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2010年3月22日 (月)

鏡地獄

     三

「七草過ぎなければ、とても出来ないんですツて! あたし今も建具屋を二三軒きいて来たんですけれど、皆な同じなのよ、困つたわね、辛棒出来る?」
 周子は、気の毒さうに云つた。建具が一つも入つてゐない部屋なのである。この六畳一間だけの二階だつた、彼の今度の芝・高輪の書斎は――。加けに一方が椽側で、他の二方には夫々一間宛の窓があいてゐた。椽側の敷居には、雨戸代りの硝子戸が入つてゐたが建てかけて三年も放つて置いた家で、その間には地震があつたし、隙間だらけだつた。硝子戸と天井との間には、小さな板戸が入るやうになつてゐるのだが、板戸は入つてゐないので、幕が張つてあつた。西の窓にも北側の窓にも幕がピンで止めてあつた。その幕には、賢太郎の手で、得体の知れない模様が描きかけてあつたり、縫取りが仕かけてあつたりした。――風があたる度に、三方の幕が帆のやうに脹れたり凹んだりした。これでも賢太郎が懸命になつて、壁に雑誌から切り取つた名画を貼つたり、徳利のやうな花瓶に水仙を活けて、床の間に飾つたりしたのである。
「困るはね!」と、あたりを見回して、更に周子は云つた。
「いゝよ、いゝよ、関はないよ。」
 彼は、さう云つて行火の上に頬を載せた。行火といふものにあたつたのは、この冬が彼は初めてだつた。こゝに来て以来彼は、午後の二時頃寝床を逼ひ出て、それから夜おそくまで斯うして、この部屋に丸くなつてゐた、ドテラを二枚も重ね着して。――また、バカに寒い日ばかりが続く正月であつた。
 天気が好いと彼は、三方の幕をはらつて、丸くなつた儘外の景色を眺めた。――南側は、西国回りの旅人が初めに詣でる大きな仏閣の、厨房に面してゐた。北側の窓は、腰高だつたから、坐つてゐると青空と、眼近かの火見櫓が見ゆるだけだつた。そこには、いつでも黒い外套を着た見張り番が、案山子のやうに立つてゐた。彼は、時々筒形の遠眼鏡(とうめがね)をトランクから取り出して、射撃をする時のやうに一方の眼を閉ぢて、見張番の姿を眺めた。ものゝ好くない、加けに昔の眼鏡だつたから、肉眼で見るよりも反つてボツとした。いくらか対照物が大きくは見へたが、線が悉く青地に滲んでゐた。如何程視度を調節しても無駄だつた、それでも彼は熱心にそんなものを弄んだ。はつきり見へるよりも反つて興味があるんだ、などゝ呟いだ。西側の窓は、キリスト教会堂の裏に接してゐて、朝からオルガンの練習の音が聞えた。それが時々俗曲を奏でた。仏閣からは、御詠歌の合唱が聞えた。
 少しでも風が出たり、曇つたりして来ると直ぐに彼は、立ち上つて三方の幕を降してしまつた。
「これぢや勉強が出来ないでせう。」
「いや、そんなことは心配しないでもいゝさ。」
 彼は、さういふより他はなかつた。勿論、この寒さに、この吹きツさらしの二階などに籠つてゐることは、どんなに彼が「アブノルマルの興味」を主張すべく努めても、第一寒くてやり切れないのだが、まア仕方が無いとあきらめたのである。
 階下は、割合に広かつた。尤も、この二階と、下の二間は古い母屋にくツつけて、三年も前に建てかけたのであるが、その儘で完成させなかつたのである。母屋の方だつて、地震に遇つた儘何の手入れも施してなかつたから、唐紙は動かず、壁は悉くひゞ割れてゐた。彼が、周子と結婚した当座、半年ばかり二人だけで母屋の方に住んだ。さうだ、三年ぢやない、建増しをしかけたのはその時分のことだつたから。――英一は、もう四歳になつてゐる。
 その頃、この家が彼の「名儀」のものであるといふことを彼は、たしか周子から聞いて、名儀とは何か? と思つたことがあつた。
「抵当なんですツて!」
「へえ、シホらしいね。だが俺の名儀だなんて怪(おか)しいぢやないか?」
「さうね。」
 彼は、こういふことに就いても相当の思慮があるんだといふ風に云つた。「石原が金を持つて来たのは、ぢや、それだな? 三千円――此方が欲しいや。」
「ほんとにね。」
