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2010年3月22日 (月)

鏡地獄

     五

 初めは、さうしなかつたが、いつの間にか彼は、階下の連中と同じ夕餉の膳に向ふようになつた。そして、機嫌の好さゝうなことばかりを喋舌りながら夜、深更まで晩酌を続けて、翌朝、子供達の間に、子供達と同じやうにモグラのやうに転ろがつてゐる自分を見出すのであつた。
 ヲダハラの母に敵意を持つてゐるといふ心持を仄めかせたり、金銭の話をしたりすると、周子の母が相合(さうごう)を崩してニヤニヤするのでそんなことで彼は卑賤な愉悦を感じて、恰も七面鳥のやうに呑気な倨傲を示した。
「うむ、俺はもうヲダハラなんかに帰らないんだ。面白くもない!」
「お前は、吾家にゐる時分はそんなにお酒なんか飲まなかつたんだつてね!」
 さう彼女が云ふのは、彼女と違つて、彼の母は悴に大変冷淡だからそんな処でお酒など飲んだつて「お前のやうな気性の者が」落着ける筈はあるまい、それに引換へ自分はこのやうに親切だから定めしこの家の酒宴は楽しみであらう! ――それ程の意味で、若し彼が、その意味に気附かないでゐると、彼女はそれだけのことを明らかに附け加へるのであつた。彼女は、機嫌の好い時には稍ともすれば相手を喜ばす為めに「お前のやうな気性の者」といふ言葉を使ふのが癖であるが、機嫌の悪い時には、この同じ言葉を悪い意味に通用させて、蔭で他人のことをそしるのであつた。また彼女は、自ら「私は、斯ういふ人間だから。」といふ言葉を、自讚の意味に用ひて、自分の話を続ける癖があつた。――彼は、この重宝な言葉が夥しく嫌ひであつた。迷惑を感ずるのが常だつた。だから彼は、いつでも彼女のその自讚の言葉を耳にする時は、「如何いふ人間なのか此方は知らないよ、云はゞ、まア、あまり好い人間だとは思つてはゐないだけのことだが――」といふやうに、此方も概念的な冷淡さに片附けておくのみであつた。……彼が、そんな思ひに耽つてゐる時、丁度彼女は、
「そりやア、もう私は……」
 そりやア、もう私は? とは? ……と、この仲々彼女などには敗けてゐないつもりの鸚鵡のやうな婿の胸に繰り反させて、
「そりやア、もう私は、斯ういふ人間だから――」と云つた。「他人の事となると……」などと云ひながら、膳の上の食物を指でつまんで、具合の悪い入歯でニヤグ/\と噛んでゐた。
「ほんとうに、子供達に対しては親切だなア……羨しいやうだよ。」
 そんな風に彼が雷同すると、多少の嘲笑が含まれてゐても、それには気づかず、自分の讚められることだけには案外素直で、子供らしい彼女は、身をもつて点頭くのであつた。
「お前なんて、貧棒こそしなかつたらうが、相当これで人知れぬ苦労が多かつたらうからな!」と云つて、また彼の母を遠回しに批難するのであつた。と、ウマク彼女の穽に陥つて他合もなく彼は、胸がグツとするのであつたが、我慢して「さうとも/\、貧棒はしなかつたとは云ふものゝ、何も贅沢をしてゐた訳ぢやなしさ……賢太郎なんかの方が、反つて幸福だよ。」
 彼も体全体で点頭いたりするのであつた。この相手に、おもねる為に彼はさう云つたのであるが、云つて見ればこれも偽りではないやうに思へた。
 彼女は、他合もなく悦んだ。――「まつたく私ア、子供には心配をかけたことはないからな、気苦労だけは――」
 どんな範囲で彼女が、さう云ふのか解らなかつたが、彼の知つてゐる二三の実際的のことで見れば、この彼女の言葉は彼れには嘘としか思へなかつた。周子と一つ違ひの姉の賢子は、行衛不明だつた。父親のない赤児を伴れて暫く帰つてゐたが、母親に僅かばかりの所持金を費消されてしまつて、と急に母親は彼女を冷遇し始めて、いつか賢子から彼が聞いたのであるが、妻子があつたつて何だつて関はないから成るべく金のありさうな男を引ツ掛けろ! とか、カフエーの女給になれ! とか、と、この母に似てずんぐりした姿の醜ひ賢子に命ずるのだといふ話だつた。そして到々「死ぬなら死んでしまへ。」と云つて追ひ出したのださうだ。賢子は、赤児を置いて出掛けた限り戻らなかつた。
