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2010年1月11日 (月)

闇の中の黒い馬

 掌にのる小さな模型ほどの黒馬がこちらへ向つて眼球を斜めに動かしながら眼前を過ぎゆくのを認めた私は、ちようど五寸ほど前方の空間に浮んだ黒鳥と真直ぐに眼と眼を見合わせたが、そのとき、灼熱する何かが烈しく私をうつたのは、恐らくこのような種類の生物に接する機会は生涯あるまいと思われるほど永劫に医やされざる絶望と深い悲哀の混合したなかの限りもない諦念に充たされた、限りもない穏和な眼の光がそこにあつたからである。私は思わず手を差しのばした。

 こちらへ振られたような黒鳥の尾が闇のなかで私の掌に触れられた。すると、その瞬間、それが起つたのである。宙にふわりと浮いた私の躯は、堅く握りしめた黒馬の尾の先端に一本の吹き流しのように横倒しになつたまま、高い暗黒の虚空へ向つてゆつくりと進みはじめたのであつた。宙釣りになつた私は、そのとき、一つの閃きすぎる想念をも堅く掴んだ。もしこの手を放さなければ、と、私は自身に呟いた、闇の果てまでゆけるのだ……。

 暗黒星雲が私の導きの星なのか、果てもない闇へのめりこみたがる本性をもつた私は、確かに、夢幻の操作にせよ、或る種の論理の操作にせよ、如何にかして、そこへ行かなければならない。私には青い悼惜に似た一つの固定観念が古くからある。私がヴィーナスの帯とひそかに名づけている或る名状しがたい幅をもつた宇宙の境界をもし越えて、そこ、へはいりこめれば、いわば宇宙の永劫の暗い部屋であるそこから、敢えていつてみればぁ過誤の宇宙史のすべての相貌がこの上もなく鮮明に透し眺められる筈なのである。

 私達はここでこうした情景を想起してみょう。真暗な地底に繚つているちつちやな値倭の魔物である地霊は、秘密の宝物をまもりながら、暗黒を覗きこもうとする地表の探索者達のすべての動作の仔細を、永劫におし黙つた奇怪な顔付で眺めあげているが、そこに眺められるものこそ、過誤の万華鏡なのである。僅か紙一重の差で横へそれ、また、まつたく見当違いな角度を生真面目に掘つている人人の姿が、白昼の地表に鮮やかに見てとれるのである。そして、不思議な観察者がひそんでいる暗い部屋と明るい外界のこの対比は、奇怪な魔物が隠れている暗黒の未来とこの現在、私の黒鳥が向かうべき風間の果て∀とこの此処、という対比にまで拡げることができるのであつて、私はそこでひたすら過誤の宇宙史を見たがつているのだ。

 ……私の黒うまはヴィーナスの帯についにさしかかつた。
 この暗黒の帯のはずれに、小さな無数の光をちりばめた宝冠のように輝いている一つの旋回する環があつて、それを遠望しただけで目覚めるばかりである。それは車輪のかたちをしているけれども、ゆつくり回転しているため、平らな円盤の内部の矢は、ちようど、夏の夜、低い地上をくるくると廻つて走る鼠花火のように一方へ傾きのめつている。或る物体を非常に強大な力で廻したら、必ずこれと同じように遠心力の働く方向へ小さな光の粒子となつてばらばらにほどけて飛び出すに違いない。そして、その力が或る一定度まで弱まると、外側の暗黒の空間へのびる火花の色づいた青い肇は腕のようにこちらへ延びて、そこでさつと頭を接げて何ものかになるのだ。その青い撃の腕がこちらへあまりに急速にのびてくるのは、私の黒鳥の速度によるのか、と私はまず考えたが……事態は殆んど同じであるけれども、それは黒馬の速度に由来するのではなく、灰色の壁のなかへはいつてきたときとはまさに逆に、その黒馬のかたちはいわば暗黒の果てもない空間に適わしく、果てもなく拡大しっつあつたのであつた。いくら急速に膨れあがつても、暗黒のなかではそれを確認することはできないのだけれども、ヴィーナスの帝のはずれに輝いている円盤の腕という鮮明な対比物があると、その
拡大しゆく過程は明瞭であつた。激しい火花の色づいた青い腕が急速にこちらへ近づいたばかりでなく、忽ち、無数の光をちりばめた宝冠のように輝いている車輪は小さな一つの淡い光となつて遠ざかつて行つてしまつたのである。

