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2009年7月26日 (日)

八部衆(Wikipedia)

八部衆(はちぶしゅう)または天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)は、仏法を守護する8神。仏教が流布する以前の古代インドの鬼神、戦闘神、音楽神、動物神などが仏教に帰依し、護法善神となったものである。

八部衆とは8つの種族という意味である。これにはいくつかの説がある。通常に用いられるのは「舎利弗問経」を基本に、「法華経」や「金光明最勝王経」などの説により、天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩?羅伽衆の8つを指す。

ただし、奈良・興福寺の著名な八部衆像の各像の名称は上述のものと異なり、寺伝では五部浄、沙羯羅(さから、しゃがら)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)と呼ばれている。

なお、四天王に仕える八部鬼衆は、これらの八部衆と名称も類似し一部重複するので間違われやすいが基本的に異なる。ちなみに八部鬼衆は、乾闥婆・毘舎闍・鳩槃荼・薛茘多・那伽(龍)・富單那・夜叉・羅刹の名を挙げる。

法華経の序品(じょぼん)には、聴衆として比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷(出家在家の男女)などの「人」のほかに、この八部衆を「非人」として名が連ねられている。

天(Deva、てん)
梵天、帝釈天をはじめとする、いわゆる「天部」の神格の総称。欲界の六天、色界の四禅天、無色界の四空処天のこと。光明・自然・清浄・自在・最勝の義を有す。古代インドにおける諸天の総称。天地万物の主宰者。
龍(Naga、りゅう)
「竜」、「竜王」などと称される種族の総称。 蛇を神格化したもので、水中に棲み、雲や雨をもたらすとされる。また、釈尊の誕生の際、灌水したのも竜王であった。人面人形で冠上に龍形を表す。
夜叉(Yaksa)
古代インドの悪鬼神の類を指すが、仏法に帰依して護法善神となったもの。空中を飛行する。
乾闥婆(Gandharva、けんだつば)
香を食べるとされ、神々の酒ソーマの守り神とも言う。 仏教では帝釈天の眷属の音楽神とされている。インド神話におけるガンダルバであり、ギリシア神話におけるケンタウロスと同源であると推定されることからインド・イラン共通時代よりもさらに印欧祖語時代に起源をさかのぼる。
阿修羅(Asura、あしゅら)
古代インドの戦闘神であるが、インド・イラン共通時代における中央アジア、イラン方面の太陽神が起源とも言われる。通常、三面六臂に表わす。
迦楼羅(Garuda、かるら)
金翅鳥(こんじちょう)とも言い、竜を好んで常食するという伝説上の鳥である。鷲の如き獰猛な鳥類の一類を神格化したもの。
緊那羅(Kimnara、きんなら)
音楽神であり、また半身半獣の人非人ともいう。人にも畜生にも鳥にも充当しない。仏教では乾闥婆と同様に帝釈天の眷属とされ、美しい声で歌うという。
摩?羅伽(Mahoraga、まこらが)
緊那羅とともに帝釈天の眷属の音楽神ともいう。または廟神ともいわれる。身体は人間であるが首は蛇である。龍種に属す。大蛇(ニシキヘビとも)を神格化したもの。

興福寺の八部衆像
阿修羅像日本における八部衆像の作例としては、奈良・興福寺の旧 西金堂(さいこんどう)安置像(奈良時代、国宝)がよく知られる。 この他には、涅槃図などの絵画作品に諸菩薩や釈尊の弟子たちとともに描かれる場合があり、法隆寺五重塔初層北面の釈迦涅槃を表わした塑像群の中にも阿修羅をはじめとする八部衆の姿が認められるが、彫像の作例は他にほとんど見ない。
千手観音の眷属である二十八部衆(日本での代表的な作例は京都・三十三間堂、同・清水寺など)のうちにも八部衆に相当する像が包含されている。

興福寺の八部衆像は麻布を漆で貼り重ねた乾漆造で、廃絶した西金堂に安置されていた。西金堂は光明皇后が亡母橘三千代の追善のため天平6年(734年)建立したもので、本尊釈迦三尊像を中心に、梵天・帝釈天像、八部衆像、十大弟子像などが安置されていたことが知られる。京都国立博物館蔵の「興福寺曼荼羅図」(平安末~鎌倉初期、重文)を見ると、八部衆像は本尊の左右前方と後方に各2体ずつ安置されていたことがわかる。作者は、像造は百済からの渡来人将軍万福、彩色は秦牛養とされる。八部衆を含む興福寺西金堂諸像については、法華経序品ではなく、金光明最勝王経所説に基づく造像だと解釈されている。 以下に興福寺の八部衆像について略説する。

五部浄像 - 像高48.8cm。色界最上位の色究竟天(色界第四禅天)に浄居天と呼ばれる五人の阿那含の聖者(自在天子、普華天子、遍音天子、光髪天子、意生天子)が住んでおり、五部浄居天はこれらを合わせて一尊としたものである。今昔物語集では釈迦の四門出遊の際「老人、病人、死人、出家者」の四つを見せて釈迦の出家を促したとされている。象頭の冠をかぶり、少年のような表情に造られている。興福寺像は頭部と上半身の一部を残すのみで大破している(他に、本像の右手部分が東京国立博物館に所蔵されているが、これは1904年(明治37年)、個人の所有者から当時の帝室博物館に寄贈されたものである)。 経典に説く「天」に当たる像と考えられる。 千手観音の眷属の二十八部衆のうちには「五部浄居天」という像があるが、三十三間堂、清水寺本堂などの五部浄居天像は両手に1本ずつの刀を持つ武神像である。
沙羯羅像 - 像高153.6cm。頭頂から上半身にかけて蛇が巻きつき、憂いを帯びた少年のような表情に造られている。本像は、経典に説く「竜」に当たる像と考えられている。ただし、興福寺の沙羯羅像を「竜」でなく「摩?羅伽」に該当するものだとする説もある。二十八部衆には「沙羯羅竜王」の名で登場する。
鳩槃荼像 - 像高151.2cm。頭髪が逆立ち、目を吊り上げた怒りの表情に造られている。経典に説く「夜叉」に相当する像とされている。 四天王のうちの増長天の眷属ともいう。 二十八部衆のうちには鳩槃荼に該当する像がない。
乾闥婆像 - 像高160.3cm。獅子冠をかぶる着甲像である。両目はほとんど閉じられている。
阿修羅像 - 像高153cm。三面六臂に表わされる。興福寺の阿修羅像は、奈良観光のポスター、パンフレットにしばしば取り上げられる著名な像である。
迦楼羅像 - 像高149.7cm。興福寺像は鳥頭人身の着甲像である。三十三間堂、清水寺本堂の二十八部衆中の迦楼羅王像は異なって翼を持ち、笛を吹く姿に造られている。
緊那羅像 - 像高149.1cm。頭上に一角、額に縦に3つめの目があり、寺伝とおり、当初から緊那羅像として造られたものと思われる。
畢婆迦羅像 - 像高156cm。他の像と異なり、やや老相に造られ、あごひげをたくわえている。経典に説く「摩?羅伽」に相当するものとされるが、定かでない。二十八部衆のうちには畢婆迦羅と摩?羅伽の両方が存在し、前者は通常の武神像、後者は五眼を持ち、琵琶を弾く像として表わされている。

(Wikipedia)

2009年7月25日 (土)

阿修羅(あしゅら、あすら、Skt:asuraの音写、意訳:非天)

八部衆に属する仏教の守護神。修羅(しゅら)とも言う。大乗仏教時代に、その闘争的な性格から五趣の人と畜生の間に追加され、六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主となった。


古代ペルシャの聖典『アヴェスター』に出る最高神アフラ・マズダーに対応するといわれる。それが古代インドの魔神アスラとなり、のちに仏教に取り入れられた。古くインドでは生命生気の善神であった。天の隣国だが天ではなく、男の顔立ちは端正ではない。醸酒にも失敗し、果報が尽きて忉利天にも住めないといわれる。

本来サンスクリットで「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされるが、「a」が否定の接頭語となり、「sura」が「天」を意味することから、非天、非類などと訳され、帝釈天の台頭に伴いヒンドゥー教で悪者としてのイメージが定着し、地位を格下げされたと考えられている。帝釈天とよく戦闘した神である。リグ・ヴェーダでは最勝なる性愛の義に使用されたが、中古以来、恐るべき鬼神として認められるようになった。

仏教に取り込まれた際には仏法の守護者として八部衆に入れられた。なお五趣説では認めないが、六道説では、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされる。

興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記している。 帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶ。

