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2009年5月31日 (日)

能 「野守の鏡」

出羽の羽黒山より山伏が葛城山へ修行にゆく途中、大和の春日野に来て老翁と出会う。老人はこの土地の野を守っている者だと名乗り、由緒ありげな水たまりのいわれを山伏に伝えた。。
「私たちのような野守が朝夕姿を映すので、野守の鏡と申します。まことの野守の鏡とは、昔この塚に住んで、昼は人となってこの野を守っていた鬼神が持っていた鏡のことです」
昼間は人の姿に身を変えて、夜は本来の鬼に戻って鬼神が持つ鏡のだという。 

「はし鷹の野守の鏡、得てしかな、思い思はず、よそながら見ん」
と詠った和歌があるが、この池の事かと山伏は訪ねた。
「その昔春日の里で鷹狩りが行われましたが、皇帝は鷹を見失ってしまいました。探し求めていますとひとりの野守に出会いました。皇帝が鷹の行方を尋ねますと、その鷹ならこの水たまりの底に居ますよと答えます。なるほど水面にみごとな鷹が映っているではありませんか。よくみれば、樹の枝に鷹がとまって映っているのでした」
老人は昔の話しをしていると、若かりし頃を思い出して懐かしくなり涙する。
山伏は本物の鏡を見てみたいという。野守は鬼神の鏡は恐ろしい物なので、この池の水鏡を見るだけにしておくようにといい残して塚の中へ姿をくらました。

ふたたび里人から「野守の鏡」の話を聞き、山伏はみどうしても見たい物だと思った。
やがて先ほどの野守が鬼神の化身だったと気が付いて夜が訪れる。
塚にむかって珠数を揉み一心不乱に祈った。山伏の読経にひかれ、鬼神が現れる。
燃えるような紅蓮の瞳。 手には鏡。一片の曇り無き鏡。
姿は鬼だが、心に邪な気持ちなど無い。この鏡こそがその証。
山伏は雲よりも高い山に身命をかけて、時間を惜しんで修行したので、この奇特に出会えた。
「野守の鏡」で周囲を照らせば、鏡は照魔鏡となる。
鬼神は持っていた鏡で天地東西南北、天界から地獄までを映して見せた。
「この鏡は天界から地獄までくまなく映す鏡。地獄に堕ちた人の罪の軽重も獄卒に鉄状で打たれる有様も映し出す明鏡の宝なれ」
数々の護法童子の姿。四方を見渡せば、仏法を守護する五大明王が映る。
天を照らせば地上の人々の生活、人の生涯が、また大地を照らせば罪の軽重、地獄の責め苦が冷ややかに映し出される。
閻魔大王の持つ浄玻璃の鏡もかくや、という通力である。
これぞ真の「野守の鏡」。鬼神にすら邪道を捨てさせる、鏡の中の鏡。
山伏に鏡の威徳を示すと、大地を踏み破って、鬼神は奈落の底・地獄へと帰っていくのだった。

 
野守の意味、古今、新古今の2首、修験道の知識、仏教の知識、奈良の地理、古代の歴史、これらが鑑賞を助ける。
http://blog.livedoor.jp/kinnyuuronnsawa/archives/2007-05.html

2009年5月30日 (土)

六輪一露

禅竹により考え出された能と音曲・舞の理論体系。
六輪は寿輪(色心不二)・竪輪(位無上)・住輪(万曲之安所)・像輪(品々の物まね)・破輪(異相の風)・空輪(空々寂然)、一露は六輪を貫く「精根の神」で利剣に象徴される。     
   イ. 第一 寿輪 「歌舞幽玄の根源、見風聞曲して感を成すの器なり。
             円満長久の寿命たるに依って、寿輪と名つく。」
   ロ. 第二 堅輪 「この立ち上る点、精神と成りて、横・竪顕はれ
             清曲生ず。これすなわち、無上上果の感主たり。」
   ハ. 第三 住輪 「短所の所、諸体の生曲を成ずる安所なり。」
   ニ. 第四 像輪 「天衆地類、森羅万象、この輪に治まる。」
   ホ. 第五 破輪 「天地十方、無尽異相の形を成すも、本来この輪中に生ず。しかれども、仮に円相を破るの儀を以っての故に、破輪と名付る也。」
   へ. 第六 空輪 「無主無色の位、向去却来して、また本の寿輪に帰す。」
   ト. 一露    「無上の重位にして、空・色の二見に落ちず、自在無碍にして一塵もさはる事なし。これすなはち性剣の形と成る。」

金春禅竹 1405~70? 室町中期の能役者、能作者。禅竹は法名で、実名は氏信。金春大夫。大和猿楽(→ 猿楽)の円満井(えんまい)座の棟梁(とうりょう)。
世阿弥の女婿だったこともあって、「拾曲得花(しゅうぎょくとっか)」などの伝書を世阿弥から相伝されている。また禅竹も、晩年に佐渡に配流された世阿弥の妻寿椿(じゅちん)を扶養したりしている。世阿弥が禅竹の将来を嘱望していたことは、「却来華(きゃくらいか)」などの世阿弥の記述からうかがわれる。世阿弥没後、その期待どおり、音阿弥(おんあみ)とともに能界を代表する存在として活躍し、本拠地の大和をはじめ畿内から北陸道まで広範囲の活動をみせた。それによって、金春座は観世座に対抗する勢力として伸長することとなる。

能の理論にもすぐれ、「五音之次第」「歌舞髄脳記」「六輪一露之記」「明宿集(めいしゅくしゅう)」などの能楽論をあらわしている。その意味でも世阿弥の後継者とよぶにふさわしい人物であった。ただし、これらの伝書は仏教哲理や歌論の用語・論理をかりて能の本質を説こうとしているため、難解である。能作者としては、「賀茂」「定家」「芭蕉(ばしょう)」「玉葛(たまかずら)」「楊貴妃」「小塩(おしお)」「小督(こごう)」などの作品をのこしている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%98%A5%E7%A6%85%E7%AB%B9

2009年5月28日 (木)

六根は五感と第六感という意識の根幹

六根は五感と第六感という意識の根幹

眼根(視覚)
耳根(聴覚)
鼻根(嗅覚)
舌根(味覚)
身根(触覚)
意根(意識)

六根は人の認識の根幹。
我欲と執着にまみれていては、正しい道を往くことにならない。
執着を断ちて魂を清らかな状態をめざす。
不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じないようにする。

2009年5月24日 (日)

倉橋 由美子(くらはし ゆみこ、1935年10月10日 - 2005年6月10日)

 日本の小説家・作家。本名:熊谷(くまがい)由美子、旧姓:倉橋。

高知県香美郡土佐山田町(現香美市)に歯科医の長女として生まれる。私立土佐高等学校を経て、日本女子衛生短期大学を卒業、歯科衛生士国家試験に合格する。その後、明治大学文学部に入学して斎藤正直の指導を受け、中村光夫に学んだ。卒業論文ではサルトルの『存在と無』をとりあげた。卒業後大学院に進学し、在学中の1960年、『明治大学新聞』に小説『パルタイ』を発表し、平野謙が『毎日新聞』文芸時評欄でとりあげて注目される。『パルタイ』は、『文学界』に転載され芥川賞の候補となった。続いて「夏の終り」で芥川賞候補となったが、受賞はしなかった。同年、短編集『パルタイ』を上梓し、翌年女流文学者賞を受賞。1963年田村俊子賞受賞。「第三の新人」以後の新世代作家として石原慎太郎、開高健、大江健三郎らと並び称せられ、特に作風や学生時代にデビューしたという共通点のある大江とは比較される事が多かった。

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61年刊行の『暗い旅』は、主人公を「あなた」としたが、ミシェル・ビュトールの『心変わり』の真似に過ぎないのではないかと江藤淳に指摘され、「外国文学模倣論争」に発展した。62年父を失い、大学院を中退し、しばしば行方不明になる。

64年、当時NHKプロデューサーの熊谷冨裕と結婚、健康を害するが、66年より米国のアイオワ州立大学に留学、健康を回復して翌年帰国、69年『スミヤキストQの冒険』を刊行、空想的な長編として話題となる。

1971年『夢の浮橋』を刊行して新境地を開くが、世間的評価は低かった。1983年『アマノン国往還記』で泉鏡花文学賞受賞。1984年の『大人のための残酷童話』はロングセラーとなった。晩年は体調を崩したこともあって、長編小説の執筆は行われなかった。

また、歴史的仮名遣いで書く作家であった。シェル・シルヴァスタイン『ぼくを探しに』、サン=テグジュペリ「星の王子さま」など児童文学の翻訳も多く手がけた。

2005年6月10日、拡張型心筋症により69歳で没した。難病であるが、生前、家族には手術などの延命治療を拒否する宣言をしていたと言われる。遺作は『新訳 星の王子さま』。没後の2006年、母校の明治大学より特別功労賞が授与され、同大学において回顧展が開催された。

