« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月28日 (日)

ネオダダ(Neo-Dada)

作品制作の方法論や意図が初期のダダイスムと類似点を持つ、1950年代後半から1960年代のアメリカ合衆国の美術家や美術運動を表すのに使われた用語である。

もとは、1958年のアートニューズ誌において、当時廃物や大衆的なイメージを使用した絵画で抽象表現主義に替わり注目を浴びつつあったロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズといった画家、ハプニングなどのパフォーマンスアート活動を行っていたアラン・カプロー、クレス・オルデンバーグ、ジム・ダインなどの作家たちを一括りに特集し、美術評論家ハロルド・ローゼンバーグがこれらにネオダダと名づけたことがはじまりである。以後、評論家バーバラ・ローズによって「ネオダダ」と言う用語は1960年代に広まり、おおむね1950年代~1960年代にこれらの作家によって行われた活動を指して使われる。


特徴
ネオダダの作品の例としては、既製品の使用(レディメイド)や大衆的な図像の流用(アッサンブラージュ、コラージュ)、そしてその不条理性などがある。また伝統的な芸術や美学の概念を否定する反芸術的なところもある。これらの手法や反芸術性が、新たなダダイスムとみなされた要因である。確かにロバート・ラウシェンバーグの、既製品を組み合わせて(コンバインして)その上から絵具を塗りつけたコンバイン・ペインティングなどはレディメイドやアサンブラージュなどと形式上共通点がある。

しかし、ネオダダは、概念や言葉の実験としてのレディメイドなどを制作した第一次世界大戦後のダダイスムとは時代背景が異なり、より工業化や大量生産・大量消費が進み廃物があふれていた時代のアメリカを舞台としているため、新品よりは廃物を好んで用いたり新品を廃物同様にするなどより即物性や即興性が強い。これらの作品はジャンク・アート(ゴミ芸術、廃物芸術)などとも呼ばれていた。反芸術でありながら、環境を埋め尽くしていた廃品を新たな自然と見て、そこに美を見出そうとしたネオダダを「工業化社会の自然主義」と呼ぶ向きもある。

ネオダダに属する作家たちのうち、ロバート・ラウシェンバーグらは1930年代から1950年代にかけて存在したノースカロライナ州の小さな芸術学校、「ブラック・マウンテン・カレッジ」で学んでいた。ここでは美術家のみならず音楽家、詩人、思想家らが教えており、なかでも教鞭をとっていた音楽家ジョン・ケージの、音響を即物的に考えることや偶然性を利用するといった活動から強い思想的な影響を受けている。

ジャンク・アート、反芸術の世界同時多発
この時代には、同じく廃物を寄せ集めた芸術作品や、従来の美術の範疇をはみでたハプニング、パフォーマンス、「反芸術」的な潮流が、工業化した欧州や日本など各国に現れた。

フランスではこの頃、収集した生ゴミを透明ケースに入れたり、同じ種類の機械や道具の残骸を無数に収集して組み合わせたアルマン、くず鉄を寄せ集めて溶接した「アマルガム彫刻」や自動車をプレス機に入れて直方体に圧縮する「圧縮彫刻」を行ったセザール、日用品などを梱包していたクリストら、工業社会の「自然」をあるがままに受け容れそこに意味を見出そうとする作家たちが活躍していた。1960年、こうした傾向の作家たちを集めて評論家ピエール・レスタニによる展覧会が行われ、これに、さまざまなパフォーマンスを行っていたイブ・クラインや、ジャン・ティンゲリー、ニキ・ド・サンファルらが集まり、「ヌーヴォー・レアリスム」というグループを組んだ。グループは数年で解体したが、その思想や活動はネオダダと通じ合うものがある。
ドイツでは美術家や音楽家、詩人などをメンバーとするパフォーマンスアートのグループが現れ、1961年にフルクサスの名が使われた。流転・変転し、二度と同じ事を繰り返さないと言う彼らのパフォーマンスは各国の芸術家を巻き込み、1960年代前半にかけてドイツやアメリカなどで非常に活発に活動した。
日本でも反芸術の動きが1960年前後に活性化していた。
1954年から関西に具体美術協会が現れ、1950年代後半にかけてアクション・ペインティングや野外におけるインスタレーションなど矢継ぎ早に活動を行った。ここにはネオダダ的な身近な素材の利用やハプニング、反芸術の要素が多く含まれていた。
また、1950年代後半ごろから、東京都美術館で行われていた無審査公募展「読売アンデパンダン展」に廃物などを利用した作品が数多く出展されるようになり、1960年に評論家・東野芳明がこの展覧会に出展していた工藤哲巳の作品を評して「反芸術」の語を使用し日本の若手美術家に反芸術ブームを起こした。
1960年、荒川修作・吉村益信・篠原有司男・風倉省作(風倉匠)]・赤瀬川原平ら、読売アンデパンダン展に出展していた若い作家たちがネオ・ダダイズム・オルガナイザーズという組織を結成。その後「ネオダダ」と名称を簡略化し、3度の展覧会を実施したが、荒川修作の除名問題や吉村益信の結婚による活動場所の問題を経るなどわずか1年たらずで解体する。しかし、その間に社会風俗現象として週刊誌などマスコミを大いに賑わせ、一部美術評論家に注目されるアナーキーな作品や構想を数多く残し、スキャンダリズムを旨とする日本の前衛美術のひとつの傾向を示す典型となった。
その後メンバーの大半が渡米したが、赤瀬川原平は1963年に高松次郎・中西夏之と「ハイレッド・センター」を結成し反芸術的なパフォーマンスを開催し、篠原有司男らは新たなアメリカの動向であったポップ・アートにいち早い反応を見せた。

ネオダダの影響
ネオダダや反芸術の運動は、現在に至るまで多くのパフォーマンスアートや芸術表現に影響を与えている。また、アメリカではすぐ後に来るポップアートに手法的・理論的な影響を与えた。

作家
ロバート・ラウシェンバーグ
ジャスパー・ジョーンズ

関連項目
ポップアート
反芸術
ハプニング
アンフォルメル
具体
コンバイン・ペインティング
アッサンブラージュ
ヌーヴォー・レアリスム
アバンギャルド・前衛
ネオ・ダダJAPAN 1958-1998 磯崎新とホワイトハウスの面々

(Wikipedia)

反芸術からネオダダへ
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_ce83.html

日本アンデパンダンとパフォーマンスアート
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_56a9.html

2009年6月27日 (土)

ダダイスム(Dadaïsme)

1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことである。単にダダとも。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする。ダダイスムに属する芸術家たちをダダイストとよぶ。

初期ダダ
1910年代半ばにヨーロッパのいくつかの地方やニューヨークなどで同時多発的かつ相互影響を受けながらその流れは発生した。「ダダ」という名称は1916年にトリスタン・ツァラが命名したため(辞典から適当に見つけた単語だったとも言われる)、この命名をダダの始まりとすることもある。ツァラなどによってチューリッヒで行われた、特にチューリッヒ・ダダと言われる運動は、キャバレー・ヴォルテール(Spiegelgasse 1 番地に往時の様子を偲ぶことができる)を活動拠点として参加者を選ばない煽動運動的要素も孕んでいた。

同様の活動について都市ごとに、

チューリッヒ・ダダ(1915年頃-1920年頃、主要な参加者は、ヒューゴー(フーゴー)・バル、ハンス(ジャン)・アルプ、リヒャルト・ヒュルゼンベック、マルセル・ヤンコ、トリスタン・ツァラ、ハンス・リヒター、ゾフィー・トイバーなど)
ニューヨーク・ダダ
ベルリン・ダダ(1917年頃-1922年頃、主要な参加者は、リヒャルト・ヒュルゼンベック、ゲオルゲ・グロッス、ジョン・ハートフィールド、ラウル・ハウスマン、ヨハネス・バーダー、ハンナ・ヘッヒ、ヴァルター・メーリング、ゲルハルト・プライス、ヴィーラント・ヘルツフェルデなど)
ケルン・ダダ(1917年頃-1922年頃、主要な参加者は、マックス・エルンスト、ヨハネス・テオドア・バーゲルト[本名アルフレート・グリューンバルト])
ハノーヴァー・ダダ(1917年頃-1922年頃、主要な参加者は、クルト・シュヴィッタース)
パリ・ダダ(1919年頃-1924年、主要な参加者は、アンドレ・ブルトン、ジャン・クロッティ、ポール・エリュアール、ベンジャミン・ペレ、フィリップ・スポー、ルイ・アラゴン、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ、ジャック・リゴー、テオドア・フラエンケルなど)
東京・ダダ(1921年-1925年[1] 主要な活動家は、辻潤、清沢清志、高橋新吉、吉行エイスケ、MAVO(1923-1925)の柳瀬正夢、村山知義、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎、高見沢路直(田河水泡)、『赤と黒』の萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎、林政雄、小野十三郎など)
などがある。1918年にチューリッヒでツァラによりダダ宣言(第2宣言)がなされる。その後1922年頃にツァラとアンドレ・ブルトンとの対立が先鋭化し、ダダから離脱したブルトン派によるシュルレアリスムの開始と前後して勢いを失った。

ネオダダ
1960年代にアメリカでダダイズム運動が復興し、ネオダダと呼ばれ、「反芸術」運動として隆盛した。のちのポップ・アートやコンクレーティズム(日本では具体派)、コンセプチュアリズムなどへ分岐していった。この意味で第二次世界大戦以後の現代美術の震源地となったといえる。

写真・映画
ダダイスムに立脚した写真表現も存在する。第一次大戦と続く第二次大戦を通じて形成された虚無感を背景に、常識や秩序に対する否定や破壊といった感覚を表現の基調とする。

ダダと呼べるような写真作品を残している代表的な写真家・美術家に、マン・レイ、クリスチャン・シャド、マックス・エルンスト、ジョン・ハートフィールド、クルト・シュヴィッタース、ハンナ・ヘッヒ、ラウル・ハウスマン、北園克衛などが挙げられる。

ダダに特に多い写真表現としては、フォトモンタージュがある。単に写真を切り貼りしたというコラージュというような作品から、より緻密に1枚の作品に仕上げているものまであり、後者の作品は、シュルレアリスムの写真へもつながっていく。複数の写真を組み合わせることにより、比較的に容易に、意外性を生じさせたり社会風刺ができるところに、ダダイストたちがフォトモンタージュを好んだ理由の1つがあると推測される。

ドイツの画家ハンス・リヒターは1910年代半ばから1920年代にかけて、ダダイスム映画作品も手がけている。

日本におけるダダ
1920年(大正9年)『万朝報』8月15日号に記事「ダダイズム一面観」が掲載される[2]。高橋新吉が1921年11月に辻潤宅を訪問し、ダダについて辻に教示し、辻はダダイストを名乗るようになる[3]。1922年12月『ダダイズム』を 吉行エイスケが発刊。[4]。翌年1923年(大正12年)1月には萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎らが『赤と黒』を創刊。同年2月には 高橋新吉が詩集「ダダイスト新吉の詩」(中央美術社)を発表する(辻潤が編集した)。「DADAは一切を断言し否定する」で始まる[5]。同年7月には村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助らがMAVOを結成し、翌年6月には『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』が玉村善之助、橋本健吉、野川隆らによって創刊される。日本では1922年から1926年がダダ運動のピークとなった。ダダイズムは以降も、中原中也、坂口安吾、宮沢賢治など広範にわたって影響を与えた[6]。

辻潤 高橋新吉よりダダイズムの運動を知り、自らをダダイストと名乗る。
『ダダイズム』(1922年12月〜1923年?) 吉行エイスケ発刊。
『赤と黒』(1923年1月〜1924年6月)の萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎、林政雄、小野十三郎など)
高橋新吉 1923年(大正12年)詩集「ダダイスト新吉の詩」(中央美術社)ほか。
MAVO (1923年7月〜1925年)村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎の五名が代表メンバー。高見沢路直(田河水泡)ものちに参加。
ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム(1924年6月~1926年1月)、編集人は玉村善之助、橋本健吉、野川隆。北園克衛、稲垣足穂、村山知義らも寄稿した。
中原中也 高橋新吉に影響を受け、「ノート1924」に、46篇のダダ的な作品を記す。
北園克衛
坂口安吾 ヴィトラックやツァラの詩を翻訳[7]。

戦後は、1960年代にネオダダを標榜して高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之らによるハイレッド・センターが「東京ミキサー計画」などのハプニングイベントを遂行した。

なお、ウルトラマンに登場した三面怪人ダダのネーミングは、ダダイスムに由来するという。ちなみに、「ブルトン」の名を持つ怪獣もウルトラマンに登場している。

主な芸術家 List of Dadaists

ギヨーム・アポリネール
ルイ・アラゴン(Louis Aragon; 1897年-1982年)
ジャン・アルプ(ハンス・アルプ)(Hans Arp, Jean Arp; 1887年-1966年)
ポール・エリュアール(Paul Eluard; 1895年-1952年)
マックス・エルンスト(Max Ernst; 1891年-1976年)
ジョージ・グロス(ゲオルグ・グロッス)(George Grosz; 1893年-1959年)
ジャン・クロッティ(Jean Crotti; 1878年-1958年)
クリスチャン・シャド
クルト・シュヴィッタース(Kurt Schwitters; 1887年-1948年)
フィリップ・スポー(Philippe Soupault; 1897年-1990年)
サルバドール・ダリ
トリスタン・ツァラ(Tristan Tzara; 1896年-1963年)
マルセル・デュシャン
ゾフィー・トイバー(Sophie Taeuber; 1889年-1943年)
ラウル・ハウスマン(Raoul Hausmann; 1886年-1971年)
ヨハネス・テオドア・バーゲルト(本名アルフレート・グリューンバルト; Alfred Emanuel Ferdinand Grünwald)(Johannes Theodor Baargeld; 1892年-1927年)
ヨハネス・バーダー(Johannes Baader; 1875年-1955年、または、1876年-1955年、または、1875年-1956年)
ジョン・ハートフィールド(John Heartfield, Helmut Herzfelde; 1891年-1963年)
ヒューゴー・バル(フーゴー・バル)(Hugo Ball;1886年-1927年)
リヒャルト・ヒュルゼンベック(Richard Huelsenbeck; 1892年-1974年)
ライオネル・ファイニンガー
ゲルハルト・プライス(Gerhard Preiss; )
テオドア・フラエンケル(Théodore Fraenkel; 1896年-1964年)
アンドレ・ブルトン(André Breton; 1896年-1966年)
ハンナ・ヘッヒ(Hannah Höch; 1889年-1978年)
ヴィーラント・ヘルツフェルデ(Wieland Herzefelde; 1896年-1988年)
ベンジャミン・ペレ(Benjamin Péret; 1899年-1959年)
ヴァルター・メーリング(Walter Mehring; 1896年-1981年)
マルセル・ヤンコ(Marcel Janco; 1895年-1984年)
ジャック・リゴー(Jacques Rigaut; 1899年-1929年)
ハンス・リヒター(Hans Richter; 1888年-1976年)
ジョルジュ・リブモン=デセーニュ(Georges Ribemont Dessaignes; 1884年-1974年)
マン・レイ

2009年6月26日 (金)

反芸術(はんげいじゅつ、Anti-art)

芸術作品に対する定義で、伝統的な展覧会の文脈の中で展示されながら、真剣な芸術をあざ笑うかのような内容を持つ作品、また芸術というものの本質を問い直し変質させてしまうような作品のこと。さらに既存の芸術という枠組みを逸脱するような芸術思想や芸術運動のこと。

ダダイスムによるオブジェや自動筆記による文学、ナンセンス詩など、挑発的な芸術形態が「反芸術」と呼ばれたが、芸術の枠がある限り、反芸術はいつでもどこでも出現する可能性がある。また20世紀美術の歴史は、反芸術が芸術の範囲を押し広げた結果ともいえる。

ダダイスム
反芸術は、第一次世界大戦中からはじまったダダイスムにその端を発する。反芸術的な作品の、初期にしてもっとも有名な例は、ダダイストのマルセル・デュシャンが1917年にニューヨークの無審査公募展・「アンデパンダン展」にリチャード・マット名義で出展した『泉』である。この作品はただの既製品の男性用小便器を寝かせたもので当時の観念から見ればどう見ても芸術品とも作品とも呼べるものではなく、無審査展のため仕方なく受け付けられたものの会場に展示されることなく紛失するが、この処置に抗議したデュシャンはアンデパンダン展委員を辞任し、新聞にリチャード・マット氏の作品を弁護しその意義を訴える文章を発表し大論争を起こした。この事件の例のように、ダダイスムの活動は美術や文学など既存の芸術をはみ出すもので、結果、芸術の概念を非常に大きく広げることとなった。

メール・アート
郵便物を使った芸術の表現であるメール・アートも反芸術の一種とみなしうる。公式な美術の発表の場(展覧会など)から離れた場で発表され、しかも政府の郵便制度を利用したさまざまな実験は、芸術と社会との摩擦を巻き起こした。

日本における反芸術
日本において「反芸術」という単語は、安保闘争などで社会が揺れていた1960年前後の現代美術界の熱気を抜きには語れない。

1954年から関西で活動していた具体美術協会は、その型破りなパフォーマンスなど、既存の芸術を超えて表現する反芸術の色彩が強かった。反芸術が爆発的に広がるのは戦後まもなくから1963年まで東京都美術館で行われていた無審査公募展「読売アンデパンダン展」で、1950年代末以降、廃物などを利用した作品が数多く出展されるようになり、1960年に評論家・東野芳明がこの展覧会に出展していた工藤哲巳の作品を評して「反芸術」の語を使用し日本の若手美術家に反芸術ブームを起こした。

同じく1960年、読売アンデパンダン展に出展していた荒川修作・吉村益信・篠原有司男・風倉匠作・赤瀬川原平ら若い作家たちがネオ・ダダイズム・オルガナイザーズという組織を結成、その短い活動時期にアナーキーな作品や構想を数多く残した。メンバーの一人、赤瀬川原平は1963年に高松次郎・中西夏之と「ハイレッド・センター」を結成し反芸術的なパフォーマンスを開催している。また秋山祐徳太子の東京都知事選挙出馬に至るパフォーマンスなど、反芸術は1950年代から1960年代にかけてマスコミにも多くの話題を提供した。
(Wikipedia)

2009年6月23日 (火)

複製の連鎖

Mm397 Mm397 Mm397 Mm397 Mm397 Mm397

Mm397 Mm397 Mm397

二次世界大戦後の先進国では、だれもが毎日、大量生産の製品に囲まれ、それらを消費し、テレビや雑誌でその広告にさらされる生活を送っている。
Pop art(ポップアート)の運動の中には、これら下世話な製品やサブカルチャー、生活様式を批判する意図をこめたものもあれば、むしろ自分達を取り巻く大量生産・大量消費社会の風景を、山や海や農村にかわる新しい「風景」ととらえ、親しみ深い風景の一部である商品や広告を、淡々とあるいは美しく「風景画」に描こうとするものもあった。
複製絵画 Pop art http://koinu2005.seesaa.net/article/41192305.html

2009年6月21日 (日)

井上ひさし作『ムサシ』

原作は吉川英治の小説『宮本武蔵』。
朝日新聞創刊130周年記念・テレビ朝日創業50周年記念・彩の国さいたま芸術劇場開場15周年記念作品。2010年にはイギリスでの公演も予定されている。
--------------------------------------------------------------------------

あらすじ
船島の決闘から六年後の元和四年(1618年)夏。鎌倉は佐助ヶ谷、源氏山宝蓮寺。名もなき小さなこの寺で、いままさに寺開きの参籠禅がとり行われようとしていた。大徳寺の長老沢庵宗彭を導師に迎え、能狂いの柳生宗矩、寺の大檀那である木屋まいと筆屋乙女、そして寺の作事を努めたあの宮本武蔵も参加している。ところがそこへ、佐々木小次郎が現れた。船島でかろうじて一命をとりとめた小次郎は、武蔵憎しの一念で、武蔵の行方を追いかけて、ここ宝蓮寺でついに宿敵をとらえたのだ。今度こそは「五分と五分」で決着をつけようと、小次郎は武蔵に「果し合い状」をつきつける。こうして、世に並ぶなき二大刺客、宮本武蔵と佐々木小次郎の命をかけた再対決が「三日後の朝」と約束されるのだが……。(Wikipedia)

スタッフ
作:井上ひさし
演出:蜷川幸雄
音楽:宮川彬良
美術:中越司
照明:勝柴次朗
衣装:小峰リリー
音響:井上正弘
かつら:奥松かつら
殺陣:國井正廣
演出補:井上尊晶
舞台監督:小林清隆

キャスト
藤原竜也…宮本武蔵
小栗旬…佐々木小次郎
鈴木杏…筆屋乙女
辻萬長…沢庵宗彭
吉田鋼太郎…柳生宗矩
白石加代子…木屋まい
大石継太…平心 
塚本幸男…浅川甚兵衛
高橋努…浅川官兵衛
堀文明…忠助
井面猛志…只野有膳

2009年3月4日(水)~4月19日(日) 54公演 
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(さいたま市) http://www.saf.or.jp/arthall/event/event_detail/2009/p0304.html

2009年4月25日(土)~5月10日(日) 20公演 
シアター・ドラマシティ(大阪市)http://www.umegei.com/s2009/musashi.html

2009年6月20日 (土)

