に雄弁に、どうしておまえはそんな気違いじみた眼つきをしてその鏡に

    見惚

    みと

    れているかと、わたしに問いかけているのであった。その男はもう初老以上の年輩の紳士で、その

    声音

    こわね

    や眼つきがいかにも温和な感じをあたえたので、私は彼に対して自分の秘密を隠してはいられなくなった。私はかの窓ぎわの女を鏡に映していたことを打ち明けた上で、あなたもその美しい女の顔を見なかったかと訊いた。
    「ここから……。あの古い邸の二階の窓に……」
     その老紳士は驚いたような顔をして、

    鸚鵡

    おうむ

    がえしに問いかえした。
    「ええ、そうです」と、私は大きい声を出した。
     老紳士は笑いながら答えた。
    「や、どうも、それは不思議な妄想ですな。いや、こうなると私の老眼を神様に感謝せざるを得ませんな。なるほど私もあの窓に可愛らしい女の顔を見ましたがね。しかし、私の眼には非常に上手な油絵の肖像画としか見えませんでしたがね」
     わたしは急いで振り返って、窓の方をながめると、そこには何者もいないばかりか、鎧戸もしまっていた。
     老紳士は言葉をつづけた。
    「惜しいことでしたよ。もうちっと早ければようござんしたに……。ちょうどいま、あの邸にたった一人で住んでいる老執事が、窓の張り出しに油絵を立てかけて、その

    塵埃

    ほこり

    を払って、鎧戸をしめたところでした」
    「では、ほんとうに油絵だったのですか」と、私はどぎまぎしながら訊きかえした。
    「ご安心なさい」と、老紳士は言った。「わたしの眼はまだたしかですよ。あなたは鏡に映った物ばかり見つめていられたから、よけいに眼が変になってしまったのです。私もあなたぐらいの時代には、よく美人画を思い出しただけで、大いに空想を描くことができたものでした」
    「しかし、手や足が動きました」と、わたしは叫んだ。
    「そりゃ動きました。たしかに動きましたよ」
     老紳士はわたしの肩を軽く叩いて、

    ちあがりながら丁寧にお辞儀をした。
    「本物のように見せかける鏡には、気をつけたほうがようござんすよ」
     こう言って、彼は行ってしまった。
     あのおやじめ、おれを馬鹿な空想家扱いにしやあがったなと、こう気がついた時の私の心持ちは、おそらく諸君にもわかるであろう。わたしは腹立ちまぎれに我が家へ飛んで帰って、もう二度とあの廃宅のことは考えまいと心に誓った。しかし、かの鏡はそのままにして、いつもネクタイを結ぶときに使う鏡台の上に

    ほう

    り出しておいた。
     ある日、わたしがその鏡台を使おうとして、なんの気もなしにかの鏡に眼を留めると、それが曇っているように見えたので、手に取って息を吹きかけて

    こうとする時、私の心臓は一時に止まり、わたしの細胞という細胞が嬉しいような、怖ろしいような感激におののき出した。私がその鏡に息を吹きかけた時、むらさきの靄の中から、かのまぼろしの女がわたしに笑いかけているではないか。諸君は、わたしを

    しょう

    のない夢想家だと笑うかもしれないが、ともかくもその靄が消えるとともに、彼女の顔も

    玲瓏

    れいろう

    たる鏡のなかへ消え失せてしまったのである。

     それから幾日のあいだの私の心持ちを今更くどく説明して、諸君を退屈させることもあるまい。ただそのあいだに私はいくたびか、かの鏡に息をかけてみたが、まぼろしの女の顔が現われる時と現われない時とがあったことだけを断わっておきたい。
     彼女を呼び起こすことの出来ない時には、私はいつも、かの廃宅の前へ飛んで行って、その窓を眺め暮らしていたが、もうそこらには人らしいものも見当たらなかった。私はもう友達も仕事もまったく振り捨てて、朝から晩まで気違いのようになって、まぼろしの女のことを思いつめていた。こんなくだらないことはやめようと思いながらも、それがどうもやめられないのであった。
     ある日、いつもより激しくこの幻影におそわれた私は、かの鏡をポケットに入れると、精神病の大家のK博士のもとへ急いで行った。わたしは一切の話を包まず打ち明けて、この怖ろしい運命から救ってくれと哀願すると、静かに私の話を聴いていた博士の眼にも、一種の

    驚愕

    おどろき

    の色がひらめいた。
    「いや、そう御心配のことはないでしょう。まあ、私の考えではじきに

    なお

    ると思いますよ。あなたは自分から魔法にかかっていると思い込んで、それと戦おうとしているがために、かえって妄念が起こるのです。まずあなたのその鏡を私のところへ置いていって、専心にお仕事に没頭なさるようにお努めなさい。そうして、忘れても並木通りへは足を向けないようにして、一日の仕事をしてから長い散歩をしては、お友達の一座と楽しくお過ごしなさい。食事は十分に

    って、営養のゆたかな葡萄酒をお飲みなさい。これから私は、その廃宅の窓や鏡に現われる女の顔の執念ぶかい幻影と戦って、あなたを心身ともに丈夫にしてあげるつもりですから、あなたも私の味方をする気になって、わたしの言う通りを守って下さい」と、博士は言った。
     

    しぶ

    しぶながらに鏡を手放した私の態度を、博士はじっと見ていたらしかった。それから博士はその鏡に自分の息を吹きかけて、それを私の眼の前へ持って来た。
    「何か見えますか」
    「いいえ、なんにも」と、私はありのままを答えた。
    「では、今度はあなた自身がこの鏡に息をかけてごらんなさい」と、博士はわたしの手に鏡をわたした。
     わたしは博士の言う通りにすると、女の顔が鏡のなかにありありと現われて来た。
    「あっ。女の顔が……」という私の叫び声に、博士は鏡のなかを見て言った。
    「私にはなんにも見えませんね。しかし実を言うと、鏡を見たときに私もなんとなくぶるぶる

    悪寒

    さむけ

    がしました。もっとも、すぐになんでもなくなりましたが……。では、もう一度やって見てください」
     私はもう一度その鏡に息を吹きかけると、そのとたんに博士はわたしの

    くび

    のうしろへ手をやった。女の顔は再び現われた。わたしの肩越しに鏡に見入っていた博士はさっと顔色を変えて、私の手からその鏡を奪うように引っ取って、細心にそれを

    あらた

    めていたが、やがてそれを机の

    抽斗

    ひきだし

    に入れて錠をかけてしまった。それからしばらく考えたのちに、彼はわたしの所へ戻って来た。
    「では、早速にわたしの指図通りにして下さい。実のところ、どうもまだあなたの幻影の根本が呑み込めないのですが、まあ、なるたけ早くあなたにそれを知らせることが出来るようにしたいと思っています」と、博士は言った。
     博士の命令どおりに生活するのは、私にとって困難なことではあったが、それでも無理に実行すると、たちまちに規則正しい仕事と営養物の効果があらわれて来た。それでもまだ昼間も――静かな真夜中には特にそうであったが――怖ろしい幻影に襲われることもあり、愉快な友達の一座にいて、酒を飲んだり、歌を唄ったりしている時ですらも、

    けただれた

    匕首

    あいくち

    がわたしの心臓に突き透るように感じる時もあった。そういう場合には、わたしの理性の力などは何の役にも立たないので、よんどころなくその場を引き退がって、その昏睡状態から醒めるまでは再び友達の前へ出られないようなこともあった。
     ある時、こういう

    発作

    ほっさ

    が非常に猛烈におこって、かの幻影に対する不可抗力的の憧憬がわたしを狂わせるようになったので、私は往来へ飛び出して不思議な家の方へ走ってゆくと、遠方から見た時には、固くとじられた鎧戸の隙間から光りが洩れているらしく思われたが、さて近寄って見ると、そこらはすべて真っ暗であった。わたしはいよいよ取りのぼせて入り口のドアに駈けよると、そのドアはわたしの押さないうちにうしろへ倒れた。重い息苦しい空気のただよっている玄関の、うす暗い灯のなかに突っ立って、私は異常の怖ろしさと

    苛立

    いらだ

    たしさに胸をとどろかせていると、たちまちに長い鋭いひと声が家のなかでひびいた。それは女の

    のど

    から出たらしい。それと同時に、わたしは封建時代の

    金色

    こんじき

    の椅子や日本の骨董品に飾り立てられて、まばゆいばかりに照り輝いている大広間に立っていることを発見した。わたしのまわりには強い

    かお

    りが紫の

    もや

    となってただよっていた。
    「さあ、さあ、

    花聟

    はなむこ

    さま。ちょうど、結婚の時刻でござります」
     女の声がした時に、私は定めて盛装した若い清楚な貴婦人が紫の靄のなかから現われて来るものと思った。
    「ようこそ、花聟さま」と、ふたたび金切り声がひびいたと思う

    刹那

    せつな

    、その声のぬしは腕を差し出しながら私のほうへ走って来た。寄る年波と狂気とで

    みにく

    くなった黄色い顔がじっと私に見入っているのである。私は怖ろしさのあまりに後ずさりをしようとしたが、蛇のように

    けい

    けいとした鋭い彼女の眼は、もうすっかり私を呪縛してしまったので、この怖ろしい老女から眼をそらすことも、身をひくことも出来なくなった。
     彼女は一歩一歩と近づいて来る。その怖ろしい顔は仮面であって、その下にこそまぼろしの女の美しい顔がひそんでいるのではないかという考えが、

    稲妻

    いなずま

    のように私の頭にひらめいた。その時である。彼女の手が私のからだに触れるか触れないうちに、彼女は大きい唸り声を立てて私の足もとにばたりと倒れた。
    「はははは。

    悪性者

    あくしょうもの

    めがおまえの美しさにちょっかいを出しているな。さあ、寝てしまえ、寝てしまえ。さもないと

    むち

    だぞ。手ひどいやつをお見舞い申すぞ」
     こういう声に、私は急に振り返ると、かの老執事が寝巻のままで頭の上に鞭を振り廻しているではないか。老執事はわたしの足もとに唸っている彼女を、あわやぶちのめそうとしたので、私はあわててその腕をつかむと、老執事は振り払った。
    「悪性者め、もしわしが助けに来なければ、あの老いぼれの悪魔めに喰い殺されていただろうに……。さあ、すぐにここを出て行ってもらおう」と、彼は呶鳴った。
     わたしは広間から飛んで出たが、なにしろ真っ暗であるので、どこが出口であるか

    見当

    けんとう

    がつかない。そのうちに私のうしろでは、ひゅうひゅうという鞭の音がきこえて、女の叫び声がひびいて来た。
     たまらなくなって、私は大きい声を出して救いを求めようとした時、足もとの床がぐらぐらと揺れたかと思うと、階段を四、五段もころげ落ちて、いやというほどにドアへ叩きつけられながら、小さい部屋のなかへ

    俯伏

    うつぶ

    せに倒れてしまった。そこには今あわてて飛び出したらしい

    から

    の寝床や、椅子の背に掛けてある褐色の

    上衣

    うわぎ

    があるので、私はすぐにここが老執事の寝室であることをさとった。すると、あらあらしく階段を駆け降りて来た老執事は、いきなり私の足もとにひれ伏して言った。
    「あなたがどなたさまにもしろ、また、どんなことをしてあの

    下司女

    げすおんな

    の悪魔めがあなたをこの邸内へ誘い込んだにもしろ、どうぞここで起こった出来事を誰にもおっしゃらないでください。わたくしの地位にかかわることでございます。あの気違いの夫人は懲らしめのために、寝床にしっかりと縛りつけておきました。もうすやすやと睡っております。今晩は暖かい七月の晩で、月はございませんが、星は一面にかがやいております。では、お

    やす

    みなさい」
     彼はわたしに哀願したのち、ランプを取って部屋を出て、私を門の外へ押し出して錠をおろしてしまった。わたしは気違いのようになって我が家へ急いで帰ったが、それから四、五日は頭がすっかり変になって、この恐ろしい出来事をまったく考えることが出来なかった。ただ、あんなに長い間わたしを苦しめていた魔法から解放されたということだけは、自分にも感じられた。したがって、かの鏡に現われた女の顔に対する私の憧憬の熱もさめ、かの廃宅における怖ろしかった光景の記憶も、単に何かの拍子に

    瘋癲

    ふうてん

    病院を訪問したぐらいの追憶になってしまった。
     かの老執事が、この世の中からまったく隠されている高貴な狂夫人の暴君的な監視人であることは、もう疑う余地もなかった。それにしても、あの鏡はなんであろう。今までのいろいろの魔法はなんであろう。まあ、これから私が話すことを聴いてください。

     それからまた四、五日ののち、わたしはP伯爵の夜会にゆくと、伯爵は私を片隅に引っ張って来て、「あなたはあの廃宅の秘密が洩れ出したのをご存じですか」と、微笑を浮かべながら話しかけた。
     私はこれに非常に興味を感じて、伯爵がそのあとをつづけるのを待っていると、惜しいことにちょうど食堂が開かれたので、伯爵もそのまま黙ってしまった。私も伯爵の言葉を夢中になって考えながら、ほとんど機械的に相手の若い娘さんに腕をかして、社交的な行列のなかに加わった。
     そうして、私は定められた席へその娘さんを導いてから、はじめてその娘さんの顔をみると、いや、驚いた、かのまぼろしの女がわたしの眼の前に突っ立っているではないか。私は心の底まで

    ふる

    えあがったが、かの幻影に悩まされていた当時のように、気違いじみた憧憬は少しも起こって来なかった。それでも相手の娘さんがびっくりしたように私の顔をじいっと眺めているのを見ると、私の眼にはやはり

    恐懼

    きょうく

    の色が現われていたに相違なかった。私はやっとのことで気をしずめると、てれ隠しに、あなたには以前どこかでお目にかかったような気がしますがと言うと、意外にも、生まれてから初めてきのうこのX市に来たばかりですと、相手にあっさりと片づけられてしまったので、私の頭はよけいに混乱して、婦人に不作法ではあったが、そのままに黙っていた。しかも彼女の優しい眼で見られると、わたしは再び勇気が出て、この新しい相手の娘さんの心の動きを観察してみたいような気にもなってきた。たしかにこの娘さんは、可愛らしいところはあるが、何か心に

    屈託

    くったく

    がありそうにも見えた。おたがいの話がだんだんはずんできた時分に、わたしは大胆に

    辛辣

    しんらつ

    な言葉を時どきに用いると、いつも微笑していたが、その蔭にはあたかも傷口に触れられた時のような苦悩がひそんでいるようであった。
    「お嬢さん、今夜は馬鹿にお元気がないようですが、けさお着きでしたか」と、私のそばに坐っていた士官がその娘さんに声をかけた。
     その言葉がまだ終わらないうちに、彼のとなりにいる男が士官の腕をつかんで何かその耳にささやいた。すると、また食卓の反対の側では、ひとりの婦人が興奮して顔をまっかにしながら、ゆうべ観て来た歌劇の話を大きな声で語り始めた。こうした愉快そうな環境が彼女の淋しい心にどう響いたのか、その娘さんの眼には涙がこみあげてきた。
    「わたし、馬鹿ですわね」と、彼女はわたしの方を向いて言った。それからしばらくして彼女は頭痛がすると言い出した。
    「なァに、ちょっとした神経性の頭痛でしょう。この甘美な、詩人の飲料(シャンパン酒)の泡のなかでぶくぶくいっている快活なたましいほど、よく

    く薬はありませんよ」と、私は心安だてにこう言いながら、彼女のグラスにシャンパンを一杯に注いでやると、彼女はちょっとそれに

    くち

    をつけて、わたしのほうに感謝の眼を向けた。
     彼女の気分は引き立ってきたらしく、このままでいったら何もかも愉快に済んだかもしれなかったのであるが、私のシャンパン・グラスがふとしたはずみで彼女のグラスと触れた刹那、彼女のグラスから異様な

    甲高

    かんだか

    い音が発したので、彼女もわたしも急に顔色を変えた。それはかの廃宅の気違い女の声の響きとまったく同様であったからであった。
     コーヒーが出てから、私はうまく機会を作ってP伯爵のそばへ行くと、伯爵は私のこの行動を早くもさとっていた。
    「あなたは隣りの婦人がエドヴィナ伯爵家の令嬢であることを知っていますか。それから、長いあいだ不治の精神病に苦しみながらあの廃宅に住んでいるのが、あの娘さんの伯母であるということを知っていますか。あの娘さんは、けさ母親と一緒に不幸な伯母に逢いに来たのです。あの狂夫人の暴れ狂うのを鎮めることの出来るものは、かの老執事のほかになかったのですが、そのただひとりの人間がにわかに重病にかかったというわけです。なんでもあの娘さんの母親はK博士に伺って、あの家の秘密を打ち明けたそうですよ」
     K博士――その名はすでに諸君も御承知のはずである。そこで言うまでもなく、私は少しも早くその謎を解くために博士の宅を訪問して、私の安心が出来るように、くわしくかの狂女の話をしてくれと頼んだ。以下は、秘密を守るという約束で、博士がわたしに話してくれた物語である。

     アンジェリカ――Z伯爵令嬢はすでに三十の坂を越えていたが、まだなかなかに美しかったので、彼女よりもずっと年下のエドヴィナ伯爵は熱心に自分の恋を打ち明けた。そうして、二人はその運だめしに父Z伯の邸へ行くことになった。ところが、エドヴィナ伯爵はその邸へはいってアンジェリカの妹をひと目見ると、姉の容色が急に

    せてきたように思われて、彼女に対する熱烈な恋は夢のように

    めてしまい、さらに妹のガブリエルとの結婚を父の伯爵に申し込んだのである。Z伯爵は妹娘もエドヴィナ伯爵を憎く思っていないのを知って、すぐに二人の結婚を許した。
     姉のアンジェリカは男の裏切りを非常に

    うら

    んだが、表面はいかにも彼を軽蔑したように、「なァに、伯爵はわたしの鼻についた

    玩具

    おもちゃ

    であったということをご存じないんだわ」と言っていた。しかもガブリエルとエドヴィナ伯爵の婚約式が済んでからは、アンジェリカは一家の

    団欒

    だんらん

    の席に顔をみせないことも少なくなかった。それのみならず、彼女は食堂にも出ないで、ほとんど一日を森の中の独り歩きに暮らしていた。
     ここに一つの異様な事件がこの城における単調な生活を破った。ある日、村の百姓のうちから選抜されたZ伯爵家の

    猟人

    かりうど

    らが、最近にとなりの領地で殺人や窃盗をもって告訴されたジプシーの一団を捕縛して、男たちは鎖につなぎ、女子供は馬車に乗せて城の中庭へ引っ立てて来た。女のジプシーの群れの中では、頭から足のさきまで真っ赤な肩掛を着た一人のひょろ長い、痩せこけた、ものすごい顔の老婆がすぐに目についた。その老婆は馬車のなかに立って、いかにも

    横柄

    おうへい

    な声で自分を馬車から降ろせと命令するように言い放つと、その態度に恐れをなして、伯爵の家来たちはすぐにその老婆を降ろしてやった。
     Z伯爵は中庭へ降りて来て、この囚人団を城の地下室の牢獄へ繋ぐように命じた。そのとたんに、髪を乱し、恐怖の色をその顔にみなぎらしたアンジェリカが邸の内から走り出て、父の足もとにひざまずいた。
    「あの人たちを

