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2009年8月31日 (月)

パブロ・ピカソ語録

「明日描く絵が一番すばらしい」
「絵画は、部屋を飾るためにつくられるのではない。画家は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」
「労働者が仕事をするように、芸術家も仕事をするべきだ」
「誰でも子供のときは芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである」
「昔、母は私にこう言った。お前が軍人になれば、将軍となるでしょう。修道士になれば、法王となるでしょう。そして私は画家となり、ピカソとなった」
「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」
「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」
「スペイン動乱は、スペイン人民と自由に対して、反動勢力が仕掛けた戦争である。私の芸術家としての生涯は反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。私が反動勢力と死に対して同意できるなどと誰が考えることができようか。私は「ゲルニカ」と名付ける現在制作中の作品において、スペインを苦痛と死の中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する。」(「ゲルニカ」制作時の声明より)

Photo
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)1881年10月25日 - 1973年4月8日)
フランスで制作活動をしたキュビスムの創始者のひとり。生涯におよそ13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家である。

http://www.youtube.com/watch?v=-wJNc9Ez-LM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=fjoWCdzhuFI&feature=fvw

ピカソの洗礼名は聖人や縁者の名前を並べた長いもので、講談社が1981年に出版した『ピカソ全集』によると、パブロ、ディエーゴ、ホセー、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード(Pablo, Diego, José, Francisco de Paula, Juan Nepomuceno, María de los Remedios, Crispin, Cripriano, de la Santísima Trinidad)である。

2009年8月30日 (日)

ルドンの色彩世界

オディロン・ルドン(Odilon Redon, 1840年4月22日 - 1916年7月6日)
19世紀-20世紀のフランスの画家。
1840年、ボルドーの生まれ。本名はベルトラン・ジャン・ルドン。父ベルトラン・ルドンの名からもらい命名されたが、母マリーの通称「オディール」に由来する「オディロン」の愛称で呼ばれ、本人も周囲も終生オディロンと呼ぶことになる。

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ボルドー近郊のペイルルバードで少年期を過ごす。病弱で内向的な子供だったという。20歳の頃植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。後にルドンが制作した版画には植物学の影響が見られ、版画集『夢の中で』はクラヴォーに捧げたものである。

1864年パリに出てジャン=レオン・ジェロームに入門するが数か月でやめ、ボルドーに戻って銅版画家ロドルフ・ブレダンの指導を受ける。また、1878年頃にアンリ・ファンタン=ラトゥールから石版画(リトグラフ)の指導を受ける。

1870年、普仏戦争に従軍。1872年からパリに定住する。1879年、初の石版画集『夢の中で』を刊行した。

1880年結婚。1882年ル・ゴーロワ新聞社で木炭画と版画による個展を開催。ユイスマンスらに注目される。エドガー・アラン・ポーの作品を意識した二番目の石版画集『エドガー・ポーに』刊行。

1886年長男ジャンが生まれるが、僅か半年で亡くなる。1889年次男アリが生まれる。1890年頃からそれまでの作品と打って変わって、作品に豊かな色彩を用いるようになる。

1913年にはアメリカのアーモリー・ショー(アメリカにおけるヨーロッパ現代美術紹介の展示で、マルセル・デュシャンも出品していた)で1室を与えられ、展示した。

1916年感冒をこじらせパリの自宅で死去。

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題材と作風
ルドンは印象派の画家たちと同世代だが、その作風やテーマは大いに異なっている。光の効果を追求し、都会生活のひとこまやフランスのありふれた風景を主な画題とした印象派の画家たちに対し、ルドンはもっぱら幻想の世界を描き続けた。象徴派の文学者らと交友をもち、象徴主義に分類されることもあるが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてという、西洋絵画の歴史のもっとも大きな転換点にあって、独自の道を歩んだ孤高の画家というのがふさわしい。

初の石版画集『夢の中で』の頃から当時の生理学や科学が投げかけていた疑問・問題意識である不確かな夢や無意識の世界に踏み込んだ作品を多く発表した。それらは断頭や目玉など、モノクロの版画であることもあって絶望感もある作品群だが、人間の顔をもった植物のようなものや動物のような顔で笑う蜘蛛など、どこか愛嬌のある作品も描いた。

鮮やかな色彩を用いるようになったのは50歳を過ぎてからのことで、油彩、水彩、パステルのいずれも色彩表現に優れているが、なかでも花瓶に挿した花を非常に鮮烈な色彩で描いた一連のパステル画が知られる。

代表作
眼=気球(1878) ニューヨーク近代美術館
自画像(1880)オルセー美術館
蜘蛛(1887)岐阜県美術館
閉じた眼(1890)オルセー美術館
シタ(1893)シカゴ美術館
キュクロプス(1898-1900頃)クレラー=ミュラー美術館(オッテルロー)
丸い光の中の子供(1900頃)新潟市美術館
オフィーリア(1901-02頃)岐阜県美術館
仏陀(1905)オルセー美術館
オルフェウスの死(1905-10頃)岐阜県美術館
ペガサスに乗るミューズ(1907-10頃)群馬県立近代美術館
トルコ石色の花瓶の花(1911頃)個人蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

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Odilon Redon YOUTUBE
http://www.youtube.com/watch?v=WIdS0KzZGVU&translated=1
http://www.youtube.com/watch?v=brlid63Be7Y&feature=related

世紀末描いた「黒の画家」 オディロン・ルドン展

 近代化が急速に進んだ19世紀末フランス。印象派の画家たちが明るい光を描く一方、科学や文学に基づく空想の世界を黒を基調に表現した画家がいた。“黒の画家”と称された、オディロン・ルドン(1840~1916年)だ。リトグラフ(石版画)を中心に、人間の内面や社会不安を映し出す201点を紹介する展覧会が、姫路市立美術館(同市本町)で開かれている。(神谷千晶)

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 細い足をうごめかせ、人間の顔をしたクモが上目遣いに笑う。がい骨は困ったような表情で腰に手を当て、沼から生えた草には花の代わりに老いた人の顔が付いている。ルドンの描く不思議な生き物たちはグロテスクだが、どこかユーモラスだ。単色であることが一層、鑑賞者の想像を喚起する。

 ルドンは仏ボルドー出身。病気療養のため幼少期を過ごした田舎町ペイルルバードで接した荒涼とした風景は、後の作風に大きな影響を与える。ボルドーやパリでは、科学者や文学者らとの交流を通じて教養を深めた。

 彼の作品は幻想的な印象が強いが、その発想の源には同時代の科学や哲学がある。最初の石版画集「夢のなかで」(1879年)には、原始的な顔が細胞や子宮のような囲いの中から現れる「1.孵化」、無数の人の頭部が宇宙を漂う「2.発芽」などを収録。当時の先端だったダーウィンの進化論や、肉眼では見えない顕微鏡的、望遠鏡的世界などへの関心がうかがえる。

 また、ぎょろりとした眼球が熱気球のように浮かんだり、植物の一部となったりして、繰り返し登場する。人の知覚や認識の大部分を担う目は「見る」「分かる」ことのシンボルであり、ルドンの知的探求心を象徴するようだ。

 奇々怪々な生物や小説、あるいは聖書をモチーフに描きながら、ルドンがその目を凝らしたのは、近代化や都市化が進む一方、孤独感とメランコリックな空気が深まる世紀末の社会だった。71年の普仏戦争敗北と、その後のパリ・コミューンでの労働者蜂起。しばしば登場する皆既日食のような「黒い太陽」は、当時の暗い世相を表現しているという。

 そんな“黒”に終わりを告げる転換点となった作品が「眼をとじて」(90年)だ。静かに目をつぶる女性の顔を描き、精神性の深化や不安からの解放を思わせる。次男の誕生や経済的安定など実生活の変化も影響したといわれ、白を多く残した明るさが、その後の彩り豊かな作風への予兆を感じさせる。

 30日まで。月曜休館。姫路市立美術館TEL079・222・2288

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http://www.youtube.com/watch?v=5PvbQuv1f04&feature=related

2009年8月29日 (土)

自殺者数、過去最悪に迫るペースに

 警察庁のまとめによると、7月の全国の自殺者数は2753人で、前年同月を101人上回ったことがわかった。1月以降、すべての月で前年を上回っている。また、1月からの累計は1万9859人で、過去最悪だった03年に迫るペースとなっている。
(日テレNEWS24 - 08月29日 02:34)

男性の自殺者の増加が目立って、不況の影響を指摘して早急な対策を求める声が上がっている。 男性は前年同期比で6.2%増の1万2222人、女性は同1.2%増の4854人だった。 都道府県別でみると、東京(1569人)、大阪(1057人)、埼玉(971人)29都府県で前年同期を上回った。増加率が高いのは沖縄(51.3%)、山口(30.2%)、高知(21.6%)の順だった。
警察庁の分析では健康問題が最も多く、借金や事業不振、生活苦などという自殺の理由だった。自殺者が増えている背景には、昨秋以降の景気悪化が影響あるとみられている。

2009年8月27日 (木)

言霊(ことだま)

言霊とは、一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。清音の言霊(ことたま)は、森羅万象がそれによって成り立っているとされる五十音のコトタマの法則のこと。その法則についての学問を言霊学という。

声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』(『萬葉集』)に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」 - 柿本人麻呂 3254)「…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…」(「…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」 - 山上憶良 894)との歌がある。

これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば事代主神が『古事記』では「言代主神」と書かれている箇所がある。

自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。例えば『古事記』において倭建命が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出合ったが、倭建命はこれは神の使いだから帰りに退治しようと言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。

他の文化圏でも、言霊と共通する思想が見られる。『旧約聖書』の「ヘブライ語:רוח הקודש」(ルーアハ)、『新約聖書』では「希: Πνεύμα」(プネウマ。動詞「吹く」(希: πνεω)を語源とし、息、大いなるものの息、といった意が込められる)というものがある。「風はいずこより来たりいずこに行くかを知らず。風の吹くところいのちが生まれる。」この「風」と表記されているものが「プネウマ」である。

