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2011年8月20日 (土)

詩の原理   萩原朔太郎  上

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     序

 本書を書き出してから、自分は寝食を忘れて兼行し、三カ月にして脱稿した。しかしこの思想をまとめる為には、それよりもずっと永い間、殆ど約十年間を要した。健脳な読者の中には、ずっと昔、自分と室生犀星等が結束した詩の雑誌「感情」の予告に於て、本書の近刊広告が出ていたことを知ってるだろう。実にその頃からして、自分はこの本を書き出したのだ。しかも中途にして思考が蹉跌し、前に進むことができなくなった。なぜならそこには、どうしても認識の解明し得ない、困難の岩が出て来たから。
 いかに永い間、自分はこの思考を持てあまし、荷物の重圧に苦しんでいたことだろう。考えれば考える程、書けば書くほど、後から後からと厄介な問題が起ってきた。折角一つの岩を切りぬいても、すぐまた次に、別の新しい岩が出て来て、思考の前進を障害した。すくなくとも過去に於て、自分は二千枚近くの原稿を書き、そして皆中途に棄ててしまった。言いようのない憂鬱が、しばしば絶望のどん底から感じられた。しかも狂犬のように執念深く、自分はこの問題に囓じりついていた。あらゆる瘠我慢の非力をふるって、最後にまで考えぬこうと決心した。そして結局、この書の内容の一部分を、鎌倉の一年間で書き終った。それは『自由詩の原理』と題する部分的の詩論であったが、或る事情から出版が厭やになって、そのまま手許に残しておいた。
 大森に移ってきてから、再度全体の整理を始めた。そして最近、終にこの大部の書物を書き終った。これには『自由詩の原理』を包括したり、そのずっと前に書いて破いた『詩の認識について』も、概要だけを取り入れておいた。そして要するに、詩の形式と内容とにわたるところの、詩論全体を一貫して統一した。即ちこの書物によって、自分は初めて十年来の重荷をおろし、漸く呼吸がつけたわけだ。何という重苦しい、困難な荷物であったろう。自分はちかって決心した。もはや再度こうした思索の迷路の中へ、自分を立ち入らせまいと言うことを。
 自分はこの書物の価値について、自ら全く知っていない。意外にこの書は、つまらないものであるか知れない。或はまた、意外に面白いものであるか知れない。そうした読者の批判は別として、自分は少なくともこの書物で、過去に発表した断片的の多くの詩論――雑誌その他の刊行物に載る――を、殆ど完全に統一した。それらの詩論は、たいてい自分の思想の一部を、体系から切断して示したもので、多くは暗示的であったり、結論が無かったりした為に、しばしば読者から反問されたり、意外の誤解を招いたりした。自分はこれ等の人に対し、一々答解することの煩を避けた。なぜなら本書の出版が、一切を完全に果すことを信じたからだ。この書物に於てのみ、読者は完全に著者を知り、過去の詩論が隠しておいた一つの「鍵」が、実に何であったかを気附くであろう。
 日本に於ては、実に永い時日の間、詩が文壇から迫害されていた。それは恐らく、我が国に於ける切支丹の迫害史が、世界に類なきものであったように、全く外国に珍らしい歴史であった。は詩という言語の響の中に、日本の文壇思潮と相容れない、切支丹的邪宗門の匂いを感ずる。)単に詩壇が詩壇として軽蔑されているのではない。何よりも本質的なる、詩的精神そのものが冒涜され、一切の意味で「詩」という言葉が、不潔に唾かけられているのである。我々は単に、空想、情熱、主観等の語を言うだけでも、その詩的の故に嘲笑され、文壇的人非人として擯斥された。
 こうした事態の下に於て、いかに詩人が圧屈され、卑怯なおどおどした人物にまで、ねじけて成長せねばならないだろうか。丁度あの切支丹が、彼等のマリア観音を壁に隠して、秘密に信仰をつづけたように、我々の虐たげられた詩人たちも、同じくその芸術を守るために、秘密な信仰をつづけねばならなかった。そして詩的精神は隠蔽され、感情は押しつぶされ、詩は全く健全な発育を見ることができなかった。「こうした暗澹たる事態の下に」自分は幾度か懐疑した。「詩は正に亡びつつあるのではないか?」と。それほど一般の現状が、ひどく絶望的なものに見えた。
 けれども今や、詩を求めようとする思潮の浪が、新しい文学から起ってきた。すべての新興文学の精神は、すくなくとも本質に於ける詩を叫んでいる。おそらくは彼等によって、文学の風見が変るだろう。そして我々のあまりに鎖国的な、あまりに島国的な文壇思潮が、もっと大陸的な世界線の上に出てくるだろう。実に自分は長い間、日本の文壇を仇敵視し、それの憎悪によって一貫して来た。あらゆる詩人的な文学者は――小説家でも思想家でも――日本に於ては不遇であった。のみならず彼等の多くは、自殺や狂気にさえ導かれた。――正義は復讐されねばならない。
 だが既に時期は来ている。何よりも民衆が、文学に於ける詩を求めている。彼等は文壇を見捨ててしまった。そしてより詩的精神のある彼等の文学――即ち大衆文学――の方に走って行った。我々の進歩した民衆は、もはや文壇に於ける芸術的な、そしてあまりに芸術的であることによって、精神の詩を持たないような文学書類を、一切読もうとしないだろう。一方文壇の内部からは、あの小児病的情熱の無産派文学が興ってきて、過去の死にかかった文壇に挑戦している。あらゆるすべての事情が、今や失われた詩を回復し、文学の葬られた霊魂を呼び起そうとしているのだ。正義は復活されるであろう。

