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2010年3月23日 (火)

鏡地獄

鏡地獄

牧野信一

     一

「この一年半ほどのあひだ……」
 せめても彼は、時をそれほどの間に限りたかつた。別段何の思慮もなく、何となく切ツ端詰つた頭から、ふつとそんな言葉が滑り出たのであるが、そして如何程藤井に追求されたにしろ、何の続ける言葉も見当らなかつたのではあるが、思はずさう云つた時に漠然と――せめても時を、それほどの間に――そんなことを思つたのである。一年半、といふのは、父の死以来といふほどの代りに用ひたいらしかつた、誇張好きの彼にして見ると。
「…………」
 藤井は、困つたといふ風な気色を示した。次の言葉を待つまでもなく藤井には、彼の意図は解り切つてゐたから、
 どうせ、また法螺まぢりの愚痴か! ――斯う思ふと、舌でも打つて顔を反向(そむ)けたかつたが、この時の彼の語調が如何にも科白めいてゐたのに擽られて、思はず藤井は朗らかな苦笑を浮べて、
「相当、苦労したかね、はじめてだらう。」と、噴き出したいのを我慢して訊ね返した。――まつたく藤井は、噴き出したかつた。彼が、そんな言葉を事更らしく、感慨あり気に用ひたのも藤井は、可笑しかつたが、それよりも、厭に物々しく、見るからに愚鈍な顔を歪めて、唸つたりなどした身柄に添はぬ彼の勿体ぶつた様子が、藤井にとつては先づ噴飯に価したのである。
「え?」
「冗談ぢやない。」と彼は、無下に打ち消した。そして彼は、あゝ、と、当人はそのつもりかも知れないが、傍の者にはさつぱり憂鬱らしくも、倦怠らしくも見えない梟のやうな溜息を洩した。
「それやアさうと……」
「その話は、また明日にでもして貰はうか。」
 彼は、さう云つて、気分家らしく軽く眼を閉ぢて、直ぐにまた洞ろに開いた。
「もう間もなく一週間になりさうだぜ。」
「だがね、僕近頃、相当酒を楽しんでゐるんだよ。だから、せめて斯うやつてゐる間だけは僕の……」
 彼は、出鱈目を云つてゐるのに気づいて言葉を呑み込んでしまつた。
「君の気分になんて、つき合つてゐたひにはいつ迄たつたつて埒が明きさうもないぜ。」
 藤井は、人の好い笑ひを浮べた。――「昼間は、殆んど眠つてばかりゐるんだし……」
「君だつて、どうせ帰つたつて用はないんだらう?」
「冗談ぢやない――と、君の言葉を借りるぜ、僕アこの頃相当忙しいんだよ、二年前とは雲泥の差さ、……勘当が許されたひには、これでも一ツ端の長男だからね。」と藤井は、親切に彼の心を鞭撻するやうに云つた。藤井は、彼の同郷ヲダハラ村の一人の彼の友達なのだつた。藤井は、ヲダハラの彼の母から破産に近い彼の財産に就いて、いろいろ彼の意見を正す為に、わざわざ頼まれて出かけて来たのであつた。
「手紙の返事も君は、碌々出さないさうぢやないか?」
「うむ――。だけど僕の手紙嫌ひは何も今に始まつたことぢやないからね。」などと彼は、言葉を濁して、不平さうに口を突らせたりした。
「そんなことは何も責めやアしないがね……」と藤井は、常識に達してゐる大人らしく一笑に附して「ともかく、その銀行の方が――」
「藤井!」と、彼は云つた。「僕ア――今、そんなことに耳を傾けちやア居られないんだ、――僕ア……、僕ア……」
「呑気だね!」
 その時、隅の方でぼんやりしてゐた彼の細君は、
「チエツ!」と舌を鳴らした。彼には、聞えなかつたが、藤井は同感した。
「嫌ひなんだよ、僕アさういふ面白くない話は……」
「誰だつて好きぢやないが――」
「どうなつたつて、関はないと思へば、聞かないだつて済むだらう。」
「ぢや、それア、明日にでも仕様よ、――酒興を妨げては悪いからね。」