肌色の月 

肌色の月
久生十蘭

 運送会社の集荷係が宅扱いの最後の梱包を運びだすと、この五年の間、宇野久美子の生活の砦だった二間つづきのアパートの部屋の中が、セットの組みあがらないテレビのスタジオのような空虚なようすになった。いままで洋服箪笥のあった壁の上に、芽出しの白膠木(ぬるで)の葉繁みがレースのような繊細な影を落しているのが、なぜかひどく斬新な感じがした。
 管理人の細君が挨拶にきた。
「おすみになりましたか」
「ええ、あらかた……ながながお世話になりました」
「宇野さん、和歌山なんだそうですね」
「ええ、和歌山よ」
「お郷里(くに)へお帰りになるんだって。テレビであなたの顔を見られなくなると思うと、さびしいですわ」
「こんなふうに休んでばかりいるんじゃ、ろくな仕事はできないでしょう。ほうぼうへ迷惑をかけるばかりで……二、三年、郷里でのんきにやって、また出なおしてくるわ」
「焦っちゃだめよ、ね。仲さんみたいなことになるのは不幸すぎるわ」
「あたしはだいじょうぶ」
「じゃ、お大切にね。元気で帰っていらっしゃい」
「ありがとう」
 管理人の細君がひきとると、久美子はボール・ペンをだして、戦争の間、疎開していた伊那の谷の奥の農家へハガキを書いた。
 伊那はいま藤のさかりでしょう。みなさま、お元気のよし、なによりです。先日、勝手なことをおねがいしましたが、さっそくご承知くださいましてお礼の申しようもございません。今日、日通から身の廻りのものを貨物便で送りました。ちょっと和歌山へ帰って、それからそちらへ伺うようになりますので、それまで雑倉の隅へでもお置きくださるようおねがいいたします。
 もう仕残したことはなにもない。衣裳と小道具の入ったボストン・バッグをさげて部屋を出るだけ。ハガキをポストに投げこんで、どこかの安宿で衣裳を換えて、たぶん伊東行の湘南電車に乗る……。
 宇野久美子は完全犯罪を行なおうとしている。ただし、久美子の場合、殺そうというのは他人ではなくて自分自身なのであった。
 ……生活するということは、昨日と明日の継ぎ目を縫うことだと、なにかの本に書いてあった。ラジオ劇場の台本にあったセリフだったかもしれない。
「うまいことをいうもんだわ」
 久美子は出窓の鉄の手摺子(てすりこ)に凭れ、眼の下の狭い通りを漠然とながめながら唇の間でつぶやいた。
「この人生に明日という日が無いということは、継ぎ目を織る、今日の分の糸がないということなんだ」
 久美子は生存というものを廃棄するために、というよりは、自分という存在を上手にこの世から消すために、その方法をいろいろと研究した。想像力の及ぶかぎり、可能なあらゆる場合を想定し、プロットを立て、それに肉付(モデリング)した。これならばというプランを一月以上も頭の中にためておき、いくどもひっくりかえしてみて、完全だという確信ができたので、さっそく実行することにした。
 二年ほど前の秋、おなじ声優グループの仲(なか)数枝が、フラリと久美子のアパートにあらわれた。久美子は用があって、階下の管理人の部屋で立話をしていると、裏の竹藪へドサリとなにか落ちこんだような音がした。それをなんだとも思わず、十分ほどして部屋に帰ると、仲数枝が久美子の行李の細引を首に巻きつけてその端を出窓の手摺子に結びつけ、一気に窓から裏の竹藪へ飛んで死んでいた。
「やったねえ。若い娘にしては心得たもんだ……頸骨をへし折るように作業するのは、縊死のもっとも完全な方法なんだな。ほとんど苦痛はなかったろうと思う」
 老練らしい検視官が鑑識課の若い現場係に訓話めいたことをいっていた。
 仲数枝の最後の演技はすごい当りだったが、人生の舞台にはエンディングという都合のいい幕切れはないので、終末はひどくごたごたした。こういう死にかたをすれば、どんなみじめな扱いを受けるものかということを、久美子はつくづくと思い知らされ、死にたくなればいつでも死ねるという高慢な自負心がひとたまりもなく崩壊した。
 久美子が郷里の小学校にいるころ、生涯の運命を決定するような痛切な事件があった。土用の昼さがり、帷子(かたびら)を着て縁に坐っていた父が手を拍ちあわせながら叫んだ。
「ほい、これはまあ見事(ほうが)なもんや。どこもかしこも菜の花だらけじゃ」
 草いきれのたつ庭先には荒々しい青葉がぼうぼうと乱れを見せて猛(たけ)っているだけで、どこをみても菜の花などはなかった。
「お父(た)ん、なにをいうとるなん? 土用に菜の花などあるかしらん」
「そうかのう。俺(うら)には菜の花が咲いてるように見えるがの」
 間もなく父は黄疸になった。全身からチューリップ色の汗を流してのたうちまわり、夜も昼も絶叫して、阿鼻叫喚のうちに悶死した。
 癌だった。原病竈(そう)は不明だが、最後は肝臓に転移して肝臓癌で死んだ。祖父も父の兄弟もみな癌で死んだ。父は癌は遺伝しない。俺(うら)だけは癌では死なぬといい、久美子も久美子の母も、そうあるように心から祈っていたが、その父も不幸な死の系列から遁れることができなかった。
 さほど遠くない将来に、いずれ自分もすごい苦悶のなかで息をひきとることになるのだろうということを、久美子はそのころからはっきりと自覚していたので、もし、すこしでもそういう予徴が見えだしたら、肉体の機能のうえに残酷な死の影がさしかけない前に、安らかな方法ですばやく自殺してやろうと覚悟していた。それが願望になって、心の深いところに凝りついていた。
 三月三日の夜、雛祭にちなんだ特別番組があった。それが終ってから、仲間の一人とスタジオの屋上へ煙草を喫いに行った。
 晴れているくせに、どこかはっきりしないうるんだような春の空に三日月が出ていた。あまり妙な色をしているので、久美子は思わず叫んだ。
「なんなの、あの月の色は」
「月がどうしたのよ」
「妙な色をしているじゃないの。黄に樺色をまぜたような……粉白粉なら肌色(オータル)の三番ってとこね」
「肌色でなんかないわ」
「黄土(おうど)色っていうのかな」
 仲間は煙草の煙をふきだしながら、まじまじと久美子の顔をみつめた。
「いつもの月の色よ、灰真珠色(パール・グレー)……あなたの眼、どうかしているんじゃない」
 月だけではなかった。塔屋の壁も扉もアンテナの鉄塔も、もやもやした黄色い光波のようなものに包まれていた。
 心臓にきたはげしいショックで久美子はよろめいた。
「宇野さん、どうしたの」
「疲れたのよ。きょうは帰るわ」
 アパートへ帰るなり、久美子は鏡の前へ行って眼のなかをしらべた。白眼のところに黄色い翳のようなものがついている。爪にも掌にもそれらしい徴候があった。
 あわてて服を脱いで下着をしらべてみた。シュミーズの背筋にあたるあたりにあの不吉な黄色いシミが、爪黒黄蝶(つまぐろきちょう)の鱗粉のようなものがかすかについていた。
 いずれ、こんなことになるのだろう。それはわかっていた。遠い将来のことだろうと気をゆるしていたが、意外にも早くやってきたので、久美子は愕然とした。
「疲労だね」
 肋骨の下を念入りに触診してから、内科の主任は事もなげにいった。
「君達のグループは働きすぎるよ」
「うちのものはみな癌で死んでいるんです。父は肝臓癌でした……あたし黄疸なんでしょう?」
「黄疸というほどのものでもない。この冬、軽い肺炎をやったね。その名残りだ。しばらく仕事を休んで、うまいものを食ってごろごろしていれば癒ってしまう」
 医務室のへっぽこ医者にわかるわけはないのだ。癌のことならこちらのほうがよく知っている。
「和歌山県と奈良県の癌死亡者は人口百万人にたいして千人以上で、比率の大きなことでは世界的に有名なんですってね……先生、あたし和歌山なんです」
 内科の主任は虚を衝かれたような気むずかしい顔になった。
「家族的黄疸とでもいうのか、一家の中でつぎつぎに黄疸にかかる特異な体質がある。赤血球の構成が病的で、すぐ壊れるようになっているので黄疸にかかりやすいのだが、この型の黄疸は肝臓機能とは関係がない」
「そういう体は遺伝するんでしょうか」
「遺伝するだろうと考えられている」
 これではまるで告白しているようなものじゃないか。癌研へ紹介する必要のないほど決定的な症状になっているのだと久美子は察した。
 未だかつて死体があがったためしがないという深い吸込孔のある湖水がいくつかある。死んだあとで死体をいじりまわされるのが嫌なら、そういう湖でやるほうがいい。万一、死体が浮きあがっても、行路病者の扱いで土地の市役所の埋葬課の手で無縁墓地に埋められるのなら、我慢できないこともない。宇野久美子から宇野久美子という商標(プラウト)を剥ぎとってどこの誰ともわからない人間をつくるぐらいのことは、やればやれる。
 湖はどこにしようかと迷っていたが、ある日、駅の観光ポスターの「夢の湖、楽しい湖へ」といううたい文句がひどく気に入って、伊豆の奥にあるその湖にきめた。
 人間がましい恰好で、出窓の敷居に腰をかけて煙草を喫ったりしているが、実は人間の影のようなものにすぎない。プランどおりに事が運べば、明日中か遅くとも明後日の朝までには宇野久美子という存在は完全にこの世から消えてしまう。この演出は成功するだろうという確信があった。

 久美子は和歌山までの切符を買って、二十一時五十分の大阪行に乗った。
 網棚へ小道具の入ったスーツ・ケースを載せると、灰銀のフラノのワンピースに緋裏のついた黒のモヘアのストールという、どこかのファッション・モデルのような恰好で車室を流して歩き、知った顔がないかと物色していたが、三つ目の車でロケハンにでも行くらしい楠田という助監督の一行を見つけた。
「楠田さん」
「おお、お久美さんじゃないか。すかっとした恰好で、どこへ行く」
「郷里へ帰るの、和歌山へ……親孝行をしに」
「なんだかわかったもんじゃないな。キョロキョロして、誰をさがしているんだ」
「誰か乗っていないかと思ってさがしていたの」
「こんなお粗末なのでよかったら、つきあっていただきましょう。掛けなさいよ」
 宇野久美子はどうなったというような騒ぎになると、この連中は、五月二十日の夜の九時五十分の大阪行の準急に久美子が乗っていたと証言してくれるだろう。これで用は足りた。
「ありがとう。ここもいっぱいね。またあとで話しにくるわ」
 さっきの座席に戻ると、話しかけられるのを防ぐために、久美子は顔にストールをかけて寝たふりをしていた。
 午前三時ごろ、浜松に停車した。久美子は網棚からスーツ・ケースをおろすと、浜松で降りる乗客にまじっていったホームへ降り、それからすぐ前の車輌に移って、つづきの二等車のトイレットに入った。
 ドレスを脱いでお着換えをする。よれよれの紺のスラックスに肱のぬけたナイロンのジャンパー、ベレエに運動靴……何年か前に友達の絵描きが置いて行った絵具箱に三脚を結びつけたのを肩にかけると、脱いだものを入れたスーツ・ケースをさげてトイレットから出た。宇野久美子が身につけていたものは、汽車の中に置いて行くつもりなので、二等車を通りぬけながら網棚のあいたところへ放りあげ、前部のつづきの車に移った。簡単な手続きだが、これで宇野久美子の中から、誰とも知れない別な人間を抽出したつもりだった。
 予定どおりに豊橋で下車すると、久美子は車掌をつかまえて、汽車の中で書いておいたメモをわたした。
「すみませんが、これをアナウンスしてください。おねがい……」
 間もなくホームの拡声器からアナウンスの声が流れだした。
「一二九号列車に乗っていられる東洋放送の宇野久美子さん……東洋放送の宇野久美子さん、お連れの方はつぎの便になりましたから、待たずにその汽車で行ってください」
 風の吹きとおすホームのベンチでアナウンスの声を聞いていると、モヘアのしゃれたストールをかけた宇野久美子が実際に客車の中にいるような気がして、思わず笑ってしまった。宇野久美子という女性はたしかに豊橋まで汽車に乗っていたはずだが、それから先は行方知れずということになる。永久に大阪駅に着くことはないのだ。
 久美子が恐れていたのは、自殺する意図のあったことを嗅ぎつけられ、しつっこく捜したてられることだったが、ここまで手を打っておけば、その心配もない。郷里の母は娘が帰ってくるなどとは思ってもいないし、伊那の農家では郷里の滞在が長びいているのだと思うだろう。勘がよければ、医務の内科主任がはてなと思うのだろうが、そのときは湖底の吸込孔の中か、無縁墓地の土の下で腐っているはずだ。
 五時二十分の名古屋発東京行の列車が着くと、久美子はちがうひとのような明るい顔で窓際の座席におさまると、ポスターのうたい文句をいくども口の中で呟いた。
「夢の湖、楽しい湖へ……」
 阿鼻叫喚のすごい苦悶の中で息をひきとるのではなくて、自分がえらんだ、魅力のある方法で、ひっそりと消えて行くのだと思うと、なんともいえないほど楽しくて気持が浮き浮きしてきた。
 正午すぎに伊東に着いた。
 久美子は駅前の食堂で昼食をすませると、バスを見捨てて下田街道を湖水のあるほうへ歩きだした。
 だいたいプラン通りに運んだ。あとは生存を廃棄するという作業が残っているだけ。さしあたって急ぐことはなにもない。二里たらずの道なら、どんなにゆっくり歩いても夕方までには着く。バスの中で知った顔に出っくわす危険をおかすより、気ままにブラブラと歩いて行くほうがよかった。
 川奈へ行く分れ道の近く、急に空が曇って雨が降りだした。こんな雨は予想していなかったので、気持を乱しかけたが、濡れるなら濡れるまでのことだと、ガムシャラに雨の中を歩いていると、追いぬいて行ったプリムスが五メートルほど先で停った。
 久美子が車のそばまで行くと、格子縞のハンティングをかぶった、いかにもスポーティな初老の紳士が脇窓から声をかけた。
「どこへ行くんです」
「湖水へ」
「ひどく濡れたね。お乗んなさい。私も湖水へ行く」
「こんな雨ぐらい、なんでもないわ」
「なんでもないことはない。そんなことをしていると風邪をひく。遠慮しないで乗りたまえ」
 振りきってしまいたかったが、これ以上断るのはいささか不自然だ。うるさいひっかかりにならなければいいがと思いながら、おそるおそる車の中に身を入れた。
「すみません」
 久美子が運転席に腰を落ちつけると、車が走りだした。
「体力で絵を描くのだというが、なるほど、たいへんなものだね、雨の中を湖水まで歩いて行こうという元気は……あなた東京ですか」
「はあ、東京です」
 久美子はうるさくなって、素っ気ない返事をした。紳士のほうも、ものをいう興味を失ったのだとみえて、黙りこんでしまった。
 雨がやんで雲切れがし、道のむこうが明るくなったと思ったら、天城の裾野のこじんまりとした湖の風景が、だしぬけに眼の前に迫ってきた。
 周囲一里ほどの深くすんだ湖水が、道端からいきなりにはじまり、岸だというしるしに、菱や水蓮が水面も見えないほど簇生している。湖心のあたりに二ヶ所ばかり深いところがあって、そこだけが青々とした水色になっていた。
 湖のほとりで車を停めると、紳士がたずねた。
「泊るところはどこ? ついでだから送ってあげよう」
 今夜の泊りなどは考えてもいなかったが、久美子は思いつきで、出まかせをいった。
「もう、ここで結構ですわ……キャンプ村のバンガローを借りて、今夜はそこで泊ります」
「バンガローの鍵を持っている管理人は、今日は吉田へ行っているはずだ。売店なんかもやっていないだろうし、生憎(あいにく)だったね」
 久美子が弱ったような顔をしてみせると、そのひとはむやみに同情して、この辺には宿屋なんかないから、大室山の岩室ホテルへでも行くほかはなかろうと、おしえてくれた。
「ホテルになんか、とても……お金がないんです。ごらんのとおりの貧乏絵描きですから」
 紳士はなにか考えていたが、
「そんなら、私の家へ来たまえ」
 と、おしつけるようにいった。
「でも、それではあんまり……」
「なにもお世話はできないが、一晩ぐらいならお宿(やど)をしよう」
 車をすこしあとへ戻して、林の中の道を湖の岸についてまわりこんで行く。
 どれがどの技とも見わけられないほど、青葉若葉が重なった下に、眼のさめるような緑青色の岩蕗や羊歯が繁っている。灰緑から海緑(ヴェル・マレエ)までのあらゆる色階をつくした、ただ一色の世界で、車もろとも緑の中へ溶けこんでしまうのではないかというような気がした。
 林の中の道を行きつくすと、また湖の岸に出た。樹牆(じゅしょう)に囲まれた広い芝生の奥、赤煉瓦の煙突のついた二階建のロッジの前で車が停った。
「この家だ。住み荒して、見るかげもない破家(あばらや)だが」
 玄関のつづきは大きな広間で、天井に栂(とが)の太い梁がむきだしになり、正面に丸石を畳んだ壁煖炉がある。広間の右端の階段から中二階の寝室にあがるようになっている。
 久美子が濡れしょぼれ、みじめな恰好で火のない煖炉のそばに立っていると、
「そうだ。そいつは脱がなくちゃいけない」
 主人は二階へ行って、ピジャマと空色の部屋着を抱いて戻ってきた。
「ともかく、これと着換えなさい。風呂場にタオルがあるから……その間に、煖炉を燃しつけておく」
 久美子は言われたように風呂場へ行き、濡れしおったものを脱いでピジャマに着換えた。部屋着を羽織って広間へ戻ると、煖炉の中で松薪がパチパチと音をたてていた。
「火の要る季節じゃないが、これはあなたへのご馳走だ」
「そんなにしていただくと、なんだか申訳なくて」
「あなたも堅っ苦しいひとだね。いちいち礼をいうことはない……まあ、その椅子に掛けなさい。名乗りをしなかったが、私は大池忠平……」
「申しおくれました。あたくし栂尾(とがお)ひろと申します」
「これも、なにかの縁でしょうな。以後、御別懇に……絵を描くひとに、こんなことをいうのは妙なもんだが、風景ってのは、油断のならないものだと思うんだが、あなたはそんなことを考えたことはないですか」
 と、思わせぶりなことをいいだした。
「ここへ来る途中で思いだしたんだが、あなたのような絵を描くひとに、いちどたずねてみたいと思っていたことがあるんだ」
「あたしなどにわかりそうもないけど」
「四、五年前、この湖へ身投げをした女があった。その女の亭主だと思うんだが、蓑笠をつけた男が、雨の降る中を、菱を分けながらさがしまわっていた……この湖では、死体があがったためしがないんだから、そんなことをしたって無駄な骨折りなんだが、いく日もいく日も、あきらめずにやっている……それを見てから、私の自然観にたいへんな変化が起った……それまでは、見たままの自然で満足していたものだったが、それ以来、ひどくひねくれてしまって、すぐ自然の裏を考える。この湖はいかにも美しいが、底を浚(さら)ったら、どんな凄いものが揚ってくるか知れたもんじゃない、なんて……こうなっちゃ、どんなすぐれた絵でも、真面目に鑑賞する気にはなれない。困ったもんだということですよ」
 なんのために、突拍子もなくこんな話をしだすのだろう。心の中を見ぬかれたとも思わないが、あてこすりを言われているようで無気味だった。久美子は探るように大池というひとの顔をながめまわしたが、黒々と陽に灼けたスポーティな顔にうかんでいるのは、感慨を洩らして満足している、いかにも自然な表情だけだった。
 罐詰のシチュウとミートボールで簡単な夕食をすませると、久美子は湖のそばへ一人で散歩に出た。
 落日が朱を流す、しんとした湖面をながめながらしばらく行くと、棒杭につながれて、ひっそりと身を揺っている一隻のボートを見つけた。
「ありがたいというのは、このことだわ」
 湖心まで漕ぎだして、そのうえで最後の作業をすることになるのだろうが、それまでの段取りはまだ考えていなかった。
 久美子にとって、このボートは、こうしろという天の啓示のようなものだった。
 明日の夜明け、空が白みかけたころ、ブロミディアを飲んでおいて、このボートで湖心へ漕ぎだす。ひきこまれるような睡気(ねむけ)がつき、まわりの風景がよろめいてきたところで、そろりと水の中に落ちこむ。たぶん飛沫も立たないだろう。かすかな水音。それで事は終る。

 広間の中はまだ闇だが、どこかに灰白い夜明けのけはいがあった。
 久美子はベッドにしていた長椅子から起きあがると、風呂場へ行ってジャンパーに着換え、音のしないように玄関の扉をあけてロッジを出た。
 湖に朝靄がたち、はてしないほど広々としていた。久美子は棒杭のある地形をおぼえておいたつもりだったが、靄の中では、どこもおなじような岸に見え、なかなかその場所に行きつけなかった。
「急がないと、夜が明ける」
 久美子は焦り気味になって、菱の生えているところをさまよっているうちに、朽木の根っ子につまずいて、深いところへ落ちこんだ。いやというほど水を飲み、化けそこなった水の精のように、髪から滴(しずく)をたらしながら岸に這いあがると、気ぬけがして、ひと時、茫然と草の中に坐っていた。
「おお、いやだ」
 いかにもぶざまで、情けなくて泣きたくなる。間もなく棒杭に行きあたったが、誰か早く漕ぎだしたのだとみえて、ボートはそこになかった。
 ロッジへ帰ってピジャマに着換え、濡れものをひとまとめにして浴槽の中へ置き、気のない顔でコオフィを沸しにかかった。
 陽があがると靄がはれ、すがすがしい朝になった。湖のむこうの山々の頂が、朝日を受けて火を噴いているように見えた。
 久美子はひとりで朝食をすませ、所在なく広間で大池を待っていたが、八時近くになっても起きて来ない。
「どうしたんだろう」
 気あたりがする。中二階へあがって行って、ドアをノックした。
「大池さん、まだ、おやすみになっていらっしゃるの」
 返事がない。
 鍵が鍵穴にさしこんだままになっている。
 そっとドアをあけて、部屋をのぞいてみると、寝ているはずの大池の姿はなかった。
「なんだ、そうだったのか」
 なかったはずだ。ボートを漕ぎだしたのは大池だったらしい。
 そういえば、ボートの中に魚籠(びく)のようなものがあった。大池がこのボートで釣りに行くのだろうと思わなかったのが、どうかしている。
 それにしても、大池はまだ釣りに耽っているのだろうか。久美子は窓をあけて湖をながめまわした。
 朝日が湖面に映って白光のようなハレーションを起している。久美子は眼を細めて、陽の光にきらめく湖面を見まわしているうちに、やっとのことでボートの所在をつかまえた。
「ボートが流れている」
 久美子が漕ぎだそうと思っていた湖心のあたりに、乗り手のいない空(から)のボートが、風につれて舳の向きをかえながら、漫然と漂っているのが見えた。そのそばに、赤いペンキを塗ったオールが浮いている。ただごとではなかった。
 呼鈴が鳴った。玄関へ出てみると、「湖水会管理人」という腕章をつけた男が、自転車をおさえて立っていた。
「おやすみのところを、どうも……大池さん、昨日、こちらへおいでになられたんでしょう」
「来ています。なにか、ご用でしょうか」
 管理人はペコリと頭をさげた。
「いいえね、お宅のボートが流されているので、ちょっとおしらせに」
「それはどうもわざわざ……」
「大池さん、まだ、おやすみなんですか」
「いらっしゃいませんよ」
「へえ?」
 眉の間に皺をよせ、久美子の顔を見つめるようにして、
「いらっしゃらないんですか」
「あたしの眠っているあいだに、出て行ったらしくて」
「ボートで?」
「さあ、どうだったんでしょう」
 管理人は真剣な眼つきで額をにらみあげ、
「ふむ、どうしたんだろう。妙だな」
 と独り言をいっていたが、なにか思いあたったようにうなずいて、
「大池さんは間違いなんかなさらないが、千慮の一矢ってこともあるもんだから……」
 そういうと、自転車に乗って、湖の岸の道を、対岸のボート置場のあるほうへ飛ぶように走って行った。