作風
『パルタイ』、『スミヤキストQの冒険』など初期の作品では冷静な視点から社会を見据えた風刺的な作品が見られ、一方後期では『よもつひらさか往還』など幻想的、作品によってはSF的な作品が多い。一貫して言い得ることは知的かつドライな視点を持ち続けたことであり、イマジネーションの重視と文体の鍛錬を常にエッセイなどで主張していた。特に私小説など作家本人の身の回りを描いた作品には極めて批判的なスタンスであった。作中人物の死も殊更に抉り修飾することなく淡々と描き、インセストも特に後期に於いては神々の様な登場人物を彩るアクセサリーのひとつとして捉えている。

また取材や資料収集など執筆前の準備も重視しており、キリスト教を批判的に描いた『城の中の城』では内外のキリスト教関連の書物を多数読破し、専門家からの批判に真摯に対峙する姿勢を見せた。

60年安保以後のいわゆる「政治の季節」を経験した作家であるが、同世代で前述通り比較される事の多かった石原や大江がやがて政治的主張を強めていったのに対し、一貫していかなる政治思想からも距離を置いていた。『パルタイ』、『スミヤキストQの冒険』では学生運動や新左翼運動に、後年の『アマノン国往還記』では象徴天皇制など日本国家の理不尽(とそれを過度に尊ぶ右翼勢力)にシニカルな視線を投げかけている。そのため左右の政治団体などから攻撃を受けることがあったと言われ<要出典>。文壇とのつながりも積極的には持たず、読者の前に姿を現すことにも否定的だった。

後述の桂子さんシリーズにおいては、ギリシア神話をモチーフとした人間関係を軸にブルジョワジーのライフスタイルをリアルに描き、作風の幅を広げた。また作品によってはSFテイストの色濃いものがある。これは本人に最新科学や最先端技術への高い関心があったことをうかがわせるもので、実際に1980年代以降、日本の作家の中ではかなり早期にワープロを用いた執筆を開始していた。このシリーズにおいては上述の姿勢を前面に打ち出す事は稀で、幻想的で衒学的な作品が多い。

翻訳作品においては、一般に「児童向け」とされる文学作品を大人向けに再解釈した硬質な作品が多く、「あとがき」などでしばしばそうした意図を明言している。

エッセイにおいては、しばしば「毒舌」とも評される理知的で辛辣な意見を提示する事が多かった。

なお上記の通り歴史的仮名遣いで執筆する作家であったが、各出版社の編集方針などで単行本化や文庫化に際して現代仮名遣いに改められてしまっているものが多い。

西洋での評価はむしろ日本でよりも高く、英訳、ドイツ語訳がある。

受賞歴
1960年 - 『パルタイ』で明治大学学長賞・芥川賞候補
1961年 - 『パルタイ』で女流文学者賞
1962年 - それまでの執筆活動に対し田村俊子賞
1987年 - 『アマノン国往還記』で泉鏡花文学賞、マンボウ賞(北杜夫による文学賞)
2006年 - 明治大学特別功労賞

桂子さんシリーズ
1971年の『夢の浮橋』に始まる、山田桂子さんという女性(またはその親族)を主人公とした一連の作品群の通称。作品同士の直接的な関連は薄く、単独でも鑑賞に支障はない。同じ人物が様々な時代、環境で活躍する幻想的な作品群であり、亡くなる前に構想していたと言われる新作も、このシリーズの続編であったらしい。

なお『夢の浮橋』『城の中の城』『シュンポシオン』『交歓」を“桂子さんの物語”と呼ぶこともある。

桂子さんの物語

『夢の浮橋』(中央公論社/1971) <1970海>
『城の中の城』(新潮社/1980) <1979~80新潮>
『シュンポシオン』(福武書店/1985) <1983~85海燕>
『交歓』(新潮社/1989) <1988~89新潮>

桂子さんシリーズ
『ポポイ』(福武書店/1987) <1987海燕>
『夢の通ひ路』(講談社/1989) <IN★POKET1987~88、ミステリマガジン1987、クロワッサン1988~89、小説すばる1988>
『幻想絵画館』(文藝春秋/1991) <文藝春秋1988~89>
『よもつひらさか往還』(講談社/2002)および 『酔郷譚』(河出書房新社/2008) サントリークォータリー1996~2004(カクテルストーリー・酔郷譚)>

著書(刊行順)
『パルタイ』(文藝春秋新社/1960年8月)※明治大学学長賞、女流文学賞受賞、芥川賞候補 のち文春文庫、新潮文庫、講談社文芸文庫 
『婚約』(新潮社/1961年2月)のち新潮文庫  
『人間のない神』(角川書店/1961年4月)のち新潮文庫 
『暗い旅』(東都書房/1961年10月)のち新潮文庫、河出文庫 
『聖少女』(新潮社/1965年9月)のち文庫 
『妖女のように』(冬樹社/1966年1月)のち新潮文庫 
『蠍たち』(徳間書店/1968年10月)
『スミヤキストQの冒険』(講談社/1969年4月)のち文庫、文芸文庫 
『ヴァージニア』(新潮社/1970年3月)のち新潮文庫 
『わたしのなかのかれへ』(講談社/1970年3月)のち文庫 ※エッセイ
『悪い夏』(角川文庫/1970年5月)※文庫オリジナル
『人間のない神』(徳間書店/1971年3月)
『夢の浮橋』(中央公論社/1971年5月)のち文庫 ※桂子さんの物語 4部作
『反悲劇』(河出書房新社/1971年6月)のち講談社文芸文庫 
『迷路の旅人』(講談社/1972年5月)のち文庫 ※エッセイ
『アイオワ 静かなる日々』(新人物往来社/1973年11月)※写真集・写/熊谷冨裕
『迷宮』(文藝春秋/1977年4月)
『夢のなかの街』(新潮文庫/1977年4月)※文庫オリジナル編集
『磁石のない旅』(講談社/1979年2月)※エッセイ
おんなの知的生活術(編著)講談社 1979
『城の中の城』(新潮社/1980年11月)のち文庫 ※桂子さんの物語 4部作
『大人のための残酷童話』(新潮社/1984年4月)のち文庫 
『倉橋由美子の怪奇掌編』(潮出版社/1985年2月)のち新潮文庫、改題『大人のための怪奇掌篇』宝島社文庫
『シュンポシオン』(福武書店/1985年11月)のち新潮文庫 ※桂子さんの物語 4部作
『最後から二番目の毒想』(講談社/1986年4月)※エッセイ
『アマノン国往還記』(新潮社/1986年8月)のち文庫 ※泉鏡花文学賞受賞
『ポポイ』(福武書店/1987年9月)のち新潮文庫 ※桂子さんシリーズ
『交歓』(新潮社/1989年7月)※桂子さんの物語 4部作
『夢の通ひ路』(講談社/1989年11月)のち文庫 ※桂子さんシリーズ
『幻想絵画館』(文藝春秋/1991年9月)※桂子さんシリーズ
『夢幻の宴』(講談社/1996年2月)※エッセイ+小説2篇
『毒薬としての文学 倉橋由美子エッセイ選』(講談社文芸文庫/1999年7月)※エッセイ・文庫オリジナル編集
『あたりまえのこと』(朝日新聞社/2001年11月)のち文庫 ※評論集
『よもつひらさか往還』(講談社/2002年3月)のち文庫 ※桂子さんシリーズ
『パルタイ・紅葉狩り 倉橋由美子短篇小説集』(講談社文芸文庫/2002年11月)※文庫オリジナル編集
『老人のための残酷童話』(講談社/2003年10月)のち文庫 
『偏愛文学館』(講談社/2005年7月)のち文庫 ※文芸評論
『酔郷譚』(河出書房新社/2008年7月)※連作「よもつひらさか往還」の続編

全集
『倉橋由美子全作品』(全8巻)(新潮社/1975年 - 1976年)