「中学の頃の話でも仕様か――」
「う、うん――君、何も東京に住ふ必要はないぢやないか。無駄ぢやないか? マザーもさう云つてゐたぜ。」
「さう云つてゐたか?」と彼は、酷く驚いたといふ風に眼を輝かせた。
「尤もさ――馬鹿だなア!」
「…………」
 別段に彼は、逃げるといふ程の積極性もなかつたが、破産に関する話よりは、興味が動いた。彼は、盗賊の心になつて、母の家の前を、爪立つて通らなければならなかつた。……さつきから、彼は、秘かに――消えかゝりさうになる心が、時々それに触れる毎に、怪し気な光りを放つては消え、放つては消えて来たのであつた。
 盗賊と称ふ形容は、無稽に過ぎるかも知れないが、それは何気なく云ふ藤井ではあつたが、それに依つてヲタハラの母の話に触れて、ヂロリと猜疑の聴耳を立てる彼の心は目的を定めて、姿を窶して日夜目的の家の周囲を探偵してゐる仕事準備中の泥棒のそれに比べるより他に、比較するものはなかつた。――あゝ到々俺は、泥棒になつてしまつたのか……さつきから藤井に、遠回しに取ツちめられて、感傷的な酔ひに走つて来た彼の鈍い頭は、その時、そんなに馬鹿/\しいことをほんとうに感じて、厭な気がした。
「今までは、俺はだらしがなかつたが、もう凝ツとしては居られない。いよいよ俺は、俺のライフ・オークに取り掛るんだ。三十年間俺は、秘かに準備して来たんだ――もう、そろそろと取りかゝつても好い時機に到達して……その俺は、いよいよ……」
 彼は、ついこの間の晩、真面目さうな顔をして細君に向つて、突然そんな途方もない高言を吐いた。周子は、あまり珍らしい気がしたので一寸夫の顔を眺めて見ると、彼は飽くまでも六ヶ敷気な表情を保つて、
「うむ!」などと、肚に力を込めたり、仰山に拳固で胸を叩いたりしてゐた。――彼が、嘗て何とかといふ文芸同人雑誌の一員であつた頃、五六年も前の事なのだが、今と同じく無感想だつた彼は、一度もその欄に筆を執つたことはなかつたが、その六号感想欄には、毎月それに類する亢奮の言葉が、多くの同人達の筆に依つて花々しく羅列されてゐた。
「大きく……力のこもつた……。どうせ俺は、田舎育ちの野暮な人間である……」
「…………」
 何を云つてゐるのか、と周子は思つた。好く酒飲みの友達などと彼が、好い気になつて喋舌つてゐるところを、この頃狭い家にばかり住んでゐる為に、厭でも見聞させられるのであるが――やれ、彼奴は田舎ツペ、だとか野暮臭い奴だなア! とか、田舎者の癖に生意気だ! とか、誰のことか解らないが、そこに居ない人の噂に違ひない、そんなことを喋舌ツて卑し気な笑ひを浮べたことがあつたが、そして彼女は、一層夫に軽蔑の念を起したことがあつたが、今更、彼の独言にそんなことを聞いても、反つて肚立しい思ひがするばかりであつた。――気の毒な気さへした。
「どうしたの? 務めでもするつもりなの?」
「何をするか、解らない。」と彼は、重々しく呟いだ。――「素晴しく大きな希望に炎えてゐるんだ。俺も一人の人間として生れて来た以上は……、うむ、あまり馬鹿にして貰ひたくないものだ。」
「いつ、あたしが、あなたを馬鹿にしましたよ……ひがみ!」
「それが嫌ひなんだよう。」と彼は、叫んだ。さう云つた彼の声は、従令どんな種類のものであらうと「素晴しく大きな希望に炎えてゐる」人の声ではなかつた。
「見てゐろ!」と彼は、云つた。
「ちつとも怖くはない。」
「手前えんとこの奴等は……」
 見てゐろ! と、彼が云つたのは、たつたそれだけの意味だつた。漠然とした大きな希望に炎ゆるのは快い――折角の夢が直ぐに斯んなところで浅猿しく崩れた。
