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2011年8月11日 (木)

結論

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     島国日本か? 世界日本か?

        1

 東と西と。一つの越えがたい国境から、地球は永遠に対立している。何故に我々は、いつまでも此処に留まり、国境を越えて行くことができないのか。太陽は照り、氷山は流れている。時は既に正午の線を過ぎたけれども、万象は死んで動かず、地上に一の新しい変化もない。永遠に、永遠に、東のものは東を向き、西のものは西を向いている。いかなれば世界の景色は、かくも単調にうら悲しく、よそよそしげに見えるのだろう。
 しかしながら我々は、既にこの単調から鬱屈している。今や眠れるものの上に、新しき欲情は呼び起され、世界の変化は近づいている。実に吾人が求めるものは、詩に、文学に、芸術に、文明に、すべてに国境を越えて行こうとする、東からの若い精神である。しかもこの「東方の巡礼」は、既に幾度か出発し、西にあこがれて行き、そして国境のあたりをさまよい、空しくまた家に帰って来た。幾組も幾組も、同じ巡礼の一団が、後から後から出かけて行き、空しく皆道に迷って帰ってきた。かくて永久に、日本は昔ながらの日本であり、地上に一の新しき変化も起っていない。退屈なるかな! 何故にいつまでも、吾人はこの鎖国された島国から、一歩も出ることができないのか?
 思うに過去の巡礼等――詩人や、文学者や、思想家や――は、その西方への道を誤っていた。彼等は狂った磁石をもち、方角を錯覚して、空しく西洋の幻像を追いながら、迷路の中に道を失って帰ってきたのだ。吾人の測量された地図によれば、日本から世界の公道に通ずる道は、ただ一つの直線されたものしかない。他はすべて迷路であって、無数の複雑した岐路の中に、人を惑わすものにすぎないのだ。吾人はこの書の結論として、最後にこの点を明らかにし、新日本の詩と文明とが求めるものを、本質に於て啓示しておかねばならない。