 間もなく彼女の一家が、大崎からこゝへ移つて来た。彼は、彼女の母と(何でも彼女の母が彼のことを、ケチだ! と云つたり、威張つてゐる! と称したり、彼の母のことを、息子に対して冷淡だ! などと彼を煽てるやうに云つたり、一度位ひ来るのが当り前ぢやないか! と批難したり、彼の父が、一度訪れた時、大変景気の好さゝうな法螺を吹いて、泊りはしなかつたのに「さんざツぱら酒を飲んで」、帰る時に小供に小使ひ一つ与へなかつた、「田舎の人は、やつぱり呑気だねえ、お前エらお父ツちやんは、屹度永生きをするだらうよウ、お前エは幸福(しあはせ)だよウ。」などと云つて、遠回しな厭味を述べたり――)、醜い云ひ争ひをして、ヲダハラへ移つてしまつた。ヲダハラではまた彼は、自分の両親と醜い云ひ争ひをして、間もなく伊豆の方へ逃げ伸び、山蔭の、畑の見張り番でも住みさうな茅屋に一年も住んだ。
 父が死んでから間もなく、彼が東京・牛込に間借りをしてゐた頃、周子の母が来て、
「ほんとうに、親類ほど頼みにならないものはない、家(うち)のお父さんはお人好しだから仕方がない、あゝ、厭だ/\。」などと云つて帰つたので、どうしたんだらう? と、彼は周子に訊ねた。
「憾んでゐるはよう! うちのお母さんが――」
「貴様も好く似てゐるな、下品な云ひ回し方が!」と、彼は怒つた。
「高輪の家が競売になるんですツてさ!」
 周子も憾むやうに云つた。
「フヽン!」
 住ふところが無くなつては、そりやアさぞ困るだらうな! と、彼は思ひもしたが顔色には現さなかつた。
「訴へられたんですツてさ! その訴へ人は、タキノ・シン……」と、彼女は、彼の名前を云ひかけて、笑つた。
「へえ!」――「好い気味だア」と、彼は云つた。何となく彼は、かツとして続けて憎態なことを二三言云つたが、何だか彼は怪(おか)しかつた。――可笑しくもあつた。
 彼が、その次にヲダハラに帰つた時母が、
「原田(周子の実家の姓)の代理の川崎といふ人から、お前に宛てゝお金が来てゐる。」と云つて、二百円渡した。――彼と母とが極端に仲の悪い頃だつた。
 さういふ種類の書きつけは、見ても彼にはわけが解らないので手も触れなかつたが、母の説明に依ると、高輪の家が競売になつて、第何番目かの抵当保持者である彼に、返済された金なのださうだつた。
「あそこまで、そんなことになつてゐたのかね!」
「どうだか、僕だつて知らなかつた。」
「だつて名前が……」と、母は、変に静かな調子で変な笑ひを浮べた。
「僕の名前なんて、どうせ普段から滅茶苦茶なんぢやありませんか――好い面の皮だア長男だなんて!」
 彼は、如何にも迷惑さうに不平を洩して、世俗的な常識に長けてゐる者らしく眉を顰めたりした。
「そんなことを云ふものぢやない。」と、母も云つて顔を曇らせた。その色艶のあまり好くない、だが眼立つほどの皺もなく、そして干からびてはゐない容貌を見ると彼は、極めて非常識な反感をそゝられた。――そして彼は、また死んだ父の顔を徒らに想ひ描いたりしながら、何といふわけもなくバカ/\しい気がして――(フツフツフツ……。馬鹿な連中ばかしが、好くも斯うそろつたものだ!)などと思つたりした。
「いくら僕が、仕様のない人間だからと云つたつて、ですね。」
 彼は、胸を拡げて開き直つた。(何か、ひどく尤もらしい文句がないかな? 何か? 何か? ――)――「それほど仕様のないことなんて考へて見れば、別段何もありやアしないや。普通の息子なんだ、自分で自分のことを仕様のない人間だ! と、自分に思はせるやうにしたのは……」
「お黙り!」
「…………」
「一体お前は何のつもりなの? 如何いふ了見なの? ――幾つになるまで親を瞞すつもりなの?」
「瞞す?」
「やれ、学校の研究科へ通つてゐるの、新聞社に務めてゐるの……大うそつき奴!」
「……」――何アんだ、そんなことか! と彼は思つた。「えゝ、えゝ、どうせ大うそつきですよう、だ。」