 どこかで小鳥の翔(かけり)の音がする。
 壁煖炉の火格子の上に、冷えきった昨日の灰がうず高くなっている。湖畔の林の中にあるロッジの広間は、深い眠りについているように森閑としずまりかえり、煖炉棚の置時計の秒を刻む音だけが、ひびきのいい腰板(パネル)にぶつかっては、神経的に耳もとに跳ねかえってくる。
 宇野久美子は火の気のない煖炉の前の揺椅子に掛け、行きずりに一夜の宿をしてもらった礼をいってここを出ようと、大池の帰るのを待っていたが、そのうちに、そんなこともどうでもいいような気がしてきた。
 天井の太い梁も、隅棚の和蘭(オランダ)の人形も、置時計も、花瓶も、木の間ごしにチラチラとうごく水明りも、眼にうつるものはすべて、もうなんの情緒もひき起さない。できれば今日中にでも自殺しようと決意している人間にとって、事実、それらは完全に絶縁された別の世界のものだった。
「これ以上、待ってやることはない」
 そこだけ深い水の色を見せている青々とした湖心に、ひとの乗っていない空のボートが漂っているのを見たとき、久美子は「おや」と思ったが、モヤイが解けてボートがひとりで流れだしたのかも知れず、おどろくようなことでもなかった。
 湖水の対岸に、貸バンガローや売店や管理人の事務所を寄せ集めたキャンプ村がある。ボートで釣りに出たついでに、用達(た)しでもしているのだろう。そのうちに、ほかのボートで漕ぎ戻るか、湖水の岸の道を歩いてくるかするのだろうが、久美子には生存を廃棄するというさし迫った仕事があるので、あてのない大池の帰りを待っていられない。今朝のような失敗をくりかえさないように、どこか静かなところで、じっくりと考えてみる必要があるのだ。
 久美子は玄関の脇窓からさしこむ陽の光をながめていたが、とても昼すぎまで服が乾くのを待っていられない。手ばやく煖炉を焚しつけ、浴槽に放りこんでおいた濡れものを椅子の背に掛けならべると、今夜、身を沈めるはずの自殺の場を見ておこうと思って、二階の大池の寝室へ上って行った。
 寝乱した、男くさいベッドのそばをすりぬけて窓のそばへ行くと、天狗の羽団扇(はねうちわ)のような栃の葉繁みのむこうの湖水に船が四、五隻も出て、なにかただならぬ騒ぎをしているのが見えた。
 ボートや、底の浅い田舟のようなものに、三人ぐらいずつひとが乗り、一人は漕ぎ、一人は艫(とも)にいて網か綱のようなものを曳き、一人は舳から乗りだして湖の底をのぞきこみながら、右、左と船の方向を差図している。
「予感って、やはり、あるものなんだわ」
 雨降りのさなか、湖水に行く道で大池の車に拾われたとき、うるさいひっかかりにならなければいいがと、尻込みをしかけた瞬間があった。
「湖水会管理人」という腕章をつけた男が、千慮の一矢ということもあるなどといって、対岸のボート置場のあるほうへ自転車ですっ飛んで行ったが、こんな騒ぎをしているところから推すと、大池はボートで釣りに出たまま、湖水にはまって溺死したのらしい。
「厄介なことになった」
 久美子は窓枠に肱を突き、唇のあいだで呟いた。
 久美子のプランではキャンプ村のバンガローに移り、今夜、夜が更けてからボートで湖心へ漕ぎだすことにきめていたのだが、このようすでは、どうも今夜はむずかしいらしい。自分をこの世から消しとるという単純な仕事が、どうしてこんなにもむずかしいのかと思うと、気落ちがして、白々とした気持になった。
 ボートの艫に小型のモーターをつけた旧式な機外船が、けたたましいエンジンの音をひびかせながらロッジのほうへ走ってくる。黒々と陽に灼けたさっきの管理人が乗っているのが見えた。
「そろそろ、はじまった……」
 大池のピジャマとガウンを借り着した、しどけないふうな女を、管理人がどんな眼で見て行ったか、久美子にも察しがつく。
「それはまあ、どうしたって」
 苦笑いしながら久美子は呟いた。
 どうしたって父娘(おやこ)だとは見てくれまい。大池の生活に密着した、抜きさしのならない関係にある女だと、解釈したこったろうから、ここへ話をもちこんでくるのは当然だ。
 長すぎるピジャマのズボンとガウンの裾を、いっしょくたにたくしあげながら二階から降りると、久美子は玄関に出て管理人がやってくるのを待っていた。
 いい話だろうと、悪い話だろうとかまうことはない。うるさい絆から解き離されるためにも、どうせ聞かなければならないのなら、一分でも早いほうがいいのだ。
 湖水につづく林の中の道から管理人が出てきたのを見るなり、久美子は玄関のテラスから問いかけた。
「どうしたんです?」
 実直そうな見かけをした中年の管理人は、テラスの下までやってくると、上眼で久美子の顔色をうかがいながら、低い声でこたえた。
「ちょっとお知らせに……」
「なんでしょう」
「ごぞんじだと思いますが、東洋銀行の事件を担当している捜査二課の神保係長と、捜査一課の加藤刑事部長が、いま伊東署で打ち合せをしているふうなんで……」
 自分に関係のあることだと思えないので、久美子は自分でもはっとするような冷淡な口調になった。
「それで?」
 管理人は呆気にとられたような表情で、久美子の顔を見ていたが、おしかえすような勢いで、
「十分ほど前、湖水会の事務所へ、間もなくそちらへ行くと、伊東署から連絡がありました」
 といい、腕時計に眼を走らせた。
「すぐ車で出たとすれば、だいたいあと七、八分でここに着きます。不意だとお困りになるのではないかと思って、お知らせにあがったようなわけですが」
 ひどく持って廻ったようなことをいうが、久美子の聞きたいのはそんなことではなかった。
「大池さん、どうなの?」
 管理人は愁い顔になって、
「お気の毒なことですが、いまところ、まだ……明日中に揚ればいいほうで……なにしろ藻が多いですから。エビ藻だの、フサ藻だの……どうしてもいけなけれゃ、潜水夫を入れるしかありませんが、ここには台船なんというものもないので……」
 この湖水では死体があがったためしはないと、昨日、大池が言っていたが、それは久美子のほうがよく知っている。
 伊豆の古い伝説によると、湖水の湖心に大きな吸込孔があって、湖底が稚児※[#小書き片仮名ガ、295-上-5]淵につづいていることになっている。うまく吸込孔に落ちこむことができれば、地球の終る最後の日まで、みっともない遺体を人目にさらさずにすむ……だからこそ、生存を廃棄するのに、久美子はこの湖をえらんだわけだったが……。
 そんなことを考えているうちに、大池の死は過失ではなくて自殺ではなかったのだろうかと、ふとそんな気がした。
「魚を釣るときは、錨をおろすものなんでしょう。大池さんのボートは流れていましたね。あれはどういうわけなの……この湖では流し釣りをするんですか」
 管理人は眼を伏せてモジモジしていたが、そのうちにささやくような声でこたえた。
「大池さんは釣りに出られたわけではなかったんです。つまり、その……」
「自殺?」
「はあ、そういうことだったらしいです。この湖で投身自殺するという遺書が、昨夜、おそく東京の御本宅へ届いたそうで、そのことはさきほどもわたしどもへお電話がありました……昨夜から今朝にかけて、自殺を思いとまるように説得してくれと、いくどかお電話くだすったそうですが、生憎、昨日はずっと吉田に居りましたので、なにもかも後の祭りで……御本宅の奥さまとご子息さまが七時三十五分の浜松行にお乗りになったそうですから、十時半ごろにはここへお着きになるでしょう……どうか、そのおつもりで……」
「お心づかい、ありがとう」
「わたしは石倉と申しますが、大池さんにはいろいろとお世話になりましたもので……むこうの管理人事務所に居りますから、ご用がありましたら、声をかけてください。私の出来ることでしたら……」
 そういうと、お辞儀をして、あたふたと帰りかけた。
「石倉さん……」
 はあ、といって石倉が戻ってきた。
「あなたバンガローの鍵を預っていらっしゃるんだって?」
「鍵?」
「どれでもいいから、ひとつ開けておいてくださらないかしら」
「バンガローは三十ほどありますが、鍵のかかるのは一つもありません。空いてさえいれば、誰でも自由に入れるようになっているので……それで、どうなさろうというんですか」
「ゴタゴタするのはかなわないから、そっちへ移ろうと思うの」
 石倉は怒った犬のような眼つきになった。
「気持はわかるが、そうなさらないほうが、お為でしょう」
「お為って、なんのこと?」
「御本宅でも、警察でも、あなたがここにいられることは知っているんですから」
「どうしてなの」
「私がいいました。隠してはおけないことだから……バンガローへ移ってみたって、ゴタゴタするのはおなじでしょう。遠くへ逃げるというのなら、話はべつですが」
「なにか意見がありそうね。伺うわ……あたしにどうしろというんです」
「あなたは、昨夜から、ずうっと大池さんといっしょにいらした……奥さまやご子息さまも、あなたの話を聞きたいところだろう……あなたにしても、それくらいのことをするのが、世間一般の義務ってもんじゃないですか……これから、深いところを錨繩でやってみますが、夕方、手仕舞をしたらロッジへ伺います。じゃ……」
 石倉が林の中の道に姿を消すと、間もなく機外船のモーターがかかり、エンジンの音が岸から遠退いて湖心のほうへ進んで行った。
「こんなことも、あるものなんだ」
 湖心まで漕ぎだし、自殺しようと思っていたそのボートに乗って出て身投げをした男がいる。こういう偶然も、この世には、あればあるものなのだろう。
 そのほうはさらりと思い捨てたが、なんとも納得のいかないことがある。昨日、大池が鍵を持っている管理人が吉田へ行っているから、バンガローには泊れないだろうといった。聞くと、バンガローには鍵がかからなくて、誰でも自由に入れるようになっているという。なんのことだかよくわからないが、ふとした疑問が久美子の心に淀み残った。

 クラクションの音がした。
 玄関の脇窓からのぞくと、昨日、大池と二人でやってきた湖水沿いの道を黒い大型のセダンが走ってくるのが見えた。
「やってきた」
 芝生の間の砂利道で車がとまると、お揃いのように紺サージの背広を着た男が二人と官服の警官が一人、左右のドアをあけ、職業的とでもいうような馴れきった身振りでサッと車から降りた。
 そのあとから、上役らしい四十二、三の口髯のある男と、妙にとりすました、見るからに秀才型の三十二、三歳の男が、ゆっくりと出てきた。
 口髯のあるほうが車のそばで足をとめて巻煙草に火をつけると、それが合図ででもあるように、私服と警官が分れ分れになり、一人はガレージの横手についてロッジの裏へ、一人は林の中の道を湖畔のほうへ走って行った。
 一人だけ残った年配の刑事は、ロッジの二階の窓を見あげていたが、秀才型のそばへ行って、なにかささやいた。
 秀才型は聞くでもなく聞かぬでもなく、曖昧な表情で、煙草の煙を吹きあげていたが、クルリと向きをかえると、巻煙草を唇の端にぶらさげたまま、のろのろと玄関のほうへ歩いて来た。
「おお、いやだ」
 警察の連中がロッジへ入って来るのを見るなり、久美子は突然羞恥の念に襲われ、濡れものを掛け並べた椅子のほうへ走って行った。

 スラックスもジャンパーも、火気のあたらない裏側がまだじっとりと湿っていてどうしようもないが、パンティやブラジャーのような、みっともないものだけでもどこかへ隠したいと思ってうろたえたわけだったが、作業が完了しないうちに、三人の官憲はロッジに入ってきて、ドアのそばに立って久美子のすることを見ていた。
 久美子のうろたえようが目ざましいので、笑止に思ったのか、
「どうも、失礼しました」と口髯が笑いながら挨拶した。
「誰もいないと思っていたもんだから」
 明晰な、そのくせ抑揚のない乾いた調子で、秀才型が見えすいたお座なりをいった。
「失礼ですが、どなたでしょう」
 口髯があっさりとうけとめた。
「われわれは警視庁のものです……私は捜査二課の神保……こちらが捜査一課の加藤君……このひとは伊東署の刑事部長で丸山さん……」
 そういうと、いまのところひと息つくほか、なんの興味もないといったようすで、ゆったりと長椅子に腰をおろし、三人でとりとめのない雑談をはじめた。
「大池さんはお留守なんですけど、ご用はなんですか」
 丸山という刑事部長は、チラと久美子のほうへ振返っただけで、返事もしなかった。
 五分ほどすると湖畔のほうへ行った警官とロッジの裏手へ行った私服が後先になって広間へ入ってきた。
「ご承知のようなわけでねえ」
 刑事部長が空(そら)っとぼけた調子でいった。
「ちょっと家の中を見せてもらうよ……大池の部屋は?」
 久美子は広間から見あげる位置にある中二階のドアを指さした。
「あれらしいわ」
「ふむ?……らしい、というのは?」
「階段をあがって、昨夜、あの部屋で寝たようですから……あれが大池さんの部屋かどうか、あたし、よく知らないんです」
 刑事部長は、ああとうなずくと、いま広間へ入ってきた私服に眼配せをした。
 私服は階段をあがって、大池の部屋へ姿を消した。
 広間に残った四人は、隅のほうへ立って行って、なにかひそひそと協議をしていたが、そのうちに捜査の段取りがついたのだとみえて、私服と警官が奥の部屋へ入って行くと、戸棚をガタガタさせたり、抽出しをあけたてする音が聞えてきた。
 加藤という秀才型の係官はノンシャランなようすで広間の中をブラブラと歩きまわり、煖炉棚の花瓶や隅棚の人形を眺めていたが、そこの床の上に置いてあった絵具箱をとりあげると、だしぬけに久美子のほうへ振返った。
「大池さんは絵を描かれるの?」
「いえ、それはあたしの絵具箱です」
 係官は、ほうといったような曖昧な音をだすと、煖炉のそばへ行って椅子の背に掛け並べた濡れものにさわってみた。
「これは君のジャンパー? もうすこし火から離さないと、焦げちゃうぜ」
 そういいながら濡れしおった運動靴をとりあげると、めずらしいものでも見るような眼つきでしげしげと靴底を眺めた。
「ひどく濡れてるね。これは乾かさなくともいいのかね」
 靴が濡れていれば、どうだというのだ。お義理にも相手になる気がなくなり、久美子は聞えないふりをしていた。
 二十分ほどすると、二階の寝室と奥へ行っていた連中が広間に戻ってきた。また隅のほうへ立って行って、五分ほど立話をしていたが、久美子のそばに年配の刑事を一人だけ残し、あとの四人がロッジから出て行った。玄関の脇窓から、四人の官憲が車のそばに立って協議しているのが見えた。
 間もなく、二人の私服と警官が湖畔のほうへ行き、捜査二課と捜査一課が広間に入ってきた。
「ちょっとお話を伺いたいのですが……参考までに……」
 加藤という係官が、愛想よく久美子のほうへ笑いかけた。
「この長椅子を拝借しよう……神保さん、あなたも、どうぞ」
 捜査二課は椅子をひきよせて、傍聴するかまえになった。
「お取込みのところを、恐縮です」
「お取込み、なんてことはないんです、あたしのほうは」
 年配の刑事は食卓の上に手帖をひろげ、わざとらしく腕で屏風をつくっている。それが久美子の癇にさわった。
「これは訊問なんですか」
「飛んでもない」
 秀才がまた笑ってみせた。
「ここは警察の調べ室じゃないから、訊問なんかできようわけはないです……大池氏が自殺をする前後、どんなようすだったか、参考までに伺っておきたいということなので……」
「つまり挙動てなことですね……自殺する前後のようすといわれたようだけど、自殺してからのことは知らないんです。キャンプ村の管理人が飛んで来て、はじめて知ったくらいのもので」
「なるほど……ご存知なければ、前のほうだけでも結構です」
「たいして参考になるようなこともなかったわ……六時半ごろ、罐詰のシチュウとミートボールで簡単に夕食をしました……一人で湖畔を散歩して八時ごろロッジへ帰ったら、大池さんは二階の寝室へ行って、広間にはいませんでした」
「大池氏の家族のほうにも、われわれのほうにも、K・Uという頭文字(イニシァル)しかわかっていないのだが、昨夜、大池氏から家族にあてて、K・Uとこの湖で投身自殺……つまり心中するつもりだから、あとのところはよろしくたのむという遺書まがいの速達が届いたというのです……K・Uという女性は、大池氏の愛人なので、三年ほど前から、影のようにずっと大池氏といっしょにいた……大池氏の手箱から、K・Uという署名のある恋文がたくさん出てきたので、文面から推しても、これはほぼ確実なことなんです……ざっくばらんにおたずねしますが、K・Uという女性はあなたですか」
 K・Uといえば自分の姓と名の頭文字だが、久美子がその女性であろうわけはなかった。
「それは誰かちがうひとでしょう。あたしは大池さんには、昨日お目にかかったばかりで」
「ああそうですか」
 捜査一課ほもっともらしくうなずき、煙草の煙の間から眼を細めて久美子の顔をながめていたが、灰皿に煙草の火をにじりつけると、説得する調子になった。
「新聞でお読みになったろうと思うが、東洋銀行の浮貸しで、三億円ばかり回収不能になった……大池氏は潔癖なひとだったようで、失踪中にも焦げつきの補填をしようというので、いろいろと努力されたふうだった……K・Uという女性は、その辺の事情をよく知っていたらしいから、説明してもらえたらというのが、ねがいなんです……写真なんかもないからどんな顔だちのひとなのか、それさえわからない。当人が自発的に名乗り出るのを待つほか、われわれのほうには手がないわけで……あなたの不利になるようなことは、一言も言ってくれなくても結構です。失踪中の大池氏の経済活動の状態を、だいたいのところ、洩らしてくださるだけでいいので、あなた個人に迷惑のかかるようなことは、絶対にありません」
「おっしゃることは、よくわかるんですけど、どうも、あたしではなさそうだわ。お疑いになるのはそちらのご自由よ」
「あなたがK・Uという女性なら楽だったんだが、そうでないとなると、むずかしい話になる……大池氏が自殺する最後の夜、このロッジで過されたあなたは、いったいどういう方なんです?」
「栂尾ひろ子……プロではありませんが、絵描きの部類です。本籍は和歌山……東京に寄留しています。東京の住所を言いましょうか」
「ご随意に」
「世田※[#小書き片仮名ガ、300-上-5]谷区深沢四十八、若竹荘……ヒネているように見えるでしょうけど、これでまだ二十五です……なにか、ほかに?」
「昨日、はじめて大池氏にお逢いになったということだが、大池氏とはどんな関係なんです」
 湖水の風景をスケッチするつもりで、伊東から歩きだしたのだったが、分れ道の近くで雨に逢って困っているところを大池の車に拾われ、ロッジで泊めてもらうことになったという話をした。
「すると、まったくの出合だったんだね」
 捜査一課の秀才は面白そうに笑っていたが、
「君は水泳はうまいですか」
 と、だしぬけにたずねた。
「余談だけど、泳げばどれくらい泳げる?」
「あたし、和歌山の御坊大浜で生れて、荒波の中で育ったようなものなの……どれくらい泳げるかためしたことはないけど、飽きなければ、いつまででも泳いでいるわ」
「そうだろうと思った。水になじむ身体か、そうでないか、ひと眼でわかる……それで、あそこに乾してある服や下着は、君のものなんだね?」
「ええ、そう。みっともないものを掛けならべて、おはずかしいわ」
「昨日雨に濡れた? 丸山さんの話では、ほんの通り雨だったということだが、下着まで濡れるというのは……」
「雨のせいでなくて、靄のかかった湖の岸を歩いているうちに、朽木の根につまずいて、湖へはまりこんだというわけ」
「靄がかかっていた?……すると、朝の四時ごろのことでしょうが、そんなに早く、なにをしに湖水のそばへ行った?」
 自殺するために、湖心へ漕ぎだすボートを探していた、といっても、通じるような話ではない。こんな連中に意想の中のことまでうち明ける気持はなかった。
「散歩よ……あたしたち、どうせ、気まぐれなのよ」
「それに、君の絵はユニークなものらしい。筆を使わずに、指で絵具を塗(なす)る指頭画というのがあるそうだが、君のはその流儀なんだね?」
 指頭画……聞いたこともない。
「あたしの絵はそんなむずかしいもんじゃないのよ」
 捜査一課の秀才はメモを取っている刑事に命令した。
「そこの絵具箱を、こっちへ……ついでに、シュミーズと運動靴を……」
 刑事が言われたものを捜査一課のところへ持って行くと。秀才は笑いながら絵具箱の蓋をあけた。
「湖水の風景をスケッチに来たんだそうだが、このとおり、ブラッシュが一本も入っていない。それで、れいの指で描くやつかと思った……それから、この下着だが、君のものではないらしいね。貧乏だなんていっているが、これはタフタの上物だ。シャンディイのレースがついて、安いものじゃないよ」
 大阪行の二等車の化粧室でお着換えしたとき、見かけだけに頼って、下着を変えることを考えなかった。細かいところまで考えぬいたつもりだったが、こんな抜けかたをするようでは、自分の思考もたいしたことはないと、急に気持が沈んできた。
「胸のところに色糸(いろいと)でK・Uという頭文字が刺繍(ぬいとり)してある……君の名は栂尾(とがお)ひろ、当然、H・Tでなければならないわけだ」
 顔色が変るのが、自分にもわかった。
 宇野久美子は、豊橋と大阪の間で消滅し、栂尾ひろという無機物のような女性が誕生した。久美子のつもりでは、癌腫という残酷な病気を笑ってやる戯れのつもりだったが、抜きさしのならない嘘になって、きびしく跳ねかえって来ようとは、思ってもいなかった。
「この運動靴の底に、エビ藻とフサ藻が、躙(にじ)りつけたようなぐあいになってこびりついている……湖や沼の岸にある淡水藻はアオミドロかカワノリ……エビ藻やフサ藻は、湖水の中心部に近いところに生えているのが普通だ……どうしてこんなものが靴底についたか? 深く沈んで、湖底を蹴りつけたからだとわれわれは考えるので、岸に近いところで落ちこんだという説には、承服しにくいのです。いま誰かつけてあげるから、どこで陥(はま)ったか、その場所をおしえてください」

