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2009年11月30日 (月)

ル・クレジオ講演「フィクションという探求」

J.-M.G. Le Clezio (Prix Nobel de litterature 2008)
ノーベル文学賞受賞作家 ル・クレジオによる講演会が開催された。
2009年11月29日(日)15:00開演 東京大学文学部本郷キャンパスにて

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ル・クレジオ:Une quete nommee fiction レジュメ

1)小説は不完全な形式、ユゴーやデュマの作品は削れる部分があるが、詩は完全な形式でどこも削れない。ミショー、ランボー、ロートレアモンへのオマージュ。

2)かつてニースには50余りの映画館があり若い頃シネフィルだった。自分の世代の作家が書く小説には「映画の手法」が刷りこまれている。それは心理を外部へと表出するいわば現象学的手法である。

3)自分はフランス語への愛にあふれている。そこには「フランス帝国主義」は関与していない。フランコフォンというタームは好まない。他のすべての言語を尊重する。さまざまな外国語の作品がフランス語に翻訳される事態にフランス語の開かれた位置が示されている…。

 講演は少し遅れて15時15分ごろから。まずは日本の印象について語った後、育った土地ニースとの矛盾した関係について。地中海世界について語るということは、純粋性への追求ではなく文化の混交についてへのもの。古代ギリシャ、ローマ、ゲルマン、アラブ、イスラーム、トルコ、イギリスなどさまざまな文化の混ざり合ったものとしての地中海文化。同じような文化圏はインド洋にもカリブ海にも日本海にもある。
 次に二重帰属と殖民地のことについて。ル・クレジオの家族は、モーリシャリスで繁栄を誇ったル・クレジオ一族から追放された移民であり、ニースでは彼の家は「閉じ込められた泡」のなかで暮らしていた。面白い表現だ。ル・クレジオ一家が行ったモロッコ旅行でのバスでの一コマやアルジェリア戦争後の病院の撤退の2つが記憶に残る物語だった。モーリシャリスに残ったル・クレジオ一族はその国の独立により世界に離散する。これを彼は「幸運なディアスポラ」と呼んでいた。
 「書くことは断定することではなく、自分への問いかけ」というのが興味深い。ウォーレ・ショインカの作家の仕事への言及「治療薬を提供するかわりに頭痛を提供する」の引用、「作家は解決をもたらさないが、頭痛のタネを持ち出す」「悪の迷宮を解決できる鍵を持っていない」「作家は道徳家ではない、書く以外の仕事はしない」おもしろいな。道徳、教訓を垂れるのが文学ではない。「自分の記憶、他人の記憶をよみがえさせ、幻想を現出させる」それが作家の仕事だ。
 文学形式については省略。
 「野菜の美しさ」という言葉がいい。戦争や歴史や大事件を語ることではなく、日々の生活や料理のレシピについて語るということを集約した言葉。「地上的生存の小さなエピソード」とも。
 「作家は意識的に書いていない、無意識に書いている。明確な計画があって書いているわけではない」一人の作家の別の作品も同世代の別の作家の作品も違う時代の作家の作品も、すべて断続はなく、連続しているという話。「すべての作家は一冊の共通の本を書いているのだ」
 アンリ・ミショーやロートレ・アモン、ランボー。小説に詩情をどうこめるかに気をつけている。「ときには断念することもある」
 最後の議題は、映画、日本映画の「雨月物語」について。最初に出会った芸術映画だと。その映画が実存主義や現象学とあいまって、外部を描く表現に影響を与えたとのこと。茅ヶ崎館の怪談。
 最後に質問に答えて終わり。おじさんが発した2012年への質問は意図的に翻訳者が割愛。難しいことを書くためだけに難しく書くビザンツ主義的文体は避けようという、地中海的表現でしめくくる。終わったのは17時過ぎになった。

■実に興味深いル・クレジオ氏による講演内容である。教室は満員で入れない人たちのほうが多かったので、法文2号館2階2番大教室のモニターにて同時中継されていた。文芸誌「すばる」などで特集がくまれることを期待する。


■『来るべきロートレアモン』 ル・クレジオ(朝日出版社)
この原始的な作品は唯一無比のものである。文学の中にこれと比べ得るものは何一つ
ない。もろもろの類似を求める為には、非常に遠いところ、他処の世界に探しに行かねばならない。例えば口承文藝のカオスとか、イメージがまだ書き言葉によって定着されていない歌の野獣めいた波動とかの中に。悪魔払い、呪詛、罵詈、祈りのなかに。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/koinunomadoromi/NewFiles/bookmenu.html より

2009年11月29日 (日)

ル・クレジオ「歩く男」

「人生の大部分を歩くことに費やし、それでも尚かつ歩く男ではないということはあり得る。これは明白だ。それとは逆に、結局のところほんのわずかしか歩いたことがなく、歩くことに興味もないし、歩き方も知らないでいて、しかも疑いの余地なく歩く男であるということもあり得る。これは、あらゆる深刻な人生の原則である。」
ル・クレジオ「発熱」p. 128 「歩く男」冒頭。

ル・クレジオ初期作品の研究ページ
http://koinu2005.seesaa.net/archives/200508.html

対談:J.M.G. ル・クレジオ×大江健三郎
(2009 年 11 月 27 日(金)15 時より日仏会館にて)二人のノーベル文学賞受賞者ル・クレジオ&大江健三郎の対談は、仕事があって行けなかった。この顔ぶれだといろんなメディアに記載されるだろう。今現在では下記の二誌へ掲載予定。

読売新聞12月16日に掲載
中央公論2月号に詳しい対談記録 明年1月10日発売

2009年11月28日 (土)

大日本零円札の沿革

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千円札裁判判決後1969年、本物の大日本零円札を発行する。
「傍目にはいかに本物と見えようとも、やはり本物であることを御理解下さい。
東京都杉並区成田東四ノ五ノ十四 大日本零円札発行所赤瀬川原平」

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暴力貯蓄口座く順法絵画〉
 このたび「暴力貯蓄口座順法絵画大日本零円札」を開設いたしましたのでお知らせいたします。順法絵画とはなにか、そもそも絵画とはなにか、暴れる力とはなにか、とかいういろいろなことは、この大日本零円札を手にすれば考えなくてもわかる仕組になっているのですが、ここでひとつ頚を使って考えてみるのも暴力の利殖に一役かうことになるのかもしれません。

……「本物」いう極印が押されてあり、この極印にはそれなりの由来があるのですが、その極印があるかかわらず、そしその分厚い零円札の札束(いくら分厚くても零円)にしても、なお管理当局にはそこにある紙幣としての実体に対処する警もちえなかったものであります。
そしてこの史上最後の紙幣であるべき史最初の零円札発行を許し、しかもそれ先行さ
れたことによつて、全紙幣の統制をおこなうという潔癖な体制が遂に完成できなかったということは、時の権力にとっては贋札の出現にもまさる、いまだ隠れたる大惨事であり、シャツトアウトを目前に約束されているのです。
すなわち、この大日本零円札は「一家に一枚零門札」の合言葉のもとに、皆様のお手許の百円札三枚とお取えしているものでありまして、巷の百円札は順番に零円札となるのであります。そして百円札の発行当局が「シマツた!」と思った時はすでにおそく、巷の紙幣はすべて零円札発行所の倉庫に、はちきれんばかり回収されているのです。

 ……この順法絵画についてここに零円札之ポスターの中から、順法絵画零門札の沿革のことばを引用してみることに致します。

 沿  革
 濡れた葡萄を抜き取って
   偶天鐘区の敷いた道
 海を抜かれた貝殻は
   鉄を通って紙となる
      サツ  トノネル
 お札の隠遁横に見て
   武闘を秘めた民間の
 霞ヶ関を超えて行く
    零に託した
         順法絵画

 ……零門札は、その紙幣としての実体を必要とも不必要ともする魔力をもって、なお実体として己れの空間を独占しながら巷に流通してゆくのです。それは国家の紙幣が武力による制度の加護のもとに使用され、そしてまた現在のニセ札がひそかに無断でその加護を受けながら使用されるのに対し、零門札は、実体がそのまま制度であるという、いわば「俺が法律だ」というがごとき暴力の根源に立脚し、それによって公然とお札の随道の中を通り、そして外側からはその随道の中のお札を吸い出すのです。
                
 お札に対するこのような公然たる暴力による介入の中に、人は模型における非暴力の苦汁をかえりみるかもしれません。
 総体としての実体を秘めて霞の如く現前する体制に対して、零の乗法をもって介入する大日本零円札は、堂々と霞ケ閑を超えてゆき、シャットアウトを目指しながらも野球のスコアとは反対に、九回戦から試合開始まで逆行し、随道内の空間を隅々まで独占しつくすのであります。このようなタイムマシンの暴力による零の貯蓄は、試合開始の暴力をも貯蓄することでしょう。
 零門札のあふれるところ限りなし、零円札の行くところさえぎるものなし、これすべて順法精神の賜物であります。
 以上が大体のおおまかな順法絵画零円札の沿革であり「零門札史観」であります。いずれそのものを手にすれば、すべては明白となるのです。
このようにして巷の紙幣ほ順ぐりに零円となってゆき、順番ほぼつぼつそちらさんに回ってゆきます。どうか掌許のでき得るかぎりの巷の紙幣をかき集め、零円札発行所までお早めにお送り下さい。

六八年七月   大日本零円札発行所

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模型千円札と裁判 http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_d8a9.html

「模造千円札の個展案内状 画家に懲役求刑」
(毎日新聞昭和41年11月21日夕刊1面)


「個展の案内状などに使うため、千円札の模造品を作ったとして通貨、証券模造取締法違反で起訴された画家、赤瀬川克彦(二九)=東京杉並区=ら三被告の求刑公判は、二十一日、東京地裁刑事十三部(堀義次裁判長)で開かれ、北村検事は「どこで使用されるかわからないほど実物に似ている。芸術家の表現の自由にも限界がある」と赤瀬川被告に懲役六月、二人の印刷業者にそれぞれ懲役四月を求刑した。
 この事件は、ニセ千円札"チー三七号"事件が世間を騒がせた当時、警視庁捜査三課に摘発されたもので、芸術活動として行なわれた通貨の模造が罪に問われたのは珍しく、芸術か犯罪かをめぐって論争がくりひろげられていた。
 起訴状によると、赤瀬川被告らは三十八年一月中旬、千円札の表側を写真製版にとり、クリーム色の紙に緑色のインクで印刷、裏には個展の案内状を印刷した模造品約三百枚を作ったほか、同年三月から五月までの間にも約二千七百枚を作った。」

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赤瀬川原平 『復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)』

2009年11月27日 (金)

『マイナス・ゼロ』 広瀬正

  広瀬正は不遇の作家である。 作家デビューして10年間を“売れない作家”として過ごし、処女長編となるこの『マイナス・ゼロ』(1970)でやっと認められたものの、1972年、48才の若さで路上にて心臓発作に倒れてしまう。 『マイナス・ゼロ』『ツィス』『エロス』と三作連続して直木賞候補になりつつ受賞を逃したことも残念である。 「報いられることなき期間があまりにも長かった作家であり、それに比して報いられることがあまりに短期間だった作家」(筒井康隆)

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河出書房新社(1970); 河出書房新社(広瀬正小説全集/1977)
集英社文庫(広瀬正小説全集/1982)

1945年の東京。少年の俊夫は、隣の家の年上の少女、伊沢啓子にほのかな憧れを抱いていた。
空襲に遭い、隣の家の啓子と彼女の父を助けに行った俊夫。啓子はいなくて、いつも先生と呼んでいた啓子の父から、「18年後の今日ここに来てほしい」と言い残される。
そして18年後、俊夫はその家を訪ね、そこで俊夫はタイムマシンをみつける・・・
タイムマシンで過去に飛んだが、計算を間違えて、昭和7年についてしまう。いろんな思惑が崩れるが、飛んだ場所の隣の家にいた大工のカシラの一家にお世話になり同居させてもらいながら、昭和7年の街並みを歩きさまざまな人に会う。
このカシラ一家が人情味あふれていて、正体不明の俊夫を温かく迎え、事情も聞かずにいろいろ親身になってくれる。息子の隆やオヤブンも奥さんもとてもいい雰囲気で、まだ戦争が本格化していない、昭和初期の普通の一家生活が溢れた当時のにおいに満ちてとても懐かしい。
タイムマシンに入っていたお金の謎とか、ふと見つかった背広の上着の謎とか、いろんな小さな謎が一つ一つ解けていく。ミステリ的要素もありつつ、あくまで物語は優しい。
昭和の事件、例えばデパートの火事という出来事も織り込み、時代背景も当時はやっていた車とか、町の風景とか綿密に書かれていてタイムスリップした感覚となる。
その後、昭和7年・20年・38年の間で複雑に錯綜して、懐かしくも説得力のある生きた時間として見事に描写される。古き良き「大東京市」の過剰なまでに詳細なる再現ぶりには感嘆する。当時の物価や銀座の町並みなどを、丹念に調べ並はずれた取材に拠るものだ。そして 周到に張り巡らされた数々の伏線が見事に回収される。
昭和二十年、十七歳の伊沢啓子はタイムマシンに乗せられて昭和三十八年へ行き、浜田俊夫と出会って関係を持ち、身ごもる。その直後にタイムマシンの誤作動で彼女は昭和二年へ戻り、それとともに記憶を失う。自分が誰か忘れたまま彼女は翌年昭和三年に女児を産み、「啓子」と名づけて捨て子にする。やがて彼女は女優にスカウトされ、小田切美子の芸名を用いる。捨てられた啓子は、大学講師伊沢に養われ、伊沢啓子となって昭和二十年には十七歳になる。
「浜田さんが買ったライターは、いま、パパが持っている。浜田さんが持って行ったライターは、どこで買った物でもなく、どこで製作された物でもないわけよ。ただ、昭和七年から昭和三十八年まで、この世に存在するだけ・・・・・・」
三歳年長で女学校五年の啓子を、女優小田切美子にそっくりの美人だと思う。それは当然で、実は啓子は小田切美子の娘であり、しかも二人は母娘でありながらも同一人物なのだった。伊沢啓子は伊沢啓子自身から産み出されたのだった。
大団円は主人公浜田俊夫とヒロイン啓子にまつわる謎が、衝撃のラストシーンとなっている。
歴史を変えることはできない「タイムパラドックス不可能説」から緻密なストーリーを築いた傑作SFである。

司馬遼太郎が直木賞選考委員だった際に、何度も候補になったSF作家・広瀬正の作品を高く評価し、特に『マイナス・ゼロ』を大絶賛していた。   
昭和初期のノスタルジー豊かな描写も加わって『マイナス・ゼロ』はSF以上のものとなる。。
2012問題にあるところへ『マイナス・ゼロ』のタイムラグな発想は綿密なる無意味をもつ。
『零画報』のゼロという心の原点となった『マイナス・ゼロ』を引用紹介いたしました。

マイナス・ゼロ 年表
http://members2.jcom.home.ne.jp/sforest/content/zero.htm

広瀬正には不思議な時の話がつづられた短編集が、死後刊行された。
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タイムマシンのつくり方 (1973)河出書房新社
【収録作品】
「ザ・タイムマシン」「Once Upon A Time Machine」「化石の街」「計画」「オン・ザ・ダブル」「異聞風来山人」「敵艦見ユ」「二重人格」「記憶消失薬」「あるスキャンダル」「鷹の子」「もの」「鏡」「UMAKUITTARAONAGUSAMI」「発作」「おうむ」「タイム・セッション」「人形の家」「星の彼方の空遠く」「タイムマシンはつきるとも」「地球のみなさん」「にくまれるやつ」「みんなで知ろう」「タイムメール」「(付録)「時の門」を開く」 
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広瀬正の作品ページ
http://d.hatena.ne.jp/reveal/20040930#p1

2009年11月26日 (木)

無限の自由

平らは丸い、丸いは平ら。直線は曲線、曲線は直線。
あるはない、ないはある、けれども、ないともいえずないともいえぬ
ほかのまったくちがった何らかの何かもさらにまた
まだまだほかならぬそこのそこに誰にも知られぬ面を伏せて隠れている。
《たったひとりですべてをとりしきっている》
「考えてはならぬこと」「決していってはならぬ最後の言葉」

「無限に《死》をおさめつづけることのできる巨大な容器の宇宙」
「極度に小さな、つまり、無限小の薄暗い秘密の箱」
「物質の本源とも重力ともまったく関わりをもたぬ唯一の場所」

http://koinu2005.seesaa.net/article/14071641.html
《記憶してない夢》より

http://koinu2005.seesaa.net/article/134233190.html
薔薇、屈辱、自同律つづめて言えば俺はこれだけ。

2009年11月25日 (水)

インナーマッスルの無意識の活性化

Hiddenmuscle 筋肉というのは何層にも重なってできており、外側にある筋肉をアウターマッスル、内側の筋肉を総称してインナーマッスルや深層筋という。
インナーマッスルは体の根幹となる部分にある筋肉で、姿勢を安定させて動きを滑らかなにするには内側の筋肉を鍛える必要となる。

内側と外側をバランスよく鍛えるのが、筋肉トレーニングの大切なポイント。
インナーマッスルを鍛えるには「低負荷のものを数多くやる」こと。
アウターマッスルは鍛えると肥大化してトレーニング成果は目に見えてくるが、インナーマッスルの場合は目には見えてこない。
しかし骨や関節の部分を覆っている深層筋を鍛えることで、
内側から安定した滑らかな動作と姿勢へ回復させる。