翻訳
『ぼくを探しに』(シェル・シルヴァスタイン 講談社/1977年)
『歩道の終るところ』(シルヴァスタイン 講談社/1979年)
『嵐が丘にかえる 第1-2部』(A・レストレンジ 三笠書房/1980年)
『続 ぼくを探しに ビッグ・オ-との出会い』(シルヴァスタイン 講談社/1982年)
『屋根裏の明かり』(シルヴァスタイン 講談社/1984年)
『クリスマス・ラブ 七つの物語』(レオ・ブスカーリア/文 トム・ニューサム/絵 JICC出版局/1989年)
『サンタクロースがやってきた』(グランマ・モーゼズ/絵 クレメント・C・ムーア/文 JICC出版局/1992年)
『イクトミと大岩 アメリカ・インディアンの民話〈1〉』(ポ-ル・ゴブル JICC出版局/1993年)
『イクトミと木いちご アメリカ・インディアンの民話〈2〉』(ポ-ル・ゴブル JICC出版局/1993年)
『オオカミと羊』(アンドレ・ダ-ハン JICC出版局/1993年)
『イクトミとおどるカモ アメリカ・インディアンの民話〈3〉』(ポ-ル・ゴブル JICC出版局1/994年)
『レオンのぼうし』(ピエ-ル・プラット JICC出版局/1994年)
『イクトミとしゃれこうべ アメリカ・インディアンの民話〈4〉』(ゴブル 宝島社/1995年)
『ラブレター 返事のこない60通の手紙』(ジル・トル-マン 古屋美登里共訳 宝島社/1995年)
『クロウチ-フ アメリカ・インディアンの民話〈5〉』(ゴブル 宝島社 1995年)
『人間になりかけたライオン』(シルヴァスタイン 講談社/1997/年)
『天に落ちる』(シルヴァスタイン 講談社/2001年)
『新訳 星の王子さま』(アントア-ヌ・ド・サン・テグジュペリ 宝島社/2005年)

外国語訳
The adventures of Sumiyakist Q Dennis Keene tr University of Queensland Press, 1979
Das Haus mit den Sonnenblumen : zwei Antitragödien Kurahashi Yumiko Wolfgang E. Schlecht Theseus, c1991
The woman with the flying head and other stories tr Atsuko Sakaki M.E. Sharpe, c1998
Die Reise nach Amanon Monika Wernitz-Sugimoto und Hiroshi Yamane Verlag, c2006
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

■学生時代の自分にとってのユーミンとは倉橋由美子であり、もっと硬質な分析文体だった三枝和子と2分していた。「第三の新人」以後の新世代作家として活躍した、その憧れのふたりも、すでに此の世には存在しない。

■三枝和子(さえぐさ かずこ、1929年3月31日 - 2003年4月24日)
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/6-7cf9.html

2009年5月23日 (土)

永遠

また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去つてしまつた。

見張番の魂よ、
白状しようぜ
空無な夜に就き
燃ゆる日に就き。

人間共の配慮から、
世間共通の逆上から、
おまへはさつさと手を切つて
飛んでゆくべし……

もとより希望があるものか、
願ひの条があるものか
黙つて黙つて勘忍して……
苦痛なんざあ覚悟の前。

繻子の肌した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務はすむといふものだ
やれやれといふ暇もなく。

また見付かつた。
何がだ? 永遠。
去つてしまつた海のことさあ
太陽もろとも去つてしまつた。

Arthur Rimbaud  中原中也訳

2009年5月22日 (金)

「リノベーション」という発想の先人

リノベーションとは建物の骨格を再利用しながら、元とは別の空間次元へつくりかえる概念をいいます。過去にあった思想や機能の骨格を利用しながら、思い描く新しい理想の地点へ導くことにも繋がる。

空間を建て替えなく実現できることもリノベーションの魅力のひとつですが、過去と未来を分裂させない理念が注目されています。
堅牢な背骨構造に新しく進化した機能性を備えるわけです。

もともと三世代が一緒に暮らすのが、「家」というものであった。
「個」の意識がマーケットのなかで普及したために、
お爺さんと父さんと息子世代、お婆さんと母さんと娘世代
は分離して考えるようになったのです。

消費マーケットの底が焦げ付いて、やがて商店街は「閉店街」といわれるほどさびれてしまう時代時代となる。

そこで夫婦双方の親と暮らす家「三世帯住宅」http://www.studio-mira.com/Housing/Essay%201.html
を提案したのが、ゆみこ・ながい・むらせ、村瀬春樹さん夫妻です。

ぐゎらん堂の黄金期を主宰した御両人。当時ぐゎらん堂の常連客としてもご近所さんでもあったんで、主宰夫妻さんにはお世話になりました。ライフスタイルにあわせて大改修する「リノベーション」という発想の先人でもあられたわけです。

ゆみこ・ながい・むらせ、村瀬春樹の公式ホームページ。
「武蔵野火薬庫☆ぐゎらん堂」のページhttp://www.studio-mira.com/

ぐゎらん堂 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%90%E3%82%8E%E3%82%89%E3%82%93%E5%A0%82

2009年5月20日 (水)

ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)

ジェイムズ・ジョイス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジェイムズ・ジョイスの銅像
文学
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ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイスJames Augustine Aloysius Joyce 1882年2月2日1941年1月13日)は、20世紀の最も重要な作家の1人と評価されるアイルランド出身の小説家詩人。画期的な小説『ユリシーズ』(1922年)が最もよく知られており、他の主要作品には短編集『ダブリン市民』(1914年)、『若き芸術家の肖像』(1916年)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年)などがある。

ジョイスは青年期以降の生涯の大半を国外で費やしているが、ジョイスのすべての小説の舞台やその主題の多くがアイルランドでの経験を基礎においている。彼の作品世界はダブリンに根差しており、家庭生活や学生時代のできごとや友人(および敵)が反映されている。そのため、英語圏のあらゆる偉大なモダニストのうちでも、ジョイスは最もコスモポリタン的であると同時に最もローカルな作家という特異な位置を占めることとなった。

生涯

ダブリン時代(1882年 - 1904年)

ジェイムズ・ジョイスは1882年にダブリンの南のラスガーという富裕な地域で没落してゆく中流のカトリック家庭に、10人兄弟の長男として生まれた(他にも2人兄弟がいたが腸チフスで亡くなっている)。母メアリ・ジェーン・ジョイス(旧姓マリー)は敬虔なカトリック信者で、父ジョン・スタニスロース・ジョイスはコーク市出身で、小規模ながら塩とライムの製造業を営む、声楽と冗談を好む陽気な男であった。父ジョンと父方の祖父はいずれも裕福な家庭を築いた。1887年にジョンはダブリン市役所の徴税人に任命され、家族はブレイ郊外の新興住宅地へ引っ越した(その後ジョイス家は経済的に困窮して幾度にもわたる引越しを余儀なくされたため生家は現存せず、ジェイムズ・ジョイス・センター、ジェイムズ・ジョイス記念館はそれぞれ別の場所に建てられている)。このころジョイスは犬に噛まれて生涯にわたる犬嫌いとなった。他にジョイスの苦手なものとしては、敬虔な叔母に「あれは神様がお怒りになっている印だよ」と説明されて以来恐れるようになった雷雨などが知られている。

1891年、アイルランドの政治指導者で父ジョンも熱烈に支持していた「王冠なき国王」C・S・パーネルの死に際して、当時9歳のジョイスは「ヒーリーよ、お前もか」("Et Tu, Healy?")と題した詩を書いた(ティモシー・ヒーリーはパーネルを裏切り政治生命を絶った人物)。ジョンはこれを印刷し、バチカン図書館にコピーを送りさえした。同年11月、ジョンは破産宣告を受けて休職、1893年には年金給付の上で解雇された。この一件からジョンは酒浸りになり、経済感覚の摩耗もあいまって一家は貧困への道をたどりはじめることとなる。

ジョイスは1888年からキルデア州の全寮制学校クロンゴウズ・ウッド・カレッジで教育を受けたが、父の破産により学費を払えなくなったため1892年には退校せざるをえなかった。自宅やダブリンのノース・リッチモンド・ストリートにあるカトリック教区学校クリスチャン・ブラザーズ・スクールでしばらく学んだのち、1893年にダブリンでイエズス会の経営する学校ベルベディア・カレッジに招聘されて籍を置く。ジョイスが聖職者となることを期待しての招待であったが、ジョイスは16歳のときにカトリックとしての信仰を捨てることとなる(ただしトマス・アクィナスの哲学はジョイスの生涯を通じて強い影響をもちつづけた)。

1898年、ジョイスは設立されてまもないユニバーシティ・カレッジ・ダブリンに入学し、現代語、特に英語フランス語イタリア語を学び、有能さを発揮した。また、ダブリンの演劇や文学のサークルにも活発に参加し、『Fortnightly Review』誌にイプセンの戯曲『わたしたち死んだものが目覚めたら』 ("Når vi døde vågner"1899年)の書評「イプセンの新しい演劇」("Ibsen's New Drama")を発表したりなどした。この書評はジョイスの最初に活字となった作品であり、ノルウェーでこれを読んだイプセン本人から感謝の手紙が届けられている。この時期のジョイスは他にもいくつかの記事と少なくとも2本の戯曲を書いているが、戯曲は現存していない。また、こうした文学サークルでの活動をきっかけとして1902年にはアイルランド人作家W・B・イェーツとの交友が生れている。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンでの友人たちの多くはのちのジョイスの作品中に登場している。

