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2011年8月18日 (木)

第七章 観照に於ける主観と客観

 いかなる純情的主観主義の芸術でも、観照なしに表現の有り得ないことは、前章に述べた通りである。では主観主義と客観主義は、どこでその態度特色を異にしているのだろうか。表現に於ての観照を持つことでは、両者共に一致している。しかも自然派等のレアリズムの文学では、浪漫派等を称して感傷的と言い、客観性が無いと言って非難する。たしかに両派の観照に於ける態度は、根本に於てちがったところがなければならぬ。
 然り。そこには一の明白な相違がある。即ち主観主義の芸術では、観照が観照として独立せず、いつも主観の感情と結びついてる。換言すれば彼等は、対象の物に就いて物を見ずして、それを自己の主観に引き入れ、気分や感情の中に融かしてしまう。例えば恋愛詩を書いてる人は、恋愛の情緒の中に溺れており、その感激の高調で表現している。この場合に表現が、感情を言語の上に照らすところの、智慧の不断な観照と共に行われているということは、自ら意識的に自覚しないほどでさえある。対象が心内になく、外界にある場合も同様で、例えば西行のような詩人は、自然の風物について、自然それ自体を観照しているのではなく、いつも主観の感情を高調し、感情それ自身の気分の中に、自然を融かし込んでいるのである。
 故に彼等の認識は、知的に冷徹した認識でなく、感情の温かい靄の中で、いつも人懐かしげに霞んでいる。それは主観に融け込んでいる客観であり、知的に分離する事のできないものだ。然るにレアリズムの客観派では、こうした感情的態度が排斥される。彼等は物に就いて物を見、科学的冷静の態度に於て、観照を明徹にしようとする。故に主観を排斥し、感情によって物を見ずして、冷酷透明な叡智によって、真に客観的に徹しようとするのである。故に前者の態度は、つまり「主観のための観照」であり、後者は「観照のための観照」である。
 しかしながら実際には、真に「観照のための観照」を考えている芸術は、殆ど稀れにしか無いであろう。特に文学に於てはそうであって、たいていの多くの者は、この観照の背後に於て、別の主観が「意味」を主張しているのである。丁寧に説明すれば、そうした真実の世界をレアリスチックに描き出すことから、作家自身の情感している或る主観を、読者に訴え、暗示しようとしているのである。つまり言えば両者の相違は、前者が直接に主観を露出し、訴え、叫び、主張しているところのものを、後者は絵画のように描き出し、人生の縮図を見せることから、主観に於ける作家の意味を、読者に暗示するのである。即ち前者の行き方は音楽であり、後者の行き方は絵画である。
 かく考えれば、所謂客観主義の文学も、所詮は「主観のための観照」であり、他の者と選ぶところが無くなってくる。どっちにしても、結局の目的は主観であって、それを描き出すのが主だとすれば、間接のまだるっこい画など描かずに、直接の主観をじかに出して、露骨に訴えたり、叫んだり、主張したりする方が好いじゃないか、と多くの主観主義者は考えるのである。これによって彼等は、直ちに主義をひっさげて演説したり、人生観を評論したり、或は尚一層主観的な詩人のように、まっすぐに直情そのものを露出して絶叫する。実に彼等は、気の短かい性急の人たちである。だがしかし一方では、こうした性急の詩人たちが、客観主義者によって憫笑されてる。なぜならば客観主義者は、人生の真相を描くということ、そのこと自身に芸術的な別の興味を持ってるからだ。丁度すべての科学者が、真理の探求をイデヤしているにかかわらず、尚かつ実際には、科学すること自身、実験すること自身に於て、学者的な興味をもってるのと同じである。この興味がなかったら、何人も科学者にはならないだろう。同様に芸術家等は、芸術すること自身、世相を観照すること自身に、彼の特別な興味を持つので、それが無かったら、始めから皆は主義者や思想家になってしまう。
 此処が実に、主観主義者と客観主義者の別れるところだ。前者にあっては、何よりも主観を露出し、「訴える」ということが大切なのに、後者はむしろ、それを同時に「描く」ということが眼目なのだ。したがって後者の良心は、客観の明徹を期し、真実を確実にすることに存するので、彼等が主観主義者の感情的態度を排するのは、この「真実」を重んずる認識的良心によるのである。反対に前者にあっては、真実よりもむしろ感情が先に立ち、主観への一直線の表現が要求される。
 この両者の関係は、丁度二人の旅人にたとえられる。主観主義者にあっては、旅行は目的地に急ぐためであって、旅行するための旅行でない。彼等は慌だしげに歩き、四囲の風景や人情などを、まるで観察しようと思っていない。反対に客観主義者は、旅行する事それ自身に、興味を持ってる旅行者である。もちろん彼等も、一定の目的地は持ってるだろう。だがそれに達すると達しないとは、主観に於てどうでも好いので、より当面の興味や仕事は、周囲の社会を観察し、人情を調べ、風俗を知り、世態を眺めることにかかっている。そして実に、旅行そのものの真意義が此処にあるのだ。故に後者は「旅行のための旅行」であり、真の意味の旅行家と言うべきだろう。これに対して前者は、旅行それ自体に意義を認めない旅人であって、人生の慌だしき、性急なる飛脚である。
 この典型に属するものは、多く宗教家、求道者、主義者、哲学者等に見るものであって、芸術家の中には稀れである。なぜならば芸術家とは、芸術すること自身――芸術のための芸術――に、直接の興味をもつ種族だから。実に小説家や戯曲家やは、その最も主観的な作家であってさえも、やはり人生を観察し、風俗を描写し、表現を表現すること自身に於て、当面の直接な興味をもってる。故に彼等の認識態度は、常に純粋に客観的で、主観の情意から独立している。真に主観的の態度によって、世界を感情の眼で見ているものは、あらゆる文学者の中で、ただ独り詩人あるのみである。詩人だけが、言語の正しき意味に於て、純に主観主義者と云うべきである。

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