Hiddenmuscleback3

能楽師が高齢になっても現役を続けている秘密は、インナーマッスルの無意識の活性化にあるという。
http://www.watowa.net/index.html

2009年11月24日 (火)

スリーマイル島原発で放射能漏れ

『22日、米東部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で微量の放射能漏れがあり、原子力規制委員会(NRC)が調査していると報じた。同原発を操業するエクセロン社によると、21日夕に1号炉の建物内部で放射能汚染の測定器の警報が鳴り、作業員150人を退去させた。』

同原発を管理するエクセロン社によると、燃料棒の補給や蒸気発生装置の交換など保守作業のため、先月26日から運転を停止していた1号機で、同日午後4時ごろ、壁に開けた装置搬入口の監視装置3つのうち1つが、一時わずかに数値の上昇を示した。放射能漏れを知らせる警報器が作動し、作業員ら150人が作業を中止して退出したという。

作業員の放射線被ばく量は、最も大きかった1人が16ミリレムと、少量にとどまっている。胸部X線検査による被ばく量は約6ミリレム、エクセロン社の作業員の年間上限は2000ミリレムと定められている。

同社は22日にも保守作業を再開すると述べたが、報道担当者がCNNに語ったところによると、同日は原因調査のため再開を見送った。1号棟では当時、さまざまな作業が並行して進行していたため、原因の特定には時間がかかるとみられる。

同原発では79年、2号機で炉心融解事故が起き、その後1号機だけが稼動している。

■電力大手、エクセロン,NRGの敵対的買収の裏の裏、寡占願望?

http://blog.goo.ne.jp/thinklive/e/69b7c798504c5eb4ed8a2df7b3a1b437

エクセロン・コーポレーション(Exelon Corporation)wikipedia
アメリカ合衆国の大手電力・ガス会社。2000年にシカゴを基盤とするコモンウェルス・エジソン(Commonwealth Edison)の親会社であるユニコム社(Unicom INC)と、フィラデルフィアに本拠を置くフィラデルフィア電力(PECO Energy)が合併し誕生した。
サービス件数は電力が520万件。都市ガスがフィラデルフィア近郊で46万件である。また、エクセロンはアメリカ国内において最も多くの原子力発電所を運営している会社である。11箇所の原子力発電所で19基の原子炉を運営しているが、その中にはかつて大きな原子力事故を起こしたことがあるスリーマイル島原子力発電所が含まれている。
wikipedia より

2009年11月23日 (月)

ユーチューブに字幕

米グーグル、ユーチューブに字幕表示 動画の検索容易に
 インターネット検索最大手の米グーグルは、傘下のユーチューブがネット配信する動画に自動で字幕を表示する技術を開発した。あらゆる動画に字幕を付けることで動画の検索が容易になるほか、字幕を別の言語に自動翻訳するサービスの展開などにつなげる。

 ナショナル・ジオグラフィックなどがユーチューブで配信中の一部ビデオを対象に試験サービスを始めた。ネット電話サービス向けに開発した音声認識技術を活用し、ビデオ内の音声を解析して自動で字幕を作成する。字幕表示は英語のビデオだけに対応するが、グーグルが展開中の文章翻訳技術を組み合わせることで英語の字幕を日本語など約50カ言語に同時翻訳できる。

 字幕表示の精度は「完ぺきではない」(グーグル)が、今後も技術革新を進める。ユーチューブには、1分間で約20時間の動画が投稿される。すべてのビデオに全自動で字幕を表示できれば、膨大な動画データベースから特定の発言を検索するサービスの展開などが可能になりそうだ。

http://jimaku.in/

グーグルがユーチューブの動画に自動で字幕を付ける技術を開発した。検索が画期的に簡単になるだろう。字幕の自動翻訳というとろろで、情報としての質が格段に向上される。ビデオ音声を解析して自動で字幕を作成するシステムである。これで映像配信と検索へ大きな橋渡しがされることになった。

2009年11月22日 (日)

唯一無比のないない世界

体は幻のように実体のないものであり、
実体がないものが身体としてあるように見えている。
体は幻のように実体のないものに他ならないが、
真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではない。
身体は実体がないというあり方で存在しているのであり、
真実なるものが幻のような体として存在している。
体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も全て同じこと。
すべては実体ではなく、生まれることも亡くなることもない。
汚れているとか、清らかであるということもない。
迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもない。
実体はないのだという高い認識の境地からすれば、
体も感覚もイメージも連想も思考もない。
目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、
色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもない。

Matrix
マトリックスでは目に映る世界から、心の世界まですべてない。
迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもない。
同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもない。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もない。
知ることも、修行の成果を得ることもなく得なければならないものもない。
このようなサイバーな境地で、NEOは“智慧の完成”によって、心に妨げがなくすことができた。
心に妨げがないので一切の恐れたちは消えてしまった。
誤った妄想を一切持ってないので、完全に開放された境地にいらっしゃる。
過去・現在・未来のすべてのNEOたちも、この“智慧の完成”によって、
この上なく完全にマトリックス世界より目覚められたという。

“智慧の完成”は大いなる真言、大いなる悟りの、
最高の、他に比べるものもない真の言であり、
すべての苦しみを取り除き、偽りがないので確実に効果がある。

Matrix_01

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩?、依般若波羅蜜多故、心無?礙、無?礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経

2009年11月21日 (土)

宇宙の眼 Eye in the Sky

虚空の眼(宇宙の眼) Eye in the Sky
フィリップ・K・ディック Philip K Dick(1957年)

カリフォルニアのベルモントにでは、ベヴァトロンの陽子ビーム偏向装置が初めて作動しようとしていた。この画期的な装置を見ようと、観察台にはガイドと見学者を合わせて8人の人間がいた。ミサイル調査研究所に勤める電子工学者の専門家ハミルトンは、妻マーシャと共に、苦にがしい気分で見学していた。マーシャの素行が原因で、研究室を休職させられたのだ。
作動しだしたビーム偏向装置はたちまちトラブルを起こし、60億ヴォルトのビームは天井に向かって放射され、観察台を焼きつくして8人の人間を60フィート下に叩き落した。奇蹟的に軽傷で終わった見学者たちが目覚めたとき、そこは怪奇な宗教「第二バーブ教」の支配する呪術的な世界だった……。

K90917
怒りと呪いの神でも救済の神と奇跡の神でもある。怒りはただちに現実となり、天罰はすぐ現世にもたらされる。あらゆることが奇跡と救済によって直される。そして巨大な眼として現実に存在して人々を見ているのだ。ハミルトンがそれまで生きてきた現実のアメリカ社会と寸分の違いはない。同じ同僚がいて飲み屋があり家があるマトリックス世界。ただし世界の価値観は「第二バーブ教」により変わっていた。
 その世界の原因をつきとめ、ハミルトンたちが異世界を脱したあとに、またまた平行した別の世界が広がっていた。多次元宇宙から本当の現実に戻るまでにはどれだけの別の世界を過ぎなければならないのか?誰かの妄想のような世界であっても、ハミルトンはごく普通の人間として愚かであると同時に賢く生きる。人として守りたいこと、守りたい考え、守りたいものを失うまいと懸命に生きている。何故ならばそれがハミルトンの世界なのだから。次なる宇宙はそれぞれの登場人物の頭の中の世界であるわけであった。ここで描かれる世界はどれも極端で滑稽だが、どこか既視感と現実感がありつづける。そして奇妙に明るいラストシーンが用意されている。

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http://www.youtube.com/watch?v=wvfnio9YNiY&feature=PlayList&p=952C5958DA4D8BD4&playnext=1&playnext_from=PL&index=57
A beautiful version of The Alan Parsons Project's masterpiece performed by a wonderful Noa.

バーブ教(Wikipedia)

バーブ教(بابی ها)は、イランなどに分布したイスラーム教の流れを組む一神教である。1840年代にバーブ(ミールザー・アリー・モハンマド)によりイランで十二イマーム派シーア派の一派シャイヒー派から起こったが、のちにシャリーア(イスラーム法)の廃止を宣言するなどしたため、一般にはイスラームの枠外とされて1850年代末には徹底的弾圧を受けた。これを逃れた教徒の一部はバハーイー教へと発展する。一方、現在バーブ教を称する一派はアザリー派とも呼ばれ今もイランに残るという。なお、発祥の地であるイラン・イスラーム共和国では、バーブ教の存在、信仰は、現在違法であるとされている。

教義
バーブ教は十二イマーム派シーア派の一派シャイヒー派からおこったため、当初の中心的教義はシャイヒー派に近いものであった。終末と救世主の出現・イマームの再臨は間近であるとして、終末にのぞむためにもコーランを尊重し、シャリーアの厳格な遵守をなすべきだというものである。この時点でのシャイヒー派との若干の相違点はミールザー・アリー・モハンマドが「バーブ」(アラビア語で「門」の意)であるとした点を強調したことにある。十二イマーム派シーア派におけるバーブとは、隠れイマームと直接霊的交信が可能な者のことで、小ガイバ中の四人の代理者がよく知られている。シャイヒー派ではこれを「完全シーア信徒」といい、バーブ教ではアリー・モハンマドをこれに擬したのである。しかし、のちにバーブの主張はより過激化。1848年には自らイマームの再臨(ガーエム)であるとして、シャリーア廃止を宣言した。「コーラン」にかえて自らの預言「バヤーン」を新たな啓典としたのである。バーブ教がイスラームと決定的に袂を分かったのはこの時だったといえよう。

Photo

2009年11月20日 (金)

雲の形

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違った形を毎日見せている雲たち

一度も同じ姿ではなく変化を描いている

だから空を見上げると

新しい心になる

いい意味での無意味な気持ち

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ロゴスからの解放

2009年11月19日 (木)