姿は、三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれることが多い。

奈良県・興福寺の八部衆像・阿修羅像(国宝)や、京都府・三十三間堂の二十八部衆像・阿修羅像(国宝)が有名。

日本語では、争いの耐えない状況を修羅道に例えて修羅場(しゅらば)と呼ぶ場合もある。激しい闘争の行われている場所、あるいはそのような場所を連想させる状況を指す。

歴史的背景
一般的には、サンスクリットのアスラ(asura)は歴史言語学的に正確にアヴェスター語のアフラ(ahura)に対応し、おそらくインド-イラン時代にまでさかのぼる古い神格であると考えられている。宗教学的にも、ヴェーダ文献においてアスラの長であるとされたヴァルナとミトラは諸側面においてゾロアスター教のアフラ・マズダーとミスラに対応し、インド・ヨーロッパ比較神話学的な観点では第一機能(司法的・宗教的主権)に対応すると考えられている。アスラは今でこそ悪魔や魔神であるという位置づけだが、より古いヴェーダ時代においては、インドラらと対立する悪魔であるとされるよりは最高神的な位置づけであることのほうが多かったことに注意する必要がある。

ただし、阿修羅の起源は古代メソポタミア文明のシュメール、アッシリア、ペルシア文明とする説がある。 シュメールやアッカドのパンテオンに祀られていた神アンシャル。アッシリアの最高神アッシュル。ペルシアのゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー。それらの神がインドに伝来してアスラとなり、中国で阿修羅の音訳を当てた。阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも音写する。

シュメール、アッシリアの古代史と仏教の阿修羅にまつわる伝承との類似性も高く、信憑性のある事実として指摘される。

仏教伝承では、阿修羅は須弥山の北に住み、帝釈天と戦い続けた。阿修羅は帝釈天に斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との記述がある。これらの伝承を古代史になぞらえると、以下のようになる。

アッシュルを最高神と崇めたアッシリア帝国は、シュメール(現在のイラク周辺)の北部に一大帝国を築き、シュメール・アッカドの後に勃興したバビロニアに侵略戦争を繰り返した。

バビロニア人はメディア人と手を結びアッシリアを滅ぼしたが、国を再興したアッシリア人達にバビロニアは滅ぼされた。後にてバビロニアの地にカルデアが勃興して、再びアッシリアを滅ぼした。その後、アフラ・マズダーを崇めるペルシアが勃興して、カルデアを占領下におさめた。その後、古代マケドニアがペルシアを滅ぼした。

また、シュメールと須弥山(サンスクリットでは「スメール」と発音する)の類似性。シュメールの最高神マルドゥークと帝釈天インドラの類似性を指摘する説もあり、阿修羅と帝釈天の構図はアッシュルとマルドゥークの構図と全く同じであり、これらの古代史を仏教の伝承として取り込んだ可能性が高いと主張する神学者もいる。

戦闘神になった背景
阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されている。しかし事実は少し違うといわれる。阿修羅はもともと天部の神であった。阿修羅が天部から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話がある。

阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。

阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天(とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった。帝釈天は配下の四天王などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは常に帝釈天側が優勢であったが、ある時、阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天が後退していたところへ蟻の行列にさしかかり、蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲心から軍を止めた。それを見た阿修羅は驚いて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念を抱き、撤退したという。

一説では、この話が天部で広まって阿修羅が追われることになったといわれる。また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。このことから仏教では天界を追われ人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる。

阿修羅を意訳すると「非天」というが、これは阿修羅の果報が優れて天部の神にも似ているが天には非ざるという意義から名づけられた。

阿修羅王と住処
阿修羅王の名前や住処、業因などは経論によって差異がある。パーリ語(Pl)では、阿修羅王にRāhu、Vepacitti、Sambara、Pahārāda、Verocana、Baliの5つの名が見られる。ただし大乗仏典では、一般的に阿修羅王は4人の王とされることが多い。 『法華経』序品には、4人の王の名を挙げ、各百千の眷属を有しているとある。また『十地経』や『正法念処経』巻18~21には、これら4人の住処・業因・寿命などを説明しており、其の住処は妙高山(須弥山)の北側の海底地下8万4千由旬の間に4層地に分けて住していると説く。以下説明は主に正法念処経による。

羅喉阿修羅王(らご)
Skt及びPl:Rāhu、ラーフ、Pl:訳:障月、執月、月食など、 
その手でよく日月を執て、その光を遮るので、この名がある。
(住処) - 第1層、海底地下21000由旬を住処とする。身量広大にして須弥山のようで、光明城に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世にバラモンであった時、1つの仏塔が焼き払われるのを防ぎ、その福徳により後身に大身相を願った。不殺生の実践したが、諸善業を行わなかったので、その身が破壊(はえ)し、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の500歳を1日1夜として、その寿命は5000歳
婆稚阿修羅王(ばち、婆稚とも)
Skt及びPl:Bali、バリ、訳:被縛
帝釈天と戦って破れ、縛せられたためにこの名がある。正法念処経では勇犍(ゆうごん)阿修羅王。ラーフの兄弟で、彼の子らはみなVerocaと名づく。
(住処) - 第1層の下の第2層、さらに21000由旬の月鬘(げつまん)という地で、双遊城に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世に他人の所有物を盗み、不正の思いをなして離欲の外道に施して、飲食(読み:おんじき)を充足させたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の600歳を1日1夜として、その寿命は6000歳
佉羅騫駄阿修羅王(きゃらけんだ)
Skt:Śambara、Pl:Sambara、サンバラ、訳:勝楽、詐譌、木綿など
正法念処経では華鬘(けまん)阿修羅王と訳される。
(住処) - 第2層の下の第3層、さらに21000由旬の修那婆(しゅなば)という地で、頷(正字は金+含)毘羅城(かんびら)に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世に食を破戒の病人に施して、余の衆は節会の日により相撲や射的など種々の遊戯をなし、また不浄施を行じたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の700歳を1日1夜として、その寿命は7000歳
毘摩質多羅阿修羅王(びましったら)
Skt:Vemacitra、Vimalacitra、Pl:Vepacitti、訳:浄心、絲種種、綺書、宝飾、紋身など
乾闥婆の娘を娶り、娘の舎脂を産んだ。前出のように舎脂は帝釈天に嫁いだため、帝釈天の舅にあたる。
(住処) - 第3層の下の第4層、さらに21000由旬の不動という地で、頷(正字は金+含)毘羅城(かんびら)に住み、縦横13000由旬。
(業因) - 前世に邪見の心を以って持戒する者に施して、余の衆は自身のために万樹を護ったので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
その他『起世経』では、須弥山の東西の面を去ること1000由旬の外に毘摩質多羅王の宮があり、縦横8万由旬であるといい、また修羅の中に極めて弱き者は人間山地の中に在りて住す、すなわち今、西方の山中に大きくて深い窟があり、多く非天=阿修羅の宮があるという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

仏様の世界 阿修羅王 http://www.tctv.ne.jp/members/tobifudo/butuzo/28bushu/20ashura.html
興福寺 文化財データベース http://www.kohfukuji.com/property/index.html

2009年7月20日 (月)

阿修羅にまつわる神話

ヴェーダ神話では神々はデーヴァ神族とアスラ神族とに分類されていた。
デーヴァは現世利益を司る神々とされて、人々から祭祀を受けた引き換えに恩恵をもたらす存在とされた。代表的なデーヴァは雷神インドラで、リグ・ヴェーダ全賛歌の4分の1が讃えるものである。
アスラは倫理と宇宙の法を司る神々で、神通力と幻術を用いて人々に賞罰を下す者として畏怖されていた。代表的な神はヴァルナで、アスラはリグ・ヴェーダ初期においては必ずしも悪い意味で用いられなかった。デーヴァ信仰が盛んになるにつれて信仰が衰えて、ヴァルナをはじめ有力なアスラ神がデーヴァとされるようになり神々に敵対する悪魔とされていった。
イラン神話ではダエーワという悪神とされたが、ギリシャでは神的な力のことを「Daimon」(ダイモン)という。Daimonが悪魔である「Demon」(デーモン)の語源にされた。

パーリ経典にはRa-hu、Vepacitti、Sambara、Paha-ra-da、Verocana、Baliという5人の阿修羅が描かれて、大乗仏教においては4人となる。

Asura

「もともと阿修羅は天の一族であり正義をつかさどる神でした。
この阿修羅族には舎脂という娘がいて、これを帝釈天が奪った。
それで阿修羅は帝釈天へ怒り戦いを挑みます。阿修羅軍は帝釈天軍になかなか勝つことができずにいました。阿修羅軍が優勢となった時、帝釈天軍が後退していたところへ蟻の行列にさしかかると、踏み殺さないように帝釈天軍を止めたという。このことをもって阿修羅は正義ではあるものの、戦いを挑むうちに赦す心を失ったとされ、天界を追われ人間界と餓鬼界の間の修羅界の主となったとされました。」