    ゆる

    してやってください、お父さま。あの人たちを赦してやってください。もしお父さまがあの人たちの血一滴でもお流しになれば、わたしはこのナイフで、わたくしの胸を突き透します」
     ナイフを打ち振りながら鋭い声でこう叫ぶと、そのまま気を失ってしまった。
    「そうですとも、そうですとも、お美しいお嬢さま。私はあなたが私たちをお助けくださることをよく存じております」
     こう金切り声で叫んだのち、ジプシーの老婆は何か口の中でつぶやきながら、アンジェリカのからだに

    しかかって、胸が悪くなるような接吻を彼女の顔といわず胸といわず浴びせかけた。それから肩掛けのポケットから、小さい金魚が銀の液体のなかで泳いでいるように見えるガラスの小壜を取り出して、アンジェリカの胸のところへ持ってゆくと、たちまちに彼女は意識を回復した。彼女は眼を老婆の上にそそぐと、やにわにがばと身を起こして老婆を抱きかかえ、

    疾風

    しっぷう

    のごとくに城内へ連れ去ってしまったので、Z伯爵をはじめ、途中から出て来た妹のガブリエルも、その恋人のエドヴィナ伯爵も、あまりの驚異に身の毛をよだてた。Z伯爵はともかくもその囚人たちの

    くさり

    をはずさせて、みな別べつの牢獄へ入れさせた。
     翌朝、Z伯爵は村びとを召集して、その面前でジプシーらには罪のないことを宣告した上、自分の領地の通過券を渡してやったが、その解放されたジプシーの一団のうちには、かの真っ赤な肩掛けを着た老婆の姿は見えなかった。きっと金鎖を

    くび

    に巻いて、スペイン風の帽子に赤い羽をつけているジプシーの親方が、前の夜ひそかに伯爵の部屋を訪問して、伯爵に頼み込んだのであろうと、村びとらはささやき合っていた。実際ジプシーらが去ってのち、かれらは殺人でも窃盗でもないことが分かった。
     ガブリエルの結婚式の日はいよいよ近づいてきた。ある日、中庭へ数台の荷馬車を

    き込んで、それに家財道具や衣裳類を山のように積んであるのを見て、ガブリエルはびっくりした。次の日、Z伯爵はいろいろの事情から、アンジェリカがX市の別邸に自分ひとりで暮らしたいという申し出でを許したということを、ガブリエルに言って聞かせた。伯爵はその別邸を姉娘にあたえ、家族の者はもちろん、父の伯爵でさえ彼女の許可なくしてはその別邸へ出入りをしないということを、彼女に誓った。それからまた伯爵は、彼女の

    せつ

    なる願いによって、自分の家僕を彼女の家事取締りのために付けてやることをも承諾した。
     結婚式は無事に済んだ。エドヴィナ伯爵と花嫁のガブリエルは自分たちの邸で水入らずの幸福な生活を営んだ。ところが、不思議なことには、何か秘密な悲しみが生命をむしばんで、快楽と精力とを奪い去ってゆくかのように、エドヴィナ伯爵の健康は日ごとに衰えてきた。新妻のガブリエルは夫の心配の原因をどうかして探り知ろうとして、あらゆる手段を尽くしてみたが、それはみな徒労であった。そのうちにエドヴィナ伯爵は、このままでは自然に喰い入ってくる

    のろ

    いのために

    り殺されてしまうのを恐れて、医者の指図するがままに断然その邸をあとにして、ピザへ出発した。そのおり彼の新妻は身重であったので、夫と一緒に旅立つことが出来なかった。
    「以上はガブリエル夫人が私に打ち明けた物語であるが、それはあまりに狂気じみているので、よほど鋭い観察力をもってしなければ、話の連絡をつかむことが出来ないくらいであった」と、博士は注を入れて、また話した。
     ガブリエル夫人は、夫の不在中に女の子を生んだが、間もなくその赤ん坊は邸内から何者にか

    さら

    われて、八方手を尽くしてたずねたが、ついにその行くえが知れなかった。母親の夫人の

    悲歎

    ひたん

    はた

    の見る目も憐れなくらいであったところへ、

    てて加えて父のZ伯爵から、ピザにいるはずのエドヴィナ伯爵がX市のアンジェリカの邸で

    煩悶

    はんもん

    をかさねて瀕死の状態にあるという手紙に接して、夫人はほとんど狂気せんばかりになった。
     夫人は

    産褥

    さんじょく

    から離れるのを待って、父の城へ

    せつけた。ある晩、彼女は生き別れの夫や赤ん坊の安否を案じわびて、どうしても眠られないでいると、気のせいか寝室のドアの外でかすかに赤児の泣くような声が聞こえるので、灯をともしてドアをあけて見ると、思わず彼女はぎょっとしたのである。ドアの外には真っ赤な肩掛けのジプシーの老婆が

    いつくばいながら、「死」をはめ込んだような眼でじっと彼女を見つめているばかりか、その腕には夫人を呼びさまさせた声のぬしの、赤ん坊を抱えていた。あっ! 私の娘だ――夫人はジプシーの老婆の腕から奪い取った我が子を、嬉しさに高鳴りするわが胸へしっかりと抱きしめた。
     夫人の叫び声におどろかされて、家人が起きてきた時には、ジプシーの老婆はもう冷たくなっていて、いくら介抱しても息を吹きかえさなかった。
     Z老伯爵はこの孫にかかわる不可思議な事件の謎が少しでも解けはしまいかと、急いでX市のアンジェリカの邸へ行った。今では彼女の気違いざたに驚いて女中はみな逃げてしまって、かの執事だけがただ一人残っていた。老伯爵がはいった時には、アンジェリカは平静であり、意識も明瞭であったが、孫の物語が始まると、彼女は急に手を打って大声で笑いながら叫んだ。
    「まあ、あの小娘は生きていまして……。あなた、あの小娘を埋めてくださいましたでしょうね、きっと……」
     老伯爵はぞっとして、自分の娘はいよいよ本物の気違いであることを知ると、執事の止めるのも聞かずに、彼女を連れて領地へ帰ろうとした。ところが、彼女をこの家から連れ出そうとすることをちょっとほのめかしただけで、アンジェリカはにわかに暴れ出して、彼女自身の命どころか、父親の命までがあぶないほどの騒ぎを演じた。
     ふたたび正気にかえると、彼女は涙ながらに、この家で一生を送らせてくれと父親に哀願した。老伯爵はアンジェリカの告白したことは、みな狂気の言わせるでたらめだとは思ったが、それでも娘の極度の悩みに心を動かされて、その申し

    いで

    を許してやった。その告白なるものは、エドヴィナ伯爵は自分の腕に帰ってきて、ジプシーの老婆が父の邸へ連れて行った子供は、エドヴィナ伯爵と自分との仲に出来た子供だというのであった。X市には、Z伯爵が哀れな姉娘を城へ連れて帰ったという噂が立ったが、その実、アンジェリカは依然として例の執事の監視のもとに、かの廃宅に隠されていたのであった。
     Z伯爵は間もなく世を去ったので、ガブリエル夫人は父の亡きあとの家庭を整理するためにX市に戻ってきた。もちろん、彼女が姉のアンジェリカに逢えば、かならず何かの騒動がおこるに決まっているので、ガブリエル夫人は不幸な姉に逢わなかった。しかも、その夫人は不幸な姉を老執事の手から引き離さなければならないことに気がついたと言っていたが、その理由は私にも打ち明けなかった。ただいろいろのことから帰納的に想像して、かの老執事が女主人公の暴れ出すのを

    折檻

    せっかん

    して取り鎮めるとともに、彼女が金を造り得るという妄信に釣り込まれて、彼女のものすごい試験の助手を勤めていたことだけはわかってきた。
    「さて、こうした不思議な事件の心理的関係を、あなたにお話し申す必要はあるまいと思います。しかし、かの精神病の婦人の回復が死の鍵である最後の役目を勤めたのは、明らかにあなたであると思います。それからあなたに告白しなければならないのは、実は私があなたの

    くび

    のうしろに手を当てて、あなたの催眠状態の母体になっていた時、わたしは私自身の眼にもあの鏡の中に女の顔を見て、はっとしましたよ。しかし、ご安心なさい。あの鏡に映ったのはまぼろしの女ではなく、エドヴィナ伯爵夫人の顔であったということがやっと分かりましたよ」

     博士の話はこれで終わった。博士はわたしの精神に安心をあたえるためにも、この事件について、この以上には解釈のしようがないと言ったので、その言葉をここに繰り返しておきたい。
     私もまた今となって、アンジェリカとエドヴィナ伯爵と、かの老執事と私自身との関係――それは悪魔の

    仕業

    しわざ

    のようにも思えるが――その関係を、この上に諸君と議論する必要はないように思われる。私はこの事件の直後、

    ぬぐ

    い去ろうとしても拭い去ることの出来ない憂鬱症のために、

    われるようにしてこのX市を立ち去った。それでもなお一、二ヵ月は気味の悪い感じがどうしても去らなかったが、突然それを忘れてしまって、なんともいえない愉快な心持ちが幾月ぶりかで私の心にかえってきたということだけを、最後に付け加えておきたいのである。
     わたしの心に、そうした気分の転換が起こった刹那に、X市ではかの気違いの婦人が息を引き取った。


    底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年9月4日初版発行
       2002(平成14)年6月20日新装版初版発行

    聖餐祭  フランス Anatole France

    世界怪談名作集

    聖餐祭

    フランス Anatole France

    岡本綺堂訳

     これは、ある夏の涼しい晩に、ホワイト・ホースの樹の下にわれわれが腰をおろしているとき、ヌーヴィユ・ダーモンにある

    セント

    ユーラリ教会の

    堂守

    どうもり

    が、いい機嫌で、死人の健康を祝するために古い葡萄酒を飲みながら話したのである。彼はその日の朝、

    白銀

    しろがね

    の涙を

    ひつぎ

    おおいに散らしながら、十分の敬意を表して、その死人を墓所へ運んだのであった。

     死んだのは、わたしの可哀そうな親父ですが……。(堂守が話し出したのである)一生、墓掘りをやっていたのです。親父は気のいい人間で、そんな仕事をするようになったのも、つまりはほうぼうの墓所に働いている人たちと同じように、それが気楽な仕事であったからです。墓掘りなどをする者には「死」などという事はちっとも怖ろしくないのです。彼らはそんな事をけっして考えていないのです。たとえば私にしたところで、夜になって墓場へはいり込んでゆくくらいのことは、まるでこのホワイト・ホースの樹のところにいるくらいのもので、少しも気味の悪いことはないのです。どうかすると、幽霊に出逢うこともありますが、出逢ったところで何でもありませんよ。私の親父も自分の仕事については、私と同じ考えで、墓場で働くくらいの事は何でもなかったのだと思います。私は死人の癖や、性質はよく知っています。まったく坊さんたちの知らないことまでも知っています。私が見ただけの事をすっかりお話しすれば、あなたがたはびっくりなさると思いますが、話は少ないほうが

    悧口

    りこう

    だと言いますからね。私の親父がそれでして、いつもいい機嫌で糸をつむぎながら、自分の知っている話の二十のうちの一つしか話さない人でした。この流儀で、親父はたびたび同じ話をして聞かせましたが……。そうです、私の知っているだけでもカトリーヌ・フォンテーヌの話を少なくも百度ぐらいは話しました。
     カトリーヌ・フォンテーヌは、親父が子供の時によく見かけたことを思い出していましたが、いい年の婆さんであったそうです。いまだにその地方に、その婆さんの噂を知っている老人が三人もいるそうですが、かなりその婆さんは知れ渡っている人で、ひどく貧乏であった割合に、またひどく評判のいい人であったようです。婆さんはそのころ、ノンス街道の角の――いまだにあるそうですが――、小さい塔のような形の家に住んでいまして、それは半分ほどもこわれた古屋敷で、ウルスラン尼院の庭にむかっている所にありました。その塔の上には、今でもまだ昔の人の形をした彫刻の跡と、半分消えたようになっている銘がありまして、さきにお亡くなりになりました聖ユーラリ教会の牧師レバスールさまは、それが「愛は死よりも強し」というラテン語だとおっしゃいました。もっとも、この言葉は、「聖なる愛は死よりも強し」という意味だそうです。
     カトリーヌ・フォンテーヌは、この小さなひと間に独りで住んで、レースを作っていたのです。ご存じでしょうが、この辺で出来るレースは世界じゅうで一番いいことになっているのです。この婆さんにはお友達や親戚はなんにもなかったと言いますが、十八の時にドーモン・クレーリーという若い騎士を愛していて、人知れずその青年と婚約をしていたそうです。
     もっとも、これは作り話で、カトリーヌ・フォンテーヌの日ごろのおこないが普通の賃仕事をしている女たちとは違って上品であったのと、

    白髪

    しらが

    あたまになってもどこかに昔の美しさが残っていたせいだといって、土地では本当にしていないのです。婆さんの顔色は、どちらかといえば沈んでいて、指には

    金細工

    きんざいく

    屋に作らせた、二つの手が握りあっている形をした指環をはめていました。昔はここらの村では婚約の儀式にそんな指環を取り交すのが

    慣習

    ならわし

    になっていましたが、まあ、そんなふうな指環であったのでしょう。
     婆さんは聖者のような生活をしていました。一日のうちの大部分を教会で過ごして、どんな日でも毎朝かならず聖ユーラリの六時の聖餐祭の手伝いに出かけていたのです。
     ある十二月の夜のことでした。カトリーヌの婆さんは独りで小さい自分の部屋に寝ていますと、鐘の音に眼を醒まされたのです。疑いもなく第一の聖餐祭の鐘ですから、

    敬虔

    けいけん

    な婆さんはすぐに支度をして

    階下

    した

    へ降りて、町の方へ出て行きました。夜は真っ暗で、人家の壁も見えず、暗い空からは何ひとつの光りも見えないのです。そうして、あたりの静かなことは、犬の遠吠え一つきこえず、なんの生き物の音もせず、まるで

    人気

    ひとけ

    がないように感じられたそうですが、それでも婆さんが歩いていると、

    みち

    にころがっている石も一つ一つはっきりと見えて、眼をつぶったままでも教会へゆく道は立派に分かったといいます。そこで、ノンスの道とパロアスの道の角まで、わけもなしにたどって来ると、そこには、おもおもしい

    はり

    に系統木(クリストの系図を装飾的に現わしたもの)の彫ってある木造の家が建っていました。
     ここまで来ると、カトリーヌは教会の扉があいていて、たくさんの大きい蝋(燭の灯)が洩れているのを見たのです。歩いて教会の門を通ると、自分はもう教会のうちにいっぱいになっている会衆の中にはいっていました。礼拝者の人たちは見えなかったのですが、そこに集まっているのはいずれも

    天鵞絨

    ビロード

    や紋織りの衣服を着て、

    羽根毛

    はねげ

    のついている帽子をかぶって、むかしふうの

    佩剣

    はいけん

    をつけている人びとばかりであるのに驚かされました。そこには握りが

    黄金

    おうごん

    で出来ている長い杖をついている紳士もいます。レースの帽子をコロネット型の櫛で留めている婦人たちもいます。聖ルイスふうをした騎士たちは婦人たちに手を差しのべていると、相手の婦人たちは隈取りをした顔を扇にかくしていて、ただ白粉のついている額と、眼のふちに眼張りをしているのだけが見えるのでした。
     それらの人びとは少しの音もさせずに自分たちの席につきましたが、その動いている時、

    鋪石

    しきいし

    の上に靴の音もなければ

    きぬ

    ずれの音もないのです。低い所には、

    とび

    色のジャケツに

    木綿

    デイミン

    の袖をつけて、青い靴下をはいている若い芸術家たちの群れが、顔を薄くあからめて伏目がちな娘たちの腰に腕をまいて親しそうに押し合っています。また、

    聖水

    ホリーウォーター

    の近くには、

    真紅

    しんく

    ペティコート

    をはいて、レースのついている

    胸衣

    むなぎ

    をつけた農家の女たちが、家畜のように動かずに地面に腰をおろしています。そうかと思うと、若い者がその女たちのうしろに立って大きな眼をして見廻しながら、指先でくるくると帽子を廻したりしています。これらの悲しそうな顔つきの人たちは、何か同じ思いのために、動かずにここに集まっているようで、ある時は愉しそうに、またある時は悲しそうにみえるのでした。
     カトリーヌはいつもの席についていると、司祭は二人の役僧をしたがえて、聖餐の壇にのぼるのを見ました。どの僧もみな婆さんの識らない人ばかりでしたが、やがて聖餐祭は始まりました。実にしずかな聖餐祭で、人びとのくちびるの動きは見えても、その声はきこえないのです。鐘の音もきこえません。
     カトリーヌは自分のまわりにいる不思議な人びとの注目を受けていることを感じながら、わずかに顔を振り向けようとする時、そっと隣りを

    ぬす

    み見ると、その人は婆さんがかつて愛していて、四十五年前にもう死んでいるはずの騎士ドーモン・クレーリーであったのです。カトリーヌはその人であることを、左の耳の上にある小さい

    あざ

    と、長い

    睫毛

    まつげ

    が両方の

    ほほ

    にまで長い影をうつしているのとでたしかめたのです。彼は

    黄金

    きん

    色のレースのついている

    緋色

    ひいろ

    猟衣

    かりぎぬ

    を着ていましたが、その服装こそは聖レオナルドの森で、初めて彼がカトリーヌに逢って、彼女に飲み水をもらって、そっと

    接吻

    キッス

    をした時の姿であったのです。彼はいまだに若わかしく、立派な風貌をそなえていて、彼が微笑を浮かべると、今も美しい歯並があらわれるのでした。カトリーヌは低い声で彼に話しかけました。
    「過ぎし日の私のお友達……そうして、私が女としてのすべての愛を捧げたあなたに、神様のお加護がありますよう……。神様は、あなたのお心にしたがった私の罪をついに後悔させようとなされましょうが、私はこんな白い髪になって、一生の終わりに近づきましても、あなたを愛したことはいまだに後悔いたしておりません。そこで伺いますが、この聖餐祭に集まっていられる、あの昔ふうの

    服装

    なり

    をしている方がたはどなたでございます」
     騎士ドーモン・クレーリーは、

    呼吸

    いき

    をするよりも微かな、しかも透き通った声で答えました。
    「あの男や女は、私たちが犯したような罪……動物的恋愛の罪のために、神様を悲しませた人たちです。

    煉獄

    れんごく

    の境いから来た霊魂たちです。しかしそのために、神様から追放されているのではありません。あの人たちの罪は私たちと同じように、無分別がさせた罪であるからです。あの人たちは、地上にいたときに愛していた人たちから離されている間に、この人たちにとって最も残酷な