三角形の恐怖

海野十三

 それじゃ今日は例の話をいよいよすることにしますかな。罪ほろぼしにもなりますからね。そうです。罪ほろぼしです。私の若い時のね。いや艶っぽいことなんか身に覚えはありませんから、アテられるなんて事はありませんよ。それは罪は罪だと思いますよ、今でもね。そうです、もう二十年も昔になりましょうか。先帝陛下が御崩御になって中野の先の浅川に御陵が出来た頃の話なんですよ。
 その当時私はW大学へ通っていました。随分若こうござんしたよ。今見たいにこんなにデクデク肥っちゃいませんが、中肉中背という奴で頬っぺたも赤くて、桜のつぼみかなんぞのように少しふくらんでいましたよ。亡くなった姉のお友達に電車の中なぞで行き合うと、
「宗夫さんはいつ見てもコドモさんですわねえ」
 と懐しがられたものですよ。やあこんな風なことは言わない御約束でしたね。これは失敬。
 其のころ私の家は東中野にありました。中野の辺を省線電車で通りますと、淀橋のガスタンクより右の方へ三十度ばかり傾いたところにこんもりとした森が見えますが、あの森の直ぐ下でした。御承知の通り関東一帯に特有な大きい杉の森でして、近所では他のどこの場所よりも高い梢を持っていまして、遠方から見ると天狗の巣でもありやしないかと思われる位でした。私の家は、その塔の森と呼ばれる真暗な森と、玉川上水のあとである一筋の小川を距てて向い合っていました。どっちかと言うと一寸陰気な、そして何となく坊主頭に寒い風が当るともいったような感じのするところでした。
 ですから学校に居る間は大学生の中にもこんなふざけ方をして喜んでいる無邪気な奴が居るかと思われるように陽気に振舞っていましたが学校がすんでから電車を東中野駅で捨てて、それから家まで五六丁ほどの道のりを歩いて行くうちにいつとはなく考え込んでしまうのです。帰って来て小川の縁に立ちかぶさるように拡(ひろが)った塔の森を仰ぐと今までの快活が砂地に潮がひくかのようにすっと消えてしまって、眼の下に急に黒い隈が出来たような気になるのでした。
 そうなるといつまでも黙りむっつりとして其の日教わって来た数学の定理の証明を疑ってみたり、其の頃流行の犯罪心理学の書物に読み耽ったり、啄木ばりの短歌を作ったりしていました。
 そんな調子の生活の中から私は遂に一つのトピックスをみつけ出したものです。それは例の犯罪心理学の書物と、自分の勉強している数学との両方から偶然に醗酵して来たものであったのです。私の考えでは人間が脅迫の観念に襲われる場合に其の対象となるものは、平常其の人間がついうっかり忘れていたとか、気をつけていなかったものに偶然注意が向けられた結果、急に其のものに対する注意が鈍くなって遂に一つの脅迫観念が萌え上って行くのであって、其の対象となるものが単純で、且つ至るところに存在しているもの程、脅迫観念を加速度的に生長せしめるのではないかと思ったのです。いや思ったどころか次の瞬間には必ずそうに違いないと考えました。そうなるとそのままではほうっておけないような気がして、早速これを実験して事実の上にも明かな結果を出してみたくなりました。
 私はそれから色々と「単純で、至るところに存在するもの」であって、人間が「うっかり忘れているもの」をあれやこれやと考えて見ました。考えてゆくうちに私は一つの面白い目標にカチリとつき当りました。
「三角形! そうだ」
 三角形は三つの線分で作りあげることの出来る最も簡単な空間であります。私たちのように数学を、しょっちゅう勉強しているものには三角形なんて忘れようとしたって忘れることの出来ないものですけれど、数学に縁の遠い人なら此の最も簡単な空間であるところの三角形をついうっかり忘れているかも知れないと思いました。それに三角形の現わす奇異な感情は、円とか五角形とかのあらわすところとはよほど趣きを異にしていて、如何にも我が意を得たる絶好の対象物だと思ったのでした。
 私は小さい頃から南京豆の入っているあの三角形の袋が好きでした。駄菓子屋の店先などに丸い笊(ざる)の中に打ち重ねて盛りあげられた南京豆の三角形の紙袋を見ると買わずには通り過ぎることが出来ない位でした。あの下の方へ細っそりとした鋭角はノウノウとした気分でいる子供の食慾を引きつけずには置かないのでした。鋭角と子供の食慾との間には必ずや或る真理が横わっていると私は思っていたのです。こんな日頃の感じが今の場合のヒントを与えてくれたのかも知れません。とにかく私は「三角形の恐怖」といったようなものを或る人間に抱かせてみようと決心したのです。
 そうなると此度は試験台になる人間を見付けなければなりません。それからと言うものは学校の行きかえりに「三角形の恐怖」を容易にひきおこしそうな人物を一生懸命で物色したものです。十日ほどの辛抱ののち私は頃合いの犠牲者をとうとう見付けることが出来ました。これが例の細田弓之助という人物です。この細田氏の名前が弓之助であることや、其の時三十三歳であったことは、後に例の新聞記事が出た時始めて知ったような訳なのでした。三十三歳とは見えぬ位、細田氏は私の拝見した当時からふけ込んでいました。背は高くて後を向くと肩が寒そうにいかっていました。別に寒い日でもないのに青い顔に黒いマスクをかけて、私と同じように中野駅におずおずと落付かぬ様子で降り立ったのを見付けたのが、ちょうど例のことを念じてから十日目でした。
 私は細田氏が東中野駅の附近に家を持っていて呉れればよいと思いました。その人が特にその日だけたまたま此の駅に降りたのであったら、其の住居の方へ追いかけて見てもあまり遠いところなら私の実験を行う上においていろいろと不便が感ぜられるに違いありませんでした。が幸にも細田氏はあの駅を下りて私の方とは反対の側に行ったところなんですけれども駅から二丁ばかりのところにあってかなり大きな家を構えて居りました。これは段々わかった事ですが、細田氏は当主の次男であって、当主は数年前からここに居を構えていられたのでした。
 私はまず此の実験を行うに当って出来るだけ細田氏の行動を観察して其の性格を理解したいと思いました。又其の職業も私のように理科や工科の人であったり、或いは画家であっても困ると思って細田氏の行く先々にも度々ついて行きましたが、都合のよい事に細田氏は無職で毎日何をするという事もなくブラブラしている身分で、たまに出掛ける先は病院であったり、買物であったりして、友人も案外少いことが判りました。
 大体そんなことが判ると私はいよいよこの犠牲者に対して実験を行うことに取りかかりました。恰度学年試験が漸く済んで一寸一ヶ月の休暇が私に与えられていました。私の探偵したところによると、其頃細田氏は毎朝神田の白十字会病院まで注射をうけに行くということが判っていましたので、私は躊躇するところなく事を始めました。
 最初の日は私はわざわざ下町で買い求めて来た正三角形の皮製蟇口を犠牲にすることにしました。この蟇口を細田氏の歩む道路上に捨てて置いて拾わせようという考えです。私は其の日予定の時間に三角形の蟇口を懐中に忍ばせて細田氏の邸の方へ出向きました。細田氏の宏壮な構の前には広い空地があって其の中を一本の奇麗な道が三十間程続いてその向うに小ぢんまりとした借家が両側に立ち並んでいました。駅へ出るには、細田氏はどうしてもこの道を歩かねばなりません。
 神経質な細田氏が病院へ出かける時間は大体午前九時三十分に決っていて、必ず其の時間には紋切型に氏の長身が太い御影石の門に現われるのでした。私は細田氏に拾われることを信じながらも万一他の御用聞きなぞに拾われることをも覚悟の中に入れて定刻二分前に門前十歩ほどの路上に其の三角形蟇口を落しておきました。そして直ぐさま身をひるがえすようにして門前につづく広い空地の片隅に佇んで細田氏の姿の現われるのを今や遅しと待っていました。
 果して間もなく細田氏は例の力なさそうな姿を門前にあらわすと、スタコラと白い路をすすみ出ましたが、どんな無神経ものの眼にでも気がつかずにいない赤い三角形の蟇口はやすやすと細田氏の注視の標となり、氏の桐の下駄はかつと鳴って、三角形蟇口の前に止りました。直ぐ拾い上げるだろうと予想した事ははずれて細田氏はステッキでちょいちょいと其の蟇口をいじって見ましたが、突然顔をあげて辺りを見廻しました。もちろん私の姿も目に入るに違いなかったので私はつと横の路地の方へ大急ぎで飛び込んでゆきました。私は細田氏が何か大声をあげて私を呼びはしないかと思いましたが、一向声もきこえず、いつ迄たっても元のように静かでした。
 それから五分程過ぎたので私は路次から顔を出して窺いますと、細田氏の姿はもうありませんでした。私はすっかり計画が当ったのに雀躍りしながら、さりげなく蟇口を棄てたところに近付いてみますと、其の蟇口は側の溝の中に転って居ました。それは多分ステッキで上から押して見て何も入っていないと知るとステッキの尖でこの溝へ弾き込んだものにちがいありませんでした。私はとも角も其の蟇口を拾い上げていちはやく其場を立ちのくと共に、細田氏の眼底に、この毒々しい赤い三角形が刻み込まれたことを信ぜずには居られませんでした。
 こうしておいて其の翌日は、細田氏に三角形の原質的な記憶を呼び起さしめるために同じような時間に出向いて、あれから少しはなれた道路の上に、小さいセルロイド製の三角定規を落して置きました。
 細田氏は例の如く急ぎ足に出て来ましたが今日は少しも立ちどまりもせず、下駄で蹴とばしもせず、棄てられたセルロイド製の三角定規の側を過ぎて行ってしまいました。その三角定規が細田氏の眼にうつらなかったのだか、或いはそれが充分意識せられ、私の思いどおりに昨日の記憶を呼び起して不審な気持を抱き乍らも何気なく立ち去ったのであるか、一向判りませんでした。
 これでは折角の計画も駄目だと思ったので、翌日はもう少し薬を強くきかせることに決心いたしました。この為めに私は真黒な羅紗紙を小さい乍らも鋭い角を持たせるように切りぬきまして、其の上に新聞紙から「呪」という字を苦心の末、やっと三つ見付けて来て、これをその三角の片隅に三つの文字が三角形をなすように貼りつけたものを作りました。これを懐にして出かけた私は大胆にも、細田氏の石の門のすぐ前にいかにも目につきやすく落しておきました。そのあとで例の路次からいまにも出て来るであろう細田氏の挙動(きょどう)を少しでも目から放さないようにしようと思いました。
 この露骨な企ては到頭予期以上に成功したのです。細田氏は門のところへ、ツカツカと出て来るや否や、いきなり飛び上るように身を退いて、例の三角形の切抜きのある地上を見つめたではありませんか。私は一寸残忍性を帯びた微笑をせずには居られませんでした。細田氏は四辺をキョロキョロと見廻しましたが、身を屈めて例の黒い三角形を取上げると、クルリと後へ向いて再び門の中に消えてしまったのです。それから五分たっても十分たっても其の姿は現われませんでした。
 私は思いの外にうまく行った事を喜びました。医科の助教授連が学用モルモットを殺すときの気もちに似た残虐的快感に燃え立ったのでした。細田氏が十分間たっても姿を現わさないのは恐らく氏が自分の室にかえりあの呪いの三角形を見て前日のことを思い浮べ外へ出る気にならないのだろうと思いました。あの分では細田氏は前日の三角定規も確かに認めたのに相違あるまいという事が考えられもしました。あのほそい神経の持ち主が、ここまで来ればもう一寸やそっとでは、此の三角形の脅迫観念から退れることはできまいという事も思い合わせることが出来ました。
 科学に縁遠い人間に、三角形に対する恐怖を抱かせることの出来た私は、もうそれで所信の点を充分確かめ得たわけですから、此所で手を引くのが当り前でした。しかしいつの間にやら私の興味はこういう概念的(がいねんてき)なことよりも、細田氏という一個の人間を操ることの現実的興味に変じてしまっていたものと見えて、私は更にそれからそれへと三角形の恐怖の段取りを進めて行ったのです。それが為めに到頭後に御話するような取返しのつかない事件をひきおこしてしまったのでした。
 兎も角、それ以来というものは細田氏の病院通いがパタリと中止されました。私は邸前の路地や、空地の片隅に佇んだまま無駄な数日を送りました。表からは勿論のこと裏の木戸からも、細田氏の姿は一寸も現われることがありませんでした。私は今用意して来た恐怖刺戟の種が数日間も氏に供給せられないために、ここまで搬んだ計画が途中で妨げられてしまうんではないかと思って大いに気をくさらしましたが、よく考えて見ますと、あれからのちは私自身が手を下さなくとも、細田氏は自分でいつでも到る所、身のまわりに三角形の空間を見出して独りで三角形の恐怖を加速度的に増大させていたに違いはないのです。
 たとえばですね、時計の指針は一日に数十回に渡って鋭角を形作ります。窓から陽が斜に入れば三角形の影が沢山出来るわけです。用箋を繰れば、偶然に枠が傾斜をして紙と縁と三角形をなしていることもないとは言い切れぬことです。万年筆の尖も三角なら、女のひたいも三角形をなしているのでしょう。それからそれへと限りなくこの最も簡単な空間は細田氏の前に展開して氏の恐怖は地獄を駆けまわっていたことでしょう。
 細田氏が家から一歩も出ないという事が判ると私は更に手段を講じて氏を又別の方法で脅迫することを忘れませんでした。配達された郵便物の上に無気味な三角のマークをつけることも、少々冒険ではありましたが、やって見ました。これは帽子もかむらず勝手口の傍で草でもむしっているような恰好をすれば、郵便配達夫は何の疑いもなく郵便物を私に手渡して呉れます。また細田氏の窓に三角形の凧を飛ばせて引っかけたり、子供たちに紙でつくった三角形の帽子を被らせて庭で遊ばせたり、いろいろなことを試みました。
 しかし折角の試みも細田氏が外に姿を現わさないので、その恐怖がどの位まで氏に影響しているかを明らさまに知ることは六ケ敷(むつかし)いことでした。これが活動写真かなにかなら私が変装でもして邸の中に入り込むのですが、それ程大胆な事は出来ない。学生らしい弱気も充分にあったのです。こんな訳で呼べども答えずといったような有様に私は少し興味を失いかけて、邸前の空地にあらわれることも何時とはなしに疎かになって行きました。
 ところが長々と育まれて来た呪いは、遂に最後のカタストロフを導き出すことになったのです。それはもう三月も暮れ、四月に入って学校の授業も一両日中には始まろうという日でした。私は残り少くなった休暇をせめて一日でも有効に使いたいと思って珍らしくも、私の先輩にあたる須永助教授を、染井の家に訪うために、少し遅い朝飯をしまうと、東中野駅の方へブラブラと歩いて行きました。あれで三四丁もありましょうか、クネクネとした路を通り切って其処は駅まで一本道になっているところまで来ましたとき、見るともなしに向うを見ますと、一寸始めは気がつかなかったのですが、相貌こそやつれたれ常にかわらぬヒョロ長い細田弓之助氏がこっちへセカセカと歩いて来るではありませんか。私は今少しで大きな声を立てるところでした。驚いたことに細田氏はすっかり痩せてしまって、其の顔は髯こそすってあるが顔の下にある骨のかどかどがはっきり見えるほど頬はこけ落ち、前よりも三倍も大きくなったかと思われる其の眼はいやに血走っていました。
 私は相手が既に私を知っているかどうかを考えました。もし細田氏が邸の前に不審な挙動をして徘徊する私を窓越しにでも見覚えているものとすれば、私が彼に近付いたとき大きな声でも立てられて「この学生は曲者だから、ふん縛れ!」などとわめかれでもしようものなら大変だから、逃げた方がよいと思いました。そうで無くて細田氏が私を例の三角形事件と結び合わして承知していないのなら、私は平然と狂犬の如き氏の横をすれちがって通るのがよい。たとえ理由なくとも、今向うからやって来る氏の顔を見て逃げ出したのでは錐(きり)のようになっている敏感な氏は瞬間に万事を悟って誰彼の容赦なく、忽ち狂犬の如く咬みつくことであろう。そう思うとさすがに私も進退谷(しんたいきわ)まって、いつの間にか往来に立ち停ったのでした。
 其の時でした。不意に横丁から笛と太鼓と鉦(しょう)との騒々しい破れかえるような音響が私の耳を敲きました。と早や私の身体を前に押し出すようにして私の前に躍進したのは、近所の寄席の番組がわりでも触れて歩くらしい広告屋の爺さんで、背中には赤インキで染めたビラを負い腹に釣った大きな太鼓の前には三角の広告旗を沢山つけ、背中のうしろからのび上った竿の先に身体を全体をおおうかのように拡げてとりつけられた紅白だんがらの花傘の上にまで、一面に赤い三角旗を樹てまわしていました。
 私は一瞬間このグロテスクな闖入者に驚かされましたが、直ぐ眼前の敵である細田氏の姿に眼をうつしました。其時アッと思う間もなく細田氏はクルリと背後を見せるが早いか蝙蝠傘を拡げたような恰好をして向うへ逃げ出しましたが、直ぐ左手にあった喫茶店へ大あわてで飛び込んだものです。
 其の姿を一目見ると私は何もかも事情が判ってしまいました。いや何も知らない広告屋の爺さんは、細田氏の恐怖の標である三角形の旗を身体中にヒラヒラとひらめかして凱旋将軍の如く向うへ押しすすんで行くではありませんか。私は急に身体が軽くなるのを覚えました。そしてカラカラと笑いたくなりました。
 実に其時です。細田氏が今にげ込んだ喫茶店から、白いエプロンを締めた女が戸口へ真青な顔をして飛び出して来ましたが、
「大変です! 誰か早く来て下さァーい」
 とバタバタ足踏みをし乍ら両腕を頭の上に差しあげてうち振りました。絹を裂くような若い女の声に喧噪の渦巻の中にあったような流石の広告屋の爺さんも驚いてあとをふりむくと喫茶店の戸口へ馳けつけました。続いて近所から人がバラバラと飛び出して来て喫茶店の方に集って来ました。若い女は何か訳のわからぬことを喚き乍ら戸口から家の中の方を指さします。人々はドヤドヤと入って行きました。
 これは只事ではない。私はあの中へ飛び込んだ細田氏が出て来ないのが不思議に思われました。しかし次の瞬間には、これは細田氏がどうかしたのに違いないと思いました。私は又何日かのように残忍性の興味が身体中から噴水のように湧き出て来るのを感ぜずには居られませんでした。そうなると奇妙にも勇気が出て来て、私は脱兎の如く、駈けつける近所の人の袖の下をくぐって、喫茶店の中に飛び込みました。ああ、しかしそれは何という物すさまじい光景であったことでしょうか。
 この喫茶店の室内装飾は実に奇怪を極めた表現派様式のものであることが一目見て判りました。其処には不思議な形に割れた三角形がその室の至るところに怪しい立体面を築き上げていました。室の壁紙は白と黒と黄との畳一枚位もあろうと思われる三角形ですさまじい宇宙をつくっていました。七色とりどりの酒瓶が並んでいる帳場の棚には、これも鋭角三角形でとりかこまれていました。
 それよりも一層驚かされたのは此の室の片隅に細田氏が仰向きに倒れ手足は蜘蛛の如く放射形に強直され、蒼白の顔には炯々(けいけい)たる巨大な白眼をむき出し、歯は食いしばられて唇を噛み、見るもむごたらしい最後をとげていました。驚いたのは、そればかりではありません。細田氏の屍(かばね)の側には四角なテーブルが、対角線のところから三角形をなして真二つに割れて転っているのでした。
 私ははげしい戦慄に襲われました。そして三角形恐怖事件に関する今までのことごとくの事柄が浮び出て脳髄の中を馳けまわるように覚えました。私は、其の三角形に割れたテーブルが、表現派好みの三角形のテーブルを二つ並べ合わせてあったのが転って二つに割れたように見えたのだということを知る余裕もなく、飛ぶように喫茶店を出ると一直線に家へかえりました。そして自分の机の前に身体をなげ出すと共に、此のあさましい試みが生んだ惨劇の中に、間接ながらとりもなおさず殺人者である自分を見出して、はげしい自責(じせき)と恐怖とに身を震わせました。
 それから時計は徐(しず)かに廻りました。夕方に配達された夕刊には「カッフェで大往生」と題して「細田弓之助(33)が喫茶店『黒猫』で頓死したが、原因は病み上りの身で余り激しく駈け出した為、心臓麻痺(まひ)を起したものらしい」とあったのです。私は懊悩のたえ切れない苦しさを少しでも軽くしようと冀(ねが)って、昼間出掛けようと思った先輩の須永助教授のところを訪い、一切を告白して適当な処置を教えて貰おうと決心しました。
 外へ出てみますと其の日の惨劇を忘れたような静かな夜の幕はふかぶかと降りていました。例の喫茶店さえ、どこに死人があったかというような賑かさで、陽気な若い男の笑い声が高く大きく街路へまで響いていました。私は少しは気が軽くなって、其の前をすり抜けるように通り過ぎて、駅に出ました。
 染井の須永先生の書斎に通されたのは、もう九時を廻っていたのでした。私は早速三角形恐怖の試験をはじめるイキサツから今日の惨劇を見るに至るまでの事を緊張裡に細々と告白しました。須永先生は短い口髯を指さきでもみながら静かに傾聴されましたが、私の言葉が終ると、低い声で軽々と笑って、
「君は此頃ちと神経衰弱のようだよ。若い身空で、そんな小さいことをくよくよ心配していると、君の姉さんのような病気に乗ぜられるかも知れないよ。日本全電力を火山を利用する火力発電に悉く改めてしまおうという大計画を抱いていた日頃の君とも思えないじゃないか。そんなことは心配する必要はちっともないよ」
 と言って呉れました。私は常日頃尊敬する須永先生からこの軽々とした評言を聞くことが出来て喜んだのは当然です。それでも多少の悔恨を持って家に帰りました。いやまだ少し話の先があるのですよ。
 その翌日のことでした。差出し人の書いてない手紙が私宛に参りました。これを母がいぶかしそうに二階の私の部屋に持ちこんで来たときは、思わずハッとしました。多分どこからかの脅迫状でもあろうと思いましたが、たった一人生き残った母親へ心配を懸けたくないと思ったので、それはそそっかしい親友A――の筆蹟にちがいないと話して安心をさせました。
 母が階下へ降りてから、早速こわごわ封を切って見ますと、中には用箋が四五枚綴じた手紙が出て来ました。それは随分と乱暴な筆蹟で書きなぐってありましたが、文章の最後には差出人の名前がちゃんと出ているではありませんか。それに驚いたことは、この差出人は昨夜死んだ細田弓之助其の人なのです。
 私は其の手紙をもう焼いてしまったので今日貴方にお見せするわけには行きませんが、大体こんな意味のことが書き綴られていました。

 宗夫君。
 私の生命は今日に迫っている。それは私には良く判る。そして今を除いては私が君に呼びかける時も又とあるまい。
 私は最近になって君が、昔私の捨てた恋人のたった一人の愛弟であるという事を知ることが出来たのだ。それを今まで知らなかった私は万事にどの位驚き続けたことであろうか。しかし今となっては何事も全て遅いのだ。
 もはや御察しの通り私は八年ほど昔、君の姉さんである時子と恋に陥ちていたのだ。私は二十五で、時子は二十だった。二人の恋は偶然なところから結ばれて秘密裡につづけられたので私達の間のことは恐らく君の母君とても御存知あるまい。
 私は二十五といっても、全くお坊っちゃんであったし、時子はどうかというと其の病気の所以もあったのであろうか、年よりもずっと進んだ気持を持っていた。私は五つ下の彼女が私に振舞った年上らしい熱情を今でもはっきり思い出すことが出来る。
 ここへ書くのも恥かしいことだが、無反省な若い心を持っていた私は不図した事から時子の胸の病を知って驚いた。それと同時に余りはげしすぎるように思われる彼女の熱情がたえられない程いやに思われて来て私は遂に彼女と別れる気になった。
 忘れもしない今から八年前の今日のことだ。いつもはわざと住居から遠くはなれて秘密な恋を味い喜んだあの佃島で私ははっきり切れ話を持ち出した。時子のなげきがどんなであったか、それは想像に委せる。私は時子を砂の上につきたおして逃げたのである。其のとき、時子は発作に襲われて激しく咳こみながら叫んだ言葉がある。それは「デルタ、デルタ」というのだ。其のさきは咳がはげしくなったのでどうしても言えなかったのだろう。私はそれでも逃げた。しかし彼女が別れのときに苦しい息の下から言わんとした意味はよく私にわかっていた。
 デルタというのは君も知っている通り「三角洲」という事だ。私達はこの会合の場所である佃島が三角洲であるところから、「デルタ」と日頃呼んでいた。
 時子の言いたいことは私の心の静まったとき今一度このデルタへ来て呉れ、思い直して是非来てくれということを言いたかったのだ。
 しかし私は遂に行かなかった。私はもっと無邪気な少女を恋の相手に欲しかったのだ。
 私は時子が翌年死んだことを聞いた。それ以来私は何故か非常に憂鬱になってしまった。いろいろの名医に診てもらったがどうもはっきりせず、身体はやせる一方だ。私は此の年まで結婚は遂にしなかった。いやこれにも時子の呪いが被っているのかも知れない。
 ところが先月の事だ。私は家の前でつづけさまに三日間、ものこそかわれデルタにちがいなき三角形のさまざまなものを見出さねばならなかった。私は時子の呪いの総勘定日が近づいたことを知った。いや其の上にそれからというものは時子の顔が窓の外にあらわれたりいろいろと変なことばかりが重った。時子の顔と思ったのは、その弟である君の顔だという事にやがて気がついた。しかし其の時私は、時子の弟が、あからさまに時子の呪いを奉じて私を脅かしつつあるという新しい事実に戦慄しなければならなかった。
 私は実に苦しい。君の家も調べさせてわかったから、今日にも突然君を訪ねて一切を話そうかという気にもなってはいる。しかし面と君に向うだけの勇気は中々起りそうにもない。
 今日は朝から七年前のデルタの上で別れたことを思い出していると、どうやら今日は自分が死にそうな気がしてならない。このまま死んでは私の罪が一層重なるわけだから、今のうちに一寸認(したた)めて君へ送っておきたいと思ったのである。
 ただ一つ心係りは、どうして君が時子の呪いのデルタを探し出して私を脅かすようになったかという事である。しかしこれとて今は聴いても何の役にも立たぬことなのであるが……。
四月九日
細田弓之助