        2

 西洋文明の様式は、宗教や道徳に対するところの、科学や哲学の懐疑思想に出発し、かつこの主観精神と客観精神との、不断の対立から成立している。然るに懐疑するということは、既に有する信仰を失うことから、別の新しき信仰を求めようとするところの、人間性の止みがたき熱望に動機するのである故に、西洋文明に於ける客観的精神の本質は、本来「主観への逆説」であり、詩を否定しようとするところの、別の詩的精神の反動に外ならない。
 されば西洋に於ける一切の文明思想は、結局言って「主観を肯定する主観精神」「主観を否定する主観精神」との、二つの主観精神の対立に外ならない。そして芸術がまたこの二つの精神によって対立されている。例えば詩に於ては、前に言った「抒情詩」と「叙事詩」の関係がこれである。そしてこの抒情詩的精神と叙事詩的精神とは、他のすべての芸術に共通している。即ち前に説いたように、小説に於ける浪漫主義と自然主義とが、この同じ関係の対立である。美術にあっては、一方にミレーやゴーガン等の、抒情派があり、一方にピカソやセザンヌ等の、歪んだ科学的の叙事詩派がある。音楽がまた同じく、スイートでメロディアスの抒情的音楽と、荘重でリズミカルな叙事詩的音楽とが、昔から常に対立している。
 かくの如く西洋の文明は、抒情詩的精神と叙事詩的精神との対流であり、主観に正説する主観的精神と、主観に逆説する主観的精神との二つの者の相対に建設されている。そこで吾人は、この前の者を称して「主観主義」と言い、後の精神を称して「客観主義」と言う。西洋の文明、及びその芸術に於て考えられる主観と客観の関係は、すべてこの意味の観念に外ならない。即ちその客観と言うも、本来主観の逆説であり、相対関係の線上に立つものに外ならない。然るに日本の文明と芸術とは、始めからこの相対を超越し、絶対の立場で客観や主観を考えている。日本人の文明思潮は全然外国とちがうのである。
 日本人の文明観では、自我意識が常にエゴの背後に隠れている。なぜなら真の絶対自我は、非我と対照される自我でなくして、かかる相対関係を超越したところの、絶対無意識のものでなければならないから。然るに宗教観や倫理観やは、本来エゴイズムのものであって、自我意識の強調されたものなる故、日本人にはこの種の情操が本性していない。日本人はすべて超宗教的、超道徳的である。したがってまた日本人は、これに対する反動の懐疑思想も持っていない。即ち日本には、古来いかなる哲学も科学も無いのである。
 こうした日本人の文明は、ひとえにただ芸術に向って発達する外はないだろう。なぜなら芸術は絶対主義のものであって、すべての相対的抽象観念を超越したところの、真の具象的・象徴的のものであるから。しかしながらまた、こうした立場に立つ日本人の芸術が、始めから西洋のそれと特色を異にすることも明らかである。我々の文明情操には、始めから相対上の主観と客観が無いのであるから、芸術上に於ても、勿論また西洋に於けるような主観主義と客観主義、即ち抒情詩的精神と叙事詩的精神の対立がない。日本で考えられている芸術上の主観主義と客観主義とは、抒情詩と叙事詩の対立でなくして、実に和歌と俳句との対立を意味するのである。
 日本の俳句が世界に於ていかに特殊な文学であり、いかにレアリスチックな詩であるかと言うことは、前に他の章で述べた通りであるが、もう一度改めて言っておこう。何よりも著るしいのは、俳句の立脚する精神が、西洋の叙事詩と正反対に立っているということである。叙事詩の精神は「主観に対する反語」であり、否定によっての高翔なのに、俳句はむしろ「没主観への徹入」を精神とし、東洋的虚無感――それが西洋のニヒリズムと、全然反対のものであることに注意せよ。――に浸ろうとする。西洋の叙事詩の精神は、科学の客観主義と共通であり、自然を肯定するのでなく、自然を征服しようとするところの、主観的権力感の現われである。然るに俳句はこれに反し、自然の中に没入し、自然と共に楽しもうとするのであって、科学や叙事詩の立脚する客観主義とは、全然精神が異っている。俳句は言わば、詩に於ける絶対的客観主義だ。それは反動的でなく、日常生活の現実している平凡事を、その平凡事として楽しんでいる。
 されば日本に於ける多くの文芸、特に客観主義の文芸は、本質的に皆俳句の精神と共通している。現時の文壇にあっても、日本の文学がいかに俳句臭味のものであるかは、何よりもその作品をみればすぐに解る。すくなくとも日本の末期自然主義やレアリズムやは、西洋に於けるそれと異質的にちがっている。西洋の文学に於ける自然派等のレアリズムは、明らかに叙事詩的の精神から出たものである。即ちそれは、浪漫主義――抒情詩的のもの――への反動であり、愛や人道やの情緒を憎んで、冷酷な真実を暴露させようとするところの、反主観への逆説である。故に彼等の作品は、常に人生に対して憎悪し、意地悪しき冷酷の眼を以て、社会の「真実」を見ぬこうとする熱意に燃えている。かの自然主義の一派が、常に「科学の如く」と言った意味も、実にこの同じ精神を語っている。即ち科学的唯物観の没人情と、鉄石のように冷酷な観察眼とで、あらゆる真実をひっぺがしてやろうとする深い敵意が、言語それ自体の語韻の中に含まれている。
 これに反して、日本の文壇にあった自然主義や、その他のレアリズムに属する文学は、本質的に「人の好い文学」であり、単に客観のために客観し、有る世界を有る現状で見ようとするので、何等主観上に於ける哲学がなく、したがって人生に対する挑戦がない。彼等は単にお人好しの小説家で、真実を見ぬこうとする意地悪さもなく、科学的なる残忍さも持っていない。彼等が描こうとする世界は、現実を現実として享楽し、趣味の訓練によって生きて行こうとするところの、茶道的、風流的なる東洋の生活で、本質に於て全く俳句と一致している。故に日本自然派小説の典型であり、その最も優秀なものと定評された徳田秋声の作の如き、全くその*写生文的俳句趣味で特色されている。そして他の多くの小説が、より劣等な価値に於て、悉く皆俳句である。