 斯んな馬鹿気た争ひをしてゐるよりも彼は、思はぬところで、飛んだ儲け物をしたので、上の空でその金の使ひ道を考へてゐた。――(面白い/\。俺の名前が、俺の知らない間に役に立つてゐるなんて、一寸不思議な気がするぢやないか。それにしても親父が死んで以来、こんなウマイことに四度も出遇つてゐるぢやないか、ひよツとすると俺の知らない間にも斯ういふ儲けがあつたのかも知れないぞ? まアいゝや、そこで…… チエツ、バカ気てゐらア、これツぽツちの金で、想像をたくましくするなんて――)
 彼は、父が死んで以来、例へば金に就いて考へるにしても、その額面が急に大きくなつてることが可笑しかつた。
「如何いふ了見なの?」
「了見ツて?」――彼は、今母と何か云ひ争ひをしかけてゐたのを忘れてゐた。
「お前は、一体何なんだい?」と、母は努めて落着いて訊きたゞした。
「煩いなア! 私は、私ですよ。」
「幾つだい、年は?」
「親の癖に、子の年を知らないの?」
「知らないよ。」
「二十九歳。」
 彼は、さう云つて悠々と煙りを吹いた。
「そして何なの?」
「幾度同じことを聞くんですね! 僕は、何でもありませんよ、――人間だよ、二十九歳の――」
 彼は、庭に眼を放つて、ピーピーと口笛を吹いた。そして火鉢の傍に投げ出してあつた金を、徐ろに懐中に容れた。――(お蝶にやつてしまはう。)さう思つて彼は、清々としたかと思ふと、直ぐまた斯んなことを考へた。(お蝶の奴、益々俺を尊敬するだらうな、何と云ふだらう、お光を呼んで、二人でお辞儀をするだらうな、ホツホツホウ。)――彼は、他人から感謝の礼などされたことがなかつたから斯んな空想が殊の他物珍らしかつた。――(突然なんだから一層彼女等は喜ぶだらう。よしツ、そこで一番! お光が大きくなつたら、一番俺が妾にしてやらう、と、斯う見るからに信頼されさうな重味のある声を出して見ようかな?)
 彼は、口笛を止めて変な咳払ひをした。母はそれに一層反感を持つたらしく、
「それでも、人間のつもりか。」と、口惜し気に呟いた。
「…………?」
 いつもならこんな場合に、極めて図太い度量を持つて、馬耳東風に聞き流すか、或ひは易々と相手を嘲笑ひ反すのが常だつたが、ふつと今彼も、母の詰問を自分に浴せて見た。――だが、これだけはまさか疑ふわけにもゆかない――ほんとに彼は、そんなことを思つた。――(たゞ、私は、あなたのやうにそれであることに、一抹の誇りも持たない者なのです。)
 さつきから彼は、自分の名前が、自分の知らない間に活動する? などといふことを、酷く濁つた頭で「不思議」に考へてゐたのであつた。夢で、自分の姿を見るやうに、気付かずにゐたところを写された写真を見るやうに、「考ふるが故に吾在り」の吾は、何も考へてゐない存在で、多少でも考ふるが故の吾は、別にその辺の隅にでもかくれてゐるやうに、彼は、ぼんやり、極めて単純なことを、「不思議」に、非科学的に想つてゐたのだ。
「名前」が活動するんだから一層怪(おか)しい……彼は、すれ違つた汽車の中に、厭に取り済して乗つてゐる自分を、チラリと見るやうな想ひに打たれたりした。
「ピー、ピー、ピー。」
 斯うやつて、犬でも呼ぶやうに口笛を鳴してゐると、今にもその辺の蔭から、
「何だい、何の用だい、僕アお前などに呼ばれる用はない筈なんだがなア。」などと云ひながら、迷惑さうに自分の「名前」が出て来さうな気がした。
「やア、S・タキノ!」
 斯う云つて彼は、その傍に寄つて行つた。
「君は、誰だい?」と、「名前」が云つた。
「S・タキノさ。――だが、そんなことは如何だつて好いぢやないか、名前位ひのこと。」
「好いけれどさ、他の名前を呼ばれゝば俺は、返事はしないからね。S・タキノでなければ――どうも、その生れて来て以来の習慣でね――H・タキノと云へば、やつぱりあの親父……」
「解つてゐるよ、馬鹿/\しい――。シンの奴、シンの奴! 斯う云つて何時か親父が、おそろしく怒つたことがあつたつけな。」
「うむ、あつた/\。」と、云つて「名前」は気色を雲らせた。
「あの時は、俺は、随分面白かつたよ、シンの奴、すつかり参つたね。」と、彼は、相手を嘲弄した。
「僕ア、面白いどころぢやなかつたぜ、冗談ぢやない、身が縮む思ひがしたよ。」