 私服に挟まれて、けさ落ちこんだ湖の岸を探しに行ったが、記憶がおぼろで、たしかにその場所を示すことはできなかった。
 一時間ほど後、ひどく疲れてロッジへ帰ると、大池の細君と息子が着いていて、係官となにか小声で話していた。
 大池の細君は、久美子がK・Uだと思いこんでいるらしく、こちらへ振返っては、いいしれぬ敵意のこもった眼差で、久美子を睨みすえた。
 久美子は煖炉の前の揺椅子に沈みこみ、罪を犯したひとのように首を垂れ、理由のない迫害に耐えていたが、そのうちに、こんなことをしていること自体が、忌々しくて、我慢がならなくなった。
 それにしても、なにか、たいへんなところへ陥りこんでしまったらしい。捜査一課の秀才の表現から推すと、自殺干与容疑か、自殺幇助容疑……悪くすると、偽装心中などというむずかしいところに落着くらしい形勢だった。
 捜査一課は、いまのところ寛大ぶって笑っているが、いざとなったら、悚(すく)みあがるようなすごい顔を見せるのだろう。どのみち、警察へ持って行かれるのは、まちがいのないところだから、いまのうちに着換えをすましておくほうがいい。
 久美子は生乾きのジャンパーや下着を腕の中に抱えとると、着換えをするために、二階の部屋へあがって行った。
 死んだような静かな湖水の上で、ボートや田舟が錨繩を曳きながらユルユルと動きまわっている。それを見ているうちに、胸のあたりがムズムズして、笑いたくなった。
「マラソン競走は、あたしの負けだったわ」
 寝室の扉口で大池の細君が癇癪をおこしている。
「あなたはここでなにをしているんです?……大池が死んでからまで、ベッドに這いこもうなんて、あんまり厚顔(あつかま)しすぎるわ。恥ということを知らないの」
 母親の癇声を聞きつけて、息子なる青年が二階へ駈け上って来た。
「お母さん、みっともないから、怒鳴るのはやめてください」
「誰が怒鳴るようにしたの……あんな女の肩を持つことはないでしょう。はやく警察へ連れて行かせなさい。ともかく、この部屋から出てもらってちょうだい」
「出てもらいましょう……僕がよく話しますから、あなたは階下(した)へいらっしゃい」
 どんな扱いをされても、文句はない。久美子は窓のほうをむいて、しおしおと着換えにかかった。
「あなたは東洋放送の宇野久美子さんですね……テレビでお顔は見ていましたが、あなたがK・Uだとは知らなかった……何年も前から、いちどお目にかかりたいと思っていました……あなたのことは父から聞いていましたので、他人のような気がしなかったんです」
 甘ったれた口調で、息子がそんなことを言っている。
「お出かけですか」
 着換えをする手を休めて振返ると、階下(した)へ行ったとばかし思っていた大池の長男が、まだ扉口に立っていた。
 どこかで似た顔を見た記憶がある。
 すぐ思いだした。『悪魔のような女』という映画で校長の役をやったポール・ムウリッスのある瞬間の表情……視点の定まらない、爬虫類の眠ったように動かぬ眼になる、あの瞬間の感じにそっくりだった。
「ここにお邪魔しているわけにはいかないでしょう。目ざわりでしょうしね……いつでも警察へ行けるように、支度をしているところ」
「私に出来ることがあったら」
「おねがいしたいことがあるんだけど」
 長男が熱っぽくいった。
「ええ、なんでも」
「それで、あなた……」
「隆(たかし)です」
「隆さん、あたしを一人にしておいていただきたいの……女が着換えをしているところなんか、見るほうが損をするわ」
 それでも動かない。久美子は癇をたてて、ナイト・ガウンの上前(うわまえ)をおさえながら隆のほうへ向きかえた。
「あたしの言ったこと、おわかりにならなかったかしら」
「よくわかっていますが、ちょっと……」
 隆は広間に張りだした廊下のほうへ、ほのかな目づかいをしてから、上着のポケットからなにかだして、だまって夜卓の上に置いた。
 久美子が湖水に身を沈める前に飲むことにしていた睡眠剤の小さなアンチモニーの容器だった。
「これが、どこに?」
「煖炉のそば……薪箱の中に」
 ジャンパーの胸のかくしに入れておいた。椅子の背に掛けて乾かしているうちに、ころげだしたのらしい。
「ブロミディア……十錠が致死量とは、すごい催眠剤ですね」
 死んだように動かない嫌味な眼を除けば、どこといって一点、特色のない平凡なサラリーマンのタイプだ。たいして頭のいいほうでもないらしいが、この青年は、久美子がなにをしようとしているか、もう察しているらしい。
「これを他人に拾われるまで、気がつかずにいるなんて……」
 久美子は心の中で呟きながら、強く唇を噛んだ。
 気の弛(ゆる)みから、ものを落したり、まちがいをしたりするような経験は、久美子にはまだなかった。自分の生存を断絶させようというのは、親譲りの癌腫というぬきさしのならない宿命にたいする崇高なレジスタンスなんだと自分では信じている。久美子のほか、たぶん神も知らない意想の中の秘密を、こんな愚にもつかない男に隙見されたかと思うと、口惜しくてひとりでに身体がふるえだす。とめようと思うと汗がでた。
「すごいというなら、阿片丁幾(ローダノム)なんてのがあるわ。これは、たいしたもんじゃないのよ……どうも、ありがとう」
 扉口から離れたので、階下へ行くのかと思ったら、そうではなく、足音を盗むようにしながら、ぬうっと久美子のそばに寄ってきた。久美子は気圧(けお)されてひと足、後に退った。
「警察の連中は……」
 隆がささやくようにいった。
「あなたが父の後を追うようなことをなさるかと……いやな言葉だけど、後追(あとお)い心中をするかと、そればかりを心配しているんです」
 久美子は露骨に皮肉な調子で浴びせかけた。
「すると、これを返してくださるのは、どういうわけ?」
「いまのところ、あなたは自殺干与容疑の段階にいるんですが、父の死体が揚らないかぎり、逮捕することも身柄を拘束することもできないけれども、こんなものが見つかると、あなたはすぐ留置されます。容疑者の自殺は証拠湮滅の企図があるのだと解釈されるのです……あなたにしたって、なさりたいことがあるのでしょうから、自由をなくするのはお困りだろうと思って」
 なにもかも、ひどい間違いだ。弁解する気にもなれないほどバカらしいと思うのだが、筋のとおらない論理に屈服することは、自尊心にかけても、我慢がならなかった。
「あたしの身柄はあたしで始末します。あたしの質問したことに答えてくださればいいのよ」
「どういうことですか」
「そこまでの親切があるなら、そっと隠しておいてくれればすむことでしょう。あたしに返すのは、どういうわけなの?」
「あなたは溺れかける父を見捨てて、泳ぎ帰ってきたひとでしょう?」
「それは反語ですか……たとえ、そうだとしても、あたしが自殺しないといえるかしら? いろいろと言いまわしているけど、あたしには反対の意味に聞えるのよ……睡眠剤を致死量だけ飲んで、はやくおやじの後を追ったらよかろう……」
「宇野さん、それは邪推ですよ。あなたの側に個人的な理由があるならともかく、父のためなら、たぶん、あなたはもう自殺なんかなさらないでしょう。いちど死神が離れると、とっつかまえるのはたいへんだといいますから……そういう懸念があるなら、いくら私でも、こんなものをお渡ししませんや」
 たった一言、心の中の秘密をうちあけることができるなら、浅薄な論理をはねかえしてやることができるのだが……徹底的にうち負かされた感じで、抵抗する気になれないほど、久美子は弱ってしまった。
「隆……隆……」
 甲走った声で大池の細君が広間から二階へ叫びあげた。
「あなた、そこでなにをしているんです」
 隆が部屋の中から叫びかえした。
「まあ待ってください……いま話してるところだから」
「押問答をするほどのことはない。簡単なことでしょう。そこから出てもらえばいいのよ」
「ええ、いますぐ……」
 隆は当惑したように微笑してみせた。
「母も私も、父とあなたの……なんというんですか、身体を括(くく)りあったみじめな死体が揚ってくるのかと、ここへ着くまで、そのことばかり心配していたのでしたが……」
 雨雲がロッジの棟の近くまで舞いさがってきて、隆のいるあたりが急に暗くなった。見えないところから声だけがひびいてくるようで、合点がいかなかった。
「母にしても、生涯、心の滓(おり)になるような光景を見ずにすんだことを感謝しているはずです。それゃ、もうどうしたって、ね……なにか失礼なことをいっていますが、間もなく、落着くでしょう……あなたも気ぶっせいでしょうし、今夜はキャンプ村のバンガローで泊られたらどうですか。川奈ホテルでは遠すぎて、警察の連中が承知しないでしょうから」
 そういうと、うなずくように軽く頭をさげて部屋から出て行った。
「ここから出られるなら、お礼をいいたいくらいだわ」
 久美子は苦笑しながら呟いたが、いいぐあいにひきずりまわされているような、不安に似た感じからまぬかれることができなかった。

 湖水に沿った道のほうでクラクションの音がした。
 二時間ほど前、久美子が私服に附添われて湖畔へ出たとき、部長刑事から命令されて伊東のほうへ車を飛ばして行った連絡係の警官が帰ってきた。芝生の縁石(へりいし)のところで車をとめ、チラと二階の窓を見あげると、汗を拭きながらせかせかと玄関に入っていくのが見えた。またむずかしいことがはじまりそうな予感があった。
 灰鼠(はいねず)の筋隈(すじぐま)をつけた雨雲の下で、朝、見たときのまま、ボートや田舟が、さ迷う影のように、あてどもなく動きまわっている。大池というスポーティな紳士の死体は、湖底のどこかで、ひっそりと藻に巻かれているのだろうが、死んだあとでもなお執拗に絡(から)みついて、久美子の運命を狂わせようとしている。大池の長男は、父の死体が揚るまでの自由、といった。たぶん、それにちがいないのだろう。いまは、わずかな息継ぎの時間。大池の死体が揚れば、訊問だの身許調査だの、うるさいこねかえしがはじまる。警察でも、大池を殺したとまでは思ってもいないだろうが、悪くすれば、すれすれのところまでいくかもしれない。これはもう、どうしたって避けることはできないのだ。
 久美子は着換えをして運動靴を穿くと、ジャンパーの胸のかくしからコンパクトをだし、蓋の裏についている鏡をのぞいて、どんな訊問でもはねかえしてやる、図々しいくらいの表情をつくってみた。久美子自身は警察の連中を無視しているつもりだったが、こんなことをするようでは、やはり恐れているのだと思って、げっそりした。
「これはなんだっけ?」
 コンパクトをジャンパーの胸のかくしに返そうとしたとき、なにか平べったい、丸く固いものが指先にさわった。指先に親しい感覚だ。
 なんだろうと思いながら、とりだしてみると、アンチモニーの容器におさまったブロミディアの錠剤だった。
 ジャンパーの胸のかくしから転げだしたのを拾われたのだと思っていたが、そうではなかった。隆が薪箱の中から拾ってきたアンチモニーの容器は、さっきのまま夜卓の上にある。おなじ容器におさめられたおなじ催眠剤にちがいないが、久美子が持っているのとは、ぜんぜん別なものであった。
 久美子はベッドの端に腰をかけ、手の中のと夜卓の上にある二つの容器をジロジロと見くらべているうちに、隆という青年のいったことに、胡散(うさん)くさいところがあるのに気がついた。
 警察の連中や大池の家族がロッジに着く一時間ほど前、濡れものを乾すために薪箱の薪をあるだけ使って煖炉の火を焚しつけた……灰銀色の風変りなかたちをした軽金属の容器が薪箱の中にあったのなら、当然、久美子が見つけているはずだが、そんなものはなかった。
「嘘をいっている」
 久美子は今朝からの細々(こまごま)とした気疲れで、ものを考えることがめんどうくさくなり、煙草の煙をふきあげながらぼんやりと曇り日の湖の風景をながめていたが、どういう連想のつづきなのか、昨夜、大池に殺されかけたらしいという意外な思念が頭の中を閃めき、そのショックで蒼白になった。
 昨夜、大池と二人で夕食をしたとき、食べものか食後の飲みものに、相当大量のブロミディアをまぜて飲まされた……これはまちがいのないとこらしい。
 酩酊状態の深い眠りが、その証拠だ。癌にたいする精神不安と、はげしい仕事のせいで、このところ、ずうっと不眠がつづいている。マキシマムに近い量のブロミディアを飲んで、やっと三時間ほど眠る情けない日常だ。
 湖心に漕ぎだしてから飲むつもりで、昨夜はブロミディアを使わなかったのに、湖畔から帰るなり、広間の長椅子のベッドにころげこんで朝の五時ごろまで眠った。大池が広間を通ってロッジから出て行ったはずだが、それさえも知らなかった。
 空が白みかけたころ、ボートをさがしに出て行った。永劫とも思える長い時間、靄の中を茫然と歩きまわり、辷ったり転んだり、湖水に落ちこんで、頭からびしょ濡れになったりしたが、夢の中の出来事のようで、細かいことはなにひとつ記憶にない。
 禁止に近い量を常用しても、よく眠れないのに、あんな昏睡のしかたをしたところから推すと、よほどの大量を使ったのにちがいない。殺すつもりででもなければ、やれないことだ。
 ほかにも、疑えば疑えることがある。キャンプ村のバンガローで泊るといったら、大池はいい加減なことをいって、キャンプ村に行かせなかった。久美子をロッジにひきとめようということなので、そうだとすれば、最初から殺意があったのだとしか思われない。
「あたしを殺せば、それでどうだというんだろう」
 破産詐欺の容疑で、久しく逃げまわっていた大池忠平という人物は、ひどい淋しがり屋で、一人で自殺するのに耐えられず、行きずりに逢った女性を道連れにするつもりだったのか? それならそれで納得がいくのだが、二人でいた間の大池の言動を思いかえすと、モヤモヤしたわからないことがたくさんあって、どう考えても、そんな他愛のないことではなさそうだった。

 いつの間にか眠ってしまったらしい。目をさますと一時近くになっていた。
 広間へおりて行ってみると、本庁から来た連中は伊東署へひき揚げ、大池の細君と隆は川奈ホテルへ昼食に行き、丸山という年配の部長刑事が、昼食(ひる)をつかいながら事故係の報告を受けていた。
「水藻は思ったほどではありません……湖岸と湖棚を終りましたから、午後から標識を入れて最深部をやります」
「ご苦労さん……夕方までに揚らなかったら、明日からアクア・ラングでやる。空気ボンベを背負うと、百メートルぐらいまでもぐれるそうだから」
「道具は?」
「道具は大池の伜が持ってきた。あれ一人にやらせるわけにもいくまいから、指導してもらって、交代でやるんだな……電話で報告しておいてもらおうか。本庁の連中がジリジリして待っているだろうから」
 事故係の警官は敬礼をしてロッジから出て行った。
「丸山さん、お聞きしたいことがあるんだけど……」
 捜査主任は箸の先に飯粒をためたまま、まじまじと久美子の顔を見返した。
「おう、そうだった……君の昼食(ひる)を忘れていたよ」
「どうか、ご心配なく……」
 久美子は言いたいだけのことを言ってやるつもりで、捜査主任と向きあう椅子にかけた。
「食べることなんか、どうだっていいけど、あたし、これからどうなるのか、お聞きしたいの……大池夫人は出て行けっていうけど、そういうわけにもいかないでしょう? 遣瀬ないのよ」
 捜査主任は禿げあがった額をうつむけて、含み笑いをした。
「お察しするがね、気にすることはないよ」
「どうしても、ここに居なくちゃならないの?」
「どうしてもということはない。和歌山へ行こうと伊那へ行こうと、それは君の自由だ。呼出しを受けたら、その都度、伊東署へ来てもらえれば」
「すると、結局、ここから動けないということなのね」
 捜査主任は微笑しながらうなずいてみせた。
「そのほうが、どちらのためにも都合がいいだろう、時間の節約にもなるし」
「死体があがるまで、こんなところで待っていなければならないというのは、どういうわけなんでしょう」
「君のためにも待っているほうがよさそうだ。検尿の結果、殺人容疑が、自殺干与容疑ぐらいで軽くすむかもしれないから」
「それは死体が揚れば、のことでしょう?……湖心に吸込孔があって、湖底が稚児※[#小書き片仮名ガ、308-上-1]淵につづいているもんだから、この湖水で死体が揚ったためしがないってことだったけど」
「それは伝説だ……この湖は石灰質の陥没湖じゃないから、吸込孔などあろうはずはない。いぜんは深かったが、関東大震災で底の浅い湖水になった。白髪になるまで待たせはしないから、安心したまえ」
 ちょっとしたことだと思っていたが、どうやら殺人容疑になるらしい。久美子は気分を落ちつけるために、煙草に火をつけた。
「災難ね……あきらめて、死体が一日も早く揚るように祈ることにしましょう。キャンプ村のバンガローへ移りたいんだけど、いいでしょうか」
「バンガロー……いいだろう」
「あたしはK・Uじゃないから、頼まれたって後追い心中なんかしません。その点、ご心配なく」
 捜査主任はアルミの弁当箱をハトロン紙で包みながら、
「腹をたてているようだが、それは君が悪いからだよ」
 と宥めるような調子でいった。
「偽名をつかったり、絵描きでもないのに絵描きだといったり、怪しまれるのは当然だ……君は東洋放送の宇野久美子というひとだろう」
「お調べになったのね」
「それはもう、どうしたって」
「あたしがK・Uでないことは、おわかりになったわけね」
「言ってみたまえ」
「お調べになったことでしょうから、ごぞんじのはずだけど、一月から四月の末まで、どの放送にも出ていました……最近のひと月は、病気でアパートにひき籠っていたし……」
「それで?」
「大池は今年のはじめごろから、K・Uという女性と二人で、日本中を逃げまわっていたということですが、すると、あたしはK・Uであるわけはないでしょう? そんな暇はなかったから」
「その点は諒承したが、さっぱりしないところがある。ここへ来る前日、君は家財道具を伊那へ送っている。郷里の和歌山へ帰るといって、十時何分かの大阪行に乗ったはずの君が、伊豆のこんなところにいる……なぜ、そういう複雑なことをするのか、その辺のところを説明してくれないかぎり、われわれは同情しない……曖昧なことばかりいっていないで、この事件から解放されるように心掛けたらどうだ。不愉快な目に逢うだけでも損だと思うがね」
「和歌山へ行くつもりだったのは事実ですが、人間、気の変ることだってあるでしょう。そんなことでご不審を受けるのは心外よ」
「昨日の午後、川奈へ行く分れ道の近くで、大池の車に拾われたといったが、それは大池の気まぐれだったのか」
「たぶん、ね」
「その辺のところが理解しかねる……今夜にでも自殺しよという切羽詰った境遇にある男が、行きずりに、知らぬ女を拾って、家へ泊めたりするものだろうか? いぜん、なにか関係のあった女なら、話は別だが……」
「なにかの都合でK・Uの代用品のようなものがほしかったんじゃないかしら……K・Uなんて女性、ほんとうに存在するのかどうか知らないけど」
 捜査主任はなにか考えていたが、伏眼になって苦味のある微笑を洩した。
「君はふしぎなことをいうね。捜査二課では、半年がかりで大池とK・Uという女性を追及しているんだが、君はK・Uなんていうものは存在しないという」
「それはそうだろうじゃありませんの。恋文だけがあって、誰も顔を見たことがないなんていう、あやしげな存在、あたし信用しないわ……大池というひとにしたって、ほんとうに自殺したのかどうか、死体を確認するまではわからないことでしょう」
「大池はたしかに自殺したらしい……この先、まだ逃げまわるつもりなら、伊豆の奥の、こんな袋の底のようなところへ入ってくるわけはないから……われわれの見解はそうだが、大池が生きているという事実でもあるのかね」
 そういうのが警察の常識なら、決定的な場で、追及の裏をかく手もあるわけだと、久美子は考えたが、それは言わずにおいた。
 警察から伝達があったのだとみえて、夕方、キャンプ村の管理をしている石倉が機外船で迎いにきた。
「ご苦労さま」
 久美子が乗りこむと、機外船はガソリンの臭気とエンジンの音をまきちらしながら、対岸の船着場のほうへ走りだした。
「結局、バンガローへ行くことになったわ」
「バンガローといっても、ぼくの三角兵舎みたいなもので……荒れていますから、お気持が悪いでしょうが、湖畔のいちばん綺麗なのを掃除しておきました」
「あてなしに、フラリと出てきたもんで、飯盒も食器も持っていないんだけど、食事、どうしたらいいのかしら」
「ご食事はバンガローへお運びします」
「それは、たいへんよ……あなた、錨繩を曳く仕事があるんでしょう。飯盒を貸してくだされば、じぶんでやります」
「夜は、仕事がないのですから、お気づかいなく」
 風が出て空が晴れ、雲の裂目から茜色の夕陽が湖水の南の山々にさしかけた。
 樹牆のように密々と立ちならぶ湖畔の雑木林の梢の上に、ロッジの屋根の一部と赤煉瓦の煙突が、一種、寂然たるようすであらわれだしている。植物のつづきのようで、家があるようには見えず、なにか異様な感じだった。
「石倉さん、あのロッジはどうした家なのかしら。あんなところにポツンと一軒だけ建てたというのは……別荘というにしては、すこし淋しすぎるようね」
「あれはリットンというイギリス人の持家で、冬になると、そこらじゅうの西洋人が駕籠に乗ってやってきて、広間で夜明しのバクチを打っていたそうで……そういう因縁のある家なんです。大池さんがお買いになったのは、戦後のことですが、妙な噂があって思いが悪いので、私なども、極力、反対したのですが、大池さんも、とうとう、こんなことになってしまって……」
 そういうと、湖心の最深部の輪廓をしめす、赤旗の標識を指さした。
「あの旗の立っているところが湖水のいちばん深いところです……明日、ご子息さまが潜水具をつけて潜られるそうですが、湖盆の深所の中ほどのところに、大きな吸込孔があるので、とても、いけまいと思います」
「つまり、死体が揚らないだろうということなのね」
 石倉は重々しく首を振った。
「アクア・ラングなんかじゃ、仕様がない。本式の潜水夫を入れないことには、どうにもならないというこってす」
 久美子はさり気なくたずねてみた。
「吸込孔って、どんなぐあいになっているものなの?」
「湖盆の深所まで五十メートル……そこから孔になって更に百メートル……その先、どれほど深いか測ったことがありません」
 捜査主任は、湖底平原の吸込孔は、陥没湖の可容性地層が溶けてできるものだから、この湖に吸込孔はあり得ないといった。言われてみれば、そのとおりで、火口状の凹地に湛水(たんすい)した火口原湖に、水の湧く吸込孔などあるはずがない。石倉がなんのためにありもしない吸込孔を、あると言い張るのか理解できなかった。
 石倉の選んだバンガローは、キャンプ村の端れにあって、船着場のそばに一つ離れて建っていた。窓のない柿葺(こけらぶき)の小屋で、二坪ほどの板敷に古茣蓙(ふるござ)を敷いてある。入口の扉は乾反(ひぞ)って片下(かたさが)りになり、どうやってみても、うまくしまらなかった。
 一時間ほど湖畔を散歩して、バンガローへ帰ると、夕食が届いていた。罐詰のシチュウとミートボール……昨夜、ロッジで夕食に出たのと、おなじものだった。
「おお、いやだ」
 昨夜は成功しなかったから、もういちど、やってやれというわけか?
「あたしは殺される」
 なんのためだか知らないが、そういう形勢になっているらしい。
 いまになれば、思いあたるのだが、今朝、石倉が自転車でロッジへやってきたのは、当然、死んでいるはずの人間を、検察に来たのだ。久美子がガウンの裾をたくしあげながら玄関へ出て行くと、石倉は意外と失望のまじった、遣瀬ないような顔をした。表情がすべてを語っていた……
 険呑な境涯に落ちこんだ。自分の力で身をまもるほか、やりようがない。暗くなるのを待って、夕食に出たものを裏の草むらに捨て、眠るとあぶないと思って、朝まで眼をあいていた。