* 写生文というのは、ホトトギス派の俳人によって創始された文学で、有る世界を有る現状のままに於て、全然没主観で書くことを主張した。そこでこれが自然主義の文学論と、まったく一緒になってしまった。

 さればレアリズムという言葉が、西洋風の文学観で言われる限り、日本には真のレアリズムがないのである。第一レアリズムという言語が持っている、特殊な冷酷感的な、真実をあばき出そうとする語感は、日本のどんな小説にも感覚されない。日本の写実小説は、レアリズムというべきでなく、もっと好人物的なる、俳句的観照本位のものである。しかしながら言語の意味から、その特殊な語感を除いて考えれば、日本人の文学が持っているものこそ、真の徹底したる意味の現実主義であるか知れない。なぜならば西洋の所謂レアリズムは、客観というべくあまりに主観的で、エゴの哲学を強調しすぎる。そしてこの故にまた観念的で、イデヤの理想観に走りすぎる。真に現実主義と言うべきものは、かかる一切の主観を有せず、憤りもなく憎みもなく、無私無感情の態度を以て――即ち真に科学の如く――客観について客観を見、観照のために観照をするものでなければならない。そして日本人の考えている文学観が、この点で西洋と別れてくる。日本人に於て見れば、ゾラやモーパッサン等の自然主義は、真の自然主義でないのである。
 故にかく考えれば、日本人こそ真に徹底的なる、気質的のレアリストであるだろう。西洋人は、本来言って現実主義の国民ではない。彼等の言う現実主義とは、理想主義に対する反語であって、同じ主観的イデヤの線の上で互に向き合っている対立である。故にその一つの線を取ってしまえば、両端に居る二人の者は、共に足場を失って落ちてしまう。然るに日本のレアリストが立っている地位は、こうした相対の線上でなく、それとは全く線のちがった、全然別の絶対地である。即ち日本人は「気質的のレアリスト」で、西洋人は「逆説されたレアリスト」である。故に日本人の立場で見れば、西洋のレアリズムや自然主義やは、一種のロマンチックな理想主義――逆説された理想主義――で、真の本質的な現実主義と言うべきでない。真の徹底したるレアリズムは、俳句でなければならないと言うことになる。
 されば日本の文学には、昔から「俳句」があって「叙事詩」がない。何よりもあの逆説的な、権力感的な、貴族主義の精神がないのである。日本人は、先天的にデモクラチックで徹底したる自由主義の民族である。この点でも日本人は、西洋人と思想の線を異にしている。

