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2011年8月15日 (月)

第五章 象徴

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 文壇という世界は、いつも認識上に霧のかかった、不思議な朦朧とした世界である。そこでは絶えずいろいろな観念が創造され、いろいろな言語が使用されるにかかわらず、一も意味のはっきりとした解釈がなく、定義の確立した観念も出来ない中に、次から次へと流行が変って行き、空しく取り散らされた多くの言語が、無意味不可解の闇の中で、永く幽霊のように迷っている。此処に説く「象徴」という観念も、この怨めしき亡魂の一つであって、かつてずっと早くから我が国に輸入され、一時詩壇で流行したるにかかわらず、早く既に廃ってしまい、しかも今日尚、言語は不可解のままに残されている。
 抑々「象徴」とは何だろうか? 一言にして言えば、象徴の本質は「形而上のもの」を指定している。本質に於て形而上的なるすべてのものは、芸術上に於て象徴と呼ばれるのである。然るに形而上的なるものは、主観の観念界にも考えられるし、客観の現象界にも考えられる。換言すれば、時間上に考え得られる実在もあり、空間上に考え得られる実在もある。これを芸術上で見れば、前者は人生観のイデヤにかかわり、後者は表現上の観照にかかわっている。そこで象徴という言語にも、二つの異った意味が生じてくる。先ず前のものから説明しよう。
 先に他の章で述べたように、詩的精神の第一義感的なるものは、何よりも宗教情操の本質と一致している。その宗教情操の本質とは、時空を通じて永遠に実在するところの、或るメタフィジカルのものに対する渇仰で、霊魂の故郷に向えるのすたるじや、思慕の止みがたい訴えである。そこでこの宗教感のメタフィジックを、特に観念上に於て掲げたものを、芸術上で普通に「象徴派」と称している。即ち先の章で述べたように、散文ではポオの小説、メーテルリンクの戯曲などが、それの代表として思惟されている。然るに詩壇に於ては、特にこの観念を意識的に旗号した一派のものが、十九世紀末葉の仏蘭西詩壇に現われたので、世人は特に彼等を象徴派の詩人と呼んでいる。
 しかしながら前言う通り、詩的精神の第一義感なるものは、すべてこの種の宗教情操に基調している故、これを称して象徴と呼ぶならば、一切にわたる詩の最高感は、悉く皆象徴でなければならない。例えば前に他の章で言ったように、芭蕉のイデヤしたところのもの、石川啄木が生涯を通じて求めていたもの、西行が自然の懐中に見ようとしたもの、ゲーテが観念に浮べていたもの、李白やヴェルレーヌが思慕したもの、ランボーを駆って漂浪の旅に出したもの、シェレーが愁思郷に夢みたもの等、悉く皆この不可思議なる「霊魂の渇き」であって、認識の背後にひそむ、或る未可知のものへの実在的思慕に外ならない。
 実にすべての詩人はこれを知っている。詩を思う心は一つの釈きがたい不思議であって、何物か意識されない、或る実在感への擽ばゆき誘惑である。実に詩それ自体の本質感が、始めから宗教の情操に立っており象徴そのものに精神している。故に真正の意味に於ては、詩壇に「象徴派」という言語はあり得ない。すべての一義的なる詩は、どんな詩派の傾向に属するものでも――浪漫派でも、印象派でも、未来派でも、表現派でも、――必然的に皆霊魂の深奥する象徴感に触れる筈だ。そこで詩壇の所謂象徴派とは、一般についての象徴精神そのものを指すのでなく、特にこの概念を掲げたところの、マラルメ一派の特殊な詩風について指してることを、最初に先ず明らかに話しておこう。
 さて象徴というこの言語は、一方また表現上から、観照のメタフィジックについても言われている。本章に於て、吾人は主としてこの方面から、象徴の語意を明らかに解説したいと思っている。なぜなら象徴の解説は、従来多くの人によって、この方面から試みられているにかかわらず、一も満足をあたえるものがないからだ。単に多くの人々は、象徴を以て一種の「比喩」「暗示」「寓意」の類と解している。もちろんこの解説は、必しも誤っているわけではない。だが極めて浅薄であり、少しも象徴芸術の本質に触れていない。そして一層滑稽なのは、象徴を以て曖昧朦朧とさえ解釈している。かかる見当ちがいの妄見や、皮相な上ッつらの辞書的俗解を一掃して、吾人は此処に「象徴そのもの」の本質観を、だれにも解りよく、判然明白に解説しようと考えている。