 今までなら彼女は、自分の家の悪罵に会ふと立所に噛みついて来たのであつたが、次第にマンネリズムに陥つた今では、何と彼が悪態をつかうとも、平気になつてしまつた。――「あなたが、いくら口惜しがつて、暴れ込んだつて、家(うち)のお父さんの方が余ツ程強いからね。賢太郎だつて、あなたよりは力があるから……」
 暴れ込むぞ! などと彼が云つた時には、彼女はそんなに云つた。
「何だ、あんな爺! 俺よりもずツと脊が低いぢやないか!」
「でも強いのよ、――五人力なんですつて。」
 彼女の父は、以前に酒乱の癖があつたさうだ。山梨県の百姓の子で、青年の頃出京して長い間運送店の丁稚を務め、後に無頼漢の群に投じたのである。酒乱の酷い頃は連夜、吾家に帰つて乱暴を働き、その頃小さな運送店を経営してゐたのであるが、店の者などは蒼くなつて逃げ出したさうだ。そして或る夜などは、家人が警察に願つたさうだつた。警官が取り圧へに来たら、その巡査の背中をどやして気絶させたといふことを、彼は聞いた。
 ヲダハラの「清親」との争闘以来彼は、自分の腕力に自信を失ふてゐたので、そんなことを聞くと竦然とした。
「見てゐろ!」などと叫んでも周子の前より他に彼は、云へなかつた。
「そんな実際的な話ぢやないんだよ――もう少し上等な理想を云はうとしてゐるんだ。」
 彼は、さういふより外はなかつた。周子の想像以上に彼は、腕力に憧れを持つてゐた。
「お前などは眼中にないんだよ。――人類の一員として、或る自信を俺はもつてゐる。相当の自信はあるんだア!」などと云ひながら彼は、拳を固めてぬツと前に突き出したりした。
「随分、あなたの腕は細いわね。」
「嘲ける者は、嘲けろ!」
 彼は、眼を瞑つて呟いだ。――野蛮な焦燥を静める――そんな気がした。そして「理想的な希望」とか、「大きな力」とか、何でも思想的に花々しく、勇敢なことを思はうとした。何の目的がなくても、故意にさういふ空想に走ると、変な力を感ぜられるものだ――そんな気がした。五六年前の同人雑誌の連中が、それは彼のやうな口先きのことゝは違つてゐたのだらうが、それに類する大きな亢奮をしてゐたが、そんな気に故意に浸つて見るだけでも奇妙な呑気さが感ぜられる――彼は、自分は漸く今になつて彼等の域に達したのか――などと思つて、一寸空虚な力を感じたりした。
(あゝ、それが、また自惚れだつた……力だ! などと思つたのは……何といふ馬鹿/\しい自分だらう! 吾家に忍び込まうとする泥棒の気焔だつたのか! あゝ!)
「吾家(うち)も、他家(よそ)も――そんな区別が……」
「――なるほどね。いつの間にかすつかり一ツ端の酒飲みらしくなつたね……見たところ、いかにも酔、陶然のかたちだよ、一寸羨しいな!」
 藤井は、後の云ふことが、聞くのも面倒だつたので、さう云つて、風にゆられてゐる如く上体をゆるがせてゐる彼の姿を、凝ツと眺めた。
 その時彼は、突然大きな声を挙げて笑ひ出し、藤井と周子を茫然とさせた。――親が自分の家に入つた泥棒を捕へて見たら、それは自分の子であつた……さういふ諺見たいな話があつたと思ふんだが、さつぱり面白い諺ぢやないが、誰だつたか? 自分の知合の者で、それを実行した奴があつて、いつだつたか、大いに笑つたことがあつたが、えゝと? あれは誰だつたかね? ――彼は、さつきからそんなことを思つてゐたのだが、突然今、気がついたのである。――(何アんだ、この男か、あまり眼の前にゐたので、そして厭に大人振つた口ばかり利いてゐるので、すつかり見失つてゐた、――うん、さうだ/\。)
「藤井、藤井! おい、君!」と彼は、ひとりで可笑さうにクツクツと笑ひながら、
「君は、ハヽヽ、ずつと前、ハヽヽ、自分の家に、ハヽヽ、泥棒に入つたことがあつたつけね、ハヽヽ。」と、大変なことでも発見したやうに笑つた。