        3

 西洋の近代思潮が叫ぶデモクラシイは、明らかに貴族主義の相対である。即ち貴族主義と民衆主義とは、同じ一つの線の上で、互に敵視しながら向き合っている。しかもデモクラシイが求めるものは、貴族主義に代わっての政権であり、民衆自身の手に権力を得ようとする叙事詩的な精神の高調である。そしてあの自由平等の高い叫びは、それ自ら権力への戦闘意識に外ならない。故に彼等のデモクラシイは、言わば「逆説されたる貴族主義」で、本質上には同じ権力感の線で、他の反対者と向き合っているのだ。自由主義もまた同様であり、彼等にあっては形式主義と相対し、同じ叙事詩的の線に立っている。
 然るに日本人のデモクラシイは、そうした相対上の関係でなく、気質の絶対的な本性に根づいたものだ。日本には原始からして、一も貴族主義や形式主義が発生してない。第一日本の詩の歴史は、無韻素朴な自由詩に始まっている。に始まっている。)日本では古来からして、あらゆる文化が素朴自由の様式で特色している。西洋の文化に見るような、貴族的に形式ぶったものや、勿体ぶったものや、ゴシック風に荘重典雅のものやは、一も日本に発育していない。皇室ですらが、日本は極めてデモクラチックで――特に上古はそうであった――少しも形式ぶったところがなく、陛下が人民と一所に起臥しておられた。一方に西洋や、支那や、エジプトやでは、荘重典雅な皇居の中で、あらゆる形式主義の儀礼の上に、権力意識の神聖な偶像が坐っていた。
 だから日本には、外国に見るような堂々たる建築や、壮麗にして威圧的な芸術やは、歴史のどこにも残っていない。日本では皇室や神社の如き、最も威圧的に荘厳であるべき物すら、平明素朴の自由主義で様式されている。殆ど文化のあらゆる点で、日本にはクラシズムが全くなく、そうした精神の発芽すらない。日本に於ける形式主義は、すべて支那からの輪入であって、しかも外観上のものにすぎなかった。
 かく日本の文明が、上古から自由主義と素朴主義で一貫しているのは、民族そのものの本質がデモクラチックで、先天的に貴族主義の権力感情を持たないからである。しかもこうした日本人のデモクラシイや自由主義やは、西洋近代思潮のそれの如き、相対上の反動ではなく、絶対上の気質にもとづくものであるから、日本の過去の歴史には、決して外国に見るような革命が見られなかった。革命とは、自由主義やデモクラシイやが、他の貴族主義に対して挑戦するところの同じ権力感情の相対する争闘だから、始めからその権力感情の線外に居る民族には、もとより革命の起る道理がない。日本人は生れつき平和好きの民族で、自由や平等やの真精神を、相対上の主義からでなく、気質上の所有として持っているのだ。
 然るに西洋人は、この点で吾人を甚だしく誤解している。西洋人の思惟によれば、日本人は戦争好きの国民であり、軍国主義と武士道の典型であると考えられている。もちろん近年に於ける日本は、政府の方針から多少軍国的に導かれた。またその同じ教育から、多少或は国民が好戦的になったか知れない。しかし国民性の本質が、内奥に於て如何にその外観とちがっているかは、かの日清・日露等の役に於ける兵士の軍歌は御国を何百里)が、歌曲共に、哀調悲傷を極めているに見ても解る。一方でドイツの軍歌「ラインの守」が、いかにリズミカルで勇気に充ち、威風堂々としているかを見よ。日本人がもし真に好戦的だったら、ああした哀調悲傷の歌曲は、決して行進の軍歌として取らないだろう。
 さらにより大きな誤謬は、日本人の武士道に対する偏見である。確かに日本人の武士道は、社会の或る一部である、少数の武人の中に発達した。それは確かに著るしく、世界的に異常のものであるかも知れない。けれども一般の民衆は、この点の教養から除外され、全然武士道的な精神をもっていない。そしてまたこの点でも、日本人は世界的に著るしく、特殊な例外に属している。なぜならば西洋では、今日尚民衆がその「紳士道」を有している。そして紳士道は、正しく騎士道の変化であって、言わば資本主義の下に近代化した武士道であるからだ。然るに日本に於ては明治の変革と共に武士が廃り、同時に武士道そのものが消えてしまった。なぜなら日本の民衆は、この点での教養を過去に全く持たなかったから。日本の武士道は、少数の武士にのみ特権されて、西洋に於ける如く、平民の間に普遍してはいなかったのだ。