「フツフツフ、意久地のない奴だな。僕は、また、親父がカンカンに怒つてさ、シン、シン、シン、シン――と、斯う怒鳴るのを聞いてゐると、何だか、それは名前ぢやなくつて、景気好く釘でも叩き込む音のやうな気がして、胸の透(す)く思ひがしたぜ。」
「笑ひごとぢやないよ、俺ア随分痛かつたからな!」
「名前」は、斯う云つて今更のやうにそれを思ひ出したらしく、頭をさすつた。
 彼の父が、玄関を入ると怒鳴つた。
「シンの奴は居るか?」
 その勢ひがあまりすさまじかつたので、彼の母は、居ない――と、かくした。彼は、奥の書斎で机に噛りついて、詩を書いてゐた。
「何処へ行きアがつたんだ?」
「さア。」
「畜生奴! 帰つて来やアがつたら――」
 それらの言葉が手に取るやうに彼に聞えた。
「どうなすツたの?」
「赤ツ恥をかいちやツた。」と、叫んで、少し落着いてから父は、次のやうなことを説明した。
 山本の家(近所の父の友人)へ行くと、娘の咲子が、化物のやうな画の描いてある表紙で、「十五人」とか「十七人」とかといふ変な名前の薄ツペらな雑誌見たいなものを持つて来て、
「シンちやんの散文詩が出てゐるわよ、おぢさん。」と云つた。
「ほう!」
「こんなのよ、こゝの処だけ一寸読んで御覧なさい――ホツホツホ、さんざんね、おぢさん!」
 咲子は、「父の章」といふ個所を指差して、彼の父に渡した。
「滅茶苦茶に俺の悪口を書いてゐやアがるんだ、畜生奴! もう俺ア、彼奴とは一生口を利かないぞ、カツ!」と、父は母に向ツて怒号した。
「詩ですつて?」
「田舎芸者を妾にもつて、女房にヤキモチを嫉かれてゐる間抜け爺――そんなやうなことが、一杯書いてあった。……元来、貴様が馬鹿だからだア、件の前も関はず、云ひたい放題なことを云やアがつて。」
「自分が、行ひさへ……」
「何だつて、行ひだつて? もう一遍云つて見やアがれ、ぶん殴るぞう。――何を云やアがる、手前は何だ、手前は何だ、手前エこそ俺の顔に……」
 父の激亢の声が、何だか彼には、笑つてゐるものゝやうに聞えた。
「叱ツ!」
「手前エこそ今に、息子の碌でもない詩に書かれないやうに要心しやアがれツ!」
「声が大きい。」
 彼には、父の云ふ意味が好く解らなかつた。
「手前エには、な、何だらう、倅の前かなんかでなければ大ツ平に俺のヤキモチを嫉くことも出来ねえんだらう、ヘツ! 俺アこれでも世界中を渡り歩いて来た人間だア!」
 偉いよ! と、彼は父に悪意を持つて呟いだ。彼は、母に味方してゐたからである。――父の声は、益々高まつた。
「俺のことは、関はないよ、勝手にしろ!」
 勝手にしたら好いぢやないか――と、彼も呟いだ。
「それよりも手前エの息子のことを気をつけろ! 息子に聞かれないやうに要心しろ! 恥知らず奴、皆な恥知らずだ、加けに彼奴は、シンの奴は、ぬすツと見たいな野郎だ、面からして気に喰はねえやア! ――どうせ、手前が生んだガキだ、俺ア知らねえよ。」
 彼は、ぬすツとのやうに呼吸を忍ばせて、窓から抜け出した。そして山本の家へ駆け込んだ。
「跣で――どうしたの?」
 小屋から出て来た咲子は、彼の赧い顔を見てなじつた。――草花を庭に植えてゐたところだ、といふやうなことを云つてから彼は、
「どうして×××なんかを、持つてゐたの!」
 と、雑誌のことを訊ねた。
「買つたのよ、この間――東京で。」
「さう、――ぢや、さよなら。」と、云つて彼は直ぐに引き返した。派手好みな、嬌慢な咲子の美しい姿が、もう彼の手のとゞかないところで、古い夢のやうに煙つてゐた。
「随分、ひどい人ね――」と、うしろから咲子が浴せかけた。彼は、体が空中に吹き飛んだやうにテレた。たゞ、彼女の声を、甘く胸に感じて、一層身が粉になつた。――咲子のことを、カン子といふ名前に変へて彼は、その「散文詩」の中で、咲子が若し読んだならば酷い幻滅を感じるに違ひない程に書いてゐた。咲子と彼とは、彼が未だ周子と結婚しない頃、親同志の婚約があつた。「この金持の娘は、金に卑しい。」などとも彼は書いた。彼女は、金持の一人娘だつた。
「自らそれを得意としてゐる哀れな娘」などとも彼は書いてゐた。