    呵責

    かしゃく

    である放心の苦難を受けて、煉獄の浄火に

    きよ

    められたのです。この人たちの愛の苦しみは、天界にいる天使たちから見ると、憐れに見えるほどの不幸であるのです。この人たちは、天界の最も高き所にいます神の許しによって、一年のうち夜の一時間だけは、この人たちの教区に属する教会で、愛人と愛人とが逢うことができるのです。ここで、この人たちが、影の聖餐祭に集まって、手と手を握り合うことを許されています。私もここで、まだ死んでいないあなたに逢うことを許されたのは、これも神様のあたえてくだされた一つの愉楽なのです」
     そこで、カトリーヌ・フォンテーヌは次のように答えました。
    「もし私が、いつか森の中であなたに飲み水をさしあげた時のように美しくなれますなら、わたしは喜んで死にたいと思います」
     二人が低い声でこんな話をしている間に、ひどく年をとった僧が大きな銅盤を礼拝者の前に差し出しながら、喜捨の金を集めに来ました。礼拝者たちは交るがわるにその中へ、遠い以前から通用しない貨幣を置きました。六ポンドのエクー古銀貨、英国のフロリン銀貨、ダカット銀貨、ジャコビュスの金貨、ローズノーブルの銀貨などが音もなしに盤のなかへ落ちました。その盤はついに騎士の前に置かれたので、彼はルイス金貨を落としましたが、今までの金貨や銀貨と同じように、これも音を立てませんでした。
     それから、かの老僧はカトリーヌ・フォンテーヌの前に立ち停まったので、カトリーヌは

    懐中

    ふところ

    を探りましたが、一ファージングの銅貨も持ち合わせていませんでした。しかし、何も入れないでそのまま通してしまいたくなかったので、騎士が死ぬ前に彼女に与えた指環を指から抜き取って、その銅盤へ投げ入れると、金の指環が盤の上に落ちると同時に、おもおもしい鐘が鳴りひびきました。この鐘の反響のうちに、騎士を初め、僧員や司祭者や役僧や、婦人や、そこに集まっているすべての人たちはみな消えてしまったのです。灯のついていた蝋燭も流れては消え、ただ、かのカトリーヌ・フォンテーヌの婆さんだけが闇のなかに取り残されました。
     堂守はここで話を終わると、葡萄酒をひと息にぐっと飲みほして、しばらく黙っていたが、やがてまた、次のように話し始めた。
    「わたしは親父が何度も繰り返して話して聴かせたのを、そのままお話し申したのですが、これは本当にあった話だと思います。それというのは、この話はすべてその昔に私が見知っている……今はこの世にいない人たちの様子や特別な風習に

    符合

    ふごう

    しているからです。わたしは子供のときから、死人のことにずいぶんかかり合いましたが、死人はみな自分の愛している人のところへ立ち帰るものです。
     

    吝嗇

    りんしょく

    な人間が生前に隠して置いた

    財物

    ざいもつ

    の附近に、夜中徘徊するというのもやはりこのわけです。この人たちは自分の

    黄金

    こがね

    に対して厳重な見張りをしているのです。死人として、しなくともいいことをして自分で自分を苦しめ、かえって自分の不利益になってしまうのです。
     幽霊のすがたになって、地のなかに埋めた金などを掘っているのは珍らしいことではありません。それと同じように、さきに死んでしまった夫が、あとに生き残って他人と結婚した妻を悩ましに来たりすることがあります。私は生きていた時よりも、死んでからいっそう自分の妻を監視している大勢の人の名前までも知っています。
     こんなことはいけないことです。正しい意味からいえば、死人が嫉妬をいだくなどは

    いわ

    れのないことです。私自身が見たことについてお話をすることもできますが、男が未亡人と結婚しても同じようなことになるのです。しかし、今お話をしたカトリーヌの一件は、次のように伝えられています。
     その不思議なことのあった翌朝、カトリーヌ・フォンテーヌは、自分の部屋で死んでいました。そうして、聖ユーラリ教区の役僧が集金のときに使った銅盤のなかに、二つの手の握り合った形をした黄金の指環がはいっていたのを発見したのです。いや、私は冗談などをいう男ではありません。さあ、もっと葡萄酒を飲もうではありませんか」


    底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年9月4日初版発行
       2002(平成14)年6月20日新装版初版発行

    幻の人力車 キップリング

    世界怪談名作集

    幻の人力車

    キップリング Rudyard Kipling

    岡本綺堂訳

           一

    悪夢よ、私の安息を乱さないでくれ。
    闇の力よ、私を悩まさないでくれ。
     印度という国が英国よりも優越している二、三の点のうちで、非常に顔が広くなるということも、その一つである。いやしくも男子である以上、印度のある地方に五年間公務に就いていれば、直接または間接に二、三百人の印度人の文官と、十一、二の中隊や連隊全部の人たちと、いろいろの在野人士の千五百人ぐらいには知られるし、さらに十年間のうちには彼の顔は二倍以上の人たちに知られ、二十年ごろになると印度帝国内の英国人のほとんど全部を知るか、あるいは少なくとも彼らについてなんらかを知るようになり、そうして、どこへ行ってもホテル代を払わずに旅行が出来るようになるであろう。
     

    款待

    かんたい

    を受けることを当然と心得ている世界漫遊者も、わたしの記憶しているだけでは、だいぶ遠慮がちになってきてはいるが、それでも

    今日

    こんにち

    なお、諸君が知識階級に属していて、礼儀を知らない

    無頼

    ぶらい

    の徒でないかぎりは、すべての家庭は諸君のために門戸をひらいて、非常に親切に面倒を見てくれるのである。
     今から約十五年ほど前に、カマルザのリッケットという男がクマーオンのポルダー家に滞在したことがあったが、ほんの二晩ばかり厄介になるつもりでいたところ、リューマチ性の熱が

    もと

    で六週間もポルダー邸を混乱させ、ポルダーの仕事を中止させ、ポルダーの寝室でほとんど死ぬほどに苦しんだ。ポルダーはまるでリッケットの奴隷にでもなったように尽力してやった上に、今もって毎年リッケットの子供たちに贈り物や

    玩具

    おもちゃ

    の箱を送っている。そんなことはどこでもみな同様である。諸君に対して、お前は能なしの

    驢馬

    ろば

    だという考えを、別に隠そうともしないようなあけっ放しの男や、諸君の性格を傷つけたり、諸君の細君の娯楽を思い違いするような女は、かえって諸君が病気にかかったり、または非常な心配事に出逢ったりする場合には、骨身を惜しまずに尽くしてくれるものである。
     ドクトル・ヘザーレッグは普通の開業医であるが、内職に自分の

    うち

    に病室を設けていた。彼の友人たちはその設備を評して、もうどうせ

    なお

    らない患者のための馬小屋だといっていたが、しかし実際

    暴風雨

    あらし

    に逢って難破せんとしている船にとっては適当な避難所であった。印度の気候はしばしば蒸し暑くなる上に、煉瓦づくりの家の数が少ないので、

    唯一

    ゆいいち

    の特典として時間外に働くことを許可されているが、それでもありがたくないことには、時どきに気候に犯されて、ねじれた文章のように頭が変になって倒れる人たちがある。
     ヘザーレッグは今まで印度へ来ていたうちでは一番上手な医者ではあるが、彼が患者への指図といえば、「気を鎮めて横になっていなさい」「ゆっくりお歩きなさい」「頭を冷やしなさい」の三つにきまっている。彼にいわせれば、多くの人間はこの世の生存に必要以上の仕事をするから死ぬのだそうである。彼は三年ほど以前に自分が治療したパンセイという患者も、過激な仕事のために生命を失ったのだと主張している。むろん、彼は医者としてそういうふうに断定し得る権利を持っているので、パンセイの頭には

    亀裂

    ひび

    が入って、そこから暗黒世界がほんのわずかばかり沁み込んだために、彼を死に至らしめたのだという私の説を一笑に

    している。
    「パンセイは故国を長くはなれていたのが原因で死んだのだ」と、彼は言っている。「彼がケイス・ウェッシントン夫人に対して悪人のような振舞いをしようがしまいが、そんなことはどちらでもかまわない。ただ私の注意すべきところは、カタブンデイ植民地の事業がすっかり彼を疲らせてしまった事と、彼が女からきた色じかけのくだらない手紙のことをくよくよしたり、嬉しがったりしたということである。彼はちゃんとマンネリング嬢と婚約が整っていたのに、彼女はそれを破談にしてしまった。そこで、彼は

    悪寒

    さむけ

    を感じて熱病にかかるとともに、幽霊が出るなどとつまらない

    囈語

    たわこと

    をいうようになった。要するに、過労が彼の病気の原因ともなり、死因ともなったので、可哀そうなものさ。政府に伝達してやりたまえ。一人で二人半の仕事をした男だということを……」
     私にはヘザーレッグのこの解釈は信じられない。私はいつもヘザーレッグが往診に呼ばれて外出する時には、よくパンセイのそばに坐っていてやったが、ある時わたしはもう少しで叫び声を立てようとしたことがあった。それから彼は、低いけれども

    いや

    に落ち着いた声で、自分の寝床の下をいつでも男や女や子供や悪魔の行列が通ると言って、私をぞっとさせた。彼の言葉は熱に浮かされた病人独特の気味の悪いほどの雄弁であった。彼が正気に立ちかえった時、わたしは彼の

    煩悶

    はんもん

    の原因となる事柄の一部始終を書きつらねておけば、彼のこころを軽くするに違いないからと言って聞かせた。実際、小さな子供が悪い言葉を一つ新しく教わると、扉にそれをいたずら書きをするまでは満足ができないものである。これもまた一種の文学である。
     執筆中に彼は非常に激昂していた。そうして、彼の

    った人気取りの雑誌張りの文体が、よけい彼の感情をそそった。それから二ヵ月後には、仕事をしても差し支えないとまで医者にいわれ、また人手の少ない委員会の面倒な仕事を手伝ってくれるように

    せつ

    に懇望されたにもかかわらず、臨終に際して、自分は悪夢におそわれているということを明言しながら、みずから求めて死んでしまった。わたしは彼が死ぬまでその原稿を密封しておいた。以下は彼の事件の草稿で、一八八五年の日付けになっていた。

     私の医者はわたしに休養、転地の必要があると言っている。ところが、私には間もなくこの二つながらを実行することが出来るであろう。――

    ただ

    し、わたしの休養とは、英国の伝令兵の声や午砲の音によって破られないところの永遠の安息であり、わたしの転地というのは、どの帰航船もわたしを運んで行くことの出来ないほどに遠いあの世へである。しばらくわたしは今いるところに滞在して、医師にあからさまに反対して、自分の秘密を打ち明けることに決心した。諸君は、おのずと私の病気の性質を精確に理解するとともに、かつて女からこの不幸な世の中に生みつけられた男のうちで、私のように苦しんできた者があるかどうかが、またおのずから分かるであろう。
     死刑囚が絞首台にのぼる前に

    懺悔

    ざんげ

    をしなければならないように、私もこれから懺悔話をするのであるが、とにかく、私のこの信じ難いほどに

    いま

    わしい狂乱の物語は、諸君の注意を

    くであろう。けれども、私は自分のこの物語が永久に人びとから信じられるとは全然思わない。二ヵ月前には私も、これと同じ物語を大胆にも私に話したその男を、気ちがいか酔いどれのように侮蔑した。そうして、二ヵ月前には私は印度でも一番の仕合わせ者であった。それが今日では、ペシャワーから海岸に至るまでの間に、私よりも不幸な人間はまたとあろうか。
     この物語を知っているものは、私の医者と私の二人である。しかも私の医者は、わたしの頭や消化力や視力が病いに

    おか

    されているために、時どきに固執性の幻想が起こってくるのであると解釈している。幻想、まったくだ! わたしは自分の医者を馬鹿呼ばわりしているが、それでもなお、判で押したように彼は綺麗に赤い

    頬鬚

    ほおひげ

    に手入れをして、絶えず微笑をうかべながら、温和な職業的態度で私を見廻って来るので、しまいには私も、おれは恩知らずの、

    たち

    の悪い病人だと恥じるようになった。しかし、これから私が話すことが幻想であるかどうか、諸君に判断していただきたい。
     三年前に長い

    賜暇

    しか

    期日が終わったので、グレーヴセントからボンベイへ帰る船中で、ボンベイ地方の士官の妻のアグネス・ケイス・ウェッシントンという女と一緒になったのが、そもそも私の運命――わたしの大きな不運であった。いったい、彼女はどんなふうの女であるかを知るのは、諸君にとってもかなり必要なことであるが、それには航海の終わりごろから彼女とわたしとが、たがいに熱烈な不倫の恋に

    ちたということを知れば、満足がゆかれるだろう。
     こんなことは、自分に多少なりとも虚栄心がある間は白状の出来ることではないのであるが、今の私にはそんなものはちっともない。さて、こうした恋愛の場合には、一人があたえ、他の一人が受けいれるというのが常である。ところが、われわれの前兆の悪い馴れそめの第一日から、私はアグネスという女は非常な情熱家で、男まさりで――まあ、しいて言うなら――私よりも純な感情を持っているのを知った。したがってその当時、彼女がわれわれの恋愛をどう思っていたか知らないが、その後、それは二人にとって実に

    にが

    い、味のないものになってしまった。
     その年の春にボンベイに着くと、私たちは別れわかれになった。それから二、三ヵ月はまったく逢わなかったが、わたしの賜暇と彼女の愛とがまたもや二人をシムラに

    しらせた。そこでその

    季節

    シーズン

    を二人で暮らしたが、その年の終わるころに私のこのくだらない恋愛の

    火焔

    ほのお

    は燃えつくして、

    いた

    わしい終わりを告げてしまった。私はそれについて別に弁明しようとも思わない。ウェッシントン夫人もわたしのことを諦めて、断念しようとしていた。
     一八八二年の八月に、彼女はわたし自身の口から、もう彼女の顔を見るのも、彼女と交際するのも、彼女の声を聞くのさえも

    きがきてしまったと言うのを聞かされた。百人のうち九十九人の女は、私がかれらに飽きたら、かれらもまた私に飽きるであろうし、百人のうち七十五人までは、他の男と無遠慮に、盛んにいちゃついて、私に復讐するであろう。が、ウェッシントン夫人はまさに百人目の女であった。いかに私が

    嫌厭

    けんえん

    を明言しても、または二度と顔を合わせないように、いかに手ひどい残忍な目に逢わせても、彼女にはなんらの効果がなかった。
    「ねえ、ジャック」と、彼女はまるで永遠に繰り返しでもするように、馬鹿みたような声を立てるのであった。「きっとこれは思い違いです。……まったく思い違いです。わたしたちはまたいつか仲のいいお友達になるでしょう。どうぞ私を忘れないでください。わたしのジャック……」
     わたしは犯罪者であった。そうして、私はそれを自分でも知っていたので、身から出た

    さび

    だと思って自分の不幸に黙って忍従し、また明らかに無鉄砲に

    いと

    ってもいた。それはちょうど、一人の男が蜘蛛を半殺しにすると、どうしても踏み潰してしまいたくなる衝動と同じことであった。私はこうした嫌厭の情を胸に抱きながら、そのシーズンは終わった。
     あくる年わたしは再びシムラで逢った。――彼女は単調な顔をして、臆病そうに仲直りをしようとしたが、私はもう見るのも

    いや

    だった。それでも幾たびか私は彼女と二人ぎりで逢わざるを得なかったが、そんなときの彼女の言葉はいつでもまったく同じであった。相も変わらず例の「思い違いをしている」一点ばりの無理な愁歎をして、結局は、「友達になりましょう」と、いまだに執拗に望んでいた。
     わたしが注意して観察したら、彼女はこの希望だけで生きていることに気がついたかもしれなかった。彼女は月を経るにつれて血色が悪く、だんだんに痩せていった。少なくとも諸君と私とは、こういった振舞いはよけいに断念させるという点において同感であろうと思う。実際、彼女のすることはさし出がましく、

    児戯

    じぎ

    にひとしく、女らしくもなかった。私は、彼女を大いに責めてもいいと思っている。それにもかかわらず、時どきに熱に浮かされたような、眠られない闇の夜などには、自分はだんだんに彼女に好意を持って来たのではないか、というようなことを思い始めた。しかし、それも確かに一つの「幻想」である。私はもう彼女を愛することが出来ないのに、愛するようなふうを続けていることは出来なかった。そんなことが出来るであろうか。第一、そんなことは私たちお互いにとって正しいことではなかった。
     去年また私たちは逢った。――前の年と同じ時期である。そうして、前年とおなじように彼女は飽きあきするような歎願をくりかえし、私もまた例のごとくに

    すげ

    ない返事をした。そうして、古い関係を回復しようとする彼女の努力がいかに間違っているか、またいかに徒労であるかを彼女に考えさせようとした。
     シーズンが終わると、私たちは別れた。――言いかえれば、彼女はもうとても私と逢うことは出来ないと

    さと

    った。というのは、私が他に心を奪われることが

    出来

    しゅったい

    していたからである。わたしは今、自分の病室で静かにあの当時のことを回想していると、一八八四年のあのシーズンのことどもが異様に明暗入り乱れて、

    渾沌

    こんとん

    たる悪夢のように見えてくる。
     ――可愛いキッティ・マンネリングのご機嫌とり、わたしの希望、疑惑、恐怖、キッティと二人での遠乗り、身をおののかせながらの恋の告白、彼女の返事、それから時どきに黒と白の

    法被

    はっぴ

    を着た

    苦力

    クーリー

    の人力車に乗って、静かに通ってゆく白い顔の幻影、ウェッシントン夫人の手袋をはめた手、それから極めて

    まれ

    ではあったが、夫人とわたしと二人ぎりで逢ったときの彼女の歎願のもどかしい単調――。
     わたしはキッティ・マンネリングを愛していた。実に心から彼女を愛していた。そうして、私が彼女を愛すれば愛するほど、アグネスに対する嫌厭の念はいよいよ増していった。八月にキッティと私とは婚約を結んだ。その次の日に、私はジャッコのうしろで呪うべき饒舌家の苦力らに逢った時、ちょっとした一時的の憐憫の情に駆られて、ウェッシントン夫人にすべてのことを打ち明けるのをやめてしまったが、彼女はわたしの婚約のことをすでに知っていた。
    「ねえ、あなたは婚約をなすったそうですね、ジャック」と言ってから、彼女は息もつかずに、「何もかも思い違いです。まったく思い違いです。いつか私たちはまた元のように仲よしのお友達になるでしょう。ねえ、ジャック」と言った。
     わたしの返事は男子すらも畏縮させたに違いなかった。それは

    むち

    のひと打ちのように、私の眼前にある

    瀕死

    ひんし

    の女のこころを

    いた

    めた。
    「どうぞ私を忘れないでください。ね、ジャック。わたしはあなたを怒らせるつもりではなかったのです。しかし本当に怒らせてしまったのね、本当に……」
     そう言ったかと思うと、ウェッシントン夫人はまったく倒れてしまった。わたしは彼女を心静かに家に帰らせるために、そのまま顔をそむけて立ち去ったが、すぐに自分は言い知れぬ下品な卑劣漢であったことを感じた。私はあとを振り返ると、彼女が人力車を引き返さしているのを見た。
     そのときの情景と周囲のありさまは私の記憶に焼き付けられてしまった。雨に洗いきよめられた大空(あたかも雨期の終わるころであったので)、濡れて黒ずんだ松、ぬかるみの道、火薬で削り取ったどす黒い崖、こういったものが一つの陰鬱な背景を形づくって、その前に苦力らの黒と白の法被や黄いろい鏡板のついたウェッシントン夫人の人力車と、その内でうなだれている彼女の金髪とがくっきりと浮き出していた。彼女は左手にハンカチーフを持って、人力車の蒲団にもたれながら失神したようになっていた。わたしは自分の馬をサンジョリー貯水場のほとりの抜け道へ向けると、文字通りに馬を飛ばした。
    「ジャック!」と、彼女が