一般に、音や言葉は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされる。これは洋の東西を問わず、祭礼や祝い、悪霊払いで行われる。神事での太鼓、カーニバルでの笛や鐘、太鼓などはその例である。

言葉も、呪文や詔としてその霊的な力が利用される。ただし、その大本になる「こと」(事)が何であるかということには、さまざまな見解がある。たとえば「真理とは巌(いわお)のようなものであり、その上に教会を築くことができる」と考えたり、あるいは「真実を知りたければ鏡に汝自身を映してみよ、それですべてが明らかになる」といい、それは知りうるものであり、また実感として捉えられるものであるとみる意見や、「こと」自体はわれわれでは知りえないものであるという主張もある。これらはさまざまな文化により、時代により、また個人により大きく異なっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年8月24日 (月)

言霊学(ことたまがく)

森羅万象が、五十音のコトタマの法則によって成り立っているとする学問。日本最古の書物である『古事記』はこのコトタマについて神話のかたちを借りて説明した文書であるとする。

濁音のつく「ことだま」は、「こと」の「だま」(所有格)で、言葉に乗せた念(霊・魂)の力のことを指し、清音の「ことたま」は五十音の言および霊そのもののことを指す(並列)。日本人の叡智の結晶とも言えるコトタマは非常に高度かつ厳密な法則に基づいた、霊的かつ機械的なものであり、コトダマとの違いは、個人的な感情の有無と言える。

駄洒落との関連性
念や感情に重きを置き、ある意味ドロドロした?コトダマと違い、コトタマは音そのものが翼を持ち、自由に空を羽ばたくかのような、軽やかな知的ゲームである。また英語と日本語の性質の違いからも、その特性が浮き彫りにされる。英語は機械言語と言われ[要出典]、ひとつの結論に収束する言語であるが、日本語は末広がりの言語であり、人間の想像力が許す限り無限に意味が広がる。古くは駄洒落、そして最近では2ちゃんねるの意図的な誤変換や当て字なども、そうした日本語の特性を最大限利用した、日本語ならではの高度な遊びであると言える。

言霊学の概要
言霊学の基本はアイウエオ・ワヰウヱヲの陰陽(妹背)五母音と、チイキミシリヒニの陰陽(妹背)八父韻と、残りの三十二子音と、最後の神代表音文字一音、計五十音からなり、それぞれ古事記の神名に当てはめられる。なお、父韻の「イ」は「ヤ」行の「イ」である。

天津磐境(先天構造)
まだ現象に現れない心の先天構造を表す。母音と半母音と親音と父韻合わせて十七言霊。別名を天名(あな)という。

母音と半母音
母音は五段階の心の宇宙そのものであり、アオウエ・イの母音の宇宙(天の御柱)は主体で、ワヲウヱ・ヰの半母音の宇宙(国の御柱)は客体を表す。ウはまだ主体と客体の区別が未分化の状態である。アによって初めて「吾」という意識が芽生え、同時に客体ワが生まれる。

淡路の穂の狭別の島
【ウ】 天の御中主の神(あめのみなかぬしのかみ)…感覚、欲望
伊豫の二名島
【ア】 高御産巣日の神(たかみむすびのかみ)…直感

【ワ】 神産巣日の神(かみむすびのかみ)…感情
隠岐の三子島(天の忍許呂別)
【オ】 天の常立の神(あめのとこたちのかみ)…思考

【ヲ】 宇摩志阿斯訶備比古遅の神(うましあしかびひこぢのかみ)…記憶
【エ】 国の常立の神(くにのとこたちのかみ)…選択

【ヱ】 豊雲野の神(とよくもののかみ)…知恵

親音
母音のうちイ・ヰだけを特別に親音と呼ぶ。親音は他の母音(半母音)を統合し、父韻に展開し、母音と父韻を結びつけて子音(現象)を生み出し、その現象の名前をつける創造主の役割を果たしている。

伊岐の島(天比登都柱)
【イ】 伊耶那岐の神(いざなきのかみ)…意志

【ヰ】 伊耶那美の神(いざなみのかみ)…生命

父韻
父韻は時間の経過に伴う変化のリズム(律動)である。母音と半母音に働きかけ、子音(現象)を生むきっかけを作る。別名を天の浮橋といい、天の御柱と国の御柱の間を架け橋のようにつないでいる。

竺紫の島
豊の国(豊日別)
【チ】 宇比地邇の神(うひぢにのかみ)…宇は地に比べて邇(近)い。一点集中する働き。目の前にある物事にフォーカスする。思い切って近寄る。ひとつのことに全身全霊で打ち込むための最初の瞬発力。
【イ】 須比地邇の神(すひぢにのかみ)…須らく智に比べて邇(近)い。知恵を駆使して継続する働き。千代に八千代に弥栄(いやさか)える。
熊曽の国(健日別)
【キ】 角杙の神(つのぐひのかみ)…角は古い細胞が角質化したもので、闘いや身を守る道具として使われる。杙は依り代。物事の判断基準になるもの。記憶を掻き繰る働き。自らの経験知識に従って、記憶領域のデータを検索する。
【ミ】 生杙の神(いくぐひのかみ)…生きるための依り代。生きるための手蔓金蔓必要なものを何でも引き寄せる働き。選別はしない。手当たりしだい見境なく引き寄せる。
竺紫の国(白日別)
【シ】 意富斗能地の神(おほとのぢのかみ)…意に富む斗(はかり)の能(働き)の地。あれこれ試行錯誤した上に識別された認識の土台。左回りの収束する螺旋。思考。考える→神帰る。ひとつの結論に収まる。静まる。一神教。
【リ】 大斗乃弁の神(おほとのべのかみ)…大いなる斗(はかり)の弁(わきまえ)。大いなる認識が人間の想像力が許す限り、どこまでも適用され発展していく。右回りの展開する螺旋。とりとめのない想像。めくるめく妄想でラリる。多神教。
肥の国(健日向日豊久士比泥別)
【ヒ】 於母陀琉の神(おもだるのかみ)…於母陀琉=面足(おもだる)で表面に完成する。ひらめく働き。名状しがたきものの正体(名)が日の光の下に晒される。あるいは重くてだるい。母が惰性に流される。肥満(自己肥大)。知性より感情によって動く。
【ニ】 阿夜訶志古泥の神(あやかしこねのかみ)…阿夜訶志古泥=奇(あや)に畏(かしこ)き音(ね)。奇妙で畏れ多き古き泥。煮詰める働き。どろどろとした名状しがたきもの(なめくじ)が心の裏で育っていく。

後天構造
三十二子音と神代表音文字一文字、合わせて三十三言霊。先天構造はまだ現象に現れない、まだ意識さえされない潜在意識の奥の出来事であるが、後天構造は現象として意識の上に現れている出来事である。

子音
子音は現象の最小単位である。フ、モ、ハ、ヌの四言霊を神名(かな)、それ以外の子音二十八言霊を真名(まな)という。現象が生まれてくる順序がそのまま三十二子音そのものをも表している。言霊が現象の最小単位にして宇宙の最終要素であるからこそ成し得るこの無駄のない精妙さを「言霊の幸倍へ」という。

津島(天の狭手依比売)
【タ】 大事忍男の神(おおことおしをのかみ)
【ト】 石土毘古の神(いはつちひこのかみ)
【ヨ】 石巣比売の神(いはすひめのかみ)
【ツ】 大戸日別の神(おほとひわけのかみ)
【テ】 天の吹男の神(あめのふきをのかみ)
【ヤ】 大屋毘古の神(おほやひこのかみ)
【ユ】 風木津別の忍男の神(かざもつわけのおしをのかみ)
【エ】 海の神名は大綿津見の神(おほわたつみのかみ)
【ケ】 水戸の神名は速秋津日子の神(はやあきつひこのかみ)
【メ】 水戸の神名は速秋津比売の神(あやあきつひめのかみ)
佐渡の島
【ク】 沫那芸の神(あわなぎのかみ)
【ム】 沫那美の神(あわなみのかみ)
【ス】 頬那芸の神(つらなぎのかみ)
【ル】 頬那美の神(つらなみのかみ)
【ソ】 天の水分の神(あめのみくまりのかみ)
【セ】 国の水分の神(くにのみくまりのかみ)
【ホ】 天の久比奢母智の神(あめのくひざもちのかみ)
【ヘ】 国の久比奢母智の神(くにのくひざもちのかみ)
大倭豊秋津の島(天津御虚空豊秋津根別)
【フ】 風の神名は志那津比古の神(しなつひこのかみ)
【モ】 木の神名は久久能智の神(くくのちのかみ)
【ハ】 山の神名は大山津見の神(おほやまつみのかみ)
【ヌ】 野の神名は鹿屋野比売の神(かやのひめのかみ)
【ラ】 天の狭土の神(あめのさつちのかみ)
【サ】 国の狭土の神(くにのさつちのかみ)
【ロ】 天の狭霧の神(あめのさぎりのかみ)
【レ】 国の狭霧の神(くにのさぎりのかみ)
【ノ】 天の闇戸の神(あめのくらどのかみ)
【ネ】 国の闇戸の神(くにのくらどのかみ)
【カ】 大戸或子の神(おほとまどひこのかみ)
【マ】 大戸或女の神(おほとまどひめのかみ)
【ナ】 鳥の石楠船の神(とりのいはくすふねのかみ)
【コ】 大宣都比売の神(おほげつひめのかみ)

神代表音文字
最後の言霊ンは文字のことである。

【ン】 火之夜芸速男の神(ほのやぎはやをのかみ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2009年8月23日 (日)

大地や自然に「ともに生きる」

シャーマンが受け取る未来予知や神示は「このまま行くとこうなるから軌道修正しなさい」という意味がこめられているという。
☆巫女&心理カウンセラー・キョーコ☆さんが、ついに神示を公開された。
問題はわれわれが思考停止しているために、起きる出来事を引き受ける覚悟がないこと。
何を選ぶのか、どういう社会にしたいのか?