1903年、学士の学位を得てユニバーシティ・カレッジ・ダブリンを卒業したのち、ジョイスはパリへ留学する。医学の勉強が表向きの理由であったが、貧しい家族がジョイスの浪費癖に手を焼いて追い払ったというのが真相である。しかし、癌に冒された母の危篤の報を聞いてダブリンに引き返すまでの数ヶ月間も、あまり実りの無い自堕落な生活に費やしていたという。母の臨終の際、ジョイスは母の枕元で祈りを捧げることを拒否した(母と不仲であったためではなく、ジョイス自身が不可知論者であったことによる)。母の死後、ジョイスは酒浸りになり家計はいっそう惨憺たるものとなったが、書評を書いたり教師や歌手などをして糊口をしのいだ。

1904年1月7日、ジョイスは美学をテーマとしたエッセイ風の物語『芸術家の肖像』("A Portrait of the Artist")を発表しようと考え、自由主義的な雑誌『Dana』へ持ち込んだが、あっさりと拒絶された。同年の誕生日、ジョイスはこの物語に修正を加えて『スティーブン・ヒーロー』("Stephen Hero")という題の小説に改作しようと決意した。このころ、彼はゴールウェイ州コネマラからダブリンへやってきてメイドとして働いていたノラ・バーナクルという若い女性と出会った。のちの作品『ユリシーズ』はダブリンのある1日のできごとを1冊に封じ込めたものであるが、この「ある1日」こそ、二人が初めてデートした「1904年6月16日」にほかならない(ブルームズデイ参照)。

ジョイスはその後もしばらくダブリンにとどまり、ひたすら飲み続けた。こうした放蕩生活をしていたある日、ジョイスはフェニックス・パークで一人の男と口論の末喧嘩になり逮捕された。父ジョンの知人アルフレッド・H・ハンターなる人物が身元引き受け人となってジョイスを連れ出し、怪我の面倒をみるため自分の家へ招いた。ハンターはユダヤ人で、妻が浮気をしているという噂のある人物であり、『ユリシーズ』の主人公レオポルト・ブルームのモデルの一人となっている。またジョイスは、やはり『ユリシーズ』の登場人物バック・マリガンのモデルとなるオリバー・セント=ジョン=ゴガティ(のちに本業の医者としてだけでなくW・B・イェーツから称賛されるほどの文筆家としても知られるようになる)という医学生とも親しくなり、ゴガティ家がダブリン郊外のサンディコーヴに所有していたマーテロー・タワーに6日間滞在している。その後二人は口論になり、ゴガティが彼に向けて銃を発砲したためジョイスは夜中に逃げ出し、親戚の家に泊めてもらうためダブリンまで歩いて帰った。翌日、置き忘れてきたトランクは友人に取りに(盗りに?)行かせている。この塔は『ユリシーズ』劈頭の舞台となっているため現在ではジョイス記念館となっている。

その後まもなく、ジョイスはノラを連れて大陸に駆け落ちした。

トリエステ時代(1904年 - 1915年)

ジョイスはノラと自発的亡命に入り、まずチューリッヒへ移住してイギリスのエージェントを通してベルリッツ語学学校で英語教師の職を得た。このエージェントは詐欺に遭っていたことが判明したが、校長はジョイスをトリエステ第一次世界大戦後にイタリア領となるが、当時はオーストリア・ハンガリー帝国領だった)へ派遣した。トリエステへ行っても職を得られないことが明らかとなったが、ベルリッツのトリエステ校校長の取り計らいにより、1904年10月からオーストリア・ハンガリー帝国領プーラ(のちのクロアチア領)で教職に就くこととなった。

1905年3月、オーストリアでスパイ組織が摘発されてすべての外国人が追放されることになったためプーラを離れざるをえず、再び校長の助けによりトリエステへ戻って英語教師の仕事を始め、その後の10年の大半を同地で過ごすこととなる。同年7月にはノラが最初の子供ジョルジオを産んでいる。ジョイスはやがて弟のスタニスロースを呼び寄せ、同じくトリエステ校の教師としての地位を確保してやった。ダブリンでの単調な仕事よりも面白かろうというのが表向きの理由であったが、家計を支えるためにはもう一人稼ぎ手が欲しいからというのが本音であった。兄弟の間では主にジョイスの浪費癖と飲酒癖をめぐって衝突が絶えなかった。この年の12月、ロンドンの出版社に『ダブリン市民』の中の12編を送っているが出版は拒否された。

やがて放浪癖が昂じてトリエステでの生活に嫌気がさしたジョイスは、1906年7月にローマへ移住して銀行の通信係として勤めはじめる。『ユリシーズ』の構想を(短編として)練りはじめたり『ダブリン市民』の掉尾を飾る短編「死者たち」の執筆を開始したのもローマ滞在中のことである。しかしローマがまったく好きになることができずに1907年3月にはトリエステへ帰ることとなった。この年の7月には娘ルチアが誕生している。執筆に関しては、同年5月に詩集『室内楽』("Chamber Music")を出版したほか、「死者たち」("The Dead")を脱稿し、『芸術家の肖像』を改題した自伝的小説『スティーヴン・ヒーロー』を『若き芸術家の肖像』("A Portrait of the Artist as a Young Man")として再度改稿に着手している。

1909年の7月にジョイスは息子ジョルジオを連れてダブリンへ帰省した。父に孫の顔を見せることと、『ダブリン市民』の出版準備とがその目的である。8月にはモーンセル社と出版契約を結び、ゴールウェイに住むノラの家族との初対面も成功裏に済ませることが出来た。トリエステへ帰る準備をしながら、ジョイスはノラの家事の手伝いとして自分の妹エヴァを連れて帰ることに決めた。トリエステへ戻って一月後、ダブリンで最初の映画館「ヴォルタ座」を設立するため再度故郷へ帰る。この事業が軌道に乗った1910年1月、もう一人の妹アイリーンを連れてトリエステに戻る(ただし映画館はジョイスの不在中にあっけなく倒産してしまう)。エヴァはホームシックにより数年でダブリンへ戻ってしまうが、アイリーンはその後の生涯を大陸で過ごし、チェコの銀行員と結婚した。

1912年6月、『ダブリン市民』について収録作の一部削除などの注文をつけてきたモーンセル社の発行人ジョージ・ロバーツと決着をつけるため再びダブリンへ舞い戻る。しかし意見の相違から両者は決裂し、3年越しの出版契約は白紙化されることとなってしまう。落胆したジョイスはロバーツにあてつけた風刺詩「火口からのガス」("Gas from a Burner")を書いてダブリンを離れる。そしてこれがジョイスにとって最後のアイルランド行となった。父親の嘆願や親しいイェーツの招待を受けても、ロンドンより先に足を向けることは二度となかった。

この期間、ジョイスはダブリンへ戻って映画館主になろうと試みるほか、計画倒れに終わったもののアイルランド産ツイードをトリエステへ輸入するなどさまざまな金策を立てている。ジョイスに協力した専門家たちは彼が一文無しにならずにすむよう力を貸した。当時のジョイスはもっぱら教師職によって収入を得ており、昼間はベルリッツ校やトリエステ大学(この当時は高等商業学校)の講師として、夜は家庭教師として教鞭を振るった。こうして教師職をかけもちしていたころに生徒として知り合った知人は、ジョイスが1915年にオーストリア・ハンガリー帝国を離れてスイスへ行こうとして問題に直面したさいに大きな助力となった。

トリエステでの個人教師時代の生徒の一人には、イタロ・ズヴェーヴォのペンネームで知られる作家アーロン・エットーレ・シュミッツがいる。二人は1907年に出会い、友人としてだけでなく互いの批評家として長い交友関係をもつこととなった。ズヴェーヴォはジョイスに『若き芸術家の肖像』の執筆を勧め励ましただけでなく、『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームの主要なモデルとなっており、同作中のユダヤ人の信仰に関する記述の多くは、ユダヤ人であるズヴェーヴォがジョイスから質問を受けて教示したものである。ジョイスが眼疾に悩みはじめることとなったのもトリエステでのことである。この病は晩年のジョイスに十数度にわたる手術を強いるほど深刻なものであった。

チューリッヒ時代(1915年 - 1920年)

第一次世界大戦が勃発してオーストリア・ハンガリー帝国での生活に難儀したジョイスは、1915年チューリッヒへ移住した。この地で知り合ったフランク・バッジェン(Frank Budgen)とは終生の友人となり、『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』の執筆に際しては絶えずバッジェンの意見を求めるほどの信頼を置くようになった。またこの地ではエズラ・パウンドによりイギリスのフェミニストである出版社主ハリエット・ショー・ウィーヴァーに引き合わされた。彼女はジョイスのパトロンとなり、個人教授などする必要なく執筆に専念できるようその後25年にわたり数千ポンドの資金援助をした。ジョイスとエズラ・パウンドが対面するのは1920年のことになるが、パウンドはイェーツとともに尽力してまだ見ぬジョイスにイギリス王室の文学基金や助成金をもたらしたり、ジョイスのために『ユリシーズ』の掲載誌を紹介するなどさまざまな協力をした。終戦後にジョイスは一度トリエステへ戻るが、街はすっかり様変わりしていたうえに弟(戦争中は思想犯としてオーストリアの収容所に拘留されていた)との関係も悪化してしまう。1920年、パウンドの招待を受けてジョイスは一週間ほどの予定でパリへ旅立つが、結局その後20年間をその街で過ごすこととなる。