帝釈天の起源は「インドラ」という、トルコ、メソポタミア、インドで信仰されていた神。
髪や髭が赤く豪放磊落な性格で酒好きで女好きで、人妻に手を出し呪いを受けたこともある。武に長けていたので、武神として悪に敵対している。
ゾロアスター教は善か悪かの二元論で、中途半端なことは許さないためにインドラは魔王とされた。悪魔とされてしまった阿修羅も、大乗仏教では正法を守る護法の神として名誉挽回する。そしてアフラ・マズダーは大日如来、阿弥陀如来の源流とされている。
アスラは仏教に取り込まれると戦闘神として、仏法の守護者として八部衆のひとつに位置付けられるようになりました。

2009年7月19日 (日)

二人の魔神の働きによって日食が起こる

阿修羅族であるスーリヤ(Surya)、チャンドラ(Candra)、マンガラ(Mangara)、ブダ(Budha)、ブリハスパティ(Brhaspati)、シュクラ(Sukra)、シャニ(Sani)、ラーフ(Rahu)、ケートゥ(Ketu)の神話。

Rhula

食が起こる月の昇交点がラーフ (Rahu) 、降交点がケートゥ (Ketu) という二人の魔神の働きによって食が起こる。ラーフの尻尾は彗星となって凶兆を表すといわれる。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で羅睺星・計斗星の名で七曜に付け加えられ、九曜の一員を成している。
仏教の九曜における目に見えない暗黒の羅睺星となった。

釈迦の息子の名ラーフラ Rāhula(羅睺羅)にも用いられた。古代インドで、「竜の頭」を意味したと考えられ、「ナーガの頭になる者」が生まれたことを歓喜した釈迦が名づけたという。古来インドでは一族の跡継ぎがないと出家できず、釈迦には息子の誕生はまたとない吉報である。釈迦の父・浄飯王も命名を喜んだという。
http://www.youtube.com/watch?v=ff0oZEzi1C8&feature=related

http://www.youtube.com/v/3MVsbvyriuY&hl=ja&fs=1&color1=0x006699&color2=0x54abd6"></param><param

2009年7月18日 (土)

乳海攪拌は、ヒンドゥー教における天地創造神話

 ドゥルヴァーサは厳しい修行を経て偉大なリシ(賢者)となった。彼は非常に短気で怒りっぽく、礼を失した者にしばしば呪いをかけたが、丁寧に接する者には親切であった。ある時、人間の王たちが彼から助言を受けるべく地上に招き、美しい花で造った首輪をかけて手厚くもてなしたところ、賢者はとても喜び、王と王国を祝福した。その後彼はこの美しい花輪を与えるべくインドラを訪ね、その首にかけて祝福した。インドラたちは彼を丁寧にもてなし滞りなく送り出した。その直後、インドラが乗る象が花輪に興味を示したため何気なく与えたが、戻ってきたドゥルヴァーサがそれを見て激怒し、インドラたち神々に呪いをかけて能力を奪ってしまった。この機をとらえてアスラ(阿修羅)が天へ侵攻してきたが神々はなすすべがなかった。インドラはシヴァ、ブラフマーに助けを求めたが、ドゥルヴァーサの呪いは彼らにも解けない。ヴィシュヌが、不老不死の霊薬「アムリタ」を飲めば失われた力を取り戻せると言い、それを作り出すために乳海攪拌を実行することにしたが、神々だけでは不可能な作業であり、アムリタを半分与えることを条件にアスラの協力も求めた。

ヴィシュヌ神の化身である巨大亀クールマに大マンダラ山を乗せ、大蛇ヴァースキを絡ませて、神々はヴァースキの尾を、アスラはヴァースキの頭を持ち、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた。海に棲む生物が細かく裁断されて、やがて乳の海になった。ヴァースキが苦しんで口からハラーハラという毒を吐くと、シヴァがその毒を飲み干したため事なきを得たが、彼の喉は毒によって青く変色した。

さらに1000年間攪拌が続き、乳海から白い象アイラーヴァタや、馬ウッチャイヒシュラヴァス、牛スラビー(カーマデーヌ)、宝石カウストゥバ、願いを叶える樹カルパヴリクシャ、聖樹パーリジャータ、アプサラスたち、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミーらが次々と生まれた。最後にようやく天界の医神ダヌヴァンタリが妙薬アムリタの入った壺を持って現れた。

しかしアムリタをめぐって神々とアスラが争い、一度はアムリタを奪われかけたが、ヴィシュヌ神は機転を利かせて美女に変身し、アスラたちを誘惑した。アスラたちは美女に心を奪われ、アムリタを手渡した。その結果、アムリタは神々のものとなったが、神々がアムリタを飲むさいにラーフというアスラがこっそり口にした。それを太陽神スーリヤと月神チャンドラがヴィシュヌ神に伝えたので、ヴィシュヌは円盤(チャクラム)でラーフの首を切断した。ラーフは首から上だけが不死となり、頭は告げ口したスーリヤとチャンドラを恨み、追いかけて食べようと飲み込むが体がないためすぐに外に出てしまう(日食・月食)。その体ケートゥとともに凶兆を告げる星となった。

その後、神々とアスラの戦いはますます激しさを増したが、ヴィシュヌ神が心に日輪のごとき武器を思い描くと、天からスダルシャナというチャクラムが現れた。それをヴィシュヌ神が投げるとアスラを群れごと焼き、あるいは切り裂いた。
 
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Rahu_ketu_yantram

アンコール・ワット 「乳海攪拌」のレリーフ http://www.angkor-ruins.com/ruins/angkorwat/basrelief_wat1stlevel/br3.htm

2009年7月16日 (木)

【調査】麻生内閣支持率16.2%

7月16日調査のフジテレビ新報道2001の首都圏の成人男女500人を対象電話調査

【問1】あなたは次に行われる衆議院選挙では、どの党の候補者に投票したいですか。

自民党 16.6%(-) 国民新党 0.0%(-)
民主党 39.4%(↑) 新党日本 0.0%(-)
公明党 1.8%(↓) 無所属・その他 0.8%
共産党 3.2%(↑) 棄権する 0.8%
社民党 0.4%(-) まだきめていない 37.0%

【問2】あなたは、麻生内閣を支持しますか。

支持する 16.2%(↓)
支持しない 76.2%(↑)
(その他・わからない) 7.6%

【問3】あなたは首相にふさわしいのはどちらだと思いますか

麻生太郎 首相 19.8%
鳩山由紀夫 民主党代表 48.2%
(その他・わからない) 32.0%

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

参考 郵政解散投票直前
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/2001/chousa/2005/050904.html
自民 36.8% → 296議席
民主 20.4% → 113議席

2009年7月11日 (土)

ビートたけし:東国原知事に「謝って宮崎帰れ」

ビートたけし:東国原知事に「謝って宮崎帰れ」 TVタックル20周年会見

会見を行ったビートたけしさん バラエティ番組「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日系)が7月に放映20周年を迎え、ビートたけしさん(62)、阿川佐和子さん(55)、大竹まことさん(60)、田嶋陽子さん(68)ら出演者が11日、テレビ朝日で会見を行った。たけしさんは昨夜、国政への転身の姿勢に県民の批判が集まる宮崎県の東国原英夫知事と会い、「とにかく謝れ。すごい逆風だぞ」と伝えたことを明らかにした。

 東国原知事にとってたけしさんはタレント時代の師匠。たけしさんは「会った時は(飲んで)3軒目だったんで覚えていない」と言いながらも、「とにかく謝れ、謝って宮崎帰れ。すごい逆風だぞ」と言ったことを明かした。

 また、たけしさんは番組について「メディアの強さを感じたのは小泉(元首相)さんの時。番組も乗っかって視聴率を上げたし、この番組から議員を作ってしまった。今の政局だとまたそんな日が来るかもしれない」と話し、田嶋さんは初出演を振り返り「(収録で)たけしさんをやりこめたつもりが、放送では一方的に私がやりこめられていて、テレビの編集の恐ろしさを知った」と懐かしんだ。

 「TVタックル」は、89年7月3日に放送を開始。政治、経済、社会問題を取り上げ、国会議員やコラムニストら著名人が出演する討論形式の番組。11日の放送で867回を数える。毎週月曜午後9時放送。
【毎日新聞】2009年7月11日

【関連記事】
ビートたけし35年 歴史に残るクソジジイになりたい。
http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20090617dde012200064000c.html

2009年7月 9日 (木)