神示 1
 8月初旬、降りてきた神示を公開します。
 8月後半 9月初旬、9月後半 
 東北・関東・東南海、 日本海側一部
 M8.4  M7.9 
 私たちが今のまま何も変わらなければ予知どうり地震が起きる可能性は高い。

 冷静に考えれば浜岡原発のある東南海地方にM8クラスの地震がくればどうなるか想像はつく。原発震災を甘んじて受け入れる覚悟があるならそれもよし。それが嫌なら、代替エネルギーをどうするのか、電力のない社会に戻るか、あるいは第三の活路を見出すか。

神示2 「ともに生きる」
 北アルプス穂高。
 富士山

 北アルプス、南アルプスはフォッサマグナの西縁の境界面にあたる糸魚川ー静岡構造線に沿った火山帯。富士山はご存知のとおりフォッサマグナの中央を走る火山帯です。どちらも日本全国で起きている一連の地殻変動の鍵を握る場所のひとつ。

 自然界は人間もふくめて、この星に住むすべての命の調和を望んでいるんだよね。 
 心を開いて、愛をもって受け入れる。するとそれまで荒れ狂っていたエネルギーがすっと鎮まって、ゆたかな包容力に満ちたエネルギーにかわる。

 これは新型インフルエンザにも効くよ。
 普通に手洗いやうがい、食事などの健康管理は当たり前。そのうえで、恐れるのでも、根拠もなく楽観視するのでもなく、愛をもって受け入れる気持ちをもつ。
「あなたも一生懸命生きているんだよね。ありがとう」
 目に見えないウイルスに優しいまなざしをもって、それをぎゅっと抱きしめるような感じ。客観的に情報を眺めたうえで、どんとかまえて笑ってしまおう。 

ヒーリングソウル
http://lutera.org/  2009年08月22日 より抜粋

 一部のシャーマンが神事をする時代はもう終わったという明確なメッセージが伝わってきたという。いま必要なのはひとりでも多くの方が大地や自然に「ともに生きる」という意志を伝えてゆく時期にあるらしい。自然に対しての恐れや不安、まして制御しようなんて思ってはならない。森を壊す者たちは恐怖する心を植えつけたがる。地獄図を見せて拝金させる。
人が作り上げた偶像や仏像へ自分が救われたいと願うことよりも、目の前にある日常の樹や草木、踏みしめる道、蝉や風などすべての自然に対して感謝と共存を望むことだろう。

「ありがとうございます」は一文字が言霊の意味があります。
「あ」・・・・・・(絶対・本源・・光源・光)
「り」・・・・・・(螺旋状に放射し組合わされる)
「が」・・・・・・(輝き・無限に輝く)
「とう」・・・・・(全てが組合わさり、大調和する)
「ご」・・・・・・(凝り固まり、物質化する)
「ざ」・・・・・・(光・命がさらさら流れる)
「い」・・・・・・(命が輝いている)
「ま」・・・・・・(完全、完璧)
「す」・・・・・・(絶対に戻る)
「ます」・・・・(増す)

口にするだけで意識するしないに関わらず
「ありがとうござすます」の言霊の力は放射される。

2009年8月21日 (金)

ニートの高齢化が問題になっている

【社会】 ニート、高齢化…両親が病に倒れたり亡くなったりで、家族崩壊に陥るケースも
・さまざまな原因で求職活動をしないニートに、“高齢化”の兆しが見られる。両親に経済的な支援を頼りながら生活し続けるうちに30代後半~40代に突入してしまい、今度は両親が病に倒れ、家族が崩壊寸前に陥るケースも出始めている。厚生労働省は今春、ニート支援の対象年齢を35歳から40歳までに引き上げ、中年層ニートへの対策を模索し始めた。
 千葉県船橋市の荒井均さん(41)は、ニート歴が約20年と長かった。
 「高校受験に失敗し、自分の部屋に引きこもるようになった」という均さん。戦車などの軍事関係には興味があるものの、友人はおらず孤立化していた。
 両親は均さんを心配し、何度も働くよう促してきた。しかし、均さんは生活を変えられなかった。
 両親は均さんに、部屋や3食の食事の提供など生活支援もし続けてきたが、母は平成4年にがんで死亡。
 18年には父がやはりがんで寝たきりになり、間もなく他界した。

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まぁ、ニートなんてのは昔からいたんだよ。昔は「ぶらぶら病い」と呼んだり、「花嫁修業」とか「家事手伝い」とか言って騙していたんだが、つうか、カネに困らなきゃ働かなくても誰も何も言わなかったんだが、いつしか世の中が「健康なオトナは全員働くべし」みたいな労働中毒社会になってしまって、働かないヤツは非国民扱いです。で、若いうちに「働く癖」を身につけておかないと、一生ニートのままなので、ニートの高齢化が問題になっているというんだが、40台でニートなんて、もう一生ニートですね。
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2009/08/post_abfc.html#more

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高度産業成長期で過ごした親を持つニート世代には、働けない「問題」が益々解かりにくくなっているのも事実。しかし解決しなければならないのは自分しか出来ないのは、生きるうえでの一つの試練です。困難という新しいトラップの意味が用意されている訳がある。「働くこと」をする「場」と「人」を探し求めるのは、生きるうえでの重大な行為であろう。これらは学校の世界では学びとることも実践することも出来ない。「場」は現実であり、「人」は変転して生きているから、「働くこと」へ学び方を覚えなくてはならない試練だ。
乗り越えなければならない試練が多いのは、高次元への魂が求められている試練からだと感じる。若いうちに「働くこと」を身につけておかないと、ニートの高齢化が問題になるのも現実である。それらを解決に導きがたい親世代の試練が老後に待ち受けている。

2009年8月19日 (水)

若者は待ち時間「忍耐強い」傾向

待ち時間 忍耐力調査、若者は「忍耐強い」傾向が明らかに

 NEXCO東日本関東支社は、全国の20代~50代の男女512名を対象に、ゴールデンウィークなど人出が多くなる時期の“待ち時間”をテーマとした「待ち時間 忍耐力調査」を実施した。食事や買い物などの順番待ちの行列、さらには交通渋滞と、“並ぶ機会”が増える行楽シーズンを前に、世代別の忍耐力を探るもの。その結果、欲しい物のために70分待てる20代と、30分が限界の50代という忍耐の差が明らかになった。

 なおこの発表は、「渋滞は、渋滞予測を確認して出発時刻などを調整することにより、回避できる」ことを知らせるため、交通渋滞など“並ぶ”ことに対する「忍耐力」について調査した結果を紹介し、交通渋滞を回避する方法に興味を持ってもらうために行ったもの。

 欲しいものや食べたいものに対する待ち時間で、50代に比べ、20代は忍耐強い傾向が明らかになった。歳を重ねるごとに忍耐力も強くなると思われがちだが、予想を反して「手に入れたい」という欲望の強い若者の方が忍耐強いようだ。

 欲しい物のための待ち時間は、若者のほうが長い傾向にある。20代の平均が69分と最も長く、50代では29分という結果となった。並ばないと回答した人が50代では27.3%と3割近くに上ることがわかった。対する20代は9.4%と、欲しいもののためであれば、長時間待つこともいとわないことがわかった。

 飲食店での待ち時間は、50代の1/4近くは並ばないことがわかった。平均待ち時間が29分の20代に対し、50代は18分と短い傾向が見られた。特に50代の25.8%は並ばないと答え、4人に1人は並ばないことがわかった。20代では11.7%と低く、ここでも並ぶことをためらわない若者の傾向が読み取れる。

 忍耐強い20代は計画なしで出発ことも明らかになった。渋滞時の忍耐力に世代間の大きな変化は見られず、多くの人にとってストレスの原因となっているようだ。渋滞を避けるため事前に計画を立てるのは30代、40代、50代が25%前後とほぼ横並びであるのに対し、20代は14.1%と計画をせずに出発する傾向が見られた。イライラするものの我慢できる忍耐力を持っているからだろうか。

 NEXCO東日本が運営する高速道路情報サイト「ドラぷら」では、「渋滞予報カレンダー」を掲載している。利用の日を指定すると、どの路線の、どの区間で、どれくらい渋滞が発生するのか、その時間帯は何時ころで、通過にどれくらいかかるのかなど、渋滞予測情報を確認することが可能だ。出発時刻を調整することや、渋滞発生箇所手前のSA・PAでの休憩計画を立てる際の参考になるサイトとなっている。

東日本高速道路=http://www.e-nexco.co.jp/
ドラぷら=http://www.driveplaza.com/

「待つ」のは忍耐強いというよりも、能動的ではない行為という要素がある。受動的になるように管理された世代なのか、能動的に判断をして生きてきた世代という一面もあると思う。
とても忍耐強い賢い犬だって、わんわんと目の前にある食事には能動的な態度を取ります。

2009年8月17日 (月)

美学校 (Wikipedia)

美學校(びがっこう)とは、 1969年(昭和44年)2月、現代思潮社(出版社)の川仁宏らによって創立された東京神田神保町にある美術・芸術の専門学校。

創立以来の講師陣には、中西夏之、加納光於、赤瀬川原平、松沢宥などの美術家のほか、笠井叡(舞踊家)、鈴木清順(映画監督)、木村威夫(映画美術監督)、小杉武久(音楽家)、松山俊太郎(インド哲学)、澁澤龍彦(作家・評論家)、唐十郎(舞台俳優・演出家)など多彩な人物が教壇に立った。

特に赤瀬川原平が、創設以来長年に渡って講義をした「絵・文字工房」は、赤瀬川のその折々の興味の対象を講義する人気の教室で、平口広美、南伸坊、渡辺和博、泉昌之(泉晴紀/久住昌之)、森伸之など、多くの人物を輩出した。

その他にも、平出隆、林英哲、村上龍、佐野史郎、浜津守、末井昭、浅生ハルミン、長谷川貴子らも出身者。

Bigakkool Bigakkou

1975年(昭和50年)に現代思潮社から独立。現在は会田誠を初めとする昭和40年会のメンバーなども教えている。最近では、1回ごとに金額を払う「パーソナルLab」コースも開設されている。