 翌朝、十時ごろ、隆と石倉がバンガローへやってきた。
「宇野さん、これから父の死体をあげますから、いっしょに船に乗ってください」
 あまり悧口ではないようだ。もう、わかってもいいはずなのに、まだ、こんなことをいっている。
「なぜ、あたしがそんなおつきあいをしなくちゃ、ならないの」
「あなたは父の死際に薄情な真似をした。せめて、水から揚るところを、見てやってくれとおねがいしているんです」
 久美子は腹をたてて、大きな声でやりかえした。
「なんであろうと、強制されるのは、まっぴらよ」
「昨日、捜査主任に、父の死体は揚らないだろうといったそうですね。父の死体が揚ると、困ることがあるんでしょう」
「そんなふうには言わなかったわ……探しても見つからないなら、最初から死体なんか無かったんだろう、と言ったのよ」
「それは、どういう意味ですか」
 久美子は怒りに駆られて、心にあることを、そのままぶちまけた。
「湖水の底を探すより、キャンプ村のバンガローでも探すほうが早道だろうということよ」
 石倉が軋るような声でいった。
「大池さんはバンガローにはいません。居たら幽霊だ……バカなことを言っていないで、船に乗ってください」
「それで、どこを探そうというの?」
「昨日も申しましたが、最深部の吸込孔を」
「この湖水に、吸込孔なんか、あるんでしょうか」
「湖水を知り尽しているようなことをいうけど、もし、吸込孔があったらどうします」
「あるなら、見物したいわ……あたしにとっても、興味のあることなのよ」
「お見せしましょう」
 アクア・ラングを積んだ平底船が船着場に着いていた。
 もう夏の陽射しで、シャボンの泡のような白い雲の形が波皺もたてぬ湖面に映っている。警察の連中の乗ったボートや田舟が、岸に近い浅いところを、錨繩を曳きながらゆるゆると動いていた。十分ほど後、平底船は浮標に赤旗をつけた二つの標識の間でとまった。
「ここです」
 隆は挑みかかるような調子でいうと、空気ボンべのバルブを調節して、足にゴムの鰭をつけた。そのあたりは、水の色が青々として、いかにも深そうな見かけをしているが、それは側壁に繁茂した水藻の色なので、こんな底の浅い断層湖に吸込孔などあるわけはなかった。
「それがアクア・ラングというものなの? 大袈裟な仕掛けをするのはやめなさい。こんな浅い湖なら、鼻をつまんだまま潜ってみせるわ……ちょっと行って、見物してくるわ」
 水に入るのは、何年ぶりかだった。水の楽しさが肌に感じられる。久美子は着ているものをみな脱ぎ捨て、イルカのように湖水に飛びこんだ。上からくる水明りをたよりに、藻の間をすかして見る。十メートルほど下に、側壁のゆるやかな斜面が見える。その先は堆積物に蔽われた湖底平原だった。
 上のほうから黒い影が舞い降りて来た。アクア・ラングをつけた隆だった。
「やるつもりだな」
 こうなるような予感があった。
 こんな男とやりあう気はない。久美子は水をあおりながら横に逃げた。相当、ひき離したと思っていたのに、隆はすぐ後へ来ている。ゴムの鰭をつけているせいか、意外に早いのだ。反転して上に逃げる。間もなく水面へ出ようというとき、石倉の身体がまともに落ちかかってきた。
「ああ、やられる」
 隆が右足にしがみつく。石倉の腕が咽喉輪を攻める……胃に水が流れこみ、肺の中が水でいっぱいになる。久美子は空しい抵抗をつづけながら、だんだん深く沈む。水明りが薄れ、眼の前が真っ暗になった。
 久美子は霞みかける意識の中で敏感すぎたせいで殺されるのだと、はっきりと覚(さと)った。

 三時近くになって、本庁の加藤主任のパッカードがロッジの前庭に走りこんできた。そのうしろから県警の連絡員が乗ったジープがついてきた。
 加藤組の私服たちはジリジリしながら主任の来るのを待っていたらしい。ガレージの前で同僚と立話をしていた木村という部長刑事は主任の車を見るなり、あたふたとドアを開けに行った。
「部屋長(へやちょう)さん、お待ちしていました。どこにいらしたんです」
「県警本部へ連絡に行っていた」
 加藤主任はすらりと車からおりると、ガレージの前にいる年配の私服に声をかけた。
「畑中君、ちょっと」
 畑中と呼ばれた私服は、はっというと、二人のそばへ飛んできた。
「打合せをしておきたいことがあるんだ……湖水のそばで一服しようや」
 林の中にうねうねとつづく、茶庭の露地のような細い道をしばらく行くと、だしぬけに林が終り、眼の前に湖の全景がひらけた。
 朽ちかけた貸バンガローが落々と立っているほか、人影らしいものもなかった対岸の草地に、大白鳥の大群でも舞いおりたようにいちめんに三角テントが張られ、ボーイ・スカウトの制服を着たのや、ショート・パンツひとつになった少年が元気な声で笑ったり叫んだりしながら、船着場に沿った細長い渚を走りまわっていた。
 葉桜になった桜並木のバス道路に、大型の貸切バスが十台ばかりパークしていて、車をまわす空地もないのに、朱と水色で塗りわけた観光バスがジュラルミンの車体を光らせながら、とめどもなくつぎつぎに走りこんでくる。観光バスのラジオの軽音楽と、ひっきりなしに呼びかけているキャンプの拡声器のアナウンスが重なりあい、なんともつかぬ騒音になってごったかえしていた。
 捜査一課の主任は煙草に火をつけると、陽の光にきらめく湖水を眼を細めてながめていたが、舌打ちすると、
「厄介なことになったよ」
 と忌々しそうにつぶやいた。
 畑中が詫びるようにいった。
「土(ど)、日(にち)は、どうもやむを得ないので」
「土、日は、言われなくともわかっているさ。だいたい、どれくらい入っているんだ」
「横浜の聖ヨセフ学院の百五十名、ジャンボリー連盟の二百名……いまのところ四百名たらずです……死体捜査の邪魔になるし、こっちの岸へやってこられると困るから、絶対にボートを貸さないように管理人に言っておきました」
「そうまですることはない。おれの言っているのはべつなことだ……それで、女はどうなった?」
 畑中にかわって木村がこたえた。
「今日一日、安静にしておけば回復するだろうといっていました」
 主任は火のついた煙草を指ではじき飛ばすと、むっつりとした顔で下草のうえにあぐらをかいた。
「そんな簡単なことだったのか。電話の報告じゃ、いまにも息をひきとりそうなことをいっていたが」
「引揚げたときは、ほとんど参りかけていたんですが、あまり水を飲んでいなかったので、心臓麻痺の一歩手前で助かりました」
「二分近く、水の中であばれていたんだって?……いったい、なんのつもりで、湖水に飛びこんだんだい?」
「あの女のすることは、われわれにはわかりません……湖底に吸込孔があるとかないとかという口争いになって、そのうちに、いきなり飛びこんじゃった……一分以上経ってもあがってこないもんだから、大池の伜が心配して、空気ボンべを背負ってようすを見に行くと、いきなり水藻の中から出てきて、送気のゴム管を握って沈めにかけたというんです」
「妙な話だな。それを誰がいうんだ」
「大池の伜が……それで石倉という管理人が引分けに行ったが、あばれて手に負えないので、片羽絞(かたはじ)めで落しておいて、やっとのことでひきあげたんだそうです」
 主任はなにか考えてから、木村にたずねた。
「近くに、舟がいたか」
「私が……」
 と畑中がこたえた。
「二百メートルほど離れたところで錨繩を曳いていました。女の飛びこむところは見ませんでしたが、女をひきあげる前後の状況はだいたい事実だったように思います」
「それで?」
「ずっと酸素吸入をしていましたが、今のところまだ意識不明です」
「病院へ送ったろうね」
「いえ、病院に持ちこむには、行路病者の手続きをしなくてはならないので、ロッジのガレージにおいてあります」
「あの女に死なれると、捜査のひっかかりがなくなるんだぜ。なぜ、そんなところへおく」
「大池の細君が、どんなことがあってもロッジに入れないと突っぱるもんでね……といって、コンクリートの床に寝かされもしない。マトレスの古いのを一枚借りだすのがやっとのことでした」
「医者がついているのか」
「医者も救急車も、一時間ほど前にひきあげました」
 主任の額に暗い稲妻のようなものが走った。
「いい加減なことをするじゃないか。看護もつけずに放ってあるのか」
「大池の伜がつきっきりで看(み)ています。現在、築地の綜合病院でインターンをやっているんだそうで……」
「大池の伜というのは、いったい何者なんだ。そんなやつに共犯(とも)を預けて、安心していられるのか。裏でどんな軋(きし)りあいになっているか、わかったもんじゃない」
「部屋長さん、その点なら、心配はいらないように思いますがね」
 木村が笑いながらいった。
「大池の伜は、あの女に惚れているらしいですよ。たいへんな気の入れかたでね、舟からあげたときなどは、涙ぐんでおろおろしていました……父親の色女に惚れてならんという法律はないわけだから……」
 主任が閉(た)てきるような調子でいった。
「畑中君、石倉という管理人の経歴を洗ってくれないか」
「はっ」
「大池との関係も、くわしいほどありがたい……それから大池の細君の身許調査は?」
「二課にあるはずです」
「一括して、捜査本部へ送るように、至急、申送ってくれたまえ」
「かしこまりました」
「畑中君、二課の神保組はなにをしている?」
「根太をひンぬくような勢いで、六人掛りで大ガサをやっています……六千万からの証券を、こんな窮屈なところへ隠しこむわけはないと思うんだが……二課のやることは、われわれには理解できないです」
「大池が死体になって湖水の底に沈んでいようなんて、頭から信じてかかっているものは一人もいないが、この湖で自殺するという遺書があれば、やはり錨繩を曳いて死体の捜査をしなくてはならない。それとおなじことだよ……神保君が待っているだろう。そろそろ行こうか」
 三人がロッジに戻ると、捜査二課の神保組と伊東署の丸山捜査主任が広間の隅の床の上にあぐらをかいて煙草を喫っていた。
 徹底的にロッジの中を洗いあげたふうで、家具はみなひっくりかえされ、曳出しという曳出しは口をあき、颱風でも吹きぬけて行ったようなひどいようすになっていた。
「おい、加藤君……」
 神保部長刑事が広間の隅から呼びかけた。
「宇野久美子の装検をしたら、ジャンパーのかくしからこんなものが出てきたぜ」
「なんです」
「ブロミディア……普通にブロムラールといっているブロバリン系の催眠剤だ」
 そういいながら、アンチモニーの小さな容器を手渡した。
「それで?」
「十グラムが致死量だというから、相当、強力なやつにちがいない。こんなものを持っているところをみると、あの女も自殺するくらいの気はあったのらしい……あの女の行動に、常識では解きにくいような不分明なところがあるが、これで、いっそうわからなくなった」
「まったく、正体が知れないというのは、あの女のことです」
「大池は自殺したのか、生きているのか、どっちかわからないが、逃げようと思えば逃げる機会はあったはずなのに、嫌な目にあうのを承知でこんなところに居残っているのは、いったい、どういうわけなんだ」
「神保さん、そのことなんだ……私は三分の迷いを残して、大池は自殺したのだと考えるようにしていたが、宇野久美子のありかたを見ていると、大池は死んだのではなくて、どこか近くに隠れていて、宇野久美子と連繋をとりながら脱出する機会をねらっているのだと想像しても、おかしいことはないと思うようになった」
「考えられ得ることだ」
「大池が自殺したのでなければ、これははじめから企んでやった偽装行為だ。この辺のところは簡単明瞭だ……捜査二課の追及は相当執拗だったから、さすがの大池も疲労してこんなトリックをつかって捜査を中止させようとした……自殺する場所はどこにでもあるのに、この湖水をえらんだのは、死体があがったためしがないという伝説を利用するつもりだったのだろう……幼稚だが、思いつきは悪くない。われわれでさえ、暗示にひっかかって、身を入れてやれなかった」
「話はわかるがね、判定してかかっていいのか」
「公式的でおはずかしいが、こういうことじゃなかったかと思うのだ……木曜日の午後に湖畔に着く。金曜日の未明までに偽装の作業を完了する。女はロッジに残ってわれわれの出方を見ている……あるいは妨害をして死体の捜査を遅らせる」
「宇野久美子が湖水へ飛びこんだのは、捜査を遅らせるための所為だったというわけか」
「そうもとれるということだ……そうして、われわれを湖のまわりに釘づけにしておいて、土、日の夕方、観光バスにまぎれこんで、袋の底からぬけだす……悲しくなるほど単純なところが、この企画のすぐれているゆえんだ。われわれがひっかかるのは、得てして、こういう単純なことにかぎるんだから」
「大池はどこにいる?」
「それは土地署の練達に伺うほうが早道だ……丸山さん、大池が生きているとすれば、どの辺にいるでしょう。可能性のことだが」
 丸山捜査主任は、図面を見てくださいといいながら、床の上に地図をひろげた。
「二十三日の金曜日の朝以来、萩、十足(とおたり)、湖水の分れ道、吉田口……この四ヵ所で終日検問を実施しているが、大池らしいやつが出た形跡がないから、潜伏しているなら、湖水を中心にした十号国有林の中以外ではない……このロッジの地境に猪除けの堀がありますが、そのむこうが十号国有林の北の端です……いまは気候がいいから、そのつもりでテントや食糧を用意して入れば、二ヵ月や三ヵ月は平気でしょう……ただし、つかまえようということになったら、五百人ぐらいも人を出して山狩りをしないことには、どうにもならない。また、そうしたからといって、かならず成功するとは保証できません」
 神保部長刑事が思いついたようにいった。
「加藤君、昨日は、警戒されて失敗したが、もういちど宇野久美子を泳がせてみるか。大池としては企図したことが成功したんだから、そんなところにこれから幾月も隠れていることはない。できるだけ早くぬけだしたいと思うだろう」
「そうはいうが、あいつはひどく敏感だから、かんたんには欺せないよ……泳ぎだすどころか、昨夜はバンガローで朝まで眼をあいていた」

 久美子は重苦しい意識の溷濁(こんだく)の中で覚醒した。
 眼をあいて瞬きをしているつもりなのに、冥土の薄明りとでもいうような、ぼんやりとした微光を感じるだけで、なにひとつ眼に映らない。
 湿っぽいブヨブヨしたものの上に仰臥しているのだが、虚脱したようになって身動きする気にもならない。なにかもの憂く、もの悲しく、ひとりでに泣けそうになる。
 この感覚におぼえがあった。
「……また、やった」
 夜明しのパーティでつぶれてしまい、やりきれない疲労と自己嫌悪の中で眼をさますあの瞬間――眼をさましたといっても、はっきりとした自覚があるわけではない。遊び呆(ほう)けたあとの憂鬱が身体に沁みとおり、わけもなく飲みつづけたコクテールやジン・フィーズの酔いで手足が痺(しび)れ、そのまま、ふと夢心地になる……
「それにしても、あたしはどこにいるんだろう」
 掌で身体のまわりを撫でてみる。マトレスの粗木綿(デニム)のざらりとした感触。マトレスの下は冷え冷えとしたコンクリートの床だ。マトレスの上に、下着もなしに裸で寝ているらしい。おかしなこともあるものだ。
 記憶に深い断層が出来、時の流れがふっつりと断ち切られ、どういうつづきでこんなことになったのか思いだせない。昏睡し、しばらくして、また覚醒した。こんどはいくらか頭がはっきりしている。なにも見えなかったはずだ。眼の上に折畳んだガーゼが載っている。
 ガーゼをおしのけ、薄眼をあけて見る。意外に低いところに天井の裏側が見えた。三方はモルタルの壁で、綰(わが)ねたゴムホースや、消火器や油差などが掛かっている。頭のほうに戸口があって、そこから薄緑に染まった陽がさしこんでいる。頭をもたげると、戸口を半ば塞ぐような位置にプリムスの後部が見えた……湖水の分れ道で久美子が拾われた、れいの大池の車だった。
「ガレージ……」
 ロッジの横手にあるガレージのコンクリートの床の上にマトレスを敷き、裸身にベッド・カヴァーを掛けて寝かされているというのが現実らしい。
 髪がグッショリと濡れしおり、枕とマトレスに胡散くさい汚点(しみ)がついている。足が氷のようだ。
「寒い……」
 と呟きかけたひょうしに、咽喉のあたりに灼けるような痛みを感じた……それで、いっぺんに記憶が甦った。石倉に首を絞められ、水藻のゆらぐ仄暗い湖水の深みで必死に藻掻きながら、死というものの顔を、まざまざとこの眼で眺めた恐怖と絶望の瞬間。
「ああ」
 久美子は悚(すく)みあがり、われともなく鋭い叫声をあげた。
 まさに絶えようとする時の流れ……必死に抵抗していたのは、一秒でも長く命をつなぎとめようという、ただそのための藻掻きだった。
 死ぬことなんか、なんでもないと思っていたのは、なにもわかっていなかったからだ。あの辛さの十分の一でも想像することができたら、自殺しようなどという高慢なことは考えなかったろう。
「あたし助かったんだわ」
 自分というものを、こんなにいとしいと思ったことがなかったような気がし、久美子は感動して眼を閉じた。
「気がつかれましたね」
 隆は久美子の顔をのぞきこむようにしてから、仔細らしく脈を見た。
「もう大丈夫ですが、覚醒したら、臨床訊問をするといっていますから、念のためジガレンを打っておきましょう」
 久美子は無言のまま、マジマジと隆の顔を見あげた。なぜか、ひどく寛大な気持になり、怨みも憎しみも感じない。湖底の活劇は、遠いむかしの出来事のようで、いっこうに心にひびいて来なかった。
「こんなこともあろうかと思って、いろいろ用意してきたのですが、お役にたったようで、私も満足です」
 注射器に薬液をみたして久美子の上膊に注射すると、撫でさするようなやさしさで、そこを揉みつづけた。
「宇野さん、よけいなお節介をして、あなたを死なせなかったのを、怒っていられるんじゃないですか……もし、そうだったら、お詫びしますが、私としては、あの場合、どうしたってあなたを死なせるわけにはいかなかった」
 意外なことを聞くものだ。久美子はムッとしかけたが、相手になることもないと思って、返事もせずにいた。
「引揚げようとすればするほど、深く沈もうとなさる。最後は、水藻にしがみついて離れようとしないんだから、強(きつ)かった」
 隆の眼頭に、一滴、キラリと光るものを見て、久美子はあわてて眼をそらした。
「溺れかける父を見捨てて、泳ぎかえってくるような、非情な方だと思っていましたが、まったくのところ誤解でした……そんな方だったら、父にしても、あれほど強くあなたに惹かれることはなかったろうし……はじめから、わかりきったことだったのです」
 久美子は、そっと溜息をついた。
「死んだ私の母のことは、あなたもよくごぞんじのことでしょうが、テレビではじめてあなたを見たとき、死んだ母の若いときの顔によく似ているし、名が宇野久美子だから、父のいうK・Uという女性は、あなたではないかと思ったことがあります。父には言いませんでしたが、私があなたのどこに惹かれるのか、よく知っているので、父の心情は、手にとるようにわかりました……父は不幸な再婚を後悔していたし、家庭がみじめになればなるほど、あなたのほうへ向いて行ったその気持も……」
 久美子は、たまりかねて遮った。
「ああ、そのことなら、もう結構よ」
 隆は、はっと眼の中を騒がせると、搏たれたように急に口を噤んだ。
「そんなことより臨床訊問……このうえ私からなにを聞きだそうというのかしら。言うだけのことは言いつくしたつもりだけど」
「あの連中がコソコソ言っているのを耳に挟んだのですが、あなたの供述書で逮捕状を請求したら、こんな不完全な内容で令状が出せるかと、令状係の判事に拒絶されたそうです。早急に死体があがる見込みがないので、伊東署の捜査本部を解散して、東京へ引揚げるといっていますから、訊問といっても、行掛り上、一応、形式をととのえるという程度のことではないでしょうか。そのほうはたいしたことはないでしょうが、私が心配しているのは、あなたのことなんです……心臓衰弱の気味だから、乗物に乗るのは、ちょっと無理です。傍にいてあげられればいいのですが、病院の仕事があるので、私は夕方までに東京へ帰らなくてはなりません……母はあなたをロッジへ入れないなんて、愚にもつかないことをいっていますが、気になさらないで、ロッジで今日一日静かにしていらして、いい頃にお帰りになるように」
 言い憎そうに眼を伏せ、
「おしつけがましいのですが、今朝のようなことはしないと約束していただきたいのです。さもないと、私は東京へ帰ることができません。それでは困るから……」
 と、つぶやくようにいった。