 面を見るのも厭だ! などと云ひながら母親は、赤児をぞんざいに世話をしてゐた。彼女は、飯よりも菓子が好きで、それがなくなると急に不機嫌になつて、赤児の頬ツペたを抓つたりするといふ話だつた。優しい賢太郎が、大変困つて、電報配達になつてついこの間まで彼女を養つてゐたさうである。
「お前なんか、いくら働きがないと云つたつて未だ/\安心ぢやないか、家の親爺なんか……」と彼女が、調子づいて何か云はうとすると、
「お母さん。」と、傍から賢太郎が、たしなめた。
「僕だつて、子供ぢやないんだからなア。」
「さうとも/\、立派なお父さんぢやアないかよう。」
 斯んな風に彼女を、悦ばせて彼は、悠々としてゐたかと思ふと、急に山羊のやうに哀れな声を振り絞つて、自分には実際的には何の働きもないし、徒らに齢ばかり重ねて、この先き一体どうなることやら、自分のやうな人間が一朝にして貧乏人になつてしまつたら、それこそ水に浮んだ徳利も同様だ――。
「あゝ!」などと女々しい溜息を衝いて、忽ち彼女の顔から、にやにやを奪つて、その心を白くさせてやつたりした。さういふことを云ふと彼女は、見事に早変りをして、娘を売物にしてゐる悪婆のやうに冷淡になるのであつた。そして若し、彼がこの時後架にでも立たうものなら、狭い家だから聞えるのである、そこで子供等と遊んでゐる彼の四歳になつたばかりの英一を指差して、
「この子は、うちの子供達と違つて、悧口だぞう――、あの顔の大きいこと……」などと憎々しく呟いだ。悧口だぞう! は勿論悪意だつた。
 後架から戻つて来ると彼は、また七面鳥になつて、
「何アに、△△の土地だつて未だ残つてゐるんだ、近いうちにあいつを一番手放しさへすれば……」
 そんな風に、止せばいゝのに思慮ある肚の太い実業家が何事かを決心したやうに唸つたりした。――すると、また彼女も、彼の予期通りに、忽ち笑顔に返つて、
「しつかりおしよう、タキノやア。」と、薄気味の悪い猫なで声を出して――まつたく、斯んな種類の中婆アさんといふものがあるんだな! と、彼を変に感心させて、
「お前さへしつかりしてゐれば、大丈夫だよう、いくつだと思ふのさ、ほんとにお前はよう……ほんとうなら阿母さんは、クヽヽヽヽ。」と彼の悪感をそゝる意味あり気な忍び笑ひをはさんで「クヽヽヽヽ、もう隠居なんぢやないかねえ、クツクツク……、お前は未だカラ子供なんだねえ、なんにもクヨクヨすることなんて、ありやアしないぢやアないかねえ……」
 その声色が、見る見る飴のやうに甘く伸びて行つて、毛虫になつてうねうねと逼ひ寄つて来て、
「ヲダハラの阿母さんは安心だよう……まア、斯んなおとなしい悴をもつて……」
 あゝ、もう堪らないなア! あゝ、厭だ/\! と思つて、彼が身を引く途端、ポンと彼女の営養不良の薪(まき)のやうな手が、彼の肩先をさするやうに叩いて、彼をゾツとさせた。
 彼は、この中婆アさんの歓心を買はうとしてゐる己れの所置に迷つた。
(ヲダハラの阿母さん!)
 彼は、そつと繰り反した。周子の母に、遠回しな厭がらせを浴せられて、今迄自分が母に抱いてゐた反対の心境が拡けたなどと思つたのも、みんな苦し紛れの痴夢で、斯うあくどく残虐な手に攻められると、一瞬間前の余裕あり気な心持などは、鵞毛の如く吹き飛んでしまひ、腑抜けた自分が「ヲダハラの阿母さん。」と、この中婆アさんの間で、夫々彼女等の命ずるまゝに、泣いたり、笑つたり、舌を出したり、出たら目に踊り狂ふ、魂のない操り人形である己れの所置に迷つた。道徳的な潔癖で母に義憤を覚えたのでもないらしい、また感傷が、彼女の幸福を祈つたのでもないらしい……(カツ! 周子の母親に肩を叩かれて、ゾツとする類のものか!)