ただし、2004年3月25日の朝日新聞の記事によると、ここ数年は新入生は50人を切り続けており、それによる赤字は第1期卒業生である、代表の藤川公三(2000年から今泉省彦の辞任にともない、代表に)が個人で負担しているという。

また、「映画美学校」とは無関係である。

ギグメンタ2008-美学校1969年の現在展(70年代から現在までにつながる「美学校文化」を見渡す初の試み) 2008年4月1日(火)〜15日(火)11:00〜20:00 会場:アートコンプレックスセンター 企画:美学校1969年の現在・実行委員会
参加作家:赤瀬川原平、みうらじゅん、根本敬、泉靖紀、平口広美、久住昌之、南伸坊、町田久美、室伏鴻、会田誠、小林嵯峨、細江英公、黒田育世、間島秀徳、大野慶人、土方巽、白土三平、中村宏、中西夏之、亀村佳宏、森下隆、松澤宥、GROUPE DU VENT(風組)、野口暁、赤土類、para ROUND(伊丹裕+中村祥士)、サエグサユキオ、TOPPER、王×児×狼×(ill existence)、御厨貴、内海信彦、ホシノマサハル、久住卓也、佐々木良枝、文井秋、荒井良二、メチクロ、韮沢靖、植地毅、相馬大、もとはし遥、小野のん子、田尻麻里子、中西美穂、谷川まり、涓東節江、蔭山ヅル、イトー・ターリ、山岡佐紀子、井上玲、ほか

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

美学校 http://www.bigakko.jp/

2009年8月16日 (日)

反芸術綺談 菊畑 茂久馬

(海鳥社)

1950年代末から60年にかけて日本列島を駆け抜けた反芸術の嵐は何だったのか。「反芸術の旗手」が九州派、そして自らの芸術活動を振り返る痛烈なるドキュメント。

Hangeijutsu 目次
まえせつ
青の時代
手弁当芸術
放課後の芸術
最後の人間芸術
腕力と芸術
反芸術風結婚式
芸術の吸血鬼たち
反芸術風舞台装置
蜘蛛之巣城物語
動向展顛末記
美学校物語
作兵衛翁江戸日記

菊畑茂久馬さんは美学校の講師であられた。描写絵画教場のために、九州から毎週こられていた。戦後の前衛美術家たちの中でも先鋭的な活動をされているけれど、実際に会って話していて独特の視点を持たれていることに感動した。「物と向き合い思索と試行を繰り返す中から、常にその新たな可能性に挑み続ける」エネルギーはとてつもないものだ。オブジェ以降の大作「天河」のシリーズには圧倒されます。

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菊畑茂久馬 きくはた‐もくま 「講談社 日本人名大辞典」
昭和後期-平成時代の美術家。昭和10年3月3日生まれ。前衛美術家集団「九州派」にくわわり、読売アンデパンダン展などに出品。昭和36年現代美術の実験展で「奴隷系図」が注目される。オブジェ制作のほか、著述活動など多彩な領域で活躍。45年東京の私塾「美学校」講師。長崎県出身。福岡中央高卒。作品に「天動説」「天河」のシリーズなど。著作に「フジタよ眠れ」など。
 
「平凡ではない人生、ひょっとしたら自らが平凡ではなくしたのかもしれない人生の襞が、強烈な自我を生み、精神を形成し、確固たる芸術を生むと、改めて教えられた。」
http://art-v.jp/tenpyo/sakka/kagyou/kikuhata.html より

2009年8月15日 (土)

『機關』特集と取り組んで 菊畑茂久馬

『機關17 針生一郎特集』 機關編集委員会 編

2001年8月27日「毎日新聞」夕刊(文化 批評と表現)
菊畑茂久馬氏の論文より

 針生一郎と戦後美術批評――『機關』特集と取り組んで
 美術雑誌『機關』17号が、美術評論家特集の第一弾として、針生一郎を取り上げている。内容は、針生自身が推敲(すいこう)を重ねて書き上げた75年に及ぶ長大な年譜を全文掲載し、それを受けて菊畑が針生との対話で行間を聞き取りながら、さらに年譜を補綴(ほてい)している。冊子の大半を、ひたすら針生の足跡の記録と肉声の聞き取り調査に費やしている。また評論家の高島直之氏が、針生の長い批評活動の経緯を踏まえながら、主要な問題点の解読と、その因って来たる思想の原点を剔出(てきしゅつ)している。
 『機關』は、当初からの編集方針通り、1960年代の同時代史の編纂を進めてきたが、すでに数人の作家特集を終えて、今号から美術評論家特集に移った。いずれも時局的な現場の論議は極力避けて、当時の隠れた足跡や、貴重な証言を記録することにつとめてきた。
 さて、今号の針生特集であるが、戦後美術批評を成らしめている中核は、言うまでもなく「運動論」であるが、その意味で針生一郎は避けて通れない大きな支柱であることは異論のないところであろう。特に50、60年代の日本の戦後美術や文学における芸術運動を領導し続けた業績は突出していて、この事実はつとに広く知られるところである。にも関わらず、針生研究の基礎資料は皆無と言ってよい。今回の特集が、微力でもその一助になるなら、甲斐ありというものである。
 かつて敗戦後の混沌とした芸術状況を出自として、運動論の火種を懐に、幾多のいくさ場を駆けた荒武者の針生だが、今も眼光は鋭く老騏(ろうき)の趣を漂わせている。皇国史観に染まった青年期から、左翼運動の闘士として、政治と芸術の統合を夢見て、アヴァンギャルド芸術論を楯に、リアリズム芸術へ、さらにドキュメンタリー芸術へと突き進んだ革新の苦闘の道のりは、単に美術批評のわくを越えて、戦後を生きた一人の誠実な知識人の歩みとしても、戦後思想史の貴重な収穫であろう。
 福沢一郎、鶴岡政男、岡本太郎、そして、ヨーゼフ・ボイスから、アンゼルム・キーファー、ハンス・ハーケ、ラインハルト・サビエと貫通する針生の重量級の批評の実践は、今日の迎合的なポピュリズムに足を取られた美術批評に、いずれ大きな風穴をあけて底力を発揮してくるはずである。本刷寸前に届いた「芸術と人権」の論文も「抑圧された人々と重なる表現」と、依然として社会的主題を手放そうとしない。今日の風潮からすれば、彼は相当な頑固変人と映るだろうが、梃子(てこ)でも動かぬ人がいるから時代が透けて見える。「ハリューは面白い」と、若者たちが新鮮な感覚で研究を進める日はやがてやって来る。
 ところで、『機關』という雑誌は、当初『形象』と名づけられ、58年に高校の教師を中心とした文学同人誌として始まった。やがて「美術をめぐる思想と評論」という副題がつけられ、9号から『機關』と改名し、徐々に当時の若い先鋭的な画家たちの論陣の拠点となっていった。以後60年安保をはさむ66年の10号まで、当時の沸騰した社会状況に果敢に表現論をスパークさせ「大胆にも突出した部分と、不当に遺棄された部分、すなわち美術のコンヴェンションを出はずれた部分へ、泰然と、かつ過敏にかかわりつづけた」(川仁宏)のである。
 その後10号を最後に、いわゆる万博の70年代を迎えるに及んで長い休刊が続いた。丁度その頃、小冊子でいいから60年代の芸術動向を記録する同時代史誌を作りたいと思っていた。そんな時に、そんなら『機關』の復刊をしてみないかと声がかかった。そこで13年振りに復刊したのが、80年刊の今泉省彦特集である。以後、風倉匠、松澤宥、赤瀬川源平、中村宏、森山安英と続き、今回の針生一郎特集が7冊目である。『形象』1号から数えると43年、復刊して21年、年輪だけは名門である。
 半世紀になんなんとするこの美術雑誌の命脈を支えているのは今泉省彦である。かつて現代思潮社にいた編集のプロの今泉が、すべての労を背負っている。刊行のたびに、たくさんの人達の無償の協力が続いているのは、今泉の人柄に負うところが多い。この場を借りてお礼を申し上げたい。今泉も私もいつの間にか老人になってしまった。この雑誌は誰のものでもないのだから、この辺りで次の人にバトンを渡す時がやって来たと二人共思っている。(きくはた・もくま=画家)

2009年8月13日 (木)

『機關17 針生一郎特集』 書評

『機關17 針生一郎特集』 機關編集委員会 編

2001年7月21日「朝日新聞」夕刊
「ほん 郷土へ・郷土から」コーナーより

 50年代、60年代の日本の戦後美術・文学界の芸術運動を領導し、現在も世界を視野に変革への実践活動を続ける評論家針生一郎の全軌跡がまとまった。自筆の詳細な34頁に及ぶ年譜は、記録もだが読み物としても面白い。福岡在住の画家菊畑茂久馬との対談が、年譜の行間を補っている。
 針生の足跡を知るには欠かせない本が、福岡で出版されたのは、前衛芸術グループ「九州派」との縁である。地方でと言うべきか、地方だからと言うべきか、をおいても全国的に貴重だ。針生を取り上げると決めたのが91年、対談が98年12月、生まれ落ちる時間の長さが、すごい。