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「認識する」ということは、「意味を掴む」ということである。そして意味には「感情の意味」と「知性の意味」の二つがあり、芸術の世界に於て相対していることは前に述べた。しかしその何れにせよ、認識することなしに芸術は有り得ない。なぜなら芸術は表現であり、そして表現は観照なしに有り得ないから。
 では認識するということ、即ち「意味を掴む」ということは、一体どういうことなのだろうか? これについて答えることは、カントの認識論に譲っておこう。要するに意味の世界は、人間の先験的主観による、理性の範疇によって創造されるものである。しかしながら認識の様式には、二つの異った方法がある。一は部分について見る仕方で、一は全体について見る仕方である。哲学上に於ては、この前者を抽象的認識と言い、後者を直感的認識と称している。だが芸術家の住む直感的観照の世界に於ても、また本質に於てこれと同じ二つの異った認識の様式があるのである。例えば、小説家の観照は前者に属し、詩人の直感は後者に属する。以下この認識様式の相違について、少しく説明を試みよう。
 自然主義の教えた美学は、世界をその有るがままの姿に於て、物理的没主観の写実をせよと言う。かかる写実主義の愚劣であり、啓蒙としての外に意味がないことは、前にも既に説いたけれども、尚もう一度根本的な駁撃を加えておこう。芸術がもし、実にこの仕方で行くならば、芸術家は主観を有する人間でなく、無機物の写真器械と同じことだ。第一かくの如くば、表現は何を語り、何を意味しようとするのか解らない。科学といえども、単に「有るがままの世界」を「有るがままに見ている」のでなく、事実や現象の背後に於て、物質の法則する普遍の原理を見ようとするので、此処に即ち科学の科学たる「意味」があるのだ。芸術の本質も同様であり、この現象する人生の背後に於て、何等かの深遠なる意味を掴え、それを表現することに意義があるのだ。自然主義の説く如くば、芸術はノンセンスのノンセンスにすぎないだろう。
 それ故に芸術の主眼点は、単に個々の事実や現象やを、無意味に書き並べることにあるのでなく、むしろこれ等の背後にある、真の「意味そのもの」を直覚し、直ちにこれを表現することに無ければならぬ。ではこの種の表現をするために、どんな認識の手段を取ったら好いだろうか。それには第一、自然主義的な観察を捨ててしまい、全くそれと反対なる、別の認識によらなければ駄目である。換言すれば、対象に於ける一々の部分を忠実に写生しないで、物をそれの全体から、本質に於て直覚してしまうのである。
 この全体と部分に於ける、認識の様式観を説明するため、次にベルグソンの比喩を借りて来よう。実にベルグソンの哲学は、この点に於て絶対観を高調している。曰く、ノートルダムの寺院を写す画工は、その建築の部分について、個々の一つ一つの印象をスケッチし、後にこれを綜合して一つにしても、決して寺院そのものの真相を、全景的に描出することはできないだろう。真に寺院の実景を描こうと思えば、個々の一々の部分を見ずして、建築全体について直観せねばならない。また吾人は、一篇の詩をずたずたに切り離し、個々の部分的な章句を集めて、そこから全体の意味を綜合しようと考えても、始めにその詩を読んでいない限りには、到底認識ができないのである。故に部分をいかに無数に集めても、それの綜合から全体は知覚されない。全体としての意味を知る方法は、ただ直観するのみであると。
 このベルグソンの認識論が、直ちに芸術で言われるのである。自然主義の写実論や、その他の一般小説家がしている如く、人生の現象や事件に於ける、部分的な描写を無数に集め、それの綜合から一篇の小説的意味を表出しようと考えても、決してそれは完全に成功しない。すくなくともこうした手段は、次に説く方法に比べれば、芸術として極めて幼稚な――したがって効果の弱い――認識様式にすぎないのである。より徹底した、真の芸術的なる認識手段は、事物を部分について観察せずして、全体から一度に、気分的な意味として直観してしまうのである。言い換えれば、物の写実的なる形体について見ないで、かかる感覚的形体相の上位にある、全体としての意味の直感、即ち形相以上、形以上のメタフィジックに突入するのだ。
 この形而上学的認識への突入を、吾人は普通に「象徴」と称している。されば象徴こそは、実にあらゆる芸術の認識的極致であって、レアリズムもロマンチシズムも一切の表現の登り得る山頂は此処である。西洋の写実主義的なる芸術家等が、漸くこの秘密に触れ、表現の山頂的な意味を知り始めたのは、実に尚最近のことに属している。然るに独り不思議なことは、日本に於て早く昔から、象徴が発達していたということである。実に日本人は、西洋の詩人が近代に至って始めて到達した真の主観的抒情詩を、開国三千年の昔に於て発達させ、西洋人が最後に登り得た象徴の絶対境へ、逆に昔から平気で坐り込んでいる民族である。