 外から、そつと窺つて見ると、未だ父と母との間では、盛んに彼の名前が活躍してゐた。……――「まつたく俺は、あの時、父や母の間で交されてゐる、シン! シン! が、さ。暫く聞いてゐるうちに自分とは思へなくなつてしまつたよ――戸袋の蔭に、ぴつたりと雨蛙のやうに体を圧しつけて、彼等の悲痛な争ひを聞いてゐると、まつたく馬鹿/\しくなつたね――たしかに俺は、蛙だつたよ、あの時、シンとかといふ彼奴等の息子は、悪い野郎だな――と、蛙である俺は、あきれて呟いだのさ。」
「お前は、そりや呑気だつたらうよ、さぞ面白かつたらうね。」
「面白くはないさ、そんなありふれた騒ぎなんて……」と、彼は、退屈さうなセヽラ笑ひを浮べた。
 これは、彼の先程からのあやふやな自問自答である。相手は、あの「名前」である。
「だが、君。」と、彼は感傷的な声で相手を呼びかけた。――「阿母とは仲良くして呉れね、特別に親孝行なんて仕なくつても好いが、普通の息子らしくさ……それだけのことも俺には出来さうもないんだ。」
「お前は、何かにこだはつてゐるんだな、倫理的な立場で――」
「――憎んではゐないさ。親だもの、たしかに母親だもの、――父親ツてエのは、これで疑へば疑へないこともないが、母親だけは疑へないぜ。周子が、子供を生んだ時、親父が沁々と云つたぜ――母親には、自分の子供を疑ふ余地がなからうな、たしかに自分の子だからね――だつてさ、馬鹿だね。……俺、あの時、一寸厭な想像をして、思はず親父の Bawdy appearance を覗いたぜ。」
「馬鹿だなア、お前こそ――」
「そんな話は止さう。ともかく阿母のことは頼むぜ。」
「よし/\、俺が引きうけた。」
「名前」は、斯う云つて見得を切つた。――。
「安心しろよ、何だい、べそ/\するない、ぬすツとらしくもない。」
「阿母だつて、寂しいだらう、親父にはさんざ憂日を見せられ、そして俺が、俺が……俺は、阿母は好きなんだ。顔だつて、心だつて随分俺は、阿母に似てゐるぢやないか!」
「よし/\もういゝ/\、お前は、名前のない人間なんだから愚痴を滾す必要はないんだよ。」
「それでも、いゝか? ほんとうに。何かにつけて不便なことがありやしないかね。」と、彼は絶へ入りさうな声で念をおした。
「そんなことは、俺たちの狭い世界だけの話だ、お前は独りでさつさと歩いて行つて関はないよ。」
「いよう! 君は、随分、度量が拡いんだね。――いや、有り難う、ぢや、失敬するぜ。」
「うむ。」
「ぢや、さよなら。」
「早く行けよ。」
「今、行くよ――握手しようか。」
「そんなことは御免だ。さつさと行つてくれ、少し焦れツたくなつて来た。」
「俺、何だか行くのは厭になつた、急に。」
「女のやうな奴だな。」
「厭だ/\、俺ひとりぢや、やつぱり寂しいや、せめて君が……」
「それぢや何ンにもなりやアしない……」
「何ンにもならなくなつても好いから、行つてくれ、一処に。ひとりぢや厭だ、厭なんだ、さつきから云つてゐたことは、ありやアみんなカラ元気なんだ、あゝ……」
 ――しやア/\と、洞ろな眼つきで口笛を吹いてゐた彼の眼から、ぽた/\と涙が滾れ出た。……しまつた! と、彼は気づいたが、面白いやうにハラ/\と涙が滾れ落ちた。
「…………」
 ふツと気づくと眼の前に居る母の眼にも、涙の珠が光つてゐた。まだ、彼は、母のそれをキレイに、感じなかつた。そして彼は、自分で自分を「邪魔」にした。

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羽衣ストーブ館

  • 静岡新聞 2001年5月22日記事
    フランスを中心としてヨーロッパで製造されたアンティークストーブ100点以上はひとりの日本人個人によって南仏を中心に長期コレクションされたものであります。 ◆南仏より海を渡ってやってきたアンティークストーブ100台たちは清水港へ上陸して、東海大学社会教育センターに移築した江戸時代に作られた曲り屋の屋敷のなかに展示された。 ◆鋳物ストーブ100台たちは、その後も数奇な運命をたどることになる。
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