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2011年8月15日 (月)

第二章 詩と非詩との識域

 前章に述べた通り、詩とは音律本位の文学であり、自由詩をも、定律詩をも、共に包括し得る意味の韻文――本質観としての韻文――である。しかしながらそうだとすれば、此処にまた新しい疑問が起ってくる。もし単に詩の特色が、それだけの点にあるとすれば、いやしくも音律を以て本位とし、節づけられて歌われたすべてのものは、文学である限りに於て、必然に皆詩と言わねばならないだろう。然るに世の中には、実際そうでないものがある。例えばソクラテスが獄中で書いたイソップ物語の韻文訳や、アリストテレスが書いた韻文の論理学やは、形式上に於て確かに音律本位であり、文字通りの正しい韻文であるけれども、吾人はこれを詩と呼ぶべく躊躇する。またかの鉄道唱歌とか、地理の諳誦のためにされた新体詩とか、道徳や処世の教訓にされる和歌の類とかも、同様に形式上のみの韻文であって、実質上から詩というべく適切でない。これ等の文学は、単に「詩の形式を借りた」ところの、別種の者に属する如く思われる。
 それ故に詩の形式は、外部から借用されたものでなくして、内部から生み出されたところの、必然のものでなければならない。換言すれば詩とは、詩的な内容が詩的の形式を取ったものでなければならない。では「詩的な内容」とは何だろうか。何がそもそも詩的であり、何が詩的でないだろうか? この問に答える前に、吾人は世俗の誤見に対して、逆に反駁しておかねばならぬ。なぜなら通俗の見解は、しばしば詩人を以て花鳥風月の徒と解し、吾人を一種の風流扱いにするからだ。実に我々詩人の心外に堪えないことは、今日の文壇や雑誌社すらが、詩の何物たるかを全く知らず、吾人に嘱するに自然の風物吟詠や、四季の変化に際する美文的随筆の類を以てすることである。かつて我々の昔の詩人は、好んでかかる風流閑雅の趣味を愛し、自然の詠吟を事としていた。だが今日の時代に於ける僕等の詩人が、いつまで同じことを繰返す義務がどこにあるか。そもそも世間は、あまりに日本人的なる、あまりに俳諧的なる「詩人」の観念から、いつまでたったら僕等を解放してくれるのか。
 さて「詩的なもの」は何だろうか? これについてはずっと前に、既に他の章で一言しておいた。即ち何が詩的であるかは、全く個人の趣味によって決定する。そこで昔の日本詩人は、季節の変化や自然の風物を詩的と感じた。だが今日の詩人たちは、社会や人生の多方面から、無限に変った詩的のものを発見している。例えば或る社会的な詩人たちは酒場や、淫売窟や、銀行や、工場や、機械や、ギロチンや、軍隊や、暴動やから、彼等の詩的な興奮を経験して、そこに新しい詩材を求めている。そして他のより瞑想的な詩人たちは、人生や宇宙の意義について特殊な詩的なものを哲学的に観念している。
 されば詩的の本質は、個人の側にあって物の側に存しない。もし見る人が見るならば、宇宙に於ける一切の事物や現象やは、悉く皆詩的なものに感じられそうでないものは一も無かろう。実に詩人の為すべきことは、人の無趣味とし、殺風景とし、俗悪とし、*プロゼックとするものに就いてさえ、新しき詩美を発見し、詩の世界を豊當にして行くことに存するのである。故に質問のかかるところは、詩的が何物であるかと言うのでなくして、物を詩的に感ずる態度が、何であるかと言う点にかかってくる。そもそもこの特殊の態度、即ち詩的感動の態度が何だろうか。詩的精神の本体は主観であるから、詩的感動の本質は、それ自ら「主観的態度」に外ならない。換言すれば、主観的態度によって見たるすべてのものは、それ自ら詩的であって、詩の内容たり得るものである。
 では、主観的態度とは何だろうか? それが何であるかは、既に前に幾度か説明した。即ち主観的態度とは、事物を客観によって認識しないで、主観の中に融和させ、感情の智慧で見ることである。尚詳しく言えば、物について物を見ないで、主観の感情によって認識し、心情の感激や情緒に融かして、存在の意味を知ることである。あらゆるすべての詩人たちは、皆この主観的態度によって宇宙を見ている。故に詩人の見る宇宙は、常に必ず詩的な意味をもつ宇宙であって、それ自身が直ちに詩の内容になってくるのだ。然るに素質的な詩人でない人々は、こうした主観的態度でなく、他の客観によって事物を見るから、たとい形式に於て韻律の規約を蹈み、或は和歌や俳句の格調を借用しても、真の文学的な批判に於て詩と言い得ないものしか出来ない。
 これによって吾人は、真に本質的に詩であるものと、形式のみの見かけの詩とを、判然として区別し得る。例えば、前の例に於て、ソクラテスの韻文やアリストテレスの韻文やは、真に心情から感動して、彼等がそれを書いたのでなく、純粋に客観的な態度に於て、認識を認識とし理智を理智として書いたのである。これに対してニイチェのツァラトストラは、哲学が主観の中に取り込まれ、認識が感情によって融かされている。故に後者は本質の詩であって、前者は形式だけの似而非詩である。しかしながらその場合にも、もしソクラテスが真にイソップ物語に感激し、それを主観の感情によって書いたならば、それは単に形式の韻文であるのみでなく、本質においても真の叙事詩で有り得たろう。アリストテレスの場合も同様であり、哲学が主観によって書かれたならば、ニイチェのそれと同じで有り得た。