 藤井は、赤い顔をしてうつ向いた。藤井は、放蕩の揚句家を追はれてゐた頃、実際にそんなことを行つた経験があつた。――今になつて、そんなことを云はれたつて藤井は、大して恥しくもないし、別段可笑しいこともなかつた。
「そして、ハヽヽ、あの、ハヽヽ、あの時、君は、ハヽヽ、捕へられたのだつたかね、ハヽヽ。」
「おひ、止して呉れよ、そんな話は――」
 藤井は、迷惑さうに顔を顰めた。
「だからさア……」
 彼は、甘ツたるい声を出して、ねちねちと笑つた。すつかり朗らかな酔漢に変つて、家庭などに何の蟠りも持つてゐない不良大学生のやうだつた。――「お止しよう、今更、常識家振つて、六ヶ敷い顔なんてするのは。」
 以前のやうに二人で他合もない話をし合つて、面白く遊ばうぢやないか――彼は、斯う云ひたい位だつた。不図彼は、藤井のそんな失敗談に気づいてから、一倍彼が懐しくなつてゐたのである。
 そんな心境は、もう抜けてゐる――とか、あの頃に比べて、この頃は――とか、そのやうに望ましいあらゆる比較級の言葉は、成長力を知らない彼の心境にとつては、決して通用しない他山の宝石であつた。彼の心は、常に一色の音しか持たない単調な笛に過ぎなかつた。その印には、一年も遇はないで出遇つた友達は、それまではどんなに親しい仲であつても、屹度もう相手の方が何となく進歩してゐて、前のやうに熱心に語り合へなくなつてゐることばかりだつた。だから彼には、旧友などといふものがなかつた。彼の友達は、大抵半歳か一年で変つて行つた。
 二年前だつたら藤井も彼と一処になつて、そんな馬鹿な話でも、彼と同じ程度に笑へたものだつた。
「明日あたり僕は、帰らなければならないんだがな!」
「嘘々!」
 彼は、甘えでもするやうに云つた。
「愚図/\してゐると、また勘当されるかも知れない。」
「勘当されたら、また先のやうに俺の処へ来てゐれば好いぢやないか。」
「御免/\、君には、もうそれ位ひの予猶だつてありやアしないぜ――なるべく家から金を取らないやうにし給へよ。」
「でも、今年一杯位ひなら大丈夫だらう。」と彼は、事の他熱心な眼を挙げて藤井の返事を待つたりした。
「さア……」
 藤井は、にや/\と笑つてゐた。
「ケチ臭い顔をするない! チヨツ、面白くねえ、しみツたれ! 折角ひとが愉快にならうとすれば、直ぐに厭な思ひをさせやアがる、何でエ! それが如何したといふんだ!」
 彼は、そんなことを云つた。自分が、ケチ臭くて、しみツたれで、小心翼々で、面白くなくて堪らなかつたのである。
「おい、憤るなよ――」と、藤井は云つた。
「第一俺は、ヲダハラだなんていふ名前からして気に喰はない! あの村の奴等の面で、落つきのある野郎が一人でもあるか?」
 大分、親爺に似てゐるな、やつぱり親と子は不思議なものだ! などと、彼は思つた。――吾家の親爺の顔も落着きはなかつたなア! それでも俺よりは、ずつと大面だつたが……)
「おい藤井、君も何となくヲダハラ面になつて来たぞ、――気をつけろ、気をつけろ! ……生温い潮風に吹かれるからか知ら?」
「俺だつて何も……」と藤井は、云ひかけてつまらなさうに笑つてしまつた。――「あまり大きな声をするなよ、往来から見通しぢやないか。」
「あゝ――」と彼は、また傍の者には決して憂鬱らしくは見えない溜息のやうな嘆声を、わけもなく吐いて、暮れかゝつて行く外の景色を眺めた。木立の多い東京郊外の夏であつた。夕陽に映えてゐた木々が、見る間に黒く棄てられて行つた。彼のこの家は、森蔭に立ち並んでゐる一筋の長尾の角で、何の目かくしもなければ、門や塀は無論のこと、椽側に簾ひとつ掛つてゐなかつた。露路みたいなもので、あまり人通りはないが、それでも椽側の二間前は往来道に違ひなかつた。滅多に訪れる者などはなかつたが、稀に東京(この辺では、市内へ行くことを東京へ行く、といふところであつた。)