    かす

    かにひと声叫んだのを耳にしたような気がしたが、あるいは単なる錯覚かもしれなかった。わたしは馬をとめて、それをたしかめようとはしなかった。それから十分の後、わたしはキッティが馬に乗って来るのに出逢ったので、二人で長いあいだ馬を走らせて、さんざん楽しんでいるうちに、ウェッシントン夫人との会合のことなどはすっかり忘れてしまった。
     一週間ののちに、ウェッシントン夫人は死んだ。

           二

     夫人が死んだので、彼女が存在しているという一種の重荷がわたしの一生から取り除かれた。わたしは非常な幸福感に胸をおどらせながらプレンスワードへ行って、そこで三ヵ月間をおくっているうちに、ウェッシントン夫人のことなどは全然忘れ去った。ただ時どきに彼女の古い手紙を発見して、私たちの過去の関係が自分の頭に浮かんでくるのが不愉快であった。正月のうちにわたしは

    しゅ

    じゅの場所に入れておいた私たちの手紙の残りを探し出して、ことごとく焼き捨てた。
     その年、すなわち一八八五年の四月の初めには、私はシムラにいた。――ほとんど人のいないシムラで、もう一度キッティと深い恋を語り、また、そぞろ歩きなどをした。私たちは六月の終わりに結婚することに決まっていた。したがって、当時印度における一番の果報者であると自ら公言している際、しかも私のようにキッティを愛している場合、あまり多く口がきけなかったということは、諸君にも

    納得

    なっとく

    できるであろう。
     それから十四日間というものは、毎日まいにち

    くう

    に過ごした。それから、私たちのような事情にある人間が誰でもいだくような感情に駆られて、私はキッティのところへ手紙を出して、婚約の指環というものは

    許嫁

    いいなずけ

    の娘としてその品格を保つべき有形的の

    しるし

    であるから、その指環の寸法を取るために、すぐにハミルトンの店まで来るようにと言ってやった。実をいうと、婚約の指環などということは極めてつまらないことであるので、私はこのときまで忘れていたのである。そこで、一八八五年の四月十五日に私たちは、ハミルトンの店へ行った。
     この点をどうか頭においてもらいたいのだが――たとい医者がどんなに反対なことを言おうとも――その当時のわたしは全くの健康状態であって、均衡を失わない理性と絶対に冷静な心とを持っていた。キッティと私とは一緒にハミルトンの店へはいって、店員がにやにや笑っているのもかまわず、自分でキッティの指の太さを計ってしまった。指環はサファイヤにダイヤが二つはいっていた。わたしたちはそれからコムバーメア橋とペリティの店へゆく坂道を馬に乗って降りて行った。
     あらい

    泥板岩

    シェール

    の上を用心ぶかく進んでゆく私の馬のそばで、キッティが笑ったり、おしゃべりをしたりしている折りから――ちょうど平原のうちに、かのシムラが図書閲覧室やペリティの店の

    露台

    バルコニー

    に囲まれながら見えてきた折りから――私はずっと遠くのほうで誰かが私の

    洗礼名

    クリスチャンネーム

    を呼んでいるのに気がついた。かつて聞いたことのある声だなと直感したが、さていつどこで聞いたのか、すぐには頭に浮かんでこなかった。ほんのわずかのあいだ、その声は今まで来た小路とコムバーメア橋との間の道いっぱいに響き渡ったので、七、八人の者がこんな乱暴な真似をしているのだと思ったが、結局それは私の名を呼んでいるのではなくて、何か歌を唄っているに相違ないと考えた。
     そのとき、たちまちにペリティの店の向う側を黒と白の

    法被

    はっぴ

    を着た四人の

    苦力

    クーリー

    が、黄いろい鏡板の安っぽい出来合い物の人力車を

    いて来るのに気がついた。そうして、

    懊悩

    おうのう

    嫌悪

    けんお

    の念を持って、わたしは去年のシーズンのことや、ウェッシントン夫人のことを思い出した。
     それにしても、彼女はもう死んでしまって、用は済んでいるはずである。なにも黒と白の法被を着た苦力をつれて、白昼の幸福を妨げにこなくてもいいわけではないか。それで私は、まずあの苦力らの雇いぬしが誰であろうと、その人に訴えて、彼女の苦力の着ていた法被を取り替えるように懇願してみようと思った。あるいはまた、わたし自身がかの苦力を雇い入れて、もし必要ならばかれらの法被を買い取ろうと思った。とにかくに、この苦力らの風采がどんなに好ましからぬ記憶の流れを

    喚起

    かんき

    したかは、とても言葉に言い尽くせないのである。
    「キッティ」と、私は叫んだ。「あすこに死んだウェッシントン夫人の苦力がやって来ましたよ。いったい、今の雇いぬしは誰なんでしょうね」
     キッティは前のシーズンにウェッシントン夫人とちょっと逢ったことがあって、蒼ざめている彼女については常に好奇心を持っていた。
    「なんですって……。どこに……」と、キッティは訊いた。「わたしにはどこにもそんな苦力は見えませんわ」
     彼女がこう言った

    刹那

    せつな

    、その馬は荷を積んだ

    驢馬

    ろば

    を避けようとしたはずみに、ちょうどこっちへ進行して来た人力車と真向かいになった。私はあっと声をかける間もないうちに、ここに驚くべきは、彼女とその馬とが苦力の車を突きぬけて通ったことである。苦力も車もその形はみえながら、あたかも稀薄なる空気に過ぎないようであった。
    「どうしたというんです」と、キッティは叫んだ、「何をつまらないことを

    呶鳴

    どな

    っているんです。わたしは婚約をしたからといって、別に人間が変わったわけでもないんですよ。驢馬と露台との間にこんなに場所があったのね。あなたはわたしが馬に乗れないとお思いなんでしょう。では、見ていらっしゃい」
     強情なキッティはその優美な小さい頭を空中に飛び上がらせながら、音楽堂の方向へ馬を駈けさせた。あとで彼女自身も言っていたが、馬を駈けさせながらも、私があとからついて来るものだとばかり思っていたそうである。ところが、どうしたというのであろう。私はついてゆかなかった。私はまるで気違いか酔っ払いのようになっていたのか、あるいはシムラに悪魔が現われたのか、わたしは自分の馬の手綱を引き締めて、ぐるりと向きを変えると、例の人力車もやはり向きを変えて、コムバーメア橋の左側の欄干に近いところで私のすぐ目の前に立ちふさがった。
    「ジャック。私の愛するジャック!」(その時の言葉はたしかにこうであった。それらの言葉は、わたしの耳のそばで呶鳴り立てられたように、わたしの頭に鳴りひびいた。)「何か思い違いしているのです。まったくそうです。どうぞ私を

    堪忍

    かんにん

    してください、ジャック。そしてまたお友達になりましょう」
     人力車の

    ほろ

    がうしろへ落ちると、わたしが夜になると怖がるくせに毎日考えていた死そのもののように、その内にはケイス・ウェッシントン夫人がハンカチーフを片手に持って、金髪の

    かしら

    を胸のところまで垂れて坐っていた。
     どのくらいの間、わたしは身動きもしないでじいっと見つめていたか、自分にも分からなかったが、しまいに馬丁が私の馬の手綱をつかんで、病気ではないかと

    いたので、ようようわれにかえったのである。私は馬からころげ落ちんばかりに、ほとんど失神したようになってペリティの店へ飛び込んで、シェリー・ブランデイを一杯飲んだ。
     店の内には二組か三組の客がカフェーのテーブルをかこんで、その日の出来事を論じていた。この場合、かれらの愚にもつかない話のほうが、私には宗教の

    慰藉

    いしゃ

    などよりも大いなる慰藉になるので、一も二もなくその会話の渦中に投じて、

    しゃ

    べったり、笑ったり、鏡のなかへ死骸のように青くゆがんで映った人の顔にふざけたりしたので、三、四人の男はあきれてわたしの態度をながめていたが、結局、あまりにブランデイを飲み過ぎたせいだろうと思ったらしく、いい加減にあしらって私を

    け者にしようとしたが、私は動かなかった。なぜといって、そのときの私は、日が暮れて怖くなったので夕飯の仲間へ飛び込んでくる子供のように、自分の仲間が欲しかったからであった。
     それから私は、十分間ぐらいも雑談していたに相違なかったが、そのときの私には、その十分間ほどが実に限りもなく長いように思われた。そのうちに、外でわたしを呼んでいるキッティの声がはっきりと聞こえたかと思うと、つづいて彼女が店のなかへはいって来て、わたしが婚約者としての義務をはなはだ怠っているということを婉曲に詰問しようとした。私の目の前には何か

    得体

    えたい

    の知れないものがあって、彼女をさえぎってしまった。
    「まあ、ジャック」と、キッティは呶鳴った。「何をしていたんです。どうしたんです。あなたはご病気ですか」
     こうなると、嘘を教えられたようなもので、きょうの日光がわたしには少し強過ぎたと答えたが、あいにく今は四月の

    くも

    った日の午後五時近くであった上に、きょうはほとんど日光を見なかったことに気がついたので、なんとかそれを

    胡麻化

    ごまか

    そうとしたが、キッティはまっかになって外へ出て行ってしまったので、私はほかの連中の微笑に送られながら、悲観のていで彼女のあとについて出た。私はなんといったか忘れてしまったが、どうも気分が悪いからというようなことで、ふた言三言いいわけをした後、独りでもっと乗り廻るというキッティを残して、自分だけは

    しず

    かに馬をあゆませてホテルに帰った。
     自分の部屋に腰をおろして私は、冷静にこの出来事を考えようとした。ここに私という人間がある。それはテオパルド・ジャック・パンセイという男で、一八八五年度の教養のあるベンガル州の文官で、自分では心身ともに健全だと思っている。その私が、しかも婚約者のかたわらで、八ヵ月以前に死んで葬られた一婦人の幻影に悩まされたというのは、実に私としては考え得べからざる事実であった。キッティと私とがハミルトンの店を出たときには、わたしはウェッシントン夫人のことを何事も考えていなかった。ペリティの店の向う側には見渡すかぎり塀があるばかりで、きわめて平平凡凡な場所であった。おまけに白昼で、道には往来の人がいっぱいであった。しかも、そこには常識と自然律とに全然反対に、墓から出た一つの顔が現われたのであった。
     キッティのアラビア馬がその人力車を突きぬけて行ってしまったので、誰かウェッシントン夫人に生き写しの婦人が、その人力車と、黒と白の法被を着た苦力を雇ったのであってくれればいいがと思った最初の希望は

    はず

    れた。わたしは幾たびかいろいろに考えを立て直してみたが、結局それは徒労と絶望に終わった。あの声はどうしても妖怪変化の声とは考えられなかった。最初、私はすべてをキッティに打ち明けた上で、その場で彼女に結婚するように哀願して、彼女の抱擁によって人力車の幻影を防ごうと考えた。「

    畢竟

    ひっきょう

    」と、私は自分に

    反駁

    はんばく

    した。
    「人力車の幻影などは、人間に怪談的錯覚性があることを説明するに過ぎない。男や女の幽霊を見るということはあり得るかもしれないが、人力車や苦力の幽霊を見るなどという、そんなばかばかしいことがあってたまるものか。まあ、丘に住む人間の幽霊とでもいうのだろう」
     次の朝、わたしはきのう午後における自分の常軌を逸した行為を

    寛恕

    ゆる

    してくれるようにと、キッティのところへ謝罪の手紙を送った。しかも私の女神はまだ怒っていたので、私が自身に出頭して謝罪しなければならない

    破目

    はめ

    になった。私はゆうべ徹夜で、自分の失策について考えていたので、消化不良から来た急性の

    心悸亢進

    しんきこうしん

    のためにとんだ失礼をしましたと、まことしやかに弁解したので、キッティのご機嫌も直って、その日の午後に二人はまた馬の

    くつわ

    をならべて外出したが、私の最初の嘘は、やはり二人の心になんとなく

    みぞ

    を作ってしまった。
     彼女はしきりにジャッコのまわりを馬で廻りたいと言ったが、私はゆうべ以来まだぼんやりしている頭で、それに弱く反対して、オブザーバトリーの丘か、ジュトーか、ボイルローグング街道を行こうと言い出すと、それがまたキッティの怒りに触れてしまったので、私はこの以上の誤解を招いては大変だと思って、その言うがままにショタ・シムラの方角へむかった。
     私たちは道の大部分を歩いて、それから尼寺の下の一マイルばかりは馬をゆるく走らせて、サンジョリー貯水場のほとりの平坦なひとすじ道に出るのが習慣になっていた。ややもすれば

    たち

    の悪い私たちの馬は駈け出そうとするので、坂道の上に近づくと、わたしの心臓の動悸はいよいよ激しくなってきた。この午後から私の心は、ウェッシントン夫人のことで常にいっぱいになっていたので、ジャッコの道の到る所が、その昔ウェッシントン夫人と二人で歩いたり、話したりして通ったことを私に思い出させた。思い出は路ばたの石ころにも満ちている。雨に

    水量

    みずかさ

    を増した早瀬も不倫の物語を笑うように流れている。風もわたしの耳のそばで、私たちの不義を大きく

    はや

    し立てていた。
     平地の中央で、男の人たちが婦人の一マイル競走に応援している声が、なんとなく恐ろしい事件が待ち構えているように感じさせた。人力車は一台も見えなかった。――と思うとたんに、八ヵ月と二週間以前に見たものとまったく同一の黒と白の法被を着た四人の苦力と、黄いろい鏡板の人力車と、金髪の女の頭が現われた。その一瞬間、わたしはキッティも私と同じものを見たに相違ないと思った。――なぜならば、私たちは不思議にもすべてのことに共鳴していたからである。しかし、彼女の次の言葉で私はほっとした。
    「誰もいないわね。さあ、ジャック。貯水場の建物のところまで二人で競走しましょう」
     彼女の

    小賢

    こざか

    しいアラビヤ馬は飛鳥のごとくに駈け出したので、わたしの騎兵用軍馬もすぐに後からつづいた。そうして、この順序で私たちは馬を崖の上に駈け登らせた。すると、五十ヤードばかりの眼前に、例の人力車が現われた。はっと思って私は手綱を引いて、馬をすこしく後ずさりさせると、人力車は道の真ん中に立ちふさがった。しかも今度もまたキッティの馬はその人力車を突きぬけて行ってしまったので、私の馬もそのあとに続いた。「ジャック、ジャック、あなた……。どうぞ私を堪忍してくださいよ」という声がわたしの耳へむせび泣くように響いたかと思うと、すぐにまた、「みんな思い違いです。まったく思い違いです」という声がきこえた。
     私はまるで物に

    かれた人間のように、馬に拍車を当てた。そうして、貯水場の建物のほうへ顔を向けると、黒と白の法被が――執念深く――灰色の丘のそばに私を待っていた。私が今聴いたばかりのあの言葉が、風と共に人を嘲けるように響いてきた。キッティは私がそれから急に黙ってしまったのを見て、しきりに

    揶揄

    からか

    っていた。
     それまでの私は口から出まかせにしゃべっていたが、その後は自分の命を失わないようにするために、私はしゃべることが出来なくなったのである。私はサンジョリーから帰って、それからお寺へ運ばれるまで、なるべく口をとじてしまうようになった。

           三

     その晩、私はマンネリング家で食事をする約束をしたが、ぐずぐずしているとホテルへ帰って着物を着かえる時間がないので、エリイシウムの丘への道を馬上で急いでいると、闇のうちに二人の男が話し合ってゆくのを耳にした。
    「まったく不思議なこともあるものだな」と、一人が言った。
    「どうしてあの車の走った跡がみんな無くなってしまったのだろう。君も知っている通り、うちの女房はばかばかしいほどにあの女が好きだったのだ。(僕にはどこがいいのかわからなかったがね。)それだもんだから、どうしてもあの女の古い人力車と苦力とを手に入れたいと

    強請

    せび

    るのでね。僕は一種の病的趣味だと言っているのだが、まあ奥方の言う通りにしたというわけさ。ところが、ウェッシントン夫人に雇われていたその人力車の持ちぬしが僕に話したところによると、四人の苦力は兄弟であったが、ハードウアへ行く路でコレラにかかって死んでしまい、その人力車は持ちぬしが自分で

    こわ

    してしまったというのだが、君はそれを信じるかね。だから、その持ちぬしに言わせると、死んだ夫人の人力車はちっとも使わないうちに毀したので、だいぶ損をしたというのだが、どうも少し変ではないか。ねえ、君。あの可哀そうな、可愛らしいウェッシントン夫人が自分自身の運命以外に、他の人間の運命をぶちこわすなどとは、まったく考えられないことではないか」
     私はこの男の最後の言葉を大きい声で笑ったが、その笑い声に自分でぞっとした。それではやはり人力車の幽霊や、幽霊が幽霊を雇い入れるなどという事があるのであろうか。ウェッシントン夫人は苦力らにいくらの賃金を払うのであろうか。かれら苦力は何時間働くのであろうか。そうして、かれら苦力はどこへ行ったのであろうか。
     すると、私のこの最後の疑問に対する明白なる答えとして、まだ

    黄昏

    たそがれ

    だというのに、またもや例の幽霊がわたしの行く手をふさいでいるのを見た。

    亡者

    もうじゃ

    は足が

    はや

    く、一般の苦力さえも知らないような近路をして走り廻る。私はもう一度大きい声を立てて笑ったが、なんだか気違いになりそうな気がしたので、あわててその笑い声をおさえた。いや、私は人力車の鼻のさきで馬を止めると、

    慇懃

    いんぎん

    にウェッシントン夫人にむかって、「今晩は」と言ってしまったところをみると、すでにある程度までは気が違っていたのかもしれない。彼女の返事は、私がよく知り過ぎているほどに聞きなれた例の言葉であった。わたしは彼女の例の言葉をすっかり聞いてから、もうその言葉は前から幾たびか聞いているから、もっと何かほかのことを話してくれればどんなに嬉しいだろうと答えた。あの夕方は、いつもよりもよほど根強く魔物のこころに喰い入ったに相違ない。私は眼前のその幽霊と相対して、五分間ばかりもその日の平凡な出来事を話していたように、かすかに記憶している。
    「気違いだ。可哀そうに……。それとも酔っているのかもしれない。マックス、その人を