 私は此の手紙を読んで呆然としました。私が十七歳のときに胸の病で別れた美しい姉がこんな秘密を抱いて死んだとは、始めて聴く事実でした。また細田氏が偶然私の選んだ試験台であり乍ら、亡き姉を捨てた恋人であった事は一層不思議なことでした。細田氏は私が事情を知って、氏を三角形(デルタ)で脅かしているものだと死ぬまで思っていたことでしょう。何はともあれ、細田氏の死去がのがれられない呪われた運命の仕業であることを知った私は、どんなに心が軽くなったことでしょうか。それからというものは私は見違えるように家の中でも快活になって何事も知らぬ母親を驚かしたり喜ばせたりしました。あの陰気くさい塔の森さえ暴風雨の前に立つ巨人の像のように雄大に仰がれるようになったことでした。
 私の長い話はこれで大体御しまいなのです。が例の癖で最後に一寸だけ言わして貰いたいことがあるのですよ。それはこの話の中で貴方も御気付きのことだろうと思いますが、いくら私の姉が上手に細田氏のことを隠していたって生みの母に一度も疑われずに来たというのは随分おかしなことだと思うんですよ。私は此の頃ではどうやらこの事件の本当の内容が判って来たように思うんです。
 私の臆測が若し間違っていなかったとするならばですね、私はやっぱり細田氏を三角形に脅かして間接に殺したことになるのです。つまり私の立てた説が本当に物凄い価値を現わしたことになるのですね。
 あの手紙ですか。あれはあの晩尋ねて行った須永先生が、私のことを大変心配して、どうにかして若い身空の私に元気をつけさせようと思って、大いそぎであの手紙を創作したのじゃないかと思っています。
 それに一つ根拠のあることは、母の話によると、実は姉の生きていた頃、姉は大変須永さんを褒めていて、誰かが悪口を言うとしまいには泪(なみだ)を出して泣いた位だという事です。あの手紙の中にある細田氏のことというのは実は須永さんの創作にして、且つ須永さん自身の体験の一部を漏してあったのではないかと思うのです。遺憾なことに須永さんもそれから数年後、英国へ留学して、あの地で奇妙なバクテリアに取憑れて亡くなったので、そんな事に気がついたときにはもう事実を須永さんから聴きただすことも出来なくなっていました。
 そうなると私は罪を背負わねばならぬことになりますが、そんな事はどうでもよいという気がしています。いや貴方が今御覧の通り、これで体重が十九貫ありましてね、至極呑気に生きています。昔のような安価なセンチメンタリズムに陥るには、今のところ余りに健康すぎると言うわけなんですよ。ハハハハハハハ。

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三角形の恐怖 「無線電話」 1927(昭和2)年4月号

海野 十三 : Unno, Juza 1897-12-26  1949-05-17
日本SF始祖小説家。本名は佐野昌一。徳島市の医家に生まれ、早稲田大学理工科電気工学専攻。逓信省電気試験所に勤務するかたわら、1928(昭和3)年、「新青年」に『電気風呂の怪死事件』を発表してデビュー。探偵小説、科学小説、少年小説にも数多くの作品を残した。敗戦翌年1946(昭和21)年2月、盟友小栗虫太郎の死が追い打ちをかけ戦後を失意の内に過ごす。丘丘十郎(おか・きゅうじゅうろう)名でも作品を残し電気関係の解説書を執筆している。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1228.html

2009年11月18日 (水)

「男の嘘」と「女の勘」 どちらが勝つか?

人には「五感」プラス「第六感」があり、女性は「第六感」が発達してるのは脳の仕組みにあるという。

男性は狩りをしたり、外敵から守るために戦ったりしてきたので、自分と相手との三次元空間上における位置関係を把握できる「空間認識能力」を発達させてきた。

女性は群れの中で子供達を守り育て、仲間に迫る危険を見張る役割をしていた。子育てに必要なコミュニケーションが発達して、相手の表情を読み取る能力に長けている。
右脳と左脳を繋ぐ「脳梁」が男性よりも太く発達して、一度に多くの情報をやり取りできる。周囲の状況のわずかな変化に敏感に気付き、危険をいち早く察知できるという。

Nou

左脳は分析的・論理的機能をもち、言葉を話したり計算したりする。
右脳は直感的機能をもち、空間を認識したり芸術を楽しんだりする。

脳梁が情報をバランスよく使い、総合的な判断をしたり、未来の予想を算出する。女の勘の鋭さは、観察力、洞察力に優れた脳力の高さからくるそうだ。左脳と右脳の連携プレイから、女性は様々な情報を処理している。
非論理的な分野にも対応できるのは、女の特殊能力といえる。
巫女や霊媒師に、女性が多いのもうなずける。

しかし感情をあやつる右脳の興奮が論理的思考をする左脳に伝わり、脳全体が混乱してパニック状態になることもある。 それで男は女が感情的で論理の飛躍があって扱いにくいと感じてしまう。

現代社会や教育では、偏った脳の使い方に晒されているため、
男女の能力が垣根を越えることも多いだろう。
「嘘つき女」と「勘の鋭い男」どちらが勝つか?

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2009年11月17日 (火)

2012

マヤ文明では歴史は繰り返すという観念があり、異なる周期を持つ複数の暦が用いられていた。また暦のなかには一つの周期の終わりが滅亡に結び付くと考えられていたものもあったらしく、マヤ文明衰退の一因にこうした終末観の影響を挙げる者もいる。
マヤ文明で用いられていた暦の一つ、主に碑文などで用いられていた長期暦はある起点日からの日数で表わされておりその周期は13バクトゥン(187万2000日)であった。長期暦のグレゴリオ暦への換算は様々な計算法が確立されているが、現在有力視されているのはGMT対照法である。

マヤの神話はディエゴ・デ・ランダの焚書の影響などにより、現存する資料が少ない。しかしながら、現在残されている『ポポル・ヴフ』などからはマヤの世界観が破滅と再生の周期を持っていたとされている。

その世界観では現在の世界は第5の時代にあたっており、先行していた4つの世界はいずれも何らかの要因で滅んだとされている(それぞれがどのような要因で滅んだかは、資料によって違いがある)。それらの世界の周期は各13バクトゥンとされていた。こうした世界観はメソアメリカでは典型的なもので、アステカ人の神話にも見られる。

長期暦の現サイクルの始点である|紀元前3114年には世界はおろかメソアメリカ限定ですら何らかの大規模な天災地変の痕跡を見出すことはできないため、この年代は歴史的な理由というよりも神話上の起源として想定されたものであると考えられている。この始点を設定したのは紀元前3、4世紀ごろの神官たちであったと推測する者もいる。

他の事柄との関連
この年の5月20日に最大規模と呼ばれる金環食が起こり、この時太陽、地球、月、さらにこれに加えプレアデス星団までが正確に地球と一直線に並ぶという天文学的に稀な現象が発生すると主張する者もおりその日が12月22日の滅亡に向かう契機と解釈するものもいる。また、フォトンベルトと関連付けるものもいる。

ほかに太陽活動の極大期が2012年頃に当たっており太陽嵐が発生する可能性があることから、ギルバートのようにこれと関連付ける論者もいる。だが、これについては1957年にほぼ同程度の活動があった時も特に人類滅亡には繋がらなかったとする反論が寄せられている。それに対して地球の磁気圏で見つかった巨大な穴により、今回は大きな被害に結びつくと指摘するものもいる。

なお21世紀に予言者を自称する者には人類の8割が滅亡する時期を2043年におくジュセリーノ・ダ・ルース、2012年に特に言及のないまま西暦3000年までの予言をしているジョー・マクモニーグルのように2012年に人類が滅亡するという立場と一致しない予言をする者もいる。また自称「未来人」のジョン・タイターは2036年から来たと主張していたが、彼によれば2015年に米ロをはじめとする主要国の核戦争が起こったという。wikipedia

「未来人」ジョン・タイター
2000年11月2日、電子掲示板に、2036年からやってきたと自称する男性が書き込みを行った。彼は John Titor (ジョン・タイター)と名乗り、未来からやってきたという証拠を提示していった。
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/30_c397.html

20091114

2012年の出来事の実際はこなければわかりません。しかしすでに多くの人の体に変化が生じていると思われます。以前の体では経験しない不調(長期の下痢や風邪やインフルエンザににた症状、頭痛など)や逆に一般的に直らないと思われる病気が回復、また従来の病気が急に進行するなどです。いろいろな観点からみて人類と地球がまさに限界にいることは事実です。特に地球事態が人類の残虐行為(核爆発、戦争、飢餓、貧困、不安、自然破壊、動植物の消滅)などにより瀕死の状態であるため今の霊的なレベルの人類を養うことができないということです。災害の多くは地球自体の自己治癒の方法なのです。ただし関東圏の地震がいまだにこないという事実は災害に伴い生じるさまよえる数百万人の魂の開放は今以上に地球を疲弊させるためにほかの場所でエネルギーを抜くことにより避けられているようです。ですから地球としましては死後にさまよう魂をできるだけ作らない方法で人類を減らす方法をとるようです。つまり大災害は来ないということです。ただし人類はかなりはやく自然な形態で減少するようです。日本人の少子化もこのためと思われます。
また人類は悪と善の世界を作り上げこの悪が地球を疲弊させている主な原因ですから悪が存在できない状況を作り出すべく非物理世界から多くの意識体が地球とともに働いております(ここの部分は各自の直感か霊的な能力に依存します)。アメリカや日本での国民の意識の変容もまた顕著ですね。自我をコントロールし何事も楽しみ、愛的な生活で全てはうまくいくと思います。

2009年11月16日 (月)

AFRICA セバスチャン・サルガド

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「セバスチャン・サルガド アフリカ」展
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東京都写真美術館では、フォト・ドキュメンタリーの先駆者であり、今もなお精力的に新作を発表し続けているセバスチャン・サルガド(Sebastião Salgado、1944~)の「アフリカ」展を開催いたします。
この展覧会は、かつて経済学を専門としていたセバスチャン・サルガドの視点を通して「見捨てられた大陸」と呼ばれるアフリカの現状に迫るものです。サルガドが初めてアフリカを取材した1970年代から今日に至るまで、世界各国でアフリカの飢餓、砂漠化を救うべくキャンペーンが組まれ、さまざまな計画が実行されてきました。にもかかわらずその状況は一進一退を繰り返しています。度重なる紛争で、さらに悪化する環境を食い止める手段すら見つからない地域がある一方で、経済的発達が見込める都市では一時期、爆発的に経済が発展し、アフリカが保有する資源にも注目が集まっています。格差が広がるばかりのアフリカの現状をどのように理解し、関わっていくかが国際的に問われているのです。
作家は現在、自ら「最後の大プロジェクト」と語るシリーズ「GENESIS(ジェネシス/起源)」に取り組んでいます。このプロジェクトは世界各地、前人未踏の地までも取材し、作品発表だけでなく、教育や植林活動等を通して地球の恵みと人類の歴史を見直そうとするものです。本展覧会では、「ジェネシス」シリーズの最新作も含めた作品群100点を展示します。
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■会 期:2009年10月24日(土)→12月13日(日)
■休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
■会 場:2階展示室 東京都写真美術館 http://www.syabi.com/details/sarugado.html

Birds

--- アフリカ・ナイト AFRICA NIGHT ---
アフリカの伝統楽器Nyatiti(ニャティティ)の、世界初の女性奏者によるライブ演奏をお楽しみください。
2009年12月4日(金)19時~20時 
会場:東京都写真美術館 1階カフェ シャンブル クレール
出演:Anyango アニャンゴ (向山恵理子)with ニャティティ・ワレンボ http://ameblo.jp/anyangowarembo/
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Compilado de fotos SEBASTIAO SALGADO
http://www.youtube.com/watch?v=qzXRL15aAfo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=sWbdJ87kiZk&translated=1
http://www.youtube.com/watch?v=sWbdJ87kiZk&translated=1

Africa

これらはナンセンス画像ではありません。

円形と大地につながっている大切な写真であります。

2009年11月15日 (日)

世界は丸である

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人が作るのは、直線が多く、

自然は曲線の展開によって成り立っている。

水平線も人の目には直線に見えているけれども、

地球自体が円形なので、地平線も含めて

正確には曲線を緩やかに描いているのであった。

そして世界が見せているのは優しい丸の形である。

縄文人たちと岡本太郎は、その美しさを感じとっていたと思う。

円形を感じるのは、頭でなくて五感覚と心だと推測される。

2009年11月14日 (土)

江戸地下にある構造物の謎

◆東京という都市を、ある人は不死鳥、ある人はいずれその死を迎えるべき運命にある都市だという。たしかに、底知れない魅力と魔力に満ちた街には違いないが、それは目に見える世界のことだ。未知の部分を地上ではなく、地下に持っているといってよい。考えてみれば、その大部分は、考古学の対象となる江戸の地下構造物ではないだろうか。

◆地下鉄道は空襲下における唯一の交通機関として必要欠くべからざる施設でありますから、帝都における地下鉄道を整備拡充することは、平戦両時の交通上、並びに防空上、焦眉の急務であると確信するものであります。(中略)よって、地下鉄道の急速なる整備拡充を行うがために最も適応する有力な特許機関を設立し、これに現在の地下鉄道の全部を買収せしめると同時に、毎年資材と資金の許す限り極力建設を促進せしめ、かつまた政府においても、これに対して強力なる監督助成をなすことが肝要であると考えまして、ここに本案を提出した次第であります。

http://homepage3.nifty.com/norikoakiba/
◆大東京市復興計画案『東京の都市計画をいかにすべき乎』
中村順平が1924(大正13)年製作した関東大震災からの理想的復興を示した。
復興が中途半端に実施されている状況を憂い、ドイツ製高性能カメラで撮影された帝都空中写真をもとにバロック式の帝都道路交通網が設計。「開拓地を視るがごとく」なった東京を前に、放射パターンの復興計画を掲げた。地主が復興に反対しているのならその土地だけ残して道路を敷いておく、東京にはそんな地主はいないだろうと一種皮肉をこめた内容。

◆きみは知らないだけだよ
終戦直後の東京の地下鉄網について/
http://diary.nttdata.co.jp/diary2003/10/20031014.html 

◆営団地下鉄には路線図には載っていないさまざまな線路

 1.千代田線代々木公園駅には8編成ほど格納できる車庫があります。地上
   の場所で言うなら、NHKのあたりです。
 2.千代田線霞ヶ関駅には有楽町線との渡り線があります。ということは、
   千代田線と有楽町線での車輌の行き来が出来る事になります。
 3.南北線市ヶ谷駅に4編成ほど格納できる車輌基地があります。ここは有
   楽町線とつながっていて地上の場所で言うなら市ヶ谷堀の地下辺りか?
   (2項と総合すると千代田線・有楽町線・南北線はつながってる)
 4.南北線王子神谷駅に南北線最大の車輌基地があります。ここはまさに地
   下要塞で東京ドームぐらいすっぽり入る広さです。しかし、ここは一般
   公開とかあって案外「パンピー」には知られています。

1・2・3項とも、それぞれ国家にとって大変重要な拠点にあります(3項は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地)。そして3路線(南北・千代田・有楽町)とも、建設時の工法は従来営団が使用していた埋設工法(阪神大震災でぼろぼろになった)とは異なり、災害に強いシールド工法(かなり金がかかる)です。巨大シェルターが存在するかどうかは判らないけど、有事の際はこの3路線のネットワークを使って要人が避難したりすることは充分に考えられるということです。
http://www.asyura.com/sora/bd11/msg/967.html

Daitoyou

皇居の東南の方角、東京湾に描かれた謎の巨大円。面積はほぼ皇居に匹敵する。皇居の南東角から、官庁街、銀座の服部時計店の交差点から、円の中心点を目指して、大通りが一直線に走っている。巨大円の西南側には、ホテル群か軍施設か研究施設か、整然と並んだ建物群が隣接して、謎の巨大円に付属する施設である。当時日本は大東亜共栄圏の長という、壮大な自負心を持っていたから、政府内務省が日本のケープケネディにしようと考えていたかもしれない。
江戸湾は開拓地江戸に人が集まるにつれ、海に排出される米のとぎ汁や、大量の野菜くずなどに呼び寄せられて各種の魚が集まった。かくして江戸は湾の魚に支えられて百万消費都市となり、住民のゴミは西南側に集めて捨て結果として埋め立てになった。小さな佃島は、現在のような長大な月島にと成長した。「この世をば、どりゃお暇に、線香の、煙とともに、灰左様なら」