 この新世紀の朝に際して、自分がこの書物を出版するのは、偶然にも意義の深いことと言わねばならぬ。自分はこの書物に於て、詩に関する根本の問題を解明した。即ち詩的精神とは何であるか、文学のどこに詩が所在するか、詩の表現に於ける根本の原理は何であるか、詩と他の文学との関係はどうであるか、そもそも詩と言われる概念の本質は何であるか、等々について、思考の究極する第一原理を論述した。故に標題の示す如く、正に『詩の原理』であるけれども、普通に刊行されてる詩書の如く、単に韻律音譜の註であったり、名詩の解説的批判であったり、初学者の入門的手引であったり、或は独断的詩論の主張であったりするものとは、全然内容が異っている。この書の考えている事は、詩の部門的思考でなくして、文学、芸術、及び人生の全般に於ける詩の地位が、正しくどこにあるかを判別するところにある。故にこの書物の論ずる範囲は、単に韻文学としての詩に限らず、本質に於て詩という言語が包括し得る、すべての文芸一般に及んでいる。
 思うに「詩」という言語ほど、従来広く一般的に使用されて、しかもその実体の不可解であり、意味の掴えどころなく漠然としたものはないであろう。本書はこの曖昧をはっきりさせ、詩の詩たる正体を判然明白に解説した。そこで自分の読者は、すくなくともこの書物から、詩という観念が意味するところの、真の根本の定義を知り得るだろう。そしてこれが解れば、文学の最も重大な精神が解ったのである。故に自分の望むところは、単に詩の作家ばかりでなく、いやしくも詩的精神の何物たるかを知ろうとしている、すべての文学者及び芸術家の全部に向って、この書物を読んでもらいたいのである。諸君がもしこの書物を一読すれば、すくなくとも翌日からして、詩の批判を正当にすることができるであろう。