あたりから遊びに来た者は、それとなくその辺をジロジロと見廻して、彼が夕餉の膳に誘ふと、赧くなつて慌てて逃げ帰る者もあつた。そして、二度とは来なかつた。――無理もなかつた。路傍の、往来から見通しの家などで、加けに大変行儀の悪い男を相手に酒などを飲むのは、誰だつて閉口だ、彼だつて、こんな男(自分のこと)と、出来得るならば対坐したくはない――時には彼は、そんなことを思つた。彼は、まつたく行儀が悪かつた。痩せてゐる癖に、非常な暑がりやで、堪へ性がなく、始終どたどたと脚を投げ出したり、裾をまくつたり、水泳するやうな格構で転がつたり、腕をまくつたり、肌抜ぎになつたり、酒興中と雖も少し暑さが厳しいと、終ひには胡坐なのだか、立膝なのだか、しやがんでゐるのだか判別し憎い格構になつたり、時には和製の食膳であるにも関はらず椅子の上から手を延すことなども珍らしくはなかつた。――生家にゐる時分、彼の父はそんなことには一切頓着ない人だつたが、それでも彼が海から帰つて来て、褌ひとつで食膳に向つたりすると、時には困惑の情を露にして、おい、出掛けよう! などとお蝶の家へ誘つたりした、着物を着ろと命ずることの代りに――。
 往来から見ゆる、といふことに彼は、決して坦々としてゐられるのではなかつたが、長い間の習慣で何としても行儀は改められなかつた。
「東京にでも行つて住ふことになつたら、どうするんだらう。」
 母は、好くさう云つた。――ケチな家には住まないから……などと彼は、うそぶいた。
 周子から、肌扱ぎになつてゐるところを巡査に見つかると罰金をとられる、といふ話を聞いて以来、こゝで彼は、肌抜ぎだけは辛棒したが、暑くなるに伴れ、檻にでも入れられたやうな苦しみだつた。――彼は、海辺が恋しかつた。
「××の家も、もう人手に渡つてしまつたんだつてさ。」
 裸のまゝで海へ出かけ、その儘帰れて、近所といへば二三軒の、それこそ年中裸で仕事してゐる彼と親しかつた漁夫の家だけで――そんな海辺の家を彼は、思ひ出して悲し気に憧れの眼を輝かせた。
「あれなどは、君さへもう少し確りしてゐれば、たしかに残せた筈なんだがな。」
 藤井は、さう云つて、何とかといふ村会議員のことを悪党だと云つた。
「酷い奴だなア!」と、彼も云つた。
「こんな処で、愚図/\云つてゐたつて仕様がないよ、だから君、思ひ切つて……」
「でも帰つたところで、反つて……」
「第一マザーひとりで気の毒じやないか。」
「…………」
 俺が帰れば一層気の毒だ――彼は、もう少しでさういふところだつた。……大体自分は、積極的な自己紹介を求められる場合に、何とか答へる己れの言葉に真実性や力を感じた験しはないんだが、そして何か話してゐる間は、何だか嘘ばかり口走つてゐるやうな寂莫を覚ゆるのが常なのだが、せめて、嘘だ! と自ら云ふ心の反面に、何らかの皮肉が潜んでゐたり、意外な自信がかくれてゐたり、案外真正直な性質が眼をむいてゐたり、でもすれば多少は救はれるんだが、自分のは、その種の人々の外形を模倣したゞけで、心の反省があり振つたり、嘘つきがつたり、細心振つたりするだけのことで、大切な反面の凡てが無である、都の花やかさに憧れて遥々と出かけて来た気の利かない田舎の青年が、本性を忘れて一ツ端の歳人気取りになつてツベコベする類ひのものである、その種の変な青年達が稍ともすれば、自ら得々として「自己嫌悪に陥つた。」