 名状しがたい暗黒の幅をもつたヴィーナスの帯をこのように通過できるとは、私には、思いがけぬことであつた。この巨大な暗黒の帯に果てがないと思われているのは、それがあまりに広大な空間なので暗黒のなかを行きつ戻りつしてしまうからなのだが、恐らく、永劫の観念はこの暗黒の帯のなかで生れたのではないかと思われるほどである。

 そしてヴィーナスの帯の入口にあつた小さな淡い光もまつたく見えなくなつてしまつた果てしもない暗黒のなかで、虚無と停止、を魂の底まで感じたとき、それがまさしく風間の果てなのだ。そこへ達するときのため用意しておいたひとつの問いかげが私にある。「暗黒---それは、光の批判者であるのか、それとも、存在の最後の過誤であるのか」暗黒のなかから無気味なほど反響もない反響、答えもない答えしか返つてこないけれども、そのとき、私は気づいた。宇宙と同じ大きさに拡がることのみによつてしか暗黒の果てに達し得ないのだから、私はいま宇宙と同じ大きさになつている筈である。そして、黙つたまま私をここへ携えてきた黒馬もまた同一理由で宇宙と同じ大きさに拡がつているのだろう。黒馬も私もヴィーナスの帯の入口にある無数の光をちりばめた宝冠の輝きをもつた円盤の傍らを早い速度で通りすぎてきたのではなく、それを自分の内部にどつぷりととりこみながら、果てしもなく拡がりつづけたのだ。そして、私がいま黒馬の暗黒のなかにいるのか、それとも、黒馬が私のなかの暗黒の何処かにいてその眼球を斜めに動かしながら、自身がまたそうである暗黒の奥から私の思索の仔細を眺めているのであろうか。私自身は、自らに自らが重なつて、光が自発するまで闇を凝視めつづけているつもりだ。その私に、いま、一つだげ確かなことがある。暗黒のなかに躇つている魔物のすぐ傍らで、この黒鳥は、絶望と悲哀の混合したなかの限りもない諦念に充たされた、限りもない穏和な限で前方を眺めているのだ。ヴィーナスの帯の彼方、闇の果て、へまで私をつれてゆけるのは、暗黒の深い意味を知つているこの黒馬のみであるに違いない。

埴谷雄高 『闇の中の黒い馬』より

「私」以前にも「存在以前の慈悲」を求めて生きた釈迦という、霊たちのなかでも究極に位置する者として捉えていた。
「あのひとのいう慈悲はまるで違つたもので……愛は、せいぜい生命のあふれた所へまでですが、慈悲は、何んと云つて好いか、森羅万象、全宇宙におよんでいるのでして。-空中にまで慈悲があります。あの山は何んと云いましたか、霊鷲山でしたか、山の石段が自然のままで 削りも加エもせずに置いてあると云う帝です。つまり、自然のままなのです。破壊をしないのですね。よく仏画にあることですが、貴方、御覧になりませんか。釈迦は果物の下で掌を例の通りなにか捧げる風につき出しています。落ちるまで
待つている訳なのでしょう」。

釈迦さえも超えるような霊を創造すること。ここから長編小説『死霊』がはじまった。そしてこの時すでに、その釈迦を超える存在のイメージをつかんでいたのである。それが『死霊』の自序においてきわめて印象的な登場をする「全否定者」釈迦の同時代のライバルであったジャイナ教の始祖、大雄(マハーヴィーエフ)である。存在以前に存在する大雄は、存在を未知へと転換させる者。つまり大雄こそが「虚体」であり、その「虚体」の生の在り方を三輪与志が、そして埴谷雄高さん自身の「私」が生き抜くことこそが『死霊』全体を貫徹する唯一つの物語だった。『闇の中の黒い馬』は作家にとっても、新たな次元へ介入される創作期間にあたる短編小説集として発表された。

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