 ロッジの二階の大池の部屋に運びあげられると、加藤主任がやってきて、そばの椅子に掛けた。
「やっと人間らしい顔色になった。一時は、だめかと思ったんだが」
 はじめからこんな調子でやってくれたら、逆らうことはなかったのだ。久美子は愛想よく微笑してみせた。
「なんのつもりで、呼吸(いき)のとまるまで水にもぐったりするんだ? 人騒がせにもほどがある。なにをしようと勝手だが、捜査の邪魔をすることだけは、やめてもらいたいね」
「はずみでやったことなんだけど……お手数をかけました」
「君には手を焼いた。とても面倒は見きれないから、さっさと、どこへでも行ってくれ」
 膝の上に書類をひろげて、
「いま、これを読むから、相違した点がなかったら、署名して拇印をおしてくれたまえ」
「それは供述書というやつなの」
「そんなむずかしいもんじゃない……捜査調書の抜萃……宇野久美子に関係のある部分だ。われわれの仕事は、確認という形式を踏まなければ体(たい)をなさないのだから、どうしようもないのだ。概略だよ、いいね……東洋放送の宇野久美子、すなわち君は五月二十日、郷里の和歌山市に帰る目的で、二十一時五十分、東京駅発、大阪行の一二九号列車に乗ったが、途中で気が変って……ここは君が供述したとおりになっている……翌、二十一日、三時五十四分に豊橋に下車。七時〇分の東京行に乗った。十一時三十分、熱海駅着、十一時四十分の伊東行に乗車、十二時十二分、伊東駅着……店名失念の駅前食堂で中食、遊覧の目的で徒歩で湖水に向った……二時すぎ、湖水の分れ道、その附近で雨に逢った……雨の中を歩いていると、東洋相互銀行……通称、東洋銀行の取締役頭取……大池忠平の運転するプリムスが通りかかり、宇野久美子にたいして乗車をすすめた……宇野久美子はプリムスに乗ってそのまま大池所有のロッジに至った。一晩だけならお宿(やど)をしようというので一泊することにきめた。六時半ごろ大池と夕食をし、食後一時間ほど湖畔を散歩し、八時近く、ロッジに帰ると、大池はすでに二階の寝室に引取って広間には居なかった。宇野久美子はその後、大池忠平を見ていない……翌、二十二日、午前八時ごろ、湖水会の管理人、石倉梅吉が自転車で大池の在否を聞きに来たので、宇野久美子は不在だと答えた。同日、十時ごろ、石倉から、大池さんは湖水に投身自殺されたらしいという報告を受けた……だいたい、こんなところだ」
 そういうと、畳紙の写真挟みから手札型の写真を出して久美子に渡した。
「それが大池忠平の顔写真だ……湖水の分れ道で君を拾ったのがその男だったはずだ。写真を見て確認してくれたまえ」
 久美子は仰臥したまま、写真を手にとって見た。
「これはあたしを拾ったひととちがうようだ」
 よく似ているが、誰か別な人間の顔だ。
 プリムスに乗っていた大池忠平の顔には、生活の悪さからくる陰鬱な調子がついていたが、写真の顔はどこといって一点、翳りのない明るい福々とした顔をしている。額の禿げかたもちがう。プリムスのひとの額は、面擦(めんずれ)のように両鬢(りょうびん)の隅が禿げあがっていたが、写真のほうは、額の真甲(まっこう)から脳天へ薄くなっている。額のほうはいいとしても、首のつきかたも肩の張り方も、ここがこうと指摘できるほど、はっきりとちがうが、それを言いだせば、またむずかしくひっかかってくる。
 久美子は浮かない顔で考えこんでいたが、どうしたって真実を告げずにすますわけにはいかないので、思いきっていった。
「確認するもしないも、写真のひとが大池忠平にまちがいないのなら、ロッジにいたのは、確実にべつなキャラクターだわ」
 主任は眉をひそめて、背筋をたてた。
「大池じゃないって?」
「よく似ているけど、はっきりとちがうのよ」
 そうして、異なる印象のニュアンスを、できるだけくわしく説明した。
 主任は薄眼になって聞いていたが、やりきれないといったようすで、クスクス笑いだした。
「さすが、芸術家の観察はちがったもんだね。お話は伺ったがデリケートすぎて、われわれにはよくわからない。レンズには収差というものもあるし、額のあたりにハイ・ライトがかかると、実際より強い感じになることもある……あまり世話を焼かせずに、署名したらどうだ」
「それでいいなら、喜んで署名するけど、キャラクターだけのことではなくて、ほかにも、いろいろと妙なことがあったのよ」
 鍵のかかるバンガローなんか一つもないのに、鍵を預っている男が吉田へ行っているから、バンガローは使えないだろうといったこと、部屋の中はうっとうしいくらいの陽気なのに、むやみに松薪をおしこんで、煖炉を燃やしつけたこと、大池のボートならロッジの近くの岸にあるべきはずなのに、一町も離れたところに繋いであったこと、なにかの方法で催眠剤を飲ませられたらしくて、翌朝まで酩酊状態が残っていたこと……心にかかっていたことを、ありったけ吐きだしたが、主任は笑うばかりで相手にもならなかった。

 石倉があらわれるかと、ひそかに怖れていたが、いそがしいのか、石倉はあらわれず、伊東署の連絡係の若い巡査が心をこめて夕食の世話をしてくれた。
 食慾はなかったが、無理をして、パン粥を一杯食べた。
「おいしかったわ」
「食が細いねえ。もうすこし、やったらどうだ」
「心臓のところが重っ苦しくて、食べられないのよ」
「そうか。無理をしちゃ悪いな」
 しみじみとして、残っていられるなら、残っていてもらいたかったが、七時ごろ、おだいじにと言って帰って行った。
 夜になると、対岸の草地でジャンボリーがはじまった。キャンプ・ファイヤーを囲んで讃美歌やボーイ・スカウトの歌を合唱している。
 降るような星空の下、釉薬(うわぐすり)を流した黒い湖の面に、ちりばめたようにキャンプ・ファイヤーの火の色がうつり、風が流れると、それが無数の小さな光に細分され、眼もあやにゆらゆらとゆらめきわたる。
 久美子は子供たちの合唱を聞くともなく聞きながら、空の中にある満々と張りつめたもののたたずまいをぼんやりとながめていたが、そのうちに、なんともつかぬ嫌悪の念に襲われて、枕に顔を伏せた。
 昨日まで、あんなにも心を惹かれた湖の風景が、なぜか嫌らしくて見てやる気もしない。安らかな方法で自殺しようなどと、あてどもないことを考えていたが、そんな方法はありえないことを身をもって学んだ。父のように肝臓癌で阿鼻叫喚のうちに悶死するにしても、たぶん、もう二度と自殺しようなどとは考えないだろう。
 久美子は自嘲するようにニヤリと笑った。
「たいへんなことになった」
 自殺という作業を完成しようと、それだけにうちこんできたが、その目標が失われたので、することがなくなった。古びた生活の糸で、昨日と明日の継ぎ目を縫いつづけなくてはならない。夢や希望がなくなり、憎しみだけがふえ、ひねくれた、意地の悪い、ご注文どおりのオールド・ミスになっていくのだろう。
 子供たちはジャンボリーに飽き、湖水めぐりを始めたらしく、高低さまざまな歌声が湖畔の南側をまわってロッジのほうへ近づいてくる。
 久美子は強いて眼を閉じたが、今日一日のさまざまな出来事が頭の中で波うって、どうしても眠ることができない。心臓には悪いが、ブロミディアにたよるしかないと思い、ベッドから這いだし、ジャンパーをとりに階下の広間におりた。
 ジャンパーの胸のかくしから、ブロミディアの容器をとりだし、水をとりに厨のほうへ行きかけたとき、風呂場につづく裏口のほうで、うさんくさい足音が聞えた。
 ガレージの横手をまわり、芝生の縁石を踏みながら裏口に近づいて来る。
「誰だろう」
 遅いというほどの時間ではないが、玄関をよけて裏へまわりこんでくるのが納得がいかなかった。久美子は広間の中ほどのところに佇み、秘密めかしい訪問者の入ってくるのを辛抱強く待っていた。
 煖炉の右手の扉のノッブがそろそろと動き、音もなく開いたドアの隙間から黒い人影が広間に辷りこんできた。
「ああ」
 大池忠平と名乗ったあのスポーティな紳士だった。全身びしょ濡れになり、芯のぬけた、とほんとした顔で立っている。
「こんどこそ殺(や)られる……」
 久美子は声にならない声で悲鳴をあげながら、片闇(かたやみ)になった階段の下へ逃げこんだ。
 偽装自殺が成功するかしないかという瀬戸際に、危険をおかしてロッジへ入りこんでくる以上、なにをするつもりなのかわかっている……今朝、石倉がやりかけたことを、大池忠平が完了しようというのだ。
 風の中に歌声がある。
 カンテラを持って、湖畔を練り歩いている子供達の歌声が、湖の東岸のほうへ遠退いて行く。小さな湖をへだてた、つい向う岸に、三百人近くの人間の集団がキャンピングしているのに、危急を告げることも助けを求めることもできないという自覚は、世にも残酷なものだった……
 大池は腕組みするような恰好で胸を抱き、脇間の扉口のそばに影のように立っていた。ものの十分ほどもしてから、服の袖で額の汗を拭うと、片手で胸をおさえ、壁にすがりながら壁付灯の下まで行ったが、力がつきたように、そこで動かなくなってしまった。
「どうかしたんだわ」
 久美子の恐れていたようなことは、なにもなかった。
 壁付灯の光に照らしだされた大池の正体は、意外にもみじめなものだった。湖岸の泥深いところを歩きまわったのだとみえ、膝から下が泥だらけになり、靴にアオミドロがついている。濡れた髪を額に貼りつかせ、土気色(つちけいろ)になった頬のあたりから滴(しずく)をたらしているところなどは、いま湖水からあがってきた、大池の亡霊とでもいうような、一種、非現実的なようすをしていた。
「う、う、う……」
 大池は肩息をつきながら、家宅捜索でめちゃめちゃにひっくりかえされた広間の中を見まわし、マントルピースの端に縋って食器棚(ビュッフェ)のほうへよろけて行ったが、曳出しに手をかけたまま、ぐったりと食器棚に凭れかかった。
「ああ、誰か……」
 たいへんな苦しみようだ。久美子は闇の中に立っていたが、放っておけないような気がして、大池のそばへ行った。
「大池さん、あたしです。どうなすったの」
 大池は嗄れたような声でささやいた。
「ジガレンの注射を……」
 大池は心臓発作をおこしかけている。
 どんな嫌疑を受けても、犯した罪がなければ、いつかは解けると多寡を括っていたが、この二日、警察とのやりあいで、そうばかりはいかないらしいことをさとった。一人だけでいるところで死なれでもしたら、どんなことになるかわかったものではない。
「ともかく、長椅子に行きましょう」
 大池を長椅子のところへ連れて行くと、上着を脱がせ、クッションを集めて座位のかたちで落着かせた。洗面器に井戸水を汲んできてせっせと胸を冷やしたが、こんなことでは助かりそうもなかった。
「応急薬といったようなものはないんですか、あるなら探して来るけど」
 大池は食器棚を指さした。
「……ジギタミンと、赤酒を……」
 食器棚の曳出しにはそれらしいものはなかったので、浴室へ行って、壁に嵌め込んだ鏡付のキャビネットの中を見た……「ジギタミン」というレッテルを粘った錠剤の瓶がガラスの棚の上に載っていた。日本薬局方の赤酒は、赤い封蝋をつけてウイスキーの瓶のとなりに並んでいた。
「安心なさい。ジギタミンも赤酒もあったわ」
 コップの水を口もとに持っていくと、大池は飛びつくようにして錠剤を飲みこんだ。
 三十分ほどすると、大池は眼に見えて落着いてきた。荒い息づかいがおさまり、脈のうちかたもいくらか正常になったが、寒いのかとみえて、鳥肌をたててふるえている。
 燃えさしの松薪を集めて煖炉を燃しつけにかかると、大池は恐怖の色をうかべて呻いた。
「煙突から炎をだすと石倉がやってくる」
 大池が石倉を恐れているのは意外だった。
「石倉が来れば、困ることでもあるの」
 大池は返事をしなかった。
「大池さん、まあ、聞いてちょうだいよ……雨の中で拾われたのはありがたかったけど、ロッジに泊めてもらったばっかりに、さんざんな目に逢ったのよ」
 そんなことをいっているうちに、われともなく昂奮して、この二日の間の出来事を洗いざらいしゃべった。どうでもいいつもりでいたが、深いところでは、やはり腹をたてていたのだとみえ、しゃべりだすと、とめどもなくなった。
「あなたは生きているんだから、自殺干与や殺人の容疑はなくなったわけだけど、今夜、二人だけでいたことがわかると、共犯だなんだって、またむずかしいことになるのよ……逃げまわるのは勝手だとしても、あたしがK・Uなんて女でないことを証明していただきたいのよ。どんな方法でもいいから……」
 大池がまじまじと久美子の顔を見かえした。
「K・Uなんて女性は、はじめっから存在しない。あれは君代が警察をまごつかせるために、考えだしたことなんだ……こんな目にあわなかったら、明日、伊東署へ行くつもりだったが……いや、早いほうがいい。宇野さん、すまないが、警察の連中を呼んで来てくれないかね。その辺に張込んでいるんだろうから」
「警察のひとはみなひきあげたふうよ……連絡係の警官が、明日の朝、八時ごろ、見にくるといっていたけど」
 大池は気落ちしたように、がっくりと首をおとした。
「私の冠状動脈は紙のように薄くなっている。こんど発作をおこしたらもう助からない……明日の朝まで十二時間……それまで保合(もちあ)ってくれるかどうか、辛い話だよ」
 大池は自首することにきめたらしい。すこしも早く警察と連絡をつけたいふうだが、湖水の近くで電話のあるところは、キャンプ村の管理事務所か伊東ゴルフ場のクラブ・ハウスだけ。どちらも二キロ以上あって、いまの久美子の健康状態では、とてもそこまで出掛けて行くことは出来ない。
 久美子は落着かなくなって、玄関のほうへ行った。子供達でも通ったらと、脇窓のそばで聞耳をたてていたが、対岸のキャンプ村では、みなテントに寝に入ったとみえ、笑い声ひとつ聞えない。久美子はあきらめ、脇窓のカーテンをひいて、大池のそばに戻った。大池は自分だけの思いに沈みこんでいるふうで、鬱々と眼をとじていた。

 夜の十時近く、捜査本部になっている伊東署の捜査主任室に、本庁の畑中刑事が入ってきた。薬鑵の水を湯呑についで飲むと、奥のデスクで丸山捜査主任と打合せをしていた加藤捜査一課のそばへ行った。
「おう、畑中君、さっきの電話連絡、聞いたよ……出て来たそうだな。女を泳がせた甲斐があったと、丸山さんと話していたところなんだ……どこから出て来た?」
「湖水からあがって来ました」
「山林(やま)へ入ったんじゃなかったのか」
 畑中刑事は照れくさそうに頭へ手をやった。
「山林のほうばかり警戒していたので、鼻先へ突っかけられて、あわてました」
「対岸からボートでやって来たのか」
「いや、そうでもなさそうです。こちらの岸をずっと見てまわりましたが、ボートらしいものは着いていませんでした」
 加藤捜査一課は納得しない顔で問いつめた。
「妙な話だな……どういうことなんだい」
「星明りで、はっきりとアヤは見えなかったが、どこかやられたらしくて、フラフラになっていました……ガレージの横手からまわりこんで、勝手口からロッジへ入りました」
「女はどうした?」
「お見込みどおりでした。時間の打合せがあったのだとみえまして、女のほうが先に二階から降りて、ホールで待っていました」
「おかしいね、それを、どこから見たんだ」
「玄関の脇窓から」
 加藤捜査一課は背筋を立てると、頭ごなしにやりつけた。
「絶対にロッジの近くへ寄りつくなといったろう?……まずいことをするじゃないか。感づかれると、やりにくくなって困るんだ」
「いや、どうも……立っていたところに、偶然に窓があったもんですから」
「感づかれたらしいようすはなかったか」
「大丈夫だろうと思います」
「君が大丈夫というなち、大丈夫だろう……つづけたまえ」
「……女は大池を長椅子に寝かせると、洗面器に水を汲んできて大池の胸を冷やしていました。薬だの酒瓶だの、いろいろと持ちだして来て、熱心にやっていたふうです……私の見たのはそれだけ」
「それだけ、というのは?」
「女が窓のカーテンをひいたので、私のいる位置から、なにも見えなくなったということです」
 加藤捜査一課は刺激的な冷笑をうかべながら、
「大池とあの女がロッジで落合えば、どんなことをするぐらいのことは、ここにいたって想像がつく」
 と、しゃくるようなことをいった。
「君はそんなことを報告するために、伊東までやって来たのか」
「いや、ちょっとお話したいことがあって」
「どんな話だね?」
「ロッジへ入って来たのは、大池忠平でなくて、名古屋で工場をやっている、弟の大池孝平です」
 捜査一課は下眼(しため)になって、なにか考えていたが、煙草に火をつけると、胡散くさいといったようすで問いかえした。
「忠平でなくて、孝平か」
「そうです」
「えらいことを言いだしたな……それは確信のあることなのか」
「兄の忠平は顔写真でしか知りませんが、孝平のほうなら、たびたび名古屋の家へ宅参(たくまい)りして、いやというほど顔を見ていますから、間違えるはずはありません」
 捜査一課は丸山捜査主任のほうへ向きかえると、癇のたった声で投げだすようにいった。
「あのプリムスは、大池忠平が東京を逃げだすとき、乗って行ったやつだったんで、ちょっと、ひっかかった。ちくしょう、味なことをしやがる」
 丸山捜査主任は渋い顔でうなずいた。
「それは、あの女が言ってましたね……ロッジで逢ったのは、顔写真の男とはちがうようだって……あれは正直な発言だったんですな……皮肉な女だ。てんで舐めてかかっている。あれはマレモノだよ」
「うまく遊ばれたらしいね」
 畑中刑事が捜査一課にたずねた。
「部屋長さん、二人をひっぱっちゃいけないんですか。あんなことをしておくと、なにかはじまりそうな気がするんですが」
「どういう名目でひっぱるんだ? ひっぱったって留めておくことはできないぜ……兄が自殺するというので、おどろいて飛んできた、なんていうだろうし……弟のほうには、いまのところ、共犯だという事実はなにもあがっていない」
「じゃ、女のほうだけでも」
「だめだろうね……相当、こっぴどくやったつもりだが、洒々(しゃあしゃあ)としていた……それゃ、そうだろう。大池の弟とツルンでロッジに泊りこんだって、とがめられることはないはずだから」
 そういうと、クルリと丸山捜査課長のほうへ向きかえた。
「丸山さん、これゃ捜査の対象にならないね。二課はどうするか知らないが、われわれは、明日、引揚げます。書置一本に釣られて、こんな騒ぎをしたと思うと、おさまりかねるんだが、どうしようもないよ」
 そこへ本庁の木村刑事が、婦人用のスーツ・ケースをさげてブラリと入ってきた。
「部屋長さん、遅くなりました。ちょっと聞込みをしていたもんだから」
「なんだい、そのスーツ・ケースは」
「これですか。これは宇野久美子の遺留品です」
「そんなもの、どこにあったんだ?」
「大阪行、一二九列車の二等車の網棚の上に……二等車の乗客の中に、宇野久美子のファンがいた。宇野久美子がスーツ・ケースを提げて入って来たので、宇野久美子だと思いながら見ていると、このスーツ・ケースを網棚に放りあげて、前部の車室に行ったきり、大阪駅へ着いても帰って来ない。それで車掌に、これは東洋放送の宇野久美子のスーツ・ケースだから、東京へ転送してくださいと頼んだというのです」
「開けてみたまえ」
 木村はジッパーをひいて、スーツ・ケースの内容をさらけだした。灰銀のフラノのワンピースに緋裏(ひうら)のついた黒のモヘアのストール、パンプスの靴とナイロンの靴下が入っていた。
「つまり、これは宇野久美子がアパートを出るときに着ていたものなんだな」
「そうです。管理人の細君が確認しました」
「豊橋駅はどうだった」
「木谷刑事をやりましたが、ちょっと奇妙なことがありました。駅の広報係が、その汽車に乗り遅れたから、待たずに、先に行ってくれと、東洋放送の宇野久美子宛のアナウンスを依頼された。その女は、ナイロンのジャンパーに紺のスラックスを穿き、ベレエをかぶって、絵具箱を肩にかけていたというんです」
「なんだ、それは宇野久美子自身じゃないか。どういうことなんだろう」
「さあ、どういうことなんでしょう……変った聞込みが二つありました」
「どうぞ」
「宇野久美子のジャンパーのポケットに、ブロムラール系の催眠剤が入っていたといわれましたが、三年前、大池忠平の前の細君が、ブロムラール系の催眠剤の誤用で死んでいます」
「どこで聞きこんだ?」
「大池忠平の身元調書に、細君が中毒死したという記載がありましたので、主治医を探して聞きだしました……もうひとつは、これも二年前の秋、声優グループの仲(なか)数枝という女が、宇野久美子の部屋で自殺しています。宇野久美子の行李の細引で首を締めて、一気に裏の竹藪へ飛んだというんです……結局、自殺ということになりましたが、一時は、絞殺して、二階の窓から投げ落したんじゃないかという嫌疑が濃厚だったそうです」
「それだけか」
「いまのところは、これだけですが、洗えばまだまだ、いろいろなことが出てきそうです」