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01年8月27日「読売新聞」夕刊

「機關」17号が批評家の針生一郎を特集している、針生は戦後美術を語るうえで欠かせない批評家であり、九州派など福岡の美術運動にもかかわりが深い。美術の一九六〇年代を検証しようと、これまで毎号一人ずつ美術家を取り上げてきたこの雑誌が批評家を特集するにあたり、最初に針生を選んだのは順当な人選と言えるだろう。
 学生時代、歌詠みの皇国青年だった針生が敗戦による価値観の崩壊を経験し、新たな価値基準を模索する過程で美術に出合った経緯はよく知られている、その意味で、針生は典型的な「戦後」的批評家だということができる。
 七〇年代以降の大衆社会状況を迎えて、戦後思想の有効性が見失われていった中で、針生は「戦後」という思想的課題のアクチュアリティーを現在もなお信じて疑わないかに見える。そのようなある種愚直な姿勢は若い世代の目に時に頑迷な批評家として映るらしいが、その辺りがまた針生の独特の魅力であることも確かだろう。
 その思想的課題とは「戦争中の『滅私奉公』のスローガンにいわれた天皇や国家としての『公』ではなく、むろん商品市場のメカニズムともちがう、民衆の内的規律としての公共性の基準」(「『芸術と人権』の構想」)を探ることであったとおおむね理解してよいようだ。
 そのような針生の目に、六〇年代までの美術運動論の命脈がほとんど絶たれてしまった観のある七〇年代以降の美術はどのように見えていたか。「わたしは1970年以降、主として外国の芸術家の作品に注目して内的な訴えを満たしてきた」(同)という述懐は痛切である。
 海鳥社が版元を引き継いだ11号以来、この雑誌は毎号全編を一作家の特集に充て、福岡市の画家菊畑茂久馬氏と特集作家との対談をメーンの記事に据えてきた。そもそも「六〇年代の検証」というテーマ自体、菊畑氏の提案によるもので、それは「おおきに七〇年・八〇年代の美術が腑に落ちないということを踏まえてのことだった」(今泉省彦「後記」)らしい。
 自分たちがかかわった六〇年代の美術運動とは一体何だったのか。そのような思いは針生と菊畑氏とに共通のものだったのだろう、二人は対談で政治と芸術、戦争画、前衛の行方といった主題をめぐって論じながら、七〇年代のある時期を境にした二つの美術の光景に脈絡を与えようと苦心しているようにも見える。
 むろん六〇年代の総括とそれを踏まえた現在の立場において、二人の間には明らかな相違がある。菊畑氏が美術運動に言わば見切りをつけて、個的な制作の世界に沈潜していったのに対し、針生は依然運動論を手放していない様子だ。「『芸術と人権』の構想」からは針生が七〇年代以降の状況の変化を踏まえた新しく柔軟な運動論の可能性をつかんでいるらしいことが読み取れる。
 評論家高島直之氏の論文は針生の批評の原点に迫っており、新たに書き下ろされた自筆年譜は資料として貴重だ。(人)

2009年8月11日 (火)

美術雑誌『機關』の復刊

「機關」 11号 今泉 省彦 特集 ¥1,600円(税込)
 1980年1月31日発行

 ●対談 「形象」「機関」のころ 今泉省彦-菊畑茂久馬
 ●今泉省彦論文集 1953~1975
 ●今泉省彦自筆年譜

 「機關」 12号 風倉 匠 特集 ¥1,600円(税込)
 1981年5月29日発行

 ●なぜ風倉か 「機關」編集委員会
 ●対談 ハプナーの軌跡 風倉匠―菊畑茂久馬 
 ●風の倉・アドバルーン 赤瀬川原平
 ●風を喰って走る風船 刀根康尚 
 ●風倉匠論 今泉省彦 
 ●風倉匠年譜 


 「機關」 13号 松沢 宥 特集 ¥1,600円(税込)
 1982年9月25日発行

 ●松澤宥について 今泉省彦
 ●対談 プサイの函の中で 松澤宥-菊畑茂久馬
 ●松澤宥自筆年譜
 ●資料 制作全年表 参考文献目録

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 「機關」 14号 赤瀬川 原平 特集 ¥1,600円(税込)
 1987年1月3日発行

 ●赤瀬川原平 今泉省彦
 ●対談 あいまいな海の上で 赤瀬川原平-菊畑茂久馬
 ●赤瀬川原平 中西夏之
 ●赤瀬川原平と60年代美術 高島直之
 ●ヴァギナの周囲をめぐりて-美術家赤瀬川原型論- ヨシダ・ヨシエ
 ●ことばを持った絵描き 赤瀬川原平ー尾辻克彦 池田龍雄
 ●赤瀬川原平自筆年譜
 ●「千円札裁判」関連文献目録 赤塚行雄編

  「機關」 15号 中村 宏 特集 ¥1,600円(税込)
 1990年4月15日発行

 ●中村宏のこと 今泉省彦
 ●対談 政治・タブロー・自己批判 中村宏-菊畑茂久馬
 ●タブローは死滅しない 三田晴夫
 ●内視鏡からの視点 尾崎眞人
 ●中村宏自筆年譜

 「機關」 16号 「集団蜘蛛」と森山安英 特集 ¥1,785円(税込)
 1999年8月30日発行

 ●「集団蜘蛛」のこと 今泉省彦
 ●対談 蜘蛛の巣の上で 森山安英-菊畑茂久馬
 ●森山安英自筆年譜
 ●資料Ⅰ 肉体と言語の間で 働 正
 ●資料Ⅱ 権力に拮抗する私的DISCOVER JAPAN
        または「観光」への誘い 森山安英
 ●資料Ⅲ 集団蜘蛛とその崇高な愚行 黒田雷児
 ●資料Ⅳ 「集団蜘蛛」年譜 黒田雷児編

 「機關」 17号 針生 一郎 特集 ¥1,785円(税込)
 2001年6月28日発行

 ●針生一郎について 今泉省彦
 ●形式ヒューマニズムから民衆的カオスへ
   針生一郎の批評的原点について  高島直之
 ●対談 リアリズムの大海にて 針生一郎-菊畑茂久馬
   対談後記/菊畑茂久馬
   対談後記/針生一郎
 ●針生一郎自筆年譜
 ●「芸術と人権」の構想 針生一郎

http://www.gallery-58.com/06kazakura-kikantokushu.html

2009年8月 9日 (日)