平岡正明さん死去 「山口百恵は菩薩である」

 革命や犯罪を論じる一方、ジャズや映画、歌謡曲、落語などを批評した評論家の平岡正明(ひらおか・まさあき)さんが、9日午前2時50分、脳梗塞(こうそく)のため、横浜市内の病院で死去した。68歳だった。通夜は12日午後6時、葬儀は13日午前11時から横浜市西区元久保町3の13の一休庵久保山式場で。喪主は妻秀子(ひでこ)さん。

 64年に評論家デビュー。70年ごろからは太田竜や竹中労らと世界革命浪人(ゲバリスタ)を名乗り、新左翼系文化人として注目を集めた。

 70年代後半以降は文学や音楽、芸能などに領域を広げ、79年、著書「山口百恵は菩(ぼ)薩(さつ)である」が話題になった。90年に「大歌謡論」で大衆文学研究賞、93年に「浪曲的」で斎藤緑雨賞を受賞。近年は落語論も手がけた。横浜・野毛を活動の拠点に、大道芸や寄席の企画にもかかわった。

 著書に「ジャズより他に神はなし」「日本人は中国で何をしたか」「あらゆる犯罪は革命的である」「野毛的」「大落語」「志ん生的、文楽的」など。

1972hs Bhiraoka1
山口百恵は菩薩である
著者:平岡正明,講談社,発行:1979年10月10日, 定価:1300円
 【目次】
  Ⅰ章 恋文,二度三度 / Ⅱ章 説法・百恵百態 /
  Ⅲ章 恋文,ひとたび / Ⅳ章 無限抱擁∞
  Ⅴ章 問答・百恵秘法 / 全曲事典

  「・・・したがって山口百恵の半意識を読んだ。本人も気づいて
 いないことをいいあてられなければ音楽評論ではない。その一点
 に集中して,彼女にインタビューもせず,映画も見ず,ステージを
 聴かず,レコードだけを聴くという方法を選んで,全力を傾けた。
 傾けるに価する歌手である。」(あとがきより)
  独特の百恵論のため,ファンの間でも賛否両論であるが,ジャス
 評論家が真っ正面から山口百恵の“歌”を徹底的に論じたという点
 において画期的な一冊である。
 「Ⅴ章 問答・百恵秘法」は,著者と宇崎さんとの対談が掲載され
 ている。
  インパクトの強いタイトルは,以後「山口百恵」のひとつの形容
 詞にもなった。 

平岡 正明(ひらおか まさあき 1941年1月31日 - 2009年7月9日)
東京府出身の評論家。wikipedia

東京市本郷区に生まれる。京華高等学校卒業。早稲田大学露文在学中、ブントの一員として60年安保闘争に参加し、大学は中退。
やがてブントから脱退して宮原安春らと政治結社犯罪者同盟を結成。1963年、同盟機関誌の単行本『赤い風船あるいは牝狼の夜』を刊行したところ、同書に収録した吉岡康弘撮影の無修正ヌード写真が問題となり、猥褻図画頒布の容疑で警視庁から指名手配を受けたが、不起訴となる。なお、この書籍に赤瀬川原平の「千円札を写真撮影した作品」が掲載されていたことから、「千円札裁判」が起きるきっかけになった。

1964年、現代思潮社から『韃靼人宣言』を刊行して評論家デビュー。1967年の著書『ジャズ宣言』からジャズ評論の分野にも進出。1969年、澁澤龍彦の後任者として天声出版刊『血と薔薇』第4号を編集。
また、谷川雁・吉本隆明の「自立学校」事務局、谷川雁のラボ教育センターなどを転々とする。一方、「犯罪者同盟」以来のアナーキーな行動や著作で、新左翼系文化のカリスマ的存在となる。
1970年には、松田政男、足立正生、佐々木守、相倉久人と「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊した。
また、1970年代に入ると「水滸伝」をヒントにして、太田竜、竹中労らと窮民革命論を唱え、“新左翼三バカトリオ”と呼ばれたこともある。

1970年代後半以降の新左翼の退潮後は、主に、辺境に位置する、文学や芸能の評論の分野で活躍。論評対象は、筒井康隆、五木寛之、山田風太郎、山口百恵、河内音頭、三波春夫、大山倍達など。特に筒井康隆とは個人的にも親交を結び、筒井論も多数執筆している。
また、1975年に山下洋輔が「全日本冷し中華愛好会」を結成すると、上杉清文、奥成達らと主要な論客として参加した。

ただし、評論自体が「ジャズ的なノリ」で書かれることが多く、あまり論理的な文章ではない。平岡の感性でとらえた、「辺境的なもの、マイナーなもの」を、ことさらに称揚しているだけとも受け取れる。
なお、『中国人は日本で何をされたか』『日本人は中国で何をしたか』等のルポ作品も、著している。

1993年、『浪曲的』により斎藤緑雨賞受賞。
1994年4月1日に中野サンプラザで行われた「筒井康隆断筆祭」に参加。その断筆祭を批判した小林よしのりに対して、著書『筒井康隆断筆をめぐるケンカ論集』の収録の、『「ゴーマニズム」の薄甘い正義』で反論した。
大山倍達の極真空手にも入門し、有段者である。

また、横浜の下町・野毛を拠点としたミニコミ、1992年から1994年まで「ハマ野毛」を編集、刊行。野毛に住まう、荻野アンナ・田中優子・種村季弘らが参加していた。また野毛大道芸にもプロデューサー的に関わり、野毛大道芝居では、荻野アンナ、秋山祐徳太子と共に俳優として11年間参加し名演技を披露した。 2004年には野毛の「横浜にぎわい座 芸能ホール」で行われる「うま野毛寄席」で、木戸番役としてデビュー。

大量の著書を出しているが、著作はほとんど文庫化されていない(「山口百恵は菩薩である」(講談社文庫)と、「日本人は中国で何をしたか」(潮文庫)のみ)。2001年に、平岡を評価する四方田犬彦の編集によるベスト集『ザ・グレーテスト・ヒッツ・オブ・平岡正明』が刊行されている。
2007年に刊行された『若松プロ、夜の三銃士』では、1970年代に書かれた「犯罪的革命と革命的犯罪を称揚」する文章を多数収録したり、また新たに執筆された文章で、韓国に帰国後に問題を起こして評判を落としている金嬉老を「それがどうした。彼は屹立する男根である」と擁護したり、「文化大革命は世界同時革命の一貫であった。俺はいまでも文革シンパだ」と記述するなど、平岡の中ではいまだに「革命/犯罪」幻想が生き残っていることが明らかになった。