「…………」
「お前は、なかなか感心だよう。」
 カツ! と、風船玉のやうな己れの頭をはぢいて、彼は――この「悪婆」の面上に唾を吐きかけてやる! やれる境遇か? やる代りに、こゝで己れの母をカツと罵るか? 罵れば、代りにはなりさうもない、心から己れの母を罵つてしまひさうである……何と、この「悪婆」が手を叩いて嬉ぶことであらう、相手が此奴でさへなければ、自分は声を挙げて自分の母を罵れる、そして清々する……いや、鏡に向つて、同じ程度にこの二人を罵つてやりたい、いや、鏡では、自分の馬鹿面が写つて噴き出してしまふだらう。天に向つて演説するか? 星を見れば、斯んな亢奮は、また鷲毛になつて飛散してしまふだらう……(あゝ、俺は、とてもこの眼前の妖婆には敵はない――)
 そつと彼は、にやにやしてゐる「妖婆」の横顔を眺めると、間もなく此奴に酷い幻滅を覚えさせる程のボロが現はれて、と忽ち妖婆は悪鬼となつて、胸を突かれ腕をとられて、子供諸共戸外にほうり出されてしまひさうな危惧を覚えて、――ふと、その危惧が反つて思はぬ安易に変つたり、自分の母からの白々しい通信に滑稽な戦きを持つたりした。――彼は、幼稚な自称科学者が、顕微鏡下に、人畜に害をなす怖るべき病菌を見て、思はず見震ひを感じたのであるが、大人であることゝ、研究家であつたことゝを顧みて、擽つたく身震ひを堪へながら、唖然として、厭々ながら眼鏡を眺いてゐる愚かな見得坊に過ぎなかつた。無能な衒学者に過ぎなかつた。カラクリの眼鏡を覗いてゐる児童に過ぎなかつた。また、何の得も取れない詐欺師にも等しかつた。――まつたく彼は、こゝで厭な顔を現さずに凝つとしてゐることは、如上の形容でも足りぬ程、随分苦しかつたのである。
「なア、タキノや――」
「アツハツハツ――まつたくだなア。」
 いくら程あれば、以前の運送店を取り戻して、あんな働きのない夫などは頼まずに――云々といふ、彼女は、癖になつてゐる愚痴を滾して、夫を批難しはじめてゐた。――母から遠ざかれば、いくらか彼は救かつた。
「それツぽツちのこと、何とでもなるさ。」
 何となく彼は、吻ツとして、ほんとに、それツぽつちならといふ気で、何の成算もなく
「俺がやる/\。」などと、景気好く叫びながら、また呵々と笑つた。――讚同しないと、怖い気もしたのである。
 彼は、斯んな場合に限らず、一寸感情がもつれると、直ぐに己れの姿を見失ふ性質が、幼時からあつた。無神経な物体になつてしまふ病気を持つてゐる。
 斯んな嘘のやうな経験がいくつもあつた。――幼時、発狂してゐた叔父に手を引かれて(彼には、叔父が狂人といふことが好く解らない程の幼時だつた。家人にかくれて叔父が彼を伴れ出したのださうだ。)裏の山へ散歩に出かけた。父の直ぐの弟で、彼が父のやうに慕つてゐた叔父である。細いことは忘れてしまつたが、何でも叔父が、可成り高い崖の上から、下の畑に、俺も飛び降りないか? と誘つたのである。低いやうに見えたので、叔父に続いて、飛んで見ると、案外に高くつて、彼は、脚が地についた刹那は平気だつたが、一寸間をおいた後に率倒した。――二十二三才の頃、父と一処に、初めてミス・Fを訪れた時、父はFの父と用談をしてゐるので、快活なFは彼を、自分の部屋に誘つた。いくらFが、話しかけても彼は、アセるばかりで答へることが出来なかつた。彼女は、おぼつかない日本語を用ひるのであつたが。――彼は、彼女の薄着の下に躍動してゐる鹿のやうに明るい四肢を想像して、自分が彫刻家でないことを後悔した。
 彼が返答に困つてゐると、彼女は、彼の顔を仰山に覗いて、
「うちの鸚鵡よりも、アナタはおとなしい。」
