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2011年8月14日 (日)

第十章 詩に於ける主観派と客観派

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 以上、本書の各章を通じて論証し来ったように、詩の本質は「主観」であり、実に主観以外の何物でもない。詩とはこの主観的なる精神が、主観的なる態度によって言語に表現されたものを言うのである。然るに此処に考うべきは、詩それ自体の世界に於て、また特に主観派と言うべきものと、客観派と言うべきものとが、互に対立するという事実である。そもそもこの矛盾はどう釈くべきか。
 この書の最後に残されたる、真の根本的なる重大問題はこれである。
 既に早く、本書のずっと前の章で説いたように、あらゆる表現の形式には、それぞれの種目に於て――音楽にも、美術にも、小説にも――主観派と客観派との対立がある。故に本来主観的なる詩の中にも、それ自身の部門に於て、同じような二派の対立がなければならぬ。今この事実を、日本と西洋との詩に就いて、両方から並行的に調べてみよう。先ず日本に就いて言えば、我々の代表的な二つの国詩、即ち和歌と俳句に於て、前者は主観派に属しており、後者は客観派に属している。また西洋の近代詩では、一般にだれも感ずる通り、浪漫派や象徴派等のものは、著るしく主観派を典型しており、高蹈派や古典派等のものは、反対の客観派に属している。
 そこで第一に問題なのは、詩に於ける客観派とは何ぞやと言うことである。多くの通俗の見解は、この差別を詩材の対象に置いて考えている。即ち例えば、俳句は主として自然の風物を詠ずる故に客観的で、和歌は恋愛等を歌う故に主観的だと言うのである。かの仏蘭西の高蹈派が、自ら客観主義を標榜して、主観の排斥を唱えたのも同じような通俗の見解にもとづくのである。即ち彼等は、一切「私」という語の使用を禁じ、詩を自己について物語らず、外界の自然に於ける風物や、歴史上の伝説について書くことを主張した。
 こうした通俗の見解が、極めて無意味な皮相のものにすぎないことは、前既に他の章で弁証した通りである。芸術に於ける題材は、それが外界の「物」にあろうと、或は内界の「心」にあろうと、さらに本質上に於て異なるところは少しもない。なぜならば表現の根本は、作者の物を見る態度に存して、対象それ自体の性質に存しないから。吾人が「主観的」と呼んでいるのは、もとよりかかる皮相の見解でなく、作者の物を見る態度の上で認識が感情の中に融化しており、気分的な情趣となっている態度を言うのだ。故にこの意味で言うならば一切の詩は皆主観的であるべきで、客観主義の詩というものは考えられない。
 然るにそれにもかかわらず、浪漫派の詩と高蹈派の詩、また和歌と俳句との間には、どこか或る根本的な点に於て、著るしくちがうところがあるように思われる。単なる皮相の俗解でなく、もっと内奥的な意味に於て、やはり前者は主観的で、後者は客観的であるという感じが、どこかに避けがたくつきまとっている。吾人は進んで、この二派の詩に於ける特殊な異別を、対照上に考えなければならない。しかしながら西洋の詩については、前にも既に説明したし、またこの次の章に於ても、一層根本的に説くところがあるからして、此処では特に、日本の国詩たる和歌と俳句についてのみ、この問題の考察を進めてみよう。

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 和歌と俳句とは、日本の詩に於ける二つの代表的な形式であり、かつ最も著るしいコントラストである。すべての詩を愛する日本人は、この二つの詩に於ける特殊のものを、対照のコントラストに於て知っているだろう。実に和歌と俳句の相違は、詩に於けるディオニソスとアポロの対照である。即ち和歌の詩情は感傷的、感激的で、或るパッショネートな、情火の燃えあがっているものを感じさせる。これに反して俳句は、静かに落着いて物を凝視し、自然の底にある何物かを探ろうとする如き、智慧深い観照の眼をもっている。また和歌のあたえる陶酔は、情緒的でメロディアスのものであるのに、俳句の魅惑はこれとちがって、もっと枯淡的に澄み入っている、含蓄の深い情趣である。
 されば和歌と俳句の相違は、詩に於ける音楽と美術の対照であり、また浪漫派と写実派の対照である。前者はロマンチックで感傷的に行こうとし、後者はレアリスチックで静観的に行こうとする。しかも吾人の知っている限り、俳句の如く観照的で、俳句の如くレアリスチックの詩は、世界に殆ど比類がない。西洋の詩や支那の詩やは、どんな静観的のものであっても、俳句に比すればずっと遙かに主観的で、作者の人生観や哲学やを、強く情熱的な調子で歌い出している。小説に於ける日本の自然派が、世界無比にレアリスチックの文学である如く、日本の俳句もまた、世界無比にレアリスチックの韻文である。そこには殆ど、強い調子の情熱と言うものが、全く語られていないようにさえ思われる。
 故に他との比較に於て、俳句が客観的であることは明白であり、またこの点から修辞して、俳句を「客観主義の詩」と呼ぶこともできるだろう。しかしこの場合に考えられる客観主義とは、詩という文学の立場に於ける、本質を具備しての客観である。即ち詳説すれば、俳句の本質は和歌と同じく、純一に主観的のものでありながら、その詩情に於ける色合や気分やが、特殊の静観的なものを有するために、この点の特色からみて、仮りに客観的と呼ぶのである。故に俳句の観照は、常に必ず主観の感情によって事物を見、対象について対象を眺めていない。換言すれば、俳句の表現は「情象」であって、実の客観の「描写」でない。
 この点について、世には俳句を誤解している人がある。即ち或る人々は、俳句を以て単に象徴主義の徹底した表現と解しており、自然に於ける真実の像を捉え、物如の智慧深い描写をすることで、表現の本意が尽きると考えている。もし俳句と称する文学が、実にかくの如きものであるならば、俳句は描写本位の文学である故に、小説等と同じ種目に属する芸術品で、断じて詩と言うべきものではないのだ。しかし吾人の見ている限り、古来のいかなる真の俳句も、悉く皆情象であり、単なる描写本位の句というものは決してない。多くの一般の俳句は、自然の風物に託して主観の情調や気分を詠じているので、純に観照のために観照をしている如き、没情感の冷たい俳句と言うものは見たことがない。例えば蕪村の