パリ時代(1920年 - 1940年)

自身の眼の手術と精神分裂病を患った娘ルチアの治療のためジョイスはたびたびスイスを訪れた。パリ時代にはT・S・エリオットヴァレリー・ラルボーValery Larbaud)、サミュエル・ベケットといった文学者との交流が生れた。パリでの長年にわたる『フィネガンズ・ウェイク』執筆中はユージーン・ジョラスとマライア・ジョラス夫妻がジョイスの手助けをした。夫妻の強い支持とハリエット・ショー・ウィーヴァーの財政支援がなかったならば、ジョイスの著書は出版はおろか脱稿さえしなかった可能性が高い。ジョラス夫妻は伝説的な文芸雑誌『トランジション』にジョイスの新作を『進行中の作品』("Work in Progress")の仮題で不定期連載した。この作品の完結後につけられた正式タイトルが『フィネガンズ・ウェイク』("Finnegans Wake")である。

ふたたびチューリッヒ時代(1940年 - 1941年)

1940年ナチス・ドイツによるフランス占領から逃れるべくジョイスはチューリッヒへ帰還する。

1941年1月11日、十二指腸潰瘍穿孔の手術を受ける。術後の経過は良好であったが翌日には再発し、数度の輸血の甲斐もなく昏睡状態に陥った。1月13日午前2時、眼を覚ましたジョイスは再び意識を失う前に妻と子供を呼ぶよう看護婦に伝えた。その15分後、家族が病院へ駆けつけている途中にジェイムズ・ジョイスは息絶えた。

埋葬されたチューリッヒのフリュンテン墓地は動物園の隣にあり、ジョイスの好きだったライオンの鳴き声が聞こえるのがルチアの気に入ったという。ジョイスの10年後に亡くなった妻ノーラ(1904年に駆け落ちして1931年に正式に結婚した)、1976年に没した息子ジョルジオも彼の隣に埋葬された。