 前にあげた他の例、即ち鉄道唱歌や、地理諳記唱歌や、和歌俳句の形式による古来の処世訓、道徳訓の類も同じである。これ等の文学に於ける作家は、始めから何の主観的感動なしに、純に事実のために事実を書き、教訓のために教訓を教えている。しかしながら作者が、こうした客観の態度でなく、もし自ら真に感動して、或る道徳や処世上の観念にまで、主観に於ける心情の意味を直感したら、その表現はすくなくとも本質上の詩に属する。故に例えば孔子や耶蘇の道徳訓には、時にしばしば本質上での詩と見るべき文字がある。これに反して或る小説家等の作る俳句が、技巧と着想の妙を尽し、観照の至境に入っているにかかわらず、何かしら物不足で、詩としての霊魂がないように思われるのは、認識の態度が純粋に客観的で、対象について対象を観照し、これを主観の心情に融解することがないからである。
 以上述べたことによって、読者は似而非の詩と本物の詩、借用の韻文と実際の韻文とを、大体誤りなく判断することができるであろう。要するに真の詩は、「詩的の内容」が「詩的の形式」に映ったもので、この内容のない韻文は、実体なき欺瞞の幻影にすぎないのである。けれども吾人は、作者に於ける主観的態度の有無――即ち詩的内容の有無――を、どうして実際の作物から判断することができるだろう? すべての芸術は、ただ表現を通してのみ理解し得る。吾人は表現の背後に住んでる、作者の心理や態度については、全く推察することができないのである。そして表現に現われたるすべてのものは、必然に何等かの形式を意味している。故に真の詩と似而非の詩との区別も、やはり表現の上に於て、何等かの形式で見る外はない。
 だがしかしこの問題は、数学の最も複雑な微分法を以てしても、到底計算できないところの、言語の微妙にして有機的な関係に属している。この点で言えば、芸術の意味はただ直感によって知られるのみだ。何故に或る詩は本物として感じられ、或る韻文は非詩として感じられるかということは、実に言語の語意や音韻に於ける組み合せの、複雑微妙なる関係にかかっている。そしてどんな人間の理性も、決してそれを計算し得ない。だがしかしこの場合にも、大体に於ける原則だけは、一般の作品を通じて普遍的に、まちがいなく断定できる。即ち真に感情で書いたところの、実の本物の詩にあっては、言語が概念として使用されず、主観的なる気分や情調の中に融けて、それ自ら「感情の意味」を語っていることである。これに反して似而非の詩は、言語が没情感なる概念として、純に「知性の意味」で使用されてる。
 されば詩的表現の特色は、要するに言語が「知性の意味」で使用されず、主として「感情の意味」で訴えられているということの、根本の原理に尽されている。詩が音律を必要とする所以のものも、畢竟この原理に存するので、決して韻律のために韻律の形式を求めるのでない。ただ自然の結果として、それが「韻文的なもの」に成るというにすぎないのだ。要するところは音律が、言語としての最も強い感情を出し得る故に、それが詩の形式を決定して、常に第一義的なものと考えられてる。しかし音律以外の要素に於ても、言語は「感情の意味」を語り得る。即ち今言う通り、語義を概念として使用しないで、主観の感情に融かすことから、語感に於ける気分や情調を表現し得る。そして近代に於ける多くの詩が、特にこの点を重要視することは、人の知っている通りである。
 それ故に詩の表現形式は、単に音律ばかりでなく、音律以外の言語的要素と相待って、始めて完全することを知るであろう。そしてかく考えれば、詩に於ける音律性が、単にその重要なる一部にすぎず、必ずしも全般でない事が理解される。実に具体的なる詩と言うべきものは、音律や語感やの感情要素が、複雑なる有機的関係によって結合されたものであり、個々にその要素の一々を、抽象しては思考されないものである。故に詩の形式を定義するべく、実には何と言って好いだろうか。詩とは辞書が意味する通りの、形式的な韻文であると言おうか。否。もちろん否である。では韻文という語を広義に解して、自由詩や無韻詩をも包括し得る、本質上の韻文であると断定しようか。これ殆ど当っている。けれども尚、未だ十分に達していない。なぜならば前言う通り、世には音律あって詩的精神のない文学があり、そしてこの種のものは、自由律に於てさえも絶無を保証し得ないからだ。
 詩の形式とは何ぞや? 実に残された問題は、この命題への解答である。どこかそこには、一言にして万事を言い尽し得るような、詩的表現の全般に行き届いた、真の判然明白なる答案があるように、有るべき筈だと感じられる。そしてこの解答が、もし完全にできるならば、その時始めて吾人は、真に詩的表現の何物たるかを、まちがいなく正確に、かつ完全に知り得たのである。さらに進んで、徹底的に考を進めて行こう。

* 最近の世界詩壇は著るしく散文的になり、唯物論的になり、機械観的になり、科学的にさえも傾向している。これ表面には、詩の散文的没落を意味する如く思われるが、実には何の心配もないのである。なぜならこうしたものは、すべて詩の題材に属していて、詩の本質的精神に関係していないからだ。換言すれば、それらの唯物界や機械界やは、詩人によって新しく発見された詩美であって、趣味としての選択に属している。然るに趣味は、詩の本質的精神とは関係なく、時代によって常に流動変化するものである。即ちプロゼックなものは流行であって、本質に於けるものは不易である故、詩は永久にその精神を没落しない。芭蕉はこの真理を言明するため、有名な「不易流行」の標語を作った。詩人は不易流行でなければいけない。から錯覚している。芸術の不易性は個人主義で、流行だけが社会主義になるのである。)

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