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2009年1月28日 (水)

勅使河原宏監督作品『十二人の写真家』予告編

勅使河原宏監督作品『十二人の写真家』予告編
http://jp.youtube.com/watch?v=49TYno6l_OU

「十二人の写真家」  1955年/49分/16mm→DVD
[スタッフ]
  監督 : 勅使河原宏
  企画 : 亀倉雄策       製作 : 永井嘉一 
  撮影 : 御木本良       解説 : 吉田謙司
[出演]
   木村伊兵衛    三木淳    大竹省二     秋山庄太郎
   林忠彦      真継不二夫  早田雄二     濱谷浩
   稲村隆正    渡辺義雄     田村茂    土門拳
   (登場順)

[解説]
 映画『十二人の写真家』は、1955年(昭和30年)に写真雑誌『フォトアート』(研光社1949~1977)の創刊6周年を記念し、読者に向けて、プロのカメラマンたちの撮影風景を鑑賞して写真撮影に親しんでもらおうと制作された映画です。
 内容は文字通り、一線で活躍していた12人の写真家-木村伊兵衛、三木淳、大竹省二、秋山庄太郎、林忠彦、真継不二夫、早田雄二、濱谷浩、稲村隆正、渡辺義雄、田村茂、土門拳の撮影の模様を記録したもので、監督は美術・映画・書など分野を問わず活躍した、巨匠・勅使河原宏です。
 映画『十二人の写真家』が作られた1955年の日本は、戦後復興期から高度成長期への移行期、つまり二つの時代の谷間にありました。それゆえ、日本社会が写真家にもとめるものの質も、写真をとりまくメディアの状況も急速に変わりはじめていました。
この映画の中には、時代の過渡期に生きる写真家たちの仕事の模様が鮮明に記録されています。
カルティエ=ブレッソンに会った直後だという木村伊兵衛は早撮りに挑戦し、文士写真の第一人者・林忠彦は武者小路実篤を、建築写真の第一人者・渡辺義雄は神奈川県立音楽堂を撮影します。監督・勅使河原宏の妹である勅使河原霞(草月流二代目家元)を撮影する三木淳、中国貿易視察団の来日のドキュメント写真を撮影する田村茂、スタジオで「婦人画報」用の写真を撮影する女性写真の大家・秋山庄太郎など、偉大な写真家の貴重な撮影現場が映されています。濱谷浩は日本海に暮らす人々を、大竹省二は鵠沼海岸でモデルを、土門拳は廃墟で遊ぶ子どもたちを撮影し、写真家ごとに語られるモノローグでは、真継不二夫が「撮影される側になると照れてしまう」と、早田雄二が「撮影現場では明朗な雰囲気づくりを心がけている」と、稲村隆正が「私はいつまでも女の写真を撮り続ける」と吐露します。
これら十二人の写真家たちのその後を見ると、それぞれがそれぞれの思いを抱えながらも環境の変化に対応し、代表作というべき仕事を発表していきます。この映画のなかには、現代に繋がる戦後写真の原形というものが現れていると云えるかも知れません。
写真表現が多様化している今日、改めて“原点”を見つめていただけたらと思います。
1955年に制作された映画『十二人の写真家』の配給業務を行っております。
自主上映会、興行によるロードショーでの上映など、どのような上映形態も受け付けております。
ポレポレ東中野  www.mmjp.or.jp/pole2/
http://www.mmjp.or.jp/pole2/12nin-no-shashinka-haikyu.html
 
勅使河原 宏(てしがはら ひろし、1927年1月28日 - 2001年4月14日)は、華道三大流派と呼ばれるうちのひとつ、草月流三代目家元、映画監督。
勅使河原宏は1927年1月28日にいけばな草月流の創始者勅使河原蒼風の長男として東京で生まれた。東京の私立暁星中学を経て、昭和19年東京美術学校(現・東京芸術大学)の日本画学科に入学し、日本画を学ぶが、3年後に洋画科に転じる。在学中からピカソや岡本太郎などの前衛芸術に傾倒し、安部公房や関根弘らによる前衛芸術の会「世紀」に参加。卒業後の28年、友人から美術映画「北斎」の企画を持ち込まれ、これを監督したことから映画界に入り、亀井文夫監督の記録映画「砂川」「生きていてよかった」「世界は恐怖する」などの制作に協力したのを経て、木下恵介を師事した。のち松山善三、羽仁進、草壁久四郎、荻昌弘ら同世代の映画人とシネマ57を結成し、集団実験フィルム「東京1958」を制作。34年に父蒼風に従って渡米した際、16ミリキャメラを携えており、旅行先で知り合ったプエルトリコ系のプロボクサー、ホゼー・トーレスのトレーニングから試合までの様子を記録した短編「ホゼー・トーレス」を発表。この間、アートシアター運動の中心人物としてその組織化に尽力し、37年安部公房脚本のテレビドラマを映画化した自身初の長編劇映画「おとし穴」を監督、これがアート・シアター・ギルド初の日本映画作となった。39年に勅使河原プロを設立。同年再び安部と組み、砂の穴に閉じ込められた女と男を通じて人間の本質を描いた野心作「砂の女」を映画化し、カンヌ国際映画祭審査員特別賞、サンフランシスコ映画祭銀賞、毎日映画コンクール作品賞、キネマ旬報ベスト1位を獲得。さらにアカデミー賞監督賞・外国語映画賞にノミネートされるなど、国内外で絶賛され、「砂の女」は自他共に認める生涯最高の代表作となった。以後も41年「他人の顔」「インディース長編記録映画・暴走」、43年「燃え尽きた地図」などで国際的に高く評価され、43年には日本人初のアカデミー賞審査員を務めたが、47年米軍岩国基地のドキュメント「サマー・ソルジャー」のあとはしばらく映画を離れ、福井県宮崎村の草月陶苑で越前焼の作陶に打ち込んだ。しかし54年に父が、55年に2代目家元を継いでいた妹の霞が相次いで死去し、草月流3代目家元を継承。59年にはスペインの建築家ガウディを題材とした「アントニー・ガウディ」で映画界に復帰し、62年から「草月シネマパーク」を再開した。平成元年には久々の劇映画となる野上弥生子原作の「利休」を風格ある大作にまとめあげ、モントリオール世界映画祭最優秀芸術賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど、健在ぶりを示し、平成4年には富士正晴原作の「豪姫」を監督した。華道家としては複数人で行う生け花『連花』を提唱し、また5年のパリ日本文化祭での大茶会をプロデュースした。作庭やオペラ出演、テレビのドキュンメンタリー番組にも手を広げ、多彩な芸術活動を体験に根ざした新しい華道家として注目を集めた。平成13年(2001年)4月14日、逝去。74歳だった。
勅使河原宏 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E4%BD%BF%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E5%AE%8F

TeshigaharaHiroshi.com(勅使河原宏 公式サイト) http://www.sogetsu.or.jp/teshigaharahiroshi.com/

新日曜美術館 アートシーン “勅使河原宏展 限りなき越境の軌跡”ほか
放送日2007年8月19日  チャンネルデジタル教育

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