2009年11月13日 (金)

マンボウトンネル

P1000296 P1000297

JR東海道本線の下をくぐるマンボウトンネル。
それを南から北へ抜けてみました。
マンボウトンネル>谷崎潤一郎の小説「細雪」にでてくる
兵庫県西宮市にあるトンネル(水路橋)。
http://www.youtube.com/watch?v=9AfR3nHXctU

「マンボウ」(平松橋梁)
http://homepage3.nifty.com/noafactory/tetsu-ikotan/it000/f000.html

2009年11月12日 (木)

「山と水を楽しむ」ニ楽荘

Photo_2

兵庫県武庫郡本山村から「岡本山」を現在レート約2億円で土地買い上げて明治42年9月にニ楽荘本館を完成させた。
顧問設計の伊東忠太は完成したニ楽荘を見て、「本邦無二の珍建物」と自慢していた。。
敷地面積24万6000坪を階段状に削り出して、平地部に私塾、武庫中学と関連施設が増設された。さらには学校の各施設を結ぶケーブルカー3本設置されるという倒錯した舞台となった。
荘内には気象観測所・園芸部・出版部なども置かれ、多岐に渡る活動が展開された。
中央アジア・インド全域に調査活動を展開した大谷探検隊の収集資料の調査、研究、公開も併行して行われた。教団近代化へ導く舞台は大正3年閉鎖され、本館は昭和7年不審火で焼失した。
インドのタージマハール廟を模した二楽荘本館。その内部はインド室、アラビア室、英国風の大部屋と世界各国の室内構成になっています。本館の基礎部材は神戸沖に沈んだイギリス船の部材を使った建物だった。屋根や壁は赤褐色でかなり目立ったという。

Photo 

二楽荘(Wikipedia)
西本願寺二十二世門主・大谷光瑞が六甲山に建設した別邸である。
明治42年に建設されたが、数年後には閉鎖され、昭和7年に焼失した。
「二楽」とは「山を楽しみ、水を楽しむ」「山水を楽しみ、育英を楽しむ」の意味だという。

大谷光瑞は、1902年(明治35年)に現在の須磨離宮公園の地を買い上げ別邸としていた。1907年、宮内庁が武庫離宮建設のため、この山林、宅地を買い取り、その代替地として光瑞に与えられたのが、兵庫県武庫郡本山村(現・神戸市東灘区)の村有であった通称「岡本山」である。光瑞は、明治40年(1907年)、この地を15万円(当時価格)で買いげ、明治41年3月17日に二楽荘本館を起工し、わずか1年半後の翌年9月20日に竣工した。以後も順次付属施設が建てられていった。

本館の建設は、壮大かつ華麗なもので、門主・光瑞を中心に、工事設計監督技師・鵜飼長三郎ほか4名が建設施工、内部装飾を担当し、建築費に約17万円を費やした。時には光瑞みずからが、技手、職工として鋭意従事することもあった。後に伝道院や築地本願寺を設計した東京帝国大学教授伊東忠太が、当初から助言を行った。「本邦無二の珍建物」と評され、当時の大阪毎日新聞の連載記事「光瑞法王と二楽荘」には「天王台の大観」と題する見出しがつけられているほどであった。総面積24万6000坪を数える広大な邸宅は、山麓を階段状に削りだし、その平坦部に各施設が建てられた。山麓の下段には、事務所の洋館と学生の教育をおこなう私塾・武庫中学(明治44年1911年)開校の校舎と付属館、中段には二楽荘本館、上段の山頂には純白の窮屋と称せられる白亜殿(含秀居・がんしゅうい)、測候所、図書館兼宿舎の巣鶴楼(すかくろう)などが配置された。そして各施設をつなぐために、3本のケーブルカーが設置された。ケーブルカーの桟道の両側には桜やコスモスが植えられていたという。

二楽荘本館の華麗な意匠と庭園
山頂の白亜殿が建てられる以前は、本館が光瑞の活動の中心であった。その本館の外見は、インドのアクバル皇帝時代の建物やインド近代建築の傑作といわれたタージマハルを模したとされ、赤いストレート屋根の西隅にはドームがそびえ、木造二階建て、地下一階となっている。驚くのは、この建物の基礎部分がすべて神戸沖で沈没した英商船の廃船部材を利用していることである。その巧妙な利用の仕方は、技師たちを驚かすとともに、光瑞の意匠を凝らした思いと経費節減の意図がうかがえる。本館内部の構造は豪華で、一階には、英国室、支那室、アラビア室、英国封建時代式の大室、純洋式の浴室と便所、事務室、二階にはインド室、廻廊式書庫、エジプト室、洋式客室、門主寝室、地下には調理室などがあり、建築様式や家具、調度類で各国の雰囲気を醸し出している。また、この本館の各国室には、大谷探検隊の収集品も展示されていた。

アラビア室は、本館東端に位置し、スペインのアルハンブラ宮殿内の王室の壮観を模したものといわれ、床は白と黒の大理石で基盤に敷かれ、中央の四角い池には噴水があり、周囲にはベゴニアやコケ類の鉢が置かれていた。その隣の英国室は、白土で塗られた大きな梁が天井を走り、テーブルや椅子すべてが、頑丈で素朴な英国風の調度類がおかれて、しかも壁一面に鹿などの角や頭蓋骨が飾られていた。

本館の外見と調和したインド室は、妻の重子夫人の部屋で、インドのアクバル皇帝時代の大臣室を模し、インド壁画や黒色大理石に宝石を飾った精巧な大額、妻の撮ったヒマラヤ大写真などが飾られていた。そして、エジプト模様と彫刻、ナイル河畔の大壁画とピラミッドの大壁画を巡らしたエジプト室を南に抜けると、屋外のベランダから南庭の毛先庭が見下ろされた。毛先庭には、花の文様や色彩が巧みに配合され、その中央には方線式の泉水が純インド風に配置されていた。

大谷光瑞の失脚と二楽荘の行方
第三次大谷探検隊をはじめとする教団事業の出費がかさみ、大谷家の負債が表面化するとともに、大正3年(1914年)には本願寺に関する疑獄事件が突発するなど多くの問題を抱える中で、同年3月、二楽荘そして武庫中学も閉鎖され、大谷光瑞は西本願寺住職・本願寺派管長を辞任するにいたった。以後、二楽荘は、大谷光瑞が中国の旅に出る中、住吉に豪邸を構える大阪の富豪で旧知の久原房之助に売却された。その額は、二楽荘の建築、地所、美術品一切を含んで16万円とも21万円ともいわれている。主がいなくなった二楽荘は荒廃し、本殿の漏水が著しく、ケーブルカーも停止し各所に崖崩れが起こり、レールの錆びが目立っていた。光瑞の白亜殿の書斎のすべての装飾も取り外され、見る影もなく哀れな状態であったという。

大正7年(1918年)、二楽荘山裾の増田太郎右衛門(本山村長)の所有地に甲南学園私立甲南中学校の設立計画が具体化された。学園は、中学の仮校舎の一部として、武庫中学の付属施設の部材を転用し、移築する承諾を久原房之助から取り付けた。また、武庫中学の講堂も久原から譲り受け、応急修理の後、校長室、事務室、会議室などに利用された。この武庫中学の講堂では、学園最初の入学式が大正8年4月に挙行された。以後、久原房之助は学園の創立委員、理事となり、二楽荘を学園に提供する意志を表明したが、結局立ち消えとなった。

昭和7年(1932年)10月 日午前3時30分ごろ、大谷光瑞が全精力を注ぎ込み、英才教育の推進や建築、園芸、西域探検などの調査、研究を通じて、教団を近代化に導く舞台とした二楽荘は、不審火によって焼失した。建築からわずか25年のことであった。二楽荘の全盛期があまりにも短期間のためか、今日、その建物の存在を知る人は少ない。
(出典 : Wikipedia)

Photo_3

二楽荘と大谷探検隊
http://tairyudo.com/tukan/tukan1801.htm
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/catalog/hyogo/ashiya/ashiya.html

●「モダニズム再考―二楽荘と大谷探検隊II」展
大正時代、阪神間のモダニズムの象徴だった「二楽荘」。大谷光瑞が大正2年に建てた別邸で「六甲の天主台」「本邦無二の珍建物」と称されたほど。
昭和9年の不審火による焼失までの25年間、異彩を放ち続けた二楽荘とその建築者である大谷光瑞の活動をさまざまな角度からとらえ、歴史的意義を再考する。
芦屋市立美術博物館
http://www.ashiya-web.or.jp/museum/

●建築家伊東忠太の世界展
http://db.museum.or.jp/im/Search/jsMuseumEventDetail_jp.jsp?event_no=14088

●妖怪研究 - 伊東 忠太 ( いとう ちゅうた )
http://www.aozora.gr.jp/cards/001232/files/46337_28722.html

2009年11月11日 (水)

阪神間モダニズム

大阪と神戸に挟まれ、六甲山を背景に広がる阪神地域は、明治時代の鉄道網の開通とともに大阪商人をはじめ、芸術家や文化人が移り住み、別荘地、郊外住宅地として発展します。伝統を重んじる一方で西洋文化の影響を受け、生活を楽しむ趣味豊かな人によって「阪神間モダニズム」と呼ばれるハイカラでモダンな独自のスタイルが築かれました。
http://www.kkr.mlit.go.jp/hanshin/mati/modernism/mode_01.html

戦前(主に1900年代から1930年代)にかけて、主に六甲山系と海に囲まれた理想的な地形を有する阪神間(神戸市灘区・東灘区、芦屋市、宝塚市、西宮市、伊丹市、尼崎市、三田市、川西市)を中心とした地域を土台に育まれた、近代的な芸術・文化・生活様式とその時代の状況を指す。

1923年(大正12年)の関東大震災によって継続的な都市化が一旦中断した東京湾岸とは対照的に、スプロールを続ける大阪湾岸(大阪・神戸)近郊の郊外化にともない、大阪府下の池田市、箕面市、豊中市、および神戸市須磨区・垂水区辺りまで、その文化圏は拡大していった。

語義
1997年の「阪神間モダニズム」展(兵庫県立近代美術館・西宮市大谷記念美術館・芦屋市立美術博物館・芦屋市谷崎潤一郎記念館の同時開催)を機に定義され、使われるようになった地域文化史の概念である。

戦後復興期や高度経済成長期など現代の日本(戦後)を除外し、明治維新から第二次世界大戦までの日本の近代化(戦前)の過程におけるこの地域での黎明期の文化現象を考察対象とする。

経緯
1894年~1895年の日清戦争を経て、当時の大阪は、日本最大の経済都市となり、神戸も東洋最大の港湾都市へと発展した。しかし、この両都市の産業拡大により、既成市街地の住環境は悪化することになる。

相前後して近畿地方では、アメリカ合衆国の例に倣ったインターアーバン(都市間電車)路線の建設が盛んとなった。阪神電気鉄道本線(1905年開業)を嚆矢とし、続く箕面有馬電気軌道(後の阪急宝塚本線、1910年開業)、阪神急行電鉄神戸本線(1920年開業)ほかの各線の開通は、神戸・北摂の未開拓な後背地であった近郊農村地帯への着目のきっかけとなり、快適な住環境創造を目的とする郊外住宅地の開発が、鉄道沿線である風光明媚な六甲山南斜面、いわゆる阪神間において進められた。この地区の都市的、文化的な発達と関西私鉄資本は切っても切れない関係にある。

まずは、明治期に京阪神の豪商階級の豪壮な邸宅を住吉村(現神戸市東灘区)の地域に次々と建築していった。この地域の開発を契機に、大正期になると実業家以外にも、当時の新興階級であった大卒のインテリサラリーマン層、つまり無産中流階級のための住宅地として発展した。文化的、経済的な環境が整ったことから芸術家や文化人などが多く移り住み、別荘地であった六甲の山上および緑豊な市街地となった山麓に、彼らブルジョアと呼ばれる富裕層を対象とした様々な文化・教育・社交場としてのホテル・娯楽施設が造られ、大リゾート地が形成された。そして、これら西洋文化の影響を受けた生活を楽しむ独自の生活様式が育まれたのである。それらは、現在に至る日本の芸術や文化、教育、娯楽、生活に多大な影響を与えた。現代でも高級住宅地、ブランド住宅地として全国屈指のエリアとなっている。 日本の近現代に建設された関東地方における例として軽井沢などの洋風リゾート施設・高級別荘地および、田園調布などの東京近郊住宅地にも、阪神間モダニズムの影響を見ることができる。

■ 当時建設された主な施設・邸宅等
武庫離宮(現・須磨離宮公園)
再度公園
相楽園(旧小寺泰次郎邸・蘇鉄園)
旧小寺家厩舎(相楽園内、国重要文化財)
旧山邑邸(現・ヨドコウ迎賓館、フランク・ロイド・ライト設計)
芦屋市谷崎潤一郎記念館(富田砕花および、谷崎潤一郎の邸宅)
旧安部邸(現・サンアール不動産芦屋寮)
滴翠美術館(山口財閥当主、山口吉郎兵衛の邸宅)
白鶴美術館(白鶴酒造、嘉納財閥、嘉納治兵衛の邸宅)
香雪美術館(朝日新聞社創業者、村山龍平の邸宅)
甲南漬資料館(旧高嶋平介]邸)
倚松庵(谷崎潤一郎の旧居)
二楽荘(浄土真宗本願寺派二十二世門主、大谷光瑞伯爵の邸宅)
旧辰馬喜十郎邸
旧乾邸(四代目乾新兵衛の邸宅)
旧住友家住吉本邸(住友財閥当主・住友友純男爵の邸宅)
旧岩井邸(岩井財閥当主・岩井勝次郎の邸宅)
旧野村家住吉本邸(野村財閥当主・野村徳七の邸宅)
旧住友分家邸(住友義輝の邸宅)
旧野村分家邸(野村元五郎の邸宅)
旧伊藤邸(伊藤忠財閥当主・二代伊藤忠兵衛の邸宅)
旧辰馬邸(辰馬財閥当主・辰馬吉左衛門の邸宅)
旧八馬邸(八馬財閥当主・八馬兼介の邸宅)
旧和田邸(和田久左衛門の邸宅)
旧小寺邸(小寺源吾の邸宅)
旧阿部邸(阿部房次郎の邸宅)
旧鈴木邸(鈴木馬左也の邸宅)
旧兼松邸(兼松房治郎の邸宅)
旧田代邸(田代重右衛門の邸宅)
旧勝田邸(現天理教兵庫教務支庁、勝田銀次郎の邸宅)
旧武田邸(銜艸居・現武田資料館、武田長兵衛の邸宅)
旧小寺敬一邸
旧弘世邸(現蘇州園・弘世助三郎の邸宅)
旧大林邸(大林組、大林義雄の邸宅)
旧山下邸(熊内御殿)(山下亀三郎の邸宅)
旧久原邸(久原財閥当主・久原房之助の邸宅)
旧川崎邸(神戸川崎財閥・男爵川崎正蔵の邸宅)
旧九鬼邸(子爵九鬼隆義の邸宅)
旧西尾邸(西尾類蔵の邸宅・現神戸迎賓館)
旧岡崎邸(岡崎財閥当主・岡崎忠雄の邸宅、現須磨離宮公園・植物園)
旧グッゲンハイム邸
旧ビクトル・ヘルマン邸(ヘルマンハイツ)
旧ハンター住宅
旧内田邸(内田信也の邸宅)
旧九鬼隆一邸
旧山本邸(現:財団法人 山本清記念財団)
旧小曽根邸(小曽根財閥当主・小曽根喜一郎の邸宅)
旧松下幸之助邸(名次庵・光雲荘)

提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Histrical architecture in Osaka Japan 消え行く大阪の近現代建築
http://www.youtube.com/watch?v=f_cAiw8V44Y

2009年11月 9日 (月)

夭折した天才「山中貞雄」現存する3作品衛星放送

衛星映画劇場  丹下左膳余話 百萬両の壺  1935年・日本 
NHKbs2  11月10日(火) 午後1:10~午後2:43      

早世の天才監督・山中貞雄の現存する貴重な3作品のひとつ。柳生家の次男・源三郎は、婿入りの引き出物として兄から贈られた古いつぼをくず屋に売り払う。そのつぼをもらって金魚鉢にした孤児のちょび安は、矢場を営むお藤とその用心棒・左膳のもとで育てられることになるが・・・。従来の超人的ヒーローの丹下左膳を人間味あふれる市井の人として描き、柳生家百万両の謎を秘めたつぼをめぐって珍騒動が展開する傑作時代劇。

Tange_sazen_yowjpg <作品情報>
〔監督〕山中貞雄
〔原作〕林不忘
〔脚本〕三村伸太郎
〔撮影〕安本淳
〔音楽〕西梧郎
〔出演〕大河内傳次郎、喜代三、沢村国太郎、花井蘭子、宗春太郎 ほか
(1935年・日本)〔白黒/スタンダード・サイズ〕

※午後1:00~1:10 山中貞雄入門
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丹下左膳余話 百萬両の壺(Wikipedia)
 
昭和10年(1935年)の時代劇映画。日活京都製作所が山中貞雄監督、丹下左膳役に大河内傳次郎で製作した。全11巻、同年6月15日封切。

百万両の金子が隠し場所が塗り込められた「こけ猿の壺」をめぐって丹下左膳と柳生一門との争奪戦に、丹下左膳が居候をしている矢場の女主人櫛巻きお藤と孤児ちょび安とのエピソードを絡めたホームコメデイ。