 などと、皮肉でなしに云つた。彼は、赧くなつて立ちあがつた。――彼には、洋風の居室などが、大変珍らしかつたので、不躾けにあたりを見廻した。Fが、一寸部屋から出て行つた時彼は、隣りにも同じ部屋があるので、その方へ進んで行くと、突然、酷く堅くて、冷いものに、イヤといふ程頭を殴られた。――気附いて見ると、壁に塗り込まれてある大きな鏡だつた。傍き見をしながら、歩いて行つたのだらうが、余程酷くテレてゐたものらしい。今、思つても、その時鏡に写つてゐた筈の己れの姿は、どうしても思ひ浮ばない。その晩、家に帰つてから彼は、熱を出した。誰にも見られなかつたから、好かつたが――と呟いで、胸を撫で降ろしてゐる自分が一層堪らなかつた。
 彼のは、物思ひに耽つて眼前のものを忘れるといふ類ひのものでない。
「さうなれば、ほんとうに私は救かるんだがな。」
「救かるなんて! そんなことを云はなくつてもいゝよ/\。」と、彼は、無造作に点頭いて、周子の母を一層気嫌好くさせた。――ブランコに乗つて、半円に達する程の弧を描き、風を切る身に、足の裏から冷い風が滲み込んで来る快くもない勢ひで、五体が硝子管になつてゐるやうな面白さだつた。
 悪事を働いて、茶屋酒を飲んでゐる小人の心持は、斯んなものかも知れないぞ! ――彼はまたそんな風に概念的な馬鹿気た比喩に身を投じて、鈍重な明るさに浸つた。――だが、彼は、そつと左手をふところに忍ばせて、右手では飽くまでも磊落を装ふて、徐ろに酒盃を上げ下げしながら、秘めた手の平をぴつたりと胸に圧しあてゝ、微かな鼓動を窺つて見たりした。と、それは、次第に鋭く凝りかたまつて、そして、見る間に、いくつかの粒に砕けて、小さくさらさらと鳴りながら脆弱の淵に沈んで行くのであつた。
 この小さな、無神経な物体の音は……? と、彼は夢想した。渚の岩蔭に潜んで、波が来ると驚いて窓を閉ぢ、引けばまたこつそりと顔を現してあたりを眺めたり、産れて以来それを続けてゐるにも関はらず一向波に慣れない愚かな「ヤドカリ」が、稍大きな波にさらはれて、アツといふ間もなく岩間から転落して、眼を閉ぢて、ころころと水の底に沈んで行く心細さだつた。
「またやられてしまつたぞ、残念だな。あの岩まで這ひあげるには、また相当の日数がかゝるんだな。あゝ、厭だな……」と、怠惰なヤドカリは呟いだ。――「眼もあけられやアしない……うつかりすると、砂に埋つてしまふぞ。口も利けやしない、息苦しくつて……水の底なんて――。ウヽヽヽヽ。」
「酒々!」と、「ヤドカリ」は叫んだ。
「もう、よしたらどう?」
 周子は、さつきからの彼の困惑を悟つて、珍らしく夫に同情する程の気になつた。
「好いぢやアないかねえ、お酒位ひ……」と、彼女の母は、親切に酌などした。「私は、なんにもやかましいことなんて云やアしないしさア。」
 彼は、何とかして、饒舌な周子の母を黙らせてやりたかつた。
「Hermit-Crab ツて、何だか知つてゐる?」と彼は、突然周子に訊ねた。
「知らないわ。」
 知つてゐると、彼は思ひはしなかつた。自分だつてさつき彼は、Yadokari〔寄居虫〕n. the Hermit Crab と、和製英語見たいな言葉を和英字引で引いたのである。
「何さ?」
「いや、知らなければ好いんだがね――俺も、一寸忘れたんだよ、えゝと?」などと彼は、空々しく呟きながら物思ひに耽る表情を保つた。好いあんばいに彼女の母は、黙つてしまつた。そればかりでなく彼は、二三日前から切りにヤドカリの痴夢に耽つて来た阿呆らしさを、こんな風に喋舌ることで払つてしまひたかつた。若しこれを和語で云つたならば彼女等ですら、そのあまりに露はな意味あり気を悟つて苦笑するに違ひない、などと彼は、怖れたのである。――彼は、二階で、和英字引を引いたり、Hermit といふ名詞をワザと英文の字引で引いて、“one who retires from society and lives in solitude or in the desert.”などと口吟んだり、また「やどかり――蟹の類。古名、カミナ。今転ジテ、ガウナ。海岸に生ズ、大サ寸ニ足ラズ、頭ハ蝦ニ似テ、螯(はさみ)ハ蟹ニ似タリ、腹ハ少シ長クシテ、蜘蛛ノ如ク、脚ニ爪アリ、空ナル螺ノ殻ヲ借リテ其中ニ縮ミ入ル、海辺ノ人ハ其肉ヲ食フ。俗ニオバケ。」と、わが大槻文学博士が著書「言海」に述べてゐるところを開いて、面白さうに読んだりしたのである。