2009年7月9日午前2時50分、脳梗塞のため死去。68歳没。

著書
韃靼人宣言 現代思潮社 1964
犯罪あるいは革命に関する諸章 現代思潮社 1967
ジャズ宣言 イザラ書房 1969
地獄系24 平岡正明評論集 芳賀書店 1970
永久男根16 イザラ書房 1971
ジャズより他に神はなし 三一書房 1971
今村昌平の映画 芳賀書店 1971
日本人は中国で何をしたか 潮出版社 1972 のち文庫 
あらゆる犯罪は革命的である 現代評論社 1972
中国人は日本で何をされたか 潮出版社 1973
犯罪・海を渡る 現代評論社 1973
犯罪あるいは革命に関する諸章 大和書房 1973
西郷隆盛における永久革命 新人物往来社 1973
闇市水滸伝 第三文明社 1973
マリリン・モンローはプロパガンダである イザラ書房 1973
海を見ていた座頭市 イザラ書房 1973
ジャズ・フィーリング アディン書房 1974
歌入り水滸伝 音楽之友社 1974
ヒトラー学入門 革命を志す諸君へ 潮出版社 1975
南方侵略論 アディン書房 1975
スラップスティック快人伝 白川書院 1976
以降の人物を論じている。油井正一、大森忠、佐々木守、ソンコ・マージュ、奥成達、大山倍達、布川徹郎、上杉清文、新宿「バードランド」主人、瓜生良介、赤塚不二夫、池田圭、羽生道雄、神彰
魔界転生 クロスオーバー作家論 TBデザイン 1977.3
戦後日本ジャズ史 アディン書房 1977.4
石原莞爾試論 白川書院 1977.5
一番電車まで ブロンズ社 1977.6
歌の情勢はすばらしい 冬樹社 1978.8
山口百恵は菩薩である 講談社 1979.10 のち文庫 
菩薩のリタイア 秀英書房 1980.8
日本の歌が変わる 秀英書房 1980.11
韃靼人ふうのきんたまのにぎりかた 仮面社 1980.10
ボディ&ソウル 秀英書房 1981.1
筒井康隆はこう読め CBS・ソニー出版 1981.3
過渡期だよ、おとっつあん part3(ちょっと左翼篇) 秀英書房 1981.4
他人の穴の中で 秀英書房 1981.5
過渡期だよおとっつあん part 1(美学篇) 秀英書房 1981.9
過渡期だよおとっつぁん part 2(喧嘩論集・格闘技篇) 秀英書房 1981.6
タモリだよ! CBS・ソニー出版 1981.12
歌謡曲見えたっ ミュージック・マガジン 1982.4
お兄さんと呼んでくれ つっぱりオジサン、一年間の夜想曲 情報センター出版局 1983.6
おい、友よ PHP研究所 1983.11
筒井康隆はこう読めの逆襲 CBS・ソニー出版 1983.12
河内音頭・ゆれる 朝日出版社 1984.11
長谷川伸 メリケン波止場の沓掛時次郎 リブロポート 1987.4(シリーズ民間日本学者)
マッカーサーが帰ってきた日 テレビはアメリカ占領軍が埋めた地雷か 青豹書房 1987.9.
香港喜劇大序説 香港中国人によるもうひとつの文化大革命 政界往来社 1987.12
三七全伝南柯の夢(曲亭馬琴作を現代語訳) 創樹社 1987.12
国際艶歌主義 時事通信社 1988.4
官能武装論 新泉社 1989.2
清水次郎長の明治維新 激動期に立ち向かう〈男の志〉とは 光文社 1989.7
大歌謡論 筑摩書房 1989.8
美空ひばりの芸術 ネスコ 1990.6
新内的 批評社 1990.12
筒井康隆はこう読めの報復 大陸書房 1990.11
ジャズより他に神はなし 三一書房 1991.11
浪曲的 青土社 1992.7
風太郎はこう読め 山田風太郎全体論 図書新聞 1992.12
平岡正明オン・エア/耳の快楽 毎日新聞社 1992.12
平民芸術 三一書房 1993.11
横浜的 1993.12
大山倍達を信じよ ゴッドハンド本紀 秀英書房 1994.9
筒井康隆断筆をめぐるケンカ論集 ビレッジセンター出版局 1994.9
ヨコハマB級譚 タウン誌『ハマ野毛』アンソロジー(編) ビレッジセンター, 1995.2
大道芸および場末の自由 解放出版社 1995.5
横浜中華街謎解き 朝日新聞社 1995.9
梁石日は世界文学である ビレッジセンター出版局 1995.12
プレンティ・プレンティ・ソウル 平岡正明ジャズ論集 平凡社 1995.12
清水次郎長伝 第七才子書虎造節 青土社 1996.3
変態的 ビレッジセンター出版局 1996.7
皇帝円舞曲 第1-5部 ビレッジセンター出版局 1996-97
中森明菜/歌謡曲の終幕 作品社 1996.7
三波春夫という永久革命 作品社 1996.11
ジャズ的 毎日新聞社 1997.1
野毛的 横浜文芸復興 解放出版社 1997.2
座頭市 勝新太郎全体論 河出書房新社 1998.2
マイルス・デヴィスの芸術 毎日新聞社 1998.10
黒い神 毎日新聞社 1999.6
江戸前 日本近代文藝のなかの江戸主義 ビレッジセンター出版局 2000.3
チャーリー・パーカーの芸術 Music of Bird 毎日新聞社 2000.12
キネマ三國志 アートン 2001.4
ザ・グレーテスト・ヒッツ・オブ・平岡正明(四方田犬彦編) 芳賀書店, 2001.8
大革命論 河出書房新社 2002.3
ウイ・ウォント・マイルス 河出書房新社 2002.12
昭和ジャズ喫茶伝説 平凡社, 2005.10
大落語 法政大学出版局 2005.1
哲学的落語家! 筑摩書房 2005.9 - 桂枝雀論
戦後事件ファイル 赤塚不二夫、安保、三島由紀夫、赤軍、ひばりの死、他 マガジン・ファイブ 2006.4 (平岡正明コレクション)
志ん生的、文楽的 講談社 2006.6
日本ジャズ者伝説 平凡社 2006.7
平岡正明のDJ寄席 愛育社 2006.10
アングラ機関説 闇の表現者列伝 マガジン・ファイブ, 2007.1 (平岡正明コレクション)
毒血と薔薇 コルトレーンに捧ぐ 国書刊行会, 2007.7
ヨコハマ浄夜 愛育社 2007.10
シュルレアリスム落語宣言 白夜書房 2008.2
若松プロ、夜の三銃士 愛育社 2008.2
黒人大統領誕生をサッチモで祝福する 愛育社 2008.11
昭和マンガ家伝説 平凡社新書 2009.3

共著
水滸伝 窮民革命のための序説(竹中労との共著)三一書房 1973
晩酌の思想(白石かずこ,奥成達との共著)住宅新報社 1976
日本ジャズ伝私家版 モカンボセッションから冷し中華祭りまで (清水俊彦,奥成達との共著) エイプリル・ミュージック 1977.7
どーもすいません 平岡正明・上杉清文対談集 白夜書房 1981.12
俗物図鑑の本 全世界おおむね40億人の俗物に贈る(共著) 郡雄社出版、1982.1
団鬼六・暗黒文学の世界(岡庭昇との共著) 三一書房 1982.10
天覧思想大相撲 平岡正明,上杉清文対談集 拡大差○別篇 秀英書房 1983.8
高級芸術宣言 付・総合商社HAND-JOEの歩み 高級芸術協会著(南伸坊、末井昭、巻上公一、赤瀬川原平、糸井重里ほか) JICC出版局 1985.5
電撃フランク・チキンズ(四方田犬彦との共著) 朝日出版社 1985.8
武道論(大山倍達との共著) 徳間書店 1992.10
筒井康隆の逆襲 言論の自由を圧殺しているのは誰か(編著)現代書林 1994.2
幸森軍也・薄井ゆうじ・早川玄・梁石日・岡庭昇・荻野アンナ・みなみあめん坊・山下洋輔
中国水滸伝・任侠の夢(黄波との共著)日本放送出版協会 1996.4 (世界・わが心の旅)
DJ(佐久間駿との共著) アートン 2001.9

映画 出演
俗物図鑑(1982)  筒井康隆原作 内藤誠監督  
花と蛇 地獄篇(1985) 団鬼六原作 西村昭五郎監督
他に若松孝二作品(詳細不明)にも出演。
映画制作
太平洋戦争草稿(1974) -元・日本領のミクロネシアを舞台としたドキュメンタリー
風ッ喰らい時逆しま(1979) 布川徹郎監督
秘祭(1998) 石原慎太郎原作 新城卓監督の沖縄映画

CD
赤塚不二夫のまんがNo.1シングルズ・スペシャル・エディション
ブックレットに寄稿。
ジョアン・カエターノ劇場のエリゼッチ・カルドーゾ(新星堂・オーマガトキ)
ブックレットに寄稿。

wikipedia より

2009年7月 7日 (火)

浜津 守 プロフィール

現代思潮社主宰『美学校』赤瀬川原平・絵文字工房及び木村恒久・図工工房卒業
在校中に現代思潮社と青林堂『ガロ』編集部の臨時社員をする
TV放送局美術センター勤務を経て、東映動画、サンライズ、東京ムービーなどの外注アニメーターとなる

1978年、「機動戦士ガンダム」初代TVシリーズの動画チェック担当、放送中に大ヒットとなり、映画「機動戦士ガンダム」三部作で原画スタッフとなる。続く富野喜幸監督作品「イデオン」のTVシリーズ及び映画のメインスタッフとして参加

1982年、松竹映画「クラッシャー・ジョウ」設定制作、色彩設定、助監督を担当 
1983年、TVシリーズ「巨神コーグ」演出・絵コンテ
1985年、徳間書店・丸紅・博報堂が協賛したヒロイックファンタジー作品、東宝映画「アリオン」で演出担当

1987年、上條淳士原作(少年サンデー連載)「Toーy」監督 インディーズを含め当時rock'n Roll音楽シーンを初めて映像化、よりアグレッシブにした音楽アニメーション作品。(SONY)http://ja.wikipedia.org/wiki/TO-Y

1988年、テレビ朝日放送「鎧伝サムライトルパー」演出・絵コンテ・監督 アニメグランプリ・読者賞受賞日本アニメ大賞・アトム賞受賞

1991年、田中芳樹原作:角川映画「アルスラーン戦記」監督・絵コンテ・原画・動画・仕上げ・演出 文化庁日本のメディア芸術100選  http://plaza.bunka.go.jp/hundred/list_anime.html   
1992年、角川映画「アルスラーン戦記・」監督・絵コンテ  

東宝映画「夜をぶっとばせ」(かわぐちかいじ原作「愛物語」より)監督・脚本・絵コンテ・演出/音楽 ローリング・ストーンズ
1995年、VTR「アルスラーン戦記・征馬孤影」上下巻/監督・絵コンテ・音響演出・作画 少年ジャンプ連載「Bastard!!(虚ろなる神々の器)」PlayStation、アニメーションパート監督と絵コンテを担当