それまで丹下左膳の映画を撮っていた伊藤大輔監督が1934年9月に日活を退社。ために三部作の予定だったトーキー版「丹下左膳」の最終作「尺取横町の巻」が宙に浮いてしまった。そこで急きょ山中貞雄に作らせることになったという。

山中貞雄は伊藤作品の丹下左膳をパロデイ化した。アメリカ映画『歓呼の涯』 (Lady and Gent) をベースにモダンな明るい作風を目指し、お藤役に歌手の喜代三を登用、屑屋役の高瀬実乗、鳥羽陽之助コンビでコミカルさを加えるなど独自の演出を施すほか、伊藤作品における虚無的な左膳のイメージを廃して根っからの好人物に変え、大河内傳次郎の喜劇俳優の才能を見事に引きだしている。音楽もムソルグスキー作曲「禿山の一夜」などのクラシックの名曲を採用するなど洗練度を強めている。

だが丹下左膳のイメージに合わないと、原作者の林不忘側から抗議を受けている。終盤のアクションシーンのフィルムは戦後、行方不明になっていたが2004年に発見された(ただし、音声は無し)。

(Wikipedia)

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衛星映画劇場  河内山宗俊  1936年・日本 
NHKbs2  11月10日(火) 午後2:50~午後4:13      

その日暮らしのやくざ者、河内山宗俊と金子市之丞。二人にとって甘酒屋の清純な娘お浪は心のよりどころだった。しかし、お浪は弟の借金のために身売りすることになり、二人は彼女を救うため命をはって立ち上がる・・・。サンレント期からトーキー初期の短期間に活躍し、不世出の天才とうたわれた山中貞雄が、講談や歌舞伎の題材をもとに描いた人情時代劇。若き日の原節子がヒロイン役で初々しい姿をみせる。

<作品情報>
〔監督・脚本〕山中貞雄
〔脚本〕三村伸太郎
〔撮影〕町井春美
〔音楽〕西梧郎
〔出演〕河原崎長十郎、中村翫右衛門、原節子、山岸しづ江、市川莚司(加東大介) ほか(1936年・日本)〔白黒/スタンダード・サイズ〕

※午後2:45~2:50 山中貞雄入門
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衛星映画劇場  人情紙風船  1937年・日本 
NHKbs2  11月11日(水) 午後1:05~午後2:32      

小悪党の髪結新三は、町を牛耳る親分の鼻をあかそうと、親分一家が用心棒をする質屋の娘を誘拐する。新三の隣人である海野又十郎は、仕官する日を夢見て妻と貧しい暮らしに耐えていたが、このいたずらめいた誘拐騒ぎの片棒を担いでしまい・・・。歌舞伎で知られる「髪結新三」をもとに、江戸の貧乏長屋に暮らす人々の日常と悲哀が描かれる。本作の完成直後に出征し、戦場で28歳と10か月の人生を閉じた山中貞雄監督の遺作。

Photo_2 <作品情報>
〔監督〕山中貞雄
〔脚本〕三村伸太郎
〔撮影〕三村明
〔音楽〕太田忠
〔出演〕河原崎長十郎、中村翫右衛門、山岸しづ江、霧立のぼる、市川楽三郎 ほか
(1937年・日本)〔白黒/スタンダード・サイズ〕

※午後1:00~1:05 山中貞雄入門
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『山中貞雄作品集』には昭和5年山中貞雄21歳の「なりひら小僧」から遺作「人情紙風船」まで全シナリオ収録されている。これら脚本を読む限り山中貞雄の映像を失くしたのは、文化遺産を焼き払ったごとく犯罪的である。
代表作が『人情紙風船』と言われてしまうことになるのは、山中貞雄が一番悔しかろうと想像されるほど脚本にはわくわくするドラマが描かれている。
豊川悦司の主演映画作品『丹下左膳 百万両の壷』(2004年、監督津田豊滋)で作品リメイクされたように、以下の物語が再び蘇えることを祈る。

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山中貞雄 
監督
1929.06.05 からくり蝶 前篇  東亜京都  ... 助監督
1929.07.10 からくり蝶 後篇  東亜京都  ... 助監督
1929.07.13 鞍馬天狗  東亜京都  ... 助監督
1929.08.14 大利根の殺陣  東亜京都  ... 助監督
1929.09.13 明暦風流陣  東亜京都  ... 助監督
1932.02.04 磯の源太 抱寝の長脇差  寛プロ
1932.04.14 小判しぐれ  寛プロ=新興
1932.06.15 小笠原壱岐守  寛プロ
1932.07.13 口笛を吹く武士  寛プロ
1932.09.15 右門捕物帖 三十番手柄 帯解け仏法  寛プロ
1932.11.17 天狗廻状 前篇  寛プロ
1933.04.13 薩摩飛脚 剣光愛欲篇  日活太奏
1933.06.15 盤嶽の一生  日活太奏
1933.09.28 鼠小僧次郎吉・前篇 江戸の巻  日活太奏
1933.11.01 鼠小僧次郎吉・中篇 道中の巻  日活太奏
1933.12.14 鼠小僧次郎吉・後篇 再び江戸の巻  日活太奏
1934.03.01 風流活人剣  千恵プロ
1934.07.12 足軽出世譚  千恵プロ
1934.09.13 勝鬨  千恵プロ  ... 応援監督
1934.11.29 雁太郎街道  千恵プロ
1935.02.28 国定忠次  日活京都
1935.06.15 丹下左膳余話 百万両の壺  日活京都
1935.07.14 関の弥太ッぺ  日活京都
1935.11.01 街の入墨者  日活京都
1935.11.15 大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻  日活京都  ... 応援監督
1935.12.31 怪盗白頭巾 前篇  日活京都
1936.01.15 怪盗白頭巾 後篇  日活京都
1936.04.30 河内山宗俊  日活 =太奏発声映画
1936.08.14 海鳴り街道  日活京都
1937.03.19 森の石松  日活京都
1937.08.25 人情紙風船  P.C.L.
脚本
1929.02.08 鬼神の血煙  寛プロ
1929.07.13 鞍馬天狗  東亜京都
1929.11.01 右門一番手柄 南蛮幽霊  東亜京都
1929.11.15 恋の湊 三国一刀流  東亜京都
1929.12.14 貝殻一平 前篇  東亜京都
1929.12.31 二刀流安兵衛  東亜京都
1930.01.07 貝殻一平 後篇  東亜京都
1930.05.29 右門捕物帖 六番手柄  東亜京都
1930.07.13 続・鞍馬天狗 電光篇  東亜京都
1930.09.27 なりひら小僧  東亜京都
1930.11.29 右門捕物帖 十番手柄  東亜京都
1931.02.04 続業平小僧 怒濤篇  東亜京都
1931.02.28 右門捕物帖 十六番手柄  東亜京都
1931.04.15 喧嘩商売  東亜京都
1931.07.31 右門捕物帖 十八番手柄  寛プロ
1931.09.01 鞍馬天狗 解決篇  寛プロ
1931.10.01 戸並長八郎  寛プロ=新興
1931.10.29 右門捕物帖 二十番手柄  寛プロ
1932.01.07 江戸育ち なりひら小僧  寛プロ
1932.02.04 磯の源太 抱寝の長脇差  寛プロ
1932.02.27 右門捕物帖廿五番手柄 七十七なぞの橙  寛プロ=新興
1932.04.14 小判しぐれ  寛プロ=新興
1932.06.15 小笠原壱岐守  寛プロ
1932.07.13 口笛を吹く武士  寛プロ
1932.09.15 右門捕物帖 三十番手柄 帯解け仏法  寛プロ
1932.11.17 天狗廻状 前篇  寛プロ
1932.12.08 恋と十手と巾着切  新興
1933.04.13 薩摩飛脚 剣光愛欲篇  日活太奏
1933.06.15 盤嶽の一生  日活太奏
1933.09.28 鼠小僧次郎吉・前篇 江戸の巻  日活太奏
1933.11.01 鼠小僧次郎吉・中篇 道中の巻  日活太奏
1933.12.14 鼠小僧次郎吉・後篇 再び江戸の巻  日活太奏
1934.03.01 風流活人剣  千恵プロ
1934.07.12 足軽出世譚  千恵プロ
1934.08.08 へり下りの利七  日活京都
1934.11.01 水戸黄門 来国次の巻  日活京都
1935.01.15 水戸黄門 密書の巻  日活京都
1935.04.03 水戸黄門 血刃の巻  日活京都
1935.06.15 丹下左膳余話 百万両の壺  日活京都  ... 構成
1935.11.01 街の入墨者  日活京都
1937.03.19 森の石松  日活京都
1937.07.01 東海道は日本晴れ  P.C.L.
1959.03.11 江戸遊民伝  松竹京都
1959.08.09 戦国群盗伝  東宝
1960.10.16 がんばれ!盤獄  宝塚映画  ... 構成
原作
1930.09.27 なりひら小僧  東亜京都
1931.02.04 続業平小僧 怒濤篇  東亜京都
1931.04.15 喧嘩商売  東亜京都
1932.01.07 江戸育ち なりひら小僧  寛プロ
1932.12.08 恋と十手と巾着切  新興
1935.02.28 国定忠次  日活京都
1936.04.30 河内山宗俊  日活 =太奏発声映画
1936.07.01 お茶づけ侍  日活=太奏発声
1937.03.19 森の石松  日活京都
1939.10.21 その前夜  東宝映画京都
1955.05.13 旗本やくざ  宝塚映画
1956.11.20 朱鞘罷り通る  東映京都
1963.02.17 恋と十手と巾着切  東映京都

山中貞雄を見よう!!
昭和初期、流れ星のごとく現われ、消えていった日本映画史上屈指の天才監督のひとり、山中貞雄。このホームページは、彼の作品をひとりでも多くの方に見て頂くために開設されたものです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shadow/

山中貞雄 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person72.html

夭折した天才監督「山中貞雄」

1909年(明治42年)11月8日、京都市東山区本町通五条下ルに、父・喜三右衛門、母・よその末子として生まれる。1922年(大正11年)、旧制京都市立第一商業学校に入学、同級生にのちに松竹下加茂撮影所の脚本家となり「鳴滝組」の仲間となる藤井滋司、1年先輩に「日本映画の父」こと牧野省三の長男・マキノ正博がいた。

1927年(昭和2年)、一商の先輩であるマキノ正博を頼って、マキノ御室撮影所へ入社する。マキノは活躍できるようにと1928年(昭和3年)、山中を脚本家兼助監督として、嵐寛寿郎の第一次嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)に移籍させるが、五社協定によりその年に独立プロは失敗。実家に戻った山中を親戚一同は縛り付けるように足を洗えと説得したが、心中の灯は消えていなかった。

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1930年(昭和5年)、嵐寛寿郎が東亜キネマに招かれると、山中を含む旧寛プロのメンバーも参集した。嵐は山中のシナリオを読んで天才だと評した。「むっつり右門」の脚本でその真価を確信した嵐は1932年(昭和7年)、長谷川伸の戯曲を脚色した『磯の源太 抱寝の長脇差』を監督第1作として発表させる。この作品が映画評論家岸松雄の目にとまり大絶賛されたことで注目が集まり、その結果、処女作にしてその年のベストテンに名を連ねるなど、山中は22歳の若さで日本映画界の巨匠の仲間入りをした。

翌年に、第二次寛プロから日活京都撮影所へ移籍。以降、若き天才監督の名前をほしいままに、『盤嶽の一生』『街の入墨者』を発表。

1934年(昭和9年)からは、それぞれが所属する会社の枠組をこえ、稲垣浩、滝沢英輔や脚本家の八尋不二、三村伸太郎ら俊才とシナリオ集団「鳴滝組」を結成、「梶原金八」の共同ペンネームで22作を発表した。時代劇映画に大きな革新を生み、批評家以上に観衆からも大きな支持を得ていた。交友関係も広く、「鳴滝組」の面々のほか、伊藤大輔や伊丹万作ら京都の映画人はもとより、小津安二郎、清水宏など東京在住の映画人とも、幾度となく盃を交えた。

1937年(昭和12年)、東京に移り、P.C.L.映画製作所(現在の東宝スタジオ)で発表した前進座がユニット出演した名作『人情紙風船』を最後に従軍。中島今朝吾中将率いる北支那方面第2軍第16師団歩兵第9連隊第1大隊第3小隊に編入し、第2分隊長として、12月には南京攻略戦に参加した。しかし、山中が戦地でどのような働きをしたかは定かではない。その後、中国各地を転戦。翌1938年(昭和13年)9月17日、中国河南省開封市の病院で戦病死した。満28歳没。

山中の遺産
その短い生涯のうちのたった5年間の監督生活で発表した監督作品は、全26本(応援監督2本含む)である。しかし、現在、『丹下左膳余話 百萬両の壺』、『河内山宗俊』、『人情紙風船』の三作品しか、見ることができない。『磯の源太 抱寝の長脇差』、『怪盗白頭巾』、『海鳴り街道』(68秒のみ)はフィルム断片のみ残存。また前記の3作品も戦後公開版のため、オリジナルの尺・編集であるかどうかは定かではない。『丹下左膳』は占領軍下の検閲によってチャンバラ場面が削除されたようである。また、映画評論家の滝沢一によると、『河内山宗俊』には、ラストで大立ち回りがあったという。このため、現代に生きる私たちは映画監督、山中貞雄の全容を知るには至っていない。

山中が学生時代に、辞書のページに描いた剣戟、疾走する馬のパラパラマンガを遺していた[3]。2003年(平成15年)、京都文化博物館が同館所蔵の辞書のページを撮影し、3篇からなる2分30秒の『山中貞雄パラパラ漫画アニメ』として公開している。

甥に映画監督の加藤泰がいる。山中にもっとも深い影響を受けた1歳下の助監督、「鳴滝組」の仲間であり、のちの映画監督に萩原遼がいる。萩原ら鳴滝組の脚本家たちは、戦後も、山中脚本の映画化やリメイクを行なっていった。

関連文献
『山中貞雄作品集』、実業之日本社、1998年 ISBN 4408102857 - 全シナリオ
千葉伸夫編 『監督山中貞雄』 実業之日本社 1998年
同『評伝山中貞雄 若き映画監督の肖像』 平凡社ライブラリー 1999年
加藤泰『映画監督山中貞雄』 キネマ旬報社 1985年、新版2008年
酒井徳男『趣味馬鹿半代記』 東京文献センター ISBN 978-4-925187-01-5

(Wikipedia)
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山中貞雄を見よう!!
昭和初期、流れ星のごとく現われ、消えていった日本映画史上屈指の天才監督のひとり、山中貞雄。このホームページは、彼の作品をひとりでも多くの方に見て頂くために開設されたものです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shadow/

山中貞雄 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person72.html

夭折した天才「山中貞雄」現存する3作品衛星放送

  丹下左膳余話 百萬両の壺  1935年・日本 
NHKbs2  11月10日(火) 午後1:10~午後2:43

  河内山宗俊  1936年・日本 
NHKbs2  11月10日(火) 午後2:50~午後4:13 

  人情紙風船  1937年・日本 
NHKbs2  11月11日(水) 午後1:05~午後2:32 

2009年11月 8日 (日)

印度の巨大魚は億劫なそうねん

ティミtimiという巨大魚の話をインド哲学者から聞いたことがある。
印度にはティミという鯨よりも巨大魚が海の向こうにいるという。

さらに大きい海の向こうにはティミ呑みこむほどのティミ・ギラという大きい魚がいて、さらに大きい海の向こうではティミンギラはさらにでかいティミンギラギラに食われてしまうのだ。

そうしてティミンギラギラギラギラギラギラ…と果てしなく続いて、世界が成り立つという印度らしい逸話。

多分これは宇宙の仕組みを、億カルパ単位あたりで霊視すると浮かび上がってくる魂のパターンなのかも知れない。億劫おっくうなことでんがなぁ。

ところで億劫(kalpa)とは http://www.ne.jp/asahi/hindu/vedanta/foot_note/kalpa.html

Kalpavriksha

ティミンギラギラギラギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギララギラギラギラギラギラギラは大きすぎて形として認識されないだけのことで存在を想念することは勝手な億劫そうねん。

Kalpabox

人智外の想念はインドでは栄えたそうねん。
億劫の語源はそんな果てしない世界のなごりというお話であった。

2009年11月 7日 (土)

改革された哲学

Mylius 'Philosophia Reformata' 1622年
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Emblem1 Emblem 1.