 此処で象徴の本意を明らかにするため、その代表的な日本の芸術について、大略の説明をあたえてみよう。例えば能がそうである。日本の能は、西洋の写実的なドラマや活動写真の類とは、根本から表現の精神がちがっている。西洋の演劇は舞台に於て、背景にも、人物にも、挙動にも、事実をそのまま写実的に映している。甚だしきは、舞台に実物の馬を走らせたりする。然るに日本の能にあっては、かかる形体上の写実を見ないで、意味が全体として感じらるべく、第一義感的なものを強調する。例えば能にあっては、歩行者が写実的な歩調をしないで、歩行それ自身の印象と気分をあたえるべき、或る芸術的な「歩く人」を造形している。また能に於ける「悲しむ人」は、形体の上で涙や悲歎を見せるのでなく、意味としての気分の上で、悲哀の心境を現わすのである。これをかの活動写真が、実に涙の流れている実況までも、大映しにして見せる丁寧な写実主義と比較すれば、東西地球の相距ること、正に煙外三万里の感がある。
 美術に於てもまた同様である。西洋の絵画や彫刻やは、部分的なるデテールの描写を丹念にし、実物の風景や人物やが、真にそこにある如き生き写しを主眼としている。然るに日本支那等に於ける美術は、始めから全くかかる写実を無視し物それ自身が有する本質的なる実有相を、直ちに全体の意味として捉えてしまう。故に例えば東洋の絵は、竹を描いても虎を描いても、その植物や動物が持っているところの、真の実有相なる直情性や猛獣性やを、形以上のメタフィジックな本質から直観し、意味それ自体を直接に強調している。日本の浮世絵の表現も、同じく本質に於て象徴主義で、西洋の油画と根本的にちがっている。しかし能と歌舞伎劇とを比較する時、後者がより写実的であるように、他の南画や支那風の墨絵に比して、浮世絵がより写実的であるのは争われない。そしてこの点から、浮世絵の程度の象徴主義が、漸くそれの媒介で西洋へ輸出された。換言すれば西洋人は、日本の浮世絵の刺激から、始めて象徴に目が覚めたのだ。
 西洋に於て、始めて象徴主義が意識的に自覚されたのは、最近十九世紀末葉のことであった。しかも同時に前後して、芸術の二つの群から主張された。即ち一は詩壇に於けるマラルメ等の象徴派で、一は美術界に於ける後期印象派の運動である。この後の者について言えば、彼等の美学は明らかに日本の浮世絵から啓示されてる。それは物の形体を見ずして本質を見、部分のデテールを描写しないで、直ちに物それ自体の実有相を表現する。特にこの派の巨匠の中、セザンヌは観照に於て最もよく徹底している。彼は物質の本有する形態感、重量感、触覚感等のものを、絵画によって三次元的の空間に描こうとした。吾人は彼の描いた一つの椅子から、すべての物質に遍する本有の実在を直覚する。セザンヌは一の哲学である。
 これに対して、一方詩壇に掲げられた「象徴」の観念は、極めて曖昧朦朧とし、意識の漠然たる謎で充たされていた。彼等は強いて詩語を晦渋し、意味を不分明の中に失わせて、自ら象徴だと信じていた。けだし彼等にあっては、詩操の宗教感について言われる象徴と、表現の観照について言われる象徴とが、認識不足の漠然たる霧の中で、曖昧に混同していた為である。しかしながらとにかく、彼等は近代詩に象徴の自覚をあたえ、爾後の詩派に感化と暗示とをあたえたことで、永く記念さるべき功績を残している。故に彼等の「象徴派」は亡びても、象徴主義そのものが不易であること、あたかも「浪漫派」と浪漫主義の関係に同じである。
 最後に注意すべきは、最近の新しい小説等の短篇小説)が、描写に於て著るしく象徴的になって来たことである。一方で詩が自由詩となった為に、詩と小説とが極めて接近し、外観に於て殆ど区別がつかないようになってきた。しかしながら区別は、やはり判然とせねばならぬ。詩は単に象徴の故に詩でなくして、情象の故に詩なのである。
 丁寧に言えば、象徴が知的の「頭脳」によってされないで、主観の感情によって温熱されたる、心情の意味としてされねばならない。そうでなく、象徴が純に客観的の観照によってされるならば、それは小説に属して詩に属さない。新しき文学の批判にあっては、この一つの線を判然とする必要がある。

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