直接行動の兆 I <形象8号>

直接行動の兆 I <形象8号>

 セザンヌ以来、展覧会の壁面を拒まれることは画家の光栄であった。落選者展覧会からアンデパンダン展に至るこれへの参加者は、おのれの栄光を信じ得た。しかるに壁面を拒まれることが至難となった二十世紀後半に至っては、もはやアンデパンダン展参加そのものが先験的に画家の光栄であることはなくなった。アンデパンダン展が反画壇であるとするならば、壁面を拒まれることの至難な画壇に対して反措定としてある意味をアンデパンダン展は失ったといわねばならぬのであって、運動の半径が美術運動の内径としてあるかぎり、アンデパンダン展は画壇の無原則性の増大とともに死に至るのである。従って血路はあきらかであり、それは美術運動の内径からアンデパンダン展が総体として出はずれることである。ではその方法はどうか。
 朝日ジャーナル3月17日号のオブジエの集積と題したアンデパンダン展評はスキヤンダリズムの全面的後退とそれにかわるオブジエの集積による造形研究の方法の意識的利用の登場といゝ、このダダ的傾向の後退は都美術館側の禁止条項というまったく外的な事情に由来したものに違いないといっている。一方芸術新潮4月号は読売アンデパンダンの末期と題し、このところ低調で悪評サクサクのそれはいよいよイケナイ段階に突入したらしいといゝ、反美術・反芸術の牙城も15年たつと老いさらばえて、無惨な老醜をさらけだしたと述べ、これに拍車をかけたのは今年から主催者と美術館とで取りきめた陳列作品規格基準だとしている。そしてこの基準で気勢をそがれた血気にはやる若者が初日の3月2日にささやかな抵抗ショーを演じたがすでに手遅れであり、展覧会そのものがダメになっているのだからどうしようもないのだと書いている。このふたつの無署名欄は誰が担当しているのか知らぬが、いずれもスキヤンダリズムの後退と、その外在因として陳列作品規格基準をあげている点で共通している。さらに、美術館側から提示された出品作品規格基準が読売アンデパンダン展に与えた影響の重大さに触れながら、このアンデパンダン展の変質についてなんらの痛みも感じていないらしくみえる展でもその伏床を同じくしているようだ。そしてさらにこのキバを抜かれた狼は大人しくオブジエの積木遊びを楽しんでいると思い込んでいる点でも又そうである。
 これらの批評の力点は本質において狂っている。他の公募点に対する批評なら充分に通用する批評の態度が、こゝでは効能がないということに彼等は気付かない。中西夏之の作品ひとつとりあげても、彼の作品は好評で、どの批評にも必ず眼についた作品としてあげられているようだが、例えば朝日ジャーナルはオブジエの集積という点でしかみていないし、芸術新潮でも又、その荷いもっている諸他の作品とは異質な性格に気付いてはいないのだ。私の読んだかぎりにおいて、その作品が平たくクリツプの密集したタブローとしてではなく、正しくその表題通りに攪拌行動を誘発するものとして記述しているのは、自分でも面白がって攪拌行動に手をそえた中原祐介たゞひとりなのであって、このように出品者に加担する姿勢があればこそ事件を痛みとしてとらえ、その文章が無責任な先鋭主義などというあんまり正体のはっきりしない言葉で始り、そして結んでいるにしても、作品の内容に及ぶ規定は除去すべきだという提言を含み得ているのである。諸他の展覧会は作品の空間的な、スタテイツクな配置のなかをひっそりと歩き廻ってひとわたりみてしまえばそれであやまりなく問題点を抉出することが出来るだろうが、読売アンデパンダン展にはもうひとつのモメント、即ち時間を加算しなければこの展覧会をとらえたことにはならないということを、少なくとも二年前には気付いていないならば、そもそもこの展覧会を批評する能力はないのである。出品者は商売になっちゃいないのだ。朝日ジャーナル、芸術新潮の無署名氏よ、たかの知れた小遣いかせぎにいゝ加減な批評を書くのはやめたまえ。
 ついでながら芸術新潮無署名氏のそれは世評の尻馬に乗って軽率な点では群を抜いていると申しそえておこう。こゝのところ低調で悪評サクサクであったと書いているが、こゝのところとはこの二、三年ということであるはずだが、ところが美術館が直接読売アンデパンダン展を目標にして作った基準であるという処の6項目が、同時にこの展覧会を特徴づけていた要素であると無署名氏はいっているのであり、それが去年でも一昨年でもなく、今年になって提示されたということの意味を君はどうみるのか、君にとってアンデパンダン展を特徴づけていたものが今回規制されたということは、少なくとも去年のアンデパンダン展は君の規定によればアンデパンダン展として低調ではなかったはずではないのか。さらに、反美術・反芸術の牙城も15年たつとさすがに老いさらばえてと書いているが、読売アンデパンダン展は15年前から反美術・反芸術の牙城であったなどというのはうそであり、15年来、この展覧会ははなはだしく美術的であり、芸術的であったのではないのか。そしてその上に、現代美術の問題につながるものは影をひそめたと書いているが、実は今回こそ、その問題につながるものが現れたのだ。即ち、私が会期直前に前年の出品者にあてゝ送付し、形象7号にも貼付したアピールにあるように、1963年の読売アンデパンダン展をみずから演ずる処の告別式としてとらえ、反美術・反芸術などという美術論の範囲にとどまらぬ可能性をはらんだ処の徹底したスキヤンダリストの登場である。以下簡単に空間的な作品の配置を眺めただけではとらえることの出来ぬ側面についてふれておこう。
 多分時間派の連中だと思うが、血気にはやる若者が初日の美術館正面の石段で演じた抵抗シヨーについては芸術新潮がすでに述べているが、彼等は美術館側の通告によって警察に拉致され、まず警察権介入の途を開いたこと。さらにこれはあまり面白くないが後日幽鬼のごとく館内をさまよい歩いてみせたこと。及び三木多聞が美術手帖の月評でとりあげているが、浜口富治が美術館の陳列作品規格基準に抗議して同じ初日に美術館前で作品陳列していることについて、時間的経過としてはふれておかねばならぬのだが、更に3月10日名古屋の加藤好弘達によるメタフイジカル、エロチシズム入滅式なる恐ろしく退屈な儀式が第4室でおこなわれた同じ時期に、高松次郎出品のカーテンに関する反実在性についてと題して、室の中央に横たわっていた黒い思辯的な紐が、なにものかの手によって反転出口を求めて朔行し、さらにその先端にジヨイントされた白い細い紐が部屋々々を横切って受付の前を通り、美術館正面の石段を駆け降り、噴水をなゝめにつっきり、林の中で紆余曲折したあげく西洋美術館と文化会館の間を通りぬけ、上野公園口に入り込み、レールによって日本全土に到達しようという、紐の持つ即自的要求にふさわしい事件があり、それが翌日に至って足元のふたしかな通行人を転倒せしめるという新たな事件を呼び、警察官がこのふとどきな紐をたどって遂に美術館に導き入れられ、美術館に対して撤去要求を出し、あわてふためいた美術館側はこの紐が読売アンデパンダン展の会場に入り込んでいるのを確認し、読売アンデパンダン展の役員に抗議し、読売アンデパンダン展の役員に抗議し、読売アンデパンダン展はさて誰がやったことか見当がつかず、たまたま居合わせた篠原有司男が仕方なく上野公園を駆け廻って紐を片付けて廻るという始末となり同じ10日休憩室と並んだ階段前のフロアでのグループ音楽の小杉武久、風倉匠による演奏は密告されて展覧会事務所で読売側係員と対決するという事態を生じ、会期末の15日、篠原有司男が駆けまわって片付けた紐の軌跡をなぞって黒枠告別式会場案内の手刷りのビラがまかれ、美術館正面石段右脇の大看板が第15回読売アンデパンダン展死すと大書されるに至るのであるが、これらの諸事件が執拗にばらまかれつづける赤瀬川原平のにせ札と、中西夏之のクリツプの、中原祐介いう処のいわば会場全体がイオネスコふうともみえる反応の展開する可能性をはらみつゝゆらめくのを背景としながらくりひろげられていたのである。
 なかんずく諸事件中白眉をなす小杉武久、風倉匠の掘り起こした問題についてはことこまかに記録する必要があるのである。その議論は整理するとこうである。(読売側をAとし、小杉、風倉側をBとする)。
 小杉武久については、
A 出品作品と関係のないことをしてもらっては困る、しかもその場所は読売が美術館から借りた場所ではない。
B 自分が袋に入って演奏するということが全体として作品なのであって、これは出品作品なのだ。
A それが作品だということは認める、しかし陳列委員会で決定した場所があるのだからそこでやって欲しい、動いてもらってはまずい。
B 動き廻らなければ意味のない作品なのだからそういわれても困る、定められた陳列場とは演奏の道具を掛けておく場所であってそれだけでは作品ではないのだ。
A 作品は動いては困るのだ、陳列日に陳列した位置に他人の作品が並んでいるといって苦情が沢山きている、勝手に他人の作品を動かす例があってこういうことは問題なのだ。
B それは全然性質が違う、こっちは人の作品を動かしてはいない、とにかくこういう作品を受付けたのだからいまになって駄目だというのは筋が通らぬ。
A 受付に際してこういう作品だということは分からなかった。
B それはおかしい、今回はきびしい規定があるようだが、そのどこにも動く作品はいけないとは書いてないではないか、一体どういう権限で駄目だというのか。
A 主催者としてだ。
B 主催者とは読売新聞社としてか。
A そうだ。
B 運営委員会はなんのためにあるのか、運営委員会がある以上、主催者がなんであろうと規定にない問題が生じた場合にはそれに計った上でのぞむべきではないか。
A 運営委員会には決定権がない。
B 決定権のない運営委員会とはなにものか、読売アンデパンダン展にとっての運営委員会とは諮問機関のことか。
A そうだ。
B それならそれで諮問委員会とちゃんと名乗りたまえ。諮問委員会ならそこがどう答申しようととにかくそこに諮問する責任が読売にあるはずだ、早速それを召集したまえ。
A それは出来ない、あなた達が自由に作品発表の出来る場所はこゝしかないのだ、これがつぶれてしまってはあなた達は困るだろう、読売内部でもアンデパンダン展には反対の空気が強いのだ、今回は会場の割り当てもあゝして減らされているのを知っているだろう、アンデパンダン展はつぶれちまいますよ、自重してくれないか。
B 会場が減らされたのは吾々が勝手なことをやって騒ぐからだというのか、それは美術館側に確認したのか。
A それは分からない。
B なぜ減らされたかを聞いていないのか。
A いない。
B そんな無責任な話があるか、こういう重大な問題をどういう理由からか知らないで主催者は済むと思っているのか、調べてきなさい。
 風倉匠について、
A とにかく貴方のは警察の問題だ。
B いや正規の手続きによって出品している。
A 貴方がやったようなことは受け付けていない。
B 題名を読んだか、題名は事物だ、事物とは事と物だ、事柄が含まれているのだ。
A 貴方のは公然猥褻物陳列だ、公衆に不快感を与える。
B 陳列基準にもそういうのがあるが、そんなことを云ったらあの6項目でどんな作品もみんな含まれてしまうのではないか。油絵具だって不快な匂いがする。大体美術館側から提示されたからといってそれをうのみにする馬鹿がどこにあるか、貴方だって基準提示の経緯を知っているはずだ。各美術団体責任者を集めての基準説明の際、質問に答えて美術館側はこれは絶体に守って欲しいが強制するのではない、この基準に牴触する作品が陳列された場合はその団体と話し合うのだといっているのでないか、アンデパンダン展は無審査がたてまえなのだから陳列させた上で出品者ともども美術館側と論争すべきではないか、第一風倉のやったことは一寸も不快じゃない。
A 貴方達専門家にはどうか知らないが、不快だというのが常識ですよ。
B その常識という奴が問題だ、貴方にはそれが常識でも、だからといって誰にとっても常識というわけにはいくまい。
A それはそうだがアンデパンダン展の観客は決して貴方達美術家ばかりではない、先生に引率された小学生が来たらどうするのか、これは問題ですよ。
B そういうときにはやらない。
A いつ来るか分からないではないか、とにかくやめてくれ。
B いや、これはおれにとって芸術の問題だ、貴方にやめろといわれたからといってやめる訳にはいかない。
A それではやるのか。
B やるかどうかは分からない、そのときになってみなければなんともいえない。
A それぢゃ話にならない、警察に一緒に来てくれ。
B いゝですよ、行きますよ。
 しかし警察にストレートに行ってしまうことについては異論を持つものがあり、美術館は一種の治外法権が成立するものであって、美術館側が提示した基準の問題もからんでいるのだから美術館側の見解をたゞした上で警察に行くべきだという意見であり、読売側もこれに同意した。ところが、生憎くこの日は日曜日で、美術館の責任者はいないのであって、一体どこに連れて行くつもりなのか面白くて、にやにや薄笑いをしながらついていったら守衛室につれ込まれたのであるが、事情を聞いた守衛は弱り果てた顔をして、こんなことは美術館始まって以来のことだといゝ、読売さんが駄目だというのならやめた方がいゝでしょうと、はなはだ煮え切らない返事をし、裸はいけないといったって、二科では公然とストリップをやっていたではないか、あれはどうなんだと聞けば、いやあれは届けてあるのだと答えた。風倉匠がそれでは届ければいゝのかと聞いたのはうかつに吾からわなを作ってそれに落ちたのであって、風倉匠の件はとにかくやるときは読売側に届けてからするという事になってしまったのである。読売側係員が小踊りして、にこにこ顔で帰ってしまったのはいう迄もない。
 さて、以上の経過から吾々の得たものはなにか、第一にかねてからの噂通り、運営委員会はビフテキ委員会であって、ビフテキの陪食だけしていてくれればいゝのであり、その決定に拘束されるなどとは読売新聞社は露ほども考えていないのであって、それは主催者の恣意を隠蔽し、アンデパンダン性をよそう羊の皮だということである。第二に美術館提示の陳列作品規格基準はただ単に読売アンデパンダン展を対象にして作ったというだけではなく、そのおのずからの自己発展の法則に従って野放図にふくれあがっていく、アンデパンダン展出品作品の反社会的な傾向におそれをなした読売新聞社側が、昨年は展示拒否を運営委員会に諮問して反対されたのにこりて吾から美術館と合議し、拒否基準を作った疑いがあるということである。
 アンデパンダン展を新聞社が主催し、営利をはかるという、その出発からしてこのアンデパンダン展はゆがんでいるのであって、だからこそ名目だけの運営委員会が必要なのであり、同時にアンデパンダン展も名目だけになってしまうのである。それではアンデパンダン展のひずみを修正するために読売新聞社を主催から後援に移し、運営委員会が正しくその機能を発揮するようにしたらいゝ。しかしそれは昨年の時点でチヤンスを逃している。法律とか、社会公共のなんとかといえば、簡単に説得出来ると思い込んだ読売新聞社の出品拒否意志を拒否した運営委員会は、その答申を拒否されたときにビフテキを拒否し、読売新聞社営利の恣意隠蔽の道具となっていることを拒否し、主催者読売新聞社を拒否すべきであったのである。ひとつの平手打に対して10の平手打で応える、これはけんかいのイロハであろう、美術界きっての戦斗的な若者を大量に含んだ読売アンデパンダン展運営委員会はそれにしちゃあどうだろう、ねえ、あまりといえばだらしがねえ。
 冒頭に述べたとおり、画壇に対する対概念としてのアンデパンダン展は終わりをつげたのであって、そのおのずからの発展形態が反社会に接する処で新聞社営利を乗ずれば、今回の拒否基準6項目風のずるいやり方で爪も牙も抜こうという計画になり、それへの反抗がアンデパンダン展自滅の時間を早めるのであり、一方新聞社営利の恣意を排除し、運営委員会最高権力という方向で考えても、中原祐介のひそかなプラン通り、さらにすみやかにアンデパンダン展は崩潰するのである。このいずれにしても早晩崩潰するはずの読売アンデパンダン展にちょっかいを出す理由はなにか、新聞社営利の恣意によってではなく、出品者の手によってアンデパンダン展を葬ろうがためである。アンデパンダン展が総体として美術運動の内径から出はずれるということはなるほど無審査展の血路であるが、それは同時に上野都美術館を締め出されることでもあるのであれば、無審査展が美術館を締め出す方法を案ずべきであろう。それは中西夏之、赤瀬川原平流に会場全体を自己の作品と化し、あるいは高松次郎流にその作品がおのずからおびきよせる仕方によって美術館をあふれ出る要求をもった作品を作ってしまうことであり、小杉武久・風倉匠流に直接読売を権力化し、さらに美術館権力、警察権力へとバトンタツチをされざるを得ない作品発表で美術館を出はずれるという、今回のやりくちがその萌芽として示唆する処、大きいのである。