    うち

    まで送り届けてやれ」
     それはたしかに、ウェッシントン夫人の声ではなかった。
     私がひとりで喋べっているのを立ち聴きしていた先刻の二人の男が、私を介抱しようとして戻って来た。かれらは非常に親切で、思いやりがあった。かれらの言葉から察すると、私がひどく酔っているのだと思っているらしかった。私はあわててかれらに礼を言って、馬を走らせてホテルに帰って、大急ぎで衣服を改めて、マンネリング家へ行ったときは約束の時間よりも五分遅れていた。わたしは闇夜であったからというのを口実にして弁解したが、キッティに恋びとらしくない遅刻を反駁されながら、とにもかくにも食卓に着いた。
     食卓ではすでに会話に花が咲いていたので、わたしは彼女のご機嫌を取り戻そうとして、気のきいた

    小咄

    こばなし

    をしていた時、食卓の

    はし

    の方で赤い短い

    頬鬚

    ほおひげ

    をはやした男が、ここへ来る途中で見知らない一人の気違いに出逢ったことを、

    尾鰭

    おひれ

    をつけて話しているのに気がついた。その話から

    して、それは三十分前の出来事を繰り返しているのであることがわかった。その物語の最中に、その男は商売人の

    噺家

    はなしか

    がするように、喝采を求めるために一座をずらりと見廻した拍子に、彼とわたしの眼とがぴったり出合うと、そのまま口をつぐんでしまった。一瞬間、恐ろしい沈黙がつづいた。その赤鬚の男は「そのあとは忘れた」というような意味のことを口のうちでつぶやいていた。それがために、彼は過去六シーズンのあいだに築き上げた上手な話し手としての名声を台なしにしてしまった。私は心の底から彼を祝福してから、料理の魚を食いはじめた。
     食卓はずいぶん長い間かかって終わった。わたしは全く名残り惜しいような心持ちでキッティに別れを告げた。――たぶん、また戸の外には幽霊が私の出て来るのを待っているのだろうと思いながら。――例の赤鬚の男(シムラのヘザーレッグ先生として私に紹介された)が途中までご一緒に参りましょうと言い出したので、私も喜んでその申しいでを受けた。
     わたしの予感は誤まらなかった。幽霊はもう樹蔭の路に待ち受けていた。しかも、私たちの行く手を悪魔的に冷笑しているように、

    前燈

    ヘッドランプ

    に灯までつけていたではないか。赤鬚の男は食事ちゅうも絶えず私の先刻の心理状態を考えていたというような態度で、たちまちに灯の見えた地点まで進んで来た。
    「ねえ、パンセイ君。エリイシウムの道で何か変わった事でもあったのですかね」
     この質問があまり

    唐突

    とうとつ

    であったので、私は考えるひまもなしに返事が口から出てしまった。
    「あれです」と言って、わたしは灯の方を指さした。
    「私の知るところによれば、化け物などというものはまず酔っ払いの

    囈語

    たわこと

    か、それとも錯覚ですな。ところで今夜、あなたは酒を飲んでいられない。わたしは食事中、酔っ払いの囈語でないことを観察しましたよ。あなたの指さしている所には、なんにもないではありませんか。それだのに、あなたはまるで物に

    じた小馬のように汗を流して

    ふる

    えているのを見ると、どうも錯覚らしいですな。ところで、私はあなたの錯覚について何もかも知りたいものですが、どうでしょう、一緒にわたしの

    うち

    までおいでになりませんか。ブレッシングトンの坂下ですが……」
     非常にありがたいことには、例の人力車が私たちを待ち構えてはいたけれども、二十ヤードほどもさきにいてくれた。――そうしてまた、この距離は私たちが歩こうが、またゆるく駈けさせようが、いつでも正しく保たれていた。そこでその夜、長いあいだ馬に乗りながら、私はいま諸君に書き残しているとほぼ同じようなことを彼にも話した。
    「なるほど、あなたは私が今までみんなに話していた得意の話のうちの一つを、台なしにしておしまいなすった」と、彼は言った。「しかしまあ、あなたが経験してこられたことに免じて勘弁してあげましょう。その代りに、わたしの家へ来てくだすって、私の言う通りになさらなければいけませんよ。そうして、私があなたをすっかり癒してあげたら、もうこれに

    りて、一生婦人を遠ざけて不消化な食物をとらないようになさるのですな」
     人力車は執念ぶかく、まだ前のほうにいた。そうして、私の赤鬚の友達は、幽霊のいる場所を精密にわたしから聞いて、非常に興味を感じたらしかった。
    「錯覚……。ねえ、パンセイ君。……それは要するに眼と脳髄と、それから胃袋、特に胃袋からくるのですよ。あなたは非常に想像力の発達した頭脳を持っている割に、胃袋があまりに小さすぎるのです。それで、非常に不健康な眼、つまり視覚上の錯覚を生ずるのですよ。あなたの胃を丈夫になさい。そうすれば、自然に精神も安まります。それにはフランスの治療法によって肝臓の丸薬がよろしい。あなたは今日から私に治療を一任させていただきたい。なにしろあなたは、つまらない一つの現象のために、あまりに奪われ過ぎていますからな」
     ちょうどその時、私たちはブレッシングトンの坂下の木蔭を進んで行った。
     人力車は

    泥板岩

    シェール

    の崖の上に差し出ている一本の小松の下にぴたりと止まった。われを忘れて私もまた馬を止めたので、ヘザーレッグはにわかに

    呶鳴

    どな

    った。

    「さあ、胃と脳と眼から来る錯覚患者のためにも、こんな山の

    ふもと

    でいつまでも冷たい夜の空気に当てておいていいか悪いか、考えても……。おや、あれはなんだ」
     私たちの行く手に耳をつんざくような爆音がしたかと思うと、一寸さきも見えないほどの砂煙りがぱっと立った。

    とどろ

    く音、枝の裂ける音、そうして光りが十ヤードばかり――松や

    やぶ

    や、ありとあらゆる物が坂の下へ崩れ落ちて来て、われわれの道をふさいでしまった。根こぎにされた樹木はしばらくの間、泥酔して苦しんでいる巨人のようにふらふらしていたが、やがて

    らい

    のような響きと共に、他の樹のあいだに落ちて横たわった。私たちふたりの馬はその恐ろしさに、あたかも化石したように立ちすくんだ。土や石の落ちる物音が鎮まるや

    いな

    や、わたしの連れはつぶやいた。
    「ねえ、もし僕たちがもう少し前へ進んでいたらば、今ごろは生き埋めになっていたでしょう。まだ神様に見捨てられなかったのですな。さあ、パンセイ君。

    うち

    へ行って、一つ神様に感謝しようではありませんか。それに、どうも馬鹿に喉が

    かわ

    いてね」
     私たちは引っ返して教会橋を渡って、真夜中の少し過ぎたころに、ドクトル・ヘザーレッグの家に着いた。
     それからほとんどすぐに、彼はわたしの治療に取りかかって、一週間というものは私から離れなかった。そのあいだ幾たびか私はシムラの親切な名医と近づきになった自分の幸運に感謝したのであった。日増しに私のこころは軽く、落ちついてきた。そうしてまた、だんだんにヘザーレッグのいわゆる胃と頭脳と眼から来るという「妖怪的幻影」の学説に共鳴していった。私は落馬してちょっとした挫傷をしたために四、五日は外出することも出来ないが、あなたが私に逢えないのを寂しく思う前には全快するであろうというような手紙を書いて、キッティに送っておいた。
     ヘザーレッグ先生の治療は、はなはだ簡単であった。肝臓の丸薬、朝夕の冷水浴と猛烈な体操、それが彼の治療法であった。――もっとも、この朝夕の冷水浴と体操は散歩の代りで、彼は慎重な態度で私にむかって、「挫傷した人間が一日に十二マイルも歩いているところを婚約の婦人に見られたら、びっくりしますからな」と言っていた。
     一週間の終わりに、瞳孔や脈搏を調べたり、摂食や歩行のことを厳格に注意された上で、ヘザーレッグは私を引き取った時のように、むぞうさに退院させてくれた。別れに臨んで、彼はこう祝福してくれた。
    「ねえ、私はあなたの神経を

    なお

    したということを断言しますが、しかしそれよりも、あなたの

    疾病

    しっぺい

    を癒したといったほうが本当ですよ。さあ、出来るだけ早く手荷物をまとめて、キッティ嬢の愛を

    に飛んでいらっしゃい」
     私は彼の親切に対してお礼を言おうとしたが、彼はわたしをさえぎった。
    「あなたが好きだから、わたしが治療してあげたなどと思わないでください。私の推察するところによると、あなたはまったく無頼漢のような行為をしてきなすった。が、同時にあなたは一風変わった無頼漢であるごとく、一風変わった非凡な人です。さあ、もうお帰りになってもよろしい。そうして、眼と頭と胃から来る錯覚がまた起こるかどうか。見ていてごらんなさい。もし錯覚が起こったら、そのたびごとに十万ルピーをあなたに差し上げましょう」
     三十分の後には、私はマンネリング家の応接間でキッティと対座していた。――現在の幸福感と、もう二度と再び幽霊などに襲われないで済むという安心に酔いながら。――私はこの新しい確信にみずから興奮してしまって、すぐに馬に乗ってジャッコをひと廻りしないかと申し出たのであった。
     四月三十日の午後、私はその時ほど血気と単なる動物的精力とを身内に溢るるように感じたことはかつてなかった。キッティはわたしの様子が変わって快活になったのを喜んで、

    率直

    そっちょく

    な態度で明らさまに私に讃辞を浴びせかけた。私たちは一緒にマンネリング家を出ると、談笑しながら先日のように、ショタ・シムラの道に沿って馬をゆるやかに進めていった。
     私はサンジョリー貯水場に行って、自分はもう幽霊に襲われないという自信をたしかめるために馬を急がせた。私たちの馬はよく走ったにもかかわらず、わたしの

    はや

    る心には遅くて遅くてたまらなかった。キッティは私の乱暴なのにびっくりしていた。
    「どうしたの、ジャック」と、とうとう彼女は叫んだ。「まるでだだっ

    のようね。どうしようというんです」
     ちょうど私たちが尼寺の下へ来た時、わたしの馬が路から

    おど

    り出ようとしたのを、そのままにひと

    むち

    あてて、路を突っ切って一目散に走らせた。
    「なんでもありませんよ」と、私は答えた。「ただこれだけのことです。あなただって一週間も家にいたままでなんにもしなかったら、私のようにこんなに乱暴になりますよ」
    上上の機嫌で

    ささや

    き、歌い、
    生きている身を楽しまん。

    造化

    ぞうか

    の神よ、現世の神よ、
    五官を

    すべ

    る神様よ。
     まだ私の歌い終わらないうちに、私たちは尼寺の上の角をまわって、さらに三、四ヤード行くと、サンジョリーが眼の前に見えた。平坦な道のまん中に黒と白の法被と、ウェッシントン夫人の乗っている黄いろい鏡板の人力車が立ちふさがっているではないか。私は思わず手綱を引いて、眼をこすって、じっと見つめて、たしかに幽霊に相違ないと思ったが、それからさきは覚えない。ただ道の上に顔を伏せて倒れている自分のそばに、キッティが涙を流しながらひざまずいているのに気がついただけであった。
    「もう行ってしまいましたか」と、わたしは

    あえ

    いだ。
     キッティはますます泣くばかりであった。
    「行ってしまったとは……。何がです……。ジャック、いったいどうしたの。何か思い違いをしているんじゃないの。ジャック、まったく思い違いよ」
     彼女の最後の言葉を耳にすると、私はぎょっとして立ち上がった。――気が狂って――しばらくのあいだ

    囈語

    うわこと

    のようにしゃべり出した。
    「そうです、何かの思い違いです」と、私はくりかえした。「まったく思い違いです。さあ、幽霊を見に行きましょう」
     私はキッティの腰を抱えるようにして、幽霊の立っている所まで彼女を引っ張って行って、どうか幽霊に話しかけさせてくれと哀願した。
     それから、自分たち二人は婚約の間柄であるから、死んで地獄でも二人のあいだの

    きずな

    を断ち切ることは出来ないぞと幽霊に話したことだけは、自分でも明瞭に記憶しているし、自分よりも更にキッティのほうがよく知っている。私は夢中になって、人力車のうちの恐ろしい人物にむかって、自分の言ったことはみな事実であるから、今後自分を殺すような

    苦悩

    くるしみ

    をゆるしてくれと、くりかえして訴えた。今になって思えば、それは幽霊に話しかけていたというよりも、ウェッシントン夫人と自分との古い関係をキッティに打ち明けたようなものであったかもしれない。真っ白な顔をして眼を光らせながら、その話にキッティが一心に耳を傾けていたのを私は見た。

    「どうもありがとう、パンセイさん」と、キッティは言った。「もうたくさんです。わたしの馬を連れておいで」
     東洋人らしい落ちついた馬丁が、勝手に走って行った馬を連れ戻して来ると、キッティは

    くら

    に飛び乗った。私は彼女をしっかりと押さえて、私の言うことをよく聞いて、わたしを

    ゆる

    してもらいたいと切願すると、彼女はわたしの口から眼へかけて鞭で打った。そうして、ひと言ふた言の別れの言葉を残したままで行ってしまった。
     その別れの言葉――私は今もって書くに忍びない。私はいろいろに判断した結果、彼女は何もかも知ってしまったということが一番正しい解釈であると思った。わたしは人力車のほうへよろめきながら行った。私の顔にはキッティの鞭の跡がなまなましく紫色になって血が流れていた。私はもう自尊心も何もなくなってしまった。ちょうどその時、多分キッティと私のあとを遠くからついて来たのであろう、ヘザーレッグが馬を飛ばして来た。
    「先生」と、私は自分の顔を指さしながら言った。「ここにマンネリング嬢からの破談通知の

    しるし

    があります。……十万ルピーはすぐにいただけるのでしょうね」
     ヘザーレッグ先生の顔を見ると、こうした

    いや

    しむべき不幸の場合にもかかわらず、わたしは冗談を言う余裕が出てきた。
    「わたしは医者としての名誉に賭けても……」
    「冗談ですよ」と、わたしは言った。「それよりも、私は一生の幸福を失ってしまったのですから、私を家へ連れて行ってください」
     私がこんなことを話している間に、例の人力車は消えてしまった。それから私はまったく意識を失って、ただ、ジャッコの峰がふくれあがって雲の峰のように渦を巻いて、わたしの上に落ちてきたような気がしていた。

           四

     それから一週間の

    のち

    (すなわち、五月七日)に私はヘザーレッグの部屋に、まるで小さい子供のように弱って横たわっているのに気がついた。ヘザーレッグは机の上の書類越しに私をじっと見守っていた。かれの最初の言葉は別に私に力をつけてくれるようなものでもなかった。わたし自身もあまりに疲れ過ぎていたので、少しも感動しなかった。
    「キッティさんから返してきたあなたの手紙がここにあります。さすがに若い人だけに、あなたもだいぶ文通をしたものですね。それからここに指環らしい包みがあります。それにマンネリングのお父さんからの丁寧な手紙がつけてありましたが、それは私の

    あて

    であったので、読んでから焼いてしまいました。お父さんはあなたに満足していないようでしたよ」
    「で、キッティは……」と、私は

    かす

    かな声で訊いた。
    「いや、その手紙は彼女のお父さんの名にはなっていましたが、むしろ彼女の言っている言葉でしたよ。その手紙によると、あなたは彼女と恋に

    ちた時に、不倫の思い出の何もかも打ち明けてしまわなければならなかったというのです。それからまた、あなたがウェッシントン夫人に仕向けたようなことを、婦人に対しておこなう男は、男子全体の名誉をよごした謝罪のために、よろしく自殺すべきであるというのですよ。彼女は若いくせに、感情に激しやすい勇婦ですからね。ジャッコへゆく途中で騒ぎが起こった時、あなたが

    囈語

    うわこと

    に悩んだだけでもうじゅうぶんであるのに、彼女はあなたと再び言葉を交すくらいならば、いっそ死んでしまうというのですよ」
     わたしは

    うな

    り声を発するとともに、反対の側へ寝返りを打ってしまった。
    「さて、あなたはもう物を選択する力を回収していますね。ようござんすか。この婚約は破られるべき性質のものであり、また、この上にマンネリング家の人びともあなたを苛酷な目に逢わせようとは思っていません。ところで、いったいこの婚約は単なる囈語のために破られたのでしょうか、それとも

    癲癇

    てんかん

    発作

    ほっさ

    のためでしょうか。お気の毒ですが、あなたが自分には遺伝性癲癇があると申し出てくれなければ、私には他に適当な診断がつかないのですがね。私は特に遺伝性癲癇という言葉を申しますよ。そうして、あなたの場合はその発作だと思いますがね。シムラの人びとは婦人の一マイル競走の時のあの光景をみな知っていますよ。さあ、私は五分間の

    猶予

    ゆうよ

    をあたえますから、癲癇の血統があるか無いか考えてみてください」
     そこで、この五分間――今でも私はこの世ながらの地獄のどん底をさぐり廻っていたような気がする。同時に、疑惑と不幸と絶望との

    常闇

    とこやみ

    の迷路をつまずき歩いている自分のすがたを、私は見守っていた。そうして私もまた、ヘザーレッグが椅子に腰をかけながら知りたがっているように、自分はどっちを選択するだろうかという好奇心をもって自分をながめていたが、結局、わたしは自分自身がきわめて微かな声で返事をしたのを聞いた。
    「この地方の人間はばかばかしく道徳観念が強い。それだから彼らに発作をあたえよ、ヘザーレッグ、それからおれの愛をあたえてくれ。さて、おれはもう少し寝なくっちゃならない」
     それから二つの自己がまた一つになると、過ぎ去った日の事どもをだんだんにたどりながら、ベッドの上で

    のた

    うち廻っている、ただの私(半分発狂し、悪魔に

    かれた私)になった。
    「しかしおれはシムラにいるのだ」と、私はくりかえして自分に言った。「ジャック・パンセイというおれは、今シムラにいる。しかもここには幽霊はいないではないか。あの女がここにいるふうをしているのは不合理のことだ。何ゆえにウェッシントン夫人はおれを独りにしておくことが出来なかったのか。おれは別にあの女に対してなんの危害を加えたこともないのだ。その点においてはあの女も同じことではないか。ただ、おれはあの女を殺す目的で、あの女の手に帰って行かなかっただけのことだ。なぜおれは独りでいられないか。……独りで、幸福に……」
     私が初めて目をさました時は、あたかも正午であったが、私が再び眠りかかった時分には太陽が西に傾いていた。それから犯罪者が牢獄の

    たな

    の上で苦しみながら眠るように眠ったが、あまりに疲れ切っていたので、かえって起きている時分よりも余計に苦痛を感じた。
     翌日もわたしはベッドを離れることが出来なかった。その朝、ヘザーレッグは私にむかって、マンネリング氏からの返事が来たことや、彼(ヘザーレッグ)の友情的

    斡旋

    あっせん

    のおかげで、わたしの苦悩の物語はシムラの隅ずみまで拡がって、誰もみなわたしの立ち場に同情していてくれることなどを話してくれた。
    「そうして、この同情はむしろあなたが当然受くべきものであった」と、彼は愉快そうに結論をくだした。「それに、あなたが人世の