春の海終日のたりのたりかな
 という句の如きも、単にかかる自然を描写しているのでなく、主観に於ける春日長閑の無為の気分を、対象の中に情調として見ているのである。他のあらゆるすべての俳句が、皆これに同じである。芭蕉の句

草の葉をすべるより飛ぶ螢かな
 の如きも、或る種の小説家等が解する如く、単なる写実主義の描写でなくして、背景に於ける夏の夜の気分を情象しているのである。これらの俳句からして、単にその描写的手法のみを見る人は、実に「俳句」を読んで「詩」を理解しない人と言わねばならぬ。この俳句に於ける「詩」の本質を、その道の術語で「俳味」と呼んでいる。俳味は一種の黙約された詩趣であって、この詩的精神の本質なしには、決して俳句は成立しない。蓋し俳句が、その写実的なる描写手法にもかかわらず、本質上に於て詩の精神を失わないのは、実にこの俳味と称する霊魂が、本質に於てあるためである。故に真の俳句は、性格的に俳味を有する人でなければ、決して作ることができないわけである。
 かく俳句の表現は、対象のために対象を見るのでなく、主観に於ける俳味、即ち詩情によって対象を見、風物を情象するのであるから、本質に於て主観的表現であることは勿論だが、就中真の詩的精神を有する俳句に於ては、一層その主観が強く高調的に表出されている。例えば芭蕉や*蕪村の俳句にあっては、俳味がそれ自ら生活感の訴えるイデヤとなっている。故に彼等の情象する世界を透して、吾人は或る霊魂の欲情している、情熱の高い抒情詩を聴くことができるのである。これに反して精神のない低劣の俳句は、詩情が機智的の趣味性に止まっているため、観照に於ける描写的手法のみが感じられ、真の強い詩的情熱を感じさせることがない。俳句が「感情の意味」で読まれずして、機智的なる「知性の意味」で読まれるのは、かかる低劣なる作品のためである。真の精神を有する俳句は、知性の頭脳に響かないで、直ちに心情に触れて来ねばならない筈だ。
 故に芭蕉や蕪村やの、真の精神を有する俳句は、常に文字通りの「抒情詩」として感じられる。そこには常に、何かの訴えているものがあり、哀切しているものがあり、欲情しているものがいる。そしてこの一つのものこそ、彼等の生活に於けるイデヤであり、真の意味の「主観」である。されば俳句を客観的という意味は、全く詩趣の特色についてのみ見た意味であり、本質上には何等関しないことである。本質上には、俳句も他の一般の詩と同じく、純粋に主観的のものであり、したがってまた感情的のものである。かの俳人が枯淡を尊ぶのは、趣味性の上の薫育であって、詩的精神の涸燥を意味しないのは勿論である。詩的精神の情熱が枯れてしまったら、そもそもどこに俳句の表現があり得るか?
 されば和歌と俳句とは、その外観の著るしい差別的対照にかかわらず、本質上に於て全く同じ抒情詩であることが解るだろう。即ち俳句は、和歌のより渋味づけられたもの、錆づけられたものであって、一種の枯淡趣味の抒情詩に外ならない。しかしながらこの趣味の相違が、一方にはまた俳句をして、和歌と大いに特色を異にするところの、日本的特殊な――あまりに日本的特殊な――文学としてしまっている。吾人は俳句の長所を認め、その世界的に特色しているユニックな詩境を認めるけれども、これによって新日本の文明と芸術とが、いつも伝統の中に彷徨しており、世界的に進出し得ないのを悲しむのである。なぜならば日本人は、今日尚この特殊な俳句詩境に、あまりに深く惑溺しすぎているからである。これについて吾人は、後に章を改めて別に論ずるところがあると思う。

* 蕪村の詩に於けるイデヤは、あの春風馬堤曲に歌われている通りである。即ち「昔々しきりに思う慈母の愛」「春あり成長して浪葉にあり」の情愁で、時間の遠い彼岸にある、或る記憶に対するのすたるじや、思慕の川辺への追憶である。この思慕は彼の俳句に一貫しているテーマであって、独得の人なつかしい俳味の中で、葱の匂いのように融け流れている。

 現歌壇のアララギ一派は、子規によって始められた俳人の余技歌を亜流し、歌であって俳句の境地を行こうとしている。これ既に形式をはきちがえた邪道であるのに、日本自然派文壇の誤った美学を信奉して、一切詩的精神の本源を拒絶しようと考えている。真に蒙昧愚劣、憫殺すべきの徒輩であるが、ただ彼等の中にあって一奇とすべきは、巨頭の斎藤茂吉である。彼は医者の有する職業的の残酷さと唯物観とで、自然を意地悪く歪んで見ている。けだし茂吉は国産品のキュービストで、一種の和臭ニヒリストである。

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