<形象8号>

『彼等のそれは思想伝達の具たり得るか』<形象8号>

『彼等のそれは思想伝達の具たり得るか』

 自立学校シリーズNO1の目録をみて、松田政男のその執拗な性格に、これこそいまだかつて日本ではみることのなかったヴエルホーペンスキー、あるいは日沼倫太郎のいう処の思想を生んで歩く首猛夫ではあるまいかと感じ入ったのであるが、いささかその足どりの激しさに比して、すなどりの淋しさが物足りなく思えるにしても、やがては壷々をあざやかに打ち当てる老いたオルガナイザーを、吾々は恐らく持つだろうことをあてにしてよいのである。いまはまだ打ち上げる球が高々とであろうと、背丈ほどであろうと、球という球はすべてフアウルになるという現状認識さえあるならば、来る球は断じて打つ松田政男をしかし物足りなく思う理由など吾々は持っていないといってよい。ところでその目録であるが、このはなはだ精緻をきわめた記述のなかに、開校集会の際に臨時講師に立候補した中西夏之と刀根康尚の事件が欠落しているのは松田政男の評価を示しているのであるにしても、この目録を補足する意欲を抱かせるほどには自立学校の可能性にひとつの問題を設定していると私は考えるのであって、それは思想の伝達は可能かという問いなのである。
 中西夏之がその時なにをしたか逐一報告する考えはない。というより、そのアクシヨンが発煙筒を持って駆け廻ることであろうと、後日の刀根康尚、小杉武久のように袋のなかでうごめくことであろうと、投げかける問いの性質に影響がないのである。当時の司会者山口建二が講師としての立候補を一般に求めたのに対して、機会をうかがっていた中西夏之はその場の臨時講師として演じてみせ、一方山口建二は立候補者としてそれをとらえていたために臨時講師とするかどうかは後日運営委員会で検討すると述べるという話になってしまうのであるが、この後日の運営委員会の際、主として山口建二と私が討論し、傍聴していた谷川雁がこれは一般論として討議しなければならぬこと、即ち、この種のやり方が思想伝達の具たり得るか否かを判定しなければならぬと述べたのだが、この検討は遂に現在運営委員会としてはやっていないのではないかと思うのである。しかしながら、運営グループ連署によるところの「先生グループへの意見」は、自立学校講師でさえ、諸他のイデオローグとともにもはや駄目なのではないかという、いわば一種の破算宣告なのであるが、この提言はコミュニケーションは成立すべきものという前提の上に立っているもののようである。この破算宣告は、中西流のオブジエを道具としてするところの行為をさらに思想伝達の具としてとらえ、そしてそれが可能かを疑うよりははるかに確然と、この言語表現によるところのイデオローグの不可能を宣告しているのであって、はからずもとりわけて中西夏之、刀根康尚、小杉武久等のそれと、各種イデオローグはこゝにおいて同一線上に並べた時に成立する一般論はなにか、即ち思想の伝達の具たり得るかということではなく、より根底的な設問そもそも思想の伝達は可能かということである。
 美術雑誌「形象」のための座談会が昨年11月に、札二刀、中西夏之、高松次郎、赤瀬川原平、木下新、私というメンバーでおこなわれ、その際、開校集会のこの事件について話が及びはなはだ常識的な意見を私はしゃべっているのであるが、それはこうである。中西や刀根のそれが伝達の具となり得ないならば、言葉によるそれも成立せず、本来、コミニケーシヨンという奴は成立しないのではないか(形象7号、8号参照)。相互滲透性のデリユージヨンを打ちこわすこと、その方法として電気洗濯機の中にイデオローグをつゝこんで、生徒を洗剤としてひっかき廻してみること、それが学校に寄せた私の空想であって、イデオローグの攪拌ということしか、初発の私に自立学校は意味をなさなかったのである(形象6号参照)。前述の座談会に即してみれば中西夏之は更にみずからの行動を指してこれは思想伝達の問題ではないと云うのであって、街角で、あるいは扉のかげから不意にひらめき襲う匕首ほど、適確にその意志の伝達を果たすものはないのではないかと私には思はれるのであるが、ところがそれにしても、いまほど敵の貴重な時期はなく、埴谷雄高に云わせれば<やつは敵だ、敵を殺せ>というのがせんじつめた処、政治の意志というものらしいがそんなもったいないことをしてはならぬのであって、敵とは少年時の私設動物園の動物達、とかげや蛙やゲジゲジのように大事に囲みのなかで飼育しておく必要がありそうなのだ。
 人の不意を襲い、衝動を与え、しかも殺さぬ方法を指してコミニケーシヨンと呼ぶことにするならば、破産した筈のイデオローグ達も言語表現を媒介とすることから解放されるはずであり、その一個の存在としての衝撃力の測定は自立学校圏内では不可能であるだろう。このイデオローグの復権は中西夏之流のアクシヨンと又しても肩を並べるのであって、どちらに確かな衝撃力があるかを測定する必要があるならば、その機会を逃してはならぬはずである。新橋野外ステージ側に、堤ビル旧館というのがあって、その三階の窓から梱包があふれ出ているのをプラツトホーム、又は電車のなかから見たとしたらそれは5月25日から30日の間であって、さらにくわしく点検するためには1時から7時迄の間にその階段を昇ってみなければならぬ。Hi-Red Center の高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之等があなたを待っている。
<形象8号>

2009年8月 7日 (金)

『自立学校の企図に寄せる』<形象6号>

 コンミユーンの執行権力者が、学校をコミユーンにしてしまうとするならば、学校設立者は、コンミユーンを学校にしてしまうのでなければならぬ。
 インタナシヨナリストもいれば、ナシヨナリストもおり、フアシストもいる、相互コミニケーシヨンの断絶と、その対極化という極点で、それぞれが、それぞれの思惑のベールをかなぐり捨てて、まったき全体像を示めすそういう折りの、絶対行政権力の権力行使の政策は、一種混沌とした指令としてあらわれインタナシヨナルな命令書と、ナシヨナルな命令書とが、あるいふぁフアシズムのそれが、互いに打消しあう同時要求となって、戦線をかきみだしながら、それとして協同戦線を形成する。その激しい憎悪と、一方、風聞として定かならず、それ故に、途方もなく茫漠と広がった、どこにいて、どこに現われるかわからぬ、不安の一般表現としての、したがって神兵であり、相互の憎しみ合いからの救い主であるところの反革命軍への、隠微な親和感のさゝやきが、街角から街角へ、まなざしの一瞥のようにひらめく、そういう時に成立するコミニケーシヨンは、ある政治権力の行政機構が、なにものにも立ちまさっている時期の、相互滲透性のデリユージヨンを一挙に打ち破るのであって、コミニケーシヨンとはどんな場合にも一方交通のそれでなければならず、それは例えば、理解の如何を問わずにいきなり胸をさしつらぬく匕首なのだと思い知るべきである。
 コミニケーシヨンの相互性は、相互滲透ではなく、噛み合った櫛の歯のように、あるいはからみ合う男女の指のように、一本ごとに交互に、相手に向き合う高低さまざまな、皮膚に接してしかもついに傷つけあわぬ匕首なのである。では相互コミニケーションの断絶した、コンミユーンにおけるコミニケーシヨンはどうか。切っ先が接し、なお相手を克服しようと圧力がかけられて弓なりになったりサーベル、または溝に落ち合わず、歯と歯が向かい合った櫛のように、相互に傷つけ合うよりは、コミニケーシヨンそのものを傷つけ合うそういう様相として示し得るであろう。
 こういう時期を学校として、そこに期することがあるとすれば、インタナシヨナリストが、その仮面をかなぐり捨てるかのように、ナシヨナリストとして立ち現われ、ナシヨナリストが、フアシストとしての裸身を示しフアシストが、意外にもインタナシヨナルであったりすることであるように思われる。
社会主義者がブルジヨア政権の閣僚となるのは驚くにあたらず、実に無政府主義者が政府閣僚となるという喜劇を、吾々はスペイン革命において覗見しているのである。そこで、学校でみるのも又、この種の、変貌の劇でなければならないのであって、断じて教えられることをこばみながら、変容せしめられていく場こそ、理想の学校というべきであろう。
 このソクラテスというよりは、プラトンの理想の学校を運営していくにあたって、運営者のとるべき態度は、以下のとおりであらねばならない。
 1.あらゆる政治フラクシヨンを排除しない。
 1.教師・学年・学期・クラス制を承認しない。
 1.多数決方式によらない。
 1.啓蒙化傾向に機敏なアンテナを持ち、その萌芽を踏みつぶし、大勢が動かし難いときは、そのときをもって閉校する。
 この5項目に従うを得ないときは、理想の学校は崩壊し、また崩壊せしむべきであろう。