1996年、角川書店  月刊「少年エース連載」車田正美 原作「B't X」TVシリーズ 監督・シリーズ構成 TBS放送
1997年、TVシリーズ「勇者ガオガイガー」絵コンテ・演出 TV「それゆけアンパンマン」絵コンテ
1998年、白泉社 月刊「LaLa」連載「火宵の月~秋狂言~」監督・絵コンテ・演出・実写映像・作画
1999-2001年、日本テレビ「週刊ストーリーランド」演出・絵コンテ 「キョロちゃん」絵コンテ
2002年、東京ムービー「ルパン三世」DVD「生きていた魔術師」企画・監督・絵コンテ・作画 東京国際アニメフェア2003~東京アニメアワード~オリジナルビデオ部門優秀作品賞    http://www.taf.metro.tokyo.jp/TAF2004/2003/j/compe/jyushou_list.html

2005-2006年、東京ムービーTV[ガラスの仮面」監督・絵コンテ・演出   
2005-2008年、NHK教育TV「おでんくん」絵コンテ・ニセおでん話数など担当

2008年09月公開、北野武監督:映画 『アキレスと亀』オープニングアニメ 演出・絵コンテ
 『アキレスと亀』公式HP http://www.office-kitano.co.jp/akiresu/

2009年度より、大手前大学「メディア・芸術学部」講師
http://www.otemae.ac.jp/faculty/univ/professor.html

動画演習 研究所 動画基礎とアニメーション演習
http://blog.goo.ne.jp/doga24

2009年7月 5日 (日)

全日本冷し中華愛好会

1975年にジャズピアニストの山下洋輔が、冬に冷し中華を食べられないことを憤慨して、SF作家の筒井康隆や中州産業大学教授タモリらと共に「全日本冷し中華愛好会」という団体を立ち上げ、「冷し中華祭り」を開催した。第1回の1977年「冷し中華祭り」の場で、筒井康隆が2代目1978年の会長となった。

会報「冷し中華」発行。内容は『空飛ぶ冷し中華』(住宅新報社 1977.4)『空飛ぶ冷し中華 part2』(住宅新報社 1978.6)にまとめられた。
執筆者は、山下洋輔、筒井康隆、奥成達、平岡正明、坂田明、日比野孝二、河野典生、上杉清文、山口泰、伊達政保、舎人栄一、岡崎英生、瀬里なずな、小山彰太、池上比沙之、堀晃、黒鉄ヒロシ、赤瀬川原平、高信太郎、長谷邦夫、南伸坊、末井昭、長谷川法世、タモリ、吉峯英虎、赤塚不二夫、高平哲郎、朝倉喬司。


全冷中「冷し中華祭り」秘話
1977年(昭和52年)4月1日、東京有楽町の読売ホールのロビーは開場を待つ若者でごったがえしていた。全日本冷し中華愛好会(全冷中:ぜんれいちゅう)の主催する「第1回冷し中華祭り」が間もなくその幕を切って落そうとしているのだ。集った人の波は、ホールのある7階から階段を下へ下へと流れ一階の入口近くまで続いており、その人波の発する熱気はムンムンとすさまじく、一種異様な雰囲気さえただよっていた。

7階に着くとロビーの壁際にあらかじめ用意しておいてもらった机の上に、ダンボールから取り出した「ヒゲタ冷し中華つゆ」のびんをなるべく目立つように大陳ディスプレイし、ポスターも派手に貼りまくった。読売ホールのロビーの一隅がスーパーマーケットのデモンストレーションセールスの場になった感じである。他には、この日に合わせて発売された住宅新報社出版、全日本冷し中華愛好会編の、「空飛ぶ冷し中華」という本を売るコーナーや、山下洋輔のヨーロッパツアーの演奏を収録したレコードを売るコーナーなどがセットされ、ホールのロビーはお祭りの夜店のようなムードとなってしまった。まさに、この得体の知れない、何が起るか誰もわからない、「冷し中華祭り」の会場にふさわしいお膳立てが出来上ったと云えよう。
瓢箪から駒、ということは聞くが、こんどのことは、まったく、冗談から仕事、としか云いようがない。
ジャズピアニストの弟、山下洋輔が、一寸した冗談から、「全日本冷し中華愛好会」を結成し、自から初代会長におさまったのは、1975年(昭和50年)1月のことであった。その動機とかいきさつとかは、当時の雑誌や、新聞、テレビ、ラジオ等でかなりの話題として取り上げられ、あるいは真面目に、あるいは面白おかしく報じられたのでご存知の方もあるかと思う。私が本人から直接聞いたところでは、大体次のようなことであった。

1月のある日、東京杉並の天沼2丁目の日本そば屋「長寿庵」で昼間からビールを飲んでいたんだ(当時、彼は天沼に借家住まいをしていた)。音楽雑誌の仕事が一段落したあとだったと思う。雑誌の編集者と当時の俺のマネージャーと3人で。結構盛り上がっていたんだ。その時、なぜか急に冷し中華そばが食いたくなった。冬だから無理とは思ったが注文したら、やっぱりまだやっていないと云う返事。この時だ。急に俺の中で何かが燃えた。

「なぜだ!」「なぜ冬はやらないのだ。どうして冬は食ってはいかんのだ。これはまったくいわれのない差別ではないか!」酔いも手伝って考えはかけめぐる……その結果が例の声明文となったわけ。自分でもどこまで本気で、どこまでがジョークかわからないままのめりこんだというか、のみこまれたというか。…(後略)…

例の声明文というのはこれである。
全日本冷し中華愛好会結成のお知らせ

皆様には益々御活躍のことと存じます。さて、爾来、我国の生んだ最高の食品である冷し中華愛好者は日に日にその数を増している現状であります。しかるに一部の無理解なる杜会風潮が我々をして一年を通じてかの食品を賞味したいという希望を実現不可能なるものとしていることは皆様方の熟知せらるところであります。

〈我々は何故我国の冬季においては、かの冷し中華を賞味できないのであるか!〉

このような間違った習慣を少しでも変えていこうという主旨のもとに私達はここに「全日本冷し中華愛好会」を結成するに到りました。何卒皆様の御賛同を切にお願いする次第であります。

昭和50年1月吉日(東京:山下啓義)

会場は熱気と歓声が本大会のシンボルマークである鳴戸(なると)の渦巻きのように波打っていた。第1回冷し中華祭りは1977年4月1日午後6時30分その幕が切って落された。午后1時ごろから入口に並んだ名古屋から来た一番乗りの客を先頭に、6時の開場と共に客席はあっと云う間に埋めつくされ、筒井康隆副会長の開会宣言にはじまり、いとも整然と、メチャクチャに、ものすごい音響と共に進行して行った。
■講演「冷し中華思想の変遷」中州産業大教授タモリ
●対論「バビテン論争の総括」奥成達・平岡正明
●演奏と舞踏 山下洋輔トリオ・大駱駝艦「月の砂漠」
●料理講座
「正調冷し中華の作り方」坂田明(助手・矢野顕子)
■コント「鳴呼!冷し中華」東京ボードビルショウ
●来賓祝辞
○座談会「漫画家にとって冷し中華とは何か」:黒鉄ヒロシ・高信太郎・長谷邦夫・長谷川法世
○歌:矢野顕子・三上實
○全冷中支部長あいさつ:多数
○会長交代:山下洋輔・筒井康隆
本日一番の大歓声と大拍子に迎えられて、全冷中初代会長の山下洋輔は舞台中央のマイクに向った。トレードマークの口ひげ。細いメタルフレームのメガネを人さし指でちょっとずりあげた。会場は一転してシーンと静まりかえった。会長は、ゆったりとした口調で、適当な間をおき、静かなしかし低く通る声で、会長を辞任することを告げた。
「……(前略)……先ほど、舞台におし入って来た、実の兄が何の因果か某大手しょうゆメーカーに勤めており、冷し中華のタレを作っているという厳然たる事実を認める時、全冷中の会長としてこれ以上在位することは、いたずらに会員諸君の疑惑をかきたて会の健全なる運営と発展を阻害するものであると判断し、ここにいさぎよく身を引くことを決断したものである。……(後略)」
会場からは、「ヤマシターやめるな?!」という声が上った。若い女性のすすりなきの声もあったと聞く。このあと第2代会長に、筒井康隆氏が推挙され、場内破れんばかりの大歓声の中に、年号が冷中3年から鳴戸元年に改められたのである。