 何故に日本では、武士道が普遍しなかったろうか。これ日本に於ける戦争が、古来すべて内乱であり、人種と人種との衝突でなく、少数武士の権力争いにすぎなかったからだ。これに反して外国では、戦争がすべて異人種との争いであり、負ければ市民全体が虐殺されたり、奴隷に売られたりされねばならなかった。故に支那や西洋では、都市がすべて城壁に囲まれており、市民は避けがたく戦争に参加した。のみならず一般の農民や民衆やも、常に外征に徴発され、兵士として戦場に送られねばならなかった。
 故に西洋に於ては、武人的精神が早くから民衆の間に普及していた。農民や市民ですらも、その必然の経験からして、何等か武士道的な精神に触覚していた。これによって西洋では、封建社会の亡びた後にも、尚その騎士道の精神が、新しき紳士道の様式で遺伝された。実に西洋の文明は、近代のあらゆるデモクラシイと女性化主義にもかかわらず、その紳士道を尊ぶ精神からして、本質上でいかに貴族主義のものかが解る。これに反して日本は、封建と共に武士道廃り、平民の時代に入って全く貴族主義の精神を失喪した。今日の日本が言う「紳士」とは、気概なく品性なき、成金的醜劣の人物の称呼であって、西洋のゼントルマンと根本的に別種である。かくの如く西洋では、民衆一般が武士道的で、権力感的なるエピカルの精神を気質している。故にその文明の特色は、本質上に於て著るしく貴族主義である。試みに日本の音楽と西洋の音楽と、日本の歌舞伎劇と西洋の古典劇とを比較してみよ。音楽でも劇でも、すべての西洋のものは上品であり、気位が高く、権威感があり、何等か心を高く上に引きあげ、或るエピカルな、高翔感的なものを感じさせる。これに対して日本の音曲や演劇やは、どこか本質上に於て賤しく、平民的にくだけており、卑俗で親しみ易い感がする。特に日本に於ても、江戸時代の平民芸術はそうであり、卑俗感が特別に著るしい。中世以前に於ける武家文化や公卿文化の芸術は、その貴族的なことに於て、高翔感的なことに於て、西洋現代のものとやや一致している。
 西洋文明の特色たる、この貴族主義的の精神は、必ずしも芸術ばかりでなくして、他のあらゆる文化一般に本質している。第一その科学、哲学、宗教、芸術等に於ける、西洋流の言語感そのものからして、何となく或る威厳的な、勿体ぶった、歴々のものを感じさせ、或る崇高な権威の方へ、意志を高く飛翔させる。そして古来の日本文化には、殆どこうした貴族感がないのである。特に江戸時代に於ては、芸術家が芸人の名で呼ばれたほど、文明の本質が非貴族感的となり、デモクラチックのものに沈下していた。今日西洋人の中にあっては、アメリカ人が最もデモクラチックである。――したがって日本人に最も接近させられる――であるけれども、彼等の極端なるジャズバンドの音楽でさえ、日本俗謡の八木節や安来節の類に比し、尚遙かに貴族感的で、どこかに*シルクハットや燕尾服を着たところの、儀礼正しき紳士道を聯想させる。
 こうした西洋の文化や文芸やが、日本に移植された場合に於ては、いつもその本質が変ってしまって、根本に於ける叙事詩的の精神を無くしてしまう。特に就中、文学はそうであって、明治以来、外国から移植された一切の文芸思潮は、一も日本に於て正解されないばかりでなく、文学そのものが変質して、全く精神の異ったものになってしまう。元来明治の文壇と称したものは、江戸末期に於ける軟派文学の継続であり、純然たる国粋的戯作風のものであったが、これが延長なる今日の文壇も、本質に於て昔と少しも変っていない。そこには何等叙事詩的の精神がなく、日本的のデモクラシイと、俳句趣味とがあるのみである。
 一般の場合を通じて、西洋人は青年期に抒情詩を書き、中年期に入って叙事詩人となる。一方に日本人は、若い年の時代に歌人であり、やや年を取って俳人となる。然るに和歌と抒情詩とは本質に於てやや通ずるところがあり、等しく感傷主義のものであるから、日本人も和歌の作者である年齢には、大概世界的に進出するコスモポリタンであるけれども、これが後に俳句に入ると、純粋に島国的な日本人になってしまう。明治から最近に至るまで、一として文壇に変化がなく、少しく西洋に触れては日本にもどり、無限に同じことを反復しているのは、実にこの一事のためである。日本人がもし「俳句」を捨て「叙事詩」を取らない以上には、永遠に我々は伝統の日本人で、洋服をきた風流人にすぎないだろう。