2つの山の間にある深い谷では、ムーンチャイルドを看護している太陽が乳房を与えている。太陽の体は地球の大地に包まれ、湖の水を集めている山間に立つ。 左端の山の上には燃えさかる火の中にはサンショウウオが吠えて、右端の丘の上には鳥の巣があり、鳥が座っている間にもう一羽は 空へ飛び立とうとしている。これら自然界にある四要素 「火」「水」「地」「空気」に囲まれて、ガイアは姿を現そうとしていた。

Emblem2 Emblem 2.
4つのシンボルの上に大地母神がバランスを保っている。
左から右へと、地、水、空気、火とならんで、四要素の女神の頭上にはフラスコが燃えていた。
各シンボルを示すフラスコ内部には、自然界とも化学反応をして姿をみせている。
大地に種をまく人、水は種子発芽させる、空へ翼を広げたて気をはく鳥、百獣の王ライオンの頭は火を示している。
水の女神は左手を地球の大地指差して、「化学との結婚」の始まりを意味している様子だ。

Emblem3 Emblem 3.
晴れやかな光の数字の上には、太陽と月は背中合わせに座っている。 太陽に向かって右手で図を保持する二重のフラスコがある。上部にはセプターとなる王が在任中して、下部には黒い鳥(カラス)がいる 。月に向かって女性が左手に保有してるフラスコには、最上位圏のものが含まれる。白い白鳥のに対して、下位には孔雀が羽をひろげている。
これら太陽と月に見守られた四つの要因は 三つの光を求める神獣とともに、七つの世界を形成している。左にはえた木の切り株の再生には、新しい葉をいくつしか見せて、右には完全に成熟した大樹へと育っている。

Emblem10 Emblem23Derolatyrannyoftheexternalfire Derolabirdsfly179

【Emblem28までつづく】http://koinu2005.seesaa.net/article/73127205.html

「改革された哲学」はEmblem28まで展開されて、叡智のシンボリズムによって視覚的にも導かれて理解をうながすものである。これらの図版には「3」「7」「9」といった奇数の数には、自然界を示すものだと推移させるバリエーションが反芻して描かれている。
ラッキーな数というより自然数ととらえると、Philosophia Reformataの図版の物語のナゾは解けてくるようだ。ペンギンタロットの次はEmblem図版 28枚の解析と翻案にとりくみたいと思う。 「改革されたペンギン哲学」ということになるのか。

師匠の種村季弘さんは「改革された哲学」の図版を紹介されただけで、それ以上は何もされていないうちに他界してしまった。近代化されない異端や香具師の世界を神秘からは程遠い地平より、とことん愉しんでおられた笑顔が忘れられないなぁ。

九つの扉

    666
6+6+6=18
  1 - 8
  1+8=9

扉は誰にでも開くわけではない。
それぞれの扉に二つの鍵がある。
時に言葉や鍵は二つの意味を持つ。

111 はギリシア語では「鍵」を意味する
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-19eb.html

小川のほとりの木で鳥がさえずる
人が考えることなど全てあやふやなものだと囁いている
時として言葉には二つの意味があるんだとも聞こえる
http://koinu2005.seesaa.net/article/131832827.html

分かちがたく結ばれた二羽の鳥が、同じ木に住まっている。
一羽は甘い木の実を食べ、もう一羽は友を眺めつつ食べようとしない。
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/jmg-2880.html

2009年11月 6日 (金)

捕喝国/ブハラ

◇Bukhara/Bukhoro/Buhoroの動画画像くんたち
ペンギンのことが大好きな仔犬くんのアデリーなページ PENGUIN TARO
Bukharaの動画画像 http://hello.ap.teacup.com/applet/koinu/20091103/archive

Bukhara__panorama

○(1)(Bukhoro Wiloyat)⇒ぶはらしゅう(ブハラ州)
○(2)中央アジア、ウズベキスタン共和国中南部のブハラ州の州都。
ゼラフシャン川(the Zeravshan River)下流部のオアシスに位置し、
シャフルド運河(the Shkhrud irrigation canal system)に面する。
 北緯39.77°、東経64.42°の地。中央アジアのイスラム教聖地。
 「ボハラ(Bokhara)」,「ブカラ」とも呼ぶ。
〈人口〉 1979(昭和54)18万5,000人。1987(昭和62)22万人。1989(平成元)22万4,000人。1991(平成 3)24万9,600人。2003(平成15)27万2,400人。
◎隋・唐では「安国」として知られる。
  709(和銅 2)イスラム帝国領。
 9世紀、サーマーン朝(the Samanid state)の首都となり、イスラム文化が栄える。
 1220(承久 2)モンゴル軍が占領。
 1370(<南>正平25,<北>応安 3)ティムール軍が占領。
 16世紀、ブハラ・ハン国(Bukhara Khan)の首都。
 1868(明治元)帝政ロシアの保護国。
 1920~1924(大正 9~大正13)ブハラ人民共和国(the Bukhara People's Republic)の首都。
 1993(平成 5)旧市街地が世界遺産の文化遺産に登録。
◎ロシア文字は"Бухара"。

関連記事
◆ササン朝ペルシア(Sassanid)サーサーン朝 
http://koinu2005.seesaa.net/article/80224912.html

◆マニ教(Manichaeism)
http://koinu2005.seesaa.net/article/80715483.html

◆ハウス・オブ・ウイズダム(知恵の家)Bayt al-Hikmah が教えること
http://koinu2005.seesaa.net/article/80363976.html
映画マトリックスは現実にあった叡智対戦であった。懐かしいけれども、追い求めるものには分かり合える世界の構図なんだわ。

「捕喝国」 ミステリィー

P1000290シルクロード国々のスパイス料理を提供する、神戸の老舗レストラン「ぶはら」。
エキゾチックな香辛料の薫りただよう店内には、香辛料の見本やスパイス挽く臼など飾られている。
元来「ぶはら」は香辛料の卸業だったそうで、その頃の香辛料が偶然にも台所の引出し奥深くにあった。都内の香辛料専門店で十年くらい前、エスニック料理に関心あって購入して忘れていたものだ。そこには以下の記載。 

P1000302

捕喝国 buhara
○「スパイスの道は、そのままシルクロードと重なって、東西文明の交流に大きな役割を果たしてきた。
店名はそのシルクロードの主要な交易地だったブハラという地名である。」
○「料理はインドから中央アジアにかけての各地料理で、味つけもできるかぎり現地のまま。トルコ料理、イラン料理、アフガニスタン料理などスパイシーなシルクロードの味の旅が楽しめる。」

期限切れで捨てようと添付地図をみると、生田筋とトアロードと表記。
稲垣足穂のメルヘン宇宙に描かれていた通り道に「ぶはらbuhara」はあったようだ。
一年前ならば生田ロードもトアロードも、全く知らない遠い阪神世界であった。
しかし今は通勤で頻繁に通るストリートとなっているミステリィー。三宮神社の近くから岡本へ移転したという、今は通勤で頻繁に通って途中下車する駅にあったミステリィー。偶然の多い「捕喝国」にはゾロアスターが栄えていたササン朝ペルシャなど、今までに作品の中で描いてきたシルクロード国々のスパイス料理が盛り沢山であるミステリィー。グルメというより路上観測の謎に分類されるジャンルとなるミステリィーだな。偶然ではなく必然の運命だろうか。

P1000289

シルクロード料理「ぶはら」
アジア・エスニック料理、カレー(その他)
【ランチ】11:30~14:00(LO)
【ディナー】17:00~20:30(LO)
定休日 火曜日、水曜日
兵庫県神戸市東灘区岡本1-4-5 マナ岡本ビル 2F
TEL 078-452-5577
ホームページ http://gourmet.yahoo.co.jp/0002375186/P006976/

2226871

盲目のシャンソン歌手、長谷川きよしのサイトにお気に入りの店としてリンクが張ってある。
ぶはら(兵庫県神戸市)http://www.kiyoshi-hasegawa.net/main/link/index.htm
今までに出会った店の中でも確実に5本の指に入る大発見の店です(長谷川きよし)

◇サンスクリット語で「僧院」を意味するブハラには、6世紀まで仏教寺院が存在した跡がある。その後は、数々の栄枯盛衰の歴史があり、1220年には、モンゴル軍の来襲で灰燼に帰してしまうが、16世紀になって再びよみがえる。
玄奘三蔵が捕喝国に立ち寄ったことには何かある。サマルカンドから200kmも離れていてサマルカンドまで戻っているからだ。霊感。

◇捕喝国は周囲が千六、七百里で、東西が長く、南北が短い。物産。風俗は颯秣建国と同じである。この国より西へ行くこと四百余里で伐地国に至る。
と記されている。(水谷真成訳 大唐西域記 平凡社から引用)

2009年11月 5日 (木)

異人館を散策する心はミステリィー

P1000159 P1000176P1000162 

六甲山の登山道に入ろうかという麓に、白鶴美術館が建っている。
その対岸の丘には、雑木林の中に崩れかけた石造りの洋館があった。

その屋敷からは、阪神間の街並や大阪湾が一望できる。対岸の大阪も見えただろう。住民は、ヘルマン屋敷と呼んでいた。ドイツの兵器会社・シーメンスの極東支配人、ビクトル・ヘルマンが大正期にこの館に住んでいた。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~akimitsu/heruman.htm

P1000181

海軍の黒い霧、シーメンス事件
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2007/01/post_420.html

桜島の噴火とともにシーメンス事件起こる(大正精神史事件編1)
http://www.hb-arts.co.jp/090510/safe.htm

P1000160

(ベルリン来電)先に電気製品商シーメンスエンドシュツケル商会東京事務所にタイプライター係たりしカール・リヒテルなる者、今回同事務所より重要文書を窃取し之を脅喝取材の目的に使用せんと試みたる廉にて懲役に処せられたり。証言の示す所に依れば右のリヒテルは日本海軍の注文に関係ある文書を窃取し之を二千五百磅(ポンド)にて同商会に売らんと申込みたり、然るに商会は之を拒みリヒテルを就縛せしめ罪人引渡の手続を経て当地にて裁判を見たりしなり、被告リヒテルは同商会が高位置に在る日本の官吏に賄賂を行使したる事を陳述せるが法廷は判決に際し「同商会の不正当なる操縦は或程度に於て被告の犯罪を誘致したるものあるを以て此情状を酌量して刑を軽減す」と宣明せり。

シーメンス事件:バイエルン企業の汚職(英エコノミスト誌 2008年12月20/27日号)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/387
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/387?page=2

Ulokonoie

鼠短檠の仕組み

45d6ns1
灯明皿とネズミのお腹は柱の中の管でつながれ、皿の油が燃えて減ると空気圧により鼠の口から油が滴って灯明皿の油を補給する一種のからくり仕掛け。ネズミの容器には200mlの灯油が入り、約30時間連続して灯すことができる。

鼠短檠の使い方
[1]タンク(ネズミ)を逆さにして注入管から油を入れる(150mlくらい)。
[2]油皿に少し油を入れておく。
[3]タンクに油を入れたら、空気が入らないようネズミの口を手で押さえて本体に差し、ネズミの口から手をはなす。
[4]ネズミの口から油が数滴垂れて止まり、これで準備OK。
[5]灯芯に点火し、その後油皿の油が燃えて減った分だけネズミの口から油滴がたれる。
[6]油が固まることがあるので、長時間使わない時は全部掃除しておくと使い勝手がよい。45d6nsb

■鼠短檠
 短檠とは、箱形の台に柱を立て柱の中途に油皿をつけて灯油(菜種油)を灯す丈の低い灯火具。「鼠短檠」は、灯明皿とネズミのお腹が柱の中の管でつながれ、皿の油が燃えて減ると空気圧により鼠の口から油が滴って灯明皿の油を補給する仕組みで、中国からこの原理が伝わったとの説も。茶の湯が隆盛した桃山時代から江戸時代にかけて、主に夜の茶席(夜咄)に風趣を添える道具として上級武家や富裕な商人などに愛用された。優れた職人の手でさまざまに意匠を凝らした鼠短檠が造られたが、美術工芸品ともいえるこれらの作品は現在数点が残るのみで、貴重な文化遺産となっている。 
■夜咄
 茶道で、炉の季節(冬至の頃から立春まで)に夕暮れ時から行う夜の茶席を、夜会あるいは裏千家などでは「夜咄」という。夜会では、比較的弱い灯りの短檠が茶室内の照明に使われ、お手前(道具)の拝見のときのみ光の明るい手燭を使った。特殊な茶席のため、花飾りや掛け物などの座敷の拵えをはじめ、いくつもの複雑な作法があり、千宗旦が「茶の湯は夜咄にてあがり申す」というほど、最も難しいものとされている。 
■短檠と「檠爪」
 茶席では、炉の炭火の上に三つ爪の五徳を据え、釜を置いて湯を沸かすが、短檠を使って「夜咄」を催すとき、裏千家などでは特別に、五徳の三つの爪のうち「檠爪」と呼ばれる爪を、短檠が置かれている方向に向けて炉に据えるのが決まりになっている。

■暦で日、月、火、水、木、金、土というのが残っているように一連のものがあって人類を形成していた
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_e30d.html

2009年11月 4日 (水)

神戸らんぷミュージアム

P1000571

人類史上、最も重要なものの一つが、「火」の発見です。
自然の営みである落雷や火山の噴火や森林の樹木の摩擦などによって、人々は「火」の存在を知り発火方法を発見します。その「あかり」を持続させるために様々な工夫を凝らすようになりました。

松脂などから発達した「篝火」。
蝋燭を使った灯火器「燭台」「吊燭台」「提灯」。
らんぷミュージアムには「火」と「あかり」の道具としての歴史が、発火器やマッチラベルにいたるまで大変なコレクションの量で処狭しと展示されてます。

Ehagaki

江戸時代に発明されたユニークな形で知られる「ねずみ短檠」は見ものです。
明治維新の文明開化の波とともに、文字撮り輝かしい彩りを添えて登場した「石油ランプ」。
ランプとともに登場したガス灯、そしていよいよ電気によるあかりが登場します。

Lanmp2009

神戸らんぷミュージアム
人々は「火」の発見によって、「食」と闇を照らす「あかり」を手に入れました。
そして長い時を経る中で、松明や篝火からランプ、ガス灯、そして現代の電気の「あかり」に至るまで、「あかり」は常に人々の生活と共にあり、人々の暮らしと未来を明るく照らし出してきました。
「篝火」「ひでばち」「松明」「燭台」「吊燭台」「提灯」 「ガス灯」「電笠」「電球」
ここではそんな「あかり」の移り変わりを散策して観ることができます。

神戸市中央区京町80番 クリエイト神戸2・3F TEL.078-333-5310
開館時間/午前10:00~午後5:00 休館日/月曜日
http://www.kobe-lamp.com/

P1000574

★「火」に真の理をみつめた アフラ・マズダー (Ahura Mazdā)
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/ahura-mazd-9489.html

★人類に「火」を伝えた プロメーテウス(Προμηθεύς, Promētheus)
http://zerogahou.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/promtheus-4225.html

神戸港

P1000135

六甲山(六甲山系)の連なる山々から大阪湾に至る急峻な地形によって水深が急激に深くなる特徴から「天然の良港」として知られる日本を代表する国際貿易港である。港則法・関税法上は、大阪港・尼崎西宮芦屋港とあわせて阪神港と称される(港則法上は特定港に指定されている)。

その歴史は大輪田泊(おおわだのとまり)や兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれた兵庫港に始まり、かつての都であった奈良や京都と、日本国内の東西航路や大陸との交易の拠点として古代から栄えてきた。また、商業や工業が集積する大阪に近いこともあり、近代以降も国際貿易の拠点として規模を拡充した結果、1970年代には阪神工業地帯の輸出港としてコンテナの取扱個数が世界一になるなど世界有数の港として知られている。

P1000130

日本の物流機能に対する役割を担うために、オーバーパナマックス船への対応をした国内初の大水深高規格コンテナバースの供用の開始や1980年以降に行われたポートアイランド(当時、世界最大の人工島)の建設やメリケンパーク、神戸ハーバーランドといった観光や商業施設の開発、沖合いに神戸空港を開港するなど、日本のウォーターフロント開発の先駆けとなるものも多く、各地に与えた影響は少なくない。

これらの開発と明治時代に外国人居留地として整備されたエキゾチックな市街地の雰囲気とをあわせ、観光地としても人気が高い地域となっている。

(Wikipedia)P1000129

2009年11月 3日 (火)