○フィナーレ:「大合唱、ソバヤ」リードボーカル・坂田明
かくて舞台と会場は大合唱、大乱舞の内に第1回冷し中華祭りは幕を閉じた。

全冷中は、その後、第2回大会を1978年(鳴戸2年)4月26日に、大森の平和島湯泉会館で開催した。新しい企画をもりこんで、これ又大盛況ではあったが、第1回ほどの盛り上りはなかった。私と全冷中の勝負は、やはりあの第1回が最初にして最後であったと思う。

そして一年後、「全冷中は死んだ!」という声明文と共に全国冷し中華愛好会は解散した。あの連中は、又、新しい遊びを、ジョークを、パロディを求めて旅立ったのだろう。
しかし、それにしても、あの連中の遊びの精神の見事さにはおどろくばかりだ。あの精神、あの発想、あの創造力、あのバイタリティは敬服に値する。
いろいろなジャンルの人々と知り合い、新しいものの見方、考え方を肌で感じとる努力を我々は、もっと、もっとしなければならないと思う。(ヒゲタ醤油株式会社のサイトから転載)

──

その時何故急に冷し中華がほしくなったのか
説明するのは難しい。
とにかく、無駄と知りつつも私はそれを注文し、
まだやってないという当然の返事を受け取った。(中略)
「ナゼだ!」と私は叫んでいた。
「何故やっていなのだ。何故冬にはやらないのだ。
どうして冬に食ってはいかんのだ。
これはまったくいわれのない差別ではないか」
強い怒りが込み上げてきた。
「よし。戦おう。もうこれ以上我慢できない。
 冷し中華の長かった忍従と屈辱の歴史は
 本日を持って終わる。
 全日本冷し中華愛好会が今結成されたのだ」

ー晶文社刊
山下洋輔『へらさけ犯科帳』p178
かくして騒々しい夏のイベントは終わった

2009年7月 3日 (金)

満足問題研究会

70年代後半、アホらしいことを大マジでやらないとダメだ、と集まった赤塚不二夫、赤瀬川原平、奥成達、高信太郎、長谷邦夫による満足問題研究会。
もともと「週刊読売」コラム「満足週刊読売」でのナンセンス・ページに連載されたのが始まり。
カレーライスとラーメンの満足とは何だ?などといった考察を文章でやり、写真では全員が”ラレーカーメン”というものを食べていたりする。

春うららになって、春眠暁をおぼえずースイミンの満足とは?ということになると、路上に布団を敷いて赤瀬川原平が寝ている場面を撮る。ついでに布団ごと電柱に縛りつけて寝ているという写真まで撮った。

Fuman Zoku

満足問題研究会はLPレコードまで作ってしまった。
ハトヤのステージでライブコンサートをやったらどうなるかという設定で作った。プラン会議を開いたビルが全国旅館連合会ビルだからーというデタラメな発想。
1. オープニング 
2. 口上 
3. バナナ・ブレッドマン 
4. 駅前ブルース 
5. 応援合戦 
6. 神おろし 
7. ラインダンス(天国と地獄) 
8. 休憩の楽屋風景/風呂場 
9. 間奏からオープニング 
10. 新人歌手登場・お兄ちゃん 
11. さよならをしようと手紙を書いたが・・・ 
12. 温泉マンの温泉音頭 
13. 想い出のベニス 
14. 講演「優柔不断」について 
15. 優柔不断音頭 
16. フィナーレ 
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赤塚不二夫/赤瀬川原平/奥成達/高信太郎/長谷邦夫/タモリ/山下洋輔/坂田明/小山彰太/林美雄!! 「まんがNo.1」に続く世紀の大復刻! 満足問題研究会による今や伝説の名盤となった『ライブ・イン・ハトヤ』が奇跡の初CD化です。プロデューサーは高平哲郎、作曲は小林亜星。メンバー全員が作詞して、赤塚不二夫自らが歌いました。伊東ハトヤのステージでライブ・コンサートをやったらどうなるかという設定で作った、前世紀最大のギャグ・パッケージ・アルバム。

1978
出演
赤塚不二夫/赤瀬川原平/長谷邦夫/奥成達/高信太郎/タモリ/山下洋輔/坂田明/小山彰太/林美雄/常木健男/伊東鳩子/ハトヤ混声合唱団/下落合テンタクルス/ハトヤ男子従業員一同/ビクター女子従業員一同/ハトヤ・ダンシングチーム/ハトヤ・オールスターズ
指揮 佐香裕之

スタッフ
構成・演出:高平哲郎/音楽:小林亜星、佐香裕之/舞台監督:新井龍夫、星野ジロウ/美術:赤塚不二夫/音響効果:赤塚不二夫/セットデザイン:茂木のぶお/写真:国玉照男/録音:寺尾寿章、佐藤晋/振付:滝大作/制作:全日本満足問題研究会/協力:伊東ハトヤ、面白グループ、協和広告(株)

ご挨拶
全日本満足問題研究会会長 赤塚不二夫

本日は、ご多忙の折、ようこそハトヤのステージにお運びくださいました。全満研並びにハトヤ従業員一同に成り変りまして、心から御礼申し上げる次第でございます。ハトヤのライブ・ショーは、今回が初めてでございますが、今後も毎年、恒例に致したく思っております。思えば全満研も、結成して今年で二年。昭和五十一年の春、ロッキード旋風の吹き荒れる真最中でした。全満研については、当初、週刊読売の誌上で、文化的な活動を続けてまいりましたが、会の成り立ち、主旨その他については、今もって私にはわからないのですが、...と、ここまで来て難しいことを書きすぎたので、頭が痛くなってしまったので、それでは皆さん、ごゆるりとご鑑賞下さい。

解説
このところ、テレビ・映画・ステージと、すっかり脂の乗り切った赤塚不二夫が、自らの全日本満足問題研究会の面々をひきつれてのショーが、初めて実況録音盤になりました。有名な、伊東のハトヤに繰りひろげられるショーは、今世紀最大の一大ページェントと各界からの絶賛を浴びたものです。
会場には、ハトヤのテーマの作詞家でもある野坂昭如、作曲家のいずみたくを始め、有名政治家、有名文化人はもとより、堺正章、小松政男、由利徹、東京ヴォードヴィルショーらも駆けつけ、舞台以上に華やかな客席に一般観客らは、ただただ、ため息の連続でした。最前列には桜田淳子、ピンク・レディーらに混じって芥川賞受賞作家らの顔も見え、この催しが、いかにジャンルを越えた偉大なイベントであるかを物語っていました。
また、今年最大の話題を呼んだ伊東鳩子も、このショーで十六歳の新人歌手としてデビューしたことも付記しておかなければならないでしょう。

内容
華やかなステージで繰りひろげられるショーは到底、一口では、いいあらわせません。全満研の、登場するごとに変わる豪華な衣裳をご覧になっていただくだけで、お客様も来たかいがあるというもの。また、ハトヤ・ダンシングチームの粒揃いの美貌も、きっと皆様のお気に召されることでしょう。くどくどした内容説明よりも、まずは、皆様にご覧になっていただきましょう。
 

★資料室http://www.mars.dti.ne.jp/~4-kama/tatsu/manmono.html
「満足問題研究会」はタモリ、坂田明、高信太郎、小林亜星、野坂昭如たちを巻き込んで、「面白グループ」から「冷し中華祭り」へと狂騒してゆくのだった。

2009年7月 1日 (水)

