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2011年8月19日 (金)

詩の原理   萩原朔太郎 内容論

   

     第一章 主観と客観

 詩という言語が指示している、内容上の意味は何だろうか? 例えば或る自然の風景や、或る種の音楽や、或る種の小説等の文学が、時に詩的と呼ばれ、詩があると言われる時、この場合の「詩」とは何を意味しているのだろうか。本書の前半に於て、吾人はこの問題を解決しようと思っている。しかしこれを釈く前には、表現の一般的のものにわたって、原則の根拠するところを見ねばならぬ。なぜならばこの意味の「詩」という言語は、特殊の形式によるものでなく、あらゆる一切なものにわたって、内容の本質とする点を指すのであるから、以下吾人は、暫らく詩という観念から離別をして、表現の原則する公理につき、基本の考察を進めて行こう。
 さてすべての芸術は、二つの原則によって分属されてる。即ち主観的態度の芸術と、客観的態度の芸術である。実にあらゆる一切の表現は、この二つの所属の中、何れかの者に範疇している。もちろん吾人の知ろうとする詩も、この二つの所属の中、どっちかの者でなければならない。故にこの点での認識を判然さすべく、究極まで徹底的にやって行こう。そもそも芸術上に於ける主観的態度とは何だろうか。客観的態度とは何だろうか。此処で始めから分明している一つのことは、主観が「自我」を意味しており、客観が「非我」を意味していることである。
 そこで一般の常識は、ごく単純に考えて解釈している。即ち表現の対象を自我に取るかまたは自我以外の外物に取るかによって、或は主観的描写と呼ばれ、或は客観的描写と言われる。しかしこの解釈が浅薄であり、真の説明になっていないことは明白である。もしそうであるならば、彼自身をモデルとする画家の所謂自画像は、常に主観的芸術の典型と見ねばならない。しかもそんな荒唐無稽があるだろうか。ひとしく自画像である中にも、主観的態度の画風もあるし、純客観風の画風もある。画家にとってみれば、モデルが自分であると他人であるとは、あえて関するところでないのだ。文学にしてもその通りで、作者自身の私生活を描いたもの、必ずしも主観的文学と言えないだろう。或る浅薄な解釈者は、一人称の「私」で書いた小説類を、すべて主観的文学と言っているが、もしそうした小説に於て、「私」という言葉の代りに「彼」を置き、もしくは青野三吉という他人の固有名詞を入れ換えたら、単にそれだけの文字の相違で、主観小説が直ちに客観小説に変ってくるのか?
 常識のあるものは、だれもそんな馬鹿を考えない。或る小説に於て、主人公が「私」であろうと「彼」であろうと、文学の根本様式に変りはしない。或る作家が、もし科学的冷酷の態度を以て、純批判的に自己を観察し、写実主義のメスを振って自己の解剖図を見せるならば、これをしも尚主観的描写と言い、主観主義の芸術と言うだろうか。この場合のモデルは自我であるにかかわらず、実には却って客観描写とされるのである。これに反して或る作品は、自己以外の第三者や、自然外界の事件を対象として描いてるのに、却ってしばしば主観主義と考えられてる。たとえばユーゴーやジューマの浪漫派小説は、専ら広い人生社会を書いているのに、定評はこれを主観派のものに見ている。反対に日本の自然派小説の大部分は、作者自身をモデルとした純私小説であるにかかわらず、当時の文壇の批判に於て、客観文学の代表と思惟されていた。さらに尚一つの例を言えば、西行は自然詩人の典型であり、専ら自然の風物外景のみを歌っていたにかかわらず、今に於ても昔に於ても、彼の歌風は主観主義の高調と考えられている。
