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2009年10月20日 (火)

宇宙を翔ぶ眼

世界の美のあらゆる層に、
何とさまざまの顔があり、
また眼があるのだろう。
それは宇宙と一体の交流の穴

眼は存在が宇宙と合体する穴だ。
その穴から
宇宙を存在のなかにとけ込ます。

岡本太郎『宇宙を翔ぶ眼』より

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岡本 太郎(おかもと たろう、1911年2月26日 - 1996年1月7日)

抽象絵画やシュルレアリスムとも関わり、縄文や沖縄の魅力に再注目した人物でもある。平面・立体作品を数多く残し、文筆活動も精力的に行った。後年はTVなどメディアへの露出も多かった。

岡本太郎(以下太郎)は神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として生まれる。

父一平は太郎誕生後、夏目漱石の勧めで朝日新聞社に入社し、漫画散文という独自のスタイルを築く。そして世間から「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほどの人気を博す漫画家となるが、江戸っ子気質だった彼は、付き合いのために収入のほとんどを飲んでしまうほどの放蕩ぶりに、時には家の電気を止められてしまうこともあった。

一方母かの子は、二子の大地主・大貫家の長女として乳母日傘で育ち、若い時分より創作に没頭。 お嬢さん育ちで世間知らずの芸術家であり、一般的な家政や子育てが全く出来ない人だった。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードが残っており、後に太郎は「母親としては最低の人だった。」と語っている。また不倫を繰り返し、彼女の敬慕者で愛人でもある早大生、堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせた。

そんな家庭環境の中、 持って生まれた資質に加え、 一般的な家庭の躾を全く受けることがなかったが、1917年4月、東京青山にある青南小学校に入学するも、環境に全くなじめず、追い出される形で一学期で退学。その後も私塾・日新学校、十思小学校へ転校を繰り返した。

その後かの子の希望もあり、慶應義塾幼稚舎に入学し、寄宿舎生活に入るが、そこでようやく太郎の理解者であった教師、位上清に出会う。また周囲の人気者であったが、当時の成績は52人中の52番であった。ちなみに一つ上の51番は、後に国民栄誉賞を受賞することになる歌手の藤山一郎である。

父が漫画家だった事もあり、幼少より絵を好んで描き続けたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれ、悩み続けた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事を躊躇いながらも、東京美術学校へ進学した。

滞仏生活とピカソ発見
父一平がロンドンで開催される軍縮会議に朝日新聞から特派されることになり、美術学校に入学したばかりの太郎も「絵の修業ならパリで」ということで、母も含めて一家三人でヨーロッパを長期外遊することとなる。一家は1929年に神戸港を出港し、上海・中東・イタリア・フランスなどを歴訪。1930年1月にパリに到着し、以後約10年間滞在する。

フランス語を勉強するためにパリ郊外の中学の宿舎で生活。語学の習得は早く、半年後にはパリ大学ソルボンヌ校で学ぶようになる。太郎は以前から感じていた「何のために絵を描くのか」といった美や芸術、自己に対する根本的な問いや、既成芸術への疑念を追求すべく、マルセル・モースのもとで、哲学・社会学・精神病理学・民俗学など、インスピレーションを得るべく絵とは直截関わりのない学問を学んだ。

1932年、両親が帰国。パリで両親を見送るが、かの子は太郎の帰国を待たずに1939年に逝去。このパリでの告別が太郎とかの子との今生の別れとなる。

芸術への迷いが続いていたある日、偶然立ち寄った画廊に展示してあったピカソの抽象絵画[2]を見た太郎は強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」事を決意し、以後抽象芸術に道を求め、創作に打ち込む。

兵役と戦後
1940年、太郎はドイツ軍のパリ侵攻と同時に日本へ帰国する。帰国後、滞欧作「痛ましき腕」などを二科展に出品、二科賞を受賞し、個展も開く。

1942年、出征。中国戦線へ派遣されるが、32歳という年齢に加え、酷暑地での厳しい訓練、また西欧帰りで、アジアの小さな島国が大国と戦争など無謀であり、負けるに決まっていると信じていた太郎にとって、この4年に及ぶ兵役生活はまさに絶望的であった。