 大池は、身体の深いところを測るような、深刻な眼つきで、ジギタミンを三錠ずつ、一時間おきに飲んだ。動悸もおさまり、普通に話ができるようになったが、胸中の不安はいっこうに薄らがぬふうで、見るもみじめなほど悶えていた。
「大池さん、十時間や十二時間、すぐ経ってしまってよ……一人でいるのが不安なら朝までおつきあいしますから、イライラするのはよしなさい……だいじょうぶ、死にはしないから」
「自分の身体のことは、私がよく知っている。とても明日の朝まで保(も)ちそうもない。だめだという感じだけで参ってしまうんだ……頭のたしかなうちに、言っておきたいことがある。宇野さん、聞いてくれないかね」
 聞きたいことなど、なにもない。だまっていてくれるほうが望みだったが、大池のあわれなようすを見ると、そうは言いかねた。
「聞いてあげてもいいわ。それで、あなたが気が休まるなら」
「私が何者だか、君はもう察しているだろう。二十日の朝、名古屋の私のところへ、君代が東京から長距離電話で、こんなことをいってきた。半年近く逃げまわって、忠平が疲れきっているから、すこし休ませてやりたい。忠平のところへ石倉をやって、この湖水で自殺するという遺書を書かせたが、形のないことではしょうがないから、伊豆へ行ってロッジで一と晩、泊ってくれれば、あとは石倉がいいようにこしらえるから、という話なんだ」
「石倉って、どういう関係のひとなんです?」
「石倉は君代の弟だ……トンネル会社へ融資する形式で隠しこんだ資産を、捜査二課では三千万から六千万の間と踏んでいるらしいが、どんな操作をしたって、そんな芸当ができるわけはない。その十分の一もあればいいほうだ、わずかばかりの隠し財産に執着して、時効年まで逃げまわるなんて、バカな話だと思うんだが、世間ではそろそろ忘れかけているのに、下手に捕って、むしかえされるのではかあいそうだという気持もあった……企画は、まったく他愛のないようなことなんだ……兄が乗り捨てたプリムスが豊橋のガレージにある。それでロッジへ乗りつける。煖炉をたいて煙突から煙をだす。石倉はそれを見るなり吉田へ行く。その日、湖水の近くにいなかったというアリバイをつくるために、知合いの家に泊って、翌朝、早く帰ってくる。私は夜明け前、ボートで対岸へ行って、バンガローに隠れている。石倉がいいころにハイヤーを廻してよこす。修善寺へ抜けて、夕方の汽車で名古屋に帰る……」
「バンガローに行きたいといったのに、行かせなかったのは、そういう事情があったからなのね」
「お察しのとおり……夕食後、君は散歩に出て、一時間ほどして帰ってきた……十一時頃、私が二階から降りると、君は病的な鼾をかいて、長椅子で昏睡していた。そのときの印象は、もう助かりそうにもないように見えた……枕元のサイド・テーブルに下部(しもべ)鉱泉の瓶とコップが載っている……私がロッジに来る前に、鉱泉に催眠剤を仕込んでおいた奴がある。湖水の分れ道で君を拾ったことは、誰も知らないはずだから、目当ては、当然、私だったのだと思うほかはない……泊ってくれるだけでいいなどと、うまいことをいってひっぱりだして、私を殺して湖水に沈めるつもりだったんだ」
「その話は妙だわね。あたしはこうして生きているわ」
「ブロムラール系の催眠剤十五グラムは、健全な人間には致死量にならないが、特異質や身体異常者……たとえば、妊婦とか、心臓、腎臓の疾患者は、その量で簡単に死んでしまうというんだ。私のような冠疾(かんしつ)患者があの鉱泉を飲んだら、当然、死んでいたろう」
「鉱泉を分析してみたわけでもないでしょう。そこまで考えるのは、すこし敏感すぎるようね」
「前例がある……兄の前の細君の琴子と、トンネル会社をひきうけていた水上という男が、催眠剤の誤用で死んでいる。琴子は妊娠中で、水上は腎臓をやられていた。君代ぐらい催眠剤を上手に応用(アダプト)するやつもないもんだ。感服するほかはないよ」
「いやな話だわ。あの奥さん、そんなひとなの」
「そんな女なんだ……こんどの破産詐欺も隠し資産も、みんなあの女が手がけたことだ……琴子の場合はこうだった。琴子は胸の悪いところへ妊娠して、不眠で苦しんでいた。そのとき女子薬専を中退したばかりの君代が、派出看護婦で来ていた。琴子は君代に催眠剤をくれというが、やらない。そこが読みの深いところで、気の弱い兄が情(じょう)に負けて、いずれ、こっそり催眠剤をやるだろうと見込んでいた……予想どおり、兄は君代に隠してブロムラールを〇・三やった……〇・三で死ねるわけはないのだが、琴子は昏睡したまま、とうとう覚醒しなかった……兄は琴子を殺したのは自分だと思いこんでいるもんだから、君代に退引(のっぴき)ならない弱点をおさえられて、思いどおりに振廻されることになった」
「それで、こんどはあなたの番になったというわけ?」
「ひどい話だ。まごまごしていると、なにをされるかわかったもんじゃない。漕ぎだしたように見せかけるために、もやいを解いてボートを突きだし、今日の夕方まで林の中に隠れていた……ボーイ・スカウト大会のジャンボリーが終ると、子供達の附添や父兄が帰るので車が混みあう。誰かの車に便乗させてもらえれば、うまく検問を通れそうだ……日が暮れてから、ロッジへ来てみると、ボートはあるがプリムスはない。ボートは苦手(にがて)だが、急がずにやれば向う岸まで行けそうだ。そう思ってボートに乗った。石倉もさるもので、林の中から這いだしてから、私がどういう行動をとるか見抜いて、ボートの底に仕掛けがしてあった……栓を抜いて牛脂(グリース)でも押込んであったんだろう。ものの二十メートルも漕ぎださないうちに、ブクブクと沈んで、否応なしに泳がされた……私の心臓にとって、泳がされるくらい致命的な苦行はない。もう十メートルも遠く漕ぎだしていたら、心臓麻痺で参っていたろう」
 大池はめざましく興奮して、見ていても恐しくなるような荒い呼吸をついた。
「こういう目にあってみると、いったい、なんのせいで、兄があんなふうに逃げまわっているのか、よくわかった。兄は警察を恐れているんじゃなくて、君代や石倉を恐れているんだ……水上が妙な死にかたをしたので、こいつはあぶないと気がついたんだ。些細な隠し資産を誇大に言いふらしているのも、あの二人に隠れ場所をおしえないのも、そうしておけば、殺されることはないと考えたからなんだ……戦後、悪党というものの面を数かぎりなく見たが、あいつらほどの奴はいなかった。こちらもいろいろと古傷を持っているから、警察と係りあうのはありがたくないが、こんどばかりは、もう黙っていない」
 発条(ぜんまい)のゆるんだ煖炉棚の時計が、ねぼけたような音で十一時をうった。
 話を終りにさせるつもりで、久美子はおっかぶせるようにいった。
「大池さん、十一時よ……あと七時間……いままで保(も)った心臓なら、明日の朝まで保つでしょう。しゃべるのはそれくらいにして、すこし眠ったらどう」
 胸にたまっていたものを吐きだしたので、気持が楽になったのか、大池は素直にうなずいた。
「眠れるかどうか、やってみる……赤酒をください。三十CCぐらい……心臓というのは気むずかしいやつでね、交際(つきあ)いきれないよ」
 久美子はコルクの栓を抜き、いいほどにタンブラーに赤酒を注いで渡した。大池は小鳥が水を飲むように、時間をかけてチビチビと赤酒をすすりこむと、眠るつもりになったらしく、クッションに頭をつけて眼をとじた。
 なんとなく静かな顔つきになったと思ったら、大池は鼾をかきはじめた。
 湖水のほうから来る風が、潮騒のような音をたてて林の中を吹きぬけてゆく。風の音と鼾の音が一種の階調をつくって、ひとを睡気にさそいこむ。久美子は床に坐り、長椅子の端に額をおしつけて、うつらうつらしていた。
 鎧扉をあおる風の音で眼をさました。ちょうど十二時だった。
 大池は調子の高い鼾をかき、なにか操(あやつ)られているように、グラグラと頭を左右に揺っていた。薄眼をあけ、動かぬ瞳で空間の一点を凝視している。ただごとではなかった。
「大池さん……大池さん……」
 肩をゆすぶりながら、大池の手の甲に、コルク抜きの先を、思いきり強く突きたててみた。なんの反応もない。
「とうとう……」
 久美子が恐れていたのは、このことだった。
 赤酒になにか曰(いわ)くがあったのだろうが、そんな詮策はどうでもいい。さしあたっての急務は、なんとかして大池の命をつなぎとめることだ。さもないと、えらい羽目になる。こういう状況では、どんな嫌疑をかけられても、釈明する余地はないわけだから。
 ともかく医者を呼ぶことだ。煙突から炎をだせば、石倉がやってくるといっていた。石倉は敵だが、いま利用できるのは石倉のほかにはない。
 久美子は煖炉の燃えさしの上に紙屑や木箱の壊れたのを積みあげ、ケロシン油をかけて火をつけた。威勢よく燃えあがった松薪の炎が、鞴(ふいご)のような音をたてて吸いあげられていく。
 久美子は煖炉の前の揺椅子に掛け、浮きあがるような気持で石倉を待っていた

 三日後、朝の十時ごろからはじまった取調べが、夕方の五時近くなってもまだ終らない。伊東署の調べ室で、加藤捜査一課と久美子が、永久につづくかと思われるような、はてしもない言葉のやりとりをくりかえしていた。
 窓のない、一坪ばかりの板壁の部屋で、磨ガラスの扉で捜査主任の部屋につづいている。たえずひとの出入りするバタバタいう音や、ひっきりなしに鳴る電話の音が聞えて来る。
 長い沈黙のあとで、加藤捜査一課が、ぼつりと言った。
「なにか言ったらどうだ」
 久美子は冷淡にやりかえした。
「なにも言うことはないわ」
「こちらには聞きたいことがある」
「疲(くた)びれたから、これくらいにしておいてください」
「なにも言わないことにしたのか」
「なにも言いたくないの。言ってみたって無駄だから」
「無駄か無駄でないか、誰がきめるんだ」
「あの晩のことは、全部、話したわ。あたしに都合の悪いことでも、隠さずに言ったつもりだけど、てんで信用しないじゃありませんか。このうえ、精を枯らして、捜査の手助けをすることもないから」
「手助けか。よかったね……おれは反対の印象をうけているんだ。君ほどのハグラカシの名人はいない。捜査一課の加藤組は、君にひきずりまわされて、ふうふう言っている。もう、かんべんしてくれよ……大池の弟を殺(や)ったのは君なんだろう? あっさり吐いたらどうだ」
「じゃ、あっさりいうわ。大池の弟を殺したのは、すくなくとも、あたしじゃありません。大池君代か石倉梅吉……そちらをお調べになったら?」
「大池孝平の身体からジキトキシンとブロムワレリル尿素が出てきた……君はブロミディアという薬を持って歩いていたが、あれはブロムラール系の催眠剤じゃないのか?」
「そうよ」
「あの赤酒は、孝平の兄の忠平が持薬にしていたものだ。前からロッジに置いてあって封蝋に日本薬局方(ほう)の刻印がついていた……栓を抜いたのは誰だ?」
「あたしです」
「コップに注いだのは」
「それも、あたしです」
 捜査一課は、乾いたような低い笑い声をたてた。
「それで話はおしまいじゃないか。こんな明白な罪状を、どうして君は認めようとしないんだ? それじゃ、虫がよすぎるというもんだぜ」
 捜査一課は椅子から立つと、ドアをあけて、「スーツ・ケースを」と怒鳴った。連絡係の警官がスーツ・ケースを持って入ってきて、それを丸テーブルの上に置いた。
「大阪行の二等車の網棚へ捨てた君のスーツ・ケースだ。豊橋駅のホームで広報係の駅員に、アナウンスを依頼した事実もあがっている。湖水に絵を描きに来るのに、こんな手の混んだことをするのはどういうわけだ? 納得のいくように話してもらおう」
 癌になる前に、自分という存在を、上手にこの世から消してしまおうというのは、久美子の心の中の恥部で、できるなら隠しておきたいことだったが、ここまでおし詰められれば逃げきれるものではない。久美子は父が肝臓癌で死んだことから、放送局の屋上で「肌色の月」を見て、もういけない、と思い自殺を決意するまでの経過をありのままに話した。
「宇野久美子が自殺したと騒がれるのは、やりきれないと思ったから。そんな単純なことだったんです。この気持、おわかりになるでしょう?」
「自殺するにはいろいろな方法がある。場所もさまざまだ……ぜひ、あの湖水でなくてもいいわけだね?」
「あの湖水をえらんだのは、あそこで死体が揚ったためしがないと聞いたからです」
 捜査一課は背伸びのようなことをすると、灰皿に煙草の火をにじりつけて、椅子から立ちあがった。
「話にしては、よく出来た話だ……よかろう。癌研で徹底的に調べてもらってやる。そのうえで、ご相談しよう」

-----------------------------------------------------

底本:「久生十蘭全集]」三一書房
   1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
初出:「婦人公論」中央公論社
   1957(昭和32)年4~8月号

2009年6月18日 (木)

『オデュッセイア』(古代ギリシア語イオニア方言:ΟΔΥΣΣΕΙΑ, Ὀδύσσεια, Odysseia)

『イーリアス』と並び、伝説的な詩人ホメーロスの作とされる古代ギリシアの叙事詩。『イーリアス』の続編にあたる作品である。トロイア戦争の後、イタケーの王である英雄オデュッセウスが各地を放浪した貴種流離譚の冒険と、オデュッセウスの息子テーレマコスが父を探す探索の旅を歌う。

紀元前8世紀頃に成立し、ホメーロスと呼ばれる盲目の吟遊詩人が音楽と共に吟唱したが、紀元前6世紀頃から文字に書かれるようになり、現在の24巻からなる叙事詩に編集された。この文字化の事業は伝承ではアテーナイのペリクレスに帰せられる。

古代ギリシアにおいては、『オデュッセイア』と『イーリアス』は、教養ある市民が必ず知っているべき知識のひとつとされた。なお今日一部の研究者によって、『イーリアス』より『オデュッセイア』は遅く成立し、かつそれぞれの編纂者が異なるとの想定がなされている(ホメーロス問題)。

また、現代の欧米諸国においても教養層においては知悉しておくべき知識教養として重視されている。

原典の訳書には、松平千秋訳が岩波文庫全2巻、ワイド版が2001年に刊行した。なお旧版は呉茂一訳で韻文訳だった、<世界文学全集1. 集英社>等でも出された。他に高津春繁訳が、<世界古典文学全集1.筑摩書房>に入ってる。

構成

第1歌

ムーサへの祈り
ホメーロスの叙事詩には、朗誦の開始において「ムーサ(詩神)への祈り(英語:Invocation to Muse)」の句が入っている。これは話を始める契機としての重要な宣言であり、自然な形で詩のなかに織り込まれている。『オデュッセイア』では、最初の行は次のようになっている:

“ Andra moi ennepe Mousa polytropon hos mala polla ”

言葉の順番に意味を書くと、次のようになる:

“ あの男のことを わたしに 語ってください ムーサよ 数多くの苦難を経験した(あの男)を…… ”

「あの男」とは、オデュッセウスのことを指す。オデュッセウスが経験した数々の苦難の旅の物語を、わたしの舌を通じて語ってください、と詩神(ムーサ)に祈るのである。このようにして、ムーサが朗詠者に宿り、語り部は実はムーサであるということになる。

オデュッセウスがカリュプソーの島に囚われているところから叙事詩は始まる。

第2歌
オデュッセウスが死んだと考えられているイタケーでは、オデュッセウスの妻ペーネロペーに40人の求婚者が遺産目当てに言い寄っていた。2人の息子であるテーレマコスは、母の苦境を救うべく、オデュッセウスを探す旅に出る。テーレマコスには、オデュッセウスの友人であるメントールの姿を取ったアテーナーが同行し、テーレマコスを導く。

第3歌
テーレマコスはピュロスに着き、ネストール王に会う。王は、アガメムノーンが殺されたことを話す。王はテーレマコスをスパルタのメネラーオス王に送る。

第4歌
メネラーオスはオデュッセウスのエジプトでの難破について話す。オデュッセウスはニュムペーのカリュプソーに引き止められている。

第5歌
嵐で漂流するオデュッセウスを助けるレウコテアー女神ポセイドーンの怒りを買いイタケーに還れずにいるオデュッセウスに対して、他の神々は同情的である。ポセイドーンがエチオピアの宴席に赴きオリュンポスに不在である隙を見て、アテーナーは大神ゼウスに嘆願し、オデュッセウスの帰国の許しを得る。神々の王ゼウスは伝令使ヘルメースをカリュプソーの島に赴かせ、オデュッセウスを出立させる。しかし、その帰国を快く思わないポセイドーンがオデュッセウスのいかだを三叉矛で難破させる。数日後オデュッセウスは海岸に流れ着き、オリーブの茂みで眠りにつく。

第6歌
海岸に漂着したオデュッセウスとナウシカア難破したオデュッセウスを海岸で助けたのはパイアーケス人の王アルキノオスの王女ナウシカアであった。

第7歌
ナウシカア姫は父王の元に案内する。

第8歌
翌日は祝日になり、アルキノオス王の宴でオデュッセウスは楽人デーモドコスが歌うトロイア戦争の物語を聞き、密かに涙する。王は、オデュッセウスの素性を尋ねる。

第9歌
オデュッセウスは自分の素性を話し、今までの長旅について話し始める、イスマロスの町、ロートパゴイ族、キュクロープスの話をする。

第10歌
アイオロスの風によって帰路につこうとするが、船員が誤って風の袋を開け、来た方角に押し戻される。アイアイエー島の魔女キルケーに船員は豚にされてしまう。オデュッセウスはヘルメースに授けられた魔法を防ぐハーブ、モーリュにより助かる。キルケーはオデュッセウスがオーケアノスを越えて、冥界に行かなければいけないことを話す。

第11歌
第11歌は「ネキュイア(Nekyia)」として知られる。

ヘーラクレースの柱(今のジブラルタル海峡)を越えて冥界に行く、母アンティクレイアの幽霊やトロイア戦争で死んだ兵士の幽霊に会う。また、預言者テイレシアースに会う。

第12歌
オデュッセウスの航海と冒険の話の続き。キルケーの館より出て、仲間達と船を進ませる。途中、セイレーネス(セイレーンたち)という人の顔を持ち鳥の身体を持つ怪物がいる島の傍らを船は通過する。セイレーンたちの歌を聴いた者はすべての記憶を失い、怪物セイレーンに近づきその餌食とされる。しかし、オデュッセウスはその歌が聞きたく、仲間たちの耳は蜜蝋で塞ぎ、自分は帆柱に縛り付けもらい、身動きできないようにして、無事通過する。オデュッセウスは、セイレーンの島に進むのだと叫ぶが、仲間たちは歌もその言葉も聞こえないので、そのまま無視して進んだ。

次に、怪物スキュラのいる岩の横を通過するが、スキュラは、六本の頭で仲間たち六人をくわえて捉えむさぼり食うが、オデュッセウスを初め、他の仲間は何とか無事にスキュラの岩の傍らを通過できた。

それから更に、ヘーリオスの家畜がいる、トリーナキエー島に一行は上陸する。オデュッセウスはあらかじめに警告を受けていたので上陸を止めたが、仲間たちが上陸すると云って聞かず、やむをえず上陸する。やはり凶事は起こり、部下がヘーリオスの家畜をみだりに殺し食用にしたため、家畜を世話していたヘーリオスの娘ラムペティエーはそのことを父に知らせた。ヘーリオスは怒ってゼウスに訴えたので、ゼウスは船に雷を落とした。彼らの船は再びスキュラの岩とカリュブディスの近くに流され、今度は、大渦巻きですべてを飲み込むカリュブディスの岩の下の海に吹き寄せられたので、船は仲間を含めて渦巻きに飲み込まれたが、オデュッセウスだけは助かり、カリプソーの島に流れ着いた。

第13歌
イタケー島に到着し、眠りのなか洞窟に運ばれるオデュッセウスオデュッセウスの話は終わり、アルキノオス王は彼をイタケーに帰るように話し、オデュッセウスはアルキノオスから魔法の船を借り、イタケーへ船出する。イタケーに帰還、アテーナーは彼を老人に変装させる。

第14歌
豚飼いのエウマイオスは素性を明かしていないオデュッセウスを歓待する。

第15歌
アテーナーはテーレマコスに故郷に帰るように言う。

第16歌
テーレマコスはイタケーに帰り、アテーナーはオデュッセウスを元の姿に戻し、オデュッセウスはテーレマコスと再会する。2人は計略を練り、オデュッセウスが死んだと偽る。

第17歌
アテーナーはもういちどオデュッセウスを乞食の姿に戻し、彼は街へ帰る。

第18歌
機を織るペーネロペイアと求婚者たち求婚者はオデュッセウスの鍛えられた筋肉に驚く。

第19歌
彼はペーネロペーと長く話すが、素性は明かさない。嘗ての乳母エウリュクレイアは膝の傷からオデュッセウスに気づく。

第20歌
ゼウスは青空に雷を落とす。

第21歌
ペーネロペーはオデュッセウスの弓を持ち、「この弓を扱える者と私は結婚する」と告げる。求婚者は、次々と試すが失敗、その日がアポローンの祭日であった為に、献酒する。オデュッセウスは弓で、矢を12本の斧の穴に通す。

第22歌
オデュッセウスは首謀者アンティノオスの喉を矢で射抜き、息子や家来と共に他の求婚者たちをすべて討ち果たす。次いで、オデュッセウスを裏切った侍女たちを絞首刑に処し、メランティオスを殺す。

第23歌
オデュッセウスはペーネロペーに冒険談を話す。

第24歌
オデュッセウスは、父ラーエルテースと再会する。求婚者の親族が復讐しようとするが、アテーナーが仲裁する。

■ 影響史

主要写本

ホメーロス問題
近代になると、研究者達は『イーリアス』と『オデュッセイア』がそれぞれ別の人物によって作られたのではないかと主張し始めた。仮にホメーロスが『イーリアス』を作ったのなら、『オデュッセイア』は他の作者が存在したのだろうというのである。今日では、両方ともホメーロスによって作られ、多くの伝承を含んだものとして見なされている。