政事と教育と分離すべし 福沢諭吉

 政治は人の肉体を制するものにして、教育はその心を養うものなり。ゆえに政治の働は急劇にして、教育の効は緩慢なり。例えば一国に農業を興さんとし商売を盛ならしめんとし、あるいは海国にして航海の術を勉めしめんとするときは、その政府において自から奨励の法あり。けだし農なり商なり、また航海なり、人生の肉体に属することにして近く実利に接するものなれば、政府はその実際の利害につき、あるいは課税を軽重し保護を左右する等の術を施して、たちまちこれを盛ならしめ、またたちまちこれを衰えしむること、はなはだやすし。
 すなわち政治固有の性質にして、その働の急劇なるは事実の要用においてまぬかるべからざるものなり。その細目にいたりては、一年農作の飢饉にあえば、これを救うの術を施し、一時、商況の不景気を見れば、その回復の法をはかり、敵国外患の警を聞けばただちに兵を足し、事、平和に帰すれば、また財政を脩むる等、左顧右視、臨機応変、一日片時も怠慢に附すべからず、一小事件も容易に看過すべからず。政治の働、活溌なりというべし。
 また政治の働は右の如く活溌なるがゆえに、利害ともにその痕跡を遺すこと深からず。たとえば政府の議定をもって、一時租税を苛重にして国民の苦しむあるも、その法を除くときはたちまち跡を見ず。今日は鼓腹撃壌とて安堵(あんど)するも、たちまち国難に逢うて財政に窘(くるし)めらるるときは、またたちまち艱難の民たるべし。いわんや、かの戦争の如き、その最中には実に修羅(しゅら)の苦界(くがい)なれども、事、平和に帰すれば禍をまぬかるるのみならず、あるいは禍を転じて福となしたるの例も少なからず。
 古来、暴君汚吏の悪政に窘められて人民手足を措(お)くところなしなどと、その時にあたりては物論はなはだ喧しといえども、暴君去り汚吏除くときは、その余殃(よおう)を長く社会にとどめることなし。けだし暴君汚吏の余殃かくの如くなれば、仁君名臣の余徳もまた、かくの如し。桀紂(けっちゅう)を滅して湯武の時に人民安しといえども、湯武の後一、二世を経過すれば、人民は国祖の余徳を蒙らず。和漢の歴史に徴しても比々(ひひ)見るべし。政治の働は、ただその当時に在りて効を呈するものと知るべきのみ。
 これに反して教育は人の心を養うものにして、心の運動変化は、はなはだ遅々(ちち)たるを常とす。ことに智育有形の実学を離れて、道徳無形の精神にいたりては、ひとたびその体を成して終身変化する能(あた)わざるもの多し。けだし人生の教育は生れて家風に教えられ、少しく長じて学校に教えられ、始めて心の体を成すは二十歳前後にあるものの如し。この二十年の間に教育の名を専にするものは、ただ学校のみにして、凡俗(ぼんぞく)また、ただ学校の教育を信じて疑わざる者多しといえども、その実際は家にあるとき家風の教を第一として、長じて交わる所の朋友を第二とし、なおこれよりも広くして有力なるは社会全般の気風にして、天下武を尚(とうと)ぶときは家風武を尚び、朋友武人となり学校また武ならざるをえず。文を重んずるもまた然(しか)り、芸を好むもまた然り。
 ゆえに社会の気風は家人を教え朋友を教え、また学校を教うるものにして、この点より見れば天下は一場の大学校にして、諸学校の学校というも可なり。この大学校中に生々する人の心の変化進歩するの様を見るに、決して急劇なるものに非ず。たとえば我が日本にて古来、足利の末葉、戦国の世にいたるまで、文字の教育はまったく仏者の司どるところなりしが、徳川政府の初にあたりて主として林道春(はやしどうしゅん)を採用して始めて儒を重んずるの例を示し、これより儒者の道も次第に盛にして、碩学大儒続々輩出したりといえども、全国の士人がまったく仏臭を脱して儒教の独立を得るまでは、およそ百年を費し、元禄のころより享保以下にいたりて、はじめて世相を変じたるものの如し。(徳川をはじめとして諸藩にても新に寺院を開基し、または寺僧を聘(へい)して政事の顧問に用うるが如き習慣は、儒教のようやく盛なるとともに廃止して享保以下にこれを見ること少なし。)
 また近時の日本にて、開国以来大に教育の風を改めて人心の変化したるは外国交際の刺衝(ししょう)に原因して、その迅速なること古今世界に無比と称するものなれども、なおかつ三十の星霜を費し、然(し)かも識者の眼には今日の有様をもって変化の十分なるものとせず。如何となれば世間往々旧時の教育法に恋々する者あるをもって、新教育の未だ洽(あま)ねからざるを知るべければなり。教育の効の緩慢にして、ひとたびこれに浸潤するときは、その効力の久しきに持続すること明に見るべし。

 政事の性質は活溌にして教育の性質は緩慢なりとの事実は、前論をもってすでに分明ならん。然らばすなわち、この活溌なるものと緩慢なるものと相混一せんとするときは、おのずからその弊害を見るべきもまた、まぬかるべからざるの数なり。たとえば薬品にて「モルヒネ」は劇剤にして、肝油・鉄剤は尋常の強壮滋潤薬なり。劇痛の患者を救わんとするには「モルヒネ」の皮下注射方もっとも適当にして、医師も常にこの方に依頼して一時の急に応ずといえども、その劇痛のよって来る所の原因を求めたらば、あるいは全身の貧血、神経の過敏をいたし、時候寒暑等の近因に誘われて、とみに神経痛を発したるものもあらん。全身の貧血虚脱とあれば、肝油・鉄剤の類これに適当すべきなれども、目下まさに劇痛を発したる場合にのぞみてはその遠因を求めてこれを問うにいとまあらず、すなわち「モルヒネ」の要用なるゆえんなり。
 然るにその医師が劇痛に投ずるに「モルヒネ」をもってするのみならず、患者の平生に持張して徐々に用うべき肝油・鉄剤をも、その処方を改めて鎮痛即効の物にかえんとするときは、強壮滋潤の目的を達すること能わずして、かえって鎮痛療法の過激なるに失し、全体の生力を損ずることあるべし。
 ゆえに今、一国の政治上よりして天下の形成を観察したらば、所望に応ぜざるものも、はなはだ多からん。農を勧めんとして農業興らず、工商を導かんとして景気ふるわず、あるいは人心頑冥固陋(がんめいころう)に偏し、また、あるいは活溌軽躁に流るる等にて、これを見て堪え難きは、医師が患者の劇痛を見てこれを救わんとするの情に異ならざるべしといえども、これを救うの術は、ただ政治上の方略に止まるべきのみにして、教育の範囲に立入るべからず。すなわち農工商等の事を奨励せんとならば、有形の利害を示してこれを左右すべし。その効験の著しきは「モルヒネ」の劇痛におけるが如きものあらんといえども、今年今月の農工商をふるわしめんとて、にわかにその教育の組織を左右すればとて、何の効を奏すべきや。またあるいは天下の人心が頑冥固陋なり活溌軽躁なりとて、その頑冥軽躁の今日において、今の政治上に妨あるものを改良し、正に今日の所望に応ぜしめんがためにとて、これを政治の方略に訴るは可なり。
 たとえば日本士族の帯刀はおのずからその士人の心を殺伐に導き、かつまた、その外面も文明の体裁に不似合なればとて、廃刀の命を下したるが如く、政治上に断行して一時に人心を左右するは劇薬を用いて救急の療法を施すものに等しく、はなはだ至当なりといえども、この救急の政略を施すに、かねてまた、これを教育の組織に求めんとするは、肝油・鉄剤に求むるに鎮痛の即効をもってするに異ならず。この薬剤にして、よくこの効を奏すべきか、もしも然らしめんとするには、まずこの薬に配合するに他の薬物をもってし、その性質を変化せしむることなれば、徐々たる滋潤強壮の効力は失い尽さざるをえず。
 すなわち教育緩慢の働を変じて急劇となし、十年二十年に収むべき結果を目下に見んとするものなれば、教育本色の効力はきわめて薄弱たらざるをえざるなり。しかのみならず、その政治上において目下の所望は、あるいは十年を出でずして、大に望むに足らざるの日に会することもあるべし。たとえば今日こそ農業々々といえども、三、五年の中には農よりも商の欠点の見出すことのあるべきが如し。実に政治は臨機応変の活動にして、到底、教育の如き緩慢なるものと歩をともにすべき限りに非ず。もしも強いてこれを一途に出でしめ、今年今月の政治の方向と今年今月の教育の組織とを併行せしめて、教育の即効を今年今月に見んとするときは、その教育は如何様にして何の書を読ましめ何の学芸を授くるも、純然たる政治教育となりて、社会物論の媒介たるべきのみ。
 昔者(せきしゃ)、旧水戸藩において学校の教育と一藩の政事とを混一していわゆる政治教育の風をなし、士民中はなはだ穏かならざりしことあり。政教混一の弊害、明らかに証すべし。ただ我が輩の目的とするところは学問の進歩と社会の安寧とよりほかならず。この目的を達せんとするには、まずこの政教の二者を分離して各独立の地位を保たしめ、たがいに相近づかずして、はるかに相助け、もって一国全体の力を永遠に養うにあるのみ。諸外国にても亜米利加の政治、共和なれども、その教育は必ずしも共和ならず。日耳曼(ジェルマン)の政治、武断なれども、その学校は武断の主義を教うるに非ず。仏蘭西の政体は毎度変革すれども、教育上にはいささかも変化を見ず。その他英なり荷蘭(オランダ)なり、また瑞西(スイス)なり、政事は政事にして教育は教育なり。その政事の然るを見て、教育法もまた然らんと思い、はなはだしきは数十百年を目的にする教育をもって目下の政事に適合せしめんとするが如きは、我が輩は学問のためにも、また世安のためにもこれを取らざるなり。(以下なお余論あり。)

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初出:「時事新報」時事新報社 1884(明治17)年12月7~8日発行

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

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