そして敗戦を迎えた。太郎は1年間の捕虜生活を経て日本に帰国したが、戦争で青山の自宅にあったすべての作品が焼失したことを知る。その後世田谷の上野毛にアトリエを構え、制作に没頭。1947年、太郎は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる。」と発表。旧態依然としていた当時の日本美術界との闘いを宣言した。

1948年、 花田清輝と発起人になり、文学と美術の前衛芸術を研究する「夜の会」を結成。会名は太郎の油彩画「夜」から取られ、埴谷雄高、安部公房らが参加している。またこの頃、平野敏子(後の岡本敏子)と出会う。彼女は後に秘書・養女となり、彼の創作活動を陰日向に支え続けた。

1951年、偶然立ち寄った東京国立博物館に展示されていた火焔型縄文土器の芸術性の高さに衝撃を受ける。この衝撃を翌年「縄文土器論」として発表。これをきっかけに縄文文化と同じく、今まで注目される事が少なかった沖縄や東北等の文化・伝統に、純粋な日本の姿を見いだし、再評価に努めた。

1954年には、青山に友人の建築家、坂倉準三の設計による自宅兼アトリエを建て、ここを生活と制作の拠点とし「燃える人」等の作品を生み出した。同年、当時の光文社社長、神吉晴夫から、中学1年生にも理解できる芸術啓蒙書の執筆を依頼され、「今日の芸術 時代を創造するものは誰か」を刊行。既成芸術への痛烈な批判と、芸術は手先の問題ではなく、生活が土台にあると宣言し、(当時としては)衝撃的な著書は若い読者たちの心をつかみ、ベストセラーになる。

太陽の塔
1970年に大阪で万国博覧会が開催される事が決まり、太郎に白羽の矢が立つ。「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。紆余曲折を経て出来あがった前衛的で巨大なシンボルタワー「太陽の塔」は、当時の一部の知識人などから「牛乳瓶のお化け」「日本の恥辱」などと痛烈な批判を浴びた。

しかし太郎がこの前衛的な塔に込めたのは、文明の発達や進歩の中で、人々の生活も豊かになるのに反比例し、心がどんどん不自由になり貧しくなっていく現代社会への、彼なりのアンチテーゼであった。また、「国の金を使って、あまりにも岡本太郎的なものを造った。」という批判に対しては、太郎は「個性的なものの方が普遍性がある」と語っている。

また、主催者側が「人類の進歩と調和」というテーマに基づき、塔の地下に人類の発展に寄与した偉人の写真を並べるつもりだったのに対し、「世界を支えているのは、無名の人たち」と、世界中の人々の写真や民具を並べるように進言した。

かくして日本万国博覧会は、大きな成功を収めた後に閉幕。1975年に永久保存が決まり、この前衛的な塔も大阪のシンボルとして人々に愛され続ける事となる。

芸術一家に生まれ、一般的な躾を全く受けずに育った太郎は、少年期より既存概念にとらわれる事がなく、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざし、かさにかかって押さえつけようとする者には、徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。

著書「今日の芸術」の中で、「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒する事こそが真の芸術と説いている。

また「職業は人間」「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した事で有名である。

ただ人々にとって岡本太郎とは、お笑いタレントに仕草を真似されたこともあって、「目玉ぎょろりの爆発おじさん」という印象が強く、人物としてなかなか正当な評価を受けられずにいた(本人はそれを喜んでいた)のだが、太郎の死後、岡本敏子らによる著作を中心とした啓蒙活動により再評価され、芸術を志す者のみならず、広く一般にも共感と影響を与えることになる。

自らの作品をガラス越しで展示されるのを非常に嫌い、そのままの状態で鑑賞してもらうことを善しとする考えであった。それを表す逸話として、ある時自らの絵画作品「コントルポアン」を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒し、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」とまで言ってのけたという。渋谷駅の駅ビル的扱いの渋谷マークシティという渋谷駅からの電車の微振動や乗降者数の多さ、そして気温・湿度の激しい変化に晒されるなどとても設置場所としては不向きなところに展示される「明日の神話」も、以上の理由で何の防護措置も施されずに展示されることになった。

(Wikipedia)

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