対話させる術

岸田國士

 その国の一時代の文学が、外国文学の影響を受けたことに於て、明治以後の日本文学ぐらゐ著しい例はあるまい。
 処で、その影響が、単に思想的内容や、表現の形式に止まらず、文学の本質的審美観念にまで浸潤して、殆ど模倣より脱却し、日本現代文学の一様式として存在の価値を認め得るものに短篇小説がある。
 これに反して、文学の他の部門、殊に戯曲に至つては(詩の方面は暫く問題外とする)外国劇の影響から殆ど本質的な何物をも摂取することができなかつた。日本現代の戯曲は、誇張なく、文学的表現の原始時代にある。
 このことは、本誌(演劇新潮)の問にも答へておいたことであるが、舞台の言葉としての戯曲の文体、劇的本質としての「生命の韻律」は、少数の先天的劇作家を除いて、多くの日本現代作家がこれを理解してゐると認めることはできない。而も今日、戯曲を書かうとするもので、意識的にも無意識的にも、泰西作家の作品にその範を取らないものが一人でもあらうか。
 シェイクスピイヤは早く我が国に伝へられた。イプセンやマアテルランクもとくに読まれてゐる。ストリンドベリイ熱、チェホフ熱も盛んであつた。ハウプトマン、ブリュウ、シュニッツレル、ゴオルキイも紹介された。アイルランド劇も多くの共鳴者をもつた。最近また独逸表現派劇や、ピランデルロ等の異色ある作品も若い作家の胸を躍らせた。
 これら目まぐるしい外国劇侵入時代に、わが劇作家は何をしてゐたか。なるほど、一時はイプセン張り、マアテルランク張り、チェホフ張りの作品も目についたやうである。が、流行が変るといつの間にか影をひそめて了ふ。結局、各作家は、外国作家一人一人の、どうにもならない「物の観方」を取つて以て、自分の作品を捏ね上げようとした。イプセン色のものを書いた後、チェホフ色のものを書かうとすると、初めから出直さなければならない。初め書いたものが後のものを書く時に役立たない。いつまで経つても「自分のもの」ができない。上手にならない。「ほんもの」にならない。
 外国劇を勉強するのもいいが、そこから、何かかう特別な「作劇術」とか、思想的背景とかいふやうなものばかりを探し出さうとして、それらの戯曲が、「戯曲として傑れてゐる所以のもの」を嗅ぎ出すことができなかつたことは、慥かに日本の現代劇を本質的に発達させなかつた唯一の理由であるやうに思はれる。
 成る程、シェイクスピイヤなり、イプセンなりは、学問的には相当に研究もされ、理解もされたらうが、劇作家として、殊にそれらの戯曲がもつ「劇的美」そのものについて、一度でも解剖的に、主題と結構と文体とを、それぞれの有機的関係から分離して、論断した者があるか。また、わが国の劇作家が、個人としてさういふ点まで熟読味到したか。これは疑はしい。なぜ疑はしいかと云へば、さうすることによつて、古来の才能ある戯曲家が、共通に具備してゐるところのある「呼吸」に触れ、その「呼吸」が、日本現代劇を通じて、多少とも現はれて来なければならないからである。
 結局、なんと云つても才能の問題であつて、現代日本の劇作家が、それならば、大部分は才能なき劇作家であるといふ結論になる訳であるが、どうもこれは弁護の余地がなささうである。強ひて遁辞を設ければ、前に述べたやうに、外国劇から形ばかりの影響をしか受けなかつたといふことになる。
 これはつまり、劇作家が、自分の仕事のために外国劇を研究する以上、もつと、本気になつて、つまらない愛国心や、大和魂など振り廻さずに、しつかり外国語でも勉強し、「なるほど、ここが戯曲の戯曲たる所以だな」と思ひあたるやうな、さういふものを外国の傑れた作品の中から発見し、さういふものを自分の作品に盛らうと努めなければうそである。それから後は、実際才能の問題で、どうにもしやうがない。つまらない戯曲をいつまでも書いてゐれば、人から馬鹿にされるだけの話である。――今だからこそ大きな顔をしてゐられるが。
 そこで、僕がかういふことを云ひ出したのは、決して現代多数の劇作家を激励鞭撻して、将来の不幸を未然に防いでやらうなどと思ふわけではなく、それよりも――ここに書く目的が、第一さうでないが――これから戯曲を書かうとする青年(令嬢でも可なり)が、「なあに、戯曲なんていふものは、いい加減なもので、喋舌る通り書けばいいんぢやないか」などと、大胆にも、「人物」「時代」などと、通(つう)をきめ込まないやうに、それからまた、生来芝居に反感を抱いてゐるわけではないが、「現代劇」だけは御免だ、金を呉れても行きたくないなどと頑張る「吾党の士」に、「いや、今の日本現代劇がまだほんとの現代劇になつてゐないので、詰り西洋で古典劇と区別される近代劇、その区別されるところだけを、日本在来の芝居に取つて附けたやうなもので、西洋では古典劇から近代劇を通じて、ある一貫した伝統――劇的伝統がある。その伝統をわれわれは残して来てゐるから、いつまでも日本芝居の伝統から離れた新しい芝居が生れないのだ。まあ見てゐ給へ、そのうちには西洋劇がそのまま、完全な姿で、日本の現代劇になるよ。勿論、それと同時に、日本劇の伝統から、新しい現代劇が生れるかもしれない。なほまた、日本劇の伝統と西洋劇の伝統と、二つの伝統がうまく融合統一されて、第三の日本劇が出て来るかもしれない。さうなつたら、見ものだぜ。どうだい」と、いふやうなつもりで、こんなことを云ひ出したのである。
 どうも、同じことを方々に書く恐れがあるが、従つて外のことは何にも問題にしないやうに思はれる恐れがあるが、今のうちは、そんなことぐらゐ我慢する。
 要するに、外国劇の研究をもう一度し直す必要がある。それには、もうそれぞれの作家、それぞれの作品の、文学史的考察や、思想的傾向の吟味や、所謂、独逸流演劇学者の作劇術より見たる戯曲構成の論議や、そんな風なことはどうでもいい。ほんとに、もうどうでもいいのである。われわれ芸術家並びに芸術愛好者にとつては。それよりも、一人の作家の一つの作品を、頭のいいものなら十度、頭の悪いものなら十五度(その差大ならず)ばかり読み返すんです。勿論原書でさ。翻訳などは当てにならない。ただ読まないよりはましくらゐなところだ。そこで、原書を読む。人物の心理に細心の注意を払ひながら、その心理的波動の韻律に耳を澄ましながら、そして、その舞台の雰囲気に敏感な神経を働かせながら、自らその人物に扮した気持で台詞を云つてみるのである。その時、諸君は気がつくであらう。ただ一つの、例へば「いいえ」といふ言葉が、如何に「言はる」べきか、如何に「言ふ」べく書かれてあるか、如何に云ふことによつて、その人物の心理が最も鮮やかに、前後の関係に於て、最も美しく、諸君の耳に、心に、生命全体に響いて来るかといふことが。試みに今この「いいえ」といふ言葉の「言ひ方」が幾通りあるか思ひつくままを挙げてみよう。調子を表はす符号はないから、その調子を出すために他の言葉をつけ加へてみよう。

いいえ、違ひます。(さうぢやありません)
いいえ、わたしは知りませんよ。なにかのお間違ひでせう。
いいえ、なかなか、それどころの騒ぎぢやないんです。
いいえ、さうぢやないんですつたら。
いいえ、さうに違ひありません。
いいえ、どう致しまして。さう仰しやられると却つて恐縮です。
いいえ、何んでもないんです。
いいえ、断じてさういふことは出来ません。

 一寸思ひついただけでもこれだけ。ト書や説明がなくつても、これくらゐの区別はできる。あとへかういふ言葉を附け加へる場合もある。附け加へない方が、簡潔で、暗示的で一層韻律的な効果を副へる場合が多い。戯曲を読む時には、この効果に敏感であることが第一。次に、この効果を次の白に伝へて、次の白を更に効果的にする想像力が必要である。
 真の劇作家は、かういふニュアンスから無意識的に微妙な心理的韻律を造り出してゐるのである。似而非劇作家は、これを意識的にやつても、それだけの結果を生み得ない。従つて「死んだ会話」になる。
 これは、一篇の戯曲を論じる場合に、甚だ些末な問題として取扱はれるかもしれないが、それは、些未の如くにして実際は、戯曲の戯曲たる「生命」を決定する問題なのである。戯曲を書く以上は、もうこんなことは問題にならない。それはさうあつて欲しい。然し、戯曲が書けるか書けないかの問題なのである。堂々一篇の戯曲と銘打つて公表された作品に対して、この問題に触れた批評をすることは、作家に対して聊か非礼であるとさへ云はなければならない。それだけ、問題にならない問題なのである。つまり、あまり本質的な、根本的な問題なのである。日本現代劇は、悲しいかな、この問題にならない問題、西洋ではもう誰も問題にしない問題を、更めて問題にしなければならない状態なのである。
 いろいろやかましい説明をすれば説明できないこともないが、この「演劇の本質」といふ問題は、われわれをどこまでも引張つて行く。度々引合ひに出して恐縮であるが、日本現代劇作家の大部、その中には人生の奥義を究めた思想家もあり、稀代の文学的才能を具へた人もあり、豊富な詩心を恵まれた人もあり、古今東西の学に秀でた識者もあり、革命家的気魄に満ちた志士もありはするが、ただ、それらの人の書く戯曲は、戯曲の本質といふ一点で、ただその一点で、西洋の凡庸な劇作家の作品にさへ及ばないのである。考へて見るとつまらないことである。
 日本の読者にもお馴染のゾラ――自然主義の巨頭、例の『ナナ』の作者ゾラが、大いに自然主義演劇を唱道して、自分でも劇作に手を染めた。勿論、劃時代的作品を書いたつもりであつたらう。ところが、時の鑑識ある劇評家から頭ごなしにやつつけられた。やつつけられるならまだいいが、「ふん」と云つて横を向かれてしまつた。
 なぜかと云へば、それは「戯曲になつてゐない」からだ。ゾラの戯曲を評して異口同音に使はれる言葉は、曰く、「彼は対話させる術を知らない」。
 これを別の言葉で云へば、即ちコポオがエルヴィユウの戯曲を評して、「作者が人物の対話に耳を傾けてゐない」と云つたそれである。ゾラは兎も角、モオパッサンの文章は実に名文でもあり、その小説の会話の部分を見ても、寸分の隙はないやうにみえるが、彼にしてなほ、戯曲を書けば、「対話させる術」一科目で落第するのである。
 どうもこれが先天的に劇作家であるかどうかが分れるところであると見えて、モオパッサンの小説、殊に、短篇などと来ては、そのまま好個の一幕物になりさうなものばかりであるのに、それが小説である時にさうなので、戯曲を書くと誠にだらしがなくなる。変にぎごちなくなつて彼独特の魅力が、どこへやら行つてしまふのである。これに頗る似た例が現代日本の作家中にもあるやうである。
「対話させる術」――なんでもない術のやうであるが、そして、外に何等の才能を持ち合せてゐないものが、これだけで劇作家の仲間入をしてゐるやうなのがあるにはあるが、これがつまり、「戯曲が書けるか書けないか」の免許状みたいなものになるわけであるらしい。
「佳い戯曲が書けるか書けないか」といふ第二の免許状は、また別である。そこをくれぐれも弁へてゐてほしい。
 ひねくれた物言ひをするわけではない。事実、現代の日本に求むべきものは、「佳い戯曲」とまでは行かない、「戯曲になつてゐるもの」なのである。
 そんなら、これはどうだ、あれはどうだと一々突きつけられては事面倒になるが、ある標準以下のものは問題外にしようではないか。それがある標準から見て、たとへ、「戯曲になつてゐて」も、多少とも、われわれの文学的好奇心を刺激し、美的快感を喚起しないやうなもの、芸術的作品として数多き古今の名篇佳作と、同列は愚か、その末席を汚すことさへゆるされないやうなものは、ここで問題にする必要はあるまい。
 で、前に述べた如く、日本には作劇第一免許状を持つてゐない自称劇作家が多い。多すぎる。これは無免許運転手と同様、危険千万である。つまり、読者や見物の方が、油断なくよけて歩かないと、とんだ憂き目に遇ふからである。
 このことは、所謂新劇俳優にも通用する。此の方は免許状が実際に要るさうであるが、それは警察の方で知つたことで、こつちの知つたことではない。俳優の第一免許状と云へば、「台詞が言へるか言へないか」といふ免許状である。「対話させる術」に対して、これを「対話する術」と名づけよう。対話のできない人間といふものは嘗て聞かないが、その術を心得てゐる人間は、これまた日本には少ないのである。少ないのはいいが、それを心得ずして俳優を志すことは無謀も甚だしい。
「対話する術」とは何かと云へば、「言ふこと」のただ一つの「言ひ方」を捉へることである。「語られる言葉」の心理的効果に敏速な判断を加へ、一方、その効果の表示に適切な機会を与へることである。少々固苦しい言ひ草であるが、これを詳論する暇はない。
 さきに、戯曲の読み方のところでも云つたことは、俳優の場合に最も必要で、一々の言葉、一々の文句、一々の台詞に決定的な表現を与へる基礎的素質、つまり「語られる言葉」に対する感性だけは、どんな俳優でも有つてゐなければならない。
 俳優の素質については、後日詳論する機会があると思ふ。
 これでまづ、「我等の劇場」が要求する演劇の根本条件について、戯曲の本質、舞台の言葉なる意義並びにその研究法について、概略の説明を終つたつもりである。(一九二五・四)

初出:「演劇新潮 第二年第四号」
   1925(大正14)年4月1日発行
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岸田 國士(きしだ くにお、明治23年(1890年)11月2日 - 昭和29年(1954年)3月5日)
劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家。
戯曲『牛山ホテル』、『チロルの秋』、小説『暖流』、『双面神』、映画脚本「ゼンマイの戯れ」など。
妹の勝伸枝は作家で、翻訳家・延原謙の妻。長女は童話作家の岸田衿子、次女は女優の岸田今日子、甥に俳優の岸田森。

岸田 国士:作家別作品リスト(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1154.html

2009年11月 2日 (月)

蛸杉と天狗さん

高尾山が開山されたころは、薬王院への山道もまだ険しく難儀な山でした。
ある夜のこと高尾山の天狗さん達が集まり、道普請をやろうということになりました。

天狗さんの神通力で参道を見る見るうちに作っていった。
もうすぐ薬王院というところにきて、道つくりはとまってしまった。一本杉と呼ばれる大きな杉が、四方に根を広げて、道のど真ん中に居座っていた。
Tacosugi

「我らの神通力とてこれは無理。それにしても今日はもう日が暮れる。明日は、あの杉を切り倒して進むことにしようではないか」

天狗さん達の話を聞いた一本杉は仰天した。高尾の山で大威張りでいるのに、切り倒されてはかなわない。一夜のうちに身をすぼめ、道の邪魔にならぬようにと根をどかした。
その姿は御覧の通り蛸のようだった。おかげで参道は邪魔もなく完成したという。
それ以来この蛸杉は「道を開く」ということから「開運」の利益があると祭られた。

Takaotako01 Takaosan_sansaku

「サナト・クマラの遺伝子」 天狗考 http://koinu2005.seesaa.net/article/118652522.html
天空には「妖霊星」が燦然と輝やき天狗たちが宙を舞い踊りhttp://koinu2005.seesaa.net/article/7871157.html

高尾山の天狗

薬王院飯縄権現堂の前には、鼻の高い大天狗と烏の嘴を持った烏天狗の小天狗の像が立っている。。高尾山は天狗の住む山といわれ、数々の天狗の話が伝わっている。

Takaoten

天狗は古来から多くの天狗伝説や信仰をもたらして神格化されてきた。
天狗はインドの仏典では「流星」をさす言葉として用いら中国語に訳されたとき「天狗」の字が当てられたといいます。しかし中国では、各種の書物に天狗の表現があるものの地上に災難を及ぼす自然の恐れとして捉えられており、日本のように天狗は、人のような姿で語られることはありませんでした。

舒明天皇9年に大きな星が東から西に流れ、「あれは流星ではなく天狗だ」という記録が文献にある。
時期は大化の改新前夜で旱魃があり日食がありと、色々な異変が起きている時で怪異のひとつとして天狗が登場しす。天狗は自然現象そのものとして捉えられていた。

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高尾山ほど多くの市民に親しまれている身近な自然は日本には他にないでしょう。江戸時代まで寺社の森として守られ、今でも深い森と清らかな清水で溢れています。高尾山の奥には、昔は北条氏の山城があり、今でも八王子城跡として都立公園になっています。1200種あまりの植物とオオタカというタカも生息しています。「山の自然学」の著者の小泉氏は高尾山の自然について次のように言っています。
「東京という大都市のすぐそばにあって、このような多彩な自然を維持できているというのは、まさに奇跡的なことといえます。私たちはこのすばらしい財産を、そのままの姿で子孫に引き継ぐ義務があるといってよいでしょう。」(「山の自然教室」岩波ジュニア新書)
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高尾山アピール  「立ち止まって考え直そう」
秋山ちえ子 新井満 池辺晋一郎 井上ひさし 色川大吉 梅原猛 永六輔 大谷昭宏 大林宣彦 小山内美江子 川田龍平 小林カツ代 早乙女勝元 椎名誠 辰濃和男 山田洋次 養老孟司 渡辺えり ほか(敬称略) 
高尾山の自然をまもる市民の会
http://homepage2.nifty.com/takao-san/
    
民事裁判ー高尾山天狗裁判 
http://homepage3.nifty.com/takaosan-tengusaiban/minji.html 

Tengu

2009年11月 1日 (日)

高尾山もみじまつり

高尾登山鉄道、-紅葉のピーク
高尾山には針葉樹の植林地等も多く、全山紅葉とはなりません。
イロハモミジ、カジカエデ、イヌブナ、イタヤカエデ、シラキ などが観られる。
場所はケーブルカー周辺・薬王院の境内です。
「薬王院有喜寺」の寺域にある高尾山一帯は、古くより殺生を厳しく戒める同寺の影響を強く受け、モミやアカマツ、イヌブナなどの植物が戦国時代や江戸時代の頃からそのままの形で残されている。
1967年には「明治の森高尾国定公園」の名称で国定公園に指定。国内で最も小さい国定公園として現在でもその景観が守られている。

11月1日からは「高尾山もみじまつり」が始まり、高尾山は秋の観光シーズンに入る。
見頃は山頂では11月中旬、麓では11月下旬頃からです。
秋の休日は紅葉の高尾山へ出かけよう!

「高尾山もみじまつり」
http://www.hachioji-kankokyokai.or.jp/guide10.html
期間中の土日祝日には、紅葉を背景に、太鼓や大道芸など多彩なイベントも催されます。
高尾山公式ページ
http://www.takaotozan.co.jp/

Takaosun

■高尾山口駅から弁天島温泉と美女谷温泉
高尾山口駅から国道20号線を相模湖方面へ「弁天島温泉 天下茶屋」。
天下茶屋http://www.tenkachaya.com/bath.html
さらに相模湖方面へ行くと、美女谷温泉の看板も見えてきます。
美女谷温泉 www.yumeguri.com
どちらも日帰り入浴が比較的安い料金で入浴できます。深い森に包まれた秘湯の雰囲気があり、弱アルカリ泉の泉質は神経痛によく効き髪がさらさら肌はつるつる。
■高尾の湯ふろッぴィ
東京都八王子市狭間町1466-1
http://www.furoppy.co.jp/

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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22カードの意味

  • _0 愚者
    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

オンライン状態

ペンギンタロットの原画

  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。