    にが

    い経験をかなりに経て来られたことは神様が知っておられますからな。なに、心配することはありませんよ。私があなたをまた

    なお

    してあげますよ。あなたはちょっとした錯覚を自分で悪いほうに考えているのですよ」
     私はもう癒ったような気がした。
    「あなたはいつも親切にしてくださいますね、先生」と、私は言った。「しかし、もうこの上あなたにご心配をかける必要はないと思います」
     こうは言ったものの、わたしの心のうちでは、ヘザーレッグの治療などで、私のこころの重荷を軽くすることが出来るものかと思っていた。
     こう考えてくると、また私の心には、理不尽な幽霊に対してなんとなく反抗の出来ないような、頼りない、さびしい感じが起こってきた。この世の中には、自分のしたことに対する罰として死の運命を宣告された私よりも、もっと不幸な人間が少しはいるであろうから、そういう人たちと一緒ならばまだ気が強いが、たった独りでこんなに残酷な運命のもとにいるのはあまりに無慈悲だと思った。結局、あの人力車と私だけが虚無の世界における単一の存在物で、マンネリングやヘザーレッグや、その他わたしが知っているすべての人間こそみんな幽霊であって、空虚な影、まぼろしの人力車以外の大きな灰色の地獄それ自身(この世の人間ども)が私を苦しめているのだ、というような考えに変わっていった。
     こうして

    いら

    いらしながら七日の間、いろいろのことを考えながら

    輾転反側

    てんてんはんそく

    しているうちに、かえって私の肉体は日増しに丈夫になっていって、寝室の鏡にうつしてみても平常と変わりがなく、ふたたびもとの人間らしくなった。そうして実に不思議なことには、わたしの顔には過去の苦悶争闘の跡が消えてしまった。なるほど、顔色は蒼かったが、ふだんのように無表情な、平凡な顔になった。実際をいうと、私はある永久の変化――私の生命をだんだんに

    蚕食

    さんしょく

    していくところの発作から来る肉体的変化を予期していたが、全然そんな変化は見えなかった。
     五月十五日の午前十一時に、私はヘザーレッグの家を立ち去って、独身者の本能からすぐに倶楽部へ行った。そこではヘザーレッグが言ったように、誰も彼もわたしの話を知っていて、妙に取ってつけたように気味の悪いほど親切で、

    鄭重

    ていちょう

    にしてくれるのに気がついたので、寿命のあらん限りは自分の仲間のうちにいようと

    はら

    をきめた。しかしその仲間の一人になり切ってしまうことは出来なかった。したがって私には、倶楽部の下の木蔭でなんの苦もなさそうに笑っていられる苦力らが憎らしいほどに羨ましかった。
     私は倶楽部で昼飯を食って、四時頃にぶらりと外へ出ると、キッティに逢えはしないかという漠然とした希望をいだきながら木蔭の路へ降りていった。音楽堂の近くで、黒と白の法被がわたしのそばに来るなと思う間もなく、ウェッシントン夫人のいつもの歎願の声が耳のそばに聞こえた。実は外へ出た時からすでに予期していたので、むしろその出現が遅いのに驚いたくらいであった。それからまぼろしの人力車と私とはショタ・シムラの道に沿って、摺れすれに肩を並べながら黙って歩いて行った。物品陳列館の近所で、キッティが一人の男と馬を並べながら私たちを追い越した。彼女はまるで路ばたの犬でも見るような眼で、私を見返っていった。ちょうど夕方ではあり、雨さえ降っていたので、私がわからなかったというかもしれないが、彼女は人を追い越してゆくに挨拶さえもしなかった。
     こうしてキッティとその連れの男と、私とわたしの無形の愛の光りとは、ふた組になってジャッコの周囲を徐行した。道は雨水で川のようになっている。松からは

    とい

    のように下の岩へ雨だれを落としている。空気は強い吹き降りの雨に満ちている。
    「おれは

    賜暇

    しか

    を得てシムラに来ているジャック・パンセイだ。……シムラに来ているのだ。来る日も、来る日も、平凡なシムラ……。だが、おれはここを忘れてはならないぞ……忘れてはならないぞ」と、わたしは二、三度、ほとんど大きい声を立てんばかりに独りごとを言っていた。
     それから倶楽部で耳にしたきょうの出来事の二、三、たとえばなにがしが所有の馬の

    あた

    いはいくらであったというような事――私のよく知っている印度居住の英国人の実生活に関係ある事どもを追想してみようとした。また、わたしは自分が気が違っていないということをしっかりと頭に入れようと思って、出来るだけ早く掛け算の表をさえくりかえしてみた。その結果は、わたしに非常な満足をもたらした。そのためにしばらくの間は、ウェッシントン夫人の言葉に耳を傾けるのを中止しなければならなかった。
     もう一度、わたしは疲れた足を引き摺りながら尼寺の坂道を登って、平坦な道へ出た。そこからキッティと例の男とは馬をゆるやかに走らせたので、私はウェッシントン夫人と二人ぎりになった。
    「アグネス」と、私は言った。「

    ほろ

    をうしろへ落としたらどうです。そうして、こうやって始終人力車に乗って私につきまとうのは、いったいどういうわけだか話してください」
     幌は音もなく落ちて、わたしは死んで埋められた夫人と顔を突き合わせた。
     彼女はわたしが生前に見た着物を着て、右の手にいつもの小さいハンカチーフを持ち、左の手にやはりいつもの名刺入れを持っていた。(ある婦人が八ヵ月前に名刺入れを持って死んだことがあった。)さあ、こうなって来ると、わたしは現在と過去との区別がつきかねたので、また少なくとも自分は気が狂っていないということをたしかめるために、路ばたの石の欄干の上に両手を置いて、掛け算の表をくりかえさなければならなかった。
    「アグネス」と、わたしはくりかえした。「どうか私にそのわけを話してください」
     ウェッシントン夫人は前かがみになると、いつもの癖で、妙に早く首を

    かし

    げてから口をひらいた。
     もしもまだ、私の物語はあまりに気違いじみて諸君には信じられないというほどでないというのであったら、私はいま諸君に感謝しなければならない。誰も――私はキッティのために自分の行為のある種の弁明としてこれを書いているのであるが、そのキッティでさえも――私を信じてくれないであろうということを知っているけれども、とにかくに私は自分の物語を進めてゆこう。
     ウェッシントン夫人は話し出した。そうして、私は彼女と一緒にサンジョリーの道から印度総督邸の下の曲がり角まで、まるで生きている婦人の人力車と肩をならべて歩いているようにして、夢中に話しながら来てしまった。すると、急に再度の発作が襲ってきたので、テニソンの詩に現われてくる王子のように、わたしは幽霊界をさまよっているような気になった。
     総督邸では園遊会を催しているので、私たち二人は帰途につく招待客の群集に巻き込まれてしまった。私にはかれら招待客がみな本物の幽霊に見えてきた。――しかもウェッシントン夫人の人力車をやりすごさせるために、かれらは道をひらいたではないか。
     この考えてもぞっとするような会見ちゅうに、私たちが話し合ったことは、私として話すことは出来ないし、また、あえて話したくもない。ヘザーレッグはこれについて、ただちょっと笑ってから、私が胃と脳と眼とから来る幻想に執着しているのだと批評していた。あの人力車の幻影はものすごいとともに、非常に愛すべき(それはちょっと解釈しにくいが)一つの存在であった。かつては私自身が残酷な目に逢わせた上に、捨て殺しにしてしまったウェッシントン夫人を、私はこの世に生きている間にもう一度口説きたくなってきたが、それは出来ないことであろうか。
     帰りがけに私はキッティにまた逢った。――彼女もまた幽霊の仲間の一人であった。
     もしもこの順序で、次の四日間の出来事をすべて記述しなければならないとしたなら、私のこの物語はいつまでいっても終わるまい。諸君も

    きてくるであろう。しかしとにかくに、朝といわず、夕といわず、わたしと人力車の幽霊とはいつも一緒にシムラをさまよい歩いた。私のゆく所には、黒と白の法被がつきまとい、ホテルの往復にも私の道連れとなり、劇場へゆけば客を呼んでいる苦力の群れのあいだに彼らがまじっているのである。夜更けまで

    骨牌

    カルタ

    をしたのちに、倶楽部の

    露台

    バルコニー

    へ出ると、彼らはそこにもいる。誕生日の舞踏会に招かれてゆけば、かれらは根気よく私の出て来るのを待っているばかりでなく、私が誰かを訪問にゆくときには白昼にも現われた。
     そうして、ただその人力車には影がないという以外は、すべての点において木と鉄で出来ている一般の人力車とちっとも変わりがなかった。一度ならず私は、ある乗馬の下手な友達が、その人力車を馬で踏み越えてゆくのを呼び止めようとして、はっと気がついて口をつぐんだことがあった。また、私は木蔭の路をウェッシントン夫人と話しながら歩いていたので、往来の人たちは

    呆気

    あっけ

    に取られていたこともたびたびあった。
     わたしが床を離れて外出が出来るようになった一週間前に、ヘザーレッグの発作説が発狂説に変わっていたのを知った。いずれにもせよ、私は自分の生活様式を変えなかった。私は人を訪問した。馬に乗った。以前と同じような心持ちで食事をした。私は今までかつて感知したことのなかったまぼろしの社会というものに対して

    渇望

    かつぼう

    していたので、実生活の間にそれを

    あさ

    ると同時に、わたしの幽霊の

    伴侶

    つれ

    に長いあいだ逢えないでいるということに、漠然とした不幸を感じた。五月十五日より今日に至るまでの、こうした私の変幻自在の心持ちを書くということは、ほとんど不可能であろう。
     人力車の出現は、わたしの心を恐怖と、盲目的畏敬と、漠然たる喜悦と、それから極度の絶望とで交るがわるに埋めた。私はシムラを去るに忍びなかった。しかも私はシムラにいれば、自分が結局殺されるということを百も承知していた。その上に、一日一日と少しずつ弱って死んでゆくのが私の運命であることも知っていた。ただ私は、出来るだけ静かに懺悔をしたいというのが、ただ一つの望みであった。
     それから私は人力車の幽霊を求めるとともに、キッティがわたしの後継者――もっと厳密にいえば、わたしの後継者ら――と

    ちょう

    なん

    喃と語らっている復讐的の姿を、愉快な心持ちでひと目見たいと思って探し求めた。愉快な心持ちと言ったのは、わたしが彼女の生活から

    はな

    れてしまっているからである。昼のあいだ私はウェッシントン夫人と一緒に喜んで歩きまわって、夜になると私は神にむかって、ウェッシントン夫人と同じような世界に帰らせてくれるように哀願した。そうして、これらの

    しゅ

    じゅの感情の上に、この世の中の

    有象無象

    うぞうむぞう

    が一つの憐れなたましいを墓に追いやるために、こんなにも騒いでいるのかという、ぼんやりした弱い驚きの感じが横たわっている。

     八月二十七日――ヘザーレッグは実に根気よく私を看病していた。そうして、きのう私にむかって、病気

    賜暇

    しか

    願いを送らなければならないと言った。そんなものは、まぼろしの仲間を

    のが

    れるための願書ではないか。五人の幽霊とまぼろしの人力車を去るために英国へ帰らせてくれと、政府の慈悲を懇願しろと言うのか。ヘザーレッグの提議は、わたしをほとんどヒステリカルに笑わせてしまった。
     私は静かにこのシムラで死を待っていることを彼に告げた。実際もう私の余命は

    幾許

    いくばく

    もないのである。どうか私がとうてい言葉では言い表わせないほど、この世の中に再生するのを恐れているということと、わたしは自分が死ぬときの態度について、かず限りなく考えては煩悶しているということを信じていただきたい。
     私は英国の紳士が死ぬときのように、寝床の上に端然として死ぬであろうか。あるいはまた、最後にもう一度木蔭の路を歩いているうちに、私の霊魂がわたしから放れて、あの幽霊のそばで永遠に帰るのであろうか。そうしてあの世へ行って、わたしが遠い昔に失ってしまった純潔さを取り戻すか。あるいはまた、ウェッシントン夫人に出逢って、いやいやながら彼女のそばで永遠に暮らすのであろうか。時というものが終わるまで、私たちの生活の舞台の上をわれわれ二人が

    徘徊

    はいかい

    するのであろうか。
     わたしの臨終の日が近づくにしたがって、墓のあなたから来る幽霊に対して、生ける肉体の感ずる心中の恐怖はだんだんに力強くなってくる。諸君の生命の半分を終わらないうちに、死の谷底へ急転直下するのは恐ろしいことである。さらに何千倍も恐ろしいのは、諸君のまんなかにあって、そうした死を待っていることである。なんとなれば、私にはすべての恐怖をみな想像することが出来るからである。少なくとも私の幻想の点についてだけでも、わたしを憐れんでいただきたい。――わたしは諸君が今までに私の書いたことを少しも信じないであろうことを知っているから。――今や一人の男が暗黒の力のために死になんなんとしている。ああ、その男は私である。
     公平にまた、ウェッシントン夫人をも憐れんでいただきたい。彼女は実際、永遠に男のために殺されたのである。そうして、彼女を殺したものは私である。わたしの

    ばつ

    の分け前は今や自分自身の上にかかっている。


    底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
       1987(昭和62)年9月4日初版発行
       2002(平成14)年6月20日新装版初版発行

    上床  クラウフォード

    世界怪談名作集

    上床

    クラウフォード Francis Marion Crawford

    岡本綺堂訳

           一

     誰かが

    葉巻

    シガー

    を注文した時分には、もう長いあいだ私たちは話し合っていたので、おたがいに

    きかかっていた。煙草のけむりは厚い窓掛けに喰い入って、重くなった頭にはアルコールが廻っていた。もし誰かが睡気をさまさせるようなことをしない限りは、自然の結果として、来客のわれわれは急いで自分たちの部屋へかえって、おそらく寝てしまったに相違なかった。
     誰もがあっと言わせるようなことを言わないのは、誰もあっと言わせるような話の種を持っていないということになる。そのうちに一座のジョンスが最近ヨークシャーにおける銃猟の冒険談をはじめると、今度はボストンのトンプキンス氏が、人間の労働供給の原則を

    細目

    さいもく

    にわたって説明し始めた。
     それによると、アッチソンやトペカやサンタ・フェ方面に

    敷設

    ふせつ

    された鉄道が、その未開の地方を開拓して州の勢力を延長したばかりでなく、また、その工事を会社に引き渡す以前から、その地方の人びとに家畜類を輸送して飢餓を未然に防いだばかりでなく、長年のあいだ切符を買った乗客に対して、前述の鉄道会社がなんらの危険なしに人命を運搬し得るものと妄信させたのも、

    いつ

    にこの人間の労働の責任と用心ぶかき供給によるものであるというのであった。
     すると、今度はトムボラ氏が、彼の祖国のイタリー統一は、あたかも偉大なるヨーロッパの造兵

    しょう

    の精巧なる手によって設計された最新式の魚形水雷のようなものであって、その統一が完成されたあかつきには、それが弱い人間の手によって、当然爆発すべき無形の地、すなわち混沌たる政界の荒野に投げられなければならないということを、われわれに

    納得

    なっとく

    させようとしていたが、そんな論説はもう私たちにはどうでもよかった。
     この上にくわしくこの会合の光景を描写する必要はあるまい。要するに、私たちの会話なるものは、いたずらに

    大声叱呼

    たいせいしっこ

    しているが、プロミティウス(古代ギリシャの神話中の人物)であったらば耳もかさずに自分の岩に

    あな

    をあけているであろうし、タンタラス(同じく神話中の人)であったら気が遠くなってしまうであろうし、またイキシイオン(ギリシャ伝説中の人)であったらわれわれの話などを聴くくらいならばオルレンドルフ氏のお説教でも聞いているほうが

    しだと思わざるを得ないくらいに、実に退屈至極のものであった。それにもかかわらず、私たちは数時間もテーブルの前に腰をおろして、疲れ切ったのを我慢して貧乏ゆるぎ一つする者もなかった。
     誰かがシガーを注文したので、私たちはその人のほうを見かえった。その人はブリスバーンといって、常に人びとの注目の

    まと

    となっているほどに優れた才能を持っている三十五、六の男盛りであった。彼の風采は、割合に

    背丈

    せい

    が高いというぐらいのことで、普通の人間の眼には別にどこといって変わったところは見えなかった。その背丈も六フィートより少し高いぐらいで、肩幅がかなり広いぐらいで、たいして強そうにも見えなかったが、注意してみると、たしかに筋肉たくましく、その小さな頭は頑丈な骨組みの

    くび

    によって支えられ、その男性的な手は

    胡桃

    くるみ

    割りを持たずとも胡桃を割ることが出来そうであり、横から見ると誰でもその袖幅が馬鹿に広く出来ているのや、並外れて胸の厚いのに気がつかざるを得ないのであった。いわば、彼はちょっと見ただけでは別に強そうでなくして、その実は見掛けよりも遙かに強いという種類の男であった。その顔立ちについてはあまり言う必要もないが、とにかく前にも言ったように、彼の頭は小さくて、髪は薄く、青い眼をして、大きな鼻の下にちょっぴりと

    口髭

    くちひげ

    を生やした純然たるユダヤ系の風貌であった。どの人もブリスバーンを知っているので、彼がシガーを取り寄せたときには、みな彼の方を見た。
    「不思議なこともあればあるものさ」と、ブリスバーンは口をひらいた。
     どの人もみな話をやめてしまった。彼の声はそんなに大きくはなかったが、お座なりの会話を見抜いて、鋭利なナイフでそれを断ち切るような独特の

    声音

    こわね

    であった。一座は耳を傾けた。ブリスバーンは自分が一座の注目の的となっているのを心得ていながら、平然とシガーをくゆらせて言いつづけた。
    「まったく不思議な話というのは、幽霊の話なんだがね。いったい人間という奴は、誰か幽霊を見た者があるかどうかと、いつでも聞きたがるものだが、僕はその幽霊を見たね」
    「馬鹿な」
    「君がかい」
    「まさか本気じゃあるまいね、ブリスバーン君」
    「いやしくも知識階級の男子として、そんな馬鹿な」
     こういったような言葉が同時に、ブリスバーンの話に浴びせかけられた。なんだ、つまらないといったような顔をして、一座の面めんはみなシガーを取り寄せると、

    司厨夫

    バットラー

    のスタッブスがどこからとなしに現われて、アルコールなしのシャンパンの

    びん

    を持って来たので、だれかかった一座が救われた。ブリスバーンは物語をはじめた。

     僕は長いあいだ船に乗っているので、

    頻繁

    ひんぱん

    に大西洋を航海する時、僕は変な好みを持つようになった。もっとも大抵の人間にはめいめいの好みというものはある。たとえて言えば、僕はかつて、自分の好みの特種の自動車が来るまで、ブロード・ウェイの

    酒場

    バア

    で四十五分も待っていた一人の男を見たことがあった。まあ、僕に言わせると、酒場の主人などという者は、そうした人間の選りごのみの癖のお蔭で、三分の一は生活が立っていけるのであろう。で、僕にも大西洋を航海しなければならない時には、ある極まった汽船を期待する癖がある。それはたしかに