  西暦一九二八年十月

大森馬込町にて   著者

     新版の序

 インテリの通有性は、自分の心情が為してる仕事に対して、自分の頭脳が懐疑を持つことだと言われている。詩を作るのは、情緒と直観の衝動による内臓的行為であるが、詩の原理を考えるのは、理智の反省による頭脳の悟性的行為である。ところで、詩人としての私の生活が、過去にそのインテリの通有性を、型通りに経過して来た。即ち私は、一方で人生を歌いながら、一方で人生の何物たるかを思想し続け、一方で詩を書きながら、一方で詩の本質について懐疑し続けて来た。この『詩の原理』は、私が初めて詩というものを書いた最初の日から、自分の頭脳に往来した種々の疑問の総譜表である。
 しかしこの書の初版が出てから、既に約十年の時日が経ってる。この長い歳月の間に、自分の思想に多少の変化と進歩があり、今日の私から見て、この著に幾分の不満なきを得ない。しかしそれは部分的の事であり、大体に於て一貫する主脈の思想は、十年後の今の私も依然として同じであり、堅く自分はその創見と真実を信じきってる。
 私がこの書を書いたのは、日本の文壇に自然主義が横行して、すべての詩美と詩的精神を殺戮した時代であった。その頃には、詩壇自身や詩人自身でさえが、文壇の悪レアリズムや凡庸主義に感染して、詩の本質とすべき高邁性や浪漫性を自己虐殺し、却って詩を卑俗的デモクラシイに散文化することを主張していた。したがってこの『詩の原理』は、かかる文壇に対する挑戦であり、併せてまた当時の詩壇への啓蒙だった。
 今や再度、詩の新しい黎明が来て、詩的精神の正しい認識が呼び戻された。すべての美なるもの、高貴なるもの、精神的なるもの、情熱的なるもの、理念的なるもの及び浪漫的なる一切のものは、本質的に詩精神の泉源する母岩である。そして日本の文壇は、今やその母岩の発掘に熱意している。単に文壇ばかりではない。日本の文化と社会相の全部を通じて、詩精神が強く熱意されてる事、今日の如き時代はかつて見ない。過去約十年の間に、十数版を重ねて一万余人の読者に読まれたこの小著が、長い間の悪い時代を忍びながらも、かかる今日の時潮を先駆して呼ぶために、多少の予言的責務を尽したかも知れないことに、著者としての自慰を感じて此所に序文を書くのである。

  西暦一九三八年五月

著者

       ――読者のために――

 この書物は断片の集編ではなく、始めから体系を持って組織的に論述したものである。故に読者に願うところは、順次に第一頁から最後まで、章を追って読んでもらいたいのである。中途から拾い読みをされたのでは、完全に著者を理解することができないだろう。
 各章の終に附した細字の註は、本文の註釈と言うよりは、むしろ本文において意を尽さなかった点を、さらに増補して書いたのである。故に細字の分も注意して読んでいただきたい。『詩の原理』について、自分が始めて考え出したのは、前の書物『新しき欲情』が出版された以前であって、当時既に主題の一部を書き出していた。したがってこの書の思想の一部分は、前の書物『新しき欲情』の中にも散在している。
 この書は始め八百枚ほどに書いた稿を、三度書き換えて後に五百枚に縮小した。なるべく論理を簡潔にし、蛇足の説明を除こうとしたからである。特に自由詩に関する議論は、それだけで既に三百枚の原稿紙になってる稿本『自由詩の原理』を、僅かこの書の一二章に縮小し、大略の要旨だけを概説した。したがって或る種の読者には、多少難解と思われる懸念もあるが、十分注意して精読すれば、決して解からないと言うところはないと思う。

     目次


新版の序
読者のために

    概論

詩とは何ぞや

    内容論

第一章 主観と客観
第二章 音楽と美術
第三章 浪漫主義と現実主義
第四章 抽象観念と具象観念
第五章 生活のための芸術・芸術のための芸術
第六章 表現と観照
第七章 観照に於ける主観と客観
第八章 感情の意味と知性の意味
第九章 詩の本質
第十章 人生に於ける詩の概観
第十一章 芸術に於ける詩の概観
第十二章 特殊なる日本の文学
第十三章 詩人と芸術家
第十四章 詩と小説
第十五章 詩と民衆

    形式論

第一章 韻文と散文
第二章 詩と非詩との識域
第三章 描写と情象
第四章 叙事詩と抒情詩
第五章 象徴
第六章 形式主義と自由主義
第七章 情緒と権力感情
第八章 浪漫派から高蹈派へ
第九章 象徴派から最近詩派へ
第十章 詩に於ける主観派と客観派
第十一章 詩に於ける逆説精神
第十二章 日本詩歌の特色
第十三章 日本詩壇の現状

    結論
島国日本か? 世界日本か?
『詩の原理』の出版に際して

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