著作

一覧

概観

『ダブリン市民』
(詳細は別項『ダブリン市民』を参照)
ジョイスの著作においてはアイルランドでの経験がその根本的な構成要素となっており、すべての著作の舞台や主題の多くがそこからもたらされている。ジョイスの初期の成果を集成した短篇集『ダブリン市民』は、ダブリン社会の停滞と麻痺の鋭い分析である。同書中の作品には「エピファニー」が導入されている。エピファニーとはジョイスによって特有の意味を与えられた語で、ものごとを観察するうちにその事物の「魂」が突如として意識されその本質を露呈する瞬間のことであり、ジョイス以降こうした事物の本質の顕現をテーマとする作品のことを「エピファニー文学」と呼ぶようになった。短篇集の最後に置かれた最も有名な作品「死者たち」は1987年に映画化され、ジョン・ヒューストンの最後の監督作品となった。
『若き芸術家の肖像』
若き芸術家の肖像
(詳細は別項『若き芸術家の肖像』を参照)
『若き芸術家の肖像』は中絶された小説『スティーヴン・ヒーロー』をほぼ全面的に改稿したものであり、オリジナルの草稿はノラとの議論で発作的な怒りに駆られたジョイス自身によって破棄された。「Künstlerroman」(ビルドゥングス・ロマンの一種)、すなわち才能ある若い芸術家が成熟し自意識に目覚めるまでの自己啓発の過程を伝記的物語の形で追った小説である。主人公スティーヴン・ディーダラスは少なからずジョイス自身をモデルとしている。内的独白の使用や登場人物の外的環境よりも精神的現実への言及の優先といった、後の作品に多く見られる手法の萌芽もこの作品において散見される。
戯曲『追放者たち』と詩篇
最初期には演劇に深い関心を寄せていたにもかかわらず、ジョイスが発表した戯曲は『追放者たち』一篇のみである。この作品は「死者たち」を原型として1914年第一次世界大戦勃発の直後から書きはじめられ、1918年に上梓された。夫婦関係に関する研究という点から、この作品は「死者たち」と『ユリシーズ』(「死者たち」脱稿直後から執筆を開始した)の橋渡しの役割を果たしたといえる。
ジョイスはまた数冊の詩集も出版している。習作を除くとジョイスが最初に発表した詩作品は痛烈な諷刺詩「検邪聖省」("The Holy Office"1904年)であり、この作品によってジョイスはケルト復興運動(Celtic Revival)の著名なメンバーたちの中で名を上げた。1907年に出版された最初のまとまった詩集『室内楽』("Chamber Music"、ジョイス曰く「尿瓶(chamber pot)に当たる小便の音のこと」)は36篇からなる。この本はエズラ・パウンドの編集する「Imagist Anthology」に加えられ、パウンドはジョイス作品の最も強力な擁護者となった。ジョイスが生前に発表した他の詩には「火口からのガス」("Gas From A Burner"、1912年)、詩集『ポームズ・ペニーチ』("Pomes Penyeach"、1927年)、"Ecce Puer"(1932年、孫の誕生と父の死を記したもの)などがあり、これらは1936年に『詩集』("Collected Poems")として一冊にまとめられた。
『ユリシーズ』
ジェイムズ・ジョイス
(詳細は別項『ユリシーズ』を参照)
1906年に『ダブリン市民』を完成させたジョイスは、レオポルド・ブルームという名のユダヤ人広告取りを主人公とする「ユリシーズ」というタイトルの短篇をそれに追加することを考えた。この計画は続行されなかったが、1914年にはタイトルと基本構想を同じくする長編小説に取り組みはじめる。1921年10月に執筆を終えたのち校正刷りに3ヶ月かけて取り組み、自ら定めた締め切りである40歳の誕生日(1922年2月2日)の直前に完成させた。
エズラ・パウンドの尽力により、1918年から「The Little Review」誌での連載が開始。この雑誌は同時代の実験的な芸術や文学に関心を寄せるニューヨークの弁護士ジョン・クインの支援のもとにマーガレット・アンダーソンとジョン・ヒープによって編集されたものである。『ユリシーズ』はアメリカ合衆国で検閲に引っかかり、1921年に猥褻文書頒布の咎でアンダーソンとヒープに有罪判決が下ったのを受けて連載は中断の憂き目に会う。アメリカで発禁処分が解かれるのは1933年のことである。
この一件も手伝い、ジョイスは『ユリシーズ』の単行本化を引き受けてくれる出版社を見つけるのは困難であることに気づいたが、1922年にはパリ左岸でシルヴィア・ビーチの経営するシェイクスピア・アンド・カンパニー書店から上梓することができた。時期をほぼ同じくして T・S・エリオットの詩『荒地』("Waste Land")が刊行されていることから、この1922年という年は英文学におけるモダニズムの歴史上とりわけ重要なメルクマールであるといえる。ジョイスのパトロンの一人ハリエット・ショー・ウィーヴァーによって出版された英語版はさらなる困難に直面した。アメリカ合衆国へ出荷された500部が米国政府当局によって押収ののち破棄されたのである。翌年、ジョン・ロドカー(John Rodker)は押収されたものの代わりに新しく500部増刷したが、これらもフォークストン(Folkestone)でイギリスの税関によって焼却処分された。この本が発禁書という不明瞭な法的立場に置かれたため、やがていくつもの「海賊版」が登場することとなった。これらの海賊版の中でも特に有名なものはアメリカの悪徳出版業者サミュエル・ロス(Samuel Roth)によって刊行されたものである。1928年に裁判所から出た禁止命令によって出版を取り止めたロスは刑務所へ送られることとなったが、罪状がやはり猥褻罪であり著作権侵害ではなかったところにもこの本の置かれた立場の微妙さが見て取れる(なおロスはこのさい『進行中の作品』の仮題で連載が開始されていた『フィネガンズ・ウェイク』も同時に盗用している)。
『ユリシーズ』において、ジョイスは登場人物を表現するために意識の流れ、パロディ、ジョーク、その他ありとあらゆる文学的手法を駆使した。1904年6月16日という一日のあいだに起きる出来事を扱ったこの小説の中に、ジョイスはホメロスの『オデュッセイア』の登場人物や事件を現代のダブリンへ持ち込んだ。オデュッセウス(ユリシーズはその英語形)、ペネロペテレマコスはそれぞれ登場人物レオポルド・ブルーム、その妻モリー・ブルーム、スティーヴン・ディーダラスによって代置され、神話中の高貴なモデルとパロディ的に対比される。この本はダブリンの生活およびそこに満ちた汚穢と退屈さを余すところなく踏査している。ジョイス自身も「たとえダブリンが大災害で壊滅しても、この本をモデルにすればレンガの一個一個に至るまで再現できるだろう」と豪語するほどの自信をもっていた。ダブリンに愛想を尽かして故郷を捨てたジョイスだが、この街への郷愁なしにここまで完璧な細密画を描くことは不可能であり、ダブリンに対して愛憎半ばするジョイスのアンビヴァレンスが窺われる。ダブリンの描写をこのレベルまで仕上げるためには、ダブリンのすべての居住用・商業用建築の所有者や入居者を網羅した『Thom's Directory』(1904年版)という本が活用された。また、それ以外にも情報や説明を求めたジョイスはまだダブリンに住んでいる友人たちを質問攻めにしてもいる。
この本は全18章からなる。それぞれの章がおよそ1時間の出来事を扱っており、午前8時ごろから始まって翌朝の午前2時過ぎに終わる。また1章ごとに異なる全部で18通りの文体が用いられているだけでなく、『オデュッセイア』で語られる18のエピソード、これと関連する18種類の色、学問や技術、身体器官が適用・言及される。これらの組み合わせによって形成される作品全体の万華鏡的な梗概(「ゴーマン・ギルバート計画表」)は、この本が20世紀のモダニズム文学の発展に対して寄与した最も大きな貢献の一つに数えられる。他の注目すべき点としては、準拠枠としての古典的な神話の使用や、重要な事件の多くが登場人物の胸中において起きるというこの本の細部に対する強迫観念にも近い執着などが挙げられる。しかしながらジョイスは「私は『ユリシーズ』を過剰に体系化してしまったかもしれない」と述べ、ホメロスから借用した章題を削除したりもしており、『オデュッセイア』との照応関係はさほど重視していなかった節もある。
『フィネガンズ・ウェイク』
(詳細は別項『フィネガンズ・ウェイク』を参照)
『ユリシーズ』の執筆を終えたジョイスは、自分のライフワークはこれで完了したと考えたが、まもなくさらに野心的な作品の制作計画を立てた。1923年3月10日から、ジョイスはやがて『進行中の作品』("Work in Progress")の仮題をつけられ、のちに『フィネガンズ・ウェイク』("Finnegans Wake")の正式タイトルを与えられることになる作品にとりかかり、1926年には最初の2部を完成させた。この年ジョイスはユージーン・ジョラスとマライア・ジョラスに会い、彼ら夫婦の編集する文芸雑誌『トランジション』(Transition)で『進行中の作品』を連載してはどうかとの申し出を受けている。
その後数年ジョイスはこの新作を迅速に書き進めていったが、1930年代に入ると進捗状況は芳しくなくなる。停滞の要因としては、1931年の父の死、娘ルチアの精神状態に関する懸念、視力の低下を含むジョイス自身の健康上の問題などが挙げられる。こうした困難を抱えながらも執筆はサミュエル・ベケットを含む若い支持者の力を借りて進められた。このころジョイスは同郷の詩人ジェームズ・スティーヴンスJames Stephens)と親しくなるが、スティーヴンスが優れた文才をもっているばかりでなくジョイスと同じ病院で同じ日に生まれたこと(ジョイスの勘違いで実際には一週間違い)、その名前がジョイス自身と小説中におけるジョイスの分身スティーヴン・ディーダラスのファーストネームの組み合わせであることなどから、迷信深かったジョイスは自分とスティーヴンスには運命的なつながりがあるのだと信じるようになった。さらには『フィネガンズ・ウェイク』を完成させるべきはスティーヴンスであり、原稿を渡して残りの部分を仕上げてもらってから「JJ & S」の名で出版しようという奇妙な計画まで立てた(「JJ & S」は「ジェームズ・ジョイス&スティーヴンス」の頭文字であるが、有名なアイリッシュ・ウイスキーのブランド「ジェムソン」(John Jameson & Sons)の商標[1]にかけたシャレである)が、結局はジョイスが一人で完成させることができたのでこの計画は実行されなかった。
『トランジション』誌において発表された冒頭部分に対する読者の反応は賛否両論で、パウンドや弟スタニスロースのようにジョイスの初期の著作に対して好意的だった人たちから否定的なコメントが寄せられもした。こうした非好意的な反応を退けるべく、1929年には『進行中の作品』の支持者たちによる批評をまとめた論文集が刊行された。『進行中の作品の結実のための彼の制作をめぐる我らの点検』(Our Exagmination Round His Factification for Incamination of Work in Progress)と題したこの論文集の著者にはベケットのほかウィリアム・カルロス・ウィリアムズ(William Carlos Williams)らが名を連ねた。ベケットは巻頭論文「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」を寄稿した(これがベケットの初めて活字になった文章である)のを機にジョイスと20世紀の文学史上最も有名な交友関係を結ぶこととなり、しばしばジョイスの秘書的な役割をも果たして『進行中の作品』の制作にも協力した。
ジョイス宅で開かれた彼の47歳の誕生日パーティー(1929年2月2日)の席上、ジョイスは最終的に決定した『進行中の作品』の正式タイトルが『フィネガンズ・ウェイク』であることを明かし、1939年5月4日に単行本として出版された。
意識の流れや暗喩、自由連想などといったジョイスの文学的手法を極限まで押し進めた『フィネガンズ・ウェイク』は、プロット構成や登場人物の造形に関する従来の慣例をことごとく打ち破っているばかりでなく、複雑で多面的な地口をもとにした特異かつきわめて難解な言語によって書かれている。ルイス・キャロルの『ジャバウォックの詩』とも似たアプローチであるが、その複雑さや規模の大きさはこれをはるかに凌駕する。『ユリシーズ』が“都市生活の中の一日”であるとするなら、『フィネガンズ・ウェイク』は“夢の論理の中の一夜”ということができる。『フィネガンズ・ウェイク』において『ユリシーズ』が「“usylessly unreadable Blue Book of Eccles”(どうあがいても読むことのできそうにないエクルズの青い本)」として言及されている部分は有名だが、多くの読者や批評家からこれはむしろ『フィネガンズ・ウェイク』にこそふさわしい言い回しだとされてきた。しかしその後の研究によって読者は主な登場人物の配役やプロットについての合意を得ることができるようになった。
本書における言語遊戯的な語の使用は広範な言語を結集し多言語間にわたる語呂合わせによって生み出されたものである。ベケットをはじめとする助手たちは、これらの言語が書かれたカードを照合して新しい組み合わせにして使えるようにしたり(?)、すでに視力がかなり衰えていたジョイスのため口述筆記をするなどの協力をした。
また本書で提示される歴史観はジャンバッティスタ・ヴィーコの強い影響下にあり、登場人物が相互に及ぼしあう影響関係にはジョルダーノ・ブルーノ形而上学が重要な役割を果たしている。ヴィーコは、歴史が混沌とした未開状態からはじまって神政、貴族政、民主政を経て再び混沌へ帰り、螺旋を描きながら循環するという歴史観を提唱した。ヴィーコの循環的歴史観の最も明らかな影響例は、本書の冒頭と末尾に見て取ることができる。原文における最後の一節は本書冒頭の一節とつながっており、合わせて一文をなすことによって本全体に一つの大きな円環構造を形作らせているのである。
実際にジョイスは、不眠症を患いながら読了したあとで最初のページへ戻って再び読みはじめ、そして永遠に循環して読み続けるのが『フィネガンズ・ウェイク』の理想的な読者だと語っている。

関連事項

ジョイス記念館

ジェームズ・ジョイス・タワー

ジョイス記念館マーテロー・タワーはジョイス・タワーとも呼ばれダブリンの南の郊外、サンディコーヴに建つ。これはその昔、ナポレオンの侵略に備えて湾岸警備のために英国が各地に建造した要塞(マーテロー塔)の一つであり、これをその後地元の富豪が購入し、改装した。若き日のジョイスは友人(塔の持ち主オリバー・セント=ジョン=ゴガティ)を訪ねてこの塔に滞在したことがあり、その時の経験は『ユリシーズ』の第一章でスティーヴン・ディーダラスがバック・マリガンと口論するシーンの元ネタとなる。

ブルームズデイ

『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームがダブリンを彷徨した1904年6月16日にちなみ、毎年6月16日、ダブリンにジョイスの読者が集まり様々な催し物を行う、いわば『ユリシーズ』記念日。集まった人々は登場人物に扮するなどして当時の服装に身を包み、劇中に登場する場所への訪問、『ユリシーズ』の朗読や劇の上映、またパブめぐりなどを行う。もともとアイルランドのダブリンが本家だが、近年アメリカ合衆国、日本、ブラジルなどでもブルームズデイを祝う試みがなされた。

なお、1904年6月16日というのはジョイスが妻ノーラと初めてデートした日である。

外部リンク

2009年5月18日 (月)

アントナン・アルトー(Antonin Artaud, 1896年9月4日 - 1948年3月4日)