    偏寄

    かたよ

    った癖かもしれないが、とにかく、僕には、たった一遍、一生涯忘れられないほどの愉快な航海があった。
     僕は今でもよくそれを覚えている。それは七月のある暑い朝であった。検疫所から来る一艘の汽船を待っている間、税関吏たちはふらふらと波止場を歩いていたが、その姿は特に

    もや

    でぼんやりしていて、いかにも思慮のありそうに見えた。僕には荷物がほとんどなかった、というよりは全くなかったので、乗船客や運搬人や

    真鍮

    しんちゅう

    ボタンの青い

    上衣

    うわぎ

    を着た客引きたちの人波にまじって、その船の着くのを待っていた。
     汽船が着くと、例の客引きたちはいち早く

    きのこ

    のようにデッキに現われて、一人一人の客に世話を焼いていた。僕はある興味をもって、こうした人びとの自発的行動をしばしば注意して見ていたのであった。やがて水先案内が「出帆!」と叫ぶと、運搬夫や、例の真鍮ボタンに青い上衣の連中は、まるでダビー・ジョンスが事実上監督している格納庫へ引き渡されてしまったように、わずかの間にデッキや舷門から姿を消したが、いざ出帆の間ぎわになると、綺麗に

    ひげ

    を剃って、青い上衣を着て、

    祝儀

    チップ

    をもらうのにあくせくしている客引きたちは再びそこへ現われた。僕も急いで乗船した。
     カムチャツカというのは僕の好きな船の一つであった。僕があえて「あった」という言葉を使うのは、もう今ではその船をたいして好まないのみならず、実は二度と再びその船で航海したいなどという愛着はさらさら無いからである。まあ、黙って聞いておいでなさい。そのカムチャツカという船は船尾は馬鹿に綺麗だが、船首の方はなるたけ船を水に

    ひた

    させまいというところから恐ろしく切っ立っていて、下の寝台は大部分が

    二段

    ダブル

    になっていた。そのほかにもこの船にはなかなか優れている点はたくさんあるが、もう僕はその船で二度と航海しようとは思わない。話が少し脇道へそれたが、とにかくそのカムチャツカ号に乗船して、僕はその

    給仕

    スチュワード

    に敬意を表した。その赤い鼻とまっかな頬鬚がどっちとも気に入ったのである。
    「下の寝台の百五号だ」と、大西洋を航海することは、

    下町

    したまち

    のデルモニコ酒場でウィスキーやカクテルの話をするくらいにしか考えていない人間たち特有の事務的の口調で、僕は言った。
     給仕は僕の旅行鞄と外套と、それから毛布を受け取った。僕はそのときの彼の顔の表情を忘れろと言っても、おそらく忘れられないであろう。むろん、かれは顔色を変えたのではない。奇蹟ですら自然の常軌を変えることは出来ないと、著名な神学者連も保証しているのであるから、僕も彼が顔色を真っ蒼にしたのではないというのにあえて

    躊躇

    ちゅうちょ

    しないが、しかしその表情から見て、彼が危うく涙を流しそうにしたのか、

    噴嚔

    くさめ

    をしそこなったのか、それとも僕の旅行鞄を取り落とそうとしたのか、なにしろはっとしたことだけは事実であった。その旅行鞄には、僕の古い友達のスニッギンソン・バン・ピッキンスから

    餞別

    せんべつ

    にもらった上等のシェリー酒が二壜はいっていたので、僕もいささか冷やりとしたが、給仕は涙も流さず、くさめもせず、旅行鞄を取り落とさなかった。
    「では、ど……」と、こう低い声で言って、彼は僕を案内して、地獄(船の下部)へ導いて行った時、この給仕は少し酔っているなと心のなかで思ったが、僕は別になんにも言わずに、その後からついていった。
     百五号の寝台は左舷のずっとあとのほうにあったが、この寝台については別に取り立てて言うほどのこともなかった。カムチャツカ号の上部にある寝台の大部分は皆そうであったが、この下の寝台も二段になっていた。寝台はたっぷりしていて、北アメリカインディアンの心に

    奢侈

    おごり

    の念を起こさせるようなありきたりの洗面装置があり、歯ブラシよりも大型の雨傘が

    らく

    らく掛かりそうな、役にも立たない褐色の木の棚が吊ってあった。余分な掛け蒲団の上には、近代の大諧謔家が

    冷蕎麦

    ひやしそば

    菓子と比較したがるような毛布が一緒に畳んであった。

    ただ

    し、手拭掛けがないのには全く閉口した。ガラス壜には透明な水がいっぱいにはいっていたが、やや褐色を帯びていて、そんなに不快なほどに

    くさ

    くはないが、ややもすれば船よいを感じさせる機械の油の匂いを連想させるような微かな臭味が鼻を打った。僕の寝台には、陰気なカーテンが半分しまっていて、

    もや

    でいぶしをかけられたような七月の日光は、そのわびしい小さな部屋へ淡い光りを投げかけていた。実際その寝台はどうも虫が好かなかった。
     給仕は僕の手提げ鞄を下に置くと、いかにも逃げ出したいような顔をして、僕を見た。おそらくほかの乗客たちのところへ行って、祝儀にありつこうというのであろう。そこで、僕もこうした職務の人たちを手なずけておくほうが便利であると思って、すぐさま彼に小銭をやった。
    「どうぞ行き届きませんところは、ご遠慮なくおっしゃってください」と、彼はその小銭をポケットに入れながら言った。
     しかもその声のうちには、僕をびっくりさせるような

    可怪

    おかし

    な響きがあった。たぶん僕がやった祝儀が足りなかったので、不満足であったのであろうが、僕としては、はっきりと心の不平をあらわしてもらったほうが、黙っていられるよりも

    しだと思った。但し、それが祝儀の不平でないことが後にわかったので、僕は彼を見損なったわけであった。
     その日一日は別に変わったこともなかった。カムチャツカ号は定刻に出帆した。海路は静穏、天気は蒸し暑かったが、船が動いていたので

    さわや

    かな風がそよそよと吹いていた。すべての乗客は船に乗り込んだ第一日がいかに楽しいものであるかを知っているので、

    甲板

    デッキ

    しず

    かに歩いたり、お互いにじろじろ見かわしたり、または同船していることを知らずにいた知人に偶然出逢ったりしていた。
     最初の二回ほど食堂へ出てみないうちは、この船の食事が良いか悪いか、あるいは普通か、見当がつかない。船が

    炎の嶋

    ファイアー・アイランド

    を出ないうちは、天候もまだわからない。最初は食卓もいっぱいであったが、そのうちに人が減ってきた。蒼い顔をした人たちが自分の席から飛び立って、あわただしく入り口の方へ出て行ってしまうので、船に馴れた連中はすっかりいい心持ちになって、うんと腹帯をゆるめて献立表を初めからしまいまで平らげるのである。
     大西洋を一度や二度航海するのとは違って、われわれのように

    たび

    かさなると、航海などは別に珍らしくないことになる。鯨や氷山は常に興味の対象物であるが、しょせん鯨は鯨であり、たまに目と鼻のさきへ、氷山を見るというまでのことである。ただ大洋の汽船で航海しているあいだに一番楽しい瞬間といえば、まず甲板を運動した挙げ句に最後のひと廻りをしている時と、最後の一服をくゆらしている時と、それから適度にからだを疲れさせて、子供のような澄んだ心持ちで自由に自分の部屋へはいるときの感じである。
     船に乗った最初の晩、僕は特に

    ものう

    かったので、ふだんよりは、ずっと早く寝ようと思って、百五号室へはいると、自分のほかにも一人の旅客があるらしいので、少しく意外に思った。僕が置いたのとは反対側の隅に、僕のと全く同じ旅行鞄が置いてあって、上段の寝台――

    上床

    アッパー・バース

    ――にはステッキや

    蝙蝠

    こうもり

    傘と一緒に、毛布がきちんと畳んであった。僕はたった一人でいたかったのでいささか失望したが、いったい僕の同室の人間は何者だろうという好奇心から、彼がはいって来たらその顔を見てやろうと待っていた。
     僕が寝床へもぐり込んでから、ややしばらくしてその男ははいって来た。彼は、僕の見ることのできた範囲では、非常に

    背丈

    せい

    の高い、恐ろしく痩せた、そうしてひどく蒼い顔をした男で、茶色の髪や頬ひげを生やして、灰色の眼はどんよりと曇っていた。僕は、どうも怪しい風体の人間だなと思った。諸君は、ウォール・ストリートあたりを、別に何をしているということもなしにぶらぶらしている種類の人間をきっと見たに相違ない。またはキャフェ・アングレへしばしば現われて、たった一人でシャンパンを飲んでいたり、それから競技場などで別に見物するでもなしにぶらぶらしているような男――彼はそうした種類の人間であった。彼はややおしゃれで、しかもどことなく風変わりなところがあった。こういったふうの人間は大抵どの航路の汽船にも二、三人はいるものである。
     そこで、僕は彼と近づきになりたくないものだと思ったので、彼と顔を合わさないようにするために、彼の日常の習慣を研究しておこうと考えながら眠ってしまった。その以来、もし彼が早く起きれば、僕は彼よりも遅く起き、もし彼がいつまでも寝なければ、僕は彼よりもさきに寝床へもぐり込んでしまうようにしていた。むろん、僕は彼がいかなる人物であるかを知ろうとはしなかった。もし一度こういう種類の男の

    素姓

    すじょう

    を知ったが最後、その男は絶えずわれわれの頭のなかへ現われてくるものである。しかし百五号室における第一夜以来、二度とその気の毒な男の顔を見なかったので、僕は彼について面倒な

    穿索

    せんさく

    をせずに済んだ。
     

    いびき

    をかいて眠っていた僕は、突然に大きい物音で目をさまされた。その物音を調べようとして、同室の男は僕の頭の上の寝台から一足飛びに飛び降りた。僕は彼が不器用な手つきで

    ドア

    の掛け金や

    貫木

    かんぬき

    をさぐっているなと思っているうちに、たちまちその扉がばたりとひらくと、廊下を全速力で走ってゆく彼の

    跫音

    あしおと

    がきこえた。扉は開いたままになっていた。船はすこし揺れてきたので、僕は彼がつまずいて倒れる音がきこえてくるだろうと耳を澄ましていたが、彼は一生懸命に走りつづけてでもいるように、どこへか走っていってしまった。船がゆれるごとに、ばたんばたんと扉が

    あお

    られるのが、気になってたまらなかった。僕は寝台から出て、扉をしめて、闇のなかを手さぐりで寝台へかえると、再び熟睡してしまって、何時間寝ていたのか自分にも分からなかった。

           二

     眼をさました時は、まだ真っ暗であった。僕は変に不愉快な

    悪寒

    さむけ

    がしたので、これは空気がしめっているせいであろうと思った。諸君は海水で

    湿

    しけ

    ている

    船室

    キャビン

    の一種特別な

    にお

    いを知っているであろう。僕は出来るだけ蒲団をかけて、あすあの男に大苦情を言ってやる時のうまい言葉をあれやこれやと考えながら、また、うとうとと眠ってしまった。そのうちに、僕の頭の上の寝台で同室の男が寝返りを打っている音がきこえた。たぶん彼は僕が眠っている間に帰って来たのであろう。やがて彼がむむうとひと声うなったような気がしたので、さては

    船暈

    ふなよい

    だなと僕は思った。もしそうであれば、下にいる者はたまらない。そんなことを考えながらも、僕はまた、うとうとと夜明けまで眠った。
     船は昨夜よりもよほど揺れてきた。そうして、

    舷窓

    まど

    からはいってくる薄暗いひかりは、船の揺れかたによって、その窓が海の方へ向いたり、空の方へ向いたりするたびごとに色が変わっていた。
     七月というのに、馬鹿に寒かったので、僕は頭をむけて窓のほうを見ると、驚いたことには、窓は

    かぎ

    がはずれてあいているではないか。僕は上の寝台の男に聞こえよがしに悪口を言ってから、起き上がって窓をしめた。それからまた寝床へ帰るときに、僕は上の寝台に

    一瞥

    いちべつ

    をくれると、そのカーテンはぴったりとしまっていて、同室の男も僕と同様に寒さを感じていたらしかった。すると、今まで寒さを感じなかった僕は、よほど熟睡していたのだなと思った。
     ゆうべ僕を悩ましたような、変な湿気の臭いはしていなかったが、船室の中はやはり不愉快であった。同室の男はまだ眠っているので、ちょうど彼と顔を合わさずに済ませるにはいい機会であったと思って、すぐに着物を着かえて、甲板へ出ると、空は曇って温かく、海の上からは油のような臭いがただよってきた。僕が甲板へ出たのは七時であった。いや、あるいはもう少し遅かったかもしれない。そこで朝の空気をひとりで吸っていた

    船医

    ドクトル

    に出会った。東部アイルランド生まれの彼は、黒い髪と眼を持った、若い大胆そうな偉丈夫で、そのくせ妙に人を

    きつけるような暢気な、健康そうな顔をしていた。
    「やあ、いいお天気ですな」と、僕は口を切った。
    「やあ。いいお天気でもあり、いいお天気でもなし、なんだか私には朝のような気がしませんな」
     船医は待ってましたというような顔をして、僕を見ながら言った。
    「なるほど、そういえばあんまりいいお天気でもありませんな」と、僕も

    相槌

    あいづち

    を打った。
    「こういうのを、わたしは

    黴臭

    かびくさ

    い天気と言っていますがね」と、船医は得意そうに言った。
    「ときに、ゆうべは馬鹿に寒かったようでしたね。もっとも、あんまり寒いのでほうぼう見まわしたら、窓があいていました。寝床へはいる時には、ちっとも気がつかなかったのですが、お蔭で部屋が

    湿気

    しけ

    てしまいました」と、僕は言った。
    「しけていましたか。あなたの部屋は何号です」
    「百五号です」
     すると、僕のほうがむしろ驚かされたほどに、船医はびっくりして僕を見つめた。
    「どうしたんですか」と、僕はおだやかに

    いた。
    「いや、なんでもありません。ただ最近、三回ほどの航海のあいだに、あの部屋ではみなさんから

    苦情

    くじょう

    が出たものですから……」と、船医は答えた。
    「わたしも苦情を言いますね。どうもあの部屋は空気の流通が不完全ですよ。あんな所へ入れるなんて、まったくひど過ぎますな」
    「実際です。私にはあの部屋には何かあるように思われますがね……。いや、お客さまを怖がらせるのは私の職務ではなかった」
    「いや、あなたは私を怖がらせるなどと、ご心配なさらなくてもようござんすよ。なに、少しぐらいの湿気は我慢しますよ。もし風邪でも引いたら、あなたのご

    厄介

    やっかい

    になりますから」
     こう言いながら、僕は船医にシガーをすすめた。彼はそれを手にすると、よほどの愛煙家とみえて、どこのシガーかを鑑定するように眺めた。
    「湿気などは問題ではありません。とにかくあなたのお体に別条ないということはたしかですからな。同室のかたがおありですか」
    「ええ。一人いるのです。その先生ときたら、夜なかに戸締りをはずして、

    ドア

    をあけ放しておくという厄介者なのですからね」
     船医は再び僕の顔をしげしげと見ていたが、やがて[#「やがて」は底本では「やがで」]シガーを口にくわえた。その顔はなんとなく物思いに沈んでいるらしく見えた。
    「で、その人は帰って来ましたか」
    「わたしは眠っていましたが、眼をさました時に、先生が寝返りを打つ音を聞きました。それから私は寒くなったので、窓をしめてからまた寝てしまいましたが、けさ見ますと、その窓はあいているじゃありませんか……」
     船医は静かに言った。
    「まあ、お聴きなさい。私はもうこの船の評判なぞはかまっていられません。これから私のすることをあなたにお話し申しておきましょう。あなたはどういうおかたか、ちっとも知りませんが、私は相当に広い部屋をここの上に持っておりますから、あなたは私と一緒にそこで寝起きをなさい」
     こうした彼の申しいでには、僕も少なからず驚かされた。どうして船医が急に僕のからだのことを思ってくれるようになったのか、なにぶん想像がつかなかった。なんにしても、この船について彼が話した時の態度はどうも変であった。
    「いろいろとご親切にありがとうございますが、もう船室も空気を入れ替えて、湿気も何もなくなってくると思います。しかしあなた、なぜこの船のことなんかかまわないと言われるのですか」と、私は訊いた。
    「むろん、私たちは医者という職業の上からいっても、迷信家でないことは、あなたもご承知くださるでしょう。が、海というものは人間を迷信家にしてしまうものです。私はあなたにまで迷信をいだかせたくはありませんし、また恐怖心を起こさせたくもありませんが、もしもあなたが私の忠告をおいれくださるなら、とにかく私の部屋へおいでなさい」
     船医はまた次のように言葉をつけ加えた。
    「あなたが、あの百五号船室でお

    やす

    みになっているということを聞いた以上、やがてあなたが海へ落ち込むのを見なければならないでしょうから……。もっとも、これはあなたばかりではありません」
    「それはどうも……。いったいどうしたわけですか」
     僕は訊き返すと、船医は沈みがちに答えた。
    「最近、三航海のあいだに、あの船室で寝た人たちはみんな海のなかへ落ち込んでしまったという事実があるのです」
     僕は告白するが、人間の知識というものほど恐ろしく不愉快なものはない。僕はこのなまじいな知識があったために、かれが僕をからかっているのかどうかを見きわめようと思って、じっとその顔を穴のあくほど見ていたが、船医はいかにも真面目な顔をしているので、僕は彼のその申しいでを心から感謝するとともに、自分はその特別な部屋に寝たものは誰でも海へおちるという因縁の、除外例の一人になってみるつもりであるということを船医に語ると、彼はあまり反対もしなかったが、その顔色は前よりも更に沈んでいた。そうして、今度逢うまでにもう一度、彼の申しいでをよく考えたほうがよかろうということを、

    暗暗裡

    あんあんり

    にほのめかして言った。
     それからしばらくして、僕は船医と一緒に朝飯を食いにゆくと、食卓にはあまり船客が来ていなかったので、僕はわれわれと一緒に食事をしている一、二名の高級船員が妙に沈んだ顔をしているのに気づいた。朝飯が済んでから、僕は書物を取りに自分の部屋へゆくと、上の寝台のカーテンはまだすっかりしまっていて、なんの音もきこえない。同室の男はまだ寝ているらしかった。
     僕は部屋を出たときに、僕をさがしている給仕に出逢った。彼は船長が僕に逢いたいということをささやくと、まるである事件から