「どうしたのよ?」
「…………」
 斯んな時彼は、うつかりすると、盃を鼻に突きあてたり、襖を忘れて次の間に入らうとして、襖に頭を打たれたりするのであつた。
「阿父さんの一周忌は――」と、周子の母が云ひだした。またか! と、彼は舌を打つた。それは三月の初旬だから、未だ遠いのであるにも関はらず、彼女は、それに事寄せて彼の母を話材にしたがつた。
 彼は、周子の方に向つて、前の続きを喋舌らうと努めたが、何の材料もなし、自分達のことを話材にすれば直ぐに、その母が口を出すし、うつかり「煩いツ!」などと癇癪を起せば、それこそ如何(どん)な酷い目に遇ふか? 想つたゞけでも竦然とするし、
「うん/\、僕は、前の日にでもなつて行けば好いんだらう――どうせ。」などと受け流しながら、酷く焦々とした。――何でも好いから、何か別の話材に逃げなければ堪らない、と思案した。――(なぶり殺しにされてしまひさうだ。)
 彼の口調が、棄鉢な風で、そして不平さうに口を尖らせてゐるのを、彼女は、自分が煩さがられてゐることも気付かず、彼が遠方の自分の母に向つて反抗してゐるものと思ひ違へて――にやりとして、狐となつて彼を諫めたりするのであつた。
「何を云つてゐるのさア、お前は、よう! 前の日にでもなつてだなんて……フツフツフ、そんな呑気なことで如何なるものかね、ゑゝ! 当主なんだぜ、お前は、さア!」
「……御免だ。」
「そりやア、向ふぢや何もお前を無理に呼び寄せようとはしないだらうがさ、ヲダハラの阿母さんだつて……」
 ――どうしても阿母を罵しらせるつもりなんだな、この俺に……斯う俺が思ふのは、決して邪推ぢやない、邪推なもんか、この狐婆ア奴、どつこい、そんな手に乗つて堪るものか、チヨツ!
「あゝ、厭だア!」と、彼は、顔を顰めて溜息を衝いた。
「だが、可愛想になア、お前も。お前は、これで規丁面なたちなんだものねえ。」
 ――ばかされたやうな顔をして、あべこべにばかしてやらうかね、何の斯んな婆ア狐ぐらひ……阿母さんの悪口なんて云ふもんぢやないよ、なんて諫めるめたいんだな、心では快哉を叫びながら――などと彼は、敗ン気な邪推を回らせたが、何としてもばかし返す手段として、自分の母を選ぶわけには行かなかつた。と、云つて彼には、他の方法は一つも見出せなかつた。――全く彼は、この婆アさんに心まで見透され、操られ、打ちのめされてしまつたのである。いくら口惜しがつても無駄だつた。笑ふことも憤ることも出来ない穴の中に封じ込まれて行くばかりだつた。――彼は、口惜しさのあまりギユツと唇を噛んだ。
「そりやア、お前としては随分口惜しいだらうがね、お前は、仲々辛棒強いから口にこそ出さないが、私は、ほんとうに察するよ。お前の心を、さア。」
「鬼だ!」
「うん/\、我慢をし/\、私はもう……」
 ――憤慨の情を露はに出来たゞけでも彼は、いくらか救かつた。彼は、肚立しさのあまり滅茶滅茶に、この眼の前の「狐婆ア」に向つて、胸のうちで、思ひつく限りの野蛮な罵倒を叫んだ。――(畜生奴、鬼だ! と云つたのは手前のことを云つてやつたんだぞ、この鬼婆ア! 営養不良の化物婆ア……淫売宿の業慾婆ア! ぬすツとの尻おし! くたばつてしまへ! 夫婦共謀の大詐欺師! 烏の生れ損ひ! 食ひしん棒!)