        4

 今や吾人は、最後の決定的な問題にかかっている。島国日本か? 世界日本か? である。前者だったら言うところはない。万事は今ある通りで好いだろう。だが後者に行こうとするのだったら、もっと旺盛な詩的精神――それは現在しないものを欲情し、所有しないものを憧憬する。――を高調し、**明治維新の溌剌たる精神を一貫せねばならないのだ。何よりも根本的に、西洋文明そのものの本質を理解するのだ。皮相は学ぶ必要はない。本質に於て、彼の精神するものが何であるかを理解するのだ。それも頭脳で理解するのでなく、感情によって主観的に知り、西洋が持っているものを、日本の中に「詩」として移さねばならないのだ。
 何よりも我々は、すべての外国文明が立脚している、一つの同じ線の上に進出せねばならないのだ。そしてこの一つの線こそ、主観を高調する叙事詩的の精神であり、日本人が欠陥している貴族感の情操である。すべてに於て、我々は先ずこの文明情操の根柢を学んでしまおう。そしてこの同じ線の上から、あらゆる反対する二つのもの――個人主義と社会主義、貴族主義と民衆主義、理想主義と現実主義――とを向き合わせ、同一軌道の上で衝突させよう。実に吾人の最大急務は、西洋のどんな近代思潮を追うことでもなく、第一に先ず吾人の車を、彼等の軌道の上に持って行き、文明の線路を移すことだ。もしそうでない限り、日本にどんな新しい文芸も、どんな新しい社会思潮も生れはしない。なぜなら我々の居るところは、始めから文明の線がちがっているから。そして別の軌道を走る車は、永久に触れ合う機会がないのだから。
 いかに久しい間、この真実が人々に理解されず、徒労が繰返されたことであろうか。我々のあまりに日本人的な、あまりに気質的にデモクラチックな、あまりに先天的にレアリスチックな民族が、外国とはまるで軌道のちがった線路の上で、空しく他のものを追おうとして、目的のない労力をしたことだろうか。明治以来、我々の文壇や文明やは、その慌しい力行にかかわらず、一も外国の精神に追いついてはいなかった。逆に益々、彼我の行きちがった線路の上で、走れば走るほど遠ざかった。何という喜劇だろう! 実にこの無益にして馬鹿気た事実を、近時の文壇と社会相から、至るところに指摘することができるのだ。
 吾人はこれを警戒しよう。あらゆる日本の文明は、軌道をまちがえたジャーナリズムから、逆に後もどりをしてしまうということを。例えばあの自然主義がそうである。我々の若い文壇は、これによって欧洲の近代思潮に接触し、世界的に進出しようと考えた。然るに何が現実されたか? あああまりに日本的に、あまりにレアリスチックに解釈された自然派の文壇は、外国的なる一切の思潮を排斥し、すべての主観を斥け、純粋に伝統的なる鎖国日本に納まってしまったのだ。もし日本に自然主義が渡来せず、過去の浪漫主義がそのまま延びて行ったら、すくなくとも、最近では、今少し世界的に進出していたであろう。我々は世界的に出ようとして、却って島国的に逆転された。
 日本に於ては、いつもあらゆる事情がこの通りである。例えば西洋のデモクラシイが輸入されれば、一番先にこの運動に乗り出すものは、日本人の中での最も伝統的な、最も反進歩的な文学者である。なぜなら彼等はそれによって、自分自身に於ける国粋的な、伝統的な、あまりに日本人的な卑俗感やデモクラシイやを、新思潮のジャーナリズムで色付け得るから。最近の無産派文学や社会主義やも、多分これと同様のものであるだろう。彼等の中の幾人が、果して西洋の近代思潮や資本主義を卒業しているのだろうか。思うにその大部分の連中は、彼等自身に於ける、あまりに日本人的な卑俗感とデモクラシイとで、西洋文明そのものが本質している、資本主義の貴族感を嫌っているのか。
 かくの如くして日本の文化は、過去に一つの進歩もなく発展もない。あらゆる外国からの新思潮は、却って国粋的な反動思想家に利用され、文明を前に進めずして後に引き返す。されば日本に於ては、一の新しいジャーナリズムが興る毎に、折角出来かけた新文化は破壊されて、跡には再度鎖国日本の旧文化が、続々として菌のように繁殖する。そして永久に、いつまでたってもこの状態は同じことだ。いかに? 諸君はこの退屈に我慢ができるか。これをしも腹立しく思わないのか?
 あらゆる決定的の手段は一つしかない。文明の軌道を換えることだ。吾人の車を、吾人自身の線から外ずして、先方の軌道の上に持って行くのだ。換言すれば、吾人のあまりに日本人的なレアリズムやデモクラシイやを、断然として廃棄してしまうのだ。そして同じレアリズムやデモクラシイやを、西洋文明の軌道に於ける、相対上の観念に移して行くのだ。今、何よりも我々は詩人になり、生れたる貴族にならねばならない。先ず人間として、文明情操の根柢を作っておくのだ。そして後、この一つの線路の上に、あらゆる反対矛盾する近代思潮を走らせよう。自然主義も、民衆主義も、社会主義も、またこれに衝突する他方の思潮も、かくて始めて我々の内地を走り、日本が世界的の交通に出てくるだろう。今日の事態に於けるものは、すべて島国鎖国の迷夢であり、空の空たるでたらめの妄想にすぎないのだ。