その他
トロイア戦争が紀元前1200年代中期であるとの考古学的推定に基づき、トロイア陥落の100年以内の期間を調べた結果、『オデュッセイア』中の日食など天文現象に関する描写が歴史的事実の可能性があるとの研究報告が、2008年6月23日の『米科学アカデミー紀要』に発表された[1]。
西欧諸語では原義から転じてしばしば「長い航海」の意味でも使われる(例:『2001年宇宙の旅』の原題 2001: A Space Odyssey)。
ジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』(集英社ほか)は『オデュッセイア』を下敷きにしている。
本田技研工業(ホンダ)で生産されているミニバン、オデッセイ(ODYSSEY)の名もこれに由来する。また、同社で生産されているミニバン、エリシオン(ELYSION)は、この物語に登場する楽園の名であるエーリュシオンに由来している。また、海外専売車のミニバン、フィアット・ウリッセ(ウリッセはオデッセイアのラテン語読み)も同等の由来である。
日本に中世から伝わり、幸若舞などにもなっている説話に『百合若大臣』がある。これは、主人公の百合若が戦から帰る途中で家来に裏切られて島に置き去りにされ、そこから苦心して帰還するというストーリーである。百合若は帰宅後、自分の妻に言い寄る男たちを弓で射殺す。以上のようにまとめると、『百合若大臣』はオデュッセイアと酷似している(主人公もオデュッセウスのラテン語名「ウリッセス」に似ている)。そのため、『百合若大臣』は『オデュッセイア』が日本で翻案されたものであるという仮説も提唱された。代表的な提唱者は坪内逍遥や南方熊楠。
『宇宙伝説ユリシーズ31』(1981年制作の日仏合作テレビアニメ)はこの物語に材を取っている。主人公の名はユリシーズ、息子はテレマークという。
二分心 - オデュッセイアの時代の人間の心の考察

脚注
^ AFPBB News 2008年6月27日「『オデュッセイア』の日食の描写は歴史的事実の可能性、研究報告」 http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2410592/3077427

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年6月15日 (月)

ロッキング・オン付録CD Track List vol.1-7

雑誌「ロッキング・オン(rockin'on)」 2005年より半年ごとに付録となっているCDには、
アルバムカバーもないために、曲目リストデーター作成した。

[ rockin’on CD vol.1 Track List ] 2005.4

01 BLOC PARTY / Banquet
02 BRIGHT EYES / Take It Easy(Love Nothing)
03 THE FUTUREHEADS / Decent Days And Nights
04 MAXIMO PARK / Apply Some Pressure
05 GOLDIE LOOKIN CHAIN / Your Mother’s Got A Penis
06 THE DEPARTURE / Just Like TV
07 ROOSTER / Come Get Some
08 BRITISH SEA POWER / Please Stand Up
09 SCISSOR SISTERS / Tits On The Radio
10 NEON / Hit Me Again

[ rockin’on CD vol.2 Track List ] 2005.10

01 H.I.M./Wings Of A BUtterfly
02 THE RAKES/Work, Work, Work(Pub, Club, Sleep)
03 HER SPACE HOLIDAY/Forever And A Day
04 SIGUR ROS/Glosoli
05 BULLET FOR MY VALENTINE/Suffocating Under The Words Of Sorrow(What Can I Do)
06 HARD-FI/Hard To Beat
07 JUNIOR SENIOR/Take My Time
08 BLACK REBEL MOTORCYCLE CLUB/Ain’t No Easy Way
09 GANG OF FOUR/Damaged Dogs

[ rockin’on CD vol.3 Track List ]2006.5

1. Morningwood / Nth Degree
2. Delays / Valentine
3. Clap Your Hands Say Yeah / Is this Love?[Single Edit]
4. Editors / Munich
5. The Streets / War Of The Sexes
6. The Dresden Dolls / Sing
7. The Velvet Teen / Gyzmkid
8. Living Things / Bom Bom Bom
9. Jack's Mannequin / The Mixed Tape
10. Mystery Jets / You Can't Fool Me Dennis [Single Version]
11.Soft / Gold ("Higher"の予定がマスタリング時の不備により収録)

[ rockin’on CD vol.4 Track List ] 2006.10

1.SHE'S GOT STANDARDS / THE RIFLES
2.NOT ANYMORE / THE KBC
3.MONA LISA'S CHILD / KEITH
4.HOUSE PARTY AT BOOTHY'S / LITTLE MAN TATE
5.THE SAD WALTZES OF PIETRO CRESPI / OWEN
6.SMILE / LILY ALLEN
7.BAILING OUT / LITTLE BARRIE
8.I'M SO SICK / FLYLEAF

[ rockin’on CD vol.5 Track List ] 2007.5

1.The Holloways / Generator
2.Hopewell / Beautiful Targets
3.Earl Greyhound  / S.O.S.
4.Switches / Drama Queen
5.1990s / See YOU At The Lights
6.The Enemy / 40 Days And 40 Nights
7.Simian Mobile Disco  / Hustler
8.Justice / Phantom
9.Walking Ashland / Drought Of 2001

[ rockin’on CD vol.6 Track List ] 2007.11

1. BLACK MARKET / MAGIC TRICKS
2. BIFFY CLYRO / LIVING IS A PROBLEM BECAUSE EVERYTHING DIES
3. EIGHT LEGS / TELL ME WHAT WENT WRONG
4. SHOUT OUT LOUDS / TONIGHT I HAVE TO LEAVE IT
5. HADOUKEN! / LIQUID LIVES
6. CAITLYN / SCENES FROM A SUNNY DREAM
7. RIPCHORD / LOCK UP YOUR DAUGHTERS (AND THROW AWAY THE KEY)
8. THE GO! TEAM / DOING IT RIGHT
9. MAYDAY PARADE / JAMIE ALL OVER

[ rockin’on CD vol.7 Track List ] 2008.5
1.FOALS "CASSIUS"
2.YOU SAY PARTY! WE SAY DIE! "MONSTER"
3.THE GET GO "FACE IN THE DIRT"
4.OPERATOR PLEASE "JUST A SONG ABOUT PING PONG"
5.WHIP "TRASH (RADIO EDIT)"
6.SCOUTING FOR GIRLS "IT'S NOT ABOUT YOU"
7.THOESE DANCING DAYS "HITTEN"

rockin’on 2008年5月号をもってrockin’on CD 企画は停止している。
経済不況のなか音楽やロックがどう社会と向き合うのか気になるところだ。

東京都渋谷区桜丘町20-1 渋谷インフォスタワー19F 株式会社ロッキング・オン
http://www.rock-net.jp/

2009年6月10日 (水)

インナーマッスルの無意識の活性化

筋肉というのは何層にも重なってできており、外側にある筋肉をアウターマッスル、内側の筋肉を総称してインナーマッスルや深層筋という。
インナーマッスルは体の根幹となる部分にある筋肉で、姿勢を安定させて動きを滑らかなにするには内側の筋肉を鍛える必要となる。

内側と外側をバランスよく鍛えるのが、筋肉トレーニングの大切なポイント。
インナーマッスルを鍛えるには「低負荷のものを数多くやる」こと。
アウターマッスルは鍛えると肥大化してトレーニング成果は目に見えてくるが、インナーマッスルの場合は目には見えてこない。
しかし骨や関節の部分を覆っている深層筋を鍛えることで、
内側から安定した滑らかな動作と姿勢へ回復させる。

能楽師が高齢になっても現役を続けている秘密は、インナーマッスルの無意識の活性化にある。
http://www.watowa.net/index.html

2009年6月 9日 (火)

ひらけ護摩 開けゴマ

護摩とは古代インド語のhomaが語源で、祈祷師が気合いを入れて念ずるのを「護摩を切る」という。梵語のhomaとは、火祭(かさい)、火法(かほう)の意。火中に供物を投じて供養すること。古代インドのバラモンの修行法で、煩悩(欲望)を焼き尽くすという意味があった。

ゴマ油は昔から酸化に強いことが知られている。
主な成分は、オレイン油、リノール油などの不飽和脂肪酸、カルシウム、鉄分、セレン、ナトリウムなどのミネラル、タンパク質、糖質、食物繊維、ビタミンB、ビタミンE、リグナン化合物など、たくさんの栄養素が含まれています。上記の成分から、高血圧や動脈硬化などの成人病の予防や、カルシウムや鉄分、ビタミンEの効果で疲労回復、貧血にもよいとされる食品。

ゴマ油中のセサミン(セサミノール)というリグナン化合物は抗酸化物質。
ゴマに1%未満程度含まれている抗酸化物質の約半分がセサミン。体内で吸収された後、肝臓に行って初めて効果を発揮する。抗酸化作用がある物質は水溶性のものが多いため、血液に溶けてしまい肝臓まで届くことがない。セサミンは生体内でできる代謝物に強い抗酸化作用があり、体内での活性化が抗酸化作用となる要素だった。
活性酸素が大量発生しがちな肝臓に対して、強い抗酸化能力を発揮する。脂肪分解や処理など、脂質代謝に深く関わっている肝臓機能を上昇させて、体脂肪の減少を促すよう働きかける。血管の弾力性を向上させる作用もあり血流を改善する。

コレステロール低下作用、高血圧抑制作用、アルコール代謝促進作用、肝臓保護作用、乳ガンおよび肝臓ガン発生の抑制作用をする。肝臓を活性化させるはたらきのほか、美容や貧血の予防にもよい。最近では遺伝子解析手法を使って、ゴマリグナンのメカニズムの解明されている。

ゴマは皮が硬いので、そのままうまく消化することができず、体の中を素通りしてしまう。ゴマの豊富な栄養素を摂るためには、すりゴマにして消化吸収しやすいようにして食べるのがポイント。お腹を下しやすい人は食べ過ぎないように。ゴマは小さいながらも意外に高カロリー、過食は控えたほうがよい。酸化を防ぐためにも、ゴマを煎ったりすったりする場合は、調理や食べる直前にする。

アラビア語では「イフタフ(開け、動詞の命令形)、ヤー(呼びかけ)シムシム(胡麻)」という。胡麻に対して開いてくれと いう命令はアラビア語の千夜一夜「アリババ」にも語られてる。
ドイツ語でも 「Sesam,oeffne dich!」(ゴマよ、開け!) と訳されている。

2009年6月 8日 (月)

梵天

梵天(ぼんてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。古代インドの神ブラフマーが仏教に取り入れられたものである。

また、天部(六道や十界の1つである天上界)は、さらに細かく分別されるが、色界十八天のうち、初禅三天の最高位(第三天)である大梵天を指して「梵天」と言う場合もある。神としての梵天はこの大梵天に住み、その下の第二天である梵輔天には、梵天の輔相(大臣)が住み、さらにその下の第三天である梵衆天には、梵天の領する天衆がこの天に住むとされる。

古代インドのバラモン教の主たる神の1つであるブラフマーが仏教に取り入れられたものである。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ(維持神)、シヴァ(破壊神)とともに三大神の1人に数えられた。この神が仏教に取り入れられ、仏法の守護神となり、梵天と称されるようになった。なお、釈迦牟尼が悟りを開いた後、その悟りを広めることをためらったが、その悟りを広めるよう勧めたのが梵天と帝釈天とされ、このことを梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と称される。

梵天は、帝釈天と一対の像として祀られることが多く、両者を合わせて「梵釈」と称することもある。

日本における梵天・帝釈天一対像としては、東大寺法華堂(三月堂)乾漆像、法隆寺旧食堂塑像、唐招提寺金堂木像などが奈良時代にさかのぼる遺例として知られ、奈良・興福寺には鎌倉時代作の像がある。これらの像はいずれも二臂の、普通の人間と同じ姿で表わされ、頭には宝髻を結って、手には払子や鏡、柄香炉を持つなど、唐時代の貴人の服装をしている。これらの梵天像と帝釈天像はほとんど同じ姿に表現され、見分けのつかない場合もあるが、帝釈天像のみが、衣の下に皮製の甲(よろい)を着けている場合もある。

密教における梵天像は四面四臂で表わされる。これはヒンドゥー教のブラフマー像の姿が取り入れられたもので、彫像では京都・東寺講堂の木像が著名である。東寺像は四面四臂の坐像で、4羽の鵞鳥(ハンサ鳥)の上の蓮華座に乗っている。

聖観音を本尊とした梵天と帝釈天の三尊形式も見られ、平安時代に二間観音供のために祀られたものである。この遺例としては、鎌倉時代後期の東寺の白檀像、愛知県の瀧山寺に見ることができる。瀧山寺像は、運慶の作とされている。

「万物の根源」という漠然としたものを造形化した神で、親しみがわきにくいためか、インドでも日本でも梵天に対する民衆の信仰はあまり高まらなかった。
(Wikipedia)

2009年6月 7日 (日)

ブラフマン (Brahman)

ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。

サンスクリットの「力」を意味する単語からきている。特に、物質世界を変える儀式や犠牲(生贄)の力を意味する。そこから、単語の2つ目の意味が出てくる。2つ目の意味はヒンドゥー教の最高のカースト、ブラフミン (en:Brahmins) であり、彼らは上述のような力を持っているとされる。

神聖な書物であるウパニシャッドにあるように、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派 (Vedantic) の思想によれば、この単語が指しているのは、外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実である。それは純粋な存在と意識そのものであり、ある意味では「世界の魂」とも呼べるものである。

ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性として見なされ、個々人の魂を含む全ての存在に浸透している。それゆえに、多くのヒンドゥーの神々は1つのブラフマンの現われである。初期の宗教的な文書、ヴェーダ群の中では、全ての神々は、ブラフマンから発生したと見なされる。

Great indeed are the Gods who have sprung out of Brahman. - Atharva Veda
偉大な事実は、ブラフマンの中から湧き出て来た神々である。 - アタルヴァ・ヴェーダ

ウパニシャッドの哲学者は、ブラフマン = 「世界の魂」は、アートマン(atman、真我) = 「人類の内なるエッセンス」と同一であるとする。ヒンドゥーの神々の体系では、ブラフマンはブラフマーと同一のものと見なされる。ブラフマー(創造者)は三神一体(Trimurti)の神々の1つであり、ヴィシュヌ(保持者)と、シヴァ(破壊者)とは本来同一とされている。

ブラフマンは物質的宇宙の全体の背後にあるため、理性により提供される道具だけを使ってそれを説明しようとすると、人間の精神はすくんでしまう。ブラフマンは感覚を超えており、精神を超えており、知恵と知性を超えており、想像を超えている。
(Wikipedia)

Trimurti

2009年6月 5日 (金)

ウパニシャッド(梵: उपनिषद्)

サンスクリットで書かれた一連の書物で、一般には奥義書と訳される。約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。

ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。

後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年前後に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。
(Wikipedia)

Hhhh

ヒンドゥー教  基本教義 輪廻、解脱、業、梵我一如
神々
ブラフマー シヴァ(パールヴァティー) ヴィシュヌ(クリシュナ) アスラ、ヴァルナ、 ヴィローチャナ、ヴリトラ ラーヴァナ、インドラ ナーガ、ナーガラージャ ジャガンナート
聖典
ヴェーダ マハーバーラタ(バガヴァッド・ギーター) ウパニシャッド ラーマーヤナ
法典・律法経
マヌ法典 ヤージュニャヴァルキヤ法典

2009年6月 3日 (水)

三階に家なし

三階に家なし
なぜなら二階建ての家だったからです。

恐ろしいオンネンの屋敷のお話です。

「そのぉぉぉぉ
屋敷にはぁぁぁぁぁ、
猫がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおんねん」

2009年6月 1日 (月)

「三界に家なし」

女(おんな)三界(さんがい)に家なし

〔補説〕 「三界」は仏語で、欲界・色界・無色界、つまり全世界のこと
女は三従といって、幼い時は親に従い、嫁に行っては夫に従い、老いては子に従わなければならないとされるから、一生の間、広い世界のどこにも安住の場所がない。女に定まる家なし。
[ 大辞林:三省堂 ] 

三界(さんがい)は、欲界・色界・無色界の三有ともいう。
生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けた。

欲界(kāmadhātu)
色欲・貪欲・財欲などにとらわれた生物と人が住む世界。

色界(rūpadhātu)
欲望を離れた清浄な物質の世界。食欲と淫欲を断じて男女の区別がなく光を食とするが、情欲と色欲はある。

無色界(ārūpyadhātu)
欲望も物質的条件も超越して精神作用にのみ住む世界。
受想行識の四蘊のみより成る世界。

「おとこ三界に家なし」
提灯屋・山野屋の主・吾平には女将のお由美と、お重という囲い女がいる。
ある夜、ご用聞き・三次が山野屋を訪れ、「金太という極悪非道の盗人がうろついているから気をつけろ」と忠告する。
それを聞いたお由美は、吾平にお重の元へ行ってやれと奉公人の和吉と共に追い出してしまう。
また、お重の方でも、「こんな時に女将さんをひとりぼっちにしてはいけない」ということで、追い返す。
途方に暮れた二人は夜中歩き続けるが、ひょんな所で金太と出会う。
どうみても三次が言うような極悪非道の盗人には見えない金太と話す二人であったが、三次が金太を発見し追いかけっこ開始。
朝になっても帰ってこない吾平たちを心配したお由美・お重の二人だがお洋の茶店で働いている吾平を発見し、またまた口論に。
そんな中、寝不足でふらふらになりながらも無事に金太を捕まえることができた三次・・・
http://www.geocities.co.jp/Playtown/6757/990708.html

能にして能にあらず

「能にして能にあらず」と言われる『翁』は普通の能とは別格に扱われており、非常に古い歴史をもつ。謡は陀羅尼か笛の譜か西蔵語かチベット語ではないかともいわれる「とうとうたらり たらりら」と呪法めいた言葉で始まり、「千秋万歳の 喜びの舞いなれば 一舞い舞はう万歳楽」と謡い納める。

「千里也多楽里 多楽有楽 多楽有楽 我利利有 百百百 多楽里 多楽有楽(チリヤタラリ タラアリヤラ タラアリヤラ ガリリアリヤ トウトウトウ タラリ タラアリヤラ)」

というのがあり、本文左傍に片仮名でついているその訓は
「チチノ里ナル楽シミ多キ里ハ、多ク楽シミアリヤ。楽シキ多ク楽シミ有ル楽シキ我ニハ喜ビアリ。百百(モモモモ)シイ多ク楽シキ里ハ、楽シミ多ク有リヤ楽シヤ」(正教蔵本)」

九巻唱歌の第一句「チリヤタラリ」は現行の謡では第三句になっているが、山伏神楽の「翁」の幕出では、各所を通じて第一句に謡われている。(「鳴るは瀧の水」)ともかくこれは、呪文めかしてつくった滑稽な猿楽者流の幕出謡であったには相違なかろう。
(本田 安次「翁そのほか--能及び狂言考之弐--」)  

千千の里なる楽しみ多き里は、多く楽しみありや。
楽しき多く楽しみ有る楽しき我に喜び有り。
百百百(ももも)しい多く楽しき里は
楽しみ多く有りや楽しみ。

この翁の出自は海の彼方から来訪する<マレビト>といわれた。
神に対して祝言を述べたり、共同体の成員に向かって言祝ぐ役割を担っていた。
翁はこの世とあの世との間にいる常世に要る他界人、本籍は霊界にあり、仮にこの世に居る神の代行者なのだろうか。

世阿弥『風姿花伝』によると、翁舞はもともと古くは三人の翁によって演ぜられていたらしい。
稲積の翁、代継の翁、父の尉(じょう)の三人の老翁が舞う。世阿弥は翁舞が三人になっているのは、仏教でいう「法身・報身・応身」の如来の姿を象)っていると記す。
仏の三化身を三人で舞うから、能楽界では「式三番」というふうに伝えられてきた。三人で舞っていたものうちの一人が稚児になったのか。三翁は二翁・一稚児となったのか。

空海は紀州の田辺で「異相の老翁」に出会った。老翁がしきりに仏法紹隆・仏法擁護を誓うので、それに応え二人は京の東寺での再会を約束した。それから7年後になって、「異相の老翁」(化人)が稲を背負い、杉の葉をさげ、二人の女と二人の童子を連れて教王護国寺を訪れた。それが稲荷大明神であったと、『稲荷大明神流記』は記している。

金春禅竹はその『明宿集』に、翁面はつねに鬼面と一体のものとして伝承されてきたと書いていた。いったいどうして山中の修行者に翁と童子が出現したり、変身したりするのであろうか。翁は神の変身なのか、仏の化身で、童子の伴身を促すものなのか。

 柳田国男『遠野物語』序文によると、「翁さび飛ばず鳴かざるをちかたの 森のふくろふ笑ふらんかも」という歌が示されているが、この「翁さび」の意味の大半をうけとめ、展開できたのは折口信夫だった。折口は、「翁さび」とは翁が「神のもどき」を見せていることであり、そのように「神のもどき」をする神とは、マレビトとしての来訪神であることを証した。
能の『翁』に象徴される様式や振舞の意図の背後には、日本の芸能の根源によこたわる「祭りの本質」がひそんでいたということになる。折口はこのことを『翁の発生』と『大嘗祭の本義』で示した。

★翁の発生  折口信夫★
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18406_14349.html

『翁』は能のなかで最も神聖視され、祝いの時に舞われる。
神の出現する能を脇能と呼ばれるのは、翁の脇という意味と考えられている。演じる形式も普通の能とは異なり、シテの翁をはじめ諸役を務める一同が、揃って橋懸かりから登場し、地謡の方々はいつもの地謡座ではなく鏡板の前の後座につく。
謡方、後見方、囃子方が侍烏帽子に素袍大紋を着るのも、小鼓が三挺の連調で囃すのも翁に限られている。
精進を保った演者たちは、カチカチという切り火の音に送られて、白式尉、黒式面の二面と鈴の入った箱を捧げた面箱の役を先頭に舞台上に現れる。演者が直面(素顔)で現れ舞台上で面を着けるのも、翁の能のみである。
このように『翁』という能はあらゆる点で異例であり、諸役の扮装にもまた独特なものが少なくない。

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2018年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
フォト

22カードの意味

  • _0 愚者
    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

オンライン状態

ペンギンタロットの原画

  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。