第二の提言
―自立学校アッピール―

 他のたすけなしにみずから立つものが自立であるならば、存在形態として自立者であることは出来ない。自立者が存在形態としてありえるのは想念としてである。即ち自立の想念の具現者という想念としてである。常におのれとしてではなしに、おのれのありうえべき、あるいはありうべからぬ対象として、従って他者としてそれは存在する。
 この遂におのれに体化し得ぬ想念とのつきあいを引受けるものは、遂に癒すことの出来ぬ渇えをも同時に引受けるはずである。おのれを自立者として措定し得ず、自己意識者としてあるところのものは、他ならぬ自立の想念の具現者という想念を担い持つが故に、他立の想念の具現者の想念も又荷はなければならず、他立の地平に切結ぶ垂直の運動方向のみが軸として有効であるが故によく他立の地平を動かし得るはずだと思い込んだツァラトゥストラのような、他立に及び得ず再び想念の棲家に引返えす自立想念の具現者の後姿をさえ自立意識者は見通さねばならぬ。
 かくしてアンチ・クリマックスの病に堕ち、安住の墓を持たぬものの学校とはなにか、それはもはや教えることも教えられることももたぬもの達が凍てついたようにお互いにみつめあってみじろがぬ、いわば一見荒廃期の精神分裂症患者の集団のごときものであるだろう。治癒を願うものは他立の側に賭けるのであって、病院即ち啓蒙学校へ行かれるがよい。癒えることを願はぬものは病の重篤をこそ自己目的とするのであって、こゝではメドウサのまなざしで応え、なにものをも石と化する想念のきっさきがよくおのれを石と化し得るか否かが問われるだろう。
 従って、この学校に集うものはメドウサでなければならぬのであり、運営プランにおける先生も、これに対応する生徒も、開校と同時に意味を失う学校遺制なのであって、遂に医師・患者、あるいは先生・生徒であろうとする参加者は、発見されるやたゞちに放校処分に附さねばならぬのである。
 運営上の原則はかくして以下の通りである。
 1.いかなる政治・宗教上のフラクシヨンをも排除しない。
 1.多数決方針をとらない。
 1.教え、教えられようとする参加者は排除する。
 1.学年、学期、クラス制をとらない。
 1.以上の各項に従うを得ないとき自立学校は閉鎖する。

<形象6号>

2009年8月 5日 (水)

川仁宏(かわに ひろし)

昭和8年(1933年)6月19日 - 平成15年(2003年)2月5日
編集者、思想家、パフォーマンスアーティスト。

東京都新宿区に生まれ、慶應義塾大学仏文科卒。1950年代から、自立学校、大正行動隊、東京行動戦線など、政治的な公然、非公然なものまで多種多様な活動に参加する傍ら、前衛パフォーマンスを実践した。中でも中西夏之、高松次郎らと共に行った「山手線事件(電車内での攪拌)」というハプニングは後のハイレッド・センターへと繋がるプレ・イヴェントとして名高い。1964年には赤瀬川原平のいわゆる「千円札事件」では事件懇談会事務局長を務め、法廷でのパフォーマンスを実現した。

1969年から現代思潮社の企画部次長、編集長を務め、赤瀬川原平をはじめ、唐十郎や笠井叡らの著作出版、稲垣足穂の全集、デリダやバタイユ、フーリエらの哲学書などを手がける。また、美術専門学校である「美学校」の設立を主導し、既存の美術大学における教育に一石を投じるなど、類稀なるプロデュース力を全面に渡って発揮した。

1974年に現代思潮社を退社後は、芸術や土方巽などとの舞踏関連の著作を続けながら、言葉による即興のライブや、トーキングなどを実践、1980年以降、灰野敬二や小杉武久との競演を境に、美術家や舞踏家との競演によるライブパフォーマンスを行う。

1996年に十二指腸潰瘍で倒れ、1998年には脳梗塞、つづいてパーキンソン症候群を患い、車椅子生活を余儀なくされる。この身体の不自由は、川仁が実践しようとしていた自らの即興性を大きく損ねることとなり、ライブ活動を事実上停止することになる。

2000年頃から車椅子や揺り椅子に座ったままでのライブパフォーマンスを再開したが、2003年2月に肺炎を悪化させ亡くなった。享年69。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

澁澤→中西夏之→ハプニングと川仁宏→澁澤
http://spetta.exblog.jp/5171588/

カズ君を捜して  川仁宏さんに訊く
http://share.dip.jp/hannichi/sien/no192/kawani.html

人類が最初に語ったコトバ !?
http://www.adachitomomi.com/j/a/text/kawani.html

2009年8月 3日 (月)

《コンパクトオブジェ》は何故にして卵なのか

Conob240
62年ころ 中西夏之の興味は平面から立体へと移り、日用品をアクリル 樹脂で卵状に固めた《コンパクトオブジェ》に帰結した。63年には、高松次郎、赤瀬川原 平らとともにハイレッドセンターを組織、一連のハプニング的な試みを電車の中や街頭に、洗濯挟を撹拌行為として表現を美術館や画廊の外へ求めた。中西作品は思考の過激さを気持よく加速していった。

キャンバスの外側に産み落とされたオブジェは、古き組織や器官を解体させるような勢いで次々と有機的に制作される。機能性をアクリルの中で停止させられた物質や装置は、昆虫採取された異世界からの標本のように収められている。何故「卵」の形状にされたかと作者本人へ問えば、「宇宙の貌がそうだと想ったからだ」そう迷いなく奇才は答えた。

Concon

塞がれた耳/amingnetation.No1
中西夏之 NakanishiNatsuyuki.1967.本人蔵
「絵画といったとき、それは独立してあるんじゃなくて、何かと対になったものだから、それは一つの片割れ、もう一方の片割れは描き手」

2004n

中西夏之(なかにし なつゆき、昭和10年(1935年)-)

前衛美術、現代美術家。1996年より2003年まで東京藝術大学にて美術学部絵画科油画専攻教授を務め、美学校の設立にも奔走した。

1935年東京都・大井町に生まれ、1954年東京都立日比谷高等学校卒業。同窓に作家の坂上弘、文芸評論の権田萬治などがいる。1958年東京藝術大学絵画科(油画専攻)を卒業。大学時代の同窓に高松次郎、工藤哲巳、磯辺行久など。1959年にシェル美術賞で佳作を受賞した。

1962年、高松次郎、川仁宏らと共に、山手線のホームや車内で卵型のコンパクトオブジェを用いた「山手線事件」のハプニングを行い、翌1963年には、第15回読売アンデパンダン展に《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》を出品、時代を代表する作品となる。同年、高松次郎、赤瀬川原平らとハイレッド・センター(高・赤・中)を結成し、銀座の街頭や画廊などで日常に懐疑を突きつける多くのイヴェントを実践した。

1960年代から舞踏家の土方巽と交流をもち、周辺の瀧口修造や澁澤龍彦、シュルレアリスム系の画家や詩人たちと親交するほか、1965年の暗黒舞踏派公演『バラ色ダンス〜澁澤さんの家の方へ』、1968年の『土方巽と日本人—肉体の叛乱』で主要な舞台美術・装置を手がけ、笠井叡や山海塾らとも協働を重ねる。近年はフランス・リヨン国立歌劇場でのペーター・エトヴェシュ作曲、天児牛大演出によるオペラ作品(『三人姉妹』(1998年)、『更級夫人』(2008年))などでも舞台美術を担当した。

初期には、砂を用いた絵画《韻》、連作廃品を溶接した《内触覚儀》、アクリル樹脂で身辺の事物を封じ込めたコンパクトオブジェなど物質的な要素の強い作品を制作し、1960年代以降も《正三角儀》や《山頂の石蹴り》など、幾何学的かつ身体感覚を強く反映した作品が多い。

60年代後半からは「絵画」の制作を主軸とし、特に1970年代から、白、紫、黄緑といった色を基調とする、油彩の平面作品を発表。作家と現実空間との緊張関係を主題にした思考性の強い作品を数多く制作。現在まで精力的な取り組みを見せている。

1995年神奈川県立近代美術館での個展以来、インスタレーション「着陸と着水」シリーズが続いている。

主な作品
「コンパクト・オブジェ」(1959)国立国際美術館
「韻」(1960))東京国立近代美術館他
「エマンディタシオン」(1968)板橋区立美術館
「l*字型‐左右の停止‐」(1986)練馬区立美術館
「2・1・2・3柵型四群一瞥と擦れ違い」(1993)東京ミッドタウン内
「汐留のための『4ツの月』」(2002)電通本社ビル内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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