 彼は、そんな風に、如何(どん)な下等の人間でも口にしさうもない幾つかの雑言を繰り反してゐるうちに、このうちの何れでも好いから、一つはつきり相手に悟れるやうに叫んで見たいな――などと思つてゐるうちに、ふと名案が浮んだやうに、ポンと膝を叩いた。
 彼は、横を向いて、
「Devil-Fish!」と、叫んだ。周子の母を罵つたのである。
「え?」と、周子は、一刻前からの続きで邪気なく問ひ返した。無智な彼女の母は、娘がさういふ話(English)に興味を持つてゐるらしいのを悦んで、
「お前達の話は、何だか私には解らない。」などと微笑みながら娘の顔を眺めてゐた。
「Devil-Fish! Devil-Fish!」
 彼は、ふざけるやうに叫んで、すつと胸のすく気がした。――(烏賊が墨を吐いて、敵の眼を眩ませるんだが、自分の墨で自分が眩まないやうに気をつけろよ。)――「ウーツ、怖ろしく酔つ払つて来たぞう。」
「お酒はね、酔ひさへすれば薬だよう、この頃お前は、随分気持よさゝうに酔ふぢやアないか。ヲダハラに帰つた時などゝ如何なのさ?」
「Devil-Fish ツてえのはね、お前知つてゐる?」
「さア!」と、周子は、考へるやうに首をまげたりした。
「どれ、ひとつ余興でも見せてやらうかな、……Devil-Fish ぢやア、困つてしまふな、いや、お前なんて、烏賊の泳ぐところを見たことがあるかね。」
 彼は、気嫌の好い酔つ払ひらしくそんなことを云つた。
「ないわ。」
 彼も、烏賊の泳ぐところなどは見たこともなかつたが、
「斯んな風な格構でね。」などと云ひながら、上体を傾けて、スイスイと頭を突きあげたり、ブルブルツと、幽霊のやうに手や脚を震はせたり、うねうねと体を伸縮させたりした。
 周子も、その母も、肚を抱えて笑つた。そして彼は、この運動の合間に、掛声のやうに見せかけて、鬱憤の洩し時は、こゝぞと云はんばかりに力を込めて、
「Devil-Fish!」と、叫んだ。
「アツハツハツハツハ。」
「デビル・フヰツシユツて、烏賊のことなの?」と、周子が訊ねた。彼女は、自分の母の前で彼が気嫌の好いのを悦んでゐた。
「……何しろデビル・フヰツシユぢや食へないんださうだ。」
 彼女は、彼がもう酔ひ過ぎてわけの解らぬことを云ひ初めた、と思つた。
 これは、嘗て彼が、父から説明を聞いた英語であつた。ある種の紅毛人は、章魚、烏賊、鮟鱇などの魚類を、俗に「悪魔の魚(デビル・フヰツシユ)」と称して、食膳にのぼすことを厭ふといふ話だつた。――彼は、周子の母を鮟鱇に例へ、己れを或る種の紅毛人になぞらへて見たりしたのであつた。
「うちの阿母は?」と、彼は、思はず呟いで、同じやうな不味(まず)さを覚えた。その時彼は、周子とその母の眼が、不気味に光つたのを感じてヒヤリとした。……(鮟鱇と烏賊の相違位ひのものかね、フ……)
 彼は、間の抜けた笑ひを浮べた。……(俺も、俺も……)
「ぢや、ひとつ今度は、章魚踊りをやつて見ようか。」
 周子の母が、何か云ひかけようとした時彼は、斯う云つて、厭々ながらひよろ/\と立ちあがつた。
「キヤツ、キヤツ、キヤツ――タキノは、仲々隅には置けない通人だよう。普段は、あんまり口数も利かないけれど、酔ふとまア何て面白い子だらう。」
 そんなことを云ひながら周子の母は、火鉢に凭りかゝつて、指先きで何か膳の上のものをつまんだり、チビチビと盃を舐めたりしてゐた。
「いくらか痩せてゐるだけで、やつぱり斯うやつて見ると、阿父さんにそつくりだわね、ねえ、お母さん。」
 周子は、母親に凭り添つて、母に甘へる笑ひを浮べながら彼を見あげてゐた。
 彼等は、夜毎、このアバラ屋で、彼様に花やかな長夜の宴を張るやうになつた。

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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    タロットアルカナの22枚には、世界の変化を表すことが記されています。カードの意味を知るには、図案のもつ表のイメージから解放されることが大切です。

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    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。