        5

 新日本の世界的創造は、決してこれより他にあり得ない。もし人々がそれを意欲し、自覚に於て進むならば、すくなくとも吾人の文化と芸術とを、新しき方向に向けることができるだろう。そしてこの時、日本の文壇も世界と同じく、詩人を尊敬して見るようになるであろう。なぜならば詩の本質は主観であり、かつ元来貴族的のものである故に、西洋文明の精神が潮流するところでは、詩は必然に先導に立ち、文学の一切を越えて崇敬される。然るに今日の我が文壇では、そのあまりに日本的なレアリズムから、主観が一切排斥され、そのあまりに日本的なデモクラシイから、貴族感的なるすべての精神が嫌われるため、詩は全く地位を得ることができないのだ。
 吾人はかかる文壇を軽蔑しよう。詩人から文壇の方に降り、彼等に巻き込まれて行くのでなく、逆に文壇を吾人の方に、詩的精神の方に高く引きあげて教育しよう。でなければ永久に、我々の文化を世界的にすることはできないだろう。そして日本が世界的に進出した時、始めて我々の国語に於て、新日本の美や音律が生れるだろう。そこでこそ、始めて我々の「芸術」が創作され、真の意味での「詩」が出来てくる。今日ある事態のものは、未だ何等の意味での文明でもなく、芸術前派の日本にすぎない。況んや文明の花であり、国語の精華であるべき詩が、日本に現在すべき道理がない。我々はその道を造って行こう。