フランスの俳優・詩人・演劇家。

幼少から髄膜炎で以後も苦しむ。1920年ごろから俳優活動をはじめ、また詩もものし始める。一時シュールレアリスム運動に加わるも、ブルトンと衝突。『NRF』誌のリビエールとの交信は有名。アルフレッド・ジャリ劇場を創設し、身体演劇である「残酷劇」を提唱。現代演劇に絶大な影響を与える。

1920年代後半には映画に関わる仕事が続く。アベル・ガンス監督の超大作映画『ナポレオン』(1926年)出演(ジャン=ポール・マラー役)に続いて、サイレント映画の最高峰と評されるカール・ドライヤー監督の『裁かるゝジャンヌ』(1927年)に出演(修道士ジャン・マシュー役)。また同じ時期にジェルメーヌ・デュラック監督『貝殻と僧侶』(1927年)の脚本を書いている。

1936年、アイルランド旅行中に精神病院に収監され、1947年に退院するが、その体験を後に告発した。『ヴァン・ゴッホ』でサント・ブーブ賞受賞。その思想はドゥルーズやデリダに影響を与え、その演劇論はピーター・ブルックらに受け継がれる。

[著作]

詩『神経の秤』
小説『ヘリオガバルス』
『神の裁きと訣別するため』
『ヴァン・ゴッホ』
劇曲『チェンチ一族』 など

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アルトーはシュルレアリスムにかかわったフランスの詩人で、異能の演出家でも役者でもあったのだが、1930年代後半から8年にわたって精神病院に入っていて、退院してパリに戻ってから2年後の1948年に、癌のまま人知れず死んでしまった。ただ、そのあいだに、文章やデッサンや演劇やカーニバルのプランをいろいろ書いた。生前はほとんど知られていなかったのだが、死後に『演劇とその分身』が発表されると、みんなが圧倒された。
 その思考の跡はどんな領域にも収まりきらないもので、それをトレースしてみると、むしろ多様な境界を次々に侵食していくような、これまでにない根源的な思考の進みかたをあらわしていた。
 このアルトーの思考の進みかたはあきらかに分裂症に関係がある。ドゥルーズは『差異と反復』でそのようなアルトーに注目して、そこに思考することの衝動のすさまじさを発見し、この衝動こそがあらゆる種類の分岐を通りすぎつつ、さまざまな固定した思想の中心を崩壊させ、亀裂させ、そのうえで新たなものを結びつけていく力なんだということに気がついた。そして、その衝動の発現が「器官なき身体」というものから出ていると見た。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1082.html より

  皮膚の下の体は過熱した工場である
  そして外では病者が輝いている
  彼はきらめくあらゆる毛穴を炸裂させて

2009年5月17日 (日)

『五行の世界』と数について

五行とは金・木・水・火・土に分類され、全ての生命と密接な関係がある。
“世界”の五行均衡を基に、生命の生きる世界を創造された。
五行は自然の中でゆっくりと融合していったが、知的生物の影響により意思が生まれ、他の種族とは違う独特な魂として生まれ変わった。

土には知恵を。
木には霊魂を。
金には気力を。
水には精神を。
火には霊力を。

五行で五というのは万物の理知を明らかにする数。
木、火、土、金、水を順に並べると
1,2,3,4,5となり、またこの数にそれぞれ5を加えると
6,7,8,9,10になります。これを有識的に説明すると
1から始まり、5で終わるものは生数といい
また6から10まで発展したものが成数となる。
この生数と成数が限りない変化をして無窮無尽に発展していく。

5は万物の理知を明らかにする数である。

2009年5月15日 (金)

五行相生と五行相剋

対角線で出来る五芒星はその中に正五角形が生成されるので、輪廻・再生の概念も含まれると考えられる。

易では五角形の頂点を木とし、右回りに火→土→金→水と対応させ五行と関係つけている。「晴明桔梗」として使われている。

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五行は 木-生命 火-結合 土-空間 金-物質 水-移動 に対応し、物質主観的な西洋の四大(地水火風)・インドの五大(地水火風空)とは異なり、木に象徴される生命の要素が含まれ相互作用、輪廻の考えが入る。

 相互作用には、5辺を順に右回りする五行相性(左の性が右を支える)と、一つ次の角を結ぶ対角線の五行相剋(左の性が右を押さえる)関係がある。
五行相剋を順に結ぶと、一筆描きで五芒星の形が出来上がる。

五行相生
   木生火 木を擦り合わせて火をおこし、火に木をくべて大きくする
   火生土 火が燃えると灰ができ、土に戻る
   土生金 土の中で金属が出来、それを掘り出す
   金生水 金属を空気にさらすと湿気が結露して水滴となる
   水生木 木は水を吸って養われ育つ

五行相剋
   木剋土 木は根を張って土中の養分を吸い上げ、土がやせる
   土剋水 土は水の流れを遮り、堰とめる、土がが入ると水は汚れる
   水剋火 水を掛けると火は消える
   火剋金 火は金属を溶かす
   金剋木 金属は斧となって大木をも切る

2009年5月12日 (火)

籠目かごめ

「かごめ歌」 

 かごめ かごめ
 籠の中の 鳥は
 いついつでやる
 夜明けの晩に
 鶴と亀が滑った
 後ろの正面だあれ

http://www.venus.dti.ne.jp/~bouzu893/iitai/it61_80/iitai75.html

カゴメ=>過去の目>囲め=封印=身篭る>篭目=六忙星<籠=龍(加護 籠の中の鳥居(鳥=東天紅 何時何時でやーる 夜明けの晩に>月神=保食の神 鶴と亀が滑った<統べる 後ろの正面

日光東照宮の陽明門には「唐子遊び」と呼ばれる子供たちが戯れる彫刻がある。鬼ごっこ、司馬温公の瓶割、喧嘩などテーマごと三枚の彫刻が配置されている。これら子供たちの遊ぶ風景から漂ってくるのが童歌「かごめかごめ」であり、彫刻「唐子遊び」を陽明門に配置される。
陽明門はその名の通り太陽を表し、童歌「かごめかごめ」には『籠の中の鳥』ニワトリが『いついつ出やる』という歌詞がある。ニワトリは太陽に向かって朝一番に鳴く。朝日は黄金に輝き、ニワトリは黄金を象徴する縁起のいい鳥だとされている。陽明門もまた黄金を意味する太陽を意味している。周辺の山々には鶏鳴山があり、読んで字のごとし、鶏が鳴く山である。
「夜明けの晩に、鶴と亀が滑った」は日光東照宮の『三具の鶴亀』にも暗示されている。「夜明けの晩」とは申(サル)と酉(トリ)の刻とすれば、日光の庚申塔を暗示して、庚申山へと導引されていくのであった。
そこでは「鶴と亀」が滑って何かが解けてくる。

「向こう山で鳴く鳥は、信心鳥かニワトリか。
金三郎のお土産に何もらった。金ざし、かんざし、もらった。
納戸のおすまに置いたれば、きうきうネズミが引いてった。
鎌倉街道の真ん中で、一抜け、二抜け、三抜けさくら。
さくらの下で文一本ひろった。
あくしょ、あくしょ、一本よ」

明智家一族の出身地の「可児」と一族が移住した「越前」の二つ。
徳川家の重要地点「江戸」「日光東照宮」「久能山東照宮」
そして幕府の天領「佐渡」で丁度「篭目の六角形」になります。
「可児」を正面とすれば、夜明けの方向が「日光」。
とすれば後ろの正面は「岸和田」となるらしい。

かごめかごめ(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%94%E3%82%81%E6%AD%8C

2009年5月10日 (日)

零の歴史

紀元 500年頃、アーリヤバタにはまだ零はありませんが、位取り記数法である数体系を工夫しました。彼は、位に"kha"という言葉を使い、それは後に零の名として用いられることになるでしょう。初期のインドの写本では、位取り記数法で空の場所を示すのに、ドット(点)が使われていた証拠があります。同じ文書の中で、私たちが未知数を表すのに xを使うようなところにもドット(点)が使われることもあったというのは面白いことです。後に、インドの数学者たちは位取り記数法で零を表す名前は持っていましたが、まだその記号はありませんでした。年代が分かって、すべての人が間違いないと意見が一致しているインドの零の使用の最初の記録は、876年に書かれたものです。

私たちは、876年と解釈(翻訳)できる年代の書かれた銘のある石板を持っています。その銘は、デリーの南 400kmにあるグワリオル(Gwalior)の町と関係があります。そこで、人々は縦横187ハスタ(hasta)と 270ハスタの庭に花を植えました。それはそこの聖廟に毎日花環を50捧げるのに十分な花を提供するでしょう。270と言う数字にも 50と言う数字にもどちらも今日書かれるのとほとんど同じように書かれています。0は少し小さく、若干上の方にありますが。