などと云ふことを吹聴する気風が嘗て一部に流行したが、忽ち自分もそれに感染して、臆面もなく己れの痴愚を吹聴するのであつた、ほんとうの自分の胸には、常に消えかゝつた一抹の白い煙が、どんよりと漂ふてゐるばかりである、人は夫々生れながらに一個の鏡を持つて来てゐる筈だ、自分の持つて来た鏡は、正当な使用に堪へぬ剥げた鏡であつた、僻地の理髪店にあるやうな凸凹な鏡であつた、自分では、写したつもりでゐても、写つた物象は悉く歪んでゐるのだ、自分の姿さへ満足には写らない、更に云ふ、凸凹な鏡である、泣いた顔が笑つたやうに写る、頭の形が、尖つたり、潰れたりする、眠がびつこになつて動く毎に、釣りあがつたり、丸くなつたりする、鷲のやうな鼻になつたかと思ふと、忽ちピエロのそれのやうになる、狼の口のやうに耳まで裂けたかと見ると、オカメの口のやうに小さくなる……実際そんな鏡に、暫くの間姿を写してゐると、何方(どつち)がほんとの自分であるか解らなくなつてしまふ時がある……。
 以上のやうなことを彼は、もつと/\長たらしく呟き初めた。自分の責任に依る話であるにも関らず、「家」のことになると直ぐに話頭を転じてしまふ彼の心が、藤井には一寸了解し憎くかつた。小胆なのだな! と思はずには居られなかつた。
「もう少し、はつきり云へよ。比喩は御免だぜ!」
「いや、ヲダハラの△△床の鏡は……」
「厭にヲダハラばかり軽蔑するね。」
「……銀行の奴等にさう云つてくれ。利息ぐらひ何でえ!」と、彼は云つた。語尾が「でえ」といふやうになると彼は、もう駄目だつた。誇大妄想に等しい酔漢に変つてゐるのである。――此奴、社会主義の仲間にでもなつたのかしら、いつの間にか! あれの下ツ端は、皆な気の小さい貧乏人ばかりださうだが――ふと藤井は、そんな気がした。
「幾らだア! 幾らだア!」
「……おい、止せよ、外を通る人が変な顔をしてゐるぜ。」
「俺ア、泥棒だアぞう!」
 さつき彼は、変に心細い気持に陥つて、如何に自分が情けない存在であるかといふことを知らせる為に、鏡の比喩などを、当つぽうに用ひたのであるが、折角の言葉に藤井がさつぱり耳を傾けなかつたのが気に入らなかつた。彼は、そんな原始的な比喩に得意を感じたのである。……「何だつて、はじめての苦労だらう、だつて! ヘツ、止して貰ひたいね。苦労たア、どんな塊りだア! いくつでも持つて来やアがれ、皆な喰ってしまふぞう……親爺が死んで、長男即ち吾輩が、だね、あまり無能だからか、そりや無能は困るだらう、困るには困るが、無能だつて余外なお世話だ、今更無能を悟つて、誰が驚く! 苦労たア、何だ!」
 彼は、そんな似而非ヒロイズムを呟きながら、がくんがくんと玩具のやうに首を動かせた。何だか眼瞼が熱くなつて来る気がした。
「困ツたなア!」
 藤井は、さう云ひながら彼の細君の方を顧みて「やつぱり僕ぢやいけなかつたですね……石原さんに来て貰つた方が好かつたんだがな――」と云つた。
「誰だつて同じよ。」
 周子は、煩さゝうに突ツ放した。
「毎晩、こんなに飲むんですか?」
「毎――晩!」と周子は、力を込めて、うつ向いた。バンのンが曇りを帯びてゐた。
「心馬悪道に馳せ、放逸にして禁制し難し……どうだ藤井! 景気の好いお経だらう……心猿跳るを罷めず、意馬馳するを休まず――五欲の樹に遊び、暫くも住せず……あゝ。」
「…………」
「俺ア……」
 藤井は、また彼が調子づいてどんな野蛮なことでも云ひ出すか解らない、それにしてもさつきからの雑言は如何だ! 一本皮肉を云つて圧えてやらう、と思つて、
「簾をかゝげて、何とか――なんて、君はいつかハガキの終ひに書いて寄したが、簾なんて何処にも掛つてはゐないね。」と、笑ひながら側を向いた。
「……ありア、だつて君――詩だもの。」と彼は、不平顔でテレ臭さうに弁解した。
 藤井は、更ににや/\と笑ひながら、
「斯うやつて、毎晩、酒を飲みながら君は、詩を考へてゐるの?」と訊ねた。
「……うむ。」と、彼はおごそかに点頭いた。

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