我れは踏まれたる石なり
家はその上に建つべし

「詩人」という言葉は、我々の混沌たる過渡期にあっては、実の芸術家を指示しないで、むしろ文明の先導に立つ、時代の勇敢なる水先案内――航海への冒険者――を指示している。新体詩の当初以来、すべての詩壇が一貫してきた道はそうであった。彼等は夢と希望に充ち、異国にあこがれ、所有しないものへの欲情から、無限の好奇心によって進出して来た。彼等は太平洋の岸辺に立って、大陸からの潮風が吹き送る新日本の文明を、いつも時代の尖鋭に於て触覚していた。そしてこの島国をあの大陸へ、潮流に乗って導こうと考えていたところの、真の夢想的なる、青春に充ちたロマンチストの一群だった。
 しかしながらこのロマンチストは、我々のあまりに現実主義的なる、あまりに夢を持たない俗物の文壇から、常に冷笑の眼で眺められ、一々侮辱されねばならなかった。実に新体詩の昔から、我々はこれを忍んできた。そして恐らく、今後も尚忍ばねばならないだろう。けれども時がくる時、いつかは文壇にもイデヤが生れ、さすがに現実家なる日本人も、何かの夢を欲情する日が来るであろう。我々はその日を待とう。そしてこの新しい希望の故に、尚かつ我々の未熟な詩を書いているのだ。もしそうでなかったら、今日のような国語による、西洋まがいの無理な自由詩など作らないで、芸術としてずっと遙かに完成されたる、伝統詩形の和歌や俳句を作るだろう。我々はだれも、今日の詩が芸術としての完成さで、和歌俳句に及ばないことを知りきっている。しかし我々の求めるものは、美の完成でなくして創造であり、そして実に「芸術」よりも「詩」なのである。
 詩! 我々はこの言葉の中に響く、無限に人間的な意味を知っている。そこには情熱の渇があり、遠く音楽のように聴えてくる、或る倫理感への陶酔がある。然り、詩は人間性の命令者で、情慾の底に燃えているヒューマニチイだ。我々はそれを欲しても欲しないでも、意志によって駆り立てられ、何かに突進せねばならなくなる。詩が導いて行くところへ直行しよう。

* 活動写真を見る時、いつも西洋について面白く思うことは、一方に絹帽や礼服をきた紳士が居り、一方に破れ服の貧民や労働者が居ることだ。日本にはこの対照がなく、どれを見ても大同小異の階級者が、デモクラチックに均一して銀座通りを歩いている。こんな単調でつまらない社会は、おそらく世界のどこにもあるまい。
** 明治初年の日本――それは進歩思想を有する武士階級の青年によって統治された――は、近代に最も光彩ある、最も大胆自由の社会だった。彼等のロマンチックな為政者等は、一時仏蘭西の共和政体を日本に布こうとさえ考えた。

 所謂プロレタリア文芸の運動は、そのあらゆる稚態と愚劣にかかわらず、本質に於て日本の文壇を正導すべき、一の純潔なヒューマニチイを有している。著者はこの点だけを彼等に買ってる。過去の白樺派の人道主義が、やはりこれと同様だった。すべてこれ等の文学は、未だ自然主義の懐疑時代を通過していない。無産派も白樺派も、無邪気な楽天的感激主義の文学であり、遠く浪漫主義発生前派の者に属する。しかも日本にあっては、何よりもこの「浪漫派前派の精神」が必要なのだ。一切の文明と芸術とは、このアルファベットの第一音から、改めて建設されねばならないのだ。

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底本:萩原朔太郎「詩の原理」新潮文庫、新潮社   1954年10月30日発行

電子書籍端末「リーダー」と携帯閲覧による、夏休みコラボ企画。

萩原朔太郎「詩の原理」研究の週間がはじまりました。

巷にあふれている日本語の言葉と比べませう。

俄然に新鮮な活断層も発見できるでしょう。

月に吠えたくなる言語体験をあなたもごゆるりと。

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ペンギンタロットの原画

  • 0の愚者から21の宇宙(世界)まででひとつの話が結ばれる
    兆しを理解して現実なるものを深くたのしく感知する訓練カードです。 タロットを機能させるには慣れ親しむことからはじまります。 まだ目には見えていない物事や潜在的な事柄を導き出す道具でもあります。 各アイコンをクリックすると、21のカードが観れます。