私たちは、今や、数字としての最初の零が出現したと考えるようになるでしょう。先ず、いかなる意味においても、自然に数字の候補となったものではないことに注意してください。初期の時代から、数字は、対象物の収集(集まり)に言及する言葉です。確かに、数字の考えは、次第に抽象的になり、この抽象化が、その後、零や負の数の考察も可能にします。しかし、それは対象物の収集(集まり)といった特性からは生じないものです。もちろん、零や負の数を考えようとすると生じる問題は、算術(算数)の足し算、引き算、かけ算、わり算といった計算操作(方法)について、お互いどのように作用し合うのかということです。インドの数学者、ブラフマグプタ、マハーヴィーラ、バースカラ3人の3冊の重要な書物は、これらの問題に答えようとしたものです。
kha

<object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/NEi4C6QA7LY&hl=ja&fs=1"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/NEi4C6QA7LY&hl=ja&fs=1" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object>

数字キーに切り替えるのではなく、押したまま数字のところまで指 を離さずに動かしていき離すとその文字が入力されます。そして、 キーボードのモードは英語のまま。いちいち数字モードに切り替え ることなく、英語モードのまま数字をいれらるような感じになりま す。

2009年5月 7日 (木)

牡牛座 (Wikipedia)

おうし座(牡牛座、Taurus)は黄道十二星座のひとつ。トレミーの48星座のうちの1つ。
この星座で数少ない明るい星、橙色のα星(アルデバラン)は、この星座の真ん中にある。雄牛のつのは、エルナトElnath(β Tauri、かつてはぎょしゃ座にも同時に属していた)およびζ星によって形作られ、西へ伸びている。

おうし座の東に、最もよく知られているプレアデス散開星団がある。これは人間の目でも容易に見える。アルデバランの後ろに、ヒアデス散開星団がある。これは、天上でV字を形成する。これは雄牛の頭にある。

望遠鏡で見える天体に、かに星雲(M1)がある。この星雲はζ星の北東にある。これは、かつて1054年7月4日に地球で目撃された巨大な超新星の残骸である。爆発時には日中ですら見えたという。この記録は中国の歴史書にも残り、アメリカンインディアンの陶磁器にも記録された。この星雲の名は、望遠鏡で初めて観測された当時かにの形に見えたからだとされる。また、かに座にあると間違えられることも多い。

また、おうしの背中にあたる部分には活発に星形成を行うおうし座分子雲が存在しており、ハッブル宇宙望遠鏡や世界中の電波望遠鏡で盛んに観測が行われている。


神話
ゼウスがニンフの(一説では人間の王女)エウロペに恋をした。ゼウスは誰にも分からぬよう、牡牛に化けてエウロペに近づいた。ゼウスは正体を明かし、2人はクレタ島に行って子をもうけた。

おうし座にあるプレアデス星団は、ギリシア神話ではプレアデス7人姉妹に例えられる。この7人姉妹が楽しく踊っていたところ、勇者オリオン(オリオン座)がやってきて、7人はびっくりして逃げた。しかし7人があまりに美しかったので、オリオンは忘れられずに5年間追いかけまわした。7人は女神アルテミスの助けを借りて鳩になってオリオンから逃げた。この後、星座の中に入れられてプレアデス星団になった。

プレアデス星団には肉眼で見える星は6つしかない。7人のうち1人が姿を隠したといわれるが、その1人はメロペという説とエレクトラという説がある。世界中で7つ星と呼ばれることから、かつては7つとも見えた時代があったと主張する学者もいる。

日本ではプレアデス星団はすばる(昴)と呼ばれる。富士重工業のマークにもなっていて、日本では普通6つ星として考えられている。漢字だと統ばる、統星と書かれ、もともとは玉がいくつかついた首飾り、髪飾りの名を示す古い日本語だったと考えられている。

ヒアデス星団もギリシア神話では姉妹にたとえられる。
呼称 日本では、うし座と呼んだことがある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年5月 5日 (火)

「鞍馬山の天狗考」

 鞍馬寺ウエサク祭パンフレットより
 
 僧正ガ谷で牛若丸に兵法を授けたのは鞍馬山の大天狗である。世にいう「天狗さん」は物語に伝説に大活躍するが、鞍馬の山では「護法魔王尊(ごほうまおうそん)」の使者としてお働きになっていると考えている。護法魔王尊こそ天狗さんの総帥である。
 鞍馬山の本尊は宇宙の大霊であり大生命であり大光明、大活動体であり、「尊天(そんてん)」と申し上げる。そのお働き(エネルギー)は、水の心のような慈愛のうるおいと太陽のような光と暖かさと、そして大地のような浄化の力として現われ、それらを人々に授ける。
 この慈愛と光明と活力を、それぞれ千手観世音菩薩、毘沙門天王、護法魔王尊の御姿で表わし、三身一体(さんじんいったい)尊天として本殿に奉安している。尊像は三様であるが、時に応じ機に臨み、あるいは一体となって、あるいはそれぞれのお働きで、さまざまに応現する。
 殊に大地の力の顕現としての護法魔王尊は太古より鞍馬の山にまします山霊であり、地球の霊王として、人々に希望、勇気、忍耐、決意を授け、破邪顕正(はじゃけんしょう)のお力を奮い邪を真理の正道に改め導く。時空を超えて飛行自在(ひぎょうじざい)、変化自在(へんげじざい)、何時でもどこでも見守り見そなわし、どのような時でも心の中まで見透かしている。その眼力から逃れることも隠れることも出来ない。それ故に人々は畏敬の念を抱き、あらたかな神として崇めて来た。

鞍馬寺ウエサク祭パンフレットより

 

ウエサク祭(五月満月祭)は、釈迦の降誕、悟りを開いた日、入滅の日が、全てヴァイシ ャーカ月(インド歴第二月)の満月の夜であったという伝承により、アジア各地(チベット、タイ、ミャンマー、スリランカなど)で行われる祭り。
太陽暦では四月から五月の満月にあたる。

鞍馬に祀られる魔王尊はサナト・クマラであると言われ、金星から地球に降り立つとき鞍馬山に降り立ったと伝えられる。
     
鞍馬山にはシャンバラへのゲートがあると言われる。
奥の院の魔王殿から貴船神社へ下る道の途中には
エネルギーが渦巻く場所があり、木々の成長が
そこだけ特異な形となっている。

鞍馬寺、京都府左京区
http://www.diviner.jp/HolyPlace/2002/0526-Kurama/

2009年5月 3日 (日)

「図形を描く夢」 

背中へズンと重い思念が降りてきた。
「六角形」のなかにある中心へ、正しきものを配置せよ! というのだった。

6+1=7って、秘数7という意味?【正六角形の作図 】
http://contest2002.thinkquest.jp/tqj2002/50027/page147.html

ミツバチの巣もなぜ六角形なのか?
六本の脚で丸い円柱の巣を作ろうとしているか、材料を最小限におさえて可能な限りの広い空間を作ろうとするのか。丸や八角形では隙間ができるし、三角形や四角形では面積が小さくなり六角形が最も効率がいいらしい。

■正六角形の角を直線で結ぶと表れる図形■
http://hexageon.cool.ne.jp/prons/pron_word_ren.html
正三角形と逆三角形が交わって現すものは、タントラアートの基本型となるものであった。それは精神(男性原理)と物質(女性原理)の合一というシヴァシャクティを象徴する。インド神話の講議を受けた時に、シルクスクリーンで図形化した事が思い出された。シヴァとパールヴァティとの合体の逸話があって、男女融合によって 最高のちから(シャクティ)を得ることを表す。深遠なる宇宙規模の叡知と手法の物語であった。

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もしミツバチたちがシヴァシャクティを知って、六角形を並べたハニカム構造を形成していたとすると?
京都の鞍馬にあるミツバチの秘密の伝説を聞いたことがあるよ。サナトクマラが祖先を啓発して生活が楽になるように小麦や蜜蜂 その他のものを教えたかを語り伝えたとい鞍馬寺の魔王尊起源によるものだった。
その伝えられた丈夫な形は飛行機の翼や人工衛星の壁にも応用されている。科学の先端の一番の極まる先端を探って行くと、神話の世界と結びつくものが限り無くあるようだ。

ミツバチの巣は裏表の巣穴がちょうど半分ずつずれていて、互い違いに組み合わされてす。六角形の辺が交差する点が裏側の六角形の中心になっている。穴の底が簡単に破れないように、強度を高めて、断面図を見る両面の巣房が上向きになっているのがわかる。「六角形のなかにある中心へ、正しきものを配置せよ!」

蜜蜂の作りだす「プロポリス」ってのも、人間の科学ではとうぶん製造することすら出来ないのだね。ミツバチって高性能な小型の生命ロボティスクに見えませんか。

鞍馬寺の秘儀ウエサク祭とは
http://www.jp-spiritual.com/kurama1.htm

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

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  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。