 されば主観と客観との区別が、必ずしも対象の自我と非我とに有るのでなく、もっと深いところに意味をもってる、或る根本のものに存することが解るだろう。何よりも第一に、此処で提出されねばならない問題は、そもそも「自我とは何ぞや?」という疑問である。主観が自我を意味する限り、この問題の究極点は、結局して此処に達せねばならないだろう。自我とは何だろうか。第一に解っていることは、自我の本質が肉体でないと言うことである。なぜならば画家は、自分の肉体を鏡に映して、一の客観的存在として描写している。また自我の本質は、生活上に記憶されてる経験でもないだろう。なぜなら多くの小説家等は、自己の生活経験を題材として、極めて客観的態度の描写をしている。
 では自我とは何だろうか? すくなくとも心理上に於て意識される、自我の本質は何であろうか? この困難な大問題に対しては、おそらく何人も、容易に答えることができないだろう。然るに幸いにも、近代の大心理学者ウイリアム・ゼームスが、これに対して判然たる解決をし、有名な答解をあたえている。曰く一つの同じ寝室に、太郎と次郎が一所に寝ている。朝、太郎が目を覚ました時、いかにして自分の記憶を、次郎のそれと区別するか。けだし自我の意識は「温感」であり、或る親しみのある、ぬくらみの感であるのに、非我の記憶は「冷感」であり、どこかよそよそしく、肌につかない感じがする。自我意識は即ち温熱の感であると。
 このゼームスの解説から、吾人は始めて、意識に於ける、自我の本体を自覚し得る。自我とは実に温熱の感であり、非我とはそれの伴わない、冷たくよそよそしい感である。故にすべて温熱の感の伴うものは、吾人の言語に於て「主観的」と呼ばれるのである。然るに温熱の感の所在は、それ自ら感情である故に、すべて主観的態度と言われるものは、必然に感情的態度を意味している。反対に情味のとぼしく、知的要素に於て克ったものは、その冷感の故に客観的態度と言われる。例えば可憐な小動物が苛められているのを見て、哀憐の情を催し、感傷的な態度で見ている人は、その態度に於て主観的だと言われる。これに反して無関心の態度を取り、冷静な知的の眼でそれを見ている人は、客観的な観察をしていると考えられる。
 そこで思いつかれるのは、こうして言語の解釈されてる、一般のありふれた様式である。一般に人々はこう考えている。主観とは自我に執する態度であり、客観とは自我を離れる態度であると。吾人はだれもこの思想を、普通に当然のことに思っている。だが考えてみれば、世の中にこれほど奇妙な思想はなかろう。なぜといって人間が分身術の魔法でも知らない限りは、自分で自分から離れるなどいう奇態な業が、実際にできる筈がないからだ。しかもこうした思想が、さも当然のように行われるのは、この場合に於ける「自我」が、常に「感情」を指してるからだ。即ち「自我を離れる」という意味は、感情的な態度を排して、理智的な冷静の態度を取ると言う意味である。反対に「自我に執する」とは、感情的な態度を取ることを意味している。
 かく「自我」と「感情」とは、心理上において同字義に解釈される。ゆえに主観的なるものは、必然に皆感情的である。たとえば前の例において、西行の歌やユーゴーの小説やが、外界の自然や、社会を題材としたものであるにかかわらず、それの批判が、いつも主観的と評するのは、表現の態度が感情的で、作家の情緒や道徳感やで、世界を情味ぶかく見ているからである。これに反して、自然派等の小説が、作家の私生活を書いていながら、一般に客観的と評されているのは、その描写の態度が冷静であり、知的な没情感の観照をしているからである。そこで芸術上の主観主義とは、感情や意志を強調する態度を言い、客観主義とは情意を排し、冷静な知的の態度によって、世界を、無関心に観照する態度を言う。
 されば常に言われる如く、客観はきまって「冷静なる客観」であり、主観は常に「熱烈なる主観」である。この逆即ち「冷静なる主観」や「熱烈なる客観」などは、宇宙のどんな言語にも存在しない。熱と主観は一語であり、冷と客観は一義である。それ故にまた、あらゆる主観芸術の特色は温感であり、あらゆる客観芸術の特色は冷感である。多くの芸術品の上に於て、いかにこの二つの著るしい対照が現われてるかを、さらに次章に於て論説しよう。

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