    のが

    れたがっているかのように、そそくさと廊下を駈けていってしまった。僕は船長室へゆくと、船長は待ち受けていた。
    「やあ、どうもご足労をおかけ申して済みませんでした。あなたにちとお願いいたしたいことがございますもので……」と、船長は口を切った。
     僕は自分に出来ることならば、なんなりとも遠慮なくおっしゃってくださいと答えた。
    「実は、あなたの同室の船客が行くえ不明になってしまいました。そのかたはゆうべ宵のうちに船室にはいられたことまでは分かっているのですが、あなたはそのかたの態度について、何か不審な点をお気づきになりませんでしたか」
     たった三十分前に、船医が言った恐ろしい事件が実際問題となって僕の耳にはいった時、僕は思わずよろけそうになった。
    「あなたがおっしゃるのは、わたしと同室の男が海へ落ち込んだという意味ではないのですか」
     僕は訊き返すと、船長は答えた。
    「どうもそうらしいので、わたしも心配しておるのですが……」
    「実に不思議なこともあればあるものですな」
    「なぜですか」と、今度は船長が訊き返した。
    「では、いよいよあの男で四人目ですな」
     こう言ってから、僕は船長の最初の質問の答えとして、船医から聞いたとは言わずに、百五号船室に関して聞いた通りの物語を明細に報告すると、船長は僕が何もかも知っているのにびっくりしているらしかった。それから、僕はゆうべ起こった一部始終を彼にすっかり話して聞かせた。
    「あなたが今おっしゃった事と、今までの三人のうち二人の投身者と同じ船室にいた人がわたしに話された事と、ほとんど全く一致しています」と、船長は言った。「前の投身者たちも寝床から

    おど

    り出すと、すぐに廊下を走っていきました。三人のうち二人が海中に落ち込むのを見張りの水夫がみつけたので、私たちは船を停めて救助艇をおろしましたが、どうしても発見されませんでした。もし、ほんとうに投身したとしても、ゆうべは誰もそれを見た者も聴いた者もなかったのです。あの船室を受け持ちの給仕は迷信の強い男だものですから、どうも何か悪いことが起こりそうな気がしたというので、けさあなたの同室の客をそっと見にゆくと、寝台は

    から

    になって、そこにはその人の着物が、いかにもそこへ残しておいたといった風に散らかっていたのです。この船中であなたの同室の人を知っているのはあの給仕だけなので、彼は

    くま

    なく船中を捜しましたが、どうしてもその行くえが分からないのです。で、いかがでしょう、この出来事を他の船客たちに洩らさないようにお願いいたしたいのですが……。私はこの船に悪い名を付けさせたくないばかりでなく、この投身者の噂ほど船客の頭を

    脅迫

    おびやか

    すものはありませんからな。そうしてあなたには、高級船員の部屋のうちのどれか一つに移っていただきたいのですが……。むろん、わたしの部屋でも結構です。いかがです、これならばまんざら悪い条件ではないと思いますが……」
    「非常に結構です」と、僕も言った。「いかにも承知いたしました。が、私はあの部屋が独占できるようになったのですから、むしろそこにじっとしていたいと思うのです。もし給仕があの不幸な男の荷物を出してしまってくれれば、わたしは喜んで今の部屋に残っています。もちろん、この事件については何事も洩らしませんし、また、自分はあの同室の男の二の舞はしないということを、あなたにお約束できるつもりでいます」
     船長は僕のこの向う見ずな考えを

    諫止

    かんし

    しようと

    つと

    めたが、[#「、」は底本では「、、」]僕は高級船員の

    居候

    いそうろう

    を断わって、かの一室を独占することにした。それは馬鹿げた事であったかどうかは知らないが、もしもその時に船長の忠告を容れたならば、僕は平平凡凡の航海をして、おそらくこうして諸君に話すような奇怪な経験は得られなかったであろう。今まで百五号船室に寝た人間のあいだに起こった再三の投身事件の不快な一致点は船員らの頭に残っているだろうが、もうそんな一致点などは未来

    永劫

    えいごう

    なくしてみせるぞと、僕は

    はら

    のなかで決心した。
     いずれにしても、その事件はまだ解決しなかった。僕は

    断乎

    だんこ

    として、今までのそんな怪談に心をみだされまいと決心しながら、船長とこの問題について、なおいろいろの議論を闘わした。僕は、どうもあの部屋には何か悪いことがあるらしいと言った。その証拠には、ゆうべは窓があけ放しになっていた。僕の同室の男は乗船して来たときから病人じみてはいたけれども、彼が寝床へはいってからは更に気違いのようになっていた。とは言うものの、あの男は船中のどこかに隠れていて、いまに発見されるかもしれないが、とにかく、あの部屋の空気を入れ替えて、窓を注意してしっかりしめておく必要があるから、もしも私にもう

    御用

    ごよう

    がなければ、部屋の通風や窓の締りがちゃんと出来ているかどうかを見とどけて来たいと、僕は船長に言った。
    「むろん、あなたがそうしたいとお思いなら、現在の所におとどまりなさるのはあなたの権利ですけれども……。私としては、あなたにあの部屋を出ていただいて、すっかり錠をおろして、保管しておかせてもらいたいのです」と、船長はいくらかむっとしたように言った。
     僕はあくまでも素志を曲げなかった。そうして、僕の同室の男の失踪に関しては全然沈黙を守るという約束をして、船長の部屋を辞した。
     僕の同室の男の知人はこの船中にいなかったので、彼が行くえ不明になったからといって、歎く者は一人もなかった。夕方になって、僕はふたたび船医に逢った。船医は僕に、決心をひるがえしたかどうかを聞いたので、僕はひるがえさないと答えた。
    「では、あなたもやがて……」と言いながら、船医は顔を暗くした。

           三

     その晩、僕らはトランプをして、遅くなってから寝ようとした。今だから告白するが、実を言うと、自分の部屋へはいった時はなんとなく

    いや

    な感動に胸を

    おど

    らせたのである。僕はいくら考えまいとしても、今ごろはもう溺死して、二、三マイルもあとの方で長い波のうねりに揺られている、あの

    背丈

    せい

    の高い男のことが考え出されてならなかった。寝巻に着替えようとすると、眼の前にはっきりと彼の顔が浮きあがってきたので、僕はもう彼が実際にいないということを自分の心に

    納得

    なっとく

    させるために、上の寝台のカーテンをあけ放してみようかとさえ思ったくらいであった。
     なんとなく気味が悪かったので、僕も入り口の扉の

    貫木

    かんぬき

    をはずしてしまった。しかも窓が不意に音を立ててあいたので、僕は思わずぎょっとしたが、それはすぐにまたしまった。あれだけ窓をしっかりとしめるように言いつけておいたのにと思うと、僕は腹が立ってきて、急いで部屋着を引っかけて、受け持ちの給仕のロバートを探しに飛び出した。今でも忘れないが、あまりに腹を立てていたので、ロバートを見つけるとあらあらしく百五号室の戸口までひきずって来て、あいている窓の方へ突き飛ばしてやった。
    「毎晩のように窓をあけ放しにしておくなんて、なんという間抜けな真似をするのだ、横着野郎め。ここをあけ放しにしておくのは、船中の規定に反するということを、貴様は知らないのか。もし船が傾いて水が流れ込んでみろ。十人かかっても窓をしめることが出来なくなるぐらいのことは知っているだろう。船に危険をあたえたことを船長に報告してやるぞ、悪者め」
     僕は極度に興奮してしまった。ロバートは真っ蒼になって

    ふる

    えていたが、やがて重い真鍮の

    金具

    かなぐ

    をとって窓の丸いガラス戸をしめかけた。
    「なぜ、貴様はおれに返事をしないのだ」と、僕はまた

    呶鳴

    どな

    り付けた。
    「どうぞご勘弁なすってください、お客さま」と、ロバートは

    ども

    りながら言った。「ですが、この窓をひと晩じゅうしめておくことの出来るものは、この船に一人もいないのです。まあ、あなたが自分でやってごらんなさい。わたくしはもう恐ろしくって、この船に

    一刻

    いっとき

    も乗ってはいられません。お客さま、わたくしがあなたでしたら、早速この部屋を引き払って、船医の部屋へ行って寝るとか、なんとかいたしますがね。さあ、あなたがおっしゃった通りにしめてあるかないか、よくごらんなすった上で、ちょっとでも動くかどうか手で動かしてみてください」
     僕は窓の戸を動かしてみたが、なるほど固くしまっていた。
    「いかがです」と、ロバートは勝ち誇ったように言葉をつづけた。「手前の一等給仕の

    折紙

    おりかみ

    に賭けて、きっと半時間経たないうちにこの戸がまたあいて、またしまることを保証しますよ。恐ろしいことには、ひとりでにしまるんですからね」
     僕は大きい

    螺旋

    ねじ

    や鍵止めを調べてみた。
    「よし、ロバート。もしもひと晩じゅうにこの戸があいたら、おれはおまえに一ポンドの金貨をやろう。もう大丈夫だ。あっちへ行ってもいい」
    「一ポンドの金貨ですって……。それはどうも……。今からお礼を申し上げておきます。では、お

    やす

    みなさい。こころよい休息と楽しい夢をごらんなさるように、お客さま」
     ロバートは、いかにもその部屋を去るのが嬉しそうなふうをして、足早に出て行った。むろん、彼は愚にもつかない話をして僕を怖がらせておいて、自分の怠慢をごまかそうとしたのだと、僕は思っていた。ところがその結果は、彼に一ポンドの金貨をせしめられた上に、きわめて不愉快な一夜を送ることになったのである。
     僕は寝床へはいって、自分の毛布でからだを包んでから、ものの五分も経たないうちにロバートが来て、入り口のそばの丸い鏡板のうしろに絶え間なく輝いていたランプを消していった。僕は眠りに入ろうとして、闇のなかに静かに横たわっていたが、とても眠られそうもないことに気がついた。しかし彼を呶鳴りつけたので、ある程度まで気が

    せい

    せいしたせいか、一緒の部屋にいたあの溺死者のことを考えたときに感じたような不愉快な気分はすっかり忘れてしまった。それにもかかわらず、僕はもう眠気が去ったので、しばらくは床のなかで眼をあけながら、時どきに窓の方をながめていた。その窓は僕の寝ている所から見あげると、あたかも闇のなかに吊るしてある弱いひかりのスープ皿のように見えた。
     それから一時間ばかりは、そこに横たわっていたように思うが、

    折角

    せっかく

    うとうとと眠りかけたところへ、冷たい風がさっと吹き込むと同時に、僕の顔の上に海水の

    飛沫

    しぶき

    がかかったので、はっと眼をさまして飛び起きると、船の動揺のために足をすくわれて、ちょうど窓の下にある長椅子の上に激しくたたきつけられた。しかし僕はすぐに気を取り直して膝で

    った。その時、窓の戸がまたいっぱいにあいて、またしまったではないか。
     これらの事実はもう疑う余地がない。僕が起きあがった時にはたしかに眼をあけていたのである。また、たとい僕が夢うつつであったとしても、こんなに

    いや

    というほどたたきつけられて眼を醒まさないという法はない。そのうえ僕は肘と膝とによほどの怪我をしているのであるから、僕自身がその事実を疑うと仮定しても、これらの傷が明くる朝になってじゅうぶんに事実を証明すべきであった。あんなにちゃんとしめておいたはずの窓が自然に開閉する――それはあまりにも不可解であるので、初めてそれに気づいた時には、恐ろしいというよりもむしろ

    ただ

    びっくりしてしまったのを、僕は今でもありありと記憶している。そこで、僕はすぐにそのガラス戸をしめて、あらん限りの力を絞ってその鍵をかけた。
     部屋は真っ暗であった。僕はロバートが僕の見ている前でその戸をしめた時に、また半時間のうちに必ずあくと言った言葉を想い起こしたので、その窓がどうしてあいたのかを調べてみようと決心した。真鍮の金具類は非常に頑丈に出来ているものであるから、ちっとのことでは動くはずがないので、

    螺旋

    ねじ

    が動揺したぐらいのことで締め金がはずれたとは、僕にはどうも信じられなかった。僕は窓の厚いガラス戸から、窓の下で泡立っている白と灰色の海のうねりをじっと覗いていた。なんでも十五分間ぐらいもそこにそうして立っていたであろう。
     突然うしろの寝台の一つで、はっきりと何物か動いている音がしたので、僕ははっとしてうしろを振り返った。むろんに暗やみのことで何ひとつ見えなかったのである。僕は非常にかすかな

    うな

    り声を聞き付けたので、飛びかかって上の寝台のカーテンをあけるが早いか、そこに誰かいるかどうかと手を突っ込んでみた。すると、確かに

    手応

    てごた

    えがあった。
     今でも僕は、あの両手を突っ込んだときの感じは、まるで

    湿

    しめ

    った穴蔵へ手を突っ込んだように冷やりとしたのを覚えている。カーテンのうしろから、恐ろしくよどんだ海水の臭いのする風がまたさっと吹いてきた。そのとたんに、僕は何か男の腕のような、すべすべとした、濡れて氷のように冷たい物をつかんだかと思うと、その怪物は僕の方へ猛烈な勢いで飛びかかってきた。ねばねばした、重い、濡れた泥のかたまりのような怪物は、超人のごとき力を有していたので、僕は部屋を横切ってたじたじとなると、突然に入り口の扉がさっとあいて、その怪物は廊下へ飛び出した。
     僕は恐怖心などを起こす余裕もなく、すぐに気を取り直して同じく部屋を飛び出して、無我夢中に彼を追撃したが、とても追いつくことは出来なかった。十ヤードもさきに、たしかに薄黒い影がぼんやりと火のともっている廊下に動いているのを目撃したが、その速さは、あたかも闇夜に馬車のランプの光りを受けた

    駿馬

    しゅんめ

    の影のようであった。その影は消えて、僕のからだは廊下の明かり窓の

    手欄

    てすり

    に支えられているのに気がついた時、初めて僕はぞっとして髪が逆立つと同時に、冷や汗が顔に流れるのを感じた。といって、僕は少しもそれを恥辱とは思わない。だれでも極度の恐怖に打たれれば、冷や汗や髪の逆立つぐらいは当然ではないか。
     それでもなお、僕は自分の感覚を疑ったので、つとめて心を落ち着かせて、これは

    くだ

    らないことだとも思った。薬味付きのパンを食ったのが腹に

    たま

    っていたので、悪い夢を見たのだろうと思いながら、自分の部屋へ引っ返したが、からだが痛むので、歩くのが容易でなかった。部屋じゅうはゆうべ僕が目をさました時と同じように、よどんだ海水の臭いで息が詰まりそうであった。僕は勇気を

    して内へはいると、手探りで旅行鞄のなかから蝋燭の箱を取り出した。そうして、消燈されたあとに読書したいと思うときの用意に持っている、汽車用の手燭に火をつけると、窓がまたあいているので、僕はかつて経験したこともない、また二度と経験したくもない、うずくような、なんともいえない恐怖に襲われた。僕は手燭を持って、たぶん海水たびしょ濡れになっているだろうと思いながら、上の寝台を調べた。
     しかし僕は失望した。実のところ、何もかも

    いや

    な夢であった昨夜の事件以来、ロバートは寝床を整える勇気はあるまいと想像していたのであったが、案に相違して寝床はきちんと整頓してあるばかりか、非常に潮くさくはあったが、夜具はまるで骨のように乾いていた。僕は出来るだけいっぱいカーテンを引いて、細心の注意を払って

    くま

    なくその中をあらためると、寝床はまったく乾いていた。しかも窓はまたあいているではないか。僕はなんということなしに恐怖の観念に

    られながら窓をしめて、鍵をかけて、その上に僕の頑丈なステッキを真鍮の環の中へ通して、丈夫な金物が曲がるほどにうん

    じた。それからその手燭の

    かぎ

    を、自分の寝台の頭のところに垂れている赤い

    天鵞絨

    ビロード

    [#「天鵞絨」は底本では「天鷲絨」]へ引っかけておいて、気を鎮めるために寝床の上に坐った。僕はひと晩じゅうこうして坐っていたが、気を落ち着けるどころの騒ぎではなかった。しかし、窓はさすがにもうあかなかった。僕もまた神わざでない限りは、もう二度とあく気づかいはないと信じていた。
     ようように夜があけたので、僕はゆうべ起こった出来事を考えながら、ゆっくりと着物を着かえた。非常によい天気であったので、僕は甲板へ出て、いい心持ちで清らかな朝の日光にひたりながら、僕の部屋の腐ったような臭いとはまるで違った、薫りの高い

    青海原

    あおうなばら

    のそよ風を胸いっぱいに吸った。僕は知らず識らずのうちに船尾の船医の部屋の方へむかってゆくと、船医はすでに船尾の甲板に立って、パイプをくわえながら前の日とまったく同じように朝の空気を吸っていた。
    「お早う」と、彼はいち早くこう言うと、明らかに好奇心をもって僕の顔を見守っていた。
    「先生、まったくあなたのおっしゃった通り、たしかにあの部屋には何かが

    いていますよ」と、僕は言った。
    「どうです、決心をお変えになったでしょう」と、船医はむしろ勝ち誇ったような顔をして僕に答えた。「ゆうべはひどい目にお逢いでしたろう。ひとつ興奮飲料をさし上げましょうか、素敵なやつを持っていますから」
    「いや、結構です。しかし、まずあなたに、ゆうべ起こったことをお話し申したいと思うのですが……」と、僕は大きい声で言った。
     それから僕は出来るだけ詳しくゆうべの出来事の報告をはじめた。むろん、僕はこの年になるまで、あんな恐ろしい思いをした経験はなかったということをも、つけ加えるのを忘れなかった。特に僕は窓に起こった現象を詳細に話した。実際、かりに他のことは一つの幻影であったとしても、この窓に起こった現象だけは誰がなんといっても、僕は明らかに証拠立てることの出来る奇怪の事実であった。現に僕は二度までも窓の戸をしめ、しかも二度目には自分のステッキで

    螺旋鍵

    ねじかぎ

    を固くねじて、真鍮の金具を曲げてしまったという点だけでも、僕は大いにこの不可思議を主張し得るつもりであった。
    「あなたは、私が好んであなたのお話を疑うとお思いのようですね」と、船医は僕があまりに窓のことを詳しく話すので

    微笑

    ほほえ

    みながら言った。「私はちっとも疑いませんよ。あなたの携帯品を持っていらっしゃい。二人で私の部屋を半分ずつ使いましょう」
    「それよりもどうです。わたしの船室においでなすって、二人でひと晩を過ごしてみませんか。そうして、この事件を根底まで探るのに、お力添えが願えませんでしょうか」
    「そんな根底まで探ろうなどとこころみると、あべこべに根底へ沈んでしまいますよ」と、船医は答えた。
    「というと……」
    「海の底です。わたしはこの船をおりようかと思っているのです。実際、あんまり愉快ではありませんからな」
    「では、あなたはこの根底を探ろうとする私に、ご援助くださらないのですか」
    「どうも私はごめんですな」と、船医は口早に言った。「わたしは自分を冷静にしていなければならない立場にあるもので、化け物や怪物をなぶり廻してはいられませんよ」
    「あなたは化け物の

    仕業

    しわざ

    だと本当に信じていられるのですか」と、僕はやや軽蔑的な口ぶりで聞きただした。
     こうは言ったものの、ゆうべ自分の心に起こったあの超自然的な恐怖観念を僕はふと思い出したのである。船医は急に僕の方へ向き直った。
    「あなたはこれらの出来事を化け物の

    仕業

    しわざ

    でないという、たしかな説明がお出来になりますか」と、彼は

    反駁

    はんばく

    してきた。「むろん、お出来にはなりますまい。よろしい。それだからあなたはたしかな説明を得ようというのだとおっしゃるのでしょう。しかし、あなたには得られますまい。その理由は簡単です。化け物の仕業という以外には説明の

    仕様

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