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2011年8月14日 (日)

第六章 形式主義と自由主義

 詩に於ては、音律が重大の要素であり、それが殆ど詩的形式の骨組をすることは、前に既に述べた通りだ。しかし詩が音律を要求するのは、感情の強き表出を求めたためで、必ずしも拍節形式のための要求ではない。もちろん、言語の発想はそれが「音」として響く限り、大体に於て音楽の原則に支配さるべく、必然に決定されているには違いないが、所詮文学は文学である故に、言語が必ずしも音楽の規約と一致し、楽典の定める韻律の形式と、常に機械的に規則正しく符節するということは考え得ない。もしかかる符節があるとすれば、それはむしろ偶然であり、百に一の場合と言わねばならぬ。
 然るに不思議なことは、古今すべての詩の約束が、この偶然の場合を法則とし、音楽に於ける韻律の形式を、そのまま正則に言語に移して、所謂「韻文」を成形していることである。実に歴史の長い間、詩はすべて韻文の形で書かれ、この形式の故にのみ、詩が詩であるとして考えられた。そもそも不思議は、古来すべての詩の発生が、何故にかかる機械的なる、法則されたる韻律の形式を取ったかと言うことである。
 これに対する答解は、しかし極めて簡単である。だれもよく知る如く、詩は昔に於て音楽と共に――おそらくは尚舞蹈と共に――節づけされた手拍子、もしくは楽器に合せて歌われたものである。ゆえに詩の発生に於ける形式は、必然に音楽や舞蹈やと一致したリズムの機械的反復を骨子としている。そしてこの発生に於ける形式が、そのまま後代にまで伝統され、後に修辞学の進歩によって、今日の韻文となったものに外ならない。しかしながら元来言えば、詩が既に音楽から独立し、純然たる文学となった今日、尚かつ原始の発生形式たる、韻律の機械則を守る必要はないであろう。何故に我々は、今日尚アカデミックな詩学を有し、韻律学の煩瑣な拘束を持っているのか。
 今日の所謂「自由詩」が、実にこの疑問から出発した。彼等は韻文の形式に窮屈して、より拘束なき自由の音楽を呼ぼうとした。しかしながら今日、自由詩は尚詩壇の「一部のもの」にすぎない。すくなくとも西洋に於ては――日本はこの際、特殊の事情によって例外する。――自由詩は全般のものでなくして、或る一部の詩人に属するもので、爾余の大半の詩人たちは、今日尚規則的なる、韻文の形式を捨てないのである。何故だろうか? 彼等の頭脳が古く頑冥な為であろうか。否。現代の最も進歩した詩人すらが、しばしば厳格なる韻律形式を固守している。かの象徴派の詩人にして、欧洲に於ける自由詩の開祖と目されるヴェルハーレンすらが、後には自由詩を廃棄して、最も形式的なる押韻詩の作家になったのである。
 かく規則的なる韻律詩が、今日尚自由詩と相対立して、詩の形式を二分しているところを見ると、何等かそこには、定則韻文の有する独自の意義が感じられる。すくなくとも今日の定律詩人は、単なる因襲の慣例によって、無自覚にクラシックな韻文を書いているのではない。何等かそこには、自由詩によって満足されないところの、別の適切な表現を感じているからである。では彼等の定律詩人が感じている、特殊な表現的満足感は何だろうか? けだし彼等は、詩の自由主義に不満して、*形式主義の精神に美を感じているからである。
 さればこの質問は、必ずしも今日の詩壇に起った問題でなく、ずっと昔、未だ自由詩などというものがなかった時から、既に古くあった問題である。なぜなら昔に於ても、韻文中での形式派と自由派とは、同じ精神で対立していたから。たとえば古典の詩で、叙事詩と抒情詩とがそうであった。叙事詩も抒情詩も、昔にあっては共にひとしく定形詩で、詩学の定める法則を遵守していたにかかわらず、概して叙事詩は形式主義の韻文で、押韻の法則が特別に厳重だった。そして反対に抒情詩は、この点が寛大であり、比較上での自由主義に精神していた。
 また近代の詩壇にあっても、既に自由詩以前に於て、この同じ精神が対立していた。たとえば浪漫派や象徴派の詩人等は、概して自由主義の立場に居り、詩学上の煩瑣な拘束を嫌っていた。反対に高蹈派の詩人等は、典型的なる形式主義の韻文を尊重していた。最近に至って、自由詩それ自体の部門にすら、またこの二派の対立があることは、我が国今日の詩壇を見ても解るだろう。日本に於ける最近詩壇は、後に他の章で詳説する如き事情によって、一も定律詩が存在せず、すべて皆自由詩のみであるけれども、そこにはまた比較上での形式主義と自由主義とが対立し、同じ自由詩の中で別れている。
 されば上述の質問は、結局して形式主義と自由主義との、美の二大範疇を決定すべき、根本の問題に触れねばならない。そしてこの問題を釈かない中は、吾人は未だ詩について、真に何事の知識も持たないのである。なぜなら詩の表現は、実にこの矛盾した反対の精神が、機微の黙約するところにかかっているから。そもそも形式主義の精神するところはどこにあるか。自由主義の根拠するところはどこにあるか。以下これについて考察を進めて行こう。

* 芸術の形式は内容の反映である故に、本来言えば「形式主義」とか「内容主義」とかの観念は、芸術上に於てノンセンスである。然るにこうした言語が存在するのは、この場合で考えられている「形式」が一般に於ける「表現そのもの」を指すのでなく、何等かの数理的法則によって規定されているところの、特殊なクラシカルな形式を指すからである。したがってこの形式主義に対する内容主義は、それ自ら表現上の自由主義を意味している。自由主義と内容主義とは